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2022年6月

2022年6月30日 (木)

勝手読み

 明け方、窓を開け放つがちっとも涼しくない。朝から30℃を超えてしまうから、超えたら窓を閉めてエアコンを入れる。ところが今日は空気が乾燥しているせいか、また北側からわずかながら風がながれているせいか、31℃を超えてもしのぎやすい。暑さになれたのか、年齢のせいで鈍感になっているのか。エアコンの涼しさというのは正直のところ本当に快適だとは言いがたい。昼頃室温が32℃を超えたのでようやく閉じこもった。

 

 BRICSにアルゼンチンとイランが参加するらしい。世界人口の40%を占めることになるそうだ。中国とインドがいるのだからそれはそうだろうと思う。ロシアはその中で主要国として存在感を示しているつもりらしいが、すでに中国やインドにエネルギー資源を購入してもらわなければ国の経済が成り立たない状態になっている。足元を見られていると思う。どう見てもこの集まりは、他国をリスペクトするような面々ではない。

 

 インドは中国とのあいだに国境紛争を抱えていて、しかもインドが台頭すれば必ず経済的に中国と衝突することが見えているから、仲間であるのは一時的な方便だろう。そしてその中国を牽制するためにロシアと組んで見せているのであって、しかも仲の悪い隣国のパキスタンを牽制する意味も大きい。いまはロシアからふんだんに安く原油やガスが手にはいりそうだから、利用できるあいだは利用しようとしているのだと思う。

 

 G7を中核とした欧米諸国や日本は、ある程度価値観を共有して国どおしの利害に違いはあっても、共通のルールが通用するという安心感がある。つまり歴然とした裏切り行為はしないだろうと思えるということだ。

 

 しかしG7の向こうを張ろうというBRICSにはそのような信義などというものは期待できないのではないか。敵の敵だから仲間だ、という程度の集まりだろう。ただし、そのような集まりが凝集する力を持つに至ったのは、過去の欧米の行為の積み重ね、近年では特にアメリカのお粗末な外交の失敗があると思う。自ら敵を産み出したのだ。そのことの自覚のないままに理念的なことばかりバイデンが言うのを世界は鼻で笑っている。

 

 世界はこれからどうなるのか、私が考えたってなにほどのこともないが、どうせなら世界の変動を解析予測しながら楽しむのも一興だろうと勝手読みしている。

映画『マスカレード』

 2021年アメリカ映画。物語の進行をバラバラに解体して並べ直し、観客をミスリードするというトリック映画。銃で撃たれて瀕死の少女が執念でドアの外に這い出してくるラストシーンで、あっと驚かないともったいないのだが。その最後のシーンでも、少なくない人がその意味が理解できなかったかもしれない。

 

 伏線が散りばめられ、おかしいな、と思うような場面もあるのだが、そこに不審を抱きかけるとインパクトのある別のシーンが被さって、そのままだまされるしかけになっている。こういう映画は種が明かされるとそれきりだが、それでもその不審に感じたところの意味を辿り直してみたいと思わせるところがあって、出来は悪くない。

 

 似たようなトリック映画を少し前に観たのだけれど、題名を忘れてしまった。

矛盾なんて屁でもない

 中国の巨大浚渫船のことを先日ここに書いたが、そのことで追記しておきたいことがある。世界的に建設時に使用する砂が不足していて奪い合いになっている。ダムやビル、港湾の建設に、セメントだけではなく、砂は不可欠である。中国はその需要が突出して高い。ビル建設だけではなく、世界中に港湾建設しているのはもちろん、南シナ海で珊瑚礁を埋め立てて人工島を建設するには膨大な砂が必要なのはいうまでもない。

 

 採り過ぎて枯渇しかかっているために、中国は自国の沿岸の海砂の採取を禁止している。しからばどこから砂を確保しているのか。台湾の離島、中国大陸に近い島のそばに海砂があり、そこへ大挙して巨大浚渫船が押しかけて採取しているのである。さらに最近は北朝鮮沿岸の砂を大量に採取しているという。北朝鮮にはたぶんなにか見返りがあるのだろう。

 

 ここで思うのは、台湾は中国の一部であると中国が主張していることだ。中国では採取を禁止しているが、台湾ならかまわない、というのなら、台湾には国内法は及ばないのであって、台湾は中国ではないということを認めていることになる。せめて意地でも台湾での砂の採取は禁止するのが筋というものだろう。

 

 面白いことに、最近は浚渫船は台湾沖で砂を採取した後、フィリピンやインドネシアを経由して南シナ海に向かうようになっているということだ。さすがに規制が働き始め、原産地証明が必要になっているのだという。そしてフィリピンもインドネシアも、書類だけ書けば懐が潤うから、ほいほいと原産地証明を発行しているということだ。

 

 こういう国々がBRICSという仲間を形成しているのだ・・・とまでは言いたくないけれど。

2022年6月29日 (水)

だらける

 午後二時過ぎの名古屋の気温は37.5℃だったという。さらに上がったのかどうか知らない。エアコンの温度設定をいつもの28℃ではなく、27℃にしているのに室温は29.5℃から下がらない。なにもする気にならないし、ぐたりとへたばっている。

 

 涼しいところはないかと奥飛騨温泉あたりを物色してみたら、こぢんまりした宿で評価も良いし、部屋にトイレがある宿が見つかった。たまたま来週、空きもある。しかし予約する踏ん切りがつかない。気持ちだけ空回りしている。このままぐったりすることになりそうだ。

 

 ブログに書こうと思っているネタがいくつか思い浮かんでいるのだが、文章を考える気力がないままである。あまり暑いと人間は意欲を失うと聞いたけれど、まことにその通りらしい。とにかく集中力が枯渇したままだ。ぬるめの湯にでもつかって、体温調節しようかと思っている。

140920-111_20220629155701暑いだろう、参ったか!

Dsc_0044_20220629155701ワハハ、心頭滅却すれば火もまた涼し。

オーバードーズ

 ニュースの断片を見ただけであるが、いつものように暴論を書く。市販薬(たぶん市販薬ではないものもあるとして)を、その適正処方量の数倍、または数十倍服用して、この世とあの世の境目を行って帰ってくる、という行為(遊び)が、一部若者のあいだで流行っているのだという。そういう薬の使い方をオーバードーズというらしい。非常に危険な行為で、場合によって行ったきりになることもあるという。この遊びが面白いのは、必ず戻れるという保証がないところにこそあるはずで、是非せいぜい行ったきりになってもらいたいところだ。

 

 どうしてこんな行為をするのか、それぞれに事情があるのだろうと思う。未来ある若者を救うためにそれをやめるように指導が必要だ、というような報じ方をしているが、こんな報じ方をすれば知らなかった者も面白そうだからやってみようという連中が増えるだけのことで、いかにも世を憂えるような報道をしながらそれを助長するという、いつものパターンを見せてくれている。ただの扇動にしか見えないし、こんなことを真似するような若者(バカ者)を増やして、まとめてこの世から消していこうという意図でもあるのかと思ったりする。

 

 市販薬の消費の増大で製薬会社は利益を上げ、GDPにも寄与することであるから、つまらない規制をしたりしないでほしいものだ。心配しなくても、まともな人間は過剰摂取などしない。

 

 オーバードーズによる副作用はたぶん全身に及び、それを抜ききるためにはかなりの長期間を要するだろう。薬とはそういうものである。そして歳をとってから、その影響が致命的に表れる可能性はかなり高いだろうと私は確信している。

 

朝寝のリズム

 十時頃眠くなり、それを過ぎるといくらでも起きていられて夜更かしをしてしまうので、眠くなったときには寝るように心がけている。私はトイレが近くないので、上手くすると朝まで一度も起きずに済むことが多い。

 

 しかしこの猛暑の二日ほどは、喉が渇いて一時前後に目ざめてしまって、ついでにトイレにも行くからつい起き出してしまう。冷たいものを飲むより温かいお茶など飲みたいところだが、それでは本格的に起きてしまって眠れない。それでもついしばらくぼんやりする。静かに音楽などかけて、画集などを眺めて一時間あまり起きているとひとりでに眠くなってくれる。

 

 そうして次に起きるのが七時を過ぎてからということになる。液晶画面など眺めないのが再度眠りにつくコツのようだ。このリズムを上手くつかめれば、酷暑の日々をしのげるかもしれないと期待している。エアコンの加減が難しい。

2022年6月28日 (火)

読みやすい文章と読みにくい文章

 読みやすい文章と読みにくい文章がある。読むに堪えない下手な文章という意味ではなく(そういうのは論外なので、ひと囓りしたらすぐ読むのをやめる)、平易で読みやすいはずなのに読み進めにくいものと、わからない言葉がしばしば出てくるのに読み進めやすい文章とがあるのだ。こうなると私との相性というしかない。

 

 いま読み進めている川端康成の随筆集は、その読みにくい方であり、読み始めたばかりの島崎藤村の随筆集は読みやすい。読んでいてその書かれていることに感応しやすいものと、しばし屈折してからでなければ感応できない違いとでもいおうか。

 

 木曽路をしばしば訪ねている。二時間足らずで行けるから、妻籠や馬籠は何度行ったか数え切れないほどだ。そこは島崎藤村の出身地でもある。馬籠宿の藤村記念館も何度か立ち寄った。島崎藤村については人物的に問題があるという認識が拭いきれない。同居した姪と関係を持ち、こどもまで産ませたというのは尋常ではない。それなのに私が発語障害を起こさないために朗読するのは、徳冨蘆花の『自然と人生』であり、島崎藤村の詩集なのである。詩に鈍である私が、藤村の詩には心が動くのである。

 

 藤村の随筆集の冒頭に『言葉の術』という文章が収められていて、そこでいろいろと連想したが、上手くまとまらないので、次回にそのことを書こうと思う。

現代中国の本質

 中国の超大型浚渫船200隻のこの十年の航跡を解析して判明した事実を報じたNHKのドキュメントを観て、現在の中国の目指すものやその本質がますます恐ろしいものであることがわかった。

 

 中国は国際法というものを無視している。中国にとって国際法は自分に都合の良いときだけ利用すれば好いものだとみなしている。その根底にある本質には、世界は中国が全て支配するという世界帝国を夢見ているところにある。他の国が中国と同格の国家だ、などということは毛筋ほども考えないし、考えることができないようだ。この言い方は大げさに聞こえるかもしれないが、さまざまな事実がそれを裏付けている。しかし多くの人々が「まさか」と、その事実を受け入れられずにいる。そして受け入れられない様子を見て、中国はますますエスカレートしている。

 

 中国は世界をさまざまな形で蚕食しつつある。そこには中国のルールしかなく、その中国のルールはSDGsと正反対の方向に作用している。そのことを世界はすこしずつ気がつきだしているが、もう間に合いそうもない。ふたたび大げさに言えば、人類を滅亡に向けて推進している元凶は、いままではアメリカだったけれど、すでに中国がその推進の主役に交代していたのだ。極論すれば、世界にはもう共通のルールが存在しない。

 

 中国が人類全体の危機を思い知ったときは、地球上には中国人しかいないだろう。いまはそうなる前に中国自身が自己崩壊することを願うしかない。つまり絶望的な気分で、せいぜいこのような呪いをほざくしかないのが情けない。

冷房嫌い

 東日本大震災の年に、満で97歳で死んだ私の父は冷房が嫌いだった。炎天下でも帽子をかぶって庭いじりをして、冷房を入れずに昼寝をした。部屋に冷房を入れるとそこから冷房のないところへ逃げ出す。たぶん今年のような猛暑でも同じだっただろう。母が口うるさく水分補給をするように言うが、たまにお茶を飲む程度で、冷たいものを飲むことはほとんどなかった。

 

 冷房の嫌いな人は私の身の回りでもけっこういる。危険な今年の夏を、そういう冷房嫌いの人は乗り越えることが出来るだろうか。コロナ禍も猛暑も、高齢者を淘汰するように働いているような気がしてならない。

お誘い

 国内の旅行に出かけるとき、宿はじゃらんで探して予約することが多い。むかしは民宿の分厚い本をもっていて、それからランダムに選んで、前の晩に電話で予約を入れたりしたが、いまは出かける前に予約する。それだけ確実安心で、外れが少なくなるが、外れがなくなることも、大当たりに出会うこともなくなった。

 

 じゃらんのポイントがたまることはありがたい。最近はほとんど温泉を泊まり歩く。連泊すれば昼間、温泉に入れることを覚えて、できるだけ連泊する。あちこち見るよりも、ゆっくり宿を楽しむことを優先する。目的が変わっている。宿の窓から見える景色をとくに大事なものに感じている。当たり前かもしれないが、私には新鮮だ。絶景であれば何よりだが、そうでなくてもそれなりに忘れられない記憶となったりする。

 

 予約をネットでするから、宿には自動的に私の個人情報が記録されていて、泊まったことのある宿から泊まりに来ませんか、と言うお誘いのメールが入る。それぞれの宿がさまざまな企画を添えてお誘いしてくれる。そこでの思い出がよみがえる。そういうお誘いは私を旅に駆り立てる。あと何回旅に出られるだろう。そう思えば明日にでも出かけたくなるではないか。

2022年6月27日 (月)

最後の願望の力

 私は堀辰雄の文章をほとんど読んだことがない。その堀辰雄の死去の後、川端康成が彼の書簡集を読んで、随筆『落花流水』に記したものを読んだので孫引きする。堀辰雄が再婚するときに、再婚相手の加藤多恵子に書いた手紙の一部である。死を看取った彼に、前妻は苦しい死の床で「自分は幸福だった」と言い残したと書いている。

 

「人間の最後の願望というものは恐ろしい力を持ってるものだと、ラフカディオ・ハーンだかが書いていましたが、それは確か人を呪いながら死んでいった者の話だったと思いますが、それと反対にそれがたとい生き残った者への気休めに言ったにせよ、私たちのために本当に幸福だったと最後に言われたら、その瞬間からその生き残った者たちはこの世界に幸福というものがあるのだということを信ずるような気になると見えますね。・・・僕は元来、いろいろな本を読んできたせいか、人生に対してかなり懐疑的で、ともすれば生きていることの不幸を信じさせられてきましたが、そのときから僕は人間の幸福・・・少なくとも誰でも幸福な瞬間を持ち得るものだということを、少し逆説的にいうと、みんなのもっている不幸の最高の形式としてそういう幸福を持ち得るということを信じるようになりました」

 

 川端康成がこの引用の文章を書いているのは軽井沢の別荘で、堀辰雄の別荘はほぼすぐ隣にあって交友があったのである。川端康成がこれを引用したのは、彼なりに思うことがあったからなのはもちろんだが、なにをどう感じたのか、引用しただけでなにも自分の考えを書き加えていない。川端康成がそのような幸福というものがあると信じる瞬間があったのかどうか。そのことを想像したりした。あまりにものが見えすぎる人は、幸福というものをついに信じ得なかったのではないだろうか。

定期検診

 本日は糖尿病の定期検診日。病院まで歩いて20分弱の道は、この時期は遠く感じる。受付開始5分前に到着。自動受付機の前は長蛇の列だったが、待合室はいつもよりすいている。今日の採血の人はとても手際が良くてありがたい。身体が大きい割に血管はあまり太くなく、しかも皮膚の近くに浮いていないから、下手な人だと迷ったりずれて痛かったりする。血圧は上だけやや高し。体重は目標だった3キロ減を達成できていた。

 

 血液検査結果はhA1cの価がさらにわずかながら上がっていて芳しくない。しかし若い眼鏡の女医さんは、ちょっと小首を傾げただけで、理由が思い当たるのなら好いでしょう、と寛大なお言葉(自助努力できますね、ということである)。尿酸値が基準以下になっているのでその薬は服用を中止してみましょうという。久しぶりに薬がひとつ減った。十年前に痛風の痛みで脂汗を流したけれど、それも過去のことになった。当時は焼き肉をガバガバ食べてビールをぐいぐい飲んでいたからなあ。夢みたいだ。

 

 すいていた分、スムーズに診察が終わった。健康保険証のチェックも今回からはオンラインでチェックしているから不要だという。ますます便利になる。ありがたいことに薬局もすいていた。暑いからお年寄りは病院に来ないのか。いつもより一時間近く早く帰宅できた。

 

 昨晩から断食しているので腹が減った。さあ飯だ。ビールがものすごく飲みたいけれど、晩まで我慢しよう。今晩は休酒明け祝いに天ぷらでも揚げようかなあ。

映画『全てが変わった日』

 2020年アメリカ映画。ダイアン・レインとケヴィン・コスナーが初老の夫婦役で主演している。夫婦と息子夫婦、そしてその一粒種の孫と幸せに暮らしていた家族だったが、息子が不慮の事故で死んでしまう。ほどなくして息子の妻は再婚し、孫とともに家を出て行く。

 

 ある日、孫に会うために出かけて、嫁と孫が住んでいたはずの家から急にいなくなっていることを知る。どうして何の連絡もなしにいなくなったのか。不審な兆候を察知した夫婦は嫁の再婚相手のふるさとに向かう。

 

 「失われたものの積み重ねが人生だ」と夫が言うシーンが沁みる。もちろんそのひとつ、最も大きな喪失は息子の死である。失われかけた孫との絆を求めて夫婦が向かった先で体験したのは異常な家族との恐怖の出会いだった。絶望的な状況のなかで、彼らは失いかけた者を取り戻せるかどうか。必ずしもハッピーエンドとは言い切れないラストの朝日が美しい。かけがえのないものを取り戻すためには、自らを失うことをおそれてはならないのだ。

2022年6月26日 (日)

歴史という波

 昨晩のNHKBS「世界のサブカルチャー史 欲望の系譜」は「アメリカ 葛藤の80's」という内容で、サブカルチャーという側面から時代を見直すその番組にとても考えさせられた。

 

 レーガン大統領の任期は1981~1989年で、まさに1980年代はレーガンの時代だった。彼は栄光のアメリカを取り戻す、というスローガンでアメリカを牽引した。ついこの前まで大統領だった誰かはそのレーガンを手本と考えていた。レーガンは1950年代のアメリカを理想と考え、その時代への回帰を謳い、そしてトランプはレーガン時代を、そして1950年代のアメリカを理想とした。

 

 戦後、世界のどこよりも豊かだったアメリカ、それがベトナム戦争などで大きく傷つき、黒人台頭、女権拡張とともに退廃の気配を帯びた1970年代を修正しようとしたのがレーガンで、その後ふたたびアメリカは停滞し始めた。それは停滞ではなく、世界がアメリカに追いつき、互し始めたというだけのことだが・・・。それを再度修正しようとしてトランプが招いたのは分断だった。

 

 その分断の象徴が銃規制問題、中絶是非の問題、LGBT問題などだろう。歴史はリベラルと強権の大きな波のうねりのなかにあるのだと、この番組を観てぼんやりと感じた。

 

 当時のさまざまな映画が取り上げられ、その時代の意味が評論家によって解説されていく。感覚として感じていたことが明確なことばにされていくのを見るのは快感だ。あまりにたくさんの内容なので、もう一度見直して自分のなかで整理したいと思ったので、録画は消さずにおいた。

現代の美術

 子どものときから本が好きで、外で遊ぶよりも部屋で本を読んでいた。だから図書館が大好きで、学校の図書館だけではなく、街の図書館にも入り浸っていた。読むための本ばかりではなく、図鑑や美術全集を眺めるのも楽しい。ルネサンス以後の絵画に出会ったときは、最初は裸の絵に驚き、ときめいたものだが、次第にもっと奥深い美しさを知り、芸術というものの意味を感じるようになった。

 

 大学生のときにたまたま本屋で「現代の美術」という全集が刊行されたのを知った。最初がウイーン派の幻想的な絵画が収められた第二巻「幻想と人間」という巻で、大判の箱入り、その箱のおもて面がヴォルフガング・フッター、裏がルドルフ・ハウズナーの絵で無性に欲しくなった。確か一冊1500円、仕送り暮らしで映画に夢中だったその頃の私には高い本だった。その全集を買い続けるために初めてアルバイトをした。

Dsc_7312フッターの「龍の花嫁」(部分

 現代の美術にそれほど思い入れをもったのは、実はその少し前に弟と大阪万博に行って、アメリカ館にもソビエト館にも入らずに、万博美術館にほぼ一日いたことがある。古代から現代までの世界中の美術品が展示されていた。そこでは図書館の美術全集でしか見たことのないものを目の当たりにすることが出来たことに感激した。そして最も衝撃を受けたのがダリの絵などのシュールレアリズムの絵画であり、その系譜であるウイーン派のアクリルペインティングの絵であり、ポップアートだった。

 

 それが全集となって解説付きで手に入れることが出来るのである。買わずにいられようか。

 

 久しぶりに、すでに現代美術ではなくなりつつあるその全集を眺めながら、感激する気持ちが豊かだった当時のことを思い出していた。

2022年6月25日 (土)

意見の相違

 アメリカで、最高裁がニューヨーク州の銃規制を憲法違反だとする判決を出し、さらに中絶規制を認めることは憲法違反ではないという判決も出した。これでは西部劇の時代へ逆戻りするような時代錯誤の判決だ、とリベラル派は批判している。中絶規制は多分に宗教的な意識を原点にしていて、その点についてはいまの普通の日本人の感覚とは相容れないし、銃そのものが認められていない日本から見れば、銃規制が憲法違反であるアメリカという国というのが不思議で異様な国にすら見える。

 

 こういう、賛成か反対かがはっきりしすぎていることについては、相手に対する妥協はあり得ず、折り合いがつくことはない。そしてそのことをもって国民の分断だ、と言う捉え方をしてしまえば、国の統一そのものが危ういことになってしまう。ついには相手を打倒しなければならない、ということになりかねない。

 

 BSNHKの海外ニュースで、フランスの放送局が伝えていたが、ウクライナ東部でウクライナ側が市民を命がけで避難させようとするなかで、頑として危険な場所に居座る人たちが少なからずいる様子が報じられていた。親ロシア派の彼らはウクライナ側に避難したくないのである。それはわからないことはない。しかし彼らが口々に言っているのは、そもそもいま彼らの周辺を砲撃しているのはウクライナ軍であって、ロシア軍ではないのだそうだ。そしてロシアが救出してくれるのを待つというのだ。

 

 ウクライナ軍が市街地の、しかも市民の居住地を砲撃している、などという情報は今のところ見たことがない。それはウクライナのプロパガンダによって隠されているのだろうか。そんなことは信じられないし、それを信じたとたんに世界の見え方が変わってしまうし、そんなものの見方は受け入れがたい。しからば避難拒否の人たちに語りかけることばはあり得ないことになってしまう。

 

 世界はことほど左様に分断し、互いが相手の言うことを受け入れることが出来なくなっている。まるで宗教戦争の時代のようですらある。そのときになにが有効なのか。私にはわからない。わからないから絶望的になる。「外交で解決を」と語る福島瑞穂女史の信念が幸福に見える。

追いつかない

 今朝起きたときの室温は29℃。窓を開け放してもほとんど下がらない。マンションのコンクリートの躯体も外気温に追いついてしまったらしい。今日は富山、北関東、南東北では猛暑日の予想で、この名古屋地区でも昨日は32℃、今日は34℃。ギリギリ猛暑日ではないが、身体がなれていないから、なにもする気にならないほど暑さがこたえる。身体はまだ外気温に追いつかない。追いつくかどうかわからないが、追いつかないままならこのままどんよりしているほかはない。

 

 東海地方の気象予報ではこのあと一週間、傘マークなしである。来週半ばからは連日猛暑日になりそうだ。そのころにたぶん梅雨明け宣言が出るだろう、と予報士が予想していた。長い長い真夏の日々が続きそうだ。

 暑くなるとともに昼間やたらに眠くなる。熟睡できていないのだろう。身体の要請に従い、しっかり昼寝をしている。とはいえひきこもってばかりもいられまい。ほんのちょっとだけあたりを散歩して、はげ頭に太陽光線を浴びることでビタミンDの生成を促してこようか。

泥縄

 月曜日に糖尿病の定期検診がある。先月から今月にかけて、あちこち旅行に行って宿の料理を余さず食べ、弟のところで美味しい食事をいただいて、胃が少し大きくなってしまい、そのあとも料理番組の料理を自分で作って愉しんだりしたから、一食の量が増えて必然的に体重が増えてしまった。基準(自分の基準で、標準ではない。もともとの基準がすでに標準よりもおおはばに過剰である)よりも4~5キロも増えている。

 

 いつものように月曜日から休酒をしている。休酒をすれば同時に食事も控えめになって多少減量するはずなのにまったく変わらない。そこで、少し前から「丸ちゃん」のちかよさんのお勧めもあり、おかゆを食べている。数日で2キロほど減量した。目標は5キロ減だが、そんなに急に減らすと夏バテがひどくなるだけで危険だ。あと1キロくらいは水ぶくれの身体を絞り、水分摂取も減らせばたちまち減るのだが、別に泌尿器科の医師から水分摂取は絶対に減らすなと言われているので、無茶も出来ない。

 

 問題は見かけの体重の問題ではないのだが、目で見えることで出来ることはそれしかない。しかしこの暑さに身体がバカに重く感じられて仕方がない。早く検診を済ませてビールでも飲んだら心身共にスカッとするだろうけれどなあ。

 

 いまは心身共に最低の気分。どんよりしている気分を晴らしにどこかに行きたい。

2022年6月24日 (金)

美の発見

06112324-140タイにて

 川端康成の『美の存在と発見』という文章は、滞在中のハワイの、テラスの食堂のグラスに当たる光の輝きを詳細に描くところから始められている。そこには毎日同じように光が当たり、グラスはその光を反射しているだろう。しかし川端康成はその場でその美しさを発見した。美を発見するとはどういうことか、それがそのあと丁寧に語られていく。

 

 『椿の庭』という映画がすぐれて映像的で素晴らしいと思ったのは、カメラマンでもある監督が発見した美をそこに呈示して見せてくれているからだ。海が見える、雲が湧き、流れる。雨が降り、椿の花が咲き、木々が落葉する。その一瞬一瞬の積み重ねの中に美がある。あるけれどその美を感得するのは自分であって、たいていはそれを見過ごして気がつかない。

 

 コロナ禍もあり、いつも一緒だったF君がいなくなって、毎年恒例の海外旅行にもう行くことがなくなった。ずっと行くものと思っていたものがある日突然終わりを告げる。また行くことは可能だけれど、もうその気は失せてしまった。代わりにときどき十数年にわたって出かけたさまざまな国で撮った写真を眺めたりする。

 

 私はカメラを向けた瞬間にシャッターを押してしまう。構図を考えたりすることはほとんどない。だからたいていへぼな写真しか撮れないけれど、意図しないものがそこに残されていることもある。そこに切り取られた一瞬に強い懐かしさを覚える。一体自分はなにを見てきたのだろう、と思ったりする。かけがえのない一瞬がそこにある。

Dsc_7039_20220624135801キューバにて

190910114_20220624135801トルコにて

Dsc_0137_20220624135801中国にて

映画『椿の庭』

 2021年の日本映画。写真の上田義彦が監督と撮影をした映画で、映像詩というところか。主演は富司純子で、同居する孫娘役でシム・ウンギョンが好演している。舞台になっている日本家屋を見ながら川端康成や養老孟司の鎌倉の家を連想した。

 

 ワンカットワンカットの映像で監督の伝えたいものを受け止めることが出来たと思う。それはほんの一部だろうけれど、伝わった。しかし、この映画には大きな問題がある。それは長すぎる(129分)ことだ。台詞をとことん切り詰めているのにもかかわらず、映像を盛り込みすぎている(と思う)。100分程度にしても充分完成作になり、たぶんそのほうが出来も良かったのではないか。

 

 緋牡丹博徒シリーズで別格的に大好きな富司純子はいまもとても美しい。その美しさには品がある。映画の中で和服を脱ぎ着するシーンがたびたび出てくるが、その仕草の美しさを見ながら、祖母や母が和服を身につけた頃のことを思い出していた。日本の美のある典型を見た気がする。そういうシーンがふんだんにある。そういう美が日本から失われたことを実感した。

ポイント制

 ポイントというのは上手く使いこなすとありがたい方式なのだが、使い方がよくわからないうちは面倒なものである。スーパーのカードなど、ポイント還元の恩恵があるし、レジはスムーズになるし小金をもたずに済んでありがたいのに、財布でもたもたすることの多いお年寄りほどちゃんと使っていない。年金暮らしで苦しい、などという人ほどそういうポイントを活用していないような気がする。

 

 ポイントというのは客を寄せるためのシステムである。ポイントを還元することで客が増えるのはもちろん、省力化にも寄与して提供側にも利益がある。そもそも企業などは利益がないことを積極的にやるはずがないのであって、利用できるものは利用しないと不公平になる。小銭の支払いでもたもたしている人は、廻りに迷惑をかけながら自分も損をしている。

 

 ところで電力不足対策として政府が電力使用削減努力に対してポイントをつけるという。批判的な向きもあっていろいろ議論があるらしいが、私はよい策とは思わない。そもそも電力が足らないと聞けば、黙って電力消費を減らす人が多いのが日本の国民である。ポイントで、つまり金で釣られるのはあまり努力をしていなかった人ではないか。なぜならなにもしてこなかった人は省エネの努力は数字に表れやすい。いままで、無駄をしていたのだから。いままでちゃんと努力してきた人はもうそれ以上あまり削減できないからポイントにならない。

 

 電力使用削減ポイント策はそういう意味で不公平だと思う。そしてそれはそういう人にこそ削減して欲しいという政府の思惑でもあるのだろう。わずかなことだけれど、そういうキリギリスに手厚い施策をする岸田内閣に違和感を覚える。

 

 思い切って計画停電するのがリスクが低くて(ブラックアウトにならずに済む)一番良いそうなのだが、岸田さんという人はそういうことのできる人ではないようだ。

2022年6月23日 (木)

諸刃の剣

 22日、新興五カ国(BRICS)フォーラムの開幕式で、習近平が「制裁はブーメランであり、諸刃の剣だ」と述べて制裁反対を改めて表明した。制裁が自らも傷つくということを改めて習近平に教えられなくても、制裁を加えている側のまともな国の人ならみんな知っている。知っているはずのことをなぜわざわざ習近平は言ったのか。

 

 大国が国際法や秩序を無視して理不尽なことをしたからといって、それにとやかく言ったり制裁を加えたら、報復するぞ、だから黙っていろ!と言いたかったのだろう。世界に向かって恫喝したのである。

 

 「他人を遮ろうと図るなら、最後は自分も行き詰まる」とはっきり言っているではないか。

不義理

 中元歳暮を何軒かに贈り続けていたけれど、ひとつ減り、二つ減りして、いまも続けているのは一軒だけになった。今度の夏も送るつもりだが、金銭的な負担がたいしてあるわけではないものの、そろそろ終わりにしようかと思っている。いろいろ考えて、冬の歳暮を最後にすることに決めた。

 

 付き合いというのは社会生活上だいじなことであると思う。思うけれど、年齢とともにその付き合いの範囲を限定していくのも自然の成り行きかと思う。

 

 十年近く前に、色々ないきさつから妻の実家とその係累との付き合いが薄れていくことになった。義母の死とともにほとんど往き来もなくなってしまい、消息もわからない。入院している妻についても、ことばは悪いけれど、妻の兄は彼女を見捨てたように見える。もうそのことについてはさっぱりあきらめているけれど、唯一多少は気にしてくれていたはずの妻の姉からも、なんの連絡もなくなったことは残念でないことはない。妻の状況を知らせても何の反応もなくなってしまってしばらく経つ。

 

 去る者は日々に疎し。努力して会おうとしなければ、人との関係は薄れていく。その努力する元気が年齢とともに衰えていくのであるから、会いたくなる人としか会わないようになっていき、そうでない人とは不義理になっていくのは仕方のないことなのだろう。正直寂しくないことはない。あと何回会えるだろう、と思う。

示威行動

 ロシアと中国の軍艦が集団で日本列島の廻りを繰り返し周回している。どういう意味の示威行動だろう。普通に考えれば威嚇行動に見える。まさか一緒に遊ぼう、といって誘っているわけではないだろう。およそ、よその国を交戦中でもないのにこうして威嚇するなどと言うのはまともな国のまともな行動には思えない。

 

 忙しい最中と思うが、共産党と民主党の方々には「平和憲法」の護符を掲げて軍艦に立ち向かい、乗りこんでいって、「平和を達成する」「外交」を見せてもらいたい。ところで、社民党の福島女史は繰り返し、「平和を達成する」とおっしゃっていた。しからば、いまの日本は平和ではないということになる。彼女にとっての平和とはなんなのか、愚才の私にはよくわからない。

 

 やくざな、それこそ狂気にしか見えないことをする国が近くにあるというのはほんとうに迷惑なことだ。日本が弱体化して三流国だと見切られたせいだろう。そう見られても仕方がないのも情けないことだ。

2022年6月22日 (水)

振り付け

 参議院選挙運動が始まり、にぎやかになり始めた。テレビで候補者が自分の主張を身振り手振りを添えて語っている。それを見ているとなんだか自分の意思からの身振り手振りなのだろうか疑問を感じる。誰かに振り付けされての身振りではないのかなどと思ってしまう。それほど板につかない大げさなものが目につく。却って嘘くさいのだけれどなあ。いまはあれが流行か。

映画『麦子さんと』

 2013年、堀北真希主演の映画。麦子(堀北真希)は兄(松田龍平)と二人暮らし。貧しいけれど当たり前に、淡々と暮らしていた。ある日バイト先から帰宅すると、玄関口で知らないおばさんと兄が何やら言い合っている。兄は迷惑そうに、「帰れ」とその女性に言う。その女性は麦子を見て「麦子・・・」とつぶやいたあと、去って行く。

 

 その女性は兄妹の母親(余貴美子)だった。麦子は幼い頃に別れているので顔を覚えていなかったのだ。その女性が来た用件というのが、一緒に暮らしたいというものだった。いまさら母親と言われても、と兄も麦子も戸惑うばかりだったのだが・・・。結局母親は一緒に暮らすことになり、そして兄は付き合っている女性と同棲すると言って出て行ってしまい、麦子と母親の二人暮らしが始まる。

 

 映画の冒頭は白い風呂敷につつまれた骨壺を抱えて、駅に降り立つ麦子の姿を撮したシーンから始まっているのだが、その骨壺の主は誰か。

 

 ついに「お母さん」と呼ぶこともなく、ほとんど他人として死んだ母親のふるさとに、納骨のためにやってきた麦子が、そこで母親を知るさまざまな人たちに出会うことで経験する出来事と、それによって彼女の心に起きることを描いているのがこの映画だ。ときに他人を傷つけ、自分が傷つき・・・、自分の存在の意味を知っていく。

 

 失って初めて知ること、気づかなかった自分の思いなどが、麦子を通して胸に迫ってくる。なかなか好い映画だった。兄役の松田龍平の、一見冷たそうな態度や無造作に投げつけることばに、麦子に対してのそれなりの愛情が感じられてくる微妙な演技が素晴らしい。だからこそ麦子は文句を言いながらも兄に反感を持ったりしないのだなあ、というのがわかってくる。

 

 いま志賀直哉の母親の銀に着いての文章(阿川弘之)を読んでいる。赤ん坊のときに母親と引き離されて、祖父母に育てられた志賀直哉が、次第に母への思慕を膨らませていき、自分にこどもが出来てさらにその思いが深くなっていく。銀は若くして亡くなっている。

 

 ドラマ『北の国から』でも、純と蛍は母親と別れ、ほどなくしてその母親も死んでしまう。母親を喪うということがどういうことか、そのことが彼らがまだ小学生のころの背景に常に心象としてある。私がそれに感情移入するのは、同じような年齢の頃に、私の息子と娘が母親と別れて暮らすようになったことも大きい。彼らももう二十年近く母親に会っていない。

なにから先に

 現役時代、その日にやるべきことを朝、メモに書き出すのを習慣にした。夕方、片付いたことを棒線で消すのが楽しみだった。その時に心がけたのは、苦手なこと、やりたくないことから片付けるということだった。いやなことから片付いていけば、あとが楽である。
 
 食べ物は古いものから食べることになる。新しいものから食べていると、古いものが残って無駄になるからだ。だから食べ物は乾物のように日持ちのするものはべつにして買いだめしないようにする。そうでないといつまでも古いものばかり食べなければならない。

 

 本や、録画したドラマや映画も、うっかりすると溜まりすぎてしまい、意識して消化しようとするのだが、その時に古いものから片付けるか、新しいものから片付けるか、迷う。以前は古いものから片付けていたが、結局追いつかないから新しいものには手が届かない。

 

 そこではっと気がついた。読みたいもの、観たいものから読んだり観たりすればいいのだと。そうすれば自然とそれほど読む気がしなかったもの、観たくならなかったものが残されていくのであって、それが限られた時間の中で最善なのであった。どうしていまごろそれに気がつくのかなあ。

2022年6月21日 (火)

気になる数字

 今年の韓国の1~4月の出生数が8万人あまりで、昨年同期に比べて1万人以上減少したという。ここから推計すると、年間の出生数は25万人を切るのではないかとみられている。昨年は26万人あまりだった。

 

 2002年から2016年まで、年間40万人を切ることはなかった。2017年に40万人を切り、2020年には30万人を切った。そして昨年が26万人ということで、その減少が急激であることに驚く。もちろんコロナ禍で結婚も妊娠も減るという事情はあるだろう。だからこれが一時的かどうかはこれから二、三年様子を見なければわからない。

 

 とはいえ、韓国の出生率は世界で唯一1.0を切って0.89だった。少子化が問題になっている日本でも、コロナ禍の中で1.3だった。今のままならたぶん韓国の今年の出生率はさらに大きく減少するだろう。

 

 韓国の若者が社会不安に直面し、就職が困難で結婚も出来ないと嘆いていると報じられているが、仕事も無く、今日食べる食事もままならない国でもこどもはそれなりに生まれている。韓国だけが突出して出産率が低いのはなにか韓国特有の理由があるのだろうか。どんな見えざる神の手が働いているのだろうか。この数年の激減と文在寅の政権時代が重なるのは偶然だろうか。私は偶然ではないと思う。

 

 日本は他山の石と等閑視することなく、分析して対策の一助にできるのではないか。

 

 韓国は、この五年間で15兆円あまりの少子化対策を行ったそうだ。対策が無意味だったのか、対策しなければもっとひどいことになったのか。それが知りたい。

倦怠感

 寝床のパソコンをWindows11に変えたら、ネットオーディオのアルバムの連続再生が出来なくなった。もともと使っていた無料音楽ソフトが消滅してMediaPlayerしか使えなくなっている。そのMediaPlayerでは一曲ずつしか再生できない。どうなっているのだ。方法はあるのだろうが今のところわからないまま。面倒くさくてうんざりする。仕方がないからAmazonのストリーミングばかり聴いている。

 

 それが理由ではないが、なんとなく身体が暑さになれていないせいか、なにもやる気がしない。面白そうだからやってみよう、という気持ちが起きないのでゴロゴロしている。鬱状態と言うほど深刻ではないが、倦怠感があって不調。気分を切り替えるきっかけが欲しい。こういうときは美味いものを食って酒を飲むと良いのだが、来週糖尿病の定期検診なので、いま自重期に入っていて我慢している。あと一週間この状態かあ。

いやな感じ

 蓮舫氏が、辻元清美氏や枝野幸男氏らと都内で街頭演説をした。そこで「ほんとうの辻元や私は非常に心温かい、優しい人」と語ったそうだ。「ほんとうは心温かくて優しい人」はあまり自分で「ほんとうは心温かくて優しい人」などと言わないと思う。わざわざそういうのは、誰もが自分たちを「心温かく優しい人」とみてくれていないということを認識しているからだろう。

 

 中国とロシアの軍艦が日本の廻りで威嚇行動をくり返している。昨日も房総沖で中国軍艦が示威行動をしたようだ。やくざの嫌がらせとよく似たこういう行為はほんとうにいやな気がする。平和教(最初、平和狂と変換されて苦笑いしまった)の人は、日本が防衛費を増やすなどと言うからだ、と日本政府を批判するだろうなあ。悪いのは日本だ、というのが彼らの特徴だ。

 

 ロシアのウクライナ侵略戦争は、圧倒的な軍備をもつロシアが当たり前のことだが優勢である。それをマスコミはウクライナの善戦ばかり報じているところがありはしないか。戦争終結はプーチンがやめると言わない限り終わることはなさそうで、ウクライナは人的消耗を余儀なくされながらゲリラ戦を続けるしかなさそうだ。ここに至ればウクライナが降参するとは言い出せない。

 

 それにしても、過去の日本の中国侵略を非難し続けている中国が、ウクライナへの理不尽な侵略をしているロシアを応援しているというのは、矛盾以外の何物でもない。中国のいうことなんて信じられないと世界に向かって教えているようなものだと思うのだが。

 

 ところでプーチンが何らかの理由で頓死したりしたら、一体ロシアはどうするのだろうか。体調が悪いというのはほんとうかどうかわからないが、たいへんなストレスの中にいることは間違いないから、何があるかわからない。ポストプーチンを目指すメドベージェフはプーチンに迎合するためもあって、プーチン以上にエスカレートした物言いをしている。破滅的な行動をしかねない。

2022年6月20日 (月)

眼を休める

 一日中、眼を酷使している。本を読んでいるかテレビ画面を見ているかパソコン画面を見つめている。さすがに眼が悲鳴を上げてきてつらい。目薬を差したり眼の温湿布をしたりすると、いままでは回復したが、眼がしょぼしょぼして涙目になり、かすんでしまってどうしようもない。しばらく眼を使わないで休めることにする。

心配

 昨日の大きな地震に続いて、能登半島珠洲で今日もまたやや強い地震があったようだ。能登には学生時代親友と旅をして以来、たびたび訪ねていて、今年も春、行った。珠洲には予約できれば必ず泊まる宿があって、その宿は昨日の地震で崖が一部崩落した見附島(通称軍艦島)の目の前にある。被害がなかったはずはないけれど、それがたいしたことではなければよいがと心配している。

 

 能登半島では2007年に輪島周辺で震度6強(マグニチュード6.4)の大きな地震があって、そのすぐ後に様子を見に行った。総持寺のあるあたりから輪島にかけて被災家屋を多数みた。輪島から先の能登先端方向は崖崩れなども多数あって、道路が寸断状態だった。確か死者も出たはずである。今回は多少それよりも規模が小さいけれど、棚からものが落ちたりしたようだ。後片付けはたいへんなことだろうと思う。

 

 月並みな言い方だが、日本に住んでいれば地震は避けられない。自分のところにも必ず来るものであり、自分も被災者になるかもしれないのだ。その覚悟を決めておかなければならないと、改めて肝に銘じた。

外交

 一部野党の議員は防衛力強化には反対であるという。それはそれぞれの主張であるから、認めるのにやぶさかではない。しかし「防衛という名で軍備を拡張するのは反対だ」と言い、「防衛よりも外交を優先すべきだ」と主張されると、首を傾げざるを得ない。日本の防衛力強化が、軍備拡張して他国を侵略できるほどのものとはとても思えないし、ロシアの侵略が現実に起きている現時点で反対するのは脳天気に過ぎると思う。

 

 「外交で」、というのならまず自分がプーチンに「戦争をやめてくれ」と申し入れたり働きかけたりした上で、いささかでもその成果を上げてから言ってほしいものだ。世界中の首脳が外交的に働きかけた末の結果の現状であることを誰もが承知しながら、それでも「外交努力」と口で言っても屁の突っ張りにもならないことぐらい、自分でも承知しているのではないか。

 

 戦争は悲惨だからやめろ、とか、原爆は悲惨だからなくせ、というのは誰にでも言えるけれど、言うだけでそれが達成できるならこんないいことはない。それが出来ないからそれに備えようという話なのだから、それをまず国会で話し合う必要があるのではないか。そうではないとそもそもなにも始まらないではないか。一切聞く耳を持たないことで却って覇権主義的な周辺国を勘違いさせたり利することになって、実力行使を呼び込むことになるのではないか。

 

 尖閣問題は立憲民主党の前身である民主党政権のときに急速に悪化した。あのとき民主党はどんな外交をしたのか。それまで積み上げてきた中国との外交を壊滅的に破綻させたのではないか。同時にアメリカとも基地問題で摩擦を生じさせ、ギクシャクしてしまった。あれが外交か。

 

 当時の野田首相は、政権末期の胡錦濤主席の懇請をにべもなく断り、ために胡錦濤は勢力を失った状態で習近平に引き継ぐことになった。日中関係は権力闘争に利用されたのである。習近平は労せずして胡錦濤の影響を排除できたことでいまの強権を手に入れた、と私は考えている。外交の失敗とはそういう意味である。いまだにその自覚も反省もないようだが。

2022年6月19日 (日)

ちょっとだけ買いだめ

 昭和48年は私が大学を出て就職した年で、その年に石油パニックがあった。ものが値上がりし、足りなくなったり、足りなくなるという噂で皆が買いだめしたために、ほんとうに足りなくなったりした。私はメーカーの新人営業員だった。ユーザーからの余分な受注はありがたいことではあったが、生産能力には限界があるからたちまち物不足になった。そしてそれは短期間で終わり、今度は過剰生産の在庫、そしてユーザーでの在庫の山の反動でしばらくものが売れなくなった。

 

 夢から覚めればなんというバカなことをしたのかと、皆が自分の愚かな行動を反省した。

 

 しばらく前にコロナ禍に関連した中国発の物流の停滞で、自動車や電化製品の生産が遅れ、納品が今までにないほど遅れることが続いた。それはいまだに解消していないし、天下のトヨタですら、しばしば生産休止を余儀なくされている。

 

 食料品はさまざまな理由、特にロシアのウクライナ侵略によって供給が不足する事態になっていて、価格が次々に上がっている。エネルギーも同様である。その事態がいつまで続くか誰にもわからない。少なくともたちまち解消するということは期待できない。

 

 供給がタイトであれば、値上がりだけではなくその配分に粗密を生ずる。金さえ出せばあまり影響受けない国と、金を出せないから供給を受けられなくなる国が生ずる。供給が需要よりもあまりに少なくなればその国は社会不安を引き起こし、混乱する事になるだろう。そういう国に生まれたことの不幸を体験するだろう。

 

 自国で最低限の需要がまかなえることが望ましいことを世界はいま実感しつつある。全てが滞りなく推移していた時代とは、まさにグローバリズムの天下だった。アメリカは全て自国でまかなえる上に他国をグローバリズムに惹きこんで自給をあざ笑い、自由貿易の、つまり安いところで生産したものを買えば良いとそそのかした。自由貿易、関税障壁の撤廃は、結局最も有利なアメリカを豊かにした。

 

 その責任があるアメリカが、いまの世界の戦時下の状態を他人事のようにいうのは間違っている。いま中米や南米でアンチアメリカ合衆国の狼煙が相次いで掲げられている。その背景を、私はキューバに行ったときにキューバ側の論理で見せられたので、アメリカの罪を多少は理解している。

 

 世界で一番アメリカに従順であり続けた日本が、そのグローバリズムのツケを最も多く支払わなければならなくなっていると私はみている。企業マインドのエネルギー低下がいわれて久しい日本は、たぶんすでに三流国への路へ踏み込んでいる。

 

 しからば年金生活者の私は、防衛のためにいまこそ備蓄を少しでも増やして備えなければならないと思っている。そば、スパゲティなどの麺類や油、洗剤、カセットボンベなど、思いつくものをちょっとずつ余分に買っている。高くなることへの備えだけではない。一時的にものがないことだって起こりえるかもしれないのだ。それはそのまま災害に対する備えにもなる。石油パニックでの反省から、いまは多くの人はあわててものを買ったりしていないけれど、あのときよりも深刻ないま、平然としていることが信じられない。

牛に引かれて・・・

 いま七年に一度のご開帳で、善光寺は賑わっているようだ。善光寺といえば「牛に引かれて善光寺参り」ということばがある。子どものとき、布教のためのパンフレットの漫画で読んで記憶している。神も仏も信じていないお婆さんがいた。牛が庭に干していた布を角に引っかけて、とことこ逃げていくのを追いかけ追いかけしていく。牛がおばあさんを導いたのは善光寺だった。このことがあってからお婆さんは信心深いお婆さんになったという。

 

 昨晩は寝床でアリス=沙羅・オットの弾くピアノ曲を愉しんだ。グリークのピアノ協奏曲、それに「ペールギュント」、小品集などが収録された「ワンダーランド」というアルバムだ。そもそもグリークなんて、中学生時代に音楽の時間で知った以外何も知識がない。それがとても素晴らしい作曲家だと知ったのはアリス=沙羅・オットのピアノを聴くようになったからだ。

 

 前にも書いたようにこどもの頃、祖父母の家の向かいにピアノの先生がいて、いつもショパンの曲が流れていた。私は音楽がちっともわからなくて、だから縁もなかったけれど、大学に入ってクラシックの好きな先輩に無理やり繰り返し聴かされて、いろいろ知識も教えられてFM放送のクラシックをときどき聞くようになった。

 

 そうして新しもの好きだからハイレゾ音楽を聴くようになったとき、アリス=沙羅・オットのピアノに出会った。ピアノ曲の素晴らしさ、とくに静かな曲の美しさを知ったのは、彼女とハイレゾ音楽のおかげである。

 

 なにが牛だったのか。いろいろな牛に引かれ引かれて来た。音楽ばかりではなく、本でもさまざまな牛に引かれて世界がひろがり、知らなかったことを知ることが出来た。敬愛する森本哲郎に導かれて、蕪村を知り、俳句の世界を知った。最近は鬼の話から古典の説話集の面白さを深く知るようになったりした。まだまだ知らないことだらけで、しかも知ったとしても低レベルである。それをさらにレベルアップすることがまだ出来ると信じている。まだまだ面白いことはたくさんある。

暴論ですが

 電気が足りなくなりそうだという。放置するとブラックアウトという、たいへんなことになるそうだ。それでは困るから節電してくれというが、意識の高い人は一生懸命節電し、自分独りくらいいいだろうという人は節電なんかしないだろう。みんなが節電するために、電気料金を大幅値上げすればいい。高ければみんなが節電する。節電の方法を真剣に聞こうとするに違いない。節電する習慣が身につくかもしれない。電力会社も余力で燃料の備蓄が可能になる。原発の使用済み核燃料対策に金をかけることも出来る。

 

 テレビ局は経営が苦しいのではないか。苦し紛れにスポンサーをかき集めるからますますCMだらけになり、CMのあいだに細切れに番組を放映している。テレビ局を統廃合してしまうべきだ。ほんとうは無料放送をやめるべきだと思っている。ただほど高いものはない。衛星放送など昼間は放送休止にしたら良い。つまらない番組は観なければいいのだが、放送していると(私を含めて)年寄りはついつけっぱなしにしてしまう。まさか放送していないのにテレビはつけないだろう。節電にもなるし。

 

 もっとヒンシュクを買いそうな暴論もあるけれど、呆れられて誰も見向きもしてくれなくなりそうなので胸に秘めておく。

2022年6月18日 (土)

映画も好い

 新しい囲碁ソフトとの対戦は負けばかりで、たまに勝つ。そのためにぼんやりしていると頭の中に碁盤が出てきて勝手に寄せ(せめぎ合い)を進めていく。集中しすぎるとこうなって、他のことが出来なくなる。

 

 碁盤を頭から振り払うために、映画をぽつりぽつりと観ている。今日は『マイ・ダディ』(2021)という日本映画を観た。ムロツヨシが主演のハートフルな映画で、悪くなかった。人生の現実には残酷なところもあるが、だからといってそれでだいじな人生を悲観しすぎてヤケクソになってはいけない。真摯に向き合うことで神は、つまり世界は微笑んでくれる、という映画だ。何しろムロツヨシは牧師役なのである。脇役の中に探偵役で小栗旬が少しだけ登場する。さすがに存在感があって好いなあ。たまにこういう映画を観る必要がある。

 

 昨日『アサシンクリード』(2016)という、世界的にヒットしているゲームソフトの映画化したものを観た。過去と近未来、宗教と科学というものがシンクロしたアクション特撮ものだ。面白いけれど、こういう映画は大抵完結しない。出たとして、続編を観るかどうか迷う。

 

 ところでこの映画に脇役としてシャーロット・ランプリングが出ていた。以前にも書いたがこの女優が好きなので出ているだけで嬉しくなる。初めてこの人を観たのが学生時代で、『さらば美しき女』(1971)というイタリア映画だった。中世が舞台の、近親相姦あり、大殺戮シーンありのすさまじい映画だったのだが、このときに観たシャーロット・ランプリングの目に魅了されてしまったのだ。

 

 まぎらわしいのは『さらば愛しき女よ』というアメリカ映画もあって、そのヒロインがこのシャーロット・ランプリングなのだ。この映画はハードボイルド作家のレイモンド・チャンドラーの同名小説を映画化したもので、主演はロバート・ミッチャム。この映画も好い映画だ。

 

 映画を観ながら過去の作品や俳優を連想してしまうのは歳のせいかなあ。

 誰が書いていたか忘れたが(たぶん曾野綾子だと思う。それとも森本哲郎かなあ)エジプトでは、召使いが誤って持っていた壺を割ったとき、「壺が落ちて割れた」とあたかも壺が自らの意思で勝手に割れたかのような言い方をするという。これは特定の召使いの話ではなく、エジプトでは普通の言い方で、なにごとも神の意志による出来事なのである。

 

 いまは変わってしまったが、日本ではまず謝ったものだ。そして謝ったのだから許してやろう、ということになるのが普通だった。失敗よりも謝らないことの方が罪が重いとみなされた。

 

 こどものとき、外国では交通事故を起こしてもけっして謝ってはならないのだと聞いた。謝ったとたんに全面的に責任を認めたことになってしまい、不利なのだというのだ。それが毒のように私の脳の中に棲みついた。どうやらその毒は私だけではなくて日本人全体に棲みついてしまったようだ。なにごとも謝るのは損で、自己を正当化するのが正しいこととされるようになっていった。

 

 理不尽な、他人迷惑な行為をする人間が、咎められると他人のせいにするのを繰り返し目にさせられている。そういう人間はむかしからわずかながらいた。問題は、それを見せられて、それでいいんだと思う人間が、むかしはあまりいなかったのに、いまはどんどん増えているらしいことだ。バレなければ悪いことをしてしまう、そそのかされると悪いことをしてしまう人が増えているように見えるのは情けないことで、特に若者にそのけじめがよわそうに見えることが哀しい。日本に毒が回っているのだろうか。弁護士は社会に必要な存在であると認めるけれど、弁護士が必要以上に増えている世界というものになんとなく不快を感じるのは故なしとしない。

責任

 原発事故による避難者の被害訴訟で、国に責任があるかどうかが争われたが、最高裁は国には責任がないという裁定を下した。法律的に検討して責任が問えないという判断を下したのだろうが、私はその判断には賛同しかねる。

 

 判断の根拠が、大きな地震とそれに伴う津波が起こりえるから対策すべきだという勧告に対し、その勧告の予測を超えた津波だから予測できず、責任がないというものだ。予測をはるかに超えた津波であったことは事実であるけれど、だから対策を命令しなかった責任がないというのは、私には納得できないのである。勧告に従って対策を命令したけれど、予測が至らなかったからその対策が不十分だった、というならわかるが、命令されずに対策はされなかったのである。

 

 起こったことに対して、企業と監督官庁には責任がある。その災害が予測を超えたから責任がないという判断をしていたら、責任があまりにも限定的に過ぎるのではないか。そして大津波は過去何度も前例があったことは、歴史的な事実なのであって、それが予測できなかったから無実というのはいかがなものか。責任者は責任を負うから責任者なのだということを忘れていないか。今回の判断をした裁判官たちは後世にその責任を問われるのではないか。

2022年6月17日 (金)

強い

 二十年くらい前の古い囲碁ソフトは、最強の設定にしても田舎の初段以下のレベルだから、たいてい勝てる。たくさん打ったのでうち癖のようなもの、つまり弱点がわかってしまって、ただ勝つ快感を味わうためだけに対戦していた。とうぜんながらそれもいささか飽きてきた。

 

 もう一本それより少し強い囲碁ソフトをもっていたのだが、これはやたらに考える。思考時間の最短が一分で、その一分に設定すると一分きっちり考える。考えるまでもないところでも考える。私は直観打ち(だから強くならない)なので待つのが嫌いである。

 

 新しい囲碁ソフトを買った。新しいといっても十年ほど前のソフトで1500円。それでも最強設定は六段格と書かれている。このソフトはほとんど瞬時に着手する。設定は、弱い、やや弱い、標準、やや強い、最強の五ランクあり、今は標準を相手にしている。ほぼ初段格かと思う。どんどん攻めてくる。守りより攻めてくる。こちらもどんどん攻めるから、どちらかの大石が頓死して投了になるケースが多い。

 

 今のところ三回から五回に一回しか勝てない。負けたときは途中まで戻してどこが敗着だったか検討する。どうも今までの弱いソフトとの対戦で悪い打ち癖が染みついているようだ。とにかく今度のソフトは速くて強い。十年前のソフトでこんなに強いのだから、最新のものはどれほど強いのだろう。

自分が心配

 毎日せっせとブログを更新している。我ながらよく続いていると思うが、書き慣れたおかげで書くのにかかる時間はかなり短くなっている。書くのが楽しいから書いているのだが、それでもくたびれることもある。好きで書いていてもくたびれるのだから、こんな駄文を読む側は、それ以上であろうと申し訳なく思っている。それでも読んでいただく人がいるのはありがたいことである。

 

 本を読んだり、映画を観たり、旅に出たりしたことをブログに書く。どれも私の好きなことだ。意識しているのは、それぞれを楽しみとして愉しむことで、ブログを書くために愉しむということのないようにしたいということだ。ブログのネタにするために本を読むなどということは本末転倒で、本を読むこともブログを書くこともなんとなく楽しさが失われてしまう気がする。そう思いながら、ブログを書くために本を読まされているという気がすることがないではない。

 

 ときどき同じことを書いてしまう。書いたあとで読み直してそれに気がつく。そんなことが増えている気がするが、その時には初めて書いているつもりであって、思い出せていない自分に不安を感じたりする。

 

 物忘れをすることは昔から多かったが、些細なことを忘れるのであって、忘れるはずのないだいじなことを忘れたり、思い出せなかったりすることはめったになかったのに、いまはそれもあやしい。先日も長老や兄貴分のひとと旅行したときに携帯を宿に忘れるところだった。宿の人がすぐに気がついてくれて事なきを得た。役所に提出する書類を忘れて役所に行ったり、財布を持たずに買い物に行ったりする。まだレジの前ではなかったので、恥ずかしい思いをせずに済んだ。サザエさんか。

 

 そのために却って不安神経症気味になっている。鍵を忘れていないか何度も確かめる。財布を持っているかどうか何度も確認する。出かける前の確認のためのルーチンがしつこくなっている。それでも忘れるのだから自分が心配になる。

 

 つい先日は傘を忘れかけたし、今朝は手元のお茶の入った湯飲みをひっくり返して周辺を水浸しにしてしまった。ときどきうっかりする。これが、ついにはときどき神経がつながる、なんてことになってしまうのだろうなあ。気にしすぎかなあ。

舞茸飯

 片品温泉の宿で食べた舞茸ご飯が美味しかったので、自己流で作ってみた。ふだんより少しだけ少なめの水(あとで加える具でご飯が少し柔らかくなる)でご飯を炊く。舞茸と油揚とこんにゃくを刻んで油で炒め、酒、みりん、砂糖、だし醤油を加えて煮る。それを炊き上がったご飯に入れてかき混ぜる。本物の舞茸ご飯に何が入っていたかは正確には知らない。だから適当である。

 

 男の料理は舞茸ご飯ではなく、舞茸飯となったが、それでもそこそこ食べられた。舞茸の香りとだしがちゃんとおいしくしてくれるのである。今度は久しぶりにアラメ飯を作ってみようかな。そちらは舞茸の代わりにアラメを水でもどしたものを使う。具にもっと何か加えてみたいが何がいいだろう。

2022年6月16日 (木)

して善いことと悪いこと

 世のなかには、して善いことと悪いことがある。そのして善いことと悪いことは世のなかの約束ごとであって、約束は破ることが出来るものだから、悪いことをする人間がいる。法律だって憲法だって約束事で、皆が守ってはじめて意味がある。

 

 支援金の詐欺に加担した多くの若者がいたことは、だから驚くにはあたらない。ただし、そういうことはしてはいけないとは知らなかった、などという言い訳は通用しない。私が驚くのは、だまされた若者に同情するような論調を見聞きするときである。約束を破ったらペナルティが科される。当たり前のことで、そうでなければ約束そのものが無意味になる。社会は何でもありの無法地帯になってしまう。約束は破ることが出来るが、守った方がいい。それくらい親も教師も教えてやれよ。

 

 万引きについては先日書いた。

 

 どうしてしてはいけないの、などと小賢しいこどもはおとなの顔色を見ながら問う。してはいけないことになっているからしてはいけないのだ。それが約束だからだ。そして約束は守るほうが生きやすいように世のなかは出来ているのだ。

本日多用

 先延ばししたものばかりではなく、雑用がたまって今日は忙しい。年金が出たから引き落としに行く。私の生活費は銀行から、妻の口座は郵便局から。妻の入院している病院に電話して支払額を確認し、支払いに行かなければならない。年金額が減ったのはちょっとつらいが、皆苦しいのだから仕方がないとあきらめている。役所にちょっとした書類の提出の用事もある。自動車保険の更新も近いので、その案内が来た。そちらも連絡しておく必要がある。

 

 梅雨の合間の傘なしでいられる日のようなので、買い出ししたいものがいろいろある。あれもこれもと考えるとけっこう次から次に思いつく。さあどれだけ片付けられるかな。明日からまたのんびりぼんやりするために、今日はちょっと働こう。

ジェンダーギャップ

 日本はジェンダーギャップ、つまり男女間格差の解消が世界でも最も遅れている国のひとつとみなされている。それは見かけ上の女性の社会進出や待遇の差を数値化してみているので、日本の実態とは違うのではないかと私は考えていた。日本の女性はそれほど不遇に思えないし、積極的に私の廻りの女性が不満を語っているのを聞かないからだ。

 

 だが、見方を変えると、確かに日本社会は遅れているかもしれないと思うこともある。

 

 日本の若者が結婚したがらないでその結果が少子化につながっている。その若者、特に男性の意識の中に、旧態依然たる、さだまさしの『関白宣言』的な結婚生活を夢見ている者が多いらしい。そして女性もたぶん男はそういうものを結婚生活に求めているらしいと感づいている。それを受け入れる気のない女性はとうぜん結婚を回避するようになるだろう。そして夢見る男性の多くは結婚からあぶれていくだろう。

 

 誰がそのような意識の刷り込みをしたのか。たぶん若者達の両親だろう。息子や娘に結婚して欲しいと願う両親の思い描く結婚が、時代錯誤を継続させているのだと思う。こども離れの出来ない親が結果的にこどもに固定観念を植え付けているのではないか。

 

 自由であるべきところが、自分さえよければいいという自分勝手にすり替わり、自分が可愛い、自分が誰より大事、そしてそんな自分を誉めてやりたい人の群れが、自分に合った会社、自分に合った人を求めているのが今の日本社会のように見える。ときに相手に合わせることが必要だということを教えられずに育った人たちは、「好きなひとに出逢えない」と嘆いてみせる(実際にそう語る若者をテレビで観た)。好きなひとに出逢うのではなく、出会った人を知ることで好きになるのは言うまでもない。「自分に合った会社」や「好きなひと」が、探せばどこかにあると、こどもみたいに考えているのだろうか。

 

 そんな日本が、日本人が、違いを受け入れることでしか解消できないジェンダーギャップを乗り越えられるわけがないなあ、などと思う。実質的に破綻した結婚生活をしている私が言うことではないが。 

2022年6月15日 (水)

疲れる

 マンションの掲示板にいろいろと注意の張り紙が出される。最近気になったのが「テレビの音量を廻りの迷惑にならないよう留意しましょう」というものだった。苦情が自治会に寄せられたのだろう。私は映画を観るときは、サラウンド5.1チャンネルで少しボリュームを上げる。映画館の雰囲気を多少なりとも感じたいからだ。それでもとんでもない大音量でスピーカーを鳴らしているつもりはない。だから、まさか隣家からの苦情ではないとは思うが、一度気になると不快の度合いは増幅するから注意が必要だ。

 

 そういうわけで昨日はヘッドホンで映画を観た。ヘッドホンの大音量は聴力を劣化させるという。だからといって音量を上げなければ迫力がなくなる。映画を一本観ると耳がくたびれる。結局映画三昧にするつもりが二本しか観ることが出来なかった。

 

 一本は2021年の『ゴジラとコング』というアメリカ映画で、宿敵のキングコングとゴジラが戦う怪獣映画だ。最近の特撮はいよいよ出来が良く、面白いし、メカゴジラのパイロット役で小栗旬が出ていたりした。ただし、跳ね返りのこどもが活躍するというおためごかしの展開はいつ見ても不愉快である。

 

 もう一本は『W座からの招待』で取り上げられた『プロミシング・ヤング・ウーマン』というミステリー映画である。アカデミー賞で脚本賞を取り、他にも四部門でノミネートされた。事前にそれらの知識がなかったら、はじめの展開を観ただけで観るのをやめたかもしれない。少しネジが狂った若い女の奇行にしか見えない行為が、次第にエスカレートし、その奇行の原因とリンクして、目的を、つまり意味づけが生じたためにラストへの衝撃の展開になっていく。脚本賞を取った理由がわかる。ラスト、敵に反撃を許したのが、彼女の計算だったのかどうか、通報の文言の中に答えがあると私は思うのだが・・・。

 

 ところで耳以上に目も疲れた。

インフレ加速の予感

 昨日「不安か予感か」というブログを書いてから、さらによく考えてみたらますます不安になった。

 世の中はうまく回っているからこそ経済活動も安定する。それに異常をきたすとどうなるか、いまロシアのウクライナ侵略という戦争で、それを世界は体験している。それ以前からコロナ禍という異常事態で経済活動に支障が生じていることは、様々な電気製品や自動車の生産の休止などで体験した人も多いのではないか。さらに中国はゼロコロナ政策の強行によって、輪をかけて経済に支障を生じさせている。

 それらが多少長引いたとしても、いつか治まると期待していたけれど、どうやら世界の仕組みが修復されるのにはだいぶ時間がかかりそうだと皆が考えるようになってきた。そうなればモノの生産と流通は当分支障をきたしたままになり、モノが手に入りにくくなり、モノの値段はどんどん上がることが予想される。モノが足らなくなるという不安はモノの値段を急速に上げるし、実際に店頭から物がなくなり始めればどうなるのか。あの洗剤やトイレットペーパーの奪い合いどころではないパニックが起きないとは限らない。

 経済活動に支障が出る恐れを投資家が実感し始めたから、株価が大きく下がり始めたのではないか。そして経済が停滞しそうなのに、欧米各国が経済を冷やしかねないような急激な金利上昇策をとっているのは、物価が尋常でない値上がりをするという予測を立てているからではないか。まずインフレ抑止を優先しないと大変なことになると気が付いているからではないのか。

 日本は膨大な赤字国債を抱えている。金利を上げれば借金の利子も増大して赤字が坂道を転げる雪玉のようにとめどなく膨らむから、金利を上げないという政策を続けている。いや、そうせざるを得ないということにしている。結果的に日本だけインフレを軽視しているから国の信用が低下し、円が急激に価値を低下させているのではないか。通貨の価値とは国家の信用のバロメーターでもある。

 これらはものの見方によって違う説明もあるのだろうが、起きている現象は同じである。これからモノの値段は急速に上がり、モノが足らなくなるだろう。冬の時代が来る。それに備えなければ。

鑁阿寺(ばんなじ)

足利学校と鑁阿寺はすぐ近くであり、その辺りは美観地区として石畳が敷き詰められて良い雰囲気である。

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こんな紫陽花もあるのか。

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足利尊氏の像なんかもある。

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鑁阿寺はもともと足利氏の館だったところで、ぐるりと堀がめぐらされている。太鼓橋を渡って境内に入る。

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正面本堂。

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境内は広くて緑も深く、気持ちの好いところである。

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本堂には大日如来が安置されている。けっこう拝観する人が多い。

時間も頃合いなので、宿に向かった。

これにて今回のうろつき旅の報告終わり。書いているうちにまたどこかへ出かけたくなった。

2022年6月14日 (火)

足利学校

栃木県足利市にある足利学校を見に行った。

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歩道橋の上から足利学校を望む。小さな堀に囲まれている。

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入り口。

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入り口を入って少し先の左手には孔子像がある。

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孔子廟。

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日本最古の木造の孔子像。

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孔子像の右手にある小野篁の木像。小野篁については面白い話がたくさんある。

孔子廟の中は暗くて、像はほとんど観ることが出来ない。私のカメラの最高感度にして撮った。こういうところでストロボを使ったことはない。また、使うべきではない。今はカメラが写してくれる。

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大きな建物は授業の行われた講堂。建物は他にこうど゛うのまえはにわになっている。講堂のまえは庭になっている。

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庭は手入れされていて美しい。

このあとすぐ近くにある足利氏の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)に向かう。

不安か予感か

 あるのにまた買ってしまう。歯磨きや歯ブラシ、香辛料、マヨネーズやめんつゆなどをはじめとして、どんどん予備が増えている。なくなりかけたら買うようにしていたものを、まだたっぷり残っているうちに買ってしまう。それは年齢によるうっかりだと思っていた。確かに歳とともに物忘れが増え、ないことに対する不安が増えていると言えるが、どうもそれだけではないのではないかとこのごろ思う。

 

 ものが値上がりすることについてのあきらめはあるつもりだ。戦争とはそういうものだという知識はある。しかしそれよりも、ものがなくなるという事態がこれから起こるのではないかという不安が増大している。金さえあれば買える、から、金があっても買えない、という状態になっていくのではないかという不安があるようだ。それは無意識のうちに起きていて、それに備えなければ、という行動につながっている。不安が予感をうんでいるのか、現実を正しく認識しているからか。

 

 それが杞憂なのかどうか。どうもそうではないのではないかと思い始めている。

 そういえば、戦後ドイツがハイパーインフレになったとき、せっせと貯金していた人よりも、毎日酒を飲んだくれて、その空き瓶が山のようにたまっていた男の方が豊かになったという話を思い出した。酒飲みではない私の父親から子どものとき聞いた話だ。

草木ダム

国道122号線は大間々までずっと渡良瀬川沿いを走り下る。途中に草木ダムとダム湖の草木湖がある。

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草木湖、上流側、つまり日光方面。

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ダムを見るのも好きである。人間が作ったものとは思えないほどの重量感に圧倒される。

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向こう側まで歩く気にならなかった。怠惰になっている。

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雨に濡れて緑はますます緑に、花はますます鮮やかに見える。

時間があるので足利に行くことにした。

2022年6月13日 (月)

渡良瀬鉄道足尾駅にて

渡良瀬橋と渡良瀬川のときに、遠くに見えていたのは120号線ではなく、122号線の間違いでした。日光のいろは坂を降りて、右折して足尾へ向かう路です。申し訳ありません。

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なつかしい赤い丸ポストと足尾駅。

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渡良瀬鉄道は現役。足尾駅は終点ではなく、終点は次の間籐駅。

この駅のまわりには鉄道好きが興味を持ちそうなものが置いてある。

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みんな現役ではない。おまけに手入れもされている様子はなく、朽ちていくのにまかせている。

一時足尾を銅山を中心に世界遺産に、という運動もあったが、これでは立ち消えているのも無理はないと思う。しかしそれだからこその風景を見ることが出来る。

文化

 文化と文明の違いについておぼろげには理解しているつもりだが、人に説明できるほど解っているわけではない。よくわかっていない人に説明できるというのは、よほどよくそのことを理解しているということであろう。

 

 川端康成の『日本文学の美』(『川端康成随筆集』に収録)という文章を読んでいて、文化というものについて考えさせられた。川端康成の好きな藤原道長の時代の女流文学、和歌などを手がかりに日本文学の美を考え、そこから文化というものにまで思考を拡大していく。そこでは仮名文字の美しさ、そして書の美しさにも言及されていて、たまたま一時期専門の人に書道史などを教えてもらって興味のあることでもあり、川端康成の言うことが少しだけ理解できた。

 

 文化には(たぶん文明も)興隆期、爛熟期、衰退期があり、爛熟の時代に優れたものがたくさん産み出される。その時代と同レベルの人がもし他の時代にもいたとして、残念ながら時代があわなければ、優れたものを産み出すことは出来ないだろうという意見には私も賛同する。川端康成がどういうものをすぐれていると評価したのかについては置いておくとして、思ったことは、現代は文化的にどういう時代なのか、ということだ。

 

 川端康成は、この文章を書いている時点を明治百年としているから、1970年頃だろう。それからすでにまた五十年が経過している。渦中にいるとき、その時代の文化は見ることが出来ない。それを見ることが出来、評価できるのは後世の人である。

 

 そんなことを読んで、ふと考えてみるとそもそも現代に文化と呼べるほどのものがあるのだろうか、という思いを感じだ。比較すべき、そして論評すべき文化などそもそもないのではないか、そして文化の価値など誰も意識していないのではないかという思いがしている。そのことは古典や近代の文化を学ぶという、文化の継承をないがしろにする教育が続けられた成果なのだろうと思う。爛熟も退廃もない、無文化の時代をわれわれは生きていないか。それこそが日本の衰退を表していないか。そしてそれは日本だけではないような気もしている。

渡良瀬橋と渡良瀬川

足尾の駅からすぐ近くに小さな公園があり、渡良瀬橋、そして渡良瀬大橋から渡良瀬川をのぞき込むことが出来る。

渡良瀬川は足尾銅山の鉱毒水で死の川となり、明治時代に日本で最も古い公害問題となった。このとき問題追求の先頭に立ったのが佐野の田中正造であったことはよく知られている。さまざまな人がこの公害闘争に関わったが、志賀直哉も祖父が鉱山に関わっていたことで大きく影響を受けている。

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渡良瀬大橋から渡良瀬川を見下ろす。

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渡良瀬大橋に立って渡良瀬橋を見る。

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渡良瀬橋は明治時代に作られた。補修されているので作られた当時のままではない。奥に見えるのは国道122号線のバイパス。

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渡良瀬橋から渡良瀬大橋と足尾の山を遠望する。

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古河鉱業の迎賓館。看板にあるように、土日祝日しか開かないのでまだ入ったことがない。ここへ来るのはいつもウイークデイなのだ。

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渡良瀬橋から見下ろす渡良瀬川はまことに美しい。

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この川が死の川と呼ばれた時代もあったのだ。

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足尾は年に一度、十年ほど定点観測をしている。昔銅山で働いていた人たちの住んだ建物がこの周辺にたくさんあるが、今はほとんど誰もいない。この写真の奥の方に見えるのは組合の生協だった建物で、だいぶ前に閉鎖した。朽ち始めている。

2022年6月12日 (日)

見えないけれど聞こえる

湯滝から坂を下って、竜頭の滝を見ようかどうしようか迷ったが、小雨交じりなのでパスした。竜頭の滝を見るのなら多少上り下りで歩かなければならない。その代わり華厳の滝を見に行くことにした。

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駐車場に車を置いて歩き出したが、こんな風に霧がすごい。

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却って草木は活き活きしている気がする。

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華厳神社。赤が風景に際立つ。

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向こうに滝があるはずだが、見えない。

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よく見れば縦に白く滝が落下しているような・・・。

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見えませんか?あたりは霧としぶきと轟音で天地が混沌としている。

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樹がシルエットのようになる、こういう風景が実は好きである。

華厳の滝を見るのではなく、聴きに行ったことになった。

このあと足尾に向かう。

 

日常に戻る

 一週間以上、上げ膳据え膳に馴れていたが、自宅に戻れば当たり前のことながら自分でしなければならない。不在だったのに散らかっているという不思議な部屋を片付け、洗濯をし、食事の支度をして独りで食べている。食材もギリギリに減らしてあったからスーパーで揃えなければならない。名古屋は今日、真夏日だという。洗濯物がよく乾きそうだ。

 

 一週間録りためてあるドラマやドキュメントなどがあるので、今日は読書よりもそちらの消化に努めることにする。

 

 この旅でさらに体重が増えてしまった。弟のところでも宿でもふだんよりオカズがはるかに多いから食べ過ぎてしまったのだ。これではいけない。歳だから筋力も落ちている。膝や腰にも負担がかかる。意識的に食事の量を減らして、身体を動かして汗をかくようにしなければならない。

 

 いろいろな手紙が来ていた。読みとばしてかまわないもの、処理が必要なものなどさまざまだ。今日は日曜だから処理は出来ない。そちらは明日からだ。とりあえず出来ることからひとつひとつ片付けていこう。

湯滝

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湯の湖からほど近いところに湯滝がある。小学校の修学旅行のとき、湯の湖に泊まりこの湯滝も見に行った。たぶん滝の迫力を一番最初に知ったのはこの滝だった気がする。

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駐車場に車を置いたら、観光バスから修学旅行生がぞろぞろ降りてきた。これは先に行かないとごった返してしまうと思い、先を急いだ。驚いたことにこのあと滝を見て写真を撮って十分以上過ぎて戻ってきても、先生が生徒を整列させて話をしていた。トイレ休憩をしたあととは思うが、先生の話が長すぎるように見えた。私が車で出たときもまだ整列していた。

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コロナ禍で売店は閉まっているようだ。ここでコレクションしているフクロウの小物でも買おうと思っていたのだが・・・。この湯滝はほとんど上り下りなしで、しかも歩く距離も短いのがありがたい。

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轟音とともに木々の向こうに滝が現れる。

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いつも以上に水量が多くて迫力がある。

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滝を見上げる。滝は音が伴わないと迫力が半減する。

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一番上部、落下口あたりをアップする。すごい水量だ。

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いくら見ていても見飽きない。マイナスイオンをたっぷり浴びた。

 

2022年6月11日 (土)

到着

今朝は前の晩飲み過ぎて二日酔いだったので、ホテルの狭い風呂にゆっくりつかって酒を抜いた(つもり)。遅い朝食を摂ったらほぼ復調した。自分では大勝負と思っても油断は出来ないので、慎重に運転して帰路についた。どこにも寄らない。

北関東自動車道を西へ走り、高崎から関越道、さらに藤岡で上信越道へ移る。

今日は土曜日だからトラックよりも自家用車が多いようだ。妙義の山々を左右に見ながら碓氷峠を越える。軽井沢を過ぎて右手に見えるはずの浅間山は雲に隠れている。どうも道路の整備が不十分でまるで田舎のでこぼこ道みたいだ。更埴で長野道へ、さらに岡谷で中央道に移る。

今日は頻繁に休憩を取るようにしたし、スピードも出さなかったら、燃費がかなり良かった。

つい先程無事我が家に到着。名古屋は小雨。まずカラカラになっていたベランダの朝顔やバジルやニラ、細ネギに水をやる。さあ、これから洗濯だ。

湯の湖

片品温泉をゆっくり出立。国道120号線まで戻り、日光方面に向かう。丸沼、菅沼を横目で見て立ち寄らずに通過。金精トンネルを抜ければ栃木県だ。男体山と湯の湖を峠から見下ろす。

奥日光の湯の湖に立ち寄る。

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ツツジが盆栽のように見える。いつもより人が少ないから駐車場も停めやすかった。

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ボートにずいぶん乗っていない。こどもの頃近くに周囲一キロ足らずの池があり、何度かボートに乗ったから、下手ながらなんとか漕ぐことは出来る。

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今は暗いけれど、後から明るくなってきて・・・。

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あっという間に晴れた。

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こういう樹々を見ているとリゾート地だなあ、という気がする。

このあと湯滝を見に行く。

2022年6月10日 (金)

宿の前の片品川

結局、今日は日光から足尾廻りのコースで友人の住む街のビジネスホテルへ向かった。

途中の写真があるが、それは明日以降にするとして、たびたび露天風呂の背景音の片品川の話を書いたので、その様子をとりあえず掲載する。

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かなり勢いよく流れていることがわかると思う。

おまけ。初日に関越道の赤城高原の道の駅にて。

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真っ暗で、霧と雨が降っていた。

雑念世界に戻る

 何も考えずにぼんやり過ごした極楽世界も終わり、雑念世界に戻った。夜中、そして明け方に三回ほど目が覚めて、そのたびにあまり気持ちの良くない夢を見ていた。世界をワープするときの不快感を体験した。

 

 ほんとうに何もしなかった。本は読んだが、時間はたっぷりあったからもっと読めたはずで、極楽世界はあまり読書という集中作業に向いていないようだ。

 

 夜半に雨が降ったらしいが気がつかなかった。今朝はもやのかかった薄曇り。本日は赤城越えして友人の住む街のビジネスホテルに行くか、それとも金精峠を越えて日光を通り、足尾経由で行くか迷う。

 

 夜、友人と会食して、明日自宅に帰る。

北原亞以子『月明かり』(新潮文庫)

『慶次郎縁側日記』シリーズ初の長編。目の前で父親が殺されるのを見た男の子が、目撃したと証言した犯人の様子があまりに異様だったため、次第にその証言が疑われてしまい、事件は迷宮入りになってしまった。それから十年あまり、その少年が移り住んでいた川崎から江戸へ戻って来て犯人捜しに狂奔する。

 

 事件当初にはわからなかったことが次第にもつれた糸がほぐれるように明らかになり始め、関わった多くの人間の絡み合いが連環していたことがわかってくる。そんななか、新たな殺人事件が起こる。

 

 正直あまりに多くの人間が似たような関わり合いで複雑に絡み合うので、名前が混乱するし、理解するのに骨が折れた。私にはややこしすぎたのである。読み方を急ぎすぎたようだ。

 

 私はあまり執着心が強い方ではないので、このような、成り行きを受け入れることの出来ない人間ばかりがぞろぞろと出て来て、話しがややこしくなることが苦手である。執着するのとしないのと、どちらが生きやすいのか。自分ではどうしようもない執着というものもあるらしいが、私にはよくわからない。

2022年6月 9日 (木)

平岩弓枝『狐の嫁入り』(文春文庫)

 神林東吾は奉行所与力の神林通之進の弟。幕末の剣客で有名な齋藤弥九郎の弟弟子で、後に齋藤弥九郎道場の筆頭門弟格となる。つまり凄腕なのである。神林通之進夫婦にはこどもがなく、順当であれば東吾がそのあとを継ぐことになる。

 

 るいはもともと同心の庄司家の娘だったが、父の死後遠戚に同心株を譲り、御宿かわせみの女主人となる。女中頭のお吉や番頭の嘉助はもともと庄司家に仕えていた者たちである。また畝源三郎は神林家の隣家の同心で、るい、源三郎、東吾は幼なじみである。

 

 与力の神林通之進の妻、早苗は麻生家から来ていて、その麻生家は娘ばかり、二人の娘は他家に嫁ぎ、残った七重が婿を取って家を継ぐことになっているが、当主源右衛門は七重が東吾を慕っていることを知って居るので、東吾を婿にとりたい。

 

 るいと東吾は幼い頃から慕いあう仲で、すでに事実上夫婦同然なのだが、そういう背景があってなかなか思い通りにはならずに切ないのである。畝源三郎は東吾の親友でもあり、しばしば東吾の腕と知恵を借りるために捕り物にかり出す。そうして出会う事件の顛末が、この捕物帖となっている。

 

 東吾の周辺も色々と騒がしくなり、読者も気になるし、堅物の畝源三郎の去就も気になるところである。

北東向き

 川と宿との位置関係から、部屋の窓は北東向きだろうと検討をつけていたが、今朝七時前にチラリと朝日が覗いて、それが確かであることを知った。五時前、夜が明けてまもなくの頃に朝風呂に入ったときは雨が降っていたが、まもなくしたらやんだようだ。

 

 露天風呂から眺める片品川は、昨日以上に激しく流れ下っている。両岸にわずかな戸数の集落がある。その奥には低い山が迫っているが、高さはそれほどではない。その上に、もやのような雲が被さっていた。片品川が川底を削り続けてできたわずかな谷の両岸に温泉が点在している。対岸には大きな木が覆いかかるようにしていて、木下闇を作っている。

 

 露天風呂は四阿のように瓦屋根がかかっているから、雨が降っても風さえなければ濡れることはない。よく見ると柱が二本しかない。長方形の一角と、その横の長辺の真ん中にならんでいる二本だけで重い屋根を支え続けているのだ。不安定な作りだけれど、これで大丈夫なのだろう。

 

 床は切石が敷き詰められていて、風呂も岩風呂ではなく、切石を長方形に積み上げて作られている。昨夕には少しぬるすぎるくらいだったけれど、今朝は41℃くらいで私には適温だ。床は場所によってヌルヌルしていて滑るので注意が必要だ。こういう露天風呂では大抵いろいろな虫が飛び交い、湯に飛び込んだりするものだが、ここにはほとんどいないのがありがたい。

 

 昨夕は舞茸ご飯が美味しくて少々食べ過ぎてしまった。宿では昼食は出ない。頼めば出前くらいは取れるだろうが、あえて昼を抜いている。だから夕食はことさら美味しく感じられてしまい、食べ過ぎてしまう。それにいくつかの具と舞茸を油で炒め煮してご飯と炊き込んだ舞茸ご飯は、見た目は黒くてあまり良くないが実際に美味しいのだ。ふだんは、ご飯はおかわりしないことに決めているのについ二杯目いただいてしまった。

北原亞以子『ほたる』(新潮文庫)

 平岩弓枝の『御宿かわせみ』シリーズと、北原亞以子の『慶次郎縁側日記』シリーズを交互に読んでいる。大きな特徴の違いは、『御宿かわせみ』の方が本格的な捕物帖のスタイルで、『慶次郎縁側日記』の方は凶悪な事件はほとんどなく、事件らしい事件の手前でおさまるものの多いことだ。それ以上に違うのは、『御宿かわせみ』では視点が中景と遠景であることが多いのと較べ、『慶次郎縁側日記』では、ほとんどおももいきりの近景であることだ。それが登場人物の、周りが見えなくなっている世界をより心理的に捉えることにつながっている。

 

 渦中の人物の思い込みがそのまま描かれていくからどうなることかとおもうけれど、慶次郎や別の冷静な人間の視点に切り替わったとたんに世界が違って回り出す、というその転換が素晴らしい効果を見せてくれる。これもひとつの作者の仕掛けたトリックであり、どんでん返しだ。そして現実に読んでいるほうも、はっと我に返ると自分が見ている世界に対して別の見方があるのかもしれないと気づいたりする。人間関係というのは入れ替えの効かないものでなり立っていることが多い。その囚われをどう受け流したり受け入れたり出来るかが、生きやすさにつながる。わかっていることなのだけれど・・・。

2022年6月 8日 (水)

昼の風呂

 片品川の渓流が勢いよく流れる瀬音が背中で聞こえる。川のそばの露天風呂につかりながら空を見上げると、黒い雲が通り過ぎて暗くなったり、雲が切れて少しだけ青空が覗き、ときどき日が差したりと、めまぐるしい。温めの湯とはいえ長くつかっていれば汗も出てくる。ときどき立ち上がって川風に当たりながら川を眺める。河原の草に、つばめより一回り大きくて、頭も大きくて少し太めの灰茶色でくちばしの黄色い鳥が、何羽かせわしげに何かついばんでいる。白い蝶々がつがいでひらひらと飛んでいたりする。

 

 定年退職して最初に湯治に行ったとき、世間の人は皆働いているのにこんな風に湯につかっていていいのかと後ろめたい気持ちになったものだ。そんな気持ちもだんだん薄れていたが、その後ろめたさを久しぶりに感じた。それほど気持ちが好い。もちろんここに「後ろめたい」などと書くのは本音だが、その言い訳でもある。

 

 この天気なら尾瀬を歩く人たちは雨に遭わずにすんだことだろうと思う。私はすぐ近くにいながら尾瀬まで行く気にならない。ずいぶんゆっくり湯につかっていたが誰も入ってこない。独り占めである。連泊しての昼湯は最高のごちそうである。出かける方がもったいない。体中から力が抜けてぐだぐだになった頃合いに湯から上がった。汗をふいて着物を着たところに若い人が入ってきた。気持ちの好い挨拶の声をかけてきたから、この宿の人かもしれない。

平岩弓枝『幽霊殺し』(文春文庫)

 平岩弓枝は時代小説作家であるとともにミステリー作家でもあるので、こういう本格的な捕物帖が上手いし、そのトリック、動機付けの意外さを読んで愉しむことが出来る。

 

 神林東吾の親友で、朴念仁で女嫌いと見られている町廻り同心の畝源三郎が、恋らしい恋をする『源三郎の恋』では恋は成就せず、悲劇に終わるが、こういう話が重ねられていくうちに登場人物達に読者はますます感情移入して、彼が後に伴侶を得ることに身内のめでたさのように喜びを感じるというしかけになっている。それはシリーズでもまだ先のことだが・・・。

 

 その畝源三郎が珍しく病で倒れてしまうのを、親身に介抱する東吾の姿で二人の親友ぶりがうかがえるという『幽霊殺し』という話もあるし、御宿かわせみの女主人で事実上の東吾の恋女房のるいが狂人に拐かされてあわやの目に遭いそうになる『秋色佃島』という話では、るいと東吾の熱々ぶりを周囲も読者も見せつけられることになる。

 

 平岩弓枝の描写は中景や遠景が主に使われていて、浮世絵の風景画のような効果をもたらし、読者にそれを思い描かせてくれる。映像的なのである。ドラマにしやすいだろうと思う。ストップモーションから人物達が動き出す。平岩弓枝はこのシリーズでは主に三人称の視点を使い、その視点から人物の心理を伝えていく。だから登場人物の気持ちを読者は自分で想像し、自分自身のものとして感じ取ることになる。登場人物の気持ちにほだされてつい目頭が熱くなるのは、登場人物が涙ぐむ外見に感応しているのだ。

川を見下ろす

 昨晩はビール一杯と熱燗一本だけで夕食を摂った。宿の食事は家庭食のちょっとごちそうの日、というところだが、それぞれに素朴ながら味わいがあって悪くなかった。食後一息入れたらもう一度風呂に行こうと思っていたが、しばらく横になって本を読んでいるうちに寝てしまった。夜中に一度トイレに起きただけで朝まで爆睡した。九時間は快眠したことになる。

 

 起きて朝風呂に入る。昨夕は雨が本降りだったので露天風呂には入れなかったが、今朝は止んでいたのでそちらにゆっくりつかる。湯は単純アルカリ泉で肌がヌルヌルする。ぬるめ、40~41℃というところか。いくらでも入っていられる。立ち上がれば片品川が見下ろせる。細いが雨を集めて激しく流れている。爽快だ。しかも誰も入ってこないから独り占め。

 

 宿は四階建てで、一般客は三階と四階。二階は風呂と宴会場のようだ。私の部屋のある四階は六室あって、それぞれのドアの外に宿泊客の名前を書いた札が貼られている。六室中五部屋に名前が貼られていた。食事のとき見回すと十組くらいいた。夕食時間は七時半指定。食べるはずの人はすべていたはずだ。ほとんどが二人組。夫婦か友だちどおしのようで私のような一人客はもう一人だけだった。

 

 部屋割りを見ると、川に面した側の部屋が洋室で、山側が和室らしい。川側の部屋なのに、私の部屋の下は浴場が張り出しているのでそれが邪魔して川が見えない。

 

 今日は今のところ雨は上がっているが山は低く垂れ込めた雲が被さっている。しばらく前から左肘が痛むし、膝もガタが来ているので、よほど晴れれば別だが、温泉三昧でミニ湯治をするつもり。十五冊ほど持参した文庫本は五冊ほどすでに読了したので、残りもだいぶ消化できるはずだ。

2022年6月 7日 (火)

インターネットなし、だが

 雨降りのなか、片品温泉(尾瀬まで十キロあまりで行ける)の宿に到着した。この雨ではどこかに立ち寄っても写真が撮れない。だから早めに着いた。部屋は畳ではなく、ツインベットが置かれている。

 

 この宿にはインターネットがない。少し前に泊まった宿ではインターネットがないのでブログがアップできなかった。今回はスマホのテザリングがうまくつながったので、ブログをアップすることが出来そうだ。前回どうしてテザリングうまく出来なかったのか、いまだによくわからない。

 

 カメムシとテントウムシが異常発生しています、と貼り紙があった。窓を開けないようにしよう。これから着替えて風呂に行くことにする。

『温泉百話 東の旅』(ちくま文庫)

 作家や著名人の温泉に関わる話がたくさん収められている。編者は種村季弘と池内紀だが、東の旅は種村季弘があとがきを書いているから、彼が主に東の旅を担当したのかと思う。明治から現代まで、時代が幅広く、そして随筆風のものもあり、また小説の抄録もある。

 

 無理に集めたものではなさそうだが、面白さで言えば、つまり私の感想で言えば玉石混淆という所がある。先般は田中康夫の一文をけなした。同じような小説でも、神吉拓郎の『病気』という一文などは段違いに好い。出色は若山牧水の「みなかみ紀行(抄)』。この人の健脚であることがよくわかるし、むかしの旅というのはどういうものだったかもわかる。同様な感想を持ったのは辻まことの『引馬峠(木賊、湯ノ花、檜枝岐)』。これも素晴らしい。川端康成の『伊豆湯ヶ島』はあの『伊豆の踊子』を連想させるし、志賀直哉の『草津温泉(抄)』もさすがに読ませてくれる。好きでもあるからだろう。

 

 現代にそこを訪ねても同様の感興が得られるかどうかわからないが、文章を連想することでオーバーラップして見えるものがあるかもしれない。そういう楽しみを愉しむのに手がかりになる本だ。

海外では・・・?

 山口県阿武町の誤送金問題について、日本ではその金をわたくししようとした男が非難されているが、海外では「間違えた町側が悪いのに、実名を出されて人生をめちゃくちゃにされたこの男が可哀想だ」という声がある、というネット記事があった。そのまま読むと、日本と海外は善悪の価値観が違うかのような書き方である。

 

 本当だろうか。

 

 日本でもそのようなネットへの書き込みをする人はあったし、逆に海外でも詳しい経緯を知っていればとうぜんこのネコババしようとした男が悪いと考えるのが普通であったと思われる。現に海外でも男が悪いという意見があったことが書かれているし、同様なことがあって誤送金を使ってしまった為に処罰された例も取り上げられていた。

 

 相反する意見はどこにでもあるが、日本ではこうで、海外ではこうだったと、特定の意見を採り上げてあたかも価値観が違うかのような見出しはいかがなものか。うっかり「なるほど」などと思わないように注意しないといけない。そもそも、「海外では」とか「海外は」とか言う海外とは、どこの国のどれだけの割合の人が言っているのかまったく示されていないのだから、雑すぎて意味がない。

2022年6月 6日 (月)

『芥川竜之介随筆集』(岩波文庫)

 今回読んで感じたのは、芥川竜之介の小説は面白いけれど、この随筆集に収められているような文章はあまり好きにはなれないということだった。ことさら文章中に横文字(カナカナではなく、文字通りの横文字)が多用されたり、私の知らないことばが頻出する。この随筆集を編纂した石割透という人が註をいれているはずだが、その註が、必要以上にわかりきっていることが書かれているのに一般的ではなくてわからないことについては註がないので、不親切に感じてしまう。岩波の注釈にはそんなのが多い。もちろん私に素養がないのではあるが、そういう人のための註のはずだと恨めしい。

 

 警句的で衒学的というのは、こちらがついて行けているときはそれなりに面白がれるが、突き放されてしまうととりつく島がない。素晴らしい美文もすらすらと書かれているが、芥川竜之介は才が走りすぎているように感じてしまう。この辺は好みの問題もあるだろう。志賀直哉の随筆と較べると親しみやすさがまったく違った。ただし芥川竜之介の小説は何度読んでも面白く読めるし、嫌いではない。

北原亞以子『夢のなか』(新潮文庫)

 慶次郎縁側日記シリーズの十冊目。好い短編がそろっている。同じことが、自分が見た世界と他人の見た世界で違って見えているということをやさしく、しかも容赦なく描いて見せて、確かにそうだなあ、と頷かせてくれる。

 

 出口を見失った者が、何かをきっかけに、実は出口は目の前の、すぐそこにあることに気づく。そのかすかな、しかし確かな希望をほのめかせて終わる話が続く。残酷に見えた世間が、残酷なばかりではなく、逃げ場所もあること、優しさを求めた自分が、実は自分こそ他人に優しくないことに気がつくことのなかに希望がある。

 

 こういう人情話が書ける女性というのが、実は寂しさやつらさを心底知っている人であることを、女優の冨士真奈美があとがきに書いている。なるほど。

宴会

 弟にはこどもが三人、孫が七人いる。下の娘(私の姪)夫婦は都内に住んでいたが、今年、弟の家から近いところに家を新築した。弟がその家を見に行こうというので連れて行ってもらった。新築祝いも贈らず、手ぶらで行くのはいささか気が引けたが、仕方がない。全体が大きく作られている。ドアや鴨居が高いし、天井も高い。私は普通の家では屈まないと鴨居に頭を打つけれど、姪の家ではストレスがない。姪には娘が二人、小学生低学年と、幼稚園生。二人そろうと女の子はにぎやかだ。最後に会ったときは二人とも小さかったから、久しぶりにあって大きくなったのにおどろいた。上の子は私を覚えていたが、下の子は記憶にないからちょっと人見知りをされてしまった。

 

 晩は、上の息子(甥)の家族と下の娘の家族が弟の家に集合して、大人数の宴会になった。甥のこどもは上が娘で高校生、下が息子で中学生である。上の娘は美人のおとなの女に変わりつつあり、下の息子は声変わりして甥のこどもの頃にそっくりになっていた。コロナ禍で会わないうちにみんな大きくなった。

 

 昨日行った酒蔵で買った酒を飲んだのは弟と私だけ。それでもにぎやかな宴会となり、楽しい時間を過ごすことが出来た。ちょっと飲み過ぎ。

2022年6月 5日 (日)

甲子政宗(きのえねまさむね)

二晩で弟のところの酒を飲み尽くしてしまったので、買い出しに行くことになった。それなら造り酒屋に直接行ってみようと弟が言い、酒々井(しすい)というところにある甲子政宗の蔵に行った。千葉県では昔から有名なところである。

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仕込み樽などを置いた説明の場所。

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それを読んでいる弟夫婦。

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大きな杉玉があり、男の人が出てきた。

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さっき出てきた人に挨拶したら、今日は日曜で、酒造りの見学は出来ないといいながら、色々と建物の説明などをしてもらった。

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もともとのこの酒屋の主の本宅を改装して、今年から食事処にしたという。中も案内してもらった。ランチで三千円ちょっとを最低に六千円、八千円という会席コースがあるという。ちょっと心が動いたが、まだ昼には早いし、お腹も空いていなかったので、今度また来ることにした。

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むかしの貯蔵用の瓶だろうか。

販売所で純米吟醸酒とちょっとしたつまみを購入し、帰路についた。

 

千葉公園

妹の家のすぐ目の前に千葉公園がある。ここは母方の祖父母の家からも歩いてこられる場所だったから、子どものときにもときどき来た。ずいぶんむかしとは変わってきれいになった。

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池がある。

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向こうにはモノレールが走る。

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ツツジは最盛期を少し過ぎていた。

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池の一角に蓮園がある。

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かなりつぼみが赤らんでいるが、開花はもう少し先。

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わかりにくいがよく見るとトンボが止まっている。 

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この蓮は古代の蓮、大賀蓮だ。

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傘の花。

 

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ぐるりと回ってモノレールの軌道の下にて。

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菖蒲(?)も咲いている。

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別の傘の花。カメラを構えている後ろ姿は弟。

今度来るときは六月の中旬にしよう。たぶん蓮の花が満開のはずだ。

2022年6月 4日 (土)

勘違いで迷惑をかける

 勘違いしたのは私である。

 

 午後、弟夫婦と妹のところへ行った。色々話をしてから、みんなで近くの千葉公園を散策した。夕方になったので、私が促して帰ることになったのだが、妹はみんなが晩までいて、夕食を食べる前提でいて、その準備がしてあったようだ。弟夫婦もそれならそれで夜までいるつもりだったらしい。ところが私が帰ると言い出して、ちょっと気まずいことになってしまった。

 

 いまさらそれならゆっくりするとも言いかねて、帰ることになった。いちおう謝っておいたが、あとでまた電話でもすることにしよう。結局その食材を抱えて帰ってきた。弟の嫁さんにそれで料理を作ってもらうことになる。こちらも迷惑なことだ。つまらないことではあるが、その場の空気が読めない私が悪かった。

アフォリズム

 警句、などと訳される。皮肉をこめた短文をアフォリズムと言うが、今読んでいる芥川竜之介の随筆集は、随筆と言うよりもそのアフォリズムに満ちた短文が満載である。そして若いころはそれが妙に格好が良いように思えて好きだったのだが、今はいささか鼻につくところがないではない。格好が良いと言うより格好をつけすぎだと感じるからである。

 

 僕は医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。従って嘘をついたような気ばかりしている。

 

 僕は見知越しの人に会うと、必ずこちらからお時宜をしてしまう。従って向こうの気づかずにいる時には「損をした」と思うこともないではない。

 

 こんな風のものはいまでも嫌いではない。

話す

 ふだんは独り暮らしなので話す相手がいない。外に出なければほとんど口をきかずに過ごす。一週間以上しゃべらないこともある。友だちなどから電話があると声がうまく出なかったりする。発声練習のために一時期は美文調の徳冨蘆花の『自然と人生』などを大声で朗読したりしていたが、それも最近はサボっている。

 

 昨夕は弟夫婦の心づくしの夕食をいただきながら久しぶりの会話を愉しんだ。会話というよりは私の独演会に近いことになって、今朝起きて思い返し、いささかしゃべりすぎたなあと気恥ずかしい思いがしている。それだけ色々なことが腹にたまっていたのだろう。

 

 今日は弟夫婦と一緒に妹の家に行く。電話で聞いた妹の声の様子から、入院している義弟の状態は多少持ち直している気配だ。妹の家のそばにある池は大賀蓮が有名で、以前行ったときは満開だったが、今はまだつぼみだそうだ。

2022年6月 3日 (金)

千葉にいる

 朝出発して、昼に千葉の弟の家に着いた。天気予報では、昼頃から千葉県は雷雨の可能性があると報じていたので、早めに着くように出発したのだ。さいわい雨には降られなかったし、東名高速も首都高も湾岸道もさしたる渋滞もなくスムーズに来ることが出来た。弟夫婦とは一昨年の暮れに会って以来だと思うから、一年半ぶりだ。

 

 昼からも、ときどき黒い雲が上空を覆うけれど、雨はまだ降らない。この辺を避けているようだ。ときどき遠雷は聞こえている。

 

 明日、妹のところに入院している義弟の様子を聞きに行く。こちらは丸二年ぶりになる。

原価意識

 販売価格がそのまま利益だと思っている人がいる。価格には原料代と流通費、包装容器代、人件費、その他経費(販売経費、生産拠点の維持費、税金他)などが含まれていて、利益は価格の中の一部である。それぞれの経費が上がれば価格に上乗せされる。それを吸収して顧客に迷惑をかけたくないなどときれいごとを言っているのは、それでもなんとかなるほど今まで十分な利益があったからだろう。そうでなければ会社は潰れる。潰れてしまうほど無理をするのは競争があるからで、不思議なことに日本では潰れるまで競争してしまう傾向があり、生き残るために無理をして価格競争して潰れる、などと言うことがしばしば起こる。

 

 こんなことは社会で生きていれば分かるはずだが分からない人もいる。しばしば働いた分だけ給料をもらうのがとうぜんで、自分の給料はそれに見合わないという人がいる。もちろん実際に低すぎることも多いが、たとえば一番わかりやすい例で、営業として会社にもたらした自分の利益は全て自分の働きだからその分を会社に報酬として求めるような考えの人間もいたりする。それでは会社は成り立たない。

 

 こんな自明なことをくだくだしく言うのは、万引きに対する社会の甘さに腹が立つからだ。本屋が潰れる最大の原因が万引きだというのはよく知られている。本は原則として仕入れ代がかからない(再販制度という、売れなかったものは返本できるシステムによる)から、売れば必ず一定の利益が得られる。もちろん経費はかかるから、その利益から人件費をはじめとした経費に使われる。その利益率はさまざまあるらしいが、あるニュースでは5%程度の利益率だと報じられていた。その5%から店舗の維持費、人件費などを引いていくから、純益は2~3%なのだとされていた。

 

 しからば一冊万引きされればそれを補填するために三十~五十冊をさらに売らなければならない計算になり、一日百冊売る店で二冊、三冊と万引きされれば店は成り立たず、潰れてしまう。罪は重いのだ。それが軽く見られるのは、冒頭に書いたように、千円の本を売れば千円利益が上がって居るのだから一冊や二冊くらい、という思いにつながっている。ほんの出来心でいたずらに近い、などという言い方をする馬鹿者がしばしばテレビでしゃべっているのを観ると腹が煮えくり返る。

 

 万引きは窃盗で、即刻警察に通報し、処罰するのがとうぜんだ、という世のなかに変わらないと、万引きは減らないと思う。罪の意識がないと罪を犯してしまう人間が一定数いる。それが犯罪なのだと意識させないとならない。

こういう言い回しが好き

『魯迅文集6』を読んでいる。その中に『私は人をだましたい』という一文があって、以下の言い回しがいたく気に入った。

 

 支那の人民は疑ひ深い。どの国の人もそれを可笑しい欠点として指摘して居る。併し疑ふ事は欠点でない。始終疑つて断案を下さないのは欠点である。自分は支那人であるから良くその秘密を知って居る。実は断案を下して居るのである。即ちその断案と云ふのは矢張りとても信用が出来ん。而して事実は大抵その断案の確かである事を証明するのであつた。支那の人は自分の疑ひ深いことを疑はない。

 

 上海事変(1935年)のすぐあとくらいに書かれたもので、その時の自分の行動を踏まえて書かれている。魯迅の文章はこんな感じのものが多い。私はその文章が好きである。好きだからといって、私は魯迅ほどひねくれているわけではない。ひねくれている、というのは悪意からではない。屈折しているというほどの意味である。もちろん魯迅が体験したその時代の中国の荒浪を、私も同様に体験したらどうなったか分からないけれど。

2022年6月 2日 (木)

ニュース雑感・国会関連

 立憲民主党の泉代表が、「物価高と戦っていない予算だ。無理やり通したということは(内閣)不信任に価する」と述べて、内閣不信任案提出に含みをもたせたそうだ。

 

 内閣不信任案提出は軽々に行うべきではない、たいへん重い判断だと私は思うが、今回の予算案の国会での論議の中で、多くの国民がなるほど内閣はおかしい、と思うような経緯があったのだろうか。末席ながら国民のひとりである私は寡聞にしてそういう認識がない。そして私の知らないところで内閣の信用が失墜したと非難するような盛り上がりがある気配もない。国民を巻き込まない、そのような内閣不信任案提出は茶番でしかなく、経験的にますます国民の支持を失うことにつながると思うが、違うだろうか。しかし一度口にしたことである。それで行動しなければ、それも泉代表のことばを軽くしてしまう。この党の先が見えてしまう言動に見える。

 

 れいわ新選組の大石晃子議員が、岸田総理に向かって「鬼、財務相の犬」などと罵ったそうだ。全体を見聞きしていないので、どういういきさつがあったのか承知していないが、このことばは、まともな人間がいかに腹をたてたとはいえ、通常他人に向かって発すべきことばではない。

 

 自分が正しいと確信するのはけっこうだが、それに反すると考えられる相手に向かって、悪であり、犬であり、鬼であると発言するのはいかがかと思う。議論をすべき場での国会で、このような議論ではない罵りを発するような議員は議員の資格がない。それでも国民の中には拍手喝采をする人間が必ずいるというのがこの世のなかである。うんざりする。

 

 言うのなら、財務省で飼っている犬(そんな犬が居るとしたら)に、「財務省の犬」と言ってくれ。犬も自分がそうだと認めるだろう。「鬼」は・・・。鬼についてまたひとこと言いたくなってしまう。鬼とは、自らの意思で権力機構に包摂されない存在を指す場合があるので、岸田総理に向かっていうのはちょっと違う気がする。

ニュース雑感・朝鮮半島

 韓国の統一地方選がどうなったのか、たまたまかもしれないが、テレビで報じたのをほとんど観ていない。ネットで調べたら、国会では少数の与党が、今回の地方選では圧勝したらしい。ねじれ国会で苦労している新大統領もこれで少しはやりやすくなるだろう。

 

 バイデン大統領が、台湾有事の時にはアメリカは軍事介入する、と明言したことに対して、北朝鮮が「恥知らずな威嚇的恐喝だ」と論評した。なんとかその論評を理解してみようと努めてみるのだが、いつもの北朝鮮の主張同様、私のざる頭では理解できなかった。「台湾有事の場合は」という前提は、だれが見たって、ロシアがウクライナに軍事侵攻したように、中国が台湾に軍事行動を起こした場合を想定している。中国が「威嚇だ」というのは分からないことはない。意味は、アメリカは黙っていろ、またはお願いだから見逃してくれ、ということだ。しかし北朝鮮は台湾有事の当事者とは考えられず、どうして中国の立場に立った物言いをするか分からない(被害妄想だと思えば分からないことはないが・・・)。たぶん日本と韓国のメディア以外は誰もとりあげないだろうと思うが。

 

 元韓国大統領の文在寅の邸宅前で、連日デモ隊が押しかけて気炎を上げているそうで、それに対して文在寅はデモ隊を提訴したそうだ。今は私人となった人間に対してのデモ行動は迷惑だということなのだろう。それは理解できる。しかし文在寅は学生時代以来、ずっとデモ行為をくり返してきた人で、デモ行為は民主主義の重要な行為であるとみなしてきたことは知られている。何しろデモで朴槿恵を引退させ、さらに刑務所にまで追いこんだ。

 

 彼は大統領になったとき、朴槿恵が大統領府という国民から見えないところにひきこもっていたことを痛烈に批判し、自分は国民の声を広く聴くように努める、と公言したが、結果的に国民の声を聴こうとする努力を怠った。しからば国民はデモで訴えるしかないではないか。彼には良いデモと悪いデモがあるのだろう。自分のような正義のためのデモだけが許されるデモらしい。彼には正しい国民と正しくない国民があった、ということなのだろう。そして彼に反対するような正しくない国民は、そもそも彼にとって国民ではないと思っていたのかもしれない。分断とはそういうことだ。

地球のことを考えろ、と男は言った

 フランス、ルーブル美術館のモナリザの絵に男がケーキを投げつけた。ケーキは絵に命中した。男はカツラをかぶり、車椅子に乗って身体の不自由な老婆に見せかけていたという。

 

 男がなぜそんなことをしたのかと問われると、
「地球のことを考えろ。地球を破壊している人たちがいる。地球のことを考えるのが芸術家だから俺はやったのだ」と言ったそうだ。

 

 このことばから考えると、彼は、他人はどうか知らないが、自分は地球のことを考える正しい芸術家のつもりらしい。こういう正しい人が、木の芽時に意表を突いたことをやって世間を騒がせる。さいわいモナリザの絵はガラスで保護されているので無事だったそうだ。

 

 ところで、ここまで頓珍漢ならこの人はおかしいと誰でも気がつけるけれど、自称正義の味方の中にはかなりおかしい連中が多い。そうしてそういう人ほど声が大きくて、いかにも正論みたいに聞こえたりする。でもよく聴けば変な思い込みでしゃべっていることが分かるのに、みんなおかしいと思わないのが私には不思議だ。

2022年6月 1日 (水)

芥川竜之介のポルノ?

 芥川竜之介の随筆集の中の『雑筆』という文章の中に『痴情』という一節があった。

 

 男女の痴情を写尽せんとせば、どうしても房中の事に及ばざるを得ず。されどこは役人の禁ずる所なり。故に小説家は最も迂遠な仄筆を使って、やっと十の八、九を描く事となる。「金瓶梅」が古今無双の痴情小説たる所以は一つにはこの点でも無遠慮に筆を揮った結果なるべし。あれ程でなくとも、もう少し役人がやかましくなければ、今より数等深みのある小説が生まれるならん。
(後略)

 

『赤い帽子の女』というポルノ小説があって、著者は芥川竜之介であるとされているが、今のところその確かな証拠は見つかっていない。私も若いころ読んだけれど、原文そのものだったか修正されたものかどうか知らない。永井荷風の作とされる『四畳半襖の下張』はほぼ彼の作で間違いないとされるが、こちらは断片的にしか読んだことがない。確かに名文である。

 

 芥川竜之介も習作のつもりで痴情小説を書いてみたというのはいかにもありそうな気はする。しかし記憶ではそれほどの名文とも思わなかった。

隅田川

 大学を出て大阪の会社に就職したが、すぐに東京営業所に配属になり、足かけ11年、東京を拠点にしていた。池波正太郎のファンだったから、彼の本に出てくる場所や浅草界隈をずいぶんと歩いた。五十年近く前だったから、まだ古い浅草の名残はかすかに残っていた。会社は日本橋にあり、江戸橋にも人形町にも近かった。だから隅田川の文字通り青黒い汚水をよく目にしていた。

 

 芥川竜之介(1892-1927)の随筆集を読み始めていて、楽しみにしていた『大川の水』を久しぶりに読んだ。芥川竜之介は本所で生まれ育った(厳密にいうと生まれたのは京橋)から、大川に思い入れがあって、その川のにおいについて郷愁を感じると書いている。平岩弓枝の『御宿かわせみ』も大川の橋のほとりにあるから、江戸末期の大川の景色が描かれている。19世紀半ば過ぎ(御宿かわせみの時代)、そして20世紀はじめ(芥川竜之介のこども時代)、さらに私がこどもの頃(といえば1960年頃)と成人してから(1970年代)の、四つの時代の大川、すなわち隅田川を同時に思い浮かべての感慨がある。

 

 さらに関東大震災後の本所について新聞に連載した『本所両国』もこの随筆集に収められていて、芥川の記憶にあるような、江戸、そして明治のかすかな名残があった本所界隈や大川から、それがきれいさっぱり消えてなくなったことが記されている。この一帯は火事で壊滅的なことになり、人もたくさん死んだのである。そこにはバラックだての町工場のようなものが建ち始めている様子が描かれている。それが太平洋戦争で米軍による空襲でまた壊滅的な惨状となり、そこからまた工場が建ち、復興とともに隅田川はドブ泥の淀んだ臭い川になってしまった。

 

 子どものときは総武線で隅田川を渡るときには窓からの悪臭がひどくて、真夏でも一斉に電車の窓を閉めたものだった。それが私が東京を拠点にしていた1970年代後半以降には、その隅田川もようやく浄水化し始めて、夏だからといって臭くて鼻をつまむほどのことはもうなくなってきていた。浅草からの隅田川遊覧船は、若いころ付き合っていた女性と乗ったときはまだいささか水の汚れが気になったが、今は快適なものになった。隔世の感がある。

 余談だが、隅田川といえば『花』という滝廉太郎作曲の唱歌を思い浮かべる。あれが芥川竜之介のこどもの頃の景色と言えるかもしれない。さらに『隅田川』という謡曲も思い出される。高校の時、初めて出会った謡曲であり、その幽玄の世界を梅原猛に教えられた。「名にしおはば いざ言問わん都鳥 わが思ふひとのありやなしやと」という、在原の業平の歌が思い出される。

負担になりますか?

 野党の一部は、今の日本の物価高は自民党政権の失政によるものである、と声を上げている。一部そういう要因があることを否定できないが、多くは中国のゼロコロナ対策による物流の停滞、そして何よりウクライナへのロシアの侵略戦争が原因であることは、まともにニュースを観ている人間なら分かっていることだ。そしてそのことについては政府の責任を責めてもどうしようもない。

 

 いったい野党は、政府が「私が悪うございました」と本当に言わせたいのだろうか。物価が高いのも、電信柱が高いのも、お猿のお尻が赤いのも、みんな私が悪いのよ、と政府に言って欲しいのだろうか。

 

 庶民の意見を訊くためにレポーターがマイクを向ける。「物価が高いけれど生活はどうですか」。なんたる質問か。「物価が高いのは困ります。生活が苦しくなります」という返事しかしようがないではないか。これで庶民の気持ちを訊いたことになるのか。「別に物価が多少上がってもどうということはありません。お金はありますから」という答えがあったとしても、放送されないだろうしなあ。

 

 部活が教師の負担になっていることはようやく知られてきたが、その負担を減らすために外部の人を部活の指導者として採用する動きが出ているそうだ。それしかないのはわかっていることだから仕方がないだろう。そうなると、外部の人を雇うために金が必要になる。ボランティアというわけにはいかないのだ。レポーターが父兄にマイクを向けて訊いていた。「部活に支払いが増えることをどう思いますか」・・・。「負担になります」と、尋ねられた父兄が答えていた。

 

「負担になりますけれど、負担になりますか、と訊いていたことになって、バカ丸出しのレポーターの質問だけれど、天下のNHKは平然とニュースとして流していた。聞いているこちらが恥ずかしいのに、NHKは恥ずかしくないらしい。レベルが低いなあ。チェックする人間はいないのか。このごろはこんなレポーターばかりが目につく。ニュースとしての価値があることとないことの区別が分からないのだろうか。

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