『川端康成随筆集』(岩波文庫)
川端康成(1899-1972)は明治三十二年大阪に生まれる。父は医師で、漢詩文もよくする文人でもあったという。その父は明治三十四年に死去。母とともに母の実家に移るが、翌年に母も死去。祖父母に引き取られる。小学校に上がってすぐに、彼を溺愛した祖母も死去。盲目の祖父と二人で暮らした。明治四十二年に四歳年上の姉死去。大正三年祖父死去。これで両親兄弟祖父母全て死に、母の実家に引き取られる。
彼が『伊豆の踊子』を書くきっかけになった伊豆行のときは彼は一高生で天涯孤独の身の上でもあった。ただ、彼は早くから文学を志しており、そのことから出来た交友を大事にしたようだ。一高時代に知り合った菊池寛にはずっと世話になる。また同人でもあった今東光との交友も深く、今東光が国会議員に立候補したときは応援演説に走り回っている。そのことで政治的な人間としてみられることもあったことがこの随筆に書かれている。
国際ペンクラブの活動に尽力し、海外の大会にもたびたび出席、昭和三十三年に副会長になり、その後会長。昭和四十年に会長辞任。昭和四十三年にノーベル文学賞受賞。昭和四十七年自死。
川端康成は頼まれたことを断らずに引き受け続け、健康を損なっても無理を続けた。結果的にかなり政治的な行動を重ねたことになり、そのことがノーベル賞受賞にもつながった、という見方は彼に酷だろうか。
彼の鎌倉の家には来客用の大部屋があり、人が常に出入りしていた。豪邸だったことを、弔問に訪れた山口瞳が書いている。戦時中と戦後の一時期、山口瞳の家は川端康成の家のすぐ近くで、家族ぐるみの交遊があった。そのときの家はそんな豪邸ではなく、川端康成の思いのままのしつらえだったが、死去した時の豪邸は、まったく川端康成らしくないことを哀切とともに山口瞳は記している。川端康成らしくない晩年を送ることになった日々に川端康成はなにを思ったのか。川端康成が自死したのはその豪邸ではない。
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