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2022年3月14日 (月)

細菌学者と公使

 薄田泣菫の『茶話』から。

 宮嶋幹之助氏といえば、動物専攻の理学士で、かねて医学博士である。以前は琉球あたりの無人島で信天翁(あほうどり)と同棲したこともあったが、その後細菌学の研究に憂き身をやつして、とうと博士の学位を取るまでになった。
 宮嶋氏は最近政府に頼まれて、ブラジルへ研究に行くことになった。ブラジルといえば近頃日本人が続々出稼ぎに行く国で、善いものと悪いものとが、ごっちゃになって棲んでいるところである。
 船が横浜を発つ二三日前、宮崎市の玄関へ、ついぞ見知らぬ男が訪ねて来た。名刺には畑良太郎とあった。
「何か御用ですか」
 客を座敷に通すと、宮嶋氏は性急(せっかち)に訊いた。
「承りますと、先生はいよいよ今度の船でブラジルの方へお出かけだそうですが、まったくでございますか」
客は心配そうに訊いた。
「はあ、参るには参りますが」
「お出かけになりますか。それを聞いてやっと安心しました」
客は眼にも口にも耳にも鼻先にも嬉しそうな表情をした。
「実は私も今度ブラジル公使に任命されまして、あなたとご一緒の船で出かけることになっているんでございますが・・・」
「はあ、あなたがブラジル公使の畑さんで。初めてお目にかかります。知らないこととてつい失礼をいたしました」
宮嶋氏はカイツブリのように丁寧に頭を下げた。
「いえ、どうつかまつりまして、手前こそ失礼をいたしました」
畑氏も几帳面に頭を下げた。
 畑氏のいうのでは、今度の赴任には家族をまとめていかなければならぬ。それには航海中また上陸後誰一人病気に罹ってはならぬが、もしか万一のことがあったら、どうしたものだろうとある人に相談すると、それには善いことがある、ちょうど宮嶋博士が同じ船で出発するそうだから、博士に頼んでおいた方がよかろうということなので、こうしてわざわざお頼みに上がったというのだ。
「それなら駄目ですよ」
宮嶋氏は話を聞くと、びっくりしたように手をあげた。
「私は細菌学者ですから、病気の方はから素人なんです。どうか当てになさらないように」
「でも、医学博士でいらっしゃるんですから・・・」
畑氏は相手を信じ切ったような口ぶりだった。
「その医学博士が当てになりません。いまも言ったように細菌の方なんですから」
 細菌学者は泣き出しそうな声を出した。
「いや、細菌でもなんでもけっこうです。なにぶんよろしく」
 畑氏は幾たびかお辞儀をして帰って行った。
 あとに残った宮嶋氏は、手を組んで困り切った顔をした。そしてペンギン鳥やペリカン鳥が食べすぎて腹を痛めた場合の処方箋を考え出してみたりした。

 畑氏とその家族が病に罹らなければよいのだが。
 同時に、それを心配しすぎて人の好さそうな宮嶋氏が寝込むようなことにならなければよいが。

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