文芸評論がなぜ面白いのか
最近、文芸評論をいろいろ読み比べてその面白さにはまっている。評論を読むには知識を必要とする。書かれていることを読み解くにはベースになる知識がないと読めないし、文章もときにくどい上に、解りやすいものは少ない。だから少し前まではどうしても必要な時以外は敬遠していた。それがいま、作品ではなく評論になぜ面白さを感じるのだろうか。
もちろん急に知識が備わったということではない。知らないことをその都度調べることが以前ほど苦でなくなったのである。調べるための辞書や本は結構揃えたし、ネットで調べて補足することも簡単になった。本を量でなく中身で読むようになったので、急がないのである。そうして新しい知見からものを考えると、違う世界がチラリと見えたりすることが楽しいのだ。人生の残り時間が少なくなったら却ってゆっくりとした本の読み方が出来るというのは不思議なことで、もう焦っても仕方がないという諦念がなせる贈り物かも知れない。
わたしがいう評論とは主に文芸評論のことで、それは大きく二つに大別される。たとえていえば、ガイドブックと紀行文との違いだろうか。作品の作者や読みどころを懇切丁寧に教えてくれるものと、評論者がその作品と向き合い、自分自身を賭けて作品と格闘して獲得したものを提示するものとの違いといおうか。
私は紀行文を読むのも昔から好きである。優れた紀行文は何より読んでいる自分もまさに著者と同じ時、同じ場所に行った気分にさせてくれる。没入すると、著者が見上げた月、そこに吹く風が感じられたりすることが希にあって、本を置いて我に返ると時空を超えてきた心地がする。めったにないけれど。
ガイドブックは文字通りそこへ行くための手引きである。情報である。情報は無時間のもので、ガイドブックで時空を超えることは出来ない。ガイドブック的評論はそういうもので、私が面白く感じるものは紀行文的評論であることはもちろんである。
たぶん文芸評論ばかりではなく、映画評論も音楽評論もさまざまな評論とはそんなものかと思う。
ほんのチラリと見えた世界の向こう側を想像して、少し大げさに書いているけれど、それは私にとって確信でもある。そういう評論をある程度読んだら、次に夏目漱石をはじめとする文豪たちの作品を一から読み直すことにしたいと思っている。時間があるかなあ。
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