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2021年2月17日 (水)

校正

 高校時代、新聞部に頼まれて二年ほど校正の助っ人をした(別の部にいたので新聞部には所属していない)。地方新聞の会社に行って、専門の校正の人から簡単にレクチャーを受けた。いまはすっかり忘れたけれど、校正は何度もやったので当時はそこそこ出来たつもりだ。校正は二人で行う。一人ではどうしても見逃しが生ずる。

 

 そのときに送り仮名のルールをはじめ、なんとなく釈然としないものを感じた。当時、ずいぶんいろいろな小説などを読んでいたので、その文章と決められた送り仮名などのルールの違いに疑問を感じた。もちろん国語審議会のルールを遵守している校正の方に不自然なものを感じたのだ。そんなことを思い出したのは、丸谷才一の日本語論や国語審議会批判についての本をいま読んでいるからだ。

 

 戦後、進駐軍に日本語を全てローマ字化することを提言した日本人の専門家がいる。進駐軍はそれに賛同した。甚だしきは日本語そのものをやめてフランス語にしたらいい、などと言う作家もいた。私の敬愛する志賀直哉である。志賀直哉はフランス語は読めたらしいけれど、そこまでフランス語に堪能だったとは思えないから、どうしてこんなことを言ったのか理解に苦しむが、戦後はそんな暴論が飛び交う時代だったようだ。漢字をやめてハングルのみにした韓国のように、過去の自国の文書が専門家しか読めなくなることの意味を想像できなかったのだろう。それとも全否定するほど過去の日本に嫌気がさしていたのか。言葉を失うことはどういうことか、ドーテの『最後の授業』というフランスの短い小説(教科書で読んだ記憶がある)を思い出すではないか。

 

 その妥協的展開としての戦後の新漢字への転換や教育漢字や当用漢字による漢字制限などの政策であるし、新仮名遣いへの転換だったようだ。その後新仮名遣いや送り仮名についてはコロコロと変遷が続いて、校正の専門家を振り回してきた。私が小学校で習った送り仮名と現在とは違ってきている。私はどっちでもいいや、といういい加減派だけれど、御上(おかみ)にいつも刃向かうかに見えるマスコミも、この日本語の使用基準についてだけは、お役所に従順に従うことは借りてきた猫のよう(もともとそれが本質なのだろう)で、独自性のないことおびただしい。

 

 そうしているうちに、日本語は次第に崩れつつあるなあ、と感じている。言葉から意味が引き剥がされつつある。そんな世の中がおかしいと感じていたところなので、丸谷才一に火がつけられて、日本語について、そして国語教育について考えさせられている。

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