永井荷風と佐藤春夫
スカスカのざる頭なので、いったい誰の本で読んだのか定かではないが、永井荷風が死んだ後、『三田文学』で追悼評論の代表をどれにしようか、と評議されたとき、佐藤春夫はてっきり自分だと思ったら、選ばれたのはまだ当時若手だった江藤淳の『永井荷風論』だった。佐藤春夫にとって一番弟子だと思っていたのに屈辱だったようだが、それには理由が山ほどあった。それを自覚していなかったのは佐藤春夫本人だけだった。一説には佐藤春夫に反対したのは相弟子の久保田万太郎だったとも言われている。
『三田文学』を創始したのは永井荷風であるし、佐藤春夫と久保田万太郎は一時期慶応の教授だった永井荷風から直接教えを受けている。しかし性格があまりに違い、後に永井荷風は佐藤春夫を毛嫌いしている。その一端を臼井吉見集の『蛙のうた』の中で取り上げていた。荷風の『断腸亭日乗』引用である。
(昭和)十八年十一月十二日
「佐藤春夫右翼壮士の如き服装をなし人の集まるところに出で来り、皇道文学とやらを喧伝する由。風聞あり。」
永井荷風の最も嫌悪する、文士としてあるまじき姿に見えたのだろう。
別の評伝には、荷風の言葉として
(戦時中コーヒー豆がなくなって喫茶店でコーヒー豆によるコーヒーが飲めなくなった話から、)
「そのあとは黒豆やあずきのコーヒーになっちまいましたぜ。それでも軍人だけは飲んでいたんですよ。だから日本は負けてしまったんですよ。軍人が政治に口を出したり、文学者が政治家のような口をきく世の中なんて、あれは乱世です。ぼくはいちばんきらいな世の中をあのころ経験した。書こうと思う小説だってああいう風潮のときは書く気がしなくなったものですよ。」
そういう荷風は終戦間近にその頃はもう禁止されていた浅草レビューが舞台の『踊子』という小説を書き上げており、もちろん戦時中は発表できずに、戦後いち早く、臼井吉見が編集していた筑摩書房の雑誌『展望』に掲載された。
『三田文学』といえば、わが敬愛する奥野信太郎がいるし、安岡正太郎もいる。井伏鱒二、丹羽文雄、柴田錬三郎、石坂洋次郎、遠藤周作など(あえて名を挙げたのは愛読したことのある人だけ)多士済々、名を挙げていけばきりがないほどの文士たちを輩出している。
佐藤春夫は後、『小説永井荷風伝』(既読)をものしている。『小説』というのが意味深ではないか。
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