江藤淳『裏声文学と地声文学』
福田和也による江藤淳コレクション全四巻は、最後に読んでいる第三巻(文学論Ⅰ)をあと100頁ほどを残すのみとなっている。昨年秋から読んでいるからずいぶんゆったりしているが、ゆったり読んでも途中で投げ出さないのはそれだけ興味深く読めているからだ。それにほかの文芸評論家の批評文と比較をしてみたりして、作家や作品について立体的に知見を得ることができるのもありがたい。
その中の『裏声文学と地声文学』という文章で、丸谷才一を批判的に批評している。裏声文学、というのは、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』という小説を批判の題材にしているからである。この小説は昭和57年に発行されている。そして文壇は例外的にいち早く好意的に取り上げて批評していた。特に江藤淳が問題にしているのは、百目鬼恭三郎が朝日新聞で大々的に取り上げたことである。
さまざまな論点を提示しながら、江藤淳はこの小説を酷評し、それを手放しで好意的に取り上げる文壇の風潮を百目鬼恭三郎とともに切り捨てている。キーワードは「正しさ」、つまり朝日新聞的正義である。
百目鬼恭三郎は当時、情け容赦ない毒舌を浴びせる書評家として恐れられていた。私も何冊かその書評本を持っていて、その毒舌の痛快さを楽しんだ。しかし、ここで江藤淳が批判した論点から見れば、確かに私も江藤淳の意見に与する。
丸谷才一も作家でもあり、同時に文芸評論家でもあって、『梨のつぶて』という評論集が私の書棚に列んでいる。評論、書評は昔から好きだからずいぶん読んできたけれど、正直に言うと丸谷才一の批評にはなんとなく違和感を感じていた。どうしてそんなところにこだわって激しく批判するのだろう、というところがあった。波長が合わないのだと思っていたが、江藤淳の批判でその理由に少し得心がいった気がする。「正しさ」による批判が違和感の理由だったからだろう。文学は政治ではないから「正しさ」は批評の物差しではない。丸谷才一が文壇で政治的であることも江藤淳には不快なのであろう。
『裏声で歌へ君が代』はある意味で国家についての文学的考察をテーマとした小説で、その国家観に江藤淳はかみついているのであり、それによく考えもせずに賛同する文壇や百目鬼恭三郎を批判しているのである。それは江藤淳がこだわり続けたアメリカ進駐軍による検閲を、甘んじて受け入れた朝日新聞的な「正義」についての激しい怒りを原点としている。
あと100頁ならこのあと一気に読了してしまおうかなあ。とりあえずそれで江藤淳コレクションが終了する。あとは彼の『漱石とその時代』全五巻(未完)を読むつもりだが、その前にちくま学芸文庫の漱石全集全10巻を読み直しておかないといけない。今年中に片付くだろうか。
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