正義の基準
以前、江藤淳の「正義(の基準)を外部に置く人」の話について書いたことがある。人は自分の正義の基準を自分自身の内部の良心に従って考えていると思っているが、実はほとんど誰かの意見や指示に従っていることが多い。そのことに全く気がついていない人々を江藤淳は「正義(の基準)を外部に置く人」と呼んで、そういう人の言うことは「信じない」と明言した。
私も自分の意見や物事の判断が、本当に自分の内部から発しているのかどうか、常に意識しなければ、と自省した。もちろんさまざまなことを学ぶなかで、なるほどそうか、と思えばその考えを自分の考えとすることは普通にある。しかしその場合も、そのことを自分のなかに自分の判断の基準として取り込むためには、よくよく考えなければ自分の考えにしない。だから疑い、別の意見も見聞きする。それを意識した上で自分の考えというものが形作られていく。
香港の問題を見ていたら、中国という国家は、国民は内なる良心などというものを持ってはならない、と考えているらしいと感じた。正義は国家が決めるから、その決めたものに従うのが正しい国民である、と規定したかのように見える。そうして、自分で考えて、自分で判断する者を処罰しようとしている。
自由とは何か、それがある意味で際立って分かりやすく見えた気がする。
「正義の基準を外部に置く人」とは、ある意味で自由を放棄している人たちなのだと気がついた。だからこそ言論の自由というものはよくよく考えなければならない。自由だから何でも許されるというのは、自由の放棄でもある。韓国の土下座する安倍首相らしき像について、表現の自由を言う者を私は信用しない。
大村愛知県知事なら「土下座像」も表現の自由と言いそうですね。
投稿: けんこう館 | 2020年8月 8日 (土) 10時26分
けんこう館様
そこまで徹底して言論の自由を言うのならたいしたものです。
投稿: OKCHAN | 2020年8月 9日 (日) 06時42分