ことば
お釈迦様が苦行して悟りを開いたとき、神様(もちろんキリスト教の神様ではない)がそれを言祝(ことほ)いで、その悟りを衆生に伝えて欲しいと頼んだが、お釈迦様はそれを断った。衆生に伝えるためにはことばでそれを伝えるしかないが、ことばにはその悟りを伝える力はないことを知っていたからである。それでもあえての懇望にこたえて、お釈迦様は衆生に教え諭した。
仏教には経典が山ほどあるが、お釈迦様が書いたものはひとつもない。聖書にもイエス・キリストが書いたものは何もない。ことばの限界を釈迦もキリストもよく承知していた。
経典の翻訳などを読むと、AはAであるといったすぐあとに、AはAではないと書いてある。そういうことばの繰り返しである。矛盾したことばの繰り返しのなかに何を読み取ればいいのか。自分自身が思い込んでいる世界の否定から始まる世界を受け入れることで何がわかるのか。般若心経の『色即是空』、『空即是色』にしても、その本質的な意味を理解しようとすれば、自分の認識世界そのものを根底から見直さなけれはならないではないか。
わたしのものの考え方の原点を形成するのにお世話になったのは、哲学の詩人と呼ばれるデンマークの実存哲学者キルケゴールと、森本哲郎である。キルケゴールには世界は関係であると『死にいたる病』という文章の数ページを暗記するほど読んで教えられた。いまだに『死にいたる病』を完読していない。そして森本哲郎には、人と人とはちがう、ということを教えてもらった。森本哲郎がそういうことを伝えたかっかどうか知らないが、私がそう受け取ったということである。それが伝わるということだと思う。それぞれあたりまえのことをいっているのだけれど、あたりまえのことを知る、ということにはレベルがあるのだということを悟らせてくれた。
知ること、識ること、理解すること、悟ること。その階梯には無数の段階、つまりレベルがある。お釈迦様が何を悟ったかわからないけれど、悟るということがどういうことか、チラリと覗くことが出来た気がしている。
なんだか同じようなことを繰り返し書いてきたた気がするが、一番人に伝えたいことでもあるから書いてしまう。考えてもしようのないことを考えるのが好きなので、ことばで書けば伝わらないことはわかっているのだけれどまたここに書いてしまった。
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