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2020年7月 5日 (日)

奥野健男に対する『政治と文学』論争を愉しむ

 いまから60年~70年も前の文学評論を愉しむというのは、ずいぶん特殊な楽しみといえるだろう。ところがそれが面白いのである。奥野健男という文芸評論家が、野間宏の『わが塔はそこに立つ』という小説を酷評した『「政治と文学」理論の破産』という文章をめぐって大論争らしきものが起こったらしい。

 

 一ヶ月以上前から『奥野健男文学論集』第二巻を読んでいるのだが、そこにこの論争をめぐっての奥野健男の文章の一部が収められていて、さらに参考文献として関連の論文・批評文が明記されている。それが何十もあるからすさまじい。いま読めば奥野健男のいっていることが至極まっとうに思えるのだが、当時の文壇は左翼作家である野間宏がボス的存在であったらしく、彼の作品を褒めそやすのが当たり前で、酷評するなどとんでもないことだったらしいことが読み取れる。

 

 何しろ奥野健男はこの小説を酷評する根拠を明確にして批評しているのに、彼を攻撃する側にはこの野間宏の作品の優れた点や奥野健男が批判する点に対する明快な反論がほとんど見られず、感情的な中傷誹謗に終始しているらしいことが、何編かの反論文の中に引用されている攻撃文を読むと分かる。これでは攻撃に対する反論もやりにくかろう。仕方がないから、代表として彼の友人であった武井昭夫宛の『武井昭夫氏の批判に答える』という文章でコテンパンに反撃している。友情を犠牲にすることを覚悟しての行動が痛切である。

 

 いまは知らないが、当時は文学は政治に従うものであり、文学者は政治的な正義に忠実であるべきだ、と本気で考える人々がいた。つまりイデオロギー(はっきり言えばマルクス主義)に従うべきだと考える人が文壇をリードしていたという、信じがたい時代だったのである。それに対して奥野健男は政治と文学は別物だ、と断言したのである。文学は、作者の直面した精神的なもがきのなかから生み出されるものであれば、何を書いてもかまわないのだと極論した。これは曽野綾子も同じようなことを書いていて、私はそれが正論だと思う。

 

 例によってざる頭の半端な読みから書いているので、わかりにくいかもしれないが、そんな論争に熱くなった時代もあった、ということである。今更遅いけれど奥野健男にエールを送っている。
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