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2020年7月 5日 (日)

福田和也編『江藤淳コレクション3 文学論Ⅰ』(ちくま文芸文庫)

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 発表されたさまざまな江藤淳の文章を編集して収録した全四巻のこのコレクションを、これで全て読了した。一冊が、単行本で三冊くらいのボリュームがある上に、一つ一つの文章が考えさせられるものばかりなので、半年以上かかったけれど、もう一度読んでもいいくらい面白かった。

 

「もう一度読んでもいい」というのは、読み進めるうちにさらに知識が追加されたり、並行して読んでいる別の評論などで新しい考えに至ったりすることで、同じ文章から新たなことを読み込むことができると思うからである。二度三度読める本というのはそういうもので、汲めどもつきない楽しみがある。何しろ私には小さなしかも穴の開いたひしゃくしか持ち合わせもないことだし・・・。

 

 全体を語ろうとすれば細部に至るし、それではきりがないので、巻末にある『自由と禁忌 地理のない歴史』という文章についてだけ紹介する。ここでは島崎藤村の『夜明け前』と安岡章太郎の『流離譚』という二つの歴史小説を比較しながら評論している。ともにとても長い小説で、『夜明け前』は幕末の木曽が、そして『流離譚』では幕末の土佐が舞台になっている。『夜明け前』については私はまだ最初の百頁ほどしか読めていないが、『流離譚』については昨年読了したばかりだ。

 

 歴史小説というものの書き方がこの二人の作家では全く異なることが論じられ、そのことについて私も賛同する。そしてその違いが作家の文体の違いによるものだけだろうか、というさらなる問いかけに考えさせられた。敗戦を境にして歴史小説についての視点が変わっていないだろうか、という問いかけである。

 

 一般論とはいえないけれど、過去の歴史を自分自身に引きつけて思考する文章(ここでは安岡章太郎の『流離譚』)は安岡章太郎ばかりではなく、司馬遼太郎もそうではないのか、と思い当たった。だから歴史小説が次第に書きにくくなり、ついには『街道を行く』のように歴史随筆の形しかとり得なくなったともいえるのかもしれない。ここでは歴史をいまの自分に引きつけて考察している。その曲がり角が『空海の風景』あたりからだろう、という考察を誰かの評論で以前読んだことがあるが、私もそう思う。

 

 物語としての歴史小説そのものが、時代とともに変質せざるを得ない背景を感じ取る江藤淳の鋭敏さにうなるとともに、一般的にそこまで言えるだろうか、とも考えていて、その視点でほかの歴史小説を読み比べたい気もしている。例えば海音寺潮五郎の歴史小説などは、明らかに『夜明け前』的である。ここでは娯楽小説としての歴史小説は含まないのかもしれないが、私にはその区別がなく、だから江藤淳の論じる違いが見えにくいのかもしれない。
ポチッとよろしく!

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コメント

投稿時間から推察すると体調もだいぶ良くなられたようですね。私も季節の変わり目・梅雨のせいか、なんだかスッキリしない気がしています。でも、クーラーという友達とうまく付き合うつもりです。

けんこう館様
なんだか一進一退で、すっきりしませんが、平熱ならよしとするしかないようです。
映画を集中して観続けたあと、寝込んだら今度は本が集中して読めています。
何もせずに時間を過ごすと無常感を感じてしまいますが、何かをした、と思えるとなんとなく満足します。

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