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2022年4月

2022年4月30日 (土)

床屋へ行く

 前回はたぶん昨年暮れかと思う。丸四ヶ月も間を開けてようやく床屋へ行った。平日ではないのでシニア割り引きはない。しかし花粉症の咳とくしゃみ、鼻水がある程度おさまらなければ床屋には行けない。迷いに迷って、ようやく今日思い切ったのだ。行きそびれ続けると永遠に行くことが出来ず、さっぱり出来ない。こどもが多い。こどもも含めて待ち人が多い。それでもいくつも席があり、一人30分で次々に片付くから、そんなに待たされない。

 

 調髪の座席に座り鏡を見て驚いた。あのプーチンよりも顔がむくんでいる。自宅の鏡では気がつかなかったから、今日とくにむくんでいるのかもしれない。むくんだ顔は目を背けたくなるほど醜い。寝不足と肥満が顔に出ているのだろう。

 

 調髪しながら眠らないように気合いを入れていた。思い切り刈り上げてもらい、襟足の伸びた髪がなくなった。これでしばらく床屋にいつ行こうか悩まなくていい。一仕事終えた気がした。

寝そびれる

 土日や祝日はテレビもふだんと違う番組構成で、そうなるととたんに観たい番組がなくなる。眠くなったので早めに寝床に入って横になったら眠気が消えてしまった。ショパンのワルツなど聴いていたが、いつもなら次第に眠くなるのに、目が冴えてきてしまった。

 

 仕方がないのでradikoでラジオを聴いた。1950~70年代の、ラジオの洋楽ベストテンの特集が流れていて、なつかしく聴いた。母と一緒にこどもの頃にラジオで聴いたなつかしい曲がいくつかあった。リクエストをしていたのも私と同じ七十歳代が多い。ただ、会話が多くてかかる曲が少ないのが残念だった。

 

 二時間ほどのその番組を聴き終わってもまだ眠くならない。そうしたら急にたばこの臭いがして驚いた。私はたばこを吸わない。どこから臭うのだろう。起き上がると匂いが消えた。玄関の方へ行ってみた。隣家の人がまれに玄関の外で吸うことがあるのだ。しかしそちらではない。トイレから臭う。以前にもトイレからたばこの臭いがすることがあった。マンションの誰かがトイレでたばこを吸うと排気ダクトの中を通って臭いが来るのではないかと思う。排気を止めたら臭いも消えた。迷惑な話だ。本人はそんなこと一生気がつかないだろう。

 

 眠気はまったく消失。あきらめて起き出し、本を読み始めた。明るくなるまで一睡もせず。朝それでもちょっとだけうたた寝して、ようやく起きてぼんやりしている。何かがこころのなかでざわついている感じがしているのだが、自分ではその不安のごときものの理由がつかめないでいる。

2022年4月29日 (金)

後遺症

 糖尿病という持病があり高齢者である私としては、新型コロナウイルスは重症化リスクが高いと考えてワクチン接種を受けている。インフルエンザなどのワクチンは基本的に重症化リスクがあまり感じられないのでうけないで来た。

 

 いまはあまり重症化リスクということは考えないでも良くなったように思えてきたが、重症化しなくても後遺症があると報じられていて、けっこうそれが深刻らしい。それが心配なので、やはりワクチン四回目もうけた方がいいのかなと考えている。それにしても一回目二回目はなんともなかったのに、三回目の副反応はけっこう身体に応えた。後遺症の話がなければもうワクチン接種はうけたくないというのが本音なのだが。

 

 後遺症と言えば、昨年春に高速道路上で追突されて頸椎の圧迫骨折をした予後は、レントゲンなどで見たところでは完治しているのだが、もとの身体に戻ったという実感がない。一番困るのは、その事故以来、腹ばいになって本を読むことが出来なくなったことだ。無理してもすぐに首がつらくなってくる。私は本を読むときは、座って読んだり寝転がって読んだりするのだが、腹ばいで読めないとなると、読書姿勢の三分の一が取れなくなったということで、読書量の低下の一因でもある。

 

 肩のこり方もひどくなった。それらは事故の後遺症なのか、老化による筋力の衰えによるものなのか判別がつかない。ちょっとくらい加害者に思い知らせる方法はないか、などとチラリと考えたりしないことはないが、まあ命に別状なく、おおむね生活に不都合なく生活できていることをよしとするしかないかと思っている。

帰省

 両親が健在なときは、正月、ゴールデンウイーク、お盆(夏休み)には子供たちを連れて必ず帰省した。両親は弟の家族と半同居していたから、実家はいまは弟の家である。だから弟の家には気軽にたびたび行く。それがコロナ禍であまり行けないのは残念である。離れていると情は薄れるおそれがあるからである。

 

 それにしても私の子供たちは二十歳を過ぎても黙って一緒についてきてくれたことはありがたかった。両親は私の子供たちに会うのをことのほか喜んでくれた。子供たちが小学生のときに妻が家を出て行っていたから、ときどき両親が来てしばらく滞在して面倒を見てくれて、両親も子供たちも普通以上に親しんでいたのだと思う。それに父親が一緒に帰省することがあたりまえだと思っていることには反対してもどうしようもないとあきらめてもいたのだろう。

 

 子供たちも独立し、両親も亡くなって帰省もしなくなったから、ゴールデンウイークはただ他人の移動をテレビで眺めるだけになった。私の家が子供たちの帰省先ということになろうが、私は帰省してくれることもありがたいが、出来るあいだは自分から訪ねることにしようと思っている。それにしてもそれが不自由なコロナ禍が恨めしい。

音がクリアに聞こえる

 テレビの音が聞き取りにくいという話を以前書いたことがあるが、音として聞こえているのに聞き取れないというのが特に不快である。音を大きくすれば聞き取れるけれど、不必要に大きな音で聞くことになる。音にピントが合わないから聞こえないということがポイントで、ボリュームを上げただけではなかなか解消しない。

 

 テレビの音がクリアに聞こえます、というなんとかスピーカーが宣伝されている。まさにいま悩んでいることが解消されるスピーカーのようだ。今すぐ欲しいし買えない値段ではないが、四月五月は固定資産税や自動車税などで出費がかさなる。他に買いたいものもいくつかあり、買う踏ん切りがつかずにいる。

 

 電子レンジが不調で、熱あたりのムラがひどくなっている。つい先日にはおかしな音がしてしばらく作動しなかったりした。いつ購入したか記憶がないほど使い込んでいて、寿命なのかと思う。まず買うならこちらからだろう。料理を遊ぶためにも、出来ればちょっと多機能のオーブンレンジが買いたい。

 

 ガスレンジも交換したいとずっと考えている。出来れば掃除のしやすそうなガラスパネルのものが欲しい。アンプも二十年以上愛用しているヤマハのアンプをなだめながら使っているが、デジタル音源を聴くためにUSB-DACをつけ、古いパソコンからストリーミングやNASのソフトを聴いているが、こちらもほぼ寿命が来ている。ネットワークアンプにしたらすっきりする。

 

 足るを知らない独居老人は、まだまだジタバタしている。

2022年4月28日 (木)

先生が足りない

 学校の先生が足りないそうだ。生徒の数は減っているのだから、先生はそれ以上に減っているという事だろうか。団塊の世代の先生が大量にリタイアしたから足らなくなったというなら判るが、それは十年前の話だろう。先生のなり手がないということは、教師という仕事の量とそれに対する報酬が見合わないとみなされているのだろう。先生という仕事がたいへんだという話はずいぶん知れ渡ってしまった。

 

 私が就職するころは、先生になりたいのになれない、という友人が何人もいた。募集が少なく、しかも事実かどうか知らないが、採用に情実がからむらしいという話も聞いた。なりたい人がなれないのに、でもしか先生がたくさんいると揶揄されていた。先生でもやろうか、とか、先生くらいしかし就職先がない、などというのだ。私は父も祖父も、そのほかに身内にも教師が何人かいるから、いろいろ聞きたくもない話を聞いたりした。

 

 採用のあいまいさから、あまり先生にむいていない人が先生になって、問題を起こすこともあったのではないか。その上モンスターペアレンツとかいう異常な保護者が学校へのクレーマーになって騒ぎになるという話もしばしば聞いた。さらに残業だらけでハードな職場だと言われれば、先生になり手がなくなるのは自然の成り行きだろう。

 

 こうなったら教師の待遇改善をして、俸給を上げるしかないではないか。そうでないと、就職できないから先生でもやろうか、先生くらいしか働き口がない、などとレベルの低い先生がまた増えてしまうかもしれない。仕事に見合う報酬と評価があれば、それなりの人がそれなりに集まるはずだと思う。

社内旅行

 山口瞳が社内旅行について書いていたのを読んでいて、現役時代のことを思い出していた。いまは社内旅行に参加しない若い人が多いと聞くし、コロナ禍で社内旅行など出来る状態でもないから、社内旅行という一種の風習のようなものも廃れていくのだろうと思う。

 

 私の現役時代前半のころは、車内旅行や親睦のための宴会などは参加するのがあたりまえで、参加しないのはごく特殊な人だけだった。それが次第に女性に参加しない人が増え、若い人も参加しなくなっていくようになっていった気がする。私の会社は全体で行く旅行そのものが人数的に無理になっていたから、私の言うのは部署での社内旅行である。比較的にまとまりのある部署だったが、それでも社内旅行は仕事のようなものと考えている女性や若い人もいたようだ。今はもうそういう社内旅行そのものがなくなったのではないかと思う。

 

 私は幹事をしたこともたびたびあるので、社内旅行や宴会は参加するのがとうぜんと考える人が好きである。個人的には、人とは差し向かいでじっくり話すのが好きで、宴会で騒ぐのが苦手なのだが、組織の一員としてそういう集まりは大事にするのがとうぜんと思い、幹事の苦労も考えれると、特に理由もなく参加しないという人にはあまり好感を持てない。

 

 地域の集まりや行事に参加するのは煩わしいけれど、それも必要なことだと考えるから、端の方ではあるが、なるべく参加する。人との交流を避け続けて生きていても、自分が人に助けてもらわなければならないときはいつか来る。その時、好き嫌いや金の問題だけではないことに気がついても遅いと思う。大げさだけれど、日本では自分が社会の一員であることの自覚のない人がどんどん増えているように見えるのが気にかかる。すでに社会は高齢者を支え続けるだけの余力がなくなりつつある。その時は相互扶助しかない時代が来つつあるのに・・・。

ゴールデンウイーク

 明日からゴールデンウイークである。その間はどこかへ出かけるのはやめておく。どこも混むからだ。混んでいるところは苦手だ。渋滞もやかましいのも嫌いだ。

 

 独居老人は、もともと人に会うこともあまりなくて引きこもり気味の暮らしをしている。読書や録りためた映画やドラマを観ることに専念することにする。他の人とは違う意味の自分のゴールデンウイークだ。

 

 今日は天気も良いのでちょっと出かけるつもりだったが、昨晩いささか飲み過ぎた。以前なら飲み過ぎというほどの量ではないけれど、もう以前の自分ではないことをつい忘れている。そういうわけで、私のゴールデンウイークはすでに始まっている。もともと日常がゴールデンウイークであるのだが。

 

 連休を楽しむためにはそれを楽しみにするような忙しい就業という日常がないと行けないのだ。毎日がゴールデンウイークというのは必ずしも天国というわけでもない。

2022年4月27日 (水)

日本人の味

 たまたま引っ張り出した近藤弘『日本人の味』(日本書籍)という本を読了した。日本各地のその地独特の美味珍味が地域ごとに取り上げられている。こういう本をむかしはよく読んだ。あらかた処分してしまったと思ったら、残っていた本もあったのだ。

 

 たくさんあるそれらの中から、自分が食べて忘れられないものを拾い出していくと、北海道の毛ガニ、花咲ガニ、東北のホヤ、きりたんぽ、九十九里の熟れずし(これは生まれ育った地元の味)、アジのたたき、山梨のほうとう、名古屋の煮込みうどん、琵琶湖の鮒ずし、京都の鯖ずし、松江のスズキの奉書焼き、津和野のうずめめし、土佐の鰹のたたき、薩摩の豚骨・・・。もっとたくさん書かれているけれど、自分の記憶と特にシンクロしたものを書き出した。

 

 それらの味はそれとともにその地の記憶や思いと深く関連していることは言うまでもない。

 

 そのほかにこの一週間で読了した本。

 

曾野綾子『自分の財産』(扶桑社新書)

 

曾野綾子『人間の愚かさについて』(新潮新書)

 

山口瞳『考える人たち』(文春文庫)

 

山口瞳『禁酒 禁煙』(中公文庫)

 

山口瞳『旦那の意見』(中公文庫)

 

それぞれに書きたいこともあるが、いささかくたびれているのでパスする。

ショパン

 スポーツと音楽はあまり得意ではなかった。では何が得意なのだと言われると返答に窮するが、特に不得意なのがスポーツと音楽ということである。その不得意な音楽が、デジタル音楽、ハイレゾで聴くようになったら、好きになってきた。特にピアノ曲を聴くのが好きになった。きっかけはアリス=沙羅・オットというピアニストに出会ってからだ。ピアニシモの音をクリアに聴くことの出来るハイレゾは快感である。

 

 ショパンを訪ねてピアニストの仲道郁代さんが娘さんとともにポーランドやフランスを探訪するという番組を観た。彼女のピアノに対する情熱と知識と技巧が余すところなく発揮されていて、ショパンについて私も多少の知識を得ることが出来た。以前このブログに書いたことがあるが、祖父母の住んでいた家の小道を挟んだ向かいにピアノの先生がいて、ショパンの曲が好きらしく、いつもショパンが聞こえた。それがショパンだったことを知ったのは、ショパンを聴くようになってからだから最近のことだ。
 
 その番組のラストは仲道郁代さんのコンサートの様子が映されていた。彼女が曲に没入し、感極まって涙を流す様子を見て、こちらも胸が熱くなった。Amazonのストリーミングで彼女のショパンを聴いてみようと思う。

ものの見え方

 髪が伸びすぎてうっとうしくて仕方がない。床屋へ行って刈り上げてもらえばすぐさっぱりするのが判っているのだが、花粉症の症状が今までになくひどくて、くしゃみや鼻水が止まらないから、おさまるまで床屋へ行くのは無理だ。花粉は一時期より減っているはずなのにどうしてこんなことになっているのだろう。ハウスダストだろうか。空気清浄機をかけているが、効果があまりない。もしかして空気清浄機が何か吹き出しているのではないか、などと疑ってしまう。

 

 曾野綾子が、極力床にものを置くな、と繰り返し書いている。ものがあればそこからホコリも舞うだろう。そうできればそのほうがいいのはよくわかるけれど、座っている座卓の周りに本を始めとしてすぐものがあふれ、たちまちそれが同心円状にひろがってしまう。それらを思い切り時間をかけて片付けても、元へ戻るのはあっという間だ。その徒労感が片付けする気を失わせる。誰かが来るとなれば片付けざるを得ないが、このところ誰も来ることがないし、予定もない。

 

 毎日新聞が文在寅大統領のインタビューについて報じていた。「韓国が変わったことはなく、日本が右傾化した」と語ったそうだ。彼が大統領になってからの政治的な日韓関係は、壊滅的に破綻した。しかし彼はそれが日本が原因であると言いたいのだろう。日本側からすれば反論したいことは山のようにあっても、彼のものの見方は変わらないだろう。韓国が変わったことがないのではなく、文在寅が変わったことはないということかと思う。世界情勢は劇的に変化していて、日本はそれに対応しているから、日本が変わっているというのは事実だろう。韓国から見れば右傾化に見えるかもしれない。

 

 韓国も現下の情勢では変わらなければならないと思うが、文在寅には彼なりの固定化した理想主義があって、彼は自分の見たいようにしか世界が見えないのだと思う。こういう人が世界をゆがめるのだと思うが、彼にとってゆがんでいるのは日本であり、世界なのだろう。プーチンと似ていないこともない。そういう意味では北朝鮮はまったく変わらない。文在寅が北朝鮮を理想の国と考えるのも宜なるかな。

2022年4月26日 (火)

説話文学

 鬼に関する話が引用されている本に、私の手元にない『古今著聞集』という本があることを知り(もちろん名前くらいは知っていた)、『新潮日本古典集成』という全集に収められていたのでその上下二冊を取り寄せた。目次でどんな話がどのように配列されているのか概観し、どの辺を読もうかと眺めているところだ。説話文学はもともと仏教説話が出発点で、それも面白いけれど、やはり普通の奇談がずっと面白いから、それらを拾い読みすることになる。

 

 解説をざっと読んで、日本の説話文学というものについて教えられた。平安時代後期から鎌倉中期にかけてのほぼ二百年、説話文学に分類されるような本が盛んに書かれた。よく引用されているのに散佚してしまったものもあるようだ。この説話文学の時代、二百年を前期、中期、後期とわけると、前期の代表が『今昔物語集』、中期が『宇治拾遺』、そして後期が『古今著聞集』と位置づけられている。

 

 高校時代、古典と世界史が苦手で、ともに赤点すれすれの成績だった。古典の素晴らしさ、面白さを説く教師の、その陶酔の表情に嫌悪を感じた。教師が悪いのではなくて、私が悪いのだが、嫌いなものは古典なのかその教師なのかわからない。なんとかしなければと思って図書館を物色し、見つけたのが『醒睡笑』という、落語の種本とも言われる笑話集と、『今昔物語集』の世俗篇だった。『醒睡笑』は岩波文庫にあったので購入した。

 

 判らないところだらけではあるものの、面白さは感じた。『今昔物語』がきっかけで、たぶん中国の志怪小説に行き当たり、のめり込むようになったのだと思う。『今昔物語集』は図書館の東洋文庫版で読んだ。そこで東洋文庫というものを知り、いま書棚には二百冊くらいがならんでいる。私の趣味の一つの方向を導いたのがこの『今昔物語集』であり、東洋文庫だったと言ってもいい。いま『今昔物語集』は東洋文庫版ではなく、小学館の日本古典文学全集版(全四巻)を手元に置いている。

 

 今度入手した『古今著聞集』には、鎌倉幕府での話がいくつも収められている。北条氏や三浦氏の話なども散見される。『鎌倉殿の十三人』の世界の、違う切り取り方の見方が楽しめるかもしれない。たまたま拾い読みした三浦義村と千葉胤綱の座席の位置をめぐっての言い争いの話など、短いけれど臨場感がある。

 

 いま、森の中の樹しか見えていなかった自分が、少し視野を広げて全体が見え始めたのを感じる。いろいろなことが関連している。いつも同じ決まり文句になってしまうが、世界は全て関係しているのだ。

好き嫌い

 好き嫌いは人それぞれで、何が好きか何が嫌いかを知ることでその人の感覚が多少見えたりする。ところが自分が好きなのに、それが嫌いだなどと言われると本気で腹をたてる人がいるから困る。その人が嫌いだと言っているわけではないのである。自分が好きなものは他人も好きなはず、などという幼児的な感覚の人とは付き合いにくい。

 

 ブログに好き嫌いを書いたりするのは、多少は自分のことを知ってもらいたい、理解してもらいたいという気持ちが働いているからで、自己顕示欲と言われたらその通りなのだけれど、興味のない人の好き嫌いなどどうでもいいはずで、私も他人の好き嫌いの話を興味深く聞いたり読んだりすることもあり、なんとも感じないこともある。時にその好き嫌いにその人の感じ方の基本姿勢が表れることもある。嫌いなことばなど、その感性に共感して、見習ったりすることもある。

 

 好き嫌いをあまりなんでもあけすけに、正直に書きすぎると顰蹙を買う。どうもそうらしいとようやく気がついて、多少は気をつけるようになったところであるが、ちょっと遅きに失している気がしている。

思い出したのは

 山本圭が亡くなった。八十一歳はいまなら若い。訃報では『若者たち』での役柄が代表作のように言われていて、確かにそれはそうなのだが、私が山本圭で即座に思い出したのは、夏目雅子が主演した『鬼龍院花子の生涯』という映画での山本圭だった。この映画で夏目雅子は主演女優賞を受賞したが、有名な「なめたらいかんぜよ」という迫力ある啖呵は、亡き夫の葬儀の場でのものであり、その夫を演じたのが山本圭だった。侠客の恫喝や暴力に屈しない、本物の男を演じていた。

 

 この映画がきっかけで、原作者の宮尾登美子も有名になった。この夏目雅子の役柄には宮尾登美子自身が仮託されている(実話に近い部分もあるのだ)。その宮尾登美子が、山本圭の演じた男にどのような思いを託したのか、それを思ったりした。むかしは理不尽なことがいまよりも多かったけれど、それだけ命がけで生きていた人間もいたことを彼女の作品は教えてくれるし、そういう人間を山本圭はみごとに演じていた。冥福を祈る。

2022年4月25日 (月)

空腹

 本日は糖尿病の定期検診日。いつもの病院まで二十分弱の道のりを歩いて行く。今日は朝から好天で気温も高いから、汗かきの私は汗をかく。汗をかいていると検温がしにくい、と係の女性が言い、ハンカチで額を丁寧にふいて測り直してもらった。月曜日はいつも混むのだが、今日はそれほどでもない。

 

 春に担当の医師が替わったそうで、「よろしくお願いします」と元気な声で挨拶してくれたのは、いままでの男の先生ではなく、若い女医さんだった。大声ではないが、元気がいいので声がはっきりしていて聴き取りやすい。テキパキと質問し、カラカラと笑う。いいなあ、気持ちが好い。体重が増えているが、一週間の休酒が奏功したのか、血糖値はそれほど悪くない(良くもないが)。「せいぜい身体を動かして、食べ過ぎないようにしてくださいね」ということで放免された。

 

 スムーズに検診が済んだが、薬局で薬が出るまで思いのほか時間がかかり、それでも昼ころには帰宅することが出来た。昨日は遅い昼のあとに夕食も抜いて、絶食の血糖値を測るために今朝ももちろん抜いている。腹が減った。あり合わせのもので食べた昼飯は旨い。今夜は休酒を解禁する日で、少し美味しいものでも作るつもりで食材を買い出してきた。さあ、これから料理をして晩酌を味わうことにしよう。

 

 明日は先輩と友人と三人で、奈良で会食予定だったが、雨模様らしいので連休明けに日延べした。雨雲退散の念力は及ばず、残念だ。

ETCからのお知らせ?

 迷惑メールのファイルに、「ETCからのお知らせ」というメールがはいっていた。同じ日(4/22)に北海道のある区間と、東京のある区間のETC使用があったので不審だから、リンクをクリックして確認して欲しいという。

 

 その日は出かけていないし、もちろんそんなところに行ってはいないのであるが、なんとなく変である。ETCがそんなに簡単に不正使用できるものなのだろうか。それにカード会社が明記されていないのもおかしい。

 

 とりあえず迷惑メールファイルにあるから即削除した。

ドライブが好き

 就職して営業に配属され、運転免許を持っていなかったので、会社で免許を取らせてもらった。社命でなければ免許を取らなかったかもしれず、それなら車で自由にあちこち走り回るという楽しみを知らずにいただろう。

 

 仕事で走り回るのは楽しいとはいえない。得意先での応答のシミュレーションなどを考えていることが多いからだ。自分の車は会社の先輩からほとんどただでもらったのが最初だ。その代わり車検などの手続きは全て自分でやった。陸運局には一度で済まずに二度三度行かされた。冷房の水が漏り、床に穴が開いているような車だったが、仕事の都合で熊谷に住んでいたので、秩父や日光や軽井沢など、頻繁に走り回ったし、実家の千葉にもそれで往復した。

 

 さいわいいろいろな人のつてで中古車を安く手に入れる機会がいろいろあって、五六年経った中古車を五年ほど乗っては買い換えることをくり返し、息子がマツダに就職してのを機会に初めて新車に乗るようになった。少し大きめの私の身体に合わせた車は、いままでの中古車よりも出費が大きいが、それ以上にドライブの楽しさを感じさせてくれている。

 

 リタイアして現在新車で三台目。SUVなので視界も広く、乗り降りが少し楽である。たぶんこれが最後の車かと思う。運転には人により明らかな巧拙があると思う。私は拙の方であると自覚している。いまは自分の反応スピードも落ちていると感じるので、スピードは出さない。意識しなくても出すのが怖いから自然にセーブしている。

 

 地図で見た道を走り、帰ってそれをまた再確認する。見残した場所が見つかればまた出かける。こうして点が線になり、面になって、あちこちが関連して頭の中に位置づけされていくと、世界がひろがっていくのを感じる。昨年追突事故に遭ってめげかけたけれど、それもようやく癒えて、ますますドライブが楽しくなり好きになっている。

2022年4月24日 (日)

下手でも好き

 子どものとき、叔父に子ども向けのカメラをもらった。明るい昼間ならそこそこ写る。家族出てかけたときや、何かの記念日などには私が写真を撮った。父は機械類をいじるのが苦手で、父のカメラというのはなかった。ピンボケで露出が多少狂っていても、時間というものが撮った写真に重みをつけてくれるから、当時の時間を切り取ったそれらの写真はいまは貴重品である。

Img033きれいに撮れることもあった。

 折に触れ写真を撮っていたら、年の離れた従兄弟が新しいカメラを買うからと、古い蛇腹式のカメラをくれた。これは多少ピント合わせと露出合わせの出来るカメラで、いわゆるセミ版(4.5×6)というサイズだった。母は親友とときどき旅行に行けるほど余裕が出来て、頼まれた裁縫仕事の手間賃をためて、自分用のカメラを買った。こちらは35ミリのいまの普通のカメラに近いもので、私が弟と大阪万博にいったときはこれを借りてカラーフィルム用に使い、蛇腹式を白黒用に使った。

 

 写真を撮りだして、だから六十年近くなるのに、いまだにこんな風に撮りたいなあ、こんな風に撮れるだろう、と思うように撮れたことはめったにない。何の気なしに撮ったものが意外と良かったりするから、やたらに撮ったりすることもある。デジタルになってその点はフィルム代を気にしなくてすむからありがたい。

 

 ただ、たくさん撮れば中には当たりが出るというのは必ずしも正しくなくて、この一枚、と集中した方が当たりが出やすいことにようやく気がついた。撮りまくるとたくさん外れが出て、いったいなにをしに行ったのか、何を見てきたのかわからないことになる。写真は残っているのに思い出が希薄になっては、残念だ。

 

 とにかく我ながら下手くそだなあと思うけれど、写真を撮るのは楽しい。ものを見る集中力が、多少は養われていると思っているし、好きで楽しいなら何よりではないかと思っている。

忘れていたはずなのに

 楽しい夢というのはあまり見ないようだ。ほかのひとはどうなのだろう。体調も良く安らかに眠れているときに楽しい夢を見るのかもしれないが、そういうときは安眠しているから夢を見ないのかもしれない。つまり夢はたいてい思い出したくないことを思い出させる夢になる。

 

 母は私がこどもの頃、私が見た夢の話をすると、自分は試験の時の夢をよく見ると言った。しかし私は子供のときもおとなになってからも、試験の夢を見たことはあまり記憶にない。それほど頑張らずに生きてきたから試験はあまりストレスになっていないのかもしれない。夢に見るほどでなければ成績も上がらない。その結果がいまの私である。

 

 最近はめったにないけれど、試験よりも大学の単位が足らなくて困っている夢が厭だ。それも体育の単位が足らない、というものだから困ってしまう。体育の授業は半分がたサボっていた。出席日数が足らないから卒業できない、などといわれて(そんな事実はないのだが)絶望的な気持ちになっている。現実にはお情けで卒業できているのに夢の中ではそれを忘れているのだ。卒業できなければ就職も出来ないではないか。本当に困惑するではないか。

 

 今でも繰り返し見るのは仕事の夢だ。ああすれば良かった、こうすれば良かったと思うことだらけだったし、大きな得意先を任されながら、まったく成果が上がらずに自信喪失して自己嫌悪に陥ることも多かった。全力を尽くしたというより気持ちが逃げていた場合も少なくない。それが今になっても自分を追いかける。

 

 大学の夢も仕事の夢も、目が覚めてみればもう自分を追いかけることはないのだと気がついて深く安堵する。すでにリタイアした自分がいかにしあわせなのかと思い、現に頑張っている現役の人たちの苦労を思ったりするのである。どうも仕事の夢はこれからもずっと見続ける気がする。それほどいまでも心を占めているらしい。

少しずつ

 片付けるために本を読んでいると書いた。そうして読んだ本をひとつひとつブログに取り上げるのもどうかと思っている。感想などを書くのもけっこう骨が折れるのだ。

 

 私の本の読み方は、並行して何冊も読むという読み方だ。昔からそうだから特に頭が混乱することもない。たとえば昨日読んだ本といえば、近藤弘『日本の味』、福沢諭吉『福翁自伝』、山口瞳『旦那の意見』、福田ますみ『でっちあげ』、馬場あき子『鬼の研究』、内田樹『映画の構造分析』。読了した本はない。十ページしか読めなかった本があれば、百ページ近く読んだ本もある。

 

 以前は併せて一日に二百ページほど読むのが自分のペースだったが、ずっと百ページ以下しか読めなくなり、最近ようやく百五十ページほどに戻りつつある。片付けるために読む本は文庫や新書なので、せいぜい三百ページほどしかないから、二日に一冊くらいは読了できる計算である。

 

 他に『今昔物語集』や『宇治拾遺』、『謡曲集』なども引用されたものを拾い読みしたりする。『鬼の研究』で、『古今著聞集』という本が引用されていて、手持ちがないので古本をネットで探し手配した。文庫でもいいのだけれど、新潮の全集の上下二冊本で、あまり安くない。片付けるつもりがまた増える。きりがないなあ。

2022年4月23日 (土)

雑感

 破壊しつくし、多数の死傷者を生み、深いうらみをウクライナの人びとのこころに植え付けて、ロシアは占領した地域で何を得るというのだろう。誰が破壊された街を復興するというのだ。

 

 人間がさまざまに愚かなことをくり返した上で、ようやくしてはならないことがおぼろげに判ったと思っていたら、そうではないらしい。破壊する能力、殺戮する能力だけが飛躍的に向上して、人間はみずからを滅ぼす方向に向かいつつある気配だ。悪いのはプーチンだ、と犯人を名指ししても、誰も止めることが出来ないではないか。

 

 基準は状況によって変わる。変わった状況によって手立ても出来ることも変わる。原発然り、自衛のための軍備力も然り。是か非だけでものごとを考えることしか出来ないとひとは、考えることを怠けているように見える。

 

 天変地異の起こることの多い日本だから、安心安全はそもそも約束できない。世のなかには善人もいるが、自分のことしか考えられない人間もいる。それでも他の国よりは安心安全であると私は思っている。いまのところ日本人であり、日本に暮らしていることをありがたいことだと思っている。

 

 本当に理不尽な差別には目をつぶりながら、わずかなことをとがめ立てをする正義の味方が多いように感じる。人にはさまざまな違いがある。性別、容姿、健康、身体能力、知能、考え方が違う。それは同じにすることは出来ない。逆差別をしばしば目の当たりにしてきた。弱者には特権があるのだと勘違いする人を見た。それはしばしば差別意識の変形に見えたりする。

処分するために読む

 出版社によって紙質がずいぶん違う。二十年経っても比較的に当初の白さを保っている本もあれば、茶色く変色して劣化の激しい本もある。数年前からエンターテインメントの本は、文庫も単行本も読了したら物置に使っているタンス部屋に積み上げて、たまったら古本として処分している。新書も特定の著者の本以外はおおむね処分する。変色した本は一円にもならないけれど、私にしては愛おしい。

 

 それでも残っている本がおさまりきれずに押し入れの一角を占領しているので、それを少しでも減らすべく、引っ張り出してきては読んでいる。いまは山口瞳と曾野綾子、内田樹、宮城谷昌光の本(新書と文庫本のみ)を積んでいる。全て一度読んだことがある本だ。しかし再読せずに棄てるのが忍びないのだ。再読すれば、三度目はもうないとあきらめて処分できる。たちまち三十冊ほどの山になっているが、まだほんの一部だけだ。せいぜい目薬をさしながら頑張るつもりだ。

 

 それにしても未読の本もたくさんあるのに何をしているのかと思う。時代小説やSF、海外のミステリーなど、いつになったら片付くのだろう。それでも久しぶりに読書に没頭できるようになったのは嬉しい。今少しずつ読んでいる鬼の話、それに関連しての『今昔物語』や『御伽草子』、さらに『宇治拾遺』も今年中に片付くかどうか。さらに福沢諭吉の『福翁自伝』なんて本を開いたら、ことのほか面白い。これは初読である。

 

 これだから運動不足になってしまうなあ。でも古典を読んだりすると、奈良や飛鳥、今度の湖東三山などに関連してきたりするから知識の視界がちょっと開けた気がして満足感がある。全ては関係しているのだと思う。

金剛輪寺・本堂など

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階段が増えてくる。ようやく本堂らしき屋根が見えた。

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道横を覗いたらあたかも土石流に流されたあとのような場所が合った。

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あと一息。

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二天門への最後の階段五十段ほどが恨めしい。

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門をくぐって左手の高台に三重塔が見えた。

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本堂。

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本堂横手。こちらから内部に入る。ここでも係の人に説明を伺う。この寺の開基は行基。本尊は行基の刻んだ観音様で、これも秘仏。荒削りの途中で血が流れるのを見て、行基は魂が入ったとしてそこで彫るのをやめたそうだ。左右に阿弥陀如来がならんでいるのが珍しい。もちろん四天王や十二神将もいる。

ここも天台宗で、比叡山の系統。信長に焼き討ちにされたが本堂と三重塔だけ焼け残ったのは西明寺と同様である。実はこの一帯にはたくさんの堂塔があつたが多くが焼き討ちで灰燼に帰し、そこから持ち込まれて阿弥陀如来がここに同居しているというのである。湖東三山というのは、信長の焼き討ちで残った寺ということなのかもしれない。

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三重塔は後ろに引けないので全体を写真に収められない。

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新緑でもこれだけ美しいのだから紅葉の季節ならみごとだろう。

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整然とならぶ千躰仏。

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この切り倒された木は使われるのかここで朽ちるのか気になった。

いまの私の体力ではこの坂の上り下りだけでくたびれてしまった。余力があれば、時間は有ったのでさらに愛知川の上流の永源寺とその周辺にいきたかったが、次回を期して引き上げた。

思った以上に見応えのあるところであった。

2022年4月22日 (金)

金剛輪寺・地蔵堂あたり

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明寿院と庭園を拝観した後、千躰地蔵のならぶ坂の参道を登る。

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入り口でこの坂道は五百メートルほどです、と聞いていたのだが・・・。

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顔が同じらしいのが残念。でも数の多さは圧巻。

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全てに赤い風車(かざぐるま)がつけられている。

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入り口で立ち寄ることを勧められた地蔵堂の入り口に到着。

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地蔵堂から参道の坂を見下ろす。

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右近の桜。

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地蔵堂。

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上を見上げれば八重桜が咲いていた。

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地蔵堂を拝観して参道へ戻る。ここからならあと三百メートルくらいかな、と思ったのだが・・・。

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行けども行けどもまだつづく。このあたりはまだいいが、だんだん坂の勾配も急になっていく。

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これだけずらりと列んでいるといささか不気味。

汗をかいて息が切れたので一休みして息を整えた。もうまもなく本堂入り口の二天門のはず。

 

雨男

 親友のU君は雨男である。彼と出かけると、晴れの予報なのに雨に降られたり、小雨のはずが土砂降りに遭ったりすることが何度もあった。私は晴れ男というほどではないが、出かける予定の日に雨の予報でも、不思議なくらい一度も傘を差さずに済むことが多い。そんな私でもU君の雨男ぶりには負けるのである。

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 来週、先輩と久しぶりに語らいたくて、一緒に奈良を散策する予定を立て、夕方にU君と合流して三人で奈良で飲むつもりである。U君も歩くのが好きだから一緒に奈良を回ってもいいのだが、せっかくの予定が雨になるのが怖い。だから夕方合流にしたのだが・・・、雨男の威力恐るべし、予定日は今のところ雨の予報である。梅雨時だってこんなに何日も雨が降りつづくことは少ないのになんたることか。私はなんとか自分の念力で予定日の雨雲を吹き飛ばすべく、丹田に力をこめて祈っている。

金剛輪寺・入り口から明寿院と庭園

湖東三山の一つ、金剛輪寺を拝観する。案内を見るとかなり広くてたくさん歩く(坂道も多い)。

入り口の女性がパンフレットの地図を元に見所を教えてくれた。白門というところから庭園を見ること、本堂へ上る道の途中で地蔵堂とその周りを眺めること、周囲の植相、花の見頃など。紫陽花の時期、紅葉の時期が一番見頃だという。

今回もたくさん写真を撮ったので、キャプションはほとんど省いて数多く掲載する。

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受付から緩い勾配の道を進む。

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白門の前で平和祈念のお地蔵さんが迎えてくれる。Dsc_6924

明寿院・白門。

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みんながそうなら世界は平和だ。

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白門内側で始め地蔵が迎えてくれた。

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庭園への入り口。

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茶室を見上げる。

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石楠花(シャクナゲ)。

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明寿院。

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池遊式庭園。

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敷き詰められている赤いカーペットのおかげでまっ赤。目はもう少し補正するがカメラはそのまま写す。

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池は大きくない。

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堪能させていただいた。さあ、長い坂を登ろう。

2022年4月21日 (木)

西明寺・本堂と三重塔

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坂を登り切り、本堂横手に出る。横手が本堂内拝観の入り口。

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本堂の正面に行くと三重塔が見える。なかなか形が良い。

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この寺は延暦寺が織田信長に焼き討ちされたときに、ここも焼き討ちされた。焼け残ったのが本堂と三重塔、そしてこの二天門。金堂と三重塔は国宝で、二天門は重要文化財である。

本堂で拝観。本尊は薬師如来であるが秘仏のため、扉の中にある。日光菩薩、月光菩薩が脇に立ち、四天王と十二神将が控えている。かかりの人が詳しく説明してくれた。この本堂が明治時代の第一号の国宝指定だったという。また、今年が五黄の寅ということで、虎に乗る薬師如来の象を特別拝観させてもらった。私がまさに五黄の寅年なので、御利益があるに違いない。

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光線の具合のよさそうな方向から三重塔を見上げる。

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本堂とともに鎌倉時代に建てられたものなので、質実剛健ということばが浮かんだ。

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坂を下る。途中に鬼瓦が置いてあった。

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昼間はいいけれど、夜ここに立ったら怖いと思う。

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お地蔵様も摩滅してよくわからない。

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坂道の横には立派な石垣が見られる。

本堂でいろいろと教えられ、考えさせられた。来て良かった。

ぐるりと回る

 欧米や日本がロシアから石油や天然ガスを買わなくなる。ロシアは困るから中国に売る。中国はロシアの足元を見て安く買いたたく。中国は安いロシアの石油や天然ガスを買えるからいままで買っていた中東から買わなくなる。アメリカや中東は少しくらい高くても買ってくれる欧米や日本に石油や天然ガスを売る。こうしてぐるりと回る。

 

 問題は中国がいつまでも世界の工場であり続けるかどうかだ。

 

 カントリーリスクというものを思い知った世界の国々は、安いからといって海外で作ったりしないで自分の国で作るようになる。海外進出していた企業も少しずつ引き上げてくる。そうなれば中国から外国企業が次第に撤退する。中国は自国の需要のみで生きていくしかないから、いままでのような高度成長は不可能になる。

 

 ロシアは安くエネルギーを買いたたかれるから経済的に苦しい状態になり、中国は高度成長ではなくなって国民は豊かさを感じなくなり、貧富の差に対して社会不安が増大する。ついにはロシアや中国は独裁体制が崩壊し、国内が分裂する。

 

 はやくそうなるといいなあ。

西明寺・名勝庭園蓬莱庭

西明寺(さいみょうじ)は庭園の蓬莱庭が見所なのだと拝観受付の女性が強調していた。

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庭園に寄らなければ、まっすぐこの階段を登って本堂に行くことが出来る。

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庭園入り口から。よく手入れされていて美しい。

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ぐるりと回って池のある方へ向かう。

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朝日が柔らかく射している。逆光だが、いまのカメラはちゃんと撮ってくれる。

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こういうところを開け放ち、縁側から庭をぼんやり眺めるのもぜいたくなしあわせかもしれない。

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ドウダンの可愛い白い花。

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見る位置を少し変えるだけでまた違う味わいがある。

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向かい側に石楠花の花が見えた。他にも白いものやこのピンクの花が数輪咲き始めていた。

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庭園からの道はここから左手へぐるりと回るようになっている。

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古木と石塔。こんな一景をそこら中に見ることができる。

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こういう道を歩いて登っていけば、本堂の横へ出る。

きれいな空気と景色で身体も気持ちもよみがえる心地がした。

2022年4月20日 (水)

西明寺・入場前

昨日、市役所の用事は済ませたので、行く予定だった湖東三山の残り、西明寺と金剛輪寺へ出かけることにした。

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朝、ベランダから見下ろすとツツジがたくさん咲いていた。

出かけるとなると嬉しくなって、六時前に支度して朝食を食べ、通勤の車が混み出す前の七時ころに出発した。名神高速を走ればすでにトラックがたくさん走っている。前方遙かの伊吹山も次第に大きくなる。すでに雪はほとんどない。関ヶ原のあたりから、左手は鈴鹿の山が迫っている。湖東三山もその鈴鹿の最前線のあたりの高台にあるのだ。鈴鹿山系と琵琶湖というのが直接つながっていることをなかなか得心できなかったけれど、実際に走り回ってみると実感する。

八時過ぎに西明寺の駐車場に着いてしまった。中に入れるのは八時半からだという。仕方がないので入り口周辺を歩き回った。朝日が斜めに射して木々も苔も美しい。気温12度。身が引き締まる。

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樹に斜光が当たると本当に美しい。

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自然木だからこその癒やしを感じる。

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手入れが丁寧にされているのだろう。写真には撮らなかったが何人もの人が掃除や庭の草取りをしていた。

みな口々におはようございます、と挨拶してくれるので、こちらも大きな声で挨拶を返す。好い気持ちだ。

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モミジの木が多いようだから、秋はみごとだろう。

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文化財の説明板。一通り全て観るつもり。

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伝教大師の像。つまり最澄で、最澄といえば比叡山延暦寺、ここは延暦寺の末寺、天台宗のお寺なのだ。

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木が好き、木肌の感触が好き。苔が生えているが、こういう苔は木が弱ると生えるもので、木にとってありがたくない。

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時間より少し前に受付をしていただいた。まずこの西明寺の見所の一つ、庭園に入る。

お金持ち

 お金持ちになる人の習慣、とか、絶対お金持ちになれない人の生き方とかいう記事の見出しをときどき見る。でも興味がないから中身を読んだことはない。たぶん思い当たることだらけで、それならお金持ちなんかにならなくていいや、と思うに違いない。そう思うくらいだから、私はお金持ちになれなかったのだろう。

 

 私だってお金が有り余るほど有ったらありがたい。買いたくても我慢しているものがないではないのだ。でもないならないで差し支えはない。古いけれど雨露がしのげる自分の家(マンションだけど)があるし、食べ物も昔のように人の何倍も食べることはなくなったし、めったに人に会わないから、特に着るものにしゃれたものが必要ではない。金があれば高級な宿に泊まって美味しいものが食べられるけれど、健康のためには美食して良いやら悪いやらである。本も読み切れないほどたまってしまったし、いまは万一の災害(東南海地震など)に備えるのにお金があれば不安も多少は軽減するだろうということはある。

 

 子供たちはすでに自立し、生活に困ったりしていないから、何かを残してやる必要はない。いまは援助をしてもらう必要がないことを互いにありがたいことだと思っているし、お父さんは自分の金は使い切るからな、と申し渡してあるから、出来ることを出来る範囲で好きなように生きていくだけである。妻のことだけが心配だが、人生全て問題なしでは緊張感がないのでぼけてしまうおそれがある。問題を抱えているからこそ、他人のさまざまな苦難について、少しは思いをいたすことが出来るのだ。

 

 たびたび書いているように、人生が全てうまくいっている人はしばしば他人に対しての思いやりに欠ける。それはしあわせかどうか。

ニュース雑感・どうでもいいことも含めて

 見出しだけで感想を述べる無責任をお許しいただきたい。私はニュースを伝えるのではなく、ニュースをどう感じたか、感想を書いているだけである。

 

『「ロシア経済状況は安定」プーチン大統領が経済制裁は失敗と主張』(テレ朝ニュース)
 日本の円安が止まらないのに、ルーブルは値を戻し、安定している。プーチンがこのように胸を張るのはとうぜんに見える。ロシア人は逆境に強いそうだ。古来外敵内患に苦しんできた国だから、苦難になれているということらしい。今回は経済制裁という外敵のように見えるが、実はその種を蒔いたのはプーチンであり、そのことにまだロシア人は気がついていない。プーチンは今現在を見て胸を張っているが、そもそも国として信用を失ったことで、ロシアがどれほど大きなものを失ったのか、身に沁みて知るのはこれからである。安定しているあいだは安定しているというだけのことだ。大きな船はとまるまで惰性で動けるというだけのことだ。

 

「Amazon配達員、時間指定の荷物受け取り不在に激怒 不在票に罵倒の文句書き込み拡散」(J-CASTニュース)
 時間指定していた荷物を配達したら受け取り人が不在だったらしい。不在票に、時間指定したのなら家にいろ、という書き込みがあったといって、受け取り人がその書き込みをネットで拡散したらしい。「配達員が激怒」したと言うよりも、受け取り人が書き込みに「激怒」したように読めた。不在だったのは仕事で配達があるのを忘れたからだそうだ。

 

 Amazonは置き配が可能であるのはだれでも知っている。どうして時間指定して配達させたのか誰もが首を傾げる。この受け取り人も「お客様は神様です」教の信者だろう。配達業者に時間指定配達を約束させたとき、受け取り人もその時間に在宅して受け取るという約束をしたということである。そんなことは子供でもわかることだ。ところで、さっそくマスコミはAmazonに見解を問うているそうだ。バカか。

 

 MOREという雑誌が木村拓哉のインタビュー記事を書いて、それをニュースネタに取り上げていた。「日本中の注目を集めながら、時代の真ん中で輝き、第一線を走り続けている・・・国民的スター」だそうだ。「いくつもの社会現象を巻き起こし、時代を動かした」ともある。そんなに影響力のあったえらいお方だとはつゆ知らなかった。不明を恥じたい。

 

 それに関連しての提灯記事らしい評論らしきものもあった。木村拓哉は名優だと自信を持っていう、のだそうだ。そのたとえとして、丹波哲郎や渥美清が引き合いに出されている。いまはどんな役でもこなせるのが名優とされるが、違うのだという。丹波哲郎は偉そうな人物を演じればピカイチだが、普通の人を演じるとからっきしだった。渥美清も役柄の幅は狭かった。だから木村拓哉は演技の幅が狭くて何をやっても木村拓哉しかないのは、丹木哲朗や渥美清のように名優だからだ、といいたいのであろうか。渥美清や丹波哲郎が草葉の陰で泣いているだろう。

 

 私が好きでも嫌いでもなかった木村拓哉が大嫌いになったのは、『武士の一分』という藤沢周平原作、山田洋次監督の 映画を観て、あまりの演技のお粗末さに驚嘆して以来である。映画をほとんどぶち壊していたが、かろうじて支えていたのは笹野高史だった。

 

 それが名優だそうだから、世のなかにはさまざまな価値観があるものだと思う。

2022年4月19日 (火)

『酒呑童子』

『御伽草子集』(小学館の古典文学全集)の『酒呑童子』を読む。原文のまま読んでもおおむね意味はわかる。わからないところは注釈を拾う。現代語訳もあるが、ほとんど読まずに済むし、雰囲気を味わうには現代語訳は味消しになる。

 

 丹波国の大江山に鬼神が棲むという。みめよき女性たちがさらわれるという事件がつづいていた。そして帝に重用されていた池田の中納言という人の最愛の一人娘がさらわれる。高名な陰陽師(安倍晴明かと思われる)に占わせると、「大江山の鬼神がさらったものに間違いない」と断言される。

 

 中納言は帝に窮状を訴え、命により、源頼光、その四天王である碓井貞光、占部季武、渡辺綱、坂田公時、そして藤原保昌の六人が召され、大江山の鬼退治と娘たちの救出が宣旨される。

 

 八幡、住吉、熊野の三神の陰ながらの助けにより、めでたく大江山の鬼、酒呑童子とその一党を討ち取り、姫を初めとして女性達を助け出すことが出来た、という物語なのだが、かなりすさまじい描写がつづく。鬼の信頼を得て懐に入るまでに鬼と同様の所業ともいえることをするシーンがあるのだが、凄惨である。また、助けられたのは、さらわれたもののほんの一部であったこともうかがわれ、無惨な最期を遂げた人たちが多数いたことも読み取れる。

 

 坂田公時(さかたのきんとき)は、山姥に育てられ、熊と相撲を取った足柄山の金太郎である。渡辺綱は、羅生門で鬼の腕を斬りとったという話(後に鬼の策謀により取り戻されてしまう)で有名。この大江山の酒呑童子の一党の一人、茨木童子がその鬼とも言われるが、茨木童子はここで殺される。渡辺綱との因縁も語られるのが興味深い。ただ、それだと羅生門の事件がこの酒呑童子の話の前だったことになるが、説話の中にはこのあととされたものもあるらしい。因果はめぐるのである。

 

 童子(どうじ)というのは、髪を結わないで寺社に属して雑役に従う者をいった。物語の中で酒呑童子自身が「本国は越後の者、山寺育ちの児(ちご)なりしが・・・」と語っている。

 

 ところで、大江山は丹後半島の大江山をいうとされているが、私はどうしてこんなに遠いところであるのか昔から不思議だった。謡曲にも酒呑童子を主題にした『大江山』という演目があるらしいが、そこでも丹波と丹後の境とされている。これでは夜な夜な都を脅かすには遠すぎるのである。しかし、馬場あき子女史の謡曲『大江山』のなかの記述や『今昔物語』の大江山に関する記述を考察すれば、洛西から丹波への途中の老坂あたりを大江山と称していたとする。私もその説をとりたいが、丹後半島の人たちは怒るだろうなあ。

マスクの義務化の権限

 アメリカの裁判所が、CDC(疾病対策予防センター)がマスクの義務づけまで指示するのはその権限を逸脱している、という判決を下したそうだ。マスク拒否者は小躍りして喜ぶだろう。日本の話ではないのに日本でも浮かれる者が出るだろうと想像して厭になる。

 

 この判決を下した裁判官は、法律の解釈を自分なりによく検討したのであろうと思う。まさか裁判官もマスク嫌いだった、などということはないと思いたい。しかし想像力の欠如した裁判官だったと、将来悪名を残すことになるかもしれない。

 

 大げさに思われるかもしれないが、ことは案外深刻なのである。もしいまの新型コロナよりも致死率が高く、マスクのあるなしが感染に大いに関係するという事態がやってきたとき、CDCはマスク義務づけを指示することが権限を越えるから出来なくなったのである。その時は来る。必ず来る。その時にこの判決はアメリカ国民に多大な害を及ぼすことになるだろう。アメリカは自由の国で、義務だって守らないのだから、義務でないならどうなるのか、想像に難くない。

先に片付ける

 今日は快晴という予報どおりの青空で、朝は風もない。窓を開け放つと空気がひんやりと感じられる。雨が続いていたので花粉症も軽減化して楽になっていたが、今日はやや目や鼻が反応しているようだ。

 

 左足膝下全体のむくみがようやく治まってきた。足もこの数日はつる気配がない。これなら少し足慣らしに歩くことが出来る。

 

 先日湖東三山の一つ、百済寺に行ってきた。今日の天気なら残りの二つ、西明寺と金剛輪寺を歩きたいと思っていたのだが、妻のことで役所の手続きをしなければならないという用事がある。それを後回しにしてもいいのだが、今朝起きたときの気持ちが、どうも出かける方へあまり盛り上がらない。こういうときは出かけてもろくなことがない。用事を片付けるのを優先することにした。

 

 来週初めに糖尿病の定期検診があるので、昨晩から休酒を始めた。それでも寝付きはそれほど悪くはなく、夜中に一度目が醒めたがすぐまた朝まで眠り続けることが出来た。リズムを取り戻せたのなら良いのだが。来週、犬山の先輩とずいぶん久しぶりに会う。二人で近鉄に乗って行き、飛鳥を散策し、夕方、親友のU島君とも八木で落ち合って三人で会食することにした。そのためにも足慣らしをしておかないといけない。それに定期検診のためにも増えすぎた体重を削らなければならない。

 

 本もぼちぼちは読めている。

2022年4月18日 (月)

柔軟剤

 身体が硬くなって、下着の脱ぎ着などが昔ほどスムーズにいかないのに腹が立つ。柔軟剤は面倒で使わなかったが、去年あたりから使うようになった。洗濯物が柔らかくなって脱ぎ着は楽になり、肌触りもよろしい。ただ、私の洗濯機は柔軟剤を自動的に入れるようになっていないので、最後のすすぎの前に入れるタイミングを逃さないようにしないといけない。

 

 そのための安い小さなタイマーを買ってあるのだが、このタイマーの時間と洗濯機のタイマーの時間がずいぶん違う。そんなバカなとも思うが違うのである。どちらが正しいのか調べていないから判らない。タイマーのほうが時間が早く進み、洗濯機の方が遅れる。

 

 むかしほどではなくなったが、私は本に夢中になると周りの物音が聞こえなくなる。音楽をかけながら本を読んでいても、音楽が聞こえているときは本があまり読めていない。だから本が読めているときは音楽はほとんど聞こえていない。タイマーもそうだ。はっと気がつくと時間が過ぎていて柔軟剤を入れられないこともある。使わずにいたときはなんともなかったことが、使いだしてからは柔軟剤を使わない下着の着心地が悪い。

 

 本日午後、妻の病院に支払いに出かけた。クラスター発生で面会制限中なので、待合室には人がほとんどいなかった。そうして支払いを済ませて帰ってきたら、市役所から新しい障害者手帳が出来たのでとりに来るようにという手紙が届いていた。うーん、雨は降り続いているし、必要なものを準備してまた出かけるのが面倒だ、明日にすることにした。

 今日できることは今日のうちに、というのが普通だが、私の場合は、明日でもいいことは今日しない、である。子供には聞かせられない。

鬼についての備忘・暗黒部に消えた者たち

 馬場あき子の『鬼の研究』、第三章『王朝の暗黒部に生きた鬼』の初めの方にある一節を紹介する。

 

 一口にいえば、たしかに王朝は繁栄した。桓武以来三百年、あるいは、後白河をその最終末にあてれば実に約四百年にもわたる繁栄である。しかし、繁栄ということばくらいあいまいなものもなく、時代が古ければ古いだけばくだいな犠牲的暗黒をふくむのがつねであって、王朝という、摂関政治の背景には、その繁栄の数十倍の分厚さをもって犠とされた人と生活があったことはいうまでもない。「鬼とは何か」について考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意志や姿なのであって、羅生門に出現した鬼なども、心のどこかでは実は人間的な顔とかさなるところがないではない。というのも、王朝の繁栄の進展とともに、鬼はしだいに他界のものの相貌を失い、行政圏外の暗黒部に破滅していった人びとの、しぶとく、あくどい生き方に近づいてゆくからである。そして、爛熟し退廃に向かいつつある時代の底辺に、鬼はきわめて具体的な人間臭を発しつつ跳梁していたという印象をうけるのである。他界のものとしての鬼は、もちろん拠点となる居所生活などをもつことはない。しかし、王城近い山岳に拠った現実の鬼は、生活を、しかも厳正な規律と統制に防衛された集団行動によって保っていた。

 

 こうしてここから酒呑童子などの鬼についての考察が始まる。そういえば桃太郎の維持する鬼もそのたぐいといえるであろう。さらに、金太郎は酒呑童子の鬼を退治する源頼光の四天王の一人、坂田公時である。おとぎ話の主要人物がともに鬼と闘うのである。

 

 大部の説話集である『今昔物語集』や『宇治拾遺』にたくさんの鬼にまつわる話が収められているのは、どういう理由であるのか、多少は想像がつくような気がするではないか。

老醜

 昨夕のBS朝日の番組で、ウクライナ問題や日本の防衛費についてゲストに質問しながらその話を聞かずに持論をしゃべり散らし、現状認識に適切を欠き、その根拠が時代錯誤と思い込みばかりであるのを見て、田原総一朗の老醜を感じた。

 

 しかし考えてみると老醜によって極端になっただけで、もともとこの人はそういう人であったのだとも思った。

2022年4月17日 (日)

地方選挙

 本日は地元の市長と市議会議員の選挙の日である。リタイアしてからこの十年以上、ほとんど在宅しているので棄権したことはない。期日前に行くこともあるが、当日の投票の場所の小学校が近いので、特に用事がなければ当日投票する。投票はたいてい朝一番に行く。今日も午後から雨の確率が高い予報だったので、朝行くつもりだったのになかなか尻が持ち上がらず、昼を過ぎてしまった。

 

 長く勤めた市長は高齢で、今回は立候補しなかった。候補は二人、どちらもよく知らない。いままでの市長はマンションの運動会や夏祭りにも必ず顔を出すし、息子の同級生の祖父でもあるからなんとなくなじみがあった。市議会議員候補にも全く知った人がいない。配布されたプロフィールや公約を二度三度読み返した。やはりあまり高齢の人には投票したくないし、投票したくない党の候補も外す。また若くても軽佻浮薄に見える顔写真の候補も外す。印象は大事だ。

 

 残念ながら、「このひとだ」という人はいない。それでも、いつもよりもさらに真面目に候補を選び、投票に行った。朝一番よりも人が多い。念のため折りたたみの傘を持参したが、使わずに帰ることが出来た。

 

 この一週間ほど毎日朝から晩までやかましかったのが、今日から静かになった。何よりそれがありがたい。

見方が変わる

 日本を取り巻く国に、ロシア、中国、北朝鮮という、民主主義の世界から見て問題のある国が三つもあることを、今回のロシアのウクライナ侵略によって日本人は思い知らされた。世界は不穏な方向に動き出している。備えを伴わない力のない状態では、外交努力も虚しいと日本人のまともにものを考えることの出来る人は感じているはずだ。

 

 とうぜん日本の防衛を強化しないといけないことになる。それは日本が侵略することではなくて、侵略から自分の国を守るためのものである。過去の経験から日本が他国を侵略することがどれほど自国にとって損であるか、歴史を学んだ日本人なら身に沁みて知っている。それでもそのことがわかっていない国が存在していることが危険であり、それに備えなければならないのだ。

 

 平和憲法が国を守る、というのがただの信仰だったことにようやく気がつきだしたなら、備えをしなければならない。歯止めだった防衛費の枠を見直すのは自然の成り行きだろう。見方が変わったのだ。

 

 いま防衛は陸海空の軍備だけではなく、AIやサイバーなど最先端の科学技術を必要としている。そのときに日本学術会議は防衛関連の協力を峻拒している。もし協力すると学術会議から閉め出され、大学に居ることも出来なくなるという。ところがそのメンバーが中国などで普通に軍事技術に転用が明らかなものの協力研究をしているという。

 

 思想性を伴った、おかしなダブルスタンダードを問題として、菅前首相は一部メンバーを拒否した。これを学問の自由の侵害だとすり替えていた学術会議は、いま情勢の変化をどう考えているのだろうか。この問題を軽視していた国民も、実はとてもだいじな問題だと気がつき始めている。見方が変わりつつあるのだ。

 

 戦後の日教組主導の平和主義を信仰し続けた人たちも、今回のロシアの行動で、考えを修正してくれるといいのだが。

中国のマスク

 上海で新型コロナの感染が拡がってロックダウンがつづいている。当局は、死者はゼロだと発表しているようだが、感染者数から考えて本当かどうか疑わしい。疑うのは、これまで中国が情報を隠蔽し、統計を操作して発表しているとしか思えないことが繰り返し行われているからだ。武漢で新型コロナ感染が始まってからの中国の隠蔽が、このような世界的パンデミックにつながったことを思い出さざるを得ないではないか。

 

 上海は人的交流の盛んなところであるし、人口密集度が中国で最も高い場所でもある。これから人口密集度の高い都市への飛び火もあり得るから、強硬なロックダウンが行われているのだろう。

 

 中国以外の専門家が指摘するのは、中国のコロナワクチンは効果の高いmRNAタイプではなく、不活性化させたウイルスを使ったものであることだ。オミクロン変異などについて対応し切れていないのではないかという。それならこれから北京や香港や重慶、西安や成都などに感染が拡散する可能性が高い。中国でもmRNAタイプのワクチンは開発できないはずはないのに、不活性型にこだわるのはなぜなのだろうか。これは憶測だが、中国は感染爆発前から新型コロナウイルスの徹底的な研究がなされていて、感染対応に万全を期すことが出来ると判断していたのではないか。その確信が変異の早さに対応しきれないことにつながったのではないか。だからこその強硬なロックダウンなのただろう。

 

 上海のロックダウンと、実施する当局の役人たち、その厳しさに抗議する市民達の映像を見ていて気がついたことがある。マスクの装着が完璧に正しいことだ。欧米や日本のように鼻丸出しの、つけていてもあまり意味のないルーズな付け方をしている人がひとりもいないのだ。マスクの付け方も徹底教育されているのだろうか。日ごろテレビで日本人のバカ丸出しの鼻出しマスクをみせられているから、却って異様に感じる。

2022年4月16日 (土)

鬼についての備忘

 鬼のイメージは、大男で虎のふんどし、赤や青い顔をして角が生えているものだが、これがもともとの日本の鬼の姿ではないのだと専門家はいう。百鬼夜行の絵などを見ると、異形のものを鬼とみなしたのではないかというのだ。太政大臣冬嗣の孫常行が出会った百鬼夜行の鬼たちは「手三つ付きて足一つ付きたるものあり、目一つ付きたるものあり」・・・などと記されている(『古本説話集』)という。

 

 草木悉皆成仏という仏教の言葉がある。この世のあらゆるものに生命があるという考え方で、日本古来のアニミズム信仰と良く親和しているといえる。その考えの流れから、この世に長く生きたものは神聖を帯びると考えられ、狐などの獣も長く生きると化けられるようになったり、日常の道具さえ、古くなると怪異を示すようになる。もののけとは、「もの」の「化」でもある。そのようなものも古くは鬼とみなされた。

 

 まつろわぬもの、権威に逆らうものを鬼と呼んだのだ、という指摘もある。酒呑童子などはまさにそういう存在だろう。

 

 こぶとり爺さんの話はよく知られているが、ここにも鬼が出てくる。『宇治拾遺物語』の巻一の三の『鬼に瘤とらるる事』という話がまさにそれである。ここでは良い爺さんは瘤を取られることで普通の爺さんになり、隣の家の爺さんは真似をして、一つだった瘤を二つにされてしまう。むやみに羨んだり真似をしてはいけないという教訓めいた言葉で最後が締めくくられているが、ここに登場するのは大勢の鬼たちで「大方やうやうさまざまなる者ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌(たふさぎ)にかき、大方目一つある者あり、口なき者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども、百人ばかりひしめき集まりて・・・」と書かれているものの、角があるという記述はない。

 

『鬼の研究』や『鬼と日本人』には、さまざまな鬼の話が引用されているが、そのいくつかを手持ちの本から拾って読んでいる。『宇治拾遺』や『今昔物語』にこれほどたくさんの鬼の話が収められていることにいまさら驚いている。

足を上げて

 左足のむくみがなかなか引かない。左足だけ少しきつめの靴下を履いて寝たら、くびれだけがくっきり残った。今日は足を上げて転がって本を読んでいるが、目立って良くなる気配はない。足腰の疲れはもうなくなったのに、どうしたことか。飲んでいる薬のせいもあるのだろうか。

 

 ぽつりぽつりと読みやすい本から読み終わっている。山口瞳『酒飲みの自己弁護』(新潮文庫)
 私もバカ酒を飲み続けてきたので、共感することも多いが、ここまでのこだわりはない。この本も二回読んだので処分することにする。あるとまた読みたくなってしまうから。
山口瞳『江分利満氏大いに怒る』(集英社文庫)
 この本を読んだら怒る女性も多いだろうな。書かれたのはかなり昔だから、男の意識もいまとは違う。一般的な私小説とはまったく違う私小説風のエッセーなのだが、軽く書いているのにその中に捨て身のすごみがある。

 

曾野綾子『生身の人間』(河出書房新書)
 五六年前に読んだ本の再読。そろそろ曾野綾子も読み直した順に文庫と新書から片付けていこうと思う。書いてあることに、その通り、と思うことが多いからついまた読んでしまう。矜持、というものをいつも考えさせてくれる。

 

ちょっと歯ごたえのある本も読了した。
薄田泣菫『完本 茶話』(富山房百科文庫)
 上中下の三冊をようやく読み終えた。前にも書いたが、三冊のページは通し番号になっている。二段組で千ページ以上、それを毎日数ページずつ読んでいたのでずいぶん時間がかかった。
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(河出書房新社)
 上下二冊をようやく読み終えた。読みかけて中断していたので時間がかかった。前作の『サピエンス全史』が人類の過去史についての考察で、今回のは人類の未来についての考察である。デウスとは神のこと。AIの急激な進化がもたらすものは想像を超える。しかしその前に人類に未来があるのかどうか。

 

 いま馬場あき子の『鬼の研究』と小松和彦の『鬼と日本人』を並行して読みながら、関連する『今昔物語』や『宇治拾遺』などを拾い読みしているので、それに飽きるまではそれが読書の中心となる。骨休めに山口瞳、曾野綾子、内田樹の文庫や新書を読んでいる。もちろんそれらは片付けるための再読が多い。興味は突然他へ移るからこの先は判らない。それにしても娯楽小説が読めなくなった。未読がたくさんあるのに。

 

 取り寄せたホフマンの『悪魔の美酒』はおもしろく感じるが、夢中になるとなにも手につかなくなりそうで、読み進めるのを控えている。雑に読むのはもったいない。

山崎ハコに酔う

 左足の膝から下のむくみがひどくなり、水分の摂取を控えた。汗をかくようにしたら少しおさまった。身体の水分のバランスが狂っているらしい。むくみが出ると小便の出も悪くなる。水ぶくれをなんとかして解消しないと行けない。

 

 昨晩は水分摂取を抑えて風呂で山口瞳の本を読んで一時間以上汗をかき続けたら1.5キロほど減量している。湯上がりに自家製ハイボールを作り、ちょっとしたつまみで、久しぶりに山崎ハコの歌を聴きながら好い気持ちになった。

 

 山崎ハコなんてちょっと若いけれど、ほとんど私と同世代だから、知っている人は少ないかもしれない。孤独とはなにかを静かに、ときには激しく歌う。二三年前にWOWOWのドラマで久しぶりに顔出しで主題歌を歌っていて、なつかしかった。松尾和子と森進一、研ナオコとならんで、ちょっと独りを味わうときに聴く歌い手のひとりだ。なんとなく娘のどん姫と二人で聴きたいな、などと思ったが、彼女も人妻で、今は独りではない。山崎ハコを一緒に聴いたことはないが、彼女の好みだと思った。

2022年4月15日 (金)

おまけ

能登に泊まった翌日はどこにも寄らずに、のと里山街道を走って金沢へタイヤ交換に向かった。

この日の朝の気温は10℃以下で肌寒い。風が吹いている。

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湾の奥だから波は立っていないが木々が風に揺れている。

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風に飛ばされた桜の花弁が道に散り敷かれている。

約束の時間間までかなり余裕があるので、ゆっくり出立。いまにも降りそうだが、傘が必要なことはなかった。

海の見える志雄のパーキングでトイレ休憩し、時間調整をした。

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パーキングの裏手を見て寒々しい景色に暗澹とした。どうしてこういうところにものを棄てるのだろう。

金沢の手前から雨がときどきぱらつきだした。タイヤ交換を済ませて、北陸道でどこにも寄らずに自宅に向かう。とちゅう、武生から敦賀にかけて濃霧。ここらへんは霧の多いところなのだ。名古屋は雨。途中強く降ったりしたが、着いたときは小雨で助かった。今回は土産を買わず。無事が土産である。

のとじま水族館

軽い昼食を摂って、のとじま水族館に行く。

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ジンベエザメ。世界最大の魚。ただしこれは三メートルほどだから、まだ子供か。

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イルカショーまで一時間以上ある。イルカが自発的に稽古しているらしい。

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マイワシの大群。

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たしか、ナポレオンフィッシュ。

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アジ。目を見ると鮮度が良い(生きているからあたりまえ)。つい旨そうだと感じてしまう。

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カワハギ。

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アザラシが遊んでいる。狭いところをくぐり抜けるのを楽しんでいるようだ。しばらく眺めていた。

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息継ぎをしたらガラスが曇った。

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ペンギンも見飽きない。

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休憩コーナーでアイスクリームを食べながら水槽の海亀を眺めた。

歩き回っていたら足腰にますます痛みを感じてきたので切り上げた。ここからツインブリッジを渡って穴水の少し先の宿へ向かう。海岸には桜が満開に咲いていた。

菅沼集落内

高台から坂を下りて集落に入る。

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入り口近くの防火水槽前の桜が美しかった。

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山にはまだ雪が残っている。

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生活の場としての合掌造り。菅沼集落は土産物を売る場所はあまりないのだが、今回は店を閉めていた。いつも立ち寄る甘酒や五平餅を焼いてくれるところも営業していなかった。

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春のおもてなし。

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こちらは桜ではない。

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紫モクレン。もうすぐ開花しそうだ。

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桜の下で春の支度をしている人たちがいた。

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少し歩いてエレベーターのあるトンネルに向かう。そこから高台の駐車場へ戻れる。エレベーターに乗らずにトンネルを突き抜けると施設や展示物のある建物があるのだが、今回はパス。たぶん開いていないと思う。

五箇山のインターに戻り、東海北陸道から小矢部まで走る。小矢部ジャンクションでは北陸道と交差する。金沢と名古屋を往復していたときは、そこから左折して北陸道で金沢へ向かったが、今回はそのまま北上する。小矢部から先は能越道となる。高岡、氷見を過ぎて七尾まで走り、七尾で降りて能登島へ。次の目的地はのとじま水族館である。

2022年4月14日 (木)

菅沼合掌集落・高台から

帰雲城址から白川郷まで10キロ足らず。庄川に沿って北へ走る。白山が見え隠れする。白山白川郷ホワイトロードはまだ開通していないはずだ。白川郷なら桜は咲いているはずだが、今回は菅沼集落に行くつもりなので、白川郷は通過するだけ。

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やはり白川郷の桜は咲いていた。車内から信号で止まったときにあわてて撮ったので、余分なものが写り込んでいる。

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白川郷の道の駅でトイレ休憩。ここで東海北陸道に乗ることも出来るがそのまま156号線を五箇山に向かう。菅沼は五箇山にある。白川郷から五箇山のあいだは橋を渡るたびに岐阜県と富山県が入り会いになっているので、ナビは「岐阜県に入りました」「富山県に入りました」とそのたびに教えてくれる。

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菅沼集落の高台に駐車場があって、そこからエレベーターで降りることが出来るが、私は高台からの写真を撮りたいのでぐるりと遠回りして北側の坂道をいく。途中の田んぼはようやく雪が溶けかけている。その向こうに桜が咲いていた。

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なかなか絵になる。桜が満開のときに来たのは初めてだ。

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屋根を補修している家の横の桜がみごとだった。

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畑はすでに雪が避けられている。真ん中奥に小さな神社がある。

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ここの屋根の傾斜は急である。雪がそれだけ深いということだろう。

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少しアップにしてみる。

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降り口にて。

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山を見上げれば桜があちこちに見える。

山体崩壊と遠山家と帰雲城

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御母衣ダムを下り、庄川沿いに156号線を北へ走れば対岸東側にはこのような山体崩壊の様子を見ることが出来る。

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昔から崩壊はつづいていると思われ、川には崩れ落ちた岩石がゴロゴロしている。このあと立ち寄る帰雲(かえりくも)城址はその山体崩壊で一夜にして城と城下の街が消滅したという場所である。その前に道沿いの遠山家の合掌住居に行く。

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いまは雪囲いがしてあるが、夏は中を見ることが出来る。

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雪の深い場所なのである。そもそも合掌住居は雪下ろしをしなくても自然に屋根の雪が落ちるように作られている。雪の質や量によって屋根の角度が違うのだと以前相倉集落(世界遺産には、白川郷、相倉、菅沼の三集落が合掌集落として認定されている)で、ボランティアとして案内してくれた高校生に教えてもらった。

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道路を挟んだ反対側にこのような神社がある。この急で手すりのない石段を登った。前に登ったとき(十年以上前)はなんということもなかったのに、息が切れるし足元はふらつくし、怖かった。ここで足に来たようだ。

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上から見下ろす。大きな建物なのである。

ガクガクした足をしばし休めた後、帰雲城址に向かう。

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帰雲城址の石碑。遙か向こうが山体崩壊した帰雲山(1662)。埋蔵金伝説があるという。

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目一杯の望遠で。

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こぶしと鎮魂の観音様。

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ふりかえれば樹間から白山前山が覗く。

御母衣湖(みぼろこ)

訳あってまだ小学生だった子供たち二人と私の三人暮らしとなった。その子供たちも大きくなって、息子が大学に入学し、寮生活を始めて私と娘の二人暮らしになった。しばらくして私は金沢へ単身赴任することになり、まだ高校生だった娘のどん姫は独り暮らしになった。芯が強いところのある娘を信用はしていたが、それでも心配である。毎週末には極力金沢から名古屋の自宅まで往復した。

北陸道で帰る手もあるが、東海北陸道の方が近い。ただ、当時は、まだ東海北陸道は白川郷と荘川のあいだのトンネルが開通して居らず、その間は御母衣湖の脇の狭い道を走らないといけない。ここはそもそも御母衣ダム建設のための道路だったのだろう、乗用車どおしならいいがトラックはすれ違うことが出来ないトンネルが全部で九つあり、向こうからトラックが来ると本当に怖かった。冬は雪が積もり、夜走るから凍結してアイスバーンになっている。スリップしてあぶなかったこともたびたびあった。

足かけ十年通ったから数百回往復したことになる。

その道を久しぶりに走りたくて、東海北陸道を荘川で降りた。御母衣湖の脇にダム建設で水没した村から移設された荘川桜があり、それも見てみたかった。

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最初に三つほどその怖くて狭いトンネルがつづいたところに車が停められる。雪が残っている。雪融け水で多いはずのダム湖の水は思ったより少ない。向こうに見える橋を渡ってきた。橋を渡りきってすぐ直角に曲がるという道である。

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足元にはふきのとうがたくさんあった。

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少し先に移動。川の対岸の開けたところはふだんは水没しているところ。

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下流側。ダムはまだずっと先だ。

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よく見ると道路のあとなどが判る。人々が暮らし、子供たちがいて学校や店などもあったのだろう。

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ダムが近いところ。正面の雪山は白山の前山だと思う。

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雪融け水のせいか、水の色がいつもよりも白っぽい。風がないので湖面が山を写している。

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これが御母衣ダム。石を積み上げたロックフィル式。ダムを過ぎれば白川郷までは遠くない。

2022年4月13日 (水)

能登にて

たいして歩いていないのに足が異常にくたびれた。このごろあまり散歩をしていないので、さらに足が衰えたのを実感した。だから最後の訪問地、のとじま水族館を見てすぐに宿に向かったので、三時過ぎには宿に到着してしまった。

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宿の駐車時用の横から桜越しに海を見る。画面には映らなかったが、ときどき桜の花びらが舞いかかる。

宿は高台にあるが、その坂道の途中に見事な枝垂れ桜があったので、駐車場に車を置いて写真を撮りに行った。

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どうです、みごとでしょう。私の手柄ではないから自慢するのも変ですが・・・。

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足元には水仙がたくさん咲いていた。

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すぐそばで見上げる。

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ファインダーを花で埋め尽くす。花の色に染まりそうだ。

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私の部屋からの景色。もったいないほどの絶景。奥の方、遠くに見えるのは能登島。

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右奥の方に小さな漁港があった。海と桜というのはあまり写真に撮ったことがない。

明日からは、立ち寄ったところの写真を何回かに分けて報告する予定。そこそこ盛りだくさんになった。

利用しないと損ですよ

 何かの特典を「利用すると得ですよ」という言い方と、「利用しないと損ですよ」の二通りの言い方がある。訴える力は「損ですよ」の方がずっと強いらしく、CMやさまざまなお知らせもたいていが「損ですよ」と言っているようだ(むかしは違ったような気もする)。

 

 誰だって損はしたくないけれど、たぶん心理的には得をする喜びよりも損をすることの苦痛の方がずっと強く感じられるらしい。損をするというのは比較の問題である。他の人と較べて自分が損をする、ということが耐えられない人が多いようだ。自分が損をして誰かが得をしているとなれば、その腹立ちはいっそう増すだろう。

 

「利用しないと損ですよ」と言う言葉が気になりだしたらだんだん不快になってきた。この言い方、臍曲がりの私は嫌いである。

思い切って

 明日、金沢へタイヤ交換に行く。もう二十年ほど付き合いのあるところにタイヤが預けてあり、そこで交換してもらうのである。わざわざ金沢まで、といわれるかもしれないが、それだけが目的で行くことはまずなくて、そのついでに友人に会い、北陸をうろつくことにしている。今回は天気が芳しくないのでどうしようか迷ったのだが、とんぼ返りはいかにももったいないので、思い切ってやはり泊まりで出かけることにした。

 

 というわけで今日から出かけて能登に一泊し、明日タイヤ交換することにした。いつも定宿にしている珠洲のホテルは残念ながら予約が取れなかった。いろいろ物色し、穴水の小さな宿が好さそうなので、昨晩そこを予約した。穴水でもさすがに牡蠣はもうないだろうなあ。

 

 今日はゆっくり出かけて能登島の水族館でも見てから宿に入ろうかと思う。能登島から穴水は近い。

2022年4月12日 (火)

木曽義仲

『鎌倉殿の十三人』で木曽義仲が登場していた。木曽義仲については木曽街道に『義仲館』という記念館があり、そこを尋ねたことがある。

https://toujikyaku.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-deaa.html

現存する資料が少なくて、たいした展示物はないが、建物はきれいで立派であり、担当の人はとても熱心で話し好きだ。いまごろ忙しいだろう。

巴御前についても近くに『巴淵』などみるところがあるし、関連の寺などもある。

https://toujikyaku.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-6ea1.html
https://toujikyaku.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-0636.html
https://toujikyaku.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-6ea1.html

また、平家軍を打ち負かした倶利伽羅峠にも行った。

https://toujikyaku.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-7253.html

もし興味があればそのことを書いたブログを見ていただければ幸いである。

民主主義

 石川淳の『夷齋筆談』という随筆を拾い読みしていたら、『管子』の中の「それ民、分ちてこれを聴けばすなわち愚、合せてこれを聴けばすなわち聖」という一節を引用していた。「民衆の言葉を個別に聴いてみるとバカな話ばかりだけれど、人民全体の声としてこれを聴くと過ちがなくて正しいものだ」というくらいの意味であろうか。

 

 大昔の中国の言葉なのに、まるで民主主義の原理の話みたいではないか。民主主義なんて衆愚政治ではないか、という批判をしばしば聞くけれど、全体としてはおおむね正しいという、民衆に対しての信頼のようなものを持てるかどうかだろう。

 

 民衆が全体としても愚かならば、賢人が政治をするべきだという話になり、それがときに絶対的権力者を生むことになる。デマやプロパガンダや扇動に容易に踊らされる国民と独裁者は常にセットだ。ロシア国民は全体としての正しさを示せるだろうか。フランスの大統領選挙でも、ルペンはたぶん独裁者的傾向の人物ではないかと思われ、フランス人はどのような最終判断をするのか興味がある。

 

 ところで現代は個別の民が簡単に大声で主張することが可能な社会で、全体としての民衆の正しい声を打ち消してしまう傾向が強い。百万人の中の百人でもマスコミには「百人もの人が主張している」という取り上げ方をされることがしばしばだ。韓国の報道もそんな傾向があって、よくよく注意しないといけない。

地図を眺めて計画を練る

 毎年二度ほど、長老(十歳年長)と兄貴分の人(五歳年長)との三人旅を楽しんで来た。残念ながらこの三年ほどは我慢せざるを得なかったが、パトロンの長老が「そろそろいいだろう」と声をかけてくれたので、群馬県の北部から長野県あたりを三泊くらいでドライブする計画を立てることになった。

 

 宿泊地の候補希望を聞いたので、その辺りのめぼしいところを関東甲信越のドライブマップでピックアップしている。宿は今回は長老が決めてくれるというので、私はドライブ計画を立てれば良い。出かけるのは五月の連休明けの予定。地図を見ていろいろ考えていたらわくわくしてきた。

 

 長時間対面で話をするのは娘のどん姫をのぞけば数ヶ月ぶりになる。そのこともとても楽しみだ。孤独が平気なつもりでも、やはり人恋しくなっているらしい。

2022年4月11日 (月)

本の話

 鬼の話を書いた馬場あき子の『鬼の研究』という本が読みたくて数日前にAmazonに発注した。翌日配達ということで、待っていたら配達済みのメールがはいった。ところがポストにも玄関そとへの置き配も見あたらない。誤配であろうかと思ったが、誤配された人が気がつけば回されてくるかもしれないと、翌日昼過ぎまで待った。それでも到着しないのでAmazonのカスタマーセンターに事情を説明したら、すぐに再送しますとのこと。

 

 言葉通り翌日には配送されてきた。そして、なんと誤配したらしき最初の便がポストに投函されていた。だから頼んだ本が重なってしまった。今回手配したのは、この馬場あき子の本だけではなくて小松和彦の『鬼と日本人』という本も頼んだから、二冊が四冊になってしまった。Amazonには最初の便も届いた旨を連絡したが、それきりなんの音沙汰もない。わざわざ送り返すのも面倒だし、さりとて他のものならいざ知らず、本だけはダブルで持っていても仕方がないのだけれど。本に書き込みをするのは好きではないが、この際だから、片方は書きこみ用にさせてもらおうかな。

 

『鬼の研究』を読み始めたけれど、最初に中国由来の鬼の話や、『山海経(せんがいきょう)』(中国の奇妙な妖怪たちが満載の本)の妖怪の話が書かれたあとに、奈良、平安時代の鬼の話がたくさん引用されている。古典の素養がある人が前提の書き方でどんどん進むのだが、私にはそれが足りないから少々上滑りな読み方をせざるを得ない。それでもかなり面白い。『今昔物語』や『宇治拾遺』は持っているから、引用されたものを原文で読み返してみたりしているのでなかなか前へ進まないが、こういう楽しみ方もときにはいい。在原業平の作と伝えられる『伊勢物語』にも鬼の話が出てくる。『伊勢物語』は持っていないから欲しくなったりする。きりがないのだ。

 

 ところで、その関連で惟喬親王の名前を見た。惟喬親王は木地師の祖といわれ、愛知川上流を永源寺からさらに山にはいったあたりに御陵がある。これは先日読んだ梨木香歩の『冬虫夏草』にその辺りのことが書かれていたから、それを地図でたどって見つけた。ますますその辺りに行ってみたくなったが、細い山道のようで、車は大丈夫なのか心配だ。

 

 こうして関連する本が増えていき、また収拾がつかなくなっていく。

面会制限

  妻の入院している病院から手紙が来たのでなにごとかと思ったら、病院で新型コロナ感染のクラスターが発生し、しばらくのあいだ面会制限をしますとのことであった。現時点では妻は感染していないようであるが、詳細はわからない。娘のどん姫と四月か五月に面会に行こうかと話していたが、少し先延ばしにするしかないだろう。もともとそれほど積極的に会いたいというより、しばらくぶりに一度は面会をしておこうか、という程度の気持ちのようだったから、特に残念でもないだろう。

 

 ところで今週後半に、金沢へタイヤ交換に行く。いつもなら若い友人と会食するのだが、第七波が来ている気配だから、今回は失礼することにした。天気もあまり芳しくなさそうだ。タイヤ交換ついでに能登に足をのばすかとんぼ返りするか、いま迷っている。

細ネギ

 細ネギを薬味としてよく使う。十センチほどに切りそろえて冷蔵庫に保管して必要なだけ取り出すのだが、傷みやすい。ベランダの鉢をひとつ増やして細ネギの種を蒔こうと考えた。それなら新鮮なものを必要なとき必要なだけつまめる。気がついたら買って来る細ネギには根がついている。根付きの七八センチを五六本、ためしに鉢に植えてみた。一週間ほどしたら茎が伸びてものによっては新しい細い葉が手始めている。活着したようだ。わざわざ種を買うまでもなく、新鮮な細ネギが食べられるようになるのを楽しみにしている。

 

 ついでに少し早いかもしれないが、朝顔の種も小ぶりの鉢に蒔いた。これは湯村温泉の夢千代館でもらった種で、種のはいっていた袋の絵から見ると、つるなし朝顔らしい。可愛い芽がちらりと顔を出している。

2022年4月10日 (日)

お茶

 風の向きによるのか、風そのものが弱かったからなのか、今日は窓を開け放していたのに花粉症の症状があまりなくて快適だった。出しっぱなしだったストーブをようやく片付け、シーツも含めて洗濯し、部屋を掃除してさっぱりした。

 

 一日にコーヒー二杯、お茶は二度か三度飲む。以前は別に抹茶を点てて飲んでいたが、抹茶はどうしても和菓子がないと物足りない。糖尿病には甘いものは控えなければならないから、抹茶が切れた時点から買い直さないままである。たまにジャスミンティーやプーアル茶を飲み、牛乳を飲む。泌尿器科の慢性疾患もあるので、とにかく過剰なほど水分を摂り、膀胱を常に洗って尿が滞留しないように心がけている。おかげで最近は朝の尿以外はあまり濁っていない。

 

 左手で把手を持つと注ぎ口が右側に来る左利き用の萬古焼の急須を愛用している。私が左利きだからで、普通の急須は左手では使いにくい。その急須の茶こしの金網ははめ込みで、取り外しが出来ない。目が細かいので茶葉がすぐ詰まる。あわてて注ぐと注ぎ口以外から洩れるのでときどきイライラする。ゆっくり注げばどうということはないので、心を落ち着かせるようにと自分に言い聞かせる。

 

 お茶パックの紙袋を使えば茶葉を棄てるのも楽で目詰まりもしないけれど、お茶の葉の旨味が出切れていないようなうらみがある。だからパックに入れるために安いお茶を買って少し余分に詰めて淹れるのだが、やはり安いなりの味である。がぶがぶ飲むので上等のお茶はもったいないけれど、それでも香りと旨味を多少は感じられるお茶が飲みたい。だからいまは急須をなだめながら、急須に茶葉を直接入れてゆっくり入れて飲んでいる。あわてる必要はないのである。

食べ方から

 昔何かの本で読んだのだが、ある武将が息子の食事の様子を見て、この息子でわが家は滅びると嘆いたという。なんという武将だったか忘れた。滅びると思ったのか、継がせられないと思ったかも確かではない。どうしてそう考えたのか。

 

 前に出されたご飯とおかずを見たら、どれからどのように食べていくか、瞬間的に考えるものだと思う。私はそうだ。そうしてバランスよく食べ終わるのが気持ちのいい食べ方で、ご飯がまだあるのにおかずを食べきってしまったり、自分の腹加減も考えずにおかわりして残したりするのは見苦しい。そういう気働きのない男は将になることは出来ないということだろう。

 

 安い観光ホテルなどではバイキング形式のところがある。そういうときに、つい料理を取り過ぎてしまって反省することがある。自分のさもしさ、卑しさのようなものを思い知らされた気になる。今は昔より食が細くなったから、足らないくらいにとどめるように心がけている。元を取らなければ、という考えはあまり好きではない。

 

 バイキングはつまり食べ放題ということでもある。むかしは私も大食漢だったから、食べ放題はありがたく、供する側に申し訳ないと思うこともあった。しかし食卓に持ってきた食べ物を残したことは一度もない。見回すと山のように食べ物を盛り上げ、最後に食べ散らかして食べ残しもあるテーブルをみせられると、なんだかそういう人と同類になったような気がして情けなくなる。それが家族で、子供も一緒だったりすると、この子たちは将来同じことをくり返すのだろうなと思う。

 

 食べなければ損、使わなければ損、ということを平然という人がいて、いろいろなことを損得で考え、得をするのが権利だと、とうぜんのようにいう。私も凡人だから、自分の中にそういう思いが働かない訳ではないが、極力抑えることにしている。多少の損ならしてもかまわないと割り切るように心がけている。損得でばかり考えないことも大げさだけれど美意識だと思う。損をしたくないから図々しくなる人は、見ていて見苦しい。

昨晩の酒と肴

 風呂上がりに喉が渇いたが、ビールを控えているので在庫にない。氷(冷蔵庫で作る氷が嫌いなので、氷は買う)に格安ウイスキーを注ぎ、炭酸で割ってレモン(ポッカレモン)を垂らしてハイボールもどきを作って、ピーナツをつまみながら一杯だけ飲む。

 

 シシトウの醤油煮、鶏皮を湯がいて細く刻んだものに細ネギをたっぷりのせてゆずポン酢をかけ、一味を振ったもの、キャベツとシメジをバターで炒め、コーンの缶詰とツナ缶を汁ごと放り込み、だし醤油を入れて一煮立ちさせたもの(これは前の晩の残りを温め直した)、わさび漬け、白菜の漬け物(もちろん自家製)をテーブルに並べて、菊正をぬる燗で飲む。先日郡上白鳥で買った地酒の元文はもったいないからまだ口を切らない。

 

 品数はいつもより多いが、たいしたものはない。仕上げに、タマネギをじっくり炒めてから鶏皮を湯がいた汁に放り込み、コンソメで味付けしてタマネギスープにしたものを飲む。ご飯は我慢する。雑な、いいかげんな作りではあるが、自分が満足すればそれでいい。

 

 翌日のために鶏の胸肉を一口ずつに切り分けてビニールの袋に入れ、そこに塩、砂糖、おろしショウガ、塩麹を加えて混ぜ、水を少し加えて空気を抜いて口を縛って冷蔵庫に放り込んだ。今晩はこれをフライにする。軽くて柔らかく、いくらでも食べられる。付け合わせ用に白菜の塩もみも作っておく。食べるときに水気を良く絞ると甘くて美味しい。これは栗原はるみの番組で教わった。

 

 一品二品の貧しい夕食もあるが、料理番組で教わったレシピをアレンジしてちょっとだけ手をかけるとそこそこ楽しめる。これでは減量できそうもないなあ。

2022年4月 9日 (土)

お調子者

 若いころ、先輩や上司から、営業なのだから得意先の人には笑顔で接するように、そしてときにはバカにならなければならないと教えられた。嬉しくもないのに笑顔になるのは難しいから、笑顔が引き攣っているのが自分でも判った。それでも年を経るごとに、ゆとりとともに自然に無理のない柔らかい笑顔が出来るようになった。とってつけた満面の笑顔などというのはかえって不自然である。それでも、それが自然にできるひともいるから羨ましい。

 

 ときにはバカになれとは繰り返しいわれ続けたが、ついにバカになれなかった。バカになれるのは賢い人で、本当にバカだとバカにはなれないものだ。宴会などでバカに騒ぎ立てて盛り上げようとする人がいる。それには二通りあって、私も一緒に盛り上がれる人と、みなはその人に合わせられても、私だけどうしてもシラケてしまう人である。私には無理してはしゃいでいるだけに感じられてしまう人はどうしても肌合いがあわない。

 

 好きなひともいるかもしれないから角が立ちそうだが、柳沢慎吾のような人が苦手である。どうしても好きになれない。最近では日本ハムの新庄監督のような人が苦手だ。もともとプロ野球に興味がないからどうでもいいことだけれど、ニュースに繰り返し出てきてますますいやになった。だから日本ハムが負けているらしいことになんとなく、それはそうだろうなどと思ってしまう。

 

 私が営業として心がけたことは、会話ではなるべく否定語を使わないような言葉の言い回しをしたことだ。それを心がけることで相手の印象が変わると思っている。そして部下を見るとき、否定語がすぐ出る者はたいてい消極的で成績も上がりにくい。性格的なものもあるけれど、本質的な得心がないと、注意しても直せないようだ。そういう人は相手の否定をおそれて、かえって否定を先取りしてしまうようだ。プラス思考、マイナス思考などという違いもそういう傾向と重なると思っている。

蛭ヶ野分水嶺

長良川沿い、そして長良川鉄道沿いに、郡上八幡、郡上大和、郡上白鳥を過ぎると道は上り坂になる。高鷲からは急勾配急カーブの道となり、周辺の山にはまだ雪が残っているのが見える。その辺りは桜もまだつぼみである。峠を登り切ればすぐに蛭ヶ野の分水嶺に至る。ここはひるがの高原牧歌の里というリゾート地がひろがる高原地帯。水芭蕉の群生地などもある。

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分水嶺の石碑。

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向こうから来た水が左右に分かれ、右は庄川となって日本海へ、左は長良川となって太平洋へ注ぐ。地図を見ると、厳密には庄川でなく御手洗川となっていて、庄川の支流である。

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登ってきた峠方向をふりかえれば・・・

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雪山が見える。大日岳のあたりだと思うが確信はない。大日岳ならスキー場がある。

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分水嶺の向かい、道路を挟んだ向こう側にはこのように雪が残っている。

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道路を渡って雪を見に行く。

ここからさらにひるがの高原を抜けて荘川、さらに御母衣湖から白川郷まで行きたいところだが、今日はそのつもりで出ていないので、今度とする。

帰り道の桜を愛でながら、いつも立ち寄るいくつかの場所、長良川源流の滝である夫婦滝、阿弥陀ヶ滝、長滝白山神社などをパスし、途中で栃の実せんべい、地物の山椒、鷹の爪、そして郡上白鳥の銘酒・元文を土産に買って帰路についた。

いたち坂ポケットパーク

郡上方面に向かって長良川に沿った国道156号線は、高山に向かう飛騨川に沿った国道41号線と違って車を停めるところがところどころにあるのがありがたい。たまたま満開の桜が目についた、いたち坂ポケットパークと書かれた駐車場所があったので立ち寄った。

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桜の向こうは長良川である。

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小ぶりの道祖神がおかれていた。

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四阿の軒下から桜の枝を見上げる。目の前が国道41号線。

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下は長良川。

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雪融け水を集めて流れに勢いがある。

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向こうが上流。

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写真には入れなかったが左手に学校がある。

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ポケットパークの桜を撮る。

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最後に愛車と桜の記念撮影。右手ではセーラー服の娘と母親が記念撮影をしていた。

少し足をのばして、ひるがのの分水嶺までいってみることにした。

2022年4月 8日 (金)

いつもの洲原神社

十時頃、思い立って長良川沿いに名残の桜を見に出かけた。

東海北陸自動車道を北上し、美濃で降りて、国道156号線を走る。自動車道に乗るのは関のあたりの定常的な渋滞を避けたいからだ。まずいつも立ち寄る洲原神社による。

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洲原神社横に公園がある。この国道156号線は清流桜街道というのを初めて知った。桜はほぼ散り終わっている。

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散り残っているものもある。青空がきれいだ。

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奥の方にこんなに咲き残っている樹もあった。色が違うから種類が違うのだろう。

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長良川の向こうに三本列んで咲いている。

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色が少しあせているが満開といっていい。

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洲原神社。なんべん来てもいいところだ。

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八重桜は盛りを過ぎていた。

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盛りのときはもっと色が濃くてあざやかなのだが。

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なにか祭礼があったのだろうか。注連縄や提灯、御幣が全て新しい。

神社をあとにして、長良川沿いにさらに北上する。

リベンジ

 いつのころからか、春になると眼の周りのかゆみ、くしゃみ、鼻水がでるようになった。最初は花粉症と考えるには軽い症状で、たまたまかと思っていたが、今年はひどい。ひどい花粉症の友人がいるが、彼のつらさが初めて判った気がする。だから出かけるのに、ついためらってしまう。

 とはいえひきこもっていても気分が重いばかりだし、読書もドラマや映画の鑑賞もいささか飽きてきたから一息入れたい。

 というわけで出かけることにした。行くのは長良川沿いの国道156号線。昨年の春はここからの帰り道で追突事故に遭った。だから鬼門とも思うが、そんなことではいつまでたっても忌みは解消しない。あえて同じコースを同じときに走ってみることにした。リベンジである。

 桜はまだ残っているだろうか。

 夕方には報告できると思う。

トイレから

 日本でも有料トイレというのがあるが、海外でも観光地などではそれが普通で、しばしば利用する。海外へ行くとその地独特の食べ物や飲み物が嬉しくて、つい飲み過ぎ、食べ過ぎてしまうので、緊急でトイレのお世話になることが多い。おまけに常時飲まなければならない持病の糖尿病の薬が常に腹を緩くしているから煩わしい。有料トイレ用の小銭は必須である。有料トイレには小銭を徴収する係の人がいる。その人はそれで生計を立てる代わりにトイレの掃除などもしているのだろう。トイレの鍵が壊れているのは珍しくないが、たいてい掃除だけは行き届いている。

 

 北京で例によって急にもよおしたので公衆トイレに駆け込んだことがある。ずらりと穴とふちだけのトイレが列んでいるところでしゃがむことになった。壁も金隠しもないから互いが丸見えである。地元の人たちは、互いに歓談しながら用を足している。私は恥ずかしくて彼らと反対向きにしゃがんで用を足したら、指をさして笑われた。人に尻を見せるのは確かに恥ずかしいが、私は顔を見られるのがもっと恥ずかしかったのだ。ここも古いトイレだったが、掃除だけはきちんとしていた。

 

 むかしは中国の田舎に行くと、開けっぴろげのトイレがふつうだったが、観光地などは年々きれいになり、個室があたりまえになっていった。ただ、たいてい扉は下までないのでのぞき込めば見える状態だけれど、そんな人間はいないからそれでいいのだろう。外国の映画でもそういう扉をよく見る。

 

 国によって、そして地域によってトイレの清潔さや設備がまったく違う。貧しさによる違いでもあるし、民度の違いもある。椎名誠の『ロシアにおけるニタリロフの便座について』というエッセーがある。ロシアで出会ったすさまじいトイレの様子を書いたもので、抱腹絶倒しながらそのリアルな描写に顔をしかめたくなる話だ。ロシアでは公衆の場所のトイレは便座がないことが多いという。しかも流さないのか流れないのか、使った人の残したものが積み上がって山になっているのだ。便座のないトイレをどう使うのか。仕方がない、ふちに足をかけてしゃがむしかないのである。そうして山はさらに高くなっていく。それがある場所の話ではなく、行く先々がそうだったという。

 

 ロシアの公衆トイレに便座がないのは珍しいことではなく、少し前のことだが、このエッセーを読んだあとにロシア好きでたびたびロシアに行っている知り合いに訊いたらよくあることだといっていた。

 

 理由はいろいろあるのだろうが、こういうことが仕方のないことだとしてあたりまえの国の人の民度というものがどんなものか、想像がつく。そういう国民だからウクライナであんな残虐なことを平然と行ったのだ、というのは短絡的な見方かもしれないが、私は大いにつながっていると思う。トイレがきれいにならないと、ロシアも変わらないだろう。

2022年4月 7日 (木)

遙か昔の現役時代を思い出すので

 年金暮らしの身には、ものみな値上がりする現在の状況はつらい。近くのスーパーに二日か三日に一度買い出しに行くが、その都度の支払いが実感としては二割以上増えている気がする。買えるものは買い、買えないものは控えるしかない。まだ切り詰められるものはさまざまあるので、いまのところ困窮するということはない。

 

 私のように、わずかながらではあるがゆとりのある人間ばかりではないだろうから、困っている人もたくさんいることは承知している。マスコミはそういう困っている人にマイクを向け、「値上げは困る、食べていけない」と報じる。いつもこのパターンで、しかもお客様は神様だから、値上げしなければ成り立たない会社も値上げ出来ずに来た。とうぜん働いている人の報酬も上がるはずもない。

 

 今回はその原材料、流通経費、包装費が全て怒濤のように値が上がっている。それをマスコミは繰り返し報じているのである。そして同時にいつものように「値上げは困る」という庶民の言葉を報じる。しかし背に腹は代えられず、生きるか死ぬかになれば生産者も流通業者も値上げを申し入れるしかないのだ。自社で吸収することなど不可能だから。

 

 便乗もあるだろう。私はそれを非難する気にならない。いままでたまりにたまったツケの一部を回収したくなるのはとうぜんで、むさぼればすぐに競争から脱落するから、まるまる便乗で甘い汁を吸うなどと言うことはないと思う。日本という国が空前の繁栄から没落した要因の一つが「お客様は神様です」という信仰のもとの企業のコスト無視の、コストダウン競争だったと思っている。

 

 コストの適正な価格転嫁は犯罪ではない。適正でなければ競争で蹴落とされるだけである。それをコスト無視のおかしな競争をする輩が存在するのが問題で、そういう自滅的企業を助け続けたのが政府の企業支援だった。おかげで企業は利益を上げられず、生産性も低落し、従業員の給料も上げることが出来ずに来た。

 

 いま、その逆スパイラルを補正するチャンスである。さまざまな困難をみんなで引き受けて正常に戻すときだと思う。

 

 こんなことを反発覚悟で書くのは、自分が現役時代に営業職として、(コストを考慮すればとうぜんの)値上げ交渉にたいへんな苦労を重ねたからだ。その時代は国内だけではなく、韓国や中国がライバルだったから、ユーザーも存続に命がけであった。そうしてとうぜんするべき価格転嫁が出来なかった会社は退場していった。そのことを思い出している。流れは変えなければならないし、変えられなければ日本の衰退は歯止めなくつづくだけだろう。

関係は破壊されたのか

 時事通信の記事によれば、ロシア外務相のザハロワ情報局長は、ロシアのウクライナ侵略に対しての日本の対ロ制裁について、「長年かかって築かれてきた両国間の協力関係を破壊している」と述べたそうだ。ロシアは日本に対して報復を検討しているのだという。もし協力関係というものがあったのだとしたら、それを破壊することになることを覚悟の日本の措置であるからとうぜんのやりとりだろう。

 

 ところで大方の日本人がこの言葉を聞いたとして、一体ロシアとの協力関係とやらいうもので日本はどんな恩恵があったのだろうと首を傾げるだろう。ロシアは鼻先にニンジンをぶら下げて見せ続けただけだと感じているだろうからだ。しからば、ロシアが「報復」といったところで、そもそも北方領土問題を初めとしてなにも進展らしい進展もなく(というより後退した)、何ら失うものがあるとは思えないから、何の痛痒も感じない。

 

 「長年経験してきた記憶」によって、日本人はロシアとは実のない国だということを身に沁みて知っているのだ。その実のない国と歯を食いしばって交渉してきた人たちの苦労を思うとたいへんだったろうなあと思うばかりである。それを成果がなかったからと非難する人がいるのは、まことに人でなしの行為である。いまは交渉しなくて良くなって、ご苦労様といいたい。しばらく休んで次の出番を待って欲しい。これは皮肉ではなく本心である。

桜吹雪

 マンションの駐車場や中庭には桜の樹が植えられている。このマンションも築四十年ほどになるので、桜もそこそこ立派である。その桜が満開を過ぎて散り始め、桜吹雪が舞っていた。その下でビジネススーツを着た若い女性達が記念写真を撮っていた。新入社員なのだろう。

 

 桜吹雪といえば、あがた森魚の『赤色エレジー』を思い出す。「昭和余年は春の宵 桜吹雪けば情も舞う」。最初は情ではなくて蝶だと思ったものだ。しかし桜吹雪に蝶が舞うというのも変だとは思ったが、歌詞を見て情であることを知った。あがた森魚といえば『夢千代日記』に出演していたのがなつかしい。

 

 歌詞といえば、先日、niftyから「記事を削除しました」というメールが届いた。十年以上前に書いたブログに、なんとか協会というところからクレームがあったそうで、規約に従い削除するということであった。こちらは規約を了承しているので異論はない。そのブログにはある歌詞を全文取り上げて、私がその歌詞から感じたイメージを解釈してみたものだ。

 

 歌詞を記載したことが著作権法に抵触するというクレームのようであった。なるほど。私はなにもこのブログで利益を上げている訳ではないし、十年以上前なら読んでくれている人もわずかだった(いまもそれほど多くない)。そういうものにも目配りが利いているというのもすごいなあと感心するとともに、気持ちも悪くなった。そういうものを検索してせっせとクレームをつけまくっているのだろう。今回の『赤色エレジー』は大丈夫だろうか。

2022年4月 6日 (水)

ジレンマ

 固定資産税の納税通知書が来たので即、近くのコンビニで支払った。このごろは、うっかりするとすぐ忘れるから、こういうことはできる限り早く片付ける。遠からず自動車税の通知書も来るだろう。マンションはかなり古くなったので、税額がかなり安くなってきたのはありがたいが、それでも年金暮らしには負担である。とはいえ地震で崩壊でもしなければ、まだまだとうぶんは自分の家で暮らせるということをありがたいと思わなければならない。

 

 料理のレパートリーを拡げようと思って、この二三ヶ月さまざまな料理番組を録画してきた。結局観続けたのは3分クッキングという番組と、上沼恵美子のおしゃべりクッキングという番組だった。この二つの番組は比較的に手持ちかすぐ近くのスーパーで手にはいる食材と調味料で作れるものが多い。一つでも手にはいりにくいものがある料理は作る気になれない。そのためにわざわざ遠くに買いに行くほど手間はかけたくないし、そんなものは用意しても使い切れないことが多いものだ。

 

 その上沼恵美子の番組も先週で終了した。なんと27年つづいた長寿番組だったのだ。録画した料理の種類は100を超えた。何より料理の基本、そしてポイントをいくつか知ることが出来てありがたい。それを整理してブルーレイディスク8枚ほどにまとめた。このうちで実際に作ってみたのはまだ10種類くらいだが、上手く作れたものは半分に満たない。二度三度やればもう少しコツがわかって満足しそうなものが多いから楽しみだ。だいたい私は調味料の量がいいかげんすぎるのだ(向上の余地が大きいのだ)。

 

 とうぜん食卓が豊かになる。つい作りすぎる(料理を一人分作るのは難しいのだ)、食べ過ぎる、それを肴に飲み過ぎる。たちまち体重が増えてしまった。口福をとるか健康をとるか、いまそのジレンマの中にいる。

避難タワー

 津波避難タワーについて批判的な、読売新聞の記事が紹介されていた。東南海トラフ大地震が想定される区域では、避難タワーの建設費は国が三分の二負担することになっているそうで、それでも少なくない地元が負担に耐えられない状況だそうだ。また、設置場所へのアクセスや、高い階段を高齢者が登れないなどの問題があるのだという。

 

 東日本大震災を基準とした、最大想定値に合わせた避難タワーは、どうしても大がかりで高額にならざるを得ないのだろうが、そうやって手をこまねいていればなにもない状態で東南海トラフによる大津波を迎えることになってしまう。出来る範囲のものをとりあえず建てるか否かが協議されるべきところだろう。東南海地震が来るのは不可避だし、その規模は想定最大値かどうかは判らないことだ。可能な範囲でまず手を打つことが優先されるのではないか。それが不幸にも不十分であったと批判されるのは覚悟の上のことだ。

 

 そもそも補助金頼みの巨大建造物の利権で日本の経済が食い潰され続けてきたという背景がある。津波対策という、誰も反対できない理由なら打ち出の小槌のように金が投じられているという実態もありはしないか。それなら大がかりで高額なものが作られがちだろう。マスコミも後付けで批判するよりもそのへんの実態をもう少し丁寧に検証する義務があると思う。車で地方を走り回っていると、山の中のほとんど人のいないところにまでコンクリートだらけになっていたりする。海岸はコンクリートの壁しか見ることが出来ないところだらけだ。

 

 ところで高齢者が登れないから活用されない、というなら、そもそも津波対策避難タワーそのものが無意味だと言っているのと同じことで、確かに過疎地などでは高齢者の割合が高いけれど、タワーに登れる人は助かるのである。助からない人がいるから誰も助けないことにしようというがごとき批判に私には聞こえて、首を傾げざるを得ない。

2022年4月 5日 (火)

 中国の志怪小説が好きで、妖怪や鬼の話が書かれた本をいろいろ揃えて楽しんでいることは、何度かこのブログに書いてきた。鬼は日本にもいるけれど、もともと日本のオニは中国のものとは少し違う。中国から文字が入ってきたとき「鬼」に「オニ」とふりがなをつけたときからその意味するものが混交していった。

 

 そんなことから書き出されているのが、馬場あき子の『鬼の研究』という本で、先日から拾い読みしている評論随想集に、この一部が抜粋して収録されていた。読んだらその本が欲しくなってしまったので、すぐアマゾンで取り寄せた。

 

 この文章でも紹介されていたが、鬼については近藤喜博の『日本の鬼』という本があり、私も興味深く読んだ。併せて言及されていたのは柳田國男の妖怪や山人についての多くの著作(たとえば『妖怪談義』など)も読んできた。敬愛する池内紀の『悪魔の話』などという、ある意味西洋の鬼についての本も楽しんだ。

 

 いま順番を待っている本には、アレックス・カーというアメリカ人の書いた『犬と鬼』というのがある。鬼について書いてあると思ったら、日本そのものについて書いていて、ちょっと順番が後回しになっているが、いつかは読むつもりだ。だから馬場あき子の『鬼の研究』の方が先になる。

虫の羽音

 映画『姉と過ごした最後の夏』の主な舞台は森の中の施設で、映像、そして台詞に重ねて虫の羽音が常に聞こえている。ドライブで走り回り、峠で車を停めて眺めおろしたりすると、冬でなければ虫が飛び回り、羽音がする。アブやスズメバチは勘弁して欲しいが、そうでなければ気にしても仕方がない。自然の中にいるということはそういうことだからだ。

 

 映画が人間の死を描くものであれば、人間が生命であること、自然の一部であることを思い出させるものとなる。だからこその意識的な羽音の挿入だと感じた。姉の死を見つめることになる主人公の妹は、家族から逃避してニューヨークでアーティストをしている。そこで挫折して、初めて姉の元に戻った。ギリギリ姉の死に間に合ったのは偶然だけではないだろう。ニューヨークで彼女は闘ってきた。しかし最も向き合わなければならないものからは逃げ続けた。それは生命としての家族というものからの逃避、自然から隔絶した世界での闘いであった。

 

 人間は都市空間という人工空間で生きることで、なにかを失いつつあるのかもしれない。死ぬということから目を逸らすこと、生命というものについての思いを失ってみずから人工物になりつつあるのかもしれない。

 

 エヴァ・グリーンとシャーロット・ランプリングの共通性は、その眼であり、そのまなざしであろうか。じっと見つめるそのまなざしは、哀しみや慈しみを伴って、こちらの心にまで届くかのように感じる深いものだ。私自身が見つめられていると感じてしまう。AIには心はない。心とは、形はないけれど、生命と不可分のものであろう。

 

 ときどきは森の中や海辺で、自然を直に感じる必要があると思った。

映画『姉と過ごした最後の夏』

 2017年イギリス・スウェーデン・ドイツ。この映画についてのWOWOWの短い紹介記事は内容をちゃんと伝えていない。「ミステリアスドラマ」とか「自殺志願者が集う施設」などと書いているが、ホスピス兼安楽死のための施設で、姉妹がこの施設で過ごす話である。

 

 長年姉と離れて暮らしていたアーティストのイネスは姉のエミリーに呼ばれてやってくる。この姉妹の葛藤、そして姉のエミリーが癌の末期で余命幾ばくもないこと、そして姉が終末期をある施設で送ることを知る。

 

 人が死を迎えるということはどういうことか、感情的になったり、諦観したり、さまざまな心の叫びが描かれている。もともと母親の葬儀にも参加しなかったイネスはその事態が受け入れられない。一週間という期限でエミリーは死を迎えることになっている。その一週間で姉妹は互いの関係を取り戻せるのか。そして死を静かに迎えることが出来るのか。

 

 こういうのも一つの死の形かな、と思う。

 

 姉のエミリーを私が大好きなエヴァ・グリーンが素面で演じている。最初の方でなんとなくその俤がやはり大好きなシャーロット・ランプリングを思い起こさせた。そうしたらなんと途中から重要な役柄でシャーロット・ランプリングも登場するではないか。驚いた。二人は普通に見れば似ているとはいえないが、私がそう感じたということである。

 

 ちょっと忘れられない映画になった。

2022年4月 4日 (月)

歴史家の歴史への思い

 随筆随想集の中の色川大吉の『歴史と人間の運命』という文章を読んだ。色川大吉(1925-2021)は日本近代史、民衆思想史が専門の歴史学者で、昨年亡くなった。大衆のヒーローのイメージが、時代によって変わることにまず言及していて、それは誰がヒーローとされるかによってその時代をも表しているという指摘は面白い。そして日本の場合は実際に時代を作った源頼朝や徳川家康、大久保利通のような人はヒーローにならないのはなぜかと自問する。

 

「大衆は元来がエゴイストであるから、かえってロマンチストが好きで、おのれが弱者であるからこそ強い人間にひかれるのだが、強権型の官僚やマキャベリストには本質的な反感を蔵しているように見受けられる」というのはさすがに歴史学者らしい指摘だ。

 

 源頼朝よりは源義経が、明治維新でいえば西郷隆盛が、戦後を見れば、歴史上の人物ではなくて、宮本武蔵が、机龍之介が、眠狂四郎が、木枯らし紋次郎(ちょうどこの文章を書いていたころブームだったようだ)がヒーローである。坂本龍馬や土方歳三が作家に造形されてヒーローになっていることも指摘している。ともに非業の死を遂げている。

 

 色川大吉は若くして死んだ人に、あの世に行ってでもその遺恨について聞きたいと書いている。相楽総三や北村透谷、樋口一葉、高杉晋作、坂本龍馬などの名を挙げている。そのような思いから歴史を考えるというのは、あたりまえのようでいてそうではない気がする。現在ただいまの視点から観るものが多いから、こういう意志を語る歴史学者のいうことには耳を傾けたいと思う。

 

 蛇足ながら、色川大吉は北村透谷や宮沢賢治などの研究でもすぐれた業績を残している。

ニュースの断片

 ウクライナからの映像で、市民の遺体が放置されたり、多数の遺体が穴に投じられていたのが映像で報じられた。市民への無差別の殺戮が行われていたことが明らかになったことに世界があらためて震撼したが、ロシアの政府筋やマスメディアは、「ロシア軍は市民を攻撃などしていない」と反論しているそうだ。事実を語ったウクライナ市民は「俳優が演じたもので、悪質なプロパガンダだ」と逆にウクライナを非難している。たぶん遺体も役者の演技だといいたいのだろう。ロシアはみずからすることだから、相手もしているのだといいたいのかもしれない。それを信じているロシア国民は、あとでツケを払うことになるだろう。

 

 スリランカで反政府のデモが激化しているようだ。スリランカは深刻な経済危機に見舞われていて、国民が政府に対してその責任を問うているのだ。スリランカといえば、中国の巨額の融資に頼って国家運営をしてきたが、そもそも返済不能の巨額の金を高い利子で借りていたから国家経済が回らなくなってしまったようだ。その結果として貨幣価値が下がっているところに世界のエネルギーや食料、そして物流コストの高騰が重なったから、物価が暴騰し、市民が激怒したのだ。

 

 そもそも返せない金は貸さないのがこの世のルールである。返ってこなくてもジャブジャブと金を浴びせ、そのカタに港湾や土地を長期租借の形で奪う、というのが中国のやり方であるのはよく知られている。すでにスリランカも主要な港湾などが侵略のようにして租借されている。経済活動そのものを中国に奪われていけば、ますます国は、そして国民は貧しくって行く。これはスリランカだけで起きていることではない。国連で中国を支持していることになっている国々の多くが同じ状態になっているか、これからなる可能性が高い。その国々にとっても、そして投資した金が返ってこない中国にとっても深刻なことになる気がする。

 

 こうして国家が不安定になり、そこにテロリストがつけ込んで暗躍し始める。中国は暗黒を世界に振りまく国か。その前に中国も金がつづかなくなり、金の切れ目が縁の切れ目になることを期待したいのだが、行き詰まると暴発するのが世のならいで、それも心配だ。

マスク

 当初から予想されていたことだが、新型コロナは飛沫感染だけではなくエアロゾルでも感染すると確認されたようだ。それでも空気感染ではないのだからマスクの効果が高いことは間違いない。いま流行の変異株は、接触感染よりもはるかに呼吸器からの感染であることも判っている。感染者の咳や話す際の唾の飛沫などとともにウイルスが喉の粘膜に付着することで増殖し感染する。

 

 それなら何より口と鼻をマスクで覆うことが感染の予防になるし、自分が感染者であったら他人への感染を防ぐことになる。こんなことは繰り返し報じられているからだれでも知っているはずだ。

 

 人間は鼻と口で呼吸する。鼻が詰まっていなければ、口より鼻で息をすることが普通だろう。鼻は喉とは直接つながっている。だから息が出来るのだが、テレビなどで観ていると鼻丸出しで、口だけマスクをしている人をときどき見かける。少ししゃべるとすぐマスクがずれてしまって鼻が丸出しになり、いちいち引っ張り上げている姿もよく観る。布マスクのことが多い。どちらも見苦しい。あまり賢く見えない。

 

 安いマスクでも上部にワイヤーがはいっていて、そこを鼻に合わせて曲げておけば、マスクは鼻に引っかかるように出来ている。襞(ひだ)も、表と裏があることは見ればわかることである。また、ゆるゆるの布マスクでワイヤーがなければ、ずれるのはとうぜんで、そもそも布マスクは微小飛沫を遮蔽する効果はないに等しいから意味がない。

 

 マスクがあたりまえになって二年以上経ったが、いまだにこんなことも出来ない人間だということを人前にさらしていることに気がつかないのも恥ずかしいことだ。

 

 いわでものことをわざわざ書いたのは、気になり出すとだんだん腹が立って来たからで、ここに書いて憂さ晴らしをした。

2022年4月 3日 (日)

ニュースの断片

 昨日午後から、ささやかな雑事に没頭していて、他のことはほとんど手につかなかった。ようやく一段落したが、まだ頭が定常に戻っていない。

 

 中国メディアが、ロシアのウクライナ侵攻をめぐり、「アメリカの軍需大手が巨額の収益を手にして株価もうなぎ登りになり、ぼろもうけ」と報じたそうだ。アメリカの軍事予算は上乗せされ、NATOをはじめ、各国も自国の防衛強化をするだろうから、確かにその通りであろう。

 

 しかし、ロシアのウクライナ侵略以前に、中国の膨張主義に対応して、周辺国は軍備を増強をせざるを得なかった。中国は日本の何倍もの軍拡をしておいて、アメリカの軍需産業を批判するのもおかしな話で、ロシアが困れば漁夫の利を得んとする中国自身の姿を少しは反省したらどうかと思う。

 

 プーチン氏が甲状腺の病気ではないかという情報があるようだ。癌などの医療関係者が再三にわたってプーチン氏と会っているのだという。ただしその情報は反プーチンのロシアの独立系メディアからの発信らしいから、どこまで信頼できるか判らない。プーチンが病気で具合が悪くなればいいなあという願望がこめられているかもしれない。私もそういう思いがないことはないが、プーチンのあとにプーチンよりもまともな人が大統領に座るかどうか、あまりあてにならない気もする。

 

 韓国が、日米の再三の提案を断固拒否しているそうだ。その提案というのが、韓国の水域での日米韓の合同軍事演習なのだそうだ。そもそも韓国の水域で演習するとなると、日本の軍艦が韓国に寄港して自衛隊員が上陸することになるというのが反対の理由らしい。隙あらば日本は韓国を侵略する、と本気で考えている韓国の人がいるということだろう。よほど日本が怖いのだろうか。

 

 それにしても、日本は韓国を併合してなにもいいことがなかったし、そのことでこんなにいつまでも厭な思いをしたから懲りている。得るものがあるとも思えないし、頼まれても韓国など侵略する気にならないと思うけどなあ。

2022年4月 2日 (土)

百済寺・本堂他

階段ではなく、黄色い三椏(みつまた)の花がずらりと群生する横の坂道をゆっくり登って本堂の横手に出た。

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本堂内は撮影禁止。中の本尊をお守りしている仁王様に挨拶して、格子の隙間から本尊や聖徳太子の像などを覗かせていただいた。

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本堂裏手の小さな社は、後で調べたら三所権現社というらしい。ふるさびて神々しい。

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宝篋印塔だと思うが説明がないのでたしかではない。

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山門であり、仁王門と大わらじ。

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下りは石段を降りる。途中で山門を見上げる。

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城塞化されて百済寺城と呼ばれたときもあったのだ。だから信長に攻められたのかもしれない。

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下り坂の横にこんな石垣が残っている。

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境内には椿の古木が多い。

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これはボケだろうか。

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ここは山上なので寒い。すぐ下界では桜はかなり咲いていたが、ここではようやく咲き始めそうだ。

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拝観受付をしてくれる場所へ戻る。話し好きな、腰の曲がりかけたおばあさんが相手をしてくれる。モクレンもこれから咲くようだ。

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駐車場の横にも三椏が咲いていた。愛車とともに記念撮影。

二時間ほどの滞在であったが、来て良かった。しかし下りの石段でよろけたり膝が痛かったりして自分の衰えをいまさらながらに実感した。このままではいまにどこにも行けなくなってしまう。階段や坂のない観光地などないのだから。体重を落として、膝を再訓練しないと大変なことになりそうだ。

湖東三山を回るつもりだったが、残りの金剛輪寺と西明寺は次回にすることにして帰途についた。それとは別に、愛知川沿いに永源寺方向の山中をめぐりたいと思っている。これは先日読んだ梨木香歩の『冬虫夏草』で、主人公の歩いたと多賀大社もお参りしたいし、多賀大社もお参りしたいし、琵琶湖周辺も回りたいし、滋賀県には今年は何回か来ることになりそうだ。

結果が全てだ、と確かにいっていたけれど

 イギリスのメディアの記者が「ロシアに対する日本の長年の努力はまったく実を結ばなかった」という記事を寄稿していた。確かにその通りである。安倍元首相はプーチンと繰り返し首脳会談を重ね、ロシアにさまざまな経済的譲歩をしてきた。しかし、それによってロシアが得た利益に対して、日本が得たものは比較にならないほどわずかだったように思える。実際はどうだったのか、さまざまな批判に対して日本政府も阿倍元首相も具体的に反論しないからわからない。

 

 安倍元首相が「政治は結果が全てだ」といっていたのを確かに聞いた。一度ならずそういっていた。それなら結果の出せなかったロシアとの交渉について、批判に反論せず黙して語らないのはとうぜんといえばとうぜんだ。

 

 だから、私も安倍元首相を糾弾しよう、というのではない。交渉とはそういうもので、そもそもロシアが信用できないことくらい、まともな政治家なら百も承知であろう。約束して平然と裏切る国なのである。国際社会というのはほとんどそうだともいえる。裏切りの歴史を知らずに、手放しに相手を信頼する、などというのは、愚かなことだ。ただ、ロシアはその中でもその信頼に足らないことでは群を抜いている。

 

 約束は、破りようがない状態にしたうえでするもの、というのが国際常識で、そこに信義や信頼を期待しても屁の突っ張りにもならない。

 

 安倍元首相もそれを承知で、あえて困難に挑んだのは、目的があるからで、目的が達成できるまではさまざまに手立てをつくす努力を重ねるのはとうぜんのことで、それを「長年の努力はまったく実を結ばなかった」と批判するのはたやすいが、しょせん他人事の批判である。ところが反阿倍を掲げてきた人たちは、その批判をみずからの正義の証明のように受け取るだろうな、と思った次第である。尻馬に乗るつもりはない。安倍元首相は成果がなかったのだからそのことで評価されないのはとうぜんだとしても、それを非難されるいわれはないと思う。

 

 蛇足ながら・・・フランスの名優で私の好きなジェラール・ドパルデューがプーチン派を離反し、プーチンのウクライナ侵攻を「狂っている、許せない」と語ったそうだ。そもそもドパルデューがプーチン派とは知らなかった。ドパルデューはフランスの高額所得者に対する増税に反対してロシア国籍を取得し、ロシアでの身分証をプーチンから直接手渡しされたそうで、以来プーチンを支持していたらしい。ふうん。どうでもいいけど間違いに気がついたら直して頂戴ね。

2022年4月 1日 (金)

百済寺・見晴台

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高いところが比叡山だろう。琵琶湖の水面はよくわからない。

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実際に見えるのはこんな景色。下は本坊。

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坂を登っていくと黄色い花があちらこちらに咲いている。

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本来の本堂へ登る階段。歩きにくい。上は山門。

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脇道にある半跏思惟像。

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よく観ると個性的な顔立ちをしている。

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なんという花だろう。

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あちこちで群生している。

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三椏(みつまた)という植物なのだ。マスクをしていたから匂いはよくわからなかった。

もうすこし昇れば本堂。

百済寺・庭園

 名神高速に湖東三山というパーキングがある。湖東三山とはどの山を指すのか、などと通過するたびに思ったけれど、山ではなくて、百済寺、西明寺、金剛輪寺の三つの寺をいうのであった。湖はもちろん琵琶湖である。

 今朝、思い立ってその湖東三山を見に行くことにした。

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伊吹パーキングでトイレ休憩。雪で真っ白だった伊吹山もこんな風に斑になった。

 ナビに従い、八日市インターで降りて百済寺に向かう。高台にある。寺務所で拝観料を支払い、歩くコースを教えてもらう。

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聖徳太子の発願と伝えられている古い寺なのだが、繰り返しの火災によって、寺の記録は失われてしまった。最後は織田信長に焼き討ちに遭い、完全に焼尽した。現在の堂宇は江戸時代に再建されたもの。

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本坊(本堂ではない)とその前の菩提樹。右手の建物をぐるりと回り込むと庭園に至る。

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庭園から山を見上げる。ヤマモモだろうか。

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立派な石もある。なかなか見応えのある庭園。庭園の横から本堂への道に至る。階段となだらかな坂道が選べる。

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こんな道を辿っていく。

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石塔や古木があって、気持ちが洗われる。手がかじかむほど寒い。

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神社ではないけれど、神木なのだろうか。右の丸い緑の苔があざやかだった。

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少し上に見晴台がある。咲いているのはなんの花だろうか。

つづく

映画『マグニィフィセント・セブン』

 2016年アメリカ映画。マグニィフィセントとは「崇高な」という意味である。悪徳の限りを尽くし、街を牛耳り、土地を収奪していく男と闘う七人の凄腕たち。これは西部劇で、あの『七人の侍』の西部劇版、『荒野の七人』のさらにリメイク版である。

 

 なんだか侵略者と闘う正義の味方、まるでロシアと闘うウクライナを見ているような気がするが、ウクライナには「崇高な」手助けがないのが残念だ。G7はマグニィフィセントではないようだ。

 

 敵の数があの「七人の侍」の野武士たちの集団のように数限りなく押し寄せてくる。倒しても倒してもきりがない。弾が尽きかけ、絶望的な状態になっても闘う男たち。すでに損得は超越している。

 

 リーダーを演じるのはデンゼル・ワシントン。脇役のイーサン・ホーク、好きだなあ。みな楽しそうに演じていて久方ぶりの娯楽西部劇を楽しんだ。悪は徹底して悪だからわかりやすくていい。

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