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2020年7月

2020年7月31日 (金)

亡くなった台湾の李登輝元総統の冥福を祈る

 少し前に危篤状態との報道も見ていたが、昨日李登輝総統が亡くなった、とニュースで知った。97歳という高齢であったし、李登輝も蔡英文という現総統の姿を見て、台湾の現在に納得するものもあっであろうから、もって瞑すべし、というところか。

 

 国民党、蒋介石の独裁国家だった台湾を民主国家に導いたのは、蒋介石の息子の蒋経国に託されて、その国民党の党首となった李登輝であった。歴史に、もし、はないが、もし李登輝がいなかったら、台湾はいまの香港と同じ道をたどっただろう。さらに考えれば、もし韓国に李登輝がいれば、韓国はいまと違った国になっていたというのは想像が過ぎるか。

 

 世界は中国と国交を結び、中国の要求を吞んで台湾との国交を断った。中国は台湾を自国の一部として、国と認めなかったからだ。世界の多くの国が台湾を見捨てた。それでも台湾は独裁国家にも戻らず、中国にも取り込まれずに独自の道を、困難な隘路を必死で行き続けた。しばしば中国におもねって中国に偏する政府も出現したが、踏みとどまった。それは李登輝の志が多くの台湾の人々のなかに生き続けたからだろう。

 

 もしそうでなければ、香港よりも早く台湾は中国に吞み込まれていたと思う。中国にとって、誰よりも憎い人物が李登輝だった。李登輝の一挙一動についてその非をならして世界に注文をつけた。アメリカでさえその中国に忖度した。ましてや日本は・・・。あの河野洋平の無様(ぶざま)な中国に対する心配りは無惨だった。その記憶が拭えないので、私はその息子の河野太郎を信ずることが出来ないくらいだ。

 

 世界は李登輝の死に、挙げて弔意を示すべきであろう。特に日本は最も日本に友好的な、実質上の独立国である台湾に対して、率先して弔意を示すべきだと思う。
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鏡のなかに父を見た

 父は面長でいわゆる醤油顔であり、目鼻立ちはくっきりして、少しつり目で、ひいき目に見ればまあまあ男前と言ってよい。身長も高く、筋肉質だった。それに対し母は四角い顔で、色白ではあるけれど、ひいき目に見ても美人とは言いがたい。理知的な顔だからときに冷たいと勘違いされることもあるが、じつは人なつっこく、誰とも友達になれる。

 

 弟は父の顔を受け継ぎ、しかも運動神経もよかったから、高校時代などは女の子にモテモテだったし、おしゃれだった。私は母に似て四角い顔で、運動が苦手、女の子にもてた記憶はない。兄弟でもずいぶん違うものである。

 

 最近、鏡を眺めていたら、そこに父の顔らしきものが見えて驚いた。似ても似つかなかったはずの父の顔が、私の顔の中に潜んでいたのだろうか。

 

 父を乗り越えるのに一人でもがき続けて、ずっと父との関係はギクシャクしていた。いわゆるファーザーコンプレックスというものかもしれない。ある日父との壁が雲散霧消しているのに気がついたのは、息子が生まれた少し後のことだった。父はとっくに乗り越えるべき対象ではなくなっていたのだ。そのあとは私なりに父との幸せな関係を維持できたのはありがたいことだった。父も嬉しかっただろうことがいまなら分かる。

 

 私が鏡のなかに見たのはその頃の父の顔であった。思えば息子が生まれたのは父が七十になるかならずで、まさに私のいまと同じ頃なのである。

 

 私が男手一つで息子と娘を育てるようなことになって、母がしばしば面倒を見に名古屋まで来てくれたが、何回かに一回は父も一緒に来た。そういうときは二人で名古屋を起点にあちこち旅行に行ったり、私たちも一緒に車で温泉などに遠出をしたことがなつかしい。
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2020年7月30日 (木)

梅雨が明けたら

 私が気晴らしにドライブに出かけるときに選ぶ道は、長良川沿いに北上する国道156号線と、木曽川の支流の飛騨川に沿って北上する国道41号線だ。どちらも川沿いの景色が素晴らしく、北上するに従って山が迫り、その緑のなかを往くことで心は次第に和んでくる。

 

 車でドライブするだけで人と交わらなければコロナ禍に遇う可能性もない。出かけたくてうずうずしているのだが何しろ雨が続いている。梅雨が明けたら・・・と心待ちにしていたのだが、このたびの豪雨でどちらの道も被害を受けた。すでに概ね復旧はしていることだろうが、不要不急の身でそのような大事な道を走るのはいかがなものかと多少逡巡している。

 

 梅雨明けは遅れに遅れ、早くても今週末になりそうだ。

 

埋め草に沿線の写真を少し。

180720-10長良川

180720-3必ず立ち寄る洲原神社

180720-44白山長滝神社にて

180720-55白山長滝神社にて。ここで花奪い(はなばい)神事が行われる。天井に吊り下げられた飾り花を人間ピラミッドを造ってよじ登り、奪い合う。

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悪いことばかりでは

 日本ではコロナ禍ばかりではなく、例年以上の豪雨水害に甚大な被害が発生している。九州に次いで私の住む中部地区でも、長良川水系や、木曽川の支流である飛騨川水系でも多くの被害が出た。さらに豪雨は東北に移り、私の心のふるさとである山形県の最上川水系にも被害が及んでいる。

 

 それはさておき、豪雨被害は中国でも発生しており、長江水系では繰り返しの集中豪雨で、桁違いの被災者を生み出しているようだ。いま盛んに取り沙汰されているのは三峡ダムが想定を超えた水量に耐えきれなくなって破壊されてしまうのではないかということだ。そうなるとどれほどの被害がダムの下流に及ぶが想像を絶する。それは最下流の上海まで及ぶ可能性があるという。

 

 中国政府は三峡ダムは全く心配がないと繰り返し強調している。ダムを造る場合はかなり余裕を見た強度で造られるはずだから、心配ない、という説明にはウソはないと思う。しかしこのダムを造るときは驚くほどの早さの突貫工事だったから、そこにどんな落とし穴があったか、その人的要因による強度低下については不明である。

 

 今はただ、壊れるまでは壊れないだろうとしか言い様がないし、疑わしい気持ちがあっても、壊れなければ強度は十分だという説明を否定しようがない。

 

 ところで韓国の中央日報が、長江の河口から流出する水量が増えているために海の生態系に影響が出てくるのではないか、という記事を書いていた。大いに心配なことだ。

 

 しかし私は別のことに気がついた。

 

 中国は公害対策などが不十分であるために、大気、海や河川や湖水、そして大地が汚染されていることはすでにたびたび報道されている。農地や農薬や肥料の過剰な散布によって汚れきっているとも言う。それが水害で河川や湖水、そして大地が一気に洗い流されてしまうのである。完全ではないにしてもずいぶんときれいになることだろう。

 

 水害はときに悪いことばかりではないかもしれない。ただ、そうして流れ出して海に注いだ汚濁物を含んだ水がどうなるのか、そこまでは想像が出来ない。さらに、一度きれいになったとしても、また再び汚染されるのにそれほど時間がかからないような気もする。
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2020年7月29日 (水)

敬意

 ニュージーランドが、イギリスやオーストラリアに引き続いて中国との犯罪人引渡条約を停止することにした。これに中国は激しく反発して、報復する、と息巻いている。ニュージーランドの貿易は大きく中国に依存していて、中国の報復はニュージーランドの経済に大きな影響を与えるだろう、と中国の報道官は公言したようだ。

 

 中国による、香港の一国二制度の事実上の有名無実化に対する各国の反発を、中国はどう捉えているのだろうか。報復を公言して脅しをかけ、脅しがきかなければ報復を実行してみせるだろう。その報復は中国にとっても多少はダメージを伴うから全面的ではないだろうが、報復を受ける国にはつらいことになるのは間違いない。

 

 ではそれらの国々はそのことを想定していなかったのか。そんなことはないはずで、その経済的なダメージを覚悟した上での中国への抗議の表明なのだと思う。そのことが中国政府は解っていない。脅しをかけ、実行してみせればフィリピンのように頭を下げるものだと高をくくっているのだろう。

 

 国家としての矜持の問題で、そのような矜持を示すことの出来ている国に対して私は敬意を表したい。
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表現の自由?

 安倍首相が韓国のいわゆる慰安婦少女像の前で拝跪する像が話題になっている。菅官房長官のコメントが多くの日本人の受け取り方だろう。私も同様である。韓国政府はいつものように国家として行った行為ではないことを理由に放置するかもしれない。

 

 日本人が、文在寅大統領が竹島の地図を安倍首相に差し出して謝罪する絵でも描いて見せたらどれほどのリアクションがあるだろうか。もちろん日本人はそんなことをしないだろうけれど。もしすれば、今回の韓国の植物園の関係者と変わらないバカであることを表明することになってしまう。かわいそうに韓国の自家中毒は頭にまで及んでいるようだ。

 

 表現の自由と言うけれど、して善いことと悪い事があって、そのことをわきまえなければ却って表現が制限されることになることくらいは知性のある人間なら解ることだ。新型コロナ感染者の急増でうろたえている・・・いや大忙しの大村愛知県知事(感染者数が増加するたびに、ゆゆしき事態だ、大変なことになっている、と驚いてばかり見せて、自分は県知事として何をこれからする、と決しておっしゃらない)は、この安倍首相の拝跪像についても、愛知トリエンナーレのときと同じように、表現の自由だから、とおっしゃるのかどうか知りたいものだ。
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2020年7月28日 (火)

頼みごと

 不義理をしている人に頼みごとをしなければならなくなり、その手紙を書こうとしながら昨日は一日中手紙の文面を考え続けていた。いつまでもくよくよ考えてもきりがないので、今日ようやく書き上げて投函した。

 

 頼みごとを了解してくれるか、突っ返されるか、分からない。次のことを今は考えたくない。面倒くさいのは嫌いなんだけれど・・・。

 

 面倒なことが好きな人はいないか。酒でも飲もう。
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ブレイブ・ワン

映画『ブレイブ・ワン』2007年アメリカ
監督ニール・ジョーダン、出演ジョデイ・フォスター、テレンス・ハワードほか

 

 この世の中に暴力がなければどれほど良いか分からないが、暴力は現実に存在する。普通に生きていれば、身の危険を伴うほどの暴力に遭うことはほとんどないけれど、災厄はどこに潜んでいるか分からない。

 

 チャールズ・ブロンソン主演の『狼よさらば』はそのような理不尽な暴力に出会った主人公が、警察の無力さに失望して自ら悪に対して立ち向かっていくという映画で、これは『デス・ウィッシュ』という題名で、ブルース・ウィリス主演でリメイクされている。

 

 今回観た『ブレイブ・ワン』は、その女性版とも言うべき映画で、結婚式も間近い二人が、散歩中の夜の公園で暴漢たちに襲われ、恋人を殺され、自分も瀕死の重傷を負った女性が、なんとか恢復したあと、警察の捜査の進展を聴きに行ったときの失望に端を発して、自己防衛、そして攻撃者へと変貌していく物語だ。その主人公を知的な美人のジョディ・フォスターが演じているのが見物である。

 

 暴力に対して多くの人間が泣き寝入りに近い対応を余儀なくされる。暴力に暴力で対応することを許されているのは警察だけである。一般の人はその警察に委ねるしかない。その警察が頼みにならないと見なされたとき、何が起きるのか。いまのアメリカで起きている事態がどのようにエスカレートするのか。正義という名の暴力が発動する。
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2020年7月27日 (月)

マスクの効用

 マンションの五階に住んでいるが、下りでエレベーターを使うことはほとんどない。階段で降りる。上りもなるだけ階段を使っていたが、膝痛が出てからエレベーターを使うことが多くなっている。久しぶりに階段で上ると以前は平気だったのに息切れしたりして、衰えを感じる。なるべく無理をして階段で上らなければなどと思う。

 

 その階段を降りながら、はっと気がつくことがある。マスクをつけずに出かけようとしているのだ。三回に二回は忘れる。先日は検診に行って、病院についてからそれに気がついたりした。

 

 引きこもりを続けているので、冷蔵庫がガラガラになった。本降りだった雨もスーパーが開く時間にやんだので、買い出しに出かけた。今日は意識していたのでマスクをつけ忘れていない。髪は乱れ、ひげは伸び放題だが、出がけに髪だけは整えた。そこで気がついたことは、マスクをしているとひげが伸びていても他の人には分からないということだ。

 

 皮膚が老化で衰えているのだろうか、ひげそりをするとひげそり負けをする。ひげを剃るのが面倒でもある。だからいまは週に二回程度しかひげを剃らない。出来ればずっと剃りたくないけれど、伸びると無意識にむしっているのでそれも肌によくない気がする。

 

 マスクがあるからそれを取らないときにはひげなど伸びててもいいのだと気がついた。面倒なマスクにも効用があるのだ。面倒だと思うから忘れる。いいこともあると思うと忘れなくなるかもしれない。
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知性の欠如

 蒋廷黻(しょうていふつ)の『中国近代史』はアヘン戦争から説き起こされている。陳舜臣の『実録アヘン戦争』も併せて経緯を読んでみると、「アヘン戦争」と呼んでいるのは清国側であって、イギリス側は「通商戦争」と称していたようだ。その害毒の甚だしいことをよく承知していたから、自国では流通を公的には禁止していただろうアヘンを、インドでせっせと栽培して中国で売りさばき、代金としての銀を中国から大量に流出させた。この片務貿易で中国は二重の苦難に陥った。

 

 それはそれとして、蒋廷黻、陳舜臣がそれぞれの本で冒頭に書いているのが、東西の全く文化の異なる国が、互いをほとんど理解することなしに邂逅したことについてである。自分の側の文化、価値観を基準にして相手をはかる、理解しようとする、交渉しようとする。そこには勘違い、自分に都合のいい誤解が生じていく。その多くが中国側によるもので、イギリス側はしたたかに中国側につけ込んだところがある。

 

 そのことは一つの歴史であって、いまさら正義を以て断罪しても始まらないが、イギリスにとっては大きな汚点の歴史であることは間違いない。イギリスは謝罪しただろうか。国家として謝罪などしないだろう。それが国家というものだ。そういう汚点の歴史の積み重ねで大英帝国の繁栄があったのだから、一度謝れば大英帝国という国家の歴史の全てを否定することになりかねない。

 

 いま習近平もトランプも相手と自分の違いを理解しようとしない。自分の価値観が正しいのだから相手は間違っている、という論理で押し通そうとする。彼らには世界全体についての思考がないかのようだ。世界中でそのような国家指導者が輩出している。人々はさまざまな価値観や異文化があるという複雑さに耐えられないようだ。

 

 世界はそもそも複雑である。その複雑さを正しいか正しくないかで二分して、単純に考えようとする。ネットの論調もSNSという短文で主張する。複雑な思考に耐えられない人々には格好のツールである。敵か味方か、自分の信じる正義の基準から見て正しいか正しくないかを判断する。その結果がどこへ向かうのか。

 

 西洋と東洋の邂逅は、互いを知らないことによって破綻へ向かい、武力に優位な側の一方的な収奪をもたらした。日本はそれを見習い、さらに中国もアメリカもそれを見習おうとしている。いま世界は互いに相手を理解しようとする気のない(そもそも能力がないのかもしれない)トランプと習近平という反知性的な二人によってどこへ向かおうとしているのか。二十世紀の大きな戦争がもたらした大量の死者の記憶は、人類を大きな戦争から回避するためのシステムを作ったはずだったが、それは幻影だったらしい。
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2020年7月26日 (日)

明日でもいいことは今日しない

 現役中は朝一番に、今日しなければならないことをメモに書き出した。夕方片付いたものを赤ペンで消していくのが楽しみだったが、次第に書き出す項目が増えていき、当然やり残しもあるようになった。翌朝はその残ったものと、新たに片付けなければならないことを書き出す。

 

 だから今日片付けなければならないこと、さらに明日でかまわなくても今日やっておけば楽になるだろうこともどんどん片付けるようにした。

 

そのときのモットーは
「今日できることは今日やる」。

 

 リタイアした今も朝、メモに書き出す習慣は続けている。いまは、そこに書き出された、しなければならないことは雑事がほとんどで、片付ける気になればたちまち片付くものの方が多い。残ってしまうものはしたくないからしないので、出来ないから残ったものではない。

 

 しないから残ってしまうことのストレスと、先延ばししたことで生み出された余裕とを比べて、今は余裕の方に価値を感じている。

 

そういうわけで、
「明日でもいいことは今日しない」
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読書計画

 東洋の近現代史を見直そうと思ったのだが、中国に関する近現代史についてはたくさん手持ちの書籍があるのに、日本の近現代史についてはほとんどない(昔少し揃えたけれどほとんど処分してしまった)。そこでアマゾンで『日本近現代史』(岩波新書)全十冊を発注した。岩波書店の本だから多少色づけがあるだろうが、韓国や中国とは違って、まさかウソは書かれていないだろう。書いていないこと、ことさら取り上げていることはあるかもしれないが、それは類書を読めば補正は出来る。

 

 その前に読もうと引っ張り出してきたのが、陳舜臣の『中国の歴史 近・現代編』である。このシリーズは全十三巻になる予定だったが、残念ながら第四巻までで、それ以後は執筆されていない。日清戦争以後の日中関係から説き起こされ、義和団の変以後から辛亥革命のあとまでの中国の大変動がわかりやすく書かれている。

 

 そのほかに講談社版の『中国の歴史 第十巻 ラストエンペラーと近代中国』、川原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)、阿部牧夫『満州国』(講談社学術文庫)、増井経夫『大清帝国』(講談社学術文庫)、陳舜臣『実録 アヘン戦争』(中公文庫)、陳舜臣『アヘン戦争(上)(中)(下)』(講談社文庫)、陳舜臣『小説日清戦争 江は流れず 上・中・下』(中公文庫)などを引っ張り出してある。小説もあるけれど、理解しやすければイメージがつかみやすいからそれでもいいと思っている。論文を書くわけではない。

 

 その前に中華民国時代の中国で書かれた蒋廷黻(しょうていふつ)という人の『中国近代史』(東京外国語大学出版会)をまず読もうと思っている。この本については読み終わったらブログに書くつもりだ。

 

 これだけを読むわけではないから、今年中に全部読むのは無理だろうなあ。
 東洋の近現代史を見直そうと思ったのだが、中国に関する近現代史についてはたくさん手持ちの書籍があるのに、日本の近現代史についてはほとんどない(昔少し揃えたけれどほとんど処分してしまった)。そこでアマゾンで『日本近現代史』(岩波新書)全十冊を発注した。岩波書店の本だから多少色づけがあるだろうが、韓国や中国とは違って、まさかウソは書かれていないだろう。書いていないこと、ことさら取り上げていることはあるかもしれないが、それは類書を読めば補正は出来る。

 

 その前に読もうと引っ張り出してきたのが、陳舜臣の『中国の歴史 近・現代編』である。このシリーズは全十三巻になる予定だったが、残念ながら第四巻までで、それ以後は執筆されていない。日清戦争以後の日中関係から説き起こされ、義和団の変以後から辛亥革命のあとまでの中国の大変動がわかりやすく書かれている。

 

 そのほかに講談社版の『中国の歴史 第十巻 ラストエンペラーと近代中国』、川原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)、阿部牧夫『満州国』(講談社学術文庫)、増井経夫『大清帝国』(講談社学術文庫)、陳舜臣『実録 アヘン戦争』(中公文庫)、陳舜臣『アヘン戦争(上)(中)(下)』(講談社文庫)、陳舜臣『小説日清戦争 江は流れず 上・中・下』(中公文庫)などを引っ張り出してある。小説もあるけれど、理解しやすければイメージがつかみやすいからそれでもいいと思っている。論文を書くわけではない。

 

 その前に中華民国時代の中国で書かれた蒋廷黻(しょうていふつ)という人の『中国近代史』をまず読もうと思っている。この本については読み終わったらブログに書くつもりだ。

 

 これだけを読むわけではないから、今年中に全部読むのは無理だろうなあ。
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2020年7月25日 (土)

寝た子を起こす

 力が強大な国は、理不尽な行動をしても他国に咎められない。咎めるにはさらに強大な力が必要だからだ。力とは経済力であり、軍事力のことである。そういう強大な国が覇権主義的な行動に走ったという例は、歴史を見れば枚挙にいとまがない。というよりも強大になるとそのまま覇権主義に走るのが普通に見えさえする。

 

 中国の歴史はまさにそのようであった。自らがその覇権主義で膨張したり、異民族の覇権主義によって国を奪われたりしてきた。共産主義国家として、第二次世界大戦後に新たに建国された中華人民共和国は、建国当初からその覇権主義を密かに懐に抱いていたことはチベット、モンゴルでの行動を見れば明らかである。しかしそれらは他国に咎められなかった。

 

 まだ中国が強大な国ではないと見なされたし、咎められればおとなしくて見せたからだ。それが21世紀に入ってから、その隠していた爪をむき出しにし始めた。気がついてみればアメリカ以外に中国を咎める力を持つ国は存在しなくなっていた。そのアメリカはますます衰退し、中国はますます強大になりそうな気配である。

 

 その傍若無人な行動を見せられていると、私にはあたかも日清戦争以後の日本が行ってきた行動に似ているように見えて来た。咎められるまで暴走していって、挙げ句の果てに自滅の戦争に追い込まれた。日本は太平洋戦争後、占領軍に統治された。つまり国は一度滅びたのである。国民は同じだから連続しているように見えるけれど、一度滅びたのだ、という自覚を持つべきなのに、そんなこと思いもよらず、どうして戦争が起きてしまったのか教育もしないから、日本人は日本国民であるという自覚など持ちようがない。

 

 そんなことを考えて、日清戦争以後の日本の行動といまの中国の行動を対比させながら歴史を振り返ろうと思って、いろいろ資料を読み始めたら、近現代史を一から読み直さないと何も始まらないことを思い知らされた。

 

 大学生になって、まず始めたのが歴史を学び直すことだった。なぜ日本は勝てそうもない戦争を始めてしまったのか。それを知りたいと思わない日本人がいることが信じられないけれど、それが普通らしい。そのときは歴史を遡りすぎ、しかも横道にそれて中国史にのめり込んでしまった。

 

 今度改めて近現代史をひもときながら、現実に進行する中国とアメリカ、そしてその取り巻きの国の現実の展開を眺めようかと思っている。歴史は学んでも奥が深すぎるし、見方でガラリと様相も変わって見える。そのことが興味深く根そして面白い。どうも寝た子を起こしてしまったようだ。
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悩んでも始まらないのだが

 事情があって縁を切った人(当然相手もそう思っている)に頼みごとをしなければならなくなった。しないで済めば決してしたくないことながら、せざるを得ない状況に追い込まれている。悩んでいてもどうしようもないことだが、意に染まないことをすることからは逃げたい気持ちの方が大きい。もっと図々しい人間だったら楽だったのに・・・。

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2020年7月24日 (金)

ゆるめすぎ

 適度の緊張、つまりストレスがある状態が日常を維持するために必要らしい。疲労回復のために思い切り身心を緩めたら、ゆるめすぎたらしくて元になかなか戻らない。いろいろ頭の中でとりとめもなく考えてはいるのだが、考えがまとまらない。

 

 いまの中国を中心とした世界情勢について、ささやかな知識を元に、近現代の歴史を比較しながら考えたいと思ってはいるのである。

 

 刑事モースシリーズの最新作の放映前に、以前のもの20話から25話までが再放送されたので、見たものばかりだけれど、念のため録画しておいた。モースの立場が大きく変わってしまった24話でのつながりがあやふやになっていたので、23話までをもう一度観直しておこうと思ったのだ。

 

 やはり素晴らしいドラマはストーリーが分かっていても、初めて見るように面白い。いや、伏線が見えてもっと面白く思えるところもある。これから24話と25話を観て、さらに今日放送の26話と27話を楽しむことにする。
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既視感

 中国が尖閣周辺の日本領海に繰り返し侵入し、自国領土であるというねつ造された主張(ウソと自分でも承知しながらの主張)を繰り返し、なし崩しの正当化をもくろんでいる。南シナ海でも中国以外には全く了解不能の主張の元に自国領土の拡張を実行した。このような覇権主義は人類にとって前世紀の遺物かと思っていたが、これが現実のようだ。

 

 いまの世界情勢を見ていると、既視感を感じる。それは20世紀の歴史を振り返ると見えてくる。そのことを正義と悪などという価値観ではない視点で考えている。日本が日清戦争以後、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争の時代に中国とどう関わってきたのか、その結果がどうなったのかを思う。

 

 次回少しそのことを書いてみたい。
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2020年7月23日 (木)

さらに失望

 数日前だったか、立憲民主党の安住氏が「GoToトラベルで感染者が増えたら、政権は責任を取って内閣解散をするべきだ」とおっしゃっていた。

 

 もともと民主党時代の面々には鳩山由紀夫、菅直人、仙谷由人氏以下、その言動にいささかまたは大いに不快感を持つことが多かった。その中では私にとって比較的まともで論理的に見えていたのが安住氏である。

 

 それが先般来失望するような、上に上げたような面々とほとんど似た言葉を発するのを見聞きして失望に失望を重ねていたが、今回はさすがに失望を超えて怒りに近い気持ちになった。

 

 経済とコロナ対策は相反するもので、しかも両方重視しなければならないというジレンマを抱えている。こんなことは今更いわれなくても多少の知能の持ち主なら分かっていることだ。GoToキャンペーンが顧客の激減で疲弊の極みにある観光地の救済のための措置であることも誰にも分かっていることである。当然強行すれば感染が広がり、感染者が増えるだろうことは自明のことで、そのリスクと救済とどちらを優先するかであって、両方達成することは不可能なことだ。

 

 私は感染拡大状況からもう少し先延ばしした方がいいと思ったけれど、やむを得ない面もあっただろうことも理解できる。そういつまでも補償を続けることは不可能なことも分かるからである。補償をするための財源は天から降ってこないから経済を回す必要がある。

 

 それを「感染が増えたら解散せよ」とは何事か。自分たちの力では政権に対して何もなすことが出来ないから、コロナ禍を理由に政権打倒の理由にしようというのか。およそこれほど理不尽な言いがかりは節度ある人間のいうべきことではない。安住氏は多分政権を倒す理由が成り立つために、感染拡大を願っていることだろう。最低である。
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疲れ目

 たまたま途中から「ためしてガッテン」を見たら、疲れ目の原因とその対症療法を紹介していた。目には常に涙とともにわずかな潤滑油が流れて目を保護しているらしい。途中から見たので詳しいことは再放送でもう一度見るつもりだ。

 

 その潤滑油が冷えて固まって出なくなると疲れ目になってしまうようだ。原因とその症状が説明されて、対策として目を温めることを薦めていた。固まった潤滑油は体温以上の温度で溶け出すらしいが、溶け出してもすぐ固まるから40度以上にしてしばらく置くといいらしい。

 

 具体的には、45度以上のお湯に浸したタオルを絞ってビニールの袋に包み、さらにそれを乾いた薄いタオルでくるんで目の上にのせる。最低5分以上その状態を保つとよいという。ビニールで包むのは濡れないためと冷めないため。濡れた状態で目を温めても、気化熱で再び潤滑油が固まってしまうのだそうだ。ビニールで包むと10分くらい40度以上に保てるという。

 

 日頃目をひどく酷使しているので、早速試してみた。目がひどく楽である。一日に二度くらいするとよいらしい。

 

 確かに目で何かが固まっているような気が以前からしていたので、そのたびに水道で目を洗っていた。一時的には楽になる。しかしそれでは原因の潤滑油は溶けていないから効果はほとんどなかったのだ。しばらく温熱タオル療法を試してみようと思う。
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2020年7月22日 (水)

読書備忘録

 この数日読んだ文章

 

評論
『現代の純文学とは何か』奥野健男
『現代にとって文学とは何か』奥野健男

 

随筆
『夏の鼻風邪』内田百閒
『俸給』内田百閒
『質屋』内田百閒
『秋宵鬼哭』内田百閒
『百鬼園旧套』内田百閒
『風燭記』内田百閒
『炉前散語』内田百閒
『御時世』内田百閒
『辛子飯』内田百閒
『売り喰い』内田百閒
『志道山人夜話』内田百閒
『砂利場大将』内田百閒
『金の縁』内田百閒
『書物の差押』内田百閒
『胸算用』内田百閒
『揚足取り』内田百閒
『布哇の弗』内田百閒
『百鬼園先生言行録』内田百閒
『百鬼園先生言行録余話』内田百閒
『百鬼園先生言行録拾遺』内田百閒
『弾琴図』内田百閒
『官命出張旅行』内田百閒
『忙中謝客』内田百閒
『猪の昼寝』内田百閒
『狸気濛濛』内田百閒
『正直の徳に就いて』内田百閒
『茗荷屋の足袋』内田百閒

 

小説
『荒絹』志賀直哉
『孤兒』志賀直哉
『子供四題』志賀直哉
 一、次郎君
 二、かくれん坊
 三、誕生
 四、輕便鉄道
『插話』志賀直哉
『興津彌五右衞門の遺書』森鴎外
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疲れた

 昨日は早朝五時過ぎに名古屋を出発、アクアラインを通って千葉県の病院へ。いろいろ打ち合わせのあと、入院している病院から家内を連れて一時間ほど離れた別の病院へ検診に行く。乳がんの検診である。検査がいくつかあり、それに予定以上に手間取る。そのあとの主治医の診察がまた長く待たされて、三時過ぎには終わるつもりが会計を済ませたら五時前で、また入院している病院へ戻り、さらに打ち合わせをして帰路についたのは六時半を過ぎていた。

 

 ナビに従って走っていたのに、帰り道を途中で間違えて横浜へ抜けずに東京方面に向かってしまった。道路はまだ渋滞が残っていたし、夜はトラックが多いからスピードも出せず、六時間以上かかった。疲れて事故があってはいけないのでこまめに休憩もしたので仕方がない。

 

 帰り道、岡崎を過ぎたあたりから稲光が走って天空が何度か輝いたと思ったら雨が降り出した。名古屋に近づくに従って雷雨が激しくなり、ワイパーを最大にしても前がよく見えない。すさまじい雨で、さすがに全ての車がスピードを落とす。さいわい駐車場に着く頃には最盛期を過ぎ、まもなく小止みになる気配がしたのでしばし車の中で待機。

 

 小止みになった雨の中、我が家にへたり込んだのは午前一時前であった。疲れているのに神経はとんがって収まりがつかない。ビールを、瓶詰めものをつまみにして二本ほど一気に飲む。さらにお酒も飲みたかったけれど悪酔いしそうなのでやめておいた。神経はまだピリピリしている。眠れそうもないので録画してあった番組を二時間ほどぼんやり眺めていた。

 

 病気が全ての免罪符なのか?という思いが頭から去らない。医師や看護師は患者のことしか考えないけれど、こちらにも言い分はある。そんな言い合いに近いことになってしまったことが神経をささくれ立たせている。こういうときは眠くなるまで起きているに如くはないと覚悟していつまでも起きていた。

 

 四月に同じように病院へ行き、千葉を日帰りしたが、そのときはその疲れで高熱を発した。今日目覚めた段階では平熱で問題なさそうだ。世の中は明日から四連休。私は体と心を四連休させようと思う。

 

 八月にまた千葉の病院へ行かなければならないことになった。
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2020年7月21日 (火)

人生のやり直し

 振り返ってみると、人生には、あのときああすればよかった、こうしたらよかったと思うことが少なからずある。でも、過ぎたことは取り返しがつかない。

 

 それならもう一度人生をやり直させてやる、と神様に言われたら、「是非お願いしたい」と答えるかどうか、私は迷う。もっと勉強しておけばよかった、などと後悔しているけれど、もう一度生き直したらちゃんと勉強するかどうか心許ない。確かにどうしてもやり直したいことはある。それでも人生のやり直しのチャンスをもらうことに逡巡するのは、自分の人生にけっこうラッキーなことも多々あったからだ。運がよかった、助かった、と思うことも多かった。

 

 生きていれば、嫌なこともあり、出来ない我慢をした。その積み重ねが自分を鍛えた。それを回避し続ければ楽かもしれないが、自分は元の怠惰で臆病なままだろう。そのギリギリのところを目をつぶって突き抜けられたのは幸運以外のなにものでもない。思い返せば不運と幸運は紙一重で、幸運は不運からの贈り物でもあった。

 

 不運の方がずっと多いというなら、人生のやり直しにも迷わないのだろうが、多分同じような人生に終わる気がする。後悔するようなことばかりだったけれど、悔やんでもどうしようもない後悔はなるべくしないようにしてきた。だから自分の人生はこんなものかと思うことにしている。ほとんど強がりだが、その方が生きるのが楽だ。
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景色

 一つところにとどまっていれば、見える景色はいつも一緒だ。とはいえ朝昼晩、また日によってその見え方は違うし、見えなかったものが見えてくることもないではない。場所が変われば全く違う景色を見ることが出来る。高みに登れば遙かに遠くが見通せる。そこが木々に覆われ、藪に覆われていなければ、だけれど。

 

 本を読んで考える。前より違う景色が見えることもある。視野が広がり、ぼんやりしていたものが少しはっきりしてくることがある。前に進んでいるつもりで気がつくと後戻りしていたりする。それでも決して同じ場所ではない。スイッチバックのように少しは高度が変わっている。スイッチバックなのかスパイラルなのか、視界を遮るものを掻き分ける力も少しはついてくる。

 

 同じ本を読むなどということは昔はなかった。無駄なことのように思えた。昔の方が時間がいくらでもあったのに・・・。いまは残り時間が少ないのに、一度読んだ本を二度三度読む。一度目に読み取れなかったこと、分からなかったことが、ほかの本を読んだあとにもう一度読むと分かるようになってなったりしていて、そのことが嬉しく楽しい。

 

 人生に二度はないことは承知しながら、二度三度の人生を夢見る。夢想のなかの景色が変わることの楽しみをもっと早く解っていたらよかったのに。
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2020年7月20日 (月)

うっかりが続く

 本日は定期検診日。午前中は糖尿病内科。午後は泌尿器科。間に時間があるので、歩いて20分弱のところを二往復した。しばらく散歩をしていなかった上に30度を軽く超える炎天下を歩いたので、大いに汗をかいた。

 

 朝一番に行くと血液検査が早く終わり、結果的に診察も早くなる。病院について体温検査(平熱)を済ませ、待合室に入ったら、みな一斉に私の顔を見た(そんな気がした)。気がついたらマスクをつけずに家を出ていたのであった。看護師に頼んで二枚百円のマスクをもってきてもらい、無事診察に進むことが出来た。

 

 検尿の尿が濁っている。

 

 血糖値が最近のなかでは一番高かった。美人の女医さんは「気にするほどの高さではないからいいでしょう」と気楽におっしゃる。前のこわい美人の女医さんなら必ずお小言があったはずなのだが。最近のときどきの体調不良を伝えたが、血液からは白血球の増加などの気になる異常値は見つからない、とのこと。

 

 一度帰宅して昼食(空腹時血糖を図るため朝食を摂っていないから、遅い朝食でもある)を摂り、一息入れたあと再び病院へ。泌尿器科で再び不調を伝える。「確かに尿の濁りが気になりますね。ただ炎症はないようです」とのご託宣。ズボンを思い切り引き下げさせられて、膀胱や周辺のエコー検査をする。残尿もなく、問題なし。濁りについては精密検査をしておきます、ということであった。私の腎臓の濾過作用が壊れているのだろうか。心配である。まさか透析なんてことにならなければいいが。

 

 様子を見るためとして、また薬を一種類増やされてしまった。帰り道の炎天下の歩きは多少つらかった。今晩は久しぶりに少しだけビールを飲むつもり。明日は千葉の病院(二カ所)に行くので、早朝五時過ぎには出発しなければならない。飲みたいけれどたくさん飲むのは帰ってからにするつもりである。

 

 とんぼ返りをするので、帰りは夜遅くになる予定。いただいたポチッとへのお返しが出来るのは明後日以降になるのでお許しをお願いしたい。
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ぼんやりして

 もともとは紅茶党だったのに、毎日コーヒーを飲むようになったのは、ドン姫に専用のコーヒーメーカー(粉を入れ、水をタンクに入れると自動的にコーヒーを美味しく淹れてくれる)をもらったから。これが一人用だったので、二杯飲みたいときや、来客があったりすると時間がかかって面倒だ。そこで3~4杯分を淹れることの出来る大きなコーヒーメーカーを購入した。ポットで受けるようになっているので、少し余分に淹れても冷めにくい。たいてい、たっぷり二杯飲む。

 

 今朝もそれでコーヒーを淹れて、できあがるのを待ちながらブログを見ていた。出来たようなので取り出そうとしたらポットがない。ポットをセットしていなかったのだ。粉をセットする槽が湯で満杯になり、下にこぼれている。こぼれたのはわずかで、ポットの受け皿でとどまっていた。床にあふれ出すほどではなかったのはさいわいだった。

 

 ぼんやりしている。どうして気がつかなかったのだろう。コーヒーメーカーを掃除しながら、自分に不安になったりしている。コーヒーメーカーをドン姫がくれたのは、私が湯を沸かす薬缶を空だきしているのを知ったからだ。本を読みながら湯を沸かしたりするので、つい本に夢中になると湯を沸かしていることを忘れてしまう。もちろんいま湯はポットで沸かすようにしている。これもドン姫が買ってくれた。
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2020年7月19日 (日)

森鴎外『興津彌五右衞門の遺書』

 昭和64年生まれは1月1日から7日の間に生まれた人だけだから、とても少ない。1月8日からは平成元年である。同じように、昭和元年生まれは12月25日から12月31までに生まれた人だけである。12月25日までは大正15年だった。明治時代は明治45年7月30日までだから、明治45年生まれと大正元年生まれは大して違わない。

 

 ただ、調べてみたら、厳密に言うと明治45年7月30日は大正元年7月30日でもあるらしい。それは大正15年12月25日と昭和元年12月25日についても同様。改元が発令された時点を境にしたものらしい。ただしご承知のように昭和は64年1月7日までで、翌日の1月8日から平成である。もちろん平成と令和も重なる日はない。

 

 明治天皇が崩御され、その年、大正元年9月13日に大喪の礼があった。その日の晩に乃木希典夫妻が殉死したことは、先日読んだ橋川文三『乃木伝説の思想』について書いたブログで言及している。この殉死に強く衝撃を受けた文人は多かったが、特に森鴎外と夏目漱石はそのことをきっかけにした小説を残していることも『乃木伝説の思想』に書かれている。

 

 夏目漱石は『こころ』(大正二年)で、そして森鴎外は『興津彌五右衞門の遺書』(大正二年)という小説でそれを表現している。夏目漱石は明治という時代の終焉をそれに殉ずるような自殺をテーマにすることで表した。

 

 今回は森鴎外の『興津彌五右衞門の遺書』の方を読んだ。森鴎外が乃木希典の殉死をどう受け止めたのか、それがこの小説に盛り込まれているらしいが、そういう読み方まで出来なかった。ただ、殉死というものに対する森鴎外の価値観が盛り込まれていることは分かる。明治から大正へ、時代はすでに武士の生き方の美学である切腹という死に方が全く理解されなくなっていたであろう。そのことの是非を言っても始まらない。そのことの諦念のなかに森鴎外は何を感じていたのか。

 

 石州津和野の人・森鴎外は、少年の頃向学のために故郷を離れて東京へ出る。そして死ぬまで故郷に戻ることはなかった。晩年、重ねて帰郷を懇請する津和野の有志の声に応えて、ついに帰郷するつもりになったのは、たしか死の二年ほど前のことだ。しかし病を得たりして、ついに帰郷はかなわずに終わった。

 

 森鴎外は死に臨み、墓は森倫太郎とだけ刻むように言い残している。陸軍の要職にあったこと、文豪であったことは振り捨てて、一個人として、石州津和野の森倫太郎として死ぬと決めたその心には何が去来したのか。
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映画寸評(7)

 しばらく映画を観る気がしなくなっていたが、読書に続いて映画も観られるようになった。

 

『プレディスティネーション』2014年・オーストラリア
監督マイケル・スピエリッグ、ピーター・スピエリッグ、出演イーサン・ホーク、サラ・スヌークほか

 

 こういう映画は好き嫌いが大きく分かれるだろう。私は大好きである。会話の量が膨大で、冒頭だけ銃撃シーンなどがあるが、ほとんどが会話シーンである。それでも緊張感が途切れないのは、イーサン・ホークとサラ・スヌークという俳優の演技力が優れているからだ。その会話のやりとりで語られる二人の男(こう言ってしまうとちょっとフェイク気味になるが・・・)の背景が明らかにされていく。

 

 後半はパラドックスに満ちた展開で、それについて行くのは大変である。その大変さを楽しむか嫌気がさすかだが、こんな面白い映画はない。オーストラリア映画にはときどき大当たりがある。そういえば『マットマックス』もオーストラリア映画だった。ディスティネーションは目的地のこと。プレ、だからあらかじめ予定された目的地ということか。

 

『オフィサー・ダウン』2013年アメリカ
監督ブライアン・A・ミラー、出演スティーヴン・ドーフ、ジェームズ・ウッズほか

 

 アル中で、裏社会にどっぷりはまってしまった悪徳刑事が、罠にはまって銃撃を受けてしまう。危うく殺されるところを誰かに助けられるのだが、傷を負っていて助けてくれたのが誰だか分からない。傷が癒えた後、それを機に酒を断ち、妻と娘とのまっとうな生活に戻る。

 

 新たな殺人事件の捜査に奔走する彼の元に、じつは自分が助けたのだ、と言う男が現れる。そして彼からその男の娘の日記を託される。その日記によれば、彼女は刑事の関係していた裏社会に沈められ、麻薬中毒になり、ついには死に至ったようだ。刑事を助けた男は娘の報復を頼んできたのだ。

 

 自分の過去、そして携わっている事件、さらに死んだ娘の日記に記された男の影、それらが次第に関連を帯びていき、ついに刑事は立ち上がるのだが・・・。そのあとどんでん返しがあり、さらに刑事が決死の報復をして・・・と二転三転する。なかなかひねりのきいた面白い映画だった。

 

『フローズン・グラウンド』2013年アメリカ
監督スコット・ウォーカー、出演ニコラス・ケイジ、ジョン・キューザックほか

 

 舞台はアラスカ、連続猟奇殺人事件を追う刑事がニコラス・ケイジ、犯人がジョン・キューザック。犯人はほとんど明らかなのに、巧妙で全く証拠を残さない犯人に警察は後手に回り翻弄される。そして次第にこの犯人の犯行件数は想像を超えて多数であったらしいことが分かってくる。

 

 実話を元にしたもので、遺体が見つかった女性、行方不明のままの女性を併せると、十八人がこの犯人の餌食になったという。ジョン・キューザックの豹変する人格の演技が素晴らしい。彼はこういう役が本当に得意だなあ。
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2020年7月18日 (土)

理解力不足

 来週、入院中の妻の病院に行くのだが、その病院の担当福祉士から電話があり、事前打ち合わせをした。いろいろと確認があったあとで「分からないことはありますか?」と問われたけれど、分からないことがないわけではないのに、何が分からないのかが分からない。

 

 役所の手続きもたいてい済ましてあるはずなのだが、いろいろもらった書類は私の文書読解能力では理解が出来ず、言葉が堂々巡りするばかりで頭が受け付けない。誰にも分かるように書かれているはずなのである。それなら私の思考回路が特殊で当たり前のことが分からないのかもしれない。

 

 とにかく千葉のその病院に行って、もう一度何が足りて何が足らないのか確認し直すしかないようだ。いろいろ準備しているだけでくたびれてしまった。もううんざりだ。
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引き返す勇気がない

 山登りのパーティでリーダーに最も必要な資質は、引き返す判断を下す勇気があるかどうかだという。

 

 いうまでもなく今回のGo-Toキャンペーンのことである。赤羽国交大臣にその勇気と決断力があるとは思えない。あればそう進言したはずだ。安倍首相と菅官房長官の指示で、かろうじて東京を除外するという条件をつけて強行することになった。人の移動が増えれば感染が拡大することは自明であろう。しかしそれ以上に観光業の経済的逼迫があることも事実であるから、あとはどちらを取るかだけだったのは理解できる。

 

 よかれと思って推し進めてきたインバウンド増加策が奏功して、観光業は拡大し、潤った。今後を当て込んで投資も行われたことだろう。そうして拡大したことが今回の新型コロナウイルスで裏目に出た。これはまことに不運なことだったと言うしかない。

 

 ただただ、今回のGo-Toキャンペーンの実施で、感染爆発が起きないことを願うばかりだ。どうせ年寄りと持病持ちだけが重症者になり、死ぬだけだからかまわないのだろう。若者たちはそう内心で思っているに違いない。そうなればこちらも自衛するしかない。一番最後に死んでやる。

 

 でも旅には出かけたいなあ。
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2020年7月17日 (金)

言葉を飾る

 言葉を飾る人間は、しばしば言葉だけが美しく内容が空疎であることを、過去たびたび見てきた。普通に日本語で語れる言葉をわざわざ横文字で語る人間が、私は不愉快である。いちいちカタカナ語辞典を引かないとならないから億劫でもある。意思疎通をわざわざ面倒にするその心性が理解できない。もちろん小池都知事のことを念頭にしている。

 

 先日橋下徹氏が問題点は何であって、それに対していま自分が何をしなければならないのか、そのことが分かっていない政治家は無能である、と語っていた。東京都は問題だらけのようである。何しろさまざまなことが齟齬を来しているらしいのに、都知事は美辞麗句と横文字で人ごとのようなことばかりいう。指示を受けたものは馬鹿馬鹿しくてやっていられないのではないか。

 

 こういう人間は現場を知らず、現場の悲鳴も聞く耳を持たないことが多いから、誰も真摯な報告をする気にならないものだ。こうして知事と現場が乖離したまま問題点は先送りされ、言葉だけが飾られている。これは西村大臣も同様に見える。これではコロナ禍は治まるどころか深刻な事態になりそうだ。みなそれをうすうす感じているのではないか。

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ウソだったのか?

 韓国の焼酎に真露というのがある。ジンロと読む。瓶にはJINROと表記されている。韓国で飲んだときには美味いと思ったけれど、日本で飲んだら美味いと思えなかった。同じ真露でも種類があるのか、日本向けには日本人に合うようにという理由でまずくしてあるのか知らないし、私の気のせいかもしれない。

 

 いまは焼酎の話ではなくて、新型コロナウイルスのクラスターとなった新宿のミニシアターで上演されていた演目が「人狼-JINRO-」だったので、韓国の焼酎を連想したのだ。このミニシアター、主催者、出演者の感染リスクに対する意識の低さが非難されている。本当にお粗末だったらしく、ほかの演劇関係者から激しい非難が浴びせられるのは当然であろう。いい迷惑である。

 

 数日前のことでどの番組か忘れたのだが(ひるおび!だったと思うが定かではない)、その演劇の観客だったという女性の話が紹介されていて、彼女が感染の有無を調べたいと、その劇場の観客だったことを明らかにして保健所に申し入れたら、いま検査は満杯なので受けることは出来ない、と言われたそうだ。数日後に申請して欲しい、ただしそれもキャンセル待ちになる、といわれたという話が伝えられた。スタジオはみな唖然とし騒然としたが、見ている私も唖然とした。

 

 まさにその日に、小池都知事が、いまPCR検査数は順調に増えていて一日3000件は可能です、と胸を張っているのを見た。いま現に感染が濃厚に疑われる人がいて、最優先で検査すべきことが明らかなのに、キャンセル待ちというのは何事か、と思って唖然としたのだ。

 

 保健所はこの女性の言っていることが理解できなかったので一般扱いしてしまったのか、この女性がウソをついているのか、それともそもそも小池都知事のいう一日3000件の検査が可能というのがウソなのか。

 

 不思議なことにその後これがマスコミで取り上げられて騒ぎになったという話を聞かない。やはりフェイクだったのだろうか。しかし私は、小池都知事に抱いた強い不信感を拭えなくなった。彼女は現場の状況を知らずに口先のパフォーマンスをするだけの人間にしか見えなくなっている。
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2020年7月16日 (木)

ようやく本調子に戻った?

 寝込むような具合の悪さは無くなったけれど、微妙な発熱(37度あるかないか)がときどきあった。そういうときは、排尿を見る(医師から常に意識して観察しておくように言われている)と濁りが見られる。ひどいときは濁った醤油のような恐ろしい色をしている。それがようやく澄んだ排尿が続くようになった。そうなるとだるさのような、何もしたくないという倦怠感が消えて、本を集中して読めるようになった。

 

 来週は泌尿器科の定期検診で、菌の検査をしてもらうので、そこで何もなければさいわいである。

 

 備忘録として、先週末から読んだ文章(本ではない)を記録しておく。一つ一つ考えたことを書きたいけれど、多すぎるので今回は題名だけにする。十日ほど全く本が読めなかったので、いまは読むのが楽しくて仕方がない

 

評論
『「戦後」派文学の方法』奥野健男
『東洋的全体小説』奥野健男
『性文学の質的転換』奥野健男
『快感原則による文学』奥野健男
『深層意識と言語』奥野健男
『リアリズムを超えて』奥野健男
『現代文学の基軸』奥野健男
『昭和十年代文学とは何か?』奥野健男
『正統意識を排す』奥野健男
『誰を意識して書くか』奥野健男
『物語の行方』三浦雅士
『コピーという呪文』三浦雅士
『乃木伝説の思想』橋本文三
『戦中派とその「時間」』橋本文三

 

小説
『鬼平犯科帳11』池波正太郎
『剣客商売 勝負』池波正太郎
『速夫の妹』志賀直哉

 

大体こんなものか。三浦雅士の『物語の行方』で、中上健次の『千年の愉楽』を読んでみたくなった。
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昭和で止まっている

 今期の芥川賞と直木賞が決まったらしい。直木賞の馳星周は好きな作家で多くの作品を読んでいるけれど、芥川賞の作家はどちらもあまりよく知らないし、当然作品を読んでもいない。以前はたまに受賞作品や、受賞作家の作品を読んだりしたけれど、いまはほとんど読まなくなった。

 

 考えてみたら、最近は文学評論を読みまくっているのに、平成以後の文学作品はほとんど読んでいないことに今更ながら気がついた。娯楽小説である時代小説やミステリー以外の平成時代の作家の文学作品をほとんど読んでいない。何しろ村上春樹ですら初期の短編と二、三の長編を読んだことがあるだけである。

 

 私にとって文学作品とは明治大正昭和までのもので、平成以後は存在していない。これは流行歌も同様で、1990年以降の歌はほとんどなじみがない。つまり私にとっては存在しない。せいぜい平原綾香くらいか。最近のカタカナやローマ字の名前の歌手など、なんと読むのか知らないし、聴いてもどこがいいのか分からない。

 

 すでに時代遅れになってしまったのだが、その過去の文学を読んだりその評論を読んだりすることが楽しいことはこの上ない。他人には懐メロを楽しむ老人にしか見えないことだろうなあ。
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2020年7月15日 (水)

いまは控える

 先週、私を含めて友人たちと四人で奈良(大阪の居酒屋では三密が避けられないから、さすがに無理)で会食する予定を立てていた。ずいぶん久しく会っていないので、そろそろ好いのではないかと考えたのだ。ところが雨はますます降り続くし、新型コロナウイルスは再び感染拡大を始めているので取りやめた。

 

 何より恢復したと思った私の体調も、微妙に万全とは言いがたく、意欲も少し低下していたのも事実である。

 

 来週は自分自身の糖尿病、そして泌尿器科の定期検診が立て続けにある。さらにそのあとの連休前に、千葉で入院している別居中の妻の病院と、もう一つの病院に行かなければならない。病院のはしごである。

 

 前回妻の千葉県の病院へとんぼ返りしたときに、その疲れから体調を崩し、つらい思いをした。今回はだから弟のところへ泊めてもらうつもりでそのように頼んである。しかし病院をはしごしたあとに弟のところに寄るのは、感染リスクを高めることに他ならない。

 

 弟もリタイアして弟夫婦と三人での旅行の計画を考えていて、その打ち合わせをすることになっていた。だから弟と会っていろいろと話をしたい気持ちは山々だが、今回も控えた方がいいだろう、と考えている。まだ断りの連絡はしていない。

 

 体調については・・・今週になってほぼ完調で、いまは本を集中して読めるようになっている。せいぜい休み休み無理をしないようにしながら、今回も日帰りするしかないだろうと覚悟している。
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昔の写真を眺める

 春に過去の写真を全てNASのハードディスクにまとめた。家庭内LANの、どのパソコンからも、またAVアンプからも、全ての写真を呼び出して眺めることが出来る。そのNASに音楽も全て納めてあるので、どこからも聴くことが出来る。昨晩は海外旅行の写真のうちの、韓国に行ったときの写真を寝床のパソコンで眺めた。韓国にはソウル周辺と、済州島の二回行っている。

 

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 古い写真はみなフィルムで撮ったので、それをデジタル化してファイルにしてある。ネガの現像など処理がいい加減なものが多くて(これはDP屋のせいである。このことは繰り返し怒りを持って書いてきた)、色合いが悪い。そのうえ腕も伴っていないから、せっかくの旅行の写真のできに不満である。こう撮ればよかった、構図は、露出は、などと後悔することばかりだ。とはいえそのためだけにもう一度行くわけにもいかない。後悔先に立たずである。こうして自分の撮った写真を見るたびにああすればよかった、こうすればよかった、もっといいカメラが欲しい、と思う。

 

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 それにしても過去を振り返り、懐かしむことの多くなったことになんとなく自分の衰えを感じる。

 

藤沢周平が引用していた古川柳の

 

  ふるさとへ廻る六部は気の弱り

 

を連想した。
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2020年7月14日 (火)

橋川文三『乃木伝説の思想』

 いまの若い人のどれだけが、乃木希典と聞いてどんな人であるのか承知しているのだろうか。中学校、高校で日本史を習ったとしても、ほとんど明治以降は詳しく学ばないというし、私自身の記憶でも、日清戦争や日露戦争について、授業らしい授業を受けなかったような気がする。それに続く日中戦争から太平洋戦争についてはなおさらである。それなら韓国や中国が、日本人は歴史認識に欠ける、というのはあながち言いがかりともいえないことになる。知識のないのは若い人ばかりではないのだから。

 

 幕末については多少は授業を受けた。その幕末が生んだ明治という時代がどういう時代だったのか知らずに、なぜ日本が世界の多くの国々と戦争することになってしまったのか、考えることが出来るわけがない。なぜ戦争をしたのか、それを知らずに戦争反対を叫んでも、そもそも戦争とは何かを知らずに戦争を語っているわけで、戦争をしないためにどうしたらいいかなど、本当は語る資格がないと私は思う。空論にならないためには少しは近現代史を学ぶべきではないか。韓国や中国と違って、日本ではさまざまな立場からさまざまに書かれた本がいくらでも手に入るし、読むことが出来る。

 

 前置きが長くなりすぎた。

 

 取り上げたのは陸軍大将だった乃木希典夫妻が、明治天皇の御大葬の日に殉死(自刃)したことについて論じた文章である。この殉死が当時の報道や作家たちにどう取り上げられたのか、それがまず紹介され、白樺派の志賀直哉や武者小路実篤の痛烈な批判、それとは正反対の森鴎外の反応、さらに芥川龍之介の小説、『将軍』が論じられていく。

 

 そこからさらに乃木希典の遺書が紹介されたあと、乃木希典がなぜ自死したのか、その思考について詳しく掘り下げていく。そこには長州出身の乃木希典の、明治という時代に対する居所のなさが浮かび上がってくる。明治という時代を生きながら、志士として明治維新に殉じた人たちの抱いていた志を共有しながら、その時代の日本は大きくずれてしまったというその違和感のなかで、乃木希典にとってただ一つ統一的に信じられたものが明治天皇という存在だった、という見立てについて、私のざる頭も理解できた。

 

 乃木希典の遺書や日記をはじめ、旧仮名遣いの文語文がふんだんに引用されているので、多少読み応えがあるが、それほど長い文章ではないので読めないことはない。ただし、乃木希典の得意な漢詩がいくつも引用されていて、それは白文のままなので、どこまで理解したかおぼつかない。歴史をこういう形で照らし出して考えさせてくれたことに感謝したい。こういう労作がたくさんありながら、知る機会もなしに生きてきた。

 そういえば司馬遼太郎は、あの人には珍しく、乃木希典をほとんど罵倒に近いような酷評をしている。さはさりながら、乃木希典の思想についてはそれなりに承知していたのであろうと思う。

 

*『昭和文学全集 第三十四巻 評論随想集Ⅱ』(小学館)から。出典は『橋川文三著作集 第三巻』昭和60年・筑摩書房刊。
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ゴム紐の跡

 熊本などの豪雨被災地の視察に訪れていた安倍首相の会見での顔のアップを見たら、目の下の頬から耳にかけて、くっきりとしたゴム紐の跡が見られた。

 

 マイクを向けられたとき以外は、安倍首相はいつもちゃんとアベノマスクをつけている。自分の名において国民に配ったアベノマスクだから、意地でもつけ続けているのだろう。しかしアベノマスクは小さい。安倍首相のふっくらした頬にマスクのゴム紐が食い込んで、跡をつけたのである。

 

 けなげだなあ、といささか同情しながら眺めていた。
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2020年7月13日 (月)

邪推

 鹿児島県知事選で、なぜ自民・公明は現職の三反園氏を推薦して応援したのだろうか。もともと朝日新聞出身で、原発反対を謳って知事になった人である。当然リベラルと言われるタイプの人なのだと思う。よく知らないけど。

 

 ニュースでは、知事になってからはそれが変節して原発反対のトーンがダウンしたことが支持を失った理由なのだ、などと解説されていた。

 

 結果的に経産省出身の塩田氏の当選となった。結果は政権側としては悪くないことになったように思える。そもそも私は塩田氏のことを全く知らないけど。

 

 もしかしたら自民・公明が塩田氏を応援し、三反園氏を推薦しなかったら、三反園氏が再選されたかもしれない、などと想像した。それを読んで、自民・公明が三反園氏を推薦したのなら、その遠謀深慮には敬服する。

 

 ただ勝ち馬に乗ろうとして失敗しただけかもしれないけど。
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徒党

 奥野健男の『「政治的文学」批判』という評論の冒頭に太宰治の言葉が引用されていて、いたく感心してしまったのでここに記しておく。

 

  徒党は政治である。
  友情。信頼。私はそれを「徒党」のなかに見たことが無い。
  新しい徒党の形式、それは仲間同志、公然と裏切るところから始まるかもしれない。
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2020年7月12日 (日)

予備を買う

 調味料、麺類、めんつゆなど、なくなりかけたら買えばいいのに、予備を買うようになった。さまざまなものの予備が増えてきた。歯ブラシの予備が一本ではなくて二本になっている。

 

 いまに予備があることを忘れて、予備のためと思ってさらに買うことが増えていくに違いない。こうして使い切れないものが家にあふれ出したら、多分認知症の予兆かもしれない。こうしてそれを心配できているうちはまだマシで、いまにそれすら気がつけなくなったりしそうで怖い。
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初めての中国

 あれほど中国へ行くことを楽しみにしていたのに、多分もう二度と中国へ行くことはないだろうと考えたら、中国へ行ったときの古い写真を眺めながら、ため息をついている。

 

 初めて中国へ行ったのは、1992年の秋。四連休だったので、一日有給休暇を加えて四泊五日で西安と北京を訪ねた。夜、小牧空港(まだセントレアはなかった)を起って上海のホテルに入り、早朝、虹橋(ホンチャオ)空港(まだ浦東空港はなかった)から西安に飛んだ。西安の空港も新しく出来たばかりだった。

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上海のホテル前で迎えのバスを待つ。雨だった。

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空港から西安の街まで一時間足らず。黄河の支流の渭河を渡る。

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レンガの塀のプロパガンダの文字に文化大革命を想う。

 

 堰かれて募る恋心。行けないと思うとなおさら懐かしい。
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2020年7月11日 (土)

近未来予測で元気を出す

 世界は新型コロナウイルスの防疫よりも、経済の方を優先する方向に舵を切りつつある。元々防疫と経済活動は両立しないものであり、経済活動が低下したままでは社会が保たないから、経済活動再開は必然ともいえる。それはブラジルやアメリカばかりではなく、日本も同様である。そうなれば防疫は不十分なものになって感染は再拡大するのも必然である。

 

 命が大事、という建前が当初は優先したが、重症化したり死亡したりするのは社会全体としてはごく一部であって、それは仕方がないことだ、ということかと思う。特に若い人は感染してもたいてい大丈夫、と思っているから、歯止めが弱まれば一気に街に繰り出して以前と同じ生活を始めている。そして実際重症者はそれほど増えているわけではないようだ。

 

 しかし高齢者や持病のある者にとっては、ゆゆしき事態であり、そもそもそのような人はいまでも家に引きこもり、他人との接触をひたすら避けているはずで、だから重症者が少ないのだと思う。

 

 アメリカと同様、日本でも再拡大は必至で、それでも担当の西村大臣は、緊急事態宣言をだす必要はない、とおっしゃる。それは政府全体の意向であるからだろう。そしてこれはもう変わらないだろう。ウイズ・コロナはこれからの生き方になるのだ。

 

 ここからは私の妄想的想像だが、これから持病を持つ者、高齢者など感染リスクの高い人たちへの感染がじわじわと増えていき、結果的に年金や医療費などの社会保障費負担の原因となっている体力的弱者が淘汰されていくであろう。そうして社会は経済負担が減り、全体がリフレッシュし、若くて健康な人たちの世界になっていく。まことにめでたいことである。

 

 私は持病持ちの高齢者である。覚悟はしている。覚悟はしているがあきらめない。しぶとく生き延びるために頑張るしかない。そう思ったらあまり弱音も吐いていられないと思ったら、少し元気が出てきた。
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私が知らないだけなのか

 中国による香港の一国二制度反故強行について、野党が特に抗議しているという話を見聞きしないのは不思議なことだ。私が知らないだけなのだろうか。ニュースはけっこう丁寧に見ているつもりだが、そこで取り上げられていないだけか。

 

 日頃、自由と民主主義を声高に叫ぶ野党がどうして自由と民主主義が犯されていることに口をつぐんでいるのか不可解である。下手にそんな抗議をすると、中国に行けなくなるのを心配しているのか。彼らの言う自由と民主主義の主張などというのはそれほどお手軽な、口先だけのものなのか。多分そうなのだろう。

 

 多くの日本人は香港の人々に同情し、中国の行動に怒りを感じているはずで、ここで激しく中国に対して抗議すれば、多少なりとも党勢挽回も在り得るだろうに、何をしているのだろうか。

 

 中国や朝鮮(ここでは韓国も北朝鮮もひっくるめて言うので朝鮮という。いちいち注釈しなければならないのは七面倒なことだが、必ず言いがかりをつける輩がいるので仕方がない)は、世の中というのは、言ったもん勝ち、やったもん勝ちだということを西洋列強と日本から学んだ。

 

 アフリカを、中近東を、インドを東南アジアをそして中国を蚕食した。中国ではアヘン戦争という、歴史に悪名が残るような戦争の口実で侵略した。アメリカだってきれい事は言えない。メキシコの国土を次々に切り取って自国に編入するという悪行をなしているし、キューバで何をしてきたか、南米で何をしてきたか。わが日本はその西洋列強に学び、中国を侵略し、満州帝国という傀儡帝国を打ち立てたりした。

 

 香港など、アヘン戦争などで、無理矢理イギリスが中国から割譲させた場所である。しからば中国にしてみれば、今更約束がどうのこうのいうのはちゃんちゃらおかしいというところだろう。

 

 中国はチベットという国を侵略し、自国にしてしまった。ウイグルで、モンゴルで何をしてきたのか。中国の論理は人民の解放である。救済である。宗教に支配され遅れた文化の人々を中国の正しい文化で目覚めさせ、豊かにするのだ、と胸を張る。ウイグルでは再教育で洗脳が行われているという。正しく導くためである。

 

 二度の大戦を経て、世界はそういう、言ったもん勝ち、やったもん勝ちのままだとまた戦争になって、また大変な犠牲者が生じてしまう、と反省したのである。もうやめよう、と申し合わせたのである。中国と朝鮮はそれを無視している。戦争の火種は日本にあるのではない。あちらにあるのである。どうして野党はそれを問題視せずに、自国にばかり非難の矛先を向けるのか。香港の問題で黙っているのか。
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2020年7月10日 (金)

買い取り業者

 チャイムが鳴ったので、うっかりして相手を確認せずに玄関を開けてしまった。荷物が着く予定があったので、配達だと思い込んだのだ。

 

 若いお兄ちゃんが立っていて、「不要品はありませんか」といいながらチラシを渡してきた。不要品はない、と返事をした(捨てたい粗大ゴミはないことはないけれど、なんとなく不審な感じがしたのである)。そうしたら、「古切手やコインなどを高価買い取りしますよ」、などと言い出した。

 

 買い取り業者らしい。なんだかしつこく食い下がって、あれはないか、これはないか、などという。最初は我慢して話に付き合っていたが、腹が立ってきたので、「用があればこちらから頼む。マスクもなしに戸別訪問をするのはこの時期問題があるのではないか。いい加減に帰れ」と言ったら顔つきがガラリと変わった。変わったけれどにらみつけたら不愉快そうな顔で引き上げた。

 

 以前このような買い取り業者にうまくく言いくるめられて、貴金属やコインなどを二束三文で買いたたかれたという話を聞いたことがある。その際に個人情報までとられたらしい。恐ろしいことだと思っていたから今回は追い返せたけれど、案外巧みな言い回しで食い下がるので注意が必要である。年寄りだと思ってなめるなよ。
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続・検閲

 検閲について考え出すとあまりにもたくさんのことを考えないといけないので、いまは私的検閲ということについて書いておきたい。検閲とはそもそもが公的機関が行うものであるから、私的検閲というのは矛盾しているが、発言、意見の表明に対しての規制が公的な機関からでないものが、ある意味で公的なものよりも権力的になっているような気がしているのである。私にはいまの日本の状況がそもそもの公的検閲などよりもはるかに私的検閲が多いように見えることに危惧を覚えている。

 

 マスコミが自主規制している、禁止用語や言い回しについてまとめたものが電話帳ほど大部だという話をしばしば聞く。見たことがないので、都市伝説かとも思うが本当らしくもある。差別をしないように注意するための自己規制ということになっているが、じつはその淵源が進駐軍の検閲に端を発しているのではないか、という気もしている。これは江藤淳の『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』という労作を読んでの私の考えである。

 

 そのことはそれとして、いまSNSなどによるさまざまなバッシングが、ある意味で個人が私的に検閲をしているように感じられてならない。善悪の基準はときに人さまざまだが、そのさまざまであることを忘れて、自分の基準だけが正しいと思い込むと、その私的検閲が作動するようである。しばしば善悪で論ずる話ではないことが善悪で論じられたりしている。ミニチュアの権力者が権力を行使している姿に、中国と同じではないか、などと思うのは、私がおかしいのだろうか。正義を声高に叫ぶ人間が私は嫌いである。
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2020年7月 9日 (木)

検閲

 これ以上のことをしたらまずい、という歯止めを見失ってしまった北京共産党政権は、ついに香港の一国二制度という国際的な約束を平然と反故にした。香港の市民たちは、いままで享受していた自由というものを失ったことの意味を身にしみて思い知らされることになるだろう。

 

 そのことの不幸はわれわれ部外者にはなかなか実感できないけれど、今回われわれ部外者、つまり中国人ではない人々も、中国に対する言論の自由を失ったことをこれから実感することになりそうだ。中国人ではなくても、中国に批判的な発言をしたことが問題視された場合、その人が香港を含め中国大陸に行けば、その発言などが処罰の対象になって拘束される場合もあると今回法的に明記されたのである。

 

 問題視するのは誰か。中国政府だということになっているが、膨大な情報のなかからそのような発言を探し出して問題であるかどうか判断するのは何万人といるとされるそのような検閲に携わる連中である。その面々にはどのような基準があるのか、一切不明である。しばしばその基準が人により大きく違うことは、過去の事実から推察できる。些細なことにこだわり問題視する人間もいれば、よほどの場合しか問題視しない人間もいるだろう。

 

 運が悪ければ、全く意図に反した、中国のためによかれと思う発言すら曲解されて批判ととられる可能性もある。告発することが手柄である社会では、しばしばそれはエスカレートする。そこで身柄を拘束されても、その拘束がどういう根拠であったのか開示されることはないし、反論もまず許されないのがいまの中国である。まさに暗黒の国であると全世界にあらためて表明したのが今回の中国だ。

 

 そしてこんなことを書いている私のことを、中国で誰かがチェックしていないとはいえない(AIでキーワード検索すれば検閲は簡単である)から、過去たびたび中国旅行を楽しみ、中国が好きで、中国がこうであって欲しいという思いがたくさんある私も、中国へ行くことはもう出来ないとあきらめざるを得ない。大げさに思えるかもしれないが、夫婦で老後の中国の暮らしを楽しんでいた人が、ココログに中国の生活の、日本との違いを書き綴っただけで、ネットを遮断されてしまい、身の危険を感じたという話を知れば、人ごととはとても思えないのだ。

 

 このことから、日本の検閲ということに思いは飛ぶ。長くなるので次回に。
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鶏皮入り野菜スープ

 キャベツを少し多めに刻んでたっぷりの水を入れた鍋でゆっくり煮る。その間に鶏皮を細かく切ってフライパンでゆっくり炒める。油がどんどん出てきて撥ねるので注意。鶏皮だけ取り出して鍋に放り込む。残った油でタマネギ、にんじん、シメジを焦がさないようにゆっくり炒める。好みのスパイス、胡椒、ガーリックを振りかける。よく炒まったらやはり鍋に放り込む。そこにコンソメスープの素を3~4個加えて弱火でゆっくり煮込む。ウインナソーセージを一袋(5~6本)を適当に切って加えてさらに煮込む。できるだけ静かに煮込み、汁を濁らないようにする方が美味しい。

 

 味付けはコンソメスープだけ。馬鹿馬鹿しいほど簡単で、しかも安上がりでしかも美味い。食べるときにタバスコを垂らして食べてもいい。食べ飽きたらポッカレモンを垂らしたり、ケチャップを入れて違うスープに変化させてもいい。

 

 そんなスープで食いつなぎながらまだひたすら寝ている。
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2020年7月 8日 (水)

ひたすら寝る

朝からひたすら寝ている。体温は平熱だから具合が悪いわけではないけれど、心と体が寝ることを求めている気がする。何しろ睡眠障害気味のはずなのに、目をつぶるといくらでも寝られる。

 

熊の冬眠か。いや、それより脱皮前のさなぎ状態みたいだ。これは成虫になるためと言うよりも、自分の身心の新しい段階への変身のための眠りかもしれない。これで老人力(by赤瀬川源平)がパワーアップするはずだ。

 

今晩も明日も寝られるだけ寝るつもりだ。いつか寝るのに飽きるだろう。
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卑小感

 自分の愚かさ、臆病さ、意気地のなさ、無力感がことさら思われて、精神的に落ち込んでいる。些細なことがきっかけでこのような鬱症状が起こることがなかったわけではないが、それを外側から笑いながら見ている自分がいて、それが救いだったけれど、いまはまるごと落ち込みかけている。

 

 せっせと読んでいた本も、せっせと観ていた映画も、昨日からほとんど手がつかなくなり、ぼんやりしている。低調になると義務的に観たり読んだりさせられているような気がして、嫌気がさしたのだ。

 

 こうして文章に出来ているということは、まだたいしたことではなく、まもなく気持ちを持ち直すだろうと高をくくってはいるが、それはそう望んでいるだけのことかもしれない。ブログを書くことも億劫になっている。

 

 このままではいけない。心身のメンテナンスが必要なようだ。何をとっかかりに始めようか。
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2020年7月 7日 (火)

集中豪雨に思う

 毎日よく降る。テレビでは九州の豪雨被害の様子が連日報道されている。自分が被害に遭ったらどうであろうか、と想像すると言葉もない。心からお見舞い申し上げたい。

 

 九州には何度か行っているが、またゆっくり訪ね歩きたいと思っていた。葉室麟がしばしば小説のなかで取り上げる九州各地は、私にはほとんどなじみのないところであるだけになおさら訪ねたい気持ちになっていた。そのときには旅行ガイドとして葉室麟の『曙光を旅する』(朝日新聞出版)という紀行エッセイを携えていくつもりだ。それに司馬遼太郎の『街道を行く』のなかの、九州に関連する部分も読み直しておきたいと考えている。

 

 特に連泊して歩き回りたいと思っているのは日田というところだ。日田については葉室麟も司馬遼太郎も詳しく書きこんでいる。以前大分を走り回ったときに日田の街とそこへ出入りする谷の深さを承知しているが、日田の街は通過しただけだった。その日田が豪雨による水害を受けているのを画面で見て心を痛めている。

 これまでも降り続いていたが、どうもこれから木曽川水系や長良川水系で大雨による被害が予想されるらしいので心配だ。

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映画寸評(6)

『ローガン』2017年アメリカ、監督ジェームズ・マンゴールド、出演ヒュー・ジャックマン、パトリック・スチュアート、ダフネ・キーンほか

 

 『X=メン』シリーズはさまざまに枝分かれした物語となって映画化されていて、時代や結末はさまざまである。全体を概観するのは困難で、それぞれのキャラクターを承知しながら、語られる物語を受け入れて愉しむしかない。この映画はこのシリーズの狂言回し役であるウルヴァリンことローガンの最期を語る物語となっている。体内に埋め込まれたアダマンチウムによって、本来は再生能力があって不死身なはずの彼も次第に肉体をむしばまれ、傷ついても再生が出来なくなりつつある。

 

 すでにミュータントはほぼ絶滅してしまい、新たなミュータントも生まれず、ローガンはプロフェッサーことチャールズをかくまいながら、辛うじて生き延びている。そのローガンに少女を連れて救い求める女がやってくるが、にべもなく断ってしまう。いま彼には人を助ける力などないのだ。そのローガンがついに最後の力を振り絞って立ち上がるのは、その少女のためだった。戦いのなかでプロフェッサーも死に、ローガンも死ぬ。そして新たな世代(彼らはミュータントのクローンだった)にX-メンたちの志は引き継がれていく。ボロボロのウルヴァリンを見ることが出来る。

 

『フリークス 能力者たち』2018年カナダ・アメリカ、監督アダム・B・スタインほか、出演エミール・ハーシュ、ブルース・ダーン、レクシー・コーカーほか

 

 カナダ映画には外れが多いが、この映画はとことん低予算の映画ながらストーリーは練られているし、俳優もそこそこなので最後まで楽しめた。とくに超能力者である少女役のレクシー・コーカーが可愛いし、難しい役柄を好演している。

 

 超能力の持ち主は隔離され、多くは抹殺されるという近未来、父親は自分の超能力で結界を張り、その中で娘を守り続けている。その娘の能力が結界のなかに不思議な空間を作り出し、崩壊させていく。敵が迫るなか、死んだはずの母親が囚われたままで生きていることを知った祖父、父親、そして少女は彼らの持てる能力を駆使して命がけで少女の母親を助け出そうとする。次々に命を落とすなかで、誰が生き残れるのか。超能力の話が好きならけっこう愉しめる。

 

『スノー・ホワイト 氷の王国』2016年アメリカ、監督セドリック・ニコラス=トライアン、出演クリス・ヘムスワース、シャーリズ・セロンほか

 

 特撮映像をふんだんに盛り込んで面白くないわけではないが、愛の不信がきっかけで始まった氷の女王の戦いとはいえ、その動機があまりに一方的で得心できない。愛が信じられなければ悪は仕方がないかのような展開は物語の大きな傷である。そんな風に感じるのはその前に見た『マレフィセント』が、やはり愛に対する不信がきっかけの呪いでありながら、その凍り付いた不信の溶け方に救いがあったからだ。人間は愛の不信が凍り付いたままでは生きていけるはずがない。裏切られたら恨み続けるのではなく、それを忘れることも生きるためには必要なことではないか。
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2020年7月 6日 (月)

池波正太郎『剣客商売 春の嵐』(新潮文庫)

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 シリーズ十巻目にして初の長編。いままで登場したおなじみの顔ぶれが勢揃いで、秋山親子の苦難のために奔走する。

 

 秋山大治郎の名前を名乗った上で斬殺するという凶行が繰り返される。疑われた秋山大治郎は謹慎し、身動きがとれない。やがて秋山大治郎の舅である田沼意次の家人が惨殺され、次いで田沼意次の政敵である松平定信の家人が殺される。田沼意次は大治郎をよく知るから全く疑わぬが、松平定信は狂気のようになって大治郎を糾弾しようとする。

 

 この凶行には政治的背景があることが冷静にみれば分かるのだが、疑心暗鬼が高じると人は次第に冷静さを失っていく。息子の苦境に苦慮する秋山小兵衛。自分の持てる人脈を尽くして手がかりを探すのだが、さまざまな行き違いによって何も進展しない。そんな中、傘屋の徳次郎は小兵衛の思いつきに可能性を感じて、執念でこだわり続け、ついに手がかりをつかむのだが・・・。

 

 いままでの短編では、人と人との関わりをきっかけに、あたかも都合良く手がかりがつかめてしまう話が多かったが、この長編では手違い行き違いすれ違いの連続で、読者をやきもきさせてくれる。しかし人生はこちらの方が普通であるという気もする。経験的に言えば、あのときにああしておけば、というのが人生のほとんどである。

 

 わずかでも、いったん手がかりさえつかめれば、真相への道は敷かれたのも同様である。ついに犯人は小兵衛によって討たれるのであるが、その背景についての詮索は幕閣の闇に埋もれてしまう。小兵衛は、徳川幕府も先が長くないようだ、とつぶやく。
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映画寸評(5)

『猿の惑星 新世紀(ライジング)』2014年アメリカ、監督マット・リーヴス、出演アンディ・サーキス、ジェイソン・クラーク、ゲーリー・オールドマンほか

 

 出演者の多くが猿(正確には英語でエイプと言われる類人猿)なので、俳優の顔は分からない。これが新しい『猿の惑星』シリーズの何作目で、前作とどうつながるのかよく分からずに観た。いままで観たものが前後しているかもしれないけれど、これはこれで単独でも面白い。

 

 猿を原因とするウイルスの蔓延で、すでに人類はほとんど死滅している。生き残っている、免疫を持つわずかな人類はコロニーをけいせいし、そこにこもって生き延びているに過ぎない。一方、猿はすでに人類並みの知能を有して、言語を駆使して原始的ではあるが社会活動を開始している。猿を原因としているウイルスは猿には害を及ぼさなかったようだ(よく覚えていない)。

 

 サンフランシスコに生き残った人類のコロニーは、手持ちのエネルギーが枯渇しつつあり、生き延びるために水力発電所の再稼働を計画する。そして猿の住む森の世界に人類が踏み込むことになり、そこで軋轢が生じて・・・というのがメインストーリーである。互いに相容れない人類と猿が、なんとか共存を図ろうとする一部の人間の努力を踏みにじって血みどろの争いに突入していく。

 

 何より猿のリーダーが人類の誰よりも英知に富む理知的な相貌をしているのが印象的だ。しかし争いが一段落したあと、彼がつぶやくのは、ことここに至ればもう引き返すことはできない、という言葉だった。こうして多分人類は絶滅し、地球は『猿の惑星』に化していくのであろう。臆病者ほど諍いのきっかけを作る、という逆説も効いている。

 

『キラーズ・セッション』2019年イギリス、監督マーティン・オーウェン、出演ゲーリー・オールドマン、ジェシカ・アルバほか

 

 この世の中には普通の人には知られていない殺し屋たちの存在があるらしい。それらがじつは大きなネットワークのなかに組み込まれているらしいのだが、映画のなかではその辺がほのめかされるだけで、曖昧でよく分からない。そういうプロの殺し屋たちが一部屋に集められ、互いの告白を迫られる。それが本当なのか、どうしてそんなことが迫られるのかも説明されないまま、そもそもその場にいることが不似合いな若い女性をめぐって駆け引きが始まる。やがて互いの殺し合いが始まり・・・。という映画なのだが、結局分かったような分からないような展開で幕が閉じてしまう。分からないのは私がバカだからだろうか。といってもう一度観るのもなあ。

 

 ジェシカ・アルバが怪演。こんなおばさんが一番怖い。

 

『ネバー・ダイ 決意の弾丸』2019年アメリカ・ブルガリア、監督リオール・ゲラー、出演ジャン=クロード・ヴァン・ダム、デヴィッド・カスタニエーダほか

 

 若いときのヴァン・ダムのアクションのキレは惚れ惚れするものがあった。それが衰えてなんとなくスローモーションを見ているようになって哀しいのだが、つい彼の主演の映画だと録画して観てしまう。そしてほとんど当たりがないことを残念に思っていた。その中ではこの映画はそれほどガッカリしなかったのはさいわいである。最近観た、ジャッキー・チェン主演の『ザ・フォーリナー 復讐者』という映画が思い出される。似たようなシチュエーションの映画だからだ。しかし映画の出来、演技の格としてはジャッキー・チェンの方に軍配を上げたい。年寄りが必死で巨悪に立ち向かう意気込みは同じでも、その執拗さの、ある意味で怖さを感じさせたジャッキー・チェンは普段のカンフー映画よりずっと良かったと思うのだ。
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2020年7月 5日 (日)

奥野健男に対する『政治と文学』論争を愉しむ

 いまから60年~70年も前の文学評論を愉しむというのは、ずいぶん特殊な楽しみといえるだろう。ところがそれが面白いのである。奥野健男という文芸評論家が、野間宏の『わが塔はそこに立つ』という小説を酷評した『「政治と文学」理論の破産』という文章をめぐって大論争らしきものが起こったらしい。

 

 一ヶ月以上前から『奥野健男文学論集』第二巻を読んでいるのだが、そこにこの論争をめぐっての奥野健男の文章の一部が収められていて、さらに参考文献として関連の論文・批評文が明記されている。それが何十もあるからすさまじい。いま読めば奥野健男のいっていることが至極まっとうに思えるのだが、当時の文壇は左翼作家である野間宏がボス的存在であったらしく、彼の作品を褒めそやすのが当たり前で、酷評するなどとんでもないことだったらしいことが読み取れる。

 

 何しろ奥野健男はこの小説を酷評する根拠を明確にして批評しているのに、彼を攻撃する側にはこの野間宏の作品の優れた点や奥野健男が批判する点に対する明快な反論がほとんど見られず、感情的な中傷誹謗に終始しているらしいことが、何編かの反論文の中に引用されている攻撃文を読むと分かる。これでは攻撃に対する反論もやりにくかろう。仕方がないから、代表として彼の友人であった武井昭夫宛の『武井昭夫氏の批判に答える』という文章でコテンパンに反撃している。友情を犠牲にすることを覚悟しての行動が痛切である。

 

 いまは知らないが、当時は文学は政治に従うものであり、文学者は政治的な正義に忠実であるべきだ、と本気で考える人々がいた。つまりイデオロギー(はっきり言えばマルクス主義)に従うべきだと考える人が文壇をリードしていたという、信じがたい時代だったのである。それに対して奥野健男は政治と文学は別物だ、と断言したのである。文学は、作者の直面した精神的なもがきのなかから生み出されるものであれば、何を書いてもかまわないのだと極論した。これは曽野綾子も同じようなことを書いていて、私はそれが正論だと思う。

 

 例によってざる頭の半端な読みから書いているので、わかりにくいかもしれないが、そんな論争に熱くなった時代もあった、ということである。今更遅いけれど奥野健男にエールを送っている。
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福田和也編『江藤淳コレクション3 文学論Ⅰ』(ちくま文芸文庫)

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 発表されたさまざまな江藤淳の文章を編集して収録した全四巻のこのコレクションを、これで全て読了した。一冊が、単行本で三冊くらいのボリュームがある上に、一つ一つの文章が考えさせられるものばかりなので、半年以上かかったけれど、もう一度読んでもいいくらい面白かった。

 

「もう一度読んでもいい」というのは、読み進めるうちにさらに知識が追加されたり、並行して読んでいる別の評論などで新しい考えに至ったりすることで、同じ文章から新たなことを読み込むことができると思うからである。二度三度読める本というのはそういうもので、汲めどもつきない楽しみがある。何しろ私には小さなしかも穴の開いたひしゃくしか持ち合わせもないことだし・・・。

 

 全体を語ろうとすれば細部に至るし、それではきりがないので、巻末にある『自由と禁忌 地理のない歴史』という文章についてだけ紹介する。ここでは島崎藤村の『夜明け前』と安岡章太郎の『流離譚』という二つの歴史小説を比較しながら評論している。ともにとても長い小説で、『夜明け前』は幕末の木曽が、そして『流離譚』では幕末の土佐が舞台になっている。『夜明け前』については私はまだ最初の百頁ほどしか読めていないが、『流離譚』については昨年読了したばかりだ。

 

 歴史小説というものの書き方がこの二人の作家では全く異なることが論じられ、そのことについて私も賛同する。そしてその違いが作家の文体の違いによるものだけだろうか、というさらなる問いかけに考えさせられた。敗戦を境にして歴史小説についての視点が変わっていないだろうか、という問いかけである。

 

 一般論とはいえないけれど、過去の歴史を自分自身に引きつけて思考する文章(ここでは安岡章太郎の『流離譚』)は安岡章太郎ばかりではなく、司馬遼太郎もそうではないのか、と思い当たった。だから歴史小説が次第に書きにくくなり、ついには『街道を行く』のように歴史随筆の形しかとり得なくなったともいえるのかもしれない。ここでは歴史をいまの自分に引きつけて考察している。その曲がり角が『空海の風景』あたりからだろう、という考察を誰かの評論で以前読んだことがあるが、私もそう思う。

 

 物語としての歴史小説そのものが、時代とともに変質せざるを得ない背景を感じ取る江藤淳の鋭敏さにうなるとともに、一般的にそこまで言えるだろうか、とも考えていて、その視点でほかの歴史小説を読み比べたい気もしている。例えば海音寺潮五郎の歴史小説などは、明らかに『夜明け前』的である。ここでは娯楽小説としての歴史小説は含まないのかもしれないが、私にはその区別がなく、だから江藤淳の論じる違いが見えにくいのかもしれない。
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2020年7月 4日 (土)

映画寸評(4)

『マレヒィセント』2014年アメリカ 監督ロバート・ストロンバーグ、出演アンジェリーナ・ジョリー、エル・ファニング、サム・ライリーほか

 

 白雪姫の話は元々ドイツの民話らしいが、それをグリム兄弟が童話にした。これが元になって『眠れる森の美女』以来、たくさんのアニメや映画が作られていて、いくつか観たけれど、どれもそこそこ楽しめた。マレフィセントというのは白雪姫を呪う魔女の名前である。その魔女役をアンジェリーナ・ジョリーが熱演している。いままでにイメージされてきたマレフィセントという魔女を大きく異なるキャラクターにした物語で、大いに楽しめた。ラストのハッピーエンドにもひねりがあって、グッと胸に来る。観てガッカリすることはないはずだ。

 

『エリジウム』2013年アメリカ 監督ニール・プロンカンプ、出演マット。デイモン、ジョディ・フォスターほか

 

 とっくに観たつもりでいたが、見始めたら初めてだった。近未来の、地球が汚染し尽くされ、疫病が蔓延した未来、社会の階層化はとことん進んで、エリジウムと呼ばれる地球上空の巨大宇宙ステーションだけには衛生的で豊かで平和な暮らしができる世界が造られていた。地球に住む人々はそのエリジウムに移り住むことを夢見るが、よほどのことがないとかなわない。ときに密航者がエリジウムに行くことを企てるが、徹底的に排除される。とはいえ地球からの食料やエネルギー、生活物資、機械製品などが供給されなければエリジウムは成り立たない。

 

 つまりエリジウムは地球の人々を収奪して成り立っている特権階級の世界ということである。そのエリジウムの支配権を獲得すべく画策する悪役がジョディ・フォスターというのが面白い。その画策のためのプログラムの書き換えがきっかけで、エリジウムのコントロールに穴が開いてしまう。その穴の鍵を握るのが主人公のマット・デイモンで・・・というお話。ヨレヨレになったマット・デイモンが犠牲的に行動する姿は格好がいい。元々サル顔のマット・デイモンは好きなので、高得点が自動的につくのだ。SF好きなら文句なしに楽しめると思う。それにしても社会階層の二極化の果てはこうなるだろう、という近未来を見せつけられて、複雑な思いがする。好むと好まざるとに関わらず、多分世界はこれに似た状況へ進んでいくのだろう。

 

『サイド・エフェクト』2013年アメリカ 監督スティーヴン・ソダーバーグ、出演ジュード・ロウ、ルーニー・マーラ、キャサリン・ゼタ・ジョーンズほか

 

 サイド・エフェクトというのは副作用のこと。物語は前半部には二重三重に仕掛けが施され、その伏線がちりばめられているので、後半になって、あっと驚くことが続き、しかもそれもまた覆される、という楽しい体験ができる。癖のある俳優が演じることで、できのいい映画に仕上がっている。

 

 精神科医(ジュード・ロウ)がたまたま診療することになった患者(ルーニー・マーラ)に新薬を投与したことで異常な事態が続き、ついに身の破滅寸前にまで追い込まれていく。それは新薬の副作用を隠蔽しようとする製薬会社の罠なのか、自分自身の医療ミスなのか。彼は必死で真相を求めて奔走する。やがて見えてきた驚愕の真相。ラストの彼の捨て身の報復が奏功するか・・・。楽しめます。
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平熱に戻る

昨日夜明け前から37度超えの発熱があり、一時38度近くまでになった。
しかしいつもの発熱の原因の泌尿器系には排尿困難、排尿痛などの異常が見られない。
昼過ぎから熱が下がりはじめ、夜には37度を切った。
早めに就寝し、ひたすら眠ったら、今朝は平熱に戻っている。
ただの夏風邪なのかもしれない。

 

発熱が続くと泌尿器系の異常が連動する可能性があるから、気をつけなければならない。
あちこち出かけることを考えていたのだが、雨は当分上がりそうもないし、さらにしばらく自重するつもりだ。
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2020年7月 3日 (金)

体調不良

さほどひどいわけではないが、体調不良につき養生中。 いいね、とポチッと、のお返しが遅れます。 ポチッとよろしく!

映画寸評(3)

『ジャングル・ブック(2016)』2016年アメリカ、監督ジョン・ファヴロー、出演ニール・セディ(声)ビル・マーレイ、ベン・キングスレー、スカーレット・ヨハンソンほか

 

 子供のときに原作の子供向けの抄訳をわくわくしながら読んだ。巨大なオランウータンの怖さなどはいまでも忘れられない。実際のオランウータンは森の哲人と言われる静かでおとなしい生き物らしいが。

 

 その物語が全く違和感のない実写とアニメの合成で観られるようになるとは夢のようである。アニメといっても実際にそこに虎や熊や狼がリアルに描き出されていて、動物が演技しているかのようだ。

 

 主人公のモーグリ少年は狼に育てられる。そのモーグリや登場する動物たちが普通に会話を交わしているのは現実にはあり得ないけれど、一つのおとぎ話として楽しめばいい。何しろ声だけの出演者の顔ぶれがすごいではないか。子供と一緒に楽しんだら最高の映画だし、大人が一人で観ても楽しい。 

 

『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』2015年イギリス・アメリカ、監督ビル・コンドン、出演イアン・マッケラン、真田広之ほか

 

 すでに引退して田舎に暮らす、90歳を過ぎて認知症の症状が出始めているホームズというのは、ホームズファンなら許せない姿であろう。しかも世間に知られたホームズのイメージというのはワトソンが大きく実像を変えたもので、この映画のホームズの姿が本物だ、と観客は納得させられていく。ホームズを演ずるイアン・マッケランは、我々が抱いているホームズとは似ても似つかない。とはいえ彼は脇役でよく目にする俳優で私は嫌いではない。

 

 引退するきっかけとなった事件の記憶は彼を常に苦しめる。謎解きはできたが、結果的にある女性が命を失うことになったことが彼には痛恨の出来事だったのだ。この事件の真相を常に考えながら、細部が次第にあやふやになっていくホームズの恐怖、その事件の詳細が断片的に回想されながら、観ているこちらにも次第にそれが明らかになっていく。新しい事実が思い出されるたびに見えている事件の局面が変わっていく。事件の全てが理解できたとき、彼自身のこだわりも融解する。

 

 ホームズの面倒を見ている家政婦とその息子である少年が現実のホームズをじっと見つめる。ある意味で彼らの視線が映画を観ている私自身といえるかもしれない。この息子役の少年が知的で行動的で優しさを持ち合わせた役柄を破綻なく演じて魅力的であり、素晴らしい。狷介なホームズがこの少年に強い愛着を感じて、それを支えに自分自身をしっかりと堅持する姿に涙がこぼれてくる。なかなか見応えのあるいい映画だった。

 

『狙撃兵』2018年アメリカ、監督ティモシー・ウッドワード・Jr、出演ジョニー・メスナー、ダニー・トレホほか

 

 戦争映画かと思ったら違った。中東で優秀な狙撃兵だった主人公は独断で行動し、服役して除隊となる。そのあと裏社会のボス(ダニー・トレホ)の元で凄腕の殺し屋を続け、サイレンサーと呼ばれて恐れられていた。その彼もある女性に出会い、いまは殺し屋を引退して堅気の暮らしをしている。

 

 そんな彼の元にもう一度だけ仕事をするように要請が入る。もちろん彼は拒否するのだが、それで収まるはずのないのがこの世界に関わった者に対する掟というもので、ついに彼女とその娘が人質となって、仕事が強要されることになる。

 

 母娘を救出するために彼の逆襲が始まる。似たパターンの話は数多い。狙撃手だったのに狙撃シーンは少なくて、肉弾戦のようなアクションシーンばかりなのはご愛敬。ボスが事故で愛娘を失ってからの変調が見所で、元々異常に残虐だった男が狂気に陥っていきながら哀感を漂わせたりする。あの悪相のダニー・トレホが意外にそれを好演していた。この人、顔だけではないようだ。
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2020年7月 2日 (木)

香港の状況に無力感を感じる

 心しなければならないことだけれど、自分が正しいという前提で行動すると周りが見えなくなり、ときに大きな迷惑をまき散らすことになる。外交専門家の意見を聞いていると、中国は確信犯として国際的に違法なことをしているのではなく、海外の影響の元に、間違った違法な行動をする香港の運動家たちを排除していくのは「正しい」ことだと本気で思っているらしい。つまり自分が悪いのではなく、自由主義、民主主義をうたい文句に中国に不法な介入をする「悪」の国々が悪いのだ、と本気で考えているのだという。

 

 これはまことに都合のいい考え方で、全て自分は正しく、悪い事態は全て他人のせいだということである。なんだか北朝鮮やそのお隣の韓国と極めてよく似ていて、笑ってしまう。人はそれほど愚かであり得るのか。

 

 そういう国とたいした関係がなければ、関係を持たなければいいことで、どうでもいい。ところがそういう、自分が「正しい」と確信している国が経済的に重要で、まさかここまでひどいことになるとは思いもせずに深く関わってきてしまった場合には、関係を急に断つわけにはいかない。自分の身に深く食い込んでしまったものをもぎ取るには激しい痛みを伴う傷を負うことになる。痛みをこらえながら少しずつじわじわと剥がすほかない。

 

 現在の日本の企業の経営者の多くが、世界観をあまり持たずに目先で判断する傾向がある、と言う悪口を聞いたことがある。何しろ素養がない。素養がないと理念を持つことができない。文化系の出身者が多く、科学的な知識に欠ける上、文化や歴史についても不勉強だというのだ。企業が社会的な存在であるという自覚がないと、目先の利益を追ううちに判断を過ち、ついには企業を衰退させていく。多くの経営者は成功体験を元にものを考える。成功したからのし上がることができたのだから当然だが、時代は過去のことを元に判断していては対処できなくなっているのだ。それはお役人も全く同様で、今回のコロナウイルスの対処のお粗末さに歴然と現れている。

 

 そんな為政者や経営者がじわじわと痛みをこらえながら事態に対処できるとはとても思えない。ゆでガエルのまま死んでいくことだろう。いつかは破綻するだろうとささやかれ続けてきた中国経済や韓国経済は、いま急に危機的状況になるとも思えない。そうなっても北朝鮮のように、全て悪いのは他人だ、と言い続けてしぶとく生き延びることだろう。

 

 私は偉そうに言うほどの人間ではないが、もう少しまともな為政者や経営者がいるはずだと信じていたのに、それが希望的な夢想だったらしいことに無力感を感じている。そしてほとんど絶望して諦めの気持ちになりつつある。
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映画寸評(2)

『さらばバルデス』1973年イタリア・フランス・スペイン、監督ジョン・スタージェス、出演チャールズ・ブロンソン、ジル・アイアランド、ヴィンセント・ヴァン・パタンほか

 

 いわゆるマカロニウエスタンの一作なのだが、お勧めできる大変できの良い映画だった。冒頭、少年が馬で荒野を延々と歩いて行く。山あり谷あり、馬も少年もくたびれ果てているのが分かる。夕闇が迫るなか、やがてようやく一軒の小屋が少年の目に入る。小屋を訪ねた少年の前に現れたのは白人ではなく、先住民との混血のいかつい男、チノ・バルデスだった。

 

 当初は一夜の宿を借りるだけのつもりだったが、いろいろないきさつがあって、少年はバルデスの手伝いをすることになる。バルデスは、野生の馬を飼い慣らして売る仕事をしている。バルデスと少年は次第に心を通わせていく。

 

 少年の成長物語であり、先住民と土地を私有化していく白人との諍いであり、敵役の牧場主の妹とバルデスの恋がからむ。アメリカの差別とは何か、の原点を見せられる。なまじアメリカで作られていないから、その辺がリアルに描かれているといえるかもしれない。少年とバルデスとの別れが切ない。この別れで少年は男へと成長したであろうことが救いである。

 

『デス・ウィッシュ』2018年アメリカ、監督イーライ・ロス、出演ブルース・ウィリス、ヴィンセント・ドノフリオほか

 

 これは1974年の『狼よさらば』のリメイク。この『狼よさらば』の原題はDEATH WISHでそのまま。もちろん前作の主演はチャールズ・ブロンソン、ブロンソンつながりなのだ。普通の常識的に生きていた男が、妻と娘が奇禍に遭って、チンピラたちに単身で復讐を始めるという話で、それが次第にエスカレートしていく。この映画は続編がいくつも作られて、二作目の『ロサンゼルス』、三作目の『スーパー・マグナム』までは映画館で観た。まだ続きがあるらしい。

 

 警察の代わりに悪に鉄槌を加えていく、というのは私刑を容認することで問題なのだが、そもそも警察が無力で悪が野放しであるという設定だから、観ている方は痛快さを感じてしまう。そういう意味ではかなり毒のある映画なのである。いまのアメリカの警察批判の根底にはこのような背景があるのだと思う。

 

『オペレーション・ラグナロク』2018年スウェーデン

 

 北欧映画は当たりが多いので期待したけれど、これは大根役者が無意味な台詞をやたらにしゃべる駄作で、ラストシーンに何か観るべきところはないかと最後まで我慢した(途中ちょっと早送りした)けれど、結局腹が立つだけに終わった。絶対観ない方がいい。
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2020年7月 1日 (水)

映画寸評(1)

 この十日ほど、せっせと映画を観ている。

 

『黄泉がえり』2003年、監督・塩田明彦、出演・草薙剛、竹内結子、石田ゆり子、柴咲コウほか

 

 私にとって、同じレベルなら日本の映画の方が感情移入しやすいので評価は高くなる傾向があったのだが、最近はあまり評価したくなる日本映画が少ない。この映画もあと30分短くしたらもう少ししまりがあったのに、と残念に思う。あのマイケル・シャラマン監督の『シックス・センス』に通じるような仕掛けがこの映画にもあるのだが、だらだらとしているためにそれが生きていないのだ。それと山本圭壱が大事な役どころを演じているが、下手くそで彼の演じる役柄の哀しみが全く伝わらない。完全なミスキャストである。結果的に、まるで柴咲コウのプロモーションビデオみたいな映画になっている。

 

『インフェルノ』2016年・アメリカ、監督ロン・ハワード、出演トム・ハンクスほか

 

 一度見ているのだが、ラストのイスタンブールの地下都市のシーンが見たいので最初から観直した。さすがにテンポが良くて面白くて長さを感じさせない。イスタンブールに昨年秋行ったところなので、イスタンブールの風景には親近感があるし、地下都市のシーンはやはり見応えがあった。実際の地下都市のメデューサの石像のところは暗いし、水が汚くて、臭くて、とてもあの水の中に入る気にならなかったけれど、映画の格闘シーンではいかにもきれいで深そうに見える。

 

『ガーディアン24』2019年フランス・ベルギー、監督ヴァランテ・スージャン、出演イサカ・サフドゴ、アルヴァン・イヴァノフほか

 

 スーパーに強盗団が侵入するが、目的は隣の宝石店。警報器で駆けつけたガードマンが囚われる。しかしそのガードマンはじつはとんでもない戦闘力の持ち主で・・・という話なのだが、もう少しシリアスな映画を期待していたのにとことんコメディタッチで、いちおう最後まで観るには観たが、時間の無駄だった。何しろ強盗団がもっと悪くないと怒りを爆発させようがないではないか。

 

 まだまだ観た映画の話が続く。
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江藤淳『裏声文学と地声文学』

 福田和也による江藤淳コレクション全四巻は、最後に読んでいる第三巻(文学論Ⅰ)をあと100頁ほどを残すのみとなっている。昨年秋から読んでいるからずいぶんゆったりしているが、ゆったり読んでも途中で投げ出さないのはそれだけ興味深く読めているからだ。それにほかの文芸評論家の批評文と比較をしてみたりして、作家や作品について立体的に知見を得ることができるのもありがたい。

 

 その中の『裏声文学と地声文学』という文章で、丸谷才一を批判的に批評している。裏声文学、というのは、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』という小説を批判の題材にしているからである。この小説は昭和57年に発行されている。そして文壇は例外的にいち早く好意的に取り上げて批評していた。特に江藤淳が問題にしているのは、百目鬼恭三郎が朝日新聞で大々的に取り上げたことである。

 

 さまざまな論点を提示しながら、江藤淳はこの小説を酷評し、それを手放しで好意的に取り上げる文壇の風潮を百目鬼恭三郎とともに切り捨てている。キーワードは「正しさ」、つまり朝日新聞的正義である。

 

 百目鬼恭三郎は当時、情け容赦ない毒舌を浴びせる書評家として恐れられていた。私も何冊かその書評本を持っていて、その毒舌の痛快さを楽しんだ。しかし、ここで江藤淳が批判した論点から見れば、確かに私も江藤淳の意見に与する。

 

 丸谷才一も作家でもあり、同時に文芸評論家でもあって、『梨のつぶて』という評論集が私の書棚に列んでいる。評論、書評は昔から好きだからずいぶん読んできたけれど、正直に言うと丸谷才一の批評にはなんとなく違和感を感じていた。どうしてそんなところにこだわって激しく批判するのだろう、というところがあった。波長が合わないのだと思っていたが、江藤淳の批判でその理由に少し得心がいった気がする。「正しさ」による批判が違和感の理由だったからだろう。文学は政治ではないから「正しさ」は批評の物差しではない。丸谷才一が文壇で政治的であることも江藤淳には不快なのであろう。

 

 『裏声で歌へ君が代』はある意味で国家についての文学的考察をテーマとした小説で、その国家観に江藤淳はかみついているのであり、それによく考えもせずに賛同する文壇や百目鬼恭三郎を批判しているのである。それは江藤淳がこだわり続けたアメリカ進駐軍による検閲を、甘んじて受け入れた朝日新聞的な「正義」についての激しい怒りを原点としている。

 

 あと100頁ならこのあと一気に読了してしまおうかなあ。とりあえずそれで江藤淳コレクションが終了する。あとは彼の『漱石とその時代』全五巻(未完)を読むつもりだが、その前にちくま学芸文庫の漱石全集全10巻を読み直しておかないといけない。今年中に片付くだろうか。
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