いいお年をお迎えください
今年があまりいい年ではなかった人は来年こそいい年でありますように。
今年が可でも不可でもなかった人は来年はいい年でありますように。
今年いいことのあった人は来年はもっといい年でありますように。
今年一年ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
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今年があまりいい年ではなかった人は来年こそいい年でありますように。
今年が可でも不可でもなかった人は来年はいい年でありますように。
今年いいことのあった人は来年はもっといい年でありますように。
今年一年ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
暮れから正月にかけてのテレビ番組は、私にとって軒並みおもしろいものがない。むかしはお笑い番組を笑うことが出来たけれど、いまのお笑いはめったに可笑しいと思えなくなった。それはお笑いの芸人の問題なのか私の問題なのか。たぶん私なのだろう。
ニュース関連の番組をあちこち眺めるのがふだんの日々だが、そのニュースもほとんどお休みである。各局ごとに趣向を凝らして休日を楽しむ人たちのための番組を列べているのかも知れないが、どう見てもやっつけ番組、番組表を埋めるためだけのように見えてしまう。私には放送がないのと同じである。
おかげで音楽を聴きながら本などを眺める時間がとれる。アリス=沙羅・オットのピアノ曲、特に好きなのは『ナイトフォール』という静かな曲が多いアルバムだ。読書の邪魔にならない。本に飽きれば録りためた映画を観る。忙中閑あり、といいたいところだが、閑中の閑である。
大晦日の紅白は観ない。これは最近のことではなくて、高校生時代からこの年末の恒例番組は観ないと決めて励行している。
ようやく床の上の本や雑誌が片付いた。
夢のなかで空足を踏んだ気がしたとたん、右腿がつりかけた。腿の筋肉がつるととても痛い。あわてて起きて薬を飲む。普通は飲んだらたちまち引くはずなのに、しばらくつりかけの状態が続く。時計を見ると四時前である。そのまま起きてぼんやりした。ベランダの窓が風で音を立てている。外を見たが雪はチラついていない。
しばらく雑誌などを眺めて五時過ぎに外を見ると、窓に雪が吹き付けている。前回の寒波の時は風が止まってから雪が降ったが、今回は風にともなう雪だ。朝には止む予報なので、今回は積もるほどのことはないだろう。
一昨日と昨日でほとんどの買い物は済ませてあるが、買い残しもある。朝の内に買うつもりのものもあるので、足元が心配だ。スーパーの正月休みはどうなっているのだろう。確認するのを忘れていた。それでもたぶん二日には開くのではないか。それなら別に買い込むこともないのだが。
しばらくしてから外を見たら雪は止んでいた。
久しぶりに薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の『茶話』からちょっと毒気の強い文章を。
滋賀の森正隆知事は、これまでの近江百景が、新時代の風景としては規模が小さすぎるからといって、新しく一般投票で新時代の八景を募集したということだ。飲んだくれの村長や、やくざな衆議院議員を拵えるために設けられた投票を、景色の選択にまで持って来たのは知事の思いつきで、投票人に納税価額の制限をつけないで、一般投票としたのは、新時代の知事として、森氏の規模の小さくないところかも知れない。
名古屋に近江八景の見物を年頃の志願にしている団体がある。旅費と閑暇(ひま)とはかなり持ち合わせている人達のこととて、それぞれの名所を言い伝えの文句通りに見物しようというのだ。石山には名月の夜わざわざ訪ねていった。月は県知事のようにぽかんとした顔をして空をうろついていた。比良に雪が降ったという記事を新聞で見て、あわてて汽車で駈けつけてみると、山には瘡蓋(かさぶた)のような雪がちょっぴり残っていた。名古屋生まれの見物衆は、
「まるで画のようやなも」
と言って喜んだ。
勢田では風邪でも引き込んでいるらしい血走った目をした夕陽を見た。矢走(やばせ)では破けた帆かけ船を見た。三井(みい)寺では汽車の都合があるからといって、わざわざ頼んで十五分ほど早めに時の鐘をついて貰った。鐘は鉄面皮にもいつもよりは大きい声で、喚くように鳴った。困ったのは堅田の落雁で、幾度行ってみても雁はそこらに見えなかった。雁はこの人たちのように有り余るほどな旅費と閑暇とを持ち合わさなかったのだ。ところが、ちょうど折よく鴉が三羽そこを通り合わせた。皆は、雁の代わりに鴉で辛抱することにした。女房を辛抱することの出来る人達が、雁のかわりを鴉で間に合わせないという法は無かった。
一番困ったのは唐崎の夜の雨だった。名古屋を雨の日に立つと唐崎の夜はいつも霽(は)れていた。思い立って、やっと三年目に初めて雨の夜に出くわすことが出来た。皆は松の下でぐしょ濡れになりながら、
「よろしなあ、まるで画のようやなも」
といって喜び合った。ところがその後になって、妙なことを聞き出してきた者があった。それは唐崎の夜雨というのは、夜更けて松の葉のこぼれるのが雨の音に似ているからのことで、何も雨に濡れなくともいいのだということなのだ。皆は変な顔をして、今一度唐崎へ行ったものか、どうかということを決めかねていた。
新しい近江八景を選ぶのもいいが、どこかにひとつずつ雁や雨やを配(あしら)って欲しいものだ。
これは大正六年に書かれたもの。旧仮名遣いと一部の漢字を直してあります。
子供のときには漬け物があまり好きではなかった。たくあんと瓜の漬け物だけは好んで食べたが、なければないで欲しいと思わなかった。大人になってもわざわざ漬け物を買うことはめったになく、この数年ようやく白菜の漬け物をときどき買うようになったくらいだ。
それが先月くらいから漬け物に目ざめて、浅漬けばかりではあるが、いろいろな漬け物を試しに作るようになった。今はほとんど食卓に欠かすことはない。定番は白菜漬け、そして小松菜の野沢菜風である。作るのは簡単であるが、不思議なことに作るたびに味が違う。そのことがおもしろい。塩加減、野菜の葉と茎の上下や重ね方、鷹の爪の本数、塩麹を加えるか加えないかで水の上がり方もまるでちがう。スムーズに水の上がるときはたいてい美味しい。漬かりすぎて酸っぱくなったときのおいしさもわかるようになった。
塩分の取り過ぎで血圧が上がるかと心配したが、却って血圧は低いままである。便通も多少安定するようになった。発酵食品を常食するのは腸によいのだろう。年齢による好みの変化かも知れないが、作る手間が全く苦にならないのは好きなしるしで、続きそうだ。白菜が手にはいりにくくなる春からは何を漬けようか。キャベツを漬けてみたがあまり美味しくなかった。漬け瓜があるといいなあ。今のところぬか漬けまでするつもりはない。
お釈迦様が苦行して悟りを開いたとき、神様(もちろんキリスト教の神様ではない)がそれを言祝(ことほ)いで、その悟りを衆生に伝えて欲しいと頼んだが、お釈迦様はそれを断った。衆生に伝えるためにはことばでそれを伝えるしかないが、ことばにはその悟りを伝える力はないことを知っていたからである。それでもあえての懇望にこたえて、お釈迦様は衆生に教え諭した。
仏教には経典が山ほどあるが、お釈迦様が書いたものはひとつもない。聖書にもイエス・キリストが書いたものは何もない。ことばの限界を釈迦もキリストもよく承知していた。
経典の翻訳などを読むと、AはAであるといったすぐあとに、AはAではないと書いてある。そういうことばの繰り返しである。矛盾したことばの繰り返しのなかに何を読み取ればいいのか。自分自身が思い込んでいる世界の否定から始まる世界を受け入れることで何がわかるのか。般若心経の『色即是空』、『空即是色』にしても、その本質的な意味を理解しようとすれば、自分の認識世界そのものを根底から見直さなけれはならないではないか。
わたしのものの考え方の原点を形成するのにお世話になったのは、哲学の詩人と呼ばれるデンマークの実存哲学者キルケゴールと、森本哲郎である。キルケゴールには世界は関係であると『死にいたる病』という文章の数ページを暗記するほど読んで教えられた。いまだに『死にいたる病』を完読していない。そして森本哲郎には、人と人とはちがう、ということを教えてもらった。森本哲郎がそういうことを伝えたかっかどうか知らないが、私がそう受け取ったということである。それが伝わるということだと思う。それぞれあたりまえのことをいっているのだけれど、あたりまえのことを知る、ということにはレベルがあるのだということを悟らせてくれた。
知ること、識ること、理解すること、悟ること。その階梯には無数の段階、つまりレベルがある。お釈迦様が何を悟ったかわからないけれど、悟るということがどういうことか、チラリと覗くことが出来た気がしている。
なんだか同じようなことを繰り返し書いてきたた気がするが、一番人に伝えたいことでもあるから書いてしまう。考えてもしようのないことを考えるのが好きなので、ことばで書けば伝わらないことはわかっているのだけれどまたここに書いてしまった。
近くのスーパーで正月用の買い物をした。おせちは今年用意しないつもり(誰も来ない)だが、それでもそれなりの正月らしい食べ物は準備したい。それと酒も二種類ほど買ったら、合わせて一万円近くになった。まだ魚類は買っていない。やはり正月は金がかかる。魚と買い残しについては明日か明後日に買い出しするつもりだ。ものがあればそれで飲み食いが出来るわけで、しばらくは金がかからないから、ぜいたくというほどでもない。
息子からメールで年末の挨拶があった。帰省しようか迷ったが、やめることにしたという。嫁さんは銀行勤めで、二人とも会社から出来れば出歩かないよう求められていると聞いていたから、それでかまわない。顔を見て話したいからLINEをしてくれよといわれている。弟からもそういわれている。
LINEが韓国系で、中国ともつながっていることは当初から承知していて、個人情報がダダ漏れのおそれありであると考えていたから、私はLINEをしない。しかし機嫌良く使っている人にわざわざやめろというつもりもないから、ただ使い方がよくわからないから使わないとだけ答えていた。しかし注意して使えば顔を見て会話が出来ることは魅力的だ。やろうかなあ。
現役時代の後輩から年末の挨拶の電話をもらって、ちょっと長話をしてしまった。彼はまだ現役である。今日から休みだそうで、互いの消息や知人の消息を交換した。私のブログも見てくれているので、その話もする。ありがたいことだ。本当は会いたいところだが、当分は電話で話すだけで我慢しなければならない。いつ会えるようになるのだろう。
大掃除がほとんど進まない。やり始めれば少しずつ片付くはずだが、炬燵のお守りしたままで何もしなければ片付くはずはない。計画だけ立ててぼんやりしている。あと二日かあ。
文化審議会が佐渡金山を世界文化遺産として推薦したそうだ。政府は申請を検討することになるという。するとさっそく韓国から佐渡金山は朝鮮人が強制労働させられた場所だという声が上がっているという。声を上げているのは韓国政府なのかマスコミなのか国民なのかまだよくわからないが、マスコミが煽り立てれば政府も国民も合唱する国だからクレームの出発点を区別しても意味はないかも知れない。
佐渡金山で強制労働があったのかどうか知らないが、その地下での仕事が過酷であったことは事実だろう。江戸時代は無宿人などが強制労働させられていたことはよく知られている。戦前戦時中でもかなり機械化されていたとはいえ過酷であっただったろうが、それが強制されていたかどうかが問題で、仕事がきつかったから犯罪行為だと言い立てるのは決めつけが過ぎる気がする。
韓国の場合、強制の事実があっはずだと決めつけた上での言いがかりにしか聞こえないことが多く、論争になりようがない。韓国が断定したものは彼らにとってすでに事実になってしまうことはいままでに繰り返し見せられてきたことだ。
世界遺産とはなんなのだろうと思ってしまう。佐渡では、随分前から佐渡金山の世界遺産への申請を願ってきたようだが、その目的はなんだろうか。世界遺産に認定されると観光が盛んになり、人がたくさん来るから地元が潤うだろうというのがもくろみであるだろう。
認定する側は、世界遺産に認定することで失われかねない人類の遺産を残そうというのが建前であるだろう。もくろみと建前にずいぶん乖離があるような気がするが、根底には経済原理が優先して働いているような気がしてならない。推薦することを生業(なりわい)にしている人たちがいるということだ。ことあるごとに日本にクレームをつけている韓国の人たちもそれを生業にしているのではないか。
きれいごとを言っても、みんな商売なら、胡散臭く見えてきてしまう。その裏話があったとしてもあまり知りたいとは思わない。
年末になるとこどもの頃の餅つきのことを思い出す。以前にも書いたことがあるかも知れない。私の母方の祖母の実家が同じ街内にあり、古くからの大きな麹(こうじ)屋で、少し大きな屋敷で、田畑もあり、米も扱い麹も売り、自家製の味噌も売っていた。屋敷の奥から続く裏山に麹を発酵させる室(むろ)があった。主人夫婦はともに私の母の従兄弟だった。しかし互いは血のつながりがない。婿は私の祖父が自分の実家から世話して娶せた。母にとっては自分の母方の従兄妹と父方の従兄弟が夫婦になっているのだ。
祖母の姪にあたり、婿を取った人にはあとを継ぐべき父親がいたのだが道楽者で、香具師のような仕事に走って家を傾け、親に勘当された。その親というのは、私には曾祖父にあたる。曾祖父は百歳まで生き、曾祖母はたしか九十近くまで生きたから長命であった。私が初めて人の死を目にしたのはこの曾祖母の死のときだ。小学校二年生だった。
そこには私と同い年の娘がいた。はとこにあたる。小学校のときには同級生になったこともある。弟もいたからこどもの頃はよく遊びに行った。暮れになると商売で餅つきをした。大きな五右衛門風呂のような釜で餅米を蒸し、それをスコップですくって箕(み)に移して運ぶ。何百軒分もの餅をつくので、臼でつくわけにはいかない。機械でつくのである。蒸した餅米を放り込むと、うねうねと餅が出てくる。それを一升分ずつ板でのしたり、鏡餅を作ったりする。一家眷属総出で作業する。三十人ほどもいただろうか。
のし餅だから角餅になる。あとでひびが入らないように、しわにならないように均一の厚さにのすのはそれなりの熟練が必要で、私は大学生くらいまで毎年手伝いをしていたから、たぶんいまその仕事を任されてもプロとして作業できる自信がある。とにかく熱い。打ち粉が熱でパリパリの皮になって手のひらに張り付くほどだ。座敷中にのされた餅が拡げられる様は壮観である。
その作業のときには勘当された祖母の弟の家族もやってくる。年に一度だけ会う親類だった。その作業は年末のたしか26日の夜から27日の明け方にかけてだった。徹夜で作業する。餅は末広がりの28日に配るのが習わしで、それに合わせるのである。つきたて餅餅は柔らかすぎて運べない。
まだ暗いなかを我が家に帰る。徹夜などしたことがないこどもの頃であっても、眠くならないのが不思議だ。充実した疲れのようなものが妙に気持ちがよかった。自分が役割を担ったといううれしさがあったのだろう。
NHKBSPで古い西部劇を放送するとつい録画してしまう。あまり聞いたことのない小品でもそれなりに楽しめるからだ。西部劇では命が軽く扱われる。簡単に人が死に、そのことを登場人物たちは身内の死ですらあまり重く考えたりしない。そういう時代だったのだろう。
しかしそんな時代でも命を賭けるということは大変なことだったはずだし、それでも全てを投げ捨てるのは、だいじなものを失いたくないからだと西部劇は教えてくれる。それは矜持というものだ。
いまの時代は価値基準がほとんど損得といっていい。本当にそれでいいのかとその価値観に毒された私でも西部劇で考えさせられる。今日観た『フォートノックスの決闘』という映画でも、上昇志向の強い男が、功成り名遂げ、上り詰める直前で、全てを失うことを覚悟して自らの矜持を示す。めったにないからこそ、それが人の感動を呼ぶのだろう。
食べ物の好き嫌いはほとんどない。たいてい何を食べても美味いと思えるから、自分で作ったいいかげんなものでも満足できている。ごく希に外食して、料理人はこれを自分で食べたことがあるのだろうか、と首を傾げたくなるものに出会うことがあるが、それは目の前のものが不味いということで、その料理そのものが嫌いなわけではない。苦手なものがなかったわけではない。バナナ、トマト、生牡蠣、ホヤなどは何度か挑戦して食べられるようになった。食べられるようになったというよりも障壁を乗り越えたことで却って好きにさえなった。
それでもどうしても食べたくないし、食べることを想像しただけで気持ちが悪くなるものがある。ベビーボーロとところてんである。おかしなものが嫌いだと思われるかも知れないが、食べなくても生活に支障がないので「嫌い」の壁を乗り越えようとは思わない。普通の人が美味しく食べられるものなのだから、それが食べられないのは何か私独自の経験による心理的な要因があるのだと思っている。
人についても、まず相手を認めてからどうしても相性が悪いと思う場合は距離を置くという程度で、あまり好き嫌いはないと自認していたのだが、テレビで観るタレントや俳優、歌手、コメンテーターに嫌いだと思う人がずいぶん多いことに気がついた。みんなお近づきになることはまずないので、第一印象が好みを左右してしまう。希に役柄や、その話す内容で大きく変わることもないではない。
若いころ、高峰秀子さんが大嫌いだった。理由ははっきりしている。田辺製薬のコマーシャルをしていたからだ。スモン病の訴訟での田辺製薬の対応に怒りを覚えて、田辺製薬だけではなく、コマーシャルをしていた高峰秀子も大嫌いになった。とばっちりである。ところが彼女の料理の本やエッセーを読んで、スイッチを切り替えることが出来て、そのあとは彼女の映画をビデオなどでずいぶん観た。本質的に賢い女性だし、私は賢い女性が好きだからいまは評価が高い。
誰が嫌いか取り上げてその理由を述べていったら、ずいぶん長いブログになってしまうので、やめておく。相手のことを知らないまま思ったままをあげつらうのはあまり好ましいことではないが、正直、ちょっとおもしろいと思ったりする。自分がどんな人間かを表明するのに、嫌いな物や人を挙げて理由を述べるほど解りやすいものはないかも知れない。ただ、あまりに赤裸々に語ることになって、私が嫌われることになるだろう。
寝床で本を読まなくなった。寝床で読まなくなった分、読書量も落ちている。春の事故で首を痛めて(頸椎骨折)、それは完治したことになっているけれど、腹ばいで首を起こし続けていると鈍い不快感が奥底から湧いてきて気持ちが悪いのだ。痛いというほどのこともないので精神的なものもあるかも知れない。仰向けでは光が紙面に上手く当たらないから、読み難いし腕もくたびれる。どうしても音楽を聴いたりラジオ(ネットラジオ)を聴くことになる。そのまま上手く寝付けると、しあわせである。
若いときは冷えなど感じたことはなく、足がほてるくらいだった。いまでも近くのスーパーや郵便局に行くときは、草履式のサンダル(突っかけ式よりこちらが好き)を裸足で履いて出かける。鼻緒を指で挟むには裸足でないと都合が悪い。そもそも裸足が快適で好きである。それが一度足が冷えるとなかなか暖まらなくなった。そうなると夜はなかなか寝付けない。
寝付けないとごそごそと起き出して何かしてしまうから睡眠不足になり、昼間うたた寝することになる。リズムが狂う。靴下を履いて寝るという人もいるらしいが、靴下は嫌いだ。風呂上がりでまだ足の温かいうちに寝床に入ればいいのだが、風呂には普通食事後しばらくしたら入る習慣で、あまり遅くに入ることにすると、面倒になってしまって入らなくなることが多い。
そこで夕方早めに布団を敷いて、布団乾燥機をかけることにしてみた。余熱の残った布団は快適である。ただひとつ、熱風を全体に拡散させるためのビニールシートを使用後に引き抜くときに、静電気が起きることがいやである。乾燥していている状態で合繊が摩擦すれば静電気を発生させることは理の当然で、それだけが難点だ。ホースで熱風を送るだけでシートのないタイプもあるらしいが、問題なく使えるものがあるのに新しく買うのもどうかと思っている。
今日を入れても、今年もあと五日である。もう終わりかという思いと、まだあと五日もあるのだという思いと両方ある。あっという間の一年だったと思えばもう五日しかないだし、年末までにやろうと思っていたことがちっとも片付かないという焦りの気持ちで考えれば、まだ五日もある(四日になりつつある)のである。
例年同様、とにかく年賀状は済ませたからもういいや、という気持ちになりつつある。そうして年が明けてからごそごそと掃除を始める羽目になる。誰かが来ることになれば片付けないわけにはいかないからだ。元旦だけ娘のどん姫が顔を見せに来ることが多いけれど、彼女もいま体調が万全でないし、旦那は正月だからこそ忙しい仕事であるから送り迎えが出来ない。電車でやってくるのはコロナ禍も心配だから、いつものように来ることを促さないことにするつもりだ。どうせ七日か八日ごろ、亭主の仕事が一段落したら二人で泊まりに来るのはわかっている。その時のおもてなし料理を何にするか考えておこう。練習もしておいた方がいいだろう。
旦那は正月の私の酒攻勢がツラいらしい。今度の正月は無理強いはしないよう気をつけよう。無理強いはしていないつもりでも、さされると飲むのが礼儀だと思う男らしいからなあ。
韓国や中国から、日本人は歴史を知らないと批判をいただくことがある。彼らのいう「歴史」というのがどんなものかよく知らないが、きちんと学校で「歴史教育」がされていることはたしかなようだ。ここでいう「歴史教育」というのは、近現代史である。それなら日本は「歴史教育」が不十分であると認めざるを得ない。
テレビで若者に問うと、日本がアメリカと戦争をした事を知らないなどとあきれ果てるようなことを平然と答えたりする。たまたまそういう愚かな若者ばかりを取り上げているのか、本当に多くの若者が知らないのか。それなら問題だ。そういう若者も韓国や中国を侵略したことは知っているようだ。これは韓国や中国から日本のマスコミを通じて繰り返し「歴史教育」をしてもらっているおかげだろう。
高校では世界史を学ぶけれども、日本史は学ばないのだそうだ。そして近現代史はあまり受験の問題として取り上げられないようだ。だから授業で近現代史ははしょられてしまう。私の時代でさえそうだった。近現代史は捉え方に思想が伴いやすい。それが「歴史認識」である。だからその歴史をどう捉えるかについて思想的批判がされることになることがあり、それを嫌って日本は近現代史をまともに教えてこなかった。私は戦後の大学の歴史学者が岩波書店的なマルクス史観一色だったことの弊害を感じる。偏っては歴史は韓国や中国のように学問ではなくなってしまう。
池上彰の番組で知ったが、日本も遅ればせながら近現代史を教えることになったそうだ。高校では日本史と世界史を統合して「歴史総合」という科目にして、扱う時代は主に19世紀以降にするという。つまり近現代史を教えるのだという。まことにけっこうなことだ。それならその教育を受けた若者があたりまえになるわけで、「日本がアメリカと戦争したことなんか知らない」若者は、ただの勉強しなかったバカだと眺めることが出来るようになる。
子供ならともかく、いい大人が「教わらなかったから知らない」というのは恥ずかしいことで、知ろうと思えば日本は北朝鮮や中国とちがうから何でも知ることの出来る国である。それが「教わらなかったから」という言い訳が出来なくなるのは慶賀すべきことだ。
ときどきこむら返りが起きて飛び起きる。「来る!」と飛び起きる前にわかるのだが、如何ともしがたい。なんとか軽くすむこともあるし、ふくらはぎの筋肉がカチカチになってちぎれてしまうほどの激痛が長く続くこともある。
最近はふくらはぎではなく、足のさまざまな筋肉がピクピクして勝手につるようになった。痛みはこむら返りほどではないが、自分でどうしようもないのはいやなものである。頻度が増えている。コムレケアという薬を飲むと嘘のように痛みが消える。薬局で薬剤師に聞くと、「血行が悪くなっているのかも知れませんね」との話だった。冷えだろうか。
今朝起きたら、外は粉砂糖を撒いたような景色になっている。私の見た今年の初雪だ。室温13℃、今日は引きこもりでじっとしていよう。昨日買い物をしておいてよかった。
時間があった(しなければならないことはいろいろあるが、したいことがなかった)ので、少し古い『新日本風土記』の奥の細道がテーマの録画を観た。二度目か三度目だが、東北の大雪の情報で、東北の小旅行を楽しみたくなったのだ。その中で、堺田(宮城県と山形県の県境にある)の「封人の家」が出てくる。
蚤虱(のみしらみ)、馬が尿するまくらもと
と芭蕉が句を詠んだところである。
この「尿」を「しと」と読むか、「ばり」と読むか、古来論争になっている。この峠にさしかかる前、出羽国への入り口に「尿前(しとまえ)の関」があるので、「しと」が優勢らしいが、芭蕉が馬の小便に驚くというイメージからすると、「ばり」のほうを私は採る。
この番組で句を詠み上げるのは大地康雄で、芭蕉の句にとても似合っていた。大地康雄は「ばり」と読み、我が意を得た心地がした。
ところでこの封人の家の前の道路を挟んだ駐車場から歩いて十分足らずのところに「堺田の分水嶺」がある。鳴子温泉によく湯治に行くので、そこからほど近い封人の家には三回ほど立ち寄っているが、その時にはついでに分水嶺を見に行くことにしている。陸羽西線の「堺田」駅のすぐ前である。
田んぼのなかを分水嶺まで歩く道の脇に、何本か桜の木があって、春、新葉がでるころそこを通るととても好い匂いがする。ソメイヨシノでは匂うことはないから、別の種類の桜なのだろう。桜餅の桜の葉の匂いだ。花が匂うというより葉が匂う。番組で封人の家を観たらその桜の匂いが匂ってきた。
どの番組だったか忘れたが、「正義の反対は?」という質問があった。普通なら「悪」と答えるところだが・・・。
答えは「別の正義」というものだった。ある人の唱える正義は別の正義と相容れない。相容れないどころか正反対であることがしばしばである。そうして相容れない正義は「悪」だと断定されることも少なくない。
こうして正義の名の下に戦争が始まる。
夜中の三時ごろに目が覚めてしまったので、ラジオ深夜便を聴いていたら加藤登紀子の歌が流れていた。『知床旅情』、『琵琶湖周航の歌』、『赤い風船』、『時代遅れの酒場』、題名を聞きそびれたが『紅の豚』のなかの歌などをいろいろな思い出とともに聴いていた。ちょっと苦手な(つまり好きではない)『百万本のバラ』がなかったのはさいわいであった。
『時代遅れの酒場』は、映画『居酒屋兆冶』のラストに主演の高倉健が低い声で歌っていたことを思い出していた。大好きな映画で、憎まれ役の伊丹十三の名演が忘れられない。この映画で兆冶(高倉健)の嫁さん役を加藤登紀子が演じていて、全く自然で違和感がなかった。
高畑勲監督の『紅の豚』では魅惑的なマダム・ジーナの声を加藤登紀子が演じ、劇中歌やエンディングテーマも歌っていた。
今回、『知床旅情』にまつわるエピソードで、長年の懸案がようやく氷解した。この歌が森繁久弥の作詞作曲であることはよく知られているが、この曲は映画『地の涯に生きるもの』に主演した森繁久弥が長期ロケの際に作ったものだという。歌ったのはロケが終わってから、地元の人たちの前であって、映画にはこの歌はない。この1960年制作の『地の涯に生きるもの』という映画を私は子供のときにリアルタイムに映画館で観ているのだ。
この映画の題名がわからずにずっと気になりながら、調べればわかるのに、わからないままにしていた。今回ようやく知ることが出来た。そうしてこの映画は国後島が舞台だとばかり思い込んでいたのだが、知床半島だということも知った。冬は無人になる網小屋に、猫とともに網を鼠から護るために独りで越冬する老人の話で、彼の若いころからの回想シーンと厳しい冬の映像が忘れられない。もちろん主演は森繁久弥である。
その極寒の風景と同じような景色が今日明日の寒気によってやってくる。
マンションで回り持ちの仕事が来れば引き受けるけれど、ふだんはあまり近所づきあいもせず、会釈を交わす程度である。地方でたまたま祭りなどに遭遇すると、ただ眺めるだけの自分がいる。いまのマンションを終の棲家と思い定めているものの、それでも根無し草の、仮の宿である。
根無し草だから、風が吹けば風にまかせてふらふらと旅に出かける。何を求めて旅に出るのだろうか。何かがあると思って出かけたのはむかしの話で、今は何もないことを知っている。何もないことを確認するために旅に出ていると言えるし、それでも何かをちらっと見た気になることもあって、その一瞬に喜びを感じたりする。それでもその何かを注視すると、自分自身の根無し草であることを鏡を見るように思い知らされたりする。
年末の片付けをしながら、そんなものを放り出して出かけることを夢想する。月曜は愛知県も積雪があるらしい。雪が収まったら、郡上や髙山あたりの雪景色を見に行こうかどうしようか、ぼんやりと考えている。
養老先生の本を眺めていたら、司馬遼太郎が昭和四十八年に書いた文章が引用されていた。このところの日中関係につきあわせて、感じるところがあったので孫引きさせてもらう。
日中関係の正常化によって、日本はどの国を頼むということなしに国際社会に船出してしまった。頼るのは天候への判断力と自分の操船技術だけだが、ふりかえって考えてみると、民族的な智恵の蓄積なしに出てしまっているのである。よほどの聡明さとずるさと、そして人類についての気高いモラルをもたなければこの荒海に耐えられないかも知れない。
「天道、是か非か」と司馬遷の『史記』にある。養老先生も書いていたけれど、ときに善い人が不遇に死に、極悪非道の人が安らかに畳の上で死ぬのがこの世のなかである。中国が正義を言い立てて相手を非難するのはそれを承知の上である。国際関係に本気で正義があるなどと考えるのは日本人だけだろう。そういう経験の蓄積という「民族的な智恵」がない日本人が、この世界を生きていくのはまことに頼りないことを司馬遼太郎は危惧し、養老先生はそれに大いに共感したから引用したのだと思う。私も同感である。
司馬遼太郎がこう書いた昭和四十八年は、私が大学を卒業して就職した年で、石油パニックのあった年だ。大学時代から中国に興味を持ち、文化大革命についてさまざまな本を読み、中国について考え始めていたころでもある。いまの中国を予想したのかしなかったのか。とにかくその頃は、いつか中国へ行ってみようと思っていた。そうして仕事も含めてずいぶん何度も中国に行き、中国人について多少の知見も得た。
リアリストである中国人を知っているから、当時から私は「中国が大好き。そして中国が大嫌い」と言っていた。中国に希望を持っていた人たちが「こんなはずではなかった」などと言うのを見聞きすると、つい鼻白んでしまう。
中国の暴走に運命を託すか、損を承知で中国から徐々に引き揚げて関係を希薄にしていくか、どちらか覚悟をもって選択しなければならない時代になっている。中国に当たりが出る可能性も大いにあるわけで、迷う向きもあるのは判るが、当たりが出たあとの世界を想像すると、私の選択は決まっている。
私は日本が負けて良かったと思う者だが、それは戦争に勝ったあとの日本の未来を想像するからだ。戦争から学ぶということ、歴史を学び考えるというのはそういうことだろう。
今晩はクリスマスイブ。おでんを食べ続けるのは一休みして、グラタン、野菜スープ、挽肉とタマネギを炒めて卵でとじる和風ミートパイ風の一品を作るつもり。ケーキなどの甘いものは我慢することにした。小さなワインセラーから白ワインを一本取り出して抜く。ワインセラーには地酒と白ワインしか入っていないから、赤ワインはない。映画かドキュメントでも見ながら、ゆっくりと夜を楽しむことにしよう。
掃除と片付けは遅々として進まない。別に今のまま正月がきてもかまわないと内心思っているからだろう。誰も来ないし・・・。そうだ、お飾りだけは準備しなければ。
私は昭和25年(1950年)生まれだから、団塊の世代の末尾に連なるものである。中学校で教師には「お前たちの先輩は覇気があり、努力もしたのにお前たちは・・・」とそのハングリー精神の足りなさを嘆かれたものだ。団塊の世代の先輩達は激しい競争のなかで揉まれ、気概もあり、高度成長期の戦士として日本を支えてきた。日本が世界第二位の経済大国となったのは、彼らのおかげだといってよい。
この十数年、その戦士達が次々に定年退職したから会社は身軽になった。年齢相応に支払ってきた給料の負担が軽減されたからである。無理なリストラをしなくても人員が整理できた。浮いたお金を現役に上乗せして配分すれば、会社の士気は維持できただろうか、それを会社は社内留保に回した。団塊の世代が受けていた給料はそれなりに高かったから、サラリーマンの平均所得が減るのはあたりまえのことである。人口構成の変化というのはそういう現象をもたらす。
何も努力しないし、リスクも構えずに利益確保ができた経営者たちはますます人件費の抑制に励む。ほとんどがサラリーマン社長で期限付きだから、会社の将来や社会的役割など考えない。オーナー経営者も多くが創業者からの三代目だから似たようなものになっている。日本社会が全般に堕落してことなかれ主義になったのはそういう背景があるからだと思う。
段階の末尾に連なるものとして、世のなかの、つまり日本の停滞の理由はそういう見方も出来ると思っていて、それを自覚しないと日本の停滞、そして衰退はさらに進んでいくと危惧している。日本はみすぼらしい小国になっていくけれど、別にそれでもかまわないと若い人は思っているのかも知れない。それならそれでもいいけれど、誰かに貧しさの責任を押しつけるのはやめた方がいい。犯人は被害者当人ということになるのだから。
年末恒例の一仕事である年賀状作成が、プリンターの思わぬ不調で例年にない大仕事になってしまった。不機嫌だったプリンターはついに年賀葉書を送り込まなくなってしまい、何度も試行してようやく一枚、また一枚というペースになった。修理に出していたらいつ戻ってくるか判らないし、いまさら買い換えるのも業腹だ。何しろ去年買ったばかりで、不調になるほど使い込んでもいない。ますます頭に血が上る。
仕方がないから後ろからの一枚ずつの差し込み印刷に代えてみた。ちゃんと印刷できるではないか。手差しで一枚ずつ、焦らずに印刷した。ゆっくりでもいつかは終わる。そのうちの何枚かにコメントを書き入れ、それ以外は印刷だけにした。なにしろくたびれた。そういうわけで夕方には年賀状の作成を終了した。
どうせ郵便局に行くのだからと弟のところへ現金書留を送ることにした。毎年弟の孫たちにお年玉を渡している。いつもは暮れに弟のところに寄ってお金を手渡しして頼んでおくのだが、今年は行かないことにした。私にはまだ孫はいない。母の介護で弟のところにはずいぶんひんぱんに行ったから、遊び相手もしたので、弟の孫たちとはなじみが深い。「おじさん、おじさん」とけっこう膝に乗ってきたものだ。
その弟の孫たちは六人いて、うち一人はもう高校生になり、中学生がふたりいる。私の家の分までいるから充分である。自分の孫のつもりでのお年玉の配給なのだ。可愛いことに、子供によっては礼状をくれたりする。親に言われてのことだろうが、「おじさん」はとても嬉しいのである。
現金書留と年賀状を郵便局に頼んで、今年の大仕事がひとつ終わった。さてあとは大掃除か。
「手元」とは、手が届く範囲、自分の周りを指すことばだが、腕前やものの手さばきのことを指すことばでもある。「不如意」とは思うままにならないこと、さらに家計が苦しいことを言う。だから手元不如意とはお金がなくて生活がままならぬことを言うのが普通だ。
好みのシャツのボタンが緩んでいたのでボタンを付け直した。三カ所緩んでいたから三つも付け直した。まず針に糸が通らない。しばらく悪戦苦闘した。ようやく針に糸を通し、ボタンをつけ始めたが、手が定まらない。その時に「手元不如意」ということばが頭に浮かんだのである。この場合は、手さばきが自分の意の通りにならないという意味である。ふるえると言うほどのこともないものの、針がどこへ刺さるかあやしい、刺したいボタンをつける穴に上手く通らない。表側はそれらしく見えるように留められたが、裏を見るとあちこちにばらついている。
しかしよくしたもので、二つ目になるとずっと手際が良くなってきて、三つ目になるとスムーズに、しかもきれいにボタンをつけることが出来た。これならまたボタンをつけるときは大丈夫だ。しかしもう緩んだボタンはない。しばらくしたら、また「手元不如意」に戻るだろう。
年賀状作りは面倒くさい。毎年できあがった後には来年こそ早めに作ろうと思うが、思うだけである。しかし元旦に郵便受けを開けて配達された年賀状を見るのは嬉しい。それを思うから年賀状を出し続けることにしている。
ようやく昨日年賀状作りに着手した。今年いただいた年賀状を整理し、賀状欠礼案内も横に置いて、住所録の整理のあと送付先をきめてプリンターで宛先欄を印刷する。
ところがプリンターの調子がおかしい。印刷は出来るのだが、葉書を送るスプーラーが空回りしている。繰り返し「用紙がありません」と言う表示が出て止まってしまう。だんだん腹が立って頭に血が上ってくる。一枚ずつだとちゃんと印刷できる。数枚なら出来ても、少なくなったとはいえ七十枚ほどをそんなことにかかりきりになるのはいやだ。二枚でやるとなんとか送ってくれる。三枚にしてみて、五枚にしてみて、ついには十枚にして・・・そうこうしているうちに印刷が終わった。スプーラーが自分の役目を思い出したらしい。
今日は文面の写真を選んで文章も考えてレイアウトし、プリントアウトしたあと一言書き添える作業がある。先延ばししたいけれど、期限のある作業だから出来れば今日中に済ませたい。プリンターの機嫌が良ければいいのだが。
みんなが貧しいけれど、みんなが貧しいから平和で心安らかな時代があった。みんなが貧しいということはみんなが豊かさを知らないということでもあるから。
とにかく安くなければものが売れないとほとんどの日本の経営者は考えているし、生活が苦しいから買う人は安くなければ買えないといい、それをマスコミは大々的に安いことはいいことだという。安くするために給料も安くしなければやっていけないと経営者は言い、給料が安いから生活が苦しいと庶民は言う。
日本は国を挙げて安くするために努力している。こうして安いことは貧しいことにつながるから、日本は貧しいことを求めているのだろう。
コロナ禍が治まれば、日本は安い国だから海外からたくさん人がやってくるだろう。安くて良いものがあり、安いのにサービスが良いのだから客は喜ぶだろう。そうして日本は好い国だと世界の人は誉めてくれるに違いない。
そうして日本は疲れ果て、いまに安くするために手を抜かざるを得なくなり、安かろう悪かろうの国になっていく。そうして日本はものやサービスとともに「安い日本人」の国になる。
中国陝西省の西安で、感染症の患者が増加しているという情報が漏れ伝わっている。新型コロナだという話もあるし、出血熱だという韓国経由の話もあってまだ定かではない。そもそも中国はそういう情報を公表することはないから、よほど手に負えなくならない限り、情報管制が徹底的に行われるだろう。
出血熱はエボラ出血熱のような致死性の高いものではなくて、もともと中国に存在する感染症らしい。集団感染したり治まったりを繰り返しているらしく、戦時中日本兵も感染して日本に持ち帰ってしまい、大騒ぎになっこともあるそうだ。腎臓など泌尿器系にダメージを与えて重症化することもあるという。
日本の新型コロナウイルスの感染は、いま奇跡的に治まっているが、専門家もどうして世界のなかで中国と日本だけがこれほどあらたな感染者が少ないのか説明できないようだ。説明できないということは、どうしたら治まるのか判らないままということで、また感染者数が増加しても対策はいままで通りということだろう。東京や大阪でじわじわと増え始めている気配がある。早晩ふたたび地方への感染拡大が懸念される。
三回目のワクチン接種が待たれる。遠くへふらふらと長期に出かけるのはまだ早いのかも知れない。
年賀状作成と大掃除をしなければならないと思いながら先延ばしにしている。しなければならないことがあるときほど本も読めるし、録画した映画やドラマ、ドキュメントや紀行がおもしろく感じられてやめられない。逃げているのだ。
両親が健在のときは実家である弟の家で正月を迎えた。両親がいなくなってからは、クリスマスが済んだころの年末に行っていた。正月は我が家で迎える。元旦ではないが、娘夫婦もやってくるから、ささやかなおせちの準備もする。今年はおせちの準備はやめて、少し美味しいものを料理して食べることにしようと思う。どこかのホテルか旅館で正月を迎えることも考えたが、今ひとつ気分が乗らないので、いつものように独り正月である。
やらなければならないことを毎日メモ用紙に書き出すが、その項目がどんどん増えてきた。それと同時に晩酌の量も増えている。以前ならこんな程度の量はどうということはなかったが、糖尿病のいまこの歳では危険水域に入りつつあると考えないといけない。我慢していた間食もこのごろは止められなくなっている。
少し余分に飲むから、寝付きはいい。寝付きはいいが夜中に目がさめてしまい、眠れなくなる。飲んで寝ると睡眠の質が悪くなるようだ。そうなると翌日なんとなくぼんやりして体を動かすのが億劫になり、しなければならないことを先延ばしし、と悪循環になっていく。
冬は紙パックの菊正宗を燗して飲む。その味がこのごろ変だ。なんだか苦いように感じる。菊正宗が悪いのか私が悪いのか。試しに松竹梅の紙パックを買ってきた。・・・やはり苦く感じる。少し休酒する必要がありそうだ。
NHKドキュメント『新・映像の世紀』の第一回は小型ムービーカメラによる第一次世界大戦の映像から始まった。そこに映っていたのは巨大地雷の大爆発の映像であり、塹壕の兵士たちであり、そこから突撃していく兵士たちのすがたである。戦争の転回点となったこの戦いと大爆発を「ソンムの戦い」という。
そのソンムの戦いの陰でこの地雷を仕掛けるために地下トンネルを掘った技師たちを描いたのが先日観たばかりの『アンダー・ウオー 地下道爆破計画』だったことを知った。この「ソンムの戦い」はイギリスでは知らない人がなかったという。
この第一次世界大戦についてのドキュメントは、繰り返し観て、二十世紀というものについての世界観のベースに繰り込みたい。それほどの示唆に富む情報が満載されている。
随分前であるが、『ドキュメント昭和』という表題だったと思うが、昭和という時代を網羅的に映像化した番組があって、それは全九冊の本にもなった(処分してもう手元にないのが残念)。その全てを購入して、昭和という時代、日本と世界、特に日本とアメリカとの関わりについて大いに知ることがあった。その第一巻が『ベルサイユ条約』であって、ベルサイユ条約は昭和ではないが、戦争の世紀である二十世紀を決定づける出発点であることから、昭和を語るにはここから始めなければならないのがよくわかった。そしてもちろんベルサイユ条約が第二次世界大戦をもたらした条約であり、ヒトラーという鬼を産みだしたものである。
それらを総合してみていけば、ただそれが過去の戦争を見ていくということではなく、まさにいま、世界がその時代の流れに酷似していることに気がつくのだが、そういう見方ができるひとがどれほどいるのだろうかと思う。また同じような経緯をたどり、戦禍は取り返しのつかない人類滅亡に向かうのかと絶望的になる。人類が滅びてしまえば、こうして歴史を見直すことも出来なくなるのだけれど・・・・。
昨晩のBSフジプライムニュースで、桜井よし子氏が過去の宏池会の中国や韓国に対する対応について激しく非難していた。あげられた鈴木善幸、宮沢喜一、河野洋平の名前を聞けば、なるほどと深くうなずけるところがある。批判されると謝罪するという繰り返しの禍根がいま、どういう結果をもたらしたのか、当時を知る人なら思い出すことだろう。
そして、まさにいまの岸田派とは、その宏池会の末裔そのものであり、岸田首相、林外務大臣は、その精神において宏池会そのものではないかと危惧していた。私もその懸念を同じくする。
昔どこかで読んだが、どんな本で誰のことばか覚えていないけれど、「中国に対して寛大な態度を取るということは、誤ったメッセージを伝えることになる。中国は寛大とは弱さの徴と理解する国柄なのだ」という意味の文章で、忘れられない。
天安門事件以後、西欧民主主義諸国が激しく中国を非難し、制裁を加えた。日本はそれに同調せず、そのあと行われたサミットに出席した、ときの首相宇野宗佑は他の国に対して中国を取りなした。そしてその数年後には天皇陛下の中国訪問を実現させ、あたかも中国には何もなかったような対応をした。中国では天皇陛下が謝罪のことばを語るように段取りされた。外務省は陛下を政治的に利用した。
その結果、制裁のダメージが縮小されたことで、中国はその後の急拡大が可能になった。その見返りに中国は日本に何をしたか。国内法により、尖閣諸島への侵入開始を合法化し、それから繰り返し侵入を始めたのはご存じの通り。
寛大であること、宥和的であることは弱さだからとことん強気に出ろ、というのが中国のやり方であることは、その後も次々に続いている中国の行動を見れば判るであろう。彼らが恩義を返すなどということはないのである。ミニ中国的心性である韓国も然り。慰安婦問題で宮沢喜一や河野洋平が頭を下げたとたんに全てが既成事実化してしまい、それから日本にどういう態度を取るようになったのか。
それでも中国や韓国に対して、話せばわかる、というのが宏池会の伝統的心性のようである。まさにそれを受け継いだ岸田首相、林外務大臣が、中国の歴然とした人権問題に及び腰であるのは経済的な点を考慮しているからだけではない。アメリカが弱体化し、バイデン政権が身動きかがとれないことを中国はよく承知して、いま虎視眈々と実力行使のチャンスをうかがっている。
中国が動いたとき、日本はどうするのか。話し合いという名の無条件降伏をするつもりなのだろう。それならもしかしたら戦禍には遭わないかも知れない。しかし台湾の再教育という名の粛清が行われ、続いて日本の民族浄化がその先に待っている。香港化、新疆ウイグル自治区の二の舞を経験することになる。それが中国の正義であり、民主主義なのだから。そうして世界は中国化して平和になるというのが習近平の夢なのだ。
ひまなので料理番組を録画して、あとでゆっくり観てから作れそうなものだけ残してファイル化している。ファイルだけ出来ても意味がないので、試しに作ってみる。料理は一人前だけ作るのが難しく、つい二人前三人前作ってしまう。作ったものは食べる。次から次に作るので食べ残しが出来てしまうのだが、もったいない精神が強い世代なので捨てられない。そうして無理して食べてしまう。
せっかく節食して胃袋が小さくなっていたのに、それを無理やり拡げ直すことになり、いささか胃が張って苦しい。しかしすぐに慣れてしまうだろう。次に何が起こるのか、判っているのに食べることが大好きだから止められない。せめて散歩でもしてカロリー消費につとめなければならないと思いながら、寒いからなあと、炬燵の守は動こうとしない。
いまにこうなる。
民俗学者で、怪異を研究している准教授・高槻彰良がさまざまな怪異現象のからくりを暴いていく。Season1がそこそこおもしろかったので録画しておいて、全八話が完結したので一気に観た。「本物の怪異というものにはなかなかお目にかかれないものですね」というのが話の最後の主人公の常套句なのだが、その主人公と教え子の深町尚哉こそが常識では説明できない、ある意味で怪異の存在でもある。さまざまに仕掛けられた怪異のからくりを暴くことによって、本物の怪異に説得力を持たせていくという話の構成になっている。
今回は主人公の好敵手として、寺内一(小池徹平)という人物が登場する。それぞれ個別の話の背景にこの寺内一が関わっていることが次第に明らかになり、結末につながっていく。この話は全体として終結するが、主人公達の謎はまだわからないままで、さらに続編があることを予想させる。
一話が30分と短いので、おかしなひねりがないと同時に、無意味な理屈づけや無駄な展開もなくてすっきりしている。内容からいっていい長さである。
主人公の情報収集を担当する助手役を岡田結美が演じているが、意外に好演していて、いい味を出している。今後このドラマで重要な役割を演じることになりそうだ。
未解決事件捜査班の人気シリーズ第四作。イギリスのミステリードラマはほとんど外れがない。全六話のこのドラマも途中で止められずに一気に観てしまった。主人公の女性警部キャシーと部下のサニー警部補のコンビは互いの信頼関係がとても好感の持てるもので、それがこのシリーズの魅力となっている。今回はキャシーの退職前の最後の事件ということになっているが、そこに彼女の家族との関わりもあって紆余曲折する。そしてラストは意外なかたちでシリーズの終わりを告げることになる。
手と頭がない遺体がゴミ処理場で発見される。法医学者によって、この遺体が長く冷凍保存されていたものであることが判る。やがて身につけていたもの、そしてタトゥーなどから、遺体が30年前に所在不明になっていた男のものであることが明らかになり、失踪にまつわるとみられる意外な容疑者たちが浮かび上がってくる。
一人一人についてその互いの関係、生き方、家族関係、金銭状況などが綿密に調査されていく。30年前、事件があったと思われる日、彼らは警察学校を卒業した新人警官だったのだ。なかには副本部長職で、本部長昇進を控えている女性もいた。捜査はデリケートな扱いを求められる。下手をするとあいまいなまま握りつぶされるおそれもある。そうしてチーム全員が一丸となっての綿密な捜査が進められる。
やがて頭部が発見され、容疑者たちの結束にほころびが出始め、事件の核心が見え始めてくる。犯人が意外な人物であること、その動機も予想外なのだが、実はドラマにはその伏線が丁寧に施されていたことを犯人の述懐によって知らされる。
全六話がちっとも長く感じられない。
右下奥歯に小さな穴が空いたら次第にそれが大きくなり、ものが挟まってとりにくくて困っていた。先週予約して、今日昼前に歯医者で処置してもらった。神経はすでに抜かれていた歯なのであろう、ガリガリと穴周辺を削られてもちっとも痛くない。薬剤で消毒してセメントで固めて一丁上がりである。
まだ抜いてしまった歯はないので全部自前だが、神経を抜いた歯は三本か四本ある。どれだったかもう覚えていない。神経を抜いた歯は自分の歯と数えていいのか知らない、どうなのだろう。どちらにしても今のところ八十歳で二十本の歯が自前、という目標は達成できると思う。ただし、歯は健在だけど本体がおだぶつという可能性も大いにある。
セメントは速乾性ですぐ固まるけれど、硬化が完成するのは少し時間がかかるに違いないと私は思っているので、昼は食事を摂らずにお茶のみで完成を待ちたいと思う。
歯は事なきを得ているが、身体の立ち居振る舞いはますます鈍重になり、いちいちかけ声が必要になってきた。走るなどということはもう思いもよらない。筋力の低下に合わせて体重を落とさなければならないのだろうなあと思いながら、不動の体重計の目盛りを眺めている。
マンションはコンクリートのなかの洞窟のようなものでもあって、熱しにくく冷めにくい。一昨年の秋にトルコに行って、カッパドキアの洞窟ホテルに泊まったが、物珍しくもあり、マンションと一緒だなと感じたりもした。そのマンションもようやく外気温に従って冷えはじめ、快適だった室温も下がってストーブが必要になった。
土曜日あたりに、東海地方も白いものがチラつき、場合によって積雪もあると報じられていたが、降ったのは岐阜などの山間部だけで、残念ながらまだ初雪には出会っていない。髙山あたりに雪を見に行こうかとも思ったが、そこへいたる高速や国道で事故が多発していて「自重しろ」という心の声が聞こえるのでテレビの画面で白川郷や五箇山や髙山の雪を眺めている。
昨日妹に電話して、脳出血で倒れて入院している義弟の様子を聞いた。病状は一進一退で、意識は完全にまでは戻らず、呼びかけに反応して頷くような仕草も見せるが、ことばを発するところまでは回復していないという。髄液のために水頭症になり、それを抜くための手術をしたが、その時に細菌に感染したらしく、髄膜炎になって発熱が波状的にあり、リハビリに進める見通しが立たない。危篤状態ではなく、集中治療室ではなくなって一般病床に移されているそうで、たちまち命に別状があることもないらしいのが救いだ。義弟も心配だが、妹も義弟に頼り切って生きてきたところがあるから心配であるが、気を張っているからか声は元気であった。
妹も医師から呼ばれたときにしか義弟に面会できない状態らしいので、見舞いに行くことも出来ない。気にかけながら回復を祈るしかない。
大学から定期的に広報誌が送られてくる。最近は会費も払っていないのに、打ち切られることもなく送られてくる。申し訳ないことであるが、未納の会費を納めるつもりはない。
その冊子の最後に、寮の跡地の桜というキャプションつきの写真が掲載されていた。えっ、寮はなくなってしまったのか。中には入らなかったけれど、最後に寮の前まで行ったのはもう二十年も前のことである。在学中はその寮に暮らしていたが、その当時はまだ出来てそれほど経っていなくてしっかりした四階建ての建物だったが、とうぜん老朽化していただろうと思う。本来なら建て替えられているだろうと思ったのに「跡地」とは・・・。
そこでネットで調べてみると、寮生募集はされているようなのである。地図と寮の写真が掲載されていたのでよく見ると、場所が移動していた。以前は一棟だったのが、三棟になっていた。入寮数も多くなっている。私の時代は二人部屋が基本だったが、たぶんいまは一人部屋だろうと思う。
卒業してしばらくは後輩もいたので何度か定期的に立ち寄った。その後名古屋へ移ってからはほとんど行っていない。旅に出かけて近くを通ったときに遠目に見るだけだった。最後に見に行ったときは新庄の叔母を訪ねる用事があって両親を連れていた。たぶんもう寮を訪ねることはないけれど、雪に閉じ込められた長い冬の生活とバカ酒とたばこの煙を思い出した。私はたばこを吸わない。百数十人の寮生でたばこを吸わないのは私だけだった。
昨夕、TBS系の『報道特集』という番組で、日本有事の際に出動を想定されている特殊部隊を取材したものが放送されていた。特殊部隊はそもそもあまり公にしないよう秘匿されるもので、どちらかというと革新色の強いTBSでも、特にその傾向の強いこの番組に取材を許したというのは、日本有事というものが現実に起こりえるもので、日本はそれに備えているのだということを知らせるのに、却ってこのような番組に取材を許した方がいいという判断が働いたのだろうと思う。
厳しい訓練の一端を紹介して、日々努力している隊員たち(匿名であり、顔も秘されている。本人も家族も危険にさらされるおそれがあるからである)の苦労を目の当たりにした。その部隊の存在そのものについてのコメントなのであろうか、金平キャスターが、「見ていて怯い」というような言い方をしていた。「こわい」はことばで発せられていたから、漢字が当てられていなかったけれど、わたしには「怖い」ではなくて「怯い」と当てたくなる響きに聞こえた。
金平キャスターはそのような有事の備えを見てこわかったというのだ。現実に戦闘を想定した部隊の存在がこわいと言ったのだ。私には、いまそこにある危機に備える訓練をする部隊が存在することがこわいと言っていたようにしか聞こえなかったのである。この人はたぶん戦場に赴いて取材するなどということはけっしてできないジャーナリストなのだろうなあと感じた。憲法擁護一辺倒の平和主義者の怯懦を見たので、「怯い」と言う字を当てたくなったのだ。
こうしてはいられない
こうしてはいられない
こうしてはいられない
こうしてはいられない
こんなことをしているばあいではない
あれもしなければ、これもしなければ、
あれもこれも、これもあれも
じかんがないじかんがないじかんがない
いったいぜんたい
いったいぜんたいおれはなにがしたいのだ
これは現在進行形の習近平の新しい施策を直感的に受け止めての感想で、充分に考察したものではないことをお断りしておく。
毛沢東は『大躍進』という数千万の死者(多くは餓死者)をだした政策の大失敗で権力を低下させてしまった。その失地回復のために演出したのが『文化大革命』という大芝居だった。これが大当たりで、興行主が想定したより遙かなすさまじい熱狂を産み、中国全土は狂乱の渦と化し、ついには興行主も制御不能の事態となってしまった。『大躍進』そして『文化大革命』によって失われた人命は想像をはるかに超える。文化大革命とは、文化や高度教育の否定であった。そのことによって中国の文化遺跡の多くは壊滅的な被害を蒙った。中国という国はこのことで長い長い停滞期を過ごさなければならなかった。
毛沢東が死んだことで中国はその呪いから脱して、巨大な人口と低賃金を武器に一気に躍進に転じることが出来た。天安門事件という、ある意味で民主化のチャンスを戦車のキャタピラーのもとに挽きつぶして、共産党支配の資本主義という奇妙な体制をもってばく進してきた。そのことがもともとあった中国人の拝金思想をさらに強化した。歯止めの仁義礼智信悌忠孝は捨て去られた。中国シンパを海外に増やすための出先が孔子学院だったというのはまさにジョークである。
中国は特定の人間に権力が集中しすぎることの愚と危険を学び、独裁体制ではあるが、集団的な指導体制を取ることにしたはずだったが、文化大革命から五十年、その教訓を足で踏みにじる個人崇拝的独裁体制に逆戻りしつつあるのがいまの中国だというのが私の見立てである。
習近平は毛沢東の再来または凌駕を夢見ている。まさかと思ったが、どうも本気のようだ。そして毛沢東にはいささかなりの彼の思想的信念のようなものがあったけれど、習近平にはそのような彼の思想というものが感じられない。その理想とはなにを指すのか。正しいかどうかにかかわらず、中国国民にとって良いか悪いか、ということである。中国の歴代皇帝には国民などただの虫けらだったが、同じ皇帝でも毛沢東には国民はときに虫けらではなかった。では習近平にとっての国民とは・・・。彼はまさに紫禁城に君臨する皇帝と自分を重ね合わせているのではないか。
経済を支配し、教育を支配し、国民を徹底監視の下に支配し、漢民族以外の少数民族を民族浄化のもとに根絶やしにし、周辺諸国を中国の版図に組み入れようとする、これが皇帝政治ではなくてなんだというのだ。中国はおそろしい国になりつつある。そのことに敏感であるべきなのに鈍感なのが我が日本であることに絶望を感じる。私はもうあきらめの境地である。もともと何の力もないけれど・・・。
日本の2019年の出生率は1.38、これでもひところよりは若干増えているが、世界のなかでは190位以下という、極めて低い数字で、2020年、2021年とコロナ禍でさらに低い数字になることが間違いなさそうで、少子高齢化はさらに進むだろう。
その極めて低い出生率の日本とくらべても、韓国の出生率は世界でも突出して低いのはいかなる理由があるのだろうか。韓国の2019年の出生率は0.84、2020年は0.7、2021年は0.6代になるらしいと韓国の当局が公表している。当局はコロナ禍を理由としての低下を語るが、それ以前から低いので、少子高齢化は急加速し、日本をたちまち追い越すことになるだろう。こういうことはどんな適切な手を打ったとしても、その効果が出るまでにかなりの時間を要するものだし、その理由が明確でないと、適切な手も打てない。そして理由が明らかでも手の打てるものであるかどうか、それが問題だ。
韓国は儒教的な世界観の国といわれてきたが、それでもその儒教的思想のくびきからいまの若い人は脱しつつあるように見える。しかしそれでも結婚せずに子供を産むことへの抵抗は根強くあるのだそうだ。そうして、若い人の就職難は中高年者の倍近く、しかも結婚に必須と言われる住宅は、特に都市部で高騰して、生涯働いても買えない高嶺の花になっている。しかもソウルなどの首都圏への人口集中は日本よりもすさまじい。
就職できない、出来ても住宅は買えない、住宅が買えなければ結婚できない、結婚できなければ子供は産めない、というないないつながりの結果がこの出生率の異常な低さにつながっているということのようだ。
翻って日本はどうなのだろう。ないないつながりの連鎖を打破する方策は講じられているのだろうか。韓国とくらべて安心しているときではない。大いに他山の石とすべきだろう。
年度替わりにテレビ番組の改編が行われるのは恒例のことだけれど、早くもさまざまな番組の終了の情報や、終わるのではないかといううわさが飛び交っているようだ。民放のバラエティニュース番組などは終わろうがどうしようがどちらでも好いけれど、NHKの番組には楽しみに観ているものもあるので気になる。
『ためしてガッテン』や『生活笑百科』が打ち切りになる方向で検討されているという。『生活笑百科』はめったに観ないけれど、『ためしてガッテン』はテーマに興味があれば観ることにしているし、参考になることが多いので、本当なら残念だ。
打ち切りを検討する理由というのが、視聴率はまだそこそこ高いけれど、観ている人は中高年者ばかりで、若い人の視聴率が低いからだという。
そうしてネットニュース(ニュースというよりうわさレベルのようだが)は、同じような傾向の視聴率の、『ブラタモリ』や『鶴瓶の家族に乾杯』も危ういと報じている。『ブラタモリ』は私が放送を楽しみにしている番組であるから、これが本当なら残念と言うより腹が立つ。
もしNHKが若い人の視聴率の低いことを打ち切りの基準とするというのが本当なら、それはNHKの自殺ではないかとさえ思う。そもそもNHKは高齢者に人気があって、若い人には人気がない傾向があるように思う。そしてそのNHKが若い人に迎合して作る番組は、たいてい高齢者にも若い人にもおもしろくない。そもそもNHKは高齢者に好まれる傾向があって、その層を手厚くしてこそ存在意味があることを自覚しないと、だれも観ないチャンネルになってしまう。
若い人と高齢者は好みがちがうのであって、両方を狙うのはそもそも無理がある。希に両方に人気のある番組もあるけれど、そういう番組ばかり狙うと、外ればかり作ることになるおそれがある。現に中高年にそれなりの人気のある番組を若い人の視聴率が低いからと切り捨てるようなことをすれば、視聴する絶対数が減るだけのことだろうと思う。だからNHKの自殺だというのだ。
個別のそのような話を少し遠くから眺めれば、忍耐の限度を超えつつある民法のCMの氾濫、中身の希薄化、それを真似するかのごときNHKの番宣の過剰など、テレビがテレビを観たくなくなるようにしているかのごとき様相を示している。テレビの時代の終焉を自ら招いている。私はテレビの始まった時代の子供であり、そうしてテレビの終焉を見ることになるのかも知れない。
WOWOWと契約しているので、かなりの数の映画を観ることが出来る。月末に次月の放映作品などのプログラムが送られてくるので、そこからセレクトして予約しておき、録画している。以前は月20本までにしていたが、見切れずに残るので、いまは10本程度に絞るよう努力している(努力はたいてい実らない)。だから好みが偏り、ジャンルが拡げられないのは致し方ない。
この映画は、第一次大戦のヨーロッパ戦線が塹壕戦の膠着状態になったころの話が描かれている。実話のようである。戦場というのがどれほど人間の尊厳を損なう場所であるのか、汚辱にまみれ、血と泥と糞尿の惨状を見ることになる。膠着状態を打破するために地下トンネルを掘り進める計画を立てたイギリス軍は、鉱山の掘削技師たちに協力を依頼するのだが、技師たちは難工事のために自らが掘削を行うしかないと覚悟を決めて戦線に参加する。
ドイツ軍も同様のトンネルを掘っている。地下の息詰まる攻防戦は、さながら潜水艦の闘いに似ている。こういう映画は必ず自己犠牲のシーンがつきもので、わかっていても見ている方は切ない。最も死んで欲しくない人が死ぬことになるのだから。
人は人の笑いを見て笑う。人が涙するのを見て悲しくなる。悲しいから泣くのではない。しかしこの映画のラストシーンで、画面には涙がないのに目頭が熱くなった。本物を感じたからだろう。
もう一本、中国の『エクストリーム・バレット 極限死闘』2020年、という映画を観たが、あまりのお粗末さにあきれ果てて途中で観るのをやめた。どこの国にも駄作はある。WOWOWはもう少しちゃんと選べよ、と苦情を言いたくなるようなひどさであった。
女性は、明るくて楽しい人、優しい人を好むようで、私は暗くもないし優しさもそこそこあるつもりだけれど、不思議なことにあまり女性にもてない。理由は私が自己主張が強いと思われるからかも知れないと、いまになって気がついているが、手遅れで残念である。
私は自己主張が強いのではない。私は相手の人に私のことを知ってもらいたいと思う気持ちがたぶん人一倍強いので、自分がいろいろなことで経験したこと、感じたこと、考えたことを一生懸命話してしまう。それがあたかも自己主張をしているかのように受け取られているのだと思う。心がけて相手の話を聞くために黙って聞くことにしたとしても、その相手の言ったことについて自分が感じたこと、考えたことを口に出さずにはいられないという性分が、あたかも反論しているかのように受け取られるらしいのである。
私は相手を否定しないし、とにかく、なるほどそうか、と思う人間である。ただ闇雲に相手に同調したりしない。そのほうが失礼だと思うから、違いを表明するだけである。
その私を希にそのまま受け止めてくれる女性に出会うと(もちろん男性でも好い)とても嬉しい。そういう珍しい女性はたいていとても賢い(賢くないはずがない)。珍しいくらいだから、めったにいないけれど、もともと全ての人に好かれたいと思うほど欲張りではないから、まあいいか、と思っている。全くいないわけではないのだからそれでいいのである。
そういえば、以前このブログに、私のブログは私の自己紹介のようなものだと書いたら、思ってもいないキツい批判を受けて面食らったことがある。それも自己主張に見えたのかなあ。いまだに理解できないので忘れられない。
弟の嫁さんが静岡の清水生まれで、母親は百歳近いけれど健在である。今年春くらいまではまだ畑仕事をしていたけれど、秋に倒れて入院した。さいわい回復して自宅に戻っている。義妹も見舞いに一週間ほど行っていたようだ。帰省すると必ずお茶を土産に持って帰る。そのお裾分けをいただくのだが、そのお茶がまことに美味しい。
旅に出ると地酒を土産に買うことが多いが、お茶どころを通るときにはお茶を買うこともある。そこそこの値段のものを買ったつもりでも、その静岡のお茶には敵わない。その美味しい静岡のお茶でも淹れ方で全く味が違う。温度、茶葉の量、お湯の量で味が変わるのは不思議なほどだ。美味しく淹れることが出来たときはとても嬉しい。
これが安いお茶だと、どう淹れても濃いか薄いかだけの違いになるのだからそれも不思議だ。ふだんは安いお茶を淹れる。多めの茶葉で濃いめにしてたくさん飲む。ときどき静岡の茶葉で少なめに入れて香りと味を楽しむ。違いがあるからこそ味わいも感じられる。
泌尿器系に慢性の疾患を抱えてしまったので、医師からは水分を意識的に摂って常に膀胱を洗浄するように心がけるよう指示されている。朝一番の尿の汚れ方は気持ちが悪いほどの色と濁りだが、水を飲み、お茶を飲み、コーヒーを飲んで水分をとり続けると、透明な尿になる。常に洗い続けないとならないから、どうしても水分過剰になって足がむくんだりすることがある。汗を人一倍かく。だから散歩などの運動をして汗をかき、風呂にゆっくり浸かって汗を流し、汗をかき、水分を落とす。
そうして体内を洗い続けている。私は大のビール好きなのだが、ビールは特に体がむくむのでいまはほとんど飲むのを控えている。ビールは利尿性があるというが、私はビールをいくら飲んでもほとんどトイレに行きたくならない。むくむのはとうぜんだ。さいわいお茶やコーヒーの利尿作用はちゃんと働くので、愛飲している。
中国の薬草茶やプーアル茶も常備していて、体調を整えるために飲むが、こちらは美味しいから飲むというより薬として飲むから楽しみということはない。
日本の統計数字が間違っていたことがニュースになっている。それもうっかりではなくて、ずっとわかっていながら訂正されずに間違いを続けていたというのだから、罪が重い。
中国の統計数字は疑わしい、などと他人事に書いてきたりしたのは、まともな国ならそんなふうに統計におかしなことはしないものだというとうぜんの思いがあったからだけれど、我が日本でこんなことがまかり通っていたとしたら、日本も堕ちたものだ、情けない。
そのことが日本の国の信用をどれほどおとしめることになるのか、想像力が働かないほどその連中はバカなのか。こういうことはいつか露見する。必ず矛盾が起きるからだ。どうやら横行していたような気配もあって、日本はどうなってしまったのかと思う。崩壊の兆しどころではない、崩壊は進行しているらしい。厳罰を処して見せしめにすべきだと思う。たぶんしないだろうけれど。
安かろう悪かろうという言葉を聴くことがほとんどなくなったような気がする。安いものには安い理由があるものだとみなが承知していた時代があったが、いまはいかに安くても、悪かったら断じて許さない。
戦前は、日本製品は欧米では安かろう悪かろうという評価だった。それを日本の製造業は付加価値を高めて評価を改善し、いまにいたっている。私の若いころは、中国製品が安かろう悪かろうの代名詞だった。いまだにそう思いこんでいる人も多いだろう。
現役時代、繊維の街・一宮の繊維試験場にしばしば行った。いろいろ知りたいことがあって、訪ねると丁寧に教えてくれたものだ。さまざまな評価機械があり、たくさんの人が企業から依頼された品質試験を行っていた。こうして製品の基準を維持し、品質の劣るものが流通しない仕組みが確立していた。
十数年にわたって付き合っているうちに感じたことは、どんどん人員が減らされ、試験をする人がパートのおばさんに替わっていくという現実だった。ユーザーに聞くと、ときどき品質検査結果に疑義を感じることが増えているという。明らかに能力が低下しつつあった。ぶしつけに試験場で質問すると、そうならないように努力はしているのだが、と口を濁した。
その時に別の組織(IWSという羊毛事務局)の人に聞かされたのは、中国の試験場の急激な拡充の話だった。極めて低レベルだったものが、大卒の優秀な人材を揃えて予算も潤沢に投入して、どんどんレベルアップしているのだという。信頼性は日本をまもなく抜くだろうという。中国は広いから、まだら模様で粗悪品もあるだろうが、全般的な品質はどんどん向上していった。
信頼性において中国製品は安かろう悪かろうではなくなっていった。私の場合は繊維という業種からの知見だが、たぶんほかの業種でも同様だと思う。日本では中国の食品業界のあまりにもおぞましい衛生管理のひどさをニュースでしきりに報じるので、全て中国の製品は・・・などと思いがちだが、当局はなんとか品質を向上させたいという意志をきちんと持っている国なのだ。
いま日本はなんでも安くなければ売れない買えないの思い込みでデフレスパイラルの不景気感に覆われているが、安くするにはコストを減らすか手抜きをするか人件費を削るかしかないのは自明のことで、限界を超えた安売りのために、すでに日本の製品は安かろう悪かろうになっていないか、それを心配している。安かろう悪かろうの国に堕すと、そこから這い上がるのはたいへんな困難を伴う。テレビのCMの氾濫を見ると、すでに堕しているように見える。何しろCMのおかげで民放はただで観られるのであって、安さの極限であり、それのお粗末なことは安さに比例して限界を知らないところがある。無意味なバカ笑いをのべつ幕なしに見聞きさせられると、このごろは寒気がする。
私はぼんやりしていることが多い。何かを考えてぼんやりしているのではない。考え事をしているときは、自分ではぼんやりしているとは思っていない。外見的には同じかも知れないが。
ぼんやりしていることが多いのはボケの兆候かと思っていたら、ぼんやりには意味があるのだという。人はさまざまな情報を受け止めてあたまの中に次々に放り込んでいく。それらはゴミためのように雑然としていて、意味をなさない。ぼんやりしているときと言うのは、実は脳内ではせっせとそれらの情報を整理している時間なのだそうだ。
だからしばしばぼんやりした後に、突然考え続けたことの答えやアイデアなどが浮かぶのだ。ひたすら考えているときには答えが見つからないのに、風呂上がりやトイレでひらめくのはそういう理由があったのだ。
だからぼんやりしていることには意味があるのだと自分を納得させたが、しかしひらめくのはぼんやり状態からスイッチが入ったまさにその瞬間であるのだそうで、スイッチが入らないままぼんやりしていても何も出てこないらしい。
どうもぼんやりしたままなのでブログに書くことも思いつかない状態になっている。そもそも整理すべき情報も払底しているようだ。
マスクなんて顔パンツだと揶揄する向きがある。言い得て妙だといえないこともないが、品がない。品はないがそれに例えるとわかりやすいこともある。
どこかの市議だか県議だかが、議場での鼻丸出しのマスクを注意されたら、今度はマスクをつけずに議場に現れ、表現の自由だと主張していた。逸物が見えかけているからと注意されたら今度はパンツを脱いで丸出しになったというわけである。テレビで観ていると鼻丸出しの顔パンツをしばしば見る。バカ丸出しだから見ている方が恥ずかしい。
話題の市議はへりくつを言っているが、人に言われて従うのが腹が立つからとだだをこねているだけで、なんの論理性もないから、賛同するのは同じようなネジの緩んだ愚か者だけで、相変わらずマスコミはその愚か者の味方だから、ご本人を追いかけて主張を全国に垂れ流している。マイクを向けられ、テレビに出るとなると引っ込みもつかず、本人はますます意固地になるしかない。コメンテーターはそれをみんなで笑いものにしているつもりで、自分が笑いものになっている。語る値打ちもないと無視するのがまともな神経というものだ。
そういう私もそれをここに書くのだから愚か者に違いない。顔パンツはちゃんと履いているが、ときどき履き忘れてあわてて取りに戻ることもある。
ここでいう作家とは城山三郎と吉村昭。ともに昭和二年生まれ。終戦の年には十七歳だった。ちなみに藤沢周平も昭和二年生まれである。同じ時代を同じ年齢で生きたということに共通の何かがあるだろうと思う。出征兵士だった大正生まれの作家、たとえば安岡正太郎、司馬遼太郎などと、昭和五年以降生まれの開高健や大江健三郎などとは戦争に対する受け止め方がちがう。
このふたりの作家の生まれてから戦争を経て作家になっていく経過、そしてその作品、執筆姿勢について論評しながら、時代と生き様を描いていく。前半が城山三郎で、後半が吉村昭だが、ところどころで交錯する。
吉村昭についてはある時期夢中で読んだことがあり、たぶん作品の半分以上は読んだと思う。取り上げられた作品についてもその評論に共感することが多かった。城山三郎についてはあまり読んでいない。初めて読んだのは祖父母の家にあった『総会屋錦城』という本で、高校生くらいのときだっただろうか。この作品で城山三郎は直木賞を受賞している。ほかには雑誌に掲載された中短編を読んだくらいで熱心な読者ではなかった。そういえば『粗にして野だが卑ではない』と言う本も読んだ記憶がある。この評論を読んでいればもっと読んだろう。
著者の森史朗は長く文藝春秋の編集者を務め、ふたりの作家とは縁が深かった。戦史作家として作品も発表している。この本でふたりの作家の目を通した戦争を見ることで、あの戦争とはなんだったのかを、その時代に生きたように考えることが出来たと思う。
そうして、あらためて現代を見たとき、何を思うのか。それが問われているような気がする。
朝のニュースで保健所の不手際による医療トラブルの例が取り上げられていた。保健所がコロナ禍でほとんどパンク状態であったことは繰り返し報じられていたが、全国でその実例を集計したらどれほどの犠牲者があったことだろうかと暗澹とする。
合理化のために保健所を統合し、人を減らした。その結果がこの始末である。コロナ禍が始まって、保健所の現有能力では対応が不可能であるとたびたび報じられたのに、いまだに保健所に対してどれほどの補強がなされたのか、または保健所以外に補助する機関が設けられたのか、寡聞にして知らない。そうしてぽつりぽつりと犠牲者の報道がなされる。
今朝の一例では、病院でコロナ感染を確認して自宅待機を勧められた東京都の五十代の女性が、そのまま保健所からの健康観察がないまま亡くなったというものだった。都は病院から保健所への連絡がなされなかったから、と説明している。しかし女性は自宅待機中に病院や保健所に連絡をしているようだ。保健所は病院から連絡がないから対処しなかったのだという。確認もせずに見殺しである。しかしパンク状態で忙殺されている保健所にその罪を問うのは忍びない気がする。限界を超えている状態で完璧を期せというのは酷である。
合理化という名の見殺しが合理的だと言うのなら、合理的とは何か。これが経済的合理性最優先の世のなかの現実なのだ。そのような合理化による弊害が修正されないまま放置されているのは、修正が経済的に不合理だと見做されるからなのだろう。「予算が足らない」、「人が足らない」というのが常套句として添付される。
私のこどもの頃は子供が多かった。何しろ団塊の世代で、日が暮れるまで外で子供たちはいろいろな遊びをしてにぎやかだった。年齢差があっても一緒に遊んで、理不尽なこともあったけれど、それなりにいろいろ学ぶことも多かったといまでは思う。
正月前後の冬休みには、たこあげやコマ回し、羽子板の羽根つきをしたものだ。私の時代のコマ回しは、ベーゴマはほとんど流行らず、もっぱら木のコマを紐で巻いてたたきつけるように回すのが主流だった。芯を自分で削ったり、コマ本体を削ったりしてバランスを調整し、いかに長く回せるか、そしてほかのコマとぶつかっても倒れないか工夫したものだ。
何より大事なのはコマを巻く紐である。買ってきた紐を砂でまぶしてたたきつけて柔らかくした。紐は麻で出来ていたから、買ったままでは硬くてきっちりコマに巻き付けにくいからだ。私もコマと紐を買ってもらったのだが、使っているうちに紐の縒りが戻ってしまってグズグズになってしまう。父が「お前は左利きだからそうなるのだ」と教えてくれた。
そうしてわざわざ麻を買ってきて自分で左利き用に逆に縒った紐を作ってくれた。市販のものよりもさらに硬いその紐を私は砂をまぶして壁や石にたたきつけて柔らかくしていった。そうして少し大きめの重いコマを愛用してそれを闘いに持ち込んだ。コマとコマがぶつかると、私のコマは強かった。年上のガキ大将が、お前のコマは逆回りだから、ぶつかると却って元気が出てしまってずるい、などといちゃもんをつけたものだ。
父はあまり器用な人ではなかったけれど、コマは得意で、コマを空中に回しあげて手の上にのせるのは朝飯前、うまくいくと紐の上にのせて見せたりした。
父とは、思春期以降はあまり打ち解けない生き方をしたけれど、突然そんな子供のときのことを思い出した。
満州国成立前後の時代が、さまざまな人の立場から描き出されていく。第一巻のほとんどは、愛新覚羅溥儀つまりラストエンペラー、の皇妃・文繍の述懐が占める。皇妃とは皇后ではない。溥儀の皇后は婉容である。婉容は時代の流れが理解できず、麻薬中毒となって悲惨な生き方をする。ラストエンペラーでもそれが描かれていた。文繍は自らの意志で溥儀との婚姻を解消した。つまり皇帝の皇妃でありながら離婚を成し遂げた。
その結婚から離婚にかけての経緯を語りながら、そのまま清の滅亡後の清朝の残影を語ることになる。そこには『蒼穹の昴』の主人公であるあの春児(チュンル)も年老いた姿で登場する。話のなかには梁文秀まで登場するのだ。梁文秀は第二巻では満州国の執政となった溥儀の側近として登場する。
文繍の語る清朝の残影には西太后の影が色濃くかかっている。そしてその理由についてはこのシリーズを読んでいる人には自明のことであろう。天命であり、それを象徴するものがこの長い長い物語の芯を貫いているのだ。そしてそれが張作霖を爆死させ、張学良を東北の覇権から去る決心をさせるのだ。
運命と人の意志、それがあざなえる縄の如く互いに絡み合いながら歴史を紡いでいく。そのことを感じさせながら物語は展開していく。
今日は持病の糖尿病の定期検診日。昨日は夕方早めに軽い夕食を摂って、それからなにも口にしていないから空腹である。病院までの道のりがやや遠い。
病院の入り口で検温を受けるが、寒風の中を歩いてきたからLoの表示で、額やら首やら手首で測り直しても変わらない。・・・私は死んでいるのか。係のおじさん(たまたま看護師が忙しくて守衛のおじさんがかわりに測ったのである)が困っているから、「体温が高いなら感染の危険があるが、低いなら問題ないだろう」と笑いかけると、「あっ、そうか」と納得して通してくれた。考えてみれば寒風の中で冷えているはずなのに平熱ギリギリの方があぶないではないか。
衰えは足から来るというのは、とみに自分の体で実感しているところだが、病院で周りを見回せば、すり足よろよろ足の老人がひしめいている。ああなるのをなるべく先延ばしにしなければなあ、と他人を見てあらためて思う。
いつも感じるのだが、周りが見えていない人がときどき目につく。声高にうるさい人、人の通る道の真ん中に立ち止まってぼんやりしている人、列んでいる行列にあわよくば割り込もうとしている人。若い人のしつけがなっていないなどと怒る年寄りもいるけれど、年寄りだって他人が見えない人がけっこういる。鈍感さでは年寄りの方がひどいかも知れない。体だけではなくあたまの方も衰えているのかも知れないが、もともとそうだという気もする。
血液検査の結果は、ヘモグロビンA1cが7.1と数年ぶりに7を超えていた。医師は眉をしかめて、「いけませんねえ、このままでは心配です」と注意された。・・・たしかに私も心配です。「もう少し体を動かして過食や多量の飲酒は控えなさい」とのご託宣である。こころします。検診日にはいつも本気でそう思うのだけどなあ。
病院はずいぶん混んでいたのに案外早く診察が終わり、薬局も混んでいたわりに早く済んだのでいつもより一時間も早く帰宅できた。
昼は作る手間を惜しみ、弁当を購入して食べた。時間に余裕が出来たので、妻の病院に電話した。今度の病院は入院費などの請求書は郵送されず、電話で問い合わせて確認し、連絡して病院へ支払いに行くシステムだ。請求書の郵送の経費が節減できるし、別の雑費もまとめて払えるので電話は面倒だが前の病院より楽である。
午後車で病院に行き、会計を済ませてすっきりした。
第二次世界大戦末期、1945年3月、ナチスドイツのパルチザン掃討作戦の戦いを描いている。これは実話で、生き延びた兵士達が最後に登場して当時を述懐している。
パルチザンとナチスの戦いを描いた映画で私が特に感銘して、戦争映画のベストワンだと思っているのは、たびたびこのブログにも書いたように『ネレトバの戦い』というユーゴスラビアの映画だ。そのユーゴスラビアもカリスマだったチトーの死とともに分裂してしまった。
圧倒的な兵力と軍事力を持って攻撃してくるナチスドイツに対し、寡兵とはるかに劣る武器でゲリラ的に戦ったパルチザンは、多くが戦傷死し、そして病に倒れた。どうしてもその戦いを描く映画は重く、暗いものになる。この映画でもパチザンは勝利するのではなく、掃討作戦の虎口を脱して逃げ延びたと言うだけの物語ではあるが、その息詰まる緊張感はよく描かれていると思う。
サザエさんでは、三河屋の御用聞きの青年が各家庭に入り用なものを訊きに来て、後でまとめて配達してくれる。むかしはけっこう普通にあって、祖父母の家にも御用聞きの人がときどき来ていたものだ。いま高齢者の所帯がどんどん増えているから、そのような御用聞きがいればずいぶん助かるだろう。
それこそがネット通販で可能なことで、電子御用聞きが活躍できるはずである。問題はそのような電子御用聞きの操作、設定が出来ないお年寄りが多いことで、その利便性の認識、習熟のためのお手伝いのシステムを推進することが必要だ。そこに何か商売のチャンスはないだろうか。
スーパーでもプリペイド式のカードを使ってレジが楽になっている。何しろスムーズに終わる。ところが現金で払うお年寄りが多いのである。お年寄りは(私もお年寄りだが)財布を出して現金を数えるのも、もたもたして時間がかかる。お年寄りほど必要なことなのに、お年寄りほど使わない。私だって使えるのだから使えないはずはないのだが、最初から出来ないものと決めつけている。ポイントもつくしそのほうが得だと言っても「無理!」で終わりである。私の母が存命の時もそうだったからよくわかる。
必要な人に必要な知識を丁寧に教えることこそ電子決済を進めるための流通革命だと思う。たぶんマイナンバーカードの普及もそのへんが鍵なのではないのだろうか。
本日は糖尿病検診日。いつもの検診前の休酒節制をしていないので、どういう結果になることやらいささか不安。それにしても寒い。
生産者と消費者の間には、流通をになう業者が存在する。商社や販売店、そして運送業者などだ。商社や販売店は、生産者と消費者のベストマッチングのために存在し、それぞれが利益が最大になるようにする役割を担うことになっている。
私もメーカーの営業という仕事をしていて、ユーザーとの間に商社が介在する世界を体験してきた。商社のもうひとつ重要な役割に与信管理がある。直販にはリスクがあることが多いので、商社がそれを引き受けることになる。そのことから、しばしば商社の営業員のなかにはメーカーもユーザーも下に見るという勘違いをする者がいた。存在意味を見失った商社や販売店は、ただマージンをかすめ取る不必要な存在に成り下がる。
ものの見える上司がいて、命じられて私はルート整理、ルー短縮の仕事をしたことがある。マージンの見直しはもちろん、不要な代理店をカットしたり、ルート変更を強行したのだ。とうぜんそのためのリスクを生ずるからそれも対処しなければならない。凄まれたり、小さな代理店の高齢の経営者に恨まれたりした。世のなかがみんな仲良く甘い汁を吸いながら、なおかつ懐が温かいというわけにはいかない時代に変わっていることに気がつかない者は淘汰されるしかない時代だったのに、それがわからない人、放置している人のいかに多かったことか。
商社の存在を全否定する人もいるが、それは世のなかの仕組みが理解できない人で、私は商社の存在意味を大いに肯定する者である。ただ、その社会的役割をきちんとわきまえているかどうかと言う本質的な話をいま書いている。
ネット社会が一般化することで、必要な流通経費と、減らすことの出来る流通経費が顕在化した。生産者と消費者が互いに見えるようになってきたから、社会的役割を担っていない流通業者はますます淘汰され、逆にその役割をわきまえた商社はますます必要な存在になっていくだろう。どんな世界にも情報を持ちながら、異業種のコーディネーターとしての商社の役割は欠かせないのだ。
流通革命というと、すぐ流通に介在する商社を存在悪と見てしまう人もいるけれど、そうではないということを言いたくてこのブログを書いたが、うまくまとまらなかった。革命というと、過剰な淘汰が起こるということになるのだろう。地方の商社の経営者として苦労している友人もいるので、心配している。
久しぶりに出会った私にとっての傑作。監督、脚本、主演がエドワード・ノートン。共演がブルース・ウイリス、ウイレム・デフォー、アレック・ボールドウインをはじめとする名優揃い。1950年代のニューヨークが舞台のハードボイルド映画で、全編に流れるジャズナンバーが素晴らしい。エンドクレジットを最後まで見ることは普通ないのだが、ジャズに聴き惚れて最後まで眺めていた。
ハードボイルドの傑作は数多い。私がそもそも好きだから、高得点になるのだろう。最近の悪をバッタバッタとやっつける映画ではなくて、苦みの残る治まり方も気に入った。下手な正義感からではなく、不屈の精神が人の強さのもとであることを教えてくれる。現代のニューヨークがこのような時代を経ていることをあらためて思い出した。
私は寅年生まれなので、来年歳男である。歳男と年男、どちらがどういう意味なのかネットで見てみると、歳男は干支の歳の男で、年男は年始の主催者、若水を汲む一家の主をさすのが本来の意味らしい。
来年は五黄の寅の年。普通、暦は十干十二支で六十年を一回りとするが、これとは別に九星という年回りがある。暦を見たことのある人なら承知しているだろう。運勢を見るときにはこれが使われる。
十干十二支は十と十二の最小公倍数で六十年で一回りだが、九星と十二支の組み合わせの場合は最小公倍数が三十六であるから、三十六年で一回りとなる。来年は五黄の寅年となる。そして私は七十二歳なので、まさにその五黄の寅年生まれなのである。さらに私の父は私と三十六歳違い、つまり父も五黄の寅であった。
五黄の寅の生まれは積極的で気性が強いそうだ。だから母は、家にふたりも五黄の寅がいて・・・などとぼやいていたことがあるが、父も私もそれほど気性が強いとは思わない。そうか、父が生きていれば百八歳なのか。
新日本風土記の『湯布院』を観て、九州へ行きたいと思った。少し前から日田と柳川を訪ねたいと強く思っていたので、あらためて九州へ行きたいと思ったのだ。コロナ禍で、ずっと遠出がむつかしい状態が続いていた。今は義弟が予断を許さない状態(意識がなかなか戻りきらないで、高熱が続いているという)なので、長期でしかも遠くへ行くのは控えなければならない。
日田と柳川に行きたいのは、葉室麟の本を読んだからで、そこに書かれた歴史の跡を訪ねてみたいからだ。湯布院には二度行った。その時はケチケチ旅行で、小さな民宿に泊まった。今度はもう少しいい宿にゆっくり泊まってみたい。由布岳の雄姿もまた見たい。本当は国東半島にも行きたいのだけれど、あの階段だらけの寺寺を上り下りするのはたぶんもう無理だ。
北海道にも元気なうちにフェリーでわたり、少し長期間行きたいと思っているが、冬はさすがに自分の車では無理だ。夢見ているのは、東北から下北半島へ行き、そこから北海道へ渡って、ゆっくり周遊すること。
したいことがあること、それを夢見ることの楽しさを楽しんでいる。
昨日、公務員のボーナスが出たという。私は公務員ではなかったが、ボーナスを毎年もらっていた。リタイアしてそのボーナスとの縁が切れてもう10年経った。ボーナスをもらうと、あれを買おうか、どこに出かけようかといろいろ思い描いて嬉しかったものだ。しかし、今欲しいものは何か、と考えると、心ときめくような欲しいものというのが思い浮かばない。海外旅行ももう行くことはないとあきらめている。車もあらたに買い換えることはまずないだろう。
もしまとまった金が手にはいっても、使い道らしいものがあまりない。美味いものは食べたいけれど、欲にまかせては命を縮めてしまうだろう、などと考えてしまう。ちょっとしたぜいたく程度なら、別に今のままでも出来ないことはない。子供たちも自立したから心配いらないし。
小牧の国道41号線での多重事故のニュースを見て、他人事に思えなかった。春に追突事故で怪我を負ったけれど、そのときのことがフラッシュバックのようによみがえった。東京から小牧までが東名高速、小牧から西は名神高速でインターチェンジがある。この周辺は自動車関連をはじめとする工場や倉庫がとても多いから、トラックがひしめいて、いつも渋滞する。国道41号線は名古屋から犬山を過ぎて木曽川を渡り、髙山から富山に向かう道で、私もよく通る。三車線、四車線の道路だが、トラックがとても多いからイライラするほど渋滞するので通過にはいつも時間がかかる。
こんなところで追突されたらひとたまりもない。原因となったトレーラーが最初にぶつかったのがトラックだったから死者は出なかったが、乗用車だったら即死していただろう。春、私に追突したのはX-トレイルだったが、トラックではなくて死ぬのを免れたのだとあらためてぞっとした。
息子が念のための確認、といって夕方、「大丈夫か」とメールをくれた。一度あることは二度ある。万一を心配してくれたのだろう。ぶつけられた中にマツダ車もあったから気になったのだろう。いつもふらふらと出かける親父だから、そこにいないとは限らないのである。
無事である旨返信した。心配してくれてありがとう。
飛鳥寺からほど近いところに飛鳥座神社がある。
飛鳥座神社の鳥居。正面の階段を登った高台にある。
参道。誰もいない。
拝殿。
拝殿向かいにあるのは神楽殿だろうか。この神社は毎年二月に行われる奇祭で有名。ここで演じられる神楽はかなりエロチックなものだという。そもそも豊穣というものは性的なことを経て得られるのだから、神事がそれを再現するのは自然なことなのだろう。先日の糸魚川の長者原遺跡の出土品である石棒などを見てもそれは明らかだ。
左手に曲がると飛鳥寺、後ろが飛鳥座神社。写真ではそこそこ道幅があるように見えるかも知れないが、奈良のこの辺の道は狭い。そこを路線バスが走る。こういうところを車で走ろうとは思わない。
飛鳥寺に戻り、バス停でバスを待つ。時刻表に合わせて戻ったのだが、乗るつもりのバスはこの時期は走って居らず、寒風の中を30分ほど石の上に座って本を読みながら次のバスを待つことになった。
だらだらとした飛鳥路の散策の記事にお付き合いいただいてありがとうございました。
飛鳥寺の飛鳥大仏。ここは珍しく自由に写真撮影が許されている。
飛鳥寺は蘇我馬子の発願で建立された。五重塔を中心として回廊に囲まれた一塔三金堂(この様式は極めて特殊で、日本ではここだけ、中国と韓国に痕跡の残る寺があるらしい。私には聖徳太子の建てた大阪の四天王寺がよく似た様式に思えるが、あそこは二金堂である)の大伽藍だったが、鎌倉時代にほとんど焼失した。現在の飛鳥寺は江戸時代に建て直されたもの。塔も金堂もない小さな寺になってしまった。
本尊はこの釈迦如来。法隆寺の仏像たちと同様、鞍作鳥(くらつくりのとり)の作で、顔立ちも似ている。ライトの加減で輝いて見えるが、実際はほぼ黒い。銅に金を加えた銅像。公は推定で30キロ使われたという。もともとは立派な光背もあり、高い台座にましましていたが、本体だけが辛うじて残った。奈良時代には光背とともに光り輝いていたという。
こちらの方がほんもののイメージに近い。鞍作鳥は帰化渡来人の孫で、個人というより渡来人の持ち込んだ技術を持つ技術集団の代表ということではないだろうか。当時は天変地異や疫病が流行し、仏教を支持する蘇我氏と排斥しようとする物部氏との争いが激しかった。その好きに勢力を伸ばしたのが藤原氏だ、というのが梅原猛の説である。現代も天変地異や疫病が流行しているが、何に頼るか、日本人は迷いの中にいるように思える。ときにはこのような仏像を静かに眺めて無心になるのも好いのではないか。
これが飛鳥寺の表門。駐車場があり、バス停もこちら側にある。バスで来るときは橿原神宮前から乗ると良い。帰りはそうしたが、その前にもう一カ所だけ足をのばしてみた。
アメリカ主催の「民主主義サミット」を世界の分断を招くものだ、と中国が批判した。分断を招いているのは中国ではないか、と言いたい。たしかにトランプが大統領だった時代、彼は世界を分断へ向かわせてしまうような行動をとり続け、特に自国の分断を顕在化させてしまったことは間違いない。だから中国のメディアは、白人警官が黒人に暴行を加えているシーンや、トランプ支持者たちがホワイトハウスになだれ込んでいるシーンを繰り返し映像で流している。
しかしトランプをそのような行動に駆り立てた要因のひとつとして中国の覇権主義があることも事実であって、中国がそのような覇権主義的な行動を取らなければ今のような世界にはなっていないことはたしかなことだと思う。防衛のための軍備だと言いながら、それをはるかに超える軍事力増強を続け、周辺国に威嚇行動を繰り返し、隙があれば乗りこもうとしている。すでにそれは想像ではなくて、明日起きてもおかしくない侵攻のリアルなイメージではないか。軍事侵攻ではなくても軍事力を背景にした経済侵攻はすでに世界で進行している。
バイデン大統領は民主主義サミットの冒頭で「民主主義体制維持のためにはリーダーが必要だ」と述べた。語るに落ちるというのはこのことで、このサミットを開いたのは自分であり、アメリカであり、民主主義世界のリーダーは自分だ、そしてアメリカだ、と公言したようなものである。ヨーロッパの首脳たちはさぞかし鼻白んだことだろう。にこにこと無意味な笑いを顔に貼りつけていたのは岸田首相だけかも知れない。
アメリカは世界に分断の要因を作ったトランプの非をわび、世界に向かってもう一度、この指にとまってくださいと頭を下げなければならないはずなのだ。強い者ほど謙虚にならなければ、だれも本気でついていこうなどとは思わないものだ。とはいえ今はアメリカが中心になってまとまらなければ、中国やロシアの覇権主義に対抗できないのはたしかだから、せいぜい仲良くしてほしいものだ。
白馬非馬論に有名なように、中国は詭弁の得意な国だと関心させられることが多い。何しろ中国は自分の国こそがもっとも民主的な国だと本気で主張しているのだから。本気であるだけに互いに理解し合うのは困難であることを思い知らされる。
白馬非馬論は、昔なるほどと思ったことがあるが、今はその論理がどうしても納得できない。知らない人はネットで調べて欲しい。納得できない私には説明が出来ないので。ただしその納得の出来ない延長線上に中国の論理があるらしいことは理解できる。
中国はアフリカやアジアなどに自分の国を支持する国が多いことを自慢している。そのほとんどが中国に札束で顔をはたかれている国々であることは、たぶん中国が経済的に停滞したとたんに明らかになるだろう。金の切れ目が縁の切れ目である。だから、つい中国の経済が破綻することを願ってしまう。中国国民にとっては不幸な事態だが、太平洋戦争で完膚なきまでに日本が潰えたことで軍部の支配が終わり、戦意という国民的熱狂も醒め、民主主義が確立されたように、中国も共産党の洗脳を脱するには一度そのような破滅を味合わなければならないような気がする。
飛鳥寺へ向かって甘樫の丘の下の遊歩道をてくてくと歩いてゆく。
前方はるかに見えるのは多武峰(とうのみね)だろうか。
甘樫の丘はなだらかな岡の上にあり、歴史公園として整備されている。蘇我氏の大邸宅があったところと言われる。登れば耳成山も天香具山、畝傍山、二上山が望めるそうだ。今度行ってみようと思うが今回はパス。
古代がそこに覗いている。
紅葉の名残がそこだけ輝いて見えた。
対岸に大きなお寺の屋根が見える。方向から橘寺であろうか。案外近いのだ。
飛鳥川をまたぐ飛鳥橋。なんということもない川にかかる、なんということもない橋をわたる。
そこからたんぼ道をショートカットで飛鳥寺を目指す。飛鳥寺が見えてきた。
わかりにくいが、左手前の石塔は蘇我入鹿の首塚。ここから見える飛鳥寺は裏側にあたる。右奥に見えるのが裏門。
蘇我入鹿の首塚。
この時期、赤いものがあると目立つ。最初酸漿かと思ったが、花だった。名前は知らない。
裏門から飛鳥寺の境内に入る。
欽明天皇陵から飛鳥路を歩く。
寒さをしのぐように寄り集まってもっこりと咲く菊の花。
健康そうなキャベツ。力強さを感じる。
白菜。漬け物を思い出した。
木枯らしが吹きぬけて向こうの竹林が風にざわめく。
鬼の雪隠と呼ばれる石が見えてきた。
鬼の雪隠を正面から。これをまたぐのはなかなかたいへんだ。
実は石棺の上部が上から転がり落ちたものだろうと言われている。
すぐ近くの高台にある鬼の俎(まないた)と呼ばれる石。この上を覆っていたのが下の鬼の雪隠と呼ばれる石ではないかということだ。
人家はともかく、自然の風景は千数百年前から変わらない。
小さな十字路に石仏らしきものがあって花が供えられているが、どんなお姿なのかよくわからない。
広い通りにでる。このまま甘樫宮跡の前を通って飛鳥寺に向かう。あと二キロもあるのか。
しかしまだ比較的に元気だ。
夕方、友人たちと奈良で会食の約束をしていたので、その前に久しぶりに飛鳥を歩くことにした。
名古屋から近鉄特急アーバンライナーで大和八木へ、乗り換えて橿原神宮前へ、さらに乗り継いで飛鳥駅に行く。ようやく雨が上がったばかりで寒い。
飛鳥駅から一番近い欽明天皇陵へ向かう。道を知っていれば歩いて十分足らず。標識などがわかりにくいので、最初のときは迷った。
欽明天皇陵。
山茶花の向こうに見えるのは猿石のある吉備姫墓。
欽明天皇陵から左手に曲がり小さな丘の上に行く。道が狭い。
吉備姫は孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母である。吉備というのは名前であるのだけれど出身地の吉備地方(岡山県)のことを指すのだと思う。当時皇妃は吉備地方から来ることが多かった。吉備地方にはそれだけ有力な豪族がいたことを示すのだろう。
猿石。
もうひとつあるのだが、三つだけにしておく。
これから向かう飛鳥路を望む。かろうじて雨は落ちてこない。
奈良市内ではないけれど、本日は友人ふたりと奈良県のある街で会食。友人の一人は奈良県に住んでいるし、一人は大阪で、位置的に互いに都合が良い。それに天気の具合で冬の飛鳥をちょっとだけ散策できればと思っている。近鉄なら、奈良は名古屋からそう遠いところではない。もしF君が存命なら必ず加わっていたはずで、話題は彼のことに、思い出話が多くなると思う。
最近酒にとても弱くなっているので、昔のつもりで飲み過ぎて失敗しないようにと思っているが、盛り上がったらどうなるかわからない。この記事は、だから朝書いておいたもの。
朱建永氏が語る中国は、こうだったらいいなあ、と思う中国で、そう思うのは日本のいわゆるリベラリストの思う中国である。朱建永氏が本当にそんなことを信じているのか、そう語ることが中国の説明として都合がいいと考えた上の計算ずくであるのかはわからない。ごくたまに本気らしいと思わせるときがあるのだが、一度中国で長期間拘束されて以後の彼は以前の彼ではない。以前の彼は中国に希望を持っていたように見えた。
彼がテレビ局に招待されて意見を述べるとき、中国当局と打ち合わせての上だと思われる。なぜなら朱建永氏は自分なりに中国に良かれと思うことばを選んで語ってきたはずなのに、中国に帰国したときに当局に拘束されたからだ。彼も確認をしなければ自分の身が危ういことを身にしみて知らされている。だから彼がムキになって論理を外してまで過剰に中国の立場を擁護するのは見ていて哀れを催す。こういう仕事を続けて生活しなければならないのなら、自分の内部で分裂したまま生きなければならない。彼だけではなく、知識と理性のある中国人の多くはそのような分裂を抱えて生きているのだろう。
日本に帰化して中国を激しく批判している石平氏と、中国擁護に終始する朱建永氏は全く正反対に見えているけれど、実は心情は最も近いのかも知れない。だから彼は当局に拘束されて洗脳を受けた(私の想像です。した方もされた方も、洗脳したとかされたとか言うはずがないからわかりません)のだろう。
高坂正堯氏の『現代史の中で考える』を読み始めていろいろなことを考えている。考えるばかりでちっとも読み進まないが。冒頭でロンドン万国博のことが書かれていて、産業革命を真っ先に成功させたイギリスが、どうして重工業でドイツなどに追い越されていったのか、そのことについて考えている。それが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまでいわれた日本の停滞または衰退の原因と似ているように思うからだ。
たぶん高校時代だったと思うけれど、なぜ敗戦国の日本やドイツの製造業が大いなる復興を遂げたのに、戦勝国の産業はそれに後れを取ったのか、教えてもらった。それは国土が焦土と化し、ほとんど全ての工場が消滅してしまったからだという。そのために日本もドイツも歯を食いしばって最新技術の最新設備を作ることになった。それに対してアメリカなどの戦勝国は、古い工場が生きているからそれを稼働させていた。とうぜん生産性も品質も著しくちがうことになり、たちまち日本もドイツも復興を成し遂げていったというのだ。
もちろん敗戦国なら必ず先んじることが出来るのではなく、投資を行う意欲がなければ敗戦国は最貧国のままであることは、論を待たない。アメリカの製造業は日本を恨み、ずいぶん理不尽な制裁を加えてきたけれど、自国の製造業を保護することによって却って製造業を衰退させていった。それでもアメリカは基軸通貨を持つ国として、金融で稼ぐという方策をとり、豊かさを維持することが出来た。他の国にはけっしてできないことである。
場合によって、まだ使える設備を廃棄して最新の設備に換える必要がある。それが設備投資である。日本は設備投資を怠った。怠り続けた。設備投資だけではない、人的投資も怠り続けた。最先端の技術を持つ人材が容易に韓国や中国にヘッドハンティングされていくのを現役時代に数多く見た。優秀な人間ほど設備投資に意欲的で、経営者に提案するが、無能な経営者はそれを煙たがり、優秀な人ほど会社にいづらくなって辞めていった。イエスマンばかりが経営者の周りに残った。
韓国や中国は日本よりも最新の設備や技術を導入し、投資し、次々に日本を追い越していった。人的投資も行っていった。日本はひたすらコストダウンでそれらの国と競争しようとして、投資はしないままあろうことか人件費を削り、優秀な人間を手放した。経営者がおろかだったから、コストダウンは経費節減であると思い込み、企業を衰退させていったのだ。
テレビで観ていると、ものの値段が上がることは悪だ、というプロパガンダがマスコミによって繰り返されている。こうして日本の産業は停滞し、衰退し、賃金は上がらず、将来に希望を失って人口減少を加速させている。
デフレマインドとはそういう代物で、それを打破しない限り日本の未来は開けないだろうなあ、と思う。しかし、もうそれが染みついてしまって取り返しがつかない国になっているような気がして私は悲観的だ。もう日本には気概のある若者を育てる企業も風土も失われてしまった。そもそも経営者に気概のある者が見当たらないらしいのは、のべつテレビのニュースで頭を下げている愚かな経営者ばかり見せられていることでよくわかるではないか。正直うんざりしている。
妻が家を去って三十年近く、子供を育てて、そして独り暮らしになってからも、外食はほとんどせずに自炊したから、料理といえるようなものではないものの、手際よく三食作ることには慣れている。しかし次第にマンネリ化して、レパートリーが限定され、食べるものも偏っていると案じていた。
思い立って料理番組を片端から録画して、作れそうなものをディスクにファイル化して残している。すでに三十以上のレシピがそこにある。お気に入りは三分クッキングと、上沼恵美子の料理番組だ。食材にあまり特殊なものが使われず、手間も比較的にかからない料理が多い。昨晩は中華風味付けのポトフを作った。そのために花椒(フォアジャン)という調味料を初めて買って使った。私はいいかげんだから調味料の使用量も適当で、初めて作ると首を傾げる味になることが多い。しかしそれで次は何を減らし、何を増やせばいいのか、経験することが出来る。最初がひどいから、もう一度作れば前より必ずましになる。
けっこう好い酒のつまみになった。ほかにも二三品試している。漬け物も必ず食卓に上るようになった。今日は小松菜の野沢菜漬け風。隠し味の砂糖がちょっと多かった。次回は減らそう。それでも充分満足。
夏に、何十年も使っていた蒸し器があまりにもくたびれたので、ステンレスの少し大きな蒸し器をアマゾンで購入した。これならトウモロコシをまるごと蒸し上げることが出来る。シュウマイも茄子も栗もこれで蒸す。数日前には豆苗の豚バラ肉巻を作って蒸して酒の肴にした。これは簡単だったから、まあ満足のいく仕上がりとなった。料理番組を観ていると、とにかく下ごしらえのひと手間が重要であることを教えられる。肉や魚は特にそうだ。
失敗を体で経験して記憶し、次に活かす。料理はまことにボケ防止に最適である。ずっと使わなかった下ごしらえに使えるバット類を引っ張り出して磨き上げた。ピラーなどの小物類もいろいろ揃えた。鍋類も少しずつ買い換えて楽しむつもりだ。道楽はいつまで続くだろうか。
先崎彰容氏が「合理性」を見直してもいいのではないか、と語っていて、深く感ずるところがあったことは少し前にブログに書いた気がする。そのことの意味をずっと考えている。
ものごとの価値判断、優先順位を考えるときに、合理性を基準に考える。どちらが大事か合理的に判断するということである。それは極めて合理的なことで、感情に走っては間違うことが多いから正しい行動である。それを見直すというのはどういうことか。
学生時代、寮で一番親しくしていた友人と激しい口論になって、そのことだけが理由ではないけれど、疎遠になった。千葉の私の祖父母の家に泊まるほどの仲だったので、疎遠になったことは今でも残念に思っている。多くは私のせいである。その時の論点は、全てのことは数値的なイメージで計量可能に違いない、という私の主張に、彼が、計量可能でないものがこの世にはたくさんあって、全てが計量可能だというのは功利主義だと反論されたのだ。
性格的には彼の方が合理的な思考の持ち主で、私の方がどちらかといえば観念的だったから、不思議な言い合いになった。友情も愛情も全てグラフ上の大小にプロットできるという私の暴論に彼が噛みついたのだ。私は暴論を語っていると承知で、しかし人はさまざまなものと自分との関係はそのような計量的な物差しを持って価値判断しているのではないか、と思ったし、今もそれは間違っているとは思わない。
そのままだと嫌われそうだから釈明すると、問題はその物差しのことで、物差しが損得という経済的なものだけで考えるのか、もう少し広い意味で考えるのか、ということなのだけれど、彼は、私が全てのことは金銭に換算できると考える人間だと誤解したから、その誤解を私が残念に思い、感情的になって上手く説明できなくなった。
先崎氏が言う、「合理的」を見直さないか、という提言は、現代がことごとく経済合理性を「合理的」と見做していることに警鐘を鳴らしていたのである。蓮舫氏の事業仕分けも合理性をもとにしたものだし、今教育界もそのような合理性を基準に価値判断されている。それが何をもたらしているか、気にかけている人ならすぐ思い当たることだろう。
橋下徹氏の法律論を、「合理的」ではあるが、として先崎氏はこの警鐘を語った。合理的であることで全てを語るな、と言う言葉には、経済とは違う価値観が最初から見失われていることへの警鐘がこめられていると思うのだ。日本の衰退がこの経済合理性で全て軽重を決めていることに起因しているのではないか、と指摘したのだ。
体重計で身長を測ったりしていないか。
なんだかむやみに焦っている。師走に入ったことを割り引いてもほとんど尋常ではない。こういう気持ちに断続的になってしまうことがあり、次第にひどくなっている。さて具体的に何をしなければならないのか、改めて考えると山のようにあるようでいても、たかが知れたことばかりだ。ところがこれをしなければ、と思ったことを始めると、それに集中できなくて別のことが気になって落ち着かない。
ちょっと遠出をすると全てを忘れてしまえるのだが、以前ならそこでリフレッシュして、帰ってしばらくは気持ちが落ち着いているのに、このごろはすぐにふたたび焦燥感にあぶられる。そうなると何も考えられずに、おかしなことにぼんやりすることが多くなる。イライラしながらぼんやりするというのも不思議なことだ。
おぼろげに気付いたのは、焦燥感はタイムリミットと関係しているということだった。だから焦燥感は次第につのるのか。わかったからといって解消するものではないようだ。タイムリミットとは、言うまでもなくお迎えがなんとなく念頭にチラつきだしたということである。
一連の政治の出来事を見ていて、多くの人が政治に失望していると思う。もともと政治に失望している人が多いからこその投票率の低さだけれど、それでもかすかに希望を持っていた人々にも一連の出来事はさらなる失望を味合わせたと思う。失望の底が抜けてしまったような気がする。そのことの恐ろしさを自民党は次の参議院選挙で痛烈に味わうことになるだろう。自民党は、今回の衆議院選挙での立憲民主党の思わぬ自滅で勝ったつもりになっているらしいが、とんでもない勘違いである。
子供のいる所帯への金のばらまきが、選挙目当ての公明党のごり押しだとだれもが感じているところへのクーポン配布のための経費の話である。一括払いでは子供への本当の手当になるかどうかわからないという批判を懼れて、公明党はさらにややこしいことにしてしまった。問題はそのことに対しての自民党の面々の国民に対する白々しさである。問題を問題として受け止める気がないということを天下に示したと言っていい。他人事なのである。
泉田議員と星野新潟県議の騒動は、だれが見ても星野氏の負けであるようにしか見えないし、マスコミは猫が捕らえた鼠をいたぶるように、星野氏にマイクを向けて、彼が見苦しく逃げ道をさぐっているのを笑いものにしている。哀れとしか言いようがない。もちろん自らが招いたことなのだが、自分のしたことがなぜ非難されるのか理解する知性を欠いているから、まだ非を認めることが出来ない。
海外から日本への入国規制が、日本人の帰国者にも一律適用されるという、およそあり得ない指示を国交省が各航空会社に通達したことは、大いに問題である。問題を指摘されてあわてて、役人が勝手に行ったことで大臣も首相も知らなかった、と言い張っているが、本当ならとんでもないことだし、知らされなかった大臣や首相はアホである。アホだと罵られても自分たちが指示したことと認めるよりもいいと考えて役人を人身御供にしたならそれ以上に問題だ。
ちょっとほとぼりが冷めたからと、好きで海外に行った人間をどうして受け入れるのか、と考えた国民もいるだろう。たぶん今回の指示を出した人間の心にもそういう気持ちがあったかも知れないし、そう国民が思うだろうと勝手読みしたともいえる。しかしそういう人間もいたかも知れないが、多くはビジネスで出張していた人々や海外で暮らして活躍している日本人である。その人たちを閉め出すなど、国の体をなしていない。橋下徹氏が全く同じように激しく非難していたが、同感である。そのことに気がついて言い訳のために役人のせいにしたのか。それなら政府の責任とは何か。知らなかったで済むと思うその甘えと驕りに吐き気がする。
岸田内閣の支持率は上がって安泰に見える。しかしその水面下で続くほころびに対する怒りと失望はじわじわと政権にボディブローで効いてくるだろう。何しろこれだけ重大な問題を自分の問題として考える様子が少しもうかがえないのだから。
あとで気がついたけれど、文書交通費百万円のことを書こうと思っていたのに忘れていた。茂木幹事長のの言い訳を聞いてガッカリしたことだけ記しておく。
糸魚川を散策した晩は、姫川温泉に泊まった。名前の通り、姫川沿いにあるひなびた温泉で、姫川に沿う国道148号線から近い。国道148号線は糸魚川から姫川、小谷村(おたりむら)それを過ぎると147号線になり、大町、松本へといたる。
小谷村から長野県になるのだが、少し手前の姫川を渡った姫川温泉は、長野県に属する。宿の女将さんが、天気予報は長野県と新潟県の両方を見ないとわからない、といっていた。
宿の部屋から姫川と大糸線を見ることが出来る。ふだんは姫川は澄んでいるが雨が降ったので濁っている。対岸は新潟県になる。
この姫川温泉には十年ほとど前に泊まったことがある。この宿は五階建てで五十部屋以上ある。前回は仲居さんもいて宿の料理人もいたのに、ほとんど宿泊客がいないからだろう、板前も仲居も見当たらず、ひっそりしている。玄関では廃業の気配を感じさせた。姫川温泉は湯量も豊富だし、源泉は60℃以上あって加水加温なしの掛け流し名のだが、カランの半分はシャワーがない。一人で静かに滞在するのには好いけれど、夜は静かすぎてひんやりしている。
食事はそこそこだけれど、仕出しのものと宿で作っているものが混在していて、焼き魚などは冷たくなって硬くてみぞりにくくてこまった。わびしい。これは宿のせいではないのだけれど。
部屋は一人で十畳敷きを占領している。
人静かにして魚自ずから躍る。風定まりて荷さらに香る。
と読むのだろうか。荷とは中国では蓮のことである。緑雨は斉藤緑雨のことか。明治時代の文筆家である。
落款があるから真筆ということなのだろう。
翌朝も雨。南の小谷村の方を見ても上がる気配はない。ゆっくり湯に浸かってからどこにも寄らずに自宅へ帰った。
以上で今回の小旅行は終わり。
糸魚川フォッサマグナミュージアムから歩いてすぐのところに長者原考古館があり、その先に縄文遺跡があって、その出土品を展示している。すぐ近いのに妙に疲労していて、歩くのがつらくなっていたが、わざわざ共通券を購入していたので見に行った。
考古館の磨りガラスの窓にこんな影絵があって、いささか和む。
なかなかみごとな出土品。
祭祀用の石棒。何を象徴しているかは見ればわかる。遺跡を見に行けばこの石棒によく出会う。
火焔型土器。たしかに機能的というよりも芸術的だ。岡本太郎を思い出す。
ガラスケースの中で、縄文人たちが作業にいそしんでいた。
展示棚の向こうにガラス越しに修復整理中と思われる土器が見えた。こういう見せ方もいいと思う。
このあと考古館から長者原遺跡に向かう。五分ほど、ということだったがもうちょっと遠かった。
このような藁葺きの建物がいくつか散在している広い草原が長者原遺跡らしい。どの建物かでヒスイを加工した痕跡もあるという。
一番奥の建物の前で座り込んでいる人がいる。女性か男性かよくわからない。私もこちら側でしばらく座り込んだのだが、この人はずっと座ったままだった。
ひなたで座った膝にトンボが止まって動かない。羽がボロボロで、もう寿命が近いのだろう、飛び立つ力がないのかも知れない。
藁葺きの建物はこのような発掘跡に建てられているのだろう。
疲れた足を引きずるようにして遺跡をあとにした。たいして歩いていないのに・・・。
糸魚川フォッサマグナミュージアム。入り口は左手を回り込んだところにある。
この日は11月30日で、翌日から二ヶ月ほど改装のために休館となる。最終日だから混むかも知れないと思ったが、いつも以上に人が少ないくらいだった。ブラタモリでは長者原遺跡を紹介しているのに、このミュージアムを紹介していなかった。休館になることがわかっていたからだろうか。
このあと、この日の宿の姫川温泉に向かう。車ならそれほどかからない。
次回はおまけのようなこの旅の最後の報告。
フォッサマグナミュージアムのヒスイコーナーの次には日本列島形成のビデオコーナーや、フォッサマグナが海底から陸地になっていった様子を知ることが出来るコーナーがあって、とてもおもしろい。このミュージアムの最も主要部分ともいえるが、一度飽きるほど見ているので今回は写真を撮らず。
次のコーナーが化石で、これも大好きなもの。これはキャプションなしで、目を惹いたり写真に撮りやすかったものを撮りまくったので、見ていただく。不思議だなあ。こんな生き物たちがむかしはいたのだ。それが今もいたりする。
好いなあ。見飽きないからあっという間に時間が過ぎていた。
次は同じように私の好きな鉱物のコーナー。このミュージアムの圧巻はここだと思う。
フォッサマグナミュージアムは糸魚川市の郊外の高台にある。
公園におかれている大きな石はヒスイの原石かと思われるが、よくわからない。館内の展示室入り口に置かれた大きなヒスイの原石に似ている。
ブラタモリを観ている人なら知っているだろうが、フォッサマグナとは、左の糸魚川静岡構造線と右側の柏崎千葉構造線に挟まれた大地溝帯のことを言う。もともと日本列島は大陸から離れた二つの島で、西側の島と東側の島に挟まれたこの大地溝帯は海だったが、火山の噴出物や両側の陸地から流れ込んだ土砂で埋まって陸地となったものであることが分かっている。
火成岩。地下のマグマの高温高圧にさらされた岩石や溶岩そのものが固まったものを火成岩という。
堆積岩。陸上や水中で堆積して長い間に圧縮して岩石になったもの。以前は火成岩に対して水成岩と呼ばれていたが、厳密にはちがうところがあるらしいがよく知らない。
石英とメノウ。石英は河原で探すといくらでも見つかる。というより河原の石の多くは石英が主成分である。以前はたくさん集めて持っていたはずなのだが、いつの間にかなくなった。ケイ素つまりガラスの主な成分でもある元素で出来ている。
糸魚川の山地にはヒスイの原石が露出している場所があり、それが崩落して姫川やこの周辺の川によってみがかれながら流れ下って海にいたる。海辺で拾うことは許されているが、川でヒスイの原石を拾うことは法律違反のはずである。
もともとヒスイは白いが、深い地底から地上に上がってくるあいだに周辺の岩石の成分によってさまざまな色に染められることがある。これは緑色。
このヒスイは祖父のもっていたものに似ている。私がまだ小学校の低学年だった頃(六十年以上)前のことである9、祖母と二人で姫川温泉かどこかに泊まりに行って、河原で拾い、リュックに入れて持ち帰った。小ぶりの漬物石くらいの大きさで、せっせとみがいていた。当時は許されたのか、または当時も違法だったのか知らない。あのヒスイはどこへ行っただろうか。祖父は地質の専門家だった。きれいな宝石としてのヒスイがたくさん展示されていて美しかったが、その写真は撮らなかった。
次回は化石を。
前回のブラタモリで親不知の紹介があったが、どの場所からの映像なのかよくわからなかった。親不知のあたりの道には駐車場を作れるようにスペースがほとんどないのだ。心当たりは二カ所、たぶんこの辺かと思った場所に車を停めたところ、ドンピシャであった。
そうそう、まさにここだ。
上から見下ろす。足のすくむような断崖だが、海は素晴らしく澄んで青く美しい。この水際を歩いたなどとは信じられない。
潮が引くともう少し歩く場所があるのだろうか。加賀街道はこの海岸線にあり、参勤交代もその道を行ったのだ。この場所のすぐ西側が市振で、芭蕉は親不知のことはあまり詳しく書き残していない。句に詠むどころではなかったのだろう。
右手、東側。当時の人々が歩いた浜辺が見える。道路を作るようなスペースがないから、向こうに見えるように高速は海上の橋の上とトンネルを走る。崖に張り付いているのは国道8号線。
高速の海上橋。親不知のインター下には道の駅があり、そこでたら汁を食べることが出来る。
タモリが説明を受けた場所。これが立山山系、つまり北アルプスの山が後ろから押されて海に落ち込むところの先端部。
見上げる。こんなものがどんどん後ろから押されて崩落しているのだ。
全てブラタモリで観たとおり。観てみたいなあと思ったものを観て満足した。
このあと本日のメインの目的地の糸魚川フォッサマグナミュージアムに向かう。
前夜久しぶりに金沢で外飲みした。一昔前の半量で酩酊した。だからこの朝はゆっくりと出立。金沢はまだ朝の混雑が残っていた。
金沢東インターから北陸道を東へ向かう。魚津手前の有磯海のパーキングで休憩。
前回この道を通ったときは、この先にある親不知手前の市振(いちぶり)の道の駅に立ち寄ったが、奥の細道で有名な場所なのに芭蕉の碑が見当たらなかった。ところがこの有磯海(ありそうみ)のパーキングには芭蕉の句碑があった。
早稲の香や わけいる右は 有磯海
句意が左手の看板に書かれているが、芭蕉は有磯海に行っていないようだ。この道を右へ行けば有磯海なのだなあと、ここへ来た当時のことを詠んだ句なのだという。そうなのか。
私はこういうものがあまり好みではない。このあと背広の男たちが馬鹿笑いしながらこの鐘をガンガン鳴らしていた。互いがバカな仲間であることを喜び合っているように見えた。
観覧車があるのは魚津の遊園地で、その手前には魚津の水族館がある。魚津には埋没林博物館があり、三回ほど訪ねている。そのついでに二度ほどこの水族館にも行った。魚津は蜃気楼が見られることで有名。左手から腕を伸ばした能登半島が向かいに見えている。
魚津を過ぎて旭インターで国道8号線に降りる。北陸道はトンネルと海上に作られた橋の上を走るが、国道8号線はこのように崖の中腹をうがって作られた道を行く。左手は断崖がのぞき、狭い道をトラックが爆走するのでスリル満点である。この先で片側交互通行となっていて、今停車中。走りながら撮ったのではないのでご安心を。
わざわざ国道を走るのは理由がある。
ブラタモリで親不知のむかしの難路を断崖上から見下ろしていた。その場所へ行きたいと思ったのだ。ただ、どこかわからないが、たぶん、と思うところがあった。さいわいそこを見つけることが出来た。そこにあった石碑。
翆峰という人の
親不知 雪は海から 天に降る
なんとなくイメージかわかるなあ。
このあとブラタモリでタモリが見た場所を実際に見ることが出来た。それは次回に。
現役時代、金沢に単身赴任していた時代がある。仕事で福井へ行くことがたびたびあり、この尼御前のサービスエリアで一休みすることもあった。海側のサービスエリアの裏から外に出ると眺望のいいところがある。そこに名前の由来の尼御前の像があって、私のお気に入りである。
私の知っている女性の像で最もその容貌が美しい像だと思う。うら若い、少女にも見えるこの女性には哀しい話がある。この尼御前は義経が陸奥国へ落ち延びるときに同行していたのだが、このすぐ先の安宅の関で、女性である自分が同行していては一行がとどめられて義経に危難が及んでしまうと考え、この裏の断崖から身を投げたのだ。安宅の関での『勧進帳』はそのあとの話だ。
見下ろす海には波が打ち付けている。
地質は砂岩のように見える。東尋坊あたりとはまるでちがうようだ。
西側は日が傾いて逆光に海が輝いている。
崖の途中の階段から白山が見え隠れしているが、断片的にしか見えない。ようやく一カ所こうして撮ることが出来た。その名の通りの雪をかぶった白い山になっていた。
びっくりさせてしまったかも知れない。これは正面から見たマンボウの顔。マンボウは水槽の表面にぶつかって傷つき、寿命を縮めることが多いので、表面に衝撃緩和の処理がされており、そのために像が歪んでしまう。それにこのマンボウ自身もすでにずいぶん傷ついているようだ。
美味しそうに見えてしまう。そう思う人は多いのではないか。
亀も水中だと身動きが軽やかだ。
魚は動きが速いものが多いから上手く撮れない。こういうじっとしている魚はその点撮りやすい。
クラゲはかたちが不思議であるから絵になる。
こういう危険なクラゲも、ライトアップで妖しい美しさを見せてくれる。
リュウグウノツカイの頭部。長いので、全体を撮るのは無理。目を見ればわかるが生きてはいない。
ショーのある場所へ出て海を眺める。溶岩が吹き上げてきてそれが急速に冷やされて固まった様子がとてもよくわかる。
ペンギン館の中に入ったら、置物のようにじっと固まったペンギンたちがいた。溶岩か。
水族館が好きで機会があれば立ち寄る。同じところに何度も行ったりする。ここはあまり大きくないけれど、それなりに見物もあって満足した。
ここから最寄りの金津インターに乗り金沢に向かったが、尼御前のサービスエリアでちょっと散策した。
次回は尼御前。
遊覧船に乗るために、崖に作られた階段を降りたのだが、段差が今の私にとっては大きくてけっこう怖かった。少し前ならどうということがなかったはずで、自分が情けない。足腰を鍛え直したら少しは回復するのだろうか。そうでないなら哀しい。
船が動き出した。沖に見えた遊覧船はそれほど揺れているように見えなかったし、乗り場は断崖のあいだの波のないところにいたから波があるとは思っていなかったのだが。
ハザマから出たとたんこんなふうに波にもまれた。
最初に雄島に向かう。
似たような柱状節理が見られるが、雄島のものは東尋坊とは種類の違う岩石だという。
こういう逆さまな柱状節理が珍しい。やはり海側から見ないと見られない景色というのがあるのだ。見られて嬉しい。
渡島から離れる。波があって船が大きく揺れ、乗り合わせていたおばさんたちがキャアキャア言っていた。
海側から見て東尋坊の左側。こういう洞窟がいくつもある。波の浸食で出来たもので、奥行きの深いものはほとんどないそうだ。
これが東尋坊の柱状節理。いろいろな岩の見なし名付けの説明があったが、そういうのはあまり興味がないので写真は撮らず。料金1500円に見合う、海からの東尋坊の景色を楽しませてもらった。乗って良かった。
ここから雄島を見て、そのあと共通券を買った、越前松島水族館に行くことにする。
今、無事自宅に帰着しました。
昨晩宿泊した宿がインターネットのない宿で、それならスマホのテザリングでつなげると思っていたら、前のスマホでは出来たことがどうしても上手くいかない。
あきらめて、持参したパソコンをしまい込み、本を読んでいるうちに寝込んでしまい、朝まで爆睡した。
写真の整理もこれからやるので、前回の続きは夜までお待ちいただきたい。
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