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2021年6月

2021年6月30日 (水)

二回目ワクチン接種

 定時より少し早めに接種場所(私のかかりつけの病院)に着いたけれど、すでに一番最後くらいであった。年寄りはせっかちである。私も早いつもりだったが、かなわない。二度目だから手順はわかっている。トントンと問診も終えてたちまち接種が済んだ。今回も注射の痛みはない。ただなんとなく腕がおもだるい気がする。

 

 病院まで、脚が元気な時は17分くらいでいけたけれど、今は20分弱。ゆったりと歩いているのもあるし、暑いから早足だと汗が出るのであえて急がない。気温は高いが風がけっこうあり、気持ちが好い。往復で四千歩あまり歩いた。

 

 そろそろ郵便受けに保険会社から手紙が来ていないかと郵便受けを覗いたが、まだである。我慢比べでも仕掛けられているのか。それなら相手のペースに乗らないでゆったりと構えることにしよう。

 

 今晩から二三日、副反応を覚悟してじっとしているつもりである。抗体ができるまでに二週間ほど必要らしい。それまでに待ちに待った新車が来る。車を待つ間は雨が続くらしいから、せいぜい映画やドラマの鑑賞でもしようと思う。妻の病院は14日に行く用事がある。ちょうど抗体ができた頃か。それからしばし煩わしい話を病院と交渉することになる。それが済んだら八月が母の七回忌なので、弟のところに事前打ち合わせに行く予定。その頃には弟夫婦も二回目の接種を終えているはずなので、久しぶりに酒を酌み交わすのだ。

なぜ、なぜだろうと思うのだろう

 東スポのネット記事によれば、立憲民主党の蓮舫議員が、「『素朴な疑問』、テレビのワイドショー、情報番組はなぜ、今行われている都議選ではなく韓国大統領選の特集なんだろう」と自身のツイッターでつぶやいたそうだ。

 

 彼女はこうつぶやいたあと、なぜなのか考えたのだろうか。つぶやく前になぜなのか考えたのだろうか。まさか誰かに考えてもらってそれを教えてもらおうというのではないと思うから、とうぜん彼女なりの考えがあり、それとテレビの報道の優先順位が違うからこのような問いかけになったのだろう。

 

 韓国の元検事総長が事実上の立候補表明をしたことが、ニュースバリューがあるとマスコミが判断したのはべつに首を傾げることではない。都議選はまだ始まったばかりで、取り上げるべきエポックはあまりなかったのだろう。小池都知事がふたたび公の場に登場し、都議選やオリンピックについて語ったりすれば、マスコミは一斉にそれを報じるだけのことだ。

 

 わざわざニュースバリューに疑念を投げかけることで、彼女はマスコミに対し、また国民に対して何をさとそうと考えたのだろうか。ものごとを相対的に考えることの苦手な彼女の姿勢が感じられるニュースであった。彼女は常に正しいのだろう。くたびれることである。

苛つく

 早めに一度眠りについたのに、十二時前に眼が覚めてしまい、そのあとどうしても眠れなくなってしまった。四時過ぎの薄明を見たころようやく再び眠りについた。

 

 起きたのは八時前、寝汗をかいていたので風呂に入る。

 

 今日は三時過ぎに二度目のワクチン接種。体調はたぶん大丈夫。副反応で発熱することも想定して、二三日はじっとしていてもよいように体制を整えておくつもりだ。

 

 事故担当の保険会社に保険による治療の終了を告げたのが二週間あまり前、示談の書類を作成して送るようあらためて伝えてからもう十日以上が経つが、まだ来ない。焦らし戦術か、ただの怠惰なのかわからない。両方かも知れない。考えているとイライラしてくる。誠意のない会社だと思う。示談の最終案が納得できないようなら、保険会社の名前をこのブログに公表しようかどうしようか考えている。

2021年6月29日 (火)

北欧ドラマを観ていて

 北欧ドラマ、スウェーデンのリゾート地・サンドハムンが舞台のミステリードラマ『凍てつく楽園』はシリーズになっていて、今日第9話から13話を一気に観た。一話100分ほどのドラマなので4話ではほぼ六時間近くテレビ画面に釘付けである。気がついたらいつもブログを書く時間を過ぎていた。

 

 この前の第8話を観ているのかどうか記憶がはっきりしない。全編に関係しているヒロイン(というには薹が立っているが)のノラという女性は代わらないのだが、刑事役が第9話から代わって、ノルウエー生まれの刑事が登場している。

 

 北欧の、男女関係に寛容さとはこういう関係なのだということを教えてくれる。その関係は、日本的節度からみればかなり自由であるが、それだけ相手のさまざまなことをまるごと引き受けることになる。その引き受けたことの重さを引き受けきれずにかなりストレスフルな生き方を余儀なくされるのだ。自由ということの煩わしさをなるほどなあと思いながら観ていた。

 

 とにかくヨーロッパの、特にイギリス、デンマーク、スウェーデン、アイスランドなどのドラマがとりわけ好きなので、このシリーズもお気に入りである。だいたい外れがないのがありがたい。今回は第13話がいささか出来が悪く感じたけれど、おおむね満足だった。

 

 ああくたびれた。

強がり

 子供達がまだ小学生で、頼るのは父親の私だけになった頃、私が少し元気がないのをみて子供達が心配したことがある。その時、私は強がりを言った。
「お父さんは鉄でできているから大丈夫だ」
さすがに本当に私が鉄でできているとは思わなかっただろうが、子供達は安心したようだ。

 

 その子供達も長ずるに及んで、私よりも賢いから、父親を頼るよりも自分を頼る方がよいことを自ら学んで真っ当な大人になった。

 

 お父さんは鉄でできている、という言葉は、ずっと私が自らを奮い立たせる胸の中の言葉として残っている。その私はすでに鉄でできている、などという強がりを言うことができないほど衰えてきたことを実感している。

 

 とはいえ、先般の追突事故で当てられて、車はぺしゃんこになりながらそれほどの大けがでなく済んだのは、多少外殻の鉄の部分が残存していたからかと思う。その鉄の鎧ももうボロボロだ。もうちょっと保たせたいから、これからは安全第一で生きることにしよう。

2021年6月28日 (月)

デジタル社会の崩壊

 マイナンバーカードの普及に反対する人たちがたくさんいて、私には最初どうしてなのか分からなかった。マイナンバーカードに銀行口座を紐付けして個人の収入をすべて明らかにし、アングラマネーをなくしていくことで税収を大きく増やすことが可能だという話を聞いていたからだ。脱税をなくしていくことがなぜ悪いのだろう。私は脱税などしたくてもできない。世間のたいていの人はそうだろう。秘匿した口座が明らかになって困るのは金持ちに決まっているのである。

 

 ところがテレビや新聞ではマイナンバーカード批判ばかり繰り返していた。それを真に受けて、みなマイナンバーカードは国家が個人を管理する悪いカードだと思い込まされたようだ。

 

 もちろんマイナンバーカードの情報を外部に漏れないようにしっかり管理できるかどうかを疑うのはとうぜんで、そういう意味での不信はある。しかしカードの利便性は、今後大いに高まると私は思う。

 

 それを不信感ばかりマスコミが取り上げるのは、金持ちたちに迎合しているからだと思う。プライバシーを侵す犯罪が盛んに取り上げられているのも、もしかしたら意図的なマイナンバーカード潰しの策略ではないか。ちょっと考えすぎか。私は匿名での犯罪が大嫌いだ。電話で人をだますのも、電話の匿名性を悪用している。

 

 このような犯罪者に反撃する方法が必ずあるはずなのだが、それは隠されているような気がする。ITやAIによる犯罪に反撃できたらずいぶんすっきりするのだが、もしかするとそれはそもそもデジタル社会そのものを崩壊させることになるのかも知れない。

大都市の問題

 小池都知事が過労でダウンしている。強いほどもろいと言うけれど、彼女の耐久力の限界を超えてしまったということだろうか。計算づくだという見方も一部にあるのは、彼女のこれまでの言動があるからだろう。まさか仮病ではないだろうから、私は批判する気にならない。ただし、彼女が静養している間にその代わりにその重圧を支えている人たちがいることは忘れてはいけないだろう。

 

 都議選が始まっても総帥を欠いてしまって、それでなくとも苦戦を予想された都民ファーストはいっそう苦戦を余儀なくされるだろう。しかしそれで沈没するならそれだけの存在だったということだろう。もともと期待された割には何をしているのかあまりよく解らなかった政党だ。ブームで政治をしていたとあとでいわれないために、小池都知事は何をしようとしていたのだろうか、よくわからない。

 

 都知事選、そしてオリンピックと肝心の所で壇上にいるかいないか危惧されるというのは、心苦しいことだろうが、その彼女に同情票が集まる気配があまり感じられないのは、コロナ感染対策が奏功していないことが原因だろうと思う。いったい東京都庁は何をやっているのだ、という批判が寄せられるのは役割上仕方のないことだ。強い彼女は泣き言を言わない、愚痴を言わない。パネルを見せて他人事のように状況説明をしているだけに見えていただろう。もう少し困って見せ、弱って見せていたら、政敵には激しくなじられても、同情票は稼げたのに、と思う。彼女のスタイルではないけれど・・・。

 

 東京は人口が多い。しかも若者が多い。若者の人口が多いということは、愚かな若者の人口が多いということだ。千人に一人、万人に一人の愚かな若者がいたとしても、普通の自治体なら全体に埋もれるのに、東京だと一定数の集団になってしまう。それを押さえ込むことなどできないのは、世界中の大都市でも似たような集団が発生して問題になっているのをみればわかる。制御不能の愚かな集団が発生しやすいというのが、大きな都市、自治体の最大の問題なのかも知れないと思ったりする。愚かな集団は若者に限らないが。

 

 やはり巨大都市というのは管理が困難だという意味で不自然な存在なのだろう。それを管理しようとすると中国式にやるしかないのか。そもそも巨大な組織は自浄作用が働きにくくなり、腐ったコロニーを発生させやすいという宿命をもっているのかも知れない。

2021年6月27日 (日)

調子から理解へ

 漢詩をたまに読む。高校生時代、漢文の時間に漢詩を教わって、まだ記憶力が衰えていなかったからいくつかの漢詩をまるごと覚えた。漢詩は本来中国人が読むように、そして歌うように読むのが本当らしいが、中国語はわからないから書き下し文で読む。漢文独特の読み方ではあるが、調子が好いから、声に出して読んでみると気分が好い。

 

 十年ほど前に、石川忠久という漢詩の先生の監修でNHKBSで三十分ほどの番組にしていろいろな漢詩を詠み、そこに中国の漢詩にちなんだ風景を見せてくれた。そのうちの十回分ほどをコレクションに残してある。詠み手は加藤剛で、なかなか味わいがある。もう三回ほど味わっていて、三回観たから、観たものから消去している。とっておくのは未練な気がしてきたのだ。

 

 最初に王子江(おうすこう)が詩人の肖像画を描いていく様子がまた素晴らしい。王子江は中国人で日本の大学で絵を学び直し、今は中国で活躍している画家で、先日は彼のドキュメントを放映していたから観た人もいるだろう。天才である。下書きせずに紙に筆ですらすらと書いていって、そのまま絵になってしまう様子は魔法のようである。

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 詩人の生きた時代とその詩の背景を知ると、調子の良さの味わいから理解へと到るような気がする(まだまだだけど)。普通の日本人よりはたくさん中国に行って、ずいぶんあちこちを観て歩いた。少しその頃より漢詩の世界が解ってきたから、同じ場所へ出かけたらもう少し感慨が深まる気がするけれど、今の中国ではとても行く気になれないのが残念な気がする。いまはたくさん撮った写真をぼんやり眺めるばかりである。

自分は変わっていないと思うけれど

 子どもの時から映画が大好きだった。父が教師だったので、私が幼稚園くらいの頃には映画の券がときどき手にはいった。中学生などが夜映画を観たりしていたら不良と見做された時代だったから、教師はときどき映画館を巡回していたのだ。父は映画にほとんど興味がないし、余分に手にはいれば母に渡していたらしい。母は映画が大好きだ。

 

 母が観に行くのは原節子などが出る日本映画だった。そして私も一緒に行きたがるから連れて行ってくれた。だから大人になって1950年代の日本映画を観ると、ストーリーは覚えていないけれど、シーンに見覚えがあることが多い。

 

 小学校に入ってからは、二三ヶ月に一度くらい、学校から映画館の割引券が配布された。たいてい時代劇である。休みの日に朝からならび、三本立てを二度くらい観ると昼をだいぶ過ぎてしまう。母は怒って昼飯を片付けてしまっていたりして空腹が切なかった記憶がある。でも懲りなかった。そうして現在も映画が大好きだ。

 

 最近WOWOWから録画した中国の特撮ものの映画を立て続けに観た。

 

『セブンソード 修羅王の覚醒』
『モンスター・ハント 王の末裔』
『ムーラン 戦場の花』
『三国志 周瑜と孫策』
『タイガー・ハンター 水滸外伝』

 

 そのカラフルでめまぐるしい映像を見ていて、不思議なことに、子ども時代に映画を観た時のことを思い出した。しかしちっとも興奮がない。映画としては全く評価しがたい。かろうじて『セブンソード 修羅王の覚醒』と『ムーラン 戦場の花』くらいが観て時間の無駄ではなかったといえる。どうして特撮を駆使し、俳優に激しいアクションをさせ、大金をかけたであろう作り方をしながらこんな風につまらない話にしてしまうのか理解できない。

 

 つまらないギャグやおふざけが全体をぶち壊しにしているし、もともとの話をこんなにめちゃくちゃにしていることに我慢がならない。観客をバカと見做してバカ向きに作りました、としか思えない。そうしてこういう駄作を造って金の無駄遣いをして、それこそバカなことだと思う。

 

 映画を素直に楽しめなかったのは、私が変わったからだろうか、それとも駄作が悪いのだろうか。

2021年6月26日 (土)

何を請願しているのか解っているのか

 私はふだん、ネットで韓国のことを知るために、朝鮮日報、中央日報、ハンギョレ新聞の記事を読む。朝鮮日報は保守寄り、ハンギョレ新聞は革新寄り・・・と言うより文在寅政権べったりで、中央日報は中道のやや保守寄りという所かと思う。

 

 私などから見ると、朝鮮日報が一番まともに見えるのは、反日で筆がゆがめられている度合いが一番少なく見えるからだ。ないわけではない。それはあまりまともに書きすぎると韓国では批判の対象になって購読数が減るおそれがあるからだろうと好意的に推察している。

 

 その朝鮮日報がチョ・グク元法務部長官を風刺したイラストを掲載し、革新系の勢力から激しい非難を浴びている。それはべつにかまわない。どこにでもあることだ。

 

 問題は、大統領府への「朝鮮日報の廃刊」の国民請願があっという間に20万人の規定を超えて、韓国政府がそのことを取り上げて見解を述べなければならなくなったことだ。この20万人の請願が、愛知県の大村知事のリコール署名のように本当に別々の20万人かどうかは知らないが、そういうシステムであるから大統領府は国民の声に応えて何らかのコメントを出すだろう。

 

 これは風刺のイラストの非難のかたちを借りた、朝鮮日報を廃刊させろという言論封殺であることを認識した上の請願なのであろうか。香港のリンゴ日報が中国政府の指示で廃刊に追い込まれた直後に、このような請願を行うことの恐ろしさを韓国国民は理解しているのだろうか。それを左派のマスコミが煽り立てているならとんでもないことだ。

 

 この国民請願が組織的な使嗾によって行われた疑いが極めて高いと私は思っている。何しろ三日間でたちまち20万を超えたのだから。それでも韓国国民全体からすればごくわずかだが、大統領府は国民の声として取り上げることになる。私には明らかなマッチポンプに見える。

能書

 薄田泣菫の『茶話』という本は上中下と三巻になっているが、おもしろいことにページは通し番号になっている。だから下巻の最後は千ページを超えている。上巻はすでに読み終え、中巻を四分の一ほど読み進めたところだ。その中巻から一つ。

 

能書
 むかし長崎の訳官に、深見新右衛門という男がいた。怖ろしい能書で、一度筆を持つと、平素(ふだん)の温和(おとな)しさとは打って変わった力のある字をさっさと書いてのけたものだ。
 新右衛門がある時、旗本の某を訪ねると、かねてこの男が能書の噂を聞いていた某は、「ようこそ、おわせられた」と言って、貼り立ての立派な屏風を座敷に担ぎ込んできた。
「何でもよろしい、一つ記念のために書いてもらいたい」
 ひとしきり酒がすむと、新右衛門は筆を取り上げて屏風に向かった。たっぷり墨を含ませた筆先からは、いろいろな格好をした字が転がり出した。どの字も、どの字もが濁酒(どぶろく)にでも酔っ払ったように踊ったり、とんぼ返りをしていたりした。
「素晴らしい出来だ、千万忝い」
と旗本は丁寧に礼を述べたものの、何が書いてあるのかどうしても読み下せなかった。新右衛門に訊いて笑われるのも業腹なので、どうにか飲み込めたような顔をして、
「いや全く素晴らしい出来だ」
と同じようなことをまた言って、嬉しそうに声を立てて笑った。
 それから二月ばかりして、新右衛門はまた某の邸(やしき)へ来た。そして座敷に飾り付けてあった先日の屏風を不思議そうにじっと見ていた。
「結構な出来だ、どなたの蹟(て)でしょうな」と独り言のように言っていたが、しばらくするとちょっと舌打ちをした。
「一字も読めない。恐ろしく達者に書き上げたものですな」
 旗本はそれを聴くと、猫のように目を円くしたが、すぐまたあの当時読み下せなかったのは、自分の頭が悪かった故ではなかったと気がつくと、額に手を当てて満足そうに深い息をした。
 和歌山の光明寺の開山に、円通といって、草書に巧みな和尚がいた。檀家に手紙でも書く折には、上手にまかせて草書でさっと書きなぐるので、貰い手の方では幾度見返しても読み下せないことが多かった。
「和尚様、こんな所は何と書いて御座いますのですな」
そんな折には、檀家の者はてくてく歩きで、わざわざ寺へ訪ねて来て、和尚の前へその手紙を拡げて見せたものだ。
「どれどれ、なるほど読み難い文字だな」と和尚は幾度となく頭を傾げているが、ついぞ解った例(ためし)はなかった。で、終いにはいつもこんなことを言って笑ったものだ。
「わしにはてんで読めおらんわい。弟子の許に持ってゆかっしゃれ。あいつはわしの字と来たら、本人のわしよりもよく読みおるからの」

 

 この話を読んで大いに笑ってしまった。私の仲人で、上司だった人は、まるごと賞状を書けるほどの達筆だったが、同時に字を書くのがとてつもなく早い。思いついたことを積み上げたメモ用紙に書きなぐってぽいと投げてよこしたりするのだけれど、そこには大事な指示事項がメモされている・・・はずなのだが、崩し字でほとんど読むことができない。

 

 ある時期秘書役だった女性(私が海外に毎年行く時の仲間のひとりでもある)はそれをすらすらと読みこなし、みごとに分かりやすくしかも美しい字で文章に書き換えてくれた。何を考えているのか理解すれば、読みとることができるわけで、私も苦労しているうちに半分以上読みこなせるようになった。そのことを思い出したのだ。

2021年6月25日 (金)

復調

 ときどき散歩する。久しぶりに30分ほど少し早歩きで散歩したら汗みずくになった。腰も膝も事故以前に戻った、というよりそれ以上に調子がよい。またすぐ不調になるかも知れないが、とにかく今日現在は調子がよいのはありがたい。

 

 ただ、なんとなく身体全体のバランスが取りにくいところだけ気になる。体幹の狂いよりも、平衡感覚が衰えている感じである。こういうときに、えてして躓いて転んだりするからこころしなければならない。医者に強く注意されていることである。

 

 体重が自分の思う上限を超えたら、たちまち足がむくんで、排尿に濁りは出るし、スムーズでなくなる。適度に水分を摂り、間食をやめ(ピーナッツなどを食べ過ぎるとたちまちむくみが出る気がする)、汗をかくようにしたら、むくみは引き、排尿もスムーズになった。

 

 晩酌はビールをやめ、ハイボール一杯と日本酒一杯だけにしている。飲み過ぎるとたちまち不調になる。もう無理の利かない年なのだということを思い知らされる。

 

 車が来たらあちこち走り回りたいと思っているが、今までのように、ちょっとした滝の看板を頼りに山道を歩くようなことは危ないからもうできなくなった。たぶん頭も多少ガタが来ているかと思うのだが、比較するものがないのでわからない。それがさいわいかも知れないけれど。

 身体も復調したのでもう診療は打ち止めにすることを伝え、保険会社に示談の書類作成をするよう連絡しているが、示談案がなかなかこない。どうもやることがスローモーすぎて、イライラさせられる。早く片をつけて縁を切りたい。この保険会社にはうんざりだ。

問題だと思う

 西村宮内庁長官が、天皇の心情を「拝察」してオリンピックの開催に懸念を示したことは問題だと思う。コロナ禍で国民が苦しんでいることを天皇が心配するのはとうぜんだ。しかしオリンピック開催の是非にまで言及したかたちになっていることは、この言葉がオリンピックを政争の具や政府批判の材料とされてしまうことが予想されて、明らかに政治的な発言となってしまう。

 

 西村宮内庁長官は個人的見解を表明しただけだと加藤官房長官は事態の収拾を図ったが、一度発せられた言葉は巷間で取り上げられてさまざまに拡散するだろう。私の印象では、NHKは比較的に冷静に伝えていたが、民放はすでに天皇の思いを宮内庁長官が代弁した、というニュアンスで報じているようだ。そう取るのは不自然ではない。

 

 このコロナ禍の最中でのオリンピック開催の是非については、さまざまな考えがあるだろうと思うし、私はオリンピックそのものにあまり関心がないので、それについての私の考えを書くのは今は差し控える。

 

 天皇はこの西村長官の「拝察」を否定するわけにも肯定するわけにもいかない立場である。西村長官がそこまで踏み込んだ言葉を発したくなるほど天皇がオリンピック開催に批判的だということなら、天皇が西村長官に言わせたことになってしまう。そうなのだろうか。それなら天皇自身にも問題があるといわなければならなくなるる。上皇が天皇であったなら、決してしないことである。

 

 役割を逸脱した言動は絶対にひかえるのが象徴としての天皇の矩(のり)であり、この収め方は非常に難しい。西村長官を処分すれば大騒ぎになるからである。西村長官は戦前軍部が天皇を利用したのと同じようなことをしたことに気がついているのだろうか。なんたることか。

不審

 日本が送った新型コロナ用のワクチンは、台湾に感謝されたと聞いて素直に喜んでいた。多くの普通の日本人は同じように好かった、と思ったはずである。

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 その送られたワクチンを接種後に十数人が死んだとか、三十数人が死んだというネットニュースが散見されて、どういうことかと不審に思っていた。

 

 日本が管理の悪かったワクチンを送ったのか、台湾での管理が悪かったのか、という技術的な問題も可能性としてないことはないかも知れないが、ワクチン効果が弱まったり効果がなかったりすることはあり得ても、それで死ぬことはこのmRNA型のワクチンの場合、ないはずである。しからばこのネットの報道そのものを疑う必要がありそうだと思っていた。

 

 冷静に聞き耳を立てている限り、台湾から、日本が送ったワクチンによる死者の多さを恨むような怨嗟の声が澎湃と上がっている、というような声は聞こえてこない。どうも台湾の、中国寄りの一部の人間が流したフェイクニュースらしく、それを大喜びで日本で報じた者がいるらしい。

 

 やはりそうか、という思いである。自発的なデマなのか、中国に使嗾されてのデマなのか、それはわからないが、デマの出元はとにかく、台湾国民がそれに乗せられないでいることは日本にとってありがたいことである。そして日本でそれを取り上げて報じた連中の背後に何があるのか、調べて明らかにしてもらいたいものだと思う。

 

 こういう汚いやり方で、せっかくの日台の友好をぶち壊しにしようという連中に、このような行動は却って中国にとってマイナスになることを思い知らせてやる方法はないものだろうか。

2021年6月24日 (木)

買ったものと買わないでいるもの

 最近通販で買ったもの。

 

腕時計式の歩数計
 たぶん中国製だろうと思う。時間と体重、身長と年齢、だいたいの歩幅を入力すると、歩数、歩いた距離、消費したカロリーが表示される。それで三千円しないのだから便利な世の中になったものだ。ただし、初期のそれぞれを設定するのがなかなか面倒で、一汗かいた。USBポートから充電できるようになっているが、充電できたりできなかったりで案外気難しい。まあ値段から考えればこんなものか。

 

蒸し器
 結婚した時に妻が持って来たのだろうと思うけれど、アルミの蒸し器をずっと使い続けてきたが、だいぶあちこちへこんでいびつになり、中敷きがピタリとはまりにくくなっているし、栗などを蒸した渋がなかなか落ちずに底が黒ずんでいた。いつか買い換えようと思ってネットで調べると、それほど高くない。ステンレス製の二重鍋で、ガラスの蓋のものが、これも三千円しない。蒸し物はときどきする。いまごろはトウモロコシを茹でずに蒸す。ジャガイモも蒸す。シュウマイも蒸す。ふかし茄子と言って、いい茄子が安く手にはいったら縦に四つ割りくらいにして蒸し器で蒸し、熱々をしょうが醤油で食べる。ビールのつまみに好い。新品の鍋はきれいだし口が広いから使いやすい。

 

冷却プレート
 電子式の冷却プレートを依頼してあるがまだ届いていない。以前旅先によく持ち歩いたAcerのラップトップパソコンが調子が悪くなったので、今はほとんど空っぽにして、寝室兼遊び部屋のオーディオのネットターミナルのみに使用しているが、すぐ熱くなる。冷却がうまくできていないようだ。だから冷却するプレートがありはしないかと思って探したら、ちゃんとあるのである。値段は思ったより高い。迷ったが、注文したところだ。

 

買わなかったもの
 冷却プレートを買うのに迷ったのは、実は新しいインターネットアンプを買いたいと思ったからだ。それならパソコンなど使わなくても直接アンプがアマゾンからのミュージックストリーミングに対応してくれるし、NASにため込んだ音楽ソフトをネットワークから流してくれるようになる。

 

 今使っているアンプはヤマハの古いAVアンプで、当時はそこそこ高級品だったが、もう三十年近く使っていて、すでに引退してもよいほど働いてきた。テレビ周りのAVシステムはDENON、寝室のオーディオシステムはマランツで統一しようと思っている。ちょうど良いネットアンプがあって、それに目をつけているのだ。

 

 しかし新車を購入したばかりである(まだ手元には届いていない)から、いささかの貯えは大きく減少しており、年金以外の収入は皆無であるから、大きな買い物はやはり逡巡する。迷いながらヤマハのアンプの設定をまた一からやり直して一日遊んでいたら、かなり今までよりも音が好くなった気がする(気のせいかも知れない)。そういうことでアンプを買うのは辛くも思いとどまっている。

内田樹・釈撤宗『いきなりはじめる仏教入門』(角川ソフィア文庫)

 現役を退いてしばらくは経済情報に興味があってニュースもトレースしていたが、歳とともにその興味も薄れていった。もともとスポーツにはあまり興味がないし、芸能ニュースもますます下劣化していくのについて行けなくなった。これは新聞を購読しなくなって、新聞の週刊誌広告欄を読むことができなくなってしまったので、知識がなくなったことも影響している気がする。

 

 現代世界が経済で動いていることは自明のことで、それに興味がなくなったのは世界に興味がなくなったかのようだが、世界が経済で動いているという状況こそがそもそも産業革命以来の世界の問題の原点だということもできる。それはわずかではあるが歴史を囓って感じていることでもある。経済原理の世界は歯止めの利かない戦争の巨大化という結果をもたらした。ついにはあまりにも兵器が進歩しすぎて、戦争に勝利する利得よりもそのもたらす損害の方がはるかに大きいことに気がついて、世界はおののいている。

 

 人間は滅亡の淵に立っている、というのは随分前から言われている警告だが、それを回避するためには経済で動いている世界を見直す必要があるのではないかと多くの人が気がつきだしている。

 

 話を広げすぎて収めようがなくなった。

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 私は外界に対する興味よりも、内面に目を向けるようになってきたようだ。山本七平の本や、曾野綾子、梅原猛の本を読めば、ユダヤ教やキリスト教、そして仏教や神道について考えさせられる。最近読んだ(まだ読みかけ)イザヤ・ベンダサン著・山本七平訳『日本教徒』という本では、不干齋ハビアンについて詳細に論じられている。江戸時代、仏教徒からキリスト教徒になり、最後は棄教した、というこの人物についてはさまざまな本で取り上げられているが、彼の残した宗教論は宗教について論じながら日本人というもの、日本人の宗教観を考えさせてくれるもののようだ(まだ読み終わっていないから断言できない)。

 

 そうして釈撤宗が『不干齋ハビアン』という本を出していることを知り、宗教に今まで以上に興味を持ち出した。今回、内田樹と釈撤宗が、交互に質問や所感、質問に対する解答を述べ合うかたちで仏教入門という名の宗教論を交わしているこの本を読み直した。読み直した、というのは再読だからで、いつものように前回はいったいなにを読んでいたのだろう、というほど内容を忘れている。

 

 内田樹もユダヤ教をベースにした哲学者レヴィナスを生涯のテーマとしているくらいだから、俯瞰的に宗教について論じながら、自分の考えた根源的なことを教えてくれている。薄い本だが内容は濃厚で、これは毎年読み直してもよいくらいであり、ここをベースにさらに別の本を読み直すと、見える世界が拡がりそうな予感がする。

2021年6月23日 (水)

ワクチン怖い

 新型コロナウイルスに感染するリスクよりも、ワクチンの副反応が怖いからワクチンの接種を受けないという人がかなりいるらしい。招来不妊症になるになる、とか、遺伝子が組み換えられてしまうなどというの過剰な副反応のリスク情報はほとんどデマに近いが、信じるか信じないかは本人の勝手だから如何ともしがたい。というわけでワクチン接種は本人の判断ということになる。

150403-53_20210623132501『ねえ、知ってる。ワクチンてさあ・・・。」

 受けない人の考えを勝手に解釈してみると、新型コロナに感染するかどうかはわからないことである。感染しない可能性も大いにある。ワクチン接種にはリスクがあることは事実としてわかっている。そしてワクチンを接種するのはそのリスクを引き受けることで、ワクチンを接種して副反応を絶対に起きないようにすることはできない。リスク回避が自分の判断で可能なのである。

 

 ワクチン接種をしなければ確実にリスクを避けられるのに、接種しないことを非難するのはおかしいではないか、というところだろう。

 

 そういう人にワクチンの副反応のリスクと新型コロナワクチンに感染することのリスクを比較して論じてもほとんど聞く耳を持たないだろう。説得しようとしても徒労に終わる気がする。そのことを理解するのは実際に自分が新型ウイルスに感染した時だろうが、それを願うわけにもいかないし。

山口瞳『青雲の志について』(集英社文庫)

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 寿屋(現サントリー)の創業者、鳥井信次郎の人物伝である。しかしその書き方は山口瞳らしく独特で、読んでおもしろい。四分の三がこの人物伝で、巻末の四分の一が矢口純、柳原良平、山口瞳のもと寿屋広告部隊の面々の対談である。ここに開高健が加われば、さらに盛り上がっただろう。この対談で、サントリーという名前は鳥井さんから来ている、というのが通説になっているが、実はサンは太陽のサンであり、寿屋をメジャーにした赤玉ポートワインの赤丸を取り入れているのだという。

 

 もともとは昭和44年にサントリー70周年を記念しての社史として、関係者がその70年に関わった人たちに総力をあげて取材し、書き上げた『やってみなはれ』という文章がリメイクされたものである。これは鳥井信次郎の口癖である。

 

 大阪商人というものを江戸っ子である山口瞳が書いたのだ。たぶん大阪人ではあたりまえすぎて気がつかない部分を取り上げているところがおもしろい。関東の実業家と大阪の実業家の違いのようなものが、鳥井信次郎という人間を題材にしてよく理解できるように書かれている。

 

 私は関東に生まれ、山形の大学を出て、大阪の化学会社に入り、定年まで勤めた。入社式の時に新入社員数十人が一堂に会した。そこで交わされる言葉のテンポの速さ、当意即妙でユーモアに溢れていることに圧倒された。女性陣も男に負けていない。私は話に割り込めなかった。文化的な気質の大きな違いを感じて、やっていけるのかなと不安になったものだ。

 

 直接会ったことはないが、自分の会社の創業者についてさまざまな逸話を教えられた。その話とこの鳥井信次郎の人物伝が妙にシンクロして感じられた。大阪の創業者は関東とは違うのをよく承知しているつもりだから、この本の逸話の数々はなんだか懐かしい感じもする。挫折を繰り返しながら、小さな成功に甘んじたりせずにさらに高みを目指して挑戦していく。実業家というのはそういうものだろう。だから人が集まるし、人も育つ。

 

 銀行から出向の経営者などと言うものが、成功することがまれなのはなぜなのか、いろいろ考えさせられた。日本の企業が衰退している理由もわかる気がする。

2021年6月22日 (火)

つくづくそう思う

 評論家の大宅壮一(大宅映子の父上)が、テレビは毎日白痴番組をずらりと列べて「一億白痴化運動」を展開している、と論評したのは1957年(昭和32年)のことだが、その後「一億総白痴化」と「総」がつけられた。総を付け加えたのは松本清張だという。

 

 それから幾星霜、ますます番組の白痴度は増して、日本は世界でもたぐいまれなる白痴化が進んだことはめでたい。私もそれを実感していながらテレビ番組をつい観てしまうから、かなり白痴化が進行しているものと思われる。

 

 それでも頭のどこかに多少の理性が残っているらしく、あまりのことにときどき腹を立てたりする。どうもここを譲ると取り返しがつかない、と危機感だけはあるようだ。

 

 ところで、一体どうしてこんなバカな番組ばかりが昼日中にずらりと列んでいるのだろうか。観る人がいるからだ、と放送局は言うだろう。放送しているからつい観てしまうのだ、と視聴者は言うだろう。

 

 テレビは一方的に情報を垂れ流すだけだから、コミュニケーションがなく、想像力や思考力が働きにくい。それが白痴化につながるのだ、というのが白痴化の説明だ。それを何とかしようと、番組内でその情報にたいする意見らしきものをいろいろやりとりするようになった。それで少しは改善したか。自分の代わりに誰かにしゃべってもらうことで思考が深まるならありがたいことだが、残念ながらそういうことはあまりないようだ。ただこの人と自分は考えが一致するかしないかだけを観ていることになる。

 

 こうして若者達はテレビから離れていき、双方向のメディアとしてSNSなどがもてはやされている。自分の意見も表明できるのである。私がここでブログを書いているのもそんなもののひとつか。しかしそこで自分の意見だと思っているものが、ほとんど誰かの受け売りだということを自覚していないことではあまりテレビと変わらないかも知れない。

 

 とはいえ、今のテレビはひどすぎる。テレビ好きの私もさすがに最近は民放をほとんど観なくなった。テレビはすべて有料にすべきかも知れない。NHKが悪いのではなく、民放がただだからいけないのだ。観たいものだけ金を払って観るようにしたら少しはマシになりはしないか。視聴料で番組を作れば、スポンサーに気兼ねをしなくていいから放送局も楽だろう。電通や博報堂がのさばることも多少は減るのではないか。テレビ局の数も減らせるに違いない。

 

 CMを完全になくせとまでは言わないが、せめて今の半分以下にしてくれ!

神仏

 神様や仏様を信じているか?と問われれば、信じていない、と答えるしかない。子どもの時から親に宗教心を持つのがとうぜんとして育てられた人びとからみると、無宗教というのはそれこそ信じがたいことらしいが、ではお前は宗教を否定しているのか?と問われれば、積極的に否定しようなどと考えたことはない。宗教を信じることがあたりまえの国では、宗教を否定しないと無宗教となれないようだから、ますますわからなくなるのだという。

 

 神社仏閣ではもちろん、野の道祖神でもお地蔵様でも、私はしばしば手を合わせるが、それはかたちだけのことではなく、自分の能力や知識を超えた畏れ多いものが存在するという意識は持ち合わせているつもりである。そのようなものに素直に手を合わせている。そもそも自分が生きてこの世にあることが不思議なことであり、ありがたいことなのだという思いは歳をとるほど深くなっている。

 

 芥川竜之介の『蜘蛛の糸』という短編をおもしろい話だと思って読んでいたが、読んで以来、蜘蛛や蟻を踏み潰すことができなくなった。踏み潰したら功徳が受けられなくなる、という思いからだ。しかし、そのような功徳を当てにしての慈悲は慈悲ではないぞ、と心の声は言う。そのとおりだと思う。話を知らなければ素直に踏まずにいたものを・・・。無限にそのことが心にわだかまり続けて、もうお釈迦様から蜘蛛の糸は垂らしてもらえなくなった。

 

 だから地方を走り回っていて、小さいけれど地元の人によってきれいに手入れされている神社などで足を止めてお参りすることがある。そんなときにも、お前は何を当てにして手を合わせているのだ、という声が聞こえたりする。何も見返りなど求めていない、と答えるけれど、本当か。自分でも自信がない。

2021年6月21日 (月)

難聴と認知症・補足

 仮説を否定するには反証を一つあげればよい。ただし、その仮説がAならばBである、という命題の時に限る。

 

 ka-様が、先般書いた『難聴と認知症』という拙ブログを読んで、ご近所に住む高齢のご夫婦が、難聴だけれども認知症ではないから、難聴と認知症に関係があるという仮説は疑問である、というコメントくださった。私がコメントにお返しした言葉は、97歳で死んだ私の父も難聴だったけれど、認知症ではなかったから、ka-様の言うことはよくわかります、ただ、この難聴と認知症についての関係は統計的なことですから・・・ということだった。

 

 文中にも書いたけれど、難聴が認知症につながりやすいのは、コミュニケーション不全によるものではないかと思われる、という仮説で説明されている。たぶんka-様のご近所の難聴の老夫婦は、互いに以心伝心、温かいコミュニケーションがとれているのではないだろうか。私の父も、口うるさい母に黙って従いながらも、それなりの心の交流があったのだと思いたい。

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 難聴だと相手の言う言葉の意味が聞き取りにくい。だから聞き間違いをすることになる。まさかそんなことを相手が言うとは思えないけれどそれにしても、と思いながら勘違いして腹を立てたりする。これが周囲には認知症の症状に見えたりすることもあるだろう。私の母もそんな言い方で愚痴をもらしていたものだ。

 

 誰かと一緒に暮らしていれば気も遣い、意思の疎通に努力する。だからコミュニケーション不足になりやすい独り暮らしの難聴の老人ほど認知症になることが多い、という統計があるのではないだろうか。それなら得心がいく。そしてその難聴気味の独り暮らしの自分が何を努力すれば良いのかわかるのである。

銭形平次のジレンマ

 銭形平次は毎週のように鮮やかに事件を解決していた。人びとは悪を必ず暴いて退治する銭形平次をもてはやし、頼りにする。ところが事件が迷宮入りしかかると、とたんに銭形平次に対してバッシングが始まる。なんだ、銭形平次も頼りにならない、と罵倒を浴びせるようになる。それまでに百も二百も難事件を解決したのにこれはどうしたことかと銭形平次の気持ちになって、私は腹が立ったものである。

 

 鞍馬天狗も月光仮面も人びとが危難に陥った時に助けを求めると、必ず現れて、敵を倒して去って行く。どうしてわかるのか不思議であるが、子供心に正義の味方というのはそういうものなのだと思っていた。もし鞍馬天狗や月光仮面が事件に間に合わなかった時はどうなるのか。人びとは銭形平次と同じように罵倒を浴びせることだろう。だから観ている私は、ハラハラしながら、なんとか間に合ってくれ、とこころのなかで念じるのである。

 

 因果応報という言葉があって、悪いことをするとその報いが必ずある、天罰を受けるという意味で使われる。天網恢恢疎にして漏らさず、などとも言う。銭形平次も鞍馬天狗も月光仮面も現実には存在しない。だから天の神様を正義の味方の代わりに頼みにするしかないのである。そして悪の報いはあるやらないやらよくわからない。

 

 危難の時に登場して必ず悪を倒してくれる正義の味方は存在しないから、われわれは自ら悪を正すしかないのであって、誰かのせいにばかりしていても世の中は何も変わらない。私などブログで遠吠えしているだけだから、人を批判する資格など本当はないのだ。

 

 最近のドラマや映画では、正義の味方はほとんど間に合わない。危機に瀕した人が自力で悪に対して反撃し、ボロボロになりながら敵を倒したところに正義の味方が駆けつけるようなものばかりだ。事件が終わって犠牲者が出てから、事件の絵解きをしてみせる金田一耕助のような傍観者こそ、現実の世間そのもののような気がする。

 

 これらは、天は自ら助くる者を助く、ということわざ通りの現実を教えてくれているのかも知れない。そして頑張っている人はたいてい報われないのもこの世の中である。

 

 昏いと不平を言うよりも、自ら灯りをつけましょう、という文句は傑作だなあ。

2021年6月20日 (日)

対中非難決議

 およそ民主主義と人権を尊重する主要国は、次々に議会で対中非難決議を採択して、その旗幟を鮮明にしている。ところが我が日本はいつまでたっても対中非難決議をしない。そしてそれは、中国と言えばすぐに及び腰になる(と私は感じていた)野党が反対しているからだとばかり思っていた。

 

 ところが有本香氏のすっぱ抜いたところによれば、全野党が対中非難決議を承認したというのに、自民党が承認しなかったのだというから驚いた。それも多くの議員が承認して、下村政調会長に促され、いざ自民党の幹事長である二階氏が判をつく直前になって、二階氏の懐刀と言われる林幹事長代理が待ったをかけ、承認をやめさせたのだという。事情を知らない自民党議員達は、公明党が承認しないからだと思い込んでいる節があるが、たしかに公明党はあまり乗り気でないものの積極的に反対したというわけではない。

 

 つまり二階氏と林氏でこの決議を握りつぶしたというわけである。少し前にこの記事を読んで、大きな問題としてマスコミが取り上げるだろうと眺めていたが、あまり話題にならない。事情は想像がつく。中国に阿(おもね)っているのである。金が国益よりも人権よりも優先するのである(経済界は中国を非難などしたくないのだ)。二階氏という人はそういう人だとはかねがね思っていたから驚くには当たらないが、それに従う自民党代議士たちも同じだというのがよくわかる。何をおそれているのだろうか。

 

 そしてなにより情けないのは、野党がこの問題を大々的に取り上げて、自民党の金権体質、中国迎合姿勢を批判すれば、選挙で国民は大いに野党に肩入れしそうに思えるが、マスコミも野党も知らんぷりに見える。中国に阿るのはマスコミと野党も同様だということがよくわかった。人権、人権と言うくせに、彼らは中国と中国政府の人権を優先するのが正義だと思っているのだろう。いつも加害者の人権を重視するのが彼らのスタイルだから。

 

 総選挙をすれば自民党は大いに議席を失うけれど、それでも公明党とともに過半数は確保するだろう、というのがおおかたの読みだけれど、野党がここをつけば、この問題が火種となって自民党はもっと議席を減らすような気がする。国民は二階氏が考えるほどバカではない。

 

 どこまで事実か知らないけれど、この通りなら私も許しがたい思いであり、腹が立つ。

高橋義孝+山口瞳『師弟対談 作法・無作法』(集英社文庫)

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 高橋義孝はドイツ語の教授でドイツ語の本の訳者としても有名(トーマス・マン、フロイト、ゲーテなど多数)、また洒脱な随筆もたくさん書いているし、森鴎外についての評論などの著書もある。さらに長く相撲審議委員長を務めた。内田百閒と尾崎士郎を師と仰ぐ。弟子筆頭がこの本の対談相手の山口瞳。山口瞳は『居酒屋兆冶』の原作者で、随筆とも小説ともいえる作品群を初め、作品がたくさんある。直木賞作家。

 

 以前にも書いたことがあるが、私の母のすぐ下の弟(つまり叔父)が本好きで、特にこの高橋義孝に心酔し、息子にも義孝と名付けた。私も高橋義孝の文庫化された随筆はたぶんほとんど読んだ。それを見て母が叔父の話を教えてくれたので、たまたま趣味が一致していたらしい。だから叔父は、私が高橋義孝を読んでいることを知らない。

 

 この対談は、ほとんど放談というのがふさわしい。話があちらへ飛びこちらへ飛び、相手の話と関係ない話にとつぜん跳んだりするけれど、それなのに筋は通っている。相手の言いたいことが分かりすぎている師弟であるからこそできることだろう。

 

目次から内容を想像してもらえるだろうか

 

教室では学生の顔が見られません
もう東京というものは無い
礼儀作法とは己を虚しゅうすること
子どもも学生もぶん殴れ
ワンワンと改札無賃(ただ)で通り抜け
明治の人の愛国主義と合理主義
お店の人は目はしが利かなくちゃ
文章には人間の全体が出ます

 

 融通の利かない正しい人は、この本を読んだら腹を立てるかも知れない。だからおもしろい。二人とも冗談のようで本気である。

2021年6月19日 (土)

NHKドラマ『櫂』

 1999年に制作された宮尾登美子原作のこのドラマが再放送されていたので、録画して観た。この原作は1985年に緒形拳と十朱幸代の出演で映画化されているらしいが未見(昔から十朱幸代があまり好きではない。『バス通り裏』というテレビドラマ時代からだから年季が入っている。あのドラマでは、こどもながら岩本多代さんがお気に入りだった)。またNET(現テレビ朝日)でもテレビドラマ化されたらしい。このNHK版のドラマは各90分で三回(長い!)と、原作を申し分なく丁寧に描いているように思う。

 

 宮尾登美子と言えば、『鬼龍院花子の生涯』という映画があまりにも素晴らしく、感動したので、原作を読んだり彼女の生まれ故郷の高知が舞台の作品や、自伝的な随筆も何冊か読んだ。彼女の作品には彼女の生い立ちに関連した実話がいろいろに脚色されて挿入されている。こういう育ち方、生き方というのは想像を絶していて、強烈に印象に残る。

 

 彼女の作品で映画化されたもののうち、五社英雄監督作品の『鬼龍院花子の生涯』、『陽暉楼』はもちろん観ている。それぞれ夏目雅子、そして池上季実子の畢生の名演だったように記憶している。降旗康男が監督した『寒椿』は西田敏行と南野陽子が出演して、それなりにおもしろかったが、五社作品よりは感銘を受けなかった。だから山下耕作監督作品の『夜汽車』は見る気がせず観ていない。

 

 このNHKの『櫂』は主演の喜和を松たか子が演じていて素晴らしい。市川染五郎一家はみな嫌いだけれど、この松たか子だけは別格である。富田岩伍を演じたのは仲村トオル。役柄に負けない迫力を見せていた。この人はなかなかの演技派だとひそかに思っていたが、このドラマでも素晴らしい。

 

 このドラマのなかで井上真央が演じていた娘が、のちの宮尾登美子とほぼ重なると思って良いのではないか。比較的に実話に近い作品で、『鬼龍院花子の生涯』初め、さまざまな作品のエピソードがこのドラマにも散りばめられていて、ああ、あの話だ、と思うシーンがたくさんあって大いに楽しめた。

 

 今は長い小説を読む気がしないけれど、『岩伍覚え書き』のようなものや随筆は読み直してみたいと思う。男の論理の社会のなかで、女の自立をつかみ取るすさまじい気迫(夏目雅子のあの啖呵のシーンを思い出してもらいたい)こそ、宮尾登美子の作品の主題であり、それを実感させてくれる作品であった。

難聴と認知症

 先日のNHKの番組によれば、難聴と認知症が明確に関係しているという統計があって、論文もあり、専門家もそれを事実として認めているという。近頃とみに聞こえにくくなって、テレビのボリュームレベルが高くなっている我が身としては心配である。

 

 理由として、聞こえにくくなったことによるコミュニケーション不全、そして音の情報量が減少したことによる刺激の低下が、脳の働きを衰えさせているのではないかということであった。つまり器質的な耳の機能の低下が直接脳の機能低下を招いているのではなく、刺激の低下が脳の働きの低下となっているということらしい。

 

 得心がいったようないかないような気持ちだが、ただ、脳に対する刺激が減ることは、脳の老化に大きく影響するだろうことは理解できる。人と会って話を聞くこと、聞くだけではなくてそれに対して自分の考えを口に出すこと、相手の反応を感じること、それらは脳の働きを大いに活発にする。そういう意味ではコロナ禍で人に会えないでいることは認知症を進行させることになるだろう。

 

 自分の身をふり返れば、ふだんの独り暮らしではほとんど他人との会話がない。ときどき友人や息子や弟に会いに行ったり、娘に来てもらってしゃべり倒すのも老化防止になっているわけであるのに、それもずっとひかえているのである。

 

 さいわい、私はブログを毎日書くことを習慣にしている。ブログを書くために、ニュースやテレビ番組を物色したり本を読んだりしている。独りでいてもそれなりの刺激を自分の脳に与え続けているといえる。耳は聞こえにくくなっても多少はマシかな、などと考えた。

 

 それに、事故の問題ではいろいろと山のように刺激を与えてもらった。片付けなければならないことが今でも残っていて、ストレスであるが、それは刺激であって自分のためにならないわけではないらしい。妻のことも大いにストレスであるが、それもありがたいことなのだろう。

 

 認知症を回避するためにも頭を働かせ続けさせてもらおうか。

2021年6月18日 (金)

祈る

 神様や仏様にお祈りしても疫病退散ということにはならない。わかっていても人は祈る。祈るということは願うということで、願いがあれば人は祈る。それを笑う人は、自分が、または自分の子や孫が受験の時に学問の神様である天神様のお札をもらいに行ったりしないだろうか。

 

 自分の力を超えたものが存在して、その力に願いを託すのは笑うべきことではなく、人が古来からこころのよりどころとしてきたものだろう。今、コロナ禍の中で、コロナ禍収束への祈りが祈られている。

 

 そこで思うのは、畏れ多いことながら、そもそも天皇というのは日本人にとっての大神主だったのではないか、ということである。今の天皇は象徴的存在とされているが、さまざまな国事行為のなかに国民のために祈る行事があるはずで、それならこのような国民的災厄の事態について、天皇は祈る姿を国民に示す時ではないかと思うがどうだろうか。

 

 現在の天皇陛下は国民の前にマイホーム主義であるように感じているのは私だけだろうか。役割としての存在を示さないのならば、招来天皇制というのは次第に存続の根拠を失っていくのではないかと危惧する。

 

 祈りの姿を国民に示す時だと思う。

飛沫を浴びる

 くしゃみをしたり、大声を出したりしたときの飛沫の飛ぶ様子を映像化したものがテレビで繰り返し放映されていて、見たくないのに見せられる。映像だから実際に飛沫を浴びるわけではないけれど、リアルすぎてあたかも浴びたように感じて気持ちが悪い。

 

 あんな風に教えてくれなくてもわかっている。教えてあげなければならないような無神経な人ほど、たぶんそれを見てもなんとも思わないことだろう。世の中そんなものだ。

曾野綾子『悪と不純の楽しさ』(PHP文庫)

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 1994年に単行本として出版されたものを1997年に文庫化した。だから書かれている内容はもう30年近く前のことなのだが、私にとってはリアルタイムで経験した時代の話で、古いと感じない。それよりもまさに今こそこのような感性で世の中を見るべきだと思う。今はあまりにもきれいごとだらけで、すぐにあら探しをしてバッシングをする。その嘘くささがいささか腹立たしいと思っているから、こういう毒気のある話を読むと気持ちが晴れる。

 

文中から、

 

 日本人の多くは、性善説である。そのほうがわかり切っているのだが、私は自分の心を眺めて、昔から性悪説を取ることにしたのである。
 性善説の方が一見安らかなように見えるが、そのグループは、裏切られた時、愕然とするだろう。一方、私のような性悪説を取っていると、疑いが杞憂に終わることが多い。そしてその時、自分の性格の嫌らしさに苦しむことはあっても、いい人に会えてよかった、という喜びは多いのである。つまり性悪説の方が結果的にはいつも深い自制と幸福を贈られるという皮肉である。

 

 

 好いなあ、まったく同感である。案外こころある人はこのような性悪説にひそかに賛同しているのではないだろうか。ところが世の中は、特にマスコミは、きれいごとの性善説があたりまえのようにいつも言い立てているから、性悪説を公言しにくいことになっている。それが被害者よりも加害者の人権を尊重したり、逆差別などのおかしな状況を生むことににつながっている。

2021年6月17日 (木)

だから嫌われる

 母は千葉の空襲で焼け出された。爆弾と焼夷弾が降り注ぐなか、両親と弟三人とともに逃げ惑い、辛くも生き延びたが、写真も本も、持っていた何もかもをすべて失った。友人やその家族と思われる焼死体も見たけれど、そのときは神経が麻痺して何も感じなかったそうだ。千葉から遠くない町が祖母の実家だったので、そこに疎開した。母は当時千葉の銀行に勤めていて、通勤の列車が飛行機からの機銃掃射を受けたこともあったという。

 

 そういう戦争中の話をものごころついた頃から繰り返し繰り返し聞かされたから、いつしか自分自身が体験したことのように、自分の記憶に組み込まれている。

 

 曾野綾子の『悪と不純の楽しさ』という本を再読している。1990年代に書かれたエッセイをまとめたものだが、その中には宗教について、そして人間の悪について、そして戦争について書かれたものが多い。彼女は1931年生まれだから、私の母より六歳年下だが、空襲のときには東京にいて、母と同じかそれ以上の体験をしている。勤労動員の経験についても語っている。

 

 その彼女が、戦争前や戦争中でもすべてが真っ暗闇の時代だったわけではなくて、時には笑い転げるような明るく楽しいこともあった、と書いている。山本夏彦も戦前暗黒史観というのは偏った史観だと詳しく論じていて、私は母や叔父達の話す戦前の時代の話を聞いているから、山本夏彦の言うとおりだろうと思っている。それに空襲は都市部だけに行われたし、戦後の飢餓も、都市部の国民だけのことで、田舎では食べるものに困ったりしていなかったことはあまり語られていない。

 

 母も農家へ食料の買い出しに行って、ずいぶんいやな思いをしたことを恨み言としてしばしば語った。しかし農家の人にしても、いらないほどの衣類などを持ち込まれて、ちっともありがたくなくて困っていたのかも知れない。

 

 曾野綾子の本から一部を抜粋する
(前略)
 いつか東京の大空襲を偲んで、三月九日だか十日だつたかに、電燈を消しましょう、という運動を唱えた主婦のことが新聞記事に出ていた。むかしは、空襲警報が出ると、市民は電燈を消すか小さな明かりにし、黒い布やカーテンを引いて、年の燈を敵機から見えないようにした。その空襲を忘れないためだという。
(中略)
 電気を消したくらいで、戦争の重みがわかるわけではない。ふざけてほしくない。ダイインとか称して「死んだ真似」をするなどという無礼は、本当に死んだ人への冒瀆である。
 昔の戦争の話なんかしたって、わかるわけはないのだ。私ていどに記憶の悪い人も世間には多いだろうし、昔話は、懐かしさという感傷としては大切だが、そんなもので、真理を分け合えるものではない。
 それよりも毎日の現実のなかから、人生の残酷さを感じたり、道徳を教えたり、弱い人を労ることを実行したりする方がずっといい。車椅子の人がいたら交差点で押してあげ、年寄りの荷物を持ってあげ、老人ホームでウンコで汚れた襁褓(おむつ)を洗う、そういうことをしたことがなくて、昔の戦争の思い出話なんか聞いて平和を誓ってみても、むしろ偽善になるだけである。

 

 曾野綾子が好きな人ときらいな人は厳然と別れていて、嫌いな人はとことん毛嫌いする。こういうことを書くから嫌われるのだろう。もちろん私は曾野綾子の本をいまでも数十冊持っているし、それ以上に読んでもいて、もちろん好きである。たいてい市民運動家、活動家とかいう、私の嫌いな人種はことごとく曾野綾子を毛嫌いしていて、笑ってしまう。私が嫌うのは、良いことをしたつもりで好い気持ちになっている、「お為ごかし」のパフォーマンスをする連中である。

出産しない女たち

 少し前に放送されたNHKBSのドキュメント番組『出産しない女たち』を観て驚いたのは、ヨーロッパの女性はこれほどに出産、そして母になることに対しての沈黙の同調圧力があるのか、ということであった。もちろん国によってずいぶん違うだろう。この番組はスペインで制作されたものだから、スペインが特にそうなのかも知れない。

 

 女は子供を産むように神から運命づけられている、などという物言いの人もいたから、宗教的な支配力が働いているのだろうか。いわゆるフェミニストたち、哲学者、作家、役者など(すべて女性)がさまざまに子供を産まない自由を今こそ女性は勝ち取らなければならないと息巻いていた。

 

 産まない自由を行使するのは、本人のそれこそ自由であろう。それが周りから産むのが正しく、産まないのは悪だというような、精神的な圧力が働くのだとすれば、それは問題だ。日本でもそんな圧力があるのだろうか。「子供はまだ?」などと訊かれたりすると、プレッシャーを感じるものなのだろうか。私は男だからよくわからない。

 

 日本や韓国が出生率が低く、ヨーロッパが高いのはそういう精神的圧力が厳として存在するからなのだろうか。そういう圧力に抵抗して産まないことを選ぶことに反対するつもりはない。どうぞご自由に、というしかない。

 

 ところが登場するなかの先鋭的な活動家などは、エネルギー問題、温暖化や人口問題は、すべて人口が増えることにあるのであって、子供を産むのはそもそも悪である、などと主張していた。たしかに女性達が一斉に子供を産まずに世界人口が増えないどころか減っていけば、いろいろな問題が片付くかも知れない(私はそうは思わないが)。自分の主張を一方的に普遍的なものとして語るその姿に、よほどのプレッシャーがヨーロッパにはあるのだろうな、と同情した。こういう言葉で女性を扇動するのは、ある意味のひそかなテロリズムだなあ、などとまで言うつもりはないが・・・。しかし彼女たちがそこまでしゃかりきにならなくても、遠からず子供を産まない女性が主流になる時代が来るような気がする。

 すでに子供を育むための自然も、家庭も、地域社会も崩壊に瀕しているのだから、フェミニストの言うように子供のためにも子供を産まないというのが正しい選択なのかも知れない。悲観的、絶望的な未来は、映画で描かれるような暴力と荒廃の世界ではなく、そういうつなぎ留めるものがなくなり、バラバラになった個人が、それぞれの自由を主張する世界なのかも知れない。

2021年6月16日 (水)

区別と差別

 頼りにしている岩波国語辞典(小さいから使いやすい)によれば

 

区別 あるものとほかのものとの間に認める違い。またそれらを違うものとして分けること。

 

差別 区別。けじめ。ものとものとの違い。区別して扱うこと。

 

 これでは区別と差別の違いがよくわからない。

 

 重くてなかなか引っ張り出さない広辞苑(第三版・古い)で差別を引いてみると、上の語義に加えて、

 

 差をつけて取り扱うこと。わけへだて。

 

とあって、これならわかりやすい。

 

 なんでわざわざ辞書を引いたかといえば、もちろんその区別がつきにくくなったり、区別を差別、などと言い間違えているのではないかと、しばしば感じるからだ。

 

 ワクチン接種を受ける人と拒否する人がいて、拒否する人を差別してはならない、などと言われるから、そんなことが気になったのである。もちろん接種を拒否したことを理由に「差をつけて取り扱ったり、わけへだて」してはならないだろう。しかし、接種を受けた人とまだ受けていない人を「違うものとして分けること」は行政上必要なことで、その区別ができないと、すでに接種済みの人にまた接種するようなことが起きてしまう。

 

 区別を以て、善悪や価値の軽重でわけへだてして、取り扱いに差をつけてはいけないけれど、だから区別してはならない、と極端なことを言う正義の味方にちょっとうんざりしているので、言葉を再確認した。正義の味方はしばしば区別を差別として取り扱う。現に存在する違いを認めずに見て見ぬふりをする。それはあたかも差別主義の裏返しの差別主義に見える。

反対の根拠

 国会会期ギリギリで土地規制法が成立した。立憲民主党と共産党が反対し、自民党、公明党、維新の会、国民民主党が賛成して賛成多数で成立した。治安と国防上から従来の土地規制法は不備であり、その不備を突いて土地が所有者不明のまま売買されていたことが問題視されてきた。多くが中国人や韓国人に売られているのではないかとみられる。土地を売らざるを得ない土地所有者は常に存在していて、放置すれば由々しき事態になると警鐘がならされてきたし、すでにかなりの土地が売られてしまった。

 

 遅きに失した成立ともいえるが、強行採決をすることで主旨がゆがめて伝えられかねないと危惧して、慎重に進められたと好意的に解釈したい。国防上のことにはすべてを明らかにできないことがあり、主権侵害のおそれや指定地域を公開しないのが問題だからこの法律に反対だ、と言うのが立憲民主党と共産党の反対理由らしい。共産党はいざ知らず、立憲民主党はいつまでこんな根拠にもならない根拠をもとに必要な法律に反対するのだろうか。

 

 主権侵害のおそれ、などということをすべてに適用して反対するその姿勢が、さまざまな行政を遅延させたり妨害することにつながっていることを思うと、主権というものが絶対的になりすぎてあいまいになっていく気がする。公的なものが時には優先する、というあたりまえのことを否定するのが正義だと確信している政党に、不安を感じる。

 

 同時に、野党が是々非々の判断ができないと、却って与党のやりたい放題につながっていくおそれを感じる。反対が、「またか」としてしか受け取られなくなって、その根拠をだれも知ろうとしなくなっていく。

またか

 韓国の文在寅大統領が日本に対して融和的な方向に舵を切りつつあるという報道が最近散見された。それは同じことを違う言い方をしただけのことなのに、少しソフトだったことを読み誤っただけに見えるが、違うのだろうか。そうしてすぐに、融和的な態度に出たのに日本はにべもない応対だ、などと騒いでいるから、私などはまったく変わっていないとしか思えない。

 

 韓国のマスコミが、公式筋からの話として、G7で日本と韓国が合意していた菅首相と文在寅大統領の対談を、直前になって日本側が一方的にキャンセルしたと報じていた。韓国は、日本側は外交的に非礼である、と非難していると報じ、またぞろ反日を煽りたいようである。

 

 日本側は加藤官房長官が即座にそういう事実はない、と公式に否定した。政府として否定したということは、責任を持っての日本国の否定であり、間違っていたということは許されないから、私は日本側の言い分を信じる。

 

 韓国側はそれに対してどのような反応をするのだろうか。たぶん何も言わずにすますだろう。日本の言うことが虚偽だというなら繰り返し非難するはずで、もしそうしないなら韓国の勘違いだろう。おそらく韓国が申し入れたのは事実であるが、日本側は時間がないことを理由に婉曲に断ったことを、韓国側担当者には断られたと理解する知能が不足していたのではないか。それとも、断られたと報告することができなくて、しっかり断られたといえなかったのかも知れない。

 

 韓国は問題点を自ら解決しなければ日本との関係が修復できないことを知りながら、解決できないのは日本が悪いからだ、と言い続けることで乗り切ろうとしているが、日本側はそれには対応するつもりがない(悪くないのだから悪いと思いようがない)から、そういう韓国の言い分にたっての交渉はあり得ない。日本国民は一部のひとを除いては、日本政府の対応に賛同しているように思う。まともなひとなら、今まで韓国の言葉のすり替えと自己正当化の繰り返しにうんざりしているはずだからだ。

 

 今回もまたか、と思うばかりだ。

2021年6月15日 (火)

信用

 中国の原子力発電所で放射能漏れがあったらしい。さすがに中国政府は放射能漏れそのものを否定はしていないようだが、それは隠しようがないほど洩れているからだろう。隠せれば必ず隠すのが中国政府だから。

Dsc_0377これは火力発電所ですが・・・。

 そして言うことには、放射能漏れは格納容器内でのことで、外部には漏れていない、と明言しているようだ。ウイルスと同じように放射能は人の目には見えないから、それを確認するには現地に行って計測するしかないが、中国以外の機関が計測することが許されるとも思えない。

 

 武漢での新型ウイルスの感染についての中国政府の隠蔽を見るまでもなく、中国が事実を伝えることなどないことは世界中が知っている。中国政府の言うことはまったく信用できないことを知っている。

 

 信用というものは大事なもので、その信用を失うことをだれもが恐れるけれど、中国は大国になったから、信用などというものを気にしなくてもかまわないと「確信的に」認識しているようだ。ずいぶん気楽だろう。ただし友邦は決して得られないだろう。常に札びらで顔を張り続けなければならない。そして金の切れ目が縁の切れ目であることを思い知るだろう。中国が金で困るようにならないかなあ、と思う。

小林亜星

 小林亜星が先月末に88歳で亡くなっていたことが報じられていた。あの肥満した体格で考えれば、長生きした方だと思う。

 

 すぐ思い出すのは『寺内貫太郎一家』というドラマだろう。リアルタイムで楽しませてもらった。加藤治子も樹木希林も西城秀樹ももうこの世にいないことがなんだか夢のような思いがする。

言っていることはおかしくない

 私は立憲民主党の森ゆう子議員に好感が持てない。と言うより見た目はもちろん言動すべてがきらいである。その森ゆう子議員が北朝鮮拉致問題の特別委員会で、新型コロナのワクチンを北朝鮮に供与することを提案したとして丸山穂高議員が激しく批判したという。

 

 丸山議員も酒で頭に支障があるのかも知れなくて、しばしば妄言を吐き、酒好きの私としては、酒の名誉のためにこの人も嫌いである。

 

 今回の森ゆう子議員の提案は丸山議員がなじるほど、とんでもない話ではない。ワクチンを供与することで、北朝鮮がそれに感謝して拉致被害者を帰すのなら大いにけっこうなことだ。問題は言うまでもなく北朝鮮には新型コロナの感染者がいないことである。何しろ無謬の国家指導者が一人も感染者がいないというのだから、いないのである。その国にワクチンを供与を提案するのは大変失礼な話であろう。

 

 よしんば無謬の国家指導者の首領様がたまたま勘違いしていて、感染者がいることに気がついていなかったけれど、実際には存在していて、ワクチンはありがたいことにならないとは限らないが、そういう場合にあの首領様が感謝してそのお礼を返すということは考えにくくないか。そもそも感謝するという精神構造を持つとはとても思えない。感謝は相手に対して自分がへりくだることであって、断じて我慢ならない、と考えるだろうと想像される。

 

 国民のことを考える、と公言しているけれど、国民のことを考えるというポーズを取らないと自分の身が危ういから国民のことを考えるのであって、本気で考えているのなら、決してしないことを代々続けているのがこの人である。国民のことを考えるなら国を開くのが一番だと最も知っているのはご本人だろう。

 

 見返りを期待してワクチンを供与するのは一つのアイデアであるが、まず見返りなどないのは今まで散々見せてくれたではないか。森ゆう子議員の言っていることは間違いではないが、現時点では文在寅的な愚かな提案であることも間違いない。

2021年6月14日 (月)

節約

 コロナ禍で出かけないから金がかからない。もうひとつ出費が少ない大きな理由は、最近ほとんど本を買わなくなっているからである。ごくたまに古本を注文することはあるが、美本でなくても読めればかまわないから安いものを探して買う。家にある本で未読だったり、もう一度読み直したい本が山のようにあって、死ぬまでにとても読み切れないとようやく気がついたのである。

 

 少しずつ本を片付けている。もう読まない小説類は、目をつぶって処分している。現在、山口瞳、曾野綾子、内田樹の本の中から、処分しても好いけれど、もう一度だけ目を通そうかな、と思うものを山積みにして読み始めた。まず文庫本、そして新書から手をつけている。単行本はさすがにまだ愛着が残る。

 

 本屋に行くと、本棚から「手に取って!」「私を読んで!」「買って、買って」と声をかけられて、気がつくと両手に抱えてレジの前にならんでいたりする。その本屋にほとんど行くことがなくなってしまったから、新刊を買うことが絶えている。本との出会いは絶えている。定期的に本屋に行くのは習慣というか習性と化していたが、その呪縛から逃れたようだ。読み切れない本はもう増えないだろう。コロナ禍にも益がないわけではなかった。

虫的部分

 数日前から鼻水が出るようになり、やがてくしゃみが頻発するようになった。花粉症らしき症状はこの数年経験しているが、それがもっと激しく出ている。窓を開け放しているので(網戸は閉めている)外気から何かが侵入してアレルギー反応しているのだろうか。

 

 下の階だと思うけれど、いわゆる虫コナーズらしき臭いがときどき強く感じられて、それが不快である。ただ、それはだいぶ以前からのことなので、この自分の反応はそれとはべつに要因があるようにも思える。掃除がいい加減だから、ホコリやダニによるアレルギー反応だろうか。

 

 実は少し前から室内に蚊が徘徊するようになり、夜刺されたり、蚊の羽音で目覚めたりするようになったので、ノーマット式の電気蚊取りを寝室とリビングにセットしてあり、昼も夜もほとんどつけっぱなしにしている。

 

 昨夕そのことに気がついて、すべて消したままにしたら、今朝は鼻水の出方も少し減ってくしゃみは出なくなった。今日は朝から雨だから、そのことが関係しているかも知らず、まだ確定するには早いと思うが、もともと虫コナーズをベランダにぶら下げていたときには目や鼻が不調でひどいときは頭まで痛くなった。

 

 どうも虫除けの薬品に反応している可能性が高い。これらの薬品は人間には無害のはずだが、それに反応してしまうとすれば、私には虫的な部分があって、それがダメージを受けているらしく思われる。ただ、先日のレントゲンでは、虫であることの証拠は見えなかったようだ。

 

 今日、これから妻の病院に行く。

天文学者

『茶話 上』からわかりやすいものをもうひとつだけ。

 

天文学者
 サー・ロバート・ポールといえばアイルランド生まれの名高い天文学者で、ケンブリッジ大学で天文学の講座を受け持っている先生だが、いくら天文学者だからといって、木星から高い生活費を受け取るわけにも行かないので、昼飯はせいぜい手軽なところで済ませることに決めている。
 あるとき久しぶりに旧い友達が訪ねてきたので、天文学者はめったにいきつけない土地(ところ)一番の料理屋へ引っ張っていった。そして始めから終いまで彗星(ほうきぼし)の話をしながら、スープを飲んだり、ビフテキを囓ったりした。すべて学者というものは、自分の専門の話をしなければ、どんな料理を食べても、それを美味いと思うことの出来ないものなのだ。
 料理がすむと、かみさんは勘定書きを持ち出した。天文学者はじっとその〆高を見つめていたが、しばらくすると、望遠鏡を覗く折のように変な目つきをしてかみさんを見た。
「おかみさん、わしはここでちょっと天文学の講釈をするがね、すべてこの世界にあるものは、二千五百万年経つと、またもともと通りに還ってくることになっている。してみると、わしらも二千五百万年後にはやはり今のようにお前さんの店で昼飯を食っているはずなのだ。ところで、ものは相談だが、この勘定をそれまで掛けにしておいてはくれまいかね」
「ええええ、よござんすとも」とかみさんは愛想笑いをしながら言った。『忘れもしません、ちょうど二千五百万年以前にも、旦那は今日のように、手前どもの店でお昼を召し上がってくださいましたが、その折りのお勘定がただいまいただけますなら、今日のは、この次までお待ちいたしましょう」
 天文学者は呆気にとられて、笑いながら銭入れを取り出して勘定を払った。なるほど銭入れを見ると、二千五百万年も前から持ち古してきたらしい、手垢のにじんだものであった。

 

 おあとがよろしいようで。

2021年6月13日 (日)

無識の得

 薄田泣菫の『茶話 上』(富山房百科文庫)をようやく読み終わった。一話一ページから二ページの小話が三百ページ以上に満載で、それを数話ずつ楽しんで読んでいたから、時間がかかった。あと中巻と下巻があるから当分楽しめる。富山房はふさんぼうと読むので念のため。私もむかしは知らなくて恥をかいたことがある。

 

 すんなり中身のわかるものが七~八割、その半分は笑える。わからないものはもちろん面白さもわからない。上巻は大正四年から六年の半ばまでに大阪毎日新聞に連載されたものを収録している。少し前に一つ二つ紹介したが、もうひとつ紹介する。

 

無識の得
 平民にお腹の空くときがあるように、大名にも喉の渇くことがある。話は古いか、むかし備前少将池田光政が喉が渇いたことがあった。ちょうど秋も末で、窓の外にはちんちろりんが意気な小唄を謡っている頃であった。
 光政は二三日前鷹狩りに出かけたおり、道で食った蜜柑のことを思い出した。光政は目白のように口をつぼめて、立て続けに三つばかし食ったように思った。蜜柑は三つとも甘味(うま)かった。いったいが気まま育ちだけに、それを思い出すともう矢も盾も堪らなくなって小姓を呼んだ。
「蜜柑が食べたくなった。二つ三つ持って参れ」
 しばらくすると、大粒の甘味そうなのが籠に盛って持ち出された。光政は子供のように手を出してその一つを取った。するとちょうどそのおり襖の陰から侍医のしわくちゃな顔がひょっくり覗いた。
「御前様、蜜柑をとの御意だそうに承りましたが、この頃の夜寒にいかがで御座りましょうな」
 侍医はびくびくもので言って、円いすべすべした頭を下げた。
「うむ」と言ったきり、光政はじっと侍医の顔を見つめていたが、しばらくすると手のひらの蜜柑をそっと籠のなかへ返した。蜜柑は命拾いをしたのが嬉しそうに、籠から滑り落ちて座敷に転がり出した。
 その夜光政は寝床に入ると、だれに言うともなし、独り言を言ってため息をついた。
「ああ危なかった危なかった」
 そばにいた女が聞きとがめてわけを訊くと、光政は宵の間にあった蜜柑のことを話して、あの折自分が、そのくらいのことだったらこっちにも知っているとでも言おうものなら、これからは誰一人間違ったことを止め立てしてくれるものもなくなるだろう。
「ほんとうに危ないところだった」
と言って、また一つ深いため息をついた。
 人の上に立って多くの部下を統べている者は、こうして、ひとの忠言を黙って聞くだけの心がけがなくてはならぬ。だが、都合の好いことには、今時の上役は、
「蜜柑はお毒ですよ」
と言われて、「そんなことだったらこっちも知ってるよ」と口を返すだけの物知りでないことだ。すべてものを知らないということは何かにつけて便利が多い。

 

 移しやすいように、旧仮名遣いを直しているのと、一部漢字を変えたり省略してあるのでご容赦。

解放という名の粛清と民族の滅亡

『存亡の条件』という山本七平の本を読んでいる。ユダヤ民族の滅亡について一世紀から二世紀にかけてのユダヤ史を語りながら、それを普遍性のある人間認識として提示してくれて教えられることが多い。その本の中の『民族と滅亡』という章で

 

 人間の経済上の争いには、常に「採算」という限界があり、これを超えて人が行動することはないわけだが、しかし、まったく違った文化とそれに基づく意識で生きている人間を、強制的に自己の思想に改宗させて、頑迷な古い文化から解放してやろうとする者が権力を握れば、それは、際限のない弾圧になり得る。これには、限度がなく、それが招来する流血の悲劇は、小は、鉄パイプによる反対思想の持ち主への殺害から大は、命じられた思想通りに生きることを拒否する者への大量虐殺にもなりうる。これは常に“解放”につきまとう問題であって、“解放”に粛清が付随するのを不思議がる必要はない。

 

という一文を読めば深く頷かざるを得ない。

 

 南北アメリカ大陸で、どれだけの“解放”という名の虐殺が行われたか、歴史をひもとけばわかる。そして中国では、その論理をそのまま踏襲して、チベットで、そして新疆ウイグル地区で“解放”という名の粛清をしている。”解放”は福音であり、施してあげている善意だ、と習近平は信じているのである。こうしてチベット民族もウイグル人達も、中国の少数民族は”解放”されて、ついには民族として滅亡しつつあるのだ。

2021年6月12日 (土)

あたりまえ

 そんなことあたりまえだ、と思うことを、ほんとうにそのとおりだなあ、と思うことがある。親を大事にしなければならない、ということだって、あたりまえだと思う(思わない人もいるらしいけれど、そういう人はよほどの事情があるのだろう)けれど、親が死んでしまって会えなくなって、大事にできなくなってから思う思いはレベルが全然違う。

 

 知ること、わかることには無限のレベル差があるということをこのブログでも繰り返し書いてきた。

 

 自分のささやかな知識とわずかな情報から、さまざまなことに賛成や反対の考えを持つけれど、テレビなどで専門家が詳しく説明してくれたりすると、自分の思い込みを修正することが良くある。また違う話を聞かされてさらに意見が変わったりして、自分ながらふらふらしているなあ、と思うことも多いが、それはそれでかまわないと思っている。何かの意見に執着して反対意見がまったく聞こえなくなることの方が問題だと思っている。私がいつも揶揄する正義の味方には、そういう執着が見られることが多くて、そういうときに揶揄しているのだ。たいてい同じことを同じ言い方で繰り返しているから、なんべん聞いても同じである。

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 専門家の意見は耳を傾けるべきだと思う。ただ、専門家が専門外のことをとくとくと語る場合は別である。たいていわれわれと同レベルの、聞いても意味のない感想のようなものをしゃべっていることが多い。専門のことを自分の経験と知識をもとに考え抜いた上で話していることは、あたりまえのように聞こえても大いに値打ちがある。それに影響されて自分の意見を変えてもいいと思う所以である。

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 以上、日ごろ感じていることを書いてみたら、あたりまえのことを書いていた。

休養日

 昨晩はつい晩酌として自分で決めている量を超えて飲んでしまった。むかしならどうという量でもないのに、酩酊し、今朝はいささか二日酔い気味である。濃いお茶がうまい。

 

 今日は休養日として、おとなしく古い映画音楽でも聴きながら美術の本か写真集でもぼんやり眺めることにしよう。

 

 でも考えてみると、毎日休養日だった。

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先日散歩の途中で見た大きな花。百合の一種だと思うけれど名前は知らない。

2021年6月11日 (金)

検査結果

 病院で首の骨、胸、股関節のレントゲンを撮って、加齢による変形以外には特に気になる場所はないことを確認してもらった。痛みも生活に支障がないほどになれば、特に治療の必要はないので、検査はこれまでとすることになった。来月も診察予定だったがそれはなしにして、念のため二ヶ月後に経過観察、つまりどこも変わりがないか問診だけするということで最後にしましょう、ということである。とにかく転倒すると骨折した場所は弱いので、深刻なことになるおそれがあるからくれぐれも注意すること、というのが先生の最後の言葉であった。

 

 今日は患者の数がいつもより多く、診察までにずいぶん待たされた。昼には帰れると思ったのに、予想より一時間ほど遅くなった。帰宅して簡単な昼食を摂り、ざっと部屋の中を片付けて、ディーラーの人を待った。約束の時間ちょうどにやってきて、いろいろ書類に記名捺印した。彼が出かけに確認したら、納車はやはり来月十日くらいになるということである。妻の病院へ行くのが毎月半ばなので、なんとか間に合いそうだ。いろいろ車について教えてもらったりして雑談していたら、「あっ、次の約束に遅れてしまう」とあわてていた。「楽しみに待っているのだから、できるだけ急がせてくださいよ」と声をかけると、「せいぜいつっついておきます」と笑って答えた。

 

 あとひと月か。

朗報

 本日は、これから整形外科の病院に行く。病院に行くためのレンタカーは昨日届けてもらった。股関節と胸、そして首の精密検査をして、大きな問題が見つからなければ今日で打ち止めにしても良いと思っている。たしかにわずかな痛みはあるものの、ほとんど忘れているくらいで、生活への支障は全くないようになっている。

 

 昨日レンタカーが届いたすぐあとに、車のディーラーから、新車の納車が早まりそうで、早ければ七月初めには届けられそうだという。印鑑証明と車庫証明の準備をすぐして欲しいとのことであった。印鑑証明はすでに用意してある。借りたばかりのレンタカーですぐに駐車場を管理している不動産屋へ行って、車庫証明を作成してもらった。

 

 今夕にはディーラーのお兄さんが来て、いくつかの書類に実印を押して、正式に契約完了となる。振り込みは今月中でかまいませんよ、とのことであった。

 

 今月末の三十日には二回目のワクチン接種である。すべてが段取りよく進み出した。七月初めに新車が手にはいれば、さっそく足慣らしにあちこち日帰りで走り回ろうと思う。そうして弟夫婦のワクチン接種が済んでいるようなら、久しぶりに会いに行こうかと思っている。

 

 相手のある酒をずいぶん飲んでいないのである。話したいこともたくさんあるし・・・。

2021年6月10日 (木)

山本夏彦『寄せては返す波の音』(新潮社)

 また山本夏彦か、などと思わないで欲しい。私の思考の一部は山本夏彦もどきなのだから。

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 この本は2000年に出版された。もともとは平成十年から十二年(1998-2000)にかけて週刊新潮に連載されたコラムを編集したものである。

 

 読む人が読めば女性蔑視に読めたり、差別肯定に読めたりするだろう。しかし私には言葉に気を遣いすぎている現代の言論よりも、はるかになじみがあって読みやすい。私は臆病だから、わかった上であえて差別用語を使うようなことはしないけれど、できれば自由に使いたい言葉がたくさんある。山本夏彦も、そして自分も差別主義者ではないことをだれよりも知っている積もりだから、平気で使う山本夏彦の勇気を諒とする。その山本夏彦も「それなりに気は遣っている」と述べている。

 

 長編小説を読むだけの粘りがなくなって、このごろはコラムや随筆を集めた本を読み返すことが多い。細かく区切りがあるから、途中で本を閉じることに躊躇がない。不思議なことに昔なら読みにくいと思っていた評論本は、あまり苦にならないで読める。嗜好が変わったのだ。

 

 山本夏彦は世界をシニカルに見ていて、最初から希望的に見ることなどない。人間なんて大昔から変わらないものだ、と見切っているのだ。それは多分に私の共感するところだ。人類の未来が希望的だとは思わない。地球温暖化も食料も水も汚染の問題もどんどん解決不能になっているように見えるけれど、真剣に考えているのはほんの一握りで、だれもがそのことについて理解するなんて期待できない。そういう厭世的な気分にさせるところが山本夏彦にはある。だから好きなのだ、などといったら怒られそうだけれど・・・。

 

 へそ曲がりの人は、探して読んだら山本夏彦の本をおもしろく読めると思う。

妖怪の挑発

 立憲民主党の枝野代表は、内閣不信任案を出したくなったようだ。つい先月までは不信任は出さないとみられていたから、気が変わったのだろう。野党が内閣不信任案を出したら国会を解散すると政界の妖怪(by OKCHAN)二階氏は繰り返し挑発してきた。その挑発に乗りかけているのだろう。

 

 世論調査などで菅内閣に対しての支持率が低調であるいまこそ、選挙のチャンスだよ、と二階氏はささやいているのである。国民の命を守るといいながら、リスクのあるオリンピックを強行する菅首相を非難すれば、オリンピックの開催に反対する国民は立憲民主党に投票するだろう、とそそのかされているのである。

 

 オリンピックは実施されるだろう。始まれば国民は盛り上がるだろう。盛り上がれば自分が批判的だったことを忘れるだろう。よく頑張って実施にこぎ着けた、と誉めるだろう。そういうものである。もちろんオリンピックで感染が再拡大したりすれば今度はなぜ開催したかと政府をなじるだろう。国民というのはそういうものである。

 

 ワクチン接種はいろいろあら探しをすれば問題だらけに見えるけれど、徐々にペースも上がり始めて、地方ほど順調に片付いているようだ。都市部は人口も多く、接種会場も限られるし、都市部の医師ほど非協力的らしく見えるから、接種は遅れていて、どちらに着目するかでその評価は分かれるようだ。ただ、接種が進めば進むほど感染者が減ることが欧米の様子を見れば期待できそうだ。そうなれば菅政権に対する批判は和らぎ、もしかすると支持率も回復するかも知れない。

 

 枝野代表は風向きの変わることを心配しているのだろう。それなら今国会が閉会する前に内閣不信任を提出するしかないと考えているのだろう。自民党は野党の内閣不信任案の提出を待っている。そして二階氏のいうように解散するか。するはずがない。コロナ対策、そしてオリンピック開催をひかえて解散などすれば批判されるのは明かだからだ。

 

 多数の与党で内閣不信任案を一蹴し、こんな時期に選挙などできるはずがないだろう、と野党を批判して国民の賛同を求めるだろう。そして次第に感染者が減り、オリンピックがうまくいったとき、枝野氏は挑発に乗せられた愚かな自分を見るだろう。

 

 それとも辛くも踏みとどまって不信任は提出しないと決めるだろうか。

効くか効かぬか

 今朝、ワクチン接種した左腕が少しだけ重い気がする。発熱などはなく、倦怠感があるといえばあるが、ふだんでもときどきあること(泌尿器科の慢性疾患が原因と思われる)なので、ワクチンによるものかどうかわからない。ただ、久しぶりに多少排尿困難になっている。少し様子を見るつもりだ。

 

 中国のワクチンが効果が弱いのではないかというネットニュースを二三見たが、マスコミでは特にそういう報道はないから、本当かどうかわからない。ただ、世界で主に接種されているワクチンはmRNA(メッセンジャーRNA)というもので、遺伝子操作で身体に新型コロナウイルスの抗体を作らせるようにするもので、新型コロナウイルスそのものは使われていない。

 

 むかしは、ワクチンといえばウイルスを弱化させて、発病しても身体に甚大な被害を与えない程度に感染させて抗体を作らせるものが普通だった。そして中国のワクチンはそのタイプのワクチンらしい。中国ではmRNAタイプのものもあとで作られているが、南米を始め世界中にワクチン外交で使われているのはこの弱化ウイルスだという。

 

 だとすると、変異ウイルスに対する効果はmRNAタイプよりも劣るかも知れない、と思うけれど、それは私の勘違いだろうか。しかし実際に中国のワクチン接種が進んでいるのに感染者数が減ってこない国があるという報道があるのだ。

 

 接種よりも先に感染してしまった人がいて、タイムラグによるものかも知れない。いずれにしても結果は明白に顕れるはずなので、しばらく注視したいと思っている。少なくとも中国では感染者が激減しているのだ、と中国は胸を張っていて、それも事実なのだ。徹底的な国家の管理で効果が出ているのか、それともワクチンによるものなのか、いまにわかるだろう。

2021年6月 9日 (水)

一回目のワクチン接種

 ワクチン接種の予約時間は午後二時十五分。場所は私が糖尿病や泌尿器科で通院している病院なので、よくわかっている。時間厳守という案内があり、遅れるのはもちろん早すぎても待つところはありませんということなので、五分ほど前に到着。すぐに案内があり、体温測定、接種券、問診票、本人確認のチェックがあったあと、あらためて医師の問診票についての確認があって、そのまま接種場所へ導かれた。

 

 テレビで接種の様子を見ると、ずいぶん長い注射針をブスリと刺すからちょっとは痛いのかと思ったら、ほとんど何も感じない。ふだんの血液検査の採血のほうがずっと痛いことがある。接種のあと15分間の待機をする。アナフラキシーなどの副反応がないことを確認するのだ。異常なし。

 

 炎天下、片道二十分弱の道をてくてくと往復して帰宅。まだ接種して二時間あまりなので、腕が痛かったり発熱したり倦怠感や頭痛があったりという副反応は見られない。これから出るのかまったく何もないのか今晩にならないとわからない。

 

 晩酌してもいいのかなあ・・・。するけど。

濃縮された文章

 昨夕はお粗末なブログで失礼した。伝えたいことを表現するには、そのことを煮詰めて濃縮しなければならない。濃縮するというのは考える、ということである。

 

お手本として敬愛する山本夏彦の、『社会主義早わかり』、というコラムの文章の一部を引用する。
(前略)
 私有財産は盗みだとプルードンはいった。これを奪い返して持たざる者に公平に分配するのは正義である。これ以上若者を魅する言葉はない。社会主義には正義があるが、資本主義にはない。だが正義と良心ほど忌むべきものはない。五・一五、二・二六の青年将校は正義と良心のかたまりだった。「問答無用撃て」と彼らは犬養毅や高橋是清以下を殺した。レーニンのあとをついで独裁者になったスターリンは、革命の功労者ジノヴィエフ、ブハーリン、ラデック以下を皆殺しにした。毛沢東は文化大革命で何千何百万人を殺したか数知れない。金日成、ポル・ポト以下あげて数うるべからず。
 悪は転じて善と化す。資本主義は産業革命以来のものである。はじめは搾取の限りを尽くしたが、資本は生産したものを買わせなければならない。買わせるには買えるだけの賃金を与えなければならない。結局競争してよりよい安いものを提供しなければならなくなる。こうしてわが国は値下げ競争するにいたっている。
 邪悪な資本主義のおかげで、人は冬暖かく夏涼しい極楽にいる。テレビは百害あって一利ないと納得させることはできても、取り上げることはできない。食い物を捨て助平の限りを尽くす王様は革命家に滅ぼされたが、いまは滅ぼすものがいない。人類はまるごと滅びる瀬戸際にいる。
(後略) 

 

 文章とはとことん濃縮してこそ伝わるものなのだ。

2021年6月 8日 (火)

上等、普通、並み以下

 書いてみて、何が言いたいのか分からなくなった。せっかく書いたからそのままにしたけれど、忙しい人は今回はパスしてください。

 

 人にはいろいろあって、さまざまな分類が可能である。人が見ていなくても決して悪いことをしない人、人が見ていないのを見澄まして悪いことをする人、その他の人、など。このその他は、悪いことをすることもあるし、しないこともある人である。そういう人が一番多いのが世の中である。先日書いた、ゴミを捨てる人、ゴミを拾う人などについても仕分けられる。その他は、ゴミはたまにしか捨てないけれど、まず拾わない人というところだろうか。  

 

 悪いことをして利益を上げている人に、ことさら怒る人を見ていると、自分が利益を上げられないからだったりする。ただのヤキモチである。不倫バッシングなんか、多分にそういうところがありはしないか。そういう人は風向きによってまたは立場によって悪いことをしたりするものだ。

 

 人の分まで働く人、人並みに働く人、働かない人、という分け方もできる。二割六割二割に分かれるかなあと思う。伸び盛りの会社はそれが三割六割一割で、衰退している会社は一割六割三割だったりする。働かない人を首にしても、必ず一割以上は働かない人になるというからおもしろい。全員を精鋭にすることはできないのだ。バブルがはじけたあと、その、人の分まで働く人ほどリストラの対象になり(だいたい有能だから給料も高いし、真剣に会社の将来を考えているから経営者のいうことを聞かないことが多い)、ヘッドハンティングされて海外に技術流出する原因となったのを仕事で目の当たりにしてきた。

 

 上等、普通、並み以下という言い方をすれば、残念ながら自分が普通でしかないことを、大人になりかけの頃に自覚した。以来、せめて並み以下にはなるまいとこころがけてきた。多少の自負はあるから、他人に背伸びして見せているうちに、なんとなくそれが板についてくる。努力というほどのことはないけれど、それなりの汗をかいたこともあったなあ、などといま自分をふり返っている。

 

 マスコミはあげて並み以下でもいいんだよ、と猫なで声で言う。テレビなどでは若者は仲間のバカ笑いを誘うほど人気があるように見えるが本当だろうか。

 

 教育は、平等を目指すよりも上等の輩出を確保する方が、社会の活力の維持のために有効だと思うけれど、上等の意味がただの学力としてしか理解されていない。人の分まで考え、働く人、役割を自覚する人、という意味なんだけれど・・・。そもそも教師に役割を自覚している人がどれだけいるのだろうか。日本もこれからますますたいへんだなあ。

繰り言

 年齢とともに、ものごとに執着心がなくなったのはたぶん好いことなのだろう。見方を変えれば、簡単にあきらめてしまうようになったということでもある。欲がなくなったというわけではない。歳をとっても欲望というのはあまり衰えないことをこの歳になって知った。年寄りがしばしば無欲に見えるのは、あきらめているからだと知った。年寄りの欲張りがことさら醜く見えることを自覚するから我慢するのだ。

 

 だから執着心が強い、わがままな年寄りを見ると腹が立つ。世の中には周りの目を意識できない人間がいて、意のままにならないと天を呪うが如く人に噛みつく人間がいる。みな眉をしかめて見ているが、そういう人間は自分しか見えていないし、なだめられても自分が正しいと思い込んでいるから聞く耳を持たない。

 

 社会と折り合いをつけることができない人間は、ある意味で狂人だと私などは思っている。何でも折り合いをつければ良いというものではないものの、非常識な振る舞いをしていることが自覚できないのは病気だと思っている。自らを相対的に見ることが出来ないのは精神の病だと思っている。だから正義の味方を標榜する人の中に、しばしばそのようなものを見てしまうので腹が立つのだ。

 

 反知性主義者というのは、相対的に物事を見ることが出来ない人間かと思う。だから相手の言い分を聞くこと、理解することができない。自分の信じる宗教に従って自分で考えない。トランプ元大統領にそのような狂気を見た気がするといえばわかる人にはわかるだろうか。

 

 歳をとって時間が自由になったら、読書三昧、映画三昧して、ときどき旅に出て気持ちの選択をして、などと考えていたけれど、だんだん集中力も根気も衰えて、楽しみにしていたことを楽しむことが思い通りにできていない。気がつくとぼんやりつまらないテレビを観て腹を立てていたりする。

 

 気がついたら私もあたりまえの偏屈じいさんになっているようだ。考えているように見えて何も考えていないことに、自分でうんざりしている。

2021年6月 7日 (月)

続々・持続不可能

 禁漁区、禁漁期間を設けるのは、まさに持続可能性を考慮することである。木を伐採したら植林するのも同じ思想である。魚も森も適度に採取していれば再生を繰り返し、人間は持続的にその恩恵を受け続けることができる。日本ではそのことをよく理解した上で、長いことそれをとうぜんのこととしてきた。

 

 お隣の中国はそのことが理解できていないし、理解するつもりがないように見える。十四億という巨大な民を抱えているから仕方がないのだ、という見方もある。

 

 中国の沿海は大河が流れ込む砂地が多い。本来遠浅だから豊富な魚介が育つ場所である。その大河は農薬や肥料や垂れ流しの化学物質で汚染されていて、沿海は死の海となってしまった。中国では沿岸漁業は困難になっている。だから韓国の水域や日本の水域、それどころか世界中の領域で漁を行い、世界中から顰蹙を買っている。日本では小さな魚を獲ってしまって水産資源を絶やさないために、漁網の網の目を一定以上の大きさにするように決められている。漁法も制限がある。ところが中国漁船は根こそぎ獲り続けているから、たちまち一帯の海の水産資源が壊滅的なダメージを受けてしまう。

 

 資源が有限であり、再生のためには一定の自制が必要なのだ、ということが中国人には理解できない。そういう国が存在している限り、地球の再生能力は損なわれ続けてしまうのであり、持続可能性など絵に描いた餅になる。

 

 今朝のNHKBSのニュースの中の特集で、世界の大豆の総貿易量は1.6億トン、中国の輸入量が1億トンだと報じていた。これによってアメリカに在った大豆の備蓄量がほぼゼロになりつつあるという。さいわい去年は世界的に穀物は豊作だった。その世界の食糧生産量は27億トン、そしてそのうち備蓄されている量は8億トンだそうだが、そのうち4億トンが中国の備蓄量である。世界の五分の一の人口の国が世界の半分を抱え込んでいるという異常。

 

 中国は豚肉の生産量を拡大するために大豆やトウモロコシを買いあさっている。アメリカの穀物生産の将来が地下水の枯渇によって危ういことは前々回に書いた。南米やウクライナ、その他の穀物生産国からも中国へ膨大な穀物が流れ出している。中国はアフリカ豚熱の流行で豚肉が不足して値段が上がった。中国政府はその対策として管理された衛生的なそして巨大な豚の飼育施設をどんどん造っている。食料の値上がりや不足が、人民が政府に不満を抱く最大の要因であることを承知しているから必死なのだ。

 

 中国政府は共産党政権が持続することを「確信的」に最優先とする国である。その国が持続可能性などを本気で考え始めるのは、本当に危機的な状態になってからのことだろう。そのときにはもう手遅れであるだろう。『持続不可能』と私が考えるのはこういう理由である。

不審な電話

 固定電話に出たら、市役所からだという。医療費に関する提出書類要請の手紙を2月に送ったのに、期限までに返事がないから確認したいという。覚えがないけれど、近頃はうっかりすることがしばしばあるので、どんな書類なのか訊いたのだが、とつぜん電話が混線したと同時に切れてしまった。どの部署からの電話なのかよくわからないから、こちらからはかけ直すことができない。必要ならまたかかってくることだろうと思ったが、それきりである。

 

 そういえばこの電話は昼休み時間にかかってきたことが不審である。お役所が昼休み時間中にかけるということはないではないだろうが、あまりないことだ。それにそういうことなら書面で督促が来るのがふつうで、電話で確認するというのもおかしい。還付金詐欺かなんかだったのかも知れない。

 

 実は妻の医療費その他の補助に関するさまざまな申請がいくつもあって、一年ごとだったり二年ごとだったりして、大変面倒なのである。そろそろ一つずつ見直そうと思っていた矢先なので、その問い合わせだと思い込んで名乗ってしまった。こちらが不審を感じたことに向こうは気がついているだろう。それきりならありがたいのだが。だから固定電話はうっとうしいのである。理由があってどうしても固定電話でやりとりしなければならない電話先があるので、仕方がないのだが。

続・持続不可能

 私が心がけているのは、開けたら閉める、ということと、人より得をしようと思わない、ということだ。自分がだらしない人間だし、さもしい人間だからこそ心がけなければならないことだと思っている。それから、これは真理だなあ、と思うのは、『ゴミを捨てる人はゴミを拾わない』であり、『ゴミを拾う人はゴミを捨てない』ということである。世の中には必ずゴミを捨てる人がいて、自分だけ捨ててもたいしたことはないだろう、どうせ誰かが掃除するのだから、と考えている。

 

 ゴミを減らすには、徹底的に掃除しまくるか、ゴミは捨ててはならないものだ、という教育をとことんすることで、少しでもゴミを捨てる人を減らすしかない。思えばむかしはずいぶんゴミを捨てても皆平気だった気がする。それがかなりゴミを捨てることが減っているのは事実だが、それでもゴミを捨てる人がなくなることはないし、油断すればすぐまた捨てる人は増える。分別ゴミを平気で分別せずに捨てる人がいることは、だれもが見ていることで、それが不愉快なのはちゃんと分別する人なのはもちろんである。人はだれも見ていなければ、してはならないとわかっていてもしてしまう人と、だれも見ていなくても、してはならないことはしない人とに別れて重ならない。

 

 二十年以上前、中国に行くと表通りはともかく、裏通りにはゴミが散乱していて、むかしの日本みたいだなあ、と思ったりしたが、十年くらい前から、上海などはまったくゴミが見当たらなくなった。ゴミを捨てる人がいなくなったのではなくて、とことんゴミを掃除する人たちが信じられないほどの数いて掃除しまくっているらしいことを知った。ゴミがほとんどない状態が続けば、やはりゴミは捨てにくいものらしく、次第に捨てる人が減っているということだった。

 

 プラスチックゴミの問題も、捨てる人がいなければ生じないはずの問題で、この問題は恐ろしいことに個人の投棄だけではなく、先進国が処理に困って後進国に捨てていることで生じたりしている。以前は中国がゴミ捨て場だったけれど、断られるようになり、いまはマレーシアなどが深刻な状態になっている。先進国は金をつけて捨ててくれるので引き受ける業者がいるが、処理などしないから山積みにしたり、ひどいときには自分で放火して片付けたりしている。

 

 出たゴミは自分で処理するしかないのだ。それならゴミそのものを出さない工夫が必要なのはとうぜんのことで、ところがそれは消費活動の低下につながるというジレンマがある。経済を支えているかなりの部分が、必要がないのに買い込むことで生じている。必要以上のものが自分の家に溢れていることは、よく見回せばわかる。

 

 環境や衛生に関心がある人ほど、賞味期限切れに目くじらを立てる。そうしてコンビニやスーパーでは賞味期限切れ前でも食べ物が捨てられている。食べずに捨てるのだから、食べきれないほどテーブルに食べ物を並べて大半を捨てている人間と変わりがないことに気がつかない。飽食の時代と言われる所以である。そのようにして日本で捨てられている食品の量は、国連が食料援助で世界の貧困地帯に支援している量をはるかに超えている。

 

 世界中が消費行動をひかえてゴミを減らすようにすること、そしてゴミはきちんと捨てて、システムとしてゴミを処理できるように社会が整うことが必要なのはだれにもわかっている。しかしそう知りながら、ちょっとくらいはいいだろう、と思う人がいるのがこの世である。『持続不可能』、と私が悲観する理由である。

 

 もう少し違う視点からこの話を続けたい。

2021年6月 6日 (日)

持続不可能

 SDGsという言葉をよく見聞きするようになった。持続可能な開発目標という意味らしい。世の中が壊滅的な未来に向かって、引き戻すことが困難な限界点に近づいていることが明らかになりつつある。これからは何をするにもそれを意識した生活や企業活動が必要だ、という趣旨の提唱がEUから発せられていて、それが盛り上がっているということだろう。

 

 NHKの『2030未来への分岐点』というドキュメント番組で、地球温暖化、水と食料、プラスチックの問題がそれぞれ取り上げられて少し前に放映されていたが、それを統合して、それらが互いに密接に関連していることをわかりやすく説明していた。2030というのは、壊滅的な事態を食い止めるタイムリミットは十年後の2030年だ、と警告を発してのことである。

 

 アフリカや北アメリカ大陸の砂漠地帯は、紀元前には緑野だったことが分かっている。サハラの岩山に残されたトンブクトゥの岩絵には木々とそこに動物たちが群生していたことが描かれている。中国の新疆ウイグル地区もオアシス周辺は広い緑野だった。そのことは『楼蘭』というアルバート・ヘルマンの本を読めばわかる。この本は記念すべき東洋文庫の第一巻である。幻の地・楼蘭に多くの木材の遺跡が出土しているということは、そこに木々が繁茂していたことを示すものである。

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 そしていまアメリカの砂漠地帯は拡大しつつある。無尽蔵に思われた地下水を耕作地に撒き続け、耕作のために表土を剥がし続けた結果、ついに水が底をつき始め、耕作放棄地が急拡大しつつある。世界の穀倉地帯は危機を迎えようとしている。すでに一帯は徐々に再生不可能地帯になりつつある。そこでとれる穀物の三分の一は人間ではなく、食肉用の家畜のためのものである。

 

 アマゾンの原野が人為的な森林火災によってすさまじい勢いで消滅しつつある。遠からずあのアマゾンがサバンナ地帯に変わり、ついには砂漠化するであろうことが予想されている。二酸化炭素を吸収すべき地域が二酸化炭素を放出しているのだ。そして地球温暖化によって北極の棚氷が消滅しつつあり、海面上昇をもたらしている。そしてシベリアの永久凍土が溶け出している。そこから二酸化炭素よりもはるかに地球温暖化の要因になるといわれるメタンガスが放出されだしている。

 

 タイムリミットが2030年というけれど、世界が足並みを揃えてそれに手を打つことができればそこで食い止めることができる、という想定である。世界が足並みを揃えるなどということができるかどうか、私は大いに疑わしいと思っている。いや疑わしいというより不可能だと思っている。だから表題を『持続不可能』とした。

 

 これに関連してもう少し書きたいことがあるが、長くなるので次回にする。

少子化

 日本の合計特殊出生率が、2019年が1.36、それが2020年は1.34だった。低いところがさらに下がったといって深刻な事態だと報じられてきた。昨年の夏までの出生はまだコロナ禍が問題になる前の一昨年の妊娠によるものだとはいえ、それでも思ったよりも低下していないなあ、というのが私の感想だ。ただし今年が終わった時点でどれだけ低下しているのか。そのかわり、コロナ禍が終わったら小さなベビーブームが起こるだろうし、ぜひそうなってほしいものだ。

 

 お隣の韓国で、今年の出生見込み数と合計特殊出生率の推計値が報告されていた。出生見込み数は25万人を切り、出生率は0.78だという。昨年の特殊出生率が0.84だというのを知ったときには衝撃的だと思ったが、コロナ禍もあるからさらにこのような数字が推計されたのであろう。世界中で1.0を割る数字は突出していて、韓国以外にはどこにもない。異常に出生が少ないのである。そしてこの状態は当分続きそうだという。

 

 思えば長いこと一人っ子政策を採っていた中国ですら、不思議(計算上はあり得ない)なことに1.0を切ったことなどない。それどころかずっと1.5以上だった。日本と似た数字になったのは二人目が許されるようになった、つい最近のことである。

 

 韓国の文在寅大統領には反日に血道を上げるより先にこの問題に取り組むほうがいいだろうと老婆心ながら申し上げたい。どうして若い人が子供を作らないのか、理由があるはずで、それを解析することが案外韓国という国を経営するための正しい処方箋の参考になるような気がするからである。それともいくら出生が減ろうと、北朝鮮と合流すればそんな人口問題は一気に解決すると思っているのだろうか。もちろん日本も他人事ではないけれど。

2021年6月 5日 (土)

『ロング・ナイト』

 中国で大ブームとなったというミステリードラマ、『ロング・ナイト 沈黙的真相』全12話を三日かけて一気に観た。毎週木曜日に2話ずつWOWOW放映されていたものが今週で完結したからだ。中国のミステリードラマを観るのは、映画以外ではおそらく初めてだ。中国ものだと歴史ドラマばかりで、全五十話とかいう長いものが多い。中国史には興味があるので、以前はよく見たが、あまりの長さに辟易して最近は敬遠していた。それに登場するキャラクター設定や配役が私の持っているイメージと違いすぎたりしてガッカリすることも多かった。

 

 テンポの良いプロローグのあとにこの物語が始まる。爆弾騒ぎをおこした男が、爆弾だといって引きずっていた大きなトランクから出てきたのは男の死体だった。そして犯人は元学者で高名な弁護士だった。さらにこの死体が服役経験のあるもと検察官だったことが判明する。

 

 いったいこの不可解な事件にはどういう意味があるのか。この事件は世間を騒がせ、警察上層部は特に有能な刑事(名探偵役)を捜査班に配属する。そしてこの事件の背景だと考えられる、死んでいた検事の扱った事件が調べ直される。

 

 この検事の現役時代、そして現代とが複層的に(つまり同時並行的に)、しかもランダムに描かれるので、よく注意して観ていないと頭が混乱するが、慣れてくるとそれがドラマへの興味を増幅させる。いわゆるフラッシュバックという手法である。

 

 地方都市の、官権と財閥の癒着という巨悪に挑んだ検事の話が次第に明らかにされていく。中国でもこういう話が描けるのかなあ、という思いもある。中国ではそこら中にこういう話がありすぎて、却ってそういう話はリアルすぎて描くことが出来ないような気がしていたのだが、それをあえて描くことでこのドラマが人気になったのかも知れない。

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 テンポが次第にゆっくりになっていくのがちょっと残念だ。日本やアメリカならこの半分以下の回数ですむだろう。話の収め方も、やはり中国だからこうなるのだろうなあ、という終わり方である。全体としてとてもおもしろいドラマだったが、予定調和の終わり方だった。それでも中国のミステリーは韓国のものとまた少し違っていて、また同様のドラマがあったら観るだろうと思う。

懸念を示す

 オリンピックはすでに実施するしかない状態に到っている。それならばなんとか無事に終わることを願うし、始まればそれなりに盛り上がるだろうと私は思っている。だからといって、新型コロナ感染の対策部隊の一員である尾身さんが、オリンピックの開催に懸念を示したことは非難できないと思う。万全を期したいけれども、いまの時点ではとても万全だとはいえないのだから責任者の一人として懸念を示すのはとうぜんで、「大丈夫です」などという方が無責任だ。

 

 日本テレビ系の番組でリモート出演した立憲民主党の枝野さんがオリンピックに対して感染拡大が懸念されるという意見を語った。日本中だれもが懸念しているから、枝野さんが懸念するのもわかるけれど、もう事態は止めようがないとの指摘に対して、「開催前日でも首都直下型地震が起きたら開催できないし、超大国がとつぜん戦争を始めたらできない。いまの世界的パンデミックと日本の感染状況はそうしたものと比較できる状況だ」と答えた。

 

 それならオリンピック実施に身体を張ってでも絶対反対をしなければならない。ところが、「ただし中止ありきではなく、開催できるならしたいと前から申し上げていし、開催するなら協力したい」」のだそうだ。首都直下地震や世界戦争に匹敵する危機事態だといったばかりなのにこういう矛盾したことをいう。

 

 彼にとっては政権批判のための懸念なのであって、何かあったらそれみたことか、というための言葉であるようにしか聞こえない。正義の味方の呪いの言葉と聞いた。

岩田明子さん

 NHKの記者の岩田明子さんが政治部から異動になったとネットニュースで報じられていた。報じていたのが新潮デイリーだからあまり好意的な報じ方ではない。岩田明子さんが安倍前首相の大のお気に入りだというのは有名で、数々のスクープをものにしてきた。他社の記者は競争心を燃やし、やがてとてもかなわないとあきらめ、ついに敵愾心を抱くに到ったらしいことは今回の報じ方でわかった。

 

 岩田明子さんは失礼ながら美人とは言いがたいと私は思っていた。だからどうしてそれほど安倍前首相に可愛がられたのか不思議に思っていた。しかし最近政治的な話題以外でもしばしば解説役としてNHKの番組で拝見することが増えて、その話の明快さ、無意味な饒舌のないことに好感を持つようになり、私にとってついには魅力的な女性として感じられるようになった。

 

 私は若いときから、無知を売りにする女性は苦手だったが、歳とともにますます賢い女性に魅力を感じるようになっている。賢いことが鼻につく女性は賢いとはいえない。賢いことの精神のきらめきが感じられるからこそ魅力的なのだ。気がつけばそういう人はけっこういる。女性に限らないのはもちろんである。

 

 岩田明子さんも政治部から異動になったことにくさらずに、前向きに活躍して欲しいと願っている。もちろん彼女ならそれが出来ることだろう。

2021年6月 4日 (金)

領土問題

 オリンピック用の日本地図に竹島が日本領として描かれていることが韓国で問題になっているらしい。与野党の議員有志たちが東京オリンピックをボイコットすべしと息巻いているという。国際的なスポーツ大会で、竹島の領有権主張をアピールした韓国の選手が処分されたことがあるのに、日本は国を挙げて領土問題をアピールしているではないか、不公平だ、というのが韓国の論理らしい。

 

 この問題でIOCが日本に自重を求めることがあるのだろうか。もしそうならIOCは韓国の肩を持つことになり、領土問題に介入することになる。それこそ問題だろう。だからどこも仲裁することは出来ない。そもそもこういう問題は二国間の間の問題である。そうなると、問題視している韓国が振り上げた拳は、自らおろす以外におろしようがないことになる。拳をおろして黙ってオリンピックに参加するか、本当にオリンピックをボイコットするか、どちらかしか選択肢はない。

 

 ボイコットを主張した議員達はIOCに提訴し、日本が地図を訂正しない限り断じて許さないと断言している。それなら韓国のオリンピック参加を容認したとき、彼らは日本の主張を認めたことになりかねない。来年の大統領選を意識したパフォーマンスの要素も多分にあるのだという見立てもある。相変わらず反日を政治手法にする習慣はやめられないようだ。慰安婦問題や徴用工問題はすでに雪隠詰めだが、竹島問題はまだ国民の賛同を得られると踏んでいるらしい。

 

 参加するも参加しないも韓国自身が決めることである。「どうぞ御勝手に!」などといえば角が立つから、日本は黙って見ていればいい。案外韓国が参加しないなら、半島を代表して北朝鮮が参加する、などということになるかも知れない。まさかそれはないか。

井波律子『一陽来復』

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 二百ページ足らずの本なので、一気に読めてしまうが、それではもったいないのでゆっくり味わいながら読んだ。井波律子(1944-2020)の死(昨年死去)をいまごろ知って、追悼の意味で本棚から引っ張り出した本であり、再読である。

 

 第一部と第二部に分かれていて、第一部は2010年から2013年にかけて月に一度、三年間にわたって読売新聞に連載されたもの、そして第二部は2012年の日経新聞に半年にわたって週に一度連載されたものを編集したものである。井波律子は2009年に学者としての公職をすべて終えて、高齢の母親の面倒を見ながら静かに暮らし始めていたが、翌年の2010年にその母親も95歳で亡くなってしまう。その母親を偲びながら花木の生長を眺め、漢詩の世界を重ね合わせながら四季折々の思いを書き綴った。

 

 目次のあとの冒頭に二十四節気と節気ごとの花信風が表にして掲げられていて、読み進めるための参考になる。漢詩には季節の花を詠ったものも数多くあり、井波律子が住んでいた京都の四季と、自分のベランダの花木をそれらの漢詩に重ね合わせてさまざまな思いを書き記していて、植物に知識のない私にも興味を持たせてくれる。

 

 人は自然との関わりをますます薄れさせていくようだけれど、年齢とともに、気がつくと自然に目が向いていくもののようである。

 

 一陽来復とは、本来は、一年に一番日の短い冬至を境にして、ふたたび季節は春に向かうことをいうが、広い意味で、不遇の時、困難なときもいつかは転じて明るい未来に向かうのだ、という意味でもある。いま、コロナ禍の困難な時代も、必ずそれも終わりを告げるのだと思いたい。

 

 ところでこの本の出版されたときは2013年、井波律子はたぶん69歳で、いまの私の年より少し若いけれど、ほぼ同年齢である。彼女が亡くなったのは2020年、76歳、この本のあとがきを書いてからたった7年後で、その時はそんなに早くこの世を去るとは思っていなかっただろうなあ、と思ったりした。

2021年6月 3日 (木)

久しぶりの散歩

 この二ヶ月、四月は安静につとめていたし、五月もよんどころない用事で出かけたとき以外は、ほとんど長い距離を歩いていない。散歩をしたのは久しぶりだ。けんこう館様に指摘されたとおり、体調が回復したので気持ちにも身体にも力が出てきて、ようやく重い腰を上げた。歩き始めの十分ほどは左脚付け根から腰のあたりがギクシャクして歩きにくかったが、次第になれてきた。

 

 いつもの散歩コースの一つを選んだが、そのまま歩くと一時間ほどなので、途中までの短縮コースにした。いつもとは少し違う脇道を選んで目先を変えた。

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 赤い花が一瞬百日紅(さるすべり)に見えたけれど、まさかまだ早いだろう。葉の形からたぶん夾竹桃だろうと思う。まことに哀しいほど草木の名前に疎い。紫陽花と一緒に写真を撮ってみた。

 

 今晩から明日一日は本降りの雨らしい。風が吹いていて、汗ばんだ肌に心地よい。歩数計は六千歩ほどであった。まあこんなものだろうか。しばらくはこの程度でも好いから歩くようにしようと思った。たぶん今晩はよく眠れるだろう。

眠りと酒

 ドライデーを週に最低二日、出来れば三日もうけるようにと以前糖尿病内科の女医さんに言われたけれど、飲まない日は月に一日か二日がせいぜいだ。現役時代は一年間に一度もドライデーがないのがふつうだった。検診日の前には一週間前後の休酒をしても、べつにつらくないからアル中ではないのだ、などと自分に言い訳したりしている。

 

 昼間、今日は酒を抜こうかな、などと思っても夕方になるとひとりでに酒のつまみを支度して飲み始めている。よほど深酒をしなければ飲んでも本が読めた。もちろんむつかしい本は無理で、軽い本だけれど。ところがこのごろは飲むとまったく本が読めなくなった。だから夜の時間はテレビを観ることが多くなった。たいてい録画したものを観ている。そうして九時のニュースを見たら寝てしまう。

 

 飲んで寝るとすぐ眠りにつける。飲まない晩はなかなか眠れない。その代わり本が読めるが、寝不足になって眠りのリズムが狂い、なかなか元に戻らなかったりする。飲んで寝ると夜中に眼が覚めてしまうことが多い。そこで我慢して暗闇でじっとしているとふたたび眠りにつけるが、そこで灯りをつけたりすると、もういけない。

 

 快食快眠が出来ていた若い頃が懐かしい。目をつぶれば瞬時に眠りにつけたし、何を食べても美味しくて、しかも大量に食べた。しあわせだった。いまはそれほどたくさん食べたいと思わないし、昔ほどものが美味しく感じられない。記憶で食べているようなところがある。

 

 ものを美味しく食べたり、よく眠るためにはもっと身体を動かすことが必要なのかも知れない。わかっているのだけれど、ついものぐさを決め込んでいる。手持ち無沙汰を感じているのは体調が元に戻ったということだろうから、そろそろ動き出した方が良さそうだ。来週、ワクチン接種をする。

2021年6月 2日 (水)

ついこの二三日で観た映画

『リベンジ・アイランド』2019年のフランス映画で、舞台は東南アジアのタイ。いわゆるフィルムノワールというやつで、期待していなかった割には虚無感が漂っていて記憶に残る映画だった。うっかり主人公に思い入れしないほうがいい。悪いやつである。

 

『ドラッグ・チェイサー』2019年のアメリカ・コロンビア映画。主演はニコラス・ケイジ。本当にこの人はどんな映画でもお呼びが掛かれば出演するのに感心する。コロンビアからドラッグが中米、メキシコと運ばれて、アメリカ経由でカナダまで。その様子が克明に描かれている。市中に混ぜ物が入ったものが流通しているために、それを組織から指示されて監視するのがニコラス・ケイジであって、すさまじい暴力の応酬が描かれる。ドラッグは本当に怖い。
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『コロンビアーナ』2011年のアメリカ・フランス映画。リュック・ベッソンの制作脚本。両親を目の前で殺された少女が自ら凄腕の殺し屋になることを望み、長ずるに及んで殺し屋としての仕事をしながら両親の復讐をしていくのだが・・・。そのために大事な人が殺されることになりさらに復讐がエスカレートしていく。一度観たことがあるような・・・と思ったら、観た映画だった。でも途中でやめられずにもう一度最後まで観た。とにかく忍者みたいなスレンダーな女主人公に見入ってしまうのである。

 

 まったく生産的でない映画を観ているなあ。まあおもしろければそれでいいのだけれど。

インフレ

 ものを作って売り、そこで利益を得ることで企業は維持されていき、従業員の給与を払うことが出来る。売るものがサービスでも同じことだ。ところが作ってもなかなか売れないと、値段を下げてでも売ろうとする。利益が上がりにくいから給与も増えない。給与が増えなければ消費も増えないのは自然の流れで、これがデフレで、日本は長くデフレが続いている。

 

 デフレは年金生活の年寄りにはありがたい。デフレだと金利も低い。だれも金を借りてくれないから金利を下げるしかないので、資産のある金利生活者はあまりありがたくないかも知れない。年金が維持できるかどうか不安はあるものの、とりあえず自分としては今のままで働かなくてもなんとか暮らしていけるというのはありがたいことだと思っている。歳とともに買うものはさらに少なくなり、食べる量も減るからかかる生活費も減少し、ささやかな蓄えの減り方も少なくなって、なんとか最後まで持ちそうだ。

 

 世界中がコロナ禍で経済活動が低下したから、なんとかそれを持ち直そうと巨額の金をつぎ込んでいる。金利が低い中でつぎ込まれた金は行き所を失って、土地や住宅やら株などへの投資になだれ込んでいる。企業の生産活動がまだ本格的に回復しているとはいえないのに、株だけがどんどん上がっているのは行き所のない金が流れこんでいるからだという。

 

 中国や韓国の都市部では土地やマンションの価格が高止まりして、若者にはとても買うことが出来ない値段になってしまったという。どこかで覚えのある状態である。日本でバブルがはじける前の状態を思い出す。世界はバブルではないのか。

 

 ところで日本のデフレの要因の一つが中国であることを書いておきたい。中国の人件費が桁違いに低かったために日本もアメリカも、多くの中小製造会社が太刀打ちできなかった。多くの会社や産業がそのために消滅した。残った会社も安い人件費の中国に工場を建てたり、価格を利益ギリギリにしていくことで生き残りを図るしかなかった。都市部の中国の人件費は上昇しても、安価な労働者が中国には膨大な数存在したから、中国は世界の生産工場になることが出来た。

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 さらに中国では国営企業という存在が公平な競争を阻んでいる。赤字を垂れ流しても国家が補填するから世界は中国と競争してもなかなか勝つことが出来ない。そもそもルールが違うのである。下駄を履いて戦っているのである。それでも利益があれば中国に進出することで世界は我慢してきた。それが我慢の限界を超えつつある。

 

 そんな中で中国も少子高齢化の兆候が見え始め、しかも賃金の他国との差が少なくなり、貧困層も減り始めたから、中国自身の競争力も頭打ちになりつつある。打ち出の小槌のように人民元を刷り続けてきた中国だが、それが危うくなっているのではないか、と見られ始めた。夢から覚めて金の価値が下がったらどうなるか。バブル崩壊であり、貨幣価値の暴落である。

 

 中国の打ち出の小槌が生み出すものが、貨幣ではなく、葉っぱに変じれば、中国発のインフレが起こるだろう。多少のインフレは経済を活気づけると言うが、病的な、そして爆発的なインフレが社会を直撃するとどうなるのだろう。日本政府はまたそれを想定外だったと言い訳するのだろうか。その時はますます素食にして、いまあるものでとことん吝嗇生活をするとしよう。

2021年6月 1日 (火)

断片的雑感(5)

 大坂なおみが会見拒否をして騒動になっているようだ。もともとスポーツにはあまり興味がないからどうでも良いことだが、受け取り方はさまざまだろうと思う。人はしたくないことを拒否する権利があるのだという考えもあるし、役割として要請されたことに従うのがとうぜんだという考えもある。従わないことの不利益を敢然と受け入れたのだから、それは勇気のように見える。

 

 その結果、大きな大会への出場が出来なくなってもかまわない、というなら相当の覚悟だと感心した。しかしそういう意地の張り合いをどこまで貫けるのだろうか。自分の力を発揮できるような試合が出来なくなったりすれば、自分の存在意味自体を失うような窮地に立つかも知れない。その時になって妥協することになるのなら、いまのうちに折れておいた方がよくないか。多くのファンが自分の味方になると頼みにしているのかも知れないが、長引けば人は去るものである。大衆はあてにならないことを知るべきだ。ほかのテニス選手がこぞって大坂なおみに賛同すれば話は別だが、その気配はないようだ。そうなるとただのわがままに見る人が増えるだろう。

 

 中国が、子供を三人まで産んでも良いことにしたそうだ。長く一人っ子政策を続けて、つい最近になって二人までを許す、としたのに、思ったより出生数が増えなかったのだろう。二人ならともかく、三人というのが笑わせる。三人なら許可も禁止もないと同じではないのか。それなのにあくまで国家が出生数を管理する、ということを続けたいのだろう。そもそも子供の数を国家が管理するということは暴挙以外の何物でもないのではないか。そういう暴挙がどれだけの既得権益を生み出したのか、あまり知られていない。管理するためには家庭に国家が介入することになる。その体制こそが中国の国民管理の基盤なのだ。

 

 さすがの中国も、国民に子供を無理やり産ませることは出来ないらしい。オルダス・ハクスリーの『素晴らしい新世界』のように、すべて子供は試験管ベビーにして、子育ても国家が行い、教育によって中国の体制を金科玉条とする国民を大量生産したい、というのが中国共産党の願いだろうが、まださすがの中国もそこまでは進んでいないらしい。しかし願えばかなうから、遠からずそうなるのではないか。

外交のスポークスマン

「三千世界の烏を殺し、ヌシと朝寝がしてみたい」
と高杉晋作は唄ったけれど、一緒に朝寝をする相手もいないのに寝坊した。夜中に目覚めてしまうことがときどきあるけれど、我慢して目をつぶっていれば眠れることが多いのに、昨晩はどうにも目が冴えて、仕方がないから、アリス=沙羅・オットのピアノを枕元で聞きながら奥野信太郎の『中国文学十二話』などという本をよんでいた。明け方ようやく眠りについて、あまり気持ちの切り替えのつかないままの遅い目覚めとなった。

 

 この本は、私が中国への思い入れを深めた本の一冊で、奥野信太郎(1899-1968)がどんな人かも知らなかった頃(この本を買ったのはたぶん昭和48年で大学卒業の直前だったと思う)読んだ。もともとは昭和39年のNHKでの講話をまとめて本にしたものであるから、語りかけるようでわかりやすい。中国人よりも中国のことを識り、愛していた奥野信太郎が、戦後の中国共産党による新生中国の変貌をどう考え、どう見ていたのか、想像したりした。

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 それぞれの国に、外交のスポークスマンの役割をする人がいて、その国の立場に立って対外的な行動についての説明や主張をする。とうぜん他国から見ていかがかと思うことでも、自国の正当性を強弁することがあって、その態度、語り口がその国の品位を表すことになる。日本では官房長官が、外交だけでなくて政府の姿勢をすべて語る役割を担っているようで、なかなか大変である。

 

 中国ではその役割の外交部のスポークスマンが何人かいて、その居丈高で品位のない様子を連日見せてくれている。あの説明と正当性の主張、他国への罵倒を聞いて、なるほどそうなのか、などと思う中国人以外の人間はいなかろうと思う。中国という国は何という国か、と思い、中国がきらいになるように努めているようにしか見えない。

 

 あれは海外向けではなく、自国向けなのだ、という専門家の解説を聞いたりするが、ではどうして外交部がそんなことをするのか。外交部は自国をおとしめるかのような言動までして、外交よりも自分の保身をしなければならない組織なのだろうか。それもあるだろうし、中国国民へのプロパガンダをするのが役割だということでもあるのだろう。中国人は対外的に強い言葉を語るのを見て快感を感じるのかも知れない。まさかと思うが、世界的に自国がまずい立場になっても、中国政府への批判が生ずるどころか、ますます習近平を高く評価しているらしい。

 

 外交部は中国国民の気持ちをますます結束させることに貢献しているらしい。奥野信太郎がいまの中国を見ていたらどう思うだろうか、と考えたのである。哀しむだろうと思ったのである。

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