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2021年1月

2021年1月31日 (日)

スピリット

 もともとは酒精、つまりアルコールのことだったが、転じて強い酒であるジン、ウオッカ、ウイスキー、ブランデーなどのことを指すらしい。ただし、日本の酒税法では蒸留酒のうち、ウイスキー、ブランデー、焼酎、リキュール類を除くものだそうだ。

 

 私は蒸留酒はあまり得意ではなく、醸造酒が好きだから蒸留酒はほとんど飲まない。ウイスキーは安いものも高い上等のものもほとんど美味いと思えない。それなのにバーボンはそれほど嫌いではない。焼酎は合成はまったく苦手で、麦焼酎もだめ、かろうじて芋焼酎だけは飲める。癖があるものの方が好きなようだ。だからいわゆるスピリットであれば、ウオッカよりもジンが比較的に飲みやすい。

 

 キューバへ行ったときはラム酒をカクテルにしたものを、今は亡きF君と毎晩痛飲した。クラッシュアイスと砂糖などの入った甘いカクテルだが、キューバで飲むとこんな美味い飲み物があるか、と思うほど美味かった。日本に帰って同じようなものを飲んでみたが飲めたものではなかった。 

 

 それでも月に一度か二度は蒸留酒が飲みたくなることがあり、焼酎とウイスキーとジン、それに炭酸は常備している。焼酎はもちろん芋焼酎で、これだけはお湯割りにする。どうも醸造酒でつまみを食べながら飲むと運動不足でもあるからどんどん太ってくる。そういうわけで、意識してスピリットであるジンを炭酸で割ってレモンを垂らしたりしたものを飲むことが増えた。あまりおいしいということはないものの、なんとなく意識が揺曳して肩の力が抜けてくるのは悪くない。

志賀直哉を読む

 娯楽小説以外で同じ作家を網羅的に読んでいるのは志賀直哉とヘルマン・ヘッセだけである。少なくとも文庫本になっているものは全て読んだはずだ。その志賀直哉の全集(全十四巻別巻一)を古本屋で見つけて、信じられないほど安価で購入したことは以前このブログに書いた。とにかく大判でしかも重い本なのである。

 

 その第一巻を三分の二ほど読んだところで読みかけのまま放り出していた。これでは死ぬまでに全部読み切れない。再び読む気になったので残りを一気に片付けた。この第一巻の半分以上は以前読んだことがある。つまり半分近くが初めて読んでいるので、文庫には収められなかった作品ということだ。なるほど文庫に収めないのはそれなりの理由があるなあと感じる。この第一巻には『或る朝』『網走まで』『剃刀』などの初期の傑作が収められている。

 

 もともと志賀直哉の小説には、独りよがりの自分の感性について記述しただけのものがけっこうあって、よほど好きでなければ「またか」と思ったりする。ほとんど自分のことしか考えていない。どうして自分がこの作家が好きなのかよくわからないが、もしかしたら私自身をそこに見るからかも知れない。

 

 この全集には可能な限り草稿や初稿も収められているので、それらの比較が出来る。出来れば解題がもう少ししてあるとありがたいのだが、それは阿川弘之の『志賀直哉』を読むことで補足したいと思う。

 

 第一巻では志賀直哉の鋭すぎる感性が自家中毒となって交友関係にも影を落としていく様子が読み取れる。こんな風でも交友が続くところをみると、それなりに魅力のある人間だったのだろう。仲違いして絶交した友達もいるし、嫌っていた人間もいたようだが。

 

 その志賀直哉もついにはほとんど精神病的になってもうろうと歩くうちに市電(都電)にはねられてしまい、九死に一生を得る。それはただの事故だったのだろうか。ところでその怪我の療養をしたのが城崎で、名作『城崎にて』はそのときに書かれたものだ。

2021年1月30日 (土)

おざなり

 最近とみにおざなりに生活していて、なおざりにしていることが多くなっている。人生に生きる意味などないのだと、いまさらながら感じている。楽しみがないわけではないけれど、楽しい気持ちが持続しない。人に必要とされる生き方をすることで生きがいを見つけることが出来るということは、頭で分かっていても、いまさら人と新しく関わったりするのは煩わしいし面倒だ。いま私を最も必要としているのは妻であるが、気持ちが断絶してしまって長いから、いまさらそこに愛情や生きがいを感じることは出来ない。他人よりも遠い存在でしかなく、仕方なく面倒を見ているだけである。

 

 掃除の間隔が間遠になっていて、辺りが散らかりだしている。食後、流しに洗い物を決して残さないようにしていたのに、朝そこに汚れた食器があってガッカリする。風呂に入っても体を洗うのが雑になっている。石鹸が昔ほど減らない。食事のメニューが限られたものになって、新しい料理を作ることがあまりなくなった。食材の種類も減った。やめていた間食が復活した。散歩もめったにしない。おかげで体重が増え始め、膝の痛みもぶり返している(コンドロイチンの薬がなくなったから買いに行かなければ)。五階まで階段を登ることにしていたのに、最近はほとんどエレベーターを使う。どんどん足が弱っているのが分かる。本を読んでいても集中力が持続しない。気がつくとうつらうつらしていたりする。その分夜中に目が覚めて、睡眠が細切れになっている。悪循環だ。

 

 その日に片付けることを朝、メモ書きする習慣もときどき忘れている。書き出しても、最低これくらいは出来るだろうと思ったことをやり残す。これではいけない、と思ってとつぜん動き出しても、翌日その反動が大きくてもっと怠惰になっていたりする。

 

 これはコロナ禍の引きこもりのせいなのか。独り暮らしの引きこもり高齢者はみんなこんな風なのか。

 

 気晴らしにドライブにでも出かけようか。人と接触しないドライブならば、出かけてもかまわないのではないか。

棄民

 ドイツは新型コロナウイルスのワクチン接種を65歳以上は行わないことにした、と報じられていた。接種のリスクについての知見が不十分であるからだということだが、それなら知見がそろえば接種するのだろうか。そもそも接種してみなければリスクのデータは得られないから、他国の実施例を見てからということなのだろう。

 

 日本もそれをまねて、高齢者への接種実施を後回しにする、などと言い出さないか心配だ。

 

 感染を広げているのは移動する人たちであることは間違いのない事実である。だからその移動する人たちに優先的にワクチンを接種することで予防効果を高める、という考え方もあり得るだろう。しかしその移動する人たちのなかには罹っても自分は重症化しない、と高をくくっている人たちがいて、たぶんそのような人たちほど自分がワクチン接種を受ける必然性をあまり考えないのではないか。

 

 自分が高齢者だからひがみでいうのではないが、そもそも社会福祉の大きなコスト要因である高齢者を減らすことは社会経済にプラスである、と無意識のうちに世界が考えているのではないかと思ってしまう。「障害者や高齢者は社会の役に立たないから排除しろ」、「コロナ禍はその理由が立つから都合がよろしい」、と無意識のうちに思われているのではないか。

 

 現代は「命より金」、という時代だと私は思っている。それに基づく日本の医学界や厚生労働省の弱者切り捨ての思想の結果がいまの日本のコロナ蔓延の背景ではないかなどとつい思ってしまう。現代の姥捨山である。棄民である。

 

 棄てられてたまるか。

 

 日本の免疫学の権威であった多田富雄(1934-2010)の『落葉隻語 ことばのかたみ』という本をいま読んでいる。自分が脳梗塞で半身不随になり、車椅子生活を送りリバビリをしながら感じたり考えたことが綴られている。日本の医療制度について痛烈な批判が繰り返されている。上に書いたことはただのひがみからの妄想ではないのだ。私も妻のやむを得ざる転院の経緯の中でその医療制度の非人間性を実感した。日本はもっとやさしい国だと思っていたのに。

2021年1月29日 (金)

命より金(かね)

 『英雄の選択』というNHKの番組で、緒方洪庵、長与専斎、後藤新平が取り上げられていた。幕末から明治にかけて、疫病に対して身を賭して戦ったその戦いについての紹介である。この番組(再放送だと思うが、前回は片手間に観たので、断片的にしか記憶していない)を観て、心ある人はいまの日本の新型コロナウイルスにたいする対策との違いに愕然としたに違いない。日本はその時代からくらべて著しく堕落したと痛感させられた。

 

 天然痘やコレラという病気について、彼らの病に対する対策に無知な民衆は無理解極まりなかった。それなのに苦労しながらも甚大な成果を上げることが出来て、日本の衛生観念は向上し、インフラも次第に整備されていった。上下水道の整備に予算がかかりすぎるという批判は乗り越えられた。当たり前のことだが、金より命が優先することは自明だったからだ。

 

 台湾や韓国、中国や、ベトナムをはじめとした一部東南アジアの国々の新型コロナの感染者数は日本よりはるかに少ない。それはたまたまのことではない。このことはSARSの感染とその対策についてのドキュメントを観て知ったことだが、今回感染者数が抑えられている国々はSARSやMARSでのパンデミックへの危機を経験しているのだ。その経験を活かし、再びそのような事態になったらどうするか考え、そのための手立てを講じていた。それが今回生きていることは、実は知る人は知っているのに、日本ではほとんど取り上げられることがない。

 

 SARSやMARS感染と対策、そしてその終焉の経緯はWHOに記録として残されている。何よりこの感染についていち早く対策をリードしたのはそのWHOだった。腰の重かった中国を動かしたのはそのWHOであるし、そこでは日本人の医師たちも活躍した。そのときの医師の何人かが今回の新型コロナウイルス対策の主要メンバーに名を連ねている。

 

 彼らはいまの事態に切歯扼腕していることだろう。日本という国に情けない思いをしているだろう。それでも愚痴をこぼさずに出来ることをしているようである。なにに切歯扼腕しているのか。SARSやMARSの経験から、どのような対策を講ずるべきかを繰り返し提唱し続けたのに、それに対する答えは予算削減だった。

 

 日本は命より金、という国家に成り下がっていたのだ。その結果がいまの全て後手、手遅れという事態を招いた。いまさらいっても取り返しがつかないけれど、韓国や台湾のように出来ている国があって、日本にどうして出来なかったのか、それを反省しなければ、同じことがまた起こるだろう。しばしば「二度とこのようなことが起こらないように」という言葉を聞かされるけれど、本気で言っていると思えたことがない。決まり文句を言ってその場を言い逃れし、また命より金という判断をすることだろう。いま日本は昔の日本ではなくなってしまった。

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 無知であることを笑いとして何かの芸のように見せる風潮が蔓延している。まさに堕落した日本そのものを絵に描いたようではないか。無知はときに罪悪なのに。

積み上げる

 大分県の国東(くにさき)半島に熊野磨崖仏があって、ずいぶん昔から訪ねたいと思っていた。リタイアして九州へ行ったときにはまず福沢諭吉の出身地である中津を訪ねて城下町を散策したあと宿泊、翌朝早くから国東半島の寺々を訪ねまわって、熊野神社へもお参りした。熊野磨崖仏は最後の自然石の石段を登る途中の崖に彫られている。延々とふつうの石段を登ったあと、最後に大きな自然石がランダムに積まれた段差の大きな九十九段の石段を登らなければならない。いまならとても登れないが、現役直後で膝も痛くなかったからなんとか到達して長年の願いが叶った。

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 その九十九段の自然石の石段の石は、鬼が積み上げたものだという。一晩のうちに百段の階段を積み上げれば鬼の望みを叶えてやると熊野権現は約束した。鬼はたちまちのうちに九十九段を積み上げてしまったので、慌てた熊野権現は、朝を告げる鶏の鳴き声をまねたので、鬼は夜が明けたと勘違いして逃げ去った。鬼の願いは人肉を喰らうことであったともいわれるから、人間にとっては熊野権現の行為はありがたいけれど、鬼にとっては約束違反である。せっかく積み上げたのに残念だったろう。

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 九仞の功を一簣に虧く(きゅうじんのこうをいっきにかく)という言葉がある。仞とは大昔の長さの単位で八尺とも七尺とも言われる。あの箱根八里の歌、「万丈の山、千仞の谷」という仞である。一簣はモッコで担ぐ一回分というところか。九仞の山を積み上げようとして最後のところに残念ながらわずかに届かないことをいう。

 

 転じて、努力が足りないか、なにか計算間違いがあって、せっかくのいままでの苦労が無駄になってしまうことをいう。

 

 たしかに最後の一押しが足らないためにしてやられてしまったという経験を人生で何度も経験している。もうちょっと頑張ればよかった、と思うことがあり、これが九仞の功を一簣に欠く、ということかと感じたものだ。

 

 しかしいま思えば、そうして積み上げる努力を多少はしてきたことが、小さな砂山程度のものを自分に残してくれているではないか、と自分を慰めている。なにもしなかったわけではないのだ。見上げるような大きな山を積み上げている人を見て、うらやんだり情けなく思っていても仕方がない。スプーン一杯ずつでも良いから死ぬまで自分のささやかな山を積んでいくばかりだ。そこに多少の喜びがないではない。

2021年1月28日 (木)

テレビ礼賛

 バラエティニュースを極力見ないようにこころがけて十日ほど経つ。しばらくぶりに昼のバラエティニュースを眺めてみて、こんなものを見ていたのかと驚いた。CMの氾濫はいまさらだけれど、各局は全て違うもののようでいて、実はほとんど同じことを違う顔の人間が違う語り口で語っているだけであった。おためごかし風、苦虫噛み潰し風、慨嘆風、とお好みにあわせてならんでいるけれど、今日言ったことは明日は忘れて知らんぷり、というのが透けて見えて相変わらずである。

 

 テレビも新聞同様に、もう媒体としての役目を終えつつあるらしい。とはいっても新聞の購読もやめてしまっている身としては、多少の情報は欲しい。だからNHK地上波の朝七時、昼、晩九時のニュースと、BSの海外ニュースだけを観る。それとBSフジのプライムニュースを録画して翌朝、CMを飛ばしながら早送りで観る。面白くなければ即消去する。野党の代表などがでているものはたいてい面白くない。口を開く前から言うことが決まっているように見えるから、聞くだけ無駄である。プログラミングされたロボットみたいに、ここを押せばこうしゃべることが決められているようだ。

 

 スポーツニュースや芸能ニュースはニュース枠から外して、別枠でまとめて放送してほしいものだ。私はほとんど興味がないから時間の無駄である。普通のニュースに興味がなくて、スポーツや芸能ニュースだけに興味のある人もあるだろう。別枠にすれば分かりやすくて好いではないか。芸能ニュースは日曜日の『アッコにお任せ』を横目で見ていれば、いまなにが話題となっているのかほぼ情報が得られて用が足りる。むかしは新聞の週刊誌の広告でたいていの用が足りたし、世相が見えて面白かった。新聞をやめて一番残念なのはそのことである。

 

 私にとってテレビはNHKとWOWOWを観ることと、録画したもののモニターとしての役割になっている。バラエティニュースを見なくなったおかげで、無駄にしていた多少の時間とエネルギーを、読書とぼんやりする時間に充てることが出来ている。

『書斎のポ・ト・フ』(ちくま文庫)

 開高健、谷沢永一、向井敏の三人による鼎談。博覧強記、多読毒舌の三人が思うさま語り合う。三人とも私の敬愛する書評家(もちろん開高健は作家)であるが、残念ながらいまはみんな故人である。この三人は若いとき大阪で『えんぴつ』という同人誌を主宰した旧友たちである。

 

 捕物帖、ピカレスク(悪漢小説)、児童文学、マスコミ論、文学の中の政治等々、目利きが推奨本を取り上げ、世評にはまったく取り合わずにだめなものはだめとばかりにバッタバッタと快刀乱麻の毒舌を振るう。この三人の推奨の外れたことはないし、世の中の評判に従って読んだ本が首をかしげるものだったときには、この三人に酷評されていたりすると溜飲が下がったりする。

 

 読書の楽しさと厳しさをとことんこの三人に教わった。それにしては軟弱なものを読んでいるなあ、とあの世から嗤われそうだけれど、外れがあるから当たりが嬉しいので、全て読み応えのある本ばかりではくたびれてしまうではないか。

 

 それにしてもどれほどの読書量と記憶力と理解力であることか、三人とも底知れぬすごみがある。

 

 書評ばかり読んで本を読んだつもりになるのもおかしな話であるが、素晴らしい書評本はそれだけで読み応えがあって楽しいのだ。久しぶりに百目鬼恭三郎の本でも読み直してみようかな。

2021年1月27日 (水)

必要なら復活する

 コロナ禍でさまざまな職業が危機に瀕している。特にサービス業は、対面でサービスを提供するものが多いから、それが規制されると商売が成り立たない。成り立たなければ廃業倒産に追い込まれてしまう。どんな商売も、こんなに長期にわたってしのげるほどの蓄えを持っているとは思えない。

 

 可能な限りの公的補助がなされると思うが、限界もあるだろう。それぞれの仕事に生きがいを持ち、その仕事を大きくする夢を持ち、投資もしてきただろうに、「どうしてこんな目に遭うのだろう」と天を恨む気持ちにもなるだろう。

 

 世の中に必要なもの、人が望むものはコロナ禍が収束されれば必ず復活する。個別の商売は失われても、あらたな商売は必ず始められる。大きな災害や戦争のあと、もう二度と復活は無理だと思えるような惨状から人々は再起して、以前以上の繁栄を築いてきた。

 

 私が他人事のような、こんなことを書いているのは申し訳ないと思うけれど、これが世の中というものである。絶望していても事態は良くならない。いまは耐え忍んで生き延びるしかない。自棄にだけはならないようにしたいものだ。

新・人間交差点

 ビッグコミックに連載されていた矢島正雄原作、弘兼兼史作画の『人間交差点』は好きな作品だった。だから後に単行本になってから、もう一度買い直して読んだ。仕事が忙しくなり、コミックを読まなくなり、縁が切れてしまったが、それが映画やドラマになっていることを知らなかった。

 

 今回、2006年にNHKでドラマ化された三話完結の『新・人間交差点』が再放送されていたものを観て感動した。原作、脚本、俳優、演出全てが素晴らしい。仲代達矢、赤木春恵、佐藤江梨子の熱演、それに脇を固める俳優たちも好い。

 

 私は佐藤江梨子は美人だとは思わないが、魅力的な女優で、以前から好きである。このドラマでは視野が狭く身勝手な言動が多いのに憎めない女性、という役柄をちゃんと演じきっていた。言い過ぎたことに気がつけば後悔し、それを渋々ながら謝る。そういう女性はいるようでいない。謝ることが出来る、ということはたいへんな美質であり、そのことが彼女自身を助けることになる。謝るのは勇気のいることである。

 

 いまは謝罪は受け入れられず、謝ればよってたかって袋だたきにする、それが社会を殺伐とさせている。人を罵ることで快感を感じる精神のなんとおぞましいことか。罪を非難するならかまわない、人そのものを否定してしまうだけの権利が自分にあると勘違いしている人間の恐ろしさ。

 

 仲代達矢と赤木春恵の演技は神域にあって、それを引き出す演出も素晴らしかった。ドラマはこうでなければ。登場人物にはそれぞれにたどってきた人生があるのだ。それを感じさせなければドラマはリアリティを持てない。いまは薄っぺらなものが多すぎる。

2021年1月26日 (火)

電気御用聞き

 サザエさんに、御用聞きの地方出身の好青年が登場する。いまこんな御用聞きのいる小売店などはほとんどないと思うけれど、私はずいぶんむかしから、街中の小売店が大型店に押されて次々に衰退し、廃業に追い込まれたりしているのを見て、どうして積極的に御用聞きをしないのかと思ったものだ。値段で大型店と張り合うのが不可能なら、サービスで売るしかないではないか。それをただ客が来るのを待つだけの商売を続け、ついにはシャッターを下ろしたままに追い込まれていった。

 

 日本がどんどん高齢化していけば、老人所帯が増え、当然買い物に出るのも困難になるし、車を持たなければ郊外の大型店に行くことも出来ない。それを御用聞きが注文を聞き、配達をするようにしたならば、どれほどありがたがられるか。そうして人間関係を構築できれば多少の値段の差は乗り越えられたのではないか。一軒の店で無理なら、商店組合で合同で御用聞きを雇う方法もあるはずだ。

 

 いまは電気御用聞きが当たり前になってしまったから、いまさらそのような御用聞きは通用しなくなった。手遅れである。

 

 私も気がついたら電気御用聞きへの注文が少しずつ増えている。実物を見ないで買う、比較をしないで買うことには大きな難点があるけれど、何より家まで配達してもらえることの楽さは経験するとやめられない。

 

 衣類を買いに行くのは面倒だ。店員が寄ってきたりすると煩わしい。それがネットで簡単に買うことが出来る。そのかわり、思っていたものといささか違ったりすることが多いから、不満がたまる。つい買い直したりする。そうして支払いがだんだん増えている。

 

 電気御用聞きの店は品揃えが多いから、探したら何でもそろう。気をつけなければいけない。

蝶を着て舞う

 初期のミステリーを書いていたころから陳舜臣のファンである。私の蔵書として、『中国の歴史』全七巻、『中国の歴史 近・現代史』四巻(これは陳舜臣が最後まで書くことが出来なかった)などをはじめ、本棚の一角や押し入れに彼の本がたくさんある(軽く五十冊を超える。彼の本は、最近の本の処分の対象外としているから)。

 

 いまは小説よりも彼の歴史随筆が好きで、繰り返し読んでいる本もある。安禄山についての本を読んでいて、楊貴妃のことを書いた随筆があったはずだと思い、たまたま目についた『中国随想』という本を引っ張り出した。その中に『蝶を着て舞う』という一文があり、その中身の濃厚さを堪能した。

 

 書き出しは荘子の『蝴蝶の夢』についての紹介で、老荘思想の分かりやすい話としてよく知られているこの話(自分が蝶になった夢を見たのか、蝶が人間になった夢を見ているのか)から、謡曲の『胡蝶』へと話題が移る。こちらはもともと『源氏物語』の中の『胡蝶の巻』に拠るものだが、荘子についても言及されている。「伝え聞く唐土(もろこし)の荘子が徒(あだ)に見し夢の胡蝶の姿うつつなき浮世の中ぞあわれなる・・・」とされているそうだ。

 

 人は走ることも泳ぐことも出来るけれど、飛ぶことは出来ない。蝶になった夢を見る、というのはその飛ぶことをかなえるものであって、夢と蝶とはつながっている。さらに陳舜臣は、やはり謡曲の『楊貴妃』に話を展開していく。楊貴妃は舞が得意だった。とくに『霓裳(げいしょう)羽衣』という舞曲が得意だったという。霓とは虹のことで、霓裳羽衣という舞曲はまさに蝶のように舞うことではないか、と陳舜臣はいう。

 

 『霓裳羽衣』はもともと西域から伝えられた舞曲だから、くるくると舞い踊る曲かと想像されるが、能の楊貴妃の舞はその芸能上、静かな舞なのだそうだ。私の持っている小学館の『日本古典文学全集』の中に『謡曲集』の一と二があって、たくさん収められているのに、『胡蝶』も『楊貴妃』もないのが残念だ。

 

 こうして楊貴妃に話が及べば、陳舜臣の思う『長恨歌』の世界が広がり始める。能の『楊貴妃』は死後の世界の楊貴妃と、玄宗皇帝の命で彼女をたずねあてた方士が、シテとワキとして語り合うという物語だ。能は幽明を異とする魂が触れ合うという話が多い。そういう仕立ての芸術である。まさに『長恨歌』の後半部分と感応し合うのである。

 

 能の『楊貴妃』では、楊貴妃は蝶の衣装を身につけているのである。夢幻を感じるではないか。

2021年1月25日 (月)

四冊だけ

 いつか手に入れて読みたい本をノートにリストアップしてあるけれど、その中から十冊ほどをアマゾンで探してみた。ほとんどが在庫がない。リスト以外も含めて、たまたまあった四冊だけを注文した。一冊は文庫本の新刊で、ほかは中古本である。在庫があるけれどコレクション扱いで、プレミアがついた本もあった。そこまでどうしても欲しいわけではないのでそういう本はパスした。そういう本を頭に記憶しておいて、古本屋を探したいところだが、古本屋はいまは感染リスクが高いから回避している。なんとかなじみの古本屋が生き残ってくれて、また古本屋巡りにいけるようになりたいものだと思っている。

 

 それにしても良書と思われるような本がなくて、どうでもいい本ばかりがアマゾンの在庫にあるように感じた。それは私の好みとの相性によるものとは承知していても、とても情けない気がする。古書店組合のネットを検索してみようか。しかしそんなことを始めると、次から次に欲しい本が見つかって収拾がつかなくなるおそれがありそうだ。

藤善眞澄『安禄山』(中公文庫)

 人生最初の海外旅行は、中国の西安と北京へのひとり旅だった。西安はあこがれのシルクロードの終着点であり出発点でもあった長安の現在地で、それをこの目で見たかった。もちろん現在の西安の城壁は明代のもので、唐の時代の長安の城壁とは違うし、規模も小さい。

 

 西安ではもちろん郊外の秦の始皇帝の兵馬俑も見に行ったし、華清池にも行った。胸が信じられないほど踊ったし、感激した。

 

 白楽天の『長恨歌』は唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛をうたった長い詩であるけれど、詩の一節

 

 「春寒うして浴を賜う 華清の池」

 

というのは華清池のこと。華清池は温泉で、玄宗皇帝の避寒地だった。

 

 歓楽の限りを尽くし、愛に溺れた二人だったけれど、政治を忘れた玄宗皇帝は楊貴妃によって国を傾け、ついには安禄山の反乱を招いてしまう。そして都落ちする途中に、警護する兵士たちの怒りを受けて逃避行に伴っていた楊貴妃を絞殺させざるを得なくなる。

 

『長恨歌』では死後の楊貴妃の消息を玄宗皇帝が知る幻想的な話もうたわれているけれど、いまは安禄山の話である。

 

 安禄山は異民族出身で、異常に肥満していた男だったという。腹が膝を覆う、というのはどんな様子なのか。そもそも唐の王朝の李氏は北方民族の血をひくともいわれていて、唐の時代の長安は異民族が自由に商売をした自由都市だった。唐朝廷内部での血で血を争う権力闘争もようやくおさまって、玄宗皇帝の時代は平和で豊かだった。その驕りがどんな怪物を生み出したのか、そのことがこの本に詳細に紹介されている。

 

 異民族の侵入を防ぐために、異民族の将に兵と実権を与えたらどんな危険があるのか、そのことに想像力を働かせることが出来なかった。もちろん危惧を抱いた人間は山ほどいたけれど、それら真に国を憂える人ほど退けられていく経緯は、その後の歴史を知るだけに歯がゆくもどかしい思いがする。

 

 反乱が始まってから、奮戦しながら報われずに憤死する将軍たち、ついには怒りのあまり寝返る者も現れる。裏切りだと非難する気にはなれない。私も同様の仕打ちを受け続ければ、同じことをするだろう。反乱を食い止め、鎮圧する機会は山のようにあったのに、愚かな自滅を繰り返した果てに、玄宗皇帝は蒙塵せざるを得なくなる。そして楊貴妃を殺さなければならなくなった。

 

 それにしても佞臣たちの欲望の限度を知らないすさまじさは想像を絶する。それほどの富を集めてどうするのか。富は使うためにあると私などは当たり前に思うけれど、富はただただ蓄えることが目的になると止めどがなくなるものらしい。それは現代も一緒だから、たぶん人間の本質的な欠陥かも知れない。欲望はエスカレートする。

 

 ところで安禄山は途中で挫折したけれど、反乱が成功したならば、それは異民族による政権交代ということでそれはそのような歴史として残ったことだろう。歴史とはそういうもののようだ。

2021年1月24日 (日)

鳴子

 紀行番組が好きで、とくに「新日本風土記」と「よみがえる新日本紀行」は毎週欠かさず観ている。「よみがえる新日本紀行」は昭和四十年代に放送されたものを再放送し、さらに後半で現在の様子を見せてくれる。

 

 今朝の「よみがえる新日本紀行」は私のなじみの地・宮城県鳴子だったので感じるものが多かった。昭和四十六年の鳴子は、私が山形県で学生時代を送っていた時代でもあって、そのころが文字通り脳裏によみがえった。

 

 メインテーマは「こけし」。さまざまなこけしがあるけれど、鳴子のこけしはその顔の素朴さもあって、私は最も好きである。鳴子温泉の高台にある日本こけし館には、たくさんのこけしが展示されていて、何度も訪ねているが、見飽きることがない。

 

 こけしは工人によって微妙に違うから、集めだすときりがない。私は普通の鳴子こけしと、現代風の鳴子こけしとは思えないようなこけしと二つだけ持っている。現代風のものは一目で気に入ったので購入したものだ。

 

 こんな番組を観ると、すぐにでも鳴子温泉に湯治に行きたくなる。雪の温泉、好いなあ。なじみのいくつかの温泉宿は客が激減してたいへんだろうが、なんとかしのいで生き延びて欲しいと心から思っている。

山内昌之『鬼平とキケロと司馬遷と』(岩波書店)

『グーテンベルグの森』、という、碩学たちの専門分野、そして専門外の分野についての読書遍歴を語った叢書の一冊である。巻末に刷り込まれた目録には十一冊あるが、何冊か読んでみたい本もある。私が持っているのは今回読んだこの一冊のみ。山内昌之は歴史学の東大の教授。専門はイスラム世界の歴史である。しかし表題のようにその読書の幅は広く、しかも深い。このように本を深く読み込める人が本当にうらやましい。

 

 この本の中で言及されている本の中から何冊か読みたい本をピックアップした。取り寄せるかどうか思案中である。リストアップしたものはノートに記してあり、いままでにリストアップしたものから取り寄せたものは多いけれど、全て揃えたらまた部屋に本があふれてしまう。

 

 この中に、若い人には和漢洋のバランスのとれた読書と教養を身につけて欲しい、という著者の大学の先生としての心からの願望が記されていて、本当にその通りだと思った。いまは英語ばかりが重視され、古典や漢文がおろそかにされているという指摘は私も同感だ。少しは教養を身につけたいという有意の若者が、明治時代の文章すら読みこなせないというのは情けないことである。今は和漢洋の、洋にばかり偏っているのではないか。

 

 実用ということばかりに力点を置くいまの教育が拝金主義につながっている気がしてならない。実用ばかりでは道徳も愛国心も養われるはずがない。トランプを見れば実用一辺倒の恐ろしさを感じる。あんな者は愛国者ではない。

 

 明治維新という文化大革命によって、日本人がなにを失ったのか、永井荷風が嘆いたことを著者はこう書いている。

 

「・・・永井荷風は、明治維新による近代化や産業化を伝統文化の否定とばかりに、古来からの文芸や学術を破壊してしまった薩摩や長州の下級武士の無教養ぶりをしきりに嘆き侮蔑したものだった」

 

 それは夏目漱石の『三四郎』の中で、広田先生が(このままでは日本は)「滅びるね」と語った言葉にも表れている。その通り、日本は一度滅びた。

 

 この本の中でも繰り返されているが、現代の日本人はもう少し和漢洋の古典的名著を見直す必要があるのではないか。教養のない私が言うのもいささか気恥ずかしいけれど・・・。

2021年1月23日 (土)

欲望

 モンテーニュの『エセー』を拾い読みをしていたら、

 

「われわれになにかを禁ずることは、それにたいする欲望を起こさせることだ」

 

という一文があった。

 

「堰(せ)かれてつのる恋ごころ」という言葉がある。

 

 おそれ多いことながら、秋篠宮家の真子さまの心情を危ぶむ。

海音寺潮五郎『日本歴史を散歩する』(PHP)

 主に九州を舞台とした歴史小説や時代小説を書いた海音寺潮五郎(1901-1977)が若いときから好きだ。葉室麟も九州に暮らして、九州が舞台の小説を数多く書いてきたのに似ているといえる。四国と九州は私が足を踏み入れている回数が少ない場所で、特に九州にはこの二人の作家のおかげで訪ねたい場所がたくさんある。

 

 葉室麟は北九州、海音寺潮五郎は薩摩が地盤である。

 

 海音寺潮五郎は時代小説というよりも、実在の人物を扱う小説が多いから歴史小説家といっていいだろう。だから司馬遼太郎が小説から次第に歴史エッセイに移っていったように、海音寺潮五郎も、晩年は収集した古文書などの資料から拾い集めた歴史のエピソードを膨らませたこの本のような歴史エッセイが多い。そしてそれがすこぶる面白い。

 

 どうして面白いかといえば、そこにさまざまな人たちの生きた証をわかりやすく教えてくれるからだ。そして大事なことは、それが現代の価値観での評価ではなく、その時代に生きた人間の視点から説明してくれているということだ。

 

 人はともすると時代を引き寄せてその時代を見てしまうけれど、自分が意識の上でその時代にタイムスリップしてこそ歴史の面白さを実感できるというものだ。

 

 関ヶ原の恨みが薩摩藩の幕末の倒幕運動につながっている、という話はよく知られているけれど、その間にさまざまな幕府からの過酷な仕打ちがあった。木曽川堤はいまは桜の名所でもあるけれど、その難工事で薩摩藩がどれだけの人命と資産を失ったのか。そしてそれと並行して津島藩親族内で陰険で血みどろの内訌があった。それを知ったのは海音寺潮五郎の『二本の銀杏』という本だった。いわゆるお由羅騒動の話である。

 

 歴史はあざなえる縄のごとし、そして因果はときに細く、ときに太く連なっている。

2021年1月22日 (金)

難聴

 もともと耳の聞こえが悪い。幼児のころから中耳炎を繰り返し、たびたび鼓膜に穴を開けて膿を出さざるを得なかった(麻酔をしていても嫌なものである)から、そのせいだと思うけれど、左耳は普通の人の半分近くしか聞こえていないと十年ほど前の総合検診で指摘されている。いまはもっとひどくなっているかも知れない。テレビの音量レベルは年ごとに大きくなっている。息子や娘が来るとびっくりされたりする。

 

 言い訳だけれど、語学が苦手なのは勉強不足もあるけれど、英語や中国語の会話がきちんと聞き取れないことによるものが大きいと思っている。日本語の場合は前後から自分なりに判断して聞こえにくくてもなんとか理解するけれど、外国語はそれがむつかしい。

 

 最近日本語でもしばしば聞き取れないことがある。そうして勘違いした受け取り方をしたあとで、相手の怪訝な顔などで聞き間違いに気付かされたりする。

 

 昨日千葉の病院の窓口でやりとりしたけれど、断片的にしか聞こえなくて困った。何度も聞き返すから、向こうも次第に大きな声で話してくれるのだけれど、手がかりになる前後の言葉すらよく聞こえないのである。遮蔽板があるのも聞き取りにくい原因ではあるけれど、たぶん他の人は問題ないのだろう。

 

 アナウンサーの声や俳優の声でも、聞き取りやすい声と聞き取りにくい声とがある。籠もったような声などはまったくいけない。多少音量を上げても意味が理解できないし、あり得ない言葉に聞き取ってしまって腹を立てたりする。友人のU君は低くて籠もった声でしゃべる。そして彼もいささか耳が遠い。だから二人で話しているととんちんかんなやりとりになって、互いに腹を立てあったりする。理由が分かって大笑いすることになるから笑い話で済むけれど、気心が知れない人ならどんな誤解をされるか分からない。

 

 あまり迷惑をかけるようなら、そろそろ補聴器が必要かも知れないなあ、などと考え始めている。

池波正太郎『原っぱ』(新潮社)

 ブログを少し休むといいながら、ほとんど休んでいない。それでもパソコンを開く回数は激減していて、その分空回りしていた頭がクールダウンすることが出来て、ちょっとだけ歯車がかみ合いだしたようである。書きたいことがあったときだけ書くことにしたとたん、ブログに追われていた気分が、ブログを追い越した気分になるのだから不思議なことである。

 

 この本は池波正太郎の数少ない現代が舞台の小説だ。主人公の牧野は六十代後半の劇作家。いまはほとんど作品を書いておらず、先立たれた妻の残してくれた貸しアパートの家賃などで悠々自適の独り暮らしをしている。女優をしている杉代という娘がいて、その娘には高男というこども(牧野にとっては孫)がある。娘には男遍歴があるが、いまは高男との二人暮らし。

 

 牧野は自炊も苦にしないし、家もそれなりに片付いている。ときどき友人を訪ね、自分のペースで生きている。ほぼ同年齢の独り暮らしであるし、なんとなく牧野を私自身に重ねて感じてしまう。そして牧野がある意味で池波正太郎自身でもあることは、その人生観や生き方、価値観から分かるのである。

 

 この本は1988年に出版されている。池波正太郎が亡くなったのは1990年だから、亡くなる二年前の出版だ。私はハードカバーの単行本で持っているが、その後文庫本になっているはずである。

 

 主人公の牧野の視点で書かれているけれど、そこからほかの登場人物の気持ちが読み取れる。それぞれの人たちの人生が、そして考え方がやさしく、しみじみと描かれていて心にしみてくる。自分の生き方にこだわりながら、しかし晩年になって、自分とは相容れない他人の生き方を、ようやく静かに受け入れていく心の変化が心に伝わってくるのである。

 

 なんべん読んでも好い本だなあ、と思う。単行本で二百ページほど、文庫本でも薄いから丁寧に読んでもすぐ読み終えることが出来て、昭和という時代を感じることが出来る。

2021年1月21日 (木)

長駆

 いま頃は千葉へ向かって車で走っている。天気も好いし、暖かいらしいから思い切って出発した。事故や渋滞がなければ昼過ぎに着いているはずだ。用事を済ませてとんぼ返りをするとしても、帰り着くのは暗くなってからになる。

2021年1月20日 (水)

始末

 妻が愛知県の病院に転院する前にお世話になっていた千葉県の房総半島の病院に行かなければならない。支払いの残りや手続きの済んでいないこと、さらに転院時に積み残した荷物などもあったらしい。こういう事態であるから急がない、といってくれているのだが、始末がついていないことを放置したままでいるのは気分的によろしくない。

 

 そういうわけで千葉まで行くことにした。いつもなら弟のところにやっかいになるのだが、千葉県も愛知県も緊急事態宣言中であるし、私は用があってのことではあるが、あちらの病院、こちらの病院と訪ね歩いていて、自分の及ぼすリスクについて不安がある。弟に迷惑をかける可能性があるから、今回は立ち寄らずにとんぼ返りするつもりだ。

 

 往復で900キロあまり、休み休みの一日がかりで片付けるつもりだ。こんなことは今回で終わるはずなので、ちょっと無理をしようと思う。

さびしいのか?

 池波正太郎のエッセイ風の現代小説『原っぱ』の断片

 

「あのねえ、お父さん・・・・」
まだ何かいいたそうな杉代に、牧野があらたまった声で、
「杉代」
「はい」
「お前、さびしいのか?」
「お父さんは?」
「さびしくないよ」
こういって、牧野は電話を切った。

 

 牧野は妻を亡くして独り暮らしをしている六十代の元劇作家。杉代は彼の娘で、高男という息子(牧野の孫)と二人で暮らしている。

2021年1月19日 (火)

断片

ペダルをこいでゆっくりふたつに別れましょう。

 

NHK秋田制作のドラマ『黄金の海』の岸井ゆきのさんはステキでした。

 

西洋の偉い哲学者は真剣に厳密に神の存在を証明する。

百年に一度

 立憲民主党の枝野代表が、百年に一度の国難(新型コロナウイルス)に対して政府の対策が失敗していると非難していた。たしかに対策が後手後手に回っていることは、国民だれもが感じていることだから、枝野代表の言い分は間違っているわけではない。

 

 では枝野氏を代表とする立憲民主党は、昨年一年間この国難に対して何をしてきたのだろうか。「桜、桜」と喚き踊っていただけに見える。

 

 私は2011年の東日本大震災のとき、迅速ではなかったにしても、下野していた自民党は時の民主党政権に対して、未曾有の事態であるから協力したい、と申し出ていたことをはっきりと記憶している。あのときも、ああすれば良かった、こうすれば良かった、ということがたくさんあった。そのときに野党だった自民党は、それぞれを批判して揚げ足取りに終始していたように見えなかった。それよりも、長い政権の経験のある自民党に相談すれば、もっとスムーズに行くのではないか、と思わせるようなことが多かった。

 

 その積み重ねが民主党に対しての失望となって自民党の返り咲きになったと私は思っている。そしてその失望はたぶんその民主党の末裔である立憲民主党に対する期待のなさにつながっているのであって、立憲民主党の存在は今のところ、ただ、自民党の批判のための存在としてしか国民に認識されていない。だから政権を託そうなどと思う日本人は少ない。

 

 体調不良が理由ではあるが、桜での引責辞任にしか見えない形で安倍首相を退陣に追い込んだのだから、上がるはずの立憲民主党の支持率はどうなったか。結果を見れば歴然としているではないか。それほど当時の民主党に対する失望、というより絶望、は大きいのである。

 

 そのことを自覚している立憲民主党員もいるに違いないと思うのだが、少なくとも枝野代表は名の通り、その自覚のない代表だと私には思える。立憲民主党がなにも提案していないとはいわないが、ものごとの優先順位についての認識欠如、問題を自分のものとして考える能力欠如を、枝野氏の言葉から感じてしまう。彼は国難を政権攻撃のチャンスとしか思っていないのだろうか。その証拠に、二言目には必ず「辞めろ!」という。

 

 私には原発事故のあとの枝野氏の甲高い声とアヒル口での説明が目と耳にこびりついている。汗をかきながら一生懸命説明していると思っていたのだが、あのときの日々刻々の現状報告は嘘っぱちだらけだった記憶しかない。そしていかにも、なにも知らされていないために報告のたびに違うことをいわざるを得ないような顔をしていたけれど、実は全て知っていたことをあとで知らされた。

2021年1月18日 (月)

『サピエンス全史 上巻』(河出書房新社)

 ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者が書いた本を読んでいる。この本に書かれた世界観について、NHKBSのドキュメントで紹介されて、そのユニークな視点に興味を持ち、取り寄せて大晦日の晩から読み始めたのだが、三分の一ほど読んだところで中断していた。面白くなかったわけではなく、正月の酒で読書に集中できず、無理に読むのがもったいなかったからだ。

 

 ようやく再開して上巻だけ読み終わった。まったく難解なところがない本だから、だれでも読めるはずである。だれでも読めるけれども、その独特の視点を受け入れるだけの思考の可塑性を持たないと、こいつはなにを言っているのだ、と反発するかも知れない。

 

 私はとても面白く読めた。この世界観は日本人には受け入れやすいかも知れないと思う。逆に韓国の人たちには受け入れ困難かも知れない。それは歴史というものをどう捉えるのかということについて、いまの反日的思考法とこの本はまったく相容れないと思うからだ。それはトランプ支持者たちも同様。一神教の信者の多くも理解しにくいかも知れない。

 

 上巻を読んだだけだが、各章ごとに個別のテーマがあって、それについて考えながら読み進めることができる。二足歩行を始めた類人猿から人類は派生してきたが、それ以来さまざまな人類が誕生しては滅びていった。それがどうしてホモ・サピエンスだけがここまで、地球上を覆い尽くすほどに増えることができたのか、そしてそのことで抱える人類の問題とはなにか、そのことを考える手がかりが満載である。ネタばらしをあえてするならば、それはホモ・サピエンスは共同幻想をする唯一の生物だからだ、ということにつきる。宗教も思想も政治も貨幣も全て共同幻想だ、という考え方は身も蓋もないけれど、私は賛同する。賛同する、というよりも自明のことかと思う。

 

 上巻の最後がグローバリズムについての著者の考え方の開示であり、その考え方と、いまの世界の情勢はまったく異なる様相を呈しているといえる。世界はゆっくりと統一へ向かうのだ、という著者の診たてと、現代の分裂に分裂を重ねる世界とはまったく違うからだ。

 

 しかし著者はそんな短期間でのことを言っているのではなく、ゆっくりと前進後退を繰り返しながら、必然的に統一に向かうはずという診たては、長い長いタイムスパンで見れば正しいのかも知れない。それは希望か。

 

 いつか再読して各章ごとのテーマについて詳しく考察し直してみたいけれど、いまは先へ読み進めたいと思う。

2021年1月17日 (日)

安野光雅

 昨年末に安野光雅が亡くなっていたことを知った。享年九十四歳は十分長生きといっていいだろう。それにしても坊主と絵描きは長生きする人が多い。

 

 安野光雅は島根県津和野生まれ。森鴎外や西周と同郷である。津和野は島根県の西端で、峠を越えればもう山口県だ。私はこぢんまりした津和野の街の雰囲気が好きで、何度も訪ねている。街を歩き回っても一、二時間も歩けば一回りしてしまう。駅から歩いてすぐの家族的な雰囲気の小さなビジネスホテルに泊まる。そのすぐ横に安野光雅の美術館がある。

 

 津和野に行くたびに森鴎外の記念館にも立ち寄る。さだまさしの『案山子』という歌詞は、津和野の高台から眺めた景色を元にしていると聞いたことがある。

 

 久しぶりに津和野に行きたいなあ。

2021年1月16日 (土)

陋巷にて山ごもり

 パソコンやスマホに囚われているような気がしている。デジタルの神様は魔物で、人間がコントロールしているつもりでいるけれど、実は人間を支配しつつあるのではないか。中国はITで国民を支配して、さらに世界も支配しようとしているように私には見えるけれど、実は知らず知らずのうちにデジタルの神様の手先になっているのかも知れない。

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 こんな妄想をするのも私が暇人だからで、その暇をデジタルが食い潰しでいるから、なんとなく生きている実感が乏しい。テンションが下がっているのもそのせいかもしれない。

 

 そう考えて、少しデジタル離れを試みてみようと思う。

 

 パソコンやスマホを極力開かないようにする。テレビも昼と夜のニュースを見るだけにする。中途半端なことで恥ずかしいが、世間への目はちょっとだけ開けておきたい。

 

 そういうわけで、このブログも少し休もうかと思う。以前から読んでいる人なら分かるだろうけれど、最近ブログの内容が著しく劣化して、自分で嫌気が差し始めていたところでもある。一回だけの休みになるか、二、三日か、一週間か、とにかく自分の肉体に食い込んだデジタルの爪を引き剥がして、距離を置いた実感が感じられたら再開する。ただし、いただいたコメントには遅れても必ず返事は書くつもりだ。それが礼儀だと思うから。

 

 思ったより爪は深く食い込んでいるかも知れない。そのときは時間がかかるか、またはあっけなく降参して、すぐに元通りになるか。

 

 陋巷での山ごもりの心境だ。暇を本当に暇だと実感できるのが楽しみだ。

2021年1月15日 (金)

消去

 WOWOWでは映画だけでも毎月1500本ほどが放映される。毎月後半に、翌月の放送の中からお勧めの番組の特集、番組表や、映画やドラマ、音楽番組などの簡単な紹介が満載された冊子が送られてくる。中身は濃いのだが、ページ数を少なくするために字がとても小さいのが難点で、拡大鏡が必要なことも多い。

 

 その冊子が送られてくると、そこから観たい番組をセレクトして番組表に印をつけていく。その作業が毎月の楽しみでもある。名作映画も好きだし、カルト映画も好きだから、うっかりすると印だらけになってしまう。印をつけたものは録画予約する。WOWOWは三チャンネルあって、一つはドラマと吹き替え映画、一つはスポーツと音楽、もうひとつがオリジナル映画(字幕版など)である。音楽はあまり好みのものがないし、スポーツにはそもそも興味がないから、ドラマと字幕の映画が主に録画される。もちろん邦画もある。

 

 そうして録画されたものはハードディスクからすぐに観ることもあるけれど、多くはBD(ブルーレイディスク)にダビングして小さな棚に詰め込んである。観るよりたまる方がずっと多いので、気がついたら五百本以上の映画やドラマがたまってしまった。なにが録画されているのか分からなくなっているために、同じものをまた録画したりすることもある。

 

 観たあとは、ごく一部はコレクションとして残すけれど、ほとんどは消去して次の録画に備える。まだ空ディスクの予備はあるけれど、五百本の映画を観るのはとっくに物理的に無理になっている。

 

 今日はそのたまった録画ディスクを整理した。洋画、邦画、アジアの映画(韓国や中国の映画、東南アジアや中東のものもある)に大別し、洋画は古い名画などのクラシックものをさらに分ける。そうしてカルト映画は特に残したいものを除いて次々に消去した。約百本あまりが消滅した。いま残った四百本ほどをさらに選別して減らさなければ、と思いながら作業に疲れたので、本日のお仕事は打ち切りとした。

 

 それぞれが鑑賞するために二時間ほどの時間を必要とする。このディスクの山は、時間の山でもあるのだ。消去された百枚のディスクが私にあらたに時間をくれるわけではないのだが。

 

 「それよりもあらたに録画するものこそを絞るのが先だろう」と、こころのなかで誰かがつぶやいている。こどものときから映画三昧、読書三昧は夢だった。それが叶っているといえるのだが、その夢への思いが過剰で、止めどがないらしい。本もあふれている。

確定申告不要

 一昨年から、確定申告不要の身である。妻の医療費が高額であるけれど、もともと所得税を支払っていなければ、医療費による控除額がいくら多くても還付はされない。

 

 というのは正しいのかどうか分からない。しかし払わないものから還付があるとは思えないから、役所にそのほかの補助がないかどうか相談をして、支払いを少しでも減らすことが必要かと考えている。全ての補助は申告によるもので、どんな補助があるのかはとてもわかりにくいのである。現状を少し整理をしようと思っている。

2021年1月14日 (木)

謝ると叩かれる

 日本独特かも知れないが、謝ると相手の非難は緩和されるのが普通だった。だから謝罪に意味が生ずる。他の国の、水に落ちた犬を叩け、という考え方は日本人にはなじまないと私は思っていた。

 

 ところが、いまは日本でも、謝ったのだから過ちを認めた、と嵩にかかってその責任を追及する。そうなると謝りにくくなる。抗弁して謝罪を避けようと努力するのが当たり前になってきた。

 

 凶悪な犯罪者の、歴然とした犯行すら弁護士が本人すら信じていないような奇妙な論理で弁護する。野党の代議士は相手を謝らせようと激しく攻撃し、謝らないことに非をならすが、もし謝ったらどうなるか。その責任を追及し、相手が身の置き所がなくなるところまで追い込もうとするだろう。

 

 こういう姿を連日テレビその他のニュースで見せ続けられれば、日本人も謝ったら損をする、ということを学習していく。それがどれほど人心を損なっているのか、それを憂える。お隣にまさに謝ったらさらに嵩にかかる国がいて、謝るごとにさらに謝れ、を繰り返し、永遠に謝らせようとしていて、それにうんざりしながら、やはり謝ったらまずいことを教えてくれている。

 

 もう、済みませんでした、ごめんなさい、という言葉は死語と化しつつある。使われるのは謝罪の気持ちからではなく、その死語を使う方が都合が良いと考えられたときだけになりつつあるようだ。嫌な御時世である。

 そういえば、昨日の小池都知事の記者会見で、自宅待機中の新型コロナ感染者が二人亡くなったことについて言及していた。知事は受け入れる病院がなかったことによるのだ、と説明していた。そして、ことほどさように事態は深刻であり、保健所も医療も危機的だ、と強調していた。そのとおりなのであろう。

 私は、少なくとも死なずに済んだかも知れない都民が亡くなったことは、いかなる理由があれども都知事として責任があるから謝罪する、という言葉があってしかるべきではないかと感じた。二人死んだことを事態の危機的であることの説明のためにのみ語っている言葉としか聞くことができなかった。もしかしたらそのような言葉は、ニュースとして報道されるときにカットされていたのかも知れない。それならマスコミも謝罪の言葉を飾りとしか感じていないということなのだろう。

我慢している

 独り暮らしが長いけれど、孤独であることに人並み程度には寂しさを感じている。しかし人並み以上に人に気を遣うのが苦手でもある。差し引きで、独りでいることから逃れようと思わない。

 

 新日本風土記で『東北の冬』という番組を観た。2013年に放送されたものの再放送らしい。まだ東日本大震災から時間が経っていないから、その生傷が疼いているのが感じられる人々もいる。半年近い雪に閉じ込められた生活を耐える東北の人たちの姿を見ながら、胸に迫るものがあった。日本海側では厳冬の荒海にハタハタ漁に乗り出す漁師たち、太平洋側では遠洋航海に出る男たちとそれを送り迎えする妻たちの姿が映されていた。

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 東北を独りで旅すると、一入(ひとしお)寂しさを感じるけれど、それによって却って寂しい気持ちが癒やされるのは不思議だ。その東北の冬へ旅に出たいのに、いまはひたすら我慢している。

2021年1月13日 (水)

自分勝手

 私はいい人と思われたい。そうして同じようにいい人と思われたいと素直に思っている人と出会うと、たいへん居心地が良い。

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 しかし世の中の交渉ごとは、相手にいい人だと思われたいなどという気持ちでいると、散々な目に遭う。日本はいつも交渉ごとで割を食ってきたような気がする。そういう役割に立たされる人は本当にたいへんだと同情する。

 

 どうして世界はこんなふうなんだろうと不思議に思う。そういう損得がむき出しの折衝に満ちた世界は、いつか破綻してしまうだろう、などと絶望的な気持ちになる。

 

 もう、いい人とみられたい、などという考え方や生き方はやめてしまおうか。もともと私は自分勝手で、いい人などではないのだから。少し疲れてきた。

半藤一利

 作家の半藤一利の訃報を聞いた。近代史についてたくさんの本を書いていたノンフィクション作家として、その時代について関心を持つ私も、何冊か読んで独特の視点に新しい考え方を教えられた。しかしそれほどたくさん読んだわけではなく、良い読み手ということはできない。

 

 実は、彼の本を最初に読んだのは『漱石先生ぞな、もし』という本だった。漱石について書いた本である。彼の夫人は夏目漱石の孫娘にあたる。荷風についての本もあり、だから私は半藤一利は文芸評論家だと思っていた。文芸評論家が昭和史について書いているのだと思った。

 

 リアルタイムに昭和を生きた作家がまた一人この世を去った。

2021年1月12日 (火)

覚悟はしていたけれど

 ものには寿命がある。三十年近く愛用しているタワー型のWindows-XPデスクトップパソコンは、最近ときどき不調気味だったのだが、本日ついにご臨終となった。いろいろ試みたが、復活しなかった。パソコンとしてはとてつもなく高齢まで生き延びたと思う。もって瞑すべしか。

 

 『大戦略』シリーズや、古い囲碁ソフトは32ビット版のゲームで、ほかのパソコンでは遊ぶことができない。ほとんどそれ用にしか使っていなかったので、データのダメージはないのだが、『大戦略』の愛用版が使えなくなるのはまことに残念だ。エミュレーターというのがあって、使える方法もあるやに仄聞するが、そこまでして、もしほかの新しいパソコンに動作不良でも起こされたら面倒だ。

 

 今晩は送別会で飲むことにしようか。毎日飲んでいるけど・・・。

 

キューバ

 トランプ大統領が、最後っ屁のようにキューバを再びテロ支援国家に指定した。オバマ大統領時代に指定を解除し、長い経済制裁時代に苦難が続いたキューバがようやく一息ついたところだったのに、残念だ。

Dsc_6761キューバの憂鬱

 2015年の11月に、去年亡くなってしまったF君たちと三人でキューバに行った。毎年海外旅行を続けてきたけれど、その中でも特に楽しかった旅行である。ひたすらラム酒を飲み、貧しいけれど陽気で楽天的なキューバの雰囲気を心から味わうことができた。

Dsc_7051陽気なキューバ

 カストロやゲバラたちの革命によって成立した共産主義政権は、ほかの共産主義国家とは大きく違う。なにが違うのか。政権担当者たちも国民と同様に貧しい暮らしをしているし、それが当然だという矜持を持っているということだ。だから国民は貧しさに堪えている。

 

 貧しいと思うのはわれわれの見方で、みんなが貧しければそれほど貧しさを感じないのではないか、などと感じた。ぜいたくな暮らしを見せつけられれば妬みが生じ、自らの貧しさが際立つものだ。だから世界で一番豊かなアメリカは、たぶん最も貧しい人々がいる国かも知れない。

Dsc_6869キューバといえばヘミングウエイ

 だからオバマ政権の融和策でキューバに観光客が行きやすくなり、キューバが豊かになり始めている様子は喜ばしいものと見えていても、そこには急激に豊かになる人々とそうでない人の格差も生じてしまうということに危惧もあるなあと思ったものだ。

Dsc_6811要塞からハバナを望む

 そもそもキューバは長くスペインに支配され続け、独立してもアメリカの財閥とその傀儡政権によって、国民はすさまじい搾取を受けていた。たった数十人のカストロやゲバラたちがどうして革命に成功したのか。国民の多くが革命軍に与したからに他ならない。

Dsc_6940 過酷な労働

 そうしてキューバで搾取側に立っていた金持ちたちはアメリカに亡命した。いまアメリカのキューバ系の多くはそのような人たちであり、キューバ系の政治家はもちろんそうであるから、信じがたいことに彼らこそが最も祖国キューバを憎んでいるのだ。制裁を提唱し、制裁に熱心なのである。

 

 そういう背景もあってのトランプのキューバのテロ支援国家再指定である。バイデンはキューバの経済制裁を緩和すると公約にも掲げていたところだから、このトランプの暴挙がどのように影響するのか心配だ。

2021年1月11日 (月)

初運転

 乳腺外来に行く病院の場所は行ったことがない病院なので、いちおう地図で調べてあるが、かかる時間などアクセスを確認するために、今日実際に走って見た。愛車のハンドルを握ったのは今年初めてである。

 

 思ったより分かりやすく、時間もあまりかからないことが分かった。ついでに少しドライブしようと思ったのだが、腹具合がなんとなく不調なので、どこにも行かずに自宅に帰った。

 

 明日は明け方過ぎに雪がちらつくかも知れないという。雪国の人たちは雪に苦しめられているのに、私はちょっとくらいなら雪が降らないかな、などと思っている。千葉県の特に暖かいところで生まれ育ったので、雪が降るのは二、三年に一度しかなかった。雪合戦ができるほど積もるのは十年に一度である。だから子供心に雪が降るととても嬉しかった。

Img284大学の寮から・米沢

 大学を豪雪地帯の米沢で暮らし、仕事で新潟や東北、そして北陸を走り回ったから、大雪がどれほど迷惑なものかは身にしみて知っているけれど、こどもの頃の気持ちがいまだに消えずに顔を出したりする。

Dsc_2154 鳴子温泉にて

無我の境地

 出したままだった玄関ドアのお飾りを外して、ようやく私の正月が終わった。その程度の区切りだから区切りともいえないけれど、なかなかスイッチが入らずにいる。

 

 どんどん世の中の景色が後退して、望遠鏡を逆に見ているようだ。医者にいまの精神的な状態を相談すれば、軽い鬱状態ですね、などと無理矢理診断されかねない。自分ではこの精神的なポテンシャルの低下が認知症への入り口ではないか、という不安をかすかに感じている。

 

 新型コロナの感染のニュースも遠景に見えてきた。あまりに繰り返して同じような報道を見せられていると、不感症になっていく。それは私だけのことなのか。同じことを百回繰り返してもそれはひとつのニュースである。新しい情報を知ろうとすればするほど同じ話に行き当たる。繰り返しは狂気への近道だ、と聞いたことがある。社会が歪んできているのか、私が歪んでいるのか。

 

 墜落したことがはっきりしたインドネシアの航空機はまたもボーイング737だったなあ、などとぼんやり思っている。大雪で閉じ込められているニュースにも、なじみの場所がたくさん報じられていた。

 

 岐阜県の郡上市でも豪雪で孤立した集落やスキー場のニュースが報じられていて、郡上がそんなに降ったのかと思ったら、石徹白(いとしろ)地区だという。たびたび行く阿弥陀ヶ滝からさらに山道を登っていった先にある。あそこならそうだろうな、などとぼんやり思う。

180911-26石徹白にて

180911-64石徹白にて

180911-65石徹白にて

 明後日は妻の入院している病院に行き、そこから別の病院の乳腺外来での受診を受けなければならない。そろそろ日常が始まる。精神のスイッチを入れないといけないのだが、テンションが上がらない。その代わりに雑念もあまりない。仙人の境地とはこんなものか、無我とはこんなものか。まさか。

2021年1月10日 (日)

烏鎮の思い出(2)

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中国のこの丸い瓦にすこぶる風情を感じる。

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日が落ちた黄昏時、建物に灯が入る。

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提灯屋の軒先に、提灯だけが浮かび上がる。

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日が完全に暮れ、灯火が輝いているのになんとなく寂しい。たまらなく孤独を感じた。

烏鎮の思い出(1)

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中国江南には運河がめぐらされた水郷の村や町がいくつかあり、むかしの中国がそのまま残されて観光地になっている。有名なものが八カ所くらいあり、私はそのうち四カ所くらいを訪ねた。特に思い出深いのが烏鎮(うちん)である。

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烏鎮の思い出が特に深いのは、このガイドをしてくれた駱(らく)さんが好印象で忘れがたいからだ。仲間由紀恵に似ていると感じた。中国人ながら慎み深く、やかましいのが嫌い、というのが珍しい。個人的な話も少しした。いまは杭州に暮らしているけれど、もともとは西安の生まれだという。話を聞いていると、祖父母まではかなり豊かな家だったようだ。しかし中国ではそのような家は戦後、たいへんな苦難に襲われた。静かな話し方の中になんとなくそれがうかがわれた。

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中国では、地方に行くと街角でこのような料理をしている光景を見ることが多かった。

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烏鎮では雨に降られた。しかし雨の中の水郷の村は一層風情があった。雨の中の子猫は、しかし眼の光がしっかりしていた。

次回は烏鎮の夜景などを紹介する。

2021年1月 9日 (土)

フィクションモード

 年末から十日ばかり、みぞおち周辺に鈍痛がある。何かほかのことに気が紛れていると忘れてしまう程度の軽いものだが、夜眠ろうとして目をつぶって静かにしているとはっきりと感じる。神経性の胃痛なのか、心臓に何か問題があるのか、それともほかの理由なのか、などと考えると不安になってくる。

 

 正常性バイアスにより、なんともない、と思おうとしているのか、本当になんともないことなのか。・・・正常性バイアスというのは先日の、ためしてガッテンで教えられた言葉である。

 

 先日来本は断片的にしか読めずに映画やドラマを観ることが多い、と書いたけれど、相変わらずである。そうしていると気が紛れるから鈍痛を感じることはない。ずっと忘れていると鈍痛も薄れてしまった気がする。

 

 『トリック』という仲間由紀恵と阿部寛のコンビのテレビドラマがあったけれど、その劇場版が全部で四本作られている。それを一気に観てしまった。私はコメディはあまり好みではないけれど、二人が演じるこのコミカルな映画が嫌いではない。逆にあまりに荒唐無稽な設定や登場人物たちをあっけにとられて観ているうちに、頭が完全に空っぽになってしまって雑念が払われるから不思議だ。

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 つづけて今度は『刑事モース オックスフォード事件簿』の新作である第28話から30話(一話90分、今回は三話が連続している)を観た。このシリーズが大好きである。このイギリスのドラマは素晴らしい。ミステリー好きなら見逃すべきではない。ずっとWOWOWで放映してきたが、昨年だったか、NHKBSで以前のものを連続放送していたから観た人もいるだろう。イギリスではホームズ以上の人気、という触れ込みなのもよくわかる。

 

 もともとの原作は、晩年のモースを描いたものだが、イギリスでモースの若いときを想定してショーン・エヴァンスをモース役にして新しく作られつづけているようだ。晩年のモースのドラマも放映されたから観たけれど、ちょっとイメージがつながらない。いまのショーン・エヴァンスが演じるモースの方がずっと好みだ。それにあの晩年版のモースの最後はちょっと哀しいではないか。

 

 そういうわけで、いまの私の頭はフィクションモードであり、現実離れしている。フィクションモードにいる間はとても気楽で好いのだが、残念ながら料理がいい加減になり、身の回りが散らかってしまうのが欠点である。何しろ現実離れしているから現実にやるべきことをサボってしまうのである。

対コロナスケジュール

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  新型コロナウイルス用のワクチンを射てば、どのくらいの確率で感染しなくなるのだろうか。ほとんど感染しなくなる、ということを期待して良いのだろうか。それならワクチンを二回射ち終わるまで、感染しないようにひたすらひきこもりつづける値打ちがある。

 

 早ければ二月終わりくらいから医療従事者や高齢者施設の収容者や介護者のワクチン接種が始まるとして、それが一段落して一般の高齢者である私などがワクチン接種を受けられるのは、どんなに早くても四月、もしかしたら六月ころになるのだろうか。国民の大半にワクチンが行き渡るのは夏過ぎだろう。オリンピックの開催に悲観的になるのは理由のないことではない。

 

 機会があればなるべく早く接種したいものだと思っている。そして接種後一息入れたら、さっそく旅に出たいなあ、などと夢見ている。年齢がどんどん高くなり、体の自由がききにくくなり、車の運転のリスクも増えていく。時間はあまりないのだ。

 

 終わりがあると思えば、我慢というのはけっこうできるものである。いつまで続くか分からないから不安が増大して、我慢ができなくなる。いろいろなことが明らかになって自分なりのスケジュールに見通しが立ってくることを期待している。

2021年1月 8日 (金)

こんな予測は

 大坂・京都・兵庫が連名で、首都圏に続いて緊急事態宣言に追随することを政府に要請したという。しからば右顧左眄に終始してきた愛知県の大村知事がその尻馬に乗らないことがあろうか。

 

 こんな予測はまずだれにも可能で、外れることはないだろう。

 

 アメリカの連邦議会に暴徒が乱入するという、およそあり得ないような暴挙を現職の大統領があおり立てた。これで暴徒たちは、自分が正義と信ずる場合には何をしても良いのだ、という確信を得ることになった。

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 しからば次にあり得るのは、バイデンを暗殺する行為が正義だと狂信するものの登場である。一度外れた箍(たが)は元に戻らず、暴走は果てしがない可能性がある。

 

 こんな予測は当たらないで欲しいが、私は悲観的だ。

丑年

 遅ればせながら丑年にちなんで牛の写真を。
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 雲南省の省都昆明の駅前の「黄金の奔牛」。この写真を撮ったしばらくあとに、この昆明駅前で少数民族によるテロ事件があり、多くの人が殺された。そして昆明駅は別の場所に移されたから、この駅はもうないはずである。
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 横から撮ると、なるほど奔牛だなあということが分かる。
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 これは南阿蘇で撮った赤牛の像。あの大地震があった少し前のものである。
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 これは赤牛の像のすぐ後ろに架かっていた阿蘇大橋。ご承知のように地震で落ちた。

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 太宰府天満宮の神牛。これを最初に置くべきだったか。

2021年1月 7日 (木)

魔除け

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 我が家の玄関の扉を開けると正面の壁に縦1.5メートル、横1メートルほどのこの写真が貼られている。インドネシアのバリ島に行ったとき撮ったもので、魔除けのために貼っているのだが、知らずに我が家を訪ねた人は一瞬ぎょっとする。

 

「ズバリ巨大プリント」、というソフトで拡大印刷したもので、もちろんこんな大きなプリンターはないから分割印刷で、A4の紙、縦5枚横5枚にプリントして貼り合わせてある。印刷はプリンターがしてくれるからどうということはないが、きちんとのりしろをあわせて切り貼りするのが案外面倒である。普通紙にプリントしたものを貼るから、しわになったり歪んだりするのである。生来の不器用なせいももちろんある。

 

 その面倒がなければもっとたくさん作りたいのだが、どちらにしてももう壁面は本箱か貼り付けた写真で一杯でもある。新しいプリントをすれば、古いものを剥がさなければならない。

 

 ところでこの写真の魔除けの効果は新型コロナウイルスにも効果があるのだろうか。あって欲しいと思う。

狂気の沙汰

 トランプ支持者と称する暴徒たちがアメリカ議会に乱入して議事を中断させている様子が報道されていた。あろうことか、大統領が暴徒たちに「議会へ向かえ!」とアジテーションしている姿も映像に写されていた。明らかな扇動行為であって、大統領を退任したあとに罪に問われるのは必至だろう。

 

 もし奇跡が起きて大統領に留任したとしても罪は罪であるが、そんな奇跡はクーデターによるものしかあり得ないから、アメリカという国の民主主義が崩壊することであって、共和党はなにをすべきか真剣に考えないと、アメリカという国を地に落とすことになりかねない。

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 私はいくら強くトランプ支持を支持し、トランプの言によって本気で不正があったと信じていたとしても、ほとぼりが冷めれば次第に熱も失って、新大統領の下での日常が戻るものだと思っていた。いまの事態は狂気の沙汰と言うべきか。

 

 この暴徒たちは選挙でトランプに票を投じたのと同じような、アメリカ国民の半数近くの多数の人々なのか、それともごく一部の先鋭な人々なのか、それが知りたい。それとそれはトランプによってここまで分断してしまった事態なのか、それともトランプの存在にかかわらず、もともとアメリカの内部の本質的な分断なのだろうか、それも知りたい。

 

 アメリカは戦後、世界の富を集めて、国民は豊かな生活を謳歌してきた。世界の人々はそれをうらやみ、いつかそのような生活をしたいとあこがれた。そして次々に豊かになっていく国々が増えていくと、実は貧しい国々の富を集めて豊かだったアメリカは、相対的に豊かではない国に変わっていった。アメリカそのものの富は増えても、その富はごく一部にのみ集中して、多くの国民は豊かさを実感できなくなった。

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 アメリカは敵を外部において、国民の不満をそれに振り向けた。まず日本が叩かれた。日本のせいで富が奪われた、とされたからである。そしていま、中国が叩かれている。しかしそんなことでアメリカ国民の不満が解消されはしない。感情のはけ口を与えられても豊かさが戻るはずがないからだ。

 

 こうしてトランプ大統領が誕生した。その結果をわれわれはいままさに見せられている。

 まことに雑な捉え方であるが、細部に補足したいことは山ほどある。製造業主体経済の世界から、金融やITの時代への変化という要素はとても大きい。それに日本と中国とは、アメリカにとっての意味合いがまったく違うけれど、単純化してまとめている。

2021年1月 6日 (水)

映画『ナイトストーム』2019年アメリカ

監督スティーヴン・カンパネッリ、出演ニコラス・ケイジ、ケイティ・ストリックランドほか

 

 暮れから昨日までに十本近く映画を観ている。本にあまり集中できない分、映画やドラマを観ているが、カルト映画が多いからわざわざブログで取り上げるほどのものはなく、観てきた映画の題名を見直しても、ストーリーをちゃんと覚えているものが少ないのは私がぼけているからだけではない。

 

 今回『ナイトストーム』というこの映画をわざわざ取り上げたのは、ストーリーに矛盾が多すぎる上に疑問がたくさん残って、こころのなかで収まりがつかない映画だったからだ。もともと不条理映画ともいえるもので、そこにサイコサスペンスやオカルトふうの味付けが加わった奇妙な映画だった。

 

 ニコラス・ケイジはどんな役柄のどんな映画でもオファーがあれば引き受けるようだ。一流の映画から、どう見ても三流映画としか思えないものでも何でも出演して、さまざまな役柄をこなす。俳優の勉強を実演でこなしているようである。そしてニコラス・ケイジが出ると三流映画が三流なりに、見所の多少はある映画になってしまうからさすがである。

 

 プロローグでは夜中に物音に目覚めた屋敷の主人が、銃を持って階下の闇をうかがう。そこに蠢く泥棒の姿が浮かび上がる。気付かれたと知った泥棒は必死に外に逃げる。庭を横切って逃げる男に狙い定めた拳銃が発射され、泥棒は生け垣に倒れ込むように撃ち倒される。

 

 場面は転じて、顔に傷を負った若い男が警察で取り調べを受けているシーンとなる。彼は殺人事件の容疑を受けているらしい。あの撃ち倒された男かと一瞬思うが、どうも銃創を負っているようには見えないので別人かと察しられる。そうしてその若い男(妻と生まれて間もない赤ん坊がいる)の供述が始まり、その様子が描かれていく。

 

 彼は大きな屋敷の壊れた庭の生け垣の修理にやってきたのであるが、折から夜には嵐がやってくると報じられていて、早く仕事を切り上げないと帰れなくなるおそれがあった。しかし屋敷の主人(ニコラス・ケイジ)やその妻(ケイティ・ストリックランド 怪演)に邪魔されてなかなか仕事ははかどらない。ついに嵐がやってくる。ところが車が動かないことに気がつく。仕方なく屋敷で一夜を過ごすことになるのだが、それは彼にとって恐怖の一夜になっていく。

 

 なぜ彼が殺人犯の容疑を受けるのか、後半までよくわからないのだが、屋敷の主人夫婦との奇妙なかみ合わない会話が次第に不気味さを増していくそのスリルがたまらない。恐怖の極地のあと、彼がどのような状況で目覚め、警察に拘束されたのか、そしてその状況をどうやって脱することができたのか。

 

 ラストの大団円のあとに、後日談としてさらなる危機が若者を襲う。ラストの怖さをもう少し膨らませるともっと好かったと思うし、これで十分だ、という気もする。

 

 ところで生け垣の前で撃ち倒された男はどうなったのか。

いいドラマを観た

 民放のドラマは観ることがほとんどないのだが、たまたまテレビ東京の『人生最高の贈り物』というドラマを観始めたら、なかなか好いドラマで、観て好かったと満足している。石原ひとみ主演ということになっていて、彼女にとってはもうけ役だろう。もちろんたいへん好演していて好かったけれど、しかし私は主役は父親役の寺尾聰だと思う。それは私が娘を持つ父親だからで、父親の気持ちが痛いほど共感できたからでもある。

 

 父親にとって娘の気持ちほど分からないものはない。そうでもないらしい何でも話せる仲の良い父娘の話などを見聞きすると信じられない思いがする。いまは人妻になった私の娘も定期的に我が家に立ち寄って私が元気でいることを確認してくれるが、二人で話しているようだが話すのはほとんど私である。もともと無口な娘とはいえ、なにをどう考え、私の話をどう感じているのかよくわからない。嫌われていることはないと思うけれども自信はない。

 

 ドラマで父親がアルバムを眺めて、自分の写っている写真に笑顔のものが全くないことにいまさらのように驚くシーンがあるが、それは私も同様で、幼いこどもたちと写っている写真も、妻が家を出て行ったあとにこどもたちと三人でどこかへ出かけたときに撮った写真にも、私の笑顔の写真が一枚もないのに驚いたことがある。

 

 ドラマの話に戻れば、父親は病気で妻を失い、いまは独り暮らしをしているが、結婚して幸せに暮らしているものと思っていた娘がとつぜん大きなトランクをひっさげて帰宅してくる。理由が分からないし、娘の様子はいつも以上に理解しがたいような感情の起伏を見せて不審である。娘がいてくれることは嬉しいけれど気楽な生活に割り込んだ存在でもある。やがて娘のとつぜんの帰宅の理由が分かる。

 

 どうしてドラマの題名が『人生最高の贈り物』なのか。それを明かしてしまえば感動が薄れてしまう。それは是非ドラマを観てもらいたい。必ず再放送されるものと思うし、たぶんテレビ東京でアーカイブを観ることが出来るはずだ。こういうドラマをときどき見せてもらいたいものだ。

2021年1月 5日 (火)

懐かしい顔

 夕方の名古屋のローカルニュースで懐かしい名前を聞いた。大学時代の寮の後輩の名前は極めて珍しい名前なので、間違えようがない。トピックスになるような珍しい話題の中である。顔写真が出た。五十年経っているからずいぶん変わっているけれど面影は残っている。

Img80150年前の彼

 もともと能登の人間で、大学の同窓会の神奈川の幹事をしていたらしいことは風の便りで承知しているが、どうして名古屋のローカルに取り上げられたのか。いまどこに住んでいるのだろうか。連絡を取りたいような気もしたけれど、元気でいるらしいことを知っただけでよしとすることにした。

映画音楽

 私が小学校五年生のときに我が家に初めてテレビがやってきた。その前にはラジオしかなかった。父は音楽にほとんど興味がなかったし、母は演歌が好きではないから、ラジオで聴く音楽は洋楽が多かった。その頃はアメリカ音楽よりも、ヨーロッパの音楽が多くて、ポップス調のシャンソンなどをよく聴いていた。それと同じくらい映画音楽もよく聴いた。『鉄道員』や『汚れなき悪戯』や『太陽がいっぱい』など、映画は見ていないのに音楽から想像してイメージを思い描いたりした。

 

 街に映画館が三つあって、そのひとつに洋画がときどきかかっていたけれど、私はもっぱら東映の時代劇専門だったから洋画は見たことがなかった。それに映画を自分の好きなだけ見ることが出来る時代でもなかった。小遣いらしい小遣いももらっていなかった。

 

 高校生の時に初めて洋画のロードショーというのを見た。グレゴリー・ペック主演、ソフィア・ローレン共演の『アラベスク』という映画で、その面白さに感激した。好きなだけ映画が見られるようになりたいと心から思った。

 

 オリビア・ハッシー(いまはオリビア・ハッセーというらしいが)とレナード・ホワイティング共演の『ロミオとジュリエット』は1968年制作だから、私が高校生時代に観た。映画に感激したのはもちろん、ニーノ・ロータの音楽が最高で、なけなしの金でSP版のサントラ盤を買った。サントラ盤というのを初めて知った。

 

 映画を夢中で見ていると、シーンと音楽が一緒に記憶される。音楽を聴けばその音楽のかかっていたシーンがまざまざと思い浮かんだりした。若いころは記憶力もあったし、それほどたくさんの映画を見ていないから印象も強かったのだろう。

 

 いまも映画音楽が好きで、ただし、比較的に古いものの映画音楽ではあるけれど、アルバムに西部劇やSFの特集が集められた全集版などをときどき聴いたりする。

 

 どうも音楽を映像的に聴いてしまうという傾向は、この映画音楽との関わりが影響しているようだ。

 

 それがデジタル音楽を聴くようになって、映像とはまったく切り離して音楽そのものが聴けるようになり、初めてジャズの良さが分かり始めた。

2021年1月 4日 (月)

悲観的

 東京オリンピックの開催について私は悲観的である。オリンピックは世界中の国々が参加することに意義があるが、開催予定までにその世界の国々全てにワクチンか配布され、感染リスクが大幅に低下するとは考えにくいからである。間に合うとは思えない。

 

 ところで、韓国文在寅政権は北朝鮮との融和を政策の第一に挙げていて、全てに優先させようとしている。文在寅は東京オリンピックで北朝鮮の金正恩と手をつないで見せることを心から願っているようだ。そしてそれによって低下した支持率も回復すると夢見ている。

 

 しかし北朝鮮は新型コロナウイルスの感染者はゼロであると一貫して主張している。その国が選手のPCR検査を受け入れるだろうか。そこで感染が発覚するのは不都合だろう。

 

 韓国文在寅政権はたぶん人権的行為として、確保不十分な韓国の分を減らしてでも北朝鮮にワクチンを提供しようとするだろう。しかしそれを北朝鮮が受け入れるだろうか。喉から手が出るほど欲しいに違いないが、意地でも拒否するような気がする。

 

 北朝鮮にとって、オリンピックに行くことは新型コロナウイルスに汚染された場所に行くことであって、金正恩の最も恐れることに違いない。彼は若いけれど重症化リスクの高い持病があるはずだからである。

 

 だから現状では北朝鮮は東京オリンピックに参加するとは思えないし、当然金正恩が来ることはないだろう。また、新型コロナウイルスの対策が不十分な北朝鮮の選手を日本が受け入れるのもまた困難であろう。

 

 こうして文在寅の夢は叶うことがないだろうと思う。

 

 選手の気持ちもあるし、すでに巨額をつぎ込んでしまったからなんとしてもオリンピックを実施したい、という気持ちは分かるけれど、どこかで見切りをつけてさらなる不用な金のつぎ込みを止めるための決断が必要な時期は近いのではないか。すでに世界の選手たちもオリンピック参加についての熱が冷めつつあるのではないか。

 こんなことを書くと不快に思う人も多いだろうなあ。申し訳ない。

思ったほど悪くない

 定期検診での血液検査結果は空腹時血糖も、ヘモグロビンA1cもHマークがついていたものの、思ったほど悪くなかった。美人の女医さんは結果を眺めてしばし沈黙していたが、まあ正月明けということでこんなものでしょう、とにっこりされた。本当に寛大である。でも早めに常態に戻してくださいね、と付け加えた。

 

 正月明けそうそうだから、病院はすいている。ただ、予約のない新規受診の列はいつもより長かった。検査結果もスムーズに出たから、予約時間よりもだいぶ早く呼ばれて、たちまち診察が終わった。長居は無用である。

 

 そうなれば薬局もスムーズで、昼前に我が家に帰宅することができた。いつもこれくらいだと楽で好いけれどなあ。

 

 丁寧に手を洗い、うがい洗顔をしてゆったりと昼食を摂る。絶食したあとだからなにを食べても美味しい。

 

 さあ、今晩は正月のやり直しだ、飲むぞー。つまみはたくさん残っている。

 そういえば、もらった年賀状の多くが、飲み過ぎて体を壊さないように、と書きこんであるのはどうしたことだろう。心外である。心配してくれているのだから嬉しくないことはないが。

自粛要請

 箱根駅伝を沿道で応援する人たちがいて、選手も励みになっただろう。だが、テレビなどでは繰り返し沿道での応援は自粛して、自宅のテレビで応援するように要請していた。

 

 沿道で応援していた人たちが自粛要請を知らなかったということはあり得ない。自粛要請に対するひとびとの応えがどのようであるか、よくわかる光景だった。小池都知事がどうして自粛要請が届かないのか、と嘆いていたと言うが、言葉は聞こえているけれど行動としての自粛につながっていない人がいるということだ。

 

 人には「自分は別」、と考える傾向の人が一定数いて、そういう人を見てそれを真似する多くの人がいるものだ。

 

 緊急事態宣言の可否について、街頭インタビューにさまざまなコメントをしている人たちがいたが、「どうせ緊急事態宣言をしたって守らない人がいるから効果がない」と語っている人がいた。こういう考え方をしていると、どんな規制も意味がないという悲観論になる。守らない人がいるから問題なので、大多数の人は規制を守るものである。さらに問題は、守らない人がいるなら自分も守らなくてもよいと考える人たちである。

 

 もともと守らない人は救いようがない人たちで、彼らにはなにを言っても届かない。そういう人には言葉で呼びかけても無駄である。そして、もともとちゃんと規制を守る人は一言言えば伝わるから心配ない。問題はどう言おうが守らない人を見て、ふらふらと真似をしてしまう人たちだろう。

 

 しかし強制力もないのに自主規制の呼びかけに従う人たちを、同調圧力などと言って、悪いもののごとく言う(個人の自由という名の自分勝手が人権だとするマスコミの地道な呼びかけの効果がある)ことで、ひき留める社会的な圧力が弱まった現在、小池都知事の嘆きはむなしく響くことになる。そもそも小池都知事本人は、あまり自主規制に従わないことを人権と考える側の人だと私は見ているから、言葉は空回りするのは当然だろうと思う。

 

 どうしたら良いのか私にも分からない。基本的に要請にはなるべく従うつもりだが他人の真似ではない。

2021年1月 3日 (日)

地図

 箱根駅伝を横目で見たあと、本を読もうと思ったけれどどうも集中できない。テレビはやかましい番組ばかりで、観る気がしない。ニュースが見たいのにニュースはほとんどない。世の中にとつぜんニュースがなくなるはずもないのにどうしたことか。それとも、そもそもふだんは放送する必要のないようなつまらないニュースばかり流しているから、休んでもどうということはないのか。

 

 地図を眺めるのが好きで、むかし走り回ったところや、これから行きたいところを地図でたどってみる。今日は津軽半島と下北半島を詳しく眺めた。バイクのライダー用の地図であるツーリングマップルを愛用していて、旅には必ず携行する。丁寧に見ておけばガイドブックにもなる優れものだ。最近は大判の県別マップルを買い始めている。いまは東北六県がほぼそろった。だから今日は青森県の地図を広げている。訪ねた場所の横に、立ち寄れば好かったと思うような場所をいくつも発見する。

 

 空想旅行を楽しみながら酒を飲めば、それも素晴らしい酒の肴なのだけれど、明日が糖尿病の定期検診なので、今晩は酒を飲むわけにはいかない。早めの晩飯を食べたところで、空腹時血糖を計るために明日の昼まではカロリーのある飲み物も食べ物も口にできないのである。

 

 これからすることがないから風呂に入って、音楽でも聴きながら早めに就寝しよう。明日の夕方は正月のやり直しなのだ。

欲望の売買

 録画していたNHKBSの『欲望の資本主義 2021』という番組を観て、いろいろ考えさせられた。資本主義と共産主義という対比の時代は共産主義の破綻で終わりを告げ、いまは資本主義と資本主義が対峙する時代になったという学者の言葉に、現代経済について新しい視点を得た気がする。経済学がケインズの時代とは大きく異なったものとなっているらしい。

 

 たしかに現代は実体経済とは大きく異なる、金で金を売買する金融や、情報が売買される時代であり、それを欲望が売買される時代、と象徴的に言う学者などもいた。なるほど、と得心する。

 

 実体経済では、イノベーションとはものの生産形態が変わることで、変わってもものを生産するという点は変わらず、生産に従事する人や生産されたものを商品として扱う人たちに資本が分配される仕組みが維持される。しかしいままったく異なるイノベーションが起きてしまい、金融や情報の売買では、勝者のみに資本が集中して資本の分配が起こらない。

 

 なぜ現代が格差の時代なのか、なぜGAFAが告発されなければならないのか。なぜコロナ禍によって雇用が崩壊しつつあるのか、その理由が私のザル頭にもおぼろげに分かった気がする。

 

 人類の未来は、欲望の資本主義によって、あまり明るくないらしい予感がする。いま読みかけている『サピエンス全史』とも関連させて考えてみたい。

 いま売買されている欲望とは、幻想であり、妄想ではないのか。夢から覚めたら札束は紙切れに変わる、という話もあるが、今はその札束すらなくて、電気信号であるデジタル情報のみしか存在しない。

2021年1月 2日 (土)

北に思いをいたす

 下北半島の恐山の奥に、薬研温泉がある。そこの薬研荘という温泉宿から今年も年賀状をいただいた。名古屋から北東北は遠いけれど、私の心は北へ飛ぶ。下北半島は風景も格別で、恐山のこの世とあの世との境を覗くような景色、仏ヶ浦の絶景、大間から目の前に見る北海道など、スケールが大きい。

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 薬研温泉の宿の食事は、女将が自ら市場から仕入れた魚や、山で採った山菜などを心づくしで作ってくれたもので、大変美味しい。部屋は質素だけれど、手入れが行き届いていて気持ちが良い。時間と懐が許せばしばらく逗留したいところだ。

Dsc_0767奥薬研温泉にいる河童

 いまごろは雪の中だろうなあ。そんな雪の中で読書三昧、温泉三昧できたらどんなにしあわせだろうなあ、と年賀状を眺めながら、すぐにでも行きたい気持ちになっている。個人的な事情もあるけれど、それが一段落して、コロナ禍がおさまったら、必ず行こうと心に決めた。

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 私の夢は、東北を走り回ったあと、大間からフェリーで津軽海峡に渡り、北海道を一月くらいかけてぐるりと回ることだ。

Dsc_0787向こうは北海道

関係改善に苦慮?

 韓国の文在寅政権が日本との関係改善を図ろうとしているのだそうだ。なにをいまさらという気がしないではないが、関係悪化は日本から仕掛けたことではないし、望んだことでもない。関係悪化の原因が取り除かれれば日本は関係改善を受け入れることに反対しないだろう。日本人は感情的な不快感をすぐ忘れる国民だから、そういう点では付き合いやすい国といっていい。

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 ところが文在寅政権は日本との関係改善を進めようとすると、国民の反発が大きくなって政権運営が危うくなるおそれがあり、苦慮しているのだそうだ。それはそうだろうなと思う。

 

 日本を悪の権化のように国民にあおり立て、日本との関係悪化の原因を作って政権の支持に利用するのが韓国の歴代政権の常套手段ではあったけれど、そもそもが無理筋なところのある手段だから、朴槿恵政権は最後には日本と融和的な方向に舵を切ったりした。慰安婦合意はその象徴で、国民の反発を恐れず、英断だったと思う。

 

 文在寅政権は朴槿恵を弾劾することで正義の味方として誕生した。国民はそれに喝采した。朴槿恵のしたことは全て悪だと叫んで支持を集めて、せっかく結んだ慰安婦合意を反故にして見せた。あろうことか過去に遡って日本との約束を反故にすることが正義だと国民に思い込ませ、国を挙げて日本製品不買運動まで行った。

 

 日本との関係改善をするためには、少なくともせめて朴槿恵政権の結んだ慰安婦合意の時点の日韓関係程度にに戻さなければならないと思うけれど、ここまで悪化してしまってそれが可能なのだろうか。

 

 日本が考える日韓関係改善と韓国の考える関係改善はたぶんまったく違うのだろう。昨年末以来の韓国から日本へのさまざまな働きかけは、現在の最悪ともいえる状況を日本が受け入れることを要請するものばかりであるようだ。

 

 それでは日本が受け入れるはずもなく、関係はまったく改善しないことに韓国はようやく気がつきだしたのだろう。しかし日本を悪の権化だと言い立てて国民をあおってきた手前、「国民に、日本に譲歩したと見られるのは困る」とはあまりに身勝手というものである。自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないのは世のならいというものだ。

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 ところでそこまでして関係改善をしなければならないとしたら、韓国にはよほど経済的、外交的に問題があるのかも知れない。理由がないはずがあろうか。

2021年1月 1日 (金)

ゆったり酩酊

 年越しまで起きていて、テレビで新年の挨拶を観てから爆睡。ゆっくりと朝寝をしてから起床した。本日は朝から酒が飲める。おせちというほどのものではないけれど、年賀のつまみを準備し、まず息子の送ってくれた「幻」を飲む。三分の一ほど飲んで、もったいないので「菊姫」に替える。癖のある酒なので、味の濃いつまみに替える。前夜から仕込んでおいたモツの煮込みが最も合う。

 

 陶然とした心持ちになったころ、広島の息子夫婦から電話をもらう。交代で年賀の挨拶をする。二人の明るい声を聞いているだけで仲良くやっていることが分かる。

 

 コロナ禍がおさまったら夫婦で必ず行きますから、と嬉しいことを言ってくれる。

 

 日本酒がちょっとくどく感じられたので、ビールで口を洗い、白ワインを飲む。飲み過ぎないところで(すでにかなり飲んでいるが)一息入れて、映画を二本ほど鑑賞した。トム・クルーズ主演の『宇宙戦争』とシルベスター・スタローン出演の『バック・トレース』という映画だ。この『宇宙戦争』は二回目だが、最初に観たときよりは小品だなあという気がしたものの、記憶に残った印象より悪くない。先日来、同名のイギリスのドラマを観たり、1953年に作られた映画を観たりしたところで、比較すればリアリティがあるから悪くない映画だと思えたのだろう。

明けましておめでとうございます

Photo_20201231224201正月はいつもこんな感じ

 夜が明けて新しい一日が始まるだけなのですが、なにかが革(あらた)まるということは、そこに希望があるということでもあります。

 

 それを期待して新しい年を言祝(ことほ)ぎましょう。

 

 昨晩はいささか飲み過ぎて人恋しくなり、兄貴分の人に長電話しました。やさしく付き合ってくれて本当にありがたいことでした。会いたいけれど互いに持病持ち、よほどほとぼりが冷めなければ会えません。

 

 今年は好きな人に会えるようになりたいものです。

 

 今日は朝からお酒をしみじみと、そしてじっくりと味わうつもりです。

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