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2020年5月

2020年5月31日 (日)

映画寸評

 本を読んでいたら眼の奥は痛くなるし、目はかすむし、紙面がうねって見えたりしてきて、眼の疲労が甚だしい。池波正太郎の本を四十冊ほど一気読みしてみようと思っていたのに、いま中断している。代わりに昨日から映画を立て続けに観ているのだが、どうもやっていることが矛盾しているかもしれない。

 

まず2015年のイギリス映画『スプークスMI-5』。
 MI-5が拘束したテロリストをCIAに引き渡すための護送中にテロ組織に奪い去られてしまう。極秘のはずなのに、なぜテロリストたちにその情報が筒抜けになったのか。

 

 MI-5は責任を取らされて首になり、後日死んだはずの局長が生きているらしいことを突き止め、ある男にその行方を突き止めるように依頼する。ここからはテロリストグループ、その死んだはずの元局長、そして彼を追う男、さらにMI-5とのすさまじい戦いが繰り広げられていく。明かされた真相には裏があり、その裏を追えばさらにだましが入り、と何が本当か、誰が誰を裏切っているのかわからなくなる。

 

 そしてテロリストの無差別テロが開始される。それはエスカレートしていき、ついに最後の目標に向かったとき、真相が明らかになり、事件は解決する・・・。さらに最後の最後にもう一段があるのでお楽しみください。イギリス映画はなかなか奥が深くて楽しめる。

 

 ついでにおすすめしない映画。
2011年の韓国映画『血闘』。
 中国が明から清に代わる頃、朝廷から派遣された朝鮮軍が清軍と戦ったときの話である。圧倒的に優勢な清軍に寡勢で挑まざるを得なかったその背景には、明に対して朝鮮朝廷が誠意を見せなければならなかったからである。

 

 ほとんど死ぬことを運命づけられている軍の指揮者とその幼なじみで友人の男、そして逃亡兵の三人が生き延びてしまい、すさまじい死闘を繰り広げるという話。朝鮮民族の恨みというものの激しさ深さを思い知らされることは間違いない。なにしろしつこい。これでは反日も治まるはずがないなあと思わせてくれるので、そういう意味では観る値打ちはあるが・・・。後味が悪い。

 

2013年のポルトガル・イタリア・ブラジル合作映画『ロスト・パトロール』。
 珍しい取り合わせなので期待したのだが。

 

 第二次世界大戦中にイタリアが連合軍に降伏したあとのこと、枢軸国側に船を沈められたブラジルも参戦し、ヨーロッパに軍隊を派遣したという史実に基づくもの。戦意の全くないその軍隊の一部隊がちりぢりになり、前線で経験したドラマということらしいが、まともな軍人らしい人間が一人も出てこないのに途中でうんざりして観るのを打ち切ってしまった。

 

2013年のウクライナ映画『ブラッド・エンド』、前編と後編に分かれている。珍しい国の映画なので興味をもったのだが・・・。前編開始10分足らずで寝てしまった。すぐ消去したので、どんな話かよくわからない。
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池波正太郎『鬼平犯科帳2』(文春文庫)

 夢中で本を読んでいると頁がかすんで、眼の奥が痛くなる。首が凝って痛い。慌てて目薬をさし、じっとしている。どうも目が弱っているようだ。

 

 眼を休めるために昨日も音楽を聞いた。大橋純子、八神純子、麻生よう子、中原めいこ、渚ゆう子、研ナオコなどのアルバムを聴き、その合間に本を読んだ。なかなか好いけれど、本に夢中のときはほとんど聞こえていない。 

 

 鬼平犯科帳第二巻のこの本では、おなじみの兎忠こと木村忠吾が初登場する。こういう有能ではないけれど憎めない人物を配することで物語に温かみが出る。有能ではないけれど有能でないために却って手柄を立てたりする。人間とはそういうものであろう。

 

 この巻のなかの『妖盗葵小僧』という物語の盗賊は、嫌悪感を感じさせる盗賊で、長谷川平蔵は彼を捕縛するまでに足かけ三年もかかるという難事件である。正体が意外であるからだが、あまりに捜査が進展しないことで却って盗賊側が慢心して油断することで急転直下解決に至る。忘れられない一編である。あまりにも異質で、長谷川平蔵の勘働きも出番がなかったということかもしれない。人間通である長谷川平蔵はあまりに人非人である相手には波長が合わせようがないのだろう。
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2020年5月30日 (土)

駒込ピペットと水銀

 アマゾンは本当に便利だ。ピペットのようなものもよりどりみどりで注文できる。ブランドの駒込ピペットを取り寄せた。本日ようやく到着したので早速使用して用事が済んだ。

 

 ピペットというのはスポイトの親分のようなものだ。上部から自分の口で吸い上げるタイプと、ゴムの帽子がついていて、それをつまむことで吸い上げるタイプとがある。取り寄せたのはゴム帽子の方、それには理由がある。

 

 体温計はデジタル式のものと水銀式のアナログタイプのものを持っていた。両方ともずいぶん昔から使っているもので、水銀式は正確だけれど時間がかかる。デジタル式はちょっと不正確だ。いまは大分よくなっているらしいけれど・・・。

 

 今月初めに高熱が続いたときは水銀式で体温を測っていた。熱で頭がボオッとしていたときにうっかり脇にその体温計を挟んだままトイレにしゃがんで、立ち上がった拍子に体温計を落としてしまった。水銀だまりの部分は薄いから便器に当たって割れてしまい、一巻の終わりである。

 

 ガラス部分はつまんで取り除いた。水銀は流してしまおうと思ったが、比重が重いから何度流しても流れない。便器の底に玉になったままずっとある。ずっとあるから気になって仕方がない。そこで思いついたのがピペットで吸い出して取り除くことである。

 

 最初に書いたけれど、すぐに用事は済んだ。よく洗ったピペットはどうしよう。今のところ何に役に立てるのか思いついていない。新しい体温計をアマゾンで取り寄せたが、なんと一月もかかってようやく明日着くと連絡があった。多分中国からでも取り寄せだったのだろう。
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捨てられないもの

捨てられないもの

 本屋などでもらう手提げつき紙袋(山のようにある)、古いレジ袋、タオル(山のようにある)、読むことがないと思う本、かなり使い込んだ菜箸、クリーニング屋でもらったハンガー、段ボール箱(大分減った)、何年も着ていない衣類(大分減った)、ビジネス用の靴下(使うことはない)、ネクタイ(大分捨てた)、十年以上使っていない食器類、しまい込んだままの引き出物類、ほとんど行かなくなった釣りの道具、ビニール傘(もうちゃんと開かないものもある)、古いカメラ、まだまだある。
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2020年5月29日 (金)

池波正太郎『剣客商売』(新潮文庫)

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 昨朝からくしゃみが連発し、鼻水が止まらず、ぐしゃぐしゃである。郵便局に行く用事があったけれど、マスクの中はべちゃべちゃで、見られないからいいものの気持ちが悪い。ついでにスーパーに立ち寄ろうと思っていたが、あきらめた。それほどひどい。明らかな何かに対するアレルギー反応である。何かが飛び交っているのだろうか、黄砂だろうか。

 

 仕方がないので窓を閉め切って空気清浄機を強にして、エアコンで温度調節する。くしゃみは止まったが鼻水は止まらない。ティッシュではなく、トイレットペーパーで鼻に栓をしてとても人に見せられない姿で本を読んでいた。夜寝るまでそんな状態だったが、寝ている最中は大丈夫なのが不思議である。今朝は窓を開け放していてもむずかゆい程度で我慢できる。しかしこれでは床屋に行きたくても行けない。来週初めに定期検診だけれど、病院でくしゃみを連発したらまずいし、心配である。

 

 さて、大好きな池波正太郎の作品で私が最も愛読しているのがこの『剣客商売』シリーズである。在職中にまとまった休みがあると、このシリーズを一気読みすることが多かった。どの巻も最低10回以上は読んでいる。だから思い入れも格別深いわけで、ドラマなどでイメージと違う俳優が登場人物を演じると腹が立ってしまう。このシリーズのドラマ化したもので気に入ったものはない。

 

 冒頭に秋山小兵衛、大治郎親子の描写があり、小兵衛が大治郎の胸ほどの背丈しかない小兵であると書かれている。巻末の解説に常盤新平が、池波正太郎のイメージした秋山小兵衛が歌舞伎役者の中村又五郎だったと書いている。又五郎は小柄である。ただ私はもう少し顔がふっくらしているように考えている。私のイメージは月形龍之介なのだが、賛同する人はいるだろうか。吉良上野介の役と言えば月形龍之介を嚆矢とするが、笑顔の月形竜之介には意外と愛嬌があるのだ。月形竜之介の水戸黄門も絶品である。秋山小兵衛は少なくとも藤田まことのイメージでは絶対ないと断言したい。違いすぎる。同じ違いすぎるなら北大路欣也が演じたものの方がずっとましであった。

 

 常盤新平が書いている。

 

「『剣客商売』は池波先生のほかの作品と同じく、読み始めたら、途中まで、つまり二冊とか三冊とかでやめるわけにはいかなくなる。」

 

 その通りなのである。もし読んでいないなら是非読んで欲しい。愛読書になることを保証する。

 

 常盤新平(1931-2013)は作家で翻訳家、そしてアメリカ文化研究者。彼の翻訳でずいぶんたくさんのミステリーやアメリカの作家の作品を読んだ。
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恥ずかしい

 愛知県は当初新型コロナウイルスの患者の数が急増して心配されたが、五百人を超える直前で踏みとどまり、その後微増したものの、いまのところ感染拡大は見られない。自動車産業をはじめ、大きな製造業の会社が多く、そのための貿易港もあって、愛知県は外国人の居住者や出入りする人数の多い県であるから、感染の拡大が止まっているのは本当に幸いである。

 

 しかしそれは断じて大村知事の手柄ではない。ところが何を勘違いしたのか、または大阪の吉村知事がマスコミにしばしば取り上げられて高く評価されているのに妬みを感じたのか、大阪や東京では医療崩壊が起きている、などと妄言を吐いたために大顰蹙を買い、吉村知事に呈された苦言にまたおかしな反論をしてますますみっともないことになっているようだ。

 

 芸術祭の愛知トリエンナーレで意味不明の迷走をしたために、愛知県民の多くがこの人に不快感を感じた。何しろ言葉を飾りすぎてしかも馬鹿丁寧に語るので、何を言っているのかよくわからないのである。自分では、正しいことをすることが政治だ、と思い込んでいて、その正しいことというのが野党的、マスコミ受け的なことだから、世の中の風の吹き方一つで変わってしまうのである。

 

 うんざりしていたところに今回の「医療崩壊」発言だから、誰も擁護する人がいない。今回は何をねらった発言なのだろう。自分も注目して欲しい、何しろ愛知県は人口あたりの感染者が少なくて頑張っているではないか、というところかと思われるが、最初に書いたように、それを大村知事の手柄だと思う人間はいない。

 

 愛知県民としてそのみっともなさが恥ずかしい。
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2020年5月28日 (木)

養老孟司・池田清彦『ほんとうの環境問題』(新潮社)

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 池田清彦は早稲田大学の教授で生物学者、二人は虫仲間である。ともに政治問題などには関わりを持ちたくないと心底思っているのだが、「地球温暖化」や環境問題に関しては、自然を深く愛する二人だからどうしてもこれだけは言いたい、ということを語り合うことになった。

 

 社会学的問題や科学的な問題を倫理で語ることは愚かしいことで、反知性的である。ところがしばしば正義の名の下にこの反知性的な風潮が蔓延してしまうことがある。マスコミはそのような反知性的な風潮が大好きで、人々をたきつけ、あおり立て、ヒーローやヒロインを祭りあげる。

 

 この本では、「地球温暖化」は本当に二酸化炭素の量の増加によって起こっているのか?「地球温暖化」はそんなに大問題なのか?そもそも環境問題とは何なのか?と根源的な問いを発しているのである。とうぜん私は、2008年に出版されたこの本を読んでいるし、同様の「地球温暖化」について懐疑的な本も読んできたので、いまの二酸化炭素削減に抵抗すること、協力しないことは悪、という大合唱に反発を感じているのだが、恐ろしくて公然とそんなことをいえない。

 

 本当の環境問題はエネルギー問題であり、人口問題であり、食糧問題であろう。その問題について適正に対処されているとはいえないし、ことは常に金の問題に還元されてしまっている。そのことこそが大問題なのだろうと日頃から思っているが、全ては裏で金の問題に還元されながら、表では正義が叫ばれていて、もうなるようにしかならないなあ、と思っている。そして同時に、なるようにしかならなくてもどうにかなるような気もしている。無責任と言われても仕方がないし、そもそも責任があるとも思っていないからかまわないのだ。
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池波正太郎『鬼平犯科帳1』(文春文庫)

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 ハードカバーがそろっているので、文庫の鬼平犯科帳シリーズと、剣客商売のシリーズをもう一度読んだ上で処分するつもりである。両シリーズとも最低五回以上読んでいて、登場人物とは知己である。その性格や風貌には私なりのイメージが確個としてできあがっていて、読むとそれらの人物が頭の中で動き出す。読み始めればたちまちそれに没頭する。

 

 火付盗賊改方の鬼平こと長谷川平蔵は実在の人物である。私のイメージは先々代の松本幸四郎、後の白鴎だ。少しでっぷりとしていて、穏やかな風貌ながらときにすごみを見せる。すらりとした長谷川平蔵などはイメージと違う。それにしても松本幸四郎といい、白鴎といい、あの染五郎親子は名前を安直にもてあそびすぎていて、先々代の名を汚しているようにしか見えない。それは私の好悪によるものでもあろうが、嫌いなものは仕方がない。同じ幸四郎の息子でも弟の方の中村吉右衛門は嫌いではない。長谷川平蔵を長く演じていて、私のイメージではないものの、板にはついていると思う。

 

 この本には八編が収められているが、今回は最後の『むかしの女』という編が特に印象に残った。平蔵の昔なじみのおろく婆さんはこの回だけの登場なのだが、私は度々登場するように記憶違いをしていた。最後には平蔵の感情の高まりがこちらにそのまま伝わって、自分の刃を振るっているような気持ちになる。『血頭の丹兵衛』では小房の粂八が初登場する。重要な役割を続ける彼の運命を知っているだけに感慨がある。しかし彼は精一杯生きた。シリーズを読んでいる人にはわかるだろう。

 

 手をつけてしまったのでこれから『鬼平犯科帳』と『剣客商売』のシリーズを、途中で飽きるまで読み続けることになりそうだ。もちろんほかに気が移ることはよくあるのでわからないが。
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2020年5月27日 (水)

養老孟司・小島慶子『歳を取るのも悪くない』(中公新書ラクレ)

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 この本ではないが、別の本を読んでいてルビが見えないことに気がついた。目をこすってみても変わらない。今までにないことである。眼の解像度がずいぶん落ちてしまったようだ。目を酷使していることは自覚している。目薬をこまめにさす程度では治まらないらしい。

 

 だから今日の午後は目をつむって、カーペンターズやミレーユ・マチュー、ディオンヌ・ワーイックなどの洋楽のアルバムを聴きながらおとなしくしていた。風もまあまあ爽やかで気温も快適である。十分眼を休めたと思ったので、昨日読み終えていたこの本のことをブログに書くことにした。

 

 小島慶子が、ほとんど養老孟司に心酔していることが、まえがきに書かれている。彼女もいろいろ圭角のある女性なので自ら苦労する生き方を招いてきた。そのことはこの対談のなかにくわしく語られている。ご主人も放送界の人だったらしいが、思うところがあって子供と三人でオーストラリアに移住した。放送界にいることに疲れたということのようだ。そのご主人は移住したあと完全なフリーターになってしまい、彼女が日本に「出稼ぎ」に来て家族を養っているのである。

 

 そういう日々であれば、生きるということ、そのことについて深く考えることもあろうというものである。心酔する養老孟司にさまざまに教えを請うというかたちで対談が進んでいく。私も小島慶子の圭角が以前から気になって親しめないでいたが、多少見方が変わった。

 

 自分の生き方を、自分で考えて生きていくということの意味を、普段ほとんど考えないで生きている人が多い。それは「生き損なって」生きていることだ、と養老孟司は言う。自分探しなどしなければならないほど自分を見失った人のむなしさ。平和ぼけもほどほどにしないと、空気の抜けた風船みたいに生命力のしなびれた人間になるだけである。

 

 養老孟司の本は原則として残すつもりでいるが、何冊かの対談本は処分するつもりでこの本を再読した。いろいろ考えさせてくれて捨てがたいが、きりがないのでこれでお役御免とする。
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考えるということ

 養老孟司と小島慶子の対談本、『歳をとるのも悪くない』という本を読んでいる(もうすぐ読み終わる)。養老孟司は難しい言葉を使わずに大事なことを語る。しかし人は難しい言葉でないものだから、大事なものではないと勘違いするところがある。当たり前のことを語っているだけだと思って、さらりと読み飛ばし、聞き飛ばしするけれど、それらは長年にわたって養老孟司が考え抜いた上の重い言葉なのだ。

 

 後半部分で「考えるということ」について語っているところをいくつか抜き書きする。

 

「ここまで平和になって、食うに困ることがなくなると、人生とは何だとか、幸せとは何だとかいうことに、きちんと向き合って考えざるを得ないのでしょう。若いときの青臭い疑問としてではなく、本当に具体的に、自分の生き方をどうするかと、個人個人が考えるところに来ているのだと思います。」

 

そのあと小島慶子が言う。

 

「人と違うってしんどいですよ。」養老先生はみんなと違うのが面白いとおっしゃるけれど、何しろ小学校から「同じであれ」って教育を受けてきているんですから、多くの人は、人と違うってどういうことかもわからない。まして熟年世代は、時代が変わったことを受け入れられない。」

 

それに答えて、

 

「その意味での辛抱も、必要になってくると思いますよ。人と違うことを厭わないということです。僕はね、楽するってことが嫌なんだ。楽をせず、一個人に戻って、それぞれが自分自身の頭で考えろと言いたい。それって、本気でやるということです。自分で考えて、自分で決めて、その結果も自分で引き受ける。」

 

「切羽詰まったら考えるよ、という人がいるかもしれない。いまはそこまでの状況じゃないからこのくらいでいい、と。違うんだなあ。切羽詰まらないと本気になれないというのは、普段からたいしたことはできないということです。深刻な判断を迫られることは、普段ではあまりないでしょう。そのまま定年を迎えたら、何も深く考えず、適当に生きてしまうことになる。そうすると、何でも人のせいにして、なんとなく自分が損をしているような気分を抱える生き損ないになってしまう。切羽詰まらないとき、つまり普段からちゃんと自分で考える癖をつけるべきだと思います。自分で考えるというのは、体力が必要ですよ。それが生きているということでしょう。」

 

 全く同感である。人と人は違うということ、そのこと一つとっても、真に理解することはまことに難しい。考えに考えた末にしか理解に至ることができない真実なのだ。そのことがわかって語る養老孟司を知らずにその言葉に頷いても、むなしいのだけれど。
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2020年5月26日 (火)

ルーティン・ワーク

 コタツ台が私の食卓であり、そこに肘掛け付きの座席がぐるりと廻る頑丈な座椅子を据えて、読書をし、テレビでニュースを観、ドラマや映画を観、パソコンを置いてブログを書く。おおげさでなしに、起きている時間の七割近くそこに鎮座している。

 

 台の上にはリモコン類があり、周辺に緑茶、中国のお茶、コーヒー、各種の薬、文房具類やノート、メモ帳、血圧計、読みかけの本の山、そしてその向こうに辞書類が架台に列んでいるので、全て座ったまま手に取ることができるようになっている。これでは運動不足になるのは当然であるが、まことに居心地がいい。

 

 辞書類は好きで、たいしたものはないけれど、たくさんある。大きな辞書は引きにくいのでどうしても必要なときにしか引かないから別のところに置いてある。中国系の本を読むときは漢和辞典が活躍する。ブログを書くときには国語辞典を引くこともある。ただ、リズムが狂うので最小限になっていて、しばしば誤字誤用があることにあとで気付いて恥ずかしい思いをする。

 

 案外活躍することが多いのがコンサイスのカタカナ語辞典だ。近頃はカタカナ語がますます増えて、知っていて当たり前のように使用されているけれど、私は知らないことが少なくない。これは小池都知事のせいばかりではないようだ。

 

 知っているつもりでいても、辞書で確認すると間違って思い込んでいることも多い。不勉強を思い知らされる。間違いを指摘されることは本当はありがたいことなのだが、素直にありがたいと思えないことの方が多い。それがわかっているから、間違っていると思っても他人にそれを指摘することには逡巡する。素直に受け入れてくれそうなときだけにとどめることにしている。それでも相手に不快を与えただろうことも心に留めているが、若いときはその気配りが足らずに、ずいぶん顰蹙を買った。

 

 いま私は一日に二度ブログを更新している。これは私のルーティン・ワークになっている、と書こうとして、ルーティン・ワークでいいのかどうか気になった。カタカナ語辞典によれば、
 ルーチン:決まりきった仕事、踏み固められた道
      ルーティンとも
 ルーチン・ワーク:日課になっている決まりきった仕          事

 

 決まりきった、という言い方がどうも賛同しかねるが、概ね私の認識は間違っていないようだ。

 

 仕事というと活計(たつき)のためのものと考えがちだが、収入に無関係の仕事はいくらでもあって、生活のために必要な作業を言うのだと思う。国語辞典では第一番目に「する事。しなくてはならない事」となっていた。ブログを書くことは何の収益も生み出さないし、多くの人には「しなくてはならない事」ではないだろうが、私にとっては仕事なのである。頭で考えた事を言葉にするという作業は、ささやかながら知的作業であって、私の楽しみであり、頭の運動であって、必須なのだ。仕事でなくてなんであろう。
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阿川佐和子『強父論』(文藝春秋)

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 阿川佐和子の父親が作家の阿川弘之であることはご承知の通り。阿川弘之は志賀直哉に師事した。阿川弘之の本はそこそこ読んだ。本棚にも箱入り二巻の『志賀直哉』をはじめとして、十冊ほどが列んでいる。この『強父論』にも、父親に連れられて志賀直哉宅を訪れたことが記されている。

 

 阿川佐和子が父親の暴君ぶりを繰り返し語っているけれど、この本を読むとそれが冗談ではない暴君ぶりであることがわかる。それを「信じられなあい」などといまの若い人たちは思うだろう。私の父親はこれほどひどくないけれど、若いときは相当なものだった。本音で早く死ねばいいと思ったこともあるくらいだ。だから多少の暴君ぶりは笑って、「そんなこともあっただろうな」、と思うばかりである。

 

 どうしてそんな暴君ぶりを示したのか、家族に対する甘えだ、といえばそれまでだが、外面のいい人が内弁慶で外での反動が出る面もあっただろうし、どうして家族なのに自分の気持ちがわからないのか、という怒りもあっただろう。しかし家族といえども他人である。なにに怒りを感じたかなどわかるわけがないのである。

 

 しかし賢い妻、賢い娘(阿川佐和子)に看取られて、阿川弘之は幸せな一生を全うしたといえるだろう。この本はわがままいっぱいに甘え通した男の話である。うらやましいと言えなくもない。

 

 そんな父親を見送ってようやく阿川佐和子も、年来の願望だった結婚ができたことを心から祝福したい。
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2020年5月25日 (月)

四つ半片付く

 今朝、雑事が集中して・・・と泣き言を書いたが、ノートにどんな用事があって、それを片付けるためには何をしたらよいのか、整理してみた。そしてそれに優先順位をつけて、できることから片付けることにした。

 

 全部で七つの用件の処理が必要だとわかった。すぐ書類を作成できること、手配しなければならないこと、わからないことはどこに問い合わせたらよいのか、それらをリストアップしてそれに集中した。夕方までに四つ半が片付いた。半というのは、いちおう役所での申請は済んだけれど、別の役所の書類を一つだけ手配する必要があり、それが済めば完了する。

 

 残りの二つはまだ書類がそろっていないので、なにをどうしたらよいかを相談しただけの状態である。さいわい役所の窓口はすいていて丁寧に説明を受け、参考になる冊子をたくさんいただいたので、少し勉強しなければならない。わかりにくい書き方をしているが、多くの用事が戸籍だけの連れ合い(別居して25年を超える)をかたちの上で引き取り、私と同居へ住所変更をしたことによる。本人はいま病院にいる。そのために必要な手続きがたくさんあるのだ。

 

 ずいぶんしばらく歩いていなかったので、あちらこちらを行ったり来たりして大汗をかいた。少し体重が落ちたと思う。それにしても歩く速度がとても遅くなっていて、情けない気がした。
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雑事の波

 人生は雑事のなかにある。その雑事を片付けないと平穏に日々を過ごすことができない。誰でも面倒な雑事は煩わしいはずだが、私は普通の人よりもその煩わしく感じる気持ちが強いようだ。横着者なのである。だからリタイアして日々の雑事が激減したということが何より幸せであった。リタイアして収入が減ったことなど、それに比べればなにほどのこともない。

 

 それでも生きていれば常に大小の雑事がやってくる。そしてそれには波がある。一つでも面倒なことが一度に押し寄せてくることがある。ちょうど先週末からそのような処理案件がどっと押し寄せてきていて、どれから手をつけたらいいか途方に暮れている。こうなると思考停止してしまい、昨日の日曜日などはそれらを頭から追い払ってぼんやりしていた。

 

 そうしたら夜になって全く眠れなくなった。本を読んでも集中できず、数独パズルもなかなか解けない。輾転反側して、ようやく眠りにつけたのは空が白んできた頃だった。寝汗をかいて不快な目覚めである。

 

 しかし誰かが代わりにそれを片付けてくれるなどという魔法を知らないので、雑事は目の前から消え去ることはない。今朝はまずなにとなにと何があるのか書き出した上で、その処理の優先順位をつけ、それぞれなにをどうしなければならないのか考えて手をつけていくしかない、と当たり前のことに気がついたところである。幽霊も正体が見えれば恐ろしさは消える(はずである)。  

 

 長い一週間になりそうだ。私の住む街は二つの町が合併してできた市なので、市役所が二つある。処理すべきことはそれぞれに関係していて、行ったり来たりしなければならないことになりそうだ。
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2020年5月24日 (日)

山口瞳『礼儀作法入門』(集英社文庫)

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 礼儀作法とは形式である。礼儀作法とは虚礼で、虚礼は形式にすぎず、悪であると主張する人たちがいる。心がないから悪なのだと言いたいらしい。では虚礼だと否定する、礼儀作法を無視する人に心があるというのか。この本ではその礼儀作法の心のありようについて、山口瞳の生き様をさらけ出しながら、具体的に語っている。

 

 人が社会のなかで人間関係を円滑にするために礼儀作法は洗練されていった。その中に、こだわりすぎれば生きにくいようなものがあるのは確かであるが、全てがそうであるわけではないのはもちろんである。一部の面倒を嫌って全てを否定する癖(へき)のある人間は、私には社会性に欠けているだけの横着者のように見える。

 

 礼儀作法はエチケットと言い換えてもよいだろう。人との距離感、相手に対する気配り、それらが意識されてこその礼儀作法でありエチケットである。だからときに少し外してもかまわないこともあるし、厳として守らなければいけないことがある。そういうことがこの本には書かれている。前書きにあるように、この本は礼儀作法の教科書ではなく、副読本であり、場合場合でどうすべきか考えるための手引き書である。

 

 かたちがスマートであると美しい。人間関係をスマートにするためにはまず形式、つまり礼儀作法に従い、それに心を込めれば形式に命が吹き込まれる。この本は人間の生き方についての山口瞳の美学を語った本なのだ。

 

 ここから派生して二、三感じたり連想したことがあるので、あとでそれを書いてみたいと思っている。

 

 ところでこの本の最後が、女との別れ方であるのがまことに面白いし、興味深い。
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『オルデンハイム12の悲劇』

 オランダのミステリー。ヨーロッパのドラマはできのいいものに出会えることが多い。アメリカのドラマのようにテンポよく事件が解決するというスタイルのものは少なくて、たいていストーリーに関係のない話がふんだんに盛り込まれて長くなるのだが、それが登場人物の性格をくわしく表現することになって、結果的に物語の味わいを深くしている。

 

 ドラマの冒頭に、目に隈がでてやつれ果てた男が、軍隊に封鎖された町を車で出ていくシーンが映し出される。それを見送る目つきの鋭い男。これがプロローグで、じつは物語の最後に近い部分がここで提示されている。

 

 長距離バスから金髪で色の白い女性が大きなリュックを背負ってオルデンハイムという小さな町に降り立つ。彼女はこの町の出身で、懐かしそうに声をかける人、顔を背ける人などさまざまな反応がある。事件はその日から始まる。その晩は流星群が降る夜だった。その夜、そのアルデンハイムという町で、夜中に少年と密会していた少女が少年と別れたあとに行方不明になる。

 

 こうして一話ごとに一人ずつの人間が消えていく。警察は必死で捜査を進めるが、手がかりは全く見つからず、謎は深まるばかり。なかには超常現象だ、と恐れるものもいる。警察とは別に、あの金髪色白の女性も独自に失踪した人物の家族に会って調査を進めていく。警察は調査情報を語ったりしないが、彼女は自分の知ったこと、聞いたことを次々にしゃべるので、それが思わぬ波紋を広げることになってしまう。いらだたしいほどである。

 

 それぞれの人物に、そしてその家族には秘密がある。それらが絡まり合い、そして過去の事件なども蒸し返されて人間関係を複雑なものにしていく。もしこのドラマに興味を持ち、再放送やアーカイブなどでこれから観る可能性のある人もあるはずなので、ヒントを語るのはルール違反だと思うからそれには触れないことにする。

 

 もちろん最後に意外であり、なるほど、ともいえる人物が犯人であることが判明するが、その動機が明らかにされてぎょっとするはずである。その動機の原因(変な言い方だがそういうしかない)は、じつは登場人物たちには知らされず、ドラマを観ている人にだけ最初から知らされていたことに気がつくからだ。私は途中から薄々気がついていたけれど、それはこういう類いの小説やドラマを観すぎるほど観ているからだ。
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2020年5月23日 (土)

連続ドラマ一気鑑賞中につき・・・

 本日は朝からWOWOWの欧州ミステリー(オランダのドラマ)『オルデンハイム 12の悲劇』全12話を観続けている。現在10話まで観たが、やめられない。オルデンハイムという小さな町の住民が次々に失踪していくという不思議なドラマである。

 

 これから残りを鑑賞して明日報告する。今日のブログはこれまで。私の頭は現在このドラマで満杯。
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出かけにくい

 関東東北は気温も低く、雨が多いらしい。さいわい名古屋地方は好天が続いているし、快適な気温である。南側のベランダを開け放ち、北側の部屋の窓を開ければ風が廊下を通して吹き抜ける。それは気持ちのいいことなのだが、十日ほど前からくしゃみと鼻水が止まらなくて困っている。目もかゆい。典型的な花粉症の症状である。

 

 髪も伸びて床屋に行きたいし、もう床屋くらいなら大丈夫だろうと思っているが、このくしゃみでは危なくて仕方がない。何しろ床屋は顔の周りで刃物が使われるところである。マスクをつけていても、散歩に出た先で大きなくしゃみを連発すればね行き交う人が眉をひそめるだろう。普段なら気にならないことがいまは顰蹙を買う。

 

 夜は寝室に空気清浄機を置いているので全くくしゃみは出ない。また、風呂に入って本を読んでいても(だから私は長湯である)くしゃみが出ることはない。そろそろエアコンの手入れをして窓を閉め切る方がいいのかもしれない。

 

 何に反応しているのだろう。ハウスダストかと思ったら、窓を開け放ったときにとくに反応しているのでハウスダストではないらしい。それにしても床屋はどうしよう。
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2020年5月22日 (金)

不信の理由

 約束したことは守らなければならない。もし約束したことが履行できないときは、その理由を明らかにして謝罪し、約束を撤回するというべきである。それならば約束が果たせなくとも不信を招くことはない。

 

 安倍首相はしばしば国民に約束をする。その約束が願望にしか聞こえないこともしばしばであるほど最近は安直な約束が多い。

 

 新型コロナウイルスの感染検査数は約束のようにはなかなか増えなかった。アベノマスクは私のところには未だに届かない。すでにマスクは店頭でいくらでも手に入るようになっているのに、である。理由はいろいろあるであろう。感染検査の意味をさまざまに云々して、その可否を語る専門家がいる。だから検査を増やすことの意味はそれほど重くないのだ、結果的に感染者が減っているからいいのだ、という風潮がある。

 

 しかし安倍首相はいつまでにどれだけ増やします、と約束したのである。そしてそれが履行できなかったのである。それならその理由を明らかにし、その約束が果たせなかったことの謝罪をし、これからどうするのか明言しなければならない。風潮を以てそれに代えるなどというのは約束を軽視しているととられても仕方がない。

 

 約束、と明言されていなくてもこうする、といったことは、できなかったとき、(納得されなくても)説明してそれを撤回しなければならないのは人間として当然のことだ。

 

 安倍政権に国民が不信感を高めているのは、約束を守らないからというよりも、約束があまりに軽くて、守れなくてもうやむやにしようとすることから来ている。約束が守れないことについて、事情があるなら国民の多くは理解することができる(全く理解しない人は元々理解したいと思っていない)。それらの人たちが不信感を持ち始めたことにどうして気がつかないのだろうか。

 

 私は安倍晋三という人に比較的に批判的ではなかった。それが不信感を持つというのはよほどのことで、先般来賞味期限切れだ、という気持ちになった理由である。
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海外ミステリードラマを観る

 コロナのニュースばかりをテレビを見続けていて、頭がコロナニュースに冒されてしまった心地がする。気がついてみればほとんど同じようなことばかりを繰り返し取り込んでいることに気がついた。少し距離を置く必要がありそうだ。過剰なリフレインは狂気に近い、などという指摘もあるではないか。

 

 しばらく録画した映画やドラマを観ていなかったので、一昨日くらいから集中して海外ミステリードラマを見始めた。まず大好きな『刑事モース』シリーズの第24話と25話を観た。23話からガラリとモースの立場が変わり、刑事から巡査部長に降格されて田舎の駐在になっている。以前の上司や所長もみな降格されて不遇であり、モースを手助けできない。

 

 モースはたまたま関わった事件について私見を述べるのだが、捜査部は無能な指揮官が思い込みで捜査していて取り合わない。モースが警察に入ったばかりの新人の頃と同じか、それ以上にひどい状況にある。何しろ周りは偏見だらけなのであるから。それには背後に深い理由があるのだが、それはいままでのドラマを見続けてないといきさつがわからないかもしれない。

 

 24話では、結果的にモースが事件を解決して、ある人物の働きで彼は刑事に戻る。しかし無能な上司は変わらない。孤立無援のなかで新たな事件の解決に取り組むのが第24話。こういう仕打ちを受け続ければ、彼が屈折した精神の持ち主になるのは当然か。しかし彼の本質はびくともしない。出る釘は打たれるが、打たれる以上に出てしまう彼の才能がこれからどうなるのか、次が楽しみだ。

 

 北欧サスペンスと銘打ったWOWOWの、『ダークネス・ゾウズ・フー・キル』という全八話のデンマークのミステリードラマを一気に観た。一話完結型の連続ドラマはその都度観るのだが、全体で一つの話のドラマは、次週を待たされるのが嫌いなので、録画したものを一気に観る。全八話などというとかなり長時間で、結局録画しただけでなかなか観ないことになってしまう。

 

 以前にも書いたが、ミステリーは北欧のものや、イギリスのものがダークの色調でずしりと重いテーマをじっくりと描いていて好きである。このドラマはある少女の失踪変死事件から、それがシリアルキラーの連続殺人であるらしいことが判明していくという、おなじみのサイコサスペンスものであるが、捜査のなかで、犯人像、被害者像に、ある違和感が生ずる。それがなぜなのか、そして新たに誘拐された少女がどうも生きているらしいことが判明して・・・。

 

 犯人追及の過程と、監禁された少女の受けるおぞましい仕打ちが描かれ、意外な首謀者の過去が暴かれることで、人間の心の闇が明らかになっていく。
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2020年5月21日 (木)

野田隆『愛知県 駅と路線の謎』(洋泉社)

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 初めて名鉄名古屋駅のホームを見たのは、まだ名古屋に移る前で、東京から髙山へ行くために新幹線から富山行きの列車に乗り継いだときだった。JRの列車なのに名鉄のホームから出発したのである。いまもその列車が走っているかどうかは知らない。

 

 ほかのところから初めて名鉄名古屋駅のホームに立った人は大いに戸惑うであろう。名鉄名古屋駅は一番線から四番線まであるけれど、二番線と三番線は普通は降りるだけのホームで、ミューチケット(指定席特急券)の人だけはそこから乗る。だから通常は、乗り込むのは一番線と四番線だけなのである。さまざまな行き先、特急、急行、準急、そして普通電車が、ほぼ二分に一本の高密度でやってくる。そして列車ごとにホームの前の方だったり後ろの方だったり、さらに乗り込む場所も少しずつ変わるから、知らない人は訳がわからない。

 

 例えば私の普段よく利用する犬山線だけでも、特急と急行・準急と、普通では乗る場所が少しずつ違うし、普通などは時間帯によって前の方だったり真ん中の方だったりして、うっかりすると乗り損ねる。その犬山線にしても行き先はいくつもあるから、それが犬山線の列車であることを知らなければ乗りようがない。同じホームに本線(東海道線と並行して走る一宮、岐阜方面へ行く線)や津島線が停まるのだ。多分日本一わかりにくいホームだと思う。

 

 この本は、そんなことなど、JRや名鉄、そして地下鉄やさまざまな愛知県を走る路線と駅についてトリビアルな情報が満載の本である。私はいわゆる鉄道オタクではないけれど、鉄道に乗るのは昔から嫌いではない。ただ、いまは車で移動することが多い。あと数年したら免許を返上し、そのあとは鉄道旅を楽しむつもりで、手始めにこんな本を携えて愛知県内の駅やその周辺を散策して廻るのも楽しいだろうな、と思いながら楽しく読んだ。
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胡散臭い

 アベノマスクをはじめ、コロナウイルスに関連しての安倍政権のモタつきぶりとお粗末さにはガッカリさせられる。誰か裏でお粗末な絵を描いているような気がする。つまり安倍首相の相談相手におかしな人物がいるのではないかと感じているし、そのようなニュースも漏れているようだ。

 

 公務員の定年に引っかけて特定の個人の定年延長を画策した、などというのはいくら何でも無理筋で、案の定黒川氏本人が辞任に追い込まれる事態になったようだ。

 

 黒川氏が朝日新聞の記者の個人宅で賭け麻雀をしたことが辞任に追い込まれる理由らしいけれど、野党大好き、与党は悪というのが基本的な社風である朝日新聞の記者と、阿倍首相に近いという黒川氏が賭け麻雀をするほど親しいというのが不思議な気がする。

 

 まあ、ないことではないといえばそうであるけれど、個人宅で行われた賭け麻雀がなぜ暴露されたのだろうか。誰かがそれを明らかにしたからであって、わざわざそんなことをするのはなぜなのか。元々誘い込んだのだ、などと勘ぐっているのは私だけだろうか。

 

 結果的に朝日新聞の記者は悪に鉄槌を下した正義の味方ということになるのであろう。麻雀が好きな人で賭け麻雀をしたことがない人がいるのかどうか。もちろん検事が賭け麻雀をするのは普通人がするのとは意味が違うけれど、その場にいた面子の面々はそれを承知でそれが公にならないよう相手を信用していただろうと思う。まあ罠にはまった、というところか。さらに邪推すれば、じつは安倍政権そのものが都合が悪くなったので、黒川氏を切り捨てるために画策したのだ、などという全く逆の陰謀論も在り得るわけで、世の中はなかなか恐ろしい。
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2020年5月20日 (水)

平岩弓枝『水曜日のひとりごと』(文春文庫)

 平岩弓枝の本をずいぶん読んできた。残っているのは『御宿かわせみ』シリーズのハードカバー(新シリーズを含めて40冊ほどある)と文庫本(両方持っているのである)と、特に残したいと思っている文庫本が10冊ほど。本を整理して、ハードカバーの『御宿かわせみ』シリーズのみを残し、文庫本はもう一度読み直したら順に処分しようと決めた。

 

 同じ本の文庫本があるのは池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズと、『剣客商売』のシリーズも同様。それらは出張先に持って行って読むためである。ハードカバーはかさばる。これも文庫本の方はもう一度楽しんでから処分することにする。

 

 そうして積み上げたなかから採り上げたのがこの『水曜日のひとりごと』という本で、昭和61年(1986年)の一年間、毎週水曜日、毎日新聞に連載されていたコラムを本にしたものである(単行本になったものを文庫本にしたもの)。

 

 最近読んできた安岡章太郎や江藤淳、開高健のエッセイと比べると、薄い水割りを飲んでいるような心地がする。書かれていることは彼女の日常茶飯事で、ずしりとくるものは何もない。しかしそもそも比較するようなものではなく、これはこれで、まことに気楽に読み流すことのできるもので、気持ちを癒やすところがないではない。

 

 平岩弓枝については、『肝っ玉かあさん』などのテレビドラマの原作者としても知られている。『御宿かわせみ』は真野響子と小野寺昭、山口崇などの共演で、NHKでドラマ化された。後にいろいろ再ドラマ化されたが、真野響子主演のものとは比べものにならない。

 

 平岩弓枝は長谷川伸に師事した。私の大好きな池波正太郎の妹弟子に当たる。代々木八幡神社の一人娘で、婿を取ってご主人が宮司を務めていた。昭和7年生まれ。
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なんとか無事に

 半間の押し入れ二カ所に詰まっていた本を整理して、一カ所のみにまとめた。処分するものと、再読したら処分するもの、残しておくものとに分けた。もちろん押し入れの上段に本を置くことはできない。重みで抜けてしまう恐れがある。

 

 もう一カ所、半間の床の間があって、その床の間の上には本箱を置いて本をぎっしり並べている。その下段には空間があって、そこにも本が詰め込まれている。そこに手をつけて整理すれば、とりあえず今回の作業は一段落するのだが、夕方過ぎからなんとなく体がだるくて、先日のような体調不良の兆しのような気配を感じた。熱を計ったが平熱である。作業を切り上げ、夕食を摂って風呂に入り、汗が引いたところで早めに就寝した。

 

 夜中に目覚めたが、別に具合がさらに悪くなったという感じはしない。そこで起きてしまうと寝られなくなるので、そのまま目をつぶっていたら幸い再び眠りに入ることができた。珍しく八時間以上の睡眠がとれて、目覚めは爽やか、身体の異常は全く感じない。昨日はたんに疲れただけなのだろう。

 

 本を整理していると、あるはずの本がずいぶんなくなっている。そのときにはもう不要だと思って処分したのであろう。そのときの自分と、いまの自分とは価値観が違うのである。本を触っていると昔読んできたさまざまな本のことを思い出した。いままでも断片的にそんな本たちのことを以前書いてきたが、ちょっと重複するけれどまた少し書いておきたい気がしている。失ったものを懐かしむ、というのは衰えの証拠かもしれないが、回想には甘さがあるものなのだ。
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2020年5月19日 (火)

福田和也編『江藤淳コレクション2 エセー』(ちくま学芸文庫)

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 後書きに福田和也が書いている。

 

「作家研究から、文明論まで、江藤淳は極めて広範な領域で活躍し、長く読者の記憶に残り、再読を必須とされるような名作、傑作をいくつも残してきた。
 だが、敢えて、江藤の文業のなかで白眉とすべきものは、と問われたならば、私は一分の迷いもなく、プライヴェートなエセー、つまりは本巻に収めた『~と私』という体裁を持った一連の随筆だと応えるだろう。『戦後と私』や『山川方夫と私』といった諸編を読み、その中で荒れ狂う、冷静きわまる慟哭と云うべき声に耳を傾け、総身を震わせながら、何度私は、これなるかな、この一節さえあれば余はいらない、『夏目漱石』も、『成熟と喪失』もいらない、あるいは戦後書かれたわが国の文章の全てがいらない、と確信を革めたことだろう。
 本巻に収めたエセーが、江藤の作品中のエッセンスであるのは、その文節と才知の粋が凝らされているからではない。あるいはまた、父母眷属を語り、あるいは日々の生活について語ることで、最も内深い奥から来る親しい声音を聞かせてくれるからでもない。これらのジャンルにおいて、最も江藤が批評的であるからである。批評的であるということ、つまりはどのような図式や教説の助けも借りず、自分がこうでしか在り得ず、語らなければ何一つ語らなかったのと同じだというような致命的な言葉を発しているということである。」

 

 ここにこの本のすごさと価値が語り尽くされている。私も福田和也に遙かに及ばぬ読み手ではあるけれど、これほど感動しながら本を読んだのは久しぶりのことである。

 

 この本を読んだことで、どうしても理解できないでいた江藤淳の自死について、私なりに多少の納得をした。そうしなければいたたまれない気持ちだったから、それは無理矢理ではあるけれど、多少の平安をもたらしたのである。

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ボタンをつける

 外衣のシャツは左右に胸ポケットのあるものを主に着る。遠出するとき、片側に免許証の入ったカードケース(じつは現役時代の名刺入れを使用)、片側にスマホを入れるためである。むかし友人がサファリジャケットを愛用していて、なかなか似合っていた。だからサファリジャケットや、その形のものが好みである。トレンチコートのように肩の上に引っかける輪っかのついているあの形のシャツである。

 

 友人はスリムだけれど、私はそうでないので友人のようには似合わないのは承知だが、鏡さえ見なければ自分の思い込みのイメージでスマしていられるからそれでいいのだ。それにそういうシャツは裾を外に出すのがかたちだろうとわかっているが、私はどうしてもズボンの内側に入れてベルトをしないと気分的に落ち着かない。一層かたちがおさまらないが仕方がない。

 

 そのシャツのボタンが取れてしまったので、つけることにした。さいわい、ボタンは失うことなく手元にある。シャツの色に合う色の糸を針に通そうとしたら、どうしても針の目に通らない。穴の大きめの針を選んだのにどうしたことか。悪戦苦闘して、しまいには腹を立てながら、諦めかけたときスッと糸は通っていた。

 

 ボタンのつけ具合に満足したものの、自分自身の思った以上の不具合になんだかガッカリしてしまった。
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2020年5月18日 (月)

価値は時間のなかにある

 経済学や社会学がうさんくさく思えてしまうのは、そこに時間の要素が希薄だったり、ほとんど考慮されていないように見えるからかもしれない。情報も時間要素を持たないものだという。情報は、ただ情報として存在する限り永遠に変わらない。一度ネットに情報としてさらされたものは、そのまま存在し続けてしまう。

 

 世界は流動化し、変化する。自然は変わるし、人間は肉体的にも精神的にも変わる。それを情報として管理するということのウソくささというものは、この時間要素、変化するということを取り込めないからだろう。現代の価値観で過去の歴史を評価するのが愚かしいのは、時間の要素を持たないように見えるマルクス史観にとらわれているからだろう。これは内田樹老師の論を読んでそこからの思考だから、つまり受け売りだ。

 

 時間といえば、本も、音楽ソフトも、録画してある映画も、すべてそれを楽しむためには時間を必要とする。本棚に列んでいる本や、映画を録画したディスクの山を見ると、それが膨大な時間の山でもあることに気がつく。その時間の山は私にとって真の価値のある山であるとともに、自分の持ち時間を考えさせられる山でもある。

 

 本を雑に早読みしたり、斜め読みしたり、映画を早送りすれば時間の節約になる。しかしそうして節約された時間にどんな意味があるのだろう。本を読み、映画を観て感じたり考えたりすることそのことに意味があり、価値がある。そういう必要な時間のなかに価値はある。

 

 いま思いついたが、宗教もキリスト教やイスラム教は無時間モデルで、汎神的な宗教は、自然を組み込み、時間が組み込まれているような気がする。私にはその方が親和性が高い。その視点から見ると、養老孟司の話ももう少し理解ができるかもしれない。こんど読み直そうかなあ。私は時間のなかで生きている。
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『山川方夫と私』におけるYとYとY

 その才能が評価され、開花が嘱望されていた山川方夫との交遊と、そのあまりにも早い死を書いた江藤淳の『山川方夫と私』という文章を読んだ。

 

 山川方夫は学生時代から「三田文学」の編集長として曽野綾子や江藤淳を見いだし、世に出している。文学上の主張の違いから、江藤淳が激高して山川方夫の胸ぐらをつかむような諍いをきっかけとして、互いに胸襟を開くようになり、やがて互いをかけがえのない友と認め合うようになる。 

 

 江藤淳がアメリカ留学から帰って、その山川方夫がやつれて見えることがひどく気にかかる。疲れていたのは山川方夫の結婚であり、意に染まぬ仕事上の憂悶のようだった。結婚については、山川方夫夫人がまるで江藤淳の恋敵であるかのように読めて可笑しいが、男どうしの友情の篤さからしばしばあることで、わからないことはない。

 

 仕事上のことというのは、山川方夫が安岡章太郎のすすめで、壽屋(現サントリー)の宣伝誌『洋酒天国』の編集をしていたことを指す。山川方夫の希望するような仕事ではなかったが、恩義があり、敬愛していた安岡章太郎の紹介だったので断れなかったのだ、と江藤淳は書いている。その関係で山口瞳と山川方夫に軋轢が生じた。

 

 これで三人のYがそろった。Yとは山川方夫であり、安岡章太郎であり、山口瞳である。

 

『洋酒天国』の先輩である山口瞳の生き方の美学から見れば、山川方夫は相容れない存在だったようだ。山川方夫の編集方針は著しく困難を来したらしい。山口瞳は死後も公然と山川方夫をおとしめるような文章を雑誌に寄稿している、と江藤淳は激しく批判している。山口瞳と山川方夫はよほど肌合いが合わなかったのだろう。そして江藤淳は文学的に山口瞳を評価していないのではないかと感じさせる。

 

 蛇足ながら、山口瞳は『居酒屋兆冶』の作者であり、『江分利満氏』シリーズで有名で、私も愛読者である。その山口瞳が唯一先生と仰ぐのがドイツ文学者の高橋義孝で、この人の軽妙洒脱のエッセイは絶妙で、こちらも愛読した。私の叔父は高橋義孝が大好きで愛読していたから、息子に義孝と名付けている。

 

 さらに付け加えれば、山口瞳より前の『洋酒天国』の編集には長く開高健が在籍していた。なんだか山川方夫以外は、愛読してきた作家たちのオンパレードであった。

 

 山川方夫は35歳の時に交通事故(横断歩道を渡っていてトラックにはねられた)で亡くなっている。その死を看取って江藤淳は号泣した。
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2020年5月17日 (日)

今日はくたびれた

 昨日の夕方から何回目かの写真の整理をした。こどものときに撮ったフイルム写真も含めて、数万枚に及ぶと思われる写真のすべてがデジタル化してファイルにしてあるのだが、そのファイルが三つほどのハードディスクや複数のパソコンにバラバラに入っている。重複しているものも少なからずあり、何がどこにあるのか一度思い切って一つにしなければならないと思っていた。

 

 そこで1T(1000G)のハードディスクを、雑多に入っていたデータをすべてほかに移して空にし、そこに地域別時系列別にディレクトリを作って、ハードディスクやパソコンの写真データを入れ直していった。ざっとファイルのなかをチェックし、一つ一つ書きこんでいくのだが、大変な時間がかかる。それでもこうしてすべてをまとめてみたら500Gに満たなかった。思ったより少ない。このハードディスクが写真のデータの原本となる。それをもう少し丁寧に整理し直す。

 

 さらにその原本のなかから、だいじと思われるものを選び出し、あのストレージにしているNASにコピーしていった。結局、大半がNASにコピーされた。すべてが終わったのがつい今し方。くたびれ果てた。

 

 これでそれぞれのパソコンには写真データを置いておく必要がなくなった。必要ならLANでNASから引っ張り出せばいいのである。これからは、新しく写真を撮ったら原本のハードディスクに保存し、整理してからNASにもコピーすることにした。二カ所にあれば万一の時も安心である。

 

 明日からは、いままで少しずつ進めてきた本の整理をする。本棚を一つ増やしたので、できるだけ押し入れで眠っている本たちを表に出すことにする。といってもすべて出して棚に置くことはとうていムリなので、現在の気分での優先順位に従って(気分はすぐ変わる)本を入れ替えるのである。全部の本の入れ替えなど体力的に不可能なので、一部に限定して作業するつもりだけれど、多分それでも今日と明日くらいはかかるだろう。

 

 本を読む時間を削って本を整理している自分がなんだか可笑しい。でかけられない分だけ、今しておくべきことをしておこうと思う。まだまだ片付けなければならないことは山のようにある。アマゾンで手配していた本が四冊ほど届いた。
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正義の人

 戦後いろいろあって失業していた父が、ようやく教師の資格を得て千葉県山武郡の片田舎の中学校に奉職したのは、私が幼稚園に上がる前のことだった。中学校まで歩いて十分ほどの、神社の横の庭の広い平屋の家を借家住まいした。その家の近くに小さなため池があり、ザリガニがよく釣れた。幼児だった私でも、たちまちバケツいっぱい釣れたザリガニを、母は味噌汁の具にしたり尻尾の身を佃煮にしたりした。

 

 開高健の『河は眠らない』という本を読んでいたら、その頃のことを思い出した。

 

「戦争中、私は中が三年生で、大阪の南の郊外にある竜華操車場で勤労動員で働いていたが、日曜日にはよく釣りにでかけた。空襲警報や警戒警報のすきをねらってフナや、モロコや、ライギョを釣りにいくのである。ときには食用ガエルを釣りにいくこともあった。食糧事情が極度に悪化してオカズを手に入れようという考えでもあった。三本鉤に赤い布をつけてタヌキ藻の切れめあたりをそっとたたいているとカエルが釣れたし、その三本鉤に小さなカエルをつけたらライギョがとびかかってくる」

 

「ところがそうして魚釣りをしていると見ず知らずの通行人がとつぜん土手をかけおりてきて手から竿をひったくり、膝でへし折り、前線で兵隊さんが苦しんでいるのに銃後の国民がのほほんと釣りをするとは何事かといって、叱りつけた。そういうことが二、三度あった。それ以後は、だから、池のふちに腰をおろして浮子を眺めながらもチラチラと通行人を眺めるようになり、気が気ではなかった」

 

 私は月光仮面が大好きだった。『月光仮面のおじさんは、正義の味方よ善い人よ』と川内康範が主題歌の歌詞に書いたように、月光仮面は正義の人であり、私も正義の人として生きるべきだと信じていた。 

 

 中学生の開高健の竿をへし折り、銃後の国民としての考え違いを叱った人は正義の人である。

 

 開高健は文章を続ける。

 

「一九六八年の九月にサイゴンからバスに乗り、街道にひしめくタンク、ジープ、ウエポン・キャリア(装甲車)などの間を縫ってカイベへいき、そこから小舟でメコンの一支流を下り、バナナ島にあがった。ここは最前線中の最前線で、昼間は何もないけれど、夜になると空爆、砲爆、銃撃戦がすさまじかった。その話は他日くわしく書くとして、今日はやめておきたい。サイゴンを出るときに私は釣竿を持って行くことにし、道中ずっと手に持っていた。」

 

「もしそれを見て、人が生きるか死ぬかの血みどろの戦争をしているさいちゅうに釣りをするとは不謹慎な・・・といわれることがあったら、その場で謝って竿を捨ててしまうつもりであった。少年時代のにがい記憶がいきいきとよみがっていた。けれど、バスのなかでも、島についてからでも、一回もそんなことは起こらなかったし、鋭い視線にも出会わなかった。むしろ島についてからはあべこべに農民から手厚く歓迎された。村長がでてきて、ミミズよりこれのほうがききますといってモンキー・バナナをくれたり、若い農民が穴場へさきにたって案内してくれたり、サトウキビを何本も切って持ってきてくれたりするのだった。その三年前に全土を旅行したときは『私ハ日本ノ記者デス。ドウゾ助ケテ頂戴』と坊さんにヴェトナム語で書きこんでもらった日の丸の旗を持って歩いたのだったが、釣り竿にたいする人びとの反応のほうがはるかに柔らかく、親しげで、深かったようである。」

 

そして、
「ふしぎなものである」
 と文章は結ばれている。

 

 ベトナムはとにかくアメリカに勝ち、中国に勝った。日本は正義の人がいたけれど、アメリカに敗れ、中国に敗れた。

 

 いま自粛警察という名の正義の人が活躍しているという。
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2020年5月16日 (土)

開高健

 谷沢永一を読んでいれば、当然開高健が気になる。開高健の小説は初期のものしか読んでいない。よく読んだのはエッセイで、『開高健全ノンフィクション』全五巻や『最後の晩餐』、対談集の『午後の愉しみ』、『悠々として急げ』などは愛読書で、若いときから二度三度と読んでいる。しかし最近はほとんど読んでいないので、全ノンフィクションの第一巻『河は眠らない』を開いたら、やめられなくなった。この巻は釣りに関するエッセイである。

 

 巻頭の『自然への希求』という文章の出だしに痺れる。

 

「『自然』もさまざまである。
 普通私たちは『自然』というと『文明』を思いだし、『文明』というと『自然』を思いだす反射を持っている。この二つはいつも潜在的にか顕在的にか、私たちの薄暗いこころのなかで併存、対立、または融合の関係で知覚されている。汚染が浸透して破滅が指摘され、論じられるようになってからはこの二つのうちの一つが急速に減退しはじめ、その反動として私たちは『自然』なるものにたいしてひどく感じやすくなったが、その感じやすさのなかには滅びゆく白鳥としてのそれがおびただしくある気配であり、全身心をあげて感ずるということが困難になっているのではあるまいかと思われる気配がある。だから感じているといい、そこから出発して考えているのだという人は多いけれど、じつは大半の人が『感じている』ということばを使えるほどの深さで感ずることができなくなっていて、したがって、『考える』ということばを使えるほどに考えることもしないし、できなくなっているのではないかと思われる。」

 

 自分の感性で感じているか?自分の頭で考えているか?他人のことばに影響されたまま、上っ面でものを見ていないか?そう問われているのだ。

 

 開高健(1930-1989かいこうたけし、または、かいこうけん)、夫人は詩人の牧羊子(1923-2000)、一人娘の開高道子(1952-1994)はエッセイスト。牧羊子を稀代の悪妻と公然と論じたので、牧羊子と開高健の親友・谷沢永一が犬猿の仲であったことはすでに書いた。開高健が死んで五年後に娘の道子は自死(鉄道自殺)している。牧羊子は夫にも娘にも先立たれ、一人暮らしの末に孤独死して数日後に発見された(病死)。谷沢永一によれば、牧羊子から逃れるために開高健は国内国外に釣りに出かけたのだという。
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ケチ

 私はケチだと書いた。しかし使った金のことで、いつまでもくよくよ後悔をしたことはない。後悔しても仕方のないことだからである。

 

 自分がケチだと思うのは、金を出すときに一瞬逡巡するからである。サバサバと気持ちよく払い、払ったことを意に介さない姿をかたちよく見せるのはむつかしい。それが見事にできる人を見ると、格好いいなあと思う。

 

 元々贅沢をしたいと思ったことがない。両親とも堅実に生きたから、その薫陶を受けて無駄遣いに抵抗がある。普通に生きて普通に働き、普通に使えば、金は残るものだと実生活で体験している。事情があって、蓄える尻から金が必要だった時期があったが、定年退職時にはなんとかつましく生きれば生きられる金は残せている。

 

 これは私がケチであったことの手柄だろう。だから金がない、金がない、と健康でそれなりに収入のあっただろう人たちが言うのを見聞きすると、不思議な気持ちがする。
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2020年5月15日 (金)

揃えたいという欲望

 おしゃれにはほとんど興味がないので、普段着とよそ行きの服に区別がない。いい服に金をかける気が全くないし、もったいないと思う方が先に立つ。服も靴もよほどくたびれるまで着続ける。食べ物も外食で贅沢をしたいと思わないので、たいてい当たり前のものを食べる。それでも美味しいと思えるから別にかまわない。以前は焼き肉にだけは目がなくて、最低月に二度三度と食べ過ぎて苦しくなるほど食べたものだが、今は友人と年に一度か二度行くかどうかである。

 

 あまり物欲がある方ではない上に、生来のケチなのである。その私がほしいとなると財布をはたいてしまうのが本である。本屋の棚を一渡りぐるりと探索する。あれと、これと、それと、と目星をつけていくとたちまち両手に抱えるほどの本を持ってレジに列んでしまうのである。昔は時代小説やミステリーやSFなどの娯楽本を買うことが多かったから、値段もしれていたし、結構次から次に読んでしまったものだ。

 

 それが次第に毛色の変わった高い本を買うようになった。中国関連の本が多い。憧れだった東洋文庫を手当たり次第に買いそろえだしたりした(判型は小さいが、箱入りで布製の表紙であり、一冊安くても二千円から三千円する)。一冊読むのに一週間、ときに一ヶ月かかるような本をどんどん買うから、読むよりたまる方が多くなる。二三十年前から年に二三百冊ずつ本を処分するようにしてきた。延べにして四五千冊は売り払っただろう。

 

 若いときはカードに書名その他を書いて蔵書のリストを作ったりした。その後データベースに作り直した。一番多いときは七千冊ほどあったけれど大半は処分し、そのデータベースも途中からサボったので、今はそういうリストはない。処分すれば本は減るはずだが、不思議なことに今でもほとんど減らない。

 

 あまりのことに自分でルールを作った。「十冊読了したら五冊本を買ってもよい」というもので、これなら必ず本は減るはずである。なかなか十冊読むのは骨で、それまで本を買えないことに身もだえしたりした。本を読むために買うのか、ただ買うために買うのかよくわからないところもある。

 

 それでも本は減らない。何しろ読んだ十冊の半分が再読だったりするからである。再読したくなるような本ばかりが残っているから、当然のことなのだが・・・。

 

 若いときは手当たり次第の濫読だったが、気に入った作家をまとめて読むようになったのは五十を過ぎてからだろうか。そうなると揃えたいという欲望がうごめき出す。六十を過ぎたら、明治大正昭和の作家や評論家、随筆家の本が面白く感じられるようになり、古本屋回りを愉しむようになった。思いがけなく安く手に入ると無上の喜びで、欠巻があったりするとそれをまた一生懸命探すのも楽しみだ。

 

 今は「揃える」という欲望にとりつかれているようで、過去揃えられなかったものをアマゾンなどで手当たり次第に探して注文している。新本だったり美本でなくても好いのである。古本で好いのである。今まで諦めていたものを手に入れると、読む前に(そもそもいつ読めるかわからない)大いに満足してひとり、悦に入っている。今日は開高健の『言葉ある曠野』という本が到着予定。明日は安岡章太郎の『でこぼこの名月』と『慈雨』が届くはずである。
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ケチは工夫のエネルギー

 私はケチである。ときどきいい格好をしてムリをするが、それで後悔することはないものの、自分にふさわしくない行動をしたような気分になることはある。今は弟との関係で、少し弟に借りがあるような気がしている。弟はケチではないので、弟夫婦は全く貸しと思っていないと思う。それこそがまさに弟がケチでないことの証拠である。

 

 そんな話を書こうと思っていたのではない。私の酒の肴の話である。今晩のつまみ。口の広いぐい吞みに瓶詰めの鮭フレーク(少し上等のウエットなもの、安いのはパサパサしてまずい)。もう一つのぐい呑みに息子が送ってきたカチリちりめん(大量にある)を盛る。さらに缶詰のコーンを出して、バターで少し炒める。汁は捨てずに残す。ちりめんじゃこがたっぷりあるので、そのちりめんと卵、そしてコーンの汁とマヨネーズを加えてよく混ぜる。それで卵焼きを作る。ニラがあれば細かく刻んで加えると旨いが、まだ苗なので残念である。パセリをたっぷり刻んで振りかける。少し塩気が足らないがこれだけでつまみとする。

 

 キャベツを細かく切って、レンジでチンし、そこにシーチキンを一缶放り込み、マヨネーズとめんつゆ(私はキッコーマン)を少し加えて混ぜる。

 

 これで五品。コップ酒(菊正宗の紙パック)が二杯いける。それらの肴は残るものもあるので、翌朝のおかずになる。たいてい酒の肴はこんな感じ。昨日は安いときに買って切り分けて冷凍しておいた鶏肉と、豆腐と白菜の鍋だった。ゆずポンの汁にたっぷりのゆず七味を入れて食す。仕上げに冷凍うどんを放り込めば大満足。
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2020年5月14日 (木)

書き込みできた

 デジタルネットオーディシステムのストレージ用にNASというハードディスクをつないでいるが、そこへの書き込みがどうしてもできずに困っていたことはすでに書いた。どこかに紛れ込んでいた説明書をようやく探し出し、いちからじっくりと読み直して、ようやく書き込めない理由がわかった。

 

 踏まなければならない手順が抜けていたのだ。NASは普通のハードディスクのように自由に書き込んだり消したりできないようになっているので、それなりのソフトを起動させなければならず、ただネットワークで共有しただけではいけなかったのだ。

 

 インターネットでそのソフトを落とし直してみる(あるはずなのに見当たらないので入れ直した)と、すいすいと書き込みができた。しかしそんな手順を踏まずに以前は書き込めた気がしている。いつの間にかあったはずのそのソフトが消えていたのも解せない。自分の勘違いで消してしまったのだろうか。どちらにしても、まだまだふんだんに書き込む余地のあるNASが生き返って本当によかった。今そこからAVアンプを通して、吹きすぎる風に当たりながら、ぼんやりと音楽を聴いている。いいなあ。
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格安極旨野菜スープ

 手羽先をたっぷり入れてとろとろにまで煮込む野菜スープ(ポイントはセロリを入れること)は私の得意な料理だが、最近はずっと安上がりでとても美味しい野菜スープを作って楽しんでいる。

 

 まずタマネギとにんじんをよく炒める。決して焦がしてはいけない。そこに鶏皮を細かく刻んで加えてさらにじっくりと炒める。途中でシメジを加えてさらに炒める。スパイスとしてタイムとオールスパイスとコリアンダーなどをたっぷり振りかける。それはたまたま手元にあるからで、私はスパイスが好きなのである。さらにガーリックや黒胡椒なども加える。何でも好いのであって、いろいろ入ると味に深みが増す。

 

 鍋に湯を沸かし、キャベツの捨てるような側の堅い青いところも含めてざく切りにして放り込む。芯でも何でも堅いところもすべて入れる。少し沸いてきた頃にその鍋に炒めたものを放り込む。沸騰したらコンソメの素を放り込む(私は中くらいの鍋にコンソメの素を四個入れる)。火を最小にする。そして使ったフライパンに水を入れて沸騰させ、炒めた美味しいエキスの残りもすべて溶かして鍋に加える。洗うのも少し楽になる。

 

 鍋にあふれるほど作っても、キャベツは縮小するからそれでかまわない。後は弱火でとろとろと煮込んでいく。沸騰手前で煮込んでいくとスープは透明のままである。鶏皮は次第にとろとろになり、キャベツの堅いところも柔らかくなる。しばらくしたらウインナをきざんでほうりこむ。うまみを加えるためである。

 

 食べるときは、そのスープに好みでレモン汁(ポッカレモンでかまわない)を垂らし、タバスコなどを振りかけると、少し塩味がもの足らないくらいのスープが絶妙に美味しくなる。

 

 材料は、残り野菜にキャベツの外側、鶏皮であるから格安である。最も高いものはウインナであるが、これは欠かせない。鍋いっぱいにできてしまうので、二三日楽しめる。ほとんど毎週作る。野菜の甘みは本当に旨いのでお試しあれ。

 昨日は風呂の足拭きマットを二枚洗い、いい加減にしかできていなかった風呂掃除とトイレ掃除をやり直してさっぱりした。ベランダと北側の窓を開け放つと風が通り抜け、爽やかだったが、黄砂が飛んでいるという情報もあり、そのせいか、なんだが鼻がグズグズした。夕方定期検診で歯医者に行く。ようやく日常に戻れた心地がする。陽気も好いし、温泉にでも行きたいけれど、もうしばらく我慢か。

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2020年5月13日 (水)

谷沢永一(たにざわえいいち 1929-2011)

 若い頃、谷沢永一の『紙つぶて』という書評の本を読んで感嘆し、彼の本を手当たり次第に読んだ時期があった。なぜ感嘆したのか。一頁乃至二頁のなかに、十頁以上の内容が余すところなく盛り込まれて、痛烈な書評が展開されていたからだ。

 

 昔先輩や友人たちと拙宅で酒盛りしたことがある。そのとき先輩の一人がトイレに入ったきり出てこない。まだ酔い潰れるには早かったが、みな心配した。ようやく出てきた先輩が「この『紙つぶて』という本を読み出したら面白くてやめられなくなってしまった」と言ったのでみなずっこけた。私はその本をトイレに積んでおいたのだ。

 

 それほど読んだ谷沢永一の数十冊の本もほとんど処分してしまい、いま手元に残っているのは『読書人の悦楽』、『読書人の風紋』、『読書人の蹣跚』など数冊のみ。処分したつもりのない『紙つぶて』も見当たらない。

 

 その谷沢永一の二巻選集が数年前に出版され、主なものが凝縮して収められているのでそれを購入した。判型も大きく、二段組であるから二冊で五冊分くらいの内容がある。上巻が『精選文学論』と副題がついたもので、安岡章太郎の随筆集の次にはこれをメインに読もうと思っている。巻頭が『日本近代文学の存立条件』という文章で、非常にユニークな文学論が展開されている。

 

 これは最近読んできた奥野健男や江藤淳の日本近代文学論とは全く異質で、それが正論であるかどうかよりも、こういうものの見方もあるのか、と目を洗われる心地のするものだった。日本の近代文学は、西洋の文学を取り入れるなかでの苦闘の歴史として論じられるのが普通である。それを日本の文学は日本の文学であって、西洋文学とは根本的に違う、その対比で論じていては本質を見失う、と断じているのである。

 

 初出が1964年で若書きであり、かなり無茶な論法だが、面白いなあ。
 
 谷沢永一は関西大学の文学部(国文学専攻)の教授を長く務め、主(ヌシ)として存在し続けた(らしい)。若い頃から、同人雑誌を通して開高健と刎頸の友として交遊した。開高健は私も強い思い入れのある作家なので、そのことを知って谷沢永一にますます親しみを感じた。開高健夫人の詩人の牧羊子とは犬猿の仲だったことは有名。
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ニラを植える

 ベランダの鉢にパセリと青紫蘇、そしてオクラの種をまいた。パセリは元気よく小さなジャングルになりつつある。紫蘇もそこそこしっかりしてきた。オクラはなんだかひねこびていて、大きくなるのかどうか心配される。

 

 パセリの鉢の端っこに、昨年蒔いたパクチーの種が生き残っていたのか、一本だけ芽吹いて大きくなりつつある。引っこ抜こうと思ったが、昨年はあまりうまく育たずに少ししか食べられなかったので、どこまで成長するのか見届けようとそのままにしてある。

 

本当はニラも育てたかった。種を探したが、ニラの種など売っていない。そのことを知って大阪の友人が地植えのニラの苗を送ってくれた。昨日到着したので早速鉢に植えた。ニラは性が強いからしっかり育つだろう。このまま根を残し続ければ、ずっと毎年ニラが収穫できるはずだ。楽しみだなあ。ありがとう友よ。早く自粛解除になって大阪で酌み交わしたいものだ。
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2020年5月12日 (火)

『安岡章太郎随筆集8』(岩波書店)

 全八巻のこの随筆集をようやく読了した。この巻は絵画、映画、音楽に関する批評・エッセイ、ならびに人物スケッチ、日常の所感、サル学への関心、食と酒、本や読書のこと、犬とくにコンタの憶い出、東京散歩などの文章が収められている。比較するのもおこがましいが、私のブログみたいなものである。

 

 冒頭がゴヤの絵について、次いで若冲の襖絵を見に行く話で、なかなか好い。若冲を知らないとその良さはわからないが、今は若冲もずいぶん知られるようになった。ゴヤの展覧会を見に行ったことがあるし、若冲も実物を見たことがある。

 

 安岡章太郎の映画の話はプロの映画評論家のレベルだと私は認めている。雑学的なことは別にして、映画そのものを細部まで見る鋭い目は趣味を超えている。そこに書かれた『切腹』という映画のことはすでに書いた。

 

 安岡章太郎(1920-2013)、阿川弘之(1920-2015)、吉行淳之介(1924-1994)、三浦朱門(1926-2017)、遠藤周作(1923-1996)、庄野潤三(1921-2009)、近藤啓太郎(1920-2002)、島尾敏雄(1917-1986)

 

 安岡章太郎の交遊録にしばしば登場する人物たちである。ちょうど私の親と近い年齢の人たちで、心情的に私にとって遠い人たちではない。

 

 この随筆集は1991年までのものが収録されていて、その後もたくさんの文章が書かれ続けた。新しいものは単行本で数冊所持しているが、持っていない本もある。機会があれば手に入れたいと思っている。彼が親和した作家の系譜としては永井荷風、佐藤春夫、志賀直哉、井伏鱒二、そして意外なことに泉鏡花、宮沢賢治など。不思議なことにそれらの作家の本が私の本棚のメインとして列んでいる。彼にシンクロするわけである。
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教科書で知った世界

 私は理科系に進学して、自然科学的な思考方法を学んだが、今になって振り返れば、本当に身についたのは文化系の知識と考え方だった。その基本的なことを学んだのは、中学、高校での国語の教科書からだった。そのことを寺田寅彦の文章を考えたことで改めて思い出していた。

 

 寺田寅彦の『とんびと油揚』という文章を教科書で読んだことは忘れられない。とんびの遊弋する百メートル二百メートルの高所からとんびは下界の油揚げが見えるか、という考察から、それは無理であろうと推察し、ではとんびはどうして油揚げの存在を察知するのか、と推論は展開していく。上昇気流と匂いの流れについて仮説を立てていくその思考の流れの鮮やかさに、感心したものだ。

 

 文章とは物語のためだけにあると思っていたその頃の私が、新しい世界を教えられたはじめかもしれない。上昇気流については『風の谷のナウシカ』の冒頭で、ユパがナウシカの飛翔する姿を見て、「よく風を読む」とつぶやく場面があるが、あれこそナウシカが上昇気流を読んでいることを表していて、私は『とんびと油揚』を思い出したものだ。鳥は見えない風を読むことの深い意味を感じさせる。見えないものは、見えなくても存在する。 
 教科書で記憶に残る文章は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、中島敦の『山月記』(これについては何度も書いた)、梅原猛の『隅田川』(謡曲の『隅田川』を論じたもので、これも見えないものを見る、感じるということの意味を教えられた。このことはいつか詳しく書いておきたい)、森鴎外の『舞姫』、保田與重郎の『日本の橋』などがたちまち思い浮かぶ。

 

 保田與重郎の『日本の橋』では「てんしよう十八ねん二月十八日に、をたわらの御ぢんほりおきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、・・・」という名古屋の熱田の町を流れる精進川に架かる裁断橋の青銅の擬宝珠に彫られた文章が忘れがたい。これはこの『日本の橋』の最後の部分のみの引用だったが、「橋」というものの意味を考えさせてくれるものとなった。

 

 言葉の意味には何層もの深い階層があって、我々は普段ほんの低位の知覚しかしていないことを知るきっかけになった。自分が何も知らないし、何も考えていなかったことを思い知らされたものだ。そして評論というものの面白さも教えられた。
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2020年5月11日 (月)

『亮という人』

 安岡章太郎の随筆集を読んでいたら『亮という人』という文章に出会った。この亮という人物は、寺田寅彦の甥(寺田寅彦の長姉の二男)である。安岡章太郎のこの文章は寺田寅彦の『亮の追憶』という文章から感じたことを書いたものである。

 

 寺田寅彦は土佐の生まれ、そしてこの亮という人は、安岡章太郎の父親と親しかった人物で、若くして亡くなっている。安岡章太郎の父親も母親も土佐の生まれであり、ともに寺田寅彦とは親類なのである。そして安岡章太郎自身も子供の頃、父親に連れられて何度か寺田寅彦を訪ねている。

 

 寺田寅彦はご承知のように夏目漱石の弟子であり、文章も巧みだったが元々物理学者である。しばしば夏目漱石の小説中の人物のモデルになっている。『吾輩は猫である』の寒月がそうであるし、『三四郎』の野々宮もそうである。それだけ漱石に愛されていたのだろう。

 

 寺田寅彦の『亮の追憶』という文章は、安岡章太郎が指摘しているように、ほかの文章とは少し趣が違う。私も岩波文庫版の『寺田寅彦随筆集』全五巻を所持していて、ときどき拾い読みしている。『亮の追憶』は第二巻に所収されているので、早速読んでみて安岡章太郎の書いているとおりだと思った。惻々と胸を打つ文章で、甥のことを書きながら、同時に自分自身のことを書いているのである。あからさまではないものの、彼がここまで心情をさらけ出したその気持ちの流れが痛いほど感じられた。それも安岡章太郎に教えられたから読み込めたのであって、自力ではここまで読み込めなかっただろう。
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NAS不調

 ささやかながら、ネットワークでデジタルオーディオを聴くシステムを組んでいて、高音質のジャズやクラシックを楽しんでいる。それに問題は無いのだが、音楽ソフトをため込んでいるNAS(ストレージ用のハードデスク)に新たな書き込みができなくなっている。

 

 せっかくe-onkyoなどで落としたものが書き込めないと、いちいちパソコンと繋がないとならないのでとても面倒だ。今日はそのへんの不具合を直すことに傾注しようと思う。そのあと映画を楽しむつもりだ。その映画を楽しむためのブルーレイディスクレコーダーも中を開けて二度ほど叮嚀に掃除したのだが、かすかな異音を発し続けている。十年くらい酷使してきたから、寿命が近いのかも知れない。

 

 頭が良く回らなくなっている気がする。それは一時的なものなのか、老化による必然的な劣化によるものなのか、分からない。一時的なものであることを願っているのだが。
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2020年5月10日 (日)

今日は母の日

 今日は母の日だった。家で両親と暮らしたのは高校生までで、その後はほとんど離れていた。だから母の日に母と一緒だったことはないから、母の日を母の日として祝ったこともあまりない。ただ、五月の連休にはなるべく両親の顔を見るため帰省するよう心がけた。これは結婚してからもずっとそうだ。

 

 実は本日5月10日は父の誕生日である。私の誕生日は5月8日で二日違い。大抵こどもの日にすべてのお祝いをまとめてした。5月5日はずっと格別のごちそうの日でもあった。

 

 父も母も今はいない。そして私の子供たちは小学生のときに母親と別れたきりである。だから私の二人の子供たちは母の日を祝う相手がいなかった。学校でもらう母の日のカーネーションをどんな気持ちで見ていただろうか。

 

 彼らが子供を持ち、家族として母の日を祝えるようになることをこころから願っている。その彼らの母親は今入院していて、いろいろ確執はあったけれど、これからは私が面倒を見ることになった。
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 具合の悪いときに見る夢はいやな夢ばかりである。特に高熱のときは、子供の時から何度も見たような悪夢の変形バージョンが繰り返し現れる。夢で自分の体調がわかるくらいだ。

 

 今回は、そんななじみの悪夢に混じって、新しいパターンの悪夢が現れるようになった。仕事の夢である。六十歳で早々にリタイアしたから、仕事を辞めて丸十年が過ぎた。丸十年過ぎて、忘れかけていた仕事の夢を見るというのはどういうことだろうか。

 

 受注に成功した楽しい夢などではなく、何度チャレンジしても交渉が進展しなかったこと、嫌気がさしてしばらく逃げたことなど、そのことが会社に大変な迷惑をかけたこととして、自分が追い詰められているのを見るのである。目が覚めて、ああ夢だった、夢でよかった、それにもう仕事は終わっているのだ、しなくていいのだ、ということに気がついてほっとする。

 

 私はよほどのことでなければいつまでも過ぎたことを持ち越さない性格だと思っている。忘れることができる性格だと思っている。ところが心の中に抑圧された形で記憶されているらしい。

 

 今朝は、死んだ叔父がしゃれた服や靴を買ってくれた夢を見た。私はまだ若い。その叔父は商社マンで海外に家族駐在もしていたことがあるし、世界観を教えられた。五十を過ぎて自分で会社を興して羽振りがよかったが、六十代で胃がんで死んでしまった。亡くなってずいぶんになる。もらった服はもちろん仕事用のスーツである。ここにも仕事が関係しているような気がする。なんたることか。靴が窮屈で困った。
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2020年5月 9日 (土)

少しずつスイッチが入り出す

 体の中からようやくまがまがしいものが抜け去った気がしている。メインスイッチが入り、エネルギーが徐々に充填され、まずテレビが普通に見られるようになり、撮りためたドラマや紀行ドキュメントなどを見始めた。映画はWOWOWでたまたまゴジラシリーズをやっていて、アニメも含めて未見のものをいくつか録画したものの一つを観た。2014年のハリウッド版である。重要な役回りで渡辺謙が出ている。しかしこの映画は駄作だった。映像的には悪くないけれど、ストーリーや台詞があまりにお粗末であった。面白く感じなかったのはこちらが本調子ではないからか?そうは思えない。

 

 本はなかなか読めない。ようやく安岡章太郎随筆集全八巻の最後の巻を読み始めた。この巻は短いエッセーがたくさん収められているので読みやすい。安岡章太郎は映画が好きで、特に戦前のフランス映画には詳しい。たまたま読んだエッセーでは小林正樹監督、仲代達矢主演の『切腹』が取り上げられていた。好きな時代劇なのだが、酷評している。まず「感動した」、と書いているのである。この竹光による切腹という凄惨な痛みを想像させる皮膚感覚というか身体感覚を高く評価しながら、後半がひたすら立ち回りの見事さに転じて、主題がかすんでいることを難じているのだ。私はそれも含めて全体としていい映画だと思っているが、安岡章太郎の言いたいこともよくわかる。

 

 この中で凄惨なシーンに笑う観客が少なからずいたことに安岡章太郎が違和感を感じたことが書かれていて、私もしばしばそのような経験をしているので、彼の腹立ちがよくわかった。
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大活躍

 千葉で生まれ育ったので、蒲団というのは天日(てんぴ)に干すものだと思っていた。天日は冬ほどふんだんにあるから、冬の夜は、その蒲団の天日干ししたぬくもりが、日向のにおいと共になつかしい。

 

 ところがその関東から山形の大学に移り住んで、米沢の、ほとんど雪ばかりで天日のない、もちろん蒲団を干すなど考えられない冬を経験して、こういう暮らしもあるのだと知った。

 

 五十歳くらいから十年ほど金沢で単身赴任を経験した。真っ先に買ったのは蒲団乾燥機である。思ったよりも大きくなくて、しかも値段も手頃なものだった。これでときどき蒲団を暖めておく。フカフカになったその蒲団に寝るのは至福であった。

 

 具合が悪くなって寝込んでいれば、寝汗をかいて湿ってくるし、蒲団は熱臭くなる。それをとことん熱めに設定して長時間の乾燥をする。するとあーら不思議、日向の臭いとふっくらした蒲団の一丁上がりである。

 

 もう二十年ほど使っているのに、いまも大活躍している。
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2020年5月 8日 (金)

旅心

 ナレーションのない、映像詩「飛鳥」と云う番組を観ていたら、一昨年、昨年と二度ほど歩いた飛鳥の風景と空気をまざまざと思いだした。古墳や巨石、飛鳥寺、二上山など、もう一度ゆっくりと訪ね歩きたい、写真を撮り直したいと心から思った。

 

Dsc_0637男鹿にて

 同時に伊那の山中の狭い山道から見た山々の絶景、東北の小さな、しかし手入れの行き届いた神社や、小さな滝、米坂線沿いの山道(小国海道)の深い緑、五能線と平行する能代から深浦、そして鰺ヶ沢までのスケールの大きな海岸線、下北半島の、ほかで見ることのできない恐山の不思議な景色、田沢湖の神秘的な青い水、それらが走馬燈のように頭の中によみがえってきた。あの場所にまた行きたい。

 

Dsc_0584こんな女将さんが迎えてくれる

 旅心が無性にうずく。カメラを持って昔のように行き当たりばったりの旅に出られるまで、どのくらい待てばいいのだろうか。そう遠くないことを願う。

 

 70歳の誕生日の祝杯の準備はできた。ゆっくりと酒を味わいながら、旅の写真でも眺めることにしよう。
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混雑

 自動車税の納付通知が来ている。今年の秋には車検だから、しっかり払っておかなければならない。半月以上前には固定資産税を払った。古いマンションだから知れているけれど、年金暮らしにはこの出費の重なる時期はため息が出る。ついそのことを忘れているのだ。

 

 自動車税はコンビニでもいいけれど、勤めていた会社のOB会のささやかな会費も振り込まなければならなかったので、昨朝、近くの郵便局へ出掛けた。連休明けだから混むだろうとは覚悟していたけれど、予想以上の混み方である。番号札だとあと八人。ところが窓口の二組が(二組しか窓口がない)延々と長くふさいでいるので、ちっとも進まない。さいわい椅子が空いたので用意していった雑誌を読んで、のんびり待つ。

 

 長っ尻の二組がようやく済んだら、私の前の人はすべて待ちくたびれてどこかへ行ってしまったらしく、すぐにわたしの番になった。こういうこともある。払うべきものを払ってしまうとさっぱりする。ついでに財布の中もさっぱりした。今月はなにごとも自粛だ。

 

 今日五月八日は七十歳の誕生日。自分が七十のじいさんになるなど想像もしていなかったなあ。祝うほどのことでもないが、今晩は鮨でも買って菊水の純米酒をちょっとだけ飲むことにしようか。おかげさまで、それくらいには体調も回復した。
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2020年5月 7日 (木)

救援物資再び

 午後、どん姫(娘)夫婦が救援物資を持ってやって来た。食糧や飲み物、マスクにアルコール消毒一式など。あがってもらうのは、いまは残念ながらやめておくことにした。玄関口で互いにマスクのまましばらく話をする。

 

 心配が無くなったらお礼の祝宴を張ることを約束して名残惜しいけれど見送った。嬉しいなあ。体調も良くなった気がする。
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重いですよ!

 宅急便のお兄さんが「重いですよ!」、と言って段ボール箱を手渡してくれた。息子からの救援物資が送られてきたのだ。食料品ばかりでなく下着まで、さまざまなものがぎっしりと詰めこまれている。しばらく買い出しをしなくても、これでしのげるほどだ。有難いことである。

 

 寝付きはあいかわらず悪いけれど、深く眠れるようになった気がする。夜中に目覚めるけれど、無理に目を瞑ったままにしているといつの間にか眠れる。ほぼ平熱。古い体温計は平熱になると計るたびに少しずつ違う体温を示す。頼んでいた体温計はまだ配達されない。

 

 身体の中のまがまがしいものはほとんど出て行ったらしく思われるが、同じようなことを二度三度繰り返しているので油断できない。不思議なことにつらかった膝の痛みが減少している。階段の上り下りも苦にならない。少しだけ痩せたことで負担が軽くなっているのか、そもそも膝の痛みも熱に関係していたのか、どちらか分からない。

 

 万一の時のために、息子にさまざまなものの暗証番号や通帳の場所、印鑑のことを伝えておかなければならないなあ、などと思っている。後始末は大変であることをしばしば聞く。自分の親のことは弟夫婦がほとんどやった。
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2020年5月 6日 (水)

 ひょんなことで知り合った老人が(と云ったってこちらもすぐに七十のじいさんだが)実はフィクサーで、権力の裏で蠢く連中の暗闘に巻き込まれてしまい、こちらは華麗にその危機を切り抜ければ痛快なのだが、ただうろたえておろおろするばかり・・・。どうしようと思っていたら、遠くでゴロゴロと鳴る雷の音で目覚めた。どうも変な夢を見たものだ。外を見るとやや強い雨。気がついたら二時間ほど寝ていた。

 

 昨夕くらいから、体調がほぼ復してきたので、ニュースの合間に録りためた紀行ものやプライムニュースやドラマなどを片端から観ている。新しく始まったWOWOWの『FBI捜査官』というシリーズはテンポが速く、期待通り面白い。『銀河英雄伝説』は次回から『イゼルローン攻略』の前後編である。楽しみだなあ。

 

 イゼルローン回廊は宇宙に存在する隘路で、後略の要なのである。宇宙戦争物のシミュレーションゲームが好きで、もっともすきだった「シュヴァルツシルド」シリーズはもちろん、「銀河英雄伝説」もパソコンゲームになっていて、このイゼルローン回廊をどうするかが勝敗の鍵になることが多かったものだ。

 

 ドラマやニュースを片端から観たあと、最近NHKBSで放映された『夜の訪問者』を楽しんだ。チャールズ・ブロンソンが大好きで、彼の出た映画は遡ってずいぶん観たものだ。『雨の訪問者』が好きで何度も見たが、この『夜の訪問者』は大昔に一度観たきりで、話を忘れていた。あまり複雑な筋でないし長い映画でもなかったからそこそこ面白く感じた。

 

 アラン・ドロンのようないい男系ではない男臭い系譜の俳優がお気に入りで、ジャン・ギャバン、リノ・バンチュラ、チャールズ・ブロンソン、ジャック・パランスなどが頭にたちまち浮かぶが、その話はまたあらためて書くことにする。
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現状把握には

 指針を立てるには現状把握が必要である。現状把握には信頼性のあるデータの蓄積が必要である。新型コロナウイルス感染が拡大しているのか終息に向かっているのか、どの時点でどんな基準で緊急事態を緩和するのか、それが分からなければ判断できるわけがない。

 

 そのためにPCR検査を拡充することが必要であることは衆知のことで、その検査体制があまりにも脆弱な日本の体制を批判されて政府を代表して安倍首相はその整備に全力で取り組むと約束した。それから二ヶ月経って、当初より増えたとはいえ、なんと人口あたりでいまだに世界的に最低レベルのままである。検査ができなければデータが取れず、データが無ければ現状把握ができず、結果的に緊急事態の緩和をいつにするのか目安を立てることなど出来ようはずもない。

 

 このままではいつまでたっても自然に終息するまで今のまま緊急事態を延長し続けるだけである。西村大臣の無能ぶり(二言目には専門家会議に聞いてから、と言い逃れする)に呆れているが、さらに西村大臣が頼る専門家会議は問題点もまとめられず、具体的な指針も示せずに小田原評定を繰り返して抽象的な観念論を垂れ流しているだけに見える。データが無ければ具体的なものが示せないのはあたりまえだ。

 

 繰り返すが、安倍首相は全力で検査数増加に取り組むと約束したけれど、結果的に約束を破っている。言葉でそれを認めているのに、何の打開策も示せていないのは本当に問題を認識しているとは思えない。自分が何回「検査数を増やす」と言ったと自覚しているのか。

 

 私はつい先日、実際に高熱を発して病院へ行き、隔離されて検査を受けた。その検査はCT検査などで、肺炎であるかどうかの検査である。そのときにPCR検査だけは病院ではできないから、高熱がさらに続くようならそのときは保健所乃至保健センターへ相談するしかないと言われた。すぐ頼めるだろうか、と訊くと、首をかしげられたのである。その病院は一時新型コロナウイルス患者が急患で入ったために閉鎖された経緯がある。そのときに当然関連の人はすべて調べたと思ったら必ずしもそうではなかったと思われるような歯切れの悪さだった。

 

 そのときの印象から、入院よりもPCR検査のほうがハードルが高いようなイメージを持ったのである。何なのだこれは、と思った。その眼で連日の政府や専門家会議の発表を見ていると、いったいこの人たちはなにをしているのだろうか、という腹立ちを感じている。

 

 いまは野党のほうが的確に問題点を指摘している。この混乱ぶり無策ぶりを続けていれば、急激に安倍政権の支持は低下するだろう。国民が一度そっぽを向けば、しばらくは取り返しがつかないことの恐ろしさを彼らは感じないのだろうか。与党はコロナと一緒に終息しようというのだろうか。
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2020年5月 5日 (火)

暑さが心地よい

 息子から連絡があって、食べものなどを送ってくれたらしい。具合が悪いのを知って、こちらへ来るというのを大丈夫だから来ないように伝えてあったのだ。世の中が定常に戻り、私の体調も万全となってから、ゆっくり会えばよいので、あわてる必要はない。

 

 発熱の後遺症でまだ身体に力が入らないような感じだが、ほとんど平熱に戻った。排尿痛もなく、濁りもなく色も薄いから、抗生物質によって泌尿器系の炎症は治まったようだ。

 

 体力が落ちたせいか、本来暑いのが苦手なはずなのに夏日の暑さが心地よい。
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風呂でも考えた

 日曜昼のビートたけしの番組で、コメンテーターの元厚労相技官の女性とそのまんま東がほとんど口げんかレベルの激しい言い合いをしていた。キャスターの阿川佐和子もビートたけしも呆れて互いに顔を見合わせるポーズをして見せたが、二人の言い合いは止まるところを知らない。この元厚労相技官の女性はときどき見るけれど、その自己主張の強さは田中陽子より強烈かも知れない。田中陽子には少なくとも自分が色物であるという自覚があるから、そこに多少の哀しみと滑稽さという救いがある。ともにお近づきになりたくはないが。

 

 彼女の主張は「緊急事態を続けていても、ウイルスの存在が自然に消滅することはない。抗体を持った人をふやすための方策に切り替える必要があって、だから緊急事態の延長はすべきではない。それでは一度波が収まったように見えても第一波よりも大きな波が来てしまう」というものだ。これに対してそのまんま東は「医療体制が逼迫している現状では、緊急事態延長は仕方がない」というものである。

 

 最終的な世界は彼女の言う通りの世界として落ち着く可能性が高いことは理解できないことはない。しかし彼女の激舌を聞かされると、彼女の意見を聞き取ってその意味を考えようという気になれない。彼女は論争ともいえない言い合いには勝つだろう、彼女の見幕に最後は相手が沈黙するからだ。しかし彼女に賛意を示すひともいなくなる。

 

 しからば彼女の強い主張はなにを目的としているのか。自分の意見の賛同者をこの世からなくすために激しく語っているのか。不思議な人である。どうして厚労省の技官をやめたのか邪推したくなってしまうが、なにも知らないのでなにも言えない。

 

 ここからさまざまな連想が始まっていて、そのことをずっと考えているのである。日本が他国に著しく検査防疫体制が劣っている現状についての、厚労省や財務省の責任について。あの女史は在職当時の自己責任を逃れるために叫んでいるのではないか。そこから抗体保持者を増やすことで終息させようという手法の中にひそむ、弱者や老人は多少死んでも仕方がないという気持のこと。さらにそこには積極的に死んでもかまわないではないが、というあのやまゆり苑事件の犯人のような心情へは紙一重ではないかと言うこと。反対に、医療従事者や患者に対する正義を旗印にしたいわれのない差別に潜む心情とは何か、と云うこと。またデフレ経済と経費節減、その結果としての保健所の削減、緊急時用の医療機器の備蓄の不備の関係も考えている。

 

 その他さまざまに思いが展開しているのだが、もともとザル頭な上に、いまグルグルもしているので、考えがまとまらない。いい加減に風呂から上がろう。
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2020年5月 4日 (月)

頭がぐるぐる

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 マスクをつける利点が一つあった。一週間あまり伸ばし放題のむさ苦しいひげ面が目立たないことである。歩いて二分のところにスーパーがあるので、買いだめする習慣が身についていない。一時期の39℃近い高熱が続いたときから見ればかなり下がってきたけれど、まだ平熱には戻っていない。その熱のある状態でふらふらと食べものを買い出しに行く。熱があってつらいのに食慾はあまり落ちていない。マスクが見せたくないものをかなり隠してくれていると自分では思っている。

 

 使っている体温計はいつ買ったものか記憶に無いほど古いもので、あまり信頼性が感じられない。スーパーの中の薬屋で聞いたが「済みません、入荷がまったくないので切らしています」とのこと。界隈にドラッグストアが三つほどあるのを承知しているがそれらを訪ね歩く元気はない。ネットで探して手頃なものを購入手配した。到着予定日がずいぶん先だ。しかし翌朝には発送案内があった。もう着くだろうと思う。

 

 やや熱があるという中途半端な状態だと、ついおとなしく寝ていられなくて起き出してしまう。ごそごそ何かして居るとふらふらしてくる。横になるとしばらくウトウトして、目覚めると少し楽になっていてまた起きだして、の繰り返しである。よく夢を見る。高熱のときには、子供の時から高熱の時お決まりのパターンの悪夢を見ている。それが少し楽になったら好い夢も混じるようになって、夢で体調が分かる。とにかく頭がぐるぐるして落ち着かない。
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偽陰性患者からの感染リスク

 昨日ぼんやりバラエティニュースを見ていたら医療専門家と称する人(そう称するのだから専門家なのであろう)が、再感染による発症の事例が見られるのではないかと問われて、「再感染というよりも、症状が改善し、陰性と判定されたものが、実は喉の奥にまだウイルスが潜んでいるのに検出されなかったいわゆる偽陰性状態で、それが再活発化したものだと思う」と説明していた。さらに「喉の奥に潜んで一ヶ月も生き延びることがあり、その間に感染させる可能性がある」というのだ。

 

 二週間症状がなく陰性の結果が出ても、さらに一ヶ月は人に感染させる可能性があるということである。この説明が事実ならいまの隔離対策を根底から見直さなければならないように思うがどうなのだろう。どこまで検証された事実に基づいた根拠のある発言なのか、この言葉で生ずる不安の波及効果がどれほど絶大なものであるのか、その責任をとる覚悟があるのか聞いてみたいものである。

 

 自分の出番があると嬉しくなってついオーバーにいってしまうのは人間の性だが、専門家の言葉には責任がともなう。芸人コメンテーターと同じレベルの思いつきで言ったのであろうか、それとも本当の話なのか、どちらにしても由々しきことである。本当の話なら隔離は一ヶ月では足らないというとなのだから大事である。無責任な発言ならその責任は本人がかぶるだろう。世の中に感染者とそれ以外、という大きな差別という火種を残して。

 夜明け前に目覚める。排尿は濃い赤茶褐色。いわゆる血の色であるが、前日までの濁りはないようで、抗生物質が効いていると思われる。再び眠りについたら激しい発汗。発熱しているらしい。ペットボトルにポッカレモンを垂らし、塩をひとつまみ入れた水を飲む。檸檬の味を感じる。脇に重ねて置いてあるあたらしい下着に着替えて再び寝る。味覚に異常なし、呼吸にも異常はないが喉に少しだけ違和感がある。咳はない。まだ病との戦いは終わらないようだ。

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2020年5月 3日 (日)

はぐらかせれば何とかなるというものではないのに

 西村大臣がさまざまなメディアに登場して政府の現状を説明している。連日激務の中で、窓口としてご苦労されていることはよく承知をしているつもりだ。しかし、それでもあえて云いたい。どうして大事な質問をぶつけられるとその質問にそのまま答えずにはぐらかすような話をしたり、すでに前提になっていていまさら聞いてもしようがないことを延々と語って時間をつぶすのだろうか。

 

 国民の不満と不安を払拭するためになにを明確に答えなければならないのか、それが理解できていないとしか思えない。なにしろ鋭い質問が西村大臣の胸に届いているように見えないのだ。二言目には専門家の意見を聞いて、と云うばかりである。これでは無能といわれても仕方がない。この悪い癖は国会で身についたものだろか。はぐらかし、無用のことをいって時間稼ぎをして責任ある答えをしない。国会ではないからメディアのコメンテーターも西村大臣の苦労も理解していてそれ以上突っ込まないことが多い。だから常に煮え切らないことに終始してしまう。

 

 現状がどうなっていて、休業に対してどんな補償をしていくのか、どういう休業終了の目安を考えているのか、国民が知りたいのはそのことで、肝腎のそのことがアイマイだから不満や不安が蓄積する。だから大阪府知事から「で口戦略の指針が示されればそれに従うつもりだが、いつまでも提示されないなら、われわれ独自に立てた戦略で動くしかない」と面と向かっていわれるのだ。吉村知事は大向こう受けなど狙っていっているわけではなく、府民のことしか念頭にないのが誰にも分かっているから、西村大臣との覚悟の違いが際だって見えた。

 

 ところでいまのところどこからも聞こえてこないのだが、天皇陛下がこの危難のなかにある国民をどう思っているのか、どうしてなにも言葉を発しないのか、不思議に思っている。国民の祭主である天皇陛下は古代より、疫病などに対してそれなりの祈りを神に捧げて来られたはずであるが、そのような神道的行為をしたとも伝えられていない。上皇陛下が天皇陛下だったらどうしたろうか、と想像したりする。国民の内心にその不審はないのだろうか。肝腎なときにいてもいなくてもいいなら、皇室の存在の意味は何か。
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こんなときに個別セールスに回る馬鹿

 熱でフウフウいっているときにチャイムが鳴った。誰かが訪ねてくる可能性はないし、ネットで買い物をした覚えもない。キャッチホンで見ると制服のようなものを着た若い男が立っていて、なにか言っているが良く分からない。仕方がないので玄関口を開けると、滔々と電気料金の安くなる仕組みの説明を始めた。

 

 マンションの管理組合に筋を通して戸別訪問をしているのか、こんな時期に感染リスクをたかめるような仕事をさせてどんな会社なのか、と少しきつい言い方をしたらシュンとなった。よく見ると向こうの方に上役か先輩らしき姿が見え隠れしている。新人研修なのかも知れない。

 

 なにを考えているのだろう。私のところへ来るまでに何軒の家の戸を叩いたのだろう。こんな馬鹿な仕事をこんな時期にさせる会社の名前を聞くのを忘れた。
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2020年5月 2日 (土)

激しい震え

 自分の身体に変調が起こる予兆を感じるのは、実際に体内で何かが進行しているのだから、当然といえば当然なので、だから「心配していたことが・・・」などという文章を書いたのだ。しかしこれほど強烈なものが来るとは考えなかった。

 

「死ぬかと思った」などという大げさなことを書いたのは高熱が出たこと、新型ウイルスに感染したのではないかという不安だけが理由ではない。

 

「心配していたことが・・・」を書いたあと、夕方になって発熱を感じた。そのときの体温37.5度、横になってしばらくしたら激しい悪寒がする。さらに熱が上がるのだな、と予感した。とつぜん身体が激しく震えだした。腕から先と膝から下以外の全身の筋肉が痙攣するように震えるのである。意識ははっきりしている。一体どうしたことか、どうしたらいいのか、などとぼんやり考えている自分をまた別の自分が見ているような不思議な感覚がある。これはどうも尋常ではないらしい、救急車を呼ぶほうが良いだろうか、などとも考える。しかし立ち上がるどころではない。

 

 しばらくして、その激しい震えにインターバルができるようになった。やがてインターバルの回数が増え、震えも波がひくように消えていった。一時間足らずのことだった。まったく経験の無い震え、と云いたいところだが、子どもの頃(小学校六年生の時)に経験がある。中耳炎に処方された新薬の抗生物質の副作用で死にかけた。「お母さん、なんか変だ」といいながら腰を抜かしてへたり込み、とつぜん震えだした息子を見て、母が近所中から湯たんぽを集めて身体を温めて、震える私を上からのしかかって押さえた。意識はあるのに手足の先から冷たくなっていくのがはっきりと感じられた。「死ぬのかなあ」とそのときに思った。そのときにも途中から震えにインターバルがあった。

 

「死ぬかと思った」というのはそのときのことを既視感と共に考えたからで、大げさな言葉だが、私には実感だったのだ。
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小康状態

 熱発してから、今朝初めて体温がわずかに38℃を切った。足許がふらつくけれど、若干朦朧としていた意識がしゃっきりとしてきた。昨日は見る気もしなかったテレビをつけて、ニュースなどを見ながら朝食をとる。味覚に異常はなく、咳もないし、息苦しさもない。万一のこともあるけれど、いまのところやはり新型コロナウイルスではないのであろう。

 

 テレビを観たり、音楽を聴いたり、本を読んだりするのは案外エネルギーを必要とすることを実感した。昨日まではすべて受け付けなかったのだ。

 

 たまった洗濯物を洗う。流しの洗い物を洗う。昨日は冷たい水がつらかったが今日は大丈夫。汗をかく度にこまめに着替えしていたので洗濯物はたっぷりで、一回では洗いきれない。一息ついてお茶を飲み、いまブログを書いている。まだ平熱にはほど遠いので、このあと再び横になるつもりだ。
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2020年5月 1日 (金)

死ぬかと思った

現在の体温38度5分、半分もうろうとした意識も少しマシになった。これでも熱はちょっと下がったのだ。 本日病院へ行く。昨夕から高熱が続いていることを伝えていたので、隔離診察である。泌尿器の抗生物質だけ送ってもらおうとしたのだが、つらいだろうけれど病院へ来いという。その時の体温は38度9分、立ち上がるのもつらい状態であるが、這うようにして駐車場に行き、車で出かける。 駐車場で待て、といわれる。しばらくしたら防護服の看護師二人がやって来て、露払いのようにその辺にいる人たちを、どけ、と追い払う。何事かという目で見られているのだが、何となく特別扱いがうれしい。 問診の後、胸のCTスキャンをする。肺に影がないので、多分新型コロナウイルスではない、という。薬を処方され、這うように帰り、そこでバタンキューというわけにはいかないからつらい。料理をするする元気はないから二食分の弁当を買い、パンも買う。これで明日の朝まで大丈夫だ。 闘病記は元気になったら書く。

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