不必要な人間
不必要な人間などいない、必ず誰かにとってはかけがえのない存在なのだ、などという。人はそれぞれ社会的役割を担うことで社会の役に立っているので、不必要な人間はいない、というのは正しいことのように思われるが、仕事も無く、とうぜん収入もなく、家族もいないか見放された人から見れば、自分がこの世に必要な人間かどうか疑わしいと思うだろう。建前と現実は違うものだ。
数字的にみれば、失業率が低いということは、社会に必要とされる人間の割合が高いということで、人間的だと思えないことはない。それなら失業率の高い国はその逆か。多分そうだろう。人は必要とされるほど生きがいがあって、しあわせを感じることが多いと思える。経済的に豊かになったといわれる隣国が、失業率、特に若者の失業率が高く、そして出生率が世界で最も低いのは、無関係ではない気がするではないか。
AIの進化が加速度的に早まっている。人間の仕事を代替できる分野が、これから急速に拡大するだろうと予測されている。まさかこの仕事まで、などというものまでがAIに置き換えられていくのはそう遠くない未来の話のようだ。
SFなどでは、さまざまな仕事がAIにコントロールされた機械によって代替され、人間がするよりもはるかに効率的に、つまり経済的に運営されていき、人間の多くが仕事を失う。仕事をしなくても、食べるものもエネルギーも全てが供給されて快適に暮らせるから、働くのはほんの一握りのエリートだけということになるというのがSFの描く未来世界だ。人間は刺激を求めてバーチャルな世界にのめり込み、そこに快楽を感じて生きる。
その時人間はしあわせか。その時人間はそもそも必要な存在なのかどうかが真に問われる。問うのは人間自身か、それともAIによってか。
すでに、自分が社会的存在であって、社会に必要な人間であることを基準に生きるということが、価値のあるものと考えられないひとが多数を占めているような気がする。そういう人は、快不快、損得のみが価値基準に見える。資本主義の自由とはそういうものだと社会がみなすようになって久しい。経済性が全てに優先して、そこでAIが活躍する。
世界はそのような未来に必然的に向かっているらしい。もうなるようにしかならないのだろう。
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