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2022年3月

2022年3月31日 (木)

見出しの言葉

 ネットニュースの見出しに品位のないものが目につく。そんなことに目くじらを立てなくても・・・といわれるかもしれないが、気になる。そういう見出しの記事の内容は、たいていつまらないものだったり、事実を伝えるというより書いた本人や集団の煽り立てだったりする。まあネットニュースは味噌もクソも一緒くた、というところがあるのは仕方がないのだが。

 

 たとえば今日のniftyニューから拾ったものとして、
「吉村氏らの“視察”に府民激怒」(日刊ゲンダイ)とか、
「小室眞子さん パーティ招待されるも返事なし・・・NYで日系人後援者から“総スカン”状態」(女性自身)
というのがあった。

 

 内容の真偽については知らない。ただ、報じ方に悪意を感じる。そういう記事は目を通すことはあるけれど、事実として記憶しないように心がけている。

 

 以前にも書いたが「・・・か」、とか「怒り」だの「怒りの声」だの「激怒」とかいうのが頻出すると、私も「怒り」を感じてくる。

 

蛇足ながら、
「ロシアと北朝鮮は兄弟」だと金正恩が言ったそうだ。金正恩はプーチンの「善戦」をけっして傍観しない!(辺真一氏のレポートから)らしい。

 

 プーチンも心強いことだろう。それにしても「善戦」という言い方には、楽勝ではない「苦戦」のニュアンスが感じられて笑える。

正しい指針だけれど・・・

 富士山噴火の際の避難についての指針が発表されていた。車で逃げるとかえって渋滞によって身動きがとれなくなり、被害が増大するから車での避難方法は、車でしか避難できない人に限定するべきだという。まことにもっともで、正しい指針だと思う。しかしこんなことを指針として出してもあまり意味がないことは、たびたびの災害の実例に即したらわかることだ。

 

 皆が車で逃げなければ、渋滞は生じない。渋滞がないなら自分だけはかまわないだろうという人がいるのは、哀しい現実だ。そしてそのような人がひとりでもいると、あの人がそうするなら私も、と続くのが実際のことで、指針など無視される。誰でも想像されるその事態を想定した上でどうするのか、それが対策であり指針だろう。

 

 指針に従わない人がいることを前提にした指針を呈示できない指針は意味がない。

アメリカは愚かか

 大男、総身に知恵は回りかね。

 

 私も大男で、しかも回転が遅いからこの言葉には身につまされる。まだ自覚しているだけましか。

 

 アメリカは世界で最もデータをたくさん収集している国だと言われる。得られた膨大なデータから情報をつかんでいる。アメリカの、今回のウクライナでのロシアの行動の予測はかなり正確だったと認めざるを得ない。

 

 常にアメリカは世界をかなりの精度で把握している。それなのにアメリカは失敗ばかりしている。ベトナムで失敗し、南米のあちこちで失敗し、イラクで失敗し、アフガニスタンで失敗した。カードゲームで自分だけが相手の手が見えているのに負けるのは愚かとしか言いようがない。どうしてそれほど愚かなのか不思議だ。システムの問題なのか、為政者の問題なのか。そして自分が愚かかもしれないという自覚もなさそうだ。せめてそれぐらいのことはそろそろ気がついても良さそうだが、愚かだから気がつけないのか。

 

 そういうアメリカと組んで、世界の秩序を維持していかなければならないというのも、ヨーロッパや日本の国にとっては荷の重いことだ。まさかお前はバカだ、とわざわざ言うのも、変に逆恨みされかねないから出来ないし。アメリカが内にこもり始めているのも、薄々国民がそれに気がつき始めたからかもしれない。

 

 そういう日本も、情報は週刊誌頼みに見えるくらいだから救いようがない。このままなら中国に打ち負かされるのは致し方ないのか。中国が賢いとは思わないけれど、中国と較べてアメリカは愚かか。

2022年3月30日 (水)

ドラマ三昧

 主にミステリードラマを楽しんでいる。あのトマス・ハリス原作の傑作ミステリー映画、『羊たちの沈黙』の主人公、クラリス・スターリングの、あのバッファロー・ビル事件の後の活躍を描いた全13話の『クラリス』というドラマがついに完結した。おぞましい猟奇殺人事件とみられた連続殺人事件には、実は背後に大きな陰謀が隠されていた。それをFBIのバイキャップというグループが追う。政界や経済界、警察組織内からもさまざまな妨害があって捜査は難航を極める。例によってクラリスは単独行で真相に迫って上司を困惑させるが、次第にバイキャップは団結をしていく。クラリスの生い立ち、そこに潜められているトラウマが浮上していくというストーリーも並行して描かれ、それを乗り越え、事件も解決したあとのラストが感動的だった。終わったのが残念。

 

 全10話のノルウエーのミステリードラマ『刑事ヴィスティング 殺人鬼の足跡』も、重厚でリアルな展開を楽しめた。前半の5話では、遺棄されていた遺体の持ち物に、アメリカで連続殺人事件の犯行を重ねた男の指紋が発見され、犯人がノルウエーに潜入している可能性が浮上する。FBIから二人の捜査官が派遣されてくる。ノルウエー側の捜査をまとめるのはヴィスティング。いかつい男だが捜査班には信頼されている。FBIの捜査官のひとりが、あの『マトリックス』で美しい黒のボディコンを身につけたトリニティ役を演じたキャリー・アン・モスである。

 

 FBIの指摘により、過去の失踪事件を洗い直していくと、続々と類似の事件の可能性が浮かび上がってくる。ついには隣接するスウェーデンにも被害者がいる可能性まで出てくる。この犯人は他人になりすまして潜伏する。それを手がかりに犯人を絞り込んでいく。そして事件とは無関係とみられていた老人の孤独死を記事にするために独自に調べていたヴィスティングの娘の女性記者が、思わぬ手がかりを発見するのだが・・・。

 

 前半の事件が解決してFBIが去ったあと、17年前の事件捜査に違法(証拠のねつ造)があったとしてヴィスティングが捜査を外され、罪に問われる事態となる。そして連続殺人犯の捜査では解決できなかった事件が浮上してくるが、リーダーを欠いた捜査班は上手く機能しない。全ての権限を失ったヴィスティングが、個人としてその事件を追い、さらに自分を陥れた者について真相を暴いていく。かなりハラハラドキドキさせられるが、その意外な犯人の動機に怒りを覚えさせられる。

 

 北欧ドラマ特有の、全体として重くて暗いドラマだけれど、私はその雰囲気が好きだ。それにしても若い女性というのはどうしてこうも親の気持ちがわからないのか、と思うが、だから事件は起きるので、そうでないとドラマにならない。

 

 他に日本の連続ドラマ、WOWOWオリジナルの『ヒル』、『正体』、『邪神の天秤 公安分析班』もそれぞれ終盤に近づいた。またまとめて感想を記したい。

もう一度

 ただいま私自身のリセット中で、一回で済むか、数回必要なのかは不明。

 

『一期一会』という言葉が好きなくらいだから、人生に「もう一度」はないと頭では承知していても、つい忘れていることが多い。旅から帰ったあとで、見残したこと、し残したことを思って「もう一度」、と思う。本を読みながら、その場その場でじっくりと考えたい、想像の羽を広げたいと思いながら、興にまかせて読み進んでしまい、あとで「もう一度」読もうなどと思う。

 

 その「もう一度」が叶うこともあるけれど、海外旅行などでは難しいことがほとんどだ。だからテレビの旅番組などで、一度行ったことのあるところを観るのが好きであり、そしてガッカリすることも多い。観ればなつかしいから心が躍り、楽しいのだけれど、たいてい自分がここにも行けばよかった、どうしてそこに行かなかったのだろう、という場所が出てくるもので、それを観て「もう一度」が叶わないことに気がつき、哀しい思いがするのだ。

 

 このごろは「もう一度」読みたかった本を読むことが多い。手持ちの頭が粗雑だから、「もう一度」読むと新たに読んだとほとんど同じように楽しめてありがたいのだが、読書のスピードがここ数年、どんどん落ち始めていて、「もう一度」の山が増えるばかりである上に、再読三読の本に「もう一度」の思いが残ってきりがない。書いた人ほどの思いを持って本を読むなどということはできるはずもなく、それでも心残りを重ねている。

 

 ただ、ドン・ファンのように新しいもの(つまり女性)に理想を求め続けるという生き方はしてこなかった。観たいもの、知りたいものは見逃したものの中にこそあるのではないか、というのが今の心境である。

2022年3月29日 (火)

身体のサインに答える

 午後からひたすら寝ている。横になって目をつぶるとすぐ眠れる。冬モードから夏モードへの切り替えのための身体の要請かもしれない。飽きるほど寝たあとにどうなるのか、その答えを待っている。今のところどうしてもしなければならない用事がしばらくないのがありがたい。

 

 眠れなくなったら起きていることにする。いろいろと、「しなければならない」という強迫観念から自分を切り離すことが出来るかどうか。

眠りのリズム

 早めに一風呂浴びて、晩酌して片付けを済ますと眠くなる。そのまま寝れば良いのに愚図愚図していると、眠るタイミングを失していつまでも眠れなくなる。寝床に入って暗くして静かにしていても、思い出したくないことを思い出したりして、目がさえてしまう。

 

 鈍感な私は、人よりも思い出したくないようなことは少ない方だけれど、ないことはないのだ。後悔しても始まらないことは後悔しない、というのが私の生き方だが、それでも後悔することはある。

 

 眠くなければ起きていればいいと思いきると、以前はひとりでに眠れたのに、いまはそうなると夜が明けるまで眠れない。明け方になるとさすがに疲れ果てて眠るのだが、その眠りは健全な眠りではない。

 

 こうしてリズムが狂うと、昼間うたた寝をすることになる。うたた寝するから夜眠れなくなる。起きているのだか、寝ているのだか判らなくなる。そういえば、晩年の父はうつらうつらしていることが多かった。私はまさかまだ晩年ではないはずで、どこかで立て直さなければいけないと思っている。

 

 これが、自律神経が失調しているという状態なのだろうか。

 

 温泉に湯治に行くと、異常に眠れる。起きている時間より寝ている時間の方が長い。数日それが続くと、気力が身体の中から湧き出してくるような気がして復調する。そろそろまたそういう治療が必要なのかもしれない。ただ、そういう温泉に行くという気力が湧くところまでいかないのが問題だ。

 

 とにかくうたた寝でもいいから、規則正しい生活をとりあえず置いておいて、とことん寝てみようか。

不必要な人間

 不必要な人間などいない、必ず誰かにとってはかけがえのない存在なのだ、などという。人はそれぞれ社会的役割を担うことで社会の役に立っているので、不必要な人間はいない、というのは正しいことのように思われるが、仕事も無く、とうぜん収入もなく、家族もいないか見放された人から見れば、自分がこの世に必要な人間かどうか疑わしいと思うだろう。建前と現実は違うものだ。

 

 数字的にみれば、失業率が低いということは、社会に必要とされる人間の割合が高いということで、人間的だと思えないことはない。それなら失業率の高い国はその逆か。多分そうだろう。人は必要とされるほど生きがいがあって、しあわせを感じることが多いと思える。経済的に豊かになったといわれる隣国が、失業率、特に若者の失業率が高く、そして出生率が世界で最も低いのは、無関係ではない気がするではないか。

 

 AIの進化が加速度的に早まっている。人間の仕事を代替できる分野が、これから急速に拡大するだろうと予測されている。まさかこの仕事まで、などというものまでがAIに置き換えられていくのはそう遠くない未来の話のようだ。

 

 SFなどでは、さまざまな仕事がAIにコントロールされた機械によって代替され、人間がするよりもはるかに効率的に、つまり経済的に運営されていき、人間の多くが仕事を失う。仕事をしなくても、食べるものもエネルギーも全てが供給されて快適に暮らせるから、働くのはほんの一握りのエリートだけということになるというのがSFの描く未来世界だ。人間は刺激を求めてバーチャルな世界にのめり込み、そこに快楽を感じて生きる。

 

 その時人間はしあわせか。その時人間はそもそも必要な存在なのかどうかが真に問われる。問うのは人間自身か、それともAIによってか。

 

 すでに、自分が社会的存在であって、社会に必要な人間であることを基準に生きるということが、価値のあるものと考えられないひとが多数を占めているような気がする。そういう人は、快不快、損得のみが価値基準に見える。資本主義の自由とはそういうものだと社会がみなすようになって久しい。経済性が全てに優先して、そこでAIが活躍する。

 

 世界はそのような未来に必然的に向かっているらしい。もうなるようにしかならないのだろう。

2022年3月28日 (月)

胸騒ぎ

 昨晩からいろいろ地図を調べて、今朝からドライブに出かける準備をしていた。早めに朝食を摂って、出かける段になって、急に胸騒ぎがして出かけるのを取りやめた。

 

 すっかり忘れていたけれど、昨年三月末、日帰りドライブで長良川沿いに桜めぐりをした帰り道に、渋滞中の高速道路上で激しく追突されて、車は大破、私は頸椎の圧迫骨折で救急車に乗せられて病院に担ぎ込まれたのだった。意識下でそのことを警告するための胸騒ぎだったのだと気がついた。

 

 気持ちが萎えてしまい、ぼんやりしていたらいつの間にか長いうたた寝をした。無理に出かけても、これでは前向きに楽しめるとも思えない。車で出かけるのはしばらく控える方が好さそうだ。といってもまだ気楽に電車に乗るほどにはコロナ禍がおさまったともいえない。

 

 ブログに彩りを添える写真を撮りに行きたいと思うけれど、もうちょっと我慢することにする。

昨年、事故に遭った日に撮った写真を三枚ほど載せる。

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好い桜を見て気分が好かったのになあ・・・。

ディオゲネスの樽(前回の補足)

 ディオゲネスはギリシャの哲人。大きな樽を住処にしていた。逸話がたくさんある人で、面白い。子供のときの偉人伝の中にこの人も取り上げられていて、私にしては珍しくそれを覚えている。

 

 あるとき戦争が始まったというので、街の人たちが大騒ぎしていた。それを見てディオゲネス先生、住処の大樽をあちらへゴロゴロ、こちらへゴロゴロし始めた。何をしているのか問われると、「みながたいへんな騒ぎをしているのに、自分だけなにもしないではいられないではないか」と答えたという。

時間の無駄

 曾野綾子のエッセーを流し読みしていたら、時間を有意義に使うということにもっと心を配るべきだということが書かれていて、大いに思うところがあった。

 

 だからといって自分の持ち時間を隙間なく埋めていくわけには行かない。軽自動車のエンジン並み、8ビットのCPU並みの私の脳力では、すぐにオーバーヒートして停止してしまい、却って非効率である。だから私はしばしばぼんやりとする。ぼんやりとしている方が多い。

 

 そういうぼんやりする時間は、私にとって無駄ではない。必要な時間である。だからこそ無意味な時間を強いられることには不快感を持つのだ。テレビのニュースを観ていれば同じことの繰り返しが多すぎる。同じことを報じるなら、多少は切り口に工夫があればまだ我慢できるが、どの局も金太郎飴のように同じ映像をただ流している。観なければ好いのだけれど、次に新しいニュースが続いているかもしれない。

 

 それにしても大きな地震などの災害のときのあの無限の繰り返しにはほとんど狂的なものを感じる。初めて知った人に報じる報じ方で何度も何度もくり返している。異常である。CMの過剰も、たぶん私はひとより少し過敏に不快感を感じさせられている。それが私にとって時間の無駄を強いているからだとあらためて思った。

 

 世のなかの人はあまりそれを不快だと思わないのだろうか。それなら不思議なことだ。現代は有意義ではないことがあふれかえっていて、うっかりするとその洪水に流されかねない。こうしては居られないと思いながら、いたたまれない気がしている。ディオゲネスのように、樽を転がしてみせるしかないのか。

2022年3月27日 (日)

とりとめのない連想

 山口瞳の『酒飲みの自己弁護』という本を読みながら、自分がいつ頃酒を飲み始めたのか、そしてどのように人並み以上に飲むようになったのかいろいろ思い返していた。そこから連想したのは母方の祖父や叔父たちのことで、正月は母の実家にあたる祖父母の家に皆が集まって酒盛りをする。私の父は下戸だったから付き合えず、私は高校生ぐらいから父の代わりに盃を持たされた。ビールも日本酒も最初から美味いと思って飲んだ。酩酊するほどはもちろん飲ませてもらえなかったが、おとなの男になった気がした。家には酒がなかったから、年に一度だけの飲酒だった。

 

 まとまった休みのときには明治生まれの祖父母の家に長く泊まり込んだ。厳しい祖父母だったが、大好きだった。祖父は酒が好きで、それは子供のときからだと聞いた。祖父の父が酒飲みで、買い置きの酒がなくなると、夜道を酒屋まで徳利をぶら下げて買いに行くのが祖父の役目だったそうだ。帰り道、ワラをストロー代わりにしてその酒を盗み飲みしたそうだ。寒かったり暗がりが怖かったりするから、つい飲み過ぎる。水を足してごましたという。「このごろどうも酒が水っぽい」と父親に言われたそうだ。たぶん気がついていたのだろう。

 

 私が小さかったころ、寝床で抱かれて寝物語をよく聴いた。「おばらくとうか」という題名の、狸がひとを化かす話が祖父の得意な話で、何度聴いても面白かった。どういう字を書くのか訊かなかったのでわからない。おばらくという地名が千葉県の山武郡にあるようだ。小原子と書く。祖父の生まれ育ったところに近い。とうかは灯火か。話の細部はもう忘れてしまった。覚えているあいだに自分の子供に話して聞かせていれば伝わっていったのに、と思ったりする。

 

 そんなことをとりとめなく思い出していた。

置き換えたら

 韓国の人が自国をウクライナに置き換えたら、ロシアは中国とみるのか、日本とみるのか。日本を嫌いな人と、中国が嫌いな人とがいそうな気がする。そしてこれは私の想像だが、両方嫌いという人は案外少ないのではないか。互いは相容れず、その分断は深刻なのではないか。

 

 そうすると、北朝鮮の役回りはベラルーシか。

 

 むかしユーゴスラビアという国があって、ナチスに蹂躙された。多くの国民がパルチザンとなって、いまのウクライナのように市民がナチスと戦った。『ネレトバの闘い』という映画で観た映像には、ドイツの戦車が侵攻できないように大きな橋を爆破して落とすシーンがあって、それが忘れられない。ウクライナでも橋を落として防衛ラインにしていたのを見てそのことを思い出した。その壊れた橋の上を市民がわたっていく様子もそのままだ。

 

 ユーゴスラビアはナチスという敵に対してチトーというカリスマのもと、国民が結束したが、多民族国家だったからチトーの死後、分裂してしまった。ウクライナはどうなるのだろうか。

死者を弔う

 ウクライナの激戦地、マリウポリから逃げ延びた避難民が、「遺体が放置されている」とその惨状を伝えていた。

 

 生物の中で人間だけが死者を弔う。まともな人間なら死者を放置出来ない。放置することが耐えられないほど気持ちが悪いからだ。人はどんなに過酷で追い詰められていても、可能な限り死者を葬る。戦った仲間、そして敵であっても死者は葬るのが人としての務めだと感じるのが人間だと思う。

 

 肉親の遺体を放置して弔わないという事件を見聞きして感じる強い不快感は、あってとうぜんの感情なのだ。大きな事故や災害で行方不明者を必死で探すのは同じ感情からだろう。もういいかげんあきらめたら、と思うのは無関係な人間だからで、遺族は弔わないわけには行かないと思うのが自然なのだ。

 

 その死者を弔うこともできずに逃げざるを得ない惨状を作り出していて、それでも平然と市民は攻撃していないなどと嘘のつけるロシアの大統領や外務大臣、国連大使は人間の皮を被った鬼か。

2022年3月26日 (土)

続・映画備忘録

『スナイパー 孤高の弾丸』2021年イラン。イラン・イラク戦争時代に活躍した伝説のスナイパーの話が描かれる。敵から見ればスナイパーがとれほど恐ろしいか、それがよくわかる。そういえばウクライナでもロシアの将軍たちが次々に戦死しているようだが、私はスナイパーに狙撃されたのではないかと思っている。なかなか迫力のある戦争映画である。イランやトルコの映画はけっこう出来が好い。

 

『グリーンランド 地球最後の二日間』2020年アメリカ・イギリス。地球からはるか離れた軌道を取っていた彗星が、分裂した衝撃でコースを突然逸れて地球に向かう。回避不能の事態になった地球でなにが起きるのか。政府は極秘で生き残りの人々を選別し、シェルターに送ることにする。主人公は建築設計士で、家族が生き残り組に選ばれるのだが・・・。目的地グリーンランドへの苦難の逃避行。次々に落下する巨大隕石。最後の壊滅的大隕石の衝突が迫る。人類は生き残れるのか。出来は悪くない。

 

『シグナル 長期未解決事件捜査班』2021年日本。連続テレビドラマの『シグナル』の映画版らしいが、そんなドラマがあったのを知らなかった。SF要素あり、警察内部の権力争いあり、公安の悪辣ぶりありの盛りだくさんが却ってまとまりを欠いていて、不満足。ただ、私が格別の美人と認定している吉瀬美智子が頑張っているのでなんとか合格点をつけることにする。

映画備忘録

『シン・宇宙戦争』2021年アメリカ。H.G.ウエルズの『宇宙戦争』は繰り返し映画化されて、そのいくつかを観てきたが、これもそのひとつ。しかし大根役者が台詞をしゃべり散らすだけで見るに堪えない駄作映画になっている。最悪。もちろん途中で観るのをやめた。

 

『コズミック・シン』2021年アメリカ。重要な脇役でブルース・ウイリスが出演している。特撮はそれなりに見応えがあるが、映画としては三流のSFカルト映画。ブルース・ウイリスが出演していることでなんとか形になっている。こんな映画に出るなよ!もったいない。

 

『ザ・モンスターハンター 魔界都市』2020年中国。上海が舞台の魔物と魔術師の闘いを描いたものということだが、いつも思うのは主役の人物が強いのか弱いのかさっぱり判らず、わけのわからない阿呆の登場人物が引っかき回して笑いを誘い(誘っているらしい)、それが笑えずイライラする。こちらの頭が硬いのか、映画の出来が悪いのか。

 

『AVA/エヴァ』2020年アメリカ。女暗殺者が標的を間違えて組織に抹殺されかかる。しかし標的を間違えたのは、実は組織の幹部による仕組まれた罠だった。復讐のため全能力を駆使しての反撃が開始される。スイッチの入ったプロの復讐の話は面白い。そこそこ楽しめた。ジョン・マルコビッチが脇役で好演している。

 

『ホモ・サピエンスの涙』2019年スウェーデン・ドイツ。映像による断片的な叙事詩が重ねられていく。不思議な映像があり、市井の風景があり、極限の情景がありで、その印象が全体として流れていく。こういう映画は過去にも観たことがあるような気もするが、はっきりと思い出せない。人類の記憶、データではない心象の記憶のようなものを感じた。人類が滅んだあとに残る記憶とはこういう風景か。

 

 まだ何本か観ているので次回に続ける。

いまごろようやく

 WOWOWを契約していて、ドラマや映画を娯しんでいる。北欧やイギリスのミステリードラマが好きだが、よく取り上げてくれるのでありがたい。アメリカの警察ドラマも見応えのある作品が多い。オリジナルのドラマも出来の好いのが多いから観るのに忙しい。

 

 月末に番組案内の冊子が送られてくる。それをチェックして、録画予約の参考にする。そのチェックが月末の楽しみの一つだ。何度も書いているが、録画したものが多すぎてたまる一方である。冊子にチェックを入れる番組が多すぎるのだ。四月の冊子が来たので、さっそくチェックを入れたが、いつもの三分の一くらいに減らした。いつもチェックを入れる中国映画、SFものは、原則ほとんど選ばなかった。これで録画の消化が進むはずだ。

 

 この十日ほど、毎日一~二本映画を観ている。すでに数本このブログで取り上げたが、取り上げきれない。あとで題名だけでも記録として残すつもりだ。記憶に残りそうなものもあり、途中で観るのを打ち切ったものもありだ。遠出をもう少し我慢してせっせと消化に努めるつもりだ。

 

 このごろほとんど本屋に行っていない。最近は新刊を買うことがなくなっているのは、本との出会いがなくなっているからだ。本屋は名古屋まで出て、三省堂かジュンク堂へいく。店内のレイアウトは心得ているから、自分好みの本が見つかるあたりを丁寧に見て回ると、たちまち両手に抱えてレジに向かうことになる。それがなくなったから本代がかなり浮いて、わずかしかない貯えの減少にいささか歯止めがかかっている。

 

 そもそも読み切れないほど買ってもどうしようもないのだ。録画も本も、ありすぎてもどうしようもないのにいまごろようやく気がついて、ブレーキをかけることが出来そうだ。

2022年3月25日 (金)

洗脳

 NHKのドキュメントで『精神改造 恐怖の洗脳計画』という番組を観た。たまたまその前にドラマのシャーロック・ホームズで極悪な男に洗脳されてしまった若い女性を救う話を見たところで、洗脳によって愛という名を借りた強い思い込みを獲得してしまった人間の恐ろしさを思い知らされたところだった。オウム真理教の刷り込みもそのようなもので、多くの新興宗教は、そのような洗脳を布教の道具としている。詐欺事件の多くもそのような思い込み、刷り込みを手段とする。不思議なことに、そういうものに自分は影響されないと確信する人ほどころりと洗脳されてしまい、しかもその洗脳が解けにくいという。

 

 アメリカがその洗脳の恐ろしさを真に知ったのは、朝鮮戦争で北朝鮮の捕虜になった兵士達によってであった。その洗脳は強固で、おそろしいものだった。すでに第二次世界大戦でもソ連や中国によって捕虜に対しての洗脳が行われていて、戦後解放された捕虜たちは強固な思想的な偏向傾向を示し続けた。

 

 ドキュメントでは、ドナルド・ユーウィン・キャメロンという、イギリス生まれのカナダの精神病理学者が取り上げられていた。彼はフロイトの精神分析による精神病の治療では効果が弱いと考え、新しい科学的な、つまり物理的な方法を模索した。精神病は何らかのトラウマが脳に影響をあたえているものだと考え、そのトラウマを除去する、彼によれば「白紙化」することで治療が可能だと考えた。

 

 白紙化の方法として、患者に対してインシュリンショック療法、電気ショック療法、マラリア療法などの人体実験をくり返した。一時的な効果が出る場合があったが、廃人となってしまうケースも多かった。ところが「白紙化」という考え方に目をつけたのがCIAだった。こうして治療のための手法が洗脳へと転じていく。それはMKウルトラ計画と呼ばれるおぞましい人体実験だった。

 

 このキャメロンという学者は、アメリカ精神医学会、カナダ精神医学界、アメリカ精神病理学会、世界精神医学界の会長を歴任している。多数の患者に人体実験を繰り返すことで、精神医学に多くの貢献をしたということなのだろう。精神医学界の暗黒面を感じさせてくれる話である。

 

 洗脳の手法はさらに洗練され、巧妙化している。われわれは知らず知らずにそのような手法をシャワーのように浴びているのかもしれない。おそろしいことである。

タイムマシン

 熱力学の法則によれば、物質もエネルギーの一形態であるらしい。そして宇宙のエネルギーの総和は不変であるという。タイムマシンがもし可能なら、熱力学の法則は時間を超えて成り立つことになる。いまここにあったものがタイムマシンによって過去に行ったり未来に行くなら、ある瞬間の総和は変動することになるからだ。それならエネルギーの総和とはなんなのか。

 

 こんなことを考えたところで空論であって、タイムマシンはそもそも人間の想像の産物でしかない。しかし時空を超えるということは、物理的に困難であっても意識の上では可能であるのだと私は思っている。コリン・ウィルソンの『賢者の石』という小説や、クリストファー・リーヴ主演の『ある日どこかで』という映画での時間移動を、私は機械のタイムマシンよりもずっとリアルに受け入れる。

 

 NHKの『地球事変 氷河期』という番組を観ていて、氷河時代の痕跡をナイアガラの滝からカナダの極寒の地、ラブラドル地方への尋ねていくクルーとともに、過去を、つまり時間を超えて氷河時代を実感していく。私はこれも一つの時間を超える旅なのだと思った。

 

 この百万年間のあいだに、一回十万年あまりの氷河時代が8回あり、その間に温暖な間氷期があって、いまはその間氷期にあたる。間氷期は一万年前後で、すでに最後の氷河期から一万三千年が経過していて、新たな次の氷河期がいつ始まるか判らない。いま地球が人類のせいで急速に温暖化していることで、大西洋の深層海流の流れが止まりつつあり、そうなると氷河期を誘発する可能性が大きいという。これは近年SF映画でくり返し描かれているから、知っている人は知っていることだ。有名なのは『デイ・アフター・トゥモロー』で、ただしあれほど急激に寒冷化するというのはちょっと違うと思うが。

 

 番組のなかでもある学者が語っていたが、「人類は戦争などしているひまはないのだ。来たるべき未来に備えなければならない」。過去を含めて世界を概観する知性があれば、戦争などしている場合ではないことを理解できるはずだが、頭にタイムマシンを持たないと、愚かな行動をしてしまうようだ。そんなことを言っても始まらないのが口惜しい。

開花直前

 昨日は天気が好いことが判っていたから、ドライブに出かけようかと思っていたのだが、朝起きたら心身ともに重だるい感じで、そういうときに無理に出かけるとろくなことはないのであきらめた。代わりにようやく梨木香歩の『冬虫夏草』を読み終えた。時間がかかったのは、物語の中盤以降に滋賀県の、琵琶湖に注ぐ愛知川(えちがわ)沿いを遡って山中を行く主人公の足取りを、ドライビングマップで丹念にたどりながらマップハイキングをしていたからだ。

 

 能登川駅から御代参街道をたどり、愛知川沿いに永源寺へ至り、識盧の滝や佐目、久居瀬、姫が滝、御池川と辿る。地図で見れば惟喬親王の御陵があり、ここが木地師の発祥の地とある。いまは永源寺ダムの底に沈んでいるかつての集落を頭に描く。これらの集落が現実と幻想の中に混在して頭に浮かぶ。いつかはこのあたりを訪ね歩きたいと思った。

 

 午後、ずいぶん久しぶりに合瀬川沿いの木津山公園までの散歩コースを歩いた。いまの私の体力ではちょっときついが無理をした。いつもなら二度くらいの休憩だが、今回は三回休憩していつも以上に汗をかいた。木津山の桜は開花直前、明日なら咲き始めていただろうと思う。

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桜並木の続く合瀬川沿いに木津山に向かう。

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ほとんどまさに咲く直前のつぼみばかり。

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ようやく一輪咲いているのを見つけた。

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ここにもあった。見つけたのはこれだけ。

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木津山は人工の山。春休みに入ったのか、子供と母親がたくさん居た。

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公園横にこぶしの花が風に揺れていた。

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これもこぶし。

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帰り道で観たこれは白木蓮だと思うが違うだろうか。

 帰って汗をかいた下着を交換したらさっぱりした。もっと定期的に歩かなければ足が弱ってしまう。

2022年3月24日 (木)

自分に問題があるのだろうが

 同じようなことを書くのは、それが自分とってけっこう大きな問題であるからだ。

 

 私はテレビをよく観る。リアルタイムで観るのは主にニュースで、NHKBS1の海外ニュースをよく観る。同じことを国によって違う報道の仕方をしていることが面白かったりする。困るのは同時通訳の声が聴き取りにくいことだ。そもそもNHKの音量は低いと感じている。NHKから民報に切り替えるとクリアに聞こえるし、ときにうるさいぐらいだ。数値的に言うと、私のテレビの音量レベルで20くらいがNHKがなんとか問題なく聞こえるレベル。しかし同時通訳の声は極めて聴き取りにくい。アナウンサーの声の方が聴き取りやすい。発声法によるのだろう。特に女性が聴き取りにくい。これは私の耳が女性の音域を聴き取れないせいかと思う。

 

 だから問題は私の耳にあるのだろうと承知はしているが、その音量20だと、民放は充分すぎるほどよく聞こえる。女性の声も問題ない。しかし不思議なことにそのNHKもスポーツ番組などになると突然民放以上の音量になる。NHKがそうしているのか、私にはそう聞こえているのか判らない。しかし同じ耳である。あるときに聞こえなくて、あるときに音量が充分以上でよく聞こえるのなら、放送局の問題ではないのか。

 

 仕方がないからNHKBSの海外ニュースのときは音量レベルを22くらいにし、普通の番組は20~21、民放を観るときは19と、その都度耳に合わせて変更する。スポーツ番組ならたぶん18で良い。観ないけど。面倒くさい。映画の音声はAVアンプで聴くのでレベルが比較にならないほど高いから問題ない。夜はヘッドフォンを使うことにしている。

ええー、ううー、うん

 誰にも語り癖、しゃべり癖があって、よほど聞きにくくなければ個性として受け入れることが出来るものである。岸田首相の語り口が妙な区切りで聞きにくい、と誰かが書いていて、それから首相のしゃべり方が気になってしようがなくなった。すでに私にとってよほど聞きにくい語り癖になってしまった。

 

 だめだ、もう普通に聞くことが出来ない。ええー、ううー、とか、つばを飲み込むうんが、話の流れをおかしな間合いで区切っていて、聞くほどイライラしてしまう。これは呪いがかかってしまったらしい。このブログを読んだ人もその呪いにかかるかな。

 

 中身があるならまだ善いのだけれど、あまり人の心に響く内容がある訳でもないし、困ったことだ。他の人は平気なのだろうか。

2022年3月23日 (水)

映画『ライジング・ホーク 猛軍襲来』

 2019年のウクライナ・アメリカ合作映画。13世紀、蒙古が怒濤のように東から押し寄せてきた時代、ウクライナ地方の人々が、圧倒的な蒙古軍と戦って多大な犠牲者を出しながら村を護ったという物語である。いまのウクライナの様子を思い起こさせるではないか。

 

 過剰な特殊効果は使わず、単純に蒙古軍が悪であるというストーリーにもしていない。災厄としての侵略とはどういうものか、そして侵略軍に協力するもの、すぐに降伏を言い立てるもの、策もなしに暴走するもの、さまざまな人たちをまとめて行くものは誰か。選択肢のないところに選択肢を求めることの愚かさも見て取ることが出来る。

1809a-121ウクライナには行っていないので、ウズベキスタンで撮った写真を載せる

 時代が変わっても人間は変わらない。こういう事態はすでに過去のものになったと思っていたが、そうではなかったことを思い知らされたとき、この映画の見方もただのアクション戦争映画ではないものとなっている。なかなかよく出来ていて、しかも面白い映画だった。

 

 この映画の前に同じような時代を描いた『戦神紀 チンギス・ハーン戦記』という2018年の中国映画を観た。テムジンとして誕生した若者が、ついに覚醒してチンギス・ハーンになっていく、という話なのだが、まったく史実とは無関係で、駄作そのもの。地下の冥界の魔物たちと戦う話になっていて、このようなお話はもう見飽きるほどみせられているのでうんざりする。ただ、中国の特殊効果はなかなかすぐれていて、しかも金がかけられているからそれをぼんやり見て楽しむことは出来る。中国映画特有のおちゃらけた役柄の登場人物がいなかったのが唯一の救いか。チンギズ・ハーンとはまったく関係のないほら話と承知して観るべき暇つぶし映画。

 

 同じ時代を描いてこれほど違うのは、国柄の違いもあるのだろう。そもそも中国はジンギスカンを英雄として取り扱うことを長く禁止してきたはずである。だからこんな取り上げ方しか出来ないのかもしれない。

神様はいないのか

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を映画化したロシア映画を学生時代に観た。強烈な印象を受け、すぐ本屋でこの本を買って読んだ。イメージが鮮烈であるあいだに読んだから読むことが出来たけれど、あのとき以外だったら読了は出来なかっただろうと思う。

 その中で、次男のイワンが、神様は存在するかどうかという神学論争を延々と繰り広げる場面がある。イワンの結論は、もし神様が存在するなら、その神様が子供が奇禍に遭うのを見過ごしてなにもしないことはあり得ない。だから神様など存在しないのだと、結論づける。神様は人間の想像を超えた意志のもとにこの世を絶対的に統べているのであって、神様を疑ってはならない、というのが宗教の根本である。こんなに信じているのに護ってくれないといって神様を恨んではいけないのである。ところが合理的な思想が人間に芽生えて神様の存在を疑いだした。神様は人間の意識が生み出したものだ、というのが科学的、合理的な考え方になった。

 いまだに神が絶対的だという人々がいるが、本気の人とそう信じたいから信じているだけのひとたちで、生き方の基準をそういう絶対的な存在に委ねないと生きられないひとたちであろう。イワンの生きた時代はほとんどの人がそうだったから、彼も神を疑いながら、疑ったことによって精神の破綻を来すに至る。

 こんなことを書いているのも、ウクライナで子供たちが殺されているのを連日みせられ、知らされているからだ。悪いことを悪いと非難するだけでは無力であって、その無力さに気持ちの痛みを感じざるを得ない。ほとんどの人がそういう思いだろう。

 それを知りながらの昨日のBSフジの共産党の小池氏の言葉は虚しく聞こえた。「戦争は悪いからしてはいけない」「核は絶対悪だから廃絶しなければならない」と繰り返し主張するが、そんなことは誰でも判っていることで、ではどうするのか、その悪い戦争を仕掛けている国をどうするのか、また、日本がそういう事態にどう備えなければならないのか、という話をしているときにこの言葉をくり返すだけに終始していた。

 自分がプーチンに直接言えよ!

能登で地震

 しばらく前から能登半島で地震が頻発している。能登半島は学生時代以来何度行ったか数え切れないくらいなので、他人事ではない。思い出すのは2007年のM6.9の能登大地震だ。翌年の2008年に兄貴分の人と能登へ行った。総持寺の近くの門前町の民宿に泊まり、その被害を目の当たりにした。輪島から先の道は寸断され、回り道を余儀なくされた。復旧にはずいぶん長い期間かかったのも見てきた。

Pict0050珠洲にある見附島

 リタイアしてからも現役時代、単身赴任していた金沢へ行くついでに能登半島を回ることがしばしばあり、その時によく泊まるお気に入りの宿がある。その宿は珠洲というところにあるモダンな温泉ホテルなのだが、まさにその珠洲で今回震度4の地震があったという。海を目の前に見るそのホテルに被害がなければいいのだが、と思い、更にまたもっとひどい地震が起きないといいなあと思っている。

2022年3月22日 (火)

独裁者は必ず自滅する・・・はずだけれど

 権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する、というのは、イギリスの歴史家が専制君主を論じて発した言葉らしい。

 

 集中的に権力を掌握した権力者・つまり独裁者は、他者の生殺与奪の権利まで手にするに至る。自分の命令は絶対で、それに反することは許さず、ときに感情を害しただけで側近を死に追いやることさえある。ただ、上手く取り入ればその権力のおこぼれに預かり、甘い汁を吸うことも出来る。こうして独裁者の取り巻きは巧言令色の徒ばかりになる。

 

 独裁者にもたらされる報告は、うまくいったという報告ばかりで、失敗の報告は上がらなくなる。正しい情勢分析による悲観的な判断は許されない。それなら独裁者の判断は間違うのは必然で、ついには自滅せざるを得ない、ということだろう。

 

 このことは、毛沢東の『大躍進』の失敗、そして『文化大革命』へ至る道筋についていろいろ本を読んで学んだことだ。ところが毛沢東は独裁者のままで畳の上で(比喩です)死んだ。そういうこともある。プーチンは畳の上で死ぬのか、それならどれだけの犠牲者を産みだし続けるのか。習近平はそれに倣うだろう。彼の方がプーチン以上にその素質があるようだし、ロシア以上に体制も万全なようだから。

近場にしようと思う

 膝や腰が痛い。年相応なのだろうが、それ用の薬代もバカにならない。といって中断するとさらに痛む。だから温泉に湯治に行きたい気持ちがあるのだが・・・。

 

 今日の運勢占いでは、かねて行きたかったところへ出かける計画を立てるがよい、とある。行きたいところはいろいろある。すでに地図を見ながらどこをどうめぐるかも考えている。しかしすぐに春休みの時期で、コロナ禍はやや下火になって蔓延防止も解除された。人が多いところへ出かけるのは好きではない。

 

 唯一の収入源である年金は減少しているのに、水道光熱費、通信費、食費など、生活費が増加している。ネット通販に馴れてきて、その出費が増えている。電化製品も買い換えたいものが順番を待っている。読みたい本や録画した映画の消化が進んでいない。出かければますます進まない。

 

 梨木香歩の『冬虫夏草』という本の、能登川から愛知川(えちがわ)沿いに遡って永源寺界隈を歩く場面を読んでいたら、無性にその辺りに行ってみたくなった。滋賀県なら遠くないから日帰りで行ける。気持ちを切り替えて考えてみたら、近場に出かけるのも好いではないかと思った。近場でも行ったことのないところは山ほどある。ドライビングマップを丁寧に見ていると、そういうところが次々に目につく。ひところ(昨秋)愛知県と岐阜県の近場を歩いた。車で走るからガソリン代はかかるが、宿泊で出かける旅よりははるかに安くつくではないか。

 

 温泉はしばらくあきらめて、我が家の風呂を温泉にでもしよう。朝風呂も許すことにしよう。手足は伸ばせないけれど、好きなときに好きなだけはいっていられるし、他人が来ることもない。朝酒はやめておく。

鶏肉料理を試す

 いまはエンゲル係数を下げるために、料理に使う肉といえば鶏肉がメインになっている。好きな魚は頻度が減っている。九十九里の魚で育ったので魚が好きだが、鮮度の高い魚でないと美味しいと思えないので、スーパーで手に取ることが少ない。干物を買うことが多いが、子供のときに食べていた天日干しをしたものではないから旨味が不満足である。なんと冷蔵庫の中で傷んでいくのだから、私にとって干物とはいえない。

 

 鶏肉を使った料理をいくつかレパートリーに持っているが、料理番組で観たものを三つほど試してみた。一つは味噌漬けにしてソテーにするもの。味噌、ゆず胡椒、蜂蜜、みりんをよく混ぜたあとで酒でのばしたものをつけ汁にして鶏肉を漬け込んでおく。一昼夜以上つけてから洗わずに表面を拭き取りソテーする。なにか適当な野菜を一緒にソテーすると好い。焦げやすいので火加減に注意がいる。思った以上に旨い。今度は味噌の量をもう少し控えめにしてみるつもりだ。

 

 もうひとつは皮を剥いでナゲット程度に切り分けた鶏肉(皮は取る)を塩と砂糖と水の調味液に漬け込む。これも一昼夜以上おく。それを水気を拭き取ってからフライにする。なにもつけなくても旨い。ビールに最高である。今度は塩ではなくて塩麹を使ってみようかと思う。肉が更に柔らかくなり、旨味も増すのではないか。

 

 剥いだ皮があるので、番組で観た鶏皮サラダを作ってみた。タマネギを薄切りにして塩をふって水洗いしたものに酢とごま油と塩の調味液と混ぜ、そこへ茹でた鶏皮を入れ、更に番組では春菊を大量に混ぜてサラダにしていたが、私は水菜を入れてみた。春菊が思いのほかに高かったからだ。これは酢の量が多すぎたために酸っぱくて残念な味だった。鶏皮なら茹でて細切りにしたものに多めの細ネギをのせてポン酢で食べるというふだん私が食べているものの方がずっと旨い。

 

 こうやっていろいろ料理を楽しんでいると、自動的に卓上の品数が増え、食費がどんどんかさんでいく。その上自分自身も膨らんでいく。しばらく素食に戻して身体と生活費をスリムにする必要があるようだ。

2022年3月21日 (月)

映画『去りゆく男』

 1956年のアメリカ映画。主演はグレン・フォード。脇役にアーネスト・ボーグナイン、ロッド・スタイガー、チャールズ・ブロンソンなどが出演している。題名が変だけれど、これはれっきとした西部劇である。

 

 アーネスト・ボーグナインは『ワイルド・バンチ』ではいい役をしていた。ロッド・スタイガーは『夕陽のギャングたち』で、主人公の相棒役の山賊を演じていた。どうもこの二作品から離れられない。

 

 気のいい牧場主のシェップ(アーネスト・ボーグナイン)は行き倒れていたジューバル(グレン・フォード)という男を助ける。牧場は人手が足らないということでジューバルはここで働くことになる。シェップにはカナダから来た年の離れた若い妻がいる。シェップに不満があるその妻はジューバルを誘惑するが、ジューバルはシェップに恩義があるのでなびかない。

 

 よく働く上に能力も高いジューバルは気に入られてリーダーをなかされることになるが、いままでの牧場のリーダー役だったピンキー(ロッド・スタイガー)の恨みを買うことになってしまう。ピンキーはもともと性格が粗暴で、シェップの若い妻とも関係があったらしいが、いまは毛嫌いされている。しかしシェップはなにも気がつかない。

 

 やがてさまざまな出来事があったあと、ピンキーとシェップの若い妻によってジューバルはシェップに妻を寝取ったと誤解を受けてしまう。ついにシェップはジューバルに銃を向けることになり・・・。

 

 哀しい結末のあと、ジューバルと彼を助けたレブ(チャールズ・ブロンソン)は牧場をあとに去って行く。

 

 西部劇の時代の西部には女性の数が極端に少なかった。だから女性は極めて大事にされ、結婚できない男が多かった。女は弱いもの、愚かなものとしてちやほやされていた。それがレディ・ファーストの正体である。だからハリウッド映画の女性はたいていおろかそのものである。しかし実際はそれなりに強い意志を持たなければ西部では生き抜いていけなかったはずである。中にはこのシェップの妻のように自分が女であることで男たちを振り回す女性もいただろう。案外それなりに男をコントロールしていた気がする。

 

 アメリカの女性が、女性の権利を主張するのは日本とは原点が違うような気がする。そのアメリカのフェミニズムをそのまま日本で主張するから、ときに田嶋陽子女史のような日本の実態と乖離したとんちんかんなフェミニストが誕生する(と私は感じている)。絶対に論争はしたくないけど。

インド映画『ダルバール 復讐人』2020年

 この映画の善し悪し、出来不出来を語る資格は私にはない。なにしろ159分の長い映画の一時間ほどしか観ていないからだ。インド映画は盛りだくさんで長い。豪華絢爛、にぎやかな音楽と突然の集団演舞、そのキレのいい演舞に圧倒される。そのエネルギーに私はついて行けない。何回かインド映画に挑戦したが、ついに最後まで見届けたものがない。インド映画には嫌われているようだから、もう挑戦するのはやめることにする。

 

 一時期ミュージカル映画に夢中になったことがあるくらいだから、劇中で踊るシーンがあることを否定などしない。インド映画が合わないのはそういうことではないようだ。

 

 バリ島に行ってケチャを生で観た。前々から是非観たいと思っていたので、感激したし面白かった。演目はインドの長編古典叙事詩『ラーマーヤナ』の一部である。ここでも歌と踊りによってストーリーが展開されていく。たぶんそのような演劇がインドを源流としてあるのだろうと、勝手に推測している。

 

 インドという国の異質さを思い知らされた気がする。その異質さに私はついて行けないのだ。

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ケチャはこのような遠景の階段状の観客が見下ろす広場で演じられる。

この舞台がどんなところかというと、

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こんな断崖の上にある。

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日が落ちてくるとケチャが始まる。歌声が響き渡ると不思議な空間があたりを支配する。

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ラーマーヤナの物語が繰り広げられる。けっこう長い。機会があれば、ぜひ観て欲しいと思う。

 

映画『プロフェッショナル』

 1966年のアメリカ映画。監督リチャード・ブルックス、出演リー・マーヴィン、バート・ランカスター、ロバート・ライアン、クラウディア・カルディナーレほか。アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。主な舞台がメキシコである西部劇映画。

 

 大富豪の妻(メキシコ人)がメキシコ革命の軍人にさらわれ、それを取り戻すために闘いのプロフェッショナル四人が集められる。そのうちの二人はその軍人・ラザ(いまはほとんど山賊の首領・私の好きなジャック・パランスが演じている)と、むかしともに革命で戦った男たちである。その二人とは、四人のリーダーであるリコ(リー・マーヴィン)と爆薬の専門家ビル(バート・ランカスター)。

 

 四人は熱砂の砂漠を越えてメキシコに入る。二重三重に張り巡らされた敵陣を突破して大勢の立てこもる本拠地へ迫る。人数から、とても正面から突破して拐かされた女(クラウディア・カルディナーレ)を救い出すことは不可能である。

 

 決死の救出作戦、そして死の逃避行。更に意外な展開が続いて、痛快なラストを迎える。面白い。

 

 私のもっとも好きな西部劇映画といえば、『ワイルド・バンチ』と『夕陽のギャングたち』だが、この『プロフェッショナル』はそれぞれの要素を含んでいる。ともにメキシコが主な舞台の映画で、メキシコでの壮烈な闘いがクライマックスだ。そして『夕陽のギャングたち』の主役(ジェームス・コバーン)は、もとアイルランドのテロリストで爆薬の専門家である。そういえば、ロバート・ライアンも『ワイルド・バンチ』に出演していた。

 

 それにしてもリー・マーヴィンといい、ジェームス・コバーンといい、ジャック・パランスといい、みな整った顔とは言いがたい男臭い異相の俳優で、そしてそれだから私は大好きな俳優たちで、彼らの出る映画はそれだけで好きになってしまう。

2022年3月20日 (日)

人間至上主義革命

 ある本(『ホモ・デウス(下)』を読んでいて、その中の「人間至上主義革命」という言葉にいろいろと感じることがあった。書かれている内容の、大海のように広く深い意味の、そのほんのひとしずくを見ているだけではあるが、現代というものを視るための一つのキーワードだと思う。

 

 西洋では科学というもの、科学的思考というものが宗教から発している。宗教は人知を超えた神、宇宙の意志のもとに人間は活かされているという考え方だったが、次第に科学的思考は、人間の理性、人間の知性を基本として展開されるようになっていった。

 

 だから民主主義であり、市場原理であり、お客様は神様なのだなと思う。そうしてプーチンは正義の名の下にウクライナに侵攻している。

 

 その私の受け取り方(つまり認識の仕方)についてはまだよく考えていないから、直観的なものなので上手く説明できない。人間を信じるから、人間は信じられないことをするに至ったのか。

やれやれ

 今日のスーパーは混雑していた。みんな籠を一杯にしているから、レジにも行列が出来ていた。いつもはすいている時間を考えて買い物に行くのだが、ちょっと遅すぎたか早すぎたようだ。そういえば今日は三連休の真ん中の日曜日だった。

 

 レジが終わってバッグに詰め替えて、家へ帰りかけの道でトイレットペーパを買ったものを置き忘れていたことに気がついた。さいわい誰も気がつかなかったらしく、そのままそこにあった。やれやれ。

 

 そうして我が家に帰って冷蔵庫に収納していたら、イカと炊き合わせるための里芋を買い忘れていたことに気がついた。やれやれ。

釣り

 現役中は営業の仕事をしていたので、ゴルフをたしなむようにと繰り返し勧められていたが、ついにゴルフはしなかった。球技は苦手である。新人の頃、教えられて御徒町の安いゴルフ用品店に行ってみた。たいてい遊び道具をみればわくわくするはずなのに、クラブを手に取ってもちっとも興味が湧かない。迷っているうちに嫌気がさしてきた。

 

 隣に釣り道具店があったので、覗いてみた。釣りはこどもの頃、近くに周囲一キロほどの池があったから、鮒釣りやモエビ取りをした。嫌いではない。学生時代には山形の馬見ヶ崎川でモロコ釣りをして昼飯代わりにしたこともある。サシという餌で釣れば、七八センチほどの魚がたちまち百匹くらい釣れた。塩をちょっとふって河原で焼いて片端から食べた。それまで海釣りはしたことがない。

 

 大きな竿があって、見かけよりもずっと安い。ゴルフクラブの値段をみたばかりだからことさら安く感じた。店の人に訊いたら投げ釣りの竿だという。あなたの身体ならこの一番太いのがむいているだろうという。そうして4.2メートルのハードタイプの投げ竿と糸を巻いてもらったリールを衝動買いしてしまった。重いし使いにくい竿で売れ残っていたものらしく、大幅に値引きしてくれるというのにのせられた。

 

 なにも知らないから釣りの本も買った。投げ竿といえばキス釣りである。しかし私の買った竿では感度が悪いからキス釣りにはむかない。イシモチなどの波の荒い砂浜の魚にむいているようだ。銚子のすぐ南、飯岡から九十九里にかけていい釣り場があるという。それなら当時の実家のあったところから遠くない。それから毎週週末には飯岡まで行ってイシモチ釣りを楽しんだ。二十センチ前後のイシモチが面白いように釣れた。大きな竿なので、力任せに錘を投げ飛ばすことが出来る。だんだん遠投も出来るようになった。

 

 それから海釣りにはまって船釣り、堤防釣りと夢中になった。前日の晩はわくわくして寝られないほどだった。夜明け前に出かけるのがちっとも苦ではなかった。熊谷に移り住んでそこから平塚までイナダ釣りにたびたびいったりした。冬の横須賀沖の船でのイシモチ釣りも楽しんだ。冬の船は揺れるから二日酔いの身には応えるが、釣り出せば船酔いは消し飛んだ。

 

 名古屋に移り住んでからも友人と船釣りに行き、アジ、スズキ、カワハギ釣りを楽しんだ。知多や奥伊勢の堤防釣りにもよく行った。釣り好きの得意先の人もいて、泊まり込みで一緒に遠征したりしたから、ゴルフほどではないけれど、仕事に多少は寄与した。

 

 リタイアしたら釣り三昧、などと考えていたけれど、だんだん朝早く出かけるのがつらくなり、震災の年に父が死んで喪に服する意味でしばらく殺生を自分に禁じて、それから釣行することが激減した。釣りに行く前のわくわくする気持ちの高まりもなくなっていった。そうしてもう四五年竿を出していない。釣り道具も手入れをしていない。そんな自分がちょっと信じられない気がしている。

2022年3月19日 (土)

吹きぬけていく

 窓を開け放っておくには少し寒いけれど、部屋にこもったよどんだ空気をとことん入れ換えたくて、寝室の北側の窓を開け、南側のベランダの窓を開け放ったままにしていた。北側から花粉やら黄砂やらをふくんだ、少し強めの風が吹きぬけ、やたらとくしゃみが出た。

 

 数年前から眼のまわりがかゆかったり、くしゃみや鼻水が出たりと、明らかな花粉症の症状が出ているが、ひどい花粉症の友人などと較べれば、つらくてたえられないというほどのこともない。あえて花粉を浴びているところがある。くしゃみとよどんだ空気を払うことを較べれば、よどんだ空気を払う方を選ぶ。

 

 窓を開け放って爽快である時期というのは思いのほか限られているもので、それを感じることを優先したいと思っている。

優先順位

 やりたいこと、やらなければならないことがあるのは生きているからで、ありがたいことだと思わなければならない。

 

 母が晩年の二年間ほど寝たきりになり、弟夫婦が在宅介護をしてくれていたが、私も月に一週間から十日ほど、介護の手伝いに千葉の実家に通った。手伝いをしたのか私もまとめて世話になったのかよくわからない二年間だったが、母が臨終に向かっていく日々を目の当たりにすることが出来て、死ぬということが自分なりに少し判ったような気がする。

 

 母はテレビが観たい、音楽が聴きたい、あれがしたいこれがしたいという意思表示を次第にしなくなっていった。寝たきりになる一二年前から母は発語障害で言葉を発することが出来なくなっていた。だから私がいろいろなカードを作って、それを示すと指をさしてくれたものだったが、次第にただカードを見つめるだけになった。

 

 同じようなことを何度も書いて恐縮だが、いま読みたい本、読むつもりの本が山のようにある。観たいと思っている映画がたくさん録画してあって、せっせと観ているが観るより溜まる方が多い。旅に往きたいから地図を引っ張り出して、走るコースを想定したり、じゃらんの宿の空室状態などを飽きずに検索したりしている。誰でも限られた時間しか手持ちがないから、やりたいことが多すぎても全てをこなすわけにはいかない。

 

 人生は常に選択なのだなあ、と思う。さまざまなことを選択して生きてきた。選ばなかった山のようなことどもを思い返しても詮ないことだけれど、そのことを思いながら優先順位を考えないと収拾がつかないなあなどとぼんやりしている。

2022年3月18日 (金)

休みます

 古い(十年以上前)ブログの記事のことで、いささか面白くないことがあり、気分が悪いので、気持ちが落ち着くまで休みます。

ロシアの国連大使

 ロシアの国連大使が自国を正当化するのは、国を代表する立場にあるのだから非難することは出来ない。しかし、苦し紛れのこじつけの正当化すら出来ずに、事実とは本人も思っていないことを公言するのは、つまり明らかな嘘をつくこと、は許されることではない。その境目を超えている自分が、プーチンと同類であるとみなされることに悔いを、心の葛藤を感じないのだろうか。私だったらとても耐えられない。

幽明の境目があいまいに

 幽明境を異にする、などという。幽とは冥(くら)いところという意味で、あの世のこと、明はこの世のことをいう。知っている人が亡くなってしまったときなどに使う言葉だ。

 

 宝田明が亡くなった。それほど好きだったひとでもないが、ああ、まだ生きていたのかという思いもある。そういうことがずいぶん続いていて、誰が生きていて、誰が死んだのか、だんだん区別がつかなくなってきた。会社のOB会で発行している定期便があり、そこに訃報などの消息欄がある。しっかり記憶していないと、とんでもない勘違いをしたりする。

 

 どうして幽明の境目があやふやになってきたのか、あまり考えないことにしている。

2022年3月17日 (木)

言葉の魔力

 手帳の整理が端緒についたところだが、以下は1986年の手帳に書いてあったこと。手を入れていない。

 

 言葉には魔力があると云う。話をしているとき、人は次に何を話そうかと考えながら話しているらしいけれど、「その」次に話そうと思っていることと云うのは、いま話している言葉が産み出しているものだそうだ。
 同じことが文章にもあるようで、まず何かについて書き出しさえすれば、全体の構想など不確定でも、書かれた言葉が次の言葉を引き出してくることで、いつの間にかそれらしくまとまったものになるものらしい。

 時として思ってもいないことを云ってしまったり、そこまで考えていなかったことが文章に書いているうちにあらわれたりすることはある。
 そういうことがあって、言葉には魔力があるとされるのだろう。古事記でも日本武尊は言霊に触れて命を落としているくらいだ。

 なぜ言葉には魔力があるのだろうか。
 それは、言葉には精神を集中させる働きがあるからだと思う。人間には立派な知能が備わっているとはいえ、それを常に意識して回転させているわけではなく、発進待ちの自動車の、アイドリング状態が普通なのだ。
 話したり書いたりすること、つまり言葉を用いることによって、人間の精神は自分が思う以上に急速に集中状態となる。ただぼんやりしていたときには思ってもいなかったことが、言葉を話したり書いたりするうちに次々に産み出されるという訳である。

 確かに、それは自分にあると思っていなかった超能力を初めて発見するように、不思議な力として認識されることもあるだろう。
 人間に備わったその優れた力を錆させないためにも、せいぜい頭の良い人間と話したり、そして何でもいいから文章を書くことだ。

 

 お粗末な文章(いまもあまり変わらないが)で、お粗末さと同様に内容もいまとあまり変わらない。ずいぶんむかしからこんなことを考えていたのだ。ブログにくどくどと書き散らしているのは、つまりこのような動機によるものであって、言葉の魔力に突き動かされてのことらしい。頭の良い人間、というのは中身があって話すことでこちらがなにか励起される人、得るものがある人のことであろう。そういう人には必ず影響を受けるものだと思う。そういえばその頃そういう経験をした。そうして、目上の人に「あんたからは得るものがない」などとほざいて激怒されたりした。私は生意気でとげとげしていやな奴だった。

立場が違う

 ウクライナはこれ以上抗戦することで犠牲者を増やさないために、ロシアと妥協して停戦に持ち込むべきであるという論を主張する人たちがいる。犠牲者をなんとか少なくする方策が最優先だという主張には説得力があるから、賛同する人もいるだろう。

 

 その際に、日本がすでにほぼ負けが明らかなのに本土決戦、などと言っていつまでも降伏をしなかったために原爆も落とされたし、ソ連の参戦も招いた、という歴史認識があることは間違いないことだろう。日本はもっと速く降伏すべきだったということについては、私もおおむね同意する。そもそも戦争を始めたのは日本だが、その日本には戦争を収める条件についてなにも考えていなかったらしいことが問題だった。

 

 くり返すが、ここではっきりしておかなければならないのは、日中戦争、太平洋戦争を始めたのは日本だということである。だから日本が戦争をやめない限り戦争は終わらなかった。終わらなければ犠牲者は果てしなく増えていくばかりである。中国もアメリカも日本を侵略しようとしたわけではないことをよく知っておくべきである。

 

 今度の戦争はロシアがウクライナを侵略したのであって、ウクライナがロシアを侵略しようとしたわけではない。戦争はロシアが仕掛けたもので、戦争を終わらせるためにはロシアが戦争をやめなければならない。

 

 日本が戦争をやめるということとウクライナが戦争をやめるということの意味は立場上は正反対のことである。それを混同してのウクライナの戦争停止論は、私には粗雑であるようにしか思えない。結果を出さない状態でロシアが戦争をやめるとは思えない。歴然とした成果なしにロシアが戦争をやめれば、ロシア国内はプーチンを嘘つき、意気地なしとして引きずり下ろすだろう。

 

 プーチンはとことん情報管制して、ウクライナをネオナチのファシズム国家として糾弾し、正義の戦争だとして国民の賛同を得ているのである。だからロシアではいまだに70%の国民(多くが中高年の国民)が絶大の支持をしているのであるから。すでにプーチンは引くに引けないところにいる。なにをするかわからない。

地震のお見舞い

 昨夜の地震で被害に遭われた方、被害はなくても怖い思いをされた方にお見舞い申し上げます。

 尾州地区のこちらは震度1~2というところだったようですが、それでも寝床で揺れを感じました。それからしばらく揺れを感じ続け、おさまりかけたと思ったらまたまたゆっくりした揺れが始まり、マンション全体がゆったりと揺れているように感じました。玄関の扉がガタガタと鳴っていました。

 これは大きな地震がどこかであったに違いないと思い、起き出してテレビを観て、震源地、津波情報などを知りました。大規模な停電も起きているらしく、実際の被害は朝にならないと判らないだろうとぼんやりしていました。これが東南海地震で、同様、またはそれ以上の地震があればどうなるのでしょう。その南海地震も早いか遅いかの違いで必ず来るといいます。

 昨晩、まっさきに考えたのは、もし大きな地震で玄関の扉が歪んだら閉じ込められてしまうということでした。扉は鉄製の頑丈なものです。助けが来るまで生き延びるものを用意しておく必要があります。たぶん揺れているあいだに立ち上がって扉を開けに行くなどということは出来ないでしょう。地震の揺れの方向によって、なにが倒れるか、それもあらためてしっかりと考えておく必要がありそうです。

 今回の地震の揺れを直接激しく体験した人のブログをこれから拝見できるはずなので、参考にしたいと思います。

2022年3月16日 (水)

本心なのか影響なのか

 コーヒーはブラックに限る、と言い続けた男が、今際の際にぼそりと「コーヒーにミルクと砂糖を入れて飲んでみたかった」とこぼした、というような小話がある。

 

 私はどちらかといえば紅茶党だった。ずっとレモンティが好きだったが、レモンを入れないで飲んで初めて紅茶の香りの良いことに気がついた。そのあとイギリス式にミルクを入れるミルクティを飲むようになった。コーヒーの方がメインになったのはこの数年である。娘のどん姫にコーヒーメーカーをもらってからだ。

 

 それ以来コーヒーをブラックで飲む。口から鼻に抜けるコーヒーの香り、そして口中の苦みとわずかな酸味がとても気持ちを安らかにしてくれる。砂糖やミルクを入れるなんてもったいないと思う。これは私の本心なのかそれともコーヒー通の影響か。

 

 虫を見つけると叩き潰したり踏み潰したりしても平気だったが、歳とともに可哀想という気持ちが起きて、出来れば殺さないようにするようになった。芥川竜之介の『蜘蛛の糸』を読んで以来、虫を殺さないことが、自分の慈悲の心なのか、それとも虫を助けることで自分も救済されたいからなのか判らなくなってきて、またときどき殺すようになってしまった。

 

 自分の意志なのか、なにか功利的な理由なのか判らないことがちょっと面白くないことがある。

 

換算すると

 韓国の一日の新型コロナウイルス新規感染者が昨日ついに40万人を超えたらしい。人口比で換算すると、日本なら百万人を超えたということだ。韓国は日本よりはるかにPCR件数も多くて徹底している。だからそれだけ発見される数も多いということかもしれない。

 

 ところで野党の多くが、一昨年以来のコロナ禍について政府を批判するときに、PCR検査の徹底こそがコロナ対策に必要なことで、それが不充分だから感染者が減らないのだと主張していたように思う。特に共産党がそうだった。その主張の根拠に韓国流の新型コロナ対策によって感染者数が少ないという事実が使われることも多かったように記憶している。

 

 日本は相変わらずPCR検査が不十分なままなようだが、感染者数は韓国ほどにならずに、すでに頭打ちになっている。たぶん春になって気温も上がり湿度も上がってきたことが影響しているのだろう。どうやらPCR検査では新型コロナはおさまらないらしい(あたりまえといえばあたりまえだが)。

 

 ロシアがデフォルトの危機に直面しているらしい。さまざまな債権の利払いが、今日16日から次々にやってくるが、たぶん支払い不能だろうとみられている。利率のいいロシアの債権に世界は投資してきたが、突然の侵略戦争で経済制裁を受けてルーブルは暴落し、ロシアの保有するドルやユーロの半分以上が凍結されていて支払えない。ロシアは利払いをルーブルで支払うというが、投資家はルーブルでの支払いを認めるはずがないそうだ。そうなるとデフォルト、つまり国家の破産である。ルーブルは対外的に紙くずになる。お金というのは信用があって初めて通用するものであって、信用を失えばただの紙切れである。

 

 その影響は世界中に及ぶ。プロの投資家だけが被害を受けるなら高みの見物だが、もしかすると、いや、たぶん実際に日本の年金などもそこに投資されているだろう。世界中の国や銀行、企業が甚大な被害を受ける。

 

 他人事でいえば、つまり無責任にいえば、世界はこのロシアの侵略戦争で、被害を蒙るということである。世界はウクライナの痛みの一端を自分も引き受けざるを得ないのであって、対岸の火事ではないということだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(上)』河出書房新社

 味わいながら、つまり考えながら読んだ。こういう本を読むのも知的刺激を受けるから楽しい。21世紀に入り、人類は最大の懸案だった戦争、疫病、飢餓をようやく克服して、新しい未来への路を求め始めている、という見立てのもとに、人類の来し方行く末について考察している。この本の最後には宗教と科学というテーマで考えていて、大変参考になった。とはいえ私は書かれていることの何分の一程度しか理解が出来ていないし、読み取れてもいない。自分の非才にいまさらながら情けない思いがした。基礎知識が足りない上に、しっかりと考えるという、だいじなことを怠って生きてきた。いまさら気がついても遅いが・・・。

 

 しかし、現実のいま、世界はウクライナでの戦争に震撼し、その前に新型コロナウイルスによるパンデミックのさなかにいる。それらのことはこの本が書かれてからあとに起こった。著者の案に相違したと言うべきだが、人類全ての案に相違した事態であるから、著者のハラリ氏だけを責めるのは酷である。

 

 さまざまなテーマが絡み合いながら流れるように論じられていくのだが、それぞれを咀嚼して自分なりの考えを加えたいと思うものの、それだとどれほどの時間を要するか判らないので、つい読みとばしてしまった。こういう本は読了すれば読んだということになるわけではない。時間があればもう一度読むことになるだろう。その読み方についてアイデアがある。本当に「読む」ということを試してみたい気がしている。夢に終わりそうだけど。

2022年3月15日 (火)

ニラとパセリ

 昨秋に、大鉢のニラとパセリは小さなジャングルのようになった。いつもは外に出しっぱなしにして枯らしてしまうのだが、今年は真冬のあいだ、部屋の陽の当たる窓際に置いておいたから青々としたままである。ニラは枯れても根が残っていればまた芽を出す。パセリは枯れる前に花が咲くからその種を採っておいて翌年蒔けばまた芽が出る。昨年は花が咲きそうになったらその茎をどんどん切った。普通の葉と違う葉が出るからすぐ判る。そうするといつまでも葉が食べられた。

 

 見るからに根詰まりを起こしているようなので、明日は鉢から抜いて、根を切って根詰まりをなくそうと思う。補充用の腐葉土を買っておいた。ニラとパセリはずいぶん役に立った。今年もせいぜい水と肥料を欠かさないようにしてジャングルを維持しようと思う。

 

 今年、もう一度パクチーに挑戦してみようかなあ。おととしは大きくなりすぎてあまり上手くいかなかった。バジルは種を採ってあったはずだがもう要らないか。そういえば湯村温泉の夢千代館でもらった朝顔の種も蒔かなければ。まだ早いかな。四月末か五月頃で善いだろう。そうだ、今年は久しぶりに紫蘇を蒔いてみようか。種を買ってこよう。

考えたことと考えること

 昨晩のBSフジのプライムニュースは、浅田彰氏と先崎彰容氏がゲストで、その次々に繰り出されることばに、知性というのはこういうものなのだなあと感じた。この番組は、録画したものをよく1.5倍速にしてCMを飛ばしながら観ることにしている。早回しで聴き取りにくくなるから音量も二段ほどレベルを上げる。二人の話は中身が濃いしので、そのことばにこめられたものを考えているとどんどん展開してしまって聞き逃したことが多かったのは残念だった。早回しにしなければよかった。

 

 記憶に残ったのは「偽善」と「露悪」というキーワードをとりあげて世相を批判していたことで、これは浅田彰氏、先崎彰容氏がともに今は亡き西部邁氏のことばを回想した上のものだ。浅田彰氏はマスコミに出ないことを信条としていたのに、少し前、この番組で石原慎太郎が亡くなったときの回想シーンで西部邁氏との対話を見て、つい出演を引き受けてしまったのだという。世のなかが白か黒か、正義か悪か、百点か零点かで論じられていることを最も危惧批判していたのが西部邁氏だった。

 

 現代はますます知性が低下して、そのように極端化してものを語る。そのほうがわかりやすいけれど、それは知的振る舞いとはいえず感情に流されやすい。自分の感情に適合する情報だけを集めて、さまざまに情報を網羅したと錯覚するのは知的とはいえない。反対の情報も、たとえばいまならプーチンの言い分についてもきちんと考えて認識した上でウクライナ問題を考えなければならない。そのためには歴史も知らなくてはならないし、ものごとの両面を観る冷静さも必要だ。反省させられる。

 

 先崎彰容氏が51点と49点の状況に耐える知性というような言い方をしていたのが印象的だ。浅田彰氏は○か×は×だ、という面白い言い方をしていた。この二つの×は次元の違う×である。あとの×は一つ次元が高い。

 

 「考える」ということは、他人が考えたことを取り込むことではない。それは誰かが「考えたこと」であって、自分が考えたことではない。自分の頭でちゃんと考えること、そのことについて二人は再三にわたって教えてくれていた。この番組で二人が語ったことを文章で読み直してみたいなあ。それなら聞き漏らしがないし、判らないことは繰り返し読み返すことが出来るのに。

見える時間

 時間とはなにか、などと哲学的に考えるとむずかしくて判らない。時間をここに出して見ろ、といわれても出したり入れたりするような形のあるものではないから、見せるわけにはいかない。だけれども時計というものがある。時間そのものは見せられなくても、時間を区切られたものとして映し出す時計があるから、それで時間が判ったような気がする。

 

 しかし、時間はときに早かったり遅かったりする。それは観念的なもので、真実の時間は一定に流れていると思われている。しかし真実の時間が本当に一定に流れているなどと誰が判るのだろう。実は進んだり遅れたりしているけれど、見えるものが全部一緒に進んだり遅れたりしていれば、その乱れをだれが知るというのだ。

 

 若いころそんなことを考え出すときりがなかった。いまはそこまで突き詰めるのは面倒だ。 

 

 録画してあるドラマや映画の山が目の前にある。読みかけだったりこれから読もうと思ったりしている本の山が目の前にある。それぞれ観たり読んだりするために一定の時間が必要である。つまりそれらは私の持ち時間の山なのだ、などと考える。これらも見える時間そのものだ、などと思いながらため息をつく。時間の山を消化することが私の最も好きな娯楽のはずなのに、それに追いまくられているような気がしてしまうことがある。

 

 とはいえもっと持ち時間がふんだんにあったとしても、たぶんその時間の山は増え続けて私を追いかけることに変わりはないだろう。

2022年3月14日 (月)

気持ちと裏腹

 気持ちは前向きで、あれもしよう、これもしようと意欲的なのだが、このところ腰と膝の鈍痛で身動きが重い。昨春の追突事故の時にもらった貼り薬(余分にもらったので残っている)を貼ると、腰の方はかろうじて痛いことを忘れることが出来る程度に軽減する。膝は人にもらった塗り薬が案外効く。ただベタベタするのがかなわない。医者にかかるほどではないけれど、うっとうしい。

 

 たぶん原因は体重が重いことによる腰や膝への負担増だろうと思う。筋力が落ちてカバーし切れていないのだろう。先日の一時間半ほどの散歩が思ったより堪えた。おかしな汗のかきかたもしてなんとなく気怠いけれど、体温は平熱である。どこかに疾患があるようではない。運動不足の身体は思った以上に疲労したらしい。体重を減らすには酒を控えればいいことは経験済み。ちょっと我慢しようか。

 

 本日は午前中から青空となって空気が爽やかだ。風があまりないせいか、花粉もあまり感じない。スーパーが混まない朝のうちに買い出しをしたら、買い忘れがいくつかあった。もともとメモなしではうっかりすることが多かったから、あまり気にしないようにする。そのあと妻の病院に入院費の問い合わせをする。確認してから20日前後までに支払う約束になっている。いつもより高い。

 

 妻の財布と私の財布は峻別している。私の金の出入りはいいかげんであるが、妻の金は一円まできちんと記録をつけてある。妻の通帳からある程度まとめておろしてあってそこから病院に支払うが、足りないのでまたまとめておろしに行った。

 

 病院は午前中は混む。だからいつも午後に行くことにしている。昼食後、病院へ行ったら、今までになく混んでいた。それでもそれほど待たずに用事が済む。三回目のワクチン接種を二月に受けたということで、ワクチン接種証明の書類を預かる。もう一二ヶ月して新型コロナが多少おさまったら、娘のどん姫と面談に来るつもりだ。

 

 洗濯したり片付けをしたり、掃除をしたりしていたら録画したドラマを観たり本を読んだりする時間がなくなった。あれもしようこれもしようと思うのに、身体が重くてはかがいかない。春のせいかむやみに眠い。

 

 夜、弟から電話がある予定。

細菌学者と公使

 薄田泣菫の『茶話』から。

 宮嶋幹之助氏といえば、動物専攻の理学士で、かねて医学博士である。以前は琉球あたりの無人島で信天翁(あほうどり)と同棲したこともあったが、その後細菌学の研究に憂き身をやつして、とうと博士の学位を取るまでになった。
 宮嶋氏は最近政府に頼まれて、ブラジルへ研究に行くことになった。ブラジルといえば近頃日本人が続々出稼ぎに行く国で、善いものと悪いものとが、ごっちゃになって棲んでいるところである。
 船が横浜を発つ二三日前、宮崎市の玄関へ、ついぞ見知らぬ男が訪ねて来た。名刺には畑良太郎とあった。
「何か御用ですか」
 客を座敷に通すと、宮嶋氏は性急(せっかち)に訊いた。
「承りますと、先生はいよいよ今度の船でブラジルの方へお出かけだそうですが、まったくでございますか」
客は心配そうに訊いた。
「はあ、参るには参りますが」
「お出かけになりますか。それを聞いてやっと安心しました」
客は眼にも口にも耳にも鼻先にも嬉しそうな表情をした。
「実は私も今度ブラジル公使に任命されまして、あなたとご一緒の船で出かけることになっているんでございますが・・・」
「はあ、あなたがブラジル公使の畑さんで。初めてお目にかかります。知らないこととてつい失礼をいたしました」
宮嶋氏はカイツブリのように丁寧に頭を下げた。
「いえ、どうつかまつりまして、手前こそ失礼をいたしました」
畑氏も几帳面に頭を下げた。
 畑氏のいうのでは、今度の赴任には家族をまとめていかなければならぬ。それには航海中また上陸後誰一人病気に罹ってはならぬが、もしか万一のことがあったら、どうしたものだろうとある人に相談すると、それには善いことがある、ちょうど宮嶋博士が同じ船で出発するそうだから、博士に頼んでおいた方がよかろうということなので、こうしてわざわざお頼みに上がったというのだ。
「それなら駄目ですよ」
宮嶋氏は話を聞くと、びっくりしたように手をあげた。
「私は細菌学者ですから、病気の方はから素人なんです。どうか当てになさらないように」
「でも、医学博士でいらっしゃるんですから・・・」
畑氏は相手を信じ切ったような口ぶりだった。
「その医学博士が当てになりません。いまも言ったように細菌の方なんですから」
 細菌学者は泣き出しそうな声を出した。
「いや、細菌でもなんでもけっこうです。なにぶんよろしく」
 畑氏は幾たびかお辞儀をして帰って行った。
 あとに残った宮嶋氏は、手を組んで困り切った顔をした。そしてペンギン鳥やペリカン鳥が食べすぎて腹を痛めた場合の処方箋を考え出してみたりした。

 畑氏とその家族が病に罹らなければよいのだが。
 同時に、それを心配しすぎて人の好さそうな宮嶋氏が寝込むようなことにならなければよいが。

勘違いの罪の重さ

 数日前のニュースが気になった。札幌の焼き肉店で45歳の男が60代の店主に怪我をさせて傷害罪で逮捕されたという。蔓延防止法が施行されている最中のことで、午後9時には店を閉めなければならないのに、男が飲み続けているので繰り返し店主が注意し、それに腹をたてた男が暴力に及んだというものだ。

 

 よくある事件である。法に従わなければ店は注意を受け、処罰されると営業に差し支えるから、店主も必死だったであろう。男は「相手にからまれたからだ」と自分の行為を正当化しているらしい。

 

 このブログに何度も書いているからまたかと思われるかもしれないが、この男は自分は客であるのにその客が飲みたくて飲んでいるのを妨げるのは「言いがかり」で「からんできた」と主張しているのだ。お客様は神様である。その神様を不愉快にした店主が悪いと言っているのだ。

 

 客は金銭を支払う対価として物品の提供を受けたりサービスを受ける権利がある。しかし金を払えば何をしてもいいということはない。そんなことは子供でも判っているはずだが、「お客様は神様です」という三波春夫のことばが日本人のこころに深く根を下ろした結果、おかしなことになった。そもそも客と店は本質的に対等で、上下関係などないのである。店がへりくだって迎合するのは金銭を得るためである。物品やサービスの対価であって、金は恵んでもらうわけではない。

 

 ところが一部のバカが、神様は店よりえらいと勘違いする。だから「言いがかり」で「からまれた」と本気で主張するのである。自分の気に入らないことは理不尽なのである。もともとバカなのに、「お客様は神様です」ということばが勘違いを助長する。世の中をおかしくしていく。その神様の勘違いが日本という国を意外に深刻にむしばんでいるのではないかと気になったのである。

2022年3月13日 (日)

映画『シルバラード』

映画『シルバラード』1985年アメリカ。監督ローレンス・カスダン
 主演はケヴィン・クラインだがひげ面で区別がつきにくい。準主役がスコット・グレンで、脇役にケビン・コスナーやダニー・クローバーが出演していい味を出している。この映画は西部劇らしい西部劇で、西部劇ファンなら大喜びだろう。

 

 スコットグレンは好きな俳優で、ずいぶんたくさんの有名な映画に出演している。しかしあまり主役を張った映画を観ていない。見るからに真面目そうな風貌なのに、なぜか実は悪役だったりする。あの『バック・ドラフト』での役柄もそうだった。あまり記憶されていないかもしれないが『羊たちの沈黙』でクラリス・スターリングをレクター博士の下へやる上司ジョン・クロフォードをスコット・グレンが演じていた。トマス・ハリスのミステリーは大好きで、『レッド・ドラゴン』以来のハンニバル・レクターものは全て読んでいるし、映画も観ているので、このジョン・クロフォードにはちょっと思い入れがあり、しかもそれをスコット・グレンが演じていたのが嬉しかった。

 

 話が脱線したが、この『シルバラード』というのは西部の荒野の中にある街で、そこが舞台。物語はスコット・グレンが演じるエメットを軸に展開する。エメットに助けられたペイドン(ケヴィン・クライン)、エメットの弟のジェイク(ケビン・コスナー)、更に黒人のガンマンのマル(ダニー・クローバー)が仲間になり、強盗に金を奪われた幌馬車隊を助けたり、街を牛耳ろうとする無法な牧場主と戦うという西部劇定番の映画である。

 

 133分の映画なのにあっという間に終わった気がする。もっと観てみたい気にさせる痛快な映画で、特に印象的なのが酒場の雇われ女主人ステラ(ステラという名前にはちょっと心が動く。柳ジョージの『青い瞳のステラ』、いい歌で大好き。この映画と関係ないけど)役のリンダ・ハントだ。こびとに近い小柄で、美人でもないのにとてもチャーミングで、ずいぶんいろいろな映画に出ているから知っている人は知っているだろう。そういえば賭博師役でジェフ・ゴールドブラムが出ている。みな若い。

当たり外れ

 映画やドラマで好きなジャンルとまず観ないジャンルとがある。好きなのはミステリーとSF、邦画なら時代劇、それに準じてファンタジーや戦争映画もよく観る。まず観ないのは、恋愛もの、ホラーもの、そしてコメディである。恋愛映画にも記憶に残る名作傑作佳作がある。『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッシー主演版)、『ジョンとメリー』、『恋人たちの予感』『ローマの休日』などがたちまち浮かぶ。嫌いではないのだが、最近はその展開に共感しにくいものが多くてついて行けない。

 

 ホラーだってむかしはよく観た。『エクソシスト』や『オーメン』などはシリーズ全てを観ている。コメディは面白いと思ったことがない。日本のものはただふざけているとしか思えない(中国や韓国のものはそれに加えて汚らしい)し、西洋のものはそのギャグがたいてい理解できない。それよりも普通の映画のウイットのある会話のほうが楽しい。

 

 ミステリーは選んで観ればまず外れはない。許容範囲が広いということで、つまり好きなのだ。ただ同じように好きなつもりのSFものは、外れのことのほうが多いのが残念だ。低予算で雑に作られたものが多すぎる。

 

 そういえば西部劇も好きなジャンルだ。あまりひねりのない単純なものが多くて、たいてい最後に悪者が倒されるから観たあと気分がいい。きのう『シルバラード』という西部劇を観てその西部劇の楽しさを味わった。大当たりだった。

震災前後の回想

 朝、録画してあった昨晩の『六角精児の吞み鉄旅』を観た。三陸鉄道の旅である。免許を返上して運転が出来なくなったら鉄道やバスの旅をしたいと思っているが、その中でも一ばん行きたいところがこの三陸鉄道である。十数年前、リタイアする前に、ちょっと長い休みが取れたので、車で北東北を旅したことがある。三陸海岸を走り、久慈の民宿で泊まり、南下して宮古市田老の民宿で泊まった。

 

 その時の写真を探したがファイルにない。

 

 田老ではないが、兄貴分の人と宮古の魹ヶ崎(とどがさき)の近くの海辺の民宿に泊まったことがある。親友と兄貴分の人と三人で、牡鹿半島の先端、金華山が目の前に見える鮎川漁港の近くの民宿に泊まったこともある。宮古は震災の二年前、牡鹿半島は震災の前の年だった。

 

 それぞれに忘れられない思い出があるのだが、それらの民宿は津波で全て海に流されてしまった。震災の年とその翌年に思い出の民宿のあたりを走り回ったが、跡形もなくなっていた。そんなことを思い出しながら三陸鉄道の旅を眺めていた。

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田老の震災後の様子。国道45号線沿いのこのあたりは人家や店舗がたくさんあったが、全て失われていた。

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むかし(といっても昭和60年のことで、私もその津波のことは知っている)チリからの大津波で宮古一帯は甚大に被害を受けた。そこでここまでは必要ないだろうというほどの堤防が築かれた。田老のあたりが特に立派な堤防だった。その堤防がごらんのような有様で、東日本大震災では、この堤防をはるかに超える津波が襲った。

私が泊まった民宿はこの堤防をくぐった海側にあったから、ひとたまりもなかったはずで、痕跡すら見つけられなかった。

2022年3月12日 (土)

続・春の散歩

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村社だから格は高くないのだろうが、佇まいは好い。

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「疫病退散、一日も早い終息をお祈りします」。まったくです。

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おなじみの手洗い場の龍。なんだか卵から孵ったばかりのエイリアンに見えた。

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この神社には三対の狛犬がいる。狛犬なのか獅子なのか判らない。本殿前のものが一番迫力がある。口を開いた「阿」が雄で、閉じている「吽」が雌だと思う。これは「吽」、背中に子獅子を乗せている。この子獅子はちょっと凶相で、一人前に玉を咥えている。雄なのであろう。

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屋根の四方に飾りの瓦がおかれている。火除けの守りでもあるのだと思う。

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よく見ると彫り物も悪くない。こういうものが彫れる職人がいて、しかもそれほど稚拙でもない。

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こういう木組み(なんと呼ぶのか恥ずかしながら知らない)の構造は大昔からあるようだが、誰が発明したのだろう。

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扁額の上の暗がりをよく見たら・・・うーむ、連想させるなあ。

バチが当たりそうだから、これにて今回の散歩はおしまい。

春の散歩

重い尻をようやく上げて散歩に出た。向かうのは、先日三回目のワクチン接種を受けた病院の、近くで見かけた神社。息子や娘が通った中学校の先にある。この神社のことは、いままで知らなかった。

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途中の田んぼのふちにレンゲが咲いている。むかしは肥料代わりに種を蒔いて、春に鋤きこんだものだ。一面のレンゲ畑は美しいが、いまはあまり見かけない。

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梅が咲いている。匂いはするが風向きのせいか、かすかだった。

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桜の幹から小枝が伸びていて、ほんのかすかに色づきかけている。

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農業用水の側溝に蚊柱が立っていた。虫も春を喜んでいる。

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植物ついでに、これは神社で見つけた変わった形の木。もともと二本の木らしいが、どういう具合でこんな風になったのだろう。

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前後するが、目的地の熊野神社が見えてきた。村社だがなかなか立派な鳥居である。

次回は神社の建物など、目についたものを紹介する。近所の氏神様でも丁寧に見ると面白いものだ。

なにかを連想しないか

 宮城谷昌光の『三国志』の第三巻を読んでいる。第一巻、第二巻は後漢の朝廷が、外戚や宦官による弊害で衰微していく様子を詳細に記している。第三巻ではついに董卓、袁紹、曹操などが登場してくる。

 

 この中からちょっとだけ引用する。

 

 董卓は冷酷であるが冷静でもある。
 洛陽という大都に戦略的価値がないとみなせば、棄てるだけである。
 これでしばらく河内(かだい)と潁川(えいせん)から洛陽をうかがう者があらわれない、とおもった董卓は、まっさきに献帝を出発させて長安にむかわせた。長安は焚滅した都であり、残っているものといえば高祖廟と京兆尹(けいちょういん)の府舎だけであり、哀れなことに献帝はそこにはいることになり、あとで未央宮(びおうきゅう)に移る。董卓が強制的に移らせたのは、皇帝と官吏だけではない。洛陽に住む百万の民を、兵を使って追い出して西へ向かわせた。董卓の目には、民も羊にみえるのであろう。羊の群れを犬をつかって移動させる風景が董卓の脳裏にひろがっていたかもしれない。百万人の移動は、酸鼻そのものであった。旅装をするひまなくひきずりだされ、追いたてられたかれらは、沓(かさ)なり踏みつけあい、飢え、寇掠(こうりゃく)されて、続々と斃死し、路は屍体で盈(み)ちた。
 董卓は富家とみればのこらず捕らえ、罪を衣(き)せて、財産を没収した。そのため無実の罪で死んだ者はかぞえられない。
 ---人がいなければ、建物は必要ない。
 董卓は兵に指図をあたえて、洛陽城外百里を焼尽させた。また、董卓はみずから兵を率いて、無人となった宮城の南宮と北宮に火をかけ、城外の建物をことごとく焼きはらった。
「掃地殄尽(そうちてんじん)」
とは、まさにこのことであろう。
 かつて梁鴻(りょうこう)に歌われた、崔嵬(さいかい)たる宮室は、天にとどく炎のなかでくずれ落ちた。 更に董卓は累代の皇帝の陵へ呂布を遣り、その陵をあばかせ、公卿の冢墓(ちょうぼ)からも珍宝を盗ませた。
(後略)

 

 劉邦を高祖とする漢は、都を長安においた。王莽の簒奪(さんだつ)により一度滅びた漢は、光武帝により再興され、戦乱で灰燼に帰していた長安から、都は洛陽に移された。長安時代を前漢といい、洛陽が都だった時代を後漢という。献帝は後漢最後の皇帝で、後に曹操の起こした魏の国で生涯を全うした。

 

 この部分を読んでいて、なんとなく董卓がプーチンに、洛陽を追われる民がウクライナの国民に思えてしまったのだ。

2022年3月11日 (金)

震災の日、回想

 今日は東日本大震災のあった日である。その日のことを思い出していた。以下は震災翌日の私のブログから。

 

2011年3月12日 (土)
地震
 一昨日、昨日と東関東にいました。今朝、新幹線で脱出。先ほど帰宅できました。昨日は激しい揺れが長時間つづき、棚のものがたくさん落ちました。停電が回復したのは深夜2時頃、夜中余震が続きました。80過ぎの年寄りが、自分が生まれてから一番すごい地震だったと言っていました。東北だったらこんなものではなかったはずで、想像を絶します。東京駅は不通になったままの路線も多く、コンコースにひとがあふれて、人を押しのけながら進まないと動きがとれない状態でした。亡くなったかたのご冥福をお祈りしたいと思います。

 

以下は現在書いたもの。
 その時、九十九里浜に近い妻の実家にいた。二階で寝転がって本を読んでいたら、ゆらゆらと揺れだし、どんどん揺れが大きくなり、棚からバラバラとものが落ちてきた。立ち上がったけれど何かにつかまっていないと立っていられない。階段を降りることなどとても出来なかった。長かった。千葉県も銚子の南側の海岸で津波により十人以上が亡くなったはずだ。そのあと停電になり、暗い夜になった。80歳過ぎの年寄り、というのは義母であり、彼女は1923年生まれ、つまり関東大震災の年の生まれである。千葉県、特に九十九里側はけっこう震度5クラスの地震があるのだが、それとはレベルのちがう揺れだったということだ。

 

 いつもは車で千葉まで行くのに、このときは珍しく車で行かなかった。実はその前に鎌倉を一日散策したのだ。車だとかえって不便だと思ったからだ。震災の翌朝早くに名古屋へ帰ろうと思って、もよりの駅へ行ったらすでに不通になっていた。とにかく千葉までバスで行こうとしたがバス停に人があふれ、なかなか来ない。ようやく来たバスに乗りこんだ。いつもなら四五十分で千葉に着くのが、大渋滞で三時間近くかかった。千葉から東京へ向かうのに、ふだんは快速で行くのだが、全て不通。総武線の普通も不通だと案内されたが、たまたま出発する電車があった。それに乗り込み、かろうじて東京に到着、混乱を極める東京駅から新幹線で名古屋に帰り着くことが出来た。

 

 帰ってから東京周辺の電車はほぼ不通であったことを知り、帰ることができたのは運がよかったのだと知った。

 

 そしてこの数日後に、私はひとりで雲南省へ十日ほどの旅に出ている。

していないことはやめられない

 ロシアのラブロフ外相はトルコでの外相会談で、「ロシアはウクライナを攻撃するつもりはないし、攻撃もしていない」と述べた。

 

 交渉はロシアの攻撃をやめさせることが当面の目的だと思っていたが、そもそもロシアが「攻撃していない」という認識であれば、していないことをやめさせることはできない。あれだけの攻撃をしていても、ロシアは「まだ」本当の戦争を仕掛けたとは思っていないということだろうか。

 

 それともラブロフ外相は嘘つきなのだろうか、それとも狂人か。それならそのことばは信用が出来ないのだから交渉相手とすることが出来ない。そういう人物と日本は交渉してきたということで、いままでの日露交渉とは何だったのかと思う。

 

 専門家がラブロフ外相のことばを説明してくれていたが、虚しい説明にしか聞こえない。

電池切れ

電池切れにつき、充電のためちょっと休みます。

2022年3月10日 (木)

張り切って空回り

 陽気がいいのでベランダを開け放していたら眼がかゆくなり、次第にかゆいだけではなくて痛がゆくなってきた。つい眼をこすってしまったのだ。ぬるま湯で洗い、ベランダを締めて空気清浄機を最強にしたら次第におさまった。まだくしゃみは一度か二度。これからつらい時期がしばらく続くなあ。

 

 ちょっと遠出の散歩に行こうとしていたのだが、カレンダーを見たら今日は電気のメーターを新しいもの(スマートメーター)に交換するので、出来れば在宅していて欲しいと言われていたことを思い出した。昼過ぎに中部電力の人が来て、あまり時間もかからずに終了した。花粉の中を散歩する気をなくしてしまった。

 

 手持ち無沙汰なので古いカタログや取り扱い説明書、保証書などがあちこちに分散してしまい込んであるので、全部引っ張り出して不要なものを処分して、整理した。すでに処分した機器の説明書などがけっこうあって、半分近くに減らすことが出来た。そうなると勢いがついてきて、あちこちの引き出しをいじりだしたら収拾がつかなくなった。いま私の横には古い手帳やメモ帳などが山のように積み上げられている。ときどき日記風に書きこんであったり、読書メモがあちこちに書かれていて、それをデジタルファイルにしようかと思う。古い手帳は中身を移さないとなかなか捨てにくいものだ。

 

 テレビの音が聞き取りにくくなっていて、ただ音を大きくすればいいというわけでもない。ヘッドフォンで聴くと案外クリアに聞こえる。大きな音で長時間ヘッドフォンを聴き続けると耳によくないという。少し高価なワイヤレスのサラウンドヘッドフォンを持っているのだが、調子が悪いのでしばらく使わないでいたら、本格的にアウトになっていた。いろいろ試行錯誤したがご臨終を確認することになった。

 

 コード式の安いヘッドフォンを買おうかと思う。いまはずいぶん安くなっているし、それほど高音質にこだわっても、いまは耳がポンコツだから二千円前後のものでいいだろう。

 

 なんだかあれこれ引っかき回して散らかり放題。空回りして結局なにも片づかない。あちこち見ると、必要のないものが山のようにある。気になって落ち着かない。

梨木香歩『家守綺譚』(新潮社)

 明治時代の話。学士綿貫征四郎が、友人高堂の実家の家守として独りで暮らす日常は、不思議なことが多いが、綿貫はそれを不思議とは思いながらもそういうこともあるか、と受け入れていく。友人の高堂は湖へボートを漕ぎ出し、行方不明のままで、すでに故人と思われる。その高堂がときどき訪ねてくるが、それも受け入れる。高堂の両親は嫁いだ娘の近くで隠居するために、綿貫にこの家の家守を託したのだ。雑文を書いて食いつないでいる綿貫は、ありがたくその依頼を引き受けた。

 

 山からの疎水を庭に引き入れているこの家にはさまざまな植物がある。高堂が行方不明になった湖も遠くではなく、山を越えれば往くことが出来る。四季折々の植物が狂言回しのように擬人化されていく。私は植物の名前と実物がよくわかっていないが、それでも楽しめるのだから、植物の好きなひとにはさらに楽しめる話かも知れない。

 

 この本は再読だが、一度目と同じように面白かった。ただ、私の記憶している話がないので、どうしたのかと思ったら、この続編があったのだ。『冬虫夏草』というその本も本棚にある。私が覚えていた河童やイワナの話はこちらに書かれているはずだ。そういうわけで、行きがかり上気持ちが治まらないから、『冬虫夏草』も読まねばなるまい。

思ったより美本

 ドイツロマン派のホフマン(1776-1822)の『悪魔の美酒』という本を古書店に依頼したら、昨晩配達されてきた。古書の配本としてはいつになく早い。これは河出書房(一度倒産していまは河出書房新社)のグリーン版世界文学全集、第三集第十巻で、昭和40年の初版である。初版というよりそれほど売れなかったから再販はされなかったであろうと思う。私が高校生のときに図書館で借りて読んだのはこの本である。なんと五十数年前のことだ。

 

 思ったより美本で、しおりの紐は動かされた形跡がないから、全集で揃えたけれど読まずにそのまま古本屋に売り払ったものだろう。私が中学生、高校生のときに興奮して夢中で読んだ本といえば、柴田錬三郎の『孤剣は折れず』、M.ミッチェルの『風と共に去りぬ』、開高健『パニック』、『日本三文オペラ』、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』、そしてこのホフマンの『悪魔の美酒』を嚆矢とする。そしてこの本以外は蔵書があって二度三度と読んでいる。ようやく手に入れていまは感激しているところ。

 

 内容は覚えているようなほとんどが忘れているような、というところで、とにかく奇妙で不思議な長編奇譚である。いつものようにいま読みかけの本が何冊かあって、それに加えるか、一段落させて集中して読むか迷っている。読みかけは梨木香歩の『家守奇譚』(もうすぐ読み終わる)、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(上巻の半分まで読んだ)、宮城谷昌光『三国志』(全十二巻の第三巻を半分まで読んだ)、小川洋子編の『小川洋子の陶酔短編箱』、薄田泣菫『茶話』(上中下の下巻を読んでいる)など。他にも待機中の本があるのだけれど・・・。

 

 映画やドラマやドキュメントも観なければならないし、韓国の大統領選の結果とそのあとの韓国がどうなるかも知りたいし、忙しいのである。しあわせ!

2022年3月 9日 (水)

映画覚え書き

 ここ二三日で観た映画。

 

『Diner』2019年日本。監督・蜷川実花、原作・平山夢明。
とにかく出演陣がすごい。藤原竜也、玉木ティナ、窪田正孝、本郷奏多、斎藤工、武田真治、奥田瑛二、佐藤江梨子、金子ノブアキ、真矢ミキ、小栗旬、土屋アンナ、真琴つばさ、木村佳乃・・・まだまだよく知っている俳優がたくさん出ていて、みな楽しんで怪演している。おまけにすでに死んでいる蜷川幸雄まで出演しているのだ。こういう映画は本当はあまり好きではないのだが、毒気に当てられて却って面白く観せられてしまった。

 

『ソリタリーカプセル471』2020年イギリス。
低予算カルトSF映画。近未来、地球は荒廃し始めていて、刑務所が満杯なので、試験的に宇宙にカプセル式の独房が作られる。ところが母船が爆発してしまい、カプセルが宇宙に漂うことになってしまい・・・。シチュエーションドラマなのだが、今ひとつサスペンスに欠ける。ラストは観ているこちらも放り出されてしまう。

 

『ウィリーズ・ワンダーランド』2021年アメリカ。
主演のニコラス・ケイジはついに最後まで台詞がない。無口な男という設定だが、徹底している。それにしてもニコラス・ケイジという俳優はどんな映画でもお構いなしに出演する。いわゆるスプラッター映画なのだが、あまり怖くはない。ただひたすら掃除をして、一定時間ごとに必ず缶ビールを飲む主人公を観ていたら、こちらもビールが欲しくなった。『Diner』同様変な映画だった。

 美男に生まれなかったけれど、美男でないことに残念な思いはあまりない。そして美人であることと魅力的であることはちがうと思っている。

 

 それよりもいい声に憧れる。自分がいい声ではないことは残念に思っている。アナウンサーであれば、広瀬修子さんや渡邊あゆみさん(この人、久能木あゆみさんだったり、黒田あゆみさんだったりした)の声がいい声だなあと思う。公明党の山口代表なんかもいい声だ。歌手でいえば柳ジョージのような声に憧れる。いい声というのではないけれど、好きな声だ。美人は三日見ていれば飽きる、などというけれど、いい声の女性なら一生好きでいられる気がする。

 

 語り口のいい人も好い。渥美清のナレーションの語り口なんかいいなあ。むかし草野大悟という俳優がいて、この人の語り口も好きだった。最近では、大地康雄のナレーションがとてもよかった。

 

 声がよかったり、語り口のいい人はいい意味でずるいなあ、と思う。

こんな風です

 梨木香歩の『家守奇譚』の話を書いたが、読んだことがなければ具体的にどんな風なのか判らないと思うので、ほんの一節を紹介しておく。『葛』という話の冒頭である。

 

 黒い小さな虫が腕の辺りを歩いていて肘の近くで止まった。そのままそこに馴染んだ、と思ったらほくろになってしまった。こすってもとれない。しかしさっきまでは確かに虫だった。私の肘の小さなほくろなど、誰も気づきはしまいが不思議なことである。些細なことであるから、まあいいだろうと鷹揚に構えていたが、どれくらいの不思議まで人はそういって許せるものなのか、ふと気になった。
 が、まあ、いいだろう。目に映ることを記録しておくまでだ。

 

 不思議なことを不思議だと感じながら、まあいいだろう、という主人公はさまざまに不思議な出来事を受け入れていく。それを読みながら、読んでいるこちらもそれに倣ってその不思議な世界を受け入れていくことになる。いいなあ。

2022年3月 8日 (火)

デジャヴ

 プーチンが、ウクライナが核兵器を開発しているから攻撃しているのだと、ロシアの侵略行為を正当化している。

 

 善悪はともかく、イラクを攻撃して制圧したアメリカの、大量破壊兵器がある、とした大義名分とその行動にそっくりで、既視感を覚えるではないか。

アメリカはドミノ理論をもとに、ベトナムで北爆という無差別爆撃を続けた。NATO拡大を食い止めるというプーチンの思考と通じるものがありはしないか。

 

 正義とは何だろうか。そんなものは建前だけなのだろうか。何でもありの世界がまたやってきたのだろうか。

幻想

 いつものように気が散漫なときは何冊か並行して本を読む。すぐ飽きるからである。そうして読み始めたのが、梨木香歩の『家守奇譚』(新潮社)という本で、この本は一度読んでいる。梨木香歩という作家に出会ったのがこの本で、それ以来十冊あまりの本を読んだ。いわゆるヒロイックファンタジー的なものから、この本のような幻想小説(といっていいのかどうかちょっと迷うところもある)まで、幅があるし、エッセーも巧みで、もし読んだことがないならこの作家の本を是非読んでみて欲しい。ただし歯ごたえのある長いものもあるので、最初はよく選んだ方がよいだろう。

 

 この『家守奇譚』は一話数ページずつの小話の連続で構成されていて、それぞれに植物の名前が表題につけられている。もちろんずっとつながっていて、全体として物語が流れていく。あり得ないような、幻覚のような出来事が語られるけれど、それをそんなことはあり得ない、などと否定していてはそもそも話は始まらない。おとぎ話を読むのに、犬がしゃべるわけはない、鬼などこの世にいない、などと言っているようなものだ。

 

 幻想と幻覚はちがう。先日幻覚についてこのブログに書いた。幻覚を現実と認識してしまうのは精神の病である。幻想とは幻覚の話を受け入れながら、現実に戻ることの出来る状態で楽しむことであろうか。人間とは奇妙なものを愉しむものなのだ。

 

 私が泉鏡花を楽しむのもそういう楽しみであるが、過去そういう幻想小説でベストだと思うのはホフマンの『悪魔の美酒』という小説で、急に読みたくなって、昭和三十年代か四十年代に出版されたグリーン版の全集の中のホフマンがあったはずだと古書を探したが、どこも売り切れになって見つけられなかった。私は高校のときに学校の図書館で読んだものだから蔵書はない。

 

 ないとなるとますます欲しくなるが、古書は希求すると出逢えるという。出逢えるといいなあ。

 この下書きを書いたあと、古書組合から上記の本が見つかったと連絡があった。さっそく手配した。

逆行

 NHKの人類史についてのドキュメントで、旧人と呼ばれるネアンデルタール人と、現生人類の直接の祖先とされるクロマニヨン人との違いを教えられた。ネアンデルタール人は身体能力が高く、クロマニヨン人よりもすぐれていたが、結果的にネアンデルタール人は滅びてしまった。従来、身体能力は高いが知性の点で劣るから滅びたと推察されていたが、その後の考古学的な調査で、ネアンデルタール人が知的に劣っていたとは必ずしもいえないことが判ってきた。

 

 その違いは、集団協調能力の違いだったという。

 

 イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリも人類史を考察した『サピエンス全史』や人類の目指す未来を考察した『ホモ・デウス』でその点を協調している。そもそも人類がいま地球上を絶対的に支配できているのは、その集団協調能力の故であると断じている。

 

 21世紀、人類は最大の問題である戦争、飢餓、疾病をその集団協調能力をもって克服しつつあるように見えた。大きな戦争は起こりそうもなく、飢餓は残っていても餓死は平常時に起きることはなくなり、パンデミックも対処可能であるかのように見えた。そして人類は次のテーマとして、不死や全知全能を目指す、というのが『ホモ・デウス』という本のテーマである。デウスとは神のことである。

 

 ところが新型コロナウイルスによるパンデミックが起こって世界は震撼した。そしてロシアのウクライナへの侵略戦争である。

 

 人類の繁栄が集団協調能力によるものなら、これらはそれを否定する行動だと見ることが出来る。新型コロナについては、中国はその原因の調査を拒むことで協力を否定した。ロシアと中国という、専制独裁国家が、人類の未来に逆行する行動をとっていると見ることが出来る。

 

 人類の未来を損なうという意味で、両国の罪は重いと言わざるをえない。人類が存続するのなら両国は衰退または滅亡に向かうし、そうでなければ人類全体が衰退するということだ。いまそういう瀬戸際にいるのだと思う。

2022年3月 7日 (月)

 深く部屋に差し込んでいた日の光が、だんだんベランダの方へ短くなっていく。夏は部屋には直接日が射さないようになっている。昼間はベランダの窓を開けておいても寒くない。いよいよ今週後半には本格的に暖かくなりそうだ。

 

 眼下に見える幼稚園の建て替え工事も少し前に終わって、飯場も撤去された。先週には新しい園児たちの歓声が聞こえた。入園が決まって、体験入園をしているらしい。今年からまたにぎやかな声が聞こえることになる。子供が元気なのはいいことだ。

 

 春眠暁を覚えず、というけれど、よく眠れる。つい朝寝をしてしまう。おかげで低調だった心身がともに少しずつ回復し、掃除や洗濯が気持ちよく出来るようになった。億劫だったことが、何の苦もなく出来るのは自分ながら嬉しい。わずかに鬱状態だったのかも知れない。

 

 ガソリンは高いけれど、ちょっと明日にでもドライブに行こうか、などと考えている。朝起きたときの調子で決めよう。ただ、読書や映画鑑賞がはかどらない。気が散りだして集中しにくくなっている。こういうときは無駄な時間の過ごし方をすると落ち着く。久しぶりにキャンペーンタイプの大戦略ゲームをいちからやり始めた。何百回とやりこんだゲームなのに、まだ試していないルートがある。またはわざと難易度を無視した進行をしたりして楽しんでいる。

 

 何をしても誰にも迷惑がかかるわけではないということに、なんだか新鮮な感慨を覚えている。わたしはしあわせなのだろう。

お隣さん

 韓国の先週一週間の新型コロナ新規感染者数は世界一だったという。人口あたりではなく、絶対数で一番多かったらしいから、日本の半分以下の人口の国である韓国としてはすさまじい。一日二十万人のこのペースだと、すでに感染した人を計算に入れれば半年あまりでほとんどの国民が感染することになる。対策の必要がなくなって、却ってそのあとの回復が早いかも知れない。せいぜいお隣の北朝鮮にもお裾分けをされたらよかろう。案外日本も韓国並みに検査をしたら、似たようなものなのかも知れない。

 

 明後日、九日は韓国大統領選挙の投開票日である。期日前投票も順調なようだ。さすがにベラルーシのような不正選挙はなさそうだから、接戦の続いた状況からどちらが勝つか予測しがたい。とはいえ、案外結果は一方的になるような予感がする。

 

 選挙が済むといつものように断罪が始まることだろうが、今回は前大統領の断罪より先に負けた相手候補に対する断罪がまず行われるだろう。これだけ選挙中に相手の非をならしていたのだもの、勝てば相手を牢屋に送り込むのは自然な成り行きではないか。

 

 それでも毎回ちゃんと立候補する人がいて、国民も、特に若者が政治に対して関心が高いのは日本から見たら不思議なほどである。それだけ政治に期待するところがあるのだろう。では日本は政治に期待していないのか。たしかに期待していないように見えるが、政治に熱くなる必要がないほど、特に不満を感じない程度にうまくいっている、という見立ても出来るわけでどちらなのかよくわからない。

 

 韓国は問題点ばかりがあげつらわれて日本で報道されるけれど、実際には経済はいま日本よりずっと繁栄しているといっていい。ただその繁栄は多少足元の弱さを持った一時的なものかも知れない。そのように報道されてそう感じているのか、実際にそうなのか、そう思いたいだけなのか自分ではわからない。

ピーラーってこんなに便利

 ピーラーというのは知っていたけれど、持っていなかったので使ったことがなかった。ニンジンも大根も、面倒なときはよく洗って皮付きで料理に使っていた。スーパーの雑貨コーナーでみたら、思ったより安いので購入した。使ってみたらすいすい皮がむける。最近手元があやしくなっているからこれは便利だ。

 

 ポテトサラダをときどきつくる。ジャガイモを潰すのにすりこぎで潰していたが、マッシャーというものがあって、今度はそれを買って使ってみようと思う。料理番組を観ているといろいろ欲しいものがでてくる。それほど高くないものなら揃えてみたい。それほど使わないんだけれどね。

 

 妹と電話で話した。義弟は昨年暮れに倒れて、しばらく意識不明だった。手術を二度して意識は回復したが、予後が悪くて病状は一進一退である。入院している病院でコロナの感染があり、リハビリもままならない状態らしい。担当の看護師があまり親切ではないらしく、症状が判然としないのに苛立っているようだった。もちろんそういう状態だから面会にもしばらく行けていないそうだ。慰めようがない。

2022年3月 6日 (日)

我慢

 わかりきっていることをわざわざ書く。

 

 制裁は相手だけ傷つくものならいいけれど、たいていこちらも傷つく。なるべく相手のほうが大きく傷つくものが選ばれて、ロシアに対する制裁が行われているのだと思いたい。

 

 世界のエネルギーが逼迫し、高騰している。食料その他が大きく値上がりしている。ロシアのウクライナへの侵略戦争開始以前からのことだったが、戦争が始まって制裁が実行されたから、それがエスカレートした。

 

 値上がりは誰にとってもありがたいことではないが、ここで政府を非難しても始まらない。政府が値上げさせているわけではないからだ。世界中のひとびとがこの事態に困難を生じているだろう。戦争というものの現実はこういうものなのだとあらためて実感している。

 

 ウクライナの人々は命がけで頑張っている。ロシアの国民も次第に深刻な困難に陥っていくことだろう。制裁とはそういう事態をもたらすことが目的だからだ。それに較べれば、いまは我慢するしかないし、我慢するのがそのままウクライナ支援だと考えることにしている。

 

 ロシアが戦争を仕掛けたことで大きな損失を蒙れば、それはそのまま中国に対する抑止力につながる。そのためにも我慢が必要だろうと思う。

反対の反対の反対

 共産党の田村智子議員が、自衛隊の装備品であるヘルメットや防弾チョッキをウクライナに提供することに反対したが、世論からバッシングを浴びてそれは個人的見解だと訂正した。ところが更に党内の意見をお伺いして、自衛隊の装備品は武器供与にあたるからやはり反対だと発言を訂正した。

 

 朝のNHKの日曜討論会でも、共産党の井上参院幹事長は明確に自衛隊の装備品の提供は、ヘルメットや防弾チョッキであっても、武器供与にあたるから反対であると明言していた。共産党はそれで統一見解としたらしい。さすがに立憲民主党の森ゆう子議員は、ヘルメットや防弾チョッキは身を守るものであって殺傷能力はないからギリギリセーフだと明言した。公明党の議員の歯切れはそれよりも悪い。本音は反対したそうに見えた。

 

 ものごとは自分の問題にして考えるとわかりやすくなることがある。日本が他国から攻撃されているときに、支援国がヘルメットや防弾チョッキを提供してくれることに共産党は反対するのだろうか。抵抗のための武器でも文句なしに受け取るのが普通だと思うが、そうではないらしい。そもそも彼らにとってロシアや中国や北朝鮮が日本を攻撃することなどあり得ないことになっているのだろう。もしそういう事態が生じたら、ロシアや中国や北朝鮮が悪いのではなく、自民党政権が悪いと言うだろう。

 

 普通の国であるドイツやスエーデンは、いままで他国への武器供与を認めてこなかったけれど、今回は即座に武器を供与することを決めた。国民はそれに反対などしていない。理非が明らかだと、まともに考えるからだ。

ムツゴロウと知事

 久しぶりに薄田泣菫の『茶話』から、大正8年8月1日のコラムより。

 

 千葉県知事折原己一郎氏が、以前福岡県知事を勤めていた頃、ある宴会で目もとの可愛らしい芸者が脇目も振らず、じっと自分の顔に見とれているのに気がついた。
 知事は悪い気持ちもしなかった。
「やっぱり俺に気がつくんだな。こうして大勢顔ぶれはそろっていても、どこか人品が際立ってすぐれているところがあるんだよ。でも、あんな若い身体で、そこへ気がつくなんて、憎いほど目端の利く女だな」
 知事は腹の底から満足に思った。で、せいぜいその好意に報いるつもりで、羊のような柔らかな眼をして妓を見かえした。
 すると、妓女は急に厭な顔をした。そしてつと起ち上がりざま、
「ほんまによく似てござらっしゃるわ、ムツゴロウに」
と、小さな声で言い残していった。
 その声が知事の耳に入った。知事は不思議そうに眉をしかめた。
「ムツ五郎に似てると言ったな。一体ムツ五郎とは誰のことだろう」
 知事はいろいろと名高い美男子の名前を頭に思い浮かべながら盃をふくんだが、自分の知った限りの男には、そんな名前はなかった。
 あくる日知事は県庁へ出ると、官房主事を喚んで訊いた。
「君はムツ五郎という男を知ってるかね」
「ムツ五郎ですか」主事は空っぽの頭を仔細らしく傾げた。「それは三津五郎の訛りでしょう、三津五郎ならいますよ。踊りの達者な俳優(やくしゃ)でしてね」
「うむ、有るかい、三津五郎というのが。俳優だってね、そうだろう、それに違いない」と知事はたまらなく嬉しそうに顔中を皺くちゃにした。「実はある芸者が俺をその三津五郎に似てると言ったよ」
「へえ、三津五郎に」主事は不思議そうな顔をしたが、自分で三津五郎を知らぬ身には、どう返事していいか判らなかった。
 折原知事と官房主事とに、こっそり内証で耳打ちをする。芸者の言った「ムツゴロウ」とは、肥前の有明の海にしか棲まない、鯊(はぜ)に似た小魚で、知事と同じように色黒で出目である。三津五郎のように踊りは達者だが、役者ではない。

 

 蛇足ながら、こういうのを「しょってる」という。

2022年3月 5日 (土)

幻覚とバーチャルリアリティ

 そこにあるはずのないものが見えたり聞こえたりするのを幻視とか幻聴という。それらの幻覚が現に見えたり聞こえたりしているのであるから、それが事実だと思うか、そんなはずはないから自分がおかしいのではないかと思うかで全くちがう。現に見えたり聞こえたりしているのだから事実なのだと確信してしまえば、もう精神科のお世話になるしかないことになる。その場合は物理的な現実を認識が超越してしまうのである。死んだ人の姿が見えたり声が聞こえたり、そこにいない、はるかに離れたところにいるはずの人の声が聞こえたりする。

 

 それが常識だった。自分が正常かどうかを判断する基準でもあった。そこにいない人の声は聞こえないはずで、それが聞こえるからそこにいるに違いない、と現実をゆがめて認識してしまうのはおかしいのである。

 

 ところが現代はそこにいないはるかに離れたところの人の姿を見ることも、声を聞くことも簡単にできる。テクノロジーによって、そもそも存在しないものまでリアルに見ることが出来る時代なのである。

 

 現実と幻覚のあいだを往き来できる現代は、そういう意味で強靱な精神を必要とする時代かも知れない。精神が弱いと往ったきりになりかねない。精神医学はそのへんの物差しを確立する必要がある気がする。

 

 バーチャルリアリズムがとことん進歩したとき、人は現実を見失い、バーチャルの世界から帰還できなくなるかも知れない。

原因と責任

 しばしば今回のロシアによるウクライナ侵略には、ロシアだけではなく、ウクライナのロシアに対する対応のまずさもあったと指摘する人がいる。戦争に至る原因にはいろいろな要因があって、その指摘が間違っているとは私も思わない。単純に、侵略したのはロシアだからロシアだけが悪いと言って済ますのは、戦争の収め方に対して有害であるかも知れない。ロシアに戦争をやめさせるにはロシアの言い分も聞く必要があるというのは正論である。

 

 テレビやネットの情報だけからの判断だから、私の認識には偏りがあるかも知れない。そもそも偏りのない認識などというのはないともいえるけれど、それでも過去の歴史を多少は囓った上で、情報にはどれだけのバイアスがかかるのか知らないわけではない。その上で今回のロシアのウクライナ侵略を見れば、九割方ロシアに非があることは明らかに思える。

 

 ウクライナにも問題があった、とあえて逆張りをして話題受けを狙う鳩山某やそのたぐいの連中の論には、ウクライナにあった不手際と、ロシアの理不尽な暴挙をあたかも釣り合った天秤のように語っているように見えて、私には不快である。その意図がなくてもロシアの擁護にしか聞こえない。

 

 そのくらいのことは、多くのまともな人にはわかっているからウクライナを支援し、ロシアを非難しているのである。それが証拠に、中立を国是としてきたスイス、フィンランド、スウェーデンですらウクライナ支援に動いている。近年ロシアに依存度を高めていたトルコでさえ今回はロシアに与(くみ)しない姿勢を示している。インドの場合は、当面の敵の中国の脅威を考慮してのあいまいな態度だと理解できる。だからロシアに与しようとしているわけでもなくロシア支援もしないだろうし、クアッドにはそのまま参加するのはとうぜんだろう。

 

 恥ずかしいのは北方領土問題があるからロシアに融和的な態度をとったほうが好いのではないか、などという論者や、サハリン1やサハリン2に対する投資の引き上げを逡巡している政財界の態度だ。ことここに至っては、一度ご破算にするしかないのは明らかで、逡巡するのは道義より利益だと表明することに他ならない。それで中国や韓国がどさくさ紛れに利益を上げたらあげたでよいではないか。そのような国はともに語る資格はないし、将来もない。損をするときは損をすることも必要で、その判断を遅らせるとそれ以上の損失を生むのを散々経験してきたのではなかったか。みなじっくりと「検討(by岸田首相)」しているのだろう。

 

 みずからはあまり損をしないようにして、ヨーロッパや日本に負担を押しつけるようなバイデンの態度は、アメリカを無能力な国だと知らしめ、ますます衰退させることになるだろう。彼は耄碌してそのことに気がついていないし、うしろでただ無気力無意味に拍手している副大統領のアホ面を見ていると、アメリカも堕ちたものだと思う。この副大統領が国の内外でなにか役割を演じたのを全く見聞きしないのはどうしたことか。おそろしいことにバイデンが倒れたらこの人が大統領である。出番を待っている中国は、それを見てわくわくしているだろう。

面白かった映画

 この一週間、ドラマや映画を観まくっていたが、好きな中国もの、たとえばディー判事ものなどにいささか食傷した。それをべつにして、ちょっと男っぽい映画で見応えがあったものを題名だけあげておく。

 

『ファイナル・プラン』2020年アメリカ。リーアム・ニーソン主演。痛快でラストもきちんとしている。

 

『L.A.ギャング・ストーリー』2013年アメリカ。警察官のジョシュ・ブローリン、ライアン・ゴズリングたちが法律など無視したギャング狩りを行う。1949年のL.A.が舞台。敵役がショーン・ペン。むちゃくちゃなのに出来が素晴らしい。

 

『レイン・イン・ブラッド』2020年アメリカ。男臭さ満載の悪漢映画。こういう映画、好きだなあ。男の矜持とは何かを感じさせてくれる。

 

『リトル・シングズ』2021年アメリカ。デンゼル・ワシントン主演。くたびれ果てた地方の警官が実は凄腕で連続殺人犯を追う。複雑に伏線が張られていて、なにが本当だか最後にはわからなくなっていく。

 

『21ブリッジ』2019年アメリカ・中国。警官を殺した凶悪犯を追い詰めるためにマンハッタンを封鎖する。主人公の刑事(チャドウィック・ボーズマン)が事件の背後に疑念を抱き始めて・・・。なかなか緊張感があって面白かった。

 

 ハードボイルドタッチの映画が好きならどれも楽しめると思う。

2022年3月 4日 (金)

鞄フェチ

 韓国は一院制で、四年に一回国政選挙があり、前回は2020年だったので、次は2024年である。先日、大統領選挙と一緒に国政選挙があるなどと間違ったことを書いてしまった。今回は大統領選挙のみである。お詫びして訂正します。今回は一本化により、野党候補の勝利の可能性が高くなったが、議会は現与党が大きく優勢だから、政権運営はやりにくいだろうと思う。

 

本題
 私は鞄フェチであることを今日実感した。押し入れや物入れの中の鞄類を引っ張り出してみて初めてわかった。現役中に買ったりもらったりした手提げのビジネスバッグは十いくつあった。人にあげたり処分したりしていまは三つだけ残してある。一つは部長に昇進したときにお祝いにもらった革製の高価なもので、これだけはたまに使う。クラッチバッグは二つだけ。用途をわけて必要なものが入れてある。妻の用事用のものと私の用事用のものである。

 

 旅行用の手提げ鞄やダッフルバッグは七つある。さらにカメラバッグがリュック型も含めて六つほど。一番多いのがナップザックも含めたリュック型のバッグである。なんと大小合わせて十を超えている。半月以上列車旅行をしても大丈夫な大型のものもあり、むかしは十日以上の海外旅行はこれとカメラバックだけで出かけた。だから荷物を預けたりしないで済んでのだが、困るのは機内持ち込みの手荷物だと必需品の万能のアーミーナイフが入れられないことだ。だからいまはスーツケースで行く。

 

 少し高額のお祝いをしたお返しに、自分で選べるギフトから革製の見た目のよい中型のリュックを選んで、いまはそれを愛用しているのだが、なんとなく使いにくい。肩ベルトが滑りやすいのとバランスもなんとなく悪い。私は大柄なわりになで肩なのだ。ずれないように左右のベルトをマジックベルトで止めているが面倒だ。それより少し大きい使いやすそうなリュックがあった。これからはそれを使うことにしよう。もちろん山登りはしないから、本格的なリュックは持っていない。

 

 しまい込んでいると、ないのと同じことになる。せいぜい使わなければ可哀想だ。それにしてもいつの間にこんなにたくさん買い込んだのだろう。

今日はミシンの日らしい

 今日はミシンの日らしい。ミシンといえば我が家には足踏みのミシンがあって、母が愛用していた。母は縫い物も編み物も大好きで、和裁も洋裁も人に頼まれるほど上手だった。子供が大きくなってからは呉服店からの仕事を引き受けて小遣い稼ぎをして、その金で友だちと旅行に行くのを楽しみにしていた。

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 私の服は下着以外はほとんど母の手作りだった。コールテンのズボンやジャンパーも母が縫った。ミシンを縫う母の写真がないか探したが、あったのはこんな写真一枚だった。母は裁縫や縫い物をしているときが一番しあわせそうだった。その代わり料理はそれほど好きではなさそうだった。

 

 そんな母が、私が高校生くらいのときに一念発起して料理の勉強を始めた。私が「お母さんの料理より給食の方がずっと美味しい」と言ったことがあって、「それにとても傷ついた」のだとあとで言われた。すまないことであったが、おかげでそれ以来料理の腕がめきめき上がり、美味しいものを食べられるようになった。父の給料もわずかずつ上がり始め、世の中もようやく豊かになってきた時代だった。

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母のそばで日向ぼっこしながらしあわせそうに眠る愛猫。

人道的支援

 日本はウクライナに人道的支援として一億ドルを拠出する。少ないのではないかと思うが、たくさん出せば好いというものでもない。簡単に言えば国民ひとりあたり一ドルずつということになるけれど、私の気持ちとしてはもう少し出して欲しいところだ。戦争は大地震のような災害とはいえないが、ウクライナ国民にとってはロシアの今回の侵略行動は人為的な大災害だと思う。それなら災害に対する支援という気持ちで支援したら良い。

 

 他国には他国の事情があって、金額の多寡を較べても意味がないが、韓国は一千万ドルだったという記事を読んだのでこんなブログを書いた。韓国の考えるウクライナ問題がこの支援金程度の受け取り方である、などとつい考えてしまう。いままでの対応を含めて見ていると、たぶん自分の問題として考える能力に欠けているのだろうと思ってしまう。選挙で忙しいからだろう。日ごろ夜郎自大の言動が多いのだから、こういうときくらい見栄を張っても好いのになあ。

2022年3月 3日 (木)

私は正しい

 私は正しい、だから私に反対するあなたは間違っている。私は正義であるから、あなたは悪である。悪は正さなければならない。悪を正すための行動は正しい。

 

 私が正義の味方が嫌いなのはこういう思考回路の人が多いからである。正義が嫌いなのではないので念のため。

 

 ロシアが自分の行動を正当化するためにウクライナをナチスと同じだから何をしてもよいと主張している。ロシアの行動を非難している国々は、ロシアこそナチスに見えている。私もそう思う。ただし、ナチスは、そしてヒトラーはドイツ国民に熱狂的に支持された。しかし、いまロシア国民が熱狂的にプーチンを支持しているように見えない。

 

 ロシアが始めた今度の戦争は、ロシアがやめない限り終わらない。ロシアが戦争をやめるのはロシア、つまりプーチン政権が自壊するときを待つしかないような気がする。それなら戦争は長引き、ロシアにとってもウクライナにとっても悲惨なことになるだろう。そのことが、このような行動がどれほど自国にとって損失となるかを教えてくれるだろう。

 

 願わくばそれが中国にとっての教訓になってくれることを願う。しかし、自分だけはちがうと習近平なら考えるだろう。人間とは愚かだなあ。

感情を抑えて

 昨日のフジBSプライムニュースは、ゲストにロシア大使が呼ばれていてロシアの立場を説明していた。そのことばに感情が波立つけれど、それだと言い分をちゃんと聞けなくなるので極力我慢して最後まで聞き続けた。

 

 結論は・・・この大使の失礼千万な日本に対してのツイッター(ウクライナをナチスと見なし、日本は過去と今回と二度もナチスに与したというもの)に、河野太郎氏が浴びせた「恥を知れ」ということばに共感するものとなった。河野氏の言葉に、どうしてそんなことばを浴びせたのか不審だったが、理由もわかった。同時に、終戦直前のどさくさ紛れに北方領土を奪い、満州に進出して一般市民の略奪と殺戮を行った国であるソ連のことを思い出させてくれた。

 

 ロシアという国を代表した大使としての発言であるから、自己正当化は仕方がないにしても、自国が他国を一方的に攻撃していることに対しての毛筋ほどの心の痛みを感じていないらしいことに恐ろしさを感じた。外交というのは、こういう人と交渉するのだと思うと、あらためて、たいへんだなあ、と思う。外交が武力という背景を持たないとならないことはあたりまえなのだと、あらためて思わされる。

思い入れを仕込む

 日が暮れると喉が渇く。この喉の渇きは水やお茶やコーヒーでは癒やせない。長年の習慣が私をそう作り上げた。日が短いときは夜が早く来るから飲み始めるのも早くなる。次第に日が長くなってきたので我慢しやすくなった。五時前には原則飲まないという自分にたいする決まりは守っている。原則だから理由があれば自分を許すが、めったにない。

 

 なにを肴に飲むか、それが問題で、それを考えるのが楽しいときはたいてい体調も良い。そのために料理番組を録画して、作れそうな料理をチェックしている。まだ試してみたのは十指に満たず、リピートしたのは二つほどだ。楽しむところまでいっていない。それよりもなじみの自分のレパートリーのほうをつい作ってしまう。種類は限られているが、別に毎日無理に新しいものを食べたいということもない。

 

 二月末の山陰旅行はいつになく盛り上がらなかった。出かけたくて出かけるはずなのだけれど、出かける段になるとなんとなく面倒くさいような気分になる。家でゴロゴロしているほうが楽なのになあ、などと思ったりする。それでも思い切って出かけると楽しい。楽しいのはあちこち訪ねることよりも、ドライブしながらどんどん変わっていく周りの風景を見るのが楽しいようだ。意外なことにドライブそのものを一番楽しんでいる。

 

 一瞬の出会いと別れ、それらを見ながらさまざまなことを考える。考えたことをことばにする。ただ、私は父のように聞こえるような独り言を言う習慣はないから、頭の中でしゃべる。考えたことは景色とともに流れ去っていく。その空間と時間の流れを実感するのが心地よく感じる。体力が続けばずっと走り続けたいくらいだ。

 

 今回の旅がどうして今ひとつ盛り上がらなかったのか。やはり準備が足らなかったのだ。準備といっても段取り全てをガチガチに組み立てるということではない。行き先への思い入れを、出かける前に仕込むということだ。思い入れを仕込んだ旅は、却って意外な出会いを体験できることが多い。気持ちが前向きだからだろう。

 

 今月のカレンダーはいつも以上に余白だらけである。今月も出来ればどこかへ行きたいものだと思う。今度はできるだけ思い入れを仕込むことにしよう。

2022年3月 2日 (水)

億劫を克服しなければ

 大好きな読書すらやる気にならない。散歩に出かけようと思いながら家でゴロゴロしている。スーパーへの買い出しや資源ゴミを出さなければならないので、ようやく重い腰を上げた。身の回りを少し片付けたらゴミだらけで気持ちが悪くなり、掃除機で目についたところをなで回す。

 

 この数日たまりにたまったドキュメント番組、紀行番組、ドラマ類や映画を片端から片付けていて、頭の中がごちゃごちゃだ。片付けないととにかくハードディスクが満杯になってしまう。すでに少し先の予約は「ディスク残量が足らないので、このままでは録画できません」と表示されている。

 

 読みかけの本も脇に積まれている。なんだかいろんなものに追いまくられている感じがしている。そうなるとますますいろいろなことが億劫になってくる。

 

 さいわい、当分どうしてもしなければならないということがない。だからニュースを観ては合間に録画した番組を消化し続けている。ブログを考える時間もない、と言い訳しておこう。とにかく食事を作って食べること、食べたら必ず後片付けをすること、歯をみがくこと、入浴すること、これだけは励行できている。これらを怠り出すとかなりあぶない。

無責任にいえば

 韓国の反日が多少おさまる可能性があるとすれば、韓国が日本に嫌われないようにしなければならなくなる状況になることであり、そこから考えると来週の大統領選挙と国政選挙で、与党のポプュリストの候補が当選し、国政選挙では与党が大敗することが望ましい。もちろんその結果として、混乱が生じて韓国の国民にとってはもしかしたら最も望ましくないことになるだろうからだ。

 

 韓国も、国が豊かになれば、でっち上げの多い歴史認識を根拠にした反日にこだわることはなくなるだろうと期待したが、全く逆だった。衣食足りて礼節を知るというけれど、どう見ても衣食が足りてますます礼節を失う国に成り下がっている。その標的にされている国に住む日本人である私から見れば、韓国にだんだん反感をつのらせ始めるのはあたりまえの成り行きだろう。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は想定よりもうまくいっていないと報じられている。本当にそうなのか、そうであって欲しい希望的観測なのか、いまの時点ではわからないから、楽観視するのは早い気がする。しかしロシアがクリミアやジョージアへの侵攻と同様にウクライナも電撃的に支配できると考えていたのなら、見込み違いとなりそうだ。ゼレンスキーという大統領は、元コメディアンで政治的にシロウトだ、と繰り返し批判されているけれど、いまの事態でも命がけで踏みとどまっているのはロシアにはもっとも意外なことなのではないだろうか。大統領が逃げ出し、政権が崩壊し、国内が混乱するというシナリオを想定したはずだ。

 

 そういう意味では日中戦争という泥沼へ日本を引きずり込んだ関東軍が、ロシアの参戦を知って日本人を置き去りにいち早く撤収したことを思いだす。国民を護らずに逃げ出す軍隊を持った日本は負けたのがとうぜんだった。トップが責任をとる覚悟のない組織など潰れてとうぜんだ。東京電力のことを言っている。国民や国家にこれだけの被害を与えてどうして潰さなかったのだろう。こうして次々に責任をとらないという伝統が引き継がれていく。

低いとよくないようだ

 年齢とともに体温が低下しているようだ。ずっと36.5℃だった平熱が、いまは36.1℃とか36.2℃とかになっている。だからさまざまなところで検温すると、たいてい外からそこに行くので表面に出ているところは冷えているので更に下がっていて、35℃台とか低すぎて測定不能となってしまう。他の人はちゃんと検温できているらしいから、私は特殊なのだろうか。

 

 体温が低いということは血のめぐりが悪いということかも知れない。とうぜん足も冷えやすい。足が冷えるから足がつるのかも知れないと思って、フリースのズボンを穿いたまま寝るようにしたら、頻発していた足のつりがなくなった。たまたまかどうか様子を見ている。

 

 血のめぐりが悪いのは代謝が低下していることである。代謝が悪いと血が濁る。糖尿病の人間にとってたいへんよくない状況である。糖尿病は血液中に過剰の物質が含まれている病気だともいえるのであって、血管に付着物が付着しやすくなって血圧も上がるし、血管が劣化するし、動脈硬化も起きやすくなるのである。これではそもそもあまりめぐりのよくない頭の血のめぐりが更に悪くなってボケが進行してしまうではないか。

 

 血のめぐりを改善するには身体を動かす必要があるのかも知れない。血がめぐれば平熱もちょっとくらいは上がるだろうか。

2022年3月 1日 (火)

湯村温泉(3)

湯村温泉の最後は夢千代館。夢千代日記のイメージをセットにして展示している。

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夢千代館。以前からあったのだろうか。私が湯村温泉に来たのは三回目だが、初めて知った。私以外に他に客はいない。300円。ドラマを観た人にはなつかしいはずだ。

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置屋であるはる屋の玄関先。夢千代は芸者を抱える置屋の女将であり、同時に現役の芸者でもある。

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はる屋の茶の間。はる屋の芸者は楠トシエ、樹木希林、秋吉久美子など。五話ずつ三シーズンあったので、入れ替わりがある。医者としてケーシー高峰がいい役回りを演じていた。

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芸者として座敷に呼ばれる煙草屋旅館。女将は加藤治子。

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小さな温泉街の概観。

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この喫茶店は芸者たちのたまり場であり、刑事である中条静夫などもしばしばここに立ち寄った。温泉の顔役である長門勇の世話をしている女が店の店主。この店の裏が温泉のストリップ小屋につながっている。

二階には吉永小百合の反戦のための資料が展示されている。旧日本軍の資料などを見ると反戦なのか戦時中の記念なのかよくわからないが、省く。

ここで記念に朝顔の種をもらった。春に蒔くことにしよう。

翌日はどこにも立ち寄らず、まっすぐ自宅に帰った。ナビがわざわざ通行止めの中国道に向かう道を指示し、けっきょく通行止めの区間は地道を走らされ、余分な時間を食った。

今回の小旅行の報告はこれで終わり。

湯村温泉(2)

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狭い雪道をぬけて荒湯に至る。

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濛濛たる湯気。源泉の温度は90℃以上。

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ドラマでもこの荒湯でのシーンがよく出てきた。

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いまは足湯もある。荒湯の向こうの人は温泉卵を作っている。ただし湯温が高いから、すぐゆで卵になる。

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少し歩くと薬師湯(共同浴場)がある。

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ぶらぶら歩いていたらこんなものを見つけた。しかし看板だけで劇場はすでになくなっているようだ。

ドラマでは小屋主を長門勇が演じ、緑魔子がストリッパー、照明係をあがた森魚が演じて良い味を出していた。

湯村温泉(1)

湯村温泉といえば「夢千代日記」だけれど、夢千代日記というドラマをリアルタイムで観た人はどれだけいるのだろうか。私の大好きなドラマであることは先日書いた。映画化もされたけれど、映画は私の好みに合わない。期待して観たけれどガッカリした。

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夢千代像。

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もちろん主演は吉永小百合。銅像の顔は・・・よく見れば似ている。

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吉永小百合の手形。意外に小さい。

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こちらは原作者の早坂暁の手形。

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あるところにあったむかしの湯村温泉の写真。

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いまの湯村温泉。

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荒湯天狗。もうすぐ温泉の中心部にある荒湯。

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この道を脱けると荒湯に至る。湯気が見えてきた。

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