一度滅びた
8月18日の終戦記念日に関連した番組で、誰かが日本は太平洋戦争の敗戦で一度滅びたのだ、と語っていた。他国に支配され、主権を一時的にせよ失ったのだから、確かにそうであったと改めて思った。それを忘れてしまうから、敗戦という事実も風化してしまうのかもしれない。風化は戦争があったことそのものを忘れてしまうという形で現れている。ただの「ご破算で願いましては」のリセットになってしまっている。だからウクライナの戦争も台湾問題も他人事なのだろう。
『臼井吉見集2』の中の『蛙のうた』という文章を読んでいる。若い時に単行本として読んでずいぶん感銘した覚えがあるが、内容はほとんど忘れていた。読み返しながらどうして自分が感銘したのかよくわかった。七つの文章から構成されていて、一つ目が『八月十五日』という表題の70ページあまりの文章だ。これについては全部読み終わってから言及したいと思っている。いま読んでいるのが二番目の『隣は何をする人ぞ』という文章。
彼が米軍上陸を迎え撃つために九十九里の八日市場に陣地の構築を指揮して、そこで終戦を迎えたあと、自分のふるさとであり、妻子が疎開していた信州へ向かったのは九月半ばであった。
「復員列車が上野駅を通るとき見かけたのは、構内には乞食ともなんとも見分けのつかない群がうごめいていて、いたるところ、小便のたれ流しという光景だった。ジープで乗りつけたアメリカ兵が、キャラメルをばらまき、それにむらがる同胞のすがたも目撃した。そんな現象は、日に日にひろがりつつあるらしかった。それでも、なお、僕の気持ちは明るくはずんでいた。」
戦争で死ぬということがなくなったこと、自分の生き方を自分で決めることが出来るということが何よりも嬉しかったのだろう。
「無条件降伏の八月十五日、昼過ぎには早くも部隊本部から連絡があって、軍関係の書類、印刷物、記録などすべて焼き捨てるようにとのことであった。その種のものは、いつのまにか、ずいぶんたまっていた。僕はそれを本堂の庭の大きな榎の下へ持ち出して、一枚一枚、ひきちぎっては燃やした。さまざまの、消しがたい思いのまつわりついていないものはなかった。改めてそれをはっきり思い浮かべ、それらの記憶そのものを焼くつもりで、ゆっくりと燃やしていった。なぜ、それらのうちの二、三を残さなかったのか、千載の恨事とはこのことだろう。子々孫々に残さなくてはならぬ、驚嘆すべき貴重な資料を、なんだって、無制限に焼いたのか。よほど興奮していたとしか考えられない。」
この記録や資料を焼くという行為については、私もどうしても不可解でならない。戦争のさなかでそれらが敵を利するおそれがある情報であるというのならいざ知らず、すでに戦争が終わったのである。戦争の推移を見直し、何が問題だったのかを考えるための貴重な記録をなくすというのは、ただ、戦争の責任をうやむやにするためと思われても致し方ないのではないか。
この日本の組織の不思議な心性に基づく行動が、いまの官庁などにしっかりと継続されていることは、ニュースを見ていればよくよく感じられるところだろう。こうして責任はうやむやにされ、何も改善されない。
どんな資料が燃やされたのか、参考のために臼井吉見が記憶をもとに再現した資料が引用されているが、長くなったので紹介は次回にする。
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