隅田川
大学を出て大阪の会社に就職したが、すぐに東京営業所に配属になり、足かけ11年、東京を拠点にしていた。池波正太郎のファンだったから、彼の本に出てくる場所や浅草界隈をずいぶんと歩いた。五十年近く前だったから、まだ古い浅草の名残はかすかに残っていた。会社は日本橋にあり、江戸橋にも人形町にも近かった。だから隅田川の文字通り青黒い汚水をよく目にしていた。
芥川竜之介(1892-1927)の随筆集を読み始めていて、楽しみにしていた『大川の水』を久しぶりに読んだ。芥川竜之介は本所で生まれ育った(厳密にいうと生まれたのは京橋)から、大川に思い入れがあって、その川のにおいについて郷愁を感じると書いている。平岩弓枝の『御宿かわせみ』も大川の橋のほとりにあるから、江戸末期の大川の景色が描かれている。19世紀半ば過ぎ(御宿かわせみの時代)、そして20世紀はじめ(芥川竜之介のこども時代)、さらに私がこどもの頃(といえば1960年頃)と成人してから(1970年代)の、四つの時代の大川、すなわち隅田川を同時に思い浮かべての感慨がある。
さらに関東大震災後の本所について新聞に連載した『本所両国』もこの随筆集に収められていて、芥川の記憶にあるような、江戸、そして明治のかすかな名残があった本所界隈や大川から、それがきれいさっぱり消えてなくなったことが記されている。この一帯は火事で壊滅的なことになり、人もたくさん死んだのである。そこにはバラックだての町工場のようなものが建ち始めている様子が描かれている。それが太平洋戦争で米軍による空襲でまた壊滅的な惨状となり、そこからまた工場が建ち、復興とともに隅田川はドブ泥の淀んだ臭い川になってしまった。
子どものときは総武線で隅田川を渡るときには窓からの悪臭がひどくて、真夏でも一斉に電車の窓を閉めたものだった。それが私が東京を拠点にしていた1970年代後半以降には、その隅田川もようやく浄水化し始めて、夏だからといって臭くて鼻をつまむほどのことはもうなくなってきていた。浅草からの隅田川遊覧船は、若いころ付き合っていた女性と乗ったときはまだいささか水の汚れが気になったが、今は快適なものになった。隔世の感がある。
余談だが、隅田川といえば『花』という滝廉太郎作曲の唱歌を思い浮かべる。あれが芥川竜之介のこどもの頃の景色と言えるかもしれない。さらに『隅田川』という謡曲も思い出される。高校の時、初めて出会った謡曲であり、その幽玄の世界を梅原猛に教えられた。「名にしおはば いざ言問わん都鳥 わが思ふひとのありやなしやと」という、在原の業平の歌が思い出される。
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