餅つきの思い出
年末になるとこどもの頃の餅つきのことを思い出す。以前にも書いたことがあるかも知れない。私の母方の祖母の実家が同じ街内にあり、古くからの大きな麹(こうじ)屋で、少し大きな屋敷で、田畑もあり、米も扱い麹も売り、自家製の味噌も売っていた。屋敷の奥から続く裏山に麹を発酵させる室(むろ)があった。主人夫婦はともに私の母の従兄弟だった。しかし互いは血のつながりがない。婿は私の祖父が自分の実家から世話して娶せた。母にとっては自分の母方の従兄妹と父方の従兄弟が夫婦になっているのだ。
祖母の姪にあたり、婿を取った人にはあとを継ぐべき父親がいたのだが道楽者で、香具師のような仕事に走って家を傾け、親に勘当された。その親というのは、私には曾祖父にあたる。曾祖父は百歳まで生き、曾祖母はたしか九十近くまで生きたから長命であった。私が初めて人の死を目にしたのはこの曾祖母の死のときだ。小学校二年生だった。
そこには私と同い年の娘がいた。はとこにあたる。小学校のときには同級生になったこともある。弟もいたからこどもの頃はよく遊びに行った。暮れになると商売で餅つきをした。大きな五右衛門風呂のような釜で餅米を蒸し、それをスコップですくって箕(み)に移して運ぶ。何百軒分もの餅をつくので、臼でつくわけにはいかない。機械でつくのである。蒸した餅米を放り込むと、うねうねと餅が出てくる。それを一升分ずつ板でのしたり、鏡餅を作ったりする。一家眷属総出で作業する。三十人ほどもいただろうか。
のし餅だから角餅になる。あとでひびが入らないように、しわにならないように均一の厚さにのすのはそれなりの熟練が必要で、私は大学生くらいまで毎年手伝いをしていたから、たぶんいまその仕事を任されてもプロとして作業できる自信がある。とにかく熱い。打ち粉が熱でパリパリの皮になって手のひらに張り付くほどだ。座敷中にのされた餅が拡げられる様は壮観である。
その作業のときには勘当された祖母の弟の家族もやってくる。年に一度だけ会う親類だった。その作業は年末のたしか26日の夜から27日の明け方にかけてだった。徹夜で作業する。餅は末広がりの28日に配るのが習わしで、それに合わせるのである。つきたて餅餅は柔らかすぎて運べない。
まだ暗いなかを我が家に帰る。徹夜などしたことがないこどもの頃であっても、眠くならないのが不思議だ。充実した疲れのようなものが妙に気持ちがよかった。自分が役割を担ったといううれしさがあったのだろう。
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