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2022年1月

2022年1月31日 (月)

断念残念

 岐阜県の大垣は芭蕉の『奥の細道』の終点の地である。大垣は城下町でそして水の街であり、水が良いので古くから造り酒屋が多い。そして同じ伏流水の流れている愛知県と三重県の境あたりには、その大垣から分かれた造り酒屋が多い。津島から蟹江にかけての一帯である。大垣から桑名は思いのほか近く、その桑名の対岸にあたるこの一帯もとうぜん大垣から遠くないのである。

 

 その津島酒造組合の蔵開きに、もう三十数年、毎年通い続けてきた。だいぶ前に組合主催ではなくなり、いまは一部の酒蔵が続けているところにずっと通っている。その蔵も、昨年は蔵開きが開催できなかった。今年はどうかと問い合わせたら、開催するという。さっそくいつもの面々、そして弟(一昨年に参加している)に参加を打診した。弟以外はみな参加するという。それが半月ほど前である。

 

 しかしコロナ禍はますます猖獗を極め、下火になる気配は今のところない。野天での行事だからリスクは少ないけれど、酒を飲めば無意識に大きな声になる。一週間ほどして、不参加の申し出が始まり、一人欠け、二人欠けした。私は地元だが大阪や京都から来る友だちもいる。迷った末の断念であろう。

 

 私は地元だから常任幹事を自認していて、参加エントリーのとりまとめや、ビニールシートなどの準備をする。一人でも行く人があれば私も行くことにしていた。そしてついに誰も行かないことになった。酒蔵に不参加を連絡した。

 

 断念するのはまことに残念であるが、現下の情勢に鑑み、迷うことなく中止にすべきことは頭ではわかっている。それでも今年も行けないのか、と思うと鼻先に絞りたての新酒の匂いと口中に甘い味がリアルに感じられた。

珍しく危機感?・・・だろうか

 北朝鮮は立て続けにミサイルを発射している。事実上の経済封鎖である制裁が限界に来て、その打開のきっかけをつかむべく、アメリカの気を引こうとしているのだというのが大方の見方である。ほんとうはどうなのか知らない。

 

 韓国の文在寅大統領が、日ごろは北朝鮮のミサイル発射について沈黙していることが多いのに、「国連安全保障理事会の決議に反する行為だ」と批判したうえで、「(北朝鮮の)核・大陸間弾道弾(ICBM)実験の中止宣言の破棄が近づいている」と『北朝鮮に融和的な文在寅大統領としては珍しく、危機感をあらわにした』そうだ。

 

 こんな記事を読んだら、さすがに文在寅も北朝鮮の見方を変更し、北朝鮮との関係を見直すかも知れない、と思う人もいるかも知れない。

 

 しかし私は後半の「危機が近づいている」という文在寅大統領のことばの方に注目する。これはそのまま北朝鮮が言いたいことを強調することばととれないことはない。このままでは大変だぞ、北朝鮮の言い分を聞かないとまずいぞ、と言っているようにも聞こえるではないか。

 

 大統領選を前にして、国民に反発を受けないかたちで立ち位置を多少あいまいにして、それらしい批判を述べながら北朝鮮の代弁をしてみせるというのは、文在寅大統領の言動としてあまり「珍しく」ない気がする。

北方謙三『史記 武帝紀七』(角川春樹事務所)

 最後を読んで、胸に迫るものがあり、目頭が熱くなり、涙を拭った。かけがえのない友と別れること、ことばではなく目で語り合って、互いの気持ちを伝えること、そこに万感が籠もる。ついに全七巻を読了した。

 

 漢の匈奴討伐軍は再起不能の大敗北を喫する。ふたたび遠征軍を派遣する余力は漢にない。武帝は衰える。すでに皇太子は無実の巫蠱の罪を問われて決起し、自殺へ追い込まれていた。母親の衛子夫(衛青の姉で霍去病の叔母)も自死する。群臣は次の皇太子を誰にするか、さまざまな建言をする。それをじっと観続ける武帝。ろうそくの炎が燃え尽きる前に輝くように武帝は迷妄から覚醒し、自分の後の漢の行く末のための果断な処置をして、次の皇太子を決める。武帝が薨去する。武帝を生涯支えた桑弘羊はその真意を胸に納め、自ら汚れ役を引き受ける。次の皇帝を支えるのは霍去病の弟の霍光、賢臣である。霍光と桑弘羊の角錐はこのあとの時代の話になる。

 

 匈奴は漢の圧力を受けることがなくなり、旧領の多くを取り戻す。単于は今後は戦ではなく、交易を進める方針をとる。戦いがなくなることで李陵は自らを見失うことを懼れる。そして今度は蘇武とともに極寒の冬を生きてみる。単于が急死し、次の単于の命令でその蘇武も漢からの使者とともに漢に還ることになる。

 

 最後が単于庭での李陵と蘇武の無言の別れのシーンなのだ。男の涙の熱さにこちらも万感迫るのである。

 

 中島敦の『李陵』とはちがう李陵と蘇武の関係は北方謙三の創造したもので、それぞれに心に響くものがある。感動した。

 

 司馬遷の晩年が痛憤から安寧に変わっていくところも描かれていて、それが嬉しく感じられる。拾い読みしただけの『史記』を本紀と列伝だけでももう一度ちゃんと読んでみたい気持ちになった。いつ読めるだろう。

 

 その前に宮城谷昌光の『湖底春秋』全九巻を読もうと思っている。これは『史記』のハイライトのひとつ、呉越の戦いを描いたものだ。これも読みかけなのであるが、一から読み直そうと思っている。

 

 そういえば浅田次郎の『天子蒙塵』全四巻も第一巻しか読んでいないから二巻以降を読まなければ。こちらを先にしようか。

2022年1月30日 (日)

送料

 在庫で残ったアベノマスクの引き取り希望をつのったら、在庫よりはるかに多くの希望があった、と安倍元首相が嬉しそうに話していた。あたかも手柄のように聞こえる話しかたなのは、その場の状況によるものとは思うが、もっと謙虚にありがとうございますという言い方をしたら良かったと思う。

 

「開かれすぎた皇室」を想像盛りだくさんで取り上げて、あたかも芸能人のように報じて芸能人並みに取り扱って、皇室を一般庶民に近づける努力にいそしむ某女性自身が、一部ネットの批判を取り上げて、アベノマスクの送付に税金を使うのはいかがなものか、などと報じていた。

 

 送料は欲しい人が払うべきだ、という話はいかにも正論だが、それなら要らないということになるだろうとも書いている。在庫のための倉庫負担などを考えれば、ここで処分してしまうほうが安上がりだから、早く片をつけてしまうのがいいと誰もが思っているところで、おかしな正義を振りかざして批判するのはさぞ好い気持ちだろう。

 

 まさか安倍元首相が自腹を切れとまで言ってはいないが、本心はそうかも知れない。

 

 私が不快なのは、ネットのなかからそういう批判を見つけだしてきて、誰かが言っていたというかたちで自分の正義を振りかざす行為である。お前が言っているのだろう!それならそう書けばいいのだ。

調理器具

 料理番組(主に三分クッキングと上沼恵美子の番組)を見て、簡単そうなものをぽつりぽつりと作ってみている。そうすると番組で料理をする人が使う道具が欲しくなる。あってあたりまえのものがなかったりするから、ぽつりぽつりと揃えている。ピーラーやマッシャーやトングなどが新しく加わった。すでにおもな鍋はコーティング鍋にして、古いアルミ鍋はたいてい処分した。コーティング鍋はそのまま炒められるし、こびりつかないから洗うのが楽である。

 

 大きな鍋がたくさんあるが、一人ではおでんのときくらいしか使いようがない。すり鉢も大きすぎるし、使う機会もあまりない。場所塞ぎなので、必要最小限にして残りはしまってしまおうと思う。台所の棚や収納スペースにほとんど使わなかった料理器具がいろいろあって、一部を徹底的に洗い直し、磨き直して戦列に加えた。バット類などは重宝している。まだ整理し切れていない調理器具がある。暇になったら戦列に加えるものとしまうものとにわけようと思う。

 

 いま使っている冷蔵庫は一人用としては充分な大きさではあるが使いにくい。野菜室が少なく、冷凍庫ばかりが大きいのである。それは釣りを趣味にしていたので、たくさん釣れた魚を保存するのに便利なものを選んだからだが、いまはそれほど冷凍するものがない。野菜室が少ないのはほんとうに不便だ。しかし問題なく使えるのを買い換える気にはなれない。もう十年以上使っているので、壊れないかなあなどと心のどこかで思ったりしている。そろそろ寿命が来てもいい電気製品が意外にしぶとく生き延びている。いま一番壊れて欲しいのが電子レンジ。皿がよく回らなくなって熱のムラがひどいのだ。これもいつ買ったか思い出せないくらい、ずいぶん長く使っている。

 

 炊事場の壁にいろいろなものをぶら下げているが、適当にぶら下げているので、一度全て取り外して整然と並べたい。もっとたくさんぶら下げたいものがあるのだ。

 

 ガスレンジもかなりくたびれて、人に見せられない。掃除がいいかげんだからなのだが、ガラス台の掃除しやすいものに換えたいと思っている。

 

 料理もブログもボケ防止に良さそうだと思っている。母も全く料理をしなくなってから一気に衰えた。衰えたから料理をする気がなくなったのかも知れない。しからば、まだこうして料理をしようと思えるあいだは私も大丈夫らしい。

北方謙三『史記 武帝紀六』(角川春樹事務所)

 李陵と蘇武が出会う。匈奴の単于に流されて極北の地で暮らす蘇武を、幼なじみで友でもあった李陵が訪ねる。全くちがう立場のもとに会うのである。中島敦の『李陵』は『漢書』の『李陵伝』を下敷きにしているので、基本的に漢に忠誠を貫き節を曲げなかった蘇武と、匈奴に下り匈奴の将として漢と戦うようになった李陵の対比のなかで二人の出会いが描かれているが、北方謙三のこの本のなかでの蘇武の生き方についての解釈は全くちがう。 


 それは蘇武が匈奴でさえ一人で生き延びるのは不可能な極寒の地で、生きることへの強烈な意志を、そして具体的に生きる工夫を描くことでリアルに表現していることで、読んでいる私に納得させる。ある意味で蘇武はかたちを変えたロビンソン・クルーソーなのである。その蘇武との出会いによって李陵は自分の生き様を見直すのだが、中島敦の『李陵』では李陵に自分への疑念、若干の恥、弱さを意識させるところがあるが、この本ではそうではない。

 

 そこにあるのは互いを知ることで生きることへの強い志を確かめ合うということであり、失われた友情がより深い新たな友情の再生になっていく様子である。そしてここに描かれた蘇武には漢に対する忠節などどれほどの意味もないものとして認識されている。さまざまに工夫を凝らして生き延びることで、国家や皇帝というものが自分にとって、そして人間にとってどんな意味があるのかを繰り返し問い直す蘇武にはすでに忠節など無意味なのだ。

 

 私にはその境地の方が納得しやすい気がするのは、現代人だからかも知れない。

 

 もちろんこの巻ではそれ以外の漢の内部の話、武帝、漢の将軍たち、そして匈奴の将軍たちとその戦いの様子も描かれている。いよいよ次は最終巻で、漢と匈奴との乾坤一擲の総力戦が描かれる。すぐ続きを読もう。

2022年1月29日 (土)

面倒になりかけて

 オミクロン株の感染力は想像以上のものだったようで、一度拡がり始めたらウイルスの方が攻撃の刃を収めない限り収まりようがないようだ。ところがさらにそのオミクロン株の倍の感染力のオミクロンの亜種が広がり始めているという。従来の防衛策がほとんど意味をなさなくなるのではないかと心配している。

 

 しかし考え方を変えれば、防衛策がないのなら防衛しても仕方がないということもいえるわけで、そういう分岐点にさしかかっているのではないかという気がする。多分そう思い始めている人も少なからずいるのではないか。だから専門家の間でも対策についての意見がバラバラになって統一しようがなくなっているのだろうと思う。

 

 感染しても無症状である人がたくさんいるという。検査をしたから感染がわかるのであって検査しなければ無症状の人は知らずにウイルスをばらまいているので、中国のように全数に近い検査をするならとにかく、そんなことは出来ないとはなからあきらめている日本では、すでに無法状態にあると言ってもいいのではないか。それなら対策も効果よりもコストの無駄の方が大きいのだ。

 

 かくいう私もそろそろ普通に暮らし初めても好いのではないか、などと感じ始めている。もともと引きこもりに近い暮らしであるし、ことさら自粛と言うほどのこともないのだが、今回は第六波が下火になったらどんどん人にも会おうかと思い始めているのだ。私がすでにいささか緩い行動をしていることは、ブログをご覧になっている方なら知っているだろう。

 

 こうなれば罹患するときは罹患する、罹患して症状が出たら治療する、と思いきる潮時ではないかと思い始めているということであるが、いささかあきらめるのが早すぎるのかなあとも思っている。

自撮りと夢

 私は自分の写真を撮られるのがあまり好きではない。だから私の写っている写真はあまりない。たぶん死んだあとの肖像写真に困るだろうが、困るのは私ではないから別にかまわない。

 

 あたりまえのことだが、私が目で見る景色のなかに私はいない。見ている私には私は見えない。夢に自分自身を見ることは普通はないそうだ。それを見たりするのは精神的に問題がある場合もあると、何かで読んだことがあるが、ふだん自分自身は鏡や他の人の撮った映像や写真でしか見ないのだからかも知れない。

 

 そういう意味で、自撮りというのはそんな自分自身をあえて見たいという願望がかなえられるということなのかも知れない。私にはそういう願望はあまりないから、もちろん自撮りをしたいと思わない。

 

 自撮りが、夢で自分を見ることにつながるという可能性もある。映像や写真で自分を見る機会がどんどん増えるに従い、夢で自分を見るのが別に珍しくないようになるかも知れない。

 

 しかし精神に問題があるときに夢で自分を見るものだとすると、人は少しずつ精神を犯されつつあるということになりはしないか。現実に自分の目の前に自分自身を見るとしたら、やはりまともではないのだから。

楽屋裏

 一日三回ブログを書く。だいたいひとつ二三十分程度で書けるけれど、書く前に少しは考えるから、結構時間はとられる。一時三回書くのが少し重荷になったので、一回とか二回にしてみたけれど、どうも三回になれてしまったのか、また三回に戻っている。書きたいことが次から次に浮かぶこともある。なにもないこともある。たくさんあるときに四五回分書きためることもあるが、たちまち底をつく。

 

 書くことが嫌いではないし、練習であり、訓練だと思ったりもするが、いつまでたってもろくな文章が書けないのにいささか情けない思いをしている。ニュース、映画やドラマ、読んだ本、旅の話が主な内容だが、映画やドラマは全て書いていると、きりがないからほんの一部だけ書き留めている。ブログに書くために観ているようになるのがイヤだという思いもある。読んだ本は書き留めている方が多い。書くことで読んだ内容を反芻するところがあり、多少忘れにくくなるし、印象も深まる。

 

 ご指摘いただくこともあるが、文章を書くことは多少は頭を働かせることになるので、ボケ防止の効果がないことはないであろうと思う。どうせひまだから、時間をとられてもどうということはない。友人が私の消息をブログで知っているのもなんとなく嬉しいところがある。なにを言っているんだ、と呆れながらでも読んでいただいている人がいることもありがたいことだと感謝している。大げさだが独居老人としては生きる励みでもあるのだ。

2022年1月28日 (金)

北方謙三『史記 武帝紀五』(角川春樹事務所)

 長い読書スランプでひと月に数冊しか本が読めなくなっていた。ようやくそれを脱しつつあり、この本を読みながら書かれている内容が頭の中に映像として鮮やかに浮かぶようになり、ページをめくるのが楽しいことを思い出させてくれた。

 

 この巻では李陵の歩兵五千だけの西方への出陣、そして数万の匈奴軍の主力との死闘が描かれる。その壮絶な戦いのあと、彼は匈奴にとらわれの身となる。奮戦の様子が伝わったとき、漢では李陵をたたえる声に満ちたが、彼が虜囚になったことが判明すると、その讃辞はたちまち彼を罵倒することばに変わる。武帝は内心歩兵だけで奮戦した李陵を批難するつもりはなかったのだが、誰も彼を擁護する人間がいない。

 

 そこで下問されたのが司馬遷である。司馬遷は李陵を弁護するつもりではなく、伝えられている実際の戦いの様子を想像すれば李陵に非があるとはいえないと弁じる。李陵に非がないのなら誰に非があるのか。寡兵でそのような立場に追い込んだのは誰か。究極的には武帝の命令によるもので、つまり武帝は馬を与えずに李陵をそのような戦いに追い込んだことになる。司馬遷のことばが正論であることがとげのように武帝の不快感を刺激する。

 

 その結果、司馬遷は武帝の怒りを買い、腐刑とも呼ばれる宮刑に処される。つまり去勢されて男ではなくされてしまう。自分の運命にもだえ苦しみながら、司馬遷はそれでも生きる意味を見いだそうとする。もちろんそうして見いだされた生きる意味が、彼が『史記』を書き残すことであったことはよく知られていることだ。

 

 李陵はとらわれ、降伏はしたが匈奴の一員になるのは拒否する。そうして一年二年、匈奴は漢の砦や街を侵し、略奪を繰り返し、漢の兵を翻弄し続ける。そんななか、李陵が匈奴軍を率いて漢と交戦したという情報が前線からもたらされる。激怒した武帝は李陵の一家眷属を皆殺しにするよう命ずる。

 

 そしてその鏖殺の情報が匈奴にもたらされる。衝撃を受けた李陵は茫然自失する。そして自分の名を騙った男がわかるとその男を斬殺し、死を覚悟するのだが、単于は彼を北へかくまって生き延びる道を与える。李陵から何かが剥がれ落ちていく。そして匈奴に協力することを受け入れる。生まれ変わった李陵が誕生する。

 

 その前に李陵と親しかった蘇武が使節として匈奴に行き、節を曲げない彼はとらわれの身になっていた。北の果て、いまのバイカル湖の北あたりに独り流された彼は、極寒を生き抜くための過酷な日々を送っていた。

 

 武帝は死を懼れるようになり、覇気と明晰さを失っていく。次巻は蘇武の強烈な生きる意志が描かれ、李陵との再びの邂逅がある。さあ続きを読もう。

まともではないと思ってはいたが

 北朝鮮で塩が不足して価格が高騰しているというニュースを見てどういうことかと不思議だった。それを報じた記事にもあったが、北朝鮮には海もあり、とうぜん塩田もあって生産可能だから、輸入頼みのものではない。それなのに不足したのは金正恩が生産を停止させていたからなのだという。

 

 なんと海水に新型コロナが含まれていて、そこからの感染を防ぐための措置なのだという。なるほど海は世界に通じている。海水から感染すると考えれば、理屈は合っている。そうなると、次は空気も心配しなければならない。世界は海と同様空でもつながっている。ただ、一番空の近い中国は、さいわい感染が抑えられているし、韓国も感染者はあまり多くなかったから安心していたのだろうか。それなら韓国の感染者数の急拡大に金正恩はさぞ胸を痛めていることだろうと同情する。

 

 日本の感染者の急増はそれ以上に腹立たしく、しかも心配であろう。相次ぐミサイルの発射は金正恩による空のみそぎ、悪魔払いなのかも知れない。どおりで日本で感染が急増したら頻繁にミサイルを撃つはずである。

 

 記事に拠れば、日本海側の日本の海岸に漂着する北朝鮮の漁船とみられる木造の難破船が激減しているのだという。それは日本海の漁が減っていることが理由で、これは燃料不足によるものなのかと考えていたら、どうやら金正恩が海産物からの汚染を心配してのことらしい。

 

 本当とは思えないような話ではあるが、もし事実なら金正恩という人間はまともではない。もちろんもともとまともではないとは思っていたけれど・・・。

 

 その後さすがに塩がないことが国民の怨嗟を買っていると気がついて、塩田での塩の製造は再開されたという。金正恩は塩を摂取しないのだろうか。たぶん彼の食するもの、身につけるものは丁寧に消毒しているから大丈夫か。実は側近は消毒しているふりをしているだけかも知れない。どうせウイルスは見えないからわかるはずはない。いまに彼も感染するだろう。北朝鮮の国民だけではなく、世界の多くの人がそれを望んでいる。

笑うのは不謹慎ながら

 共通テストの不正について19歳の女子大生が出頭したと知って思わず笑ってしまった。笑うべきことではないが、昼飯時に観るともなく観ていた昨日のバラエティニュースでコメンテーターたちが、「これは組織的なものに違いない」と言い合い、互いに頷き会っていたのを思い出したからだ。

 

 組織的にカンニングするというのは中国やインドのニュースで見聞きした気がするが、とうぜん組織的ならもっと巧妙なはずで、今回はそういうものとはちがうだろうと思っていたからだ。なにしろ依頼された大学生が首を傾げながらだまされたりおかしいと思ったのがわかっているのだから。

 

 思いつきでものを言うと恥をかくことがある。たまたまテレビは録画されていない限りもう一度見直すことはしないし、わざわざバラエティニュースを録画する人もまずないから、言いっぱなしでもすんでいたけれど、昨日の今日なので忘れる暇がなかったのである。だいたいこんなものだろう。

2022年1月27日 (木)

北方謙三『史記 武帝記四』(角川春樹事務所)

 三巻まで読み終えて中断していたが、先日の奥飛騨にこの本を携えて行き、続きを久しぶりに読んだ。ほとんど温泉、一休み、温泉、一休みでその合間の読書だったから結局読み切れず、帰ってから残りを読み終えた。

 

 また読み進める気になったのは、先日中島敦の『李陵』、そして『漢書』のなかの『李陵伝』の読み下し文を読んであの時代に頭がタイムワープしたからである。実際の『漢書』では『李陵伝・蘇武伝』として一章になっている。この『史記 武帝記』は全七巻、そしてこの第四巻から李陵、蘇武、司馬遷が主な登場人物として物語が展開し始める。

 

 『武帝記』であるから、漢の天子武帝(劉徹)が軸となって物語は進んでいくが、第四巻では明晰だった武帝が次第に自己中心的で周りが見えなくなっていく姿が描かれる。文字通り自分を中心に世界が回っていることに全く疑いを持たなくなった武帝に阿る重臣たち、そして直言する者は次々に排除されていく。その間に北へ追いやられていた匈奴たちは次第に力を蓄え、勢力の回復の機をうかがっていた。

 

 司馬遷の志、蘇武の信念、李陵の武人としての生き様が鮮やかに描き出され、彼らの運命が急展開していくのは次の第五巻ということになる。北方謙三の中国史の登場人物達は、敵味方を正義と悪のような描き方ではなく、それぞれが真剣にその時代を生きた人物として描かれていることに特徴がある。あたりまえといえばあたりまえの書き方なのに、それが新鮮なのである。読んでいると場面場面の人物の気持ちになっていて、血が騒ぐのである。

 

 さあ、続きを読もうか。

カンニングはリスクが大きい

 大学入学の共通テストの問題が会場から流失して不正が行われたらしい。こんなことが露見しないと思ったのだろうか。そういう点でまことに愚かしい。発信したものと受信したものが緊密な間柄なら露見しなかった可能性があるとしたら、会場での監視はもっと厳密にするべきだろう。試験問題を何らかの方法で撮影したことが見逃されたことは問題とすべきだろう。

 

 カンニングという行為はリスクが大きい。露見すれば受験の資格を失うのは確実で、得られる利得よりずっと失うもののほうが重いと思う。かくいう私も大学時代に日ごろの不勉強で、苦し紛れに一夜漬けしながらせっせとカンニングペーパーを作成したことがある。ところがカンニングペーパーに書き込める分量など知れていて、それを作成しているうちに記憶してしまい、試験の場でリスクを冒す必要がなくなったのはさいわいであった。不思議なことに、そのようにして覚えたことほど結構忘れずに頭に残っている。

 

 能力に合わない大学に入ってもついて行けないだけだし、学力偏重社会だというのはある意味で幻想で、私の経験では世のなかは結構実力主義である。ずるをしても実力がなければ勝ち組になることはないと断言したい

暗澹たる思い

 昨晩は、JR宇都宮線の暴行事件のニュースを知って、腹が立って眠れなくなった。優先席に横に寝そべって加熱式のたばこを吹かしていた男が、注意した高校生に暴行を加えて土下座させ、その頭を蹴り飛ばし、踏みつけ、駅にとまった電車から逃げ出した高校生をさらにホームでつかまえでふたたび土下座させて暴行して大けがをさせたという。

 

 私はその暴行そのものにもちろん腹が立ってはいるが、その男が逃亡し、のちに警察に捕まったときに「正当防衛だ」と言ったことであり、その正当防衛という主張についてマスコミが取り上げて弁護士と称するコメンテーターにその是非を問い、正当防衛とは言いがたいととくとくと語ったと報じたことである。

 

 そしてこの男がどのように裁かれるか問われると、前科がなければ執行猶予になる可能性が高いと述べていて、それをマスコミは全国に知らせてくれたのである。

 

 こうして「正当防衛」を主張した暴行男は大手を振って社会に「復帰」し、自分は悪くないと確信し、自分をこんな面倒な目に遭わせた高校生に仕返しをしてやらねば気持ちが治まらぬと思うだろう。高校生は世のなかの恐ろしさを思い知り、報復を懼れてこれから一生怯えて生きることになるに違いない。

 

 そう想像するのは私だけではないだろう。そうしてますます世のなかのまともな人は、何があっても見て見ぬふりをした方がいいと「弁護士」とマスコミは世間に教えてくれたのである。私が最も腹が立ったのはそのことである。

 

 私がそのような男を見たら注意するかどうかと問われれば、もちろん注意などしない。ほとんど人間のくずで注意されて、そうですか、申し訳ない、などと言う人間ではないのは見ればわかる。オオスズメバチや毒蛇のようなもので、刺激すれば襲ってくる可能性が高い。そのような危険には近寄らずによけるのは別に臆病なことではない。

 

 問題はそれを刺激してしまって被害に遭ったのに、加害者にたいして社会が正統な制裁を加える、という信頼が損なわれると、社会秩序は失われ、ますますスズメバチや毒蛇が蔓延り、ときに私刑が正当化され、市民は強権による管理国家を希求するようになってしまうことだ。日本の司法のおかしな情状の過剰とそれを公知してくれるマスコミに暗澹たる思いがしたのだ。

2022年1月26日 (水)

謝罪するならすぐすればいいのに

 菅直人、元首相で立憲民主党の最高顧問が、橋下徹氏や維新の党をヒトラーやナチスになぞらえて批判した件で、猛反発を喰らっている。ヒトラーやナチスにたとえるのはいかにも韓国が日本をナチス時代のドイツになぞらえるのによく似ていて、似たような思考様式の人間なのだなと思わせてくれた。およそ歴史を知る人間なら決してしないことで、本人も内心「しまった」と思っているに違いないが(思っていないなら人間性に問題がある)、この人は原発事故の時にも出しゃばって邪魔をしたことをついに謝らなかった人だから、謝る気配はない。

 

 しかし常識に照らして間違いは明らかだから、結局謝ることになるのではないか。これがただ橋下徹氏の弁舌に対しての批判の暴走ならともかく、維新の党そのものまで一緒くたにしたから引っ込みがつかない。それにしても立憲民主党の面々の反応はいつも通り鈍感そのものだ。

 

 これが逆に立憲民主党がこのような扱いをされたとしたらどのような反応をするのか想像力が働かないらしい。激怒してすさまじい噛みつき方をするだろうと想像できるけれど、自分の問題として考える能力がないのだろう。せっかく泉新党首で再生を目指したのにこの騒ぎでまた支持率が低下するだろう。管直人氏といい、鳩山由紀夫氏といい、とんでもないお荷物を抱えて哀れだ。

餅花

飛騨地方の餅花はよく知られている。

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宿に飾られていた餅花。

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一つ一つ手で花を咲かせていく。

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花のない冬に花を咲かせ、春を待つ。

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すぐ横にこんな花も置かれていた。

宿の雰囲気が多少はわかるだろうか。静かでゆっくり出来た宿だった。たぶんまた来ることになるだろう。

今日はそのまま高山経由で帰るか、神通川沿いに富山の手前まで下って東海北陸道経由で帰るか、どうしよう。

奥飛騨温泉郷

 奥飛騨温泉郷は平湯温泉、新平湯温泉、福地温泉、栃尾温泉、新穂高温泉を総称する温泉郷である。全て宿泊したことがある。むかしは子供たちと、ときに母も連れて栃尾温泉によく泊まった。栃尾温泉は民宿旅館が多く、大きなホテルはない。その代わりフレンドリーで家族的な宿ばかりで値段も安く、居心地が良かった。しかし平湯トンネルが開通して東京方面からの宿泊客が増え、設備も新しくなった代わりに宿泊代もぽんと値上がりしてしまい、むかしほど気楽に泊まれなくなった。それに予約も取りにくくなった。一人での泊まりをあまり受け入れてくれなくなったのである。

 

 兄貴分の人と長老との三人旅では福地温泉に泊まる。 少し高級だけれど宿代は長老持ちだし、長老はこの福地温泉が好きなのである。平湯温泉はさまざまで、格安の小さな温泉ホテルもあるし、一人での宿泊もしやすい。ただし格安のホテルの中には安かろう悪かろうの宿もあった。あたりまえと言えばあたりまえだが、湯温が一定していないのには閉口した。

 

 去年久しぶりに新穂高温泉に泊まったが、いささか寂れた宿を選んでしまって、わびしい気持ちになった。露天風呂が屋外の坂を下りなければならなくて、足元がちょっとこわかったのでもう一度行く気にならない。若いときに行ったときはもっと良かったのに。

 

 新平湯温泉は中級の宿が多く、一人でも簡単に予約できるし、あまり高くない。今回の宿はその中では少し高めの宿だが、じゃらんの期間限定ポイントとたまったポイントが思いのほかたまっていたので思い切ってここにした。最初の晩はほかの客を見なかったから、客は私だけだったかも知れない。コロナ禍はこういう宿にとって殺生である。

 

 おかげで身体の芯に溜まっていた凝り固まったものが少しだけ溶け出してお湯に流れ、楽になった。湯に入り、横になって一休みし、ぼんやり外を眺め、また湯に入って一休み、という繰り返しで、どこにも出かけなかった。ほんとうの湯治で、出来れば一週間以上居たいけれど、懐が許さない。しかし懐の問題ではなくて、心身のためには必要なことのように思っている。

 

 温泉、好いなあ。今度は東北に行こうか、それとも皆生温泉あたりか。

2022年1月25日 (火)

飛騨民族村 飛騨の里(2)

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屋根からの落雪が危険なので、軒下を歩くようになっている。左手の軒下である。大男の私は屈まなければならない。

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こんなつららも同時に落ちてくるかも知れないのだから、そこを歩こうとは思わない。つららがあるのは日中の日差しがあるから雪が少しは溶けているからであるが、このときの外気温はマイナス1℃。そういえば宿の手前での車の表示した外気温はマイナス3℃だった。やはり寒冷地である。

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雨戸を開ければ外部との仕切りは障子だけ。これは寒い。暖かいのは囲炉裏の周囲だけである。むかしの人は寒さに強かったのだろうか。いまの人は軟弱だと、むかしの人なら笑うだろう。

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手前の小さな杭はここを中心にぐるぐると円く田植えをする丸い田んぼ。

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障子が破れているわけではなくて、何かかぶら下がっているらしい。屋根の勾配は雪の多いところほど急で、相倉集落は60度、白川郷は45度だと、地元の民芸部の高校生に聞いたことがある。こんな屋根に足場をかけて雪下ろしなど出来ないだろうから、自然落下させるしかないので、それに合わせた勾配になるのだ。

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遠くに六地蔵が見える。

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最近足元が少々あやしくなったところでこんな道を歩くのだからちょっと疲れた。

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やはり髙山は雪が深い。この飛騨の里は高台にあるから市中よりも雪が多いだろうし、今年は特に雪が深いようだ。いささか雪に圧倒されて早々に奥飛騨温泉に向かった。

飛騨民族村 飛騨の里(1)

 名古屋に移り住んで三十数年(もうすぐ四十年)、一番走り回ったのが髙山や長良川沿いの郡上周辺である。楽に日帰りが出来るから数え切れないほど行った。雪のあるときに行ったこともあるが、真冬の髙山は初めてかも知れない。

 今回は高山市内は歩かず、飛騨民族村の飛騨の里、合掌造りの建物をここに集めて移築したところであるが、その雪の写真を撮りたくて立ち寄った。本物は白川郷や五箇山の相倉集落と菅沼集落で見られるが、この岐阜県と富山県にまたがった地帯にはたくさんの合掌集落があった。ほとんどが失われて、この飛騨の里にその一部が移築されているのである。

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飛騨の里入り口。

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入り口すぐ右手を見る。雪に埋もれている。

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手前は池なのだが、凍り付いてそこに雪が積もっている。全面が雪の状態を初めて見た。

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顔なじみの六地蔵は雪が払われていつもの温顔で立っている。

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何かの高床式の倉庫だがなにが収められているか書いたあったが忘れた。左手に太陽がありほとんど逆光。雪の写真は難しい。

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いまにも落ちそうな屋根の雪とつらら。

いつも丁寧に見るところを飛ばして歩いている。防寒靴で歩いているけれど、久しぶりの雪道で歩きにくい。客は若い女性二人づれが二組ほどいて、たったそれだけでにぎやかだ。

つづきは次回に。

宿の窓から

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 昨夕、宿に到着してすぐに撮ったもの。雪は降っていないが、遠くの山の上には雪雲がかかっているから、あのあたりの新穂高は雪の中だろう。もっと暗かったが、少し明るく補正した。

 

 今回は新平湯の宿で、四階建てながら二十数室のゆったりした造りで、部屋は和室である。十畳の大きな部屋で、しかも畳が大きいからことさら広く感じる。

 

 食事は別にしつらえられた個室で給仕付き。給仕は三十代後半かと思われる青年なのだが、どうも日本人ではなくてアジア系の人のように感じられる。まことに正しい日本語(地元の方言)を駆使してそれには違和感がないのだが、微妙にイントネーションがちがう。ジョークといい、ことばのレベルといい、まことにハイブロウな気配がする。わざわざ、どこの人か尋ねなかった。私は詮索好きではない。万一日本の人なら失礼になる。

 

 料理はとても美味しい。それぞれは少量ずつだが、種類がたくさんあるから食べ終わったときには満腹となった。唯一の欠点は、酒が高いことである。ほんとうは地酒の原酒を飲みたかったが、高いのでその銘柄の普通の酒を冷やで飲んだ。やや甘口となっていたが、くどくなくて旨い。

 

 中日(なかび)の今日はどこかに出かけるのか問われたが、宿でゆっくりすると答えた。ゆっくり過ごしてくださいと笑顔が返ってきた。

 

 湯にゆっくり浸かったらなんだか心身の疲れが一度に出てぐったりした。運転以外、なにも疲れることなどなかったのに・・・。やはり何かが溜まっていたのかも知れない。

2022年1月24日 (月)

奥飛騨に向かう

 我が家から奥飛騨に行くには国道41号線まで出て、それを北上する。渋滞が日常的な小牧インターあたりを過ぎれば車はスムーズに流れ出す。なにしろトラックだらけだ。先日多重事故もあったことだし、久しぶりの運転なので慎重に走る。

 

 犬山を通過して木曽川を越えれば岐阜県である。美濃加茂は信号だらけの道を通らないバイパスが出来て、渋滞もなくなり、通過が楽になった。バイパスを過ぎれば七宗町にいたる。ここにはときどき立ち寄る石の博物館がある。日本最古の石もあるのだ。そこを過ぎれば木曽川の支流、飛騨川沿いの景色の好い道になる。

 

 その辺りから残雪がちらほら見えるようになった。

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 飛水峡という景色の好いところは車を停められるところが少ない。そういうところほど写真に撮りたいが、一車線で路側スペースもないからどうしようもない。飛騨川の景色はJRの髙山本線から見る方がよりみごとなので、機会があれば是非お出かけいただきたい。

 

 下呂を過ぎるころには道路脇に雪が積み上げられられているのを見るようになる。下呂、中呂、上呂と過ぎると道はだんだん上り勾配になり、あたりは雪景色になっていく。分水嶺の峠を越えれば髙山である。いまはその峠にトンネルが出来たのであっけなく通り過ぎてしまう。

 

 我が家から髙山まで150キロあまり、髙山から奥飛騨新平湯の宿まで40キロほど、高山市街の手前から直接行く近道もあるが、ちょっと髙山の民族村の雪景色を見に立ち寄ることにした。

よくわからない

 人前で感情的になるのは恥ずかしいと思っている。感情的になったように見せるということがときに必要だったりするけれど、なかなか出来ない。出来ないから伝わらないこともあることは経験で知ってはいるのだが。

 

 オミクロン株の感染急拡大に関連して、蔓延防止策などの対策の是非を議論する場面をしばしば目にするが、専門家同士が激して感情むき出しにするのをみるようになった。感情的になると話が極端になる。わかるはずのないことを白黒つけろと言い出す。生死の優先順位の話になったりする。語調の激しさばかりが気になって、あまり参考にならない。

 

 ウクライナやアフガニスタン、カザフスタンにミャンマー、北朝鮮に中国と、バイデン大統領もどこに目を向けてどういう優先順位で対処して良いのか困惑しているようだ。困惑していると対処が遅れる。アフガニスタンの撤退もまさにそのようなものだった。

 

 それぞれ別々に起きていることではあるが、一番矢面に立っていた中国から目を逸らすことになっていることだけは間違いない。中国から頼まれて、ロシアや北朝鮮その他が連動しているのではないか、などと私は妄想する。代わりに若干の経済的なお返しが用意される。中国にとって安いものではないか。

 

 陰謀論的な見方で世界を観ると、そのような全ての背後に軍需産業が暗躍していて、危機を煽って紛争があれば武器を売りつけ、防衛のためにも武器を売りつけしている。敵も味方もみな一味だ。全くありそうもないともいえないところが陰謀論の面白さだ。私にはよくわからない。

旅の衣を整えよ

 現役時代に接待で歌のひとつも歌えないといけないので、いくつか持ち歌を持っていた。その持ち歌のひとつに『惜別の歌』がある。私は大男だけれどキーが高くて、小林旭の歌が歌いやすい。ほかに『北へ』などもよく歌った。『惜別の歌』はもともと島崎藤村の詩からとられたもので、その詩は姉妹の離別の際の見送る歌なのだが、歌詞は少しだけ変えてあって、男女の別れの歌のように聴ける。

 

 持ち歌はたいてい歌詞をほとんど記憶しているから、ときどき気がつくと口ずさんでいることがある。

 

「旅の衣を整えよ」というのはその歌詞の一節で、ちょっと温泉に出かける準備で衣類などをバッグに詰めているときに無意識に出たのであった。

 

 ただ、誰も私を見送る人はいない。二三日のことだが、娘は旦那が出張だからちょっと留守を見に来るかも知れない。土産を買ってこよう。

2022年1月23日 (日)

無感動

 私は五月生まれなので牡牛座である。本日のniftyの占いでは「ふと自分の居場所がわからなくなったり、さみしく感じたりする」となっていた。多少そんな気がしないでもないが、独り暮らしはずいぶん長いし、そういう気持ちとは折り合いがついている。

 

 それよりも、本を読んだり、映画やドラマを観たり、ブログを書いたりすることは、以前は楽しくてしようがなかった。時間がいくらあっても足りないくらいだった。それがこのごろそれほど楽しいと思えなくなっている。録りためた映画やドラマがあるから観たり、読みかけや未読の本が積んであるから消化する、というような、どちらかといえば自発的ではない観方読み方になっている。表題の「無感動」というのは言い過ぎだが、そういう気持ちだと楽しさも今ひとつだし感動も薄い。

 

 たぶん多すぎるのだろう。芥川竜之介の『芋粥』と同じである。これが限られたものしか手にはいらなければ、手にはいったときには夢中になれるのではないか。次がいつ手にはいるかわからなければ繰り返し読み、繰り返し観るに違いない。過剰は欲望を刺激しない。おもちゃを与えられすぎた子供はおもちゃにすぐ飽きる。少しそれらと距離を置いて、空腹にする必要があるのかも知れない。

アサリは食べない

 貝は美味しいから大好きで、アサリももちろん好きである。しかし昨晩の報道特集で日本で売られているアサリのほとんどが中国産(一部韓国産)であると報じられていた。そもそも国産のアサリはすでに激減して、流通量の数%、もしかして1%ほどしかないのだという。それなのに市場で流通しているアサリのほとんどが国内産と表示されている。産地偽装が公然と行われ、業者は国内産としなければ売れないから仕方がないではないかとうそぶいている。

 

 中国産や韓国産と正しく表示すると流通業者は全く扱ってくれず、店頭に並んでも売れないのだという口調は、あたかも消費者が悪いのだと言わんばかりである。これは消費者が正しいと私は思う。中国産は中国の海岸で採れるのである。中国の海岸は汚染された川の水が流れ込んでいる。そういう砂泥地で貝は採れる。なにを含んでいるかわからない。なにしろ中国である。

 

 輸入するときに検査しているから大丈夫だと農水省は言う。そんな検査が信用できるかどうかわからない。最近の日本の検査は信用できないことを繰り返しニュースで聞かされている。それなら最初から店頭のアサリは中国産であると見切り、そういうものは食べないに越したことはない。

 

 これから店頭のアサリは食べないことにする。

米澤穂信『黒牢城』(角川書店)

 ミステリーは好きだけれど時代小説や歴史小説が苦手な人、時代小説や歴史小説は好きだけれどミステリーはあまり読まない人に是非この本を読んで欲しいものである。かくいう私は両方大好きである。そしてこの本はそれが同時に楽しめるだけでなく、濃厚に味わえる。

 

 正直言って日本のミステリーは海外のものにくらべて薄味である。だから私は海外の作品を読むことが多いが、米澤穂信の作品のいくつかは海外ミステリーに引けを取らない。

 

 この本も春夏秋冬にそれぞれ事件があって、その謎解きが重ねられ、ラストに全体の意味が明らかになる。それぞれのトリック、必然性については想像できるところもあるが、それらの重なりのなかにこそ意味があり、それは強烈な驚きと感動をもたらす。さすがに直木賞を取るに価する作品である。

 

 信長から離反して有岡城に立てこもる荒木村重、そして信長の使者として赴いて、城の地下牢に幽閉された黒田官兵衛の、事件の謎解きに関する虚々実々の対話が各章の山場である。

 

 黒田官兵衛は事件現場や事件の詳細を荒木村重から聞くだけである。つまりこれも一種のベッドディテクティブの手法なのである。さらにその会話の積み重ねのなかに黒田官兵衛の荒木村重に対する思考誘導がある。それはあの『羊たちの沈黙』でのレクター博士のクラリス・スターリングに対することばの魔術に通じるものでもある。

 

 だからとてもおもしろい。読み応えがありすぎるけれど、是非お勧めしたい。

2022年1月22日 (土)

しばしばある

 しばしばあることはまたある。

 

 国内の求心力が低下して八方塞がりなったとき、しばしば為政者は外部に敵を作る。国民の目を外に向けて国内の問題点をごまかすのは韓国の行動を見れば歴然としているが、古来それがきっかけで戦争になることもしばしばある。だから強い指導者が戦争を起こすよりも、弱い為政者の方が戦争を起こす。

 

 そういう意味で心配な為政者がそこら中にいる現在の世界は、一触即発ともいえる状況かも知れないのだ。たとえばバイデンは、国内の分断を解消するための起死回生の手として、どこかで戦争をするきっかけを待っているかも知れない。だからこれからさまざまな挑発が行われる気がする。国内が盛り上がり、まとまればどこでもいいのだ。

苦手なもの

 英語の言い回しに、嫌いなものを~に嫌われる、などという言い方がある。トマトが苦手ならトマトに嫌われている、などというのだ。ちょっとしゃれている。

 

 座を盛り上げるために騒ぐ人がいるが、陽気で明るい場合はそれほどでもないものの、過剰にはしゃぎたてる人がいて、場にいる半数は素直に笑っているものの、残りは顔で笑いながらうるさいなあと思ったりする。私はそのようなはしゃぐ人が苦手である。私が苦手だと思えば相手にもそれが伝わるから、たいていそういう人から嫌われるか、それほどでもないものの煙たがられる。私はちょっと面倒くさい。

 

 タレントにもそういう人がいて、ある限度を超えてはしゃぐ人は苦手である。そういう意味で、新たに日本ハムの監督になった新庄氏などには私は大いに「嫌われている」。

140920-74なにか?

 

太宰治『列車』

 わずか数ページの短編。道具立ては上野と青森を往き来する列車である。C51型と記されている。D51ではない。鉄道には詳しくないからC型に51という、D型と同じ品番があるのかどうか知らないがちょっと気になった。

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「私」は青森の高等学校の寮で同郷の汐田という男と親しくなる。そしてテツさんという幼なじみとの恋愛話を打ち明けられる。身分違いだとして親から激しい反対を受け、無理やり離されたという話は「私」の胸を「異様に轟かせた」。

 

 そのあと二人とも東京の大学に進学、汐田とも親しく往き来していたが、次第に疎遠になって三年、突然汐田が「私」の下宿に相談したいことがあるといって訪ねて来る。「その頃には私も或る無学な田舎女と結婚していた」。突然の来訪に戸惑う「私」だったが、相談というのは、テツさんが汐田を頼って上京してくる、どうしようかというものだった。「私」はそこに汐田の有頂天を見て「不愉快を感じる」。

 

「私は最早、そのようなひまな遊戯には同情が持てなかったので、君も悧巧になったね、君がテツさんに昔程の愛情が感じられなかつたなら、別れるほかはあるまい」と「汐田の思うつぼ」であることをいう。

 

 あくる日、「私」はしぶる妻を伴って上野駅にテツさんを見送る。挨拶を交わし多あと、なにも語ることばが見つからない。女どおしで場持ちを期待した妻も一言二言テツさんと話したきり沈黙している。その気のきかなさに「私」は苛立つ。発車までの三分の気まずい時間がとてつも長く感じられ、その腹立ちが妻に向かう。

 

 ここには見下す視線が二重三重に重ねられている。裕福に生まれ育ち学問もある男たちの尊大さがある。そして「私」にはその尊大さが見えていて、その尊大さに羞恥している自分がいる。汐田にそういう自分を見て「私」は苛立ちを感じたのである。さらにそんな自分が「無学な田舎女」である妻に向ける視線の尊大さを自分で意識している。

 

 太宰治の尊大なる羞恥心という私の勝手な見立てをこの短編小説にも感じた。

2022年1月21日 (金)

温泉

 宿泊予約は主にじゃらんでする。そのじゃらんのポイントがたまっていて、さらに期間限定のポイントが付与されている。その期限が一月末までなので、ポイントにつられて温泉に来週行くことにした。ふだんよりも一ランク二ランク高級な宿に二泊する。行くのは奥飛騨温泉。

 

 泌尿器系の持病もあり、また便通も不定期で、部屋に温水トイレがないと不安である。だからどうしても少し高い宿を取ることになる。昔のように格安の民宿というわけにはいかなくなった。来週は天気があまり芳しくなさそうだが、同じところに二泊して、中日は出かけないことにする。温泉にとことん入り、出来れば読書をたのしむつもりだ。寝てばかりいるかも知れないけれど・・・。

 

 雪見で一杯をいまから楽しみにしている。

Dsc_5181こんなに寒いことはないと思うけれど・・・

北朝鮮の悲鳴

 北朝鮮の国民は一部の人を除いて食糧不足で燃料も足らないつらい冬を過ごしているだろうと想像される。どうしてそんなつらい目に遭うのだと怒りを覚えても、それが力として結集し、原因を排除する力を持ち得ないほど疲弊しているのだろう。

 

 北朝鮮はアメリカとの直接交渉のときに、ICBMと核実験を自粛すると申し出た。それで北朝鮮に対する経済封鎖の一部でも緩和されるのではないかと期待していたのだろう。しかしロシアや中国を除いて、経済制裁をしている国々から見て北朝鮮が制裁緩和に価する行動をしているとは見做されなかった。

 

 ミサイルを次々に発射して気を引こうとしても、誰も相手にしない。それに続いてのICBMと核実験自粛をやめるという表明である。しかしICBMや核実験を繰り返し、アメリカにまで到達する核ミサイルを開発したからといって、北朝鮮がアメリカにそのミサイルを撃ち込むのは、アメリカから攻撃された時以外はあり得ない。攻撃もされないのに先にミサイルを撃ち込むのは自滅行為でしかない。

 

 つまり核ミサイルを撃ち込むときも打ち込まれて撃ち返すときも、その時は北朝鮮は自滅することが自明である。だれが見ても北朝鮮は臆病者の強がりで、おびえの果ての核開発で、そのような臆病者が自滅という道を選ぶことは考えにくい。ただの北朝鮮の勝手な悲鳴だろう。それを見切っているから世界は北朝鮮をほとんど無視している。むかし攻撃を受けた韓国ですら北朝鮮は攻撃などしないと思っているのだ。北朝鮮を口実に軍備増強が認められると喜んでいるのは軍需産業だけだろう。

 

 もちろん京アニや大阪の放火大量殺人犯などのように、狂気の人物というのは少なからず存在し、攻撃できる武器を持てば結果など考慮せずに使いたがるから危機がないわけではない。気狂いに刃物である。

 

 それよりもこわいのは中国の方だろう。攻撃した結果、反撃されても自滅せずにすむと確信している節がある。ということはいつでも攻撃がありうるわけで、これには常に対処を準備しなければならない。なにしろ世界中で今中国を攻撃しようなどと考える国はひとつもないのに、ひたすら軍備を増強している。それなら攻撃しようとしているのだと考えるのがあたりまえではないか。

太宰治『魚腹記』

 義経一行が落ち延びて蝦夷へわたったという湊、その後背地の低い山脈、その裏側にある滝、というのが物語の舞台となっている。私なりに津軽の地図を眺めていて、実際に行ったことのある場所から考えて、その湊とは三厩であろうと思う。ただ、詳細な地図を見ても滝は見当たらない。あるいはずっと南、五所川原の四ツ滝山がこの物語の馬禿山で、それなら山の裏側、つまり南側に四ツ滝という小さな滝はある。そうではなくて、その湊が鰺ヶ沢だとすると、南東に岩木山、南西から南は白神山地、鰺ヶ沢から赤石川に沿って南下すれば津軽氏の発祥の地である城跡があり、さらに遡ればくろくまの滝という滝もある。そちらの方がこの物語の舞台として考えるとイメージしやすい。

Dsc_4101三厩の義経渡航地

 その滝の前の小さな茶屋の娘スワが、若い男がその滝の岩から落下するのを目撃する。滝のそばには珍しい植物があってそれを採集しようとして登り、足場の岩がくずれて落ちたのだ、一度浮かび上がり、ふたたび淵に沈んで二度と浮かび上がらなかった。

 

 さらにこの滝にまつわる三郎と八郎という兄弟の昔話がスワの父親から語られる。八郎はうろこが生えて異形のものとなり、川に大蛇となって沈んでいく。

 

 そしてスワはある日、自らこの滝に沈む。スワは自分が大蛇になった、と思う。しかしそれは小さな鮒であった。その鮒は滝壺の渦に吸い込まれていく。

Dsc_4104五所川原・金木の斜陽館

 のちに『御伽草子』など、ややひねった昔話を書いた太宰治がここにいる。『走れメロス』は読んだけれど、『斜陽』や『人間失格』を読んでいない私だが、この『御伽草子』は若いころに興味深く読んでいるのだ。どのような感想を書いたら好いのか、少し戸惑う物語だが、インパクトは強い。

2022年1月20日 (木)

そういう事態を心待ちにしているのだけれど

 中国の地方政府の債務が膨れ上がっているという。土地を換金するという打ち出の小槌の効力もいつまでも続くはずはなく、いつかは限界がくるはずだと思っていたが、それが現実味を帯びてきたという。中国のGDPの統計値は操作されたもので、実はもっと低くて財政的に苦しくなってきているはずだという。国営企業の赤字を補填し続ければとうぜん金欠にならないはずはないので、さもありなんと思う。

 

 それなら中国の勢いは多少は衰えを見せても良いはずなのに全くその気配はない。ないどころかますます習近平は意気軒昂である。中国の少子化は発表されているよりもずっと深刻で、出生数は多大に水増しされているという。すでに人口はピークアウトしてほんとうはもう減少に転じているのだという話もある。

 

 中国経済が好調だから習近平は強気で動いている。その強気は見ていてまことに腹立たしい。だから中国が停滞したり衰退するという話はちょと嬉しくないことはない。だからそのような事態を心待ちにしているのだが、さっぱりその気配はない。これからそうなるのだろうか。それともそもそもそれらは憶測で、実は問題ないのか。

 

 中国が衰退すれば強気の韓国も大いに影響を受けて少しは日本に対してえらそうにいうことも減るかも知れないという期待があるが、それも今のところ期待薄である。それよりも日本やアメリカの方が先に停滞し、衰退に向かっているようで、まことに嘆かわしい。誰が悪いのか、そのことは少し前に書いた。

0009_20220120141501三十年前の中国

中島敦『李陵』

 中島敦(1909-1942)は早逝したし多作ではなかったので、全ての発表作品を収めても筑摩書房の『中島敦全集』は全三巻にしかならない。中国を題材に採った作品が有名だからそのような作品ばかりかと思われているが、紀行文のようなものも結構ある。

 

 中島敦の『李陵』を久しぶりに再読した。中島敦に触れたことのある人なら、『山月記』、『名人伝』、『弟子』などとともにこの『李陵』を読んでいることと思う。祖父は漢学者で、父は中学校の教員だったが、漢学を教えていたようだ。明治時代に活躍した作家の多くが漢学を学び、中国の古典を自在に読むことが出来たが、大正以後にはそのような作家は珍しくなった。昭和が主な執筆時代である中島敦はそういう意味では珍しい作家といっていい。

 

 この『李陵』も原典である班固の著した『漢書(かんじょ)』の中の『李陵伝』を下敷きにしていて、匈奴との戦いの部分の描写などは多くを原典に拠っている。今回はその『漢書』の『李陵伝』の書き下し文も対比させて読んでみた。李陵の祖父の李広将軍は名将と謳われ、匈奴に懼れられていた。父が早くに死んで祖父に育てられた李陵が、自らも名将となるべく研鑽し、高いプライドを持ってのし上がっていった心情が、却って彼を不遇にしていったことが傍観者的に見ればよくわかるのだが、本人は一途そのものである。

 

 勇ましいことばを吐いたためにそれに縛られて歩兵の五千人のみで十万を超える匈奴の騎馬軍と奮戦するという運命に見舞われる。矢尽き刀折れてのち匈奴に下ったことが彼の運命を決する。

 

 この小説では李陵の匈奴との死戦、そして司馬遷が李陵の降伏の擁護をしたために宮刑になった経緯と司馬遷の心情、そして降伏後の李陵の心の変化、さらに蘇武との出会いが克明に描かれている。原典では蘇武との関係の記述はなく、司馬遷のことが書かれている部分はわずかである。司馬遷の部分は主に『任上卿に報ずるの書』に拠るようだ。この原文の書き下し文についても収められているので合わせて読んだ。格調が高く、二三割わからない漢字もあったが、いちいち辞書を引かず、一気に読んだ。この文章を読解していくかたちで武田泰淳が書いたのが『司馬遷』という本で、それは既読であり、それが頭にあるから書き下し文もおおむね読み取ることが出来た。

 

 こういう文章を読むと血が熱くなる。まだ熱くなれることに安心した。

祝直木賞

 時の過ぎていくのがますます早くなっていく。日々の中身が薄くなっているからそう感じるのだろう。その中身を少しでも充実させようともがいても、なんとなく暇つぶしをせっせとしているだけのようなむなしさがある。自粛のやむを得ざる引きこもりは、前向きよりは後ろ向きになりがちだ。

 

 米沢穂信の『黒牢城』が直木賞を受賞した。米沢穂信が岐阜県出身だということで東海地区のニュースで盛んに報じていた。私も好きな作家なので嬉しい。『満願』という作品が初めての出会いだから、読み始めたのはそれほど古くない。『王とサーカス』や『真実の10メートル手前』など次々に読んで、『古典部』シリーズまで、遡って読んできた。受賞作の『黒牢城』ももちろん手元にあるのだが、まだ読みかけである。

 

 東海地区出身作家は多数いるが、特に愛読したといえば宮城谷昌光がいる。蒲郡出身で、名古屋に長く住んでいた。淡々とした文章で中国の歴史小説を書き続けている。『夏姫春秋』で直木賞を受賞した。その前に直木賞候補になった『天空の舟』以来のファンだ。一時期は出ている本の全てを揃えて次々に読了したが、いまはついて行けなくなった。

 

 本を読むスピードが著しく落ちている。集中力の低下を感じる。

2022年1月19日 (水)

噛む力が強いので

 本日は午前中、歯医者に行った。定期検診の予約をしていたからだが、右上の奥歯の割れ目が拡がって、ものがよく挟まるようになったので、そこを見てもらった。

 

 もともと親不知の影響で噛み合わせが狂い、そのためにたびたびあちこちの歯が割れるのだ。割れた当座はしばらく収まるが、また同じようなことが起こる。そこから虫歯菌が侵入して歯痛になる。

 

「Oさんは噛む力が強いので歯が耐えられないのです」と歯医者はいう。そしてプラスチックセメントで詰めて固めるのだが、「Oさんは噛む力が強いので」セメントも割れてしまう、のだそうだ。

 

 そこで今度は金属のかぶせ物にすることにするそうだ。金属の方が粘りがあるから大丈夫なのだが、今度はかみ合う相手の歯の方が削れていくことになるらしい。三十代の終わりに親不知を診た歯医者が、「抜きますか?」といった。抜けばよかったが、それから三十年以上経っている。いまさらどうしようもない。それまでは首から上で歯だけが自慢で、虫歯なんてなかったのに。

電気温水器

 本日これから電気温水器のメンテナンスとクリーニングの人がやってくる。昨晩の内に電源は落としてある。二年に一度のことのはずなのだが、ついこの間やったばかりの気がするのが不思議だ。夏と冬とは水道の水温がちがうので電気代がずいぶんちがう。それに冬のほうが洗い物などにお湯を使うことも多い。お湯で洗剤を使うと手も荒れるようだ。

 

 七年ほど前に温水器を入れ替えた。寿命が二十年から三十年ということだが、まだ使えないことはないのに制御盤のマイコンがおかしくなってしまい、交換部品もないということでの出費だった。多少は電気代が安くなった。

 

 温水器からの漏水で下の階に迷惑をかけるというトラブルがときどきあるらしい。私も月に一度くらいは漏水のチェックをしている。むかし埼玉県に住んでいたときに漏水で被害に遭ったことがある。とても腹立たしいものだ。その時は借り上げのマンションだったが、いまは自分の家である。トラブルのケースはたいてい老朽化して配管に問題のあるものばかりだという。耐用年数をはるかに超えて使ったためだという。金のかかることであるとはいえ、気をつけていれば防げることを怠る人の気が知れない。結果的に温水器の交換よりはるかに高額の出費になる上に人に迷惑をかけるのである。

 そういえば、道路や橋梁、水道管など、すでに耐用年数を迎えつつあるのに予算がないからとそのままになっているものが多いらしい。そのために人的被害が起きたりすることもあるから、由々しき問題だと思う。先送りして次の人に責任を負わせて済ます、というのがいまの日本の実情で、国の借金や年金など、頭の痛いことがたくさんあって、もうどうしようもないみたいだ。

不十分だから反対

 世の中に完璧なことなどほとんどないのは良識のある人間ならわかっている。だからどんなことにも、不十分だ、という批判は可能である。問題が一度に全て完璧に対処できないとき、出来ることから解決していくしかないのである。

 

 しばしば野党の批判に憤りを感じるのは、政府の施策に対して「不十分だから反対」を唱えるのは良いとして、そもそもの対策そのものを結果的に否定してしまうことで対策が遅れてしまうことを見せられて来たからだ。そういう反対を反対のための反対という。問題を解決することより相手を攻撃することに目的があるようにしか見えない。

 

 反対のための反対の特徴は、対策の優先順位を見失っているとしか思えない言動に表れる。問題があるとしても枝葉末節としか思えないことの追求に狂奔している様子からうかがえる。

 

それを繰り返し見せられてうんざりしているのは私だけではないらしく、反対ばかりの野党は支持を失っているのだと思う。政府の間違いや暴走に歯止めをかけるためには野党の存在が不可欠だが、その野党が見放されれば政府や与党は劣化する。劣化は政府や与党だけの責任ではない。

2022年1月18日 (火)

博士と蛙

 薄田泣菫の『茶話』から。

 

 京都大学から欧米漫遊を命じられて、いま米国にいる内田銀蔵博士は、例の几帳面な性質(たち)から、今度の旅行前に、手帳をいくさつか買い込んで、自分がいってみたいと思っている土地(ところ)の、道程(みちのり)から汽車汽船の都合までこまごまと書き記したものだ。ところが、その文句が歴史家だけにおそろしく古風に出来ているということだ。
 その内田博士が、あるとき京都の銭湯へ出かけていって湯槽(ゆぶね)の中で泳ぎ回っていたことがあった。博士は大学の次には湯屋が好きだが、湯に入ってあたりに人がいないのに気がつくと、決まってお玉杓子のような格好をして、湯のなかを泳ぎ回る。
 その日も好い気持ちになって、ちゃぶちゃぶやっていると、不意(だしのけ)に湯気の籠もった片隅から大声で喚いた者がある。
「おい、お玉杓子、ちっと気をつけたらどうだい。ここは溝(どぶ)のなかとはちがうんだからね」
 博士はお玉杓子のような頭を上げて声のする方を見た。湯気が濛濛と籠もったなかに、若い男が一人、蟹のように片手をあげてこちらをにらんでいた。
 博士はあわてて湯槽から飛び上がった。そして流し場へ几帳面に座って手をついた。その格好が蛙に生き写しだった。・・・歴史の大家の格好が、蛙に生き写しだからといって、どうか蛙も怒らぬようにして欲しい。大きい声では言えないが、歴史というものは間違いだらけで、おまけにくだらない学問だが、そうかといって歴史の間違いだらけで、くだらないということを知るには歴史をやってみるよりほかには仕方がない。この意味において歴史の大家は、詩人の蛙とともにどちらも尊敬すべき紳士である。
「どうも相済みません、貴方様がおいでになっているとは一向気がつかなかったものでございますから」
 博士は裸体(はだか)のまま、丁寧にお辞儀をした。そして頭を上げて向こうを見ると、相手はいつの間にかいなくなっていた。
 実をいうと、相手は博士の講義を聴いている学生の一人で、お玉杓子が誰だったか気がつくと、博士に気取られぬようにこっそり逃げ出したのだ。

音楽からの連想

 たまに古い映画音楽やイージーリスニングなどを聴く。パーシーフェイス楽団のアルバムを聴いていたら、『引き潮』というナンバーで『いそしぎ』という映画を連想した。『引き潮』はイタリア・フランスの合作映画で、アメリカ映画の『いそしぎ』とは全く関係がない。それなのにどういうわけか『引き潮』を聴くと『いそしぎ』を連想してしまうのである。考えたら理由に思い当たった。

 

 『いそしぎ』はエリザベス・テイラーとリチャード・バートン共演の恋愛映画で、妙に心に残っていて忘れがたい映画だ。すでに若いときのエリザベス・テイラーではなく、豊満な中年女性として登場している。おとなの恋愛映画だ。この映画のなかで、夜の浜辺に打ち寄せる波のシーンが特に印象的で、そのイメージが『引き潮』の曲と重なってしまっているのである。そもそも『いそしぎ』のメイン曲は『シャドウ・オブ・ユア・スマイル』という名曲なのだが。

 

 いまは恋愛そのものが主題の恋愛映画はほとんど観ないが、むかしは手当たり次第だったからずいぶん観たものだ。この『いそしぎ』もそのひとつで、『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッシーとレナードホワイティングのもの。ニーノ・ロータの音楽が絶品だった)、ダスティン・ホフマンとミア・ファローの『ジョンとメリー』なんてのも好かった。オマー・シャリフとカトリーヌ・ドヌーブの『うたかたの恋』なんていうのも忘れがたい。『ウエストサイドストーリー』だって『ロミオとジュリエット』の現代版の恋愛映画である。思えばこの世に男と女がいて、恋愛はたいていの映画に描かれているから、みんな恋愛映画といえないこともない。

 

 あの『八つ墓村』だって、横溝正史も認めているように実は恋愛小説であり、恋愛映画でもあるのだから。

西部劇か、マッドマックスか

 ロサンゼルス郊外の事件が海外ニュースで報道されていた。貨物列車が必ずスピードを緩める箇所があって、そこに人々が乗りこみ、積み荷を次々に梱包から出して奪っていく姿が映されていた。電気製品などが狙い撃ちされているようだ。それが数人単位の話ではない。数十人、またはそれ以上かも知れない。大勢が群がり、我が物顔に奪っていく。無法地帯である。当たりには段ボールなどの梱包が大量に広い範囲に散らばっているから、映像のときだけの話ではなく、繰り返し行われているらしい。被害は数億、数十億円ではないか。

 

 見た目は暴動のときに店から品物を奪っていく暴徒そのままだが、暴動などではないのである。西部劇の列車強盗か、治安など存在しないマッドマックスの世界そのものであり、現実だとは思えない。ここにはディストピア世界がすでに未来ではなく現在となっている。このような行為はロサンゼルスだけの話ではないのではないか。アメリカはここまで荒廃しているのかと驚いた。

 

 社会秩序が乱されているのにそれをコントロールできない国は、すでに国家の体裁を失いつつあると見るしかない。中国はこれを見て笑っているだろう。アメリカが自由と民主主義などというのを聞いたらせせら笑いたくなるのはとうぜんだ。

 

 このような状態が続けば、ついには強権的独裁者を望む声が高まって、国民は徹底的な管理社会を望むようになるかも知れない。極端は極端を生む。アメリカは思った以上に内部から腐り始めている。カート・ラッセル主演の『ニューヨーク1997』を連想した。アメリカにはディストピアを描いた小説や映画が多いのは、それが夢想ではなくリアルだかららしい。

2022年1月17日 (月)

脇道に逸れる

 ちくま文庫の個人選集は、芥川竜之介(全八巻)、夏目漱石(全十巻)、太宰治(全十巻)、江藤淳(全四巻)、中島敦(全三巻)、魯迅(全六巻)などがそろっている。中島敦についてはほかにも数種類文庫本があって、彼についての評論も何冊か持っている。太宰治の『思い出』を読んで中島敦の『山月記』を連想した(普通の人はこんな連想などしないと思う)ので、つい角川文庫版の『山月記』を読み直してしまった。

 

 この文庫の巻末には原典とされる李景亮の『人虎伝』も参考文献として掲載されているからそれを読み、そうしたらついでにこの文庫に収められている『李陵』も読みたくなった。この文庫本にはその参考文献として班固の『漢書』のなかの『李陵伝』があり、さらに司馬遷の『任少卿に報ずる書』まであるからそれも読むつもりだ。なにしろ北方謙三の『史記 武帝紀』を第三巻まで読みかけのままであり、ちょうど司馬遷や李陵が登場したところなのである。

 

 こうして太宰治を読むつもりが脇道に逸れていく。

嬉しそう

 トンガ諸島の大規模噴火に伴う津波について、日本の気象庁の予報が大きな誤差が生じたことを韓国のメディアが報じていた。

 

「日本は東日本大震災による津波で大きな被害を受けて以来、津波への対応体制を高度化してきた。気象庁は通常、日本列島に影響を及ぼしかねない地震や噴火が発生すれば、観測装備を総動員して収集したデータを分析し、数分以内に津波が押し寄せると判断して警報を発令する」
「しかし、気象庁は今回、日本列島から8000キロ離れたトンガで始まった津波については弱点を露わにした」

 

そのあとに、この津波が従来の地殻変動とはちがうものであったことが誤差の理由であることは補足されているが、全般に日本が間違えた、というニュアンスの報じ方で、そのことがいささか嬉しそうに読めた。

 

「今回の津波を受けて8つの県で約23万人に避難指示が出され、この日午前中に避難騒ぎが発生した」と報じていることからもそれがわかると思う。日本で災害が起こると喜ぶ人の少なからずいる国らしい反応だ。

 

 ついでに、関口宏が番組中、ずっと表示され続けた津波警報や注意報を示す日本地図が邪魔で、見にくくなって申し訳ないと謝罪したことが非難されているらしい。実際にその地図で情報パネルが見にくかったらしいから、そういう言い方があってもおかしいことではない。関口宏はまさか津波なんかどうでもいい、などと言ったわけではないのだ。それでもそのような非難を受けるというのもサンデーモーニングそのものが斜陽であるからかも知れない。

 

 サンデーモーニングはあまり好きではない番組だが、こういうケチの付け方はイヤらしくて嫌いだ。

太宰治『思い出』

 昭和八年に『海豹』という同人雑誌に三回に分けて掲載された中編小説。物心ついてから中学校四年生くらいまでの、太宰治の生い立ち、家族のことなどが記されている自伝的作品。これを読んで、「尊大なる羞恥心」ということばを思い出した。高校時代に中島敦の『山月記』をとことん詳細に、深く読解させられたときに頭に刻みこまれたことばだ。その時の国語の教師は現役のプロの作家でもあった黒須重彦先生で、私の恩師である。

 

 もちろん「尊大なる羞恥心」とは『山月記』の李徴について書かれたもので、太宰治とは関係がないが、「自ら恃むところすこぶる厚く」といわれた李徴は自ら述懐して、「人からは倨傲だ、尊大だ」といわれたが、「実はそれはほとんど羞恥心というべきもの」だったと語る。「自尊心がなかったとは言わない、しかしそれは臆病な自尊心というべきのだった」。

 

 この『思い出』のなかで太宰治は自矜という言葉を二度三度使っている。自意識の過剰、臆病な自尊心、その裏返しとしての尊大なる羞恥心、それらはそのまま繊細な少年の心のうごめき、働きでもある。そうしてたぶん太宰治はそれが失われずに死ぬまでそれを持ち続けた作家だったのではないか、などと思った。

 

 太宰治は若いときに少しだけ読んだ(つまりほとんど読んでいない)。昨年、ちくま文庫の『太宰治全集』を全巻揃えて購入し、一から読み直そうと思った。ようやく読み始めたところである。さすがに・・・来る。

2022年1月16日 (日)

前例がないのだろうか

 今回のトンガ諸島の大噴火は衛星からの映像しかないので詳細がわからないが、これからいろいろわかってくるのだろう。気象庁は当初津波のおそれはないだろうと伝えていたが日が替わるころに現地周辺の津波の事実を見て、津波警報、注意報を発した。噴火による津波というのは前例がないから判断を見誤ったということらしいが、前例はないのだろうか。

 

 巨大噴火によって衝撃波が起こり、それによって津波が起こる現象というのはほんとうに知られていない珍しいことなのだろうか。

 

 今回の噴火と津波を見て、思い出したのは『ジャワの東』という1969年の映画である。学生時代にリアルタイムで観て、その映像が忘れられない私のなかの思い出の映画である。1883年、ジャワ島とスマトラ島の間のクラカトワで大噴火が起こり、多く(3万6千人あまり)の死者を出したが、その多くが噴火によって起きた大津波によるものだった。

 

『ジャワの東』という映画は冒険映画であるが、そのなかの気球のシーンなど、とても美しい映像が続いたあと、クライマックスとしてこのクラカトワ大噴火が描かれている。繰り返される地鳴りのあと、大噴火が起こり、その噴火による衝撃波、噴煙、雷鳴、飛来する噴石、そしてそのしばらくあとに襲い来る大津波が描かれているのだ。それらは記録に残されているからこそそれを再現して映画にしたのだと思う。

 

 だから前例はないわけではないのではないか、などと私は思ったのである。

身体が求めているようなので

 このごろ妙に神経が尖っているような気がしていた。その尖り方がバランスを欠いているのが気になっていた。神経が尖っていると眠りが健康的ではないことになる。酩酊するほど酒を飲んだり、愛車を長駆させて温泉などでリラックスすればたちまち解決することは経験的にわかっていることなのだが、いまはどちらも控えている。

 

 今朝普通に目ざめて朝食を摂って片付けてから一連のルーチンをこなしたら、異常に眠気が襲ってきた。気がついたら座椅子で一時間ほど寝ていたようだ。しかし眠気はまだ解消していない。あらためて布団を敷き直し、横になったら昼過ぎまで一度も目ざめることなく眠りこけた。眠気は多少治まったが、頭はますますぼんやりしている。私はどんなに長くても病気でもなければ八時間以上眠ることが出来ない。それがもう延べにしたら十時間を超えている。

 

 今日は暖かく天気も好いということなので、郡上あたりまで日帰りで行こうと思っていたけれど、それどころではない。身体が睡眠を求めている。いつかは永遠に眠れるのだし、ただ寝るだけというのは時間がもったいないと思うけれど、身体が求めているならそれに従おう。さあまた寝ようか。眠れるかな。

受験生傷害事件に思う

 東大の門前で受験生など三人が包丁で切りつけられて怪我を負った事件は、名古屋の高校二年生が犯人だった。事件を起こした本人のことばを聞く限り、ほとんどの人にはその動機は理解不能だろう。感じるのは先日の大阪の心療クリニックの放火犯と同様、犯人には他人というものが自分と同じように人生を持ち、生きている人だという認識を欠いているのではないかということだ。

 

 二日ほど前に『認知能力』という表題のブログを書いたばかりである。他者を自分とは別の人格として認知する能力を欠けば、他者とはただのモノでしかない。そういう状態では自分が犯罪を犯したという実感もあまりないのではないか。目的はあくまで事件を起こすことでしかないのだから。

 

 認知能力の著しい欠如は、こうなると精神の病としか思えない。精神病者とは、他者には理解が不能である言動をする者であるのだから。しばしば理解できない者を理解できるかのようにいう者があるが、それは精神の病の実態を知らないからだ。

 

 社会には一定の割合でそのような病を抱えてしまう者がいるらしい。本人には如何ともしがたいのが病なのであるから、この少年も罪を問う以前にそのような対処が必要な気がする。それにしてもあまりの異常さにことばを失うような事件が増えているような気がする。それは社会そのものが病的になっているということなのだろうか。それなら次々にこのような理解を拒否するような事件が起こるに違いない。無事なのは、ただ運がいいからだけなのか。

2022年1月15日 (土)

キャンセルカルチャー

 キャンセルカルチャーということばを知って、最初は韓国で横行しているという、そして日本ではまさかないだろうと思っていたら少なからずあるのだという、予約しておきながらキャンセルの連絡なしに行かないという行動のことかと思った。

 

 キャンセルカルチャーとは、「著名人などの過去の言動を掘り起こして、現在の価値観から弾劾し、ときに本人に謝罪を求め、その業績を徹底的に否定し、関係先にも懲戒や除名など何らかの強い措置を求めることをいう」のだそうだ。思い当たる事例は山のようにあるからすぐわかるだろう。

 

 もちろん過去のことであっても許されないものは許されないし、批判されるべきことは批判してかまわないけれど、失うものと非難されることのバランスが著しく欠けていて、なんだこれは、と思うことがある。というよりそういう場合の方が多い。批判している人間がそれほど清廉潔白で正しいことばかりして生きてきた人間なのか、といいたくなるようなことが多い。

 

 悪を弾劾する正義に酔いしれているそのことの方に恐怖を感じてしまうのである。なぜなら私も全く正しい生き方だけをしてきたのかと胸に手を当てれば、非難されることの二つや三つ、四つや五つはたちまち思い当たるからだ。そのような正義はたちまち自分に跳ね返る。跳ね返らないようにする方法は唯一つ、ひたすら弾劾を繰り返すこととである。みながその声に酔いしれている間はたいてい安全であるから。

 

 「なんとかハラスメント」のエスカレートにこのキャンセルカルチャーが重なる。こうして節度のない過剰な非難合戦が続いたあとになにが来るのか。怯えて生きるしかない、覇気のない衰退した社会だろう。すでにことば狩りによって日本の文化は衰退させられていると私は感じている。私が正義の味方が嫌いな所以である。

地獄の住民

 薄田泣菫の『茶話』から『地獄の住民』(後半部だけ)。

 

 英国の首相ロイド・ジョージが田舎へ往って政治演説をしていたときの話。地方自治のことか何かで、氏は例の白熱のような雄弁で、自治はアイルランドにも、自治はスコットランドにも、自治はウエールズにも許さなければならないと言って、勢い込んでとんとテーブルを一つどやしつけた。
「賛成!ついでに地獄にも自治が一つ欲しいや」
 聴衆のなかから、冷やかしが猿のようなキイキイ声で突っ走った。
「大きにそうだ。地獄にも自治が要るに相違ない」
ロイド・ジョージ氏は声のした方を振り向きながら、落ち着き払って言った。
「誰もが自分の住んでいる国に自治をほしがるに相違ないんだから」
 聴衆はそれを聞くと、どっと一度に笑い出した。可哀想に冷やかしを言った男は地獄の住民にされてしまった。

みずほ銀行は停滞日本の経営の象徴

 システム障害を繰り返しているみずほ銀行が経営者を交替させて刷新を図るのだという。私も富士銀行時代から口座を持っているので是非刷新して再生して欲しいと願っているが、いまだにシステム障害がなぜ起きたのか原因が明らかになっていないとも聞いていて、危ういことだと思っている。

 

 この前のブログに書いたけれど、人に対する投資をしないばかりか、人件費削減という一番楽な手法で利益を生み出すことで、自分の地位を安泰にする経営者の典型をみずほ銀行が象徴している。この手法は多くの日本企業がとりいれているもので、そのことで株式の配当を確保していかにも利益を出しているように見えて、実は自分の会社を食い物にして生き延びているだけ、つまり蛸が自分の足を囓り喰って食いつないでるだけなのだ。

 

 必要なことまで経費節減し、賃金を抑え、リストラして、それに反発するものを押さえ込み、現場の悲鳴は無視する。こまめな報告は求めるが、現場の意見は聞かない。方針は経営者の部屋でだけ決められて、ユーザーも社員もその念頭にはない。これはあまりに極端な物言いのようだが、そうだろうか。実際に、次々に名門企業が縮小衰退し、身売りし、消滅していったのはなぜか。

 

 日本は製造業が強かった。過去形なのは、いまは必ずしもそうとばかりはいえないようになったからだ。経営者に理科系がいなくなり、科学的思考が出来ない事なかれ主義のひと、そして取り巻きにイエスマンだけの企業がゾンビ企業としてひしめいている。

 

 いまに第二の東芝、第二のみずほ銀行があらゆる分野で続出するだろう。日本の停滞の原因はまさにそのような経営者にあって、現にまだそこに居座っているのだから必然的な結果だ。年金、大丈夫かなあ。

2022年1月14日 (金)

浸透工作

 ジョンソン首相のパーティ問題の陰に隠れていて目立たないが、気になるニュースがあった。イギリス国内の治安維持のための情報をあつかうMI5が、イギリス議会に警告を発したという。イギリスで仕事をしている中国人女性弁護士が、多くの議員達に資金提供をしていたことを明らかにして、その金が中国からのものであると報告したのだ。議員達はイギリス国内からの資金提供だと聞かされていたと釈明しているようだが、本気で信じていたのだろうか。なかには五年で数千万円を受け取っていた議員もいて、名前も公表された。

 

 とうぜんイギリス議会に中国に都合のいいバイアスがかかっていたことは想像されることで、そういう噂やドラマはあってもなかなか信じがたかったが、事実であることがはっきりした。その中国人女性弁護士はスパイ行為を行っていたわけではなかったということで訴追はされていないそうだ。

 

 よく知られているところでは、オーストラリアが官民挙げて中国の資金によって汚染されているという話がある。中国によるオーストラリアに対する浸透工作はすでにかなり進んでいて、多くの土地や利権が中国のものになっていて、数々の軋轢を生んでいる。だから中国はモリソン首相の対中強硬姿勢に驚いているに違いない。過剰なリアクションがそれを示している。それはオーストラリア国民の中国に対する疑念と反発を中国が見誤っていることも示している。

 

 たぶん中国は世界中にそのような資金を動かし、政治家を抱き込み、浸透工作を行い、土地を買いあさり利権を買い占めている。しかしその結果として利益供与を受けていない人間達の反発を買って、投下した資金が遠からず無駄になることもある。中国は発展途上国に巨額の債務を持たせて支配することをもくろんでいるが、その債務が不履行になった場合の結果についての想像力に欠けている。もともと借金を返せない国に借金させて、かわりの担保を取り立てるつもりのようだが、相手の国の反発を考えていないから、取り立て不能が頻発したら焦げ付くだけである。少し前のことだが、シリアに三兆円の焦げ付きを生じたことがあった。これから次々にそういうことが起きて、中国が資金ショートに陥る可能性がある。

 

 中国の懐だって無尽蔵ではないから、ちょっとそれを期待している。

見直す

 私は山際大志郎という人にあまり好感が持てなかった。それは見た目と賢すぎる応対による。相手の鋭い質問に対して弁舌爽やかに答えるのだが、微妙に都合の悪いところをはぐらかしてするりと抜けていく。賢い人は嫌いではないが、小賢しく感じればあまり好感が持てない。

 

 昨晩のプライムニュースで、経済再生大臣として、そして新しい資本主義担当大臣として、さらに新型コロナ対策担当大臣としてゲストに呼ばれていた。そこで彼が終始強調していたのは「人への投資」ということだった。もう一人のゲストが淑徳大学の真田氏で、この人は常日頃その感情に流されない紳士的言動、わかりやすさ、語る内容がこちらの思いと一致することが多いこと、さらに新しい視点を提示してもらえることが少なくないことなど、大いに評価している人である。その真田氏と山際氏が互いに補完し合いながら日本の経済界の問題を剔抉させていく様は痛快だった。

 

 問題点についての認識が一致していることに意外な気もしたし、それで山際氏を見直す気になった。話を聞くにつれて、なにを言っているのかよくわからない岸田首相の「新しい資本主義」というものがどんなものか、次第にわかってきた。理念として山際大臣が説明解説していた「新しい資本主義」というものにようやく賛意を感じることが出来た。

 

 「いまだけ、その場限り、ただ儲けるだけ」の海外投資家を利するばかりのいまの日本経済というものをどう立て直すのか、それが喫緊で根本的な問題であることは、かねてより私も感じていたことである。だから「人に対する投資」ということに大きく舵を切ろうというのである。従来のアベノミクスをはじめとする日本政府の金の向け先が、人ではなく企業であることの問題をさまざまな論客が指摘してきた。それを見直すのであればそれは正しい方策である。

 

 実際にそれを実行するためには多くの壁があり、それが実行できるか、そして成果が上がるか、注目したいと思う。わずかずつでも仕方がないのである。長期にわたる停滞からの脱却には大変なエネルギーと経営者たちの意識改革が必要で、その処方箋として初めて政府がなるほどと思う答えを出すのを見た気がした。成果を期待したい。

ディストピア幻視

 テクノロジーがどんどん高度化して、それについて行けない人たちがどんどん取り残されていく。自分がそうだからその悲哀を実感している。単純労働はどんどん機械化され、かなり高度な知的分野までロボット化が進もうとしている。

 

 少子化によって労働人口が減少していくとき、それが機械化ロボット化で補えればまことに都合が良い。しかし労働人口は減らないのに機械化が加速度的に進めばどうなるか。アメリカではプアーホワイトと言われる単純労働に従事していた白人達の失業が加速した。そうしてその人たちを煽ってトランプが登場し、拍手喝采を浴びてアメリカ分断をもたらした。

 

 問題の解決は富の再配分しかないことを世界の賢人たちは理解している。習近平だってわかっている。ただし、アメリカはアメリカンドリームの国であり、自由と自己責任を至上とする国であって、その建前から脱却することが出来ない。そうして努力を重ねてもますます落ちぶれてしまうとき、何かがおかしいと思う。誰か犯人がいるはずだと思う。そんなときに、あいつが悪い、と誰かがなにかを指さすとき、雪崩を打って狂奔が始まる。

 

 文化大革命での紅衛兵の熱狂、ポル・ポトの大虐殺、ルワンダ内戦の殺し合い、済州島の四・三事件などが悪夢のようによみがえる。世界がそのような怒濤のように暴漢を生み出す気配を感じる。貧富の差がポテンシャルエネルギーと化して極限まで高まってきてはいないか。

 

 どうもディストピア映画や小説を見すぎたようだ。

2022年1月13日 (木)

認知能力

 他人の表情を読んだり、相手の気持ちを想像したりと、コミュニケーションや社会性の全てに関わる能力を認知能力というのだそうだ。認知能力は知的能力の物差しによく使われるIQのような単純なものではない。IQが高くても認知能力が低い人もいる。とはいえ、IQが低い子供は共感能力も低く、相手がなにを感じているのか理解することが苦手であることが多い。

 

 私はIQはギリギリ人並みだと勝手に思っているが、認知能力は人並みであるかどうか自信がない。それはしばしば相手を読み間違え、勘違いをした経験があるからだ。敬愛する先輩の多くは人を見る目が的確で、その点で自分は劣っているといつも感じさせられていた。ただ、お人好しであることはあまり人に嫌われないという善いこともあったから、生きにくいことばかりではなかった。

 

 経験を重ねる内に多少は人を見る目が養われる。その分人が悪くなったかも知れない。

 

 世の中を見ると、相手の言い分が聞けない人ほどひとを押しのけてのし上がれるのではないかと思ったりする。他人がどう感じているか、などということを配慮するような人間は金が貯まったり有名になったり出来ないかのようだ。認知能力が生きやすさと関連しているというのは実は間違っているのだろうか。

 

 認知機能のトレーニングというのがあって、いま教育界では試行が始められているそうだ。それによると訓練によって子供がガラリと変わる事例がたくさんあるという。他人と自分がちがうのだということ、他人はなにを感じ考えているか想像する力をつけることは、大変素晴らしいと私は思うけれど、もしかすると優しい人にはなれるけれど金持ちや有名人にはなれないかも知れない。どちらがしあわせだろうか。

仕向けておいてなにを

 韓国で「外国への好感度」という意識調査が行われ、主要国のなかで日本が最下位だったと報じられた。それはそうだろう。反日教育を長年行った上に、あることないことマスコミや政府が挙げて日本非難を続けていて最下位でなければそれこそ驚くべきことだ。ある意味の洗脳教育を続けた成果というべきで、洗脳教育には効果がちゃんとあることを韓国は教えてくれた。そういう国だということをわかった上で付き合うしかない。「話せばわかる」ことはないと覚悟すべきだろう。

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 韓国には二度行った。一度目のソウルとその周辺を見て歩いたとき、ガイドの女性は長身の知的で意志の強そうな女性だった。父親は軍人だという。彼女が反日的な心性の持ち主であり、仕事だからガイドをしているだけで日本人には偏見があることは私にはそれとなく察しられたが、同行のある女性などは「やさしくていい人だ」と手放しに好感を持ったようだ。私の方に敏感すぎる故の勘違いがあつたのか、その女性がそこまで感じない人だったのか知らない。日本で好感度調査をすれば、韓国はそれほど悪い評価にならないだろうと思う。

 

 文在寅政権が強行成立させた「高位公職者捜査処」という組織は、政治家や公務員の特権を超えて身辺調査を行うことが出来る。これは政権にとって不都合な相手を選択的に捜査するおそれがあって問題だといわれていたし、そもそも検察という組織がありながら、その上にこんな組織を作ることは政権の独裁性を高めてしまうと懸念されていた。

 

 その「高位公職者捜査処」が野党議員はもちろん、マスコミの記者達の身辺調査も行っていることが明らかになったらしい。それのみならず、朝日新聞の記者まで捜査対象になっていたことがわかり、朝日新聞は抗議したようだ。朝日新聞は慰安婦問題をはじめとして、さまざまな誤報によって韓国に日本非難の材料を提供して来た。韓国に感謝されるはずだと思い込んでいたのにこの仕打ちに仰天したのだろう。それでも自分たちが韓国になにを提供してきたのか気がつくことはないのだろうなあ。

Dsc_0234_20220113084201永遠に謝罪し続ける秦檜夫婦

とりとめのない雑感

 林家三平が笑点を降板したのが本人の意志なのかやめさせられたのかがはっきりしないが、やめざるを得ない雰囲気のなかで本人がやめることにしたというところか。先代の林家三平の息子である現・林家正蔵、林家三平兄弟を私は昔から評価していない。そもそも名跡の林家正蔵の孫だからというだけで継いだようにしか見えない。彼らの父親の林家三平は、自分の実力から父の名跡を継ぐことは出来ないと見切って、あのような漫談風の落語という新境地を開いた。下手でも愛されるキャラクターというのがあって、先代の林家三平はそういう人だった。

 

 下手な上に愛されることのなんたるかがよく理解できていない林家三平が笑点で浮いてしまうのはあたりまえのことで、自分の母親を自虐ネタにしたり、好感を持たれるために子供や妻を引き合いに出したりするだけでは、愛されるキャラクターになることは出来なかった。変なところが小賢しく、しかも周りを気にしすぎていては、みていて見苦しいばかりだ。

 

 その三平が、「子供のために降板した」などとラジオの番組で言ったという。こういうことばが言い訳にしか聞こえないのが彼の難点で、自分の実力のなさ、研鑽不足が心の底からわかることの出来ない人間なのだなあとあらためて思わされた。親のおかげで下積みの苦労がなかったことが結局彼を不幸にした。だからといって親のせいにするのは大間違いである。もういい歳なのだから。

 

 どこかで「開かれた皇室」ではなくて「開かれすぎた皇室」だ、などという文言を見た。なるほど、うまいことを言うなと思った。開かれすぎた皇室が週刊誌ネタとして格好のターゲットになり、皇室に対する敬意も尊崇の念もどんどん失わせてしまった。いまはあたかもトキなどの絶滅危惧種をどうしたら存続させるかというような論議が大真面目で論じられている。皇室にも人権があるだろうに。どうしたらいいかなんて知らない。まさか皇室に何人も女性を置いて大奥を作るわけにもいくまい。なりゆきでいいではないか。

Dsc_3495トキではなくてコウノトリですが

2022年1月12日 (水)

聴力の話

 父は健康なまま長生きして、認知症にかかりもせずに97歳まで生きた。酒もたばこもたしなまず、死ぬ直前まで庭いじりを楽しんでいた。唯一つ、早くから耳が遠くなって会話がしにくいところがあった。もともと若い人の音楽や会話にはついて行く気がないところがあったから、テレビの早口のお笑いなどはほとんど理解できなかった。いちいち隣の母になぜみんな笑っているのかと訊ねるので、母はいつもうるさがっていた。

 

 私は赤ん坊のときから繰り返し中耳炎を発症したので、その都度鼓膜を破って膿を出したから鼓膜が厚く硬くなってしまって左耳が少し聞こえにくい。おとなになって中耳炎にかかることはなくなったが、そこへ年齢とともに父の体質が受け継がれて耳が遠くなっていった。テレビの音などは普通の人よりも大きな音で聴いている。独り暮らしだからかまわないが、娘のどん姫などは、以前はうるさいと言っていた。さすがにいまは何も言わないから、あきらめたようだ。

 

 ところでテレビ局により、また番組によって音量が著しくちがって聞こえるのは私の耳のせいだろうか。CMがうるさい。ドラマの導入部の音楽がうるさい。しかしそれに合わせると会話が聞き取りにくくなる。NHKの音量出力は他局より明らかにひくい。ニュースのとき、女性アナウンサーによって極めて聞き取りにくいことがある。私はある音域が特に聞こえにくい傾向があるらしい。そういう傾向が老人に一般的にあるのなら、それを考慮して音量調節できる機器があるとありがたいものだ。NHKは音をもっと大きくしろ!

 

 このごろは甚だしい聞き間違いをして驚くことがしばしばある。しばし考えてから正しいことばが見つかることもあるが、全く思い当たることがないまま過ぎることもある。言い訳がましいが、私が語学に弱いのは、相手のことばが正確に聞き取れないからではないかと思っている。もし耳が人並み以上なら、あんなに海外で苦労しなかったはずなのだ。

若いころ聴いた歌

 まくらもとに古いラップトップパソコンを置いていて、録りためた音楽ソフトをLANで聴いたり、アマゾンの音楽ストリーミングをしている。このごろは就眠のときに静かなピアノ曲や喜多郎の『シルクロード』や『敦煌』を聴くことが多いが、昨晩はアマゾンで青春時代に聴いた青春歌謡やポップスを聴いた。

 

 子供時代、ほとんど歌謡曲というのを聴かなかった。我が家にテレビがやってきたのは、私が小学校五年生のときだったから、それまではラジオで音楽を聴いた。父は音楽にほとんど興味がない人だったが、母は音楽も映画も好きだった。母は歌謡曲は聴かず映画音楽や洋楽が好きだったから、私もそれを聴いて育った。当時はアメリカの音楽よりもヨーロッパの音楽の方が多かった記憶がある。サウンドトラックを聴いて頭に残っていた映画をおとなになってビデオなどで観たときには別格の感慨があった。

 

 中学生、高校生のときには内外でグループサウンズが盛んになっていたが、ほとんど興味がなかった。大学生になってから、家庭教師のアルバイトなどでナショナルのワールドボーイという当時としては二回りくらい大きなトランジスタラジオを買って、寮の窓辺においてFMを楽しんだ。部屋は三階で周りは田んぼだったから遮るものがなく、雑音のないいい音で聴くことが出来た。

 

 寮では先輩達のなかにオーディオマニアの人が自作のコンポを並べて、クラシック音楽を聴かせてくれた。繰り返し聴く内に耳になじんで初めてその良さを知ることが出来た。初めて音楽らしい音楽が聴ける耳になったかも知れない。指揮者や楽団による違いなども聴き比べさせられた。名前も覚えた。私の知識はそこからあまり追加されていないから古い。

 

 就職してからは初めて歌謡曲を聴くようになった。毎週日曜の『スター誕生』をよく観たので、山口百恵などをはじめとする少女たちの歌を聴くようになった。好き嫌いが出てきたのは興味を持てるようになったからだろう。先輩が新しいオーディオセットを買うから古いのをやるよといわれて、二つ返事でいただいた。その頃からカセットテープが一般化したので、カセットデッキを購入してつなぎ、FMをエアチェックしてコレクションを作ったものだ。

 

 そのあとしばらくして貸しレコード屋が出来たのでレコードをとっかえひっかえ借りてきて、カセットに録音した。貸しレコード屋が貸しCD屋、貸しビデオ屋に変わっていった。しかしその頃から仕事が忙しくなって、あまり音楽を聴かなくなってしまった。リアルタイムの音楽について行けなくなってしまったのかも知れない。

 

 そういうことを思い返しながら青春時代の音楽を聴いていたら、いつまでも眠れなくなった。

2022年1月11日 (火)

アイドリング中

 用事というのは片付ける尻から増えたりすることがある。どこまでが放っておいてもかまわないのかわからないけれど、いつの間にかそれなりに治まったりする。思った以上に片付かなかったけれど、まあいいか。

 

 所用を片付けるために、今年初めて車を動かした。久しぶりだとわくわくする。車を運転するのが楽しいものであることを思いだした。このまま遠くまで行きたいけれど、理性は自制を指示する。夕方帰宅してネットで宿をいろいろ眺め直した。少し前に目安にクリップした宿が十軒あまりあって、どれも行きたいところばかり。近場では茶臼山や昼神、ちょっと足をのばして奥飛騨、さらに能登、ずっと遠くでは島根県の皆生温泉などが現在の候補にあがっている。北関東や東北にも行きたいけれど、それは出来れば一週間ほどの長旅コースで考えるつもりだ。

 

 来週動くかその次の週か、どちらにしても気持ちが治まりそうもないので、どこかに行くことになるだろう。その前に郡上か髙山、または五箇山の雪景色でも日帰りで見てこようか。明日明後日はだいぶ雪が降るようだ。

閑中忙あり

 毎日ぼんやりと生産性のない日々を送っているが、たまに動かなければならないこともある。妻のいろいろな医療費の補助の件で役所に更新手続きが必要だったり、病院に支払いなどで出かけたりする必要があって、先延ばししても事態は変わらないから今日はまとめて片付けるために動くつもりである。

 

 雨だけれど車で動けばどうということはない。雨は人が少ないからありがたいくらいだ。歯医者も定期検診の案内があったから予約をしようとしたら、来週半ば以降でないと空きがないという。その来週半ばで予約を入れた。

 

 今のところ妻の入院費は想定以内で納まっていて、このままなら貯えの取り崩しはほとんど必要がなく、子供たちにSOSを出さずにすみそうだ。そうなるとちょっと気が大きくなって、温泉にでも出かけようかな、などと思ったりしている。そこまで余裕があるわけではないが、百まで生きて迷惑をかけるようなつもりはなくて、平均寿命くらい生きられれば御の字だと思っているから、それならまだまだ楽しめる。それにあと五年もすれば車での長距離運転は難しくなるのだから、いまのうちに楽しんでおきたい。

美達大和『中国共産党大解体』(ビジネス社)

 この本からベッド・ディテクティブということばを連想した。ベッド・ディテクティブは安楽椅子探偵などと日本語で言うこともあるが、そもそもベッド・デテクティブとは日本の造語で、欧米では通用しない。高木彬光の『ジンギスカンの秘密』や『邪馬台国の秘密』などがそう呼ばれる。これは名探偵神津恭介が病床で推理していた。ジェフリー・ディーバーの『ボーン・コレクター』はデンゼル・ワシントン主演で映画化されたが、これも半身不随の主人公がベッドで情報を集めて推理していくという話であった。

 

 ながながと前書きを書いたのは、この著者の冠称として「無期懲役囚」と謳われているように、美達大和というのは刑務所内で一生を送る服役囚のペンネームであるらしい。限られた資料を渉猟し、それらを記憶し、網羅して何冊も本を出版している。

 

 表題の『中国共産党大解体』から、私は中国共産党が自己のなかに抱える矛盾から崩壊することを大解体といっているのだと思って読み始めたのだが、私の勘違いで、現在の中国を支配している中国共産党の歴史と性格、そしてその権力構造、その軍事力と意図などを集めた資料から読み解くという意味の大解体であった。

 

 膨大な読書量、その読書スピードの恐るべきことは井上ひさしに匹敵する。一日十冊二十冊読むのはあたりまえだというのだから。しかも刑務所暮らしのためにそれらの本を蔵書として手元に置くことが出来ないから、多くを記憶して頭に収めておくしかない状態でこれを書いているという。恐るべき頭脳である。

 

 書かれていることはおおむね既知のことが多いので、目新しさはない。ただ想像されるような単純な嫌中本ではない。著者の考える、中国共産党が目指すものがもたらす可能性のある災厄に対しての、極力根拠を示した上での警告の書である。限られた資料からこれだけのことを考えることが出来るのだから、自由に知ることの出来るわれわれがそれよりもその自覚に欠けることは恥ずかしいと思わなければならない。

 

 全て日本が悪い、と思いこんでいる人には読みたくない本だろう。読むはずがないか。

2022年1月10日 (月)

長髪、刺青、ピアス

 クールジャパンという番組を観ていたら、日本の女性の前髪を垂らす人の多さは世界的に特異であることを知った。私はおでこや耳を露出させてある女性の方がどちらかといえば好きだ。ところが前髪を垂らしている女性は、おでこを出すのは恥ずかしいと本気で考えているらしくて驚いた。もちろん似合うか似合わないかということや、流行も関係するから一概に言えない。

 

 男性の長髪はおおむね不潔に見えて好感が持てない。ワイルドに見えて男らしいと思っているのだろうか。後ろを結んでいる侍崩れみたいなのはたいていむさ苦しい。それでもごく希に似合う男もいないことはないが、多くは似合わない。全員がたぶん自分は似合うと思い込んでいるのだろうけれど。前髪で顔の半分以上を隠す若い男が多いけれど、アニメのキャラクターを気取っているのだろうか。見ているこちらがうっとうしい。

 

 刺青になると、こどものころ近所で刺青を入れた男というのをみていて、そういう人間がどういう仕事をしていたかもなんとなくわかっていたからその感覚が頭に染みついていて、もし息子や娘、身内や友だちに刺青を入れるようとする輩がいたら許容出来ないと思う。アメリカ映画などを観ていると刺青があたりまえになってきていて、いまは映画だけではなく普通の人間が気軽に刺青を入れているのに驚く。

 

 ピアスというのもどうも見苦しい。唇や鼻にピアス、へそにピアス、などというのを見せられるとげんなりする。「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり。」という孝経のことばを父は独り言でつぶやいたものだ。ピアスや刺青などとんでもないと怒るだろう。そう刷り込まれた私もその考えを変えることは出来ない。自分の身体で自分の外見を飾る、というのがどうも好きになれないのだ。

 

 時代が、そして世代が変わればそれがあたりまえになる時代も来るのかも知れないが、私には受け入れることが出来ない。いやだと思うものはあくまでいやだ。

おとな

 喫煙や飲酒が成人にしか許されないことから、早くおとなになりたい少年少女が未成年なのに飲酒や喫煙をする。おとなしか許されないことをあえて行うことで自分があたかもおとなになった気分になれると思うのだろう。女性の喫煙も、男の喫煙にあこがれての行為のことがあって、様になる人と様にならない人の違いはそこにある。

 

 成人式は年齢をもって行われる。ほんとうに成人なのか、まだ子供なのかには関わらない。そういう区別を何をもってするか物差しがないのだから仕方がない。しかし、しばしば成人式でバカ騒ぎする愚かな新成人たちを見せられると、まともなおとなは目を覆いたくなる。

 

 世の中に大人になりきれていない成人がどんどん繰り出されていく。そのためのセレモニーが成人式なのかと皮肉に思ったりする。そういう私だって社会的役割をきちんと担い、正しい人間関係を気付いているかと問われればいささか返事に窮する。ちゃんとした一部のおとながいてこそ世のなかは上手く回っていて、そういう人たちには感謝しなければならない。平和な時代とはおとなになりきれない成人がひしめいていてもなんとか回っている時代か。

 

 おかしな熱狂にまきこまれて危うい社会を招いてしまうより、熱のない今の平和ボケ日本は、必ずしも悲観ばかりしなくても善いのかも知れない。

二日酔い

 昨日いささか飲み過ぎて今朝は二日酔い。

 

 娘夫婦がお土産をたくさんひっさげてやってきた。こちらはささやかながら料理をいろいろ用意して待ち受けていたところへ、自分で作った、というローストビーフが大量に提供されたので、小さな食台(炬燵の上)は料理だらけになった。若いふたりは食べる、食べる。気持ちが好いほど美味しそうに平らげていく。

 

 娘の亭主というものはなかなかフレンドリーに話がしにくいものだが、互いにだいぶなじんできたし、酒も入ったので楽しく歓談することが出来た。娘夫婦には昨年の事故の時に大変世話になった。近くに(車で30分あまりのところに)すんでいるのはありがたい。

 

 二人ともいくらかふくよかになっていて、運動不足です、などと言い訳していた。娘の亭主はますますずんぐりした熊みたいになっていた。どん姫もさいわい体調は今のところ心配ないとのことで安心した。それでもいつもは結構酒も飲むのだが、昨日はだいぶ抑えていた。

 

 仕事は六日までで、ようやく休みが取れたので、そのあと四国(旦那の実家)に行っていたそうだ。こうして娘たちと私の正月が終わった。外さずにいた正月飾りも役目を終えたので外した。

2022年1月 9日 (日)

不要不急以前

 不要不急の警察や救急車への通報や依頼が深刻な問題となっていることはかねて報じられてきたが、茨城県警が昨年一年間に受けた110番のうち、15%が不急の通報だったという。なかには「食洗機のランプが消えなくなったから来てくれ」とか「飼い犬がなつかない」などという依頼もあったという。親しまれることを心がけている警察も、さすがに生活全般を相談されても困るだろう。全通報数が17万3956件、不急としか思えないものが2万4705件だったというから、不急の通報が日常的であることがわかる。

 

 不要不急であるかどうかの判断がつきにくいこともあるだろう。しかし警察は結果的に不要不急だとしても、そういうものは不急には入れていないのではないか。不急の案件とは、常識的に110番通報するものではないと判断できるものだろう。つまりそういう通報をする人は非常識な人ということで、そういう非常識な人がたくさんいるということだから、まことに困ったことである。

 

 むかしは非常識であることは世間のヒンシュクを買うし、恥ずかしいことであった。恥ずかしいことはしてはいけないことであった。いまは恥ずかしいことが何かわからない人がとても多い気がする。指摘されても恥ずかしいと思わない人、思えない人がざらにいる。どうしてこういうことになってしまったのかと思う。

 

 そうして恥を知らない人間がしばしば得をする。それを見せられると真似をしてしまう人がいる。恥より損得が優先する。日本はまことに自由で豊かで平和な国になったものだ。愚かだけれど。

教育の成果

 少し前の韓国のニュースだが、「韓国料理を盗もうとした日本人を英国の有名シェフが叱る」というのがYou Tubeに投降されて話題を呼んだそうで、実はそれがフェイクだったと明らかになったという。イギリスの有名シェフ、ラムゼイ氏が出る料理番組の一場面が使われていて、そこには韓国料理も日本人も出てこないものだったことがわかったのだそうだ。その番組では、ラムゼイ氏がステーキを焦がしたシェフを叱っただけで、そのシェフは日本人ではなさそうだ。

 

「日本人シェフは料理ではなく泥棒をしに来たのか」とか、「ラムゼイさん、日本人を叱りつけてくれてありがとう」などと大いに盛り上がっていた韓国で、事実が明らかになって物議となっているそうだ。そもそもなんで日本人がイギリスまで行って韓国料理を日本料理だといわなければならないのか理解に苦しむ話(そういえば日本の文化を韓国のものだと言い立てる話は枚挙にいとまがないほどあるから、韓国人的発想なのだろう)で、どうせイギリスの料理番組などだれも観ていないからバレないだろうとこんな投稿をしたのだろうが、こういう投稿も番組情報も消え去ることがないものだから必ず事実は判明してしまうものだ。

 

 批判的なコメントが山のように寄せられているらしいが、そもそもこんなフェイクが通用すると思ってしまう人間がいて、それに大いに盛り上がる韓国という国こそが問題なのだ。それを指摘する声も多いようだが、それはここまで明らかな嘘だからこそで、そもそも日本は悪者だから日本人は平気で悪いことをするはずだし、その日本人に対して嘘の非難を浴びせてもそれは正しいことだ、という思い込みがあるのではないか。

 

 反日の教育を重ねた成果がこのようなかたちで現れたように思える。おかしな教育は国民を劣化させる。日本だっていまの世の中を見れば、あまりえらそうにいえないけれど。

映画『ストレイ・ドッグ』2018年アメリカ

 ニコール・キッドマンが主演の映画だが、酒に溺れ、ヨレヨレになった女刑事は、彼女だとわかっているのにどう見ても彼女に見えない。ニコール・キッドマンといえばその目に特徴があって、目力のある人である。その目が死んでいるから彼女に見えない。それは彼女が意図して演じたもので、それこそがこの映画をおもしろいものにしている。

 

 ほんとうにおもしろいところというのは全部見てわかる。この映画はじつは出だしに大きなしかけが施されていて、ラストにあっと驚かされる。たぶんそれがわかる人はいないだろう。

 

 薄汚れてルーズで、署内のみんなから鼻つまみで相手にされない女刑事が、どうしてそうなったのかという過去をところどころで輻輳させながらある殺人事件を追っていく。次第に彼女は見かけとはちがって健気で必死であること、しかもでたらめに見えながら極めて巧緻であることがわかってくる。そうして全体像が見えたとき、過去と現在がつながり、この映画に仕掛けられたトリックにあっと言わせられる。

 

 それを楽しむためだけでも、一度機会があれば観る値打ちがある。

2022年1月 8日 (土)

アジアンヘイトクライム

 アメリカで多発しているアジアンヘイトクライム事件についてのドキュメントを観て、人種差別でもありながら、黒人差別とはちがう面について認識させられた。もちろんそこには増幅された中国に対する反感が大きく影響していることは間違いないが、アジア人、特に中国人、韓国人、日本人に対しての反感が強く存在しているらしい。

 

 アジアンヘイトクライムを実行するのは、当初プアホワイトと呼ばれる白人ばかりだった。ところが次第にヒスパニックや黒人によっての事件が増えているという。

 

 番組で知ったのは、白人、アジア系、ヒスパニック系、黒人とわけると、平均年収が多いのは白人ではなく、アジア系なのだ。最も低いのは黒人、そしてヒスパニックがそれに次ぐ。また新型コロナの十万人あたりの死者数をみると、黒人が一番多く、最も少ないのがアジア系で、黒人の約半分である。

 

 そもそもは有色人種に対する蔑視から始まったヘイトクライムが、次第に本来上位である白人よりもアジア系が豊かであることに対しての嫉妬視に変わっているのである。それは低い年収や医療が受けられないということで、プアホワイトだけではなく、黒人やヒスパニックの怒りの矛先がアジア系に向けられてきたということでもあるようだ。

 

 ユダヤ人に対して欧米では激しい憎悪が底流していて、それが顕在化したのがナチスのユダヤ人に対する虐殺につながったのだが、ユダヤ人が劣等であるということではなく、豊かであることが激しい怒りにつながった面が大いにある。傍観者からみれば、コンプレックスの逆ギレなのだが、それが伏流してのアジアンヘイトクライムなら、根が深くておそろしい。

 

 思い出すのは太平洋戦争時代に、アメリカでは日本人移民だけが財産を全て取り上げられて強制収容所に入れられたという事実だ。アメリカでは戦争の前から日本人移民に対するヘイトクライムが激しかった。それは日本人が努力してどんどん豊かになっていくのを目の当たりにさせられたからであるという。自分が貧しく、相手が豊かであることは、豊かである人間が悪いからだ、という思い込みがエスカレートすると暴力につながることは歴史に繰り返しみることが出来る。

 

 そう考えると、いまアメリカで起きているアジアンヘイトクライムは深刻な問題であって、一部の愚かな者たちの暴走だけとはいえないかも知れない。多民族国家であるはずのアメリカがこのような分断を解消できないなら、分断から分解に進んでしまう。それを煽り立てたトランプの罪は重い。

片付けなければ

 暮れには、大掃除というほどではないにしても、家の中を正月が迎えられるように片付けたのに、すでにほとんど旧に復して散らかり放題である。娘のどん姫から電話があって、明日、二人でやってくるという。亭主が電気工事関係の仕事で、工場や会社が休みのときに仕事が入って忙しいから、正月は休めない。たいてい松が開けるころに二人でやってくることになる。

 

 今日明日で家をもう一度片付け直し、迎える準備をしなければならない。どん姫からは、酒を勧めれば断らずに飲むけれど、それほど強くないからほどほどにしてくれと注意されているので気をつけることにしよう。注げば飲むからつい勧めてしまうけれど、無理しているらしい。申し訳ないことである。

 

 柔道の猛者で分厚い体の、どん姫によれば「熊みたい」な男で、父親は大の酒好きだが、イマの若い人はそんなに酒は飲まないらしい。さて、料理は何を用意しようか。どん姫は洗い物は手伝うけれど料理はこちら任せなので、手早く作れるものをいくつか考えておこうと思う。ホストが常に席を立っていてはもてなしにならない。

 

 どん姫たちと歓談して、ようやく今年の正月も終わる。

今年は実施

 毎年参加していた酒蔵の蔵開きは、昨年は実施されなかった。いつも行く仲間の一人が今年は実施されるらしいというので問い合わせてみたら、検討中ということだった。そしてその検討の末、二月に実施されることが決定された。愛知県の酒蔵であり、いつもの参加者の多くが関西方面の友人なので、自動的に私が常任幹事になっている。いつもの友人たちに案内をメールした。

 

 みな迷いがあるのだろう。いつもなら即答する連中がなかなか返事がない。ぽつりぽつりと参加、不参加の返事が来た。私にも迷いがあって、コロナ禍がますますひどくなるようなら、やはりやめようと声をかけるつもりでいる。新型コロナが憎い。本気で憎いと初めて思った。みんなと会うのが楽しいし、何より汲み立ての酒がとてつもなく美味しいのに・・・。

 敬愛するおねえさん方から苦言があるだろうなあ。

2022年1月 7日 (金)

テレビ好き

 リアルタイムで観るのはNHKとNHKBSのニュースで、NHKニュースもスポーツやまちかど情報、インタビューなどになったら観るのをやめる。朝のバラエティニュースは見ない。ついでにいえば、テレ朝の玉川徹というコメンテーターが大嫌いで、当初どうして芸能リポーターが知ったかぶりにコメントをしているのかと思ったが、芸能リポーターではないらしい。しかしどう見ても私の嫌いな芸能リポーターにしか見えない。

 

 昼は以前は恵俊彰がMCの番組をときどき観たが、最近は彼が出しゃばりすぎで観るのがいやになり、テレ朝の大下容子がMCの番組を観る。ここが一番まともだと思うが、必ず観るというわけではない。必ず観るのがBSフジのプライムニュースだが、これは録画したものを翌朝観ることにしている。1.5倍速にしてCMを飛ばしながら観れば、一時間ちょっとで観ることが出来る。

 

 以前はグルメ番組を観るのが楽しかったが、最近はほとんど観ない。バラエティニュースに食べ物の話ばかりの番組があるが、それだけで観る気が失せる。ごちそうもたまに食べるから美味しいので、毎日のべつ幕なしではうんざりする。料理番組をいくつか観てきたが、いまは3分クッキングと上沼恵美子の番組だけ観ることにした。時間も短いし、短いぶん手頃に作れる料理が多いのでありがたいのだが、料理人によって食材や調味料にあまり見かけないものを使う人がある。それだけで作る気が失せてしまう。たまにしか使わないような食材や調味料は手に入れにくいし、無駄になってしまう。

 

 ドキュメント、映画、海外ドラマ、紀行番組など、おもしろそうなものを選んで録画しているが、たちまちたまってしまうので観るのに忙しい。一日五時間も六時間もテレビを眺めている。少し控えないといけないなあなどと思いながら炬燵の前のテレビから離れられずにいる。コロナが悪いのである。出かければテレビなんか観ない。

今朝の雑感

 昨年の一月六日、トランプ大統領が支持者たちに「議事堂へ行け」と呼びかけて、アメリカ連邦議会へ押しかけた人々が暴徒化して乱入した。その時連邦議会では議員達が各州の代議員の票数の確認作業をしていた。暴徒化した共和党支持者たちの主張によれば、愛国心にもとづくアメリカの正義と自由を護るための行動だったそうだ。扇動された熱狂は醒めるものだと思っていたが、取材の様子から見ると、いまだに多くの共和党支持者がその狂信から醒めていないらしいことに驚く。つまりアメリカは選挙そのものを信頼しない国になって、ふたたびみたび暴徒化する国になってしまったということなのか。 

 

 カザフスタンでは燃料の高騰に怒った国民が抗議デモを行い、それを鎮圧しようとする当局と激しい争いになって多くの死傷者が出た。これは積年の不満が燃料の高騰をきっかけに爆発したのかと思うが、違う見方もないではない。ロシアがカザフスタンの争乱を鎮圧に協力するために軍隊を動かすらしい。カザフスタン政府の要請があったと思われる。ロシアはカザフスタンに介入るするのを喜んでいるし、カザフスタン政府は反政府活動制圧を名目にこれから大々的に国民への締め付けを始めるだろう。そもそもこのデモの暴徒化も仕組まれたものかも知れない。

 

 高齢者の家に海産物などを勝手に送りつけ代金を請求し、それに苦情を言うとコロナ禍で困っているから助けてくれと泣きつくという泣きつき商法というのが横行しているそうだ。泣きつくといっても、泣きつき三分に脅しが七分かと思う。泣きつかれて泣き寝入りでは泣くに泣けない。こういうことをする輩はまず本当に困っている人ではない。弱みにつけ込むこういうことを思いつく人間は卑劣きわまりない。徹底的に取り締まって欲しいものだ。

管理と自由

 国家が個人を管理規制することが、社会の安寧秩序、日本人の好きな「安心安全」、に大変有効であることは、中国のコロナ禍対策で実証されている。中国では個人は徹底的に監視され、不法行為はたちどころに見つけ出されて点数化された個人評価につながっていき、悪いことをした人間は生きるのが極めて困難になっていく。

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 悪いことが出来ないということは、悪いことをするつもりのない人間にとってはありがたいことである。何しろ悪人が周りにいないのだから安心安全である。だから多くの中国人は、国家が個人を監視し管理することに不満がないと異口同音に答える。「安心安全」な社会を理想とするなら中国は理想の国ではないか。

 

「自由」とは自分が生きたいように生きることだと想っている人が大多数だろう。だからしたくないことはしない。ワクチン接種は受けたくないから受けない。マスクはつけたくないからつけない。そういう人がアメリカやヨーロッパで「自由」の名の下に闘争している。彼らには他人は存在しない。他人には他人の自由があるということは理解できない。

 

 そういう人間は自分の「自由」の根拠を求めて都合のいいデマに躍らされる。デマを真実だと思うのも自由であるには違いない。デマに躍らされて「安心安全」ではない社会を作り出すのも彼らの「自由」である。

 

 こうしてみると管理社会と自由な社会という相反する社会のどちらが社会的にすぐれているのかわからなくなる。「自由な社会の方がいい」と言い切るためにはその自由とはどんな自由なのか、どうして管理社会を否定するのか、それを語れるだけの論理を持たないとならない。分断を乗り越えるための哲学が必要だろう。

 

 そんなものは「下手な考え休むに似たり」であると思っていると、世界は一気に管理社会に呑み込まれていくだろう。案外そのような社会しか未来には選択肢がないのかも知れない。人口問題、エネルギー問題、温暖化問題、食料問題全てが管理社会によって制御されることが最も効率的に人類の生き延びる道かも知れないのだから。

2022年1月 6日 (木)

遅い

 昨年の12月から沖縄の米軍基地からの新型コロナ感染が懸念されていた。米軍基地の感染対策が杜撰で感染者が那覇などの繁華街に繰り出していただろうと、沖縄だけではなく、多くの日本人が心配していた。懸念通りに沖縄の市中感染は急増してしまった。東京都や神奈川県の拡大は要因が多数あるけれど、沖縄県や、山口県、広島県の感染急増は米軍基地が主な原因だろう。どうしてアメリカ軍、そしてアメリカ政府に日本の方針を伝えて規制と自粛をするよう岸田首相や外務省は強く申し入れなかったのか、日本国民の多くが腹立たしく思っているはずである。

 

 アメリカに気を遣ったことで、かえって日本人が米軍基地に対して反感を持つようになったら、愚かなことではないか。今日ようやく林外務大臣が米軍に申し入れるそうだが、これだけばらまいたあとではもう手遅れである。遅いのである。

 

 沖縄県と山口県、広島県は蔓延防止等重点対策措置を匡に要請するそうだ。岸田首相の「自治体の意向を尊重する」方針の下に、松野官房長官は「自治体からの要請を待って」、「至急」検討するのだという。

 

 手順があってそれに時間がかかるのだろうが、緊急事態にすでになっているようにしか見えないのに、沖縄県は検討を続けてばかりで、なかなか要請を出さない。一日遅れるごとに二倍三倍と感染者が増えているのに、悠長なことだ。沖縄県知事は政府に頭を下げる格好になることがいやなのではないか、などと勘ぐってしまう。誰も率先して決断を下さない体質が岸田政権にも感じられて、いささかいやな気がしている。いざというとき大丈夫なのか。

見方の違い

「若者が紅白を観なくなったので、視聴率が過去一番低くなった」という見出しだけ見た。紅白は視聴率が惨敗、などという見出しも見たからどれほど低かったのかと思ったら、前半で35%ほど、後半は40%近くもある。さまざまな番組の視聴率で20%を超えるものがほとんどないことや、箱根駅伝よりも高いことを考えれば、「惨敗」というのは言い過ぎで、悪意を感じる。

 

 そもそも若者が紅白を観ないのではなく、若者はテレビを観なくなったのだ。紅白の出場歌手の顔ぶれを見れば、私には全く見たことも聞いたことのない者ばかりだ。多くが若者しか知らない歌手なのではないか。もともと観ない私はますます観る気になるはずもなく、紅白を楽しみにしていた中高年者は同様に観る気が失せていることだろう。毎年観ているからと観続けていた人も次第に観なくなる。だからこの見出しは、紅白の視聴率の低下を若者が観なくなったからと理由づけているが、それはちがうのではないか。

 

 ところがNHKは紅白のターゲットの重点を若者に置くことで視聴率の回復を目指したりするから、もともと観ない若者は戻らず、紅白を楽しみにしていた中高年も離れるから視聴率が低下し続けているのだ。そんなことはたいていの人が気がついていることで、気がついていないのはNHKとこの記事を書いた記者くらいだろう。

 

 いや、この記者はそんなことはとうぜんわかっているのかも知れない。別の記事で、紅白は打ち切られるのではないか、などという憶測記事も見たから、たぶん紅白をなくしたいという向きがあって、その提灯記事として書かれているのかも知れない。そんなことで自分の局の視聴率を稼ごうなどという局(この辺から私の妄想世界に入っている)は、そもそもテレビそのものが衰退しつつあることが見えていない。

エリート予備軍

 マイケル・サンデルの白熱教室の今回のテーマは中国だった。中国の復旦大学、アメリカのハーバード大学、日本の東大と慶応義塾の学生達をリモートで集めて、昨年中国政府が実施した営利目的の経営塾の禁止や小学生の過剰な宿題の規制措置、子供のゲームに対する厳しい規制(終末や休日のみ、一日一時間以内)などが取り上げられて対話が行われた。

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 マイケルサンデルの問いかけに対する応えが国によって大きくちがうことと、その内容は想像通りであったが、学生達は自分が考えたことと全くちがう考えがあることを知る機会になったようであるのは慶賀の至りである。信念のしっかりした人間ほど発言が多いことになるのは、サンデル教授がそのような際立つ発言をたたき台にしようと意図してのものである。信念がしっかりしているということは、ある意味で思い込みが強いということで、その分他人の意見が受け入れがたいということでもある。

 

 いろいろ考えさせられることがあったのだが、メモしなかったのですぐ思い出せない。日本のある学生が、現代は学歴社会だ、能力よりも出身校で人間が評価されている、などと語っていた。この学生は社会を知らないエリートなのだなあと思った。現実社会は肩書きで動く面があるが、エリート大学を出たというだけで評価されることはない。彼は自分の出身校を名札にして生きられると思い込んでいるのだなあと感じた。

 

 アメリカの大学生のなかで「自由」ということが至上であると主張し、規制の全てを否定する者がいて、アメリカらしいと思った。とうぜん中国の「国家は正しい」からそれに従うのは喜びであり、国民全てにとって善いことだという、中国の「信念」の学生とは意見が対立する。中国の学生達のどれだけがその主張のままに考えているのかはわからない。疑念や異見が公的に表明できないだろうから建前でものをいうことになるのは仕方がない。

 

 マイケル・サンデルは繰り返し「君らはエリートになる人たちだから」と呼びかけていたのが印象的だった。エリート候補の学生達の思考が、私から見れば幼稚でステレオタイプで思索が足りていないことにいささか危惧を抱いたので、サンデルのことばに皮肉を感じた。彼も内心そう感じていたのではないかとも思った。では私が若いころどうだったかといえば、もっとずっと低レベルだったのは間違いないので、えらそうにいうつもりはないのだが。

 

 彼らがこういう機会を得たことで、自分とはずいぶんちがうものの考え方の人間がいるのだということに気がついてくれることを期待したい。本当の対話はそこから始まる。

2022年1月 5日 (水)

急増

 新型コロナの新規感染者数が急増している。暮れから正月にかけての人の移動が大きく影響していることは誰にも否定できないだろう。ということは、まだこの状況は始まったばかりで、これからさらに増加するのは必至である。かねて懸念されていたこととはいえ、恐ろしい。

 

 所用がすむであろう今月半ばころから少し遠出しようかといろいろ行き先を考えていたが、どうもそれどころではないような気がする。冬用のタイヤを活躍させたかったのにまことに残念なことだ。

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 ところでなじみの鳴子温泉や花巻の温泉の宿の空室を検索していたのだが、いつもなら空きがあたりまえにあるはずが、ないのである。一月中は予約で埋まっているのだろうか。考えられるのは、一人部屋が取れないということかも知れない。ある程度客が増えてきたので効率の悪い一人での宿泊が敬遠されているのではないかと思う。

 

 おまけに最近たびたび泊まっていた鳴子の格安の湯治宿が客の受付を停止したままであることだ。宿泊そのものを当分受けずに日帰り客だけにしているのか、そもそも宿が閉鎖してしまったのか、心配している。ほかに湯治宿を二軒ほど知っていて、そちらは受け付けているようなので、行くとすればそちらにしようか。ただし、そこは古いので、冬は少し寒いのが難である。近場で一泊か二泊の温泉にでも行くことにしようか。それだとあまり気晴らしにならないのだけれどなあ。

「杞憂の人」を気取る

 チャップリンの『モダンタイムス』では、人間が工場で単純作業にこき使われ、何も考えない機械のように扱われる社会を風刺していた。人間は意思と思考を持ち、機械ではないのだ、とチャップリンはその非人間性を批判していたのだ。しかし先進国ではそのような単純作業に従事するのはほとんど機械になった。いまでは高度なロボットが人間の代わりにかなりのことをこなすようになった。

 

 ロボットが人間の雇用を奪っている、と労働者が怒りのことばを発しているのをテレビで観るようになって久しい。いわゆるブルーカラーの仕事はどんどんそのようなロボットに置き換えられていくだろう。『ポストコロナ働き方の未来』の第一回『新たな産業革命の幕開け』というNHHBSの番組を観ながら、いろいろなことを考えさせられた。

 

 若いころ、未来は多くの仕事がロボットに担われるようになり、人間の労働時間はどんどん短縮され、自由な時間が増え、生活は豊かになるだろうと夢見ていた。そうして、私が思い描いた未来のようにロボットが仕事を担うようになったのに、どうして人々は豊かで自由な時間を甘受できているという実感が持てないのだろうか。どうして多くの人々は未来に悲観的な思いを持ってしまうのだろうか。

 

 それはロボットの導入で得られた利得の多くがごく一部の人たちに集中してしまうという、いまの社会に問題があるのだろうということは、先日の『欲望の資本主義』という番組で観たとおりである。資本家が労働者を搾取する、という古い共産主義的世界観とはちがう、別の富の偏在のシステムが働いているようだ。マルクスの『資本論』を読み直し、新しい共産主義、社会主義を考え直そうという社会学者などの潮流もある。

 

 現代が新しい産業革命の時代だと捉えるなら、その時代に即した新しい思想や社会システムの構築が必要なのだろうという気がするが、そういうものがこの時代が生み続けるゆがみのようなものの果ての破綻に間に合うのかどうか。どうもこのままではまずいのではないかと思いながら、いたたまれない気持ちがする。 

 

 ドキュメントの見過ぎで「杞憂の人」になっているのかも知れない。

ちょっと屈託することがあって

 ちょっと屈託することがあって、そのことに心がとらわれている。酒量を控えるつもりが逆に増えてしまい、生活のリズムがまた狂いだしている。泰然と生きたいものだと思いながら、小心者は些細なことでこころが乱される。歳をとれば鈍感になれると思っていたが、そうでもないようだ。

 

 何か気晴らしを考えよう。

2022年1月 4日 (火)

ドラマの洪水

 WOWOWとNHKBSで見応えのあるドラマが次々に放映されていて観るのに忙しい。ようやく『刑事モース オックスフォード事件簿』第31話、32話、33話を観終わった。知的で冷静なモースも第30話で個人的にダメージを受けて生彩がない。ほとんどアル中状態である。いつ立ち直るのか。ただ今回観た第33話で、極限状況に追い込まれたことで彼の推理の冴が復活した気配があった。次作で元気なモースを観たいと思う。彼は恋をしていると元気になるから、新しい女性との出会いがあることが必要だろう。

 

 NHKBSの『幕末相棒伝』で坂本龍馬と土方歳三がコンビで将軍狙撃事件の犯人を追うという話は思いのほかおもしろかった。永山瑛太の坂本龍馬、向井理の土方歳三はドラマ用にカリカチュアされているけれど、キャラクターが際立って悪くない。大政奉還から倒幕勅命にいたる歴史的経緯も緊張感を持って上手く組み込めていると思う。『幕末太陽伝』という川島雄三監督、フランキー堺が主演の傑作映画があるが、これは落語の『居残り佐平治』が下敷きながら、幕末の緊張感が上手く生かされている。幕末相棒伝と幕末太陽伝と、語感が似ていてつい連想してしまった。

 

 WOWOWでは北欧サスペンス『ブラインデッド:ゾウズ・フー・キル』全八話が二日と三日で一気に放映された。録画してあるから明日から一気に観ていくつもりだ。それに『プロディガル・サン』の第二シーズの終了を受けて、今晩から『クラリス』という連続ドラマが始まる。クラリスとはあの『羊たちの沈黙』の女性FBI捜査官のクラリス・スターリングのことで、あの事件の後日談が描かれるようだ。

 

『羊たちの沈黙』の原作者トマス・ハリスが書いたのではないのだろうが、スピンオフ作品らしく、楽しみである。トマス・ハリスのミステリーはたいてい読んだ。もともと佳作の人だから作品の数も少ない。この人はほとんど正体を明かさない作家らしい。レクター博士(ハンニバル・レクター)の造形が素晴らしいところにアンソニー・ホプキンスの名演で、この小説世界はイメージがリアリティを伴ってしまっているから、そこをドラマ化したのだろうと思う。そもそも『プロディガル・サン』の連続殺人の父親の外科医はハンニバル・レクターの造形を意識しているはずだ。

 

 どうも異常な殺人事件のドラマばかり観ていると頭が少し浮世離れしていきそうだ。ただし犯罪に走るようなことはないと思う。

 

 そうそう、今度の『鎌倉殿の十三人』という大河ドラマは、三谷幸喜が脚本らしい。『新撰組』、『真田丸』に続く三作目で、実はこの十年以上、大河はこの二作以外は観ていない。もちろん今度も観るつもりだ。

まだ正月

 毎日が日曜日のなかの正月で、その境目が判然としない。昨日までに来た年賀状を整理した。さいわい今年は送らずに来たものはなかった。送っても来ていないものは、理由が見当のつくものはそのまま、そろそろ潮時か、と思うものは来年は送らないようにする。住所が変わっているのにうっかりしていて返って来てしまったものが一通だけあったので、今日送り直した。

 

 午前中、『空旅 中国』の黄河の冬篇を観た。源流から函谷関の先までを、たぶんドローンなどで撮影したものだろう。このシリーズはいくつか観てきた。ナレーションの近藤正臣がいささか軽躁に感じるが、腹が立つほどのことではない。蘭州やオルドスには一度行きたいと思いながらついに叶わなかった。遙かな中国の空を想った。

 

 シルクロードも敦煌までしか行っていない。一昨年亡くなったF君と、そこから先のカシュガルやウルムチへ行こうと約束していたのだが、それも夢に終わった。新疆ウイグル自治区はなぜこんな悲惨な目に遭わなければいけないのか、それが常に心の奥で怒りとしてくすぶっている。他国の私がそう思うくらいだから、現地の人の思いは如何ばかりだろうか。今年の世界のリスクのトップは中国だという。私もそう思う。

 

 独裁者は独裁することで自らの身の危険を増大させている。この世で最も恐怖のなかに生きているのが独裁者なのではないだろうか。その恐怖がますます反対者を弾圧する行動につなげていく。弱みを見せたら転げ落ち、殺されてしまうから、強がりがエスカレートする。いま最も恐怖のなかにいる弱者こそ習近平なのだが、残念ながら世界は今のところ彼をどうしようもない。

今朝の雑感

 昨日の箱根駅伝は青山学院大の圧勝だった。青山学院大の強さはもちろん選手の実力によるものだが、原監督の指導力がすぐれているということを誰もが感じたことだろう。マスコミに露出過剰のこの監督に、私はあまり好感を持っていなかったけれど、今回の結果を見せられれば脱帽するしかない。

 

 早朝の小笠原諸島の地震は気になる。東南海地震とは直接関係なさそうだが、このあたりは富士火山帯の線上のはずだ。地下活動が活発であることの表れだとすると、それらが波及しあうのではないか、などとイメージしてしまう。大きな地震は必ず来る。今来るかずっと先に来るかの違いでしかない。東海地方で大きな地震が来たら、壁に列んだ本棚から本が落ちてくるのだろうなあ、片付けるのが大変そうだ、などとピンボケの頭で眺めている。

 

 蓮舫氏が母校の青山学院大をツイッターで応援したことがネットニュースで取り沙汰されている。沿道で応援しないで欲しいと主催者が呼びかけているのに沿道には少なからずの応援の人の姿が映像で映されていた。応援している人は、例によって自分一人ぐらいは、というタイプの人なのだろう。自分一人ぐらいは、の人たちが沿道に群がっている姿はコロナ禍の感染拡大につながるイメージを喚起する。だから蓮舫氏も批判されるのだろう。ところが良くニュースの記事を読んでみると、蓮舫氏自身が現場に行ったという事実は確認されているわけではないようだ。ただ応援しただけなら、彼女からキツい反論があることだろう。もしリアクションがなければ・・・、たぶん現場に行ったのだろう。

2022年1月 3日 (月)

記憶にこだわらず

 父は下戸で、父の兄弟も全て下戸だったから、体質的なものだろう。母はほとんど酒は口にしなかったが、母方の叔父や祖父母は一人の叔父を除いて皆酒好きだった。すきなだけではなく斗酒なお辞さずの飲んべえばかりである。正月には母方の祖父母の家で年始を祝うのが高校生までの習いだった。その時に、父が全く飲めないので私が父の代わりに祖父や叔父たちと酒を酌み交わした。もちろん酩酊するほどは飲ませてもらえなかったが、酒もビールも特に抵抗なく飲めた。

 

 山形の大学に行って、ほぼ強制的に体になじませられたのが日本酒だったから、私の基本となる酒は日本酒である。ビールも好きだが学生にはぜいたくな飲み物だった。安く酔うために格安のウイスキーも飲んだが、ビールや日本酒のようには美味いと思ったことはない。就職してからは自分の給料で思い切りビールを飲めるようになったことは大いなる喜びであった。夏に汗をかいたあとの晩のビールはこの世で最高に美味いものだった。

 

 私は醸造酒が美味しい。ワインも紹興酒も好きだ。蒸留酒が飲みたいときもときどきはあるが、健康を考えて蒸留酒を飲むという気はない。

 

 今朝、京都の日本酒の酒蔵のいろいろな模索の様子をテレビで観た。日本酒は需要が落ち続けているのだという。その需要を取り戻すためのさまざまな努力が紹介されていた。需要を取り戻すための方策は新しいことに挑戦することでもあるだろうが、基本は美味しい日本酒を造ることだろうと思う。ひところ女性向けにというコンセプトで、おかしな日本酒が造られたり、やけに甘ったるい酒が造られたりしたが、さっぱり売れずにますます日本酒離れを促してしまった。もともとの日本酒好きを日本酒から離れさせては元も子もないのである。

 

 毎年蔵開きに行く。昨年はコロナ禍で残念ながらなじみの酒蔵の蔵開きはなかった。今年はあるらしいとの話もあってこれから確認するつもりだ。その絞りたての原酒の美味であることは喩えようがないほどである。ワインが出来てからいじったりしないのに、日本酒はできたての美味さを損なうような事をしているようにしか思えない。

 

 日本酒の美味さの原点を見直そうと努力している京都の酒蔵の様子に、たぶん日本中の酒蔵の中に同じように研究を重ねているところが少なからずあるのだと思い当たった。そういえば、米沢のある酒蔵の酒が甘すぎて美味くないと記憶していたが、ある人に勧められて最近飲んでみたら、とても美味いことを教えられたことがある。

 

 知ったかぶりで銘柄ごとの味を記憶で選んでいるけれど、見直したら意外に美味い酒があるかも知れない。手当たり次第に試してみたくなった。

昨晩のつまみ

 カボチャの煮付け。こんにゃくを細かく切って、から煎りし、ごま油、醤油、一味唐辛子を振ったもの。ちょっともう一工夫必要な味だった。鶏皮を茹でて油を抜き、食べやすい大きさに切って大根おろしと一緒にポン酢をかけたもの、これは結構いけた。卵に残り物の瓶詰めのエノキダケを混ぜて、だし醤油を少し加えてスクランブルエッグ風にふわふわとろとろに焼き上げる。手早く作って、火を通しすぎて卵焼きにしないのが美味しい。もちろん漬け物もある。

 

 これだけでもいつもより品数が多くて、私にはごちそうであった。

 そろそろ酒も控え始めないと、定量が増えてしまう。

欲望の資本主義

 NHKのドキュメントで『欲望の資本主義』が何度か放映された。経済学者や哲学者が資本主義の限界を唱え、その隘路からの出口を論じている。元旦に放映されたのは『欲望の資本主義 2022』という最新のもので、現在の世界の問題を経済から読み解く試みとしての視点を教えてくれた。

 

 番組では特にメインに論じられてはいなかったが、私にはある面で、中国の経済の繁栄そのものを論じているような気がした。そしてどうしたら隘路から脱出するのか、その答えは全く見いだせていないのだということを知った。静かな諦観、あきらめの気持ちのようなものを感じさせられた。

 

 欲望が人類の進歩の原動力の大きな要素であることは認めざるを得ない。しかし、CMの氾濫を見てもわかるとおり、欲望をかき立てることこそいまの資本主義の手法であり、世界の姿そのものなのだろう。「あなたは損をしている。こうすればもっと儲かる」と猫なで声で呼びかける。「投資」が学校で教育されることになっているそうだ。給料を増やしてくれ、とばかりいうよりも、「投資」によって資本主義に参加するように意識改革すべきだ、と経済評論家は呼びかける。

 

 貨幣そのものや株をはじめとする投資が肥大化して実態経済よりもはるかに大きくなり、情報が売買されるこの世界は、私には不気味でしかないのだが、それについて行けなければ貧しくなるしかないらしい。貧しくてもかまわない、というのは負け犬の強がりらしい。

 

 観念的には経済はこうあるべきである、という提案はある。貧富の差の極端化は社会を不安定にする。その先は危険な世界だ。だが誰がその提案を聞くというのだ。すでに政治はそのような提案を具現化して是正する力を失って久しい。岸田首相の「新しい資本主義」がどうして虚しく聞こえるのか、そのことの理由をかいま見た気がした。

 

 欲望の資本主義の勝ち組は『千と千尋の神隠し』のカオナシのように、全てをひたすら呑み込み続けている。呑み込んだものを吐き出させる千尋は今この世界にいない。

 

 テクノロジーや経済学、心理学の発展などによって行き着く究極の世界の、いままさにとば口にわれわれは立っていて、私にはその先にあるのは悲観的な世界に思えるのだが、それを言っても詮ないことだ。もう関係ないといえばいえるかも知れない。いささかうんざりしている。といって仙人になって山に籠もるわけにも行くまい。

 

 せいぜい傍観者を気取ろうか。

2022年1月 2日 (日)

そして誰もいなくなった

 アガサ・クリスティ原作の『そして誰もいなくなった』が昨日WOWOWで放映された。イギリスBBCのドラマである。イギリスのミステリーは出来が良いものが多いから間違いなく楽しめる。

 

 若いころハードボイルドにはまってチャンドラーやハメットなどの作品を夢中で読んだが、そのあとに次第にミステリーを読むようになった。アガサ・クリスティもずいぶん読んだ。多作の人だからその一部しか読んでいないが、この『そして誰もいなくなった』ももちろん読んでいる。ほとんど忘れかけていたけれど、ドラマを観ている内にトリックがわかった。記憶によるものか本当に推察したのかよくわからないが、当たりであった。

 

 孤島のお屋敷の主人からの招待で、招待された八人と、雇われた執事夫婦二人を合わせた十人が、次々に殺されていく。そしてその屋敷の主である主人夫婦には誰も会っていないことが物語の進行のなかで明らかになる。実在するのか、どこかに潜んでいるのか。次第にその主人夫婦など存在しない、犯人は自分たちのなかにいるらしい、という疑念が高まり、互いが疑心暗鬼になっていく。

 

 そして本当に最後の一人まで死んでしまって物語が終わる、という不思議なミステリーなのだ。もちろんドラマを観ているわれわれには犯人は最後に明らかになるけれど、たぶんあとで検死にきた警察は真相を解くのに苦労することだろう。

 

『刑事モース・オックスフォード事件簿』の最新作三作もそのあと放映された。これももちろん録画したので、明日の箱根駅伝のあとと明後日で観ることにするつもりだ。何しろ一作二時間弱だから見応えがあるし、大変出来の良い重厚なミステリーになっていて、大好きなシリーズである。忙しいなあ。

朝寝坊

 ずいぶん久しぶりに八時間以上寝た。昨日は例年よりは少ないけれど、一日断続的に酒を飲み続けていた。酩酊した果ての眠りなのだが、爽やかな目覚めになるはずが、いやな夢を見て目ざめることになった。素っ裸で服を探してうろつくという恥ずかしい夢である。近くに会社の営業所のビルがあるからそこへ行こう、ロッカーに着替えがあるはずだ、とそのビルに向かうのだが、どういうわけか私のロッカーがないのである。誰かが好意で渡してくれた上っ張りだけをかろうじてまとい、ロッカーを探している。ロッカーがあるはずが、ない。私はもうリタイアしているのだからその会社に私のロッカーがあるはずがないのに目が覚めて気がついた。

 

 夢で好かった。

 

 さあ、箱根駅伝でも観ようか。

2022年1月 1日 (土)

無視するのかと言われても・・・

 先月後半から何回か不審なメールが送られてくる。繰り返し連絡が欲しいと書いてあり、同窓会の件であるとか、無視するのか、と怒りのメールだったりするが、誰からであるかわからないからご推察の通り無視している。

 

 普通は一二回で終わるものだが、繰り返し送られてくる。どうしても連絡が必要なら、私の知人なら電話も知っているはずだし、手紙を出すというメール以外での連絡を試みるはずである。それに私は同窓会には基本的に行かないことにしているから、しつこく催促されるような心当たりがないのである。もちろん絶対に返信したりしない。

 

 正月早々、挨拶もなしに「無視するのか!」などという失礼なメールを送りつけるような知人はいない。それだけでもおかしいと思われると気がつかないのだろうか。狂人か。普通ではない。もし本当に知人であって、無視したことで絶交されても、こんなメールを送りつけるような輩であるから、一向にかまわない。

快晴

 元旦の朝は快晴で、気温は低いが雪国の人には申し訳ないほどの陽光がさんさんと照っている。早起きして今日一日だけ許している朝酒を飲む。お屠蘇代わりに飲んだのは賀茂鶴のすっきり辛口という酒で、さらっとして飲みやすい。ただ私の好みはもう少し甘口で、普通の賀茂鶴にすれば好かった。

 

 習慣でついテレビをつけたが、見たくない顔がやかましく騒いでいるのですぐ消した。静かな朝に戻った。二合ほど飲んだらほろ酔い気分になり、うたた寝してしまった。いつもは近くの塩竈神社に初詣に行くのだが、なんとなく出かけそびれた。そこではいつも蜜柑をいただく。なんとなく嬉しいものだが、昨年はコロナ禍もあって蜜柑はなかった。今年はどうだろう。昼からゆっくり散歩がてら出かけようか。

 

 息子夫婦から年賀の挨拶の電話を貰った。うたた寝したあとで、頭がぼんやりしていて会話がスムーズに運ばなかった。やはり会ってとりとめのないことをあれこれ話す方がいい。

 

 テレビをつけないとこれほど静かなのだと、静かな正月をぼんやりと、そしてしみじみと味わっている。

年賀

 新年あけましておめでとうございます。

 

 とはいえ、昨年はさまざまなことがあった。だからいつもの元旦のように新春を手放しで言祝ぐという気分になりにくい。さはさりながら、とにかく無事年を越せたことをありがたいことであると思うことにしたい。

 

 コロナ禍は治まることが期待できない気配で、今年も、そしてこれからも、人類はこのようなウイルスと共存していくしかないようだ。さらに別の疫病が出てくるかも知れない。自然の摂理が少しずつ狂い始めてきた結果だろうか。温暖化もとうぜん影響していると思わざるを得ない。全て関連しているのだろう。

 

 さらに中国の習近平独裁政権の世界覇権への行動がエスカレートしているのも人類にとって脅威だろう。習近平が体調を崩し、倒れることを期待しなければならないというのも残念なことだ。アメリカのバイデン政権にはあまり期待が出来ないから、習近平の病気以外に歯止めがきく可能性はあまりない。ただ、独裁政権は独裁者が倒れると脆い。しかも彼は後継者を用意していないから、何かあると権力争いが生じて、中国は大混乱になる可能性がある。ドラマや映画ならおもしろいが、現実にそういう事態になれば、世界は甚大な被害を蒙るかもしれない。

 

 そのよう話とは別に、昨年は追突事故に遭って首の骨を折って、まかり間違えば死にかけた。個人的な災厄だが、こんな大きな災厄を生き延びたのだから厄払いが出来た、ということになればありがたいのだが。今年は寅年で私は歳男であり、生まれた年を入れれば七回目ということになる。思えば夢のような気がする。

 

 今年は今まで以上にしたいことをして残りの人生を楽しむようにしよう。出来ることは限られている。ニンジンをぶら下げて頑張る必要もなくなった。

 

 悲観的に思っていた年が意外に明るい年になることもある。悪いことのあとには善いことがあるものだ。それを望みにして新年を言祝ぐことにしよう。さあ、一人で新年の酒盛りだ。

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