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2022年8月 6日 (土)

門外漢ながら

 与謝野鉄幹の『人を恋うる歌』という詩があって、歌にもなっている。「妻をめとらば才たけて 見目麗しく情けあり 友を選ばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱」という歌だからたいていの人が知っている。その中に
「ああわれコレッジの鬼才なく バイロンハイネの熱もなきも 石を抱きて野に歌う 芭蕉のさびをよろこばず」という部分がある。
私は
「われにダンテの鬼才なく・・・」として記憶していて、これは森繁久弥の歌った歌詞なので、コレッジは知られていないからダンテにアレンジしたのかもしれない。鉄幹与謝野寛は与謝野晶子の夫である。 

 

 この「芭蕉のさびをよろこばず」の部分に、私はいつもなんとなく反発を覚えていた。それは正岡子規が「写生主義」を主張して、「歌よみに与ふる書」によって、古今、新古今を否定し、万葉集を称揚したことと並行し、与謝蕪村を「発見」して芭蕉と同等かそれ以上であるとしたことが背景にあるのではないかと思っているからである。

 

 蕪村については敬愛する森本哲郎が『詩人 与謝蕪村の世界』で詳細に論じているように、素晴らしい俳人であることは私も承知している。そして森本哲郎はもちろん芭蕉にも心から傾倒している。

 

 以前から時折歩いていたが、昨年、芭蕉が『奥の細道』でたどった道を、注釈本を片手にいつもより丁寧に何カ所か訪ね歩いた。そうして多少なりとも芭蕉の素晴らしさ奥深さを感じることができた。与謝野鉄幹の詩のような芭蕉の位置づけは浅薄にすぎるような気がしてしまうのである。正岡子規の影響を感じてしまうのである。

 

 明治時代、旧弊たる日本を脱皮して西洋化するのだという思いがありはしなかったのか。もちろんそれが強くあったことは間違いないことだが、それが衣装の問題でしかないところがありはしないかと思うのだ。詩の多くの部分がまさに日本古来の美意識を基底にしているように思えるではないか。これを取り入れたらこれを吐き出す、という姿勢はどうも安直に感じるのだ。

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