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2021年9月

2021年9月30日 (木)

映画『ライブ・フレッシュ』1997年スペイン・フランス

 WOWOWの紹介文によれば、
「ルース・レンデルの小説『引き攣る肉』を、スペインの鬼才ペドロ・アルモドバルが映画化。銃の暴発事件を機に五人の男女の間で繰り広げられる愛憎劇を、濃厚かつスリリングに描く。」とある。

 

 臨月の女性が産気づき、バスの中で出産するというのが冒頭のシーンで、20年後、その赤ん坊が青年として登場する。その青年が一方的に思いを寄せる女性のところへ押しかけ、いざこざとなり、そこへ警官ふたりがやってきて暴発事件が起こる。

 

 どことなく物語の展開の流れが私の波長と合わない。普通ならそこで打ち止めにするのだが、何よりルース・レンデル原作となれば、結末の意外性の期待があって止められないのである。海外ミステリーを集中的に読んだときにレンデルもずいぶん読んだものだ。『ウウフィールド館の惨劇』など、忘れられない傑作がある。ルース・レンデルはイギリスの女性ミステリー作家である。

 

 鬼才、と呼ばれる監督の作品は独りよがりのところがあって、それに波長が合えば感動的に面白いことがあるが、合わないとシラケる。どちらかと言えば主人公に感情移入しにくくてシラケた方だったかなあ。原作を読んでいないけれど、たぶんレンデルがミステリーの肝にしたものはこれだろう、と思うところがあるが、それが軽く扱われていて、なんだか自分勝手な人間が押しくら饅頭をしているだけに見えたのである。

映画『Swallow/スワロウ』2019年アメリカ・フランス

 WOWOWの案内では、スリラー映画となっていたが、奇妙なテイストではあるもののスリラーではないように思う。

 

 裕福な男と結婚したことで高台の、ガラス張りのプールのある邸宅に暮らすことになった女性が主人公。夫との微妙なすれ違い、夫の両親の、上から目線の態度、それらが彼女の精神に少しずつ影を落としていく。自分は幸せなのだ、と言い聞かせていても、どこかで違和感を感じずにはいられない。

 

 ある日、彼女は異物を呑み込むことで奇妙な高揚感を感じることに気がつく。そしてそれは次第にエスカレートしていき、病的になり、危険なものまで呑み込み始める。そんなとき彼女は妊娠する。

 

 尖ったものなどを呑み込むのは見ていて眉をひそめるが、義母に読むように薦められた啓発本のページを破りながら呑み込んでいく姿にはなんだか共感を感じてしまった。

 

 私は小学校の高学年の頃、手当たり次第にいろいろなものを囓り、口にした。えんぴつやボールペンの端はいつもボロボロで、下敷きも端から噛みちぎり、セルロイドの筆箱も囓った。消しゴムも囓って味わったが飲み込みはしなかった。紙はよく食べた。わら半紙や新聞は美味しかった。石鹸は一度試して懲りた。ちょっと異常だった。いまも筆記具には噛みあとが常にある。

 

 映画に戻る。悲劇的な結末になると予感されるのだが、ついに精神病院へ隔離されそうになったとき、彼女は行動を起こす。彼女が異物を呑み込む嗜癖の原因は明らかなのである。彼女はついにその原因から自らを解放し、異物を吐き出す。ラストシーンは衝撃的。

再分配

 岸田新総理が誕生した。挙党一致内閣を発足させて、日本のために頑張ってほしいものである。その岸田氏がかねてより持論にしていたのが再分配である。私もその再分配という考え方に大いに賛同する。ただ、再分配は政府が一度税金を集めてからまた大盤振る舞いをするというのでは、上手くいかないと思う。

 

 いま日本の最大の問題は低賃金だろう。OECD中でほとんど最下位の一人あたりの可処分所得となっている。一人あたりのGDPも韓国に抜かれてしまった。低賃金では消費に回すゆとりはないし、老後のための貯えも出来るはずもない。貧困問題を解決するには低賃金を解消していくしかないのは自明のことである。給料が増えれば老後の不安も少なくなって、消費する意欲が湧き、経済の回りが良くなる。デフレも解消し、景気が上向くことが期待できる。

 

 若い頃(むかしむかし、四五十年ほど前)、私は繊維産業の中小の企業を得意先として産地を走り回っていた。その頃日本の繊維産業は衰退の兆しはあったとはいえまだ元気だった。しかし韓国や中国の繊維産業が勃興してくるに従い、価格競争で負け始めた。私は全ての企業が生き残ることは無理だなあ、と感じていた。内容のしっかりした、つまり技術力、経営力のある会社だけが生き残ることになるだろうと見ていた。

 

 その時に目の当たりにしたのが、コスト無視で生き残りを図る会社の弊害であった。たとえば染色業であれば、染料や薬品、人件費光熱費から考えて、キロいくら最低必要だとすれば、それを下回った加工賃で引き受けてしまう会社があるのだ。そんなことは一時的に通用してもそんな会社は自滅する。自滅するのは自業自得なのだが、そのために健全な経営をしている会社がその加工賃に引きずられてしまうことで経営が悪化してしまうという事態を招いた。

 

 繊維産業は分業構造になっているから、委託元は下請けの内容をちゃんと把握しているわけではない。低加工賃で引き受けるのは引き受けられるからだと勘違いする。値上げして適正加工賃にしようとすると、ほかに引き受けるところがあるからと仕事を引き上げたりする。そうしてドミノ倒しのように会社が廃業倒産に追い込まれていき、仕事の委託先を失った元請けも廃業に追い込まれていった。そうして産地は消滅していった。あるとき元請けの経営者と話をしていて大いに腹をたてたことがある。「そこまでたいへんならちゃんと言ってくれれば加工賃を値上げしたのに」と言ったのである。産地を存続させるための自分の会社の役割、という視点のないその経営者の愚かさに腹が立ったのだ。

 

 企業が社会的存在意味を見失っている、と『欲望の資本主義』というドキュメント番組で指摘していた。従業員に支払う賃金を削りに削り、大企業だけではなく、内部留保をため込む中小企業が山のようにある。賃金を上げれば経営が成り立たない、と言い訳をする。適正な賃金すら払えない会社は市場から退場するしかないのではないか、と私は冷たく考える。そういう無理をする会社があるから、ほかの会社もそれに倣わないとコスト競争に勝てない状態を作ってしまって、国を挙げて衰退に向かっているのだ。

 

 再分配というのは企業の収益をはたらくひとの労働の対価として適正に支払うことだと思う。国際的な競争に勝つために韓国や中国にあわさなければならない、だから低賃金で仕方がないと言うのはもう言い訳でしかない。すでにそれほど賃金がちがうわけではないどころか追い抜かれつつある。

 

 政治的な再分配の方策とは適正な賃金支払いを促すためのものであるべきで、景気対策はそこに向けるべきだと思う。安易な賃金カットでコストダウンすることになれた経営者こそ無能力者として市場から退場させるべきだが、どうしたらそんなことが出来るのか、わかればここに書くけれど、哀しいことにわからない。私が現役時代よりも、いまは低賃金での生活困窮者が増えているらしい。それでは景気が上向くはずがない。

2021年9月29日 (水)

電力不足?

 中国では電力が不足し始めていて、場所によっては停電したり信号が止まったりしているのだという。本当だろうか。原因は、オーストラリアからの石炭輸入を停止したために、火力発電所が定常に稼働していないからだそうだ。たしかに中国にはたくさんの石炭火力発電所がある。しかし中国では石炭がたくさん採れるはずである。

 

 このネットニュースの意味を、私なりに机上で考えてみた。

 

一つ、中国の石炭は品質の悪いものが多くて、オーストラリアのものは品質が高く環境汚染が少ないから。

 

一つ、中国政府は石炭火力そのものを減少させることを強行しているから。

 

 PM2.5の大気汚染で、北京などの大都市が殺人的なスモッグに覆われたことは記憶に新しい。COP21で約束したからだけではなく、中国にとっても環境問題は解決しなければたいへんな問題なのだろう。

 

一つ、実は石炭は充分にあるけれど、こういうニュースを意図的に流すことで、オーストラリアにまた石炭が中国に売れるかも知れないという期待を抱かせ、TPPやクアッドなどからオーストラリアを引き剥がし、中国に引き寄せたいから。うがちすぎているかも知れないが、私は案外的を得ている気がしている。

 

一つ、中国はたくさんの原子力発電所の建設を次々に立ち上げている。しかし稼働まで時間が必要である上に、地元の反対運動も起きている。だから原子力発電所の建設が必要であることを強調するために電力供給を絞っているから。

 

 本当の理由はデータがないからわからない。そもそも中国で正しいデータが公表されることは希だから机上で想像するしかない。

 

 ところで、良質な石炭を産する国が中国のお隣にある。北朝鮮である。無煙炭などは北朝鮮産が最高だと製鉄会社のひとから聞いたことがある。北朝鮮も石炭を売りたいだろう。石油のようにパイプでこっそり送るわけには行かないから、いまは国連の制裁中なので中国に輸出が出来ないのだろうか。ところで北朝鮮も電力不足だという。石炭があれば火力発電が出来そうなのに電力不足なのは、すでに中国に掘り尽くされてしまってもうないのだろうか。

 

 中国は国連やアメリカの意向を無視して平気で中東の国々との関係を強化している。イランからだって、大量に石油を輸入できるに違いない。しかし国際通貨(弗)での決済が必要なために、代金の支払いが困難だからあまりおおっぴらに出来ないでいるが、元建てが可能なら石炭火力から石油火力への転換は簡単だろう。中国がエネルギー不足で電力が足らないというのはどうも信じがたいのだ。それとも中国は国内外に大盤振る舞いしすぎて金も足らなくなっているのだろうか。

こころ

 養老孟司の本を読んでいて、ふと、こころとはなんだろう、と思った。あたりまえに思っていたこともよく考えるとわからなくなる。もともとよくわかっていないのである。岩波の国語辞典によれば、「身体に対し(しかも身体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神の働きのもとになると見られているもの。またその働き。」とある。なかなか難しいのである。

 

 こころはどこに宿っているのか。人は胸を指す。

 

 ハートという言葉は心臓という意味であり、同時にこころという意味も持つ。ところで心臓という言葉にも心(こころ)という字が使われている。西洋と東洋で、いみじくも同じように心臓を心が宿る場所と考えたということに気がついておもしろく感じた。

 

 しかし精神の働く場所は、医学的に言えば心臓ではなくて脳である。そのことを養老孟司は書いていたのだ。しかし脳がこころだ、というと違和感を感じてしまう。

 

『オズの魔法使い』で、わらで出来ている案山子は、自分には心臓がないからこころがないのだ、と悲嘆していた。そう考える案山子には脳はあるのだろうか。あるから考えることが出来るし、悲嘆するのだからこころはあるのだ。
 
 私は母には直接的に、父には間接的に、おまえは冷たいと言われたことがある。それは理屈が先に立って情、つまりこころが薄いという意味であるようだった。もちろん両親とも、私を心配してそう言ったので、嫌いで言ったのではないことくらい、いまならわかる。言われたときはちょっとめげたけれど、めげたのは自分でも確かにそうだと思ったからである。

 

 それを自覚して、私は少しでもこころが厚くなったのだろうか。

選挙の顔と総理の器

 今日は自民党の総裁選挙。帯に短し、たすきに長しというところか、またはどんぐりの背比べか。四人それぞれの良いところだけをとって合わせても、残念ながら日本の代表としての希望の人物像にならないのが哀しい。理想的な人物を期待しているわけではないが、見識と胆力のある人物こそいまは必要なのだが・・・。

 

 選挙の顔としては、河野氏が一歩抜けているように見られているが、私は父親の河野洋平の印象が拭いきれない。相手に強く出られると迎合してしまう弱さは日本にとって大いに国益を損なうことになった政治家だと思っている。それに対して河野太郎は強気だ、などと見られるが、弱い犬ほど吠える。弱さを隠すために強い言葉を発することがあるのはよくあることで、この人に胆力があるようには私は見ていない。

 

 岸田氏は案外粘り強いし安易な妥協はしないと思うが、決断力がありそうに思えない。さいわい周辺のブレーンがしっかりしているというから、案外無難だろうか。野田聖子女史は論外で、言っていることは野党みたいだ。弱者に対する目配りばかりして国を運営できるとも思えない。硬派の高市女史は言うことも論理的で性根も据わっているようだけれど、党内をまとめる力量については未知数で不安がある。

 

 ポプュリズム的で無考えに言葉を発するおそれのある河野氏が選ばれることは、選挙には良くても、長期的に、そして現下の世界情勢から見て日本のためになるかどうか、ちょっと心配している。どちらにしてもその成り行きに日本国民は大いに影響を受けるので、結果を注視するつもりだ。

2021年9月28日 (火)

片付け続く、その他

 掃除、段ボール類の片付け、洗濯、雑誌類の処分をして、立ったり屈んだりを繰り返していたら、腰と首が痛くなった。コーヒーを飲んで一息入れ、タオル類の整理、靴箱の整理、とどまるところを知らず。

 

 蛍光灯を取り替えたらグローランプの調子も悪そうなので、それを買いに行く。全て交換したら明るい生活になった。スーパーでの買い物をたくさんする。今日は5%引きの日なのだ。久しぶりに浅漬けでも作ろうと思ったら漬け物器がない。どこにしまったのか、捨てたのか。仕方がないから小ぶりのものを買い直し、キュウリとニンジンとキャベツに塩を振っていま押している。押しているのはもちろん私ではなくて、漬け物器のバネで、少し水が出てきたから明日くらいには食べられるだろう。

 

 残り野菜とウインナで野菜スープを作る。バインダーにいろいろな資料が挟んであるが、もう不要なものも多い。それを分類して半分以上を処分した。もう一歩踏み込めば本の整理ということになるが、そこは八幡の藪知らずの魔界なので、今回は手をつけない。

 

 少しくたびれた。見回したが片付けを始めるまえとほとんど変わりがない。散らかっていないだけましか。

片付け始める

 片付けると却って散らかる、という。確かにそう思う。それでも片付けなければますます散らかる。人間は片付けるために生きているようなもので、それをあきらめてしまって、わざと散らかすことで精神の平衡を保っているのがゴミ屋敷の住民なのかも知れない。片付けることと散らかすことは反対なようで同じことかも知れないのだ。全てのことは神様の定めたエントロピーの法則に従うことになっている。

 

 さまざまな電化製品、パソコンやプリンターやオーディオ関係の段ボール箱がタンスや本箱の上などにたくさん載っている。必要になるかも知れないからだ。そのほかさまざまなものが必要になることがあるかも知れない、と思ってあちこちにため込まれている。何年も不要だったからとして、ついに捨てたとたんに必要になったりする。そんなことは百に一つのことで、たいていは捨てて正解なのだが、捨てたことでの失敗がトラウマになって、捨てられない。本ではいつも泣いている。

 

 今朝からざっと掃除を済ませて、段ボールをはじめとして捨てられそうなものはみんなばらしてしまった。まだ著についたばかりなので、片付けているというより散らかしているという風景が眼前にあるが、始めたからには多少空間が増えた、と実感するまでガンバロウと思う。

 

片付けを真剣に考えるということは、自分の始末の始まりで、それは自分にとって大事なことの優先順位を再検討することでもある。撮ってあるくらいだから必要だと思い、大事だと思ったものであっても、全てをとっておくことが出来ないと思い定めれば、自ずからそれに優先順位をつけなければならない。私は理屈から自分を納得させる人間なのだ。

 

 そういうわけでしばらく片付けては掃除する、という作業に集中するつもりだ。

基礎知識

 調べればわかることをなぜ覚えなければならないのだ、などと子供はいう。大人ですらそんなことをいう者がいる。たしかにただむやみに知識の量をため込んでも、それらを関連させて思考につなげられなければただの物知りに過ぎない。

 

 いまはスマホやパソコンで検索すればたいていのことは調べられる。しかしそれは調べたいものが何であるかを承知しているから出来ることだ。世の中はそういう調べればわかる問題ばかりで出来ているわけではない。ものを考えるために必要な知識を検索するための知識が必要だ。そういうのをメタ知識というらしい。目録や検索カードのようなものだが、そもそも検索のための分類の知識がないと、検索そのものが出来ない。

 

 知識の地図のようなものを把握しておく必要がある。図書館のどの棚に自分の調べたい本があるのかを知るための知識である。ネットで芋づる式に語句から調べるのとはちがう検索が出来ないと、ものを考えるためには不十分である。全体を見渡しながら、意味を考えるのが考えるということで、全体を見渡すための大まかな手がかりを頭にマッピングするために、学校での基礎知識は必要なのだ。

 

子供は面倒なことを嫌い、楽をしたがる。大人だってたいていそうである。それでも基礎のマッピングのない人は、自分で考える力が足りないから、他人の考えに支配されやすい。そしてそのことに気がつくことが出来ない。最低の基礎知識はちゃんと学んだほうが好い。

 

 現代は情報があふれていて、しかもいつでもそれを手に入れられるから、知識が昔よりあるつもりでいるが、却って危うい気がする。何しろ自分が何を知らないか、想像する力が失われているように見えるから。

2021年9月27日 (月)

タイヤを手配する

 コロナの新規感染者が明確に減り始めて、ようやく政府の移動禁止令が緩和されそうだ。緩和されたらさっそく出かけたいところだが、私の行きたいところは雪の降るところが多いから、冬には冬用のタイヤが必要だ。

 

 いつもタイヤ交換を頼んでいるところからも連絡が来ていて、さっそく新しい車の冬用のタイヤの見積もりを頼んだ。とても高い。サイズダウンも可能で、それならかなり安いようだ。昔ほど走り回るわけではないから、それでもいいだろう。手配してもらうことにした。

 

 冬の温泉でゆっくりしたいなあ。冬ほど魚は美味しいし、雪見酒を頭に描いている。もう行ける回数も限りがあるのだ。いつ行けなくなるかわからないのだから、行けるときに楽しんでも罰が当たらないだろう。ささやかな貯えを考慮しながら、可能な範囲で使わせてもらおうと思っている。老人がある金を使って消費に貢献しなければ、などとへりくつを考える。金は社会に回してこそ意味がある。巨額の報酬を得てそれを貯め込んだままの人間がいるから、社会が潤わないのだ。たくさん持っている人ほど率先して使ってくれ!それが世のためひとのためだ。

忘れないようにしよう

 自分が年寄りになったということを半ば冗談めかして書いてきた。それでも本気で年寄りになったなどとは感じていないところがあった。ところが昨日のベランダでの転倒のような、自分でも信じられない事態に直面すると、どうも本当に自分は年寄りなのだということを受け止めなければならないと思い知らされた。

 

 食器類の縁を欠くようなことは、何年に一度のことだったのに、最近は気がついたらちょっとだけ欠けているのにあとで気がついたりする。火の始末だけはとにかく気をつけて、離れるときは消してしまうように心がけているから、以前あった鍋やヤカンの空焚きなどの粗相は今のところない。タイマーを買って、何かしかけているときには、タイマーをセットするようにしている。気が多いから、何かやりながらほかのことを始める悪い癖があるので、うっかりすることが多いのだ。タイマーの音でだいぶ防げている気がする。

 

 いまどうしようか迷っているのは、寝室兼娯楽室の天井の蛍光灯の交換だ。サークル型ではなくて棒状のもので天井に張り付いているから、踏み台に乗って交換しなければならない。四本あって二本がチラつき始めた。転げ落ちたらどうしよう、という不安がある。二年ほどまえに台にしていた椅子から転げ落ちて娘にもらった座椅子の上に倒れ込み、破壊してしまったことがあって、 それを思い出すのだ。二本のままでもいいようなものなのだが、外さなければチラつきは止まらない。

 

 ほかの部屋の蛍光灯もそろそろLEDに替えるつもりである。不安があるということを自覚していれば、たいてい大丈夫だろう。そんなはずはない、と油断したときにこそ思いがけないことが起こる。もう私は年寄りなのだ。それを忘れないようにしなければ・・・。足腰の維持改善に努めること、体重をもう少し減らすことに本気で取り組まないと急激に衰える恐怖を感じている。

人種差別

 前回のブログに書いた映画『17歳のウイーン フロイト教授人生のレッスン』を観て、人種差別ということを考えている。日本ではアフリカ系の黒人に出会うことは希だから、却って偏見を持つことがないけれど、アメリカに行ったとき、ニューヨークの深夜、独りで歩いていたら、二メートル近い黒人にあとをついてこられたときには恐怖と嫌悪を感じた。こういうことが偏見につながっていくのだろうか。別に黒人でなくても怖いが。

 

 人種差別というのか民族差別というのか、子供の時から実体験としてあるのは、半島出身者に対する差別だ。私の両親はそういう差別を嫌っていたから、私は一緒に遊んだり家へ行ったりした。家といっても掘っ立て小屋のようなところで、あまりのみすぼらしさに子供ながら驚いた。小学校の時も中学校の時も住んでいた街には半島出身のひとがいた。ちょうど北朝鮮への帰還事業というのが進められていて、多くの家族が帰還船に乗って海を渡った。両親と妹は北へわたり、祖父と自分だけ残った級友もいた。性格が変わったように荒れた。あとで早逝したことを伝え聞いた。彼が送ったのはどんな人生だったのだろう。

 

 部落差別については小学校の高学年になって、住井すゑの『橋のない川』を読んで初めて知った。あとで母に尋ねたら、地元にもそういう差別があるらしいことは知っていたけれど、実際に直面したことはないという。関西には多いから同和教育が盛んなのだろう。『橋のない川』も奈良が舞台である。名古屋へ来てから、そういう人が多いのはどこそこだよ、などとわざわざ教えてくれるひともいた。しかし私は誰かがそういうことで苦しんでいる、というのには出会っていない。自分からいうひとはいないからとうぜんだ。

 

 しかし映画で観たユダヤ人に対する差別はあまりにも暴力的で、差別こそが正義だ、と確信して行動している人たちの姿を映し出していた。同じ人間だ、などということなど毛筋ほども思わないようだ。たぶんアメリカの黒人に対する差別も同様だったのだろう。小説や映画で目にするものは極端だとばかりいえないようだ。

 

 日本の差別とそれらを、差別の程度の違いによって区別するのは間違っているのだろうか。日常的に差別はさまざまな形で存在する。自分の行動が良くないことを、差別する人間が理解するためにどんな手立てがあるのだろうか。それよりも気になるのは、差別を否定するあまりになんにでも平等を押しつけることである。弱者を自称する逆差別の横行こそ、差別の温床のように感じてしまうのは偏見だろうか。

 

 一度ならず、年鑑のようなものを何万円だかで購入せよ、と目つきの悪い男が営業所に訪ねて来たことがある。会社で買え、無理ならお前が個人で買え、とすごまれたが、お引き取り願った。警察も見て見ぬふりなのだと聞いた。本当に部落出身のひとなのかどうかわからない。それとは別に、部落出身者だから税金を払わないなどということがある聞いたが本当だろうか。先祖の借りを自分が返してもらうのだ、とうそぶいているらしい。そういうひとの存在こそ差別がなくならない理由だろう。もちろん新聞社をはじめとするマスコミは見て見ぬふりだ。何しろ彼らは弱者擁護がたてまえなのだ。最近はさすがに変わってきているらしいが。

 

 ユダヤ人への差別にもそういうことがあるのだろうか。よくわからない。

2021年9月26日 (日)

映画『17歳のウイーン フロイト教授人生のレッスン』2018年オーストリア・ドイツ

 なんという題名をつけるのだろう。これではこの映画の内容と全くそぐわない(内容に合わせた題名をつけると観る人がいないかも知れないと忖度しているのだろう。ひとをバカにしているし、余計なお世話である)。たしかに17歳の、少年から青年になりかけの主人公が、精神分析学のジークムント・フロイト博士と知り合い、交流することが描かれているが、この映画のテーマは、ナチスの台頭、そしてオーストリアが併合される時代そのものをこそ描いているのだ。現実に存在したフロイトを登場させ、そこに田舎から出てきて、母の知り合いのウイーンのたばこ店につとめる青年を配し、彼の眺めたウイーンを描くことでリアリティを持たせているのだ。

 

 ナチズムに心酔する人たち、ユダヤ人へのすさまじい偏見と差別、そしてたばこ店の主人は第一次大戦で負傷して片足となりながら、時代を異常なものと認識し、その偏見と闘う男である。ナチズムに心酔する男たちの向けるユダヤ人への憎悪はとどめを知らず、そのオーストリアがどうなったのか、それは歴史が教えてくれる。それはもちろんドイツの歴史でもある。ナチスはナチスだけで存在したのではなく、熱狂的支持者によって存在したのだ。

 

 そういうことを大上段に主張するのではなく、市井のさまざまなことを描くことで時代の狂気を伝えているのがこの映画である。フロイトですら時代に翻弄されてなすすべもない。フロイトもユダヤ人なのであるから。

映画『ウルフズ・コール』2019年フランス

 潜水艦映画には傑作が多い。『眼下の敵』、『Uボート』、『レッド・オクトーバー』、日本映画なら『ローレライ』などがたちまち思い出される。閉塞された極限情況というのが、観客に緊張感をもたらすからだろうけれど、この映画もそれを感じさせてくれた。主人公は軍事用潜水艦(たいてい潜水艦は軍事用だが)の重要な役目である音響探査分析官である。彼は人並みすぐれた聴覚の持ち主だ。

 

 中東でのあるミッションでかすかに捉えた潜水艦と推察される音についての判断により、ミッションは危機を迎え、事後、失態として譴責される。しかし彼にはその自分の直感が間違いだったとはどうしても思えない。違法な方法で情報をとり、ついに真実を探り当てる。

 

 彼の報告はついに軍の受け入れるところとなり、彼は復権を果たす。フランス海軍は原子力潜水艦を就航させ、彼も分析官として乗り込む決定が下されるのだが、ある問題が起きて彼は外されてしまう。

 

 そんなとき、フランスに向けてロシア方向からミサイルが発射されたことが探知される。潜水艦から発射された核ミサイルであることが判明し、大統領から迎撃と反撃が命令される。フランスの原子力潜水艦は潜航して反撃の核ミサイルを発射するミッションに入る。

 

 飛んできたミサイルの迎撃には失敗。それを分析した主人公は、その理由を突き止める。ここからは緊迫した潜水艦と潜水艦との静かな駆け引きとその戦いに移る。

 

 見ているこちらも聞こえない音を聞いている気になってくる。主人公を演じたフランソワ・シヴィルは、今回はあまりひねりのない好漢の役柄を好演していた。この人は屈折した役柄も似合う。

ショックを受けている

 昨夕、ベランダを掃除した。排水溝の周りもきれいにして、物干しに頭を打たないようにかがみながら歩き出したとたんに足を取られて転倒した。膝と頭をコンクリートの床で打った。膝は今朝も痛いが骨などに異常があるほどではなさそうだ。頭はこぶが出来たので昨晩はずっと冷やしていた。

 

 衛星放送のケーブルに足を引っかけてしまったのだ。ほとんど床に這わせてあるのに、ちょっとだけ浮いていたところに足を引っかけてしまったらしい。

 

 追突事故で首を圧迫骨折し、ようやく治ったとき、医師から注意されたのは転倒などで首に衝撃を与えるようなことがあると深刻な事態になるおそれがあるということだった。そのことがまず頭に浮かび、しまった、と思ったがあとの祭りである。

 

 しまってあった首のコルセットを引っ張り出して、いま装着している。今のところ頭の中も首も特に異常を感じない。こぶを触ると痛い。こぶはぶつけたところだけではなくて少し拡がって腫れている。しばらくじっとしていようと思う(いままでもじっとしていたのだが)。痛みよりも転ぶはずのないところで転んだ自分にショックを受けている。

2021年9月25日 (土)

リセット

 私の脳は、一時的なもの、そして恒常的なもの(脳内図書館・乱雑な上に検索システムが不備なので、取り出しが困難)も含めての記憶容量(外部記憶としての本は必要以上にたくさんあるので、そこは心配がない)も作動能力も作業するテーブルのスペースも、哀しいほどお粗末である。だからしばしば片付けきれないものがあふれてテーブルが一杯になり、オーバーヒートしてしまう。他の人から見たら、どうしてその程度であふれるのか不思議だろう。そうなるとCPUは空回りして暴走する。思考は堂々めぐりを始め、自分がどこにいるかわからなくなる。

 

 頻繁にリセットが必要となる。テーブルの上を片付けるのではなく、テーブルから全てを払い落として、ないものとする。一時記憶を初期化してしまう。そうして暴走の熱を冷まし、冷静になるのを待つ。得意のぼーっとする状態でいる。このままぼーっとしていたら、ボケ老人のできあがりだが、さすがにまだ早いのであきらめ悪く定常に戻るのを待つ。さいわい今のところ戻ることが出来ている。

 

 一ばん好いリセット法は、温泉の格安の宿に湯治に出かけて一週間くらいのんびりすることだ。ところが私のなじみの鳴子温泉の宿は、いま休業中である。そもそも遠出は顰蹙を買うからなかなか出かけにくい。仕方がないからぼんやりテレビを観たり、数独パズルをしたり、大戦略ゲームをしたり、囲碁ソフトと対戦したりして時間を潰している。ゲーやパズルも頭を使うように見えるけれど、あんなのは自動化した頭の使い方で、それほどの負荷とはならない。

 

 数独パズルの上級~難問コース200問というのにチャレンジしているが、ようやく200問の最後までこぎ着けた。全て解けたわけではなくて、どうしても解ききれなかったものが10問あまりあるので、それをこれからひとつずつ片付けようと思う。頭はそれなりに動いているけれど、実は空っぽである。空っぽというのは、何も生み出していないということだ。

 

 飽きたら、空っぽ頭でまたらちもないことを考えるつもりだ。来月早々に糖尿病検診なので、そろそろ節制でもしようか。いまはあまり深酒も間食もしないようにしているから、大丈夫だと思うが、運動不足でもある。

眼精疲労の薬

 眼の疲れが年々つらく感じられるようになってきたので、眼精疲労の薬をいろいろ試している。効いているのかいないのか、正直よくわからなかった。サプリメントとしては安いものではないので、なくなったのを機会に飲むのをやめてみた。十日ほどしたら眼の疲れはますますひどくなり、肩こりどころか頭痛までするようになって、液晶画面を見るのが苦痛になってしまった。

 

 一週間ほどまえに興和の眼精疲労用の薬を飲み始めた。興和新薬は、母の一番下の弟である叔父が長年勤めた会社で、私が中学生、高校生の時代に抗生物質の副作用で激しい蕁麻疹に苦しんでいた頃、抗ヒスタミン剤などずいぶん叔父に相談して助けられた。だから思い入れがある。風邪薬も胃腸薬も私はコーワであったけれど、最近はあまりこだわらなくなっていた。

 

 飲み始めたら気のせいか、頭痛はなくなり眼の痛みが軽くなった。一週間したら肩こりも気にならなくなっている。もちろんあまりに目の疲労感が大きかったから、眼を休めるよう意識していた効果もあるのだろう。それでもこのところまえ以上に目を酷使し始めたけれど、眼がそれほどつらくないのは、薬に効果があるのだろうか。

 

 試しにまた止めてみるとわかると思うが、あえて痛みをもとめる必要もない。このまま眼の疲れがつらく感じられない状態が続けばありがたい。

一からやり直し

 昨夕、妻の病院から連絡があり、病院から施設へ移ることを強く要請された。本人も施設へ移ることを了承しているという。本当だろうか。春先にいくつかの施設を探し回り、やっと見つけたところを土壇場でキャンセルされたことをまた繰り返すことになってしまう可能性が大いにあるけれど、このまま病院にいるわけにはいかないようである。

 

 窓口になっている相談員の女性が今月いっぱいで交替するそうである。たぶん上司から早く片をつけるように指示されているのだろう、困っている気配がうかがわれた。かわいそうに。こちらからいくつか条件を出したので、それが受け入れられれば来週にでも打ち合わせに行くことになる。そのあとはふたたび施設との交渉をしなければならない。一からまたやり直しである。相談員の女性は、前回断ることになった施設が受け入れてくれそうだという。本当だろうか。だから今回は病院がまずさきに施設に確認をしてくれる。もちろんオーケーなら私が直接具体的な打ち合わせと契約をすることになるのだが。

 

 何よりほかよりも二割近く経費が安い。ほかにもいくつかまた紹介されたが、とても高い。長い入居(たぶん終身)になるから、そこでないと年金生活とわずかな貯えから考えて、生活がなり立たないのである。三十年も別居していた妻のことであり、理不尽な気がして気が重いが、誰かに代わってもらえるような話ではないので、まあなんとか頑張ってみようと思う。何より私が健康で居続けなければならない。まったくのところ、病気にもなれないのである。

2021年9月24日 (金)

西湖の夢

 中国の文人の文章で、私が最も熱心に読んだといえるのは、張岱(ちょうたい)『陶庵夢憶』という本である。張岱は明末清初の紹興のひと。この本は岩波文庫に収められていて、私はワイド版を二冊持っている。一冊は何度も読んでかなりくたびれてしまい、もう一冊買ったのだが、不思議と読もうとすると、くたびれた方を手に取って開いてしまう。

 

 中国には素晴らしい本がたくさんあるけれど、どうしてこの本がこれほど気に入ってしまったのかよくわからない。とにかく訳注だらけの歯ごたえのある本なのだが、頑張って読み通すことが出来たのが自分でもよほど嬉しかったのだろう。そうしてすでに数回読んでいて、読めば読むほど新しい。

 

 その張岱の『西湖夢尋』という本が東洋文庫から出ていてまだ読了していない。こちらも歯ごたえがある。まだ寝床で拾い読みしているだけだが、西湖には思い入れがあるので、この本も味わいながら読み通せるものと思う。

 

 西湖に初めて行ったのは、仕事で杭州の日系の合弁会社を訪ねるために中国の商社の人と西湖の湖畔のホテルに泊まったときである。西湖の夜景を楽しみながら、地元の家族連れが行くレストランで魚介料理を食べた。杭州には仕事で三度ほど、一人旅の観光で二回、さらにいつも一緒に海外へ行く友人たちを案内して一回行った。もちろんそのたびに西湖を尋ねている。

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 西湖は中国人の憧れの場所で、水があり、緑があり、歴史的な観光地もある。何しろ杭州の市街地に接している。杭州はむかし南宋時代の首都だったところであり、しかもいまはデジタル関係の会社が本拠地を置いていて大都市でもあり、新旧の大都会を見ることが出来るところだ。

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 明から清への時代の移り変わりによって、張岱は大富豪から極貧になってしまう。彼が『陶庵夢憶』や『西湖夢尋』で描いているのは現実の世界ではなく、彼の家が繁栄していた時代の記憶の世界である。だからこそ懐かしく美しいのである。そのことを杭州を訪ね、西湖を尋ねることがもう叶わないだろうことを思うにつけ、私にも張岱の何十分の一ほどの思いが去来するのである。

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三潭印月から雷峰塔を望む。雷峰塔は白蛇伝の白蛇が封じられたところ。

聞く耳

 臼杵市の鼻丸出しマスクの市議の言い分をテレビで見せてもらった。こういうひとは自分の信じるもの以外を受け入れることができないひとで、世の中には少なからずそういうひとがいるからなかなか面倒だ。彼は自分の信じること考え方には根拠がある、と胸を張っていた。その根拠というものが実際にあるのだろう。しかしその根拠となる情報とはちがう情報も世の中にはたくさんあるのだが、彼はそれらから目を背けて見ようとしない。根拠のある正しいこととはちがうのだから間違っている、と思うのだろう。間違っていることを考慮する必要はないと考えているのだろう。複雑な世の中を、単純化して見るのは楽だからなあ。

 

 頑固じじいの傾向のある私ではあるが、こういう人と同類と見做されるのはたいへん不愉快だ。私でさえ、自分は間違っていないか、自らを疑うことを忘れてはいない。いちおう聞く耳は持っていて、さまざまな考えや情報を聞いた上で判断しているつもりである。そしてその判断を受け売りではなく、咀嚼した上での自分の言葉にしようと努めている。それでも「ただの受け売りだなあ」と反省することが多い。哀しいことに、まだまだ私はあさはかだ。

 

 鼻丸出しの臼杵市議は論外として、聞く耳持たぬ正義の味方が、自称リベラリスト、市民運動家にこそ多く見られる気がするのは私の偏見なのだろうか。ここから先を書き出すと止まらなくなるのでやめておく(特に韓国に対してなど)。読んだひとが、共感するひとと不愉快になるひとに別れすぎる。それぞれにこういうことだろうか、と想像してもらう程度が良いだろう。

北欧サスペンス『フォロー・ザ・マネー』

 WOWOWの全10回のデンマークのドラマ。イギリスや北欧のドラマはダークな色調、ストーリーの重厚さが私の好みに合うので、なるべく観るようにしている。一回が丸々一時間あるので、全て観るのはたいへん(延べ10時間!)だったが、観終わってガッカリすることはなかった。

 

 このドラマは自然エネルギーで急激に台頭している新興企業の闇を暴くことがテーマになっている。「詐欺対策班」という副題は付いているが、もともと刑事課からドロップアウトしてきた刑事が暴走気味に捜査をして、企業側も詐欺対策班もそれに振り回されていくという経緯をたどるが、もしそのような暴走がなければ巨悪は表に出ることはなかっただろう。

 

 再生可能社会のために必須な自然エネルギー、つまり太陽光発電や風力発電は、各国政府が支援し、そこに動く巨額な金に投資家たちが群がるという図式になっている。きれいごとの裏には汚いものが渦巻いているのだ。

 

 これはドラマで現実ではない、といいたいところだが、たぶん実態はもっと秘密裏にダークに展開されているのだろうなあと私は思っている。環境問題は、実は巨大な投資の飛び交う虚業の世界なのだ。思惑が膨らみさらに思惑を呼び、儲けるものは先に儲けて、あとでババをつかまされるのが馬鹿者たちであることは、バブルの時に経験していることで、いまもそのような者たちが暗躍していることだろう。

 

 さまざまな人間達が入り交じってドラマが展開し、あるものは悲惨な末路を迎え、あるものはなんとか幸せを取り戻し、あるものは逃げおおせる。賢いものが成功するとばかりは言えないところがなかなか意味深である。

2021年9月23日 (木)

続々・散歩

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途中のお寺を覗いた。お彼岸である。

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小さな神社で休憩することにした。狛犬か獅子か、うっすらと苔で緑がかっている。

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拝殿で腰掛けて休む。ゴミなのか、たまたまおいてあるのかわからない。ティッシュが乗せてあって封は切っていない。中身を見る気にはならない。

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お宮の屋根に乗っているのは獅子が逆立ちする姿のようにも見えるが、逆光でよく見えない。

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足元に松ぼっくり。枯れ葉を隣にわざわざ置いたわけではない。

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苔の緑色が美しい。中学生の頃、何種類かの苔を、鉢で増やしたことがある。小さな自然がそこにあった。

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こんなところにもちゃんとお花を生ける人がいる。

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シーサー風狛犬。門柱の左右に載っている。狛犬の周りをアブがうるさく飛んでいたが、狛犬は気にしない。たまたまシャッターを押したときは口許にとまった。向かって左側の牙の下にいるがわかるだろうか。

これで今回の散歩はおしまい。

続・散歩

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柿はちょっとだけ色づいてきたようだが、まだ食べられそうにない。柿、大好き。まだスーパーに列んでいない。上司だった人で、私の仲人でもある人が奈良にいて、毎年大玉の柿を送ってくれた。その人も鬼籍に入ってしまい、最高級の柿を食べることもなくなった。

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こちらはだいぶ色づいている。でもたぶん渋柿かな。

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イチジク。生まれ育った家の裏に大きな西洋イチジクの木があって、たくさん採れた。生で食べ切れないので、母がジャムを作ってくれた。イチジクジャムがジャムの中でいちばん好きだ。そのイチジクの木も大きくなりすぎて、台風で倒れてしまった。

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夏の花の夾竹桃もそろそろ終わりだろうか。父によれば、インド原産だそうだ。

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木槿もそろそろ終わりかな。百日紅も盛りを過ぎた気がする。

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門前にきれいに花をしつらえてあるのを見るのは好い。

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とうぜんちゃんと手入れをしているのだろう。

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これは萩の花のようだが・・・自信がない。

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星のかたちの、小さいけれどくっきり赤い花。名前は知らない。

散歩

コロナ禍や、暑いのを理由に散歩をほとんどしていない。足が著しく衰えてきたのを実感したので、少しずつ外を歩くことにした。

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カンナの鮮やかな赤が目に飛び込んできた。ずいぶん大きなカンナだ。

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すぐ近くに若々しいススキの穂が風に揺れていた。月並みだが、もう秋だなと思う。

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彼岸花も紅い。

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きれいに列んでいる。白いのもある。列車旅などで、田んぼにずらりと彼岸花が列んでいるのを見たりすると、ほかに紅いものがないからとても鮮やかな風景として眼に残ったりする。

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花と葉っぱからキク科の花かと思うが・・・。

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コスモスも咲き始めて、風に揺れる。

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れいによって花の名前はわからない。調べることは出来てもすぐ忘れる。もともと興味が薄かった。それでも気にして目にすればいいなと思う。

秋は意外に花がたくさん咲いているのだなあ、などといまさら気がついている。

2021年9月22日 (水)

フカフカも過ぎれば

 厚めのマットレスを購入して、フカフカの寝床で安眠を期待した。よせばいいのにももともとあった、へたったマットレスも下に敷いたので、フカフカが過ぎた。

 

 気持ちが良いことは好い。たちまち眠りにつくことが出来た。しかし寝返りが打ちにくくなったのだろうか、変な夢を見ては何度か眼が覚めた。いつも海外旅行に行っていた三人と一緒に珍しく国内旅行をしているのだが、私だけいろいろと忘れものはする、遅れる、迷う、と散々なのである。迷ってみなに追いつこうとして走ろうとするのに走ることが出来ない。走ることが出来ない夢は、たいてい体調が良くないときに見る夢だ。ところが夢の中で見る景色が素晴らしい。その景色に見とれ、その写真を撮ろうとしてまたはぐれてしまうのである。

 

 睡眠時間は充分なのに、なんだかくたびれ果てて目覚めた。Yさんや、亡くなったF君は相変わらずやさしい。自分の体調もあるしF君はもういないから、またふたたび海外への旅へ行くことはないだろう。そのことを思って心から悲しい気持ちになった。生きている意味のようなものまで大きく喪失した気がした。今晩は古いマットレスは使わないようにしようと思う。

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映画『白雪姫殺人事件』2014年・日本

 湊かなえの同名小説を映画化したもの。観終わってみればおもしろい映画であった。

 

 冒頭、夜の林の中にメツタ刺しにされたらしき女性(菜々緒)が横たわっている。夜なのにそれが見えるのは向こうに車のライトがあるからで、その横たわる身体に何者かの影がさす。

 

 そして遺体が発見され、事件が発覚し、死んだのは化粧品会社の社員であったことが判明する。彼女は化粧品会社の白雪石鹸のブランド名から白雪姫と呼ばれていた。ここから観客はさまざまな情報によってミスリードされていく。ミスリードをさせるのはテレビ局の軽薄なディレクター(綾野剛)。四六時中スマホでSNSの書き込みをしていて、ちっとも落ち着かない。その男にある女性(蓮佛美沙子)から電話がある。あの死んだ女性の同僚であり、警察から事情聴取を受けた、というのだ。それに飛びついた男はその話をもとに、関連した人物達への取材を続けていく。

 

 やがて浮かび上がってくる容疑者(井上真央)の姿。その取材を報じることで番組は大いに盛り上がる。容疑者と被害者との関係、性格、人物像が形作られていく。しかしその容疑者は姿を消してしまい、杳として行方がわからない。犯行動機、社内の人間関係などがさらに詳しく報じられ、容疑はほとんど確定的に思われるのだが・・・。

 

 やがて驚愕の事実が判明する。

 

 私は途中でこの結末をおぼろげに想像していたが、全体像が見えていたわけではない。容疑者の人物像にささやかな矛盾を感じていた、というところだろうか。

 

 何人ものいやなヤツが出てくる。世の中はけっこうそういう人間によってかき回されている気がする。

2021年9月21日 (火)

歪んでいるのかも知れない

 身体のバランスがひどく悪くなっている気がする。事故以来、変に首や腰をかばっていたために、身体全体が歪んでいるのかも知れない。整体にでも行って矯正すると楽になると思うけれど、整体師のところは不特定多数の人が出入りする場所であるし、他人と密に接触するところでもある。娘のどん姫は多少心得はあるが、いまは体調が万全ではなさそうなので頼めない。

 

 マットレスがへたっているので新しいものを購入し、ついでにまくらも新しくした。布団を日に干して、今晩は楽に寝られるかどうか。身体を自分でメンテナンスするために軽いストレッチをしてみる。雑誌に載っていた一人で出来る整体の記事を切り抜いてファイルにしてあるので参考にする。

 

 見かけによらず私は身体が柔らかい方だと思っていたが、それはむかしの話で、わずかな動作で身体が悲鳴を上げるので情けない。少しずつ少しずつ呼吸に合わせて強度を上げてみると、ちょっとだけ楽になった気がしている。いきなり無理をしてはいけないから、適当に切り上げた。問題はこれから続けられるかどうかで、少しでも体を柔らかく出来ればずいぶんよくなるはずである。

 

 気持ちがくすぶっていて、何をしてもおもしろくない。少しずつほぐす必要がある。

映画『フェアウェル』2019年アメリカ

 フェアウェル(Farewell)は別れの言葉、いとまごい、送別という意味。さようなら、ごきげんよう、を丁寧に言う言葉らしい。

 

 監督は中国系アメリカ人のルル・ワン、彼女の実体験をもとに作られている。子供の時両親と共に中国からアメリカに移住し、いまはニューヨークに住んでいる女性ビリーは、中国にいるおばあちゃんが大好きで、いつもこまめに連絡している。両親のひそひそ話から、そのおばあちゃんが癌で余命幾ばくもないと知る。

 

 あちこちに散らばった家族が、ビリーのいとこの結婚式を口実に中国のおばあちゃんのもとへ集まるが、本人には癌であることは秘密にすることが申し合わされている。ビリーはおばあちゃんに話してしまうおそれがあるということで外すことになっていたが、ビリーは飛行機代を工面して両親のあとを追って中国へ来てしまう。

 

 告知についての西洋的な考え方と中国式の考え方が衝突する。その中で告知だけではない、超えがたい異質の文化の違いのようなものが見えたりする。ビリーにとってはいとこの結婚式の段取りを、おばあちゃんは張り切って進めていく。なんとなくギクシャクする家族たち。いとこの結婚相手は日本人の女性。言葉がわからないのにいつもにこにこしている。日本人的なのだが、バカみたいにも見える、そう陰口をきくものもいる。私が見ていてもそう見える。

 

 盛大な結婚式が行われ、死んだおじいちゃんの墓参りが行われる。ビリーが本当のことを言いはしないかと家族はハラハラするのだが・・・。

 

 中国の家族についての考え方、アメリカに移民することによる意識の隔たりと望郷、親の移民で否応なくついて行かされた子供の気持ち、さまざまなものが会話や表情から表現されていて考えさせられた。ビリー役の女優はちょっとふてくされたような、鼻ピアスをした女性として演じている。ラストの、ニューヨークの空に響くビリーの気合いが印象に残る。

 

舞台は最初と最後だけアメリカで、ほとんどは中国である。言葉もほとんど中国語。だから中国の映画のようであるけれど、価値観の根底にはアメリカそのものが見える。れっきとしたアメリカ映画である。

2021年9月20日 (月)

山口瞳『温泉に行こう』(新潮文庫)

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 表紙の絵は安西水丸。安西水丸はWOWOWの『W座からの招待状』という、映画を紹介する番組に小山薫堂とふたりで出ていた。2014年に惜しくも急逝、いまは小山薫堂と信濃八太郎のコンビになっている。その安西水丸は表紙だけではなく、巻末の解説を書いていて、解説というよりも彼の「温泉」に対する思いを、山口瞳のこの本の内容に重ねての文章になっている。

 

 いままで読んできた山口瞳の紀行文とくらべると、この本に収められた文章は軽い。軽いことは必ずしも悪いことではない。おかげですらすら読める。全部で20章あって、おおむね一地域のいくつかの温泉が収められている。私が行ったことのある温泉もあるが、名前だけしか知らなかったり、初めて知ったというところもある。温泉に一泊だけで行くということはあり得ない、と書かれているけれど、同感である。最低でも二泊しないと温泉でゆっくりしたことにはならない。出来れば一週間以上、もちろん長ければ長いほど好いけれど、宿の方も毎回同じ食事というわけにも行かず、困るかも知れない。だから湯治というシステムがあるのかも知れない。

 

 軽さに少々俗物臭を感じてしまう。著名作家として遇されることへの照れが薄れているのを感じてしまう。厚遇に、身体を痛めるほどの痛飲や無茶な行動で応えるというこの人のバランス感覚が、糖尿病という持病が許さなくなって、とりようによってはわがままが顔を出しかける。師である高橋義孝であれば、どう見るだろうか。叱るだろうか。とは言え山口瞳はやはり身体を削って、つまり命を縮めて、彼なりのサービスをし続けたのであって、彼は私より若い69歳で逝った。

 

「温泉に行こう」といわれて、行きたい温泉を考える。なじみの温泉、旅先で目にとめて気になっている温泉、この本に紹介された温泉も含めて、行ってみたい温泉はたくさんある。出来ればゆっくりと滞在しても気持ちの苛つかない温泉に行きたい。貧乏性だから「これでいいのか」などとつい考えてしまう。「これでいいのだ」と考えるのは、自分なのだが。

映画『バクラウ 地図から消された村』2019年ブラジル・フランス

 ブラジルの岩だらけの山村バクラウで老女が死ぬ。葬儀に帰村する女性の目を通して、あたりまえの山村風景の中にところどころ不可解な情景が映し出されていく。厳かで、なおかつにぎやかな葬儀が行わる。ここから視点は女性の目を離れて俯瞰的になっていく。

 

 ふらふらと上空を飛ぶUFO、それを「あれはドローンだ、UFOに見せかけたドローンだ」などという会話が挿入されたりする。近くで農場を営む家族と連絡が取れなくなる。やがて村に男女ふたりの乗ったバイク二台がやってくる。その挙動はいかにも怪しげで、やがて村の小さな食堂の机の下に何かの装置のようなものを取り付けてふたりは去って行く。村人の携帯は圏外になってしまう。村からふたりの男が農場に様子を見に出かける。

 

 村や村の出入りの様子を監視しているグループがいる。映像はあのドローンから送られてきているようだ。そのグループのリーダーがあの怪優ウド・キア、この人が出てくる映画は出てくるだけで不思議な色彩を帯び始める。どうして村を監視しているのか、説明はまるでなく、グループの男女たちの関心は、いつ村人を皆殺しにするのか、ということであることがわかるが、どうしてそんなことをするのか理由は不明である。そしてバクラウという村は地図から消されているのだ、などと説明される。

 

 農場の様子を見に出かけた村人ふたりは、農場の人たちが子供も含めて全て殺されているのを発見する。その凄惨な死骸を見て立ち去ろうとするところに、あのバイクのふたりが現れる。そして・・・。

 

 農場に向かったふたりすら帰らないことで村人達は異常を察知する。農場を見に行ったふたりの死体を乗せてジープが帰ってくる。そして村人達は整然と臨戦態勢に入る。村から離れていた若者たちが村人に加わる。そしてグループの村への襲撃が始まる。

 

 この映画のストーリーが不条理に見えるのは、理由が全く示されていないからだ。あるのはほのめかしだけなので、ほとんどない手がかりをもとに勝手に想像するしかない。その手がかりはひろばに掘られた穴だろうか。その穴には何があるのか。そこには何が入れられるのか。それは最後に明らかになるけれど、だから何かの理由らしきものがわかるということではない。

2021年9月19日 (日)

思い出す

 眼を休めるためにひたすらゴロゴロしていた。音楽を聴いたまま眠り、眼が覚めては音楽を聴いたりしていた。アマゾンプライムで平原綾香や高橋真梨子のアルバムを聴き、アリス=沙羅・オットのピアノを聴く。ショパンのピアノ曲を、さまざまなピアニストでとっかえひっかえ聴いてみたりしていた。パソコンはほとんど開かず、テレビもニュース以外は観ない。

 

 おかけで眼の奥のいたみのようなものは軽くなり、日ごろ経験のない頭痛もほぼなくなった。最初はくも膜下の兆候か、などと不安もあったが、くも膜下であればその痛さは尋常でないらしいから、心配しすぎである。ただ、よほどのことがないと頭痛にならないたちなので、長く続く頭痛を心配したのだ。

 

 ショパン、特にワルツ集を聴いていると、こどもの頃のことを思い出す。長い休みの時には母方の祖父母のところに滞在するのがあたりまえになっていた。両親よりもしつけに厳しい祖父母がどうしてそれほど好きだったのか、母でさえ不思議がった。

 

 その祖父母の家の前の小さな通りを挟んだ向かいの家がピアノの先生で、いつもピアノの音が聞こえていた。ショパンが好きなのであろう、練習にはショパンの曲をよく弾いていた。子供時代はショパンかどうかなど知らなかったけれど、繰り返し聴いて耳に残っていて、あとでショパンだったことを知った。

 

 それと思い出すのは祖父母の匂いである。冬などは私の身体が温かいから「今日はどっちと寝る?」などと祖父母に訊かれたりした。あんか代わりである。かすかに臭う祖父母の匂いは、いま思えば老人臭(ノネナール臭)だったのだけれど、二人とも清潔にしていたから不快な思いをしたことはない。それよりも切なくなるくらいの懐かしさを呼び覚ますのである。そしてその頃の祖父母よりも私は高齢になっている。不思議な気持ちがする。

2021年9月18日 (土)

訂正など

 先日の、映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』のブログで、共演者を樹木希林と書いてしまったけれど、桃井かおりの間違いです。観たばかりでどうしてこんな間違いをしたのか自分で信じられません。ボケが進行したのかな。記事は訂正しておきました。

 

 もうすぐ台風が接近してくるので、雨脚が強くなってきた。風も少し吹いてきたようだ。

 

 腰や肩に鈍痛がある。首も調子が悪い。眼がひどくくたびれて、ひどくはないが頭痛が続いている。しばらく眼を休めろ、と身体が教えてくれているようだ。テレビやパソコンの液晶画面を見るのを控えようと思う。読書もちょっと休止することにする。だからブログもちょっと一休みする。

2021年9月17日 (金)

内田百閒『東海道刈谷驛』(旺文社文庫)

 私の、内田百閒『王様の背中』という本を読んだ少し前のブログに、ka-さんからツブをいただいた。そこにこの『東海道刈谷驛』のことと思われる文章のことが書かれていたので、久しぶりに読み直してみた。内田百閒の旺文社文庫の第24巻にあたる本の巻末にこの文章は収められている。

 

 昭和31年6月24日、宮城道雄は急行『銀河』の夜行寝台に乗って大阪へ向かっていた。京都や大阪で演奏会が催されるからである。日を越して25日未明に浜松を過ぎ、刈谷駅近くでデッキから転落、帰らぬ人となった。

 

 内田百閒とは三十数年来の親友である。その顛末を詳細に書いたこの文章は、内田百閒の視点、そして宮城道雄自身の視点、さらに線路脇で発見されて病院に担ぎ込まれてからの駅員や医師たちの視点から書かれていて、足らざるところがない。

 

 発見されたときには意識があった。姓名を名乗り、受け答えも出来ていたのだが、刈谷驛の近くの豊田病院に担ぎ込まれて治療中に命が尽きてしまった。宮城道雄は盲人であるから、何か勘違いしてデッキに出てしまったのであろう。その推察も書かれている。

 

 内田百閒の痛恨の思いが押さえた筆からあふれ出てくる。もともと感情の容量の大きな人である。かけがえのない人を失った喪失感はいかほどであったかと思う。私も若いときに読んで感じたときより、もっと強くさまざまなことを感じた。その頃より内田百閒のことをよく読んで知っているし、自分自身の人生経験もあって、その気持ちをより理解するようになっている。

 

 ときにくどいように同じことを繰り返しているのは、文の乱れではなく、内田百閒が意図したものだろう。そのことでより伝わるものがある。

 

 若いとき、出張中の列車の中で読んでいた文藝春秋に、江國滋の短い随筆が収められていて、そこには内田百閒の死を知った江國滋の衝撃と哀悼が書かれていた。私が本格的に内田百閒を読み始めたのはこの江國滋の文章がきっかけである。その江國滋もとうにこの世にいない。

北方謙三『史記 武帝紀三』(角川春樹事務所)

 武帝(劉徹)は次第に皇帝として絶対的な権力を行使するようになり、だれも武帝に反対をすることが出来なくなっていく。以前は苦言を呈することでかえって可愛がられた側近も疎んじられて、ついには処断される。漢という国家のためを優先して考える者は武帝の周りからいなくなり、ただ武帝が何を望むのか、それだけを考える者だけになっていく。

 

 衛青が先のオルドス奪還の戦いで負傷し、その傷が完治しない中、霍去病はますます頭角を現していき、ついに衛青と同格の大将軍となる。ただ以前よりも大軍を率いることによる身動きの取りにくさが、彼を疲れさせることが多くなる。配慮しなければならないさまざまなことが彼を悩ませる。そしてついに武帝の命により、匈奴の本拠地・単于庭への侵攻が開始される。匈奴と漢の総力戦である。

 

 さまざまな齟齬が生じたが、僥倖もあって衛青と霍去病の二将軍からなる漢軍は勝利し、匈奴は北方に追われ、ついに西域との間に障害がなくなった。しかし名将・李広はその齟齬の原因(途中で道を見失い決戦に遅れてしまう)となったことの責任を取って自裁する。攻めの将に対して、守りの将は評価されにくいが、李広がいたから匈奴の侵入を防ぐことが出来ていた。それを理解しているのは軍人たちばかりで、文官はそのことがわからない。その悲憤を李広の息子・李敢は衛青の采配のせいだとして怒りを向ける。

 

 決戦のあとの匈奴の再起を期した日々、そして漢の宮廷の文官たちの毀誉褒貶。走兎死して走狗煮らる、は世のならいである。司馬遷も登場するし、幼児だった李陵が少年となって登場し、友人として蘇武も登場する。あの中島敦の『李陵』は、私が若いときから愛読する小説だが、その背景が詳細に描かれることで、頭の中にその時代、その世界がリアルに出現している。

 

 霍去病弱冠二十四歳。武帝に愛されたこの天才的名将が突然この世を去る。北方謙三はその詳細をほとんど語らず、突然消え去ったような書き方をしている。書きようがないほど痛恨の事実なのである。時代は大きく変わっていく。

現代の目安箱

 正しいことにはいろいろあって、決定的に正しいこと、ほぼほぼ正しいこと、人によってちがう正しいこと、時代によって正しいこと、状況によって正しいこと、など、考えているといろいろとある。

 

 決定的に正しいこと、というのは、これは正しいことだ、と決めて全員がそれを受け入れた正しいものである。一神教の神様は絶対的に正しい。神様は時に人間から見ると間違っているように見えても、神の意志には人間の考えの及ばない深い意味があるということになっている。そう決めたのだから神様は正しい。『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンが「子供が理不尽に死ぬのを黙ってみている神様など神様ではない、だから神などいないのだ!」と無神論を展開するが、「神は絶対的に正しい」ということを否定するのだから彼にとっては神が存在するというのは正しくないのである。

 

 余談だが、トランプが前回大統領に当選したのは神の思し召しだった、と語っている人物がいた。そういう人には神が正しいならトランプは正しいのだ。だからバイデンが選挙に勝利した、というのは受け入れられないのはとうぜんかも知れない。神の意志に反するのだから。ところで知事のリコールはどうなったのだろうか。

 

 このように正しいということは絶対的ではないことくらい、経験を積み重ねたまともな大人ならわかっている。それなのに、正しいことというのはひとによって、場合によってずいぶんちがうものだと考えることが出来ない人がこの世にはけっこうあふれている。そういう人は、何が正しいか、ではなくて、何が正しくないか、という思考をする。

 

 現代は、そういう「正しくないこと」の告発書が目安箱からふあれでている時代のようだ。だれもが匿名で目安箱に告発書を投入でき、それをだれもが読むことが出来る。インターネットという現代の目安箱がもたらしているものは何か、ちょっと考えている。

2021年9月16日 (木)

よくわからない

 もしかしたら顰蹙を買うことかも知れないが、教師が生徒にワクチン接種の有無を問うたことが大きな問題になっていて、どうしてそれがそれほど大きな問題なのかが私には解らない。ワクチン差別につながるのだそうだが、実際にどのような差別がおこなわれると想定されるのか、私にはあまり具体的な想像がつかないのだ。そのような差別の兆候があれば、それをたしなめて正しく導くのが教育というもので、可能性があるなら全てその芽を摘む、ということを繰り返していれば、たしかに教育者は何もリスクを負わないで済むけれど、そもそもそれこそが教育の機会を摘み取ることではないのか。

 

 いったいマスコミは何をそれほど騒いでいるのか。何が起こりえるのかを説明したものが何もなくて(あるのかも知れないが、私は目にしていない)、ただ絶対的な悪が教師によって行われたかの如く言い立てているのは、見ていてかえって恐ろしいようである。私が教師だったら、いつでもターゲットにされてしまうかも知れない。

 

 親が自分の判断でワクチン接種をしないのは別にかまわない。それならどうしてそれが解らないようにしてあげなければならないのか。実はワクチン接種をするのが正しくて、あえてしないというのは悪であるから、それが知られるのが差別になるかも知れない、というのだろうか。隠さなければならないほどの悪事だとでも言わんばかりではないか。それなら義務化したらいいし、事情があって出来ないというのなら、事情があって出来ない、と説明すればいいだけのことである。事情の説明はしたくなければしなければいいのであって、それを無理に問いただすことは、それは間違った行為である。そんなことは自明ではないか。

 ただ、ワクチンのリスクを考えて、あえてワクチン拒否をするタイプの人は、子供が学校でワクチン接種の有無を尋ねたりされたら、激怒して教室に押しかけるという図式だけは、ちょっと想像できないことはない。マスコミはそういう人を何より恐怖する。

 

 それにしても私にはよくわからないことがこのごろ増えてきて、当惑している。

影響を受けないはずがない

 私の考える品性下劣な国、を研究する人は、私の考える品性下劣な指導者やその取り巻きたちの考えを常をシンクロさせて考えるから、その影響を受けないはずはない、と私は考える。「私の考える」を繰り返して我ながらしつこいなあと思うけれど、私のように考えない人もいるから念を押しているのである。

 北朝鮮の専門家の顔やその解説を聞いているとついそんなことを感じてしまう。

映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』2020年・日本

 清原果耶という若い女優は好き嫌いが分かれるかも知れない。あまり大きなパフォーマンスをするタイプではないから、地味に見えるだろう。いまの朝ドラも評価が分かれているようだ。私は大好きである。この映画はこの清原果耶が主役で、樹木希林が助演している。

 

 話はファンタジーで、不思議なエピソードはいくつかあるものの、現実離れしているという感じが全くしない。つばめ(清原果耶)という少女が、星ばあと勝手に呼ぶハデハデの老女(桃井かおり)と出会い、恋をはじめとするさまざまな体験をし、少しずつ成長していく物語だ。この物語はこの二人が演じて初めて成立した映画だと思う。清原果耶のわずかの表情の変化による演技の素晴らしさ。つばめの心をちゃんと読み取る星ばあを桃井かおりだから飄々と演じることが出来る。

 

 こんな感性の豊かで優しい少女がいたら素晴らしいなあ。

 

 清原果耶の素晴らしいのはもうひとつ、大声を出さないのに台詞がとても明晰であるということだ。私の耳でもはっきりと聞き取ることが出来る。明晰であるのはものを伝えるときにとても大事なことだと思う。好い映画を観させてもらった。

 

ついでに
 俳優も歌手も、言葉が明晰でなければ失格だと思う。人に何かを伝える仕事である。もごもごしたり巻き舌でしゃべったりするのは論外だ。アナウンサーもそうだし、コメンテーターももちろんだ。わめくことでしか表現できない連中を見ていると無性に腹が立つ。

2021年9月15日 (水)

帰り道は遠かった

「かえりーみちはとおかったー、きたときーよりもとおかったー」、という歌があった。だれが歌ったどんな題名の歌か知らないけれど、この丹後半島日帰り旅の最後、帰り道は遠かった。

 

 もともと行きでどんな道だかわかると、帰りの道は案外近く感じるものだ。歌の場合は行った先で思い屈する何かの出来事があったのであろう、だから帰りの足取りが重いのである。足取りが重ければ遠く感じるのはとうぜんだ。

 

 帰り道、舞鶴若狭道を走り、小浜インターで高速を一度降りる。道の駅、若狭おばま駅が、インターを降りてすぐのところにある。ここで買い物してすぐまた高速に戻れば、途中下車による割り増しはない。永平寺の酒(「白龍」は美味かった・もう吞んでしまった)と、若狭ガレイと小鯛の笹鮨を買ったことは先日書いた。めかぶも買った。健康のためである。

 

 そこから敦賀に向かい、北陸道に移る。電光掲示板に、羽島インターと一宮インターの間が渋滞中で、一時間かかると表示されている。普通なら十五分もかからないところである。しかし想定内のことなので、覚悟する。

 

 米原から名神高速に入ったら、「羽島インターと一宮ジャンクションの間で事故発生、通行止め」と表示された。通行止めではどうしようもない。推察するに、渋滞の後尾からバカ車が突っ込んでの事故であろう。まさに今年の春、その近くで私はX-トレイルに時速八十キロ以上で突っ込まれて首の骨を折られたのだ。あとで帰ってからニュースを見たら、トラックが中型トラックに突っ込み、三台だか四台を巻き込んでの大事故だったらしい。当てられた中型トラックの運転手は死亡したようだ。考えてみれば、私も危なかった。ぶつかってきたのがトラックだったら即死していた。渋滞に突っ込まれたら逃げようがないではないか。事故の時のことがフラッシュバックのようによみがえった。

 

 少し早いけれど、関ヶ原で降りることにした。その時は知らなかったけれど、通行止めになるくらいだから、大事故だろうという予感がしたのだ。待っても通行止めは解除されないだろう。関ヶ原で国道21号線に迂回する。この道なら遠回りだから羽島や一宮から回ってくる車はほとんどないはずだ。

 

 このままトラックだらけの国道を岐阜まで走る。この道の渋滞は昔このエリアを仕事で走り回っていたときからよく承知している。道路が広いから信号が長いのだ。わかっていればそれほど腹も立たない。岐阜で右折して国道22号線に移ればあとは一本道である。夕方のラッシュのまえに我が家にたどり着くことが出来た。工事渋滞の後尾についてのろのろ走るよりはかなりリスクも小さく、結果的に早く帰れたと思う。もし羽島まで行き、そこでインターを降りて地道を走ったら、木曽川を渡って一宮にいく橋で、とんでもなく時間を食っただろうと思う。何もなくても大渋滞するところで、たぶんほとんどの車はそこへ向かうはずだから想像を絶する。

 

 というわけで、遠回りして遠い帰り道にはなったが、無事計算通りに帰ることが出来た。今度はどこへ行こうかなあ。次に出かけるのは月末頃か。

丹後半島・間人(たいざ)そして

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間人(たいざ)の行者岩(左手)のまえにて。水無月神社という小さな神社があった。右奥に見えるのが立岩。左右が海水浴場になっている。

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この後ろが行者岩で、この上で行者が修行した。台風や大雨の時にここで念じると悟りが開けることがあるという。

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向こうが網野の方向。

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柱状節理。溶岩が地表に出て急速に冷やされたもの。

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同じく。

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立岩。これも柱状節理。この立岩の上面の面積と、行者岩の台部の面積がほぼ同じなのだそうだ。

ところで間人がなぜたいざと読むのか。むかし聞いたけど忘れた。時の皇后との名前が重なるからそれを諱としたとかいったけどたしかではない。

ここから経ケ岬まで走る。途中丹後松島という景色の好いところがあるのだが、車を停めるところに工事用の車両が列んでいて停めにくかったのでパスした。

経ヶ岬の景色を撮ろうとしたけれど、入り口は封鎖されていた。経ヶ岬の灯台まで登るのは急坂でハードだけれど、とても素晴らしい景観を見ることが出来るのだが・・・。前にあったドライブインはなくなり、駐車場も閉鎖。バイクがたくさんたむろしていた。

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経ヶ岬から先、狭いカーフーの道を進めば伊根までいけるのだが、このように通行止め。災害というのはコロナ禍のことを言っているようだ。

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今日(九月十五日)から通行止め解除、と表示されているが、どうだろうか。

仕方がないから国道178号線、418号線と乗り継ぎ、京丹後に戻り、あとは高速で、もと来た道を戻った。

宮津へ出て伊根の舟屋を見に行く時間はあったけれど、今度にすることにした。たぶん名神の渋滞は朝よりひどくなっているはずだ。

その予想通りだったのだが・・・。それ以上のことになり・・・。

丹後半島の海

五色浜から網野、そして間人(たいざ)方向に向かう。


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峠を登り切ったところに展望台があった。ただし、海が見えるのは左手側(西)だけ。

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おお、あれは久美浜だ。奥の、湖のように見えるのが久美浜湾。山陰に隠れるように外側にし白く延びているのが小天橋と言われる長く白い砂浜。天橋立に似ているので小天橋という。

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少しアップしてみた。天気予報では、昼前から晴れるはずだったが薄い雲がかかったままである。

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先ほどの場所から少し先に車を停めるスペースがあったので、車を停めて崖を見下ろす。

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晴れていれば海がもっと青く見えるはずなのだが。

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けっこう波がある。遠い台風14号の影響だろうか。

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別の場所で撮影。よく見ると・・・。

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ポッドホールではないか。丹後半島の崖にはこういう穴が観察できるところがある。川の甌穴と同じ理屈で作られるのであろう。

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そのつもりで見ないとわかりにくいが、たくさん穴があるのだ。

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日本海にはこのような美しい波の色が楽しめる場所がある。山陰に特に多く見られる。

網野の街を過ぎて、間人に向かう。

2021年9月14日 (火)

五色浜

 網野の街に入る手前で178号線を左に折れる。このまま西行すれば、久美浜に到る。久美浜から先はいつも二月に城崎の蟹を食べに行く道でよく承知しているが、浜結というところで178号線と別れて海へ出て海岸線を東に向かう。海岸線を網野へ戻るかたちになる。浜結には夕陽ヶ浦という名前の夕陽のきれいな場所があり、温泉があるので、ホテルなども並んでいる。ただしここから行く海岸線は、センターラインのない狭い、そしてアップダウンのある道で、向こうから車が来るとすれ違えないところが多い。小さな漁村の中などは特に狭いから注意が必要だ。しばらく行くと五色浜という場所がある。

 

 五色浜はブラタモリを見ている人ならご承知のように、チャートという岩石が多くて、それが砕けて出来た五色の石が浜辺に散らばる、きれいなところだそうだ。そこまで行きながら「・・・だそうだ」とはなにごとか、といわれそうだが、


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 このように浜に降りる道は通行止めとなっている。人が集まるのを禁止するためらしい。歩いてならば降りていけないことはないのだが、かなり浜まで高低差があり、降りたら上がってこなければならない。上から覗くだけでパスすることにした。


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上から見下ろして写真を撮っていると、白いものがふわふわと浮かんで飛ぶ。


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例によってなんという植物だか知らないが、この綿毛が虫が飛ぶようにたくさん飛んでいる。

左手の小さな階段を登るとお地蔵様が列んでいる。


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左手の三体のお地蔵さんの顔が好い。

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代表して真ん中のお地蔵さんのお顔をアップで撮らせていただく。

さらに道を進む。狭い崖道のカーブを曲がったら突然二人連れのサイクリング車に出会ってびっくりした。二人とも小学生としか思えないけれど、この日は月曜日、夏休みは終わっているはずなのに・・・。

途中、静御前の生誕地、という看板を見たけれど、停めるところもないようなので心に留めるだけにした。

一万回

 このところ、あと五回だの、あと三回だのと書いてきた。今朝のブログにはあと一回と記した。実は、いまこのブログが私のブログの記事の一万回目になるのだ。アクセス数などは自分の力では如何ともしようがないが、記事の数なら努力で増やせるのだ(中身はともかく・・・)。

 

 ふり返れば、2010年にリタイアして、その年の九月に第一回を書いた。そしてなんの反響もないからこんなものかと思って次を書く気にならず、二回目は翌年、2011年の二月である。それから継続して書くようになった。書いていれば見てくれる人もいる。自分自身もだんだんおもしろくなり、書くのに要していた時間もだんだんかからなくなった。

 

 まえにも書いたけれど、ちかごろは、ふだん何かを考えるときにもブログを書くように考えていて、自分で笑える。

 

 昨晩は小浜で土産に買った若狭ガレイ(天日干し・けっこう高かった)を焼き、小鯛の笹鮨をつまみに永平寺の地酒「白龍」という酒を吞んだ。祝杯にはちょっと早かったが、疲れが白龍に溶けて心地よい酔いであった。今晩も自分へのご褒美として、その残りを楽しむつもりだ。

網野に向かう

Dsc_5480網野・五色浜から

 

 長駆、丹後半島を見に行き、日帰りした。人と対面したのは帰り道の小浜の道の駅で土産を買ったときだけ。往復約580キロ、無事帰着できたけれど、疲れた。疲れたのは、長距離を走ったからではあるが、渋滞と通行止めに遇ったのが主な理由である。

 

 全国の道路はコロナ禍で人出の少ないのを見越して一斉に集中工事をしている。出かけるときにはその工事の予定を確認して出ないといけない。今回の行路には名神高速での工事がある。一宮から名神に乗る予定なので多少の渋滞を覚悟する。案の定、入り口からのろのろ走っていたが、ひどい渋滞は例によって一宮ジャンクション(東海北陸道との出入がある。私は東海北陸道側からこのジャンクションに向かう場所での渋滞で後ろから激突された)あたりまでで、羽島を過ぎたあたりからはスムーズに流れ出した。そのあと関ヶ原から米原まで車線規制で一車線だったが、渋滞というほどではない。

 

 米原から北陸道を北上し、敦賀に向かう。ところどころ工事による車線規制があったが、こちらはもともと交通量が少ないから問題なし。賤ヶ岳で休憩。思ったより時間を食っている。早く出てよかった。敦賀から若狭舞鶴道に乗って綾部に向かう。本当は海岸沿いを走る国道27号線を走りたいところだが、景色は好いけれどトラックが多くてあまりスピードを出せない道であるし、たぶん三倍くらい時間がかかる。行った先で泊まる余裕のあるときに走る道だ。三方五湖あたりの安宿に泊まって美味しい魚でも食べたいなあ。日本海はたまに遠望できる程度しか見ることが出来ない。そして、舞鶴から内陸に入ってしまう。綾部で京都縦貫道に移る。

 

 宮津まで走ったら地道に降りて国道312号で京丹後市方向へ向かう。もう丹後半島である。途中県道へ折れて、網野の街に向かう。今回、丹後半島を右回りで走る起点を網野としたのだ。(つづく)

(あと一回)

2021年9月13日 (月)

曾野綾子『酔狂に生きる』(河出書房新社)

 久しぶりに本が読み進められるので映画が観られない。映画を観ながら本を読むことはさすがに出来ない。試したことはないが・・・。それでも一日中本を読んでいるわけではないから、映画を観る時間はあるのである。録画した映画か少しずつたまっていくが、焦っても仕方がない。

 

 本を一時間読めば二時間から三時間はぼーっとする必要がある。頭のエネルギーが消費されて(浪費されて)集中力が続かなくなることと、眼が疲れて字がぼやけて読み続けられなくなるからだ。むかしは一日二冊も三冊も平気で読めたけれど、いまは一冊分くらい読むのがやっとだ。一冊分というのは、たいてい並行して何冊か読み進めるので、合わせて一冊分という意味である。

 

 この本を読んで、自由に生きるということについて改めて考えさせてもらった。自由に生きるということは、いうまでもなく自分の責任で生きるということである。自分の行動、自分の判断で選んだことは、誰かのせいにしないということである。何何してくれないと嘆いたり、政府が悪い、誰それが悪いと言い立ててばかりいる生き方は自由な生き方とは言えない。そう思えば、いまの日本には不自由な人ばかりがいる様に見える。

 

 子供の自殺についていろいろ書いてある中の一節、

 

・・・しかし本来自殺は、社会が救えるものではない。救うのはまず当人の生への本能であり、次には個人としてのその人と接触する他者である。つまり自殺したい人がもし誰かに心を打明け、相手が優しければ、その人は自殺願望者に同情するのである。同情という言葉は英語では「コンパッション」とか「シンパシイ」とか言うのだが、コンもシンも、「共に」という接頭語で成り立っている。つまり感情を共有する間柄を示すのである。しかし他者の運命に深く心を掛ける、ということの美を日本の教育は教えなくなった。自分の権利を要求し行使することは教えたが、ともに運命をいたみ、時には自分が損をしてでも相手を救うことが、むしろ最低の人間の条件だ、などとは全く教えなかった。
 教師と親たちは、その貧しい心情を深く恥ずべきだろう。 

 

共感した言葉

 

 最近時々日本でも目立つ様になった農作物泥棒は、日本の農業自体に対する凶悪な挑戦だから、その時には、日本中の高齢者が立ち上がって、年間を通じて夜間の畑パトロールを実施し、こうした基本的な破壊活動に対抗しなければならない。

 

 子供も中年も読書をしなければ人間にならない。テレビやインターネットの知識と読書のもたらす知識とは全く質がちがう。さらに日本語の文章を毎日書き、よく人と語らなければならない。その訓練をした人だけが将来、自由で解放された人生を送るのである。

 

 ものが捨てられなくて、老年になっても家の中が品物で埋まっている、という人の話を聞くと、その気持ちがわからない。私たちは、遺体の始末だけは人にしてもらわなければならないのだが、その他の点では、自分のことは自分で始末していくのがとうぜんのことなのだ。

 努力します!

(あと二回)

興味本位ではあるが

 多くの人があまりテレビを観なくなっていることを、テレビ局の人はどう思っているのだろうか。視聴率が命、などと聞くけれど、昔のドラマなどの視聴率といまとをくらべると、半分以下になっている様な気がするが、そんなことはテレビ局の人が一ばん実感しているはずのことだろう。若者がSNSなどへ興味を移したからだ、などと自らに言い訳しているのかも知れないが、専業主婦の一部やテレビしか楽しみのない老人というのがいて、それが固定層として存在しているのなら、それ以外の人がテレビを観なくなっている割合は想像以上かと思う。

 

 まともな知性の持ち主なら、テレビを観続けるのがつらいほどテレビの番組は劣化している。こんなことは私が言うまでもない。ドラマは陳腐化し、リアリズムを失い、タレントを使った演技はたいていお粗末で、目を覆うばかりである。紀行番組でも、やたら食べ物の話ばかりで、多少なら美味しそうだと思えても、こうのべつ幕なしに美味い美味いを連発されたらだれでも食傷する。そもそもテレビでは美味さは伝わらないものだ。

 

 おまけに大きな会社はテレビのCMの効果を冷静に検討して、以前の様な資本投下は控えているらしく、いまはパチンコ屋、健康食品育毛剤カツラなどの眉唾的なCMばかり見せられる様になった。しかも山場の手前、クイズ的な流れの答えの手前で必ずCMに移る様に作られている。お預けを喰らったペットの様に視聴者は待たされることになる。それどころか、CMの終わったあとにまたもう一度おさらいを見せられることがあたりまえになった。視聴者はニワトリ頭だと心配してくれているらしく、二分前三分前を忘れているに違いないから、またいちからご親切に教えてくれるのである。

 

 私はざる頭を自称しているが、さすがにニワトリ頭ではないから、そのテレビ局のご親切が腹立たしい。知らないことを知ることが出来そうだから我慢していたが、知った知識があまり役に立ったことがなく、怒りだけが残るから民放はほとんど観なくなった。テレビが大好きな私がそうなのだから、もう少し知性的な多くの人はとうぜんテレビを観なくなっているのはあたりまえである。

 

 ここまでが前置きで(長いなあ)ある。

 

 まだテレビに未練がある私は、だからNHKとWOWOWを観ることが多い。ドラマもCMなしで楽しめる。ドキュメント、紀行番組など、選んで観ても暇つぶしに充分な番組がある。ただ、私にはスポーツ番組は並べられてもたいてい観ないから、存在しないのと一緒だ。それにしてもオリンピック以来(それ以前からだが)スポーツ番組だらけでうんざりである。

 

 最近、九月ということでNHKでは災害警告番組をいろいろ放映してくれている。大地震、津波、いわゆるメガクエイクのメカニズム、想定される被害など、いままでより詳細にわかる様になって、これは備えなければいけないと心底思う。同様に、スーパー台風、火山噴火など、日本にいることでどうしても避けることの出来ない災害について、これでもか、という情報を教えてもらっている。申し訳ないことに主に興味本位で観ている。しかしながらそこで得た情報は真面目に受け取っているつもりだ。

 

 それにしても、こういう番組を真剣に観ている人はどれくらいいるのだろう。ちゃんと観ているひとですら備えができているひとはその一部だと思う。それならそんな番組があることも意識していない人たちは、いざというときどんな行動を取るだろうか。知識がなければデマに惑わされやすい。一番知って欲しい軽挙妄動する人たちほどこういう番組を観ないだろうなあ、とあきらめて観ている。

 

 たまに観るテレビの情報バラエティ番組は、日本人がどんどん劣化していることを如実に教えてくれる。その劣化した人たちに向かって、バカでもいいのですよ、と猫なで声でテレビは語りかけている。情けないことに、私もついそそのかされてしまう。気をつけなければ。

(あと三回)

北方謙三『史記 武帝紀二』(角川春樹事務所)

 武帝は巫蠱を理由に皇后を廃する。これによって外戚の影響力を消滅させ、名実ともに皇帝として絶対的な権力を握る。そして皇太子を生んだ衛子夫(衛青の姉)が皇后となる。

 

 衛青は匈奴に対して連戦連勝し、匈奴を率いる軍臣単于(ぐんしんぜんう)は病に倒れ、気力を失う。次期単于と目される息子・於単(おぜん)は猪突猛進型で思慮の足らない人物であり、敗戦から何も学ばない。危機を感じた軍臣単于の弟・伊穉斜(いちさ)は苦慮する。

 

 武帝から衛青に勅命が下る。オルドス奪還である。遙か西から流れてくる河水(黄河)は蘭州のあたりで直角に北流し、さらにまた直角に東流し、やがて南流する。几の字に流れる内側をオルドスと呼び、もちろんもともとは漢の支配地だった(長城は河水の北側にある)が、この時代は匈奴の支配地となることを許していた。ここを取り戻すことが出来る、などとはだれも想わぬ時に、武帝はその奪還を衛青に命じたのだ。

 

 それは匈奴側にも予測できなかったことだったとはいえ、衛青はそれを成し遂げる。武帝の意思を理解できない将軍達の中には思わぬ大敗をしたものが出たが、結果は衛青のみの大勝利となる。しかし於単にも軍臣単于にもその重大さが理解できない。やがてついに軍臣単于は死去する。

 

 このままでは匈奴の滅亡になると危惧した伊穉斜は、ついに蜂起して於単を打ち破り、自ら単于となる。衛青にとっての強敵が誕生する。そして衛青の甥(姉の子)の霍去病も成長し、ついに騎兵を率いることを許され、やがて衛青とはちがう臨機応変の戦い方を見せつける。もう一人の戦の天才が誕生したのだ。そしてそのころ匈奴にもある端倪すべからざる若者が誕生し、頭角を現していた。

 

 そのような戦いの明け暮れが描かれるとともに、武帝周辺の経済、政治の世界での有能な人物達の個性、そしてその感情的人間関係が語られていく。これらが冷静に知的に皇帝によってコントロールされていることで、漢という国家は順調に運営されているのだが、その知性に曇りが出たときに、絶対的権力というものがどのような弱点を見せるのか、それは後半に描かれていくことであろう。

 

 李広将軍という名将軍の心中、そして衛青との心理的な葛藤も語り尽くされ、そして李広の孫である李陵も子供ではあるがここに初めて登場する。李陵については最終刊(第七巻)で思い入れを書くことになりそうだ。

(あと四回)

2021年9月12日 (日)

ごくらく、ごくらく

 昨晩、晩酌のあと無性に眠くなったので風呂に入るのが面倒になり、そのまま寝た。よく眠れるのは何よりありがたい。夜中に眼が覚めたけれど、無理にねじ伏せてまた寝た。

 

 少し早めに起きたので久しぶりに朝風呂に入った。日曜日であるから(リタイアしているから曜日は関係ないみたいだが、そうでもないのである)心置きなく入る。ざっと身体の汗を流し、湯船に浸かったらまずタオルで眼をゆっくり押さえる。眼の疲労物質がタオルの湯に溶け出す心地がする。五分ほど繰り返していると眼が楽になる。このごろ眼の疲れがひどい。

 

 それから読みかけの曾野綾子の本などを読む。湯が冷めてくるので途中で熱い湯を足す。三十分あまりで、眼がギブアップするから読むのをやめ、湯に浸かっていなかった腕を湯に浸し、首を湯船の縁に載せて天を仰ぐ。露天風呂ではないから天井しか見えない。

 

 思わず「ごくらく、ごくらく」と言葉が洩れる。独り暮らしの孤独、などと感じないわけではないが、誰かが同居していればそれなりに気を遣う。こんな風に好きな時間に朝風呂に入り、ゆっくりすることもしにくいだろう。これが極楽でなくて何が極楽だ。本当にありがたいことだと思う。いつまで自分のことがすべて自分で出来るだろうか。なんとか長く続いてほしいものだ。

(あと五回)

蒸発

 こんな私でも頭を使う。無駄な考え休むに似たり、などと父によく言われたが、らちもないことをけっこういつも考えている。四六時中ぼーっとして(頭を空っぽにして)いるわけではない。

 

 もともと能力の低いCPUの頭で考えるから、ちょっとややこしいことを考えるとすぐオーバーヒート気味になる。頭が熱くなる。身体というのはよく出来たもので、そうすると頭を冷やすために頭から汗が出ているようだ。自分の頭は普通自分では見えないけれど、わかる。頭から出た汗は蒸発し、その気化熱で頭を冷まそうとしてくれているようだ。汗はただの水ではなく、塩分やら油やら老廃物やらがまじっていて、ない頭を無理に使った疲れによって生じた疲労物質を蒸発とともに外に捨てているのだ。本当によく出来ている。持ち主よりすぐれているくらいだ。

 

 以前は三日か四日に一度洗髪すれば、けっこう頭はさっぱりしていた。もともとフケ症でも脂症でもなかった。それが、頭髪が著しく減少して、頭がほかの皮膚と変わらないようになったら、頭からの蒸発量が増えているようである。しかし、考えてみるに(こういうことを考えているから父に揶揄されるのだが)どうも頭髪の量の問題ではなく、頭の働きが歳とともに悪くなったために、ますますオーバーヒートしやすくなっているらしい。結果として、頭がいつも脂っこい気がして、洗髪を二日に一度にしてもまだ気持ちが悪い。それでも毎日洗うとわずかに残った毛髪がさらに消滅していく気もして、毎日洗う気にはなかなかならない。

 

 どうせ使うシャンプーの量は昔の何分の一に減っていて、面倒なら石鹸(私はボディシャンプーが苦手。温泉ではいつもそれが困る)で身体と一緒に頭も丸洗いできるから経済性は心配ない。

 

 頭を使わなければ洗髪しなくてもよくなるかどうか、今のところまだ確認していない。

内田百閒『王様の背中』(旺文社文庫)

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 旺文社文庫(1965-1987)では内田百閒の本を、ヒマラヤ山系こと平山三郎の監修のもと、全39巻にまとめて出版した。私はせっせと集めたから全て手元にある。旧仮名遣い、漢字は新漢字主体となっていて、内田百閒の文章らしさを味わうことができる。ほかに福武書店(現ベネッセ)の福武文庫でも内田百閒の本がたくさん出版されていて、できるだけ集めてあるが、網羅しているかどうかわからない。こちらは現代仮名遣いになおしてある。

 

 全39巻のうち、20巻以上は読了、再読しているが、最後の10巻ほどに、まだ手つかずの巻もある。今回読んだ『王様の背中』という第36巻は童話集で、初読である。前半は短い童話10話で、これは百閒のオリジナル。後半は『狐の裁判』という長い話で、巻末に百閒のおくがきがあるので紹介する。

 

 悪者のライネケ狐が、悪智恵をはたらかせて、立身出世するといふこのお話は、どんなに正しい者でも、どんなに強い者でも、智恵がなかったら、悪者に勝つことが出来ないといふ教訓であります。普通の童話とは大分勝手がちがひますから、よくその意味を汲んで味はつて下さい。悪者が勝つといふやうなことが、あつてはならぬのですけれど、人間の世界にも、どうかするとそんなことがないとは限りません。ライネケ狐のやうな者にごまかされない様に智恵をみがく心がけが肝心です。このお話は昔から独逸その他の国国に残つてゐる物語で、いろいろに語り傅えられて居りますが、その中でも独逸の大詩人ゲーテの「ライネケ狐」といふ詩が一ばん有名であります。

 

 このライネケ狐の狡猾で情け容赦のないことは想像を絶する。それなのにコロリとだまされる者が多いのだ。まるで人間世界をデフォルメした様なこのお話はとてもおもしろいのだけれど、この本を手に入れるのは難しいと思われる。おあいにく様。

2021年9月11日 (土)

北方謙三『史記 武帝記一』(角川春樹事務所)

 漢の武帝(劉徹)の時代が描かれている。皇太子になる可能性のほとんどなかった劉徹が、先帝、先々帝の皇后や皇太后などの女性達の思惑から思いがけず皇太子となり、即位したのは十六歳のときであった。武帝は、自分を皇帝にした女性達、そしてその係累に対して心を砕きながら、少しずつ少しずつ権力を掌握し、自分の意志を通していく。そのために自分の眼鏡にかなった有能な、そして先例にとらわれない自由なものの考え方のできる者たちを身の回りに従えていく。

 

 この巻では、武帝の側室(後に皇后)である衛子夫の実弟、衛青の活躍と、西域の月氏に派遣された張騫(ちょうけん)の艱難が描かれる。武帝に見いだされた衛青は、それまでの匈奴との戦いを根底から変えるような天才的な戦いを重ねて次第に頭角を現し、衛子夫の弟だから登用された、という世間の見方を払拭していく。匈奴との守りの戦いではなく、攻めの戦いは、武帝の願っていたものだった。そしてその匈奴の中にもいろいろな人物がいて、それを活き活きと描きわけることで、衛青の戦いがより鮮やかになっていく。

 

 張騫は月氏へ赴く途中に匈奴に捕らえられ、部下とともに十年雌伏する。そしてわずかな機会を捉えて、匈奴から逃れ、東の漢ではなく、あくまでも西の月氏に向かう。彼らに待ち受けていたのは砂漠を越えるという厳しい旅であった。一人、また一人と失いながらもなんとか月氏の隣国である大宛国にたどり着く。そしてそこからついに月氏の国に到り、王に謁見することを得る。

 

 武帝の壮図、それをかなえるためのさまざまな人物、特に衛青と張騫の生き様に惚れ惚れして好い気持ちになる。わくわくするほどおもしろい。

左利き

 両手の指を交互に組んでいちばん上に来る親指が右手の親指か左手の親指かで、右利きか左利きがわかるというのを母親がどこかかから聞いてきて家族で試したら、父と弟は右利き、母と私と妹は左利きであった。雑巾を絞るとき、強く絞る向こう側の手が右か左かでも右利きか左利きかがわかる。逆にすると力が入りにくい。

 

 幼児にお菓子やおもちゃを渡そうとするとき、右利きの子は右手を出すし、左利きの子は左手で受け取ろうとする。そんなことも気がつかない鈍感な親でさえなければ、親というものは子供の利き手を承知しているものだ。

 

 ところで、ファインダーを覗くのはどちらの眼だろうか。残念ながらいまのカメラはファンダーのないものが普通になって試しようがないかも知れないが、望遠鏡でもかまわない。必ず人によって右ばかり、または左ばかりで覗く。それを利き目などという。私は左利きだから左でファインダーを覗くが、それに何の不思議も感じていなかったけれど、よく考えたらおかしいのである。首から下の左半身は右脳に、そして右半身は左脳に連結している。つまり首で左右の神経は交差しているのである。それなら左利きは右脳の神経の支配するところであるけれど、左目は左脳の支配するところではないのか。

 

 ちなみに私は左利き、息子は右利き、娘のどん姫は左利きで、全く直さなかったから完璧な左利きで、それでも感心するほどきれいな字を書く。テレビで左利きの人を見ると共感するかと思えば違和感の方が多いのは不思議で、でも娘が左で箸を使っていてもちっとも気にならないのである。

 

 私は左利き用のものがあればそれを購入してある。バターナイフ、缶切り、裁ちばさみなどは左利き用があると便利である。急須も左利き用を使っている。おもしろいのは、娘のどん姫がその急須でお茶を入れてくれると、使いにくそうに右手で注ごうとすることだ。右利き用をいつも使っているとそうなる。「変だと思ったあ」などといわれると、ちょっと嬉しい。

減ったらどうする

 新型コロナウイルスを拡散させているのは政府だ、と言えればいいたいのではないか、などと勘ぐりたくなるほど、立憲民主党の枝野代表などの、政府の新型コロナ感染対策に対しての批判は激しい。

 

 これでワクチン接種が進んだことで感染者が減り、さらに重症者も減り、医療にもゆとりが出てきたらどうするのだろうかと心配になるほどだ。実際に新規感染者は減りだしている。それが持続すれば、しばらくしてから入院患者も減少に転じるだろう。国民全てが待ち望んでいる状態である。

 

 枝野氏だけにとっては望ましくない事態かも知れない。

2021年9月10日 (金)

本を読む

 数年前からエンターテインメント小説があまり読めなくなった。それまでのペースで読めると思って買って、たまっていた本がたくさんあったから、たちまち停滞した。エンターテインメント小説というのは、時代小説、ミステリー(国内、海外)、SF、ハードボイルドなど。不思議と文芸小説やエッセー、評論なら読める。

 

 それを機に、たとえば時代小説なら、いままで大事にしていた池波正太郎、藤沢周平、葉室麟、平岩弓枝、澤田ふじ子などの小説の大半を処分した。残したのは十分の一以下の、どうしても捨てられないものだけである。読了済みの北方謙三の『三国志』全十三巻、『水滸伝』全十九巻、『楊令伝』全十五巻も処分した。著作のほとんどを集めていた宮城谷昌光の本も未読とどうしても残したい一部を残して処分した。

 

 なんとか読むエネルギーを復活させようと、読み慣れていて、読み出せば必ず夢中になる池波正太郎の『剣客商売』や『鬼平犯科帳』のシリーズを読み直したけれど、それも途中である。北原亞以子の『慶次郎縁側日記』のシリーズも半ばまで読みかけて残りが積んである。

 

 新刊では、『楊令伝』シリーズに続く、『岳飛伝』全十七巻は、四巻か五巻までで中断中。北方謙三ならほかに『史記 武帝紀』全七巻が未読である。さらに宮城谷昌光なら『呉越春秋 湖底の城』全九巻は半ばまで読んで中断中。さらに彼の『三国志』全十二巻と外伝一巻はまだ手つかずである。本屋の店頭で見れば、即購入していた彼らの新刊は、いまは増えることはない。そもそもこのごろは本屋に行くこともなくなった。

 

 本が読めないわけではない。ペースは以前ほどではないにしてもそれなりに常に手元に本を置いて少しずつでも読み進めてはいるが、読むのはエンターテインメント本ではないということだ。

 

 ようやくその気になって北方謙三の『史記 武帝紀一』を手に取って読み始めたら、案外スムーズに読み進めることができた。すでに第二巻に手が着いている。なんとか全七巻を来週中にでも読み切れればいいな、と思っている。読了した第一巻については、次回のブログにでも紹介するつもりだ。これが読み終わったら、『岳飛伝』を一から読み直したいと思っている。

 

 こうやって公言しておかないと続かないので、あえて書いた。

おこがましくも愛について

2011年の私のブログ、私の大好きな名曲、「さらばシベリア鉄道」の歌詞について書いたものに無名氏様からコメントをいただいた。

 

https://toujikyaku.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-4afc.html

 

ずいぶん昔のブログだけれど、こういうことがごくたまにある。

 

少し考えてからコメントをお返しした。面倒でなければ読んでいただければさいわいである。コメントは公開されているものだから無名氏も引用することをお許しくださることと思う。

 

コメント
はじめは どっちの心情かなぁと、思っていたけれど 掛け合いだったんだ! 
ありがとう
でも、どうしても 最後の「愛をしる」の愛って どんな愛なのかわかります?
疑わないってこと?
教えてほしい

 

投稿: | 2021年9月10日 (金) 10時22分

 

無名氏様
コメントをありがとうございます。
実は「不意に愛の意味を知る」の愛の意味が私にもよくわかっているわけではありません。
ただ、いままで愛だと思っていたものが、愛ではないと気がついたということであるようです。
ざる頭のこんな私でも、愛について多少は考えることもありました。
いまは、「愛とは相手がかけがえのない存在であると感じること」、だろうかと考えています。
あなたがいてくれて嬉しい、という気持ちであり、いなければ哀しい、ということでもあります。
互いに離れていることで、愛しているのか愛していないのか、と相手を疑うことは愛でも何でもないのだ、相手がいないことで哀しいと思うことそのことが愛だ、と思う、という風に解釈しています。

 

投稿: OKCHAN | 2021年9月10日 (金) 10時43分

 

 

 

あともう少し

 風天句に

 

  あと少しなのに本閉じる花冷え

 

という句がある。興に乗って読み進めていた本を読み終えてしまうのがなんだかもったいないような気持ちになって、本を閉じるというところか。もしかしたら読むのに苦労したむつかしくて分厚い本に取り組み、ようやく終わりまであと少しになったところで、一気に読了するのではなく、一息入れる、という見立てもある。

 

 なにごとにも終わりがあるものだが、それまでの苦労が終わることは喜びではあるものの、それをふり返り自分自身を見直すために、あえて止めるという心情は私にもよくわかる。終わったものは過ぎ去るものでもある。

 

 九仞の功を一簣に欠く

 

という言葉があるが、これは目標、目的は、達成してこそ意味があり、その一歩手前で手を抜けばそれまでの努力や苦労が無に帰してしまうという意味かと思う。しかし苦労して目標や目的が達成しそうになると、それまでの艱難が終わることが却ってもったいないような気持ちになることがあるのではないか。「一簣に欠く」のは、なまけごころや手抜かりなどではなく、あえて完璧を期したくない気持ちというのかありはしないか、などと思う。

 

 それは私が怠け者で、なにごとも達成できず、その言い訳をしたい人間だからだろうか。私の場合は、残りは「一簣」どころではないことばかりだったではないか、といわれそうだが。

2021年9月 9日 (木)

先送りする

 明日は天気が良さそうなので、日帰りで少し走り回ろうと思っていたが、昨夜くらいから腹具合が悪くて何度もトイレに行っている。若いときは胃腸には自信があったが、出張先で烏賊にあたって、そのあとも無茶を続けてから、下痢癖が着いてしまった。神経性の面もあるかと思う。過敏性大腸症候群というのになると、直腸の襞がなくなってしまい、便をとどめて水分を調整することができなくなり、下痢が習慣になるという。海外へ行くときも何よりの悩みがこれである。

 

 そういうときは水分を補給しなければならないのに左の下肢がむくんでだるい。むくみを締め付ける靴下を穿いて補正したら、むくみは治まったが小便の出が悪くなった。何が何だかわからない。持病の前立腺炎が暴れ出す兆候かも知れない。こういうときは疲労が最もいけない。安静にして嵐をやり過ごすしかないのだ。

 

 そんなこんなで、出かけるのはあきらめた。行きたい気持ちは強いので、先送りである。代わりにゴロゴロして本を読んでいる。久しぶりにけっこう続けて読めるのはありがたいが、今度は眼が疲れて頭が痛くなってきた。頭が痛くなるほどのことはめったにないので、どうしていいか分からない。参ったなあ。

山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』(新潮文庫)

 身辺雑記録とも、エッセーとも読めるけれど、よく読めばれっきとした小説である。山口瞳はこの小説で昭和37年度の直木賞を受賞している。挿絵は柳原良平、文章には軽みがありユーモアもあるからユーモア小説だと勘違いするかも知れない(私も最初はそういうつもりで読み始めていた)が、とんでもない。苦みの濃い、ずしりとくる小説なのである。

 

 江分利満氏は東西電気という会社の宣伝部に勤め、妻と男の子一人と三人で社宅暮らしをするサラリーマンである。描かれているのは社宅での暮らしの様子、対人関係、会社での様子、彼の生き方、価値観、そして自分の生い立ちなど。江分利満氏は大正15年生まれ、息子は昭和25年生まれ、私と同年であり、私の母は大正14年生まれだから、江分利満氏の人生は私の両親の人生と重なる。

 

 戦争という時代をくぐり抜けた世代、さらに彼の父が実業家として浮き沈みの激しい生き方をしているから、人並み以上の体験をしているが、彼自身は平凡なサラリーマンである。しかしその心の底にある何者かは平凡どころではない。一歩踏み外せばアウトローになりかねない瀬戸際にいる。それを諦観をもって押さえ込んでいるから、彼は時に冷たい人間に見える。そういうことがずしりとこちらの胸に響くのだ。

 

 壽屋の宣伝部にサラリーマンとして勤めていた時代の山口瞳自身がそこにいるけれど、この小説は私小説ではないと思う。自分をさらけ出して小説にするというたぐいのものとはまるで違うことは読めばわかるだろう。

 

 山口瞳にいつ出会ったのだろうか、よく覚えていない。壽屋の宣伝部にいた開高健の引きによって就職した経緯から、開高健が山口瞳について書いたものでも読んだからだろうか。それとも高橋義孝(敬愛する恩師)のエッセーにでも彼のことが言及されていたからだろうか。とにかくある時期夢中で読んで、気がつけば五十冊を超える彼の本が棚にならび、いまさらのように彼の文章に唸っている。

バブル崩壊の兆し

 中国の不動産業者の倒産が相次いでいるようだ。まだ一部だけれど、糊塗して隠すのが得意な中国で対外的にそれらが顕在化しているということは、実態がそれ以上に深刻だということかも知れない。バブルが崩壊したことがわかるのは崩壊してしばらく経ってからである。そのことを多少の記憶力のある日本人なら良く覚えているはずで、そのあとに何が来るのか、それは中国政府がどのような対処をするのかにかかっている。中国も日本のバブル崩壊の経緯を見てよく学んでいるはずだが、たいてい他人事で自分のところは違う、と思うものだ。

 

 その兆候は韓国にも出始めてる気配だ。こちらは、私の偏見では、日本の民主党政権と同様素人政府だから、日本のことばかり気にしている割には日本のような愚かなことにはならないと思い込んでいて、とうぜんなんの手も打たないか、悪化するような対策しか講じていないように見える。いつも悪口を聞かされ続けていると、相手の不幸を待ち望むのは小人の常で、少し兆しを誇張して受け取っているかも知れない。多少のとばっちりを受けるのは覚悟の上であるが。

2021年9月 8日 (水)

対抗策

 日本のマスコミというのは独自色を失ってしまって、コロナといえばコロナばかり、菅首相批判といえば成果など毛筋ほども認めずに批判ばかり、今度は菅総理の総裁選不出馬を受けて、自民党内の次期総裁選に注目が移れば、そればかりを取り上げて騒ぎ立てる。各局の違いは、そのコメンテーターのレベルの違いだけである。お粗末なコメンテーターだと根拠のない感想だけで、底が割れてしまう。これでは芸人のコメントといささかも変わらない。

 

 菅首相批判を選挙の追い風にできると喜んでいた野党は、案に相違して菅氏が大将首ではないことになって、しかもマスコミの報道も自民党の話ばかりになったから、蚊帳の外におかれてしまった。支持率が伸びるどころか尻に火が付いた状態だから、却って結束が固まったのだ、という専門家もいたけれど、結束など本当にあるのかどうか疑わしい。結束とは、ただ、選挙区での候補者をまとめるという意味でしかなくて、政策を打ちあわせての結束ではないのではないか。

 

 市民連合という市民運動の組織の肝いりもあって、立憲民主党、共産党、社民党、れいわの四党が共同の政策七項目を発表した。まず第一として、新型コロナ対策として、司令塔を確立するのだそうだ。しかし野党は新型コロナについてどのような現状認識を持っているのか、批判ばかりに終始しているからそのことが全く伝わっていない。いまごろ出てくる対策が「司令塔」だそうだ。

 

 第二に消費税減税で、できれば消費税をなくしたいということだ。新型コロナ対策で巨額の補正予算を連発しているから財源はいくらあっても足らないときに、そんなことができると思う国民はほとんどいないだろう。共産党流に、金持ちに税金をかけ、防衛予算をゼロにすれば、たちまち消費税分くらいひねり出せる、というところだろう。いま東アジアがどういう事態なのか、中国という国がどんな脅威なのか、そんなことは関係ないのだろう。つまり日本はアメリカと手を切って中国と話し合って仲良くすれば、防衛予算がいらなくなるという論理かと邪推する。いや、邪推ではなく、本気なのだろう。

 

 第三に原発の即時全面的な廃止だそうだ。段階的、ということでは自民党との違いが打ち出せないからであろう。ただ即時ではないような言い方にカモフラージュしているところもあって、党によって違うようだ。東日本大震災以後、原発は全て停止された。それでも電力はまかなえたではないか、というのが廃止できることの根拠だが、あのときに火力発電所をフル操業させ、老朽化して休止していた火力発電所まで総動員して、国際価格よりもはるかに高い価格で原油や天然ガスを買いまくり、石炭火力発電まで動かしてしのいだことを民主党は知らないはずがない。いまもとめられている炭素減少政策と矛盾することなど世界との約束の手前上、できるはずはない。再生可能エネルギーと代替すればいいというが、そのためには十年二十年は優に時間が必要だということをわかって、できもしない夢のようなことをいう。つまり嘘つきなのである。

 

 それ以外というと、あの出入国管理局の病死問題の究明、赤木ファイルの開示、そして例によってモリカケ桜の追求だそうである。

 

 市民連合に阿ると、こういうことになる。そして四党を糾合してお山の大将になった気でいる枝野氏というのは、そういうレベルの政治家だということでもあるのだが、それでも支持する人がちゃんといるのはめでたいことである。

『養老孟司・学問の格闘』(日本経済新聞社)

 私としては珍しく丁寧に読んだ。考えながら丁寧に読まなければ、何が書いてあるかわからないからでもある。この本はさまざまな学問の先端で研究している人たちとの対談集で、いろいろ思うところがあった。それぞれの学者が、自ら何を研究し、何をテーマとして、何を知ろうとしているのか、そのことをまず本人が開示した文章があり、そのあとに対談がある。

 

 もともと日経サイエンスでの連載対談だったものから、とくに「人間」に関することをテーマとする研究者との対談を選んで本にしてある。ネアンデルタール人の研究から人類学について、古代アンデス文明に対の研究から文明が滅びるということについて、言語についての研究では、言語によって脳のどの部分が働いているのかということについて、遺伝学の最先端の研究では、DNAが解明されたからといって遺伝についてはまだわからないことの多いこと、能力と遺伝との関係などについて語り合う。

 

 さらに脳と精神活動についてどこまで研究が進んでいるのか、視覚や聴覚、嗅覚と脳の働き、記憶について、さらに細胞の死について、細胞の死には二とおりあること、細胞も二とおりに大別されることが語られる。人が言語を習得するとはどういうことなのか、そのメカニズム、言語と脳の働き、記憶のたしかさと不確かさ、人は記憶を作ることなど。さらにトラウマについて、心の傷とは何か、どのようにその傷は修復されるのかされないのか、なぜ人は超常現象を信じるのか、信じやすい人とはどのような人なのか、本当の自分とは何か。

 

 どれ一つとっても興味深いものばかりだ。そうしてこの本は1999年に出版されているので、それから20年以上経った現在、それらの研究はさらに進展しているかも知れない。比較しながら現在の状況をわかりやすくこの本のように教えてくれる本はないものだろうか。

 

 以前この本を読んだときにはただ字を読んだだけで、どこまで考えたのか心許ない。今回は最初に書いたように少し丁寧に読んだので、少しましだと思う。

M氏のこと

 M氏は私より三つ年上の会社の先輩で、誕生日が同じ日である。同じ誕生日といえば、榊原郁恵も同じ日だが、こちらは誕生日以外は縁もゆかりもない。M氏には新人時代にずいぶん可愛がってもらったし、酒もよく飲んだ。彼の故郷の四国の実家に遊びに行ったこともある。家にもよく泊まりに行って夫人には迷惑をかけた。

 

 M氏が尊敬する、さらに先輩のH氏は、酒豪でなおかつ酒をいかにも美味そうに飲む。その飲み方を真似していたのがM氏で、それに影響されて私もそのスタイルを身につけた。美味そうに飲むと本当に美味く感じるものだし、相手も楽しんでくれる。営業という仕事にはこのスタイルはたいへんありがたいものだった。

 

 会社は堅実一途という人が多かったが、M氏はその枠を大きくはみ出す暴走型、破滅型の人だった。だから仕事は良くできた。ある時期から自他共にコントロールが効かなくなって、不始末で会社を辞めざるを得なくなった。あちこちにツケを溜め、友人知人、得意先まで金を借りていた。私もずいぶん金を貸した。返ってこないと思っていた。やったつもりだった。

 

 両親から金の貸し借りは人間関係を損なうから絶対するな、貸さずに壊れる仲ならそんな仲はもともとたいした間柄ではないといわれて育った。両親はむかし大金を人に貸してたいへんな目に遭ったらしいが、詳しく知らない。父が、あの金があれば東京に大きな土地を買えて、いまごろは・・・などと愚痴をいったことがあり、それを母に手厳しくたしなめられていた。それ以来二度とその話は出なかった。

 

 一度消息不明となったM氏は、頼る人があってそれなりに復活し、借金を返済して歩いた。私のところへ来たとき、お前が最後だ、といっていた。私は一部を受け取り、残りは餞別として彼に渡した。

 

 それから会社を任されたりして走り回っていて、隆とした身なりで私の前に現れたり、尾羽打ち枯らした貧相ななりで現れたりした。ついに破産して借金取りに追われ、海外に逃亡するような事態になった。二年ほどして羽田から電話をもらった。異国の女と赤ん坊を連れている、などというから仰天した。

 

 彼の娘が名古屋の学校に入るとき、身元引受人になったりもした。事故に遭って半年入院した、などという話も聞いた。そのあともいろいろあったが、次第に縁は遠のいていき、もう十年近く音沙汰がなくなった。そのM氏のことを夜中に目覚めて眠れない中で、まざまざと思い出していた。まさか何かあったのか、虫の知らせか、などと縁起でもないことを考えた。何かあっても連絡があるかどうかは知らない。

2021年9月 7日 (火)

問題は?

 愛知県も減少しつつあるとはいえ、昨日ついに東京より新規感染者が多くなってしまった。気が重いことだ。

 

 愛知県常滑市の野外フェスティバルで、クラスターの発生があったらしい。まだ検査は始まったところで、これからまだ感染者が増えそうだ。ところでこのフェスティバルの主催者が出した謝罪文に愛知県や常滑市が事実と違うとして怒りを表明している。さすがにまずいと思ったらしく、主催者が謝罪に赴いたようだ。

 

 問題は、「当局が酒類の提供を認めた・・・」という部分で、愛知県も常滑市も、このようなフェスティバルに酒が入れば感染リスクが大きくなるとして、認めた事実はないと主張している。今回あらためて訂正の謝罪文が提出されたが、そこには「当局が酒類の提供を認めた、というのは事実誤認だった」として「独自の判断で酒を提供し、」とあらためられた。

 

 これを知った上で、マスコミはいろいろコメントを述べている。フェスティバルはだいぶ前に開催が決められていて、その準備をしていたのに、急に緊急事態宣言が出されて、このような批判を浴びることになったことに同情的な物言いも少なからずある。しかし、私が問題だと思うのは、事実誤認ではなく、明らかな嘘をついて言い訳したわけで、問題を追及するならそのことだろう。

 

 やむを得ない事態だった、というのは事実を正しく明らかにするものにだけ許される言い訳で、それなら同情もあり得るが、愛知県や常滑から呼ばれても逃げ回り、逃げ切れないとなると嘘を言う、そのような主催者には同情の余地はないのではないか。

いまだにできない

 テレビにマスクをつけて出てくる人をたくさん見るが、新型コロナ感染が蔓延して一年半以上経過したのに、いまだにまともにマスクが装着できていない人がいる。鼻丸出しの人、ひとこと口をきくたびにマスクがずり落ちてそのたびに手で持ち上げている人など、ほとんどマスクをつけている意味がない。本人はあれでも感染防止に万全を期している、などと思っているのだろう。

 

 マスクはどんなに安いものでも(アベノマスクはべつにして)上側にワイヤーが入っていて、自分の鼻に合わせてワイヤーを押さえれば、ずり落ちることはないようにできている。他人がつけている様子を見れば、よほどの馬鹿でなければ自分の間違いに気がついて、すぐできるはずのことが、いまだにできないのはバカ丸出しを天下にさらしているようなものだと思う。

 

 河村名古屋市長はぶかぶかの布マスク(だからワイヤーがない)をして、ひとことしゃべるたびに手で押し上げていた。あれなら濃厚接触者の中で、彼だけ感染したのもとうぜんだ。

森英介『風天 渥美清のうた』(文春文庫)

 著者が、渥美清が俳句を作っていたと知って、彼が参加していた句会の参加者などを訪ね歩き、拾い集めた句が223句。もっとあるのかも知れないが、これで充分でもある。名句を詠もうとしていたわけではないけれど、それぞれの句からイメージが湧きやすいのは、ひねらずにやさしくわかりやすい句ばかりだからだろう。

 

 田所康雄、芸名・渥美清。しかし大方の日本人にとって渥美清、芸名・車寅次郎であるかも知れない。そうして渥美清は田所康雄である自分を徹底的に秘匿した。その田所康雄を彼の句からうかがい見ようともしてみたが、見ることはかなわない。

 

 この本ではその彼の句を集め歩く経緯が語られ、彼が親しかった人たちを訪ね歩いて、その句について話を聞くことで、渥美清という人物の、寅さんとは違う側面を浮かび上がらせてくれる。

 

 彼が早くから親しかった早坂暁のシナリオで山頭火を演じる話がほとんど実現しかかったのに、渥美清は自ら降りてしまう。車寅次郎に殉じるためだろうと早坂暁はいうが、そこまで縛られていたのか。著者は義理を感じていたのだろうと見る。このドラマはフランキー堺によって実現化し、モンテカルロ国際テレビ祭の主演男優賞を受賞する。このドラマは私も観た。渥美清が演じたらどうだっただろうか。

 

いくつか句をあげる

 

  すだれ打つ夕立聞くや老いし猫

 

  夕べの台風どこにいたちょうちょ

 

  ひぐらしは坊さんの生まれかわりか

 

  いまの雨が落としたもみじ踏んで行く

 

  蒼き月案山子に命やどすよう

 

  案山子ふるえて風吹きぬける

 

まだまだ感じる句、そこから浮かび上がる自然や人生を思わせる句、は山のようにある。

2021年9月 6日 (月)

初秋の夏空

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風天

 気持ちがざわつくときには、山頭火の句集などを拾い読みして気を静めている。ただ、どうしても自然を見に行きたくなり、放浪したくなるのでいけない。新型コロナを恨む。山頭火に親しんでいて、ふと思い出したのは、たしか渥美清も俳句を作っていたことだ。亡くなったとき、NHKの渥美清追悼番組がいくつか作られた中に、彼の俳句を映像とともに伝えるものがあって、その句を好い句だなあと感心した記憶がある。

 

 そのあと小さな句集が出たらしいことは漏れ聞いていたが、わざわざ求めるほどのことはしなかった。思い立ってアマゾンで調べたら、何冊かある中で森英介『風天 渥美清のうた』(文春文庫)と言う本が手頃そうなので取り寄せた。

 

 風天はフーテンの寅のフーテンをもじった渥美清の俳号である。手に入れて間がないのでまた最初のほうだけしか読んでいないが、それぞれの句の背景も描かれていて、映画の写真もあり、読んでいて楽しい。

 

  お遍路が一列に行く虹の中   風天

 

焦りと不安

 居ても立ってもいられないような焦った気持ちが押し寄せてきて、どうにも身の置き所がない。何かしなければならないことが山のようにあるのに、何もできていないという心境だ。テストのまえに何も勉強しなかった気分か。いや、テストのまえだから何か勉強しなければ、と思いながら何もしないでいるというところだ。

 

 ではいったい何をしなければならないのだろうか、何がしたいのか、考えても何も思い浮かばない。もっと時間があると思っていたので先延ばしにしたことが、もうそれを片付ける時間がないのだ、と知らされたような絶望感があるのに、何をしていいのか分からないのだ。

 

 自分の持ち時間がどんどん減っていく。その恐怖感は、たぶん死に対する懼れから来ているのかも知れない。日々を有意義に充実させて生きようと思いながら、思えば無意味に、無駄に日々を過ごしていることに、突然気がついたのだ。しかし意味とは何だろうか。何かかたちが残せるような生き方が意味のあることなのだろうか。

 

 よく考えてみたら、何もしたいことがないこと、そのことが焦りと恐怖を呼んでいるらしい。働かずに食べられるといういまの境遇そのものが、幸せであると同時にもしかしたら不安をもたらしているのかも知れない。掃除や片付けでもして、身体を動かすことにしようか。したいことではなくて、しなければならない雑事をもう一度何も考えずに片付けることで、この不安を切り抜けることにしようと思う。

 

 テレビはあまりに多くの死を報じて、自分では死に麻痺しているつもりだったが、意外と不安は蓄積されているらしい。みんなはどうなのだろうか。

2021年9月 5日 (日)

映画ベストスリー

 ブログのテーマとして、自分の映画ベストスリーを上げてエントリーすると、ポイントがもらえるかも知れない。映画好きがひしめいている中で、コンテストになるなら選ばれる可能性はほとんどないが、自分なら何を選ぶかちょっとだけ考えてみた。

 

 映画好きなら、観た映画は百本や二百本どころではないだろう。私も軽く千本は超えているだろうと思う。そこから三本だけ選ぶなど不可能である。ためしにメモに書き出してみたら、たちまち五十本を超えてしまった。あえて無理やり選んだのは、『ネレトバの戦い』、『駅 STATION』、「ワイルド・バンチ』の三本。

 

『ネレトバの戦い』はユーゴスラビアのパルチザンの戦いを描いた戦争映画で、名優がたくさん出ている。王政復古軍とナチスドイツとの三つ巴の戦いで追い詰められ、チフスも蔓延して疲弊しきったパルチザンがどう戦い、虎口を脱したのか。そこには数多くの自己犠牲があった。長い映画でいささか陰鬱な映像が続くが、それがラストの陽光輝く草原のシーンで吹き飛ばされる。涙が次から次にあふれて止まらなかった記憶がある。シルバ・コシナという女優が忘れられない。この映画で、ユーゴスラビアという国の成り立ち、チトー大統領のカリスマ性について学んだ。チトー大統領が死んでユーゴスラビアはバラバラになった。そのことを考えるたびにこの映画を思い出す。

 

『駅 STATION』倉本聰脚本、降旗康男監督、高倉健主演の黄金トリオの映画で、同一主人公のオムニバス形式になっている。冒頭の駅頭でのいしだあゆみとの別れのシーンが素晴らしい。文句なしの私の日本映画ベストワンである。雄冬の冬の海の映像も忘れがたい。若い頃仕事で年に数回、行く度に十日前後道内を仕事で回った。十年あまり足を運んだから、五十回は行っただろう。地方もくまなく回ったから、思い入れがある。リタイアしてから、自分の車ごとフェリーに乗って北海道に久しぶりに渡り、冬ではなかったが、留萌、増毛、雄冬を車で訪ね歩いた。

 

『ワイルドバンチ』サム・ペキンパーの傑作西部劇。老年にさしかかったアウトローたちの末路を凄惨に、なおかつ美しく哀しく描いていた。ウイリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアンなどが人生最後の輝きを見せていた。この映画でアーネスト・ボーグナインが好きになった。途中のメキシコの村で一騒ぎしたあと、死地に赴く面々が木漏れ日の中をゆったり行くシーンに『ラ・ゴロンドリーナ』の歌が被さる。とてつもなく美しく切ないシーンだ。

 

 そのほかに候補として考えた映画の一部を羅列せずにはいられない。

 

『ナバロンの要塞』、『御用金』、『ウエストサイド・ストーリー』『シェーン』、『ジャワの東』、『ラムの大通り』、『ランボー』、『エクソシスト2』、『プレデター』、『ローマの休日』、『砂の器』、『シャイニング』、『マッドマックス2』、『ラスト・オブ・モヒカン』、『泥の川』、『バクダット・カフェ』『バクダット・カフェ』・・・、きりがないからここまでとする。洩れているものが多いはずだから、また考えたら全く違うリストになるかも知れない。

映画『テネット』2020年アメリカ・イギリス

 クリストファー・ノーランのつい最近の作品で、時間がテーマ。151分という長さを長く感じさせない。次から次に意表を突く展開があって気を抜く暇がないのだ。本音を言えば、話がよくわからない。見終わったあとになってもどうしてこんなことになったのかが理解できていない。また最初から観たら少しはわかるのだろうか。すぐにふたたび観る気にはならないから、しばらくして再度放映されたときにでも観ることにしよう。

 

 時間は一定に流れているように感じられているが、本当に一定に流れているのかどうかは、絶対的な時の流れというものを想定して比較しないと本当は確認できないことだ。早くなったり遅くなったり、はたまたときどき止まったり、逆行していたりしても、その時の流れの中にいたらわからないのである。「時間よ止まれ」のドラマのような、ある人にとっては進み、ある人にとっては止まるような時間というのは物理学的にあり得ない。時間は全てに平等である。

 

 この映画を観て考えたのは、時間が逆に流れている、と感じている主人公は、その逆に流れている時間の中にいるのか絶対的な時間の中にいるのか、ということだ。認識や記憶が時間の流れに沿って蓄積されるなら、時間が逆に流れているときの記憶は過去に向かって消滅して行きはしないか。また、時間が局部で逆行し、ほかでは定常に流れているなどということがあるとすると、因果の地平を生じてしまいはしないか。つまりその境目はどうなるというのだ。

 

 タイムパラドックスについて、その回避のための雑な言い訳はされていたけれど、納得のできるものではない。物語の試みとしてはおもしろいけれど、科学的に受け入れにくくて、それが理解の妨げになってしまったのだろうか。よくわからなかったけれど、そこそこおもしろいという不思議な映画だった。次回はもうチョイわかりやすい作品を期待したい。

眠りと対話

 涼しくなって寝付きが良くなったのはありがたいが、風呂を上がって一時間ほどになる八時過ぎにはまぶたが落ちてしまい、そのまま寝込んでしまう。早く寝すぎるから早く起きる道理で、四時前には起き出してごそごそしている。そういうときは夜中にトイレにも起きない。身体に従い、夏の疲れを取り、スムーズに秋モードに変更できれば、病気にはかかりにくいだろう。健康のバロメーターである快眠快食快便は、若いときのようにはなかなかそろいにくいから、ひとつでも順調ならけっこうなことだ。

 

 ビートたけしがTBSの敷地内で襲われたらしい。さいわい身体的な危害は受けなかったようだ。わざわざこんなニュースを取り上げたのは、このごろビートたけしの言っていることがほとんど聞き取れないなあ、と思っていたところだったからだ。耳が遠くなってきて、音量を上げてテレビを観ているが、音量を上げてもちっとも何を言っているのか分からない人、わかりにくい人がいる。その代表がビートたけしで、モコモコしてしまって言葉が頭の中で意味を結ばない。ほぼ同世代であるし、世界観は同じ基盤の上にあるから、本当なら断片が聞こえれば内容は推察できるはずなのに、それができないのはどうしてだろうか。それだけ想像を絶しているのだろう。

 

 ちゃんと聞こえていたときだって相手の言葉は八割くらいしか頭に届いていないのが普通で、たいていはそれを推察で補っているものだ。それにしたって相手の言っていることをどれほどちゃんと聞き取っているのか怪しいものである。それが半分くらいしか聞き取れなくなると、ずいぶん変な聞き取り方をすることがあって、あれっと思うが、続く言葉でようやく聞き間違いに気がつく。最近は似た言葉に聞き間違うのではなく、どうしてそんな風に聞こえたのか自分でも不思議な聞き取り方をしたりして可笑しく思う。

 

 やはり話というのは、こちらも言葉を発してやりとりすることで通じる度合いが高まるもののようで、一方的に聞いていることが多いから、こんなことになるのだろう、と自分に言い訳している。その点、読書は好い。繰り返し見直して確認できるので勘違いする度合いは少ない。それもある意味で対話なのだろう。それでも勘違いすることはあるけれど・・・。

2021年9月 4日 (土)

うらやましいだろう

 菅首相が次期総裁選に出馬しないことを明らかにしてから、政局は急転回しているように見える。マスコミは、功罪はどうであれ、変化を望むものだからいまは舞い上がって大騒ぎである。どうしてこんな事になったのか、もうしばらくしたらそれらしい説明が政治評論家からあるだろうが、菅首相の一度ならずの豹変がどうしても解せない。菅首相は意図せずになにかに誘導されていったように見える。

 

 ところで菅首相の総裁選不出馬は、海外でも話題になっているようだ。菅首相という日本の首相が、もともとどのように見えていたのか気になっていたのだが、いまさら知っても仕方がない。

 

 韓国の文在寅大統領はどう思っているのだろうか。韓国の大統領は一期しか務められないから、文在寅は来年大統領の任期が切れる。そのあと牢屋送りになる可能性は極めて高い。理由があろうとなかろうと、あることないことでっち上げられて牢屋へ行くのは韓国の大統領の定番の末路である。菅首相は首相でなくなったからといって、よほどのことがなければ牢屋に行くことはないだろう。

 

 文在寅は必死に保身を図っている最中である。無事に身を引ける菅さんがうらやましいだろう。韓国はことあるごとに日本と比較し、すでに日本を凌駕した、というのが最近の韓国のマスメディアの論調だが、文在寅だけはそう思っていないのではないか。

種がたくさん

 バジルは猛暑が苦手なようで、こまめに水をやり、肥料をやっても、暑い日が続いたとたんにぐったりしてしまった。盆の後半に雨が続いて、涼しくなったら元気は取り戻したのだが、その頃には身の危険を感じたのか、一斉に花が咲いた。子孫を残すためだと思う。その花が次々に種となり、種のある穂先を摘んで種を採ったら大量に採れた。まだ花は咲き続けているから、もっと採れるだろう。落ちた種からもすでに芽が出ているし、ベランダの排水溝に流れた種も芽を吹いている。

 

 しかしこんなに種がたくさんあってもしようがない。バジル畑を作るような場所がない。花咲かじいさんのように種をあちこちの庭などにばらまく、というのもひそかな楽しみかも知れないが、場合によって迷惑な可能性もあるから、考えるだけにしている。

 

 種というのはすごい生命力を秘めているらしい。先日新日本風土記の蕎麦がテーマの番組を観ていたら、百六十年以上まえの、天保時代の蕎麦の種から発芽したという。すでに二世もできているらしいし、蕎麦に打って食べることもできたようだ。

 

 何もする気がしない。それは涼しくなって、身体がそれに慣れるために待機モードになっているからのようだ。ぼんやりしていると放浪の虫が動き出す。北関東の定宿から、季節の特別メニューや近郊の見所の案内がメールされてきた。すぐにでも行きたいところだが、そちらへ行けば友人のところに声をかけないわけにも行かず、声をかければ飲みに出ることになり、酩酊すれば油断して新型コロナに対する備えがおろそかになることが目に見えている。まだ気を緩められる状態ではない。歓談するのはもう少し先にすべきだろう。

 

 しからば、だれにも会わない山陰にでも行ってみようか、などと夢を見ているが、もうちょっとだけ辛抱することにする。丹後半島あたりまで行って日帰りで引き返そうかなあ。

映画『メメント』2000年アメリカ

 鬼才クリストファー・ノーランの作品。傷害により、記憶が10分間しか保たない男(ガイ・ピアース)が主人公という設定で、テーマは記憶と時間であると私は受け取った。実は昨年公開された『テネット』というクリストファー・ノーランの新作公開の前にこの映画もWOWOWで放映されたので先に観ることにしたのだ。『テネット』は時間を逆転させるという手法で時間の意味を考えさせるものかと想像している。その断片がこの『メメント』にあるのではないか。

 

 時系列に沿って生じた(と思われる)物語を短く裁断して、現在から過去にひとつずつつなぎ合わせた映画、という仕立てになっているが、本当に時系列に沿っているのかどうかは、あいまいである。10分しか記憶が持てないこの男は、記憶をとどめるためにメモ用紙にメモし、考えた大事なことは身体にメモし、場所や人物はポラロイドで写真に撮り、さらに特に重要と思うことは刺青にして残していく。

 

 彼は目覚めるたびにメモを元に記憶を再構築しなければならない。彼は妻を強姦殺人した犯人を追っているのだ。行動するごとにあらたな事実が書き加えられ、メモを元に作ったファイルは膨大になっていく。映画での最初は現在である。その現在の自分を再構築し、それをもとに行動をするが、観客には何でそう行動するのかわからない。そして次にその現在を少し遡った時点の映像が提示される。それでひとつわかっても、さらにわからないことが生じてくる。そうして次々に過去に遡ることで彼の行動の経緯が明らかになっていく。

 

 観客はそれらが全てクリアになり、犯人を突き止め、事件が終わることを期待するが・・・。

 

 彼の記憶の構築は、メモを元にした彼の物語である。その物語と事実との違いが、次第に乖離していることに彼自身は気がついていないことを気付かされ、彼自身が生み出す物語そのものを前提に観ていた観客はとんでもないところに放り出される。彼はどんな物語を生み出し続けているのか。ラストの不条理の世界に踏み込む彼の姿が記憶に残りそうだ。

 記憶とは、畢竟、自らが紡ぎ出した物語なのか。

 次は『テネット』を観ようかと思う。

2021年9月 3日 (金)

嬉しくないのだろう

 野党、立憲民主党や共産党の、菅首相の総裁選不出馬に対してのコメントは、相変わらずの罵倒に近いような言い方で、リスペクトのかけらも感じられない。やめろやめろといっておいて、いざやめることがはっきりしたら、やめるのは無責任だと非難する。よくやめてくれたとなぜいわぬ。

 

 ある野党議員の言葉として伝わっているのは、総裁選に菅総理が当選するのが野党にとって最も望ましい、ということだった。闘いやすいし、非難しやすいし、いわれっぱなしで反撃らしい反撃もないからであるからだという。それなら菅首相が替わってしまうことは残念であるだろう、嬉しくないのだろう。だから「なぜやめるのだ」と怒っているのかも知れない。

 先般、菅首相のスイッチが入って眼に力がこもった、と評価した。それは二階氏との密約があった上の、この事態をすでに覚悟してのことだったのだろうか。そうとは思えないのである。それならなにがあったのか。

 

何がフェイクか

 先月末にまず下村政調会長が菅首相に呼ばれ、そのあと二階幹事長が呼ばれて会談した前後に、政局は混沌とし始めた。何より不可解なのは、まず政権からのリークということで、九月解散、総裁選の先送り、という話が一部メディアによって報道されたことだ。しかしすぐ翌日には、それらは菅首相自身によって全面的に否定されている。

 

 あるメディアは菅首相が意図的にリークさせた情報だが、あまりの内外の反発に驚いて、それらを撤回したのだと報じていた。語るに落ちた説明で、それでは菅首相をあまりにバカにしているように思われる。ところがそれがその後もそれを前提に語られているのはなぜなのか、よくわからない。

 

 私には、それが二階氏の最後っ屁のような情報操作だったのではないかと思えるが、憶測であって根拠はない。

 

 とにかく菅首相擁護の論調はあまり聞かれない。私も菅首相には不満はあるが、ここまで一方的に悪者に仕立て上げようとする風潮に、へそ曲がりの虫が動き出していささか反発を感じる。こういうマスコミのある意図的な偏った報道と、それに同調するかのような思惑だらけの議員達の動きを見ていると、情けない思いがしている。

 

 いまどういうときなのかわかっているのだろうか。野党は国会を開け、という。国会を開けばまたモリカケ桜で騒ぐだけだろうな、と国民は見放しているが、与党があまりにお粗末な迷走を続ければ、無責任な人たちが雪崩を打って与党否定の票を投じることにつながる可能性がある。

 

 マスコミは変化を求める。騒ぎを求める。そういう存在である。そういう騒ぎを巧みに呼び出すように演出している者がいるのかいないのか。もしいたら手を叩いて大笑いしているだろうなあ。

 何かがおかしい気がしている。

 ついいましがた、菅総理は総裁選には出馬しない、という速報が入った。これはフェイクではないらしい。これはまえにも書いたが、二階氏幹事長辞退との交換条件だったのかも知れない。

映画『ブルータル・ジャスティス』2018年カナダ・イギリス・アメリカ

 最初、メル・ギブソンだとは気がつかなかった。この映画を録画したのは、メル・ギブソンが主演しているからだったのをあとで思い出した。とにかく長い(159分)映画なので、時間と気持ちのゆとりのあるときしか観られない。それがあるわけではなかったが、早く片付けたくて観た。

 

 私がこの映画を観て受けた印象は、『リーサル・ウエポン』の、破滅型のリッグス刑事(メル・ギブスン)が老年まで刑事をした果ての姿だった(物語はもちろん違うものである)。次々に事件を解決をして功績を重ねながら、その捜査方法が法に抵触しているという理由で繰り返し処分を受けることになり、ついに平の刑事のまま老年を迎えた刑事である。結婚して娘がいるのに家賃の安い治安の悪い場所に暮らすしかない。妻は元警官だったらしいが、難病で働けず、娘は年頃になって、近所の若者から嫌がらせを何度も受けている。

 

 今度も麻薬の売人を逮捕し、自宅から大金を押収したのに、その逮捕のさいに暴力を振るったとして、若い相棒とともに六週間の無給停職処分を受けてしまう。彼は自分自身に追い詰められている。彼を頼る家族にこたえるすべがない。ついに彼が決断したことは、犯罪の上前をはねることだった。

 

 映画ではさまざまな人の行動が断片的に描かれていき、登場人物達の性格や生活の背景が描かれ(これに時間がかかるので長い映画となったのだ)、やがて事件に収斂していく。刑事が渋る相棒を説得しながら二人で追った男たちが実行したのは、銀行強盗だった。しかも情け容赦のない凄腕がそろっている。

 

 そしてその強盗たちが隠れ家に着いたのを見届けたとき、その強盗たちの中にも諍いが起きていた。それから事態は凄惨な様相を呈していき・・・。

 

 期待していたような結末だったかどうか、観る人によって違うだろう。長い映画なりの重さがあって、冗漫とは感じなかった。

2021年9月 2日 (木)

映画『サイレント・トーキョー』2020年日本

 この映画は、テレビで予告を見た記憶がある。期待して観たのだが、期待外れだった。おもしろくなかったというわけではないが、犯人の動機が、私にはいまひとつ納得できなかったのだ。どうして無差別爆弾事件を起こすのか、そこに多少なりともなるほどという理屈が付かないと、ただの狂人の犯罪になってしまう。最後に明らかになる犯人はどう見ても狂人とはほど遠い。

 

 佐藤浩市、石田ゆり子、西島秀俊が出演していて、爆弾事件となると佐藤浩市はべつにして、『MOZU』のシリーズを思い出してしまうし、実際に似たように見えてしまう重要なシーンもあった。

 

 いくつか矛盾と感じられる部分も見られる。たぶん原作の秦建日子の小説ならそのへんはもう少し説明があるかも知れないが、映画だけでは私にはつながらなかった。繰り返すが、動機らしきものの説明が弱すぎて、爆弾事件を起こすほどの怒りが伝わらない。戦争に反対するから戦争を起こそうというのでは、どう考えてもおかしいではないか。

 

 一部の若者のバカさ加減だけはまことに良く描かれていた。彼らに対する怒り、ということなら私も一票投じるかも知れない。

映画『霧の中の少女』2017年イタリア

 まるで女性向けの映画の題名のようだが、少しややこしい展開のミステリー映画である。冒頭、霧の夜、少女が信仰の会に参加するために家を出るシーンから始まり、少女がそのあと失踪したことがわかる。

 

 次のシーンでは、深夜、枕元の携帯の音に起こされた男が霧の中、呼び出されて出て行く。深夜に緊急だといわれて出かける男の仕事といえば、警察か、または医者だろうなあと思いながら観ていると、車で着いた先の様子から病院であることがわかり、男が医師であることがわかってくる。精神科医であるこの男(ジャン・レノ)はこのあと収容されたある男との面談を行い、ここからこの山間部の小さな街で起きた事件の話が遡って描かれていく。描かれているのがどの時点の話なのかが、話を理解するのに重要な点なのだが、それが明確に示されずに映画は進んでいくので頭を使う。冒頭の霧の中の少女のシーンと、医師が起こされて出かけるシーンは、事件全体の最初と最後なのだが、霧の中でのシーンのためにつながっているように錯覚するように作られている。このくらいは種明かしをしても問題ないだろう。

 

 収容された男は、実は都市部から少女の誘拐事件の捜査のためにやってきた有名な警部であった。そしてこの警部が登場してから事件の解明のためにどのような捜査が行われたのか説明されていくが、この警部の捜査は独特で、マスコミを利用して事件を騒ぎに仕立て上げてその中に浮かび上がる兆候を読み取っていくというものである。とうぜんそのためにさまざまに迷惑を被る人びとが出てくる。被害者の家族だろうが容赦しない。そのために有罪と見られた男が有能な弁護士によって無罪になった連続爆弾魔の事件の例もあり、そのことでも有名な警部だった。

 

 いかにも犯人とおぼしき高校の教師が容疑者として浮かび上がるが、有力な証拠はない。いつもの手法でその容疑者を追い詰めていき、この教師の家族は崩壊していく。そうしてほとんど絶対と思われる証拠が見つかって、この教師は逮捕され、事件は解決したかのように思われたのだが・・・。

 

 やがて全てが巧妙に仕組まれたものであることがわかるのだが、その標的は実はこの警部であったことが明らかになり、様相は激変する。

 

 ここに過去の連続殺人の情報がもたらされる。その手法は今回の少女失踪と酷似し、少女の特徴も一致することが明らかになって、事件は振り出しに戻ったかのように見える。はたして真犯人はだれなのか。死んだとしか思われない少女の遺体はいまだに見つからない。

 

 最後に医師と警部との会話のシーンに戻ったとき、警部がなぜ病院に収容されたのかが明らかになる。警部の推理は真実か妄想か。精神科医役のジャン・レノは冒頭とつながるこのシーンとこのあとだけに登場する。最後に自宅に戻った医師の行動、そしてベッドに寝ている女性らしき姿が何を暗示しているのか、いろいろな推理を呼んで、謎がさらに深まって映画は終わる。

権力者のジレンマ

 強い権力を持ってしまうと権力者がそれを失うのを懼れるのは、その権力を持つことで得られる喜びを失うからだと見られることが多い。権力は魅力的に見えるからだろう。

 

 しかし私など権力志向がまるでないから、どうして権力が魅力的なのかちっともわからない。それよりもいったん握った権力を失ったとき、中傷誹謗の嵐にさらされたり、それどころか身に危険が及ぶこともあることを歴史を知ることで散々見てきた。

 

 強い権力を持つほど権力行使を強化させ、敵対者を排除粛清し、批判的な行動を規制するのは、権力維持のためであるけれど、実は権力を失うことへの恐怖の裏返しだ、などと私には見えてしまう。

 

 秦の始皇帝だって、そうだと思う。懼れの強い人間ほど言論統制(焚書坑儒など)をして、敵対者の排除に狂奔する。スターリン然り、毛沢東然り。二人とも恐怖に震えながら、最後までその権力を維持したのは当人には幸甚だった。

 

 いま習近平は、その毛沢東のように死ぬまでなんとか権力を維持したいと心から願っている。もう身を引くという選択肢がないほどの場所に来てしまったからだ。これから自らをますます神格化させ、言論統制し、国民の力をとことん殺いでいくことに心を砕くだろう。タリバンにすり寄るのも、タリバンを通じてテロ組織が新疆ウイグルで争乱を起こすことをコントロールしたいからだと思う。

 

 さてもうひとつのお隣の国、韓国で言論統制法ともいうべき法案が提出され、強行採決による可決寸前で保留にされている。いま最も権力を失うことを懼れる人である文在寅は、憲法の規定により延命を図ることができない。異常なほどの権力集中を許す韓国の大統領制度は、その権力の強さのゆえにそれを失ったときにそのツケを払わざるを得ないというジレンマを抱えているようだ。自分への批判をとことん排除するために、とれる手立てをなりふり構わずにとろうとしている文在寅は、しかし保守政権が誕生したときに、その言論統制法が、自らに突き刺さることに思いが及ばない。うろたえている姿は惨めとしかいいようがない。韓国の国民にはどう映っているのだろうか。

2021年9月 1日 (水)

龍神湖・大町ダム展望台

木崎湖から国道148号線へ戻り南下する。少し行って左折して県道45号線を行けば、この道は大町アルペンラインと呼ばれる道で、扇沢で一般車は通行止め。トロリーバスに乗り換えれば黒四ダムに行くことができる。行ってみたい気もしたし、時間もないことはないが、今度あらためてゆっくり来ることにしようと思う。たくさんの人が乗り込む乗り物は、いまは避けたい。というわけで左折せず、もう少し先まで進んで、県道326号線を左折した。これは大町ダムへ向かう道で、三桁の県道なら険路かも知れないと思ったが、センターラインのある立派な道で、走りやすい。展望台があるのでそこを目指したのだ。

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龍神湖は大町ダムの堰止め湖。不思議な色合いをしている。

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龍神湖は地元に伝わる『犀龍と泉小太郎』という民話に由来している、と看板にある。あの松谷みよ子の児童文学『竜の子太郎』と関連しているのだろうか。詳しいことは知らない。

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水の色が独特である。

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アップしてみると水の色が独特で不思議な色に濁っている。アップしてみると水の色が独特で、不思議な色に濁っている。

 

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ダムから流れ出た水の色もそのままの色である。この川は高瀬川といい、このあと大町まで戻ってから県道306号線をこの高瀬川沿いに南下したが、この水の色がずっと続いていた。

見学はこの龍神湖が最後だったが、安曇野で蕎麦でも食べて帰ろうと思って、安曇野松川の道の駅の蕎麦がいけると聞いていたので立ち寄った。ざる蕎麦大盛り900円は安くないが、ちゃんと二枚あり、蕎麦は美味いし、つけ汁は鰹だしのよくきいた好みの味で、満足だった。ここから松本の友人のところには立ち寄らず、安曇野インターから一気に帰宅した。

ながながと旅の報告にお付き合いいただいてありがとう御座いました。

ニュース雑感

 目に付いたニュースに感じたことを書き残しておく。

 

 愛知県常滑市で開催された野外フェスティバルで、愛知県や常滑市は、再三新型コロナ感染対策に万全を期すことを申し入れしていたが、ほとんどその申し入れが無視された。いまさら怒って見せたところでそれこそあとの祭りだが、主催者側の高をくくった態度は、釈明に如実に表れている。酒を飲みマスクなしで密集していたその姿は感染対策の申し入れを無視したとしか思えない。ここに集まった若者達が、これから十日後くらいに大集団クラスターを発生させるおそれがあるけれど、もし発生したなら、同情するよりざまを見ろ、と思う人が大半だろう。

 

 菅首相と二階幹事長が会談して、二階氏が幹事長の座を降りることが決まったようだ。一部の報道に、菅首相は次の総裁選挙に出ない、などという憶測記事があった。これは二階氏が首相と差し違え(俺も引くからお前も引け)を狙ったという図を想像したのだろう。しかし今のところ菅首相はスイッチが入って意気軒昂らしい。はたしてどうなるのだろうか。自分の言葉でしゃべり出す菅氏を見てみたい気もする。

 

 中国のワクチン外交が頓挫しつつあり、東南アジアでは中国に反発の動きが出ているという。中国のワクチンの効果が期待外れであることが理由だという。アメリカからの小森記者から発信なので、アメリカがそう見ているということだろう。たしかに中国のワクチンは本体のウイルスを弱毒化したものが配布されていて、それがデルタ株の弱毒化のものではないとすると、効果が格段に落ちるだろうことは想像される。インフルエンザでも型が違うと効果がないのと同じだ。しかしそれにしても不思議なのは、中国では新型コロナ感染が押さえ込まれていることだ。何かから繰りがあるのか、遅れて大発生するのか。

 

 中国では思想教育という名の習近平の神格化が進められている。あわせて塾などの規制が行われ、宿題も制限されて強力にゆとり教育が実施されることになるらしい。あまり賢くなるな、国民は適度に愚かで、共産党の言いなりになるような人間になれ、ということらしい。ところで、通信ゲームの規制もされるそうで、週末の土日祝日のみ一時間だけ許されるのだというが本当だろうか。ゲー依存症は激減するかも知れないが、中国はeスポーツが弱くなるだろう。子供の数を規制したりする国だから、規制できないものまで規制してみせて、国民をロボット化したいのだろう。第二文化大革命がすでに始まったようだ。

 

 東京都の新型コロナ感染者がピークアウトしたかもような兆候を見せている。盆休み中とそのあと、大雨が続いてあまり出歩く人がいない時期があった。その時期に人的交流が少なかったことの反映だと私は見ている。ピークアウトした、などと喜んで気を抜くと、次にさらなる大量感染者が出るかも知れない。まだの人は早くワクチン接種をして難を逃れることだ。賢い若者はそれを察しているから、行列に並んでもで受けに来る。常滑市の野外フェスティバルに行く若者とは違うのだ。

仁科三湖(2)

青木湖の西側をキャンプ場から少し南下して、国道148号線に戻らずにそのまま走るとすぐ中綱湖に到る。

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大糸線がすぐ横を走っていて、小さな駅の駐車場に車を停めて湖を見に行く。

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湖の細くなったところに橋が架かっていて、その橋の上から写真を撮る。下に見えるのは睡蓮のようだ。

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ここは釣りができるようで、釣り道具をもった人が私の前を歩いていた。遠くに見えるのは釣りをしている人だろうか。何が釣れるかわからない。この中綱湖は列車の車窓から眺めたことしかなかった。今回全体の様子がわかった。

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橋のたもとに栗の木が実をみのらせていた。まだ採るには早そうだ。

国道148号線に一度出て、少し離れた木崎湖へ向かう。

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木崎湖の湖畔を走り、この別荘らしき建物の前に車を停める。傷んではいないが、周辺は雑草に覆われていて手入れをしている様子がない。しばらく使われていないようだ。

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空を見上げるとパラグライダーがぐるぐる回りながら降りてくるのが見えた。

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モーターボートが湖面を走る。よく見たら水上スキーをしている。

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