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2022年3月 6日 (日)

ムツゴロウと知事

 久しぶりに薄田泣菫の『茶話』から、大正8年8月1日のコラムより。

 

 千葉県知事折原己一郎氏が、以前福岡県知事を勤めていた頃、ある宴会で目もとの可愛らしい芸者が脇目も振らず、じっと自分の顔に見とれているのに気がついた。
 知事は悪い気持ちもしなかった。
「やっぱり俺に気がつくんだな。こうして大勢顔ぶれはそろっていても、どこか人品が際立ってすぐれているところがあるんだよ。でも、あんな若い身体で、そこへ気がつくなんて、憎いほど目端の利く女だな」
 知事は腹の底から満足に思った。で、せいぜいその好意に報いるつもりで、羊のような柔らかな眼をして妓を見かえした。
 すると、妓女は急に厭な顔をした。そしてつと起ち上がりざま、
「ほんまによく似てござらっしゃるわ、ムツゴロウに」
と、小さな声で言い残していった。
 その声が知事の耳に入った。知事は不思議そうに眉をしかめた。
「ムツ五郎に似てると言ったな。一体ムツ五郎とは誰のことだろう」
 知事はいろいろと名高い美男子の名前を頭に思い浮かべながら盃をふくんだが、自分の知った限りの男には、そんな名前はなかった。
 あくる日知事は県庁へ出ると、官房主事を喚んで訊いた。
「君はムツ五郎という男を知ってるかね」
「ムツ五郎ですか」主事は空っぽの頭を仔細らしく傾げた。「それは三津五郎の訛りでしょう、三津五郎ならいますよ。踊りの達者な俳優(やくしゃ)でしてね」
「うむ、有るかい、三津五郎というのが。俳優だってね、そうだろう、それに違いない」と知事はたまらなく嬉しそうに顔中を皺くちゃにした。「実はある芸者が俺をその三津五郎に似てると言ったよ」
「へえ、三津五郎に」主事は不思議そうな顔をしたが、自分で三津五郎を知らぬ身には、どう返事していいか判らなかった。
 折原知事と官房主事とに、こっそり内証で耳打ちをする。芸者の言った「ムツゴロウ」とは、肥前の有明の海にしか棲まない、鯊(はぜ)に似た小魚で、知事と同じように色黒で出目である。三津五郎のように踊りは達者だが、役者ではない。

 

 蛇足ながら、こういうのを「しょってる」という。

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