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2022年6月18日 (土)

 誰が書いていたか忘れたが(たぶん曾野綾子だと思う。それとも森本哲郎かなあ)エジプトでは、召使いが誤って持っていた壺を割ったとき、「壺が落ちて割れた」とあたかも壺が自らの意思で勝手に割れたかのような言い方をするという。これは特定の召使いの話ではなく、エジプトでは普通の言い方で、なにごとも神の意志による出来事なのである。

 

 いまは変わってしまったが、日本ではまず謝ったものだ。そして謝ったのだから許してやろう、ということになるのが普通だった。失敗よりも謝らないことの方が罪が重いとみなされた。

 

 こどものとき、外国では交通事故を起こしてもけっして謝ってはならないのだと聞いた。謝ったとたんに全面的に責任を認めたことになってしまい、不利なのだというのだ。それが毒のように私の脳の中に棲みついた。どうやらその毒は私だけではなくて日本人全体に棲みついてしまったようだ。なにごとも謝るのは損で、自己を正当化するのが正しいこととされるようになっていった。

 

 理不尽な、他人迷惑な行為をする人間が、咎められると他人のせいにするのを繰り返し目にさせられている。そういう人間はむかしからわずかながらいた。問題は、それを見せられて、それでいいんだと思う人間が、むかしはあまりいなかったのに、いまはどんどん増えているらしいことだ。バレなければ悪いことをしてしまう、そそのかされると悪いことをしてしまう人が増えているように見えるのは情けないことで、特に若者にそのけじめがよわそうに見えることが哀しい。日本に毒が回っているのだろうか。弁護士は社会に必要な存在であると認めるけれど、弁護士が必要以上に増えている世界というものになんとなく不快を感じるのは故なしとしない。

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