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2020年6月

2020年6月30日 (火)

内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)

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 哲学や思想というと、誰か偉い人の考えたことを学んで、それによって自分の価値観や生き方の指針にするためのもの、などと考えがちだが、それでは宗教と同じである。そうではなくて、そのような先人の知恵としての知見を参考にするのは必要なことではあるが、あくまでも哲学といい思想といい、自らのための、自ら獲得したものでないと意味がないと思う。

 

 マルクス主義を信奉し、それによって正義と悪を判断する、などというのは思想の奴隷以外の何物でもない。北朝鮮を見ても、中国を見ても、思想の奴隷であることが歴然と見えるのに、その政権下にいる人たちの多くには精神の自由が失われていることへの自覚が見られない。では日本で、アメリカなどの欧米でどうなのか、と見れば、他人のアジテーションに何の疑問を持たずに付和雷同している者があふれかえっている。

 

 以上のことはこの本に書かれていることではなくて、ニュースで見る世界について私の感じていることである。
 
 内田樹老師の本を整理していたら、なんと100冊ほどたまっていた。もっとあるかもしれない。読んでいない本はない。再読したい本が大半だが、読めばそれに耽溺して頭の中を組み替える作業が伴うので、エネルギーと時間が必要になる。再読の可能性のない本は処分することにして、読みやすそうな本の再読を適宜行うことにした。その第一弾がこの『街場の現代思想』という本である。

 

 階級と階層という、似ているが違う意味の言葉がある。階級については、例えば日本の士農工商みたいなもので、すでにほとんどの世界から消滅しているとみていい。しかし厳然としてあるのが階層である。そのことについて、老師は文化資本というキーワードを用いて超えられない階層差の壁を説明している。厳密に言うと違うかもしれないが、養老孟司師の『バカの壁』の壁はその文化資本の差の階層差の壁だと考えるとわかりやすい。

 

 その壁の意味、そしてそれを乗り越えようとする努力こそがその階層差を明確化するという矛盾について考察していて、非常に興味深い。

 

 結婚について、離婚について、学歴についてなどなど、人生相談の体裁をとりながら質問に答える形で、一般的な共通認識とはいささか異なる回答を示しながら、全く新しい世界の見方を教えてくれる。現代思想、などと言っても極めてわかりやすい言葉だけで語っているから、読み取りたいと思う気持ちさえあれば、読後、世界が全く違って見えるようになるかもしれない。
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ドン姫来る

 昨日は、一ヶ月半ぶりにドン姫がやってきた。前回は高熱でダウンして、死ぬかと思ったのがようやくなんとか持ち直しかけたところに、見舞いで夫婦でやってきたけれど、万一のこと(コロナの疑いが完全にないわけではない)があるので、玄関口でソーシャルディスタンスをとって会話しただけだった。今回はドン姫だけだが、夕方までゆっくりと話ができた。

 

 家族のこと(戸籍だけの妻のこと)でいろいろ愚痴を言いたいこともあったが、ドン姫にとっては複雑な思いもあるだろうと思い直して、現状だけ説明した。ドン姫はほおが少しふっくらしている。「太ったか?」と訊くと、「あまり外に出ないし、運動不足で・・・」とのこと。マッサージの仕事をしていたのだが、マッサージの仕事はかなりの肉体労働で、いまはやめているので運動不足なのだ。もし仕事を続けていたとしても、コロナで仕事ができなかったことだろうけれど。

 

 名残惜しそうに夕方旦那のところへ帰って行った。父親の衰えを多少は感じたらしい気配であった。できればもう少し頻繁に様子を見に来て欲しいけれど・・・などと思うけれど、それは私の気の弱りか。
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2020年6月29日 (月)

飛蝗(ひこう)

 飛蝗といい、蝗害といい、蝗旱(こうかん)という。蝗(こう)とはイナゴのことだが、この飛蝗や蝗旱でいう蝗とは、いまアフリカから中東、そしてインドにかけて猛威を振るっているサバクトビバッタのことである。日本でも蝗害はあって、記録も残されているが、古来蝗とバッタの区別があまり明確ではないので、日頃目にする稲につく害虫としての蝗の害とまとめてひとくくりにしていたのであろうか。蝗旱は飢饉の原因となる蝗害と旱(ひでり)の二大災厄をまとめていう中国の言葉である。

 

 そういえば『エクソシスト』というオカルト映画があるが、これには続編として2~4がある。原題として続編だったのは3までで、4は『エクソシスト ビギニング』が元の名前のようだ。怖い映画が嫌いな私だが、この全てを映画館で観ている。そして、最も好きなのがあの名優リチャード・バートンが主演した『エクソシスト2』なのだ。この映画は隠れた名作だと私などは思うがあまり評価されていない。この映画の悪魔の正体がじつは・・・と説明してしまうと、これからその映画を観ようという人にはネタバレになって申し訳ないことになるけれど、そう、飛蝗であり、つまりサバクトビバッタなのである。

 

 古来からの災厄の一つである蝗害が何十年かぶりに大発生して猛威を振るっているのは、もちろん異常気象などが関係しているのだろう。新型コロナウイルスはどうだろうか。これらをばしめとして災厄が増えているような気がするのは杞憂だろうか。人類が世界的に騒がしいのはそんな不安を感じているからではないのか。
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池波正太郎『鬼平犯科帳10』(文春文庫)

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 経験的に、この世の出来事は数学的な確率よりもずっと高い確率で、あり得ないような偶然が発生するように思う。さらにそのような偶然が重ねて起こることすらあって、もし物語にそのようなことを書けば、できすぎだ、と批判されるが、現実にはないことではない。事実は小説より奇なりといわれる由縁である。

 

 それは多分社会というのがさまざまなしがらみのなかで動いているので、それぞれの事象は無関係に起こっているようであるけれど、じつは人には見えないけれど、互いに関係していることが多いからだろう。そのような関係が浮かび上がるような背景が描かれると、偶然が必然になって納得されることもある。そんな話が『犬神の権三』という短編だ。

 

 勘違いして世の中を生きている人間というのがいて、大変な迷惑を被ることがある。そういう人間はほんの一握りなのだけれど、多くのまっとうな人間のなかで勝手に振る舞うので、あたかもたくさんいるように感じさせられたりする。その言動が他人にとって理解不能な人間を狂人という。狂人はまともな社会生活を営むことができない。勘違いして生きている人間は、ときに狂人に近い。

 

 長谷川平蔵はある男を追跡しているところをそんな勘違い男に妨害されてしまい、見失ってしまう。さまざまないきさつがあったあと、その勘違い男はついに発狂して市中を白刃を振り回す事態となる。その刃に奇禍を受けた男がなんと・・・というのが『追跡』という話。

 

 この巻ではさまざまな人間が知らず知らずに関わり合ってその結果が偶然として生じた話がいくつかあり、そこに人間が生きていることの哀しみとおかしみが感じられる。これをITで予測する時代が来るのだろうか。
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2020年6月28日 (日)

柳ジョージを聴きながら

 昨晩は映画(『キラー・セッション』)などを観たりしたので、なかなか寝付けず、ようやく寝付いたのに三時頃目覚めてしまった。そのまま横になっていればまた寝られるはずなのに、つい横の本棚から『ザ・清輝』などという本を引っ張り出して拾い読みし始めてしまい、読み疲れてうとうとと朝寝をすることになった。前夜風呂に入りそびれていたので朝風呂に入り、全身をいつもより念入りに洗い上げてようやく人心地がついた。

 

 清輝、というのは花田清輝(1909-1974)のことで、たびたび評論家たちに批判的に取り上げられるのを見聞きしているうちに気になっている文芸評論家であり、作家である。代表作の『復興期の精神』だけは読了しようと思っている。

 

 リズムが多少乱れたけれど、今日は雨の日曜日、読みかけの本を置いて柳ジョージのアルバムなどを聴いている。彼は私の大好きな歌手で、特に好きな歌は『青い瞳のステラ』。海辺の白いペンキに塗られた小屋の前に立つ『俺』の回想と眼前の風景が歌われた歌詞が胸にしみる。

 

 柳ジョージといえば・・・といつものように連想する。萩原健一が主演した連続テレビドラマ『祭ばやしが聞こえる』の主題曲を柳ジョージが歌っていた。はじめは萩原健一自身が歌っていると思ったが、あまりにもうますぎる。そこで柳ジョージという歌手を知った。このドラマではいしだあゆみが共演していた。歌手としてのいしだあゆみはそれほど思い入れがないけれど、俳優としてのいしだあゆみは高く評価している。

 

 グループサウンズ時代の萩原健一には全く興味がなかったけれど、たまたま観た斉藤耕一監督の『約束』という映画(岸惠子共演)で興味を持った。そのあと市川崑監督の『股旅』、神代辰巳監督の『青春の蹉跌』(原作・石川達三、共演・桃井かおり)などを立て続けに観て俳優としての彼を評価するようになった。だから倉本聰の『前略おふくろ様』(主演・萩原健一)は私の大好きなドラマであり、第一シーズン、第二シーズンともビデオをDVDにしていまもコレクションとして残してある。

 

 いしだあゆみといえば、同じく倉本聰脚本の『駅』(監督・降旗康男、主演・高倉健)や『北の国から』での演技は素晴らしくて・・・などと連想は果てしないのでこのくらいにしておこう。
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読書計画

 この世にはたくさんの本があって、そのほんの一部を読み飛ばしてきた。読めば読むほど知りたくなるのがこの世界で、中国の文化大革命に興味を持てば書店の店頭から関連の書物をかき集めた。中国の歴史に興味を持てば、通史から近現代史を何種類も揃えて本棚に列べている。こちらは読み切ったものが多い。

 

 紀行文の面白さを知れば、中国のもの、日本のものを目につく限り集めた。菅江真澄や橘南谿の本を読んで、その足跡を尋ねて東北を走り回ったこともある。ほかにも随筆に関しては、その面白さを知ってからは古今のものを揃えて楽しんでいる。

 

 若いときは時代小説やミステリー、SFを片端から読んでいたけれど、いまはそれらは主食ではなく、おやつ代わりになっている。それなのに好みの作家のものを買い続けたので、未読の本の山が残っている。

 

 いま、特に面白く読んでいるのが文学評論で、江藤淳をようやく一通り読み終わりかけているところであり、並行して読み比べているのが奥野健男の評論集だ。こちらは八巻あって、まだ第二巻にさしかかったところである。戦後の日本文学の作家たちの位置づけが評論家によってさまざまであり、その評論を楽しむことで作家と作品に強く興味を覚えている。

 

 乱暴にいえば、奥野健男の世界観では片側の端が太宰治で、反対側が三島由紀夫のようだ。そのなかに作家たちがひしめいている。いまは大江健三郎や島尾敏雄が評論されているところを読んでいる。そうなると当然のことながら、彼らの本が読んでみたくなる。私もいくつかの作品を読んでいるが、どうも読むべき本はほかにたくさんあるらしいのだ。

 

 私がそれなりにいまのペースで本が読めるのは、せいぜいあと10年ほどであろう。それならば読める本は物理的に限度がある。ある程度優先順位をつけなければいけないなあ、と感じている。長期的、中期的、短期的な読書計画を立てる必要がある。計画を立てることは嫌いではない。計画通りにいったことはいまだかつてないけれど、計画を立てることそのことを楽しもうかと思っている。あるべき自分を夢見るのも一つの楽しみなのだ。これって未来完了形の楽しい夢想だよね。
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2020年6月27日 (土)

予想していたこと

 マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を中学二年生のときに読んだ。河出書房(当時は倒産前だから新社は付いていない)の世界文学全集で全二巻のその小説を夢中で読んだ。あれほど夢中になったのは生まれて初めてのことで、読み終わってしまうことが残念に思われるほどだった。

 

 そこに描かれているアメリカ南部の世界は、思えばまことに平和で幸せな時代だった。そこでは黒人は奴隷である。しかし太った黒人の乳母は自分の仕事にプライドを持ち、毅然としていて、スカーレット・オハラに若い女性のあるべき生き方をきちんと教え諭す。二人には差別意識などみじんも意識しない信頼関係があるが、そこには厳然とした階層が存在している。

 

 その黒人の乳母がそのようなときに「解放してやる」といわれたらびっくりすることだろう。しかしもちろん南北戦争が終わった後であれば、当然のことだと思うに違いない。時代により、また立場によって意識は大きく変わり、価値観も大きく変わる。

 

 もちろん小説のなかで激しく虐待されている黒人もたくさんいる。アフリカ大陸から奴隷船で連れてこられる黒人たちがどのような過酷な運命をたどったか、それも描かれている。ざる頭の私がこの本で知ったことは少なくない。

 

 映画の『風と共に去りぬ』は五十を過ぎてようやく観た。原作でのアシュレーのイメージが不鮮明だったのが、映画でようやく鮮明になったのはありがたかった。

 

 アメリカでこの映画を人種差別的だとして避難する動きがあり、配信会社が配信を停止したというニュースを見た。銅像を破壊したり撤去したりする騒ぎが続いていたから、いつかはこういうことになるだろうと予想していた。次に起こるのは、西部劇の批判だろう。先住民族である、インディアンをバッタバッタと撃ち殺す西部劇が批判されないはずはない。こうしてアメリカは自国の成り立ちそのものを根底から批判していくことになるのだろうか。

 

 それがアメリカ人である自分自身の存在そのものに関わるものだという自覚の元に行われるのならさいわいである。そうではなくて、他罰的に、自分は正しいという思い込みだけでそのような批判をしているのなら、まさに文化大革命時代に文化人に自己批判を強要した群衆と同じで、じつは自己否定の罠にはまるだけのことなのだが、そういう連中は決してそのことに思い至ることはないことであろう。反知性主義のトランプがアメリカにもたらしたものは、文化、歴史、知識の否定である。私には、いまはアメリカに吹き荒れる文化大革命の時代に見える。深刻な事態だと思う。
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池波正太郎『剣客商売 待ち伏せ』(新潮文庫)

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 シリーズの第9弾。剣客として生きていれば、さまざまな敵ができてしまう。それを打ち倒し打ち倒しして生きるのが剣客の宿命であり、それを修行と思わなければ剣客商売は成り立たない。常在戦場であり、いつでも死を覚悟しているのが剣客である。

 

 暗夜、とつぜん親の敵として襲われた秋山大治郎。それが人違いであったことを知るのだが、待ち伏せされていたということは、大治郎が訪問した場所から付け狙われていたとではないか、と察した大治郎は間違えられた人物を探す。その人物と会って話を交わした秋山大治郎は、その人物に敬意を持つ。

 

 その話を聞いた秋山小兵衛は、その背景を感じとり、関わるな、と息子の大治郎に釘を射すのだが・・・。親子二人の旧知の人物の裏面を知ることになる苦い話が『待ち伏せ』。

 

 うろ覚えだが、池波正太郎の数少ない現代小説に『原っぱ』という作品があったはずだ。それを連想させるような話が『冬木立』。切ない話で、人は境遇でガラリと変わってしまう。秋山小兵衛がその境遇から救ったはずの女が思わぬ末路をたどってしまう。自分が手出しをしたことが却ってその女の生きる支えを奪ったかもしれないと感じて小兵衛は落ち込んでしまう。

 

 人の気力は些細なことで萎える。いま私もそれを強く実感している。

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2020年6月26日 (金)

ささやかな記念すべき日

 本日、私のお粗末なブログの累計アクセス数が50万を超えた。2011年から始めているので、10年目になる。私のように、毎日ほとんど2回以上更新する人は少ないようで、この記事が9047回目、我ながらせっせとよく書いたと思う。

 

 元々ぼんやりと妄想に耽ることが多いので、さまざまな考えが泡のように浮かんでは消えていく。その浮かんでは消えていくものを毎日一つ二つ書き残したいと思っていた。そして考えを書き残すことで、考えを多少は深化させ、さらに書くことの練習にしようと思った。ときどきは自分なりに消えてしまってはもったいないと思うような考えがないでもないとうぬぼれていたが、書いてみるとどこかで読んだこと、聞いたことのあることの受け売りのようなものだったりするのに気がついて、ガッカリしたりもする。

 

 しかしそれを自覚することは、自分のオリジナルを考えるための出発点みたいなものだとも思っている。
 
 ココログも、改悪以前はブログ広場というのがあって、更新されたブログが一覧できるようになっていた。時間のあるときに興味を持った記事を拝見した。そのブログを継続して見るようになったものは数多い。自分のブログを見てもらいたいと思う気持ちはあるけれど、さまざまな人のブログを見て自分と違う考え、ものの見方を知ることはそれ以上に楽しいことである。

 

 そのブログ広場をなくしてしまって、ゲーム的なものを主体にしたことに憤り、失望して、ココログを去ってしまった人は多い。はっきり言っていまのココログはブログのための場ではなくなりつつある。私も失望したひとりだが、今のところココログから離れずにいる。それは愛着がないこともないし、操作に馴れているし、何よりほかに移ることの面倒くささを感じているからだ。私は横着でものぐさである。その面倒くささを超えて、嫌気がさせばこのブログをたたむことになるだろう。

 

 その大きな区切りがこのアクセス数50万だと考えていた。本当は5月の70歳の誕生日までにこの数字を達成したいと思っていたが、及ばなかった。今更ブログのアクセス数など何ほどの意味があるのか、という思いもないではないが、自分なりの区切りである。こだわりのなくなったいま、これからどうするか考慮中である。
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池波正太郎『鬼平犯科帳9』(文春文庫)

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 火盗改の長谷川平蔵の元へ自らの似顔絵を送りつけてきた盗賊がいた。鬼平への嘲笑であり、挑戦である。その男を雨引きの文五郎という。その似顔絵そっくりの男を、変装して巡回中に偶然発見した長谷川平蔵は後をつけるが見失う。しかしそのとき、自分と同様に雨引きの文五郎を追っているらしい男に気がつく。そのときの男を手がかりに雨引きの文五郎を捕らえるという話が『雨引きの文五郎』。

 

 いまは身を引いて堅気の暮らしをしている元盗賊の泥亀の七蔵は、ひょんなことから世話になった元お頭の死を知る。そしてその家族が不遇であることを知って一肌脱ごうと思うが、彼はひどい痔持ちで金を作る算段がつかない。それを陰ながら見守る鬼平、事件としてはささやかなものながら、人の情の深さ、ぬくもりを感じさせる『泥亀』。

 

 さすがの長谷川平蔵も勝てないような強敵が現れる。長谷川平蔵の若い頃の剣友である乞食坊主の井関録之助は、むかし大阪で金に困って殺しの依頼を引き受けかける。さすがに踏みとどまったのだが、そのときに暗殺されかかったことがある。その男を見つけた録之助が逆にその男に付け狙われることになって・・・。危機一髪のときに平蔵を救ったのは何者か、というのが『本門寺暮雪』。題名が好いではないか。情景が目に浮かぶ。

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2020年6月25日 (木)

モテる

 モテるかモテないかにこだわる人がいる。それが自分の値打ちを決める物差しであるかのようである。はじめ、冗談かと思って話を合わせていると、どうも本気らしい。

 

 私だって男だからモテたい気持ちがないわけではないが、そういうこだわりがないから、モテるための努力をしないので、結果的にモテたという経験がない。こだわる人はいつかモテるようになっていくのであろう。

 

 芸人になり、名が売れればモテるようになるそうだ。そう信じて芸人になろうとする人たちが多いというが本当だろうか。それなら名が売れたら、そういう機会を積極的に求めるのは成り行きであろう。

 

 昼過ぎに、ぼんやりテレビのバラエティニュースを見ていたら、ドラマをやっている局とNHK以外はみな某渡部氏の話を報じていた。安直に交渉を持てる女性というのがいるらしい。そういう女性はそういうことを暴露したりしない安全な女性のはずなのに・・・などと嘆くコメンテーターもいた。普通は秘密にするものらしい。

 

 芸人やプロのスポーツ選手などになると、そういうことが簡単に可能になるものらしい。これがモテることかどうか知らないけれど、目的がここにあるなら願いが叶うわけである。これを知って、芸人になりたい人はますますモチベーションが上がることだろう。頑張ってください。
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会いたいけれど・・・

 大阪の親友とは最低二ヶ月に一度は天王寺で会食するのだけれど、二月以来ご無沙汰である。天王寺で会食するのは隣の人と肩が接するような入れ込みの安い居酒屋で、そういうところで飲むのはまだ不安の方が大きい。

 

 先日は群馬の友人に声をかけてもらいながら、体調が万全ではなかったので、湯治の帰りに立ち寄らないで帰宅した。

 

 飛鳥や斑鳩などの奈良散策を一昨年から楽しんでいるのだが、それもいま中断している。車ならいいが、近鉄で行くのが億劫でもある。その足で奈良の、いつも海外に一緒に行く友人たちと会食するが、いまはその機会もない。毎年必ず行くことにしている海外旅行を、今年はどうするのか打ち合わせがしたいと思っているのだが。

 

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 独り暮らしがずいぶん長いので、寂しいのには馴れている。とはいえ、寂しくないわけではない。気が弱れば人が恋しくなることもある。同時に体調が万全ではないと、わざわざ出かけることの煩わしさも感じてしまう。

 

 なんだか宙ぶらりんの、自分の生きている意味を見失いそうな心境にいる。意気地のないことだなあ、と思いながらも、ときどきあることなので、いまにまたいつもの軽い躁状態に戻るだろうと思っている。

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2020年6月24日 (水)

信用できない

 感染者接触確認アプリの不具合が見つかったために、運用が停止しているという。それにしても日本のお役所の絡んだITの不手際、不具合はあまりにも多すぎると思う。人間だから間違いはある、というものの、ここまでお粗末な話が繰り返し報じられると、ITそのものについて不信感が高まるとともに、お役所やプログラムを組むIT専門家のレベルが低いのではないか、という疑いが生じてしまう。

 

 日本から見て三流国に見えるような国でも、すいすいとIT化が進んでいるように見えるのに、日本はどうなっているのか。そもそも日本はとっくに三流国、または四流国に成り下がっているのかもしれない。そして、それを知らないのは日本人だけかもしれない。海外からもあきれられているのではないか。

 

 ITそのものだけではなく、やる気がないから集中力を欠き、間違いを繰り返し起こす。すでに年金問題のときに日本のお役所のお粗末さを思い知らされたけれど、全く良くなっていないらしい。思えば厚生労働省というところは常にこのような不手際を報じられる役所であることを思い知る。うんざりしているのは私だけではないだろう。

 

 パソコンを持たず、キーボードに触ったこともない男がIT担当大臣などという、ふざけきった政府では、とうぜんの成り行きなのだろう。馬鹿につける薬はない。この場合の馬鹿というのは、自分が馬鹿だと気がついていない者をいう。そんな者、誰が信用するというのだ。
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洪水のおそれ

 ネット記事によれば、中国では6月に入ってから各地で集中豪雨が長時間続いており、四川省など24の省で洪水のおそれがあり、850万人以上が避難しているという。長江とその支流にもうけられた大小のダムの水位も上昇しており、小さな発電用のダムのいくつかはすでに決壊して下流の村などに被害が出ているというが詳細が分からない。豪雨の規模は戦後最大級だという。

 

 中国には9万箇所を超えるダムがあって、ほとんどが小型のダムであるが、その40%は安全性に不安があるらしい。そこでまた公然とささやかれだしたのは三峡ダムの危険である。突貫工事によって世界最大のダムを強引に造ったけれど、上流からの土砂の流入が止まらず、水位が上がり続けていて、ダムの耐用限度を超えるのではないか、と繰り返し懸念が伝えられていたところである。

 

 今回の豪雨で三峡ダムの水位は通常よりも147m上昇しているという。驚くべき数字である。これはすでに警戒水位をわずかながら超えていて、予断を許さないらしい。三峡ダムは設計上の問題も指摘されている。ダムにひずみがたまり続けて変形が進んでいるという情報もある。これが決壊すると想像を超えた大惨事となるかもしれない。常識的にはそのようなことが起きないことを願うが、中国だから、もしかしたら・・・などと思ってしまう。

 

 ダムのひずみは中国のひずみの象徴ではないか、などとこざかしいことを考えたりする。
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2020年6月23日 (火)

映画『スナッチ』を観る

 監督ガイ・リッチー、出演ブラッド・ピット、ジェイソン・ステイサム、ベニチオ・デル・トロほか、2000年イギリス・アメリカ映画

 

 どうも積極的に何かをやろうという意欲がない状態で、パソコンの囲碁ゲームや大戦略ゲームをやって時間を潰し、その合間に映画を観ながらゴロゴロしている。体調はなんとか小康状態というところで、自分の身心に自信がない気分だ。

 

 この映画には、チンピラ、悪人、極悪人、超極悪人がゴロゴロでてきて、それがさまざまに関わりながら血みどろの殺し合いをする。ブラッド・ピットがジプシー集団のようなトレーラーの住人で、異常な腕力の強さの男を怪演している。訛りが強くて、ほとんど言っていることが分からない、という設定であるが、それをとことん楽しんで演じていて、観ているこちらも楽しくなる。

 

 さらに面白いのは、切れのいいアクションが売りのジェイソン・ステイサムには全くアクションシーンがないのである。いつ爆発するのかと思って観ていたが、最後まで飄々としたチンピラ役に徹していて、それはそれでちゃんと映画として収まっている。

 

 コメディ映画はあまり好きではないが、これはコメディに属する映画といっていい。しかし、文句なしに楽しめたのは、出演している俳優の台詞回しと演技が、みな素晴らしいからだろう。これなら金を払って観る値打ちがある。
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映画『チャイルド・オブ・ゴッド』を観る

 監督ジェームズ・フランコ、主演スコット・ヘイズ、2013年のアメリカ映画。

 

 ヒッチコックの『サイコ』という有名な映画がある。アンソニー・ホプキンスが演じたノーマン・ベイツというサイコパスにはモデルがある。実在のシリアルキラー、エド・ゲインである。このエド・ゲインの実話を元にロバート・ブロックが書いたのが『サイコ』という小説で、それが映画の原作になっている。

 

 このエド・ゲインをモデルにした映画はほかにもあって、題名は忘れたが、ほとんど実話をなぞったようなおぞましい映画を観たこともある。大好きなサイコミステリーの名手、リチャード・リーニィの小説の『殺人症候群』では、映画の『サイコ』を連想させるような仕掛けが施されていて、傑作といっていい。

 

 さて『チャイルド・オブ・ゴッド』とは『神の子』ということで、あなたも私も『神の子』である。そんな同じ『神の子』が、どれほどの振れ幅で違う人間になり得るか、というのがこの映画のテーマかと思う。

 

 社会となじめない、そもそも社会の仕組みそのものが正しく理解できているのかどうか疑わしい男が、次第に自らの欲望に従って崩壊していくという映画で、よほどこういう映画に慣れている人意外にはおすすめできない。おすすめできないのだが、強烈な印象を残した映画として記憶されるだろう。

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 最後に洞窟のシーンが続くのも私の好みで、横溝正史の『八つ墓村』や江戸川乱歩の『孤島の鬼』が大好きなのは洞窟シーンがふんだんにあるからだ。『チャイルド・オブ・ゴッド』の一人であるこの男は、洞窟を脱出し、荒野を歩いた果てにどこへ向かうのか。
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2020年6月22日 (月)

逡巡すると

 かかりつけの病院の泌尿器科の先生は、大学病院から週に一日だけやってくる。それが月曜日で、午前は入院患者の検診、午後が外来の検診である。だから診てもらうなら今日だったのだ。

 

 旅先で微熱を発して不調だったが、さいわい一日寝ていただけで恢復、そのあとなんとなくすっきりしないながらもほぼ平熱を維持していた。今日は検診に行こうと思いながらも、熱はないし体調も悪くない。逡巡しているうちに行きそびれてしまった。

 

 そうすると明日か明後日、また不調になったりする。そうならなければいいなあと思いながら、晩飯の支度を始めている。今日は、だから本を読む集中力を欠き、映画などを二本ほど観て過ごした。二本のうち一本があまりひどい映画だったから、もう一本観て口直しをしようかなあ。
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人は違う

 少し前にも書いたけれど、人は性別、人種、年齢、知力、体力、性格、美醜、学歴など、さまざまな違いがあって、同じ遺伝子を持つ一卵性双生児でさえ違う。

 

 そんなこと当たり前ではないかと思うだろう。しかし平等公平を訴える人たちが、そのことを本当に理解した上で平等ということを謳っているかというと、どうもそう思えない。人間はみな同じなのだから平等でなければならないなどと平気でいう。違いがあることを本当に理解した上で、それを乗り越えて平等であろうとすることはとても難しい。違いがあるのに、ないこととして目をつぶって平等だと言っている間は、その平等は空論に近く見える。

 

 私は、人間はみな違うのだ、ということに本当に心底気がついたのは大人になってしばらくしてからだった。どうして他人は自分の言っていることを分かってくれないのか、どうして誤解されるのか、そのことが不思議だったが、それは私にきちんと伝える能力が足りないからだと思っていた。あるとき、他人は自分とは違う人間なのだ、と気がついた。違うのだから違う考え方、受け取り方をするのはとうぜんではないかと気がついた。

 

 そんなことをもちろん知っていたけれど、気がついていなかった。気がつくというのは、知ることの一段高いレベルでの理解らしいということも解った。解ってみると、自分が見て考えていた全てのことが、どうも薄っぺらい表層だけの理解だったらしい。解っているつもりのことの奥にじつは解らないことの無限の宇宙の広がりを感じた。

 

 だから自分の考えることなど「井の中の蛙」、『蘆ノ随から天井を覗く』の類いだと思っている。だからあきらめてしまうのではいささか口惜しいので、ざる頭ながら、耳目に入るさまざまなことについて、少しは考えるようにしている。世界は一つ新しいことを知ったり考えたりするごとにめくれる、無限の頁を持つ書物のようなものに見える。まだ読んでいない頁が無限にあること、読み切れないことは分かっていても、自分はものを知っている、などという愚かなことは、絶対に言うことができないと思っている(そういう何でも知っているらしい愚か者はテレビでたくさん見ることができる)。

 

 人は違う、ということから世界を見る目を少しレベルアップしたという実感があるので、差別と平等などについて、少しこだわって考えてしまう。
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2020年6月21日 (日)

解らないなりに考える

 50年以上前のSF小説、『恋人たち』のことを思い出している。高校生のときに読んだきりなので、細部は忘れているが、どういうわけか頭の片隅に常に残ったままである。SFではセックス描写はあまり描かないというのが通例だが、この小説はそれが露骨に執拗に描かれているので、SFのポルノのようないわれかたをして、確かどこかの国では発禁になったと記憶する。それだからこそ、これを高校生のときに興味を持って読んだともいえるが、頭に残ったのはそれよりもそこに描かれる未来社会のことであり、主人公の職業のことである。

 

 社会はとことん進化し細分化している。専門的なことはそれに関わるわずかな人しかわからず、分野が同じでも少しでも違えば、互いに他を理解することができない。そこで、浅く広く物事を把握する能力に長けた者がエリートとして存在する。理解できない者同士のコミュニケーションは、そういう人を介さないと不可能な世界なのだ。主人公はそういう人間である。

 

 そういう主人公が自分のしがらみから逃げ出そうとして異星に赴く。そこで人間にそっくりの異星人と不思議なセックスにふけるというわけである。その異星の女性は哺乳類ではなく、昆虫を始祖とするというのがSFであって、そのセックスで得られるエクスタシーは人類とでは得られない強烈なものである。確かシャングリラの話がそこに出てきたように思うが勘違いかもしれない。とっくの昔にこの本は手元になくなっている。今更もう一度読むつもりはなかったのだが、確かめたいことがいくつかあり、ハヤカワで文庫があるはずなので取り寄せるかもしれない。

 

 いま考えているのは、疎外、ということである。社会が進化するとどんどん人々の分業化が進み、それぞれの人のやっていることの理解が互いに困難になっているのは、未来の話ではなくていま現在がすでにそうであることは少しものを考える人なら解っていることだろう。

 

 今回、花巻で高村光太郎が山荘にこもり、自給自足の生活をしたとき、彼は社会から隠遁したのだけれど、逃げたのではなくて彼自身を社会から疎外させたともいえる。そのとき、彼は世界を全体として把握すること、分業者ではない芸術家として生きることを選んだように、私には感じられた。

 

 家、というもののしがらみから遁走した近代作家として、志賀直哉や永井荷風をあげることができる。個人主義に徹底することで社会のなかの自分の分業者という役割を否定した。近代作家の多くがそのような家とのしがらみと闘うことを通して自分を確立しようとした。そして、戦後、家というものはほとど有名無実化し、核家族化し、ついには家族すら崩壊して個人だけが残っているのが現代だろう。すでに闘うべき家もしがらみも存在しない。

 

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 そのとき、個人は闘う相手もいないまま疎外のなかにぽつんと存在している。彼には世界は全体の一部のみしか見えていないけれど、全体を見たいという意欲すら喪失し、ただ寂しい、ぬくもりが欲しい、とつぶやいている。それが現代だ、というのが私の見立てである。

 

 疎外ということを考えることが世界の全体のなかの自分自身の立ち位置を知るということだ、ということについては長くなるので機会があれば今度。
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池波正太郎『剣客商売 狂乱』(新潮文庫)

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 この頃、疎外いうことを考えている。疎外という言葉はひところはやりのように使われていたけれど、いまはその頃以上に人間が疎外のなかにいると思えるのに、使われることがあまりなくなった。ただの流行語だったのだろうか。

 

 人は自分だけが疎外されていると感じることがある。人と人との関係には粗密があり、好かれる人間と好かれない人間というのは厳然とあって、全てが本人の責任というばかりでないことも多い。そのときにその疎外感からますます精神がゆがんでしまう者もいる。そのゆがみが極端な場合には顔貌にも表れ、挙措態度にも表れてしまうと、他人はますます離れていき、その疎外感は世間に対する憎悪と変じていく。

 

 そのような憎悪の塊と成り果てた男が、なまじ剣の実力が人並み優れていたために、狂犬となって暴走する。秋山小兵衛はその男の人生の転落の経緯を知ることでその男を疎外から救おうとするのだが、ときすでに遅しであった、という話が表題の『狂乱』である。

 

 ほかに狐が憑いたときだけ剣の実力が人並みを超えるという男の不思議な話の『狐雨』、女剣士・杉原秀が拐かされそうになる子供を救うことで、闇に蠢く者たちの思惑が狂いに狂っていき、ついには秋山小兵衛がその背後を明らかにして闇が暴かれる『秋の炬燵』など。
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2020年6月20日 (土)

差別について

 差別する事は悪いことだ、ということでは、おおむね誰もが認識を共有していると思う。しかし何を差別と考えるのか、突き詰めていくとよくわからないところがある。

 

 アメリカの黒人差別が問題であることは、現代では否定する人はいないだろう。しかしたかだか五十年くらい前までは、差別するのがとうぜんと思っていた人が普通にいたことも事実である。

 

 長い地道な戦いの末に勝ち取った、黒人差別はよくないことだという共通認識は、ある意味で差別はとうぜんだ、という隠れた意識を押さえ込むかたちで辛うじて獲得されているということのようだ。ときどきその隠れた意識が表に現れてしまう。だからその差別を根底からなくすために、アメリカで、そしてヨーロッパで、さらなる抗議行動が行われているのであろう。

 

 もちろん、その目的は差別を実体的になくすことであるはずだ。過去の差別を連想させる像やモニュメントの破壊が差別を解消していくことにつながるかどうか。差別はよくないといいながら、内心では差別を肯定してしまう心性を引き出してしまうのがそのような像やモニュメントだ、と考えるのだろうか。

 

 最初に、差別を突き詰めるとよくわからなくなる、といったのは、人には体力、知力、性格、美醜、年齢、性別、出身地、家族、環境、収入などさまざまな違いがあって、その違いを差として考えることが差別だ、と考えてしまうと、平等とは何か、がわからなくなってしまうからだ。

 

 思い出すのは、中国が文化大革命時代に、テストで点数をつけるのは平等に反する、と主張して、クラスの友達に自分の解答を見せた生徒(正しい答えを解答できる賢い生徒なのであろう)がいて、それを素晴らしい行為だ、と絶賛していたことだ。それを朝日新聞で読んで唖然としたのだが、そのあと日本の教師の一部に、生徒全員の通信簿をオール5とかオール3をつけて、私は平等な教育を実践した、と胸を張る教師が続出した。しかも朝日新聞はそれを大きく取り上げて絶賛していた。

 

 点数をつけることが全人的な評価だと考える(その方がよほど差別的だ)からそんな行為を称揚したのだろうが、そのことが私に、教育とは何か、平等とは何かを考えさせてくれた。よくよく考えると本当に平等とは何か、差別とは何か、わからなくなるのである。もっといろいろ考えたけれど、きりがないからやめておく。
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池波正太郎『鬼平犯科帳8』(文春文庫)

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 自分の見かけを、他人が勝手に強いと勘違いしてくれるのを頼りに生きてきた男は、じつは自分の弱さを最も知り、おびえながら生きてきた男でもある。これが図々しいばかりの男なら鼻持ちならないが、己を知るがゆえに憎めないところもある。その男が真の強さというものを鬼平に教えられる「用心棒」という話。彼には自分の弱さを自覚するという、最も大事な心の強さがあったのだから、生まれ変わることができるはずである。

 

 悪い事をしながら善い事をし、善い事をしながら悪事を働く。それが人間というものだ、というのは鬼平の言葉であり、池波正太郎の小説には登場人物によって繰り返し語られる言葉でもある。それが池波正太郎の人生の実感なのだろうと思うし、私もそれに共感する。だからレッテル張りしてとくとくとしている人間の浅薄さに腹立ちを感じるのだ。池波正太郎の実感を典型的にして物語にしたのが『明神の次郎吉』という物語。悪人である次郎吉の善い面ばかりを見ていた鬼平の剣友・岸井左馬助、それにほだされた次郎吉の不思議な交友が描かれる。

 

 卑劣な凶風が火盗改の面々やその家族を、そして江戸の街を襲う。それを指示したのは大阪の裏組織。人命をなんとも思わない者たちに鬼平の怒りの刃が鉄槌として下される『流星』。これもこのシリーズでは強く記憶に残る話である。
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2020年6月19日 (金)

街頭インタビュー

 街頭インタビューは、訊く方も答える方も難しい。質問の仕方が悪いと、誰もが同じ答えしか返さない。しばしばテレビで見ていると、こういうときにはこういう答え方をする、という決まったパターンの答えが多く、そのインタビューにはほとんど意味が感じられない。

 

 それにしてもいろいろな人がいただろうに、どうしてわざわざこれを取り上げたのか、と思うようなものもある。あがっているのか、テニオハや、言葉遣いがおかしいものがあると、聞いているこちらの方がいらいいらするし、恥ずかしくなる。海外のインタビューではそれなりのものが多いのに、日本人は下手くそである。慣れていないという問題ではなく、そもそも普段から何も考えていないことが見え見えである。

 

 テレビ局は、無意味なインタビューしか得られなかったら、インタビューは使わない、というくらいの見識はないのだろうか。私は無意味さに出会うととてもイライラするのだ。

 

 私自身は三回ほどマイクを向けられた経験がある。三回とも、たまたまそのことについて自分なりに考えていた話題だったので、それなりに答えたつもりだが、他の人が見たらどう感じたのかはわからない。
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曲がり角

 体温が平熱と微熱の間を行き来している。発熱しているというほどではないのだが、なんとなく何かが体の中に居座っているようなうっとうしさがある。どこが痛いだの、どこが調子が悪いだの、そんなことばかりを意識するようになった。

 

 いまは眼の調子が気になる。車で走りながら見る景色が妙に白っぽい。私は春から初夏の新緑より、盛夏の深緑が好きである。濃い緑とそこにできる黒い影がくっきりしているのを見るのが好きだ。その深緑がなんとなく濃く見えないことに気がついた。特に右眼が白くもやがかかっているように思う。

 

 老化による衰えは徐々に進むのではなく、六十過ぎに一度、七十過ぎにまた一度、大きく曲がり角を迎えるものらしい。そのあとは一気呵成で、それはいかんともしがたい。七十を過ぎて元気に出歩く人をいつも見かけるので、自分もとうぜん七十過ぎても元気でいるものと思い込んでいたが、元気でない者はそもそも出歩かないから見かけないのであって、自分が元気な人であるかどうかは運次第なのだ。

 

 どうもこの頃その七十を境目の曲がり角にいることを実感している。
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2020年6月18日 (木)

池波正太郎『剣客商売 隠れ蓑』(新潮文庫)

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 冒頭の『春愁』では、秋山小兵衛がまだ道場を開いていた時代、可愛がっていた若い弟子が殺された事件があった。犯人はほぼわかっていたが、事件のあと行方をくらましていた。その犯人の男を十二年ぶりに見かけた、という知らせが小兵衛の元に入る。

 

 結果的にその男を倒すことになるのだが、その事件の背景を知ることになった秋山小兵衛は、知りたくなかった事実も知ることになってしまう。そのことは秋山小兵衛を大きく打ちのめすことになる。不機嫌になった秋山小兵衛の春愁は深い。

 

 秋山大治郎が危うく殺されかけた老僧を救う。その老僧に大治郎は見覚えがあった。その老僧と老いて病んでいる浪人との二人連れが印象的だったからだ。刀の試し切りを妨げられ、逆恨みしてその老僧を付け狙う旗本の若い子弟たち。理不尽に対する大治郎の怒りの刃が彼らに下される。その二人の老人たちの意外な関係が最後に明らかになるのが表題の『隠れ蓑』。人生の重みを考えさせられる。幸せとは何か、そして不幸せとは何か。

 

 しみじみとした印象を残すのが『梅雨の柚の花』。秋山大治郎に新しい弟子ができる。その弟子、飯塚新五郎の入門動機は彼の出生に大きく関わっている。彼はある男との対決を心に期していたのだが、大治郎に課された修行を重ねる内に人生観が大きく変わりはじめる。その新五郎を亡き者にしようとする動きがあるが、秋山小兵衛の手助けによって、それは打開される。花を手向けた女性の墓の後ろに柚の花が咲いているのを静かに眺める新五郎の気持ちが惻々と伝わってくる。人は多くの人に支えられて生きているのだが、そのことを知らずにいる。しかし、支えられて生き抜いた人は、いつか知らずしらずに支える人になる。

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回想・鳴子寸景

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鬼首温泉へ行って間欠泉を見ようと思ったのだが、休みだった。この日だけだったのか、ずっと休みなのかわからない。その帰りに見かけた、実演販売しているこけし屋の店先の大こけし。もう一つある。

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これが岩出川の「あ・ら・伊達な道の駅」、先日ブログで取り上げたように、じゃらんの道の駅コンクールでグランプリを取った。しかしどこにもそのような表示がない。ここでお土産を買う。一つはもちろん旅の思い出を反芻するための「浦霞」の吟醸酒、張り込んで「禅」の四合瓶を購入。

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宿から10分あまり歩けば、江合川(えあいがわ)にかかる川渡(かわたび)大橋に至る。ここにもこけし。

右手の奥には、鳴子温泉郷で一番東側の川渡温泉がある。湯治宿と旅館ばかりでホテルはない。ここもいい宿や、安い宿がいくつもある。川渡温泉の次が東鳴子温泉、そしてホテル群のある鳴子温泉、さらに峠を登れば鳴子峡のさきに中山平温泉、この江合川から羽後街道を北上すれば、鬼首温泉がある。

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川渡大橋から西の方、奥羽山脈を望む。河川敷の広い河だ。こういう自然だらけの川が嬉しい。

この川の源流を見ることができる。分水嶺があって、最上川と江合川の分かれるところを見ることができる。いま立っている国道47号線を西に走れば新庄から最上川沿いに酒田へ至るが、峠を越えたところに芭蕉ゆかりの「封人の家」があり、そこから堺田の分水嶺が近い。

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泊まっていた宿を遠望する。白い車の前の平屋は宿の宴会場。奥の大きな二階屋が私の宿。山は見た目ほど迫っていない。

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ここにもヤマボウシが・・・。これだけ見ればさすがの私も忘れないだろう。

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こはく湯の宿「中鉢」。風呂場が西向きになっていて、西日が入る。夕方その西日が湯に射すと、本当に湯全体が琥珀のような色に輝く。神秘的なほどである。部屋は木賃宿のようなものだが風呂場は極上。

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宿の入り口。しばらくしたらまた行きたくなるのだろうなあ。

これで鳴子温泉への旅の話は全て終了。

 

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2020年6月17日 (水)

自宅に帰着しました

朝9時前に鳴子の宿を出発。800キロ弱の道をたっぷり休憩をしながら、つい先ほど我が家に無事帰着しました。約九時間半かかりました。疲れましたが、体調は今のところ問題なさそうで安心しました。

まず回覧板をチェックして大急ぎで次のお宅に回しました。それほど滞留してはいないようでよかったです。ついで、たまった洗濯物をまず片付けようと思います。郵便物もいろいろ来ているのでこれから開封します。普段はそれほどこないのに、不在のときに限っていろいろ来ています。

喉が渇いているので、ビールを一本だけ飲むつもりです。疲労と過剰な飲酒が泌尿器系に悪いことは経験で身にしみていますが、少しなら大丈夫でしょう。

鳴子の寸景を明日の朝掲載するつもりです。宿の名前や風景を見てください。滞在した宿はあまり干渉しない宿なので、人によっては無愛想に感じられるかもしれません。東北人特有のはにかみがあるので、冷たいわけではありません。私などはそれがとても居心地がいいのです。また秋に行きたくなること必定です。いろいろ知るほど親しみがわくのが人情というものでしょうか。

 

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長者原にて

花巻から宿への帰り道、東北自動車道の長者原PAに休憩のため立ち寄った。長者原は私の降り口の古川の一つ手前のパーキングである。パーキング内にちょっと大きな広場があるようだ。

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なんだこの木は・・・。花鳥風月、たいていの人が知っていることでも知らないことが多い私である。

それにしてもこの木下にいる若者たちは、むやみに大声や笑い声を立てる。

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すぐ近くに寄ってみた。

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スモークツリーというのか。遅ればせながらこれでもう一つ木の名前を覚えた。

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広場の先に見晴台がある。

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化女沼(けじょぬま)という湿地らしい。

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しばらく吹き抜ける涼しい風に当たって、帰路についた。

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2020年6月16日 (火)

花巻の高村光太郎記念館(2)

高村山荘から裏道を高村光太郎記念館まで歩く。すぐ近い。

高村光太郎はなぜ花巻に隠遁したのか。彼は戦時中、戦意高揚に積極的に関与した。戦争が終わったときに、自分が一体何をしてきたのか、正しいと思ってしてきたことで、多くの犠牲者を産んでしまったということに深い悔恨を抱いたのではないかと思われる。名声も財産も全てうち捨てて身一つで山荘にこもり、経を読み、思索にふけったようだ。

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おお、ここにもあの白い花が咲いている。

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高村光太郎記念館が見えてきた。

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ようやく花の名前がわかった。ヤマボウシの花なのだ。

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記念館に入る。もちろん撮影禁止。彫刻の展示が特に見たかった。あの十和田湖にある乙女像の制作途中に造られた70センチほどの像もある。私はこの乙女像だけはどうもいただけない。乙女ならもう少しすらりとして恥じらいのある姿の方がいい。

手の彫刻がある。ブロンズである。本物の横にレプリカがあって実際に触ることができる。これは確か碌山美術館にも同じものが展示されていたはずだ。

特に迫力があったのは光雲像。高村光太郎の父の高村光雲の半身像、というよりひげだらけの胸像である。これが高村光太郎の彫刻だ。

智恵子との関係やその遺品も展示されている。九十九里に近いところに生まれ育った私は、智恵子抄の碑が真亀海岸にあるのを子供のときから知っていて、だからその千鳥の様を詠んだ詩になじみが深い。

高村光太郎がなぜ隠遁場所に花巻を選んだのか。もちろん宮沢賢治との関係からである。彼は宮沢賢治の作品を世に出すのに貢献している。それはある意味で贖罪だったのではないか。

あるとき宮沢賢治が先輩詩人である高村光太郎を訪ねてきた。玄関で挨拶を聞いたあと、忙しいから日を改めてくるように、と追い返してしまったのだ。この二人が会ったのは生涯その一度だけである。そのときに高村光太郎に驕りがなかったのかどうか。多分宮沢賢治を知るほどに光太郎はその仕打ちを後悔し続けたに違いない。こだわり抜いて花巻に隠遁し、宮沢賢治を偲んだ夜も度々あっただろうとおもう。

全ては私の勝手な妄想である。

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最後にヤマボウシの木をもう一度頭に記憶させて、高村光太郎記念館をあとにした。

いつか花巻温泉に来て、再度この周辺を歩きたいと思う。

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花巻の高村光太郎記念館(1)

宮沢賢治記念館は花巻の東側、遠野へ向かう道筋にある。高村光太郎記念館は反対側、西側の花巻温泉方向にある。花巻温泉にも二度ほど泊まったし、その近くの台温泉には数回泊まっていて、今回も案内をもらったので、そちらに泊まろうか迷った宿もある。その温泉に向かう途中から折れていくのだが、そこに高村光太郎記念館があることを今回初めて知った。うかつなことである。

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図の右下駐車場に車を置き、売店でチケットと検温、マスクチェックを受ける。全部を廻るのは体調から無理なので、高村山荘と高村光太郎記念館のみとする。

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田んぼを左手に見ながらこんな道を歩き出す。高村光太郎が戦後、山にこもったのは知っていたが、それが花巻とは知らなかった。花巻にしたのは宮沢賢治との関わりからである。そのことは記念館のところでもう少し詳しく記す。

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先ほどの道を標識に従って右折する。

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向こうに見えてきた建物が高村山荘。思っていたイメージと著しく違う。建物の前に張り付くように大きな栗の木があり、花が咲いている。

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木の下までくると、あの栗の花特有の青臭い匂いがする。扉を左右に引き開けて中に入る。

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囲炉裏の切ってある板敷きの部屋がガラス越しに覗ける。外交となかのライトの反射で見にくいことおびただしい。辛うじてこれだけ撮れた。

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このように元々の山荘をさらに建物で覆っているのである。中尊寺の金色堂と同じと思えばいい。そうでないとたちまち朽ち果ててしまうのだろう。

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目の前に光太郎が野菜を植えていたという畑。いまは小さな花が咲いていた。

山荘というからもっと階段や坂を上っていくのかと思っていたが、ほとんど平地である。いまの体調からは助かったけれど。高村光太郎はここで何年も自炊の独居生活を送ったのだ。

どうしてそんな隠遁をしたのか、それは次回説明する。

山雷

深更、山雷に目覚める。轟けどいささか音軽し。
やがて雷雨となる。

 

雷撃を避けんがため、パソコンの電源を抜く。

 

カーテンの隙間より雷光頻り。雨強まる。
しばらく雷雨を聞く。

 

雷雨遠のき、静かになった後、雷撃一発、地に響き渡る。
雷公の終演の合図らし。
涼風吹く。

 

 

若いとき、北関東(熊谷)に住んで利根川や渡良瀬川流域を仕事の担当先として走り回っていた。そのあたりの雷はすさまじく、腹の底に響いて恐ろしかった。それと比較して今回の山雷を軽く感じたということである。

 

音と光といえば雷と花火は似ていて、私はいつ自分の上に雷が落ちるかわからない恐怖こそが、雷を花火以上に楽しめるものと感じている。美しさはないがそのスケールの大きさとエネルギーの放出は見物である。

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2020年6月15日 (月)

花巻の宮沢賢治記念館

体調が回復したようなので、花巻まで遠征した。片道130キロほど、高速がそのうち90キロくらいなので、運転は楽である。目的地は宮沢賢治記念館と童話館。残念ながら童話館の建物は、換気ができない作りなので閉館中だという。まことに残念。仕方がないので記念館のみ訪問した。

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駐車場の横にある『注文の多い料理店』、通称『山猫軒』。宮沢賢治の童話でおなじみだろう。なかで宮沢賢治に関連したグッズを売っている。『雨ニモ負ケズ』の詩が書き残されていた手帳も売っている。本物そっくりのレプリカだから記念になる。

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ここは高台にあり、記念館の門から入ったところから左手のところに下を見下ろせる場所があり、ベンチが置いてある。日差しは強烈だったけれど、風が吹き抜けて爽やかである。

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木立の向こうが記念館。

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記念館の手前のところに『よだかの星』をモチーフにした彫刻がある。子供のときから私の大好きな童話である。

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記念館入り口。以前はここで山猫がお出迎えしてくれたものだが、どうしたのだろう。コロナの関係でたまたまいないのか、それとももういなくなったのか。入り口でアルコールで手を洗い、マスク着用チェックと体温チェックがある。館内は撮影禁止。

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丁寧に見終わったあと、ラウンジを撮影。こんなところで風を受けながら昼寝をしたら極楽なのだけれど、左端を見ればわかるように立ち入り禁止になっている。以前は普通に行けてここでぼんやりできたのに。

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この白い、変わった咲き方をする花をよく見かけるが名前がわからない。後で判明した。それは次回に。

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門の近くにイーハトーブに降りていく階段がある。元気なときならそちらへ廻るがその元気がない。降りたらあがってこなくてはならないのだ。

さすがにここまで来てこのまま帰るのももったいない。そこで、近隣地図をよく見たら、高村光太郎記念館というのがあるではないか。このあとそちらへ向かう。

気仙沼の唐桑半島(3)御崎神社

唐桑半島の先端に近いところに御崎(おさき)神社があるというので行ってみる。
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なかなか神社らしい神社である。

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右手には祭礼のときにでも使うのか、立派な宿殿のような建物がある。

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配電へ上る階段の横に変わった石がある。海底から引き上げたものかと考えたがいわれを書いたものが見当たらないのでわからない。

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階段を上りきる手前から、つまりほぼ地面と水平のところから拝殿を撮る。

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摩滅しきった狛犬が、なんだか異様な相貌となっている。別に台座にのった普通の狛犬もある。

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御崎神社の額。

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その横に吊り灯籠。

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絵馬堂も年期が入って不思議なすごみがある。

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お参りする人に漁師が多いのであろう。

御崎神社からさらに半島先端の港まで降りていけるが、くたびれてしまったので引き返した。

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2020年6月14日 (日)

池波正太郎『鬼平犯科帳 7』(文春文庫)

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 女賊という者がいる。鬼平犯科帳で活躍する密偵のおまさなども元は女賊であるが、女であることを武器にするタイプの女賊の話が『掻掘りのおけい』である。あの雲霧仁左衛門の部下の七化けのお千代などもその類いだ。性的な技巧に長け、男を惑わす。そんな女賊が仕事を離れて男をくわえ込み、痴態の限りを尽くし、男の全てを吸い尽くし食い尽くしていく。

 

 その果てにある事件の端緒が掴まれ、事件は解決するのだが、そのむさぼり尽くされた男がとった土壇場の行動とは・・・。その男鶴吉とは、じつは大滝の五郎蔵が実の子のように気にかけていた男であった。

 

 長谷川平蔵をもってしても闘って必ず勝てるとはいえない男が江戸に戻って来たのを平蔵が見かける。その男は、若い頃、引き戻せない悪の道に踏み迷うところだった平蔵を救ってくれた恩人でもある。同時にその浪人は盗賊に関わる者でもある。恩は恩としてその男の探索が始まる、という話が『泥鰌の和助始末』である。意外な展開で、直接対決はない。果たして闘ったらどちらが勝っただろうか。

 

 ほかに『寒月六間堀』という話が心に沁みた。 
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気仙沼の唐桑半島(2)折石と俎岩

寝起きに測った体温はほぼ平熱。よかった。これで治まってくれれば本当にありがたい。昨日は一度も入らなかったので朝風呂に入る。
今朝は薄く雲がかかっているが晴れている。午後はまとまった雨が降るらしい。

 

では唐桑半島の続き
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これが折石(おれいし)。明治29年の三陸大津波のときに、先端が2メートルほど折れてしまったのでこの名がついているそうだ。三陸大津波は昭和にもあったし、そのあともちろん東日本大震災での大津波も経験している。大津波が度々あるところなのだ。

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足下をのぞき込む。

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左が折石で、右が俎岩(俎岩)。

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俎岩。ここで漁師が磯釣りして、獲れた魚を上の平らなところでさばいたから俎岩というのだそうだ。

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こんな景色もあって写真を撮るのが楽しい。

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キスゲの花が咲いていた。何キスゲか知らない。

2020年6月13日 (土)

アメニティ付き

 いつもはアメニティ付きを頼まない。アメニティとはタオル、バスタオル、浴衣、歯ブラシなどである。一日500円違う。前回はジャージー持参で、タオルもバスタオルも自前だった。ただし歯磨きと歯ブラシは自分専用のシュミテクトとディープクリーンでなければ気に入らないので自前である。

 

 今回は浴衣で過ごしたいと思ってアメニティを頼んでおいた。日数分の浴衣が積まれている。発熱して寝ていると寝汗をかく。一眠りするごとに浴衣を交換し、窓際に干しておく。着替えるとさっぱりする。頼んでおいてよかった。

 

 今日昼頃、38度近くまで熱が上がった。水分を十分に摂り、常に清潔を保っていたら、夕方になって37度くらいまで熱が下がった。現金なもので、熱が下がって楽になったら腹が減ってきた。これからあり合わせのもので早めの夕食を摂り、さらに安静を続けるつもりだ。

 

 明日の朝、気仙沼の唐桑半島のブログの更新があれば、大分回復したとみていただいていいと思う。明日は午後から雨の予報、明日も静養につとめるつもりだ。
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夜中に発熱

 体がだるいので体温を測ると、37.1度。微熱だがつらい。トイレで排尿。排尿痛はひどくない。冷蔵庫に冷やしていた冷たい水を飲み、タオルを濡らしてやはり冷蔵庫に入れ、冷たくなったところで凍り枕代わりに額に乗せると気持ちがいい。

 

 やはり、昨日調子に乗って遠出をし、しかも酒をしっかり飲んだのがよくなかったようだ。本日と明日は土日なのでひたすら休養に努めるしかないようだ。これ以上悪くなったら宿に聞いて病院に行くしかない。

 

 参ったなあ。

 

 夜中に地震。ビシッという音が一瞬だけきこえた。地殻がひび割れた音だと思う。

 

 左膝が痛い。むくんでいて、静脈が青なじみになって、力が入らない。立ち上がるときに右手で支えると、右手首に痛みが走る。立ち上がることさえままならぬとはなんたることか。

 

 兄貴分の人や桐生の周大兄からお誘いをいただいているが、今回は無事帰れればよしとするしかないようだ。
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2020年6月12日 (金)

唐桑半島(1)

気仙沼の唐桑半島というところまで行ってきた。宿から約140キロ、三時間の行程である。東北道の一関インターを降りて地道を60キロあまり走る。巨釜(おおがま)という場所の景色が良さそうである。

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こんな階段を降りていく。降りるのはいいが帰りが心配だ。しかし、もう少し、もう少し、と先へ進むうちに下の方まで降りてしまった。もちろん帰りは汗だくとなった。

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こんな景色が見えてくる。立ち枯れの木は津波のせいだろうか。松食い虫のせいだろうか。

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水の色がこの写真以上に深い色をしているのでのぞき込む。

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奥の方はこんな色。

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左手の岩の下に洞窟があって、そこに潮が引き込まれたり吐き出されたりしている。

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かなりのぞき込んで撮った。大体こんな感じであった。

さらに下に降りていくと反対側が見えてくる。それは次回に。

 

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コロンブス像の破壊

 アメリカの各地で、人種差別の象徴であるとしてコロンブスの像が破壊されているという。近年コロンブスは先住民を虐殺した人種差別者だと批判されているそうで、像の破壊は、今回の黒人が警官に殺されたことで盛り上がっている抗議行動の一環ということらしい。

 

 コロンブスの像が各地で破壊されているということは、コロンブスの像が各地にあるのだなあと思う。コロンブスはアメリカ大陸を発見した英雄で、それがアメリカ建国の礎だとして像が建てられたのだろうと想像する。

 

 アメリカには先住民が暮らしていた。先住民がいたから虐殺できたわけで、それならアメリカ大陸は発見されたのではなくて、西洋人が大西洋を渡ってアメリカ大陸の存在を初めて知ったというだけのことである。アメリカ大陸発見、という歴史的記述は、だから白人以外は人間ではないという西洋人の考え方に基づくものであることは、多少ものを考えることのできる人間には自明のことだろう。

 

 しかし我々は明治以来西洋人の見方の世界史を学んできたから、未だにコロンブスのアメリカ大陸発見、という言い方を踏襲している。

 

 今回のコロンブス像の破壊が、そのような白人だけが人間だ、という考え方から派生した白人至上主義的な思考を否定しようというものであるならけっこうなことだが、果たして心の底からそう考えられるかどうか疑わしいと私は思っている。

 

 アメリカの開拓史が先住民の殺戮史であることは、昔の西部劇を観れば一目瞭然で、インディアンをゲームのように撃ち殺すのを私も子供の頃喝采してみていたのである。アメリカ独立に至る経緯は『モヒカン族の最後』などの小説で初めて知った。これはマイケル・マン監督、ダニエル・デイ・ルイス主演で『ラスト・オブ・モヒカン』という映画にもなっていて、名作だと思う。

 

西洋人の優越感というのが何に根ざしていて、それがいまの世界の成り立ちにどのように影響しているかについてはたくさんの本が書かれていて、それらを読んだわずかな記憶をもとに、今回のことを改めて考えているところだ。それは中華思想を考えることにもつながっていると思う。それについてはいつかあらためて書くつもりだ。

 

 いずれにしてもすでに起きてしまったことを、いまさら像を破壊してもどうにもならない。破壊するべきなのはそのような西洋主体の自らの歴史観なのだろうと思う。
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2020年6月11日 (木)

申し訳ありませんが・・・

 夕方四時前に湯治宿に到着。体調は悪くないが、いささか疲労したので早速一風呂浴びてきた。千葉からここまで450キロ、走り出があった。

 

 お仕事のかたも多いだろうに、大変申し訳ない。風呂上がりに缶ビールを開けて、いま飲んでいるところだ。ここは自噴100%の掛け流しの温泉であることを売りにしている。湯は琥珀色、と宿はいうけれど、濁った醤油のような濃い色である。いわゆる黒湯というのはこんな湯をいうのかもしれない。かすかに炭酸を含み、入っていると肌に小さな気泡が付着する。独特の臭気がある。硫化物の匂いだろう、タイヤの臭いに近いか。苦手な人もいそうであるが、私は慣れている。いかにも効きそうな気がする湯である。

 

 普段なら日帰りの立ち寄り湯をやっているのだが、いまはそれを中止しているため、内湯だけで露天風呂には湯が入っていない。その内湯は結構大きいし深いので十分である。こんばんはよく眠れるだろう。
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持ち上げて、落とす

 渡部とかいう芸人の話題が騒がしい。芸能レポーターまでがあたかも品行方正な真面目人間の顔をして、彼を人非人のようにバッシングしている。しかしそもそも彼がどういう人間か、一番よく承知しているのはその芸能リポーターであろう。世間だって、芸人とはそういうもの、と内心ではわかっているくせに。どうでもいいことながら、毎度毎度の茶番劇にうんざりする。ちやほやしておだて上げ、そしてドブの中にたたき落とすのが芸能界というところらしい。

 

 昨日は長駆名古屋から千葉まで走る。途中浜松あたりから静岡あたりまで、風雨が強くて台風の中を走っているようだった。新東名も東名も工事だらけで、トラックも多いからスピードは出せないが、全般に車の量そのものが少なめなので、渋滞というほどのこともなくスムーズに走ることができた。東京から先は信じられないほどの青空であった、それも今日からは雨ということだ。いまは雨に追われながら東行し、北上しているというところか。

 

 昨晩は二月以来久しぶりに弟夫婦と歓談し、ごちそうになる。事前に、体調不十分につき控えめにする、と宣言しながら、飲むほどにメートルを上げてしまった。なにしろ独り酒ではない話し相手のある酒を飲むのはずいぶん久しぶりなのだ。

 

 今日はゆっくり出発して、どこにも立ち寄らずに東北道を宮城県まで走るつもりだ。だから走り出したあとはぽちっともいいねも、晩までできないのであしからず。今晩から湯治で、温泉と読書三昧するつもり。
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2020年6月10日 (水)

池波正太郎『剣客商売 新妻』(新潮文庫)

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 シリーズ第六感巻のこの巻を、解説の常盤新平も一番好きだ、という。やはり恋に奥手で朴念仁(by常盤新平)の秋山大治郎と佐々木三冬が結ばれるまでのやきもきハラハラがとても楽しいし、嬉しいのだ。

 

 その結婚の手前に、二人がとことん急接近するのが『品川お匙屋敷』という密貿易が絡む事件だ。ここでは三冬が拐かされて監禁され、危地に陥る。救出するために振るう秋山大治郎の怒りの剣のすさまじさは痛快である。自分が豪剣を振るっているような気持ちになる。この事件の解決を見て、佐々木三冬の実父である田沼意次から、二人の結婚が促される。

 

 表題の『新妻』は、すでに二人の結婚式の後の話である。ここでも表で活躍するのは秋山大治郎であり、彼がある武士の壮挙に加担するのは、その武士に聞かされた話の故であった。

 

『金貸し幸右衛門』では思わぬ大金が秋山小兵衛のものになる。『いのちの畳針』では秋間小兵衛とその門弟との厚い交情が胸を熱くさせる。この巻はとりわけいい話が多いのである。ただ、それがいい話に思えるのは、できれば第一巻からの人間関係を含んで読む必要があり、読むなら是非最初から読むことをおすすめしたい。
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抗議行動の盛り上がりに思う

 黒人が警官に殺されたことに抗議してアメリカ全土で、そして世界で抗議行動が広がり、盛り上がっているようだ。殺人としかいいようのない、あのような画像を繰り返し見せられれば、それに義憤を感じて自分も抗議行動に参加したくなるのも理解できる。

 

 人種差別に抗議するもの、貧富の格差に抗議するもの、警察の横暴に抗議するもの、それぞれは関係していて、同時に何がどうであるべきか、どうなったら納得するのか、それぞれの人によって違うところもある。そもそも腹が立つから参加しているが、目的など見えていなくて、世の中全部がひっくり返ればいいと思うものもいるようだ。騒ぎが盛り上がれば略奪や暴行がやりやすい、と手ぐすねを引いている連中も一部にいる。まさに混沌だ。

 

 どこかの若い市長に向かって、黒人の若い女性運動家らしき人が、「警察をなくしてしまえ、イエスかノーかで返答せよ!」と息巻いていた姿が強く印象に残った。警察の存在そのものを否定しての質問であれば、これは革命行動である。自由に犯罪行為ができるのであるから、警察がなくなることを喜ぶ人間は少なからずいて、そのような世の中を志向するのは一般市民にとって正しい行為とも思えない。無秩序は桁違いの死を招くことになる。

 

 今回の問題は警察組織が人種差別的な組織の傾向があり、しかも身内をかばうことを許しているということであり、解決とはその現在の状況をどう変えていくかであろうと思う。ミネアポリスの警察を一度解体して再編する、というのはそのための手立てなのであろう。問題点をちゃんと把握している人たちもいるのである。

 

 しかしここまで抗議行動が盛り上がってしまうと、人種差別や格差の問題が対象になってしまう。これに抗議したい気持ちもわかるけれど、抗議行動が果たしてその問題の解決につながる方法なのだろうか。ただ、差別や格差が問題だ、と自分が考えていることのアピールでしかないのではないか。日本でこの抗議行動に賛同して練り歩いている人たちを見ているとそう思える。

 

 差別についてはまた別途考えてみるつもりでいる。差別は、自分の問題としてそれを考えられるかどうか、ということにかかっていると思う。
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2020年6月 9日 (火)

池波正太郎『鬼平犯科帳6』(文春文庫)

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 単行本の発行時期は違うけれど、文庫本として再発刊されたのは、『鬼平犯科帳』シリーズと、『剣客商売』のシリーズではあまり違わない。それなのに、かたや文春文庫とかたや新潮文庫で、紙のくたびれ方、変色などが著しく違う。同じようにしまっておいたはずなのに、新潮文庫は買った当時のまま紙面は白く、文春文庫は大きく変色が進んでいる。たまたまなのかどうか、詳しくは知らない。

 

 この第六巻では、『狐火』という短編が印象に残る。数ある密偵のうちで、長谷川平蔵の元へただ一人だけ自らやってきて密偵となったのが、先般『血闘』で紹介したおまさである。この『狐火』ではおまさは自分のかぎつけた盗賊の情報を長谷川平蔵に伝えない。それには深いわけがあった。そのことでおまさはこの事件が解決したあと、平蔵の元を離れることになる。さらに後日談があるのだが、それは読んでのお楽しみ。

 

 私が密偵たちのなかで最も好きなのは、盗賊の頭をつとめていた大滝の五郎蔵である。六尺の大男で貫禄がある。じつはあとでおまさと五郎蔵は夫婦になる。その組み合わせが私はとても好きだ。二人のキャラクターを考えると、胸がじんとくるほどいい組み合わせだと思っている。そういう幸せがあってもいいと思う。

 

『大川の隠居』では、長谷川平蔵の鼻を明かそうと、老盗がなんと火盗改の屋敷に潜入して平蔵が愛用している亡父遺愛の銀煙管を盗み取る。たまたま病に伏せっていたとはいえ、長谷川平蔵も不覚をとったのだが、その仕返しに鬼平がその老盗にある罠を仕掛ける。

 

 老盗がぎゃふんとなり、平蔵は哄笑する。そのあと、火盗改一同に長谷川平蔵の叱責があったことはもちろんである。
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いいなあ、吞み鉄

 六角精児の吞み鉄という番組が好きで、気がつくと録画しておいて、晩に飲みながら観て楽しんでいる。流れゆく車窓の景色を眺めながら酒を飲む、などというのは至福の時間であろう、と私はそれほどの鉄道ファンではないものの、うらやましく眺める。

 

 先日の石北本線の旅には、私も若い頃の思い出があるので、特に感慨が一入(ひとしお)であった。二十代から三十代の初めにかけて十年ほど、仕事で毎年北海道内を走り回った。事情があって、いったん撤退したエリアの立て直しを命じられたのだ。大手の対抗会社が、我が社の撤退に乗じて市場を席巻して万全の体制を整えていた。ランチェスターの法則、というのがあって、弱者がどのように強者に立ち向かうのか、自分なりに作戦を考えた。

 

 経費は必然的に持ち出しだし、なかなか成果は上がらないしで、ずいぶんストレスフルな日々だったが、思い出もたくさんできた。特に敵の弱点だった北見周辺や道東地区に傾注した。意気に感じてくれる代理店もあった。そのときに石北本線に繰り返し乗った。さまざまな思いを胸中に巡らしながら車窓を眺めたものである。

 

 いまは旅といえば車で走り回ることがほとんどだが、車では絶対にできないことがある。飲みながら車窓を眺めるということである。造り酒屋で試飲をするということである。代わりに廃線になった場所にはタクシーを使わずに行くことができるけれど。飲みながら景色を眺めたいなあ。景色がしみるだろうなあ、と思う。

 

 ところで旅番組はナレーションがとても重要だと思う。六角精児の吞み鉄の旅は壇蜜のナレーションが絶品である。壇蜜、いいなあ。そういえば、絶景・鉄道の旅という番組がある。以前は峠恵子のナレーションが絶品で、必ず観ていたのだが、いまは林家たい平に替わっている。替わって最初の一二回で観るのをやめてしまった。たい平が嫌いというわけではないし、ナレーションが下手なわけでもない。ただざんねんなことに旅のわくわくする感じが全くしないのである。そんなのは旅番組ではない。
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2020年6月 8日 (月)

池波正太郎『白い鬼』(新潮文庫)

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 ボウガンで母親などの家族を殺害するという事件を見ると、人間の恨みの恐ろしさを感じさせられる。常人では、顔や頭に向けて矢を発射するなどというのはおよそできない行為である。精神が壊れていたとしても、精神が壊れるということについて、理解は不能であることを思い知る。

 

 この短編集の内、表題にもなっている『白い鬼』は、まるで19世紀末のロンドンを震え上がらせた、あの切り裂きジャックを思わせるような犯行を繰り返す犯人を、白い鬼として秋山小兵衛が鬼退治するする話である。どうしてそのような犯行を繰り返すに至ったのか、この物語には説明されている。

 

 幼児期のトラウマと性的な異常が影響していることは間違いないが、同じ育ちかたをしても問題なく育つ人間が多いのに、ある人間だけがどうしておかしくなるのか、それは誰にもわからない。ちなみに切り裂きジャックはついに捕まらず、謎のままである。切り裂きジャックについては、コリン・ウイルソンの詳しい本があって、それを読んだことがある。写真もたくさん載っている。あまりのおぞましさにしばらく食欲を失った。

 

 後半に『三冬の縁談』という短編もあり、そこではあの秋山大治郎がついに自分の気持ちに気がついて、三冬の縁談に青菜の塩のようになり、上の空になるというかわいさを見せる。そんなところに親が関わるのはどうか、と逡巡しながらも、陰ながら奔走する秋山小兵衛は結局どうしたか。

 

 秋山大治郎と佐々木三冬のもどかしい仲も、ついに相思相愛が表に現れた。シリーズの次巻、第六巻の表題はその名も『新妻』である。自分のことのように照れくさいほどうれしい。早く読みたい。
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さっぱりする

 昨日、三ヶ月ぶりで床屋へ行き、久しぶりに頭がさっぱりした。心配していた花粉症のような症状はほとんど治まっている。自粛緩和となっていても、くしゃみを頻発しているようでは床屋へ行くことはできなかったのだ。土日はシニア割引がないのが残念だが、さいわいポイントがたまっていて、1500円ほどの支払いで済んだ。時間はかからないし、安いしでありがたいのだ。

 

 行きはあまり汗をかいた状態で床屋に入りたくなかったので、一駅電車に乗る。帰りは30分あまりを歩いて帰った。日差しは強いが、風は案外涼しい。体調は万全とはいえないが、これだけ歩いても問題なく、小康状態を保っている。これなら湯治に出かけられるだろう。千葉の弟のところに立ち寄るつもりだ。あまりむさ苦しいのも恥ずかしいので、これで万全である。

 

 湯治の期間に読む本を紙袋に詰めた。いま読み進めている鬼平犯科帳シリーズと、剣客商売シリーズは、番外編を含めると併せて五十冊あまりある(まだ10冊ほどしか読み終えていない)。これを遅くとも7月中には読了するつもりなので、大半はそこから選んだ。あとは着替えとカメラを用意すればいい。天気がよければ花巻あたりに行くかもしれない。何日滞在するか、帰りはさらにどこかを廻るかは、湯治中に考えるつもりだ。だんだんテンションが上がってきた。
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2020年6月 7日 (日)

池波正太郎『鬼平犯科帳5』(文春文庫)

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 ちょっと長めの中編、『凶賊』での長谷川平蔵の怒りの爆発がすさまじい。悪を悪として認識しながら悪を行う人間と、悪と認識できずに悪を行う人間と、どちらが恐ろしいかと問われれば、私は悪を認識せずに行う人間の方が恐ろしいと答えるだろう。止めどがなくエスカレートすることがあるし、やましさも感じない人間は恐ろしい。そして、善悪はときに相対的で、時代とともに基準が変わることもある。

 

 しかしこの『凶賊』での首魁は、悪を悪と認識しながら目的のために手段を選ばない。それどころか無用の血を流すことを楽しんでさえいる。自らの悪の報いを受けることになった末路に、彼は何を感じたのだろうか。悪人が報いを受けるとは限らないのがこの世の中で、このような物語で悪が報いを受けることに我々はカタルシス(心中に鬱積した感情が解放されること)を感じる。

 

 まっとうな人なら、信義を重んじなければならないと思っている。しかしよんどころない事情があったり、ついうっかりして信義が果たせないことはある。約束を軽んじられて他人に不愉快な思いをさせられることも、生きていれば少なからず経験する。命をかけて信義を通す男の話が『鈍牛(のろうし)』という話である。

 

 知能の発育が遅れているために鈍牛と呼ばれながらも、持ち前の真っ正直さで人から憎まれることのない若者が、放火窃盗の罪で検挙される。当時、放火は極刑に処される。さらし者にされた上に火あぶりの刑に処されるのが普通である。その若者を知るものたちは、彼が犯人だとは信じられないのだが、本人が自白をしたというので、かわいそうに思いながらどうすることもできない。

 

 そのような話を漏れ聞いた長谷川平蔵が、密かに再調査を行う。これは検挙した身内を疑うことでもあって、非常に苦心する。やがてこの鈍牛がどうして犯行を認めたのか、理由が判明する。真相を明らかにし、事件が解決したあと、彼が放った怒りの言葉に火盗改めの一同は粛然とする。
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道の駅・初代王者

 じゃらんが企画して行われた全国道の駅グランプリの初代王者は、宮城県の岩出山にある「あ・ら・伊達な道の駅」が選ばれたそうだ。この道の駅は、東北自動車道の古川インターを降りて西へ、鳴子温泉に向かう国道47号線を行けば、温泉まで10キロほど手前のところにある。

 

 私がたびたび湯治に行く鳴子に近いので、この道の駅は何度も訪れているなじみの場所だ。道の駅のグランプリに選ばれるとは思いがけないことで、ちょっとうれしい。この道の駅の駐車場はいつもいっぱいである。しかし道の駅の裏側に舗装されていないひろい予備の駐車場もあるので、入れないことはない。

 

 いつもここでつまみを買ったり、浦霞の吟醸酒を土産に買う。地元の土産、野菜などもいろいろ売られている。

 

 岩出山は元々伊達政宗にゆかりのある場所で、伊達家の支藩が置かれていた。岩出山という砂岩の山の上に城跡があり、伊達政宗の大きな白いコンクリートの像も立っている。麓には広い公園と駐車場のあるその支藩の藩校であった旧有備館があるので毎年訪ねる。この庭園は美しく、私が大好きなところで、湯治に行くたびに写真を撮ってブログにアップしているので記憶されている方もいるだろう。

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2020年6月 6日 (土)

池波正太郎『剣客商売 天魔』(新潮文庫)

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 何らかの劣等感で凝り固まってしまった人間が、たまたま人並み優れた能力を有していると、常人の及ばぬほどの異能を発揮することがある。劣等感がエネルギーとなるのであろう。それがいい方へ向かえばよいが、ときに人に害をなすことがある。表題の『天魔』はそのような異常な剣士が、次々に人を殺害していくという話である。そういう人間は、悪いのは世の中で、自分が異常であるということには思いが至らないから恐ろしい。

 

 秋山小兵衛、大治郎親子がそのような男と闘う。能力的には名人といわれた秋山小兵衛よりも剣の腕は上だったかもしれないその男を、大治郎が倒すことができたのは、意外な闘い方をとったからである。さてその方法とは・・・。

 

 この巻で秋山大治郎と佐々木三冬の仲が多少進展する。
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放浪の虫

 放浪の虫、というほどのこともないが、何ヶ月も遠出をしないでいることに、いささか精神的に耐えられなくなった。とはいえ体調は万全ではない。そうなれば、湯治に出かけるに如しくはない。しかし湯治でゆっくりできて安いところといえば、私にとってまず宮城県と山形県の県境にある、いつもの鳴子温泉ということになる。とはいえ片道800キロを一日で行くことは、いまの私の体調ではムリだ。

 

 そこで昨夕、弟のところに酔った勢いで電話した。歓談して、体調相談した上で来週か再来週に立ち寄ることにした。そのあとに湯治に向かう予定である。弟と飲むのも久しぶりだ。

 

 精神が体調を損なう。楽しみと意欲があれば、気持ちが体調を支えるものだと信じている。まだまだ病に負けてはいられない。今回も十冊あまりの本を抱えて湯治の旅に出かけようかとテンションを上げつつある。国からいただける臨時収入も当てにしていることはもちろんである。もらったら使わなければ。
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2020年6月 5日 (金)

昨日は天安門事件の日だった

 先日このブログに書いたように、父は青春時代のほとんどを中国で過ごした。本当は日本人ではなくて中国人かもしれない、などと母が冗談に言うほど中国びいきであり、テレビの中国語講座なども熱心に観て、簡体字は難しい、などとぼやいたりしていた。

 

 それなのに中国に行こうと誘っても、決して行こうとはいわなかったのは、戦争という思い出したくない時代を体験したからでもあったろう。自分の体験した戦争中のことは、聞いてもほとんど口を閉ざして語らなかった。

 

 その父を説得して、北京と西安への旅行に行くことになったのは1989年のことである。会社から特別に夏休みと有休をもらうよう段取りし、一週間ほどの旅行の手配をした。その手配が済んだ直後に起こったのが天安門事件である。手配していた旅行はキャンセルせざるを得なかった。

 

 天安門事件のあと、世界は中国との交流を中断し、中国は孤立した。その交流をいち早く再開したのは日本であり、巨額のODAも復活させた。そのODAを使って造られたのが新しい北京の空港であった。

 

 中国旅行ができるようになってすぐに再び父を誘ったが、父の旅行への意欲は消滅してしまい、悪化していた痛風を理由に「行かない」と断られてしまった。行きたい気持ちと行きたくない気持ちの微妙なバランスが、ついに行きたくない、の方へ落ち込んでしまったようだった。

 

 東ドイツのベルリンの壁の解放から始まる、世界の脱共産化が雪崩を打ったように起こり、ついにはソビエト連邦が崩壊するに至った。それが始まったのがまさに1989年。つまり世界が民主化に移行する記念すべき年でもあったのだ。

 

 その年の6月4日、民主化を目指す多くの中国市民や学生たちを中国共産党は戦車で蹂躙した。文字通りその無限軌道の下敷きにして挽肉のようにしたのだ。どれだけの犠牲者が出たのか未だにわからない。当局は数百人というが、それよりずっと多いらしいことが推察されているけれど、実数は不明である。

 

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 そんな天安門事件のあとの1992年の秋に、私はようやく北京と西安を旅行した。初めての海外旅行であり、あこがれの地を踏むことができて大いに感激した。帰ってから撮った写真を見せながら父に旅行の報告をした。「西安はきれいな街だったろう」と父は遠い目をして言った。

 

 翌年、中国の北京と上海の、私が行ったのと全く同じようなところを天皇陛下ご夫妻が訪問された。

 

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 いまは替わってしまったが、そのときの北京の新空港には日本のODAの援助で造られた空港であることを明記したプレートが貼られていたはずだが、聞くところによると、半年で剥がされてしまったそうだ。だから私は見た記憶がない。とうぜん中国人がそんなことを知っているはずもない。
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正義連

 人は信じたいものを信じ、信じたくないものは信じないところがある。そうして信じたものに基づいて正と悪とを判断するのだが、その信じたものが意図的に信じさせられたものだということに気がつくことは困難である。何しろ信じているのだから。

 

 韓国の正義連の元代表にまつわるさまざまな嫌疑が公にされて、韓国内は騒ぎになっているらしい。その元代表の夫も兄弟も身内も、過去、北朝鮮スパイだとして実刑判決を受けているという事実も明らかになった。そのことは日本では知る人ぞ知る事実なのだが、韓国では今更のように報じられている。

 

 朝日新聞の誤報から端を発した日韓の慰安婦問題は、日韓の関係を大きく損なってきた。その問題を糾弾し続けたのは挺対協であり、それはいまの正義連の前身でもある。そして挺対協、正義連という団体は日本にもあって活動してきたことはあまり報じられていない。その日本の正議連のバックに朝鮮総連の影が濃厚にあることもしばしば漏れ聞こえてきた。

 

 その正義連の活動の目的は、もちろん慰安婦の立場に立ってその責任を糾弾し、補償を要求することである。ところが慰安婦たちの望みとは違う方向に運動が展開していき、日韓の間を離反させること、そして資金を集めることそのことが目的になっていたことが明らかになったのである。

 

 はじめは、いったん組織ができてしまうと、その設立の目的を離れて、その組織を維持させることそのことが目的化してしまう、というような捉えられかたをしていたから、あまり深刻な問題にならないのだろうと見えていた。一個人の組織の資金悪用というかたちでの尻尾切りで終わりそうだった。
 
 しかしそもそも当初から資金は北朝鮮に流すためのものであり、反日を扇動することで日韓を離反させ、日韓双方に不利益を与えようという意図があったのではないか、という疑いが出てきたのだ。

 

 こんなことは日本では以前から公然と疑われていたことで、その見立てでこの活動を見れば極めて整合性があるのだが、韓国でそんなことを述べれば親日のレッテルを貼られて社会的生命が危うい。

 

 さて、いままで隠されてきた(韓国マスコミは意図的に隠蔽してきた)さまざまな事実が報じられたことで、韓国の人たちは、信じさせられてきたことがどうもおかしいぞ、と思い出しているようだが、はたしてどれだけの人が自分の信じてきたものを本当に疑うことができるだろうか。

 

 正議連を強力に支援してきた文在寅の支持率は低下して、57%(!)ほどになったのだそうだ。私は自分に「正義」という旗印を掲げる者を信じない、と繰り返し書いている。
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2020年6月 4日 (木)

池波正太郎『鬼平犯科帳4』(文春文庫)

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 この巻の『血闘』という編の朗読テープを持っていた。朗読していたのは古今亭志ん朝。落語の名人になるのが約束されたような人で、脂がのってきたところで惜しくも亡くなってしまった。そのテープを繰り返し聞いたものだが、あのテープはどこへ行ってしまっただろうか。

 

 密偵のおまさが正体を見抜かれて不貞浪人どもに拐かされてしまう。救援を依頼して単身で密かに様子をうかがう長谷川平蔵だったが、いくら待ってもその救援が現れない。そのハラハラする様子が志ん朝の語りだと一層緊迫感を感じさせるのだが。

 

 このままではおまさの身が危険とみて、平蔵は単身で浪人どもの隠れ家に突入する。危うくおまさを救出するのだが、浪人たちは思った以上に手強い。絶体絶命に陥った長谷川平蔵の運命やいかに・・・。

 

 もちろん危機一髪で佐嶋与力以下の火盗改めの面々が駆けつけるのだが、世の中というのはどんなときにも行き違い、手違いというのが起こるもので、普段は敵の手違いをきっかけに一気に盗賊を討ち果たす平蔵も、ときには自分がそのために危機に陥るというお話である。

 

 ちょっと記憶に残る短編だ。
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マスクと体温計

 昨日、ようやくアベノマスクが配達された。昔のガーゼのマスクだ。小さい。ただでもらって文句を言っても始まらないので、予備としてしまっておく。このマスクでは安倍晋三首相は大きく男を下げた。誰の発案で、誰がその手配の責任を引き受けていたのか知らないが、全てにお粗末極まりないことになった。案外、内閣支持率低下の最大要因はこれかもしれない。

 

 月曜には配達されるはずの体温計が、昨日アベノマスクと同じ頃にようやく配達された。発送元はTAIPEIとなっている。台湾から送られてきたのだ。これも約一ヶ月かかっている。船便だったのだろう。

 

 月曜日に泌尿器科の検診を受けた後になって、やや体調が不調になりかけている。排尿は濃赤褐色で濁っており、排尿痛が少しある。まだ発熱は見られない。絶不調になるか、乗り切るか、剣が峰の心地でいる。毎度毎度抗生物質を服用するのは体によくないし、耐性菌を強力化するだけだろう。できる限り自分の抵抗力で乗り切るようにしなければならないと思っている。今のところ36度台(平熱は35度台)に収まっているので、安静にして様子を見ている。我ながら意気地のないことだ。
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2020年6月 3日 (水)

池波正太郎『剣客商売 陽炎の男』(新潮文庫)

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 シリーズの第三巻。前巻で異様な風貌の小雨坊に隠宅を放火されて、秋山小兵衛は住まいを失い、おはるとともに料亭の不二楼に居候となっている。ここでもさまざまな事件に巻き込まれたり、自ら事件を招いたりしてなかなかに忙しい。

 

 この剣客商売シリーズを、私は秋山大治郎と佐々木三冬の恋物語という読み方をして楽しんでいる。そういう愛読者も多いはずである。朴訥で三冬の気持ちになかなか気がつかない大治郎にやきもきしながら、ゆっくりと二人の仲は近づいていく。それがなんともいえず微笑ましく気持ちがいいのだ。だからドラマで佐々木三冬の役を誰が演じるかはとても重要で、それが外れていたらそのドラマは失敗である。

 

 まだ未完成の秋山大治郎が、父の秋山小兵衛の事件の処理を見習いながら剣客として、そして人間として成長していく、そういう成長物語でもある。読者はどんどん登場人物に感情移入していくのである。だから繰り返し読んでも面白いのだ。

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看板を下ろさなければ

 日本の歴史よりも中国の歴史に興味があった。本棚には中国史関係の本だけでも10種類以上列んでいる。もちろん中国そのものにも強い関心があった。

 

大正三年生まれの父(遅い結婚だったので、長子の私は父が36歳の時の子)は、専門学校を出てすぐの二十代のはじめに中国に渡り、何度も召集され、終戦のあと一年ほど抑留されたあとに日本に帰った。青春時代の10年以上を中国で暮らしたことになる。普通に中国語が話せたし、機嫌がいいと中国の歌を歌ったりしていた。

 

 だから、いつか父と中国旅行に行こうと考えていたが、いろいろな事情があって、その願いは叶わなかった。四十を過ぎて、若干のゆとりができたので初めて中国に行った。憧れの西安と北京に行ったのは1992年、そのあと何度も中国へ行った。仕事で上海とその周辺の江南地方へも何度も行った。延べにして二十回以上行ったことになる。

 

 だからこの三十年の中国の変化を目の当たりにしてきたと思っている。中国のニュースも最優先でウオッチしてきた。当初のブログは中国の話が多かった。しかしその中国も習近平政権になってから大きく変わってしまった。何より中国のニュースがどんどん減っていった。長年ニュースを見続けていると、情報管制がどんどん進んでいることを実感した。実際に中国に行っても監視カメラの異常な数に何か恐ろしいものを感じさせられた。

 

 とはいえ21世紀に入って中国人が急激に豊かになっていったのも実感した。街がきれいになり、着ているものも垢抜けたものになっていった。何よりも観光地の中国人の数の多さに圧倒されることも多くなった。初めて中国の観光地を訪ねた頃は、中国にとっての外国人が九割以上だったのだが、いまは逆である。ひしめく中国人の間でその大声の喧噪のなかを歩くことになる。気分的に肩身が狭いし、そもそも何をしに行っているのかわからない気分にさせられることが増えた。

 

 このところ急激に中国に対する興味が減退している。ニュースを見ても何も興味深いものがない。中国の魅力が感じられなくなった。だから中国に関する話題をブログに書くこともほとんどなくなってしまった。

 

 私の中国ウオッチャーという看板を降ろそうかと思っている。とても哀しい。
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2020年6月 2日 (火)

池波正太郎『鬼平犯科帳3』(文春文庫)

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 企業は社員管理のことを考えて、健康で成績優秀で素直な人材を採用したいと考える。つまり優秀なイエスマンを揃えれば企業は成長発展する、と期待するのだろうが、学業優秀だったものが必ずしも企業人として優秀かどうかわからないのがこの世の中の面白いところだ。ましてやひたすら刻苦勉励して一流大学にギリギリ入った人間のなかには、その大学の名札をもらったことで安住してしまうものが少なくない。一流大学の下層部の人間を採用するなら、三流大学のトップクラスを採用した方が後に優秀な企業戦士を得られることを、私はたくさん見聞きしている。

 

 苦難すること、または回り道をすることが、その人間を大きく成長させることがある(しかし、ときに大きく性格をひん曲げてしまうこともある)。そういう人間のなかに思いがけない大きな仕事をする人間がいる。そういう人間を一人採用することが、企業の成長拡大に大きく寄与することはまれではない。イエスマンが千人いてもできない仕事をなしとげるのはそういう人間だ。

 

 前置きが長くなってしまったが、鬼平犯科帳には、その曲がったまま人生を踏み間違え、世の中に害をなす者たちと、それを糾す火盗改の面々たち、そして市井のまっとうな人たちが入り乱れて登場する。そんな火盗改の面々も、真面目一筋でなしに、少々泥をかぶって生きてきた人間が思わぬ手柄を立てることが多い。何しろ頭である長谷川平蔵本人が若い頃は、事情があって屈折して無頼に生きたことがあるのだから。

 

 この第三巻では京都や奈良などが舞台の物語が中心となる。過酷な務めの積み重ねで、さすがの長谷川平蔵も疲労困憊し、それを案じた幕府側が休養のために一時お役御免にしてくれたのだ。それを機に、休養がてら昔父親の京都町奉行所の赴任に同行して滞在した京都を訪ねようと思い立ったのだ。ちなみに平蔵の父親は在任中に京都で病死し、墓も京都にある。

 

 ところが遊山旅のつもりがいつものようにさまざまな事件が平蔵の前に出来(しゅったい)し、けっこう忙しい旅になってしまう。こちらは描かれていく旅先の様子を楽しめることになった。長谷川平蔵も絶体絶命のピンチに陥るが、ちゃんと助け船が現れるのは物語のお約束だ。友達というのはいいものである。
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暴動

 世界中で理不尽なことが起こっていて、それに対して個人での抗議は蟷螂の斧である。個人の抗議が通用するくらいならそもそも理不尽なことなど起こらない。だから集団での抗議行動となる。デモでの訴えはマスコミに報道されて強い訴えに見えるが、理不尽な存在はそんなものを歯牙にもかけない。だから理不尽なのであるが。

 

 そうなると集団は物理的な行動へエスカレートする。暴動、破壊、略奪がその集団にとっての正しい抗議行動になってしまう。理不尽の画面を繰り返し見せられ、その暴動の様子をテレビの画面で繰り返し見せられていると、理不尽に対しての暴動がやむにやまれぬ正当なものに見えてくる。恐ろしいことである。

 

 昔は日本でも暴動があった。デモやストライキに対して弾圧といってもいいような強権発動が繰り返され、行動がエスカレートしてしまうのはいまアメリカで起こっていることと同じメカニズムだった。しかし、背景にそのような強権発動を誘発するようなアジテーションがあったことも事実だろう。大衆は誘導されやすい。しかしいまの日本人はそのような誘導に動かされなくなった。

 

 どうして日本ではそのような暴動がなくなったのか、そして略奪や破壊が起きなくなったのか。それは日本人のある意味の軟弱さなのか。それともそもそも暴動が起きるような理不尽があまりないということだろうか。理不尽なことが存在しないわけではないだろうが、大衆行動に結集するほどのことがないのだろう。些細なことを異国の理不尽と同じレベルの理不尽であるように一部マスコミや野党はあおり立てるが、同調するのはせいぜい国会議事堂前でラップを踊りながら呼びかける連中だけだ。賛同者が増えないのはさぞ残念なことだろう。

 

 私は暴動へエスカレートしない日本社会に健全さを感じるけれど、世界は次第に全体として理不尽な方向へ向かいつつあるような気がする。暴動は多分次第に下火になるけれど、理不尽が減るわけではないのだから、これから再び三度暴動が起こり、その規模が大きくなり、世界が不安定化していくような気配を感じる。アメリカや中国が強健でそれらを抑え込もうとすればするほど、そのエネルギーは巨大化するような気がする。

 

 未来はあまり希望的ではないようだ。
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2020年6月 1日 (月)

定期検診

 本日は糖尿病と泌尿器科の定期検診日。糖尿病は午前中で、泌尿器科は午後二時から。採血と採尿その他の検査を朝一番に済ませて、その結果を基にした診察を待つ。最近は病院がすいていたが、本日は昔のように混雑していた。おかげて持参した本をゆっくり読む時間があった。

 

 血糖値は基準の上限値を超えていたけれど、美人の女医さんはまあまあ節制しているようですね、とやさしいお言葉。散歩程度でいいので、もう少し運動して体重を落とす努力をしましょうね、とおっしゃる。同感である。五月初めに高熱で絶不調になって以来、散歩に出かける元気がない。だから病院までの歩きの20分がしんどかった。

 

 午後の検診のでの間に一度自宅に帰って昼飯を摂る。空腹時血糖を計るから、朝食を摂っていないので空腹なのだ。食事後、気がついたらうたた寝していた。再度の病院への足取りが重い。休んだはずなのに妙にくたびれている。

 

 泌尿器の医師は「小便を我慢しないで」とアドバイスしてくれるのだが、何しろあまり尿意を催さないので、我慢をしているわけではないのだ。糖尿病と泌尿器科の疾患は密接に関係しているのだそうで、甘く見ないように注意される。甘くなど見ていない。深刻に考えている。思ってもみない持病に苦しめられることになってしまった。参ったなあ。

 

 とはいえ、とりあえず今日は節制の解禁日なので(今回はあまり節制していないが)、今晩はちょっとした酒盛りをするつもりである。
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池波正太郎『剣客商売 辻斬り』(新潮文庫)

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 シリーズ第二巻。

 

 七編の短編が収められているが、『鬼熊酒屋』と『妖怪・小雨坊』が今回は印象に残った。

 

 客を客とも思わないような乱暴な口を利き、頑固一筋に生きているような老爺が営む居酒屋、『鬼熊』が気に入った秋山小兵衛は、友人の医師・小川宗哲を訪ねたあとにときどき立ち寄るようになる。そして、ある日その老爺の意外な姿を見る。

 

 人にはそれぞれにたどってきた人生があり、その結果としてその人間の現在の生き方がある。人を人とも思わぬような、優しさのかけらもないように見える人間が、じつはその心の底に温かいものを抱えながらそれを表すことができずに強情を張っている。やさしさは弱さだと思い込んでいるからだ。そんな鬼熊と呼ばれる老爺が、秋山小兵衛と関わったことで熱い涙を流し、やさしい家族に看取られて最期を全うする。

 

 外貌が異様なために屈折した生き方をしてきた男は、その屈辱をバネにすさまじい剣客になった。その剣は天才的ながら、誰からも受け入れられず、外道の人生を生きていた。おはるは一瞥して妖怪の絵本にあった『小雨坊』にそっくりだったという。

 

 その小雨坊は、秋山小兵衛の同門の剣客・嶋岡礼蔵を弓矢で闇討ちした伊藤三弥という若者の身内であった。このいきさつは第一巻の『剣士の誓約』という話に書かれている。伊藤三弥はその際に片腕をはねられている。

 

 伊藤三弥の恨みを自分の恨みとしてこの小雨坊が秋山小兵衛、大治郎親子に復讐を仕掛けてくる。この難敵にどう立ち向かったか。剣士というものが抱えざるを得ない宿命を振り払うために、秋山小兵衛は大きな犠牲を払うが、彼の関わる人の輪が少しずつ広がることによって、得られていくものも増えていく。
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