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2022年7月25日 (月)

高考

 中国の高考(ガオカオ)は日本の共通一次試験みたいな(いまは別の言い方らしいがよく知らない)もので、それをNHKのドキュメント番組で観た。見始めてすぐに、なんだこれは「科挙」そのものではないかと思ったら、番組の中盤でそのことに言及があった。科挙は、千数百年前に出来た身分や家柄とは関係なく有能な人材を選抜するためのシスデムで、いかにも平等に見えたけれどさまざまな弊害も生んだからなくなったはずなのに、こういう形で復活しているのだ。

 

 現代では人間は平等であることが建前であるけれど、その能力は平等でない。能力の違いは努力で乗り越えられるというのは都市伝説みたいなものである。とはいえ、たゆまず努力することの出来る人間というものもいる。亀でも兎を超えることが出来ることもある。しかしたいていはそこまで努力することが出来ない。努力できることも能力の一つかもしれない。努力する能力のない私はそう思う。

 

 家族一丸となって、家産を傾けてまで受験生をバックアップし、受験生もそれに応えようと努力をする。そのことに受験生が嫌気を差したり疑問を感じたりしたらたちまち脱落してしまうだろう。さいわい屈折せずに全力を尽くして受験にこぎ着けられられたらしあわせだろう。それが当たり前だと思えることは幸せなことなのだ。

 

 戦後、日本でも雨後の筍の如く大学が出来たけれど、それでも団塊の世代やその少し後くらいの世代までは、大学は狭き門だった。受験地獄だの受験戦争だのいわれて、まさに私もその渦中を経験したけれど、中国の高考を観ていると、日本のその時代なんて甘いものだったと思う。それなのにその狭い門がどんどん拡げられていったあとあとまで、日本のマスコミはありもしない受験地獄を報じていた記憶がある。若者へのおもねりである。

 

 激しい競争と平等が同時に進行する高考がどんな若者を生みだしていくのだろうかなどと、心配しても始まらないことを心配した。そのことで損なわれたものは山のようにあっても、そんなことは些細なことで、ふるいに残った一部の超優秀な人材が国家を運営していけば良いのだ、とエリートたちは考えてきた。しかし習近平にとって、超エリートたちはあまり望ましい人たちとは見えていない気もする。中国の過去の歴史を繙けば理由は明らかだろう。

 ところでまったく別の話だが、今場所優勝の逸ノ城の顔を見ていたら、どういうわけか習近平と重なって見えてしまった。なにを考えているのかわからない顔という意味で似ていると見えたのか。逸ノ城にはちょっと申し訳ないが。

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