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2021年5月

2021年5月31日 (月)

選挙が心配

 若者や専業主婦の多くは現実世界の経済社会と直面したり身を置いたりした経験が少ないので、リアリズムを欠いていると誰かがテレビで言っていた。差別発言だと噛みつかれそうだけれど、私もその指摘は正しいと思う。リアリズムを欠いていると私が感じる人は、マスコミや芸能人にも多くみられる。そしてリアリズムを欠いている若者や働いていない女性たちはそのマスコミや芸能人の言うことに影響されやすい。バラエティニュースの番組で、リアリティを欠いた人間がとくとくとコメントを述べているのをみているとうんざりするので、このごろはほとんどそういう番組を観ない。

 

 そういう人たちが選挙の浮動票の多くを構成している。そういうふわふわとした人たち(by三浦瑠麗)が、枝野氏や蓮舫氏の言葉に耳を傾けているのではないか。そうして、あっては困るけれど、ふたたび野党が選挙で勝利する可能性が生じてきたりする。野党やマスコミは権力を批判するのが正義だと思っているし、ある意味でそれは正しいことであるが、新型コロナウイルス対策の不備を批判するのはとうぜんとしても、あたかも政府が新型ウイルスをまき散らしているかのような、誤解を招きそうな物言いをしているようにも聞こえたりする。

 

 今のところ浮動票は政府批判はしているけれど、野党の支持率の上昇にはつながっていないらしいが、いざ選挙となったらどうなるかわからない。だからこそ、菅首相にはもっと明快な国民に対するアピールが求められるのだが、相変わらず役人の作った文章を棒読みしているだけの会見の繰り返しである。さすがに私も誰か代わりはいないのかと思い始めている。あの枝野氏すら引きずり下ろせない野党にはまったく期待していないから、もちろん自民党内からの話であるが。

孤独のグルメ

 私は味音痴ではないけれど、たいていのものは美味しいと感じる。ふだんはまったく外食はせず、自炊に徹している。外に出ればもちろん食事処で食事する。日常の二食分、三食分の料金を払うことになるのであるから店を選ぶけれど、当たりもあれば外れもあって、それはそれで旅の思い出である。

 

 民放BSの『孤独のグルメ』を以前から楽しみに観ている。むかしは深夜だったのが、最近は日曜の夕方に放映しているから、欠かさず観る。松重豊の、ものを美味しそうに、そして嬉しそうに食べる姿に、こちらも共感して観る。昨夕も福島の「笹の川」の原酒を飲みながら、十日町も好いなあ、などと思いながら観ていた。

 

 最初に書いたように、私は味覚についてはそれほど自信がないけれど、食べたものに思い出が接着して美味の記憶が残されている。友人たちに、いかにもこの世の最高の美味しかったものの話をすると、けっこう皆が垂涎の顔をする。私には絶対味覚はないけれど、記憶にある美味しいものについては一晩中語るだけの蓄積があるのだ。

 

『孤独のグルメ』を観ていて感じるのは、もっと旅先の食事にこだわっても好いかな、という気持ちである。べつに高級なところに入るつもりはない。あたりまえのところで、その店がそれなりに客が喜ぶだろうと思う、少しリキが入っていて、ちょっとだけ値段が張る食べ物を食べるようにしようかな、ということである。

 

 旅の楽しみが少し増えるかも知れない。

2021年5月30日 (日)

行きたいところ

 自分のコロナワクチン接種が済み、世の中が少し落ち着いたら、そしてなにより注文してある新車が納車されたら、どこに行こうか考えている。

 

 鳴子温泉でゆっくり一週間くらい湯治するのも好いなあ。鳴子にはいろいろ温泉があって、一番東には川渡(かわたび)温泉、藤島旅館に泊まってもいいし、食事を楽しむなら越後屋旅館か。ただし越後屋は一人だと泊めてくれるときと断られるときがある。安くあげたいなら東五郎の湯か。川渡と東鳴子温泉の間の一軒宿、中鉢もゆっくり湯治が出来る(いまは休館中らしい)。東鳴子温泉ならいさぜん旅館か。おじいちゃんおばあちゃんたちと自炊を楽しめる(自分だっておじいちゃんだが)。

 

 ちょっとぜいたくしたいなら鳴子温泉の源造の湯(鳴子観光ホテル)が好い。食事も料理も仲居さんも好い。泉質をいうなら、峠を登って鳴子峡の先の中山平温泉もいいなあ。なかやま山荘かやすらぎ荘か。

 

 少し足を伸ばして岩手県なら、花巻温泉に行きたい。台温泉の松田屋旅館か観光荘か。もっと北上してマタギの里・阿仁のの打当温泉、もっと北上して下北半島の薬研温泉。ここなら薬研荘だ。

 

 能登にも行きたい。軍艦島(見附島)の前の能登路荘なら良い雰囲気で酒が飲める。思い切って西に走るのもいい。久しぶりに津和野に行きたい。津和野で夜ふらふらと飲みに出るつもりなら、駅前のビジネスホテルを拠点にすれば、安上がりについて酒代に回せる。

 

 広島の息子に会いに行きたいが、そのあと九州の日田をゆっくり歩きたいと思っている。葉室麟が日田を舞台にした小説を書いていて、日田をそういう眼で眺め直してみたいのだ。泊まったことがないから、宿は成り行きだ。

 

 ほかにも山陰にもいろいろ行きたいところがあって、宿からお誘いのメールがたくさん来ている。地図を眺めているだけでわくわくしてくる。行けないからこそ行きたい気持ちがつのる。

ベランダにて

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幼稚園の取り壊しは終わりに近づいている。今日は日曜日だから、工事は休みで、とても静かだ。

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パセリは小さなジャングルに。バジルはもうつまんでも大丈夫な大きさになってきた。奥の鉢は新しく種を蒔いたバジル。もう少し大きくなったら一本だけにする。右にニラの鉢があるが、料理に使ってほとんど刈り込んでしまったので、液肥をやって新しい葉が伸びるのを待っている。

ニラとバジルとパセリ

 少し大きめの鉢にニラとバジルとパセリを植えてある。バジルだけは今年春に新しく種を蒔いたもので、パセリとニラは去年のものが、春にふたたび芽吹いて繁茂している。液肥をときどき加えてこまめに水をやるので、みな元気が良い。野菜スープやスパゲティの時にはパセリを多めに刻んで野菜代わりに食べる。ニラはすまし汁に入れて一煮立ちさせ、そこに卵を溶いて加えて食す。バジルは食べ方がよくわからないので、生野菜サラダにスパイスとして加えて食す。今度、野菜スープに入れてみようと思っている。

 

 どれも香草と言っていいだろう。水をやらないとたちまち萎えてしまう。いつもならこの時期は一週間程度の遠出をなんどもするので、折角の香草をだめにしてしまうのだが、今年は何しろずっと家にいるから手入れはキチンと出来ている。紫蘇も蒔いておけばよかったなあ、と思うが、まあ三種類で十分である。

 

 いまバケツ式の小さなコンポストをベランダに置き、生ゴミを発酵させている。EM菌の入った粉末をネットで購入し、それと混ぜておいた。うっかり食べ忘れていた豆腐(期限切れ一週間以上だとさすがに食べるのがためらわれる)だのお茶がらだのコーヒーがらだのバナナの皮などがほどよくこなれてきたので、腐葉土とかき混ぜて寝かせてある。すでにバケツに七分目ほどあるので、もう追加する必要はないだろう。半年もしたら香草類もシーズンが終わっている。鉢の土に混ぜたら好い肥料になるだろうなあ、と楽しみにしている。

 

 土いじりになど興味があまりなかったのに、こんなことをこまめにやるようになったのは、やはり年のせいかと思う。

2021年5月29日 (土)

電気温水器

 マンションなので、深夜電力用の電気温水器を使用している。七年前に新しい温水器に入れ替えた。二年に一度タンクの洗浄をしてもらう。タンクにはその履歴がメモされていて、今年は洗浄の年ではない。そう思っていたら、メンテナンス会社から電話があり、フィルターの交換を勧められた。五年から七年に一度交換する必要があり、我が家の温水器は七年経ったところなので、替えたほうがいいというのである。

 

 長持ちさせるには、こういうことはケチらないほうがいいと考えたのでお願いした。来週初めに、住んでいるマンションで何軒か掃除やフィルターの交換作業をする予定だそうだ。こういう時期だから、あまり人の出入りは歓迎しないが、濃厚接触する訳でもないので仕方がないだろう。いささかの出費も必要であるが、払えない金ではない。だんだん出費に頓着しないようになってきた。たぶん新車を購入することを決断したことで、箍(たが)が少し緩んでいる気はするが、まあなんとか生活に支障なく暮らせているのでよしとする。足りなくなれば、使わないだけのことである。

闇行灯(やみあんどん)

 行灯のあかりは優しい。だからいまでも需要があるらしい。本来はろうそくや油脂を燃やすから、行灯による油煙で部屋、特に天井が汚れてしまうのが難である。たぶん火災も考慮して、いまはLEDの灯りが主流だろう。和紙を通しての光だから優しく感じられるものと思う。

 

 ところで昼行灯という言葉がある。有名なところでは、大石内蔵助が昼行灯と揶揄されていた。行灯は夜使うもので、昼間の行灯はつけても役に立たない。無用のもの、というほどの意味である。しかしそう評されていた大石内蔵助は大事を成し遂げた。昼間でもピカピカする人間より、存在感がなさそうな人間の中に人物がいるということはしばしばあることで、だから昼行灯の意味も少し深く取られるようになった気がする。

 

 菅総理大臣の発信力のなさにもどかしさを感じている国民は多いだろう。無能なのに総理大臣になったとは日本人として思いたくないから、彼は実は昼行灯であって欲しいとひそかに願っている。

 

 ところで闇行灯という言葉をネットで調べたけれど、私の思っているような意味でのものは見当たらなかった。たぶん誰かのSF小説で読んだのだと思う。小松左京か筒井康隆あたりだろうか。闇行灯をつけると、その周辺が暗くなるという不思議な代物である。現実には存在しない。

 

 その人がいると周りがなんとなく暗い雰囲気になる、という人間ならいそうである。菅総理が昼行灯どころか闇行灯だったりしないことを願う。

2021年5月28日 (金)

忍耐力訓練中

 ゴールデンウイーク明けから始まったマンション隣の幼稚園建物の撤去工事が三週間たってもまだ続いている。建物そのものは十日足らずでほとんど破却したのだが、基礎のコンクリートの撤去が思いのほか長く続いている。日曜日以外、朝九時前から夕方五時過ぎまで、ドカンドカンという音がマンションとマンションの間で反響し続けている。コンクリートの鉄筋を分けるために、砕く音が特にうるさいのだ。

 

 いまは、雨の日を除いては気温も快適で、窓を開け放していると気持ちが好い時期である。しかし窓を開ければ騒音に耐えなければならない。音というのは、気になり出すとどんどん不快感が増幅する。昼頃と三時過ぎの三十分ほどは休憩のために音が止まる。その時間は際立って静かさが感じられる。いっそ真夏や真冬なら、窓を閉め切っているから、だいぶマシかも知れない。

 

 反対側のスーパーの建物の横の小さなアーケードになったところの工事も十日ほど前から始まり、こちらもドリル音が鳴り響いている。二日か三日ならどうということはないが、三週間以上も騒音の中にいると、次第にいらだってくる。忍耐力を試されているかのようだ。いま私は忍耐力を訓練中である。不思議なことに、訓練すればするほど忍耐力というのは低下する。

ステップ

『ステップ』(2020年・日本)という映画を観た。妻が幼い娘を残して急死、その娘を男手一人で育てていく、いわゆるシングルファーザーの物語。父親役を山田孝之が演じている。

 

 仕事をしながらも、子育てを優先したその生活は、現実にその事態に直面しないとわからないことだらけだ。母親を亡くした娘の気持ちがわかっているつもりでも、娘の内面は父親には見えない。父親も妻を喪ったかなしみを抱えているのだ。幼児の時代、小学生低学年の時代、高学年から中学に入学するまでの時代を三人の子役が演じているが、その自然な演技が素晴らしくて感情移入してしまった。

 

 父娘に関わる人びとにもそれぞれの人生がある。互いを思いやりながら自分の人生を真面目に生きている。父親の新しく伴侶としたい女性との出会いから、娘がそれを受け入れるまでの長い葛藤が物語のクライマックスである。娘がついに自立したと実感できたとき、父は自分の役割が一段落したことを知る。

 

 山田孝之が若い男であった時代から中年の男までを別人のように演じ分けていて、この俳優は本物だなあと感心した。私も同様に、娘が小学生低学年からのシングルファーザーだったので、思うことが多かった。父親が言うのも何だが、この物語とは違ってよく出来たクールな息子もいて、ずいぶん助けてもらった。

 

 私がこの映画を観ながら主に考えていたのは、父親の気持ちではなく、娘の気持ちである。父親には娘の気持ちはあまりよくわからない。そのわからないことによる試行錯誤は本当に悩ましく苦しいものなのだ。そういう意味でこの映画は私にとって特別の映画だった。

 

 父親の気持ちは考えるまでもなくわかっている。

2021年5月27日 (木)

お見通し

 国会議員が優先的に新型コロナウイルスを接種することについて、立憲民主党などが反対して中止になった。議決であるから仕方がないが、反対の理由が、国会議員は一般国民と同等だから優先的な接種は不平等になる、ということらしい。では年寄りが優先的に接種するのは不平等ではないのか。医療従事者が優先的に接種するのは不平等ではないのか。なに、本音は一部国民から必ず寄せられる批判が恐ろしいだけだろう。ほとんどの国民は、べつに国会議員が優先接種したからといってそれほど目くじらを立てない。マスコミと一部正義の味方が騒ぐくらいのもので、それが大衆の意見だと勘違いしているから怯えているだけだ。

 

 地方自治体の長や公的に働く人たちは、これによって優先的に接種することをためらうことになるだろう。多くの人に会って仕事をしなければならない人たちの優先接種が封じられることになる。そもそも必要な人には優先接種すればいいのである。少し待てばだれでも接種されるだろうことは解っているのだ。たぶん国会議員はなにも仕事をしていないし、公的な奉仕はまったくしていないから、優先的に接種の必要がない、と国会の決議により明らかにしたようなものだ。

 

日本がワクチン大国からワクチン後進国になった最大の原因は、明らかである。21世紀に入って、SARSやMARSという恐ろしい感染症が発生した。それに対し世界中が素早く手を打って感染拡大を食い止めたが、そのあと各国は感染症の恐ろしさを認識してそれぞれ対策を講じた。だから今回遅ればせながら、先進国ではその教訓と対策の準備が活かされたのだ。日本では麻生総理大臣のときで、ワクチン開発その他感染症対策のための予算と体制を構築することに決めた。

 

 そのあと、民主党政権になったとき、あの蓮舫議員を代表とする事業仕分けチームが何をしたか。このワクチン対策の予算と体制をバッサリと切り捨ててしまったのだ。無駄なことだ、という断定である。感染症など蔓延してから考えればいいと考えたのだろう。そのツケで日本国が現在、そしてこれから支払っている金は、彼女が事業仕分けで生み出した数百億だか数千億だかの何十倍、何百倍になるだろう。その上国民がたくさん死ぬことになった。

 

 それを忘れて(忘れたふりをして)政府の新型コロナ対策を非難する厚顔さには怒りを感じないではいられない。感染症が蔓延したら政府を批判し、政権を倒せる好機だと考えているのが見え見えである。だれが国民のことを考えているのか。国民が不幸であるほど点数を取ったと内心で考えているのではないか。

 

 オリンピック開催も反対だそうである。盛んにそのことを強調している。オリンピックが開催され、何か起こったときこそ、「それ見たことか。われわれが危惧したとおりだ」と言いたいためのアドバルーンのように私には思える。災厄を期待している下心が透けて見える。そんなもの、まともな国民ならお見通しだ。

男女の幽霊

 『茶話』(薄田泣菫)から一つ引用する。旧仮名遣いをそのまま移すのは変換が面倒なので、少し直した。

 

『男女の幽霊』

 

 ある男が寺へ泊まったことがあった。夜が更けて眼が覚めてみると、誰だか障子の外でひそひそ話をしているのが聞こえる。気になるものだから、起き上がって窓から見ると、あかるい月明かりの下に男と女が立っている。男は二十四五の、くたびれたような顔、女は六十ばかりのしわくちゃな婆さんで、話の模様でみると、親子というような調子があつた。
 男は幽霊かしらとは思ったが、それにしても二人の年齢(とし)が一向合点がいかないので、そのまま夜明けを待った。東が白んでから、二人が立っていた附近(あたり)へいってみると、小さな合葬の墓があって無縁になっている。訊いてみると、墓の主人(あるじ)はだいぶ以前二十四五で亡くなり、その女房は久しく生き延びて、洗濯婆となって暮らしを立てていたが、二三年前に六十いくつかで死んだのでここに合葬したのだそうだ。
 それを聞いた寺の住職は、
「無縁だし、おまけに月がよいので、二人とも遊びに出たのでしょう」
と言っていたが、二人ともちょうどなくなった年齢(とし)相応の姿をしていたのには笑わずにはいられなかった。
 男にせよ、女せよ、連れ添いに死に別れてから、四十年も生き延びていると、いろいろと利益(ため)になることを覚えるものだ。洗濯婆さんだって六十までもながらえているうちには大英百科全書にもないような知識も得たに相違ない。そういう知識から見れば、二十四五で死んだ亭主はまるで子供のようで食い足りなかったろうと思われる。
 それを思うと、情死(しんじゅう)する場合のほかは、相手に二世の約束だけはしない方がよい。多くの場合、女は男よりも長生きをするものだが、来世でしわくちゃな女の顔を見るのは、男にとって胃の薬を飲むよりつらいものだ。だが、それよりもつらいのは、いろんなことを知った女が、うぶで無垢な昔なじみの男に出会ったときのことで、女はそんなときには、決まったように頭の地を掻き掻き、その後なじみになった男の数を懐中(ふところ)で数えながら、
「もう何時でしょうね」
と時間を訊きたがるものなのだ。よく言っておくが、女が時計の針を気にするのは、たいてい逃げ出したいときに限る。

 

 そういえば私も女性に時間を訊かれたことが何度かある。

2021年5月26日 (水)

ほんもの

 むかし、わたしの高校生時代の同級生に高柳君という男がいた。当時は世界激動の時代、まさに1968年前後だったから、学生運動が盛んだったし、高校生でも政治的な意見交換はよく行われていた。高柳君はゆっくりしゃべる。自分の言っていることを確認しながら、自分の考えたことを訥々としゃべる。みなせっかちだったから、彼の話はまだるっこしくてきちんと聞くひとがいない。

 

 あるとき、とつぜん私は彼の話に強いインパクトを受けた。声高に語っている級友たちの言葉は、どこかに書かれていたり、テレビで言っていることのオウム返しだったけれど、高柳君は自分の頭でいちから考えたことを伝えようとしていたのだ。言っていることは同じでもその言葉には重みがあり、ほんものだと思った。

 

 もともと私は本ばかり読んでいて、あまり友達もいなかったけれど、高柳君とはそれ以来親しくなった。彼の父親は読書家らしく、いろいろな作家の全集が家にそろっていて、それらをずいぶん貸してもらった。とくによく覚えているのは井上靖の全集を読んだことだ。

 

 彼の言葉に耳を傾け、私の考えたことを彼に伝えることはそこそこ楽しいことだった。世の中には言葉が通じるひとがいるのだと嬉しかった。私は大学が山形だったので、彼とはしばらく年賀状の往来を続けたあと、それきり疎遠になってしまったけれど、ほんものの言葉を語る人は、案外陰に隠れて見えないものだということを教えてもらった恩は忘れがたい。いまだに彼のように語れないで、受け売りばかりの自分がいる。

平衡感覚

 加齢によるものだろうと思うが、平衡感覚が衰えている。明るいところでは視覚を頼りに出来るが、暗いところだとたちまち足元があやしくなる。それに加えて筋力の衰えから踏ん張りがきかなくなっていて、よろけることになる。無意識に出来ていたことを、意識して行うようにしないと思わぬ危険を招く。

 

 両親の晩年を見ていると、もったいないという気持ちがエスカレートしていって、どんどん吝嗇になっていったのを思い出す。水道の水も極力使用を減らし、使ったラップをふたたびみたび使う。電気器具の待機状態の小さな赤いライトが気になって仕方がないらしく、コンセントから抜いてしまう。無駄に灯りがついているのを嫌ってこまめに消すのは好いのだが、必要な灯りさえつけないでいたりする。

 

 父が二階に寝ていたので、階段の上り下りが危ないから下で寝るようにいったけれど、聞かなかった。夜中にトイレに行くのに階段の灯りをつけずに降りて、段を踏み外して怪我をした。それが寝たきりにつながらなかったのは本人にも家族にもさいわいだった。

 

 無駄に灯りを煌々とさせるのはエネルギーの無駄遣いだが、視覚を頼りの平衡感覚には灯りが必要だと承知しながら、夜中の暗闇の中、トイレに立ったりする。

 

 そういえば、「暗いと不平を言う前に、すすんで灯りをつけましょう」という言葉があったなあ。いまもすすんで暗い世の中に灯りをつけようという人がたくさんいてくれるようだ。ありがたいことである。暗いと平衡感覚を失うのに、すすんで暗くする人たちもいるけれど・・・。

2021年5月25日 (火)

基準

 日本に伝えられる記事ばかりだからたしかではないが、韓国は自国についてさまざまなことを日本との比較で評価しているようである。つまり韓国にとっては日本は評価の基準、座標軸になっているかのようである。

 

 日本でも韓国のことが多少気になることはあるけれど、そこまでのことはないけれどね。少なくとも基準ではないと思う。気になる、ということは、好きだ、という場合が多いけれど、どうなのか。

 

 昼頃から、少し前にWOWOWで放映されたアメリカのスパイドラマ『コンドル2』(全十話)を観始めたらやめられなくなった。ブログをゆっくり書く余裕がない。

塩湖を造る

 若いときから夢想していることで、大分前に一度ブログに書いたことであるが、時代とともにさらに必要性が増しているように思うのであらためて書いておく。

 

 人類が何をしても地球がそれを浄化して再生してきたが、その浪費量が再生能力を超えてしまったことに、ようやく人類も気がつき始めた。いま最も大きな問題は、温暖化、エネルギー問題、水(真水)の問題だろう。その解決法の一つとして、考えたことである。

 

 アフリカや南米などで、海に接したところに巨大な砂漠のあるところがある。海水をくみ上げ、砂漠に放水することで巨大な塩湖を造るというアイデアである。砂漠は降水量が少なく、直射日光がふんだんにある。その太陽エネルギーを利用して海水の気化をする。

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 問題点は海水をくみ上げて砂漠へ送るパイプの問題と、くみ上げて輸送するためのネルギーの問題である。パイプの耐久性とその内部に配管詰まりをおこす塩分の蓄積である。塩分は金属類を痛めるから、管内に塩類が蓄積しにくくて、太陽光に耐久性のある配管の研究が必要だろう。そういう強化プラスチックを大量生産することは可能なはずだ。温暖化対策として、原油がエネルギー源として消費されなくなることで需要が減るから、原料として利用できる。

 

 エネルギーは太陽光と風力から得る。太陽光はふんだんにあるから太陽光発電が出来る。また、海水が放出された部分は比熱が高く、砂漠との比熱差により風が吹くはずである。比熱差を意図的に造り出すことで常に一方向に風が吹く。そこで風力発電を行えば良い。気化熱により砂漠の一部は冷却される。海水面からの気化よりも効率の良い気化が可能ではないだろうか。ささやかでも温暖化対策に効果があるのではないか。

 

 さらに気化した水は真水で、それは結果的に雨となって降り注ぐ。海に降るばかりではなく、砂漠やその周辺に雨が降ることが期待できるのではないか。真水対策にも寄与することが期待できる。砂漠の緑化につながりはしないだろうか。

 

 また海水が濃縮して残された塩類の中にはさまざまな成分が含まれる。微量物質でも大量の海水からならそれなりに貴重な成分を得ることも可能になるかも知れない。少なくとも無尽蔵の塩を得ることが出来る。

 

 太陽のエネルギーを利用して地球浄化、再生のささやかな援助をするのである。採算が合う合わないではなく、問題が解決される方法としてどうだろうか。

2021年5月24日 (月)

眼鏡装着率

 東海地区はすでに梅雨入りしているけれど、二三日好天が続いた。窓を開け放して吹き抜ける風は爽やかだ。ちょうど好い陽気というのは、ぼんやりするのに最適なのだが、そういう期間は本当にわずかだ。今年は梅雨入りがとんでもなく早かった。私の記憶では、ふつうの年だとゴールデンウイークには案外雨の日が多く、そのあとになって好天が続いたりする。いつもその頃に新緑の美しい中を車で遠出する。そうして五月の終わりから六月初めに真夏並みの30℃を超える暑い日が続くと梅雨に突入する、というのがいつものパターンなのだが・・・。たまたま今年が異常ではなく、これからずっとこんな梅雨入りの仕方になるのかも知れない。

 

 新型コロナウイルスは変異種の蔓延によって新たな局面となっているようだ。雨が多ければ人流(どうも響きの悪いいやな言葉だ)も多少は抑制されるから、梅雨入りが早いのは悪いことばかりではない。変異種は感染率が高いのだという。感染率が高いというのは、いままでよりもわずかな飛沫だけからも感染するということなのだろう。

 

 マスクの種類によって、飛沫を防ぐ効果が違う、などという報道も見た。たまたま思いついたことなのだが、飛沫は口や鼻を通して浸入するというけれど、眼からも侵入するのではないかと思う。眼も身体の外部に露出している粘膜部分である。そこに飛沫がかかれば感染場所になるはずだ。

 

 クラスターなどの集団感染のケースで、感染した人としない人がいたりする。その場合の眼鏡装着率などを調べたら、有意差がありはしないか。完全防護の医療従事者は、たいてい眼も防御しているではないか。伊達眼鏡で感染率が低下するかもしれない。私はもともと眼鏡をかけるから、自動的に多少の防護をしていることになる。

いまは何もしたくない

 若いときと違ってこの歳になると、日常がルーティン化して変化が少ないことがとても心が平穏でいられる。あらたに処理しなければならないことが次々にあると、疲れてしまう。事故のあと、安静にしなければならないのに、いろいろと事故の関連で忙しく、ストレスがあったけれど、それも一段落してようやく平穏が戻ったと思っていたのだが・・・。

 

 妻の病院から先送りしていた案件について考えるように促されている。ふたたび転院か施設を探して入居するか判断しなければならないのだ。今は車がないから、あちこち走り回ることが出来ない。先延ばししたいけれど、六月半ばにはまた打ち合わせをしなければならない。それまでに病院で候補を選んでおくという。あくまで決めるのはこちらであるが、このままでいるという選択肢はないらしい。

 

 何も考えずにぼんやりすることをなかなか許してもらえないようだ。世の中のあちこちに悪意の陥穽が口があけて待っているような気がする、などというのは大げさか。どうも気が弱っているようだ。覚悟を決めて来月には再始動をしなければならないようだが、コロナワクチン接種がすまないのにあちこち動きたくないから、やはりちょっと引き延ばしをしようと思う。そうこうしているうちに覚悟もだんだん出来ることだろう。

2021年5月23日 (日)

世の中が怖い

 新型コロナウイルスの蔓延が怖い。先日追突されて下手をすると死んだかも知れなかったから事故が怖い。詐欺がどんどん巧妙化し、ネット犯罪は専門家でさえ防衛しきれない状況であることを見ると、IT犯罪も怖い。どれも自分が気をつけていれば大丈夫と言い切れないことが恐ろしい。

 

 世の中は加害者に好意的で、被害者に冷たいと言われる。そういう話を繰り返し聞かされていると、自分がそういう禍に出逢わないのは、たまたま運がいいだけらしいと思わざるを得ない。自分だけではない。自分の大事な人たちすべてがそういう禍に出逢わないでいて欲しいと思うけれど、不安である。事故の後遺症で精神力が低下しているらしい。

 

 少年犯罪で明らかに異常性向の持ち主であることがわかっていて、再犯率が高い、と認定されていても、ある年齢に達すると一般社会にふつうに解き放たれているという。そういう人間がふたたび凶悪で異常な犯罪を犯したとき、その責任はだれにあるのだろうか。

 

 アメリカなどでは、再犯の可能性が高い場合にはずっと拘禁を続けたり、GPSをつけてその行動を監視したりするという。それを日本ではマスコミなどが人権侵害だと騒ぎ立てる。そういう人権主義者は、異常者が犯罪を犯したときには知らん顔をする。再犯の可能性の高い異常者は、自分が犯罪を犯すことを自制できないという。犯罪を犯せば制裁を受けることを承知していても止められないという。

 

 それならアメリカ式に隔離する、または行動を監視する、というのは、被害者を出さないためにも、そして同時に異常者のためにもなる話であって、人権侵害を言い立てる人間は異常者を犯罪に向かわせているということにならないか。

 

 せめて止められる禍なら止めるようにして欲しい、とただ願うばかりなのだが、人権主義者という名前の正義の味方は、ときに異常犯罪者の片棒を担いでいるように私には見えてしまう。

苜蓿(うまごやし)

 薄田泣菫(すすきだきゅうきん 1877-1945 詩人、随筆家)の『完本 茶話』(全三巻 富山房百科文庫)をぽつりぽつりと読み継いでいる。大正時代に新聞に連載されていた『茶話』という名のコラムは、戦前、本として出版されたが、戦後、谷沢永一などが、もとの新聞掲載時のものを集めて編集し直してあらためて出版したのがこの『完本 茶話』である。ほぼ旧漢字旧仮名遣いなので、書かれた当時の雰囲気を楽しめる。

 

 1983~4に出版されたこの全三冊を一度飛ばし読み、かつ斜め読みしたことはあるけれど、今回は一篇一篇を味わいながら読んでいる。一篇が一ページ前後と短い中に、エスプリと皮肉がたっぷりこめられていて、楽しいのだけれど、三分の一は意味が十分理解できなかったりして口惜しい。谷沢永一や山本夏彦の作家や政治家の裏話のネタはこの辺に一端を負っているような気もする。

 

 せっかくだから一つだけわかりやすそうなものを引用する。

 

苜蓿(うまごやし)
 北欧のある詩人は、外へ出かける時には、いつも両方のポケットに草花の種子(たね)を一杯詰め込んで、根の下りさうな土地を見かけると所構はず何処へでもふり撒いたさうだ。
 京都の御所を通った事のあるものは、所嫌はず西洋種の苜蓿が一面に生え繁つて、女子供が皇宮警手(くわうきゆうけいしゆ)の眼に見つからないやうに、そのなかに蹲踞(しやが)んで珍しい四つ葉を探してゐるのを見かけるだらう。
 この苜蓿は丹羽圭介氏が明治の初年欧羅巴に往った時、牧草としてこんな好い草はないといふ事を聞いて、その種子をしこたま買ひ込んで帰つたことがあった。さて日本に着いてみると、牛どころかまだ人間の始末もついてゐない頃なので、欧羅巴で考へたのとは大分見当が違つた。
 さうかといつて、苜蓿を京都人に食べさせる訳にも往かなかつたので(京都人は色が白くなるとさへ言つたら、どんな草でも喜んで食べる)丹羽氏は折角の種子を、みんな其辺(そこら)へぶち撒けてしまつた。
 それが次から次へと蔓(はびこ)つて、いまでは御苑の植込は言ふに及ばず、京都一帯にどこの空き地にも苜蓿の生へてない土地(ところ)は見られないやうになつてしまつた。
 苜蓿によく似た葉で、淡紅(うすあか)色の可愛らしい花をもつ花酢漿(はなかたばみ)も京都にはよく見かける。この花の原産地は阿弗利加(あふりか)の喜望峰だといふ事だが、あれなぞも何処かの男が禅坊主にでも食べさす積りで持つて来たものかも知れない。禅坊主は家畜の食べるものなら何でも口にする。唯一つ貘の食べる「夢」を知らないばかりさ。
「夢」は彼らにとつてあまりに上品すぎる。

 

 まあこんなもんです。私でも分からないところのないものを選んでみたが、こんな話が上下二段組で何百も納められていて、けっこう読みでがある。

2021年5月22日 (土)

置いてきぼり

 いつも拝見しているケロさんのブログに、ケロさんがご両親のワクチン接種予約をお手伝いしたことが書かれていた。同様の話は再三見聞きしている。

 

 私の両親はすでにいないけれど、もし存命ならどうしただろうかと思った。父はテレビのリモコンですらボタンが多すぎる、といって手を出さないくらいだし、それを笑っていた母も、晩年は携帯を持たせようとしても「無理!」と言い張ってついに手にしなかった。

 

 孫やひ孫に会うのを楽しみにしていた両親だから、ワクチン接種は受けたいと思うだろう。だから電話で予約しようとするだろう。何度電話してもつながらなければ、あきらめてしまうかも知れない。

 

 もちろん弟夫婦が同居して面倒を見ていたから、彼らがネット予約してくれたはずで、これは二人だけで暮らしていたら、という仮定の話である。しかし世の中にはそういう老人夫婦や独り暮らしの老人が山のようにいる。その中には難なくネット予約のできるひともいるだろうけれど、いわゆるネット難民というしかないひともいる。

 

 必要なら苦手なことも克服して習得するものであるが、高齢になるとそのような、壁を乗り越えることが出来なくなる。ビデオでも使いこなして予約録画が出来た母が、携帯すら触れなくなった。私だって、いまスマホで出来ることのほんの一部しか使いこなすことが出来ず、あらたなことを覚えようという気がなくなっている。世の中の変化が大きすぎてしかも早すぎて、ついて行けない人たちの中に自分も入りつつあるなあ、などと思っている。私は読むものもそうだけれど、新しいものを受け付けなくなり、そして過去に遡りつつある。

井波律子

 もしやと思って調べたら、井波律子が昨年亡くなっていたことを知った。

 

 中国文学者の井波律子の著作が好きで、本棚をざっと見ただけでも二十冊以上がならんでいる。もっとあるはずだ。むかし『中国人の機智 「世説新語」の世界』という本を読んで以来の付き合いだが、中央公論の出版のその本はどこかになくしてしまって、講談社学術文庫で買い直して読み直したから、それが棚にある。

 

 1944年に富山県高岡に生まれ、京都育ち、京都大学を出て同大学の助手を経たあと金沢大学の助教授となり、のち教授、1995年に国際文化研究センター教授となり、2009年にすべての公職を退官している。

 

 その井波律子が退官後に季節のうつろいと中国の風習を絡めながら自らの身辺に思いをいたした『一陽来復』(岩波書店)という随筆でも読み直して彼女を偲ぼうか。それにしても七十六歳という死は少し早すぎる。遅ればせながら冥福を祈る。

2021年5月21日 (金)

間違える

 昨日保険会社からやっと病院の整形外科の検診結果の確認問い合わせの電話があった。首はおおむね治癒したが、まだ全身打撲からの回復が万全ではないので、もう二ヶ月ほど様子を見ることになったと伝えると、先方はほっとしたような雰囲気の受け答えであった。ややこしいことが先送りになったことが嬉しいのだろうか。

 

 私が14日に検診を受けたことを知っていたはずで、私の契約している保険会社は17日には結果を尋ねてきている。ずいぶん違うことに感心してしまった。車の支払いもあるから、早く片付けたい気持ちもあるが、もうこれなら急がずじっくりいくことにした。

 

 そのあと妻の入院している病院の相談員から電話が来た。病院でワクチンの集団接種をすることに決まったので、接種券が来ていたらすぐに持って来て欲しいという。

 

 そういうわけで本日、雨の中を電車を乗り継いで病院まで行ってきた。最寄り駅からの病院への道が遠く感じた。もちろんワクチンの話だけではない。転院ないし施設への入居について、再度打ち合わせましょう、という話である。体調もあるし、心の準備もしていないので後日、ということで早々に逃げ出した。

 

 そうして帰り着いて傘をよく見たら、よく似た傘ではあるけれど、違う傘である。私の傘の方が上等で、しかも私は名札をつけてある。その名札がないのである。すぐ病院に電話を入れ、間違いをわびて、もし困っているひとがいたら、名札をムシってそれを使ってください、と申し上げる。くたびれ果てていて、もう一度往復する元気はないのである。

 

 どうもいけない。こんな間違いをする自分にちょっとガッカリする。ガッカリすることばかりだ。哀しい。

待ったなし

 ゲームに待ったは許されない。待ったをしたいときというのは、自分が打ったあとに相手が打った手が自分に不都合だからである。相手の打つ手を見たあとにやり直すのだから、交互に打つという原則を侵してしまう。ときに相手の怒りを生み、諍いを生じる。人間性まで疑われかねない。そういうわがままなことがまかり通るのは、人間関係が対等でない場合や甘えであることが多く、ゲームに持ち込むべき関係ではない。

 

 いま将棋や囲碁ではAIが活躍し、プロでも勝てなくなりつつある。プロの棋士がAIの打つ手を検討して、昔なら名人上手の手を学んだように学び取り込んで、今までになかった打ち方も見られるようになった。そういう最強ソフトと対戦したら素人はとても太刀打ちできない。必ず負けるのではおもしろくないから、遊ぶなら相手のレベルを少し落としてもらって対戦することになるのだろうが、レベルを落としてもらうとはどういうことなのだろうか。ただ深く考えない設定にするというだけでレベルは落ちるものだろうか。わざと間違うということなのだろうか。

 

 私がいつもパソコンで対戦するのは十年以上前のソフトなので、早打ちの設定だと三級クラス以下であり、パソコンを定先(常に相手が黒番)に設定しても、真剣に打てばほぼ勝つことが出来る。棋力を磨くために打つというよりも勝つ快感を楽しむために打っている。だから強いソフトをあらたに買うつもりはない(実は買ったのだけれど、あまり強いのでおもしろくなく、そうこうしているうちにどこかにしまいなくしてしまった。無意識に棄ててしまったのかも知れない)。

 

 そのソフトとの対戦でも、うっかりすることがある。肝心の所での見落としは取り返しがつかずにそのまま負けてしまうことになる。勝つ快感を楽しむはずが悔しさがつのることになる。そうして、つい待ったをしてしまう。後ろめたい気持ちになるが、パソコンは怒りもせずに平然としている。何度でも待ったを許してくれる。いつの間にか待ったが常習化する。自己嫌悪に陥って、二度と待ったはしないぞ、と心に誓うけれど、そういうときに限ってうっかり見落とししたりする。

 

 人生は待ったが効かないと思い定めているので、つまり自分が選んだ道だからとあきらめることにしているので、待ったをしないで生きてきたつもりである。今度こそ待ったをしないでパソコンと対戦するぞ、と決心するのだけれど、なかなか守れない。

2021年5月20日 (木)

空白

 NHKの衛星放送が縮小されるような話を少し前に聞いた覚えがある。

 録画する番組を選ぶために毎朝番組表を見る。一週間先の番組まで見ることが出来るので、一週間先のものを選んで予約する。ところがNHKBS-1ではBSセレクション、BSプレミアムではプレミアムセレクションという名の表示が出るものが多い。つまり何も決まっていないということで、空白と同じことである。

 

 以前は翌日を見直して、具体的な番組を確認したりしたが、なんでそんな面倒なことをさせられるのか腹が立つのと、確定したものにあまり見たいようなものがないような気がして、一週間先のものしか今は見ない。だからBSセレクション、BSプレミアムというのは私にとっては空白のままで、あとで確定した番組は存在しない番組となる。ほかの局でもないではないけれど、こんなにぞろぞろ空白があるのはNHKだけである。

 

 これでは縮小するのはとうぜんだと思わざるを得ない。やる気がないのだろうか。それにBS-1はスポーツ番組が多くて、私にはほとんど縁がない。不思議とスポーツ番組だけはすべて一週間先まで明示されている。これも腹が立つ。ドキュメントのいい番組だけは見たいのだけれど、一週間前ではたいてい空白で、そのために見逃しているものが多い気がする。

石田幹之助『長安の春』(東洋文庫)

 奥野信太郎『随筆北京』、青木正児(まさる)『江南春』とならんで、この石田幹之助の『長安の春』が私の大のお気に入りの本で、読みこなせているとはいえない浅読みではあるものの、そこに描かれた、時代を超えた過去の悠久の中国のイメージを幻視させてくれる。すべて平凡社の東洋文庫に収められている。

 

 私は石田幹之助博士の文章を通して長安(現西安)の春を歩いている。人びとは花を愛し、春を待ちかねて咲き出す花を求めて着飾って出かけていく。きらびやかさと車馬によって沸き立つ塵、その蒙曖とした空気、彼方には小雁塔、そして慈恩寺の大雁塔をはるかに望む。朝の鐘楼の鐘の音、夕の鼓楼の太鼓の響きを聞く。今はない宮城はどんな姿をしていたのだろうか。

 

 石田幹之助は東洋史学の擡頭、白鳥庫吉博士の右腕として、東洋文庫の維持拡充に尽力した。ややこしいけれど、ここでいう東洋文庫は平凡社の東洋文庫のことではなく、もともと明治時代、モリソン文庫という膨大な東洋の書籍をベースに三菱財閥の第三代総帥の岩崎久弥が出資して設立した公益法人で、現代も維持管理されている。

 

 西安には三回行った。一度は春三月に訪ねている。槐(えんじゅ)や白楊の街路樹が春の芽吹きを始めたころで美しかった。初めての中国行に選んだのが西安だった。シルクロードの起点という憧れもあった。その時は父と行くつもりで準備していたが、天安門事件のために行くことが出来なくなった。三年後には、父は通風を理由に行くのを断念した。父は西安の美しさを知るとともに、戦争の記憶が中国に行くことを自らに禁じたというのが本当の気持ちのように思う。

 

 今日はその父の十回目の命日である。昨晩弟がメールしてきて、私の体調をたずねるとともに、そのことを書いていた。そして八月は母の七回忌である。出来れば兄弟三人だけでも七回忌をお寺でやろう、との申し出である。墓の管理は弟夫婦にすべて任せていて、私は参加するだけで申し訳ないことだが、もちろん賛同するつもりだ。その時にはワクチン接種もすんでいるし、たぶん車も納車されていることだろう。

2021年5月19日 (水)

立たなければならないようにする

 布団を取り払った炬燵とがっちりした大型座椅子が私の定席である。右横には文房具類を入れた引き出し五段のプラスチックケースが小さなテーブルの上に載っている。そこには薬も小分けして入れている。お茶(中国茶、薬草茶)やコーヒーが置いてある。小さなブックケースに処理すべきさまざまな書類が袋に仕分けして立ててあり、そこには記録のためのノート類(紀行番組の観たいところを記すためのもの、購入したい本のメモ、電気ガス水道など月々の支払いメモなど)が五冊ほど、さらにWOWOWの番組表、市役所の当月の広報などが入れてある。プラスチックケースの上には読書メモ用の手帳、住所録、デジタル時計、インターホンの子機、テレビやアンプなどのリモコンが載っている。

 

 目の前には大型液晶テレビ、その左右にトール型のスピーカー、前にはセンタースピーカー、右手のラックにはAVアンプ、BDレコーダー、下にサブウーファー、さらに横のボックスには録画したBDがおいてあり、上にはCDプレーヤー、さらにその上にはあちこちで集めたフクロウの小さな置物がびっしりとならんでいる。ちなみに座椅子の後ろにはリアのスピーカーが左右に置いてある。

 

 左手のラックにはLANやNASの機器がならんでいて、下の段には辞書類が十冊あまり収めてある。その手前にコーヒーメーカー、湯沸かし用の電気ケトルがあり、そのほか空いている場所に読みかけだったりこれから読もうと思う本が積んである。

 

 ふだんは出したらしまうはずのオーブントースターが出したままになっていた。動線がこうして妨げられれば躓いたりするのはとうぜんで、先日はオーブントースターが私の犠牲になったのである。

 

 一時間ほどかけて周辺を片付け、右手は以前通りだが、左手にあったものはすべて片付けてしまった。ケトルやコーヒーメーカーも違う場所に置いた。そしてラックも距離を置いたから、いままでと違って辞書は立ち上がらないととれなくなった。本は一度に二冊読むことは出来ないのだから、一冊だけを卓の上に置いて、ほかはすべて本箱の前に積み直した。だから左手には何もない。掃除も丁寧にしたからすっきりした。

 

 これからはいくつかのことは座ったままでは出来なくなった。立って取りに行かなければならなくなったのだ。立ったり座ったりでもこの歳になると億劫ではあるが、ささやかな運動にもなる。また雑然とするまでどのくらいもつかなあ。

きらいなひと

 あまり好き嫌いはない。何でもたいていそれなりのよさをみつけだして受け入れる。受け入れ難くても、誰かがいいというならそれなりにいいところもあるのだろう、と受け入れる。それだからこそ、どうしても受けいけ難いものが残ると「きらい」という思いがいっそう強くなってしまう。

 

 例えば政治家の好き嫌いなどがわかりやすい。立憲民主党の枝野代表がきらいだ。理由は何度かこのブログで書いている。どうして立憲民主党はこの人を代表に選んでいるのだろう、どれだけイメージで損をしているのかわからないのだろうか、などと思う。蓮舫氏ももちろんきらい。鳩山由紀夫もきらい。自らを省みることなく他をなじる人はもともときらいだ。もちろんだれだって人をなじるに値するほど立派な人はなかなかいないものだけれど、それでもふつうはそのことに多少の恥ずかしさを示すもので、それが救いとなる。

 

 二階氏というのはどういう人なのだろう。どうしてあの人があんなに権力があるのか理解できない。何を言っているのかよくわからない。老醜をさらしているようにしか見えないのに、皆が恐れて従うのはなぜなのだろう。わからないからこそ気味が悪くて、そのことできらいである。

 

 性同一障害というものがあって、本人には如何ともしがたいということは、繰り返し報じられているからなんとなく理解しているつもりだが、それを売りにしてテレビに繰り返し登場するそれらしい人たちの中にどうしても好きになれない、というよりきらいなひとがいる。最近見ないがおすぎとピーコなどは、私はきらいではなかった。マツコデラックスもきらいではない。IKKO(これで綴りはあっているのだろうか)やミッツマングローブというのがどうしてもだめだ。画面に出てきただけでチャンネルを替える。自分でもその違いはなぜなのかよくわからない。

 

 だれでも心の底で自分を恥ずかしく感じる部分を持っていると思う。その部分があるからこそそのひとを受け入れることが出来るのではないか。私にももちろんそういう部分があるから、その部分に感応しているのだろう。どうしても感応できない人が受け入れがたくきらいになる理由なのかも知れない。

2021年5月18日 (火)

ニードロップをした相手

 昨晩転倒したとき、どこに膝を打ったのかと思ったら、オーブントースターであった。このオーブントースターは二十年以上使ってきたものだけれど、ヒーターは問題ないからパンをトーストしたり、餅を焼いたり、小さなピザを焼いたり、グラタンをつくるのに重宝していた。ただ、いつの間にか少し歪んできて、扉がきっちり閉まらなくなっていた。そこに体重90キロの私がニードロップをしたので、さらに全体が歪んでしまった。そんなものを足元に出しっぱなしにしていた私が悪い。すまぬことであった。

 

 そろそろお役御免にしてあげようと思う。新しいオーブントースターを買いに行こう。オーブントースターならそれほどの出費ではないから、気は楽だ。とはいえ、ものは大切にしなければ罰が当たる。なんだか自分に自信がなくなるなあ。今日は飲む量を控えめにしよう。

ワクチン接種予約その他

 ネットでワクチン接種予約をした。二度ほど混雑中とのことでつながらなかったが、三度目につながり、予約することが出来た。昨日行った定期検診を受けている病院で、6月9日が第一回目で、三週間後に二回目を接種する。まあこんなものだろう。

 

 昨晩酩酊してよろけて転んだ。支えに掴まった電話台は支えにならず、一緒に倒れてしまったので、転んで膝を打ったが頭や首は大丈夫だった。踏ん張りのきかない自分自身に驚いて、いささか自己嫌悪に陥っている。空腹時血糖を測るから絶食したあとだったし、空きっ腹でいきなりぐいぐい飲んだからなあ。

どういう世界に生きているのか

『聲の形』というアニメ映画を観た。いじめが発端の物語だけれど、現代に生きるということの意味を問うアニメでもあって、そうなのか、いま真剣に生きている若者にとっての生きる、という意味はどういうことなのか、ちょっとだけわかった気がする。わかっている人だけが悩む。悩んでいる人がいるから世の中がなんとか回っている。そんなことを思った。つまりほとんどわかっていない人たちばかりなのだ。それでもこの物語の中では自分自身を見直す人たちがいて、希望が見えるけれど、実はそれば願望で、本当に希望の光はあるのか、とそれぞれに問う物語になっているのではないのか。

 

 私もいじめに加担したことがある。小学生のときに転入生の女の子を受け入れようとしたときに、その子が特殊な子供であることが理解できずに、結果的にいじめたことになった。いまでも慚愧に堪えないことであるが、その時の自分を叱る気持ちは今はない。

 

 理解できないものがこの世界にあることをその時は知らなかった。いまは知っている。そのことの意味を知るためにたくさんの失敗を繰り返してきた。自分がバカであることを知るためにずいぶんとたくさんの迷惑をかけて生きてきた。いまごろ知ってもどうしようもないことの果てに私がいて、そのツケは払いきれないのだなあ、と思う私がいる。

2021年5月17日 (月)

二冊では足らず

 本日は、午前中が糖尿病の定期検診、午後は泌尿器科の定期検診だった。一日仕事と覚悟はしていたが、たいてい午後の泌尿器科は二時の予約でも尿検査の結果が出れば早めに呼ばれるので、薬を薬局をもらっても三時過ぎには帰れるものと思っていた。

 

 いつものように待ち時間用に本を持参したが、それは今朝紹介した『夏彦・七平の十八番づくし』と『意地悪は死なず』の二冊。ともに山本七平と山本夏彦の対談本である。待ち時間に二冊は読み切れないと思っていたら、午後の検診がなかなか始まらない。泌尿器科だけではないので、何か院内であったのかも知れない。

 

 糖尿病内科の先生が替わることは美人の女医さんから聞いていたのだが、今度は若い男の先生だった。がっちりした、まだ学生の尻尾の残るような感じの先生だが、快活で声もはっきりして悪くない印象である。多少血糖値の数値が悪化していたが、こんなものでしょう、少し体重を落としましょう、ということで放免された。

 

 午後の泌尿器科の先生も替わった。診察が遅れたことをわびたあと、よろしくお願いします、と丁寧に挨拶された。こちらも挨拶を返して問診が始まった。白血球が相変わらず高いので、菌が残留しているとのこと、風邪などで体調を崩さないように気をつけるよう言われる。

 

 診察がすべて終わったのは四時前で、持参した二冊の本はとっくに読み終わってしまった。だから薬局で待たされている間の三十分弱は手持ち無沙汰で困った。

 

 さあ、帰ったら休酒を解禁し、息子の送ってくれた鰹のたたきを解凍して、かねて用意の原酒を飲むぞ・・・。事故の後遺症か、歩くと背中がちょっと痛いけれど、その足取りの軽いこと。

山本七平

 山本七平(1921-1991)は山本書店店主、編集人兼発行人、聖書研究家、翻訳家、著作家、思索家。大ベストセラーとなった『日本人とユダヤ人』を発行したが、その著者であるイザヤ・ベンダサンは山本七平本人だとされるているものの、本人は死ぬまで認めなかった。

 

 私が読んで感銘したり影響を受けた本
『「空気」の研究』
『「常識」の研究』
『ある異常体験者の偏見』
『静かなる細き声』

 

山本七平ライブラリー全16巻が手元にあるが、いまそのなかの『これからの日本人』という本を読んでいる。日本人とは何かを知ることが私自身を知ることのひとつになると考えているので、そういう読み方をしている。日教組と文部省によって進められてきた戦後教育が、実は昭和16年に施行された国民学校教育という指導要領とつながってると断じている。進駐軍によってその方針は維持されたのだ。画一化教育とはそういう教育だというのは鋭い指摘だ。

 

 少し歯ごたえのある本が読みたいけれど、哲学などは読みたくないという人は山本七平のこれらの本を試しに開いてみると良いと思う。あたりまえだと思っていたことの意味が違う見え方をしてくるかも知れない。そういう楽しみを知るきっかけになる。歯ごたえのありすぎる本もあるから、よく中身を吟味した方がよろしい。

 

 山本七平の聖書研究は間違いだらけだ、という批判の本も読んだことがある。たくさんの引用で論じていたから、その主張は正しいのだろう。しかしこういう点が違っているから山本七平はすべてインチキだ、というような結論に持って行こうとしていた。そういう論じ方は墓穴を掘る。その論者もあら探しをしたら山のように出てくるに違いない。人気に水を差すと、自分の名前が売れると考えた軽薄さが惨めだった。

 

 私の敬愛する山本夏彦との対談が中公文庫から二冊でている。
『夏彦・七平の十八番づくし』
『意地悪は死なず』

 

痛快でおもしろいし、とても読みやすい。また読みたくなってしまった。

2021年5月16日 (日)

発注

 車を買おうかどうしようかと考え出したら、もともと必要なものだから欲しい気持ちがつのる。そうなったらもう買うことを決めたも同然である。金銭的に無理ならそもそも買おうと考えない。さいわい身内の割引もあるのでついに決断し、発注した。納車は七月になるというからずいぶん待ち遠しいことであるが、それまでずっとわくわく出来る。その頃にはワクチン接種も終わっているだろうから、ぼちぼち遠出も出来るようになっていると期待している。わーい、CX-30だ、嬉しいな!

 

 今日、息子から高知の鰹のたたきが送られてきた。冷凍だったのでそのまま冷凍庫に入れた。明日が糖尿病と泌尿器科の定期検診だから今晩は飲めないので、一日お預けである。明日病院から帰ったら流水解凍をして、用意してある新潟の原酒で一杯やるつもりだ。

 

 身内割引といい、鰹のたたきといい、息子に感謝である。

断片的雑感(4)

 産経新聞に、「ワクチン新システムに不具合頻発 データ入力、自治体に負担」という記事が掲載された。国によってあらたに導入されたワクチン記録接種システムには住民の氏名、生年月日、接種券番号、マイナンバーを入力しなければならない。さらにそこから国から配布されたタブレットに接種会場の担当者が接種券に記載された18桁の数字列を読み取って接種記録を蓄積するのだそうだ。デジタルという意味がわかっていない人力入力システムは事態を混乱させるばかりだろう。どうもお役人には手間を省略することは自分の仕事がなくなること、という強迫観念が染みついてしまっているようだ。

 

 ところが配布されたタブレットは18桁の数字を読み込んでくれないというトラブルが頻発、さらにシステムがフリーズする事態も生じて混乱しているという。どうもワクチン接種が遅れているのはワクチン配布が足らないからだけではないようだ。お役人のデジタル知識の再教育と優秀なシスタム作成担当者の採用がまず必要のようだ。必要があれば企業では一気に進むことが、お役人の世界では出来ませんで済んできたツケを国民が払わされているらしい。

 

 読売新聞の記事、「中国の不買運動 外国企業への卑劣な圧力だ」の見出しを見て、一瞬中国製品に対しての不買運動があるのかと思った。もちろん私の読み違えで、中国の人権問題に対し批判した国や企業の製品を、中国政府が半ば公然と不買運動していることを批判した記事である。中国の場合、対象商品を購入したかどうかは即時に政府によって把握される。不買運動を強力に推進しようとすれば、個人の評価点をマイナスするぞと言えば即座に可能である。それを恐れて人権問題に口をつぐむか、それなら売れなくてもいいと考えるか、姿勢が問われるが、日本は口をつぐむ口らしい。

 

 新型ウイルスが中国からはじまったことは、中国がどう反論しようとも世界的に公認された事実であろう。とはいえ意図的にばらまいたり研究所からの漏洩でない限り、発祥であることだけをもって中国を非難するのは酷である。問題は新型の、しかも深刻な感染症であることが判明したのに対処が遅れたことである。

 

 WHOの独立委員会が新型コロナウイルスへの対応を検証して、中国の初期対応の遅れを指摘した。それに対して中国は「即座に情報を公開した」と反論した。中国の即座、というのは「隠蔽しようとしてみたが隠しようがなくなった」と判断したから「即座」に発表したことを言うらしい。経緯を覚えている人たち、たぶん中国人でさえ、中国がふつうの意味の「即座に」情報を公開したなどと思う人はいない。中国政府は黒を白と言っても恥じないか、または世界の人びとはバカだから忘れてしまっていて、そういえばそうかなと思う、などと思っているのだろう。そんなことばかりしている国だということを中国の人は恥ずかしくないのだろうか。そんなことを公言すると身の危険が及ぶから黙っているのだろうか。

2021年5月15日 (土)

コロナ禍で利点がないでもない

 利点などと言うと何か利益があったみたいだが、そうではなくて、出費が著しく抑えられて助かっているということである。なんと妻の医療費を払っているのに、このところ年金の範囲内で生活が出来ているのだ。だからささやかな蓄えは今までのように急激な目減りをせずに維持できている。

 

 別居していたから妻とは年金をきっちり分けてあったし、今でも妻の金銭と私の金銭は峻別している。自分の使った金は記録をしていないから、残った金からいくら使ったかを推定しているだけだが、妻の金はノートにきちんと記録して月に二度ほど残金チェックもしている。妻は親の遺産が今年初めにわずかながら入ったから、当分(十年以上)はその範囲内でまかなえそうである。

 

 私は完全な自炊だから、飲食費(食事、酒、コーヒー、お茶など)すべてあわせても月に5万ほどで済ませている。水道光熱費、通信費、車関連の出費などの固定費は意外に多いが、それは仕方がない。年金を超えるのは旅に出かけること、交際費などの出費が食い込むからで、それがまったく今は不要なのだ。生活の仕方でいかようにも暮らせるものだなあというのが今の実感である。

 

 しかし私にとって旅に出かけ、ものを思い、友人に会って、日ごろ思うことをしゃべり散らすのは精神の健康のために必須である。今のままの引きこもりでは持たない。持たないからこれから出かけられるようになればあちこち走り回るつもりであるが、それでも死ぬまで金銭的なことではだれかに助けてもらわずに行けそうだな、という見通しが立ってちょっとほっとしている。

治療は続く

 昨日、事故後の診療を受けている病院で診察を受けてきた。首の圧迫骨折はほぼ治癒とのことで、エリマキは外して良いとのご託宣があった。もう外していることの方が多かったが、これから暑くなると蒸れるし擦れるしでいやだからありがたい。

 

 少し長く歩くと(二十分以上)腰、特に左骨盤のあたりが痛むことは前回伝えていたが、レントゲンで見ると左股関節が少しずれていて痛むことがわかった。これが加齢によるものか事故によるものがは判断が難しいが、しばらく様子を見ましょう、とのこと。もし事故の影響があるなら、時間とともに多少改善していくはずだという。短時間でいいから少しずつ歩くようにしてください、と指示される。運転はもうかまわないと言われたが、とっくにレンタカーで運転しているし、当日もレンタカーで行ったのだ。

 

 首の痛みが消えたので、最近になって腹ばいになって本を読むようになったら胸が痛むと伝えると、次回詳しく検査しましょう、とのこと。身体全体が全身打撲から回復するのにまだかかりそうだから、あと二ヶ月ほどは通院することになった。早く区切りをつけたいが、区切りをつけたあとに具合が悪くなってもあとの祭りなので医師のススメに従うつもりである。保険会社にはどう言おうか。そのまま言うだけか。

 

 コロナ禍でも病院は多くの人で混雑していた。皆マスクをしているし、ソーシャルディスタンスは守られているけれど、変異種は今までの予防対策程度では乗り越えることもあるような気がして、いささか心配だ。

2021年5月14日 (金)

断片的雑感(3)

 中国がとつぜんインドネシアの潜水艦沈没事故の艦体回収作業支援を申し出た。こういう作業の能力の低いインドネシアとしては、経験のある中国の申し出はありがたいという側面はあるが、沈没箇所はインドネシアのEEZ(排他的経済水域)の中であるし、そこに中国が大義名分を持って動き回ることを認めることには抵抗もあるようだ。当初、シンガポール、アメリカやオーストラリアの艦艇が捜索救援のためにこの海域を遊弋していたが、回収段階に移行したので撤退したとたんにその海域に現れたのが中国の艦隊だったという。

 

 沈没した潜水艦は古いドイツ製の潜水艦で、2012年に韓国で改修されて再配属されたものだという。乗組員の遺体収容のためにもサルベージ能力が高い中国の支援は望むところだが、中国の意図はある意味では歴然としていて、受け入れがたいという思いもあるだろう。中国に見返りなしの善意などないことはだれにもわかることだからだ。

 

 私はそれ以上にうがった見方もしている。なぜこの潜水艦がとつぜん沈没したのか。中国の潜水艦が関与していて、それを隠蔽するためだ、などと想像するのは空想的に過ぎるだろうか。

 

 アンケートによれば、日本人の59%がオリンピック開催に反対だという。この結果は日本人にとっても衝撃的であると同時に、それもそうかな、という思いも抱かせた。新型ウイルス感染の蔓延に対しての対策が奏功せずにさらに拡大している実情では、オリンピック開催はむずかしいだろうとだれもが感じ始めているというところだからだ。オリンピックが予定通り開催されれば、それでも国民はそれなりに盛り上がるだろうと思う。やってみなければわからないことだが、挑戦するリスクは過小評価しないほうがいいと思う方が健全な気がする。

 

 目についたのが、このアンケートの結果に中国が落胆しているというニュースである。中国は一貫して東京オリンピック開催を支持している。そしてその代わりに日本も北京オリンピックを支持して欲しいと願っている。欧米が人権問題で中国に反発して北京オリンピックボイコットなどという動きがあることを思いのほか気にしていて、日本にはそのような動きに同調して欲しくないと考えているのだろう。東京オリンピックが中止になると、日本が欧米に同調すると心配しているということか。

 

 ネットニュースで、毎日新聞の「命か 五輪か ツイッターで『国会騒然』」という表題の記事を見た。国会で蓮舫議員の質問に対し、質問の応えになっていない答弁をしたとして、騒ぎになったことはテレビのニュースでも見たので承知しているが、「命か五輪か」という話だったとは知らなかった。そもそもそういうくくり方をするというのが毎日新聞なのかも知れない。蓮舫氏の質問はそういう質問だったのか。本人に訊かなければわからないが。

 

 日本政府が一日百万回のワクチン接種を目指す、と表明したら、マスコミや有識者から、とても無理で出来もしないことを目標にするなといわんばかりの批判を浴びていた。そうしたら、お隣の韓国ではワクチンが確保でき次第、一日百五十万回のワクチン接種を目指す、と報じられていた。韓国でそんなことは無理だ、という批判があるかどうかは報道がないからわからないが、比較的に具体的な計画数値も提示されているようだ。

 

 韓国で百五十万回が出来て、日本では百万回が出来ないというのが事実なら、こんなことで競争するのも哀しいが、日本は韓国よりも大きく劣るということの証明みたいなもので、情けない限りだ。どうしてこんなお粗末なことになるのだ。日本人は自分で思うほどすぐれていないのだろうか。

 ぼんやりしているときも何か活字をみていないと落ち着かない性分なので、そこら中に本が置いてある。先日来、ときどき開いているのが、ポケット版の歳時記だ。初心者用なのだが細かい字でたくさんの句がぎっしりと収められている。句の解説があるのはほんの一部の句だけなので、解説のないものの半分はその句の意味がわからない。まれによくよく考えたらわかることがあると嬉しいけれど、たいていわからないままだ。わからないままであることは胃がキリキリするほどいらだたしい。私はそういうところは気が短い。

 

 そもそも私は詩が苦手で、詩に頭がシンクロしにくい。しかしどうにか詩を理解したい、人が好いというからにはたぶん好いはずだと思うから、こういう本を手元に置いている。

 

 それなのに山頭火の不定形俳句は不思議とよくわかる。その句にこめられた深い気持ちがすべてわかるわけではないが、少なくともイメージは直ちに湧く。そういえば渥美清がその不定形俳句を折に触れて詠んでいたことは知る人は知っているだろう。たまたまいくつかの句をテレビで知って感銘したことがある。素人の域をはるかに超えていた。句集があれば一度読んでみたいと思っている。

 

 先日来『頭で歩く』と題して、芭蕉の奥の細道の後半の部分を自分が実際に歩いたときの写真と記憶をもとに読み歩いた。芭蕉の句も、解説を読み、その句にこめられた歌枕の世界を教えられれば、時空を超えた面白さを知ることが出来る。旅の思いが私と句をつなぐ。だから山頭火の句が心にしみるのである。山頭火は放浪の詩人なのだ。

 

 そう思ったら、本棚に『放浪の詩人たち』という古い本(昭和51年発行)が目についた。これは表題をテーマとした講演集で、やはりわからない詩をわかるようになりたくて買った。この中に森本哲郎の『与謝蕪村』の講演があったのも買った理由である。

 

 冒頭が中西進(国文学の教授)の『万葉の歌人たち』という講演で、その中に、

 

  家にてもたゆたふ命波の上に

 

      思ひしをれば奥処(おくか)知らずも

 

という万葉集の中の和歌が語られている。

 

 歌の意味を解説する前に
「西行とか芭蕉とかは中世以後の時代の人ですが、その前はどうだったのか、その時代までこうした放浪はなかったのかというと、放浪や漂泊が文学的な価値を持つのは、すでに奈良時代から始まります。つまり古代の詩人は、魂の揺らぎ、揺れ動く魂というものを、旅の中でつかみ取ったようです。そこに旅というものが非常に重要な文学の条件になった理由もあります」として上の歌が引用されている。

 

 歌意は
「自分が家にいても命はたゆとうているのに、今は家ではなくて波の上にいる。波の上に浮いている。あるいはもの思いをしている。そこでどこまで奥深く私はものを思うのか、もの思いは果てるところを知らない」
 
この歌は天平二年(730年)に大伴旅人が九州から都へ戻る際の従者の一人が詠んだ歌だという。名前は残されていない。

 

 ああ、これなら私でもかろうじてわかる。たゆとう命、揺れ動いてやまない魂を旅において感じるのは古代の人も同じなのだ。

2021年5月13日 (木)

幼稚園が消えていく

 マンション横に幼稚園があって、ベランダから見下ろせる。その幼稚園の周囲にフェンスがめぐらされ、足場が組まれたと思ったら、解体作業がはじまった。このまま更地にして別の建物が建つと思うが、それが幼稚園なのか、そうでないのか、まだ知らない。

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 この幼稚園は息子が通った幼稚園で、幼稚園の子供たちの歓声がにぎやかであり、そのにぎやかさはやかましいというものではなく、なんとなく懐かしい響きとして聞いていた。そういえば四月に事故後の安静で横になっていたときに、その歓声を聞いていないのを不思議に思っていた。コロナ禍で休園しているのかな、などと思っていた。

 

 子供の数が減っている。それでも幼稚園の需要はまだあるとも聞いている。弟の嫁さんは子供たちが手を離れたあと、幼稚園の先生をしていて、昨年でようやくお役御免になったけれど、今もときどき助っ人に行く。先生がたりないのだ。

 解体した幼稚園が新しくなってふたたび子供たちの声が聞こえると好いのだけれど。

本籍

 私も妻も千葉県生まれで千葉県育ちであり、結婚したとき実家の住所で新しい戸籍を作った。私は転勤が前提の仕事をしていたので、現住所を本籍にすると遠からず不都合が生ずると思ったからだ。それ以来戸籍は移動していない。しかし両方の両親がいなくなり、今となっては本籍を終の棲家と決めているいまの愛知県の住所に移したいのだが、妻が同意しないのでそのままになっていた。

 

 今回、戸籍謄本が必要なことがあって、マイナンバーカードを使い、コンビニで発行しようと思ったら、受け付けてもらえない。「事前の申請が必要です」などとわけのわからない表示が出て先へ進めないのだ。カードに不備があるのかと思って市役所まで行って確認したら、カードに問題はないらしい。まさかと思って先方の市役所にメールで確認したら、マイナンバーカードにまだ対応していないのだそうだ。仕方がないので書式をプリントアウトして必要な本人確認資料、手数料の郵便小為替などを添えて郵送し、送ってもらうように依頼した。

 

 この戸籍謄本を使って、転籍の申請をするつもりである。そのための書類も用意していて、妻の同意をあらためて取り付ける予定である。そうすればいつでも必要なときにコンビニで入手が可能になる。そうたびたび必要になることではないが、こういうことって面倒くさいなあ。

2021年5月12日 (水)

なるほど

 私のブログにある人から「なるほど」というつぶやきをいただいた。それだけなので、書いてあることに賛同するということなのか、言い分は理解したというだけなのかわからない。べつに「なるほど」というつぶやきに注文をつけるつもりは毛頭なくて、いただいたことには素直に感謝しているのだが、自分自身の考えそのものについて、ときには見直すことも必要だと日ごろ思っていたところなので、いささかたじろいだのだ。

 

 大げさに言えば、日本人としての自分は、日本人特有の考え方をする傾向があるはずで、団塊の世代としての人生の中で培われた自分の考えも、その経験に大きく影響されている。読んだ本にももちろん影響されているはずで、無数のそれらが私の考えを作り上げているといっていい。本当に私の考えは私のオリジナルなのか。

 

 例えば日本人特有の考え方は、私を大きく支配しているように思っている。それなら日本人特有の考え方とは何か。それを知るために日本とは何かと考えるのは自然な流れで、だから歴史を知りたいと思うし、日本の文化についても知りたいと思う。日本中を旅して、過去の日本の痕跡を有形無形なかたちでみてみたいと思う。テレビの歴史番組や紀行番組を興味深く観るのもそういう思いがあるからだ。

 

 四十代後半から、ときどき海外に行った。初めは好きな中国へのひとり旅が多かったが、友人たちと出かけることも定例化して、けっこうな回数をいろいろな国に行った。名所を訪ねて珍しいとかすごいとかいうだけの旅にならないように心がけていたつもりで、多少は意味があったと思う。ただ、日本を相対化してみることが出来るほどではないような気がする。そのためには滞在することが必要なのだろう。そこまでの旅はしたことがないし、これからもないだろう。 

 

 それやこれやで、いま山本七平ライブラリーの中から「日本人論」に関連するものを読み始めている。日本人的考え方とは何か、どうしてそういう考え方が定着したのかについての彼の考え方を知りたいと思っている。

断片的雑感(2)

 昨日の愛知県の新型コロナウイルス感染者の判明数は578人で、過去最多。医療がますます逼迫して大阪のようにならないか心配だ。大阪は危機的状況、などというけれど、一日で死者55人と、もう危機的ではなく医療崩壊ではないのか。そもそも感染者数というのは検査された人だけから判明するので、たぶん検査されていない潜伏感染者はほかに少なからずいるのだろう。今週末は事故による整形外科診療があり、来週には糖尿病と泌尿器科の定期検診がある。多数の病人が集まる病院に行くことは大きなリスクだが、健康でない身としては行かないわけにも行かず、如何ともしがたい。

 

 池江璃花子選手に、ネットによるオリンピック反対の矛先が向けられたことに怒りを覚えた人は多いだろう。なんと中国でもそのことが話題になって、「日本人は頭がおかしいのか」というコメントなどが寄せられたらしい。私も日本人だから、頭がおかしいといわれるのは不愉快だが、そういうおかしい日本人がいることは事実であることが残念だ。自分が正しいと思う考えを他人に押しつけることが正義だと思う「頭がおかしい」人には本当にうんざりする。

 

 小池都知事がオリンピック返上を期しているのではないか、などと憶測されている。世論調査ではオリンピックは中止すべきだ、という意見が過半数だという報道もあった。国と東京都の緊急事態宣言の規制がちぐはぐであることが批判されている。整合性のないことは呆れるばかりだが、いままでの規制とその効果を検証した上のものなら説得力があるが、そんなものは毛筋ほど見えない。文化庁や文科省が折れて、都の規制を受け入れたらしいが、その背景に二階氏の影がちらついている。何しろ二階-小池会談が行われたとたんに政府が折れたのである。

 

 制御不能になった中国のロケットの残骸が落下したのはインド洋らしい。だれにも被害がなかったのは中国にとってもさいわいだった。世界からの非難の視線を意識したのか、人民日報は「中国のロケットばかりをことさらに危険だと見做すのは、知性に対する侮辱も甚だしい」と主張した。ふつう知性的な人や知性的な国はこういう言い方はしない。侮辱に値するほど中国は知性に欠けていると、自ら認めているように見える。

2021年5月11日 (火)

地域貢献へのお返し要求

 愛知県の西尾市が発祥のドラッグストアチェーン店のスギ薬局が話題になっている。会長夫妻だかの新型コロナワクチンを優先的に接種させるように西尾市に働きかけ、当初断っていたが、(副市長の裁量?)要望を受け入れて優先的に予約を受け付けた。これがマスコミに洩れたために騒ぎになっている。

 

 西尾市は騒ぎに驚いて予約を取り消し、副市長と市長は不明を恥じて謝罪した。「市として日ごろの恩義をお返ししてもいいのではと考えたが、それは間違いだった」と釈明している。

 

 スギ薬局の社是をみてみると、「・・・地域社会に貢献します」という一文があるので、たぶん多大な貢献をしているのであろう。市と交渉した担当者は、「多大な貢献」をしたのだから優先接種はとうぜんだと考えたから、何度断られても強引に申し入れを繰り返し、予約を取り付けたらしい。

 

 スギ薬局側は取材に対し、「電話はしたが優先的な予約の依頼はしていない」と答えているそうだ。電話したことは認めているのだから、だれがどう考えても「依頼していない」というのは嘘だろうと思う。

 

 こうしてスギ薬局は大いに評判を落とし、会社の名は汚れた。担当者は良かれと思ってしたことなのにその責任を問われ、会社にいることはむつかしい立場に追い込まれるだろう。こういうのを典型的な公私混同という。社長または会長が指示したことかも知れないが、それが事実だとしても、絶対に認めるはずはない。

 

 マスコミに洩れなければ知られることもなかったことで、マスコミもたまには役に立つ。たぶんマスコミの手柄と言うよりも、おかしい思った人のリークだろうけれど。

断片的雑感

 コロナウイルス対策としてのさまざまな規制について、街頭インタビューをみていると、若い女性ほど「やっても意味がない」、「効果がない」という批判的な言葉が多いのをどうしてなのかと思っていた。その言葉は自分なりに考えた上のものと聞こえず、誰かの受け売り、つまり他人の言葉の口パクのように聞こえているのは私の偏見なのだろう。それならなぜ若い女性ほどそうなのだろう。たぶんSNSなどの互いの意見交換が最も若い女性の間で盛んであり、そこでの意見が共通化しているからかも知れない。

 

 あの暴言的パワハラで知られる豊田真由子女史が、「いま日本がオリンピックを辞退したら、未来永劫日本はオリンピック開催が出来なくなる」と言ったそうだ。どういうわけか、朴槿恵元韓国大統領が「日本は千年謝り続けろ」と言った言葉を思い出した。未来永劫と千年というのが似ているからだろうか。そんな先のことはだれにもわからない。それを確信的に言うことに不快感を感じる。いま開催することの是非はそういう問題ではない。

 

 政府の新型コロナウイルス対策を野党が批判している。問題点があれば批判して直すべきことは直せばいい。なにしろ最も正しい答えをだれも知らないのだから、結果を見て対策をその都度見直すしか方法はない。ただ、野党の批判に、国民のためよりも批判することで党利党略に利用しようとする意図があまりにも色濃く見えてしまうのが、国民の賛同を得られない理由だろう。それにしても、政府の対策は、事実認識と想像力(このままではこれからこうなるだろうという見通し)の欠如を感じてしまうのは私だけではないだろう。役人に絵を描かせると必ずこうなる。

 

 政府の対策は「願望を根拠に対策をとる」ことの繰り返しに見える。西村大臣の顔を見るのにうんざりしている。彼は政治家よりも役人に見える。

2021年5月10日 (月)

今朝の秋

 本日は亡き父の誕生日。震災のあった2011年のこの日に97歳になり、5月20日に、ほとんど寝込むこともなく大往生を遂げた。本人は100歳まで生きるつもりだったが、まあまあ満足して逝ったと思う。あれからもう10年たったのか。

 

 むかしのテレビドラマで録画コレクションにしているものがいくつかある。『北の国から』は放映されたものすべてがある。『拝啓おふくろ様』『夢千代日記』も、ほぼすべてのシーズンの全話をコレクションしている。これらはテレビからの録画ではなく、貸しビデオ屋で借りてダビングしたものだ。もちろんコピーガードされているものばかりだが、当時ふつうに手にはいったコピーガードキャンセラーという装置を手に入れてダビングした。違法行為だが、もう時効だからかまわないだろう。ただ、コピーガード破りの装置を使うと画質の劣化が大きいのが残念だ。

 

 単発ものでは、『今朝の秋』、『ながらえば』の二作も大事にしている。山田太一の三部作にもうひとつ、『冬構え』という傑作があってどれも素晴らしく、特に『冬構え』は最も優れていると思うが、ダビングできていない。もちろんNHKオンデマンドで観ることは出来るので、二度ほど観ている。すべて笠智衆が主演である。

 

 たまたま久しぶりにポケット版の『ハンディ版入門歳時記』を眺めていたら、春の項目の季語の『立春』のところに、「立春・元旦を含めて今朝の春、今日の春などと詠まれた。」とあるではないか。ただの朝の意味で「今朝の春」ではないのだ。そこでひらめいた。しからば「今朝の秋」とはそもそもどういう意味か。開いてみれば、立秋の項に、「今朝の秋、今日の秋などとも詠まれる。」とあるではないか。

 

 ドラマの『今朝の秋』は独りで山小屋で暮らす老人である笠智衆が、息子(杉浦直樹)が余命幾ばくもないことを知らされるところからはじまる。「今朝の秋」に山田太一がどういう思いをこめたのか、それを想像したりした。私も笠智衆にシンクロする年になったことを不思議に思いながら、しみじみした気持ちになった。

安岡章太郎『慈雨』(世界文化社)

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 安岡章太郎の本は、私にはとても読みやすい。語っていることが何の抵抗もなくスルスルと頭に入り、共感できる。ものの見方、感じ方が近いのだと思う。だから一度読んだものでも、しばらくしてふたたびみたび興味深く楽しく読むことが出来る。持っている安岡章太郎の本は全集を入れて三十冊あまりでも、私には何百冊もあるのと同じである。

 

 このブログも含めて私の書く文章が、安岡章太郎の影響を受けていないはずはない。そういう意味で彼は私の私淑する師でもある。

 

 今回読んだこの本は、彼の晩年に近いころに書かれた、雑文に近い随筆集だが、それだけ彼の気持ちの根底にあるものが生で読み取れる。

 

 三田文学派なので、北原武夫と奥野信太郎に見いだされ、作家デビューした。佐藤春夫や井伏鱒二に師事し、吉行淳之介、遠藤周作、近藤啓太郎、庄野潤三などと親しく交遊した。いわゆる第三の新人として戦争体験を根底に持ちながら、戦争のことはテーマとせず、私小説的に書くことを拒否し、ある意味で人間を突き放しながら、しかもやさしく穏やかでユーモアも含めて書き留めるその文章と作品は、私にはかけがえのないものである。つまり大好きなのである。

2021年5月 9日 (日)

映画三昧・続

『S.W.A.T.(2019)』2019年中国。中国製痛快アクション、と銘打たれているが、私にはあまり痛快でもない。

 

 公安(中国では警察は公安である)の特殊部隊の精鋭たちの訓練の様子と、麻薬組織のアジトである離れ島での潜入捜査官救出作戦が描かれる。二チームが張り合いながら訓練し、レベルアップしていく様子が陳腐で、そのアクションや鍛え上げられた肉体のみごとさが作り物めいてしまう。各チームに一人ずつ女性が配されたり、その上その女性が男女対等をことさらに言い立てるのも嘘くさい。これは公安の宣伝映画そのもので、作り物なら作り物らしく、もっと鮮やかに敵を倒してほしいものだ。なるべく殺さずに身柄を拘束しろ、といわれても、敵がマシンガンで撃ってきたら応戦するしかなく、とうぜん窮地に陥り、建前をお題目で唱えただけで結局殺しまくることになる。嘘くさいという所以である。

 

 結局きれいごとを言いながら、やることはむちゃくちゃ、中国そのものだ。とはいえ、きれいごとを言うだけでなにもせず、自滅する日本よりマシかも知れない。

 

『ウルフ・アワー』2019年イギリス・アメリカ、ナオミ・ワッツ主演。

 

 アパートの一室にひきこもっている女性の日々が描かれた映画。どうしてひきこもっているのか、なかなか明らかにならないもどかしさと、この女性の人物像が今ひとつ見えてこないことにいらだちを感じるが、それでも観続けてしまうのは、いったいどうなるのだろう、という興味が持続するからだ。観るのに忍耐が必要な映画だ。

 

 彼女がひきこもっているアパートの周囲はたぶんニューヨークのブロンクスのようなところらしい。窓から見下ろせば、黒人の若者たちがたむろして殺伐とした気配を漂わせている。友人知人とも連絡を絶っているが、引きこもりに必要な金も底をつき、やむを得ず助けを求める。そういうやりとりから彼女がどういう人間であるのか、というよりもどういう人間であったのかが明らかになっていく。

 

 もちろん外界は常に開かれている。閉じ込めているのは彼女の心であることは最初からわかっている。扉の外の世界への一歩が踏み出せない彼女が、ついに外界に踏み出すシーンのために映画のすべてがある。それでそれまでの忍耐が報われるかどうか、受け取り方次第である。私は忍耐の方が重かった。

 

『ウルフ・アワー』などという題名だから、もっとアクション映画みたいなものかと思ったら、これは彼女が聞いているラジオの音楽番組の名前であった。

 

『ナイト・サバイバー』2020年アメリカ

 

 狂気の二人組、二人は兄弟なのだが、事件を起こして逃亡中のこの二人が、凶行を重ねていく。兄が多少まともで、もうむやみに発砲するな、と弟をいさめるのだが、弟は歯止めがきかない。ガソリンスタンドの売店で、殺さなくてもいい女性を殺してしまい、主人が反撃した銃弾が兄の脚に当たってしまう。

 

 さらに逃亡を続けるが銃弾は脚に残り、出血も止まらない。病院に行くことも出来ない。そこで弟が思いついたのは、医師をさらうことだった。深夜の病院で医師に目星をつけ、自宅まで追跡し、家族を人質に治療を強要する。二転三転、ついに反撃に転じた医師の家族たち。物語はこの家族と二人組との血みどろの戦いである。医師の父親(もと保安官)役でブルース・ウイリスが出演している。

 

 最初に母親が弟に殺されるので、これは復讐劇でもある。復讐劇は感情移入しやすく、敵を倒したときの快感は大きい。しかしすべてが終わったあとの無意味さも大きい。世の中にはこのような不条理な狂気が存在することに、神の存在がより信じられるか、神など存在しないと思うか、アメリカの分断の原点のような気がする。

酒が届く

 My Wine CLUBというのに登録していて、いろいろなお酒の情報とお勧めのワインや日本酒が格安(?)で手にはいる。いままで三度ほど利用した。

 

 今回は連休前に新潟と東北の地酒の原酒(19~20度)六本セットを依頼していたが、昨日昼過ぎに配達された。ちょうど最近愛飲している新潟のふな口菊水の絞りたて原酒(19度)が底をつきかけていたのでグッドタイミングである。まさに誕生日を祝っての独り酒盛りを考えていたときでもあった。

 

 いままでの経験では、当たりと外れが混在しているので、それは覚悟しているが、一升瓶が六本で消費税込み一万円ちょっとだから多少の外れは我慢できる。全部外れでは哀しいが、度数も高いから二重にお値打ちである。

 

 連休明けということでさまざまな手紙や納税請求書などが来ていた。会社のOB会の会報と会費の請求書もあった。事故の話でも会報に投稿しようかな。

 

 夜、妹から電話があった。互いの消息を話す。妹は一昨年乳がんで手術をした。手術は成功だったけれど、予後が悪くて体調を崩し、ふたたび暮れから二ヶ月以上入院した。だから昨年二月の私の息子の結婚式には出席できなかった。電話の声は元気であったので安心した。妹の長女は看護師で、先日ワクチンの接種をしたそうだ。軽い副反応が出て、腕がしばらく痛んだという。二度目のあとは二三日の休みをもらうことになっているそうだ。コロナ禍が治まったら、一緒にどこかへ旅行に行こうよ、ということなので、それを楽しみにしようと思う。

2021年5月 8日 (土)

テレビ三昧

 朝から録画した番組を観ている。いつものことであるが、こんなものを観ていた、という紹介をしたい。

 

『川のほとりで』。30分のWOWOWのドラマ。今回が全六回の最終回。河原に掘っ立て小屋を建てて勝手に住む人たち(いわゆるホームレス)の不思議な話で、なかなか好い。最終回ということで、いままで登場した人たちが一堂にそろっての宴会シーンとなる。幻想的ともいえるそのシーンに違和感はなく、自由に生きることの気楽さをうかがわせてくれた。もちろんそんな気楽なものではないだろうが。

 

『美の壺』。今回は紬がテーマ。現役中に繊維関連の得意先との縁があり、繊維について多少の知識と興味がある。結城紬、大島紬、そして天蚕の紬が紹介されていた。いまはどうか知らないが、結城は市域全体がひとつの町名になっていて、結城何万何千何百番地、だったので、住所をたずねるのが極めて困難なところだったことを思い出す。大島紬の大島は、若いころ伊豆大島だとばかり思っていた。テレビで泥染めのドキュメントを観て、初めて奄美大島だということを知った。母は和裁も洋裁も出来たし、若いころは和服を着ることが多かった。これが結城だ、などと聞かされたことがあったのを思いだした。

 

『新日本風土記』。今回は仙台。七夕の話題ももちろんあった。子供のとき、家族で夏休みの家族旅行で青葉城に行ったし、七夕も観た。学生時代に何度か仙台に泊まり、夏にはホヤ、冬には牡蠣を食べた。友人と青葉城を訪ねてもいる。久しく行っていないので、コロナ騒ぎが収まったらぜひ行きたいと思っている。

 

『小吉の女房』。第二シーズンの全七回の六回目。小吉とは勝麟太郎(勝海舟)の父親、勝小吉のこと。小吉は古田新太、女房のお信(のぶ)を沢口靖子が演じている。古田新太の演技は素晴らしいが、それに沢口靖子は見劣りしない。沢口靖子はデビュー映画以来のファンで大好きだが、近年ますます魅力的になってきた。ようやく天保の改革も終わった。時代が大きく動き出す。今回は佐久間象山も登場、佐久間象山はのちに勝海舟の妹の順と夫婦になる。それぞれの変わり者の性格が描かれている。勝小吉がいきなり『夢酔独言』を書き始めるシーンなどあって、楽しめた。このシリーズはまことに楽しい。次回、麟太郎の祝言で第二シーズンは終わるようだ。

 

 このあとBSフジのプライムニュースを早送りで見た。憲法審査会の進展についてのテーマが前半で、後半はG7に関連した中国や台湾についての話題だった。ともにいろいろ思うところのある話題で参考になった。

 

 これでほぼ午前中を費やしている。なかなか忙しいのである。

今日は・・・

 今日は私の誕生日。七十一歳になった。自分が七十一歳なのだということが信じられない。不本意な一ヶ月を過ごしたあとであり、誕生日を機に気持ちを切り替えようと思う。旅に出られないなら独りで酒盛りだ。昨日はあり合わせの中華系の料理で飲んだが、今日は刺身や揚げ物などを買い込んで、ちょっとぜいたくにやるつもりだ。

 

 気持ちが沈滞していたので、いつも拝見している方々のブログもおざなりに読んでいて、コメントを書きたいと思いながらほとんど書いていない。そろそろ前のように丁寧に読んで、挨拶代わりにコメントを書くことにしようと思う。いいね!をいただいている方へのお返しもちゃんと出来ていない。それもなるべくもれがないようにお返ししようと思う。

 

 ひとりでに元に戻るのではなく、自分が戻さなければ気持ちというのは戻らない。そのスイッチを入れなければと思う。

 

 七十一年前に母が私を産んでくれたから私はここにいる。明日は母の日である。母に感謝の気持ちを新たにした。いま生きている人は皆そのお母さんから生まれたのだ。そう思うとあたりまえのことなのに不思議なような気持ちもする。そういえばこのごろ妊婦をみることがほとんどない。出歩かないからみないということもあるのだろうが、実際にいまは出産をひかえているような気がする。少子化にさらに拍車がかかっているかも知れない。年寄りには子供が少ないのは寂しいことだ。

 

 先日、若い友人から見舞いの電話を受けた。その後お加減はどうですか、と声をかけられて、現況を説明しながら長電話になってしまった。現役の彼もこのコロナ禍の中で大変な思いをしているのだろうと思う。電話はとてもありがたく嬉しいものであった。

 

 元気を出さなければ、と思う。

2021年5月 7日 (金)

言い分は伝えた

 保険会社の担当者が来宅した。事故の経緯について、体調について、そしていままでの対応についての私の感じたままをすべて伝えた。今回来たのは事故全般の補償と慰謝料を交渉する男性であるが、わざわざ来てもらったのは車両担当の対応が大いに不満であったこと、それが保険会社としてのこれからの対応への心配につながっているからであることを伝えた。

 

 言葉では謝罪があったけれど、どこまで本気で聞いていたのかわからない。中年の、名刺によればそれなりの役職の人らしく、話しぶりも穏やかであった。今月半ばにいちおう病院の診療が終了する予定であり、その結果を踏まえて具体的な金額の提示をするそうだ。いまはそれを待つしかない。

 

 そろそろ体調も回復してきたので、平常モードに戻そうと思う。四月中は事故の後遺症で気持ちが興奮状態だったけれど、逆に五月になってからその反動で気持ちが少し沈滞している。気晴らしが必要だが、出かけるわけにも行かず、鬱鬱としている。なんとか気持ちを切り替えようと思う。十日後に糖尿病と泌尿器科の定期検診があるので、いつもなら休酒に入る時期だが、今日と明日は飲むことにするつもりだ。明日も飲むのは理由があるが、それは明日ブログに書く。

来客予定

 午前中に保険会社の担当者が来宅する。事故に関連するすべてのこと、事故の状況、病院でのこと、警察や保険会社との電話のやりとり、体調、などをノートに書き留めてある。

 

 昨晩それを読み返しながら、面談では言い忘れることもあるかも知れないと思い、事故の経緯についての私の考え、保険会社に対して言いたいことなどをまとめてみたら、けっこうな分量になってしまった。多少個人攻撃になりそうな部分もあるので、このまま渡すわけにはいかないが、あえて書いておいたのは、それがないとこれまでの保険会社の対応に対するこちらの不満の理由がわからなくなりそうなので、そのままにした。

 

 今回の面談の前に、私から要求したので、向こうの補償に対する基準についての書面をもらっている。そのまま読むと、治療費の支払いと、通院に関連してかかった費用、それにいささかの上乗せが明記されているが、慰謝料はあるのかないのかさえよくわからない。

 

 愛車をなくしてあらたに車を購入しなければならなくなったこと、その間のさまざまな不自由、死にかけるほどの事故に遭っての身体への障害、一ヶ月以上の定常の生活を損なわれたことなど、事故がなければ被らなかった被害に対して、どのような支払いがあるのか、それが知りたい。

 

 もちろんこちらの思いが満足するようなものが支払われることはないだろうと思う。そういうものであることくらいは承知している。しかし、あまりにも不十分であれば示談に応じることは出来ない。そのことがうまく伝えられるだろうか。それは損得の話よりも気持ちの問題である。

2021年5月 6日 (木)

杞憂

 杞憂という言葉がある。むかし中国の杞という国に心配性の男がいて、ついには天が落ちてくるかも知れないと憂えたという話である。心配しても仕方がないことを杞憂と言うが、その心配は絶対にないことではない。いつ巨大な隕石が落ちてこないとは限らないからである。

 

 富士山が噴火する、大地震が来る、と週刊誌などがときどき特集で騒ぎ立てたりする。当たった試しはあまりない話だが、あたかも当たったかのように言い立てるのはたいてい後付けである。もちろんたまたま当たったということもないではない。だから、そらみろ、言わんこっちゃない、と胸が張れるかも知れないと、あることないこといい散らすのは世の常で、それを真に受ける人もいるからおもしろくてたまらないだろう。

 

 本当に心配しなければならないことの中に、そのような功名心からのそらみろ、言わんこっちゃない、が紛れ込んでいて、デマはしばしばそこから拡散する。その境目についていろいろ考えてみているが、それを見極めるためには常識という知性を働かせるしかないと思う。自分の頭でしっかり考えるしかないようだ。

禍転じて福をなす、か?

 今回のコロナ禍で、ワクチンの接種率の高い国は次第に沈静化しつつあるように見える。感染者が減れば医療体制は確保され、治療も万全となり、死者も減らすことが可能なのは数字を見れば明らかだ。

 

 日本は先進国で最もワクチン接種率が低い。それも格段に低い。これはどうしたことか。日本人は我慢強いから、いまにちゃんと確保されて接種が進む、と期待し続けたが、次第に不安と不満が溜まりつつあるのではないか。いままで我慢してきただけに怒りはつのっている。これは明らかに政府の責任である、と考えるだろう。このままではとうぜんのことだが自民党は選挙で大敗するだろう。菅首相にはそのことの自覚があるように見えない。

 

 ワクチンの入手について、たぶんそれなりの交渉をして確保をする目処を立てていたはずだが、その約束は契約としては不十分なもので、口約束に過ぎなかったらしいと報じられている。日本のお役人は契約についての厳しさに無知だったのかも知れないなどと批判されている。もちろんそれもあるだろう。それ以上に、やはりアフリカやアジアに対して、欧米は根底に差別感があることが現れた、というのが本当のところではないかと思わざるを得ない。対等であるような顔をしていても、本音では違うのだ。

 

 そんなことはわかりきったことで、中国の国際ルールを無視したような行動の原点に、そのような積年の恨みの気持ちがあることは考慮するべきであろう。しかしそれでも、いま国際ルールは守るべきであり、それが世界の安定の維持に必要だと考えなければならない。それを前提とした上で、欧米の理不尽な優位を是正することこそが迂遠ではあるけれどあるべき道だろう。

 

 世界は根底的に自国優先であるのは当たり前のことで、善悪などその前では無意味に近い。まず自国を優先し、それから他を考えるのはとうぜんで、そうでなければその国の政権は維持できるはずがない。

 

 日本は少し前まではワクチン大国だった。そのワクチン大国がいまはワクチン小国となってしまった。なぜそうなったのか。世界を信頼して委ねたからである。委ねるべきではないものを委ねたのである。医療行政がお粗末だったことは、すでに繰り返し批判されてきたが、いまの厚労省にはその自覚がない。そのお粗末さが次次に報じられている。

 

 それならいまから大国とは言わなくてもワクチン中国くらいにはなるべく体勢を立て直すことが必要だろう。医療行政についてもさまざまな問題点が顕在化したいまこそ、どうしたらいいか考えるときだろう。平時では出来なかったことであるなら、危機にあるいまこそ禍を転じて福となせる好機であろう。

 

 過去の歴史をふり返れば、禍を転じて福となした話は山ほどあって、日本はそれで再生し続けてきた。しかし近年禍を転ずることが出来ないまま、喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということの繰り返しに転じてしまっているように見える。危難のときには救国の偉人が出るものだが、いまの日本はそのような人物が出ることがなくなった。世のため人のためを否定し続けた、日教組教育とそれに迎合した文科省、朝日新聞的正義と平等のプロパガンダの成果か。

2021年5月 5日 (水)

苦手

 自民党の鴨下代議士はどうも苦手である。新型コロナに関することやワクチン接種の実情について説明するためにゲストとしてたびたび呼ばれている。その話しぶりが紳士的で穏やかであることが、却ってなんだか熱意というか切迫感が感じられず、他人事でしゃべっているように聞こえてしまうのだ。そこまで言わなくても問いに対する答え方に上から目線を感じるのは私の偏見なのだろう。ただ、日本でワクチン接種やPCR検査がなかなか進展拡大しない理由が自分にもあることについて、自覚がなさそうなことは何度か話を聞けば解る。鴨下氏だけの話ではないけれど、代表としてマスコミに出てくればその非難を受ける立場となることはとうぜんだ。

 

 昨日のBSフジのプライムニュースで、医療ジャーナリストとか言う男が、ワクチンが拙速に許可されたことに問題を提起しているらしいこと、まだ医療者がワクチン接種に特別手当が出ることを、生活が成り立たずに困っている飲食業などの人たちにはどう見えるか考えるべきだ、などと批判していて、うんざりした。飲食業の人と医療従事者を同じグランドで論じても百害あって一利なしである。役割がまったく違う話であるし、いまはまずワクチン接種を進めて社会をなるべく早く正常に戻すことが優先で、そうなれば自動的に飲食業も回復するのである。弱者の困窮を引き合いに出して医療従事者の手当を批判して正義の味方を任ずる態度は、私には朝日新聞的な正義として不快である。いまそんなことを言うのは事態を停滞させるばかりで、ただのバカだ。

 

 

連休最後の日

 巷では今日が連休最後の日。自動車会社などは九日まで休みらしいから、連休最後ではない会社もあるようだ。リタイアした日から終わりのない連休が続いているので、私には関係ないはずだが、それでも連休中には出来ないことがあるからそれを意識するし、世の中の人がお仕事にいそしんでいるのに、自分だけぼんやりしていることに後ろめたさもあるから、他の人も休んでいるのだなあ、と思えて、連休は心が安らぐところがある。

 

 なんだかすべてが弛緩してしまって、無為の中にいる。無為の中にいても生まれつきの貧乏性だから、時間がただ空費されていくのはもったいない気がする。数独パズルの本を開いて問題を解き、ボケ防止のために頭を使ったつもりでいるが、なにも生産していないことがむなしく感じられてしまう。それなのにおもしろいから止められない。開き直ってむなしさを味わったりする。映画やドラマを集中して観ているから、眼が悲鳴を上げている。目薬をさしながら観るというのもバカな話だ。

 

 家庭菜園などの楽しみは、そういう意味でなにかを生み出している実感が得られるのだろうなあ、と想像する。ささやかに鉢植えのニラとパセリとバジルが成長しているのを眺めているだけでもそれなりの癒やしはある。

 

 歯医者から定期検診の案内が来ているが、予約を入れる気がしない。少し先延ばしにするつもりだ。廃車の手続きのための書類が来ている。まだ記入していない。それに印鑑証明も必要だから役所に行かなければならないし、郵便局で配達記録郵便として発送しなければならないから、郵便局が開かなければ発送できない。事故担当の保険会社から、私から要求した処理手順書のメモが届いている。明日確認の電話があり、明後日に担当者がやってくる。言いたいことをまとめておかなければならない。

 

 それよりなにより、油断していると家の中が散らかり放題になっている。それを多少は片付けないと気持ちも整理がつかない。独り暮らしなら食事ひとつでも自分で買いだして自分で作らなければならない。生活をしていればほかにもこまごまとしたことがある。生きるということはそういうことを一つ一つ処理することであるようだ。

2021年5月 4日 (火)

映画三昧

 四月中にもずいぶんたくさん映画を観たけれど、ほとんどが頭の片隅に収納されてしまって、いつもと違って記録していないのでなにを観たか思い出せない。忘れないうちに、この数日に観たものを書いておく。

 

『イーダ』2013年ポーランド・デンマーク。モノクロ映画。白黒と言うよりややセピアがかった色調のモノクロである。コントラストが抑えられているのは、カラーで撮ってモノクロ処理したのかも知れない。アカデミー賞の外国語映画賞を受賞している。

 

 1960年代初めのころ、ポーランドの修道院で育てられた孤児のイーダが、正規の修道女になる前に、自分の出生の秘密をさぐる旅に出る。身内であるのに自分を引き取ってくれなかった伯母を訪ね、自分がユダヤ人だったこと、両親を殺されたことなどを知る。その経緯を映像でたどることでイーダの心象が表現され、同時にあの戦争でのユダヤ人の受けた惨劇が強烈に浮かび上がってくる。伯母が身を持ち崩した原因を知り、イーダはある目覚めを感じる。修道院に戻ったイーダのとった行動とは・・・。すべてが淡々と展開するのに、記憶に残る映画と言っていい。

 

『オペレーション・ウルフパック 特殊部隊・軍狼作戦』2019年トルコ。トルコの戦争映画は何本か観たけれど、リアルで迫力がある。

 

 トルコとシリアの国境付近での掃討作戦に向かったトルコの特殊部隊が、的が撤退したはずの村で立てこもる多数の敵に遭遇してしまう。倒しても倒してもあらたな敵が現れる。絶体絶命の中で援軍がくるのを待つ間に次次に味方が倒されていく。ある意味でトルコの戦意高揚的映画の部分もある(クルド人部隊をテロリストと決めつけていたりする)が、この映画もリアリズムに徹していて、アメリカ映画みたいに銃弾を受けたのに元気に走り回る、などと言うことはない。弾を受ければ身動きできなくなるものだと思う。受けたことはないけれど。栄光を掲げながら、戦争のむなしさを表しているようにも見える。

 

『ウオール 絶体絶命』2019年レバノン・フランス。レバノンとイスラエルが一時的に停戦状態になった辺境の村での出来事を描いている。

 

 ベイルートから車で、その村から父を連れ出すためにやってきた主人公が遭遇する出来事。近くの町はがれきの山と化し、村には父の姿はなく、残っていた老人二人に父の消息を聞くが、あいまいな情報ばかりでわけがわからない。ベイルートへ引き返そうとした矢先に子供連れの家族に車を奪われてしまう。茫然自失する主人公。

 

 

 とつぜん砲撃が始まり、停戦が破られる。村はイスラエル兵に占拠されたらしいが、奥深くに潜んでいる彼らには外の様子がわからず、壁越しに聞こえるヘブライ語の会話から、断片的な情勢を知るばかりだ。延々とそのような緊迫した状態が続き、人が死に、イスラエル兵は撤退し、呆然とがれきの中を歩く主人公の姿を映して映画は終わる。

 

 登場人物たちと同じように、私もひたすら忍耐を続けて観ていたけれど、その忍耐の限度を超えかけたところで映画が終わりほっとした。『レバノン』というレバノンの戦車部隊の話も似たような忍耐してみなければならないシチュエーション映画だった。レバノンはずっと忍耐しているのだろう。

2021年5月 3日 (月)

休む理由

 以前からずっと拝見していた「しらこばと」さんのブログは、昨年だったかに、ココログから別のブログに移ってしまった(移った理由はココログに集う人たちなら明らかだろう)。「しらこばとweblog」というそのブログも引き続き拝見させていただいていたが、しばらく休むことにしたそうだ。休む理由は、コロナ禍で出歩くことが減り、ブログを書く材量が少なくなっているからだという。その気持ち、よく解るけれども、内容の濃い、そして写真も美しいブログだったから残念だ。早く再開されることを願っている。

 

 十年ほど前に始めた私のブログの記事数は、今年中に一万を超える見込みである。前にも書いたけれど、さまざまのものを読んだり、観たり、知ったりしたことで頭に浮かぶ想念は、うたかたの如く浮かんでは消え去ってしまう。その想念は断片でしかないけれど、それを書き留めることで、多少はものの考え方が深化するのではないか、と思ったのがこのブログを続けている理由である。ある意味で自分の備忘録であり、読む人を想定しているから公開日記でもあり、長い長い自己紹介でもある。

 

 しらこばとさんではないが、やはり長い引きこもり生活を続けていると、一日二回書くことにしているこの私のブログも、書く材料に困る日もある。いろいろ思うことはある。しかしそれをその都度メモなどに書き留めているわけではないから、ほとんどが消えてしまい、一度消えたものがふたたび浮かぶことはめったにない。どうも消え方が以前より早くて消え方も徹底している気がする。もともとつまらないことばかりなのか、脳の記憶の衰えなのか・・・たぶん両方なのだろう。

 

 今はブログを休むつもりはないけれど、無理にひねり出したものが中身のないものなら、読む人にとって迷惑だろう。どうしたものか。

2021年5月 2日 (日)

AVアンプがフル活動

 夜になると微熱(37℃前後)が出ることが続いたが、鼻がむずむずしてくしゃみが出るのがなくなるとともに、ようやく発熱もなくなって、大げさに言えば体内にいた禍々しい異物が抜け出しかけているような気分である。しかし、まだしばらくは無理は止めておくつもりである。

 

 整形外科の医者からは、五月に入ったら安静からストレッチや散歩などで身体をなるべく動かし始めるように言われている。身体のバランスが事故のダメージで狂っていて、それであちこちが痛むのだそうで、動かすことで正常に戻って行くはずだとのことである。完全に元通りになるには長ければ数ヶ月かかることもあるから、気長にやるように言われているのだ。

 

 いつもなら月に10~15冊くらいは読める本が、四月は週に一冊読むのがやっとだった。おかしなテンションだったのは、前にも書いたけれど、防御反応的に心身が興奮状態だったのだと思う。ようやく集中力ももどりつつある。昨日の晩からたまりに溜まった録画を片端から観ている。

 

 イギリスのミステリードラマ『THE BAY 空白の一夜』全六回を、昨晩から一気観したので、頭が熱くなったし目もくたびれた。そのあとに『ワイルド・スピード スーパーコンボ』という映画を観た。ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサムという強力コンビの痛快活劇で、気分がスカッとした。

 

 目薬をさして少し目を休めて、夜にもう一本くらい映画を観ようかどうしようか迷っている。連休の五日まではとことん映画三昧をしようと思っている。目標、五日までであと10本。AVアンプがフル活動である。ちょっと隣にはうるさいかなあ。もちろん夜は音量をひかえている。

見積もり

 昨日、ディーラーの人が我が家にやってきた。推奨の車種、およびいわゆる店頭価格の目安はすでにいただいていたので、もう少し詳しい打ち合わせをした。装備は極力安全機能を備えること、いままでこだわっていたセダン型ではなく、乗り降りの楽な車を選ぶことにした。長距離を走ることが前提で、しかも弟夫婦を乗せることも考慮して、後部座席が狭くないものとなると、やはり少し大きめの車ということになる。

 

 車はもちろんマツダ車である。お飾り的な削るべき装備は削り、大まかな提案価格に納得したので、結論としてCX-30という車種を選んだ。ディーラーの担当者には今回の事故でも廃車手続きなどすべて頼んだりして、ずいぶん世話になった。それに息子がマツダに勤めているから、値引きがそれなりにあることも当てにしている。事故で死んだかも知れないことを思えば、使うときに使ってしまうのもありなのだ。

 

 すでに廃車になったアテンザの保険は金額が確定している。あとは怪我の慰謝料などがどれほど出るかによるけれど、心づもりはほぼ決まった。ディーラーの人は試し乗りのために、フル装備のCX-30に乗ってきていたので乗せてもらった。もし迷っているようなら乗ってもらって決めてもらおうと思ったと言って笑っていた。それだけ自信があるのだろう。乗り心地、周囲の視認性など、素晴らしい。とても運転がしやすい。早く自分の車にして日本中を走りたいものだ。

 

 今は車両用のICがないので生産が停滞し、納車は下手をすると七月だという。購入を確定しなければますます納車が先になってしまう。というわけで連休明けには契約をするつもりである。息子に連休明けには必要な書類を書いて送るように依頼するつもりである。それでずいぶん安くなる・・・と期待しているのだが、どうだろうか。

2021年5月 1日 (土)

兄貴分の人

 私は大学時代以来、年上の先輩たちに可愛がられることが多かった。下宿していた山形時代の一年間、同じ下宿の四年生のワンゲルのサブキャプテンの先輩には、本当に世話になった。クラシックの基礎から教えられて、いまの私の音楽の知識の原点はこの先輩だし、蔵王や吾妻の山を歩けたのもこの先輩のおかげである。ざる碁ではあるが囲碁をおぼえたのもこの先輩のおかげだ。二年生からは米沢に移り、寮に入った。先輩たちにはおろしがねでおろすように、軟弱な精神をズタズタにされ、酒に耐えるように強制された。さいわいそれに耐え抜いたら、けっこう楽しい寮生活を送ることが出来た。

 

 私は高校時代と大学生になってからは別人である。別人になることを自分で意志していたけれど、それをエスコートしてくれたのは先輩たちである。むちゃくちゃにされることを愉しむ気持ちになれば、先輩の懐に入れる。そのことが就職して営業職になったときにどれほど助けになったのか、はかりしれない。

 

 私はとことん個人主義的な人間で、他人との関わりは最小限にしたいと心の底では思っている。そういう性格だけれど、意識して前に出て、人と関わる生き方を選んできた。だから慰留されたけれど六十歳で退職した。かなり疲労も溜まっていたし、そろそろ本音で生きてもいいかな、という気持ちであった。

 

 会社に入ってすぐに配属された東京の営業所で二人の先輩たちに出会い、本音でぶつかっていった。一人の先輩の家には、近くに下宿していたから留守なのに当たり前のように勝手に上がり込んだりした。まだ学生気分が抜けていなかったけれど、日々が楽しかった。もう一人の先輩には生き方の原点をもう一度考えさせてもらうような付き合い方をした。私自身を考え直すことが出来た。

 

 そのすぐあとにやってきたのが五歳年上の兄貴分の人だった。それ以来の付き合いだから、もう四十年をはるかに超えている。その兄貴分の人とは家族ぐるみの付き合いだし、ずいぶんわがままを言ってきた。この先輩には私のすべてを話してあると言っていい。

 

 ここまでがまくらである。その先輩にはもちろん事故の連絡をしていた。その兄貴分の人がその後の様子を訊ねて電話で連絡してくれたのである。いつも通りの兄貴分の人なのだけれど、我がことのように心配してくれていることを感じて、ちょっとうるうるしている。そのことを書きたくて書き出したのだけれど、まくらだけの話になってしまって申し訳ない。嬉しかったことをそのまま書くのが照れくさいのである。

混々沌々

『武田泰淳対談集 混々沌々』(筑摩書房)をようやく読了した。体調の問題も大いにあって読むのに苦労したけれど、苦労したのは体調のせいばかりではない。

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 この本が出版されたのは昭和45年の3月、対談は昭和38年から44年にかけて行われたものが集められている。対談の多くは、私が高校生から大学に入学したばかりのころのものである。ベトナム戦争の時代、文化大革命の時代、’60年の安保反対運動の余塵と’70年安保闘争の狭間の時代でもある。東大安田講堂の攻防は昭和43年末から44年初めにかけてのことだったかと思う。つまり政治の時代だった。高校生だった私たちは、毎日一時間ほどクラスで討論会をしたり、壇上で論ずる日々だった。デモに参加する者たちも数多くいて、それが当たり前の時代だったのだ。

 

 この本の初めの方は貝塚茂樹や竹内好などとの、中国に関する話題が語られているので、私には読みやすかった。しかしそこには新生中国礼賛の基調が流れていて、「大躍進」の二千万とも四千万ともいわれる死者たちがいた凄惨な事実は語られず(たぶん知らなかったのだろう)、そこでは日中戦争の日本に対する非難と、そこから立ち直りつつある中国の明るい未来ばかりが述べられている。それはそれで日本中がそう思っていたからかまわない。現代の目で過去を批判しても仕方がない。

 

 そのあとには作家、文芸評論家などとの対談があり、さらに科学者や小松左京などとの対談が収められている。科学の発展と日本、そして文学と政治についてのものの考え方がやや硬直的なところは時代の故か。

 

 読み進めなくなったのは、巻末の鶴見俊輔(哲学者、評論家、市民運動やベ平連活動を行った)、野間宏(作家、左派思想で受刑している)との対談あたりである。

 

 私はどちらかと言えば右寄りだと思うけれど、左右どちらであっても聴くべきこと、読むに値するものについては頭ごなしに拒絶しない。それでもこの二人対談対談を呼んでいると、なんだか不毛の空論に思えてしまって、次第に読むのが苦痛になってきたのだ。それなら放り出したらいいのだが、もう少しで読み終わるのなら読み切ろうと、我慢して読み切った。

 

 どうやら私は市民運動家、市民活動家というのが苦手なようである。菅直人、文在寅を引き合いに出さなくでも、わかる人にはわかってもらえるだろう。武田泰淳はそういう人たちとどうにかシンクロしようと努力しながら、どうしても納得できないでいる自分に困っている様子がうかがえる。武田泰淳は正義とは何かについて、正しく認識することの出来る、まともな人なのだと思う。そう思いたいからそう感じられるだけかも知れないけれど・・・。

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