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2020年8月

2020年8月31日 (月)

貿易収支

 現代の話では無く、幕末の貿易収支の話。

 

 1859年(安政六年)横浜と長崎、箱館の三港で自由貿易が始まった。日本の貿易黒字で始まる。
一年後 輸出471万ドル 輸入166万ドル
七年後 輸出1849万ドル 輸入1514万ドル
輸入の伸びが大きく、維新直前の
1867年には輸出は1212万ドルと停滞するも、輸入は2167万ドルと増加の傾向が続く。

 

こうして欧米側から見れば、順調に貿易黒字が増加したことは好意的に捉えられていた。そのことの意味は重大である。

 

 少し時代は遡るが、中国と欧米との貿易は、中国の繊維産業が欧米からの輸入を徹底的に阻止するようにうごいたため、著しく欧米の輸入超過が増大し、そのためにそのアンバランスを解消するためイギリスは赤字解消を目的にアヘンを大量に密輸出し、それがアヘン戦争をもたらした。日本に対してはその必要がなかったのである。
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弟のAVルーム

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 弟は退職金で自分の念願だったAVルームを作った。AVと言ってもアダルトビデオではなくて、オーディオビジュアルであるのはもちろんである。言うまでもないか。

 

天井部にはスクリーンが隠れていて、幅いっぱいにスクリーンをおろすとミニシアターになる。スピーカーもいくつもあり、撮っている私の後ろにはプロジェクターが置かれている。

 

 昨晩は飲みながらいろいろ歓談した後、この部屋で音楽を何曲か聴いた。私の粗雑なAVシステムよりはるかに高音質の音楽を聴くことが出来る。最近は夫婦でビートルズなどを楽しんでいると言うから仲のいいことである。

 

 この部屋が私の寝る部屋でもある。今朝は思い切り朝寝坊させてもらった。今日明日は北の方は雨らしい。残念なことだ。
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2020年8月30日 (日)

忘れもの

 今朝は名古屋をゆっくり発ち、午後千葉の弟の家に無事到着。日曜日はトラックが少ないから、とても走りやすかった。千葉も暑い。

 

 着いてから忘れものに気がついた。着いてから気がつくというのもうかつなことだが、携帯を忘れてきたのだ。大変だ!と思ったけれど、よくよく考えればそんなに大変なわけでもない。普段、それほど電話がかかってくることはない。そもそも電話を抱えて暮らすなどというのはこの十年あまりのことで、昔はどこかに出かけていれば電話は追いかけてこなかったものだ。なければないでどうということもなかろう。メールは全てパソコンに入るし、パソコンはブログを書くために持参している。
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ポイント

 スーパーのカードでポイントがたまって代金から差し引かれるのは嬉しい。必要なものがポイント分安く買えたのだから素直にありがたいと思う。

 

 さまざまなカードについて、ことあるごとに「ポイントを差し上げます」と案内がある。経済通と称する評論家がにこやかに、ポイントを有効に利用して賢く生活しましょうと呼びかける。しかしそういう場合のポイントのつくような買い物とは、不要不急のものであることが多い。ポイントがたくさんたまって十万円のものが五万円で買えたりしたら、それはずいぶん得をした気分になるけれど、そもそも気がつけばそれほど必要でないものを買ったりすることになったりしていて、そのものの値打ちは自分にとっては五万円ですら無かったりする。

 

 ポイントをためるために買い物をするのは本末転倒だけれど、ポイントとはそもそもそういうことが狙いだ。ポイントをためて得をしようとそそのかされ、ためたポイントが無駄にならないためにさらに買い物へと誘導される。

 

 私も得をしたい気持ちがあるからポイントが気になるが、年金はしれているし蓄えはわずかしか無いから、必要最小限の買い物で生活するべきであることも承知している。だからこのごろはポイントを「あげる」「あげる」と連呼されてもなるべく無視することに決めている。生まれつきのあまのじゃくで、「やるやる」と言われると「いらない」と反発するところもある。いまポイントをちゃんと活用しているのはスーパーのカードとじゃらんのポイントだけである。自分に必要なものだからポイントを使うときは素直に喜びがある。

 

 カードを作って最初になにも買わずにつくポイントだって、何か買って初めてポイントとして通用するのだ。ポイントを使わなければ損かもしれないけれど、なにも買わなければ懐はそもそも痛まない。
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2020年8月29日 (土)

夷齋筆談

 現代人の生活や心理を知るには現代小説を読むべきだという。確かにそうかもしれない。しかし私は現代の小説は、エンターテインメント以外はめったに読むことがない。そういう意味で小説に限って言えば、私にとっての現代は平成どころか昭和で止まっている。

 

 昭和の、それも太平洋戦争前後の文学評論などをリアルタイムの感覚で読んでいる。私にとって作家と言えば、ほとんどがとっくに物故した人たちばかりである。しかし私にはなじみの人たちであり、その文章は分かりやすくてすんなり頭に入る。たぶん現代の文学作品より、明治や大正の作家の作品の方がイメージが浮かびやすいのだから、仕方がない。

 

 これは私にとってのなじみの歌がせいぜい昭和の終わりくらいまでのものであることによく似ている。現代のカタカナ名前や横文字の歌い手やグループの歌はさっぱり気持ちに響かない。技巧的に過ぎていて、音楽性は高いのだろうが、私には無縁のものでしかない。ビジュアル系などは全く見るに堪えないものとしか感じられない。

 

 永井荷風や志賀直哉や安岡章太郎や開高健などという、いまの人がもうあまり読まないだろう小説を繰り返し読んだりしているのは、私にとっては面白いからだ。大事にしている全集は、『昭和文学全集』(小学館)で、それもたぶん昭和五十年代の途中までの作品しか収められていない。

 

 たまたま石川淳の『夷齋筆談』(富山房文庫)という本を拾い読みしていたら私小説というものについて辛辣な書き方をしていた。

 

「物理的には、仕事の量とは、物体に働いた力とその物体のうごいた距離との積だという。何物もうごかないようなところに、仕事は無い。人間が力いっぱいに岩を押しても、岩が微動だにしなかったとすれば、仕事は現前せず、そこにはたらいた、いや、はたらくはずであった力は熱となって、押した人間が骨折り損の、ただくたびれたというだけのことである。当人は大汗かいて、いっぱし仕事をしたつもりかもしれない。この事情は文学の場でも小人がみづから仕事と称しているものの性質を連想させる。すなわち、へたな私小説のばかばかしさがこれに似かよっている。」(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 

「へたな私小説」かどうかは別にして、石川淳が志賀直哉などあまり評価をしていないだろうことが想像できる。夷齋とは石川淳の号である。こういう文章が飛び交う時代はいい時代だったなあ、といまなら思う。

 

 多くの大学が文学部をなくしたり縮小したりしているという。社会的貢献という意味で文学の存在意味が問われている時代らしい。経済的論理で文学が不要なものと見做されていることに時代の恐ろしさを感じてしまう。どうして恐ろしいのか。それは人類の精神の衰退につながっていると思うからだ。経済的に不要なものこそ人間にとって必要なものであることがあるのだ。教育が経済の論理で論じられるようになっている現代を恐ろしいと思う。
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うらやましいだろう

 安倍首相が辞意を表明した。権力はわれわれ常人には及びもつかないほど魅力的だというから、それでも辞意を表明するのはよほど具合が悪いのだろう。ほかの政治家と比べて目的意識のはっきりしている安倍晋三氏にとってはずいぶん無念の思いがあろう。そんなことは鈍感な私にも想像できる。

 

 ここ数日の間に、いくつか安倍首相に対して非人間的な批判をしていた政治家やジャーナリストがいて、ジャーナリストの記事はあまりにひどいとして批判を受け、その記事を書いた報道機関がその記事を削除した。もう一人の、病気になるのは当人の責任だと言ってのけた立憲民主党の女性議員の方はどうなのだろう。

 

 安倍首相の記者会見で、延々と質問をしていた記者たちの、安倍首相の体に対する気遣いのなさには、事故の時に遺族に対して「いまのお気持ちは?」と問うバカ記者に似た非人間的無神経さを見た気がする。全員がそうだったとは言わないが。

 

 ニュースで市井の人々のインタビューを見ていると、概ね好意的なものが多くて、なんとなく日本人の健全さを感じ、安心した。もちろんいつもの、むりやりの対立意見の併存は、この場合ひかえただろうから、結果的にありのままの好意的なものが多くなったのだろうと思う。批判的な人には面白くないだろうが。

 

 各国の安倍首相辞意についての報道も伝えられていて、思った以上に評価されていたと私は思ったけれど、どうなのだろう。そこで考えたのは、文在寅大統領はうらやましいだろうなあということである。歴代の韓国の大統領は在任中や退任後には激しく批判糾弾されるのが常である。晩節を全うしない人ばかりに見える。だから任期が終わりに近づくほど気が重いだろう。

 

 それなのに日本の阿倍首相は国民から概ね「ご苦労様、お疲れ様、体を養生してください」とねぎらいの言葉を受けているのである。うらやましくないことがあろうか。
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2020年8月28日 (金)

手紙

 手紙を書くのは億劫なものである。手紙を書くのが好きだという人もいるから世の中分からない。十日ほど前から書かなければと考えていたものが二通、さらに追加で一通書かねばならなくなって、ようやくいつものようにやっつけで三通の手紙を書き、投函した。

 

 会話でも手紙でも、相手にこちらの意を伝えるのは難しい。たいてい違う伝わり方をする。それに手紙は二度三度と読み返すことが出来るから、後で言い訳しにくくて恐ろしいところがある。出した当人は自分の書いた手紙を読み返すことが普通はないから、相手が不快に感じたとしても気がつきにくいものだ。

 

 手紙を出しに行ったついでに買い出しに行く。昨夕には修理の終わるはずの愛車に新しい不具合が見つかって、今日も修理中。本当は車馴らしに知多辺りに魚を買いに行こうと思っていたのだが、出来なくなった。代車を使っていいですよ、といわれたけれど、馴れない車で遠出して万一のことがあるのもいやだ。そういうわけで車を取りに行くのは明日の朝。明日の土曜日はひかえるつもりなので、今晩はちょっと多めの晩酌の予定。鮭の刺身の盛り合わせが値打ちで美味そうだ。鶴岡のだだちゃ豆も購入。これで晩のつまみは出来た。

 

 日曜日から千葉へ向かうことにした。二泊して月曜日には佐倉にある両親の墓参りに行く。そのあとは涼しいところへ行くつもりだ。
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傍観者(前回の続き)

 香港のように強権によって市民の自由が脅かされていくとき、個人の力は蟷螂の斧である。だから徒党を組まなければならないとして、人々が市民運動に集結し、民主主義を守るために戦った。その結果のむなしさに強い残念さと哀しさを感じている。

 

 といって、人はそれぞれ違うから、として傍観者として見ているだけでは為政者の言いなりだ。ときには違いは違いとして立ち上がらなければならないときもある。違いは違いとして認めながらしかも集団としての力を持たせなければならない。違いを認めなければ分裂してしまうのは日本の民主党の近年の姿を見ればよく分かる。

 

 徒党が力を持つためには共通の目的を明確にして、それを推進する核になる的確なリーダーが必要だ。違いを言い立てて目的を不明確にする者はリーダーが厳しくたしなめなければならないが、そのようなリーダーが不在なのがいまの世の中で、結局徒党を組んでは分裂を繰り返すことになってしまう。例えば立憲民主党の枝野代表は些細な違いにこだわるように見えるから、私はリーダーとして不適格だ、と考えている。

 

 絶対的正義を振りかざして、違いを認め合うことを「妥協」と非難する人々がいるから、市民運動は必然的に分裂するものらしい。妥協を許さないことが目的を見失わせる。しばしば絶対的価値観を謳う者は不思議なほど権力を志向する。

 

 傍観者として世の中を眺めながらなにを無意味なことをほざいているのだ、といわれればその通りで、反論のしようもない。もともと徒党が大嫌いで、デモのシュプレヒコールに決して唱和できない性格なので、傍観者として生きるしかないのが私である。子供のときは、クラスのなかにグループが出来るもので、そのどのグループにも組しない二三人がいて、私は常にその一人だった。ただし傍観者であることにも多少の覚悟はいる。なにも知ろうとしないで知らないままならそんな覚悟は不要だけれど、私は知りたがりである。そもそも傍観者は知りたがりなものなのだ。
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2020年8月27日 (木)

人によって違う

 形而上の言葉、愛とか平和とか勇気とか正義という言葉の意味は時代により、国により、集団により、人により違うものであることをつい忘れがちである。「形而上」とは形をもっていないもの(by岩波国語辞典)のことだ。

 

 私がそのことの本当の意味を知ったのは森本哲郎の『生きがいへの旅』という本(初めて読んだ森本哲郎の本だ)を読んで以来で、小原信の『状況倫理の可能性』という本にも影響を受けた。

 

 『状況倫理の可能性』は少し難解な論文集で、私は字面を追っただけで読んだとはとても言えない。しかし「状況倫理」という言葉には啓示を感じた。倫理が絶対的なものではなく、状況に応じるのかもしれないというのは、よく考えると衝撃的なことである。この論文がそのことを論じたのかどうか、実はちゃんと読めていないから分からないが、その表題から私はそれを勝手に直感した。

 

 どちらの本もずいぶん古いもので、それが私のものの見方考え方の基盤になっている。全てが相対的だという考え方はニヒリズムに通じてしまう恐れがあることは承知しているつもりだ。だから自分の立ち位置を人に説明するのは難しい。

 

 香港の状況は危惧していたとおりの推移をたどっている。世界がなにを言おうが中国政府の言いなりの香港政府は、有識者や批判的な市民を次々に逮捕し始めた。それに対して共産党や朝日新聞のように、絶対的な正義を標榜する団体がそれをどう考え、どう評価しているのか知りたい気もするが、そのために努力するだけの意欲はない。もし批判などの積極的な発言があればひとりでに伝わるはずで、全く聞こえてこないことで想像がつくからだ。

 

 さまざまな市民運動が世界中で行われているが、それをどう捉えるのか、例えば中東や北アフリカの民主化運動のジャスミン革命に喝采を浴びせた多くの人々が、その後のその国々がどうなったのか、認識してその喝采について正しかったのかどうか考えた、などということはほとんどないだろう。その国の実情、歴史や宗教、民族性について再考するチャンスのはずなのだが。

 

 ドイツのベルリン映画祭では男優賞と女優賞の区別をなくすことにしたそうだ。これは男女の差別をなくすための一歩だと考えてのことだろう。私は噴飯物のバカな考えだと思うが、時代はそういう方向へ動いている。区別と差別が混同されていく。差別をなくすために本来違うものを無理矢理同一視することの矛盾が増大して破綻に向かうだろうと思うからバカな考え、と私は言っているつもりだが、たぶんそれがこれから当たり前になるのだろう。差別をなくすためにわずかな差を言い立てる風潮は、必ず反動を生み出すに違いない。
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予定を決める

 昨晩、千葉の弟のところに電話して、泊めてもらうことになった。五月に立ち寄っているから、三ヶ月ぶりか。盆に行けなかった両親の墓参りもするつもりだし、弟たちと話したいことが山のようにある。それに来月後半にでも都合が合えば弟たちとどこかへ遠出の打ち合わせもしたい。

 

 弟のところへ二泊ほどしたら、その足で那須高原と米沢など、南東北を走り回るつもりである。もっと北へ行こうかと思っていたが、行くとしたらそれは来月後半にするつもりだ。もう宿の予約を入れた。GoToトラベルのおかげで大分割引になるからありがたいのだ。

 

 心配なのはオクラや紫蘇、パクチーが水をやらないからだめになってしまうことだ。ニラだけはたぶん生き延びるだろう。
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2020年8月26日 (水)

チキンライス

 久しぶりにチキンライスを作って食べた。美味しい。好きなのにめったに作らない。作ってみればそれほど面倒でもない。母の料理のなかでも美味しかったものの一つで、食べればそれが思い出される。鶏肉は、普段はもも肉ばかり買うが、チキンライスだけはささ身か胸肉を使う。その方が細かく切りやすいし、チキンライスに適していると思う。

 

 国民健康保険証がようやく配達されてきた。市役所に確認したから配達されることは分かっていたが、これで来月の定期検診は安心だ。70歳からの二割診療のカードも忘れないようにしなければならない。これは保険証とサイズが別だから保管が面倒だ。どうもお役所のやることはなんとなく不手際でちぐはぐな気がする。

 

 今日は車検のためにディーラーへ行った。今回はちょっと修理があるので、二日がかりである。明日の夕方取りに行く。代車はマツダ3のフル装備車の新車。加速もいいし運転もしやすい。買い換えを勧められたけれど、今のところその気はない。食指は動いたが。まず先立つものの問題があるし、あと五年あまりで運転免許証を返上しようかと考えてもいる。息子はいまのアテンザなら、メンテナンスをしっかりさえすれば20万キロくらい走れるよ、と請け合ってくれている。何しろ彼はマツダ車について誰より知っている。だから高額の修理もしかたがないのだ。ちょっと出費がつらいけれど。
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超監視社会

 この十数年での中国の変化は、ジョージ・オーウェルの『1984年』という小説で描かれた、全体主義国家の監視社会を現実化していく過程のように見える。私は共産主義体制の中国という国は嫌いだが、中国の歴史が好きだし、専制体制の元でもしたたかに生きる中国人にはそれなりの理解は感じていた。豊かになれば多少は拝金主義も治まるかと期待したが、それは期待外れだった。衣食足りて礼節を知る、というのは真理ではなくてただの願望だった。

 

 いつも海外に一緒に行く友人も、私が提案してもあまり中国に行くことに賛同しなくなった。中国旅行が楽しく感じられなくなってきたからだろう。中国の江南地方に行ったのは数年前のことだが、そこらじゅうに監視カメラがある異様さを実見し、怖さを肌で感じた。自分自身が監視の対象であることを実感させられたのだ。これでたぶん中国に来るのも最後だなあと思った。

 

 NHKBSのドキュメント、『超監視社会 70億の容疑者たち』という番組を観て怖くなった。AIによって個人データが収集され、顔認証システムによって行動が全て補足される。その完璧さは想像を絶していた。そのことで「安心安全」な世界を達成することが究極の目標である。こうして些細な行動も記録され、個人が評価されていく。悪事をした者は公表され、社会的に排除されていく。これを最も先進的に遂行しているのが中国である。正義が個人を峻別していくことで「安全安心」が得られる理想の世界がそこに来ている。

 

 自由と安心安全を秤にかけたら、安心安全を取るのは当たり前ではないか、そう思う人たちが普通である世界がもうできあがりつつある。日本の政治家はしばしば「安心安全」を目標として掲げ、国民もしばしばそれを求めるが、中国に行ってその「安心安全」を観てきたらいいだろう。それでいいと思うのが正義か。
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2020年8月25日 (火)

皇室の危機

 コロナ禍の前からか、その後からかはっきりしないが、天皇ご夫婦の活動が国民から見えにくくなっているように感じられていた。それがコロナ禍以降にはさらに顕著に思えて危惧を感じていた。

 

 たまたま昼に民放のニュース番組で、皇室に関する専門家が、国民と天皇との間の乖離がいままでにないほどで、皇室の危機だ、と語っていて、私の個人的な実感に合致していた。

 

 天皇の役割とは何か、国民に危難があるときには国民のために厄をはらうべく祭祀を行い、国民のために祈ることだろうと思う。そして国民と共にあることを示して国民を力づけることではないのか。

 

 コロナ禍によって国民と直接接することが困難であることは仕方のないことだが、わざわざ出向かなくても天皇の存在感を示す方法はさまざまあるはずで、それが見えないのはどうしたことか。取り巻きに問題があるのか。

 

 上皇が天皇だったらどうしただろうかと想像する。上皇なら国民の苦難を苦難として心を痛めていることを示すことで国民の心を慰謝しようとするだろう。それが今上天皇には出来ないということなら、国民と天皇との間が乖離してしまうのは当然で、危機だ、という問題意識は正しい。

 

 こういう事態だからこそ、形で示さなければ伝わらない。天皇にその気がないなら皇室そのものの存在意味が問われることになるだろう。そんなはずはないと思いたいが心配だ。
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つけ込む

 人は人間関係に疲れたり、病気になることでこころが弱ることがある。その弱みにつけ込んでその人間を支配しようとするものもいる。人が好くて断れることが苦手なためにつけ込まれる人間もいる。つけ込む人間が単独の場合はそこから逃げれば助かるが、それが大きな力を持った集団になると恐ろしいことになる。

 

 ドラマを観続けている。「イアリー 見えない顔」という、二年ほど前のWOWOWのドラマを引っ張り出して観た。主人公の大学教授(オダギリジョー)は、呼吸器系の疾患で苦しむ妻の望みで、郊外の自然豊かな分譲住宅に移り住む。しかし妻は治療の甲斐なく亡くなってしまう。その妻の死後、このいこいタウンという街に違和感を感じるようになる。そして近所で立て続けに死者や行方不明者が出始める。

 

 こうして事態は次第に不気味な様相を呈しはじめ、並行してさまざまな人間が関わるカルト集団が影絵のように浮かび上がってくる。ゴミ捨て場に変死者が発見されることで警察も動き出すのだが、その捜査に当たった刑事たちもその違和感を感じる。

 

 人の心の弱さによって生じた救いを求める微弱なエネルギーが、あるきっかけで集まりだして大きな力を生み出す。救われたいという願いが「救う者」を生み出すのだ。救う者に群がった集団が狂信を生み出していく。狂信しながら冷静に集団の肥大化に貢献する者が現れ、社会のルールを逸脱しはじめ、暴走していく。われわれはオウム真理教事件によってそのような集団を現実に見せられた。

 

 このドラマはそのような集合した狂信がどれほど恐ろしいのか、その影響がいかに深刻かを思い知らせてくれる。事件が終わったあとに彼らに日常は戻ってくるのだろうか。

 

 私は自分の弱さを自覚しているから、徒党と思い込みが嫌いで、人の弱みにつけ込む人間も大嫌いだ。
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2020年8月24日 (月)

解除

 愛知県は県独自の「緊急事態宣言」を発していて、それが本日終了することが正式に決定、明日から解除となる。これを見越してどん姫夫婦は明日から北海道旅行に出かけるのだ。天気がいいといいけれど。

 

 私は26日(水)に車検なので、今週は出かけないけれど、来週あたりにはちょっとだけ出かけようかと思っている。その翌週とさらに次の週は病院の定期検診があるので、それを逃すと大分先になってしまうからだ。七年目の車検を迎える愛車は、すでに走行距離が11万キロを超えている。今回はブレーキ回りなどの修理が予定されているので、二日がかりで、しかも多額の出費になりそうだ。それは痛いけれど、万全にしておけば遠出も安心である。どこへ行くか決めていないけれど、久しぶりに弟のところにでも立ち寄りながら、いつものように北へ行こうかなあ。
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がまんくらべ

 新型コロナウイルスの感染が生活に支障がないほど下火になることをこころから願っている。一度発生したウイルスはこの世からなくなってしまうことはないらしいから、収束というのはワクチンが普通に受けられるようになって、治療薬が用意できるようになる時点のことだろう。まだまだ先のことのようだ。

 

 高齢、持病持ちという重症化リスクの高い身としては、いまは我慢して三密はもちろん、外出もなるべく避ける生活を続けなければならないことは承知している。承知してはいるのだが、生まれつきの旅好きだから、フラストレーション(欲求不満)がたまりにたまっていて、我慢も限界に近い。先日は石を見に、ちょっとだけ出かけてその多少の解消を試みたが、解消どころかさらに火がついてしまった。

 

 新日本紀行の今昔で、数十年前の米沢といまの米沢の様子を見た。米沢は学生時代三年間暮らした場所である。何年かおきに訪ねて、上杉公園界隈だけはうろついて懐かしく思うのだが、久しぶりに市内を歩いてみたいなあと思った。昨日は吞み鉄で山形の列車歩きをしていて、さらに気持ちに火がついてしまった。我慢の限界が見えてきた。

 

 泌尿器系の疾患が持病になってしまった。酒を飲み過ぎるとなんとなく具合が悪くなり、不快である。だからひかえ目にしてきたのだが、この頃少し酒量が増えている。心がけていたドライデーもほとんどなくなった。こちらも我慢が効かなくなっている。

 

 精神の安定と感染リスクのどちらを選ぶか、という問題であって、その秤の傾きが揺らぎつつある。
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2020年8月23日 (日)

ドラマを観る

 WOWOWでオランダのミステリードラマ「スハウエンダム 12の疑惑」を放映したのを録画して、昨夕から一気に観た。土曜日ごとに五話ずつを放映して二週で全十話。一話45分ほどだから現地ではCM入りの一時間ドラマだったのだろう。しばらく前に、やはりオランダのドラマ「オルデンハイム 12の悲劇」全十話がとても面白かったので、今回も楽しみにしていた。同じミステリーでも、前回とは全く毛色の異なるもので、期待に違わぬ面白さだった。

 

 1995年に湖の畔の小さな街、というより村のパーティ会場から、オラフという少年とアリスという少女が姿を消す。親は必死でその行方を捜すが、手がかりは全くつかめず、迷宮入りのままだった。そして25年たったある日、一人の男がこの村にやってくる。自分は記憶喪失なのだが、オラフではないかと思う、というのだ。

 

 彼の供述によれば、ポーランドで強盗に襲われ、記憶喪失者として発見されたという。警察がポーランドに確認すると、事実であることが判明する。オラフの母親はすでに死んでいるが、父親は施設で存命である。オラフは父親を訪ね、さらにいろいろな人に自分自身のこと、パーティの夜のことを尋ねて回り、そして事件が起こる。

 

 こうしてオラフと名乗る記憶喪失の男が動き回るごとに死者が増えていき、謎は却って深まる。そしてオラフと共に失踪したアリスはどうなったのか、オラフにはなにも記憶がないというが真実は分からない。オラフと名乗る男とオラフの父親のDNA検査が行われ、親子関係がないことが判明する。さらに父親の持っていた少年オラフの持ち物も失われて、オラフと名乗る男がオラフであるかどうかも確定しようがなくなる。さまざまな仮説が立てられるが、ことごとく崩れていく。

 

 村人たちの暗部があぶり出されていく。やがてついにアリスの遺体が発見され、失踪前後の状況が明らかになっていく。誰がアリスを殺したのか。村人を次々に殺しているのはオラフの復讐の様相を呈していく。そしてオラフを名乗る男にはその都度明確なアリバイがない。

 

 最終話で全ての謎が明らかにされ、犯人も判明する。オラフを名乗る男は果たして本当にオラフなのかどうか。なかなか楽しめるドラマであった。

 

 狂言回し役の本署から派遣された女性警部の迷走と、ただ一人の村の警官の抱える家庭の事情が、事件に微妙に関連していく。最初はその無能ぶりに多少いらだつが、それがドラマの巧妙な伏線となっていることが最後に分かるという仕掛けになっている。
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2020年8月22日 (土)

祭りのない夏に

 ハレといい、ケという。ハレとは祭りであり、ケとは日常である。日常があるから祭りの興奮高揚がある。その祭りが、今年は新型コロナウイルスによって取りやめになったところが多い。

 

 NHKBSの「新日本風土記」は大好きな番組だが「祭りのない夏に」という表題で、日本全国の、さまざまな例年の祭りの様子と祭りのない今年の夏を描いていた。私は常に祭りはただ眺めるもので参加することがほとんどなかったから、祭りにあまり思い入れのない方である。その私がこの番組を観ていたら胸が熱くなって涙ぐんでしまった。

 

 祭りに込められた先祖代々の思いを継承する人たちの無念さ、残念さなどが我がことのように感じられてしまったのだ。ハレの輝きがなければ、ケはむなしいものになる。そのハレをあきらめることの意味は、実は人の生きがいにとってとても大事なものをあきらめるという、深刻なことなのだということを思い知った。

 

 そしてその祭りに思い入れの少ない、自分のデラシネの生き方になんとなく哀しみを感じたための涙かと思う。そんな大げさなものではなくて、老化による涙腺のゆるみのなせる技かもしれないが。
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石を見に行く(2)

七宗町から国道41号線を北上する。お茶畑の多い白川町を過ぎ、金山町に至る。さらに北上すれば下呂から高山に行くことになるが、ここで左折して郡上方面に山越えする。白川町の道の駅、ピアチェーレは以前はランチがとても美味しかったがいまは普通になった。ソフトクリームはいまも美味い。郡上方面に左折してすぐのところにある金山町の道の駅とその向かいには、なんと日帰り温泉がそれぞれにあるのだ。入りたいところだが今回はパス。金山町の道の駅でトイレ休憩し、大好きな栃の実せんべいとゴボウのかりんとうと「天領」という銘柄の吟醸酒を土産に買う。地図を見たらこの道の途中の和良町というところにある戸隠神社に赤軍があるらしいので、そこへ向かう。

 

和良町の道の駅で再度地図を確認、かなり細い道をたどらないと行けないけれど、距離は近い。

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和良町の戸隠神社。後ろに山が迫り、鬱蒼としている。

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パワースポットマップ。神社のすぐ裏手だが、ほんのちょっとだけ山を登らなければならない。

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左手が奥本殿。その前に重ね石という石がある。

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こんな階段を上っていく。久しぶりに歩くので、汗がどっと出てくる。虫がわっと寄ってくる。蚊くらいならまだしも、アブまで来たのでうんざりする。

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女岩の先に男岩もあるらしいが、この石をぐるりと回った後、下って神社へ戻る。

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一番下の方にあった結石。むすびいしと読むのだろうなあ。全部で九つの大岩があるらしいが、五つくらいしか見なかった。それでも石のパワーをいただいてリフレッシュした。

石を見たい気持ちも満足したので郡上へ抜け、裏道を国道156号線沿いに南下して、長良川を見ながら帰路についた。飛騨川も長良川も先日の豪雨で大きな被害があった。一部工事で片側通行だったが、もっと北側はその工事箇所が多いだろうと思う。

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2020年8月21日 (金)

まもなく配達されるそうだ

 健康保険証が8月いっぱいで期限切れになる。9月に入ってすぐに泌尿器科の検診があるので、新しい保険証が必要である。心配になったので市役所に問い合わせたら、今週から配達が始まったので、まもなく配達されるそうだ。

いつもはもう少し早く更新されたものが送られてきたような気がする。「遅いのではないですか?」と訊いたら、「申し訳ありません」とだけ返事があった。特に理由があって遅れていたわけでもなさそうだ。

 

 実はすでに配達されているのに、私がうっかりしてなくしたのではないか、とちょっと心配だったのである。そうではないらしいのでよかった。
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石を見に行く(1)

石を見に行こう、と思い立って出かけた。出がけに車のキーを忘れたり、マスクを忘れたりで二度ほどマンションの階段を上り下りしたので、最初から汗をかいてしまった。運転にうっかりは許されないから気をつけなければ。

まず向かったのは日本最古の石博物館。高山へ向かう国道41号線を飛騨川に沿って北上する。この博物館は、七宗町(ひちそうちょう)というところにある。七宗町の辺りの飛騨川には、飛水峡と呼ばれる、大岩だらけの景色のいいところがある。

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石を見るのが好きで、石の博物館や展示館があれば見る。糸魚川のフォッサマグナの博物館の鉱物や結晶のコレクションも素晴らしいし、城之崎の近く、円山川の側の玄武洞の石の展示館もいい。奥出雲、雲南市の多根自然博物館は宿泊も出来る珍しい博物館で、ここの化石のコレクションは何度見てもすばらしい。

入り口で検温、住所氏名電話番号を記入させられた。私しか入場者はいないようだ。まず子供向けの15分ほどの映画を薦められたので観る。なかなか楽しい。以前も観ているが、前のものと違うようだ。エレベーターへ案内される。なかはタイムマシンになっていて、一気に20億年前にタイムワープする。

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これが日本最古の石。花崗片麻岩。変成岩だ。当時の地球はまだ熱くて酸素もない。隣に津和野で発見された25億年前の石も置かれていた。だとすると、これは日本最古ではないことになるが、別にいいのだ。

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どうしたらこんな石が出来るのか、想像も出来ない。不思議だなあ。

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石灰岩は珊瑚などの死骸の堆積で出来る。飛騨川水系から山を越えて長良川水系に至る辺りには鍾乳洞がたくさんある。鍾乳洞があるということは石灰岩の山があるということで、それはそこが大昔は海だったことを示す。こんな山のなかなのに不思議だなあ。

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植物の化石。こんなきれいな化石なら部屋に飾りたい。

石も化石ももっとたくさんあるが、きりがないのでここまでとする。

この博物館にはもう一つ見物(みもの)がある。岐阜大学の隕石のコレクションだ。大きなものはないが、いろいろな種類のものがまとめて展示されている。入り口近くにあるのでうっかり見落とさないように。

このあとさらに石が見たくなって、郡上方面に向かう。

2020年8月20日 (木)

ニュースランキング?

 ニュースの話ではない。niftyのホームページ表紙の下部にニュースランキングとして10件ほどの記事の見出しが掲載されている。いつも思うのだが、どういうデータにもとづいてランキングしているのか首をかしげざるを得ないものが目につく。まさか私の検索履歴から選んでいるのではないだろうな。そんなもの見たりしていないはずだけれど。

 

 例えば今朝のものから三点、

 

橋本環奈“ボディ激変”と話題
深田恭子 動画で胸元露出か
大橋未歩の”透け肌着”に悶絶

 

なんなのだこれは!

 

 これがniftyの読者のニュースランキング上位にあるとはとても思えない。これは今朝だけのことではない。連日似たようなものがランキングされている。決まり文句が「悶絶」だの「激怒」だの「絶賛」だの 「・・・か」。niftyの担当者が本性的に下劣なのか、読者は下劣だと馬鹿にしているのか。nifty離れが進むのも宜なるかな、である。
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破墓法

 これに関するネットの記事をひとつ読んだだけだからどこまで本当か分からないが、韓国の与党の「共に民主党」が中心となって、国立墓地に埋葬されている、日本に協力した「親日派」に分類される人物の墓を掘り起こして、ほかに移そうという法律が制定される動きがあるという。すでに国会議員の三分の二が賛成だともいう。

 

「親日派鬼神のせいで愛国志士たちが安らかに眠れない」と「歴史と正義特別委員会」の委員長を務める元議員が主張したらしい。こういう人たちは必ず「正義」を標榜する。過去の歴史を正義で裁くのである。正義のいやらしさを私が憎む由縁である。

 

 日本でも靖国神社にA級戦犯が合祀されていることに問題があるとして論争がなされたことがあるが、日本人の多くは、死んでしまえば仏様、という考え方もあるから、正義の名の下に合祀したものを排除する、などと言うことにはなっていない。

 

 中国の歴史を知る人ならば、史記のなかの楚の人、伍子胥(ごししょ)の話を連想するだろう。父と兄を殺した楚王に対する恨みを晴らすために、すでに死んでいた王の墓をあばいて屍をむち打ったという。その凄惨さに、みな目を背けた。

 

 今度の韓国の「破墓法」というのはあまりに語感が強すぎる。悪と見なしたものは、墓まで暴いて排除するということが異常なことだと思わない韓国与党の議員たちを、韓国国民はどう見ているのだろうか。

 

 死者を弔うということ、埋葬ということ、それらに対しての人間の尊厳に対する神経が壊れているように見える。人間がそれ以外の動物と違うのは、死者に対する礼があるということで、それを見失って正義もなにもあるはずがない。
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2020年8月19日 (水)

画竜点睛

 テレビで画竜点睛を「がりゅうてんせい」といっている人がいた。坂本龍馬を「さかもとりゅうま」というのと同じで、目くじらを立てることではないといえばないのだが、私はそういうことが気に障る。

 

*画竜点睛:がりょうてんせい 事を完成するために最後に加える大切な仕上げ。睛とはこの場合瞳のこと。龍を描いて最後に瞳を書き加えたら、画龍が天に昇ったということから。(by岩波国語辞典)。

 

 テレビでは、東京都のコロナ対策がされている店だという印の、虹の証明証が、当局の確認なしの自己申告であることを指していた。いま改めて確認を始めるのだという。これが「画竜点睛を欠く」、ことになるのかどうかもちょっと首をかしげることだけれど。まあ最後の大事な仕上げがかけていた、という意味であれば分からないことはない。
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釣り

 息子は最近週末に夫婦で防波堤釣りを楽しんでいるらしい。メールで写真を送ってくれた。新居が呉なので、海まで遠くないようだ。涼しくなってコロナが下火になったら帰省するので一緒に釣りにいこう、などと言っている。

 

 大好きだった釣りにもこの数年、ほとんど行っていない。釣った魚を誰かが食べてくれるのは嬉しいものだが、近くにいたドン姫もいまはちょっと離れてしまったので、釣れたからとその都度呼ぶのは気が引ける。それほどの魚を釣ってくるわけでもない。

 

 釣りも習慣みたいなもので、一度熱が冷めるとなかなか朝早く起きて出かけるのも億劫に感じる。それでも防波堤の小魚用の釣り道具は残してある。船釣り用の道具は処分してしまった。私はゴルフはしないので、アウトドアの趣味は釣りだった。魚を釣るのもさばくのも料理するのも嫌いではない。何しろ魚を食べることが大好きだから、鮮度のいい魚を食べられる釣りは趣味と実益を兼ねる。

 

 子供たちが小さい頃は知多へ小魚釣りにときどき行った。豆アジや小鯖など、サビキでたくさん釣った。これから秋にかけては名古屋港にハゼ釣りにいく。どれも子供でもたくさん釣れるから子供たちは喜んでついてきた。安い子供専用の竿も用意していた。

 

 どん姫に聞いたら、知多や四日市、津の防波堤釣りに夫婦で何度か出かけたらしい。あまり釣果がなかったと残念がっていた。子供の頃の記憶が残っていて、もっと釣れるものと思っていたらしい。

 

 私が出かけるとしたら、もう知多はあきらめて、三重県の南島町あたりまで遠出する。時間はかかるが海はとてもきれいだし、小型のグレなどがそこそこお土産になるほど釣れる。息子が来たらそこまで行こうかと考えている。釣りはけっこう身軽でないといけないし、体力も必要だ。まだなんとか防波堤くらいなら大丈夫かな、などとなんとなく釣りに行く意欲の残り火が燃え始めた。
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雑感

 暑さに少し鈍感になっている気がする。冷えすぎた気がしてエアコンのスイッチを切って、うっかりするとそのままでいたりする。やはり高齢化すると暑さを感じにくくなるのか。卓上のデジタル時計の室内温度をときどき気にする必要がある。ドン姫にも注意された。

 

 いろいろな外的危機に対して鈍感になるのが高齢化というものなのかもしれない。体や感性が鈍るのが必然なら、知能で補うしかないのだろう。それすら鈍ったら(もう鈍っているのかもしれないが)と思うと怖いけれど、仕方のないことで、いかんともしがたいとあきらめるしかない。

 

 安倍首相の体調が心配されている。国会を開くのを回避するための猿芝居だ、などと勘ぐる向きもあるらしいが、実際に最近の会見のときの声の張りのなさ、眼の力の衰えは普通に見ていれば私にも感じられていたもので、まともな人間なら疲れがたまっていることは分かるはずだ。

 

 こういうときに安倍政権の神輿を担いでいる連中のなかから、次代を担う人間が台頭してくるものなのだが、それがさっぱり見えないのはなさけないことだと思う。指導者たる資質のある人間がいないのはアメリカばかりではないようだ。

 

 中国はなりふり構わず覇権主義を隠さなくなった。こういう開き直りを許し続けた先に何があるか。歴史をひもとけば明らかだが、どうも政治家が歴史に疎くなっているように思える。そうして同じような事態が生じ、世界は戦争という災禍に見舞われ、また反省をするのだろう。

 

 それにしても中国は日本の二十数倍の国土を持ちながら「さらにもっと!」とむさぼろうとするすがたは醜悪である。韓国が中国になびこうとしている、などという見方もある。もともとアメリカがあまり好きな国ではないらしいし、経済を優先し、そのうえ日本とこれ以上離反すれば、中国に与するのはあり得ないことではない。中国はオーストラリアを恫喝し、今度はワインのダンピング疑惑調査などという嫌がらせを始めた。中国になびいている国はそれを見てなにも感じないのだろうか。矜持を失うとはそういうことを言うのだろう。

 

 世界全体はいざ知らず、極東に関しては大きく情勢が動くことがあるかもしれない。世界は大きな転換点に向かっているのかもしれない。その渦中にあると気がつかないが、後になって分かるものただという。
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2020年8月18日 (火)

ドン姫来る

 弟が千葉から梨を送ってくれた。娘のドン姫に連絡したので夫婦で取りに来た。土産にビールとその他一抱えの支援物資を持参している。とても嬉しい。

 

 三人で午後、歓談した。ドン姫は潰瘍性大腸炎にかかったのだそうだ。阿倍さんと同じ病気だ。一時期はつらかったが、いまはよい薬があるし、症状は軽いので心配ないという。重度になると指定難病である。原因はまだはっきりしていないらしい。

 

 休みがまとめて取れたので、来週夫婦で北海道へ行くのだという。二人はまだ新婚旅行に行っていなかったのだ。札幌周辺をレンタカーで廻る程度になるらしいが、北海道については私もいささか土地勘がある。その話で盛り上がった。旅行に行ける程度だからドン姫も大丈夫だろう。

 

 夕方、「また来る!」といいながら二人で仲良く帰って行った。
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ようやく終わる

 自分のブログのアーカイブの作成がようやく終了した。残っていたのは昨年からの十ヶ月分ほど。けっこう手間がかかるが、これでいつでもプリントされたものを読み返せる。もしブログが消滅しても、手元には形あるものが残るから安心だ。もちろん八月が終わればまた八月分をアーカイブにする。

 

 2010年の九月に初めてブログを書いた。書いたら何か反応があると思ったらなにもなかった。そのまま放置してその年は一つだけ。翌年二月に気を取り直して再開。他の人のブログも読むようになり、ぽつりぽつりと間を置いてではあるが、すこしずつ書くようになった。だんだん面白くなって来て、自分の、あぶくのように消え去るばかりの想念を、言葉に写すことが出来るようになっていった。

 

 読んだ本を読みっぱなしにせずに書き留めるようになって、少し読み方が丁寧になった。読んだあとにちょっとだけ考えるようになった。考えるのに適した本を読むようになったら、娯楽本を読むことが少なくなっていった。リタイアして時間が十分あるので、テーマを決めて読んだり、特定の人の本を集中して読むことが増えた。

 

 ブログのおかげでさまざまに自分が助けられている気がする。自分を大事にすることを知ったこと、孤独に強くなったこと、寂しさを知ることで友人に会うことの喜びが深まったこと、考えを形にすることの楽しみを知ったこと、旅が観光から脱して、好奇心の発揚に変わったことなど。他者を意識して生きるというのは人間にとって大事なことらしい。それはそのまま自分を見つめることにもなる。

 

 今日、娘のドン姫夫婦が久しぶりに我が家に立ち寄る。濃厚接触を避けるために長居はしないが、顔を見るだけでも楽しみだ。
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2020年8月17日 (月)

孔子の教え

 2010年の中国映画『孔子の教え』を観た。監督はフー・メイ、孔子を演じるのはチョウ・ユンファ。

 

 映画では孔子の後半生が描かれる。孔子が理想とした周公旦の政治を実践するため、実績を積み上げて魯公の信認を受け、副宰相として改革を断行しようとする。そもそも国王である魯公よりも三桓氏(叔孫子、孟孫子、季孫子の三家)が実権を持っていた国をあるべき姿に正すのはほとんど不可能に近いことだったが、それが着実に進むにつれて周辺国にとって魯の国は目障りな国になっていく。強国斉の陰謀で孔子は失脚し、国を追われ、各地を放浪することになる。

 

 この経緯が孔子の晩年の回想として描かれていく。全てよく知られた史実でもあるので、イメージとしてなじみの出来ていたものが映像として表されていてなんとなく微笑ましかった。もちろん映画なので、史実と反するものも散見される。

 

 最も明瞭に史実ではないのが顔回である。顔回は孔子が最も愛した若い弟子で、顔回は孔子が放浪の旅に出る前にすでに病死しているはずだ。しかし映画では旅に同行し、旅先で不慮の死を遂げている。不思議でもあるし意図的でもあるのだろう、と思わせるのは、孔子もほかの弟子も年月とともに老けていくのに、顔回だけは若いままである。孔子の回想のなかでは顔回は生き続けたというのだろうか。

 

 孔子は『魯氏春秋』という歴史書を残している。中国古代、周王朝は、実権を失って封建された各国が台頭し、やがて乱世が始まる。それを春秋戦国というが、春秋と戦国の区切りがこの孔子が『魯氏春秋』を表した頃なのであり、時代を呼ぶ春秋の名前はこの書にちなんでいる。このあと中原からは南方の蛮族と見なされていた国々(呉や越、楚など)が次第に覇権争いに加わっていく。

 

 孔子の理想とは何だったのか、そのことはこの映画ではわかりにくい。『孔子の教え』と題名にありながらその教えはなんだか権力争いと自分の立ち位置についての弟子への注意にしか見えない。あまり正確に理想とはなにかを描きすぎると、中国共産党王朝に差し障りが出るからか、などと邪推している。孔子の理想とはかけ離れた(むしろ正反対の)王朝なのだから。だからこの王朝で生きるための教えを孔子から学べ、といっているのだろうか。
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集中力が低下しているけれど

 結婚当時からある、愛用の五枚組の少し大きな皿の最後の一枚にひびが入り、危うくなっている。連れ合いが一枚ずつ割っていき、別居して一人暮らしを始めたときには二枚だけ残っていて、大事に使っていたのだが、ついに全てなくなりそうだ。よけているつもりでも何かにちょっと当たったりすることがある。そのときのダメージが蓄積して、ある日ひびが入ってしまうのだろう。この前の一枚は洗っているときにきれいに二つになってしまった。今回のもそうなりそうだ。

 

 集中力がなくなっているので長い文章を長時間読むことが出来ない。内田百閒の短い随筆や志賀直哉の短編を読み散らしている。近現代史を読むつもりで十冊あまりの本を積んであるのだが、数頁読んではうとうとしたりして、遅々として先へ進まない。
  
 その代わり、ドラマや映画はけっこう観ている。「映画寸評」で大体三作品くらいずつ取り上げてきたけれど、それを書く気力がない。けっこうまとめるのもエネルギーが必要なのだ。取り上げていないものが二十作くらいある。新しい録画は厳選して増やさないようにしている。録画を消したブランクディスクがずいぶん増えた。
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2020年8月16日 (日)

知識人の粛清

 焚書坑儒の前例以来、中国では知識人が粛清されてきた。知識人とは文字が読めて、歴史について考えることが出来て、自分の意見を持っている人である。文化大革命で誰が殺されたのか。自殺に追い込まれたのか。知識人である。独裁者にとって知識人は体制を批判する厄介者である。粛清するのが独裁を維持するのに都合がよい。

 

 ソビエトでスターリンがシベリア送りにして殺しまくったのも、知識人が多い。ポル・ポトが五十万とも百万ともそれ以上ともいう知識人を殺しまくったのも理由は同じだ。ポル・ポトは毛沢東思想を原点としていた。文化大革命に、中国共産党に倣ったのである。

 

 殺さなくても恐怖を与えれば人々は黙り込む。香港でなにが起こっているのか。香港の雨傘運動以来の市民運動を主導したのもそれに呼応したのも知識人である。知識人はこのまま手をこまねいていたら香港がどうなってしまうのか、想像することが出来た。そして現にその想像通りのことが進行している。

 

 これは多少こじつけだが、韓国の親日派に対する異常な締め付けはほとんど知識人への憎悪であるように見える。日本が統治していた時代に半島を統治するには朝鮮人の知識人が必要だった。それを日本に対する協力者として断罪することは、中国にならったある種の粛清だろう。韓国で漢字を廃止し、ハングルのみにしたことには過去の歴史を読めなくするための愚民化政策と言えなくもない。自分の国の昔の文書を読むことが出来なくすることが目的ではないか。それでよく正しい歴史認識などというよ。
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理解不能

 世の中には分かろうとしても分かれないことがあると承知しながら、それにとらわれてしまって腹が立つことがある。韓国の、この百年あまりについての歴史についての、願望を事実と思い込もうとするこだわりは異常に見える。

 

 歴史はかじった程度しか知らないが、ここまで歴史を変更しようという国の話は知らない。もしそこまで怨念があればその相手と戦うのが普通だ。

 

 私は以前韓国の挺対協(今の正義連)などが、意図的に挺身隊と慰安婦を混同させて、二十万人の韓国の若い女性が従軍慰安婦として連行された、と主張していたのを嗤った。二十万人の若い女性が連行されているのを見て、韓国の男たちは何をしていたのか、黙って眺めていたのか、と嗤ったのである。それに抵抗して暴動が起こったというような話は一つも事実として記憶されていない。もしそのような事実があれば、それをことさらに挺対協は騒ぐはずであろう。

 

 ところが、今韓国では連行される若い女性を救うために日本軍に戦いを挑む英雄の話が、歴史ドラマとしていくつも作られ、喝采を博しているという。ようやく自分たちの主張のおかしさに気がついたら、あろうことかさらにウソの上塗りを始めたのだ。しかし若い人たちは作り替えられた歴史を事実として頭に刷り込む。恐ろしいことである。それを世界にプロパガンダして、世界中にその妄想を広めようとしている。

 

 理解不能の妄想を狂気という。いま精神の病は治すことは出来ないにしても沈静化することは出来るようになっているけれど、韓国の狂気に効くそのような薬は何なのだろう。興奮させると狂気はエスカレートする。しかし妄想を黙っているとそれが思い込みを加速する。どうしたらよいのだ。どうしようもないのか。
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2020年8月15日 (土)

テンション低し

 すぐ近所のスーパーに食料や雑貨を買い出しに出かける以外はほとんど引きこもっている。運動不足とクーラーの当たりすぎで体がいささか変調を来しているようだ。食欲もあまりないから、体重も努力しなくても目標体重にとどまっている。

 

 新日本紀行で熊野灘が映されて、三重県から和歌山県にかけての景色を眺めて、あの辺を走り回ったときのことを懐かしく思い出した。行きたいなあ。川湯温泉辺りでゆっくりしたい。神社回りもいい。月末に車の車検があるから、それが終わったらとにかく遠出したいなあと思いながらぼんやりしている。
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あるがまま

 渡哲也が死んだ。日活のヤクザ映画が好きで、学生時代、彼の主演する『関東幹部会』シリーズを映画館で観た。ほとんどの作品を観たと思う。当時は時代劇が衰退し、東映の任侠映画やヤクザ映画が盛んに作られ人気を博していた。しかし鶴田浩二や高倉健の格好良さがどうも好きになれず(後に好きになって、ビデオで飽きるほどたくさん観た)、みっともない死に方をする日活映画のヤクザ映画の方に肩入れしていた。東映では藤純子の『緋牡丹博徒』シリーズだけは欠かさず観ていたけれど。

 

 渡哲也といえば、一押しは『仁義の墓場』で、鬼気迫る演技が忘れられない。これはヤクザ映画の傑作だと思う。多岐川裕美もよかった。

 

 表題とは違うことを書いてしまった。

 

 貧乏性で、何かしていないと時間がもったいないと思いながら、同時に怠け者でもあるので、気がつくと無駄に時間を過ごしていることが多い。無駄に過ごしてしまったことに自分でイライラする。どうもそれが精神的に空回りの原因となり、ますます自分に嫌気がさして、結局なにも手につかないという悪循環に陥る。 

 

 なにも出来なくてもいいんだ、とようやく自分をなだめることが出来るようになった。暑いし集中力を欠いているときに焦っても、なにも手につかないのは当たり前なのである。あるがままでいいのだ、LET IT BE.でいいのだ、と思ったらちょっとだけ気が楽になった。
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2020年8月14日 (金)

おかしなメール

 二三日前から携帯におかしなメールが来る。アドレスだけで発信人は記名されていない。内容は、同窓会の出席の可否を連絡するように、というものだ。私は基本的に数年前から同窓会には出席しないことに決めているし、同窓会の案内が来るとしたら事前にそのための案内があるはずだ。そんなものは受けていない。

 

 二回目は、返事をくれないと困るから返信をしてくれ、というものだった。そして今日、三回目の、やや怒り気味の、忙しいかもしれないが返事くらいよこせ、という意味のメールがあった。もちろん全て返信せずに即消去している。うっかり返信して、どこの誰か尋ねたりしたら、なんだか危ない気がしている。とにかく怪しい。私には心当たりがないからこうして無視することが出来るけれど、心当たりのある人は連絡しそうだ。どこの誰か分からないメールには気をつけなければ。
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もしも

 歴史にはあのときこうしていれば、とか、あの人が死なずにいたら、ということが多々ある。そういうことの累々とした屍の上に歴史というのはあるのだ、とも言える。

 

 いま、私なりに近現代史を見直している。西洋史にはあまり興味はないので、日本を中心にした極東史について書かれたものをぽつりぽつりと読んでいる。いつものように何冊もの本を並行して読んでいるが、いつになく読んでは愚考をしているので遅々として進まない。

 

 ペリーの艦隊が浦賀沖に現れたことは、とつぜんのことではなく、実はオランダ側の情報から幕府はすでに予測していた。アヘン戦争などで西洋列強の行動についても詳細に情報を得ていたから、対応を過つと、それを口実にどのような要求を吞まなければならなくなるかも承知していた。艦隊が東京湾に入ってしまえば、江戸の街は目の前であり、軍事的に抗するすべがないことも分かっていた。

 

 ぺりーを一度は追い返したものの再訪が通告されており、それによる開港、さらに領事としてのハリスの来訪によって通商条約を締結することは、必然の経緯で、幕府側の交渉は清国などと比べれば遙かに毅然として、まともな交渉だった。まだ不十分であったが、万国公法に則っての交渉で、駆け引きもよく心得ていて、アメリカ側も強行一点張りではなかった。

 

 それが、日本が植民地されなかったことにつながったと言えるかもしれない。列強がその過程で日本を準文明国として認識したからだ。

 

 幕末史を考えるときに、攘夷という概念がどうしても理解しきれないところがある。西洋人を夷と見なす、あたかも野蛮人であると見なすという考え方は、どこから発したのか。

 

 それが孝明天皇の頑迷とも言える開国反対、攘夷の主張に発するものらしいことを、今回改めて知った。朝廷側の実権を持っていた五摂家はそれぞれ有力大名と強いつながりを持ち、そこから情報も得ていたから、幕府の開国への動きについて理解を示していた。ところが孝明天皇は頑として幕府の開国に反対した。攘夷、つまり外国人を打ち払え、と言い続け、ついに幕府に対して了解を与えなかった。

 

 このことが幕府の当事者たち、老中以下の有意の人たちの責任として重職から追うことになった。そこで登場したのが井伊直弼である。彼は朝廷を無視してアメリカと通商条約を結び、安政の大獄を断行した。この過程で失われた有能な人々は、生きていれば後の日本を支えるような人たちばかりだった。

 

 単純化していえば、孝明天皇の、西洋人を野蛮な人間でそもそも神国日本の地に彼らを踏み入れさせるな、という狂気のような主張が、井伊大老を生み出し、数多くの有意の士を喪わせてしまったと言える。孝明天皇は皇統としては傍系からの出自で、強いコンプレックスの持ち主だったと言われる。そのために自分の父親の地位を後になって上皇と認めさせようという前例のないことを強行しようとしたりしている。天皇に在位していない人間を上皇になど出来るわけがないのだ。

 

 この孝明天皇と下級公家たちが結びつくことで、京都は百鬼夜行の世界に変貌していった。後に倒幕に動く勤王派がそれを利用したことは明らかである。そして、孝明天皇は急死する。利用するだけされたあと、毒殺されたという話もあって厳密に否定はされていない。

 

 幕末に喪われた多くの有能の士たちが、もし生きていたら後の日本はどうなっていたのか、思っても詮無いことをつい考える。
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2020年8月13日 (木)

独裁者は怯える

 香港の一国二制度という、国際的な了解事項を反故にすることは、世界の多くの国々の反発を招き、中国の信用を失い、中国国家にとって大きなマイナスとなる。習近平がそのことを分からないはずはない。

 

 それを承知であえて一国一制度への転換を強行したのは、香港の民主化への火種が中国本土に及ぶことを恐れたのだというのは正しい見方だろう。複数の専門家は、習近平の政権基盤は見かけより弱いから、こういうことをするのだ、などと語っていた。

 

 怯えているという意味では確かにそうだろうが、政権基盤が弱いから、という見方には賛同しかねる。

 

 中国は毛沢東による独裁政権の弊害(二千万から四千万人が死んだといわれる大躍進政策、一千万から二千万人が死んだといわれる文化大革命)の大きさに懲りて、毛沢東の死後、多数による指導体制に変えた。個人独裁が出来ないようにしたし、任期も最大10年までとしたのである。

 

 それを習近平は個人独裁にして、任期も延長できるように、つまり毛沢東の二代目を目指して体制を変えてしまった。

 

 独裁者は独裁者になるために敵をことごとく粛正していく。だから敵だらけになる。もし権力を失うと、粛正したはずの敵の残存勢力によって、報復を受ける。独裁者とは報復を必然的に抱えるものなのだから、怯えるのは当然で、その怯えからさらに強権性を強める。基盤の強さや弱さが理由ではないと思う。

 

 韓国の大統領制度は、あまりにその与えられる権力が強大であるために、見かけ上独裁者のようになってしまうという宿命を持っている。韓国の大統領が暗殺されたり、引退後に晩節を全うできないのは、その独裁的傾向が理由なのではないかと私は見ている。だから安全装置として任期は五年、と区切られているのであって、もし文在寅が任期の延長を目指しているなら、その宿命に怯えているからだとも言えるし、同時に独裁者への道を目指している、と見なすことが出来る。

 

 習近平もその独裁者の宿命への怯えで強権発動をエスカレートさせているのだろう。
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法治国家

 マンションは暖まりやすくて冷めにくい。コンクリートが熱をため込むからだろう。だから冬は躯体が冷えるまでは余熱で暖かく、快適である。夏も春先から初夏には、熱くなるのに時間がかかるのでしのぎやすい。ただ、いったん熱くなった躯体は冷めないから、猛暑の真夏は地獄である。どこの部屋もクーラーをガンガン効かせてその暑さをしのぐ。だからベランダへ出ると、早朝でもクラクラするほどの熱気が立ちこめている。

 

 危惧したとおり、香港の民主化運動のリーダーたちへの中国政府の締め付けはエスカレートするばかりである。世界がなにを言おうと、「内政干渉するな!」で片付けてしまう。これがどれほど恐ろしいことか、香港市民はいまさらながら身にしみて感じているだろう。これを予感して雨傘運動などが盛り上がっていたのだが、中国習近平独裁政権には蟷螂の斧でしかなかった。

 

 香港国家維持法とかいう法律が民主化運動家の拘束、処罰の根拠だとされている。その法律が施行されたのはつい最近のことである。しかしその罪状としてあげられているのはその法律が施行される前の民主化運動家たちの言動に対する罪である。つまり遡って法律が適用されていることになる。法律は遡って適用することが出来ない、というのが大原則であって、それを無視する国家は法治国家とは言えない。それを認めてしまうと、何でもありになってしまう。

 

 お隣の韓国も新しい法律に従って過去の罪(積弊清算という名目で、親日的行為と見なされたものを罰している)を問うことを平然と行い、国民も、法律に関係する学者もマスコミもみなそれを異常なことと感じていない。法治国家ではないことを自覚していないことこそが、法治国家でないことの証明となっている。

 

 日本では、例えば飲酒運転による悪質な事故や、凶悪犯罪としか思えないような危険なあおり運転に対して、法律が不備であったが、犠牲者が出て初めて法律が強化されたけれど、その法律が施行される以前の行為や事故にそれを適用することは出来ない。残念に思うけれど、そこは厳格に仕切られている。正義の名の下に遡及させることはしない。日本は法治国家である。

 

 法治国家を自認する国の集まりだった連合国が、ナチスの行為や、日本の戦争犯罪を戦後作られた法律によって遡及して裁いたのは、人道的なものは遡及して法律を適用できるという前例を作ることになってしまった。それによってナチスの戦争犯罪者たちは、生きている限り永遠に訴追されることになったと言える。日本でも戦犯とされた人々の多くがそのような連合国の人道に反する行為に対する罪によって処刑された。私の母方の祖父の兄もフィリピンで処刑された。

 

 正義の名の下には大原則も例外が許されるという前例は、韓国や中国では柔軟に適用されて、それが当たり前になっているようである。そしてそれが当たり前の国というのは独裁国家に走りやすい国であるのではないか、と私は考えている。
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2020年8月12日 (水)

崩壊の兆し

 昨晩のBSフジのプライムニュースの録画を観た。東京の医師会から尾崎氏と、分科会の岡部氏、自民党の山際氏が新型コロナウイルス感染について論じていた。

 

 正直な気持ちとして、新型コロナウイルスについて、ニュースやニュース形式のバラエティ番組でおびただしい回数観てきたのでいささか食傷気味である。この番組についても似たり寄ったりなら、途中で打ち切って録画を消してしまおうと思っていた。案の定、似たり寄ったりであったのだが、あまりにも典型的な意見の違いを感じたので、最後まで観てしまった。

 

 問題点が何であり、どう対処すればいいかはずいぶん絞り込まれているように思う。だから具体的にそれをどう進めていくか、考え、行動していくのが求められているはずである。現場の必死の努力で重症化が食い止められて、死者も増えずにいる、ということについての認識も全員共有していた。

 

 しかしその必死の努力が続けられたことで、現場の医療従事者たちは疲弊の極にある、と尾崎氏が訴えていた。その防波堤が崩れたら、今回の第二波がなんとか押さえ込めたとしても、秋からの第三波が来たら、収拾不能になる恐れが大きいように思えた。

 

 それに対して岡部氏や山際氏は頷くけれど、次いでそれについて語り出す言葉は、ひたすらなぜ対策ができないか、についての言い訳に終始しているように聞こえた。結局私は傍観を続ける政府の対応は仕方がないと考えています、と語っているとしか思えないのである。

 

 番組の最後には山際氏の顔が二度と見たくない顔になった。このことは以前にもこの人に感じたことである。彼は政府を代弁したつもりであろうが、彼の弁護によって安倍政権は国民に大変な悪印象を与えている。

 

 GoToトラベルによって感染者が東京から地方へ拡散しているという指摘について、岡部氏が、「それが地方への拡散の全ての理由ではない」と答えていた。それはもちろん全てがGoToトラベルが原因だ、などと考える人などいるはずはない。しかしかなりの要因になっていることも確かだろうと思っているはずだ。それを「それが全てではない」という言い方をすると、あたかもGoToトラブルは拡散の理由ではないかのように聞こえるから不思議だ。

 

 それが証拠に山際氏は蕩々とGoToトラブルの妥当性を語って止まなかった。特措法は暫定的で問題があり、現状の対策にはその改定が是非とも必要だ、という尾崎氏の心からの希求の言葉も、山際氏は訳の分からない「出来ない理由」の解説を繰り広げてうやむやにした。なんと事態が収まってから、問題のないようにじっくりと与野党で協議すればいいという。これは国会を開かないことの言い訳をしているのだな、ということが見え見えだ。

 

 ちょっと頭が熱くなって、鎮めるのにしばしかかった。こういう小賢しい連中が政府の指針を打ち出しているのなら、対策は当分後手に回り続けるのだろう。全く支持できない野党を支持せざるを得ない事態がやってくるような気がする。このままなら安倍晋三は晩節を全うできないだろう。

 

 文在寅政権と安倍政権とどちらが先に崩壊するだろう。文在寅の呪いの方が遙かに強いようだ。
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ぜいたく

 洗濯は嫌いではない。

 

 これを、洗濯が嫌いではない、と書くと、上の文とどう違うのか。上の文では、さまざまな家事があるけれど、その中では、という意味が込められている。洗濯が・・・、と書くとそういう前提がなく、ただ洗濯そのものについて語っていることになる。

 

 ところで嫌いではない、の「では」の「は」について、必要であるか。「では」と「で」だけでは多少違うと言えば違うけれども、「は」がなくても、意味は普通に通じる。この辺の「は」が團伊玖磨は気になって仕方がない、とこだわる。

 

 などと言う駄弁は前回のブログを受けてのことで、本論ではない。

 

 洗濯と言っても洗濯機がすることで、乾すことや取り込むこと、取り込んだ衣類をたたむことなど、なにほどの面倒なこととも思わない。それよりこまめに洗った衣類に着替えられることの方がありがたい。何しろ恥ずかしながら元栓が緩んでいるので下着が汚れやすいし、汗かきでもある。

 

 毎日ではないが、朝起きたら腰くらいまでの少量の湯で体を洗い流す。普通は石けんを使わないが、それでも至極さっぱりする。温泉の朝湯に近い快感である。そして下着を替える。晩に風呂に入った後にも替えるから、夏は一日二度下着を替える。

 

 以前にも書いたがタオルが使い切れないほどたまっているので、さまざまなことに使い倒す。大体三種類くらいに分けてあって、汗を拭くようなきれいなもの、手を洗った(最近は自分でも信じられないほど何度も手を洗う)後に拭くもの、あとはテーブルなどを拭くものである。汚れ具合で、だんだんお下がりになるようにしていて、最後はレンジなどを掃除したり、車を拭くものに払い下げとなる。

 

 タオルにしても朝湯にしても、考えればぜいたくな事をしているなあ、と思う。昔の人には考えられないことだろう。それが出来ることをありがたいなあ、と思う。
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2020年8月11日 (火)

残暑見舞い

 先週、息子の嫁さんの親御さんから暑中見舞いをいただいた。なかなか達意の文章で敬服した。息子も親しくさせていただいているらしい。その返事を書きそびれているうちに立秋を過ぎてしまった。もう残暑見舞いである。文面がなかなか思い浮かばない。張り合ってもしようがないが、子供の手紙みたいなみっともないものは書きたくないと思うのである。これでも多少は恥を知っている。

 

 ようやくにお粗末なものを書き上げた。外に出たら猛烈な暑さにクラクラする。大急ぎで残暑見舞いを出し、ついでにスーパーで買い物をして、クーラーの効いた部屋に逃げ帰った。
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言葉へのこだわり

 国語学者、大野晋の『日本語練習帳』(岩波新書)という本をときどき開く。文法が苦手な人が多いと思うし、私も人一倍苦手だが、この本はその私でも投げ出さずに読めるほどわかりやすい。膠着言語である日本語と西洋の言葉は本質的になにが違うのか、そのことも読んでいるうちにちょっと分かってくる。

 

 ごく大雑把に言えば(これは私の頭がざる頭のために大雑把になっているので、この本に書かれていることが大雑把なのではない)、西洋の言葉は主語の後に述語が来るから結論が先にある。しかし日本語は述語が末尾に来るから結論が最後まで読まないと分からない。西洋の難しい文章はしばしば長文になっているのに分かりやすいのは、展開する論理がその都度分かるように書かれているからだ(これは原文をそのまま読んだときの話である。訳文は日本語だからそういうわけにはいかない)。

 

 日本語の長文は、それが宙ぶらりんのままに最後の締めの述語まで引きずられるので、どうしてもわかりにくくなる。そういうときは短い文章に直せば大分違うのだという。ところが学者先生などは西洋の文章をそのまま訳したもので学んでいるから、長文のままが正しいと思い込んでいる。だからそういう学者の書く文章は、読んでいてうんざりするような長文の迷文になっていることが多くなる。例文として丸山真男の360字のパラグラフが示されている。わかりにくいのは私の頭のせいばかりではないようだ。これらは日本語の特質が分かっていないと言える。

 

 ~は、とか、~が、の助詞についての説明があって、おぼろげにしか分かっていなかったことが、少し分かってくる。普段当たり前に使い分けているつもりでいても、その違いを実はほとんど分かっていなかったのだ。そういえば、若いころ読んだ團伊玖磨の『パイプのけむり』のなかで、「は」の使い方にひどくこだわっていた文章を読んだことがある。無用な「は」を嫌悪していて、興味深かった。そのことをときどき思い出す。

 

 読んでいて読みやすく、分かりやすく、参考にしたいような文章家が、しばしば言葉にひどく好悪を示している。そのこだわりに驚くけれど、説明されるとなるほどと思ったりする。そのような感性がなければ人に読んでもらえるような文章は書けないのだと知る。開高健などは過剰とも言える、あふれるように言葉を使うけれど、それだからこそ言葉への好悪が人一倍激しい。

 

 私も嫌いな言葉がいくつかあるが、なぜ嫌いかというと常套句だからであることが多い。意識して常套句を使うことはあるが、無意識に多用してしまったものを読み直すと、恥ずかしくなる。たいていあまり考えずに書いている。他人の頭で考えている。同じ形容詞を繰り返し使うのも見苦しい気がして、なんとか違う言葉に代える。そういうことをさまざまな文章を読むことで、ようやく意識出来るようになったところだ。ずいぶん遅いけれど・・・。
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2020年8月10日 (月)

今回は本気らしいが

 立憲民主党と国民民主党の合流が相談されている。合流のための最後の問題点として、新党名をどうするかが懸案だった。それは合流することそのものの本質を表すものだから互いに強くこだわっている。

 

 立憲民主党は、立憲民主党という党名で合流を主張する。それは立憲民主党側が、この合流が吸収合併である、という認識であることを示している。それは国民民主党にとっては受け入れがたいことであろう。それでもこのままでは永遠に合流は成らないから、国民民主党は選挙で党名を決めよう、と言うところまで譲歩している。

 

 人数の多い立憲民主党なのだから、選挙なら立憲民主党の党名が選ばれる可能性が高いと思われるが違うのだろうか。枝野、福山氏たちは、両党が同格であることを否定したくて、あくまで吸収合併という形で、国民民主党を下位に置くことにこだわっているように見えてしまう。

 

 一体なにをやっているのだろう。これではもし合流が成っても、心情が変わらないのだから、国民民主党のなかの不満の人々が再びスピンアウトする可能性がある。もともと共産党とシンクロする傾向の強い人々の多い立憲民主党に対して、反発を感じた人々によって作られたのが国民民主党である。野党としての力をもう少し強めることが必要であるという点でのみ合流に妥協しようとしているのに、それに対して自分たちが優位であることばかりを主張しようとしているように見える立憲民主党に不快感を高めているだろうと国民民主党に同情している。私は、玉木氏について、枝野氏や福山氏に比べれば、不快に感ずることがずっと少ない。
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メモ書き

 毎朝、今日一日に片付けることをメモに書き出す習慣については少し前に書いた。カレンダーや広告の裏の白い紙やハードコピーしたもので不要になったものを裁断してメモ用紙にしているからメモ用紙に不自由することはない。

 

 そのメモ用紙に、思いついたこともメモするのだが、そのときには分かっていたことでも、メモだけではなにをそのとき思いついたのか分からないものもある。ちなみにいま手元にあるものを見れば、

 

文化大革命と差別反対
内心の悪魔
乃木と阿部一族
アヘン戦争とペリー
ゴヤ

 

などと書かれている。

 

 乃木と阿部一族、というのは前回のブログの『阿部一族』についてのことである。

 

 内心の悪魔、については災厄や人の不幸をつい期待してしまう心情が自分のなかにある気がしたことについて、少し考えた。ただ、あまりに自己告白的になりすぎる可能性があるのでブログにするのは控えている。

 

 アヘン戦争とペリー、はシリーズ日本近現代史(全十巻)の第一巻の冒頭の、ペリーと幕府の折衝役の交渉について、いままでにない新しい視点を教えられ、アヘン戦争のときのイギリス側と清国側の交渉経緯とを比較して考えていた。文章にするのが難しすぎて(十分な知識とその理解がないので)まとめられていない。

 

 ゴヤ、はスペインの画家ゴヤのことで、開高健の『言葉ある曠野』という本の中にゴヤのことが語られていたのを読み、若い頃のことだが、実際に自分も日本で開かれたゴヤ展を見に行って感銘を受けたので、そのことを書こうかと思った。そういえば徳島の大塚美術館で陶板に写されたゴヤの絵をじっくり見たときのことも思い出していた。特に『黒い絵』について、開高健の言っていることが多少は分かったのでそのことを書こうかと思ったのだ。

 

 ところで、文化大革命と差別反対、については多少想像がつくのだが、どういうまとめ方を考えていたのかどうしても思い出せない。大体そんなものです。
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2020年8月 9日 (日)

森鴎外『阿部一族』

 現代はなによりも命が一番大切であると考える時代である。しかし命よりも大事なものがあると考える時代もあった。その時代を現代の価値観で見て、否定したり眉をひそめるのは間違っている。その時代はそれが当然だと多くの人が認めていた。彼らから見れば、現代人の価値観は理解できないし、眉をひそめることも多かろう。お互い様である。

 

 熊本藩主細川忠利は参勤交代で江戸へ向かう途次に発病し、幕府に届けをした上で国元に引き返して療養に努めたが、その甲斐なくそのまま亡くなった。このとき忠利の枕辺で殉死を願い出たものが数多かったが、当初はなかなか許されなかったものの、最後は根負けに近い形でほとんどが許された。たぶん体力の衰えとともに断る気力も萎えたのであろう。

 

 殉死したのは総勢十八人、もちろん全て介錯者の名も明らかな切腹である。この物語では、前半部がその十八人の出自と忠利との関係、その切腹の様子を描くことに終始している。数で言えば十八人、とまとめていうことが出来るが、それぞれの人生、生き様、係累、が詳しく語られると、それは数の問題ではないことを知る。切腹する当人がなにを考え、なにを自分の命より大事なものと考えたのか、それを思わずにはいられない。

 

 そして阿部一族の当主彌一右衛門も藩主忠利の側近くに仕えた人物として、当然殉死を願い出たのに、なぜかただ一人殉死が許されなかった。その理由がそれぞれの性格などから説明される。そういうこともあるだろう。意に染まぬ殉死の許可を乱発したことで、却って彌一右衛門にだけには意地になってしまったということかとも思われる。互いにそういう関係だったようだ。

 

 彌一右衛門は自分が命が惜しいなどとは誰一人思わないだろうと確信していたので、仕方がないと殉死を断念するのだが、十八人の殉死が次々に敢行された後で、思わぬ噂を聞く。こうして彌一右衛門は息子たちを集めて、許されぬ切腹ではあるが、名を辱められては生きてゆけぬ、として息子たちの前で切腹して果てる。

 

 そのあとの藩の処置が、いちおう殉死扱いとしながら小賢しいもので、阿部一族の面々の怒りを呼ぶ。それは次代の藩主とその側近の判断だったのだが、面子を考慮しないものだった。それに不満だった彌一右衛門の長男の振るまいが新藩主の怒りを買い、切腹でなく縛り首という処置で断罪される。

 

 ここに阿部一族が結束決起して本家に立てこもり、上意討ちを迎え撃つことになる。まず老人と女性は全て自害、子供たちは一人ずつ刺殺し、庭に大きな穴を掘って埋めた。残ったのは壮者のみ、討手と壮絶な争闘を繰り広げて全員討ち死にする。

 

 討手の総大将にも、ある遺恨があった。それは阿部一族に対してではなく、新藩主の側近に対してであった。だから彼は自ら死地に赴き、積極的に討ち死にすることを選んだ。

 

 この物語で、その時代の武士たちがなにを価値あるものとして、死んでも譲れないと考えたのか、その例がいくつか記されている。善悪の問題ではない。

 

 読むのは三回目だと思うが、いままでよりも深く読めた気がする。それは乃木大将の殉死の話を機に、『興津彌五右衞門の遺書』を読んで、いろいろ考えることがあったからで、この『阿部一族』は『興津彌五右衞門の遺書』よりも早く出版されている。森鴎外もいろいろ殉死について深く考えていたのだろう。
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長駆して無事帰る

 千葉まで往復約850キロあまり、帰りは東名が思ったよりスムーズに走れたので、その日のうちに無事帰り着くことが出来た。連休初日でもあり、短い夏休みの最初の日なので混むことを覚悟していたのだが、混んでいたのはアクアラインだけだった。

 

 アクアラインは往きも帰りも渋滞していた。当然往きは東京圏のナンバーの車が多く、横浜ナンバーなども多かった。あれだけの車が、海ほたるで引き返すのを別にして、房総半島に向かったのである。自粛してこれだから、なかなか感染拡大は止まらないだろうなあ。

 

 病院で主治医との打ち合わせをしたが、いつもの悪い癖で少ししゃべりすぎた。普段一人で沈黙しているので、たまに人に会うと、考えていることを全部しゃべろうとしてしまう。言いすぎたところもあったので、医師が気分を害したかもしれないのが心配だ。

 

 いつも長時間運転するとエコノミー症候群のような足のむくみが起きてつらいのだが、今回はこまめにトイレに行ったせいでむくみは少ない。しかし今朝はさすがに腰と膝が痛い。今日は心身ともに休養しようと思う。少し部屋が雑然としてきているので片付けたいが、取りかかるのは明日からだ。

 

 なんで私はこんな煩わしいことを引き受けなければならないのか、という思いが強いけれど、どうしても引き受けざるを得ないことなら、前向きに考えないと却って自分がかわいそうだ、などと帰りの車の中で考えた。
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2020年8月 8日 (土)

今頃は

 今頃は千葉の病院の用事を済ませて、千葉から名古屋に向かっているはずである。病院は千葉県の房総の方にあるので、アクアラインを渡っている頃か。長距離を走るのはそれほど厭わないが、お盆が始まっている時期でもあり、例年よりも少ないかもしれないが、渋滞が予想される。これは疲れ方がまるで違う。心を平静に保ちたいところである。

 

 帰り着くのは日付が変わった頃になるかもしれない。それなら御の字である。

 

 帰ったらお酒を飲んで神経の興奮を静めないといけない。夜中でも、疲れていても、すぐには眠れない。だから酒をゆっくり飲んで、こころを解きほぐす。ビールではなく、美味しい日本酒か、それとも最近飲み始めたウイスキーでもやろうか。氷をたっぷり入れたグラスに安いウイスキーを注ぎ、ポッカレモンを垂らして炭酸水で満たす。醸造酒が好きで、蒸留酒は苦手なのだが、何しろ酒代を考えると蒸留酒の方がずっと安くつく。だから安いウイスキーをときどき飲むようになった。

 

 酒が待っている。無事帰り着くために、とにかく安全運転でいこう。つまみはあったかな。
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勘違い

 いつもたくさんのポチッとをいただいて感謝している。ポチッとをくださる方がブログを更新していれば必ず拝見する。コメントを書くこともある。もっと書きたいが、時間も限られているし、きりがないので最小限にとどめている。この頃はブログの更新をまめにしている人が少ないのは残念だし、まめに書いていた人ほど他のココログ以外のブログに移ってしまったりしているのも残念だ。

 

 ときどき、この人がこんなことを書いてどうしたのだろう、と思うことがある。そう思ってよく読み返すと、たいていこちらが勘違いした読み方をしている。人は昨日と今日、とつぜん違うことを書いたりしないものだ。あれっと思わせるようなレトリックを読み取れないのはこちらの能力の至らなさによるものだが、二度三度読ませるということではレトリックは成功したのだ。

 

 以前のブログのアーカイブを見直していたら思い出したことがある。いつも同じ方のブログの記事にコメントをいれている縁(コメント仲間とでも言おうか)で、こちらのブログも訪問するようになった方がいた。コメントもいただく。政治的なスタンスが私とはずいぶん違うが、ずいぶん情報の多い方で、いろいろ教えられことが多かった。

 

 ある日、その方からの私のブログへくれたコメントに驚いた。私の書いていることとはまるでかけ離れた受け取り方をしていたのだ。しかもそれを元にさまざまな引用をしながら持論を展開している。全体がきちんと構成されているから、原点を否定すると全体が瓦解する。しかし誤解にもほどがあるとそのときは感じたので、反論を行った。私の反論を元に読み返して間違いに気がついてくれればそれでいい。

 

 ところが論点のすり替えによる再反論があり、こちらも感情的になってしまった。かなり強烈な再々反論をしたらそれきりとなった。どう読もうと読み手の勝手であってそれだけならこちらの表現力の不足ということで終わりである。ただ、読み違えを元にこちらに意見の変更まで求められるのはかなわない。

 

 自分のあまり縁のない情報を教えてくれる人だったのに残念なことであった。いまならもう少しやりようがあったかな、と思ったりしている。
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2020年8月 7日 (金)

正義の基準

 以前、江藤淳の「正義(の基準)を外部に置く人」の話について書いたことがある。人は自分の正義の基準を自分自身の内部の良心に従って考えていると思っているが、実はほとんど誰かの意見や指示に従っていることが多い。そのことに全く気がついていない人々を江藤淳は「正義(の基準)を外部に置く人」と呼んで、そういう人の言うことは「信じない」と明言した。

 

 私も自分の意見や物事の判断が、本当に自分の内部から発しているのかどうか、常に意識しなければ、と自省した。もちろんさまざまなことを学ぶなかで、なるほどそうか、と思えばその考えを自分の考えとすることは普通にある。しかしその場合も、そのことを自分のなかに自分の判断の基準として取り込むためには、よくよく考えなければ自分の考えにしない。だから疑い、別の意見も見聞きする。それを意識した上で自分の考えというものが形作られていく。

 

 香港の問題を見ていたら、中国という国家は、国民は内なる良心などというものを持ってはならない、と考えているらしいと感じた。正義は国家が決めるから、その決めたものに従うのが正しい国民である、と規定したかのように見える。そうして、自分で考えて、自分で判断する者を処罰しようとしている。

 

 自由とは何か、それがある意味で際立って分かりやすく見えた気がする。

 

「正義の基準を外部に置く人」とは、ある意味で自由を放棄している人たちなのだと気がついた。だからこそ言論の自由というものはよくよく考えなければならない。自由だから何でも許されるというのは、自由の放棄でもある。韓国の土下座する安倍首相らしき像について、表現の自由を言う者を私は信用しない。
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音楽

 私は生来の音痴で、母は別として父は音楽に全く興味がなかったから、小学生の頃はそとから聞こえてくる三橋美智也か三波春夫の歌くらいしか音楽を知らなかった。それでもよその家より大分遅れてテレビが家にやってくる前は、母が聴くラジオの音楽ベストテンをよく一緒に聴いた。それは洋楽で、シャンソンなどのポピュラーや映画音楽が多かった。頭に残っている映画音楽は「鉄道員」や「太陽がいっぱい」など少なからずある。

 

 学校の成績はそれほど悪くはなかったが、音楽だけはいつもずば抜けて成績が悪かった。何しろ興味がないからいつも上の空で、授業中にふざけたりしたから音楽の先生には嫌われた。強制的に鼓笛隊にいれられたが、譜面は全く読めず、役割の縦笛が全く吹けないからついに見放されてクビになった。

 

 それが徐々に変わったのは、中学に入って音楽鑑賞の時間にクラシックのレコードを聴くようになってからだ。ボロディンの「アジアの草原にて」や、ハチャトリアンの「剣の舞」、ラヴェルの「ボレロ」、メンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」などを聴いて、いいなあ、と思うようになった。その頃、妹がピアノを習うようになって家にピアノが据え付けられた。見よう見まねで基礎的な練習曲を弾いてみたりした。多少は両手で弾けるようになった。

 

 ステレオなどもちろんなかったが、欲しくてねだったら、ようやく小さな小さなおもちゃのようなレコードプレーヤーにスピーカーが左右についたものを買ってもらった。レコードを買う金はなかったが、父が中学の教師だったから、学校からSP盤をいろいろ借りてきてくれた。父は音楽に全く興味はないから、なにが選ばれてくるか分からない。ずいぶん訳の分からないものも聴いた。

 

 いまデジタルのクラシック名曲集を聴きながらブログのアーカイブの作成編集をしている。昔のことを思い出しながら、しみじみした気分になった。
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2020年8月 6日 (木)

緊急事態宣言

 愛知県は昨日5日まで連続9日間100人以上の新型コロナウイルスの新規感染者が見つかっていて、大村知事は県独自の緊急事態を宣言した。大人数での会食などの自粛要請はもちろんだが、県民の不要不急の県外への移動を自粛するよう要請した。

 

 8月9日が母の命日で、8日には30年近く別居して名目だけの妻、の入院している病院へ行く用事があるので、そのまま弟の家に泊まって墓参りするつもりだったのだが、今回も日帰りにすることにした。私はあまり外出して人に会っていないけれど、持病を抱えているので病院にはたびたび行く。そこで何を拾っているのか分からない。弟のところへもし持ち込んだら取り返しがつかない。どうしてもいかねばならぬ病院だけにするしかない。

 

 愛知県の当事者たちは一生懸命やってくれているであろうと思う。思うけれども大村知事の語り口を聞いていると、なにをやっているんだ、といいたくなる。

 

「いわゆる緊急事態を発するしかない事態だと言わざるを得ない状況であると考えざるを得ないと存ずる次第であります」。

 

 これはちょっとデフォルメしているけれど、大村知事の言い方はいつもこのようであると考えざるを得ないと存ずる次第である。これでは誰もまともに彼のいうことを聞く気になれないのだ。
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人口減

 日本人の人口がどんどん減っているらしい。しかも65歳以上の人口比はまだ増加している。大変だ、大変だ、というけれど何も打つ手がないらしく、かけ声だけで出生数が増える気配は少しもない。

 

 生まれるよりも死ぬ人が増えれば人口は減少するのは道理だろう。生まれるのは当たり前だが新生児であり、死ぬのは多くが高齢者であろう。それなら年寄りは順送りで死んでいるわけで、ただ全体が多いから比率的にまだ生きている年寄りの割合が増えている。

 

 なに、生まれるより死ぬ年寄りがずっと多いのだから、いまに年寄りの割合もどこかで減少に転ずるに違いない。それならたぶん日本の高齢化は緩和するのではないか。違うのかなあ。ぼけてるらしくて頭がよく働かない。
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2020年8月 5日 (水)

映画寸評(10)

『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』2016年アメリカ
監督ギャレス・エドワーズ、出演フェリシティ・ジョーンズ、ディエゴ・ルナ、ドニー・イェン、マッツ・ミケルソンほか

 

 究極の英雄的行動は自己犠牲である。人は他人のために自分の命を投げ出す者に感動するから、物語では繰り返しそれが描かれる。

 

 この映画は『スター・ウォーズ』シリーズの最初の公開作、全九話のストーリーの中の第四話のサイドストーリーだ。あの映画の最後で、デス・スターを破壊するための秘密情報を得るためにどれだけの人々が犠牲になっていったのか、それが描かれている。だからここではルーク・スカイウォーカーもハン・ソロも登場しないし、ヨーダもオビ・ワンも登場しない。フォースすらお話としてしか語られない。そういう人たちが命を投げたして何を守り、何を伝えたのか。

 

 ふと考えたけれど、多分切腹という武士の作法が日本人にとって美学であると認識されていたのは、多分そのような自己犠牲という背景があったからではないか。いまの日本人には理解不能かもしれないけれど・・・。

 

『レプリカズ』2018年アメリカ
監督ジェフリー・ナックマノフ、出演キアヌ・リーヴス、アリス・イヴほか
 主人公は巨額の投資資金を受けて、死んだ兵士などの脳の記憶を全てデジタル記憶に変換して保存し、サイボーグを作ろうと研究している科学者(キアヌ・リーヴス)である。研究はいま一歩のところで脳と機械の体が不調和を起こしてうまくいかない。このままでは研究打ち切りだ、と通告がなされる。

 

 そんな矢先に主人公は家族と休暇旅行に向かった道で事故を起こし、妻と娘二人と息子が死んでしまう。かろうじて生き残った彼が取った行動は、家族の脳の記憶を保存することだった。そしてさらに彼は友人の協力を得て極秘に研究所の特殊ポッドを家へもちこみ、家族の生体の再生をもくろむ。ただしポッドは三つしかない。

 

 こうして一番下の娘の再生は断念され、再生される妻や子供たちの記憶からその娘の記憶は消される。再生された家族たちとの普通の生活が戻る。どうして研究がうまくいかなかったのか、その理由も分かって、事態は全てうまくいくかのように見えたのだが・・・。

 

 そもそも多少矛盾の見られる設定なので、その違和感が最後まで拭えない。ご都合主義的な展開は最後まで続き、実はそこまで都合がよく進んだのは・・・という絵解きもあるのだが、私としては釈然としないままだった。

 

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』2019年アメリカ・日本
監督マイケル・ドハティ、出演カイル・チャンドラー、渡辺謙、チャン・ツィイーほか

 

 どうもアメリカで作るゴジラの映画はできが悪い。特に渡辺謙が出る作品は不出来だ。この映画では死んでしまうからもう続編はないだろう。渡辺謙が悪いのではなく、怪獣たちを研究管理する組織というものの必然性が全く理解不能なので、それが違和感につながっている。今回はゴジラや、モスラ、ラドンにキング・ギドラなど、過去の日本製の怪獣が総出演でド派手に地球を破壊しまくる。

 

 映画の中で怪獣、とくにゴジラの存在意味が地球規模で語られるが、その説得力のないことはこちらが気恥ずかしくなるほどだ。子供でも笑うだろう。ただただ怪獣の大暴れを楽しむ、という意味ではとてもよく出来ている。

 

 チャン・ツィイーの使い方がもったいないなあ。
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久しぶりにアーカイブ作り

 ブログをハードコピーして保存している。そのまま印刷すると不要なものがたくさん入るし、何しろ新しいものほど後になるので読みにくい。月末から月初めに逆に読むことになってしまう。そこで記事とコメントだけを月初めから一日分ずつコピーアンドペーストして、時系列に沿って並べ直している。私は一太郎で文章を作るので、一太郎のファイルにする。

 

 こうして月別に、記事と、いただいたコメントだけのファイルを作成している(これがアーカイブだ)が、けっこう手間のかかる作業で、アーカイブは昨年の9月まで、ハードコピーは一昨年の8月までしか作成できていない。

 

 久しぶりにアーカイブの作成とハードコピーを始めている。ずっと前に書いた文章を眺めていると、恥ずかしい間違い字や、言い回しの変なものに出会って赤面する。同時に、なかなかじっくりとものを考えて書いているなあ、と感心することもないではない。

 

 こんな作業をしているのは人に見せるためではなくて、老後(もう老後だが)体が動かなくなって寝たきりになったら、それを一つずつ読んで楽しかった旅の記憶を反芻したり、読んだ本のこと、楽しんだ映画のことを思い出したり、さまざまなニュースでそのときどきの記憶をよみがえらせたりしたいというわけだ。もちろんボケがひどく進行していなければ、だけれど。

 

 それにココログもいつまで存続するか不安だし・・・。
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2020年8月 4日 (火)

映画寸評(9)

『ファイナル・カウントダウン』1980年アメリカ
監督ドン・テイラー、出演カーク・ダグラス、チャーリー・シーンほか

 

 全く内容を知らずに観た。アメリカの航空母艦「ニミッツ」がタイムスリップして真珠湾攻撃の前日、1941年12月6日(日本時間なら12月7日)、ハワイ沖に出現するという話である。艦長役がカーク・だクラス、なかなかはまり役で、異常な事態を、事実を元に少しずつ受け入れてうろたえず、慎重に判断を下していく姿は格好が良い。

 

 こんな物語展開でタイムパラドックスが生じてしまうのは必然なのだが、そこはなかなか巧妙に歴史へ落ち込んでいくのは、日本映画『戦国自衛隊』と同様である。これは確か半村良の原作だったと思う。

 

 ところで、こんな映画が作られるのは、アメリカにとっていかにも真珠湾攻撃が口惜しいのだろうと思う。ここで歴史を変更したい思いがあるのだろう。もしここで原子力空母『ニミッツ』が日本の連合艦隊を邀撃したら、海空ともに日本の奇襲部隊は壊滅してしまうことだろう。そうしたら、そもそも太平洋戦争そのものがあそこまで拡大してしまう前に日本は降伏を余儀なくされ、本土空襲はともかく、原爆を落とされることはなかったのではないか。そう考えたら、日本も真珠湾奇襲が成功しなかったらよかったし、日本の不意打ちという汚名を浴びせ続けられることもなかったと思うと、複雑な思いに駆られた。

 

『ザ・ファイター』2010年アメリカ
監督デヴィット・O・ラッセル、出演マーク・ウォールバーグ、クリスチャン・ベールほか

 

 実話のボクサー兄弟の話を元にしているという。クリスチャン・ベールが演じる兄の破滅型の生き方が切ない。シュカー・レイ・レナードをダウンさせた男、という男の勲章だけを生きがいに麻薬に溺れていく男、その場その場の言い訳だけで生きて、家族をそして弟を引きずり込んでいく男。

 

 そんな弟が、恋人のために家族や兄弟と距離を置いて本物のボクサーに変身していく。私はロッキーよりも感情移入してマーク・ウォールバークの演じる主人公を応援していた。家族のしがらみというのはなかなか切れるものではない。すさまじい葛藤を演じながら、それでも家族は家族、というところにも彼らの精神の強靱さを見せられた。

 

『ブンミおじさんの森』2010年タイ・イギリス・フランス・ドイツ・オランダ
監督アビチャッポン・ウィーラセタクン、出演タナパット・サイサイマー、ジェンチラー・ポンパスほか

 

 不思議なタイの映画。説明のしようがない映画だが、忘れがたい印象を残す。題名から想像するようなやさしげな映画ではなく、森と精霊と人間の生死が絡まり合って人間の根源的な不安がかき立てられていく。それなのに妙に納得させられてしまう。とにかく観ないと分からない。観ても分からない。分からなくても仕方がないものがこの世にはある。
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興味を失う

 興味を持つと知識が増える。知識が増えると興味も増幅される。興味を持ったことは容易に記憶することが出来たりする。

 

子供のときは野球と相撲の話題があふれていて、友達との話題もそれが多いから、その知識を競い合う。自ずと興味も増幅され、ひいきも出来る。中学二年生のときの東京オリンピックのときは夢中になってテレビを観た。興奮したし感動もした。

 

 このごろ年々スポーツ全般に興味がなくなってきている。まず野球がちっとも面白いと思えなくなり、選手の名前もほとんど知らない。高校野球ですら、ほかに観るものがないから観ることがある、という程度で、郷土の高校を応援することもなくなった。相撲はそこそこ好きだったのに、その相撲についても次第に興味を失いつつある。

 

 夏はスポーツ中継の番組が増える。見たいニュース番組がそれに押されて減るから腹立たしかったりする。ニュースでもスポーツニュースのコーナーは私にとっては無駄である。たいていスポーツニュースを語るアナウンサーはむやみに健康で元気が良いのもいらだたしい。

 

 今年オリンピックが開催されていたらどうだっただろうかと思う。昨年からやたらにオリンピック礼賛で過去の競技やいま注目の選手の紹介が繰り返されていたが、興味を失っているからそれらのことを知りたいと思わないので知識は増えず、増えないどころかやかましい、などと思ったりする。だからオリンピックが始まっても多分映画を観たり本を読んでいるかもしれない。

 

 スポーツが好きな人には信じられないことだろうなあ。生命力の低下なのだろうか。
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2020年8月 3日 (月)

映画寸評(8)

『藁の楯』2013年・日本
監督・三池崇史、出演・大沢たかお、松嶋菜々子、藤原竜也、山崎努ほか

 

 三池崇史監督の映画は過剰で長過ぎることが多いからあまり好みではない。途中で嫌気がさして観るのをやめることもある。この映画も過剰で長いけれど、さいわい最後まで面白く観ることが出来た。主演の大沢たかおは、沢木耕太郎の『深夜特急』を映像化したときの主演をしていて、沢木耕太郎にダブって(顔は似ていないが)感じられている。好きな俳優だ。

 

 幼女の無惨な死体が発見される。その子の祖父が10億円という巨額の殺害懸賞金を犯人にかける。犯人(藤原竜也)は判明しているが逃走中である。10億円の金は多くの人々を犯人を狩りたてる者に変貌させる。犯人をかくまっていた者すら犯人を殺害しようとする。ついに犯人は自首して九州で拘束される。その犯人を東京に護送するために地元の警察、要人警護のSP、警視庁の腕利き合わせて五人が任につく。次々に襲いかかる者たち。ヤクザあり、看護師あり、警官あり。しかも攪乱のために隠密行動に切り替えているのに彼らの行動は外部に筒抜けとなっている。果たして任務は完遂できるのか。

 

 犯人役の藤原竜也がいつものように絶品の怪演をしていて、ドラマをだれさせない。こんな男を守る値打ちはあるのか。それが主人公の苦悩であり、物語のテーマでもある。

 

『トランスフォーマー ロストエイジ』2014年アメリカ
監督マイケル・ベイ、出演マーク・ウォールバーグ、ニコラ・ベイツほか

 

 このシリーズはあまり感情移入しにくいので好みではないのだが、ずっと観ているのでつい次も観てしまう。好みではないのはトランスフォームするところにときめきを感じられないからかと思う。なぜそんなに変身にこだわるのかちっとも理解できないのだから。それに何しろこれも長い映画だ。とはいえマーク・ウオールバーグが一生懸命お父さん役を演じているので、それに免じてずっと最後まで我慢した。

 

 最近のこの手の映画はやたらに大都市を破壊しまくる。大都市に何か恨みでもあるのだろう。大都市の存在そのものが地球破壊の根源であり、人類の悪の原点と考えているのかもしれない。実際に破壊するわけにはいかないから、映画で破壊しまくって憂さを晴らしているものと思われる。

 

『サイバー・ゴースト・セキュリティ』2018年オーストラリア
監督キア・ローチ=ターナー、出演ベン・オトゥール、モニカ・ベルッチほか

 

 オーストラリア映画は外れと当たりが極端で、出だしを観たときには、これも外れだ、いつ観るのをやめて消去しようかと思っているうちに最後まで観てしまった。とてつもなく汚いし、ダサいし、キッチュであるけれど、それが突き抜けていて、全ての無意味さが却って優れたものに見えてきた。ある意味でとても面白かったと言える。

 

 悪魔がネットを通じて人間を支配していくのを、古来から悪魔と戦い続けたネクロマンサーが阻止して悪魔を倒す、というのがいちおうこの映画のストーリーなのだが、悪魔が母親で、ネクロマンサーが息子なのであるから、これは母親殺しの話でもあるのだ。強大な力を持つ母親の支配から脱出するためには、母親を抹殺しなければならないというマザーコンプレックス解消のための儀式を物語にしたとみるが、どうだろう。
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兄貴分の人と大先輩から

 勤めていた会社には退社した人たちの運営する懇親会があり、テニスやゴルフ、ハイキング、カラオケや麻雀大会、ボーリングなどの分科会もあって盛況のようだ。大阪の会社なので、私は会合などにはほとんど参加しないが、会費は欠かさず振り込んでいるし、年に三回ほど発行される会報が来るのを楽しみにしている。懐かしい人の消息を知ることも多い。訃報もそこで知る。

 

 今回の会報に記事を書くよう求められたので、久しぶりに投稿した。その記事を読んで、早速兄貴分の人と、大先輩の人から、電話やメールをもらった。兄貴分の人は、もう一人私が勝手に「長老」と呼ぶ人と三人で年に一二回旅行に行く人だ。自分がいろいろ悩んだりしたら泣き言を言いに行く相手でもある。現役時代、強面(こわもて)で鳴らしていたけれど、実際は優しい。昨年は長老の体調がすぐれなかったので、一度も旅行に行けなかった。今年こそはと話していた矢先のコロナ禍である。ほとぼりが冷めたら、といいながらいつになるのかそれが見通せないのがまことに残念だ。三人ともどんどん歳をとっていく。いつまでも旅に出られるわけではない。

 

 大先輩は今年86歳になったよ、と笑っていた。大病して心配していたのだが、好きなゴルフも再開できるほどに恢復したという。小柄な体なのにウワバミといっていいほど酒に強い人で、ちっとも乱れない。その分だけ酒に弱い人に対しては少しきついところがあった。神戸の震災では自宅が潰れて危うく下敷きになるところを運良く梁との隙間で命拾いをした。多分長生きしてくれるだろう。もう一人、ほぼ同じ年の、最も私が世話になった人で私の仲人でもある人は、数年前に亡くなってしまった。大先輩とのやりとりで、その人のことを久しぶりに思い出したりした。
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2020年8月 2日 (日)

気持ちは分かる

 新型コロナウイルス感染に対して、特措法が策定され、それにもとづいて現場ではさまざまな対策が講じられているが、それが急ごしらえの法律だったために不備があることが指摘されている。これは現場の人ばかりではなく、いまの感染拡大状況のニュースを見て心を痛めている人ならば実感しているはずだ。

 

 国会を開催すべしという声が高まっているように見えるのに与党は消極的である。なぜ消極的か、多少でも知性のある人なら想像できる。野党はひたすら政府の責任を非難し、再び三度森友問題やその他さまざまな問題を議題として論じることが見えているからだ。だから国会の延長をしなかったし、臨時国会も開きたくない。議論ではなく、同じようなことで繰り返し非難を浴びせ続けられることに嫌気がさしているのだろう。それを見せられている国民も(少なくとも国民の一人である私は)うんざりしている。

 

 言いがかりに近いことを承知で言えば、国会を開かせない責任の一端は野党にもある。

 

 橋下徹氏は当初から法律の不備を指摘してきた。法律を現実の状況に合うものに改正しなければならない。だから国会はすぐ開くべしとと主張する。しかし与党が国会を開きたくない理由も承知しているから、今回の臨時国会は特措法の改正関連の話に絞って開催することにすれば良いという。卓見であろう。

 

 与党がその条件なら国会開催を吞む、といったとき野党はどう言うだろうか。想像はつくが、多分国会開催に条件をつけるのは論外と言うだろう。党利党略ではなく、いまの国難に必要なことを議論してみせれば、国民の野党を見る目も大きく変わるだろうと思うが、そういう想像力があるように思えないのが残念だ。もちろんそういう知性があればとっくに党勢を挽回していただろう。
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悪癖

 あまり人に自慢できない好きな食べ物がある。糖尿病なのにそんなものを・・・と言われるのは間違いない。それでも子供のときからこんなに美味いものはないと思っていたから、いまでもときどき食べてしまう。

 

 食パンにバターかマーガリンを塗り、そこに砂糖を振りかけて食べるのだ。ただそれだけ。ときどき無性に食べたくなる。

 

 いまはパンを軽くトーストして、砂糖ではなくてコンデンスミルクを使う。コンデンスミルクも私にとって無上に美味な食べ物である。バターはチューブ入りの、マーガリンが混ぜられた柔らかいものを使う。コンデンスミルクは昔は缶入りだったが、いまはチューブ入りだから両方をパンの上に絞り出して、混ぜて塗り伸ばせばいい。垂れこぼしに注意。

 

 昔のように何枚も食べたりはしないけれど、やめられない至福の悪癖である。酒を控えている分、少しくらいは・・・。
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2020年8月 1日 (土)

頼みごとの返事

 頼みごとをしていた人から電話で了解の連絡が来た。こちらの窮状をよく承知してくれての、条件付きではあるが、快諾である。これで事態が少し進展して気が楽になった。

 

 遠からず、改めてお礼を兼ねて訪ねることにした。捨てる神あれば拾う神あり、人生は良いことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない。
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絶望的

 役人は前例を元に状況を判断する。しかし、危機的状況のときは前例による判断は通用しない。前例がないからだ。

 

 役人は現状の数字を見て、それを根拠にして対策をする。事態はたいてい現状よりも重大化するから、対策が実行に移されたときには常に手遅れとなる。役人には常に現在しか存在しない。変化する未来を考慮することは出来ない。想像力が足らないのではなく、想像力を働かせることがそもそも許されていない。それはずっと昔からそうだった。

 

 そのお役人に政府は全てを任せている。二言目には「専門家に相談して」、と責任が任されているはずの担当大臣は言うけれど、その専門家たちが役人に太刀打ちできるはずがない。よくよく聞いていれば、専門家が言うのは、役人のシナリオに沿ったものであることばかりであることが分かる。

 

 こうして何もかもが、まず評論家の言うような人ごとのような言葉で説明され、その結果として手遅れが続き、そのあとには、言い訳が終始するという繰り返しを見せられることになっている。

 

 日本の長く続いた慣例によるシステムが、それが通用しない緊急事態にもそのまま全く問題視されないで継続していることに絶望感を感じる。どうして良いか知りたくてマスメディアを見れば、日本中、評論家(評論家ですらないのに、そう称する多くの者たちも含めて)が戯言をまき散らすばかりで、責任者はどこにもいない。現場で必死で頑張っている人たちは少しも報われないままで、ときに差別される(救いがたいバカがこれほどいるとは情けない)。わかりきったことながら、いまは自衛しかない。自衛ばかりもしていられないのだけれど。

 

 テレビを見ていたら、西村大臣は国民は自衛して欲しい、と繰り返していた。自衛はわれわれ国民がすることである。そういう西村大臣は自分の責任でいったい何をするのか、それは報道されなかった。
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