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2022年9月

2022年9月30日 (金)

はてしない

 出したら仕舞う、開けたら閉める、とこどもたちに繰り返し私が言っていたのは、実は半ば以上自分に対してでもあったのだが、情けないことにこどもたちは「そんなこと言われていたっけ」などと首を傾げる。そんなくらいだから、私が家を見回せば、かけ声だけだったなあと思わざるをえない。

 

 昨日掃除したのだから今日はしなくていいというわけにはいかない。昨日食べたから今日は食べなくてもいいというわけにはいかないのと同様だ。それでも根っからの不精者だから、掃除は常におろそかになり、しなければならなくなるときは大掃除になってしまう。掃除をルーチンに出来ていた両親がいまさらのように尊敬される。ゴミ屋敷の住人だって、汚いのが好きなわけではないだろう、などとあらぬ事を連想する。

 

 ゴミ屋敷にならないうちに片付ける。したくないけれどブツブツぼやきながら掃除をする。果てしない戦いだなあ、などと思う。

 

 午前中、掃除と洗濯をして、くたびれたのでぼんやりしている。来週初めに糖尿病の定期検診。その次の週には弟夫婦と妹がやってくる。それがあるからぼちぼち掃除もはじめなければ、というわけである。

 今日で九月も終わり、明日から十月だ。なんだかあっという間に時が過ぎていく。焦っても取り戻せないのだけれど、やろうと思っていたことをたくさん忘れたままにしているような気がする。

立ったまま

 ちょっとした段差や、何かをまたぐとき、自分が思っているようには足が上がっていなくて、よく躓くようになっていた。よろけて倒れたことも二、三度ある。それが、このごろはほとんど躓かなくなった。

 

 立ったままパンツを穿くことも難なく出来るし、なんと靴下も立ったまま履くことが出来る。足がほぼ自分の思っているように上がるようになった。

 

 学生時代、ちょっとだけ格闘技をしていたので、腿上げや、身体の柔軟性を鍛えられ、一時は前屈で胸が床につくほどだった。足が上がらないのは腿が上がっていないのだと考えたが、立ったまま腿上げすると不安定で倒れる危険がある。そこで横着ながら、仰向けに寝た状態で足を引き上げ、腿を胸に付けるようにする運動を始めた。胸には着かないがそう意識して引き上げるのである。引き上げた足をのばしたら足を床に着けずに浮かせておく。それを当初は左右に二十回、一月つづけていまは五十回ずつ行っている。寝たままの動作だから、大してむつかしい動作ではないが、丁寧にやると身体が少し温かくなる。

 

 寝起きと寝付くときに行う。腰が痛かったり億劫だったらやらない。その運動の結果が躓かなくなることにつながったのだと思っている。

 

 ついでに軽い腹筋運動と前屈運動、肩甲骨を回す運動をする。身体が温かくなるせいか、寝付きも良い。自分としては珍しく三日坊主の峠を越えてつづけることが出来ているのは、それだけ楽な運動だからで、それで効果があればありがたい。

謝罪だけですむことなのか

 J-CASTニュースが、安倍元首相の国葬の祭壇がハリボテに見えた、祭壇の写真はトリックアートのようだった、と指摘されていると報じた。そういう声があったという言い方で、自分の言いたいことを報道するやり方は、ネットニュースでしばしば見る。最近はメジャーのメディアまでそれを真似する。そのことに何の恥ずかしさも感じないらしい。

 

 経費を切り詰めれば祭壇もハリボテにならざるを得ないだろう、と想像させるが、実物を見ていないので、わからない。それをことさら報じることの意味もわからない。

 

 テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」のレギュラーコメンテーター、玉川徹氏が「菅氏の弔辞」について述べたコメントについて「事実ではありませんでした」と述べて謝罪したそうだ。芸能リポーターにしか見えないこの人が嫌いでこの番組は見ない。だから実際の発言は見ていないが、とんでもないことを言ったようだ。

 

 安倍元首相の国葬で、盟友であった菅元首相が弔辞を読んだ。その弔辞に安部夫人もハンカチで涙を拭っていたし、会場にはその弔辞に胸をうたれた人が多いように見受けられた。私もそうである。二人の関係はだれもが知ることで、菅氏が語った言葉は、心からのものと聞こえた。

 

 その弔辞が「一番胸に刺さった」と羽鳥アナが言ったのに対して、玉川徹氏は「これこそ、国葬の政治的意図だと思うんですよね」とコメントした。つづけて「僕は演出側の人間ですからね。テレビのディレクターをやってきましたから、それは、そういう風に作りますよ。とうぜんながら、政治的意図がにおわないように制作者として考えますよ。当然、電通入ってますからね」と述べたそうだ。

 

 それに対して、ネットでは「玉川さんのコメントですっきりした」「玉川さんに100%同意する」などの意見が寄せられたそうだ。

 

 菅氏の弔辞に感動したという羽鳥アナに対して、「電通の演出だ」と述べたことは、弔辞そのものも電通が作成したものだ、という憶測を呼ぶような物言いだったとして問題になったようだ。

 

 今回の国葬に電通が入っているという玉川徹氏の発言は、事実だったのか。そんな事実はなかった。「私が安倍元首相の国葬に電通が関与しているという風にコメントしたんですけれども、この発言は事実ではありませんでした。さらに、電通は全く関わっていないということが分かりました」と、事実誤認による発言だったことを玉川徹氏が認めて謝罪したそうだ。

 

 事実誤認というのは勘違い、ということである。しかしこの場合、事実ではないことを自分の想像で語ったのであって、勘違いではなく、嘘をついたということである。そう思いたい人に向かって「なるほどやっぱりそうだったのか」と思わせるような嘘をついたのである。案の定そう思った人が少なからずいた。

 

 謝罪ですむことかどうか、これからどうなるのか知りたい。テレビ朝日は不問に付すのだろうか。事実無根の嘘をつくようなジャーナリストはこのままコメンテーターをつづけるつもりなのだろうか。

2022年9月29日 (木)

認識の大きな隔たり

 日中国交正常化50周年を記念したニュースの中で、野田元首相のインタビューを観た。尖閣国有化断行により、中国との関係を紛糾させたことについての彼の考えが語られていた。胡錦濤政権末期の尖閣国有化である。この国有化は胡錦濤にとって、自分へのダメージが大きいことを危惧して強く国有化をやめて欲しいという懇請があったことは(前後の報道を見る限り)事実である。なんの国際会議のあとだったか忘れたが、野田首相に取りすがるようにしていた胡錦濤の姿を目にした記憶がある。

 

 しかし野田首相はそれを拒否して国有化を断行した。インタビューでは「強権の習近平では反撥が強すぎると判断した。政権末期の胡錦濤時代にしておく方が反撥が少ないと判断したのだ」と誇らしげに語っていた。

 

 習近平が強権であることはその時点では明らかではなかった。野田元首相は説明に現在を基準にして言い訳しているようにしか思えない。話は原因と結果を逆にしているとすら私には思える。歴代の中国のトップは、政権を退いても次代に影響力を残すことに腐心する。そうでないと自分の身が危ういからだ。政権末期に尖閣国有化を日本に許したことは胡錦濤の責任として共産党内部で激しく糺弾された。結果的に全く次代に、つまり習近平政権に影響を残すことが出来なかった。

 

 政権交代前後、二月近く習近平は姿を殆ど見せなかった。権力抗争で最後の反撃に遭うという身の危険を感じたのだ。結局、軍も行政もすべてを政権発足当初から習近平が掌握することになった。胡錦濤の影響を払拭することに成功したのだ。

 

 野田首相はある意味で「強い習近平」を産み出すことに貢献し、現在の中国の横暴を産み出す功労者になったのだ、と言うのが私の見立てで、ことほど左様にものの見方、認識というのはちがうものだなあ、と感じた次第である。

併合

 選挙と称する茶番劇で、ロシアがウクライナの東部などの州の独立を承認し併合に向けて既成事実を積み重ねようとしている。こんなことがまかり通ることは、本来あり得ないのだが、国連は、そして世界は誰も止められないで手をこまねいている。

 

 これが通用するなら、ロシア周辺国は恐ろしくてしようがない。どの国も国内にロシア人やロシア親派の人たちを抱えているからだ。現にモルドバはそのような地域を抱えていて、首相は今回のロシアの暴挙に対して反対を表明している。トルコだってクルド地域を抱えている。理屈上住民投票と称するものを実行して独立することだって出来ない理屈はないことになる。

 

 中国は、台湾について同じ手法で併合することは可能だと言えるのだが、そんなことをすれば、インドがチベットをバックアップして独立することも出来るだろうし、新疆ウイグル自治区だって、どこかの強国(たとえばロシア)が介入して住民投票したらまず独立可能だろう。台湾以外の独立は、インチキをしなくても、正しい選挙してさえ可能ではないのか。中国としてはこの手法は諸刃の剣となるのだろう。

 

 これは妄想だが、沖縄にどんどん中国人が棲みつけば、沖縄が日本から独立する可能性は大いにありそうである。国家元首は現在の県知事か。そうなると米軍は行き場を失うなあ。無理が通れば理屈は引っ込む、無理を止めるシステムが働かない世界は無秩序に突入してしまうのか。冗談でも他人事でもない事態が進行している。

軽さが気持ち好い

 小川糸『グリーンピースの秘密』(幻冬舎文庫)を読了した。彼女の2018年の一年間を日記で綴ったエッセーだ。このときはベルリンで暮らしている(2020年に帰国)。ベルリンの四季の風景、人びとの暮らし、ドイツ人の考え方などが、彼女流の何でも受け入れるものの見方で軽やかに語られていく。

 

 旅と、そこで暮らすということは根本的にちがう。知りたければそこで暮らす必要がある。旅人や観察者では祭りに参加したことにならない。異国で暮らすことはさまざまな困難に出会うことだと思うけれど、泣き言を書かずに軽やかに語れることに羨望するが、実際はそんなにらくらくと暮らせているわけではないだろう。

 

 それを乗り越えられるのは、知らないことを知ることに喜びを感じる好奇心を持ち合わせているからだろうと思う。それは彼女が料理好きであることと無関係ではないはずだ。とにかくやってみる、と言うチャレンジ精神がないと、新しい料理のレパートリーは増えないものだ。料理をする女性が魅力的に見えるのは、理由がある。

 

 もし彼女の本を読んだことがなければ、こういうエッセーを読む前に、ぜひ彼女の小説を読んで欲しい。『ライオンのおやつ』なんて、お勧めだ。題名が軽そうに見えるけれど、内容はとても重い話で、人生観に影響を受けるかもしれない。『ツバキ文具店』でも好い。料理好きなら『食堂カタツムリ』も好いし、『つるかめ助産院』もいろいろ考えさせてくれる。

 彼女が山形生まれの山形育ちであることも、大学を山形で過ごした私として多少思い入れがあるかもしれない。母親との確執が彼女を重くしていないように見えるのは、彼女が乗り越えたものの大きさを思わせる。

2022年9月28日 (水)

戦争責任(2)

 前回につづく

 

「この奴隷状態を存続させた責任を軍や官にだけ負わせて、彼らの跳梁を許したばかりか、進んでそれを手伝った自分たちの罪と愚かさを反省しなかったら、話になるまい。ところがいったん戦争に負けると、これまでいやに卑屈な格好をしていたのが、金切り声で軍官を責め、国民をおだてるようなことがはじまった。軍や官の許しがたいことはいうまでもないが、われわれ国民がどんなにダメだったかということ、これをぬきにした言論には、黙っていられない反撥を感じないわけにはいかなかった。戦後二十年になるが、われわれの情けないメンタリティに変わりはないと僕はみている」。

 

 このあとしばらく雑誌『展望』に関連しての言論人批判のあと、だいじなことを書いている。

 

「たとえばこういうことがある。戦没者慰霊祭などは、革新勢力が提唱して、国民の名において戦後早い時期にやるべきだった。三百万という犠牲者のおかげで、絶対主義と軍国主義日本が、近代国家に生まれ変わることができた。戦争が知らないうちにはじめられ、知らないうちに終わってしまうなんてことはありえなくなった。それだけが戦没者の霊を慰めることのできるゆえんであることをはっきりさせて慰霊祭をやるべきであった。が、それどころか、戦没者や遺族に肩身の狭い思いをさせるような雰囲気をかもし出し、ついに反動勢力が、靖国神社の境内で、天皇の参拝つきでやってのけるというふうに、何もかもさらわれてしまった。適時適切なくさび打ちを忘れて、戦争の犠牲でかちとったものを、なし崩しに崩したのは、革新勢力の責任ではないだろうか?」

 

「戦争中、ひっきりなしに国民を叱ったり、おどかしたり、おだてたりした右の金切り声がたまらなかったように、戦後の向きを変えた左の金切り声もやりきれなかった。右と左とちがうといっても、金切り声に変わりはなく、国民をおだてて利用することにおいてはそっくりだった。まず、その金切り声だけでもやめてくれ、人さまのことを考えてくれるのもいいが、たまには自分の心の中をのぞきこんでみてはどうだろう?」。

 

 私には右も左も同じにしか見えないときがある。私も金切り声が大きらいだ。金切り声で他者を責め立てる人間にとって、自分は別扱い、対象外だから、常に彼は無謬で正しい。私はまず自分を対象として考える。そして考えたことをこのブログに書いている。そして他人に同意を強いるつもりは全くない。「弔意の強制反対」などと叫ぶ人間は、弔意を強制できるものと考えているらしいことにうんざりする。私は強制などされない。ひとを馬鹿にするのもほどほどにしてもらいたい。

戦争責任(1)

 私としてはかなりゆっくりと『臼井吉見集』という評論集を読んでいる。そういうことがあったのか、とか、確かにそうだなあ、と思うことが多々あって、読み飛ばせないのだ。筑摩書房を起こした一員として、そして戦後すぐに雑誌『展望』の編集人として携わってきた臼井吉見だったが、『展望』もついに休刊のやむなきに至る。その休刊の弁を語る文章の中に、戦争責任について書かれていて、私が日ごろ思うところと重なるものがあった。

 

腹の虫がおさえかねたのが・・・で始まる以下の文章

 

「戦争に負けてからは、戦争中とは別の角度から、相変わらず、国民をおだてるような言論が始まっていた」

 

「映画監督の伊丹万作(伊丹十三の父・引用者註)が、敗戦の翌年の夏、戦争責任の問題について書いていた。僕などの考えていたことが、実にはっきりと書かれていた。多くの人が今度の戦争でだまされたという。では、誰がだましたか?軍や官や資本家だという。軍や官の中では、上からだまされたという。すると、最後に残る一人や二人によって、一億の人間がだませるはずがない。このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばからしさや、さては町会、隣組、警防団、婦人会など、民間の組織がいかに熱心に自発的にだます側に協力したかを思い出せばはっきりする。脚絆を蒔かなければ、外を歩けないような滑稽なことにしてしまったのは、軍でもなければ官でもなく、まして資本家なんかではなかった、われわれ国民自身・・・隣組であり、警防団であり、婦人会であり、学校だった」

 

 連想するのは、石油パニックのとき、トイレットペーパーや洗剤を買いあさり、メーカーや商社を糺弾し、備蓄の倉庫を無理やり開けさせて、「ほらここにある!」と叫んでいた主婦たちとそれを報じるマスコミだ。朝ドラの『ゲゲゲの女房』で、子供たちのわずかな小遣いで楽しめる漫画の貸本屋に押しかけ、作家である水木しげるの家に押しかけ、まなじり決して「漫画のような不良図書は許さない」と、極悪非道を行うものとして糺弾していた主婦たちだ。『チビクロサンボ』を書店、学校、図書館から駆逐した正義の人たちだ。

 

 戦前も戦後もおんなじなのである。本当に誰かがだましたのか。だまされたから自分に責任はないのか。

 

「戦争の期間を通じて、誰がわれわれを直接に連続的に圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかといえば、近所の主婦であり、大工であり、小商人であり、百姓であり、小役人であり、労働者であり、会社員であり、教員だった。ことごとく身近な人たちだったのだ。これらは、そのメンタリティにおいて、ことごとく軍であり、官であった。一億官僚だったのだ。国民同士がたがいに監視し合い、密告し合い、苦しめ合った。新聞や雑誌やラジオや学校がそれを助長する役割を積極的にはたした」。

 

 長くなったので次回につづける。

二兎を追うものは

 土曜から月曜にかけて、せっせと本を読んで、結構読み進むことが出来た(二冊読了)。そうするとドラマや映画が観られない。そこで昨日は溜まっているものをせっせと観ていたら一日過ぎてしまい、本が殆ど読めなかった。ほどほどに両方こなすということは、私の脳力ではどうしても無理なようで残念だ。

 

 二兎を追う者は一兎をも得ず、どちらも中途半端に終わってしまう。わかっていたつもりでわかっていない。時間を惜しむあまり、かえって時間を無駄にしているようだ。朝の片付けが終わったあとは、今日はどちらにするか決めて片方をあきらめる方が良さそうだ。

 

 ところで今日は本を読む日にしようと思う。並行して読むために積んでいる本の山に、一冊新顔が加わった。小川糸の『グリーンピースの秘密』。重い本を読んでくたびれたときの合間に読むのに軽くて良さそうだ。この本(2018年時点)では、彼女はベルリンで暮らしている。この本は料理のことがたくさん書かれた日記風エッセイである。思えば彼女との出会いは、映画『食堂 カタツムリ』の原作者としてであった。次がテレビドラマの『つるかめ助産院』、本として読んだのは『ツバキ文具店』が最初で、これは多部未華子(超大好き)の主演でドラマにも成った。もちろん続編の『キラキラ共和国』も読んだ。娘に貸したけど読んだだろうか。『サーカスの夜に(これもドラマになった)(これもドラマになった)も感激して読んだ。気持ちが洗われるというか、イヤされるというか、好いんだよなあ。彼女の本。

2022年9月27日 (火)

二分

 マスコミは、国論を二分しての安部元総理の国葬、という報じ方をしていた。この二分というのが国葬に賛成か反対か、という違いによるものであることは明らかだが、反対の立場にはさまざまな色合いがあって、そのことを国葬の当日に冷静に見ておきたい気がする。

 

 現在、反対している人たちは、大きく分けて、安倍元首相が国葬にふさわしくないから国葬に反対だという立場、そして国葬決定の経緯が法的、手続き的に正しくないから反対だという立場などがある。安部元総理については、モリカケ問題や政治姿勢が反対だからきらいである、と言う強固な反対者がいる。しかし、そこそこそれなりに頑張っていた、と言う見方をしていたのに、時間とともに国葬反対に転じた多くの人たちがいる。

 

 今となっては国葬決定は拙速だったように思える。日ごろ、なかなか決定をしないように見える岸田首相が、どうして国葬についてあんなに簡単に決定したのか。そこに国葬にすることが自分の政権の強化につながる、という思い込みがあっただろうと想像される。一歩踏みとどまり、過去の国葬、国民葬、党葬などの違いなどを振り返り、その経緯に学び、国葬の是非を考慮するという、とうぜんすべきことを経た気配は全くない。学ばなければ想像力も働かない。いまの状況は彼にとって心外そのものだろう。明らかな読み違いだ。

 

 本来、安倍元首相殺戮者に、そしてその原因を生み出した元統一教会にこそむくべき怒りのエネルギーが、どうして国葬反対のエネルギーに転じてしまったのか。それこそ岸田首相の無能無策のなせる技のように私には見えている。拙速でもいいから迅速にすべきことは、元統一教会に対する自民党のみそぎ行動だったはずで、それを怠った失敗は歴史に残るだろう。それこそが最もだいじなことだと気がつかない愚かさは哀しい。国民はそれに怒っているのだと私は考えている。

 

 ところで二分とは少し違うが、ロシアで部分的動員令が発令されて、徴兵が始まったことに反対運動が起きている。それを報じるマスコミの、ミソもクソも一緒くたにしている雑な報道の仕方にうんざりする。

 

 今回の反対運動の多くは、動員令に対してのもののようである。ひとごとだと思っていた兵役が、自らや身内におよぶ現実に気づかされて、動員令に反対しているロシア人が殆どだろう。ところが、ロシア人も動員令を機に再び戦争反対に転じはじめた、などと語るニュースを観る。しかしいち早く動員令発動を察して国外脱出している連中への海外のインタビューを見ると「今回の戦争はウクライナが悪い。だからロシアがウクライナに侵攻するのは正しい。しかし自分が戦争に行くのは厭だ。だから逃げるのだ」と語っている。だいたいいち早く危険を察知する人というのはこういうものだろう。戦争に反対ではないのだ。

 

 ロシア人の多数が戦争反対に転じる、などと言うのは、もしあるとしても、まだまだ先のことだろう。いまの反対は、あくまで動員令に対してである。そしてそのことが最もプーチンの恐れていることでもあると思うのだが。ロシア人の戦意はますます低いのである。

第三部が始まる

 人形劇による平家物語(原作は吉川英治の『新・平家物語』)の第三部が始まった(NHK)。一部十二話ずつ、第二部で平清盛が病死したところで終わっていた。第三部は木曽義仲と平家の戦いが主軸になるようだ。最後には、平家は義仲によって都を追われる。

 

 どうして人形劇が人間によるドラマ以上に心に沁みるのか不思議だ。そこにこちらの想像力が働く部分がたくさんあることが理由だろうかと思う。

 

 平家物語をちゃんと読んだことはないので、登場人物について疑問があってもそれが史実とどう違うのかわからない。たとえば木曽義仲の正妻が巴御前であるかのように語られている(私の勘違いか)のはいかがか。彼女は側室であるし、のちに頼朝に人質として差し出された義仲の息子義高の母ではない。

 

 巴御前については、以前木曽街道の近くにある『義仲館』という、木曽義仲の記念館を訪ねたことがあって、そこで教えられて巴御前にまつわる寺や、巴淵(ともえぶち)という場所を見に行ったことがあり、いささか思い入れがある。

Dsc_9476義仲館前の木曽義仲と巴御前

Dsc_9478館内に展示されている木曽義仲と巴御前

Dsc_9553巴淵・巴御前はここで泳いだという

 吉川英治は物語を実在ではない人物を狂言回しにすることで盛り上げるところがある。小説というものはそういうもの、といえばそれまでだが、それが私には少しうるさく感じられる。戦乱の世、そして権力者と庶民を外観的に見続ける、薬師(くすし)で後に医師になる麻鳥という人物が平家物語に本当に登場するのかどうか、一度調べようと思う。この登場人物は吉川英治が語りたいことを語らせるために彼の分身として書きこまれているように思うのだが。

 蛇足ながらこの人形ドラマのナレーションは黒田あゆみ(現在の渡邊あゆみ)である。何度も結婚しているので名前も何度も変わっているが、私は昔から彼女の色気に参っているし、何よりその声の深い響きに参っている。とても好い。それにエンディングテーマを歌うのは尾崎亜美で、これもドラマによく合っている。毎回最後まで聞いてしまう。全体の出来が好いのである。良いものは時間を経ても色あせないことを教えてくれる。

秋モードへ

 数日前まで今日は終日雨の予報だったが、今朝は晴れ。雨が降り出すのは夜になってからのようだ。やや蒸し暑い。身体が夏モードから秋モードに変わりつつあるようで、寝起きがいささか良くない。充分寝たはずなのに、夜中に無理やり起こされたような寝起きの気分で、起きてもぼんやりしている。

 

 今日は安倍元首相の国葬の日だ。世の中は国葬反対一色ででもあるような、つまり安倍晋三の葬儀が国葬でも好いではないかと言いにくいような空気のなかにあったが、国葬がすんでしばらくしたら、その空気もおさまって静かになることだろう。おさまった空気がこれからどう変化するのか、それを見逃さないようにしようと思う。

 国葬でも好いではないか、という人が多かったものが、どうしてここまで国葬反対が大勢を占めるようになったのか、その理由の多くが岸田首相の言動にあるように思っているが、それを騒ぎ立てた人びとが何を目的としていたのか。正義を謳った人びとは何を成し遂げたのか。立憲民主党は国民の支持を再び取り戻し、党勢拡大をするのか。国葬反対のエネルギーが、元(いちいちこれを付けるのが煩わしい。名前は変わっても中身は同じようだから)統一教会を葬るエネルギーになるのが望ましいと私は思うが、国葬がすめばまた見て見ぬふりに戻るような気もする。もともとマスコミも野党もずっと長いこと見て見ぬふりをしてきたのだから。原理主義の恐ろしさをもう少し国民にわかるように伝えるジャーナリストはいないのか、などとよく知らない私は思う。

2022年9月26日 (月)

作家と作品

 臼井吉見の『蛙のうた』の中の『作家と作品』という文章を読んでいる。彼が戦後、『展望』という雑誌の編集者として出会った作家達の話が語られている。それがエピソードを越えてすぐれた作家論になっているのは彼の他の文章と同様である。

 

 その中の斎藤茂吉と高村光太郎の部分について、特に感じるところがあった。二人が疎開していたのが東北であったというところにその理由があるかもしれない。斎藤茂吉はもともと山形県の生まれである。臼井吉見が訪ねたのは、実家ではなく、大石田というところに近い、へんぴな村の、みすぼらしいあばら屋だった。病後でもあり、戦時中の意気軒昂とした様子とは打って変わって、背を丸めて老いて見える姿だった。つぎはぎだらけの浴衣姿に、そのときの斎藤茂吉の心境を想像している。斎藤茂吉が最上川について詠んだ歌を何首か紹介しているが、和歌のわからない私にも多少はその感興がわかる。

 

 むかしはこの大石田から尾花沢に鉄道が走っていた。終点の尾花沢からバスに乗って銀山温泉へ行く。私が学生のときにはまだその鉄道はあって、友人と銀山温泉に行って泊まった。銀山温泉は私の両親の新婚旅行で滞在したところである。それだけのことだけれど、大石田、と言う地名を見るとつい思い入れがわく。このあたりは芭蕉の『奥の細道』にも出てくる。

 

 高村光太郎は、戦意高揚の戦争詩人とまで呼ばれた戦時中を悔やんで、岩手県の花巻の山中の山小屋に隠棲した。臼井吉見は戦後すぐにここを訪ねている。そのときの暮らしの様子は臼井吉見の文章に詳しい。現在高村光太郎の山荘(高村山荘)は当時の様子のまま残されていて、私は花巻の台温泉などにたびたび泊まったので、二度ほどその山荘や彼の記念館を訪ねている。

Dsc_3930_20220926140401高村山荘入り口

Dsc_3934_20220926140401山荘はこの板葺きの小屋だが、それを建物でおおっている。

Dsc_3933_20220926140401独居する光太郎の脳裏に去来したものはなんだったのだろう。

Dsc_3931_20220926140401囲炉裏の廻りのものなど、生活用品やその暮らしぶりについては臼井吉見の文章に詳しい。

 彼を頼ってきた宮沢賢治に対してのつれないあしらいについては、以前ブログに書いた。のちにそれを後悔して、宮沢賢治の素晴らしさを世に広めることに努めたことは有名だ。花巻は宮沢賢治の生まれ故郷であり、拠点であった。東京生まれで東京育ちの高村光太郎が、どうして隠棲の場所を花巻にしたのか、宮沢賢治とは無関係に思えない。

映画の記憶

 作家の金井美恵子は映画雑誌にコラムや批評を書くなど、映画評論家でもある。彼女の書評集を読んでいたら、『成瀬巳喜男の設計 美術監督は回想する』中古智・蓮實重彦(筑摩書房)という本の書評で、

 

「十歳にもみたない子供が、成瀬巳喜男の映画の画面をなぜ、記憶にとどめておくことが出来たのか。それもまるで、親類の家か母親の友人の家に連れられて行って、そこで半日を過ごし、ひどくこみ入って複雑な大人の話を小耳にはさみながら退屈した午後の日差しの差し込む家の中をウロウロしていたような感覚として記憶していたのか、ということが、時々、姉との話の中で出て来て、それはもちろん、それが映画だからだ、と言ってしまえばそれですむことだったのかもしれない」

 

この感覚はとてもよくわかる。というよりさすがに作家らしい、そう、その通り、と思わせてくれる。

 

 私の父は教師で、当時は生徒が許可なく映画館にはいることは許されず、補導の対象であった。時々補導のために映画館に行くようにと、ときどき無料パスを支給されたのだが、父は映画が好きではないし、そういう補導を積極的にするつもりもなかったらしく、映画の好きだった母がその無料パスで映画を観た。そのとき、まだ幼稚園生か小学校低学年だった私を連れて行った。

 

 あとで聞いたところによれば、母が観たのは小津安二郎や成瀬巳喜男の映画だったようだ。私は静かに映画を観ていたらしい。その後弟を連れて行くようになったら、弟は暗がりがきらいで映画館で泣きわめき、観ていられなくなって、母の映画鑑賞もなくなったようだ。無料パスの支給もなくなったのだろう。

 

 後年私が小津安二郎の映画などを観て、妙な懐かしさを感じたのを不思議に感じた。画面に記憶があるのだ。映画の記憶は表層よりももっと深いところに残されている気がした。そのことが、金井美恵子の文章で思い出されたのだ。

 

 蓮實重彦については説明するまでもないが、中古智は成瀬巳喜男の映画の美術監督である。書評で紹介されている中古智のエピソードはなかなか好い。映画に関連して、映画が観たくなる、というのは、書評を読んでその本を読みたくなるのと同様、すぐれた紹介の仕方だと思う。私のように「面白い」と言っているだけではなかなか人を動かさないのだろう。

2022年9月25日 (日)

岩倉具視

 日本の歴史については不勉強であまり詳しく知らない。岩倉具視については、だから断片的なことしか知らないが、谷沢栄一と奈良本辰也の対談で、日本の歴史上の「宮廷政治」家として、後白河法皇と岩倉具視を挙げているのが興味深かった。

 

 二人に日本という国の政体構想があったかどうか疑問である、と語ったあと、自分たちが政権をとるにはどうしたらよいかということだけを考えて、博打的な行動に終始したという。奈良本辰也は「西郷には、仁政思想というものがあって、首尾一貫しているが、岩倉にはそれがないから、西郷などとは合わない。むしろ大久保利通と近いね」と語っている。

 

 それに賛同して谷沢栄一は「岩倉のエピソードの中で、人となりの正鵠を射ていると思うのは、孝明天皇暗殺疑惑です。孝明天皇の崩御はいまだに歴史の謎ですけれども、亡くなられて以後、いまだに岩倉がやったのではないかと思われている。暗殺が可能な立場にあったというだけではなく、岩倉ならやりかねん、という憶測ですね」とつづけている。

 

「岩倉に近づいた者は、利用されるだけ利用されて、弊衣のごとく捨てられている。後白河法皇もね、日本史上これはという人物を三人も殺している。平清盛、木曽義仲、源義経、みな歴史上に燦然と輝く人物ですよ。この三人をみな手玉にとって殺して葬りさっている」

 

 奈良本辰也はそう語ったあとに

 

「岩倉だって同じですね。相楽総三は小さな人物だけれども、岩倉から年貢半減令の許可証をもらって進軍している。いわば敵地に乗りこんで、農民に藩主を見捨てさせた。一番の要因は、年貢の半減だった。ところが明治政府だって収入源は年貢しかない。大隈重信の進言に、岩倉は年貢半減令をすぐさま取り消し、帰るよう命ずる。それどころか相楽らを偽官軍の汚名を着せて、斬り殺してしまう。そんなことを平気でやれる人物なんだね。その最たる者が孝明天皇暗殺の疑惑ですよ」

 

と、岩倉具視の人となりを述べる。

 

 相楽総三の「赤報隊」のことは、長谷川伸の『相楽総三とその同士』(講談社学術文庫)に詳しい。草莽の志士たちというのがどういう存在だったのか、知ることができると思う。幕末史に興味のある人なら、是非読んで欲しい労作だが、相楽総三を「弊衣のごとく」捨てたのが岩倉具視だったことを初めて知った。

 

 赤報隊始末史に革命の本質のようなものを感じていたが、その思いをさらに強くした。

青森のヒバ

 昨晩のブラタモリは、先週の恐山に引き続き、下北半島だった。西北端の大間崎と、東北端の尻屋崎、その間の大畑など、地質、特産物などが紹介されていた。下北半島には三回行った。何度でも行きたい。それだけ魅力のあるところだ。魅力は、日本の他の場所では見ることが出来ないものがたくさん見られるということで、食べるものも美味しい。

 

 風景や地質はべつにして、今回青森の特産である青森ヒバの話があったことで思いだしたことがある。三回行った下北半島だが、そのうち一回は大間に泊まった。もちろんマグロを食べるためである。贅沢な注文をしなかったから、普通に「マグロだなあ」、と思っただけで期待したほど感激しなかった。他の二回は薬研温泉というところに泊まった。恐山の北側にある薬研温泉は、ひなびた小さな温泉で、たいへん居心地が良い。もちろん冬は別だと思うが。

 

 その薬研温泉の奥には薬研渓谷があり、さらにその奥にヒバの研究林がある。むかしは森林鉄道が走り、ヒバを切り出していたらしい。研究林には線路も残っている。二度とも散策したが、誰にも出会わなかった。

1208-156ヒバ研究林

1208-144その標柱

1208-154森林鉄道の線路

1208-140あの橋を渡る

1208-160大畑川源流

1208-161薬研渓谷

 ヒバという木材は軽くて丈夫、しかも防虫効果が高く、ヒノキよりもすぐれているので珍重された。防虫効果を生んでいるのはヒノキチオールという油性成分で、ヒノキの香りのもとでもあるのだが、実はヒノキよりもヒバの方がずっとその含有量が高いのだ。

 

 大畑という津軽海峡に面した町があり、そこへ山から大畑川が注いでいる。その大畑川からヒバを筏で運び、大畑から全国へ伐りだしたヒバの木材を出荷したのだ。そして薬研のあたりはその大畑川の源流近くにあたる。そういうことを知らずにただ歩いていたけれど、今回あらためてブラタモリで知り、また行きたいなあと強く思った。行くとなれば長期間の旅になるので(もちろん車で行くつもりである)いまはマンションの役をしているので、そう長い不在はできない。来春にはそれも終わるはずなので、そのあと出かけたいと思う。

2022年9月24日 (土)

西郷隆盛の仁

 會田雄次の『日本人の忘れもの』を読み終えたので、谷沢栄一の対談集本『歴史活眼』という本を読んでいる。さまざまな人との対談が収められているが、日本近世史の学者である奈良本辰也との対談で、西郷隆盛と大久保利通の違いについて論じたあと、谷沢栄一が西郷隆盛についてこう評している。

 

「そうですね。また、西郷の場合は、この仁が維新まではうまく働いた。坂本龍馬に薩長連合を説かれたときも、西郷はさっと理解しているし、江戸城の無血開城でもスッと勝との話に入っています。
 本来は、江戸を焼け野原にして、とことん破壊してから新政府を建設すべきだという革命家精神を、西郷は一方で持っていましたからね。でも、勝との話で仁の方が上回った。また、その西郷のキャラクターを勝はよく読み切っていたと思います。「敬天愛人」は西郷の座右銘ですが、まさにその人となりを表していますね。」

 

 仁があることが、かえって明治維新後の国家形成時のリアリズムと相容れなかったのだとされているし、私もそう思う。リアリズムとはときに厭なものである。

 

 そういえば、愛知川上流に惟喬親王陵を訪ねたとき、入り口に「敬天愛人」の碑を見たのだけれど、どうしてそれがそこにあるのかわからなかったし、いまだにわからない。西郷隆盛のことを読んだのでそれを思い出した。

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後悔しても

 高野悦子『黒竜江の旅』という本を一ページ一ページ味わいながら読んでいる。中から引用しようとすると、すべて引用したくなるほど内容は濃くて素晴らしい。ふいにこの本を父に読ませたかったと思う。

 

たとえば吉林にて

 

「吉林の松花江は冬でも凍らない。そのために有名な”吉林の奇観”が生まれる。豊満ダムのタービンで暖流となった松花江が市内を流れ、外気の寒さに触れて、立ちのぼる水蒸気が河畔の木々にふれて凍り付き、銀白色の樹氷をつくり出すのである。それは壮麗な風景だと、父からよく聞かされていた。いま私が眺める風景は夏である。これが一面の白銀におおわれ、木々が樹氷と化したらどんなにすばらしいだろう。しばし立ち去りがたいひとときであった。」

 

 父は語学の専門学校の卒業旅行に、友人と中国、満州、モンゴルを旅行した。そのときに出会った満鉄の人に勧められて、卒業後に満鉄の関連の会社に入った。そして終戦後に帰るまで中国で生活した。半分は招集によっての従軍生活だったらしいが。

 

 父がどんな名前の会社に入り、どこにいたのか、聞いていないので知らない。かろうじて聞いたのは、山西省や河北省のあたりの戦場にいたということだけだ。それと仕事で西安の街を訪ねたことがあって、とても美しいと思った、ということだけだ。どうしてもっといろいろ聞いておかなかったのだろう。父が話さなかったのではなく、私が聞こうとしなかったのだ。後悔しても仕方がないが、取り返しのつかないことであった。

 

 私は、父よりは子供たちに自分のことを話した。しばしば自分を美化して話した。正直に話そうと思ってもついそうなる。息子や娘がそれを聞いてどう思い、どう父親像を形成しているか知らない。そう思いながら、父は私をどう見ていたのか、そのことを考える。

 朝起きて、窓を開け放つ。こもった空気が動き出し、外気と入れ替わっていくのを感じる。ベランダへ出て明け初めの空を眺める。台風一過、快適な気温、こういう朝を迎えられるのは、一年のうちそうたくさんはない貴重なものだ。空は次第に晴れ上がり、青空に変わっていく。

 

 今回の台風は、雨は降らせたが風があまりなかった。湿度が高いと、それほど暑くなくても動き回ると汗ばんで不快だった。それを理由に、しなければならないと思いながら掃除も片付けもサボっていた。洗濯、掃除、そして買い出しもしなければ。ついでに久しぶりに軽い散歩でもしよう。

 

 寝しなと寝起きにすることにしているストレッチは、断続的ながら継続している。明らかに足元がしっかりしてきたように思う。跨ぐという動作を意識して試してみると、足が以前より良く上がるのを感じる。躓きにくくなっているのならありがたいのだが。あとはバランス感覚の回復で、これはやはり散歩などで補正しないとならないと思う。歩き出しがギクシャクするのが自分でもおかしい。

 

 テレビを観たり、本を読んだりして目を使うと、目が疲れて目の奥が痛んでくる。目薬を差し、目を温めると楽になるが、目がかすむのが気になってきた。運転していると、ピントはちゃんと合っているのに黄砂でも飛んでいるように視界が霞んで見えたりする。本のページの文字のコントラストがなくなっている気がする。白内障の可能性があるかもしれない。来月初めに糖尿病の定期検診があるので、ついでに検査してもらおうか。どのみち糖尿病は目に症状が現れることがあるので、定期的な目の検査が必要なのだ。

2022年9月23日 (金)

こういう人から見れば

 読みかけたまま放り出してあった會田雄次の『日本人の忘れもの』という本の残りを読んでいる。この本は、『表の論理・裏の論理』『逆説の論理』『日本人の忘れもの』という三冊の本から、抜粋して編集し、一冊にした本である。もうすぐ読み終わる。

 

 その中の『日本人のこころ』という文章から一部引用する。

 

「近江の菜の花畑を学生と一緒に歩いていたときのことである。しきりに雲雀がないている。花のかおりに酔いながら私は荏胡麻(えごま)が菜種に変わった戦国時代のことをふと思い出していたら、いきなり学生の一人が口を出した。「この色が搾取の色なんだ」。私はしばらくなんのことかわからなかったが、彼は、この駘蕩たる黄色の世界から、徳川時代の武士や地主の貪欲さ、そのもとの、さいなまれただけの百姓しか、連想できなかったのである。「美しいとも思わない。先生みたいに春だなあという感傷なんか全然感じない。農民の怨恨だけが、俺の胸に伝わってくるんだ」。とっさの場合(?引用者)、彼が何を言っているのかちょっとわからず、「えっ」と驚きつつ発した私の質問に、彼は突っかかるような態度でこう答えた」

 

「まあ、そういう連想だってできないではないにしろ、菜種の花の美しさも、それがかもし出すけんらんたる春のどよめきも、一切何も感じず、搾取しか思い出せないということは常軌をはるかに越した異常さではなかろうか。もし、気分としてそれを感じていながら、無理に、そういう発言を言い張りつづけているのだとしたら、これまた精神のゆがみは単に病的だとだけではすまされぬ程度のものであろう。このような若者の集団発生を、その論理に矛盾があるとかないとか、マルキシズムの政党かどうかとしか論じようとしないのが日本の先生たちなのである。それはむしろ精神病理学の問題であろう」

 

「最近こんな「わかりきった」ことを痛感したのは、ある週刊雑誌が選んだ読者の手記特集「私にとっての国家」を読んだときである。ここに集められた二十五篇は戦中、戦後派の世代の男女をふくむ、かなり広い世代の人びとの国家観である。すべてが過去、現在の日本に対するすさまじい呪詛に満ちている。その暗さにはただ驚くだけだ。その内容は確かに私たちに痛烈な反省を要求するものを含んでいる。にもかかわらず、明らかにそれらは精神病理学の立場から理解すべきとしか思えぬものが殆どなのである」

 

(小略)

 

「日本の今日の問題は、このもう一種の異常神経としかいいようがない一群の人びとの主張を、正義的反抗人としてもてはやすところにある。そういうマスコミは一体この日本をどうしようというのであろう」

 

 以前にも書いたが、私は学生時代、寮生活をしていた。いつも入り浸っていた先輩の部屋には、他の大学も含めていろいろな学生がオルグ活動(政治的布教活動とでもいうもの)にやってきた。その先輩はみなに一目置かれていたので、その先輩を論破すれば寮で政治活動ができるとみなされていたのだ。

 

 だからここで紹介されているような普通でない学生の世界観や思想を、数限りなく見聞きさせられたので、會田雄次の言うことがわかりすぎるくらいにわかるのである。そういう連中が、安保法制のときもその他のときも国会前の広場かどこかで反対のデモ活動をしていたのを見て、みんな歳とったなあ、という感じを受けたのである。

 

 こういう人から見れば、私なんか保守反動としか見えないだろうなあと思う。私は、歴史を現代の価値観で非難した友人や教師に怒りを覚えた人間である。一面の菜の花を見れば、美しいなあ、とうっとりするし、蕪村の句を連想する。

四十数年前の予想

 昭和55年に出版された會田雄次の『逆説の論理』という本の中の文章を一部引用する。引用といっても時代が違っていて、いまにそぐわない部分もあるので、日本の人的資源が損なわれる、という彼の警告という点に絞って、勝手に省略して引用した。

 

(欧米が日本と違って階級社会であることを説明したあと)
「このように、日本人はある程度、社会的ステータスや収入とか、いろいろな階段を自ら上がっていかなければならない宿命を持っている社会である。良い意味でも、辛い意味でも、上昇を宿命とする社会といってよい。そしてそこに日本の社会の躍動と発展性の根源があるのである」

 

(それらが上昇志向タイプで、「長」となる役割を担う。その代わり、それなりの訓練が必要だと説いたあと、その上昇志向をあきらめるタイプについて書く)

 

「あきらめがごく自然に生まれ、社会の中で許容される場合はそれでよいが、現代の日本のように社会の仕組みの反動として”立身出世主義はいけない”とか”平等でなければいけない”とか、妙に不自然で強制があるところでは、あきらめが歪んだ形をとる。即ち社会正義の名を借りてその不満をヒステリックに吐き出す病状を呈するのである」

 

「一方、屈折した上昇意識、鬱屈した出世主義は、隠微な形で学校教育の上に表れており、(小略)たいへん歪んだグロテスクな病理現象を引き起こしているのである。とりわけ、戦後教育を真正面から受けた人間はかなり重症といえよう」

 

「このように戦後、日本は世界が目を見はるような繁栄を驚異的なスピードで達成したというものの、今後の日本全体の方向を考えるとき、日本唯一の資源、財産とも言うべき人材の質が低下しつつあることは、重大な問題だといわねばならない」

 

 これが書かれたのは、まだ日本がバブルにすらならない時点である。彼の見立てにそのまま同意するわけではないが、このあとわが世の春を謳歌した日本が低落してしまい、いまのような長い長い低迷を続けている理由について、ここで指摘警告されていることに私も思い当たるとともに共感するのである。

 

 日本社会、日本人、マスコミ、政治家、教育界、すべての指導的立場の人たちが「戦後教育を真正面にから受けた」ひとたちであることに日本の低落の要因がありはしないか、と常々思っているということである。

 

 そういう私もその一人であるから何をか言わんやであろうが、そこに疑念を抱くかどうかで、世の中についての見方が大きく変わるのだと思っている。

保守反動評論家

 若いころ、臼井吉見の『蛙のうた』という本にいたく感銘を受けた。どこの何に感銘したのか忘れていたが、いまそのなかの『「第二芸術論」前後』という文章を読んでいてその一端を思い出した。

 

 この中で、彼が「内灘基地反対闘争」、そして京都の「旭ヶ丘中学騒動」について書いたルポの話が紹介されている。それぞれについて詳述するのは避けるが、そのルポは臼井吉見が観念ではなく、自分の見た事実、取材した事実を伝えたものであるが、そのために彼は保守反動評論家として激しい非難攻撃にさらされることになった。

 

 内灘闘争については、たまたまその頃、雑誌に連載されていた五木寛之の『内灘夫人』を断片的ながら読んでいて興味があり、その闘争についても多少は承知していた。また旭ヶ丘中学騒動については知らなかったが、この顛末については、私の伯父が北海道で高校の校長をしていた時代に、マスコミや日教組の教師達から激しい攻撃に遭ったことがあって、それを強く連想させたのだ。伯父からは詳しい経緯を彼の作成したスクラップで見せられたことがある。マスコミの誹謗中傷のすさまじさを改めて知らされた。そうしてマスコミは自らの事実誤認が明らかになると、潮が引くように知らんぷりで去って行く。

 

 自らのみを恃み、大軍を相手に自分を見失わずに孤軍奮闘する臼井吉見の姿に感銘したのだ。この『蛙のうた』はそういう話がいろいろ書かれていて、読んでいて気持ちが熱くなるのだ。本物と偽物の学者についてなど、良い勉強になる。人間にはプライドというものがなくてはならぬ。売名に走る人間が嫌いなのは、そういうものを読んできたからだ。

 

 臼井吉見は、右であっても左であっても真ん中でも、本物を認める評論家で、決して保守反動評論家ではないので念のため。

2022年9月22日 (木)

かろうじて

 ブログをせっせと書いていると、書くことがなくなって窮してくる。それだけ何も考えていないということだ。いまはその場凌ぎでかろうじてつないでいるが、ちょっと休息による充電が必要かもしれない。

 

 「高いところ」という駄文に、「下を見下ろすとエラくなった気分がする」と書いたら、「下を見下ろしてエラくなった気持ちになったことはないなあ!」というコメントをいただいた。なるほどそれが普通かもしれない。それならどうして私はエラくなった気分がするなどと書いたのだろう。

 

 身分の上下とか、立場が上とか下とか、そういうものを高さで表すのは国や民族に共通した感覚かもしれない。偉い人は上にいて、下々を下に侍らすが、逆であるのは見たことがない。権威を象徴する建物が高いのも、そのためだろう。人民大会堂や、北朝鮮の大人数の会議場(何というか知らないので)の天井の高さは圧巻である。

 

 マンハッタンの摩天楼もそうだろう。だからこそテロの標的になった。思えば人類はバベルの塔を高く高く天までとどけと積み上げていって、ついには神の怒りに触れた。

 

 エラくなったような気分、という言葉にそのような権威主義的な心の働きを敏感に感じたから、それを指摘されたのだろう。単純に、子供が「高い、高い」をしてもらって嬉しいように、高さを喜べば好いのだろう。いまはもう、私を「高い、高い」してくれる人も、してやる相手もいないのが残念だが。

 ブログでは、最初に「バカと煙は高いところが好き」と書いた。そして「私は高いところが好き」と書いた。私はだから、「バカ」ですよ、と暗に書いたつもりだ。言うまでもなく、高いところが好きなひとが「バカ」であるわけではないので念のため。もちろんこの「バカ」は、高いところにいるだけで偉くなった気でいる人間のことである。ご指摘の通りなのである。

気象予報士

 好きなキャスターと嫌いなキャスターがいる。もちろん好き嫌いがあるのはキャスターだけではない。自分と意見が異なることは、人それぞれだから別にかまわない。自分の正義感を他者に押しつける傾向がある人が嫌いだ。彼の正義は他者の正義かどうか、それに疑問を持たないらしいことが厭なのだ。それは語り口に表れる。殆ど語り口だけで好き嫌いが決まったりする。しかし私の好き嫌いは私だけのもので、他者に同意を求めようとは思わない。まれにブログを読んで、同意を強制したかのように攻撃的に反論する人がいるが、そんなつもりはないので、腹が立つなら読まないで結構だと思う。事実の間違いを指摘されるのは感謝こそすれ腹は立たない。ただおまえの考えは間違っている、といわんばかりの指摘は受け入れがたい。

 

 テレビにはさまざまな人が登場して、ほとんど画面で見ての印象で好き嫌いを感じているが、実際にその人と知り合いになったら、全く違う感情を持つかもしれない。すべての人と知り合いになるわけではないからそれで仕方がない。年齢を経てたくさんの人と知り合う経験を重ねたので、その記憶と重ねて印象を形成してしまうところがある。厭な思いをさせられた人に似ている人はなかなか好感が持てない。名前がいつまでも覚えられない。思い込みで嫌う場合もあって、あとで訂正したこともないではない。

 

 不思議なことに、気象予報士の人にほとんど嫌いな人がいない。というより好感を感じる。外観から、もし知り合いになったら嫌いになるかもしれない人もあるのに、どういうわけか気象予報士としてみていると好感を持つ。なぜなのだろう。これは男女を問わない。不思議だ。そのかわり、スポーツを報じるアナウンサーがたいてい嫌いだ。変に過剰に元気で明るいのが厭だ。それは私があまりスポーツが好きではないことによるのだが、やかましいのが嫌いだという理由もある。

支配欲

 動物の生態を映した番組などを観ると、自分の遺伝子を残すために雄同士が激しく争う様子が映されるのをしばしば見る。争う前には互いに相手よりも自分が優位であること、上位であることをアピールし合う。負けた方は雌をゆずり、ときには群を去る。上位であろうとするのは、動物の本能に刷り込まれたものなのだろうか。

 

 ママ友に支配されて自分の子供を餓死させた事件で、そのママ友に懲役15年の判決が下された。子供を死に至らしめる行為は厳しく処罰されるべきだと思うから、この判決には納得する。

 

 支配するというのは、相手に対して自分が上位であることを受け入れさせ、自分の意のままにすることだろう。この事件は、そのママ友が上位であるということを常に確認しつづけるために、指示は次第にエスカレートしたということかもしれない。相手の一番大事なものを犠牲にすることを要求するというのは、殆ど宗教に似ている。統一教会による過剰な金銭要求は、ある意味で教会、または布教者の支配確認のひとつの形なのかもしれない。

 

 そういう極端なものは別として、現実世界をその支配欲という色眼鏡で見ていると、大なり小なりそこら中でそういう絵が見えてしまう。人間関係の多くがそういう関係に還元できないことはない。それを気にしすぎると、人間関係そのものがいとわしくなる。

 

 支配欲の強い人というのがいて、常に相手をマウントしないではいられない。たいてい嫌われているが、強いとみると中には積極的に従属するものも出る。学校でのいじめもその構図であろうか。

 

 人間社会そのものがそういう支配欲を基礎に置いているとしたら、プーチンのような人間が出てくるのも宜なるかな、である。そういう世界をなんとかもう少し力関係だけではない方法で弱者も生きやすいようにしようと、賢者はいろいろ考えて方法を提示してきたように思うのだが、21世紀はそれを逆行させつつあるように感じてしまう。

 

 人間も動物だから本能に従う。支配欲の抑制が効かなくなり、コントロールを失い、今まで以上に本能が優勢に戻りつつあるのだろうか。もしかしたら人類の危機を感じての本能的行動だというのだろうか。それは集団自殺するというレミングという鼠と同様の、とめようのないスイッチが入りかけていることではないのか。

 

 それは考えすぎかもしれない。人間の振るえる力がどんどん大きくなったために、支配欲が大きくなって見えているだけなのだろう。しかし結果はそれだけ大きな惨禍をもたらすことになる。気が滅入ってきた。

2022年9月21日 (水)

高いところ

 バカと煙は高いところが好き、などという。私は高いところが好きだ。だから高所恐怖症ではない。しかし人よりも怖がりである。危険なところや、人のいない暗い寂しいところはきらいである。山の中で、夜独りで過ごすことなどこわくて出来ない。

 

 危険がきらいだから、高いところが好きといっても、一歩足を踏み外せば命がないなどというところはこわいからきらいである。映像で見ていても、大事なところが縮み上がる。だけれど映像で見ている自分は安全だから、映像で危険な場所を見るのは好きである。微妙なのである。

 

 ロープウエイやリフト、飛行機に乗るのは、危険を感じなければ好きである。下を見下ろすとエラくなった気分がする。煙と同じでバカである。機会があればたいてい乗る。ロープウエイも最近は高くなって少々ふところに響くが、好きだから仕方がない。そういえば、トルコのカッパドキアでは気球にさえ乗った。

19091094気球から気球を見下ろした

 高いところは好きだが、山登りはしたくない。私は不必要に大きくて重いうえに、身体能力がそれに伴わないから、山登りにむいていないし、山登りでは危険が伴う場所へ行くこともある。映像で眺めるだけで充分である。でも映像では、自分が高いところにいるのかただの自分の家にいるのかまぎらわしい。とはいえ私はマンションの五階という廻りを取っ払えば、宙空に暮らしているのだ。

宮沢章夫の訃報

 演出家で作家の宮沢章夫が、今月12日に亡くなったという。昭和56年生まれ、65才。彼の熱心な読者は多いようだが、私はせいぜい文庫本を五、六冊読んだ程度だ。雑誌で彼の文章をたまたま目にしたのをきっかけに何冊か読んだら、そのユニークさが気に入った。自分にはない、新しいものの考え方や感じ方を教えてくれるものは好みである。ユニークであるということはそういうことで、そういえば劇作家の別役実に出会ったときもそんな感じだった。

 

 例によって彼の本はすべてもう処分済みであり、追悼のために一冊くらい読み直したくても手元にない。といって、わざわざまた購入する気にならない。読みかけの本が積んであるし(このところドラマなどを観るのに忙しくて本に手が回らない)、取り寄せるなら小川糸の未読の本の方が、欲しい気分だ。

 

 読んだのはエッセーばかりだが、題名をほとんど忘れているので、彼の略歴から拾ってみると『牛への道』、『考えない人』、『わからなくなってきました』などという本は確かに読んだ記憶がある。面白かったことだけ覚えていて、何が面白かったのかは忘れた。

 

 覚えているのは、もっと気楽に生きて、好きにものを考えたり感じたりしていても好いらしいと思わせてくれたことだ。

2022年9月20日 (火)

空を見る

 子どものとき、空を見るのが好きだった。住んでいた家が平屋だったので、空を見るために柿の木伝いに屋根に登った。屋根の上からだとふだん見えないものがたくさん見える。寝転がれば視界のすべてが空だ。あとで増築して二階建てになったのでかえって屋根に登りにくくなった。

 

 グラウンドや草原で寝転がるのも、視界すべてが空になるから素敵だ。とにかく空は自分がふだん考えているよりもはるかに大きい。見上げるたびにそれを思い出す。また、雲は不思議だ。二度と同じ雲は出来ないと思うからいっそう不思議で、いつか写真に撮りたいと思っても、実際の空の大きさと写真では大きさがまるで違うから、自分の感動を写し取ることは出来ない。大きな映画館でスクリーン一杯にしたら少し近づくだろうか。

 

 空は見ようと思えばすぐ見ることが出来る。そうして見ているはずなのに、見えていない。心から見ようと思っていない。

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 台風一過、ベランダからしばらく夕方の空を眺めていたら、子供時代の空を見る気持ちを思いだした。

ぶよぶよ

 昨夕、久しぶりに大相撲を見た。もちろんテレビ観戦だが、若いころは名古屋場所を実際に何度か枡席で見たことがある。だいじなお客さんで相撲好きな人がいて、ご一緒したのだ。ライトに照らされた力士の肌は輝いていた。枡席はお茶屋の手配の席なので、飲み物や食べ物がつく。お大尽になった気分だが、私にとっては狭いのがつらい。同席の人にも迷惑で、身を縮めるようにして見たものだ。

 

 昨日は今場所二度目の横綱大関すべて負け相撲の日だった。人気は低落しているだろうな、と想像した。昭和55年の秋場所(だったと思う)の好取組が何番か映された。貴乃花、北の湖、若乃花(「お兄ちゃん」の先代)、隆の里、高見山たちが熱戦を見せていた。迫力が段違いにあるように見えた。何より身体の締まりが全然違うように感じられた。いまの力士の方がはるかに体重がある。しかしどう見てもぶよぶよに見える。故障が多いのもあたりまえのような気がする。

 

 迫力こそが魅力につながるのではないか。当時の方がはるかに迫力があった。迫力を感じなければ人気も落ちるのはとうぜんだ。迫力は肉体的物理的なことだけではなく、気魄も必要だ。大関正代の無気力相撲には怒りさえ感じる。親方をはじめ、相撲関係者はどうしてあれを放置しているのだろう。大関が九日目に負け越しである。解説者が「大関の特例(負け越しても陥落せず、次の場所に勝ち越せば角番を脱出できる)を見越して相撲を取っている」と、かなりキツい苦言を呈していたが全く同感である。気魄がないどころかプライドもない。相撲界全体を腐らせかねない。

 

 相撲が特定の人の見ものになりつつあるような気がする。今のままではその人たちも離れていくだろう。若手に元気の良い力士が散見される。彼らに奮起を期待したいと思う。そう言うしかない。それに、上がだらしなければ、まさにのし上がるチャンスでもあるのだ。

風の音を聞きながら

 昨晩早めに横になったので、今朝は四時過ぎに目が覚めた。台風情報を見たら、先週走り回った髙山や富山から新潟にかけて激しい雨が降っているようだった。庄川、神通川、常願寺川、黒部川などの日本海に注ぐ河川がどのようになっているのか心配だ。台風がこのあたりを通ることはめったにない。先日宇奈月の道の駅の横の黒部市の歴史民族資料館で教えてもらった、黒部川の洪水の話などを思い出していた。

 

 五時過ぎに日本海を北上していた台風が、新潟市の北あたりに再上陸したという。これから速度を速めて山形から宮城を南西から北東にかけて突っ切っていくらしい。ちょうど鳴子温泉あたりを通ることになる。なんだかなじみのある、風景を思い出せる場所ばかりを通過しているようだ。

 

 昨晩は横になって風の音を聞いていた。眠れないのでネットストリーミングでピアノ曲を聴いていたが、どういうわけかあまり心に響かない。竹内まりあに換えた。歌詞の言葉から来るイメージを頭に浮かべながらとりとめのないことを考えていた。いつのまにか自分の生きている意味などということを考えたりした。

 

 食べて美味しかったもの、飲んで美味いと思ったものが、それほどでもなくなっている。それだけ喜びが失われているのを感じている。読書や映画鑑賞でも同様だ。感性が衰えている。年齢によるものだろうと思う。仕方がないことだが、それだけ生きていることの楽しさも失われつつあるということだ。さいわい旅に出る楽しみはあまり衰えていない。せいぜい行けるときに動くようにしよう。そうでないとあぶない気がする。

2022年9月19日 (月)

直撃みたいな暴風雨

 昼過ぎに、録りためていたデンマークのミステリー、『FACE TO FASE尋問2』全八回を一気に観ていたら、二時前に台風の直撃を受けているような暴風風になった。三時過ぎまで暴風雨がつづいたが、四時前には雨は小止みになり、風だけになった。台風はまだ来ていないのに確かにこれは大型の台風だと実感した。いま気象情報を観たら、線状降水帯が居座っていたらしいが、東に移ったようだ。

 

 これで台風が最接近してきたら、再び三度このような暴風雨が襲うかもしれない。旅で車が汚れていたが、少しきれいになっただろうか。明日、台風が去ったら。駐車場へ見に行こうと思う。

 

 ドラマは各回30分だから、全八話で四時間弱。北欧のミステリーはダークなものが多いが私は好みである。娘を亡くしたばかりの心理カウンセラーが、ようやく仕事に復帰したところにやってきた患者は、禁煙セラピーを望んでいたはずなのに、催眠療法を受けている最中にとんでもないことを語り出す。何件もの殺人を犯し、今晩も一人少女を殺すというのだ。知り合いの警察幹部に連絡するのだが、その間に男は姿を消す。そして警察幹部も主人公の話を真に受けない。

 

 ドラマが進むうちに、ただ娘を亡くしただけではなく、刑事だった夫もその事件に関連して同僚を殺して刑務所に送られていることがわかる。それにしても何も捜査に着手しようとしない警察に不審を抱いた主人公は自ら調べはじめる。毎回さまざまな人と面談して、話術を駆使して新たな情報を得ていき、犯人に迫っていく。真相は何なのか。娘は自殺として処理されたが殺されたのではないか。訪ねてきた殺人犯は目的があったのではないか。謎がまた謎を呼び、最後まで一気に見せていく。面白かったけど疲れた。

東南の風が

 尾張地区の台風の影響のピークは今晩から明日未明にかけてのはずだが、昼前から東南の風が強く吹き付けている。ベランダの、風で飛ぶ可能性のあるものは朝早くにすべて屋内に取り込んだ。いつもベランダ用のサンダルをしまい忘れるが、それもきちんと仕舞った。大きな鉢は壁沿いの風裏側に並べた。これでまず心配ないだろう。

 

 だらだらつづけた四泊五日の旅の報告は今朝で終わり、録りためたドラマやドキュメントや映画を片端から観ている。これから風の音を聞きながらテレビ三昧である。今月いっぱい消化にかかるかもしれない。本に集中するのはそのあとだ。もう今月は予算オーバーしているから、テレビ三昧なら金がかからなくて結構である。

 

 ドラマの『プリズム』は、こういうことになるのではないかと予想した通りに終わり、『相棒』の第13シーズンの再放送は一度見たものが多いのについまた見てしまう。ストーリーがわかっているのに見てしまうのは、それだけ面白いということだ。『アスリッドとラファエル』、『鎌倉殿の13人』は引き続き快調。

 

 単発では、『遙かなる山の呼び声』の続編は、続編とは知らずに再放送と思っていたが、直前に続編であることに気がついて録画できた。このブログを書く直前に観終わったところだ。また山田洋次に好い気持ちにさせてもらった。他にもWOWOWのドラマもたまっているし、時間がいくらあっても足りない。

 

 これからますます忙しい。それにしても目薬を差しながら、我ながらご苦労様なことだ。

赤城大沼と覚満淵

赤城大沼の、出島のような場所にある赤城神社に行く。

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参拝してから、社務所によって交通安全・旅行無事のお守りをいただく。

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大沼の湖面はまだ霧が残っている。

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周辺は雨が降り、霧が立ちこめているようだ。

この右手木立の前にいくつか石碑があるが・・・。その一つを確認したかった。

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読み難いかもしれないので

「舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかゝつて居た。舟は小鳥島を廻つて神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。」

志賀直哉はある時期、赤城山の山小屋のような別荘で過ごした。友人たちも入れ替わり立ち替わり訪ねて来た。真似をしてここで過ごす友もいた。彼が何を見、何を感じ、何を聞いたのか、それを想像した。

ここにこの石碑があることは知っていたが、読み飛ばしていただけだった。

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このあたりにだけ日が差していた。

通り道でもあるし、せっかくだから覚満淵を見に行くことにする。入り口はわかりにくいから通り過ぎてしまうかもしれない。林の中を少しだけ歩く。

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覚満淵。

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周囲を歩くことが出来る。今回は一部のみ。

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ここにもかすかに秋の気配がした。

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仲間で歩くのも楽しそうだ。

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こんな林を抜けて車のところへ戻る。

このあと山を下りたが、途中は来たときと同じように雨と霧の中だった。山の上だけ晴れていたのだ。

これにて今回の旅の報告終わり。お付き合いいただきありがとうございました。

2022年9月18日 (日)

雨と霧の赤城山を登ったら

大間々は関東平野の北端に当たるとはいえ、せいぜい海抜100~200mであろう。そこから一気に赤城山に登る。予想通り小雨がフロントガラスに当たり、ワイパーを動かしつづけなければならないほど降り出した。赤城山のカルデラ湖の大沼には直登で距離は短いとはいえ狭い県道16号と、赤城道路としてセンターラインのある広い県道4号とがある。16号はしばしば崖崩れなどで通行止めのことがある。走りたくない。さいわいナビは4号を選んだ。雨だけではなく、霧も立ちこめてきて、視界は著しく悪い。美しい白樺林も霧の中だ。

赤城道路には100mごとに高度表示があり、最高地点の手前で1400mを越える。かなりの急勾配である。最高地点を過ぎて開けたところに、赤城山総合観光案内所がある。駐車場もあり、多少の景色を眺められる。この先は一気に大沼まで下ることになる。駐車場に駐めるころにはあら不思議、雨が上がり霧も引き始めた。

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霧の中に突然現れていつもぎょっとする男性裸像。

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ここだけ霧がない。

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向こうへ霧がどんどん引いていく。

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赤城は初夏と秋の二回赤くなると聞いたことがある。秋はもちろん紅葉だが、初夏は下に見えるレンゲツツジである。よく見たらその間をうごめくものがある。

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おお、羊ではないか。

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コロコロに太った羊。

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見ていて見飽きない。初めて見たけれど、前からいたのだろうか。

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観光案内所でソフトクリームを食べていたら日が差してきた。どうもこのあたりだけ雲が切れているようだ。

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カルデラ湖の大沼湖畔まで降りる。赤い橋桁は、左奥にある赤城神社へわたる橋。いまは掛け替えのための工事中で橋桁だけになっている。少し先に広い駐車場があるのでそこまで行く。みたい石碑は赤城神社の境内にある。

あともう少しお付き合い下さい。 

足尾銅山の坑道を出て

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坑道の出入り口。トロッコ列車はここを出入りするが、歩いては出入りできない。

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トロッコ列車は人よりも鉱石を運ぶものだった。

左手にも人形がある。

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女性たちが小屋の中で大きな鉱石を砕く。

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手頃な大きさにした鉱石を運び、焼いて銅を溶かす。

貨幣の製造工程などの展示館がある。

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賓客(?)としてお出迎えを受ける。

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銅貨とはいえ、持ち出しは厳しく取り締まられていた。

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鋳造した銅貨をみがいているところ。他にも工程ごとにパノラマがある。

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江戸時代の貨幣単位の説明。一両は一文銅貨で四千枚だった。

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出口。中は駐車場につづく売店。この看板にいつも感心する。

「銅もありがとう。また銅ぞ。」いいなあ。

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外へ出た先にある銅山神社の狛犬。これは左手のもの。とても変わった顔をしている。

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これが右側。神社は特に見るほどのものではない。

ここから一路122号線を渡良瀬川沿いに大間々桐生方面に下っていく。天気は霧雨。赤城山に行きたいのだが迷う。雨と霧で何も見えない可能性が大きいのだ。でも目的はある石碑を見ることなので、雨でも見ることは可能だと考え、大間々から赤城山の大沼を目指す。

グランドデザイン

 今朝の尾張地区は、路面は濡れているが、まだ強い雨も風もない。台風で荒れてくるのは明日以降、明後日がピークらしい。すでに九州などは激しい雨が降り出しているようで、お見舞い申し上げたい。「すごい台風」とか「未曾有の強風」などと予報されるときには、かえってそれほどでもなかったりすることがしばしばなので、出来ればそういうはずれ方をして欲しいと思っている。

 

 だらだらつづけている旅の報告は、あと二回分ほど残っているが、小休止。

 

 表題にした「グランドデザイン」というのは「大枠の構想」ということで、政治的にいう場合はそこに「理想とするところの」という言葉が付け加わっている。政治家を見るとき、その言動にグランドデザインが感じられるかどうかが私の評価の基本である。そんなことあたりまえではないかと思われるかもしれないが、そのあたりまえがあたりまえでないことが多いのが昨今の政治家達だとみている。

 

 もちろん自分の考えと合う合わないもあるが、すくなくともグランドデザインを持っていることが感じられれば、私は意見の合わない人でも敬意を表することにしている。そういう意味で、安倍晋三という人はグランドデザインをもっていて、それを明確に語り、損得よりはグランドデザインの実現を優先したと思う。反対でも賛成でも、彼がグランドデザインを持っていたことを含めて全否定するのは、そもそも政治家に何を求めているのかと思う。ヒーローか?そういうことでは極右の台頭を許すことになりはしないかと危惧する。

 

 マスコミにはグランドデザインなどない。それを描いてその実現に邁進する役割などはもともと期待されていないし、それをはじめようとするなら危険だ。世間の木鐸として間違いを暴き、指摘するという役割に徹すればいい。野党がその尻馬に乗るのも似たような役割を担うつもりならそれでかまわない。ただし、尻馬に乗るばかりでグランドデザインなしなら、政治家ではなくてただのヤジ馬でしかない。

 

 野党の中にもグランドデザインが感じられる人も散見はされる。与党でもそんなものを持ち合わせていないようにしか見えない人もいる。そういうことを見定めるには、いまはうってつけの時期かもしれない。

 

 本音はここからなのだが、「大枠」だけ述べてあえてこれ以上書かない。思い描く枠の中の絵は人によって違うから。しかし違いは違いとして、政治家にはグランドデザインが必要だということについてだけは合意して欲しいところなのだが・・・。

2022年9月17日 (土)

足尾銅山の坑道

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坑道を歩き出して、よそ見をしていたら危うく鉱石運びの人とぶつかりそうになった。なにしろ横穴のあちこちにお仕事中の人がたくさんいるのでそれを見ていたのだ。

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こんな顔に出会うと、ぎょっとする。江戸時代の人だ。

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当時は手掘りだったのだからたいへんだ。

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お仕事ご苦労様です。

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江戸時代の様子を見たあと、少し歩く。私はちょっとでかいので、天井に頭があたるからすこし屈んで歩いている。

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大正から昭和にかけての様子の見られる辺り。お仕事中お邪魔します。こんな顔の人、いるなあ。

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この時代になると手掘りではなくて削岩機だ。

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おくつろぎのところ、失礼します。

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さらに展示室に向かって歩いて行く。列車には私しかいなかったのだから、とうぜん誰にも会わない。

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坑道のメンテナンスをする人もとうぜんいるわけだ。

このあと展示室を見て外に出たが、その話は次回に。

足尾銅山観光トロッコ列車

天気が良ければ半月山に登り、抽選事故を見下ろし、男体山と対面するつもりだったのだが・・・。

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半月山方向はごらんのような有様で、霧雨が降り出している。男体山どころか、何も見えないだろう。

仕方がないからいろは坂を降りて足尾銅山に行くことにした。十数年ぶりで三回目だが、私は洞窟や坑道が好きなのである。

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トロッコ列車乗り場前。坑夫がお出迎え。奥に見えるのがトロッコ列車。

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こんな乗り物。発車時刻に誰も来なくて、乗客は私だけだった。私だけで暗い坑道が歩けるぞ。

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出発進行。いまは雨がやんでいるが、山は雲がかかっている。

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途中で電気機関車は切り離し。自力で動くのだ。これから坑道に入る。私は独りなので運転台の真後ろの、前がよく見えるところに乗っている。

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行動の中でおろされる。あとは歩きである。列車は去って行く。

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この先、坑道は延べにして1200キロつづく。九州まで行ける距離だそうだ。ここは入れない。観光用の坑道へ行く。中の様子は次回に。

中禅寺湖と中禅寺

富山県のヒスイ海岸の宿を出て、少し(十数キロ)バックして道の駅・うなづきに立ち寄り愛本橋を見て、さらに海岸を東行して上越の春日山城址を訪ね、長岡から関越道を南下して三国峠を越え、定宿にしている老神温泉に泊まった(二日目)。

その老神温泉から谷川岳に向かい、ロープウエイに乗って、そのあと沼田に戻り国道120号線を東行して日光に向かおうとしたのだが・・・。

ナビで中禅寺湖畔の宿(三日目)を設定すると、県道62号線経由で国道122号線に出ろという。どう考えてもおかしな指示だし遠回りであるが、走ったことのない道だから時間も有ることだし何かあるかもしれないと、あえてナビに従った。

老神の手前ではるか下の谷底へ降りるヘアピンカーブだらけの道を行き、木々の鬱蒼として暗い道をひたすら走る。視界は全く開けない。登ったり降りたり急カーブの連続で燃費がガタガタと落ちる。かろうじてセンターラインらしきものがある道なので狭いためのストレスはないが、ほとんど車と出会わない。こんな道を選ぶ人はあまりいないということだ。どこをどう向いて走っているのかさっぱりわからないままかなり走り、最後の急坂を下りてようやく122号線に出る。渡良瀬川に沿って走るいつもなじみの道だ。これだととうぜん中禅寺湖に行くために、いろは坂を登らなくてはならない。降りなくていいところを降り、登らなくていいところを登らされた気がする。

あとで確認したら三割以上余分に走り、しかも何度も坂を上り下りする道を走らされたので、たぶん倍のエネルギーを消費させられたと思う。金精峠を越える120号線ならずっと楽だった。どうしてナビがこの道を指示したのか理解できない。入力は面倒だし、観光地の地名検索のヒット率はとんでもなく低いし、無性に腹が立つ。何しろ谷川岳ロープウエイと入力しても該当なしとなるのだ。ロープウェイにしたり、ロープウエーにしたり試してもヒットしない。仕方がないので地図上で探して「そこへ行く」と指示しないとならない始末だ。

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なんとかいろは坂を登り、珍しく明智平らの駐車場に空きがあったのだけれど、霧が垂れ込めていてこれでは景色は楽しめそうもないのでパスした。ようやく中禅寺湖に到着。男体山は半分雲の中。

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西の方も雲の中。

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夕方の光に湖面が輝いている。

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観光写真を一枚撮って、駐車場の向かいにある中禅寺を訪ねる。いつもこの駐車場は満杯で駐められず、中禅寺は初めてである。

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中禅寺山門。写真を撮ってそのまま参門を潜ろうとしたら声をかけられた。拝観券を買う受付は門の左手にあったのだが気がつかなかった。慣れた声のかけ方から見て、同じように気がつかない人が多いものと思う。

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本堂入り口。ここは立木観音が有名らしい。

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拝観する。もちろん撮影禁止。本尊は十二面千手観音様であった。説明を聞いていたらお札を買えという。二千円だというので丁重にお断りした。手だけ合わせた。この横手から上のお堂へ階段を登るようになっている。八十段あるという。そのくらいならいけないことはないが、今度は何を売りつけられるかわからないので登るのはやめにした。旧統一協会問題でみんな過敏になっているはずで、宗教界はたいへんだろう。

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上のお堂。写真で見るよりは高いところにある。

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延命水だそうだ。飲まなかった。飲んだ方がよかったか。

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境内にはいくつも石の仏様がある。気持ちを切り替えて落ち着き、宿に向かった。半月山の展望台までいく時間はあるが、見晴らしが悪そうなのでやめた。正直また坂を延々と登りたくなかったし、ガソリンもあまり余裕がない。

2022年9月16日 (金)

谷川岳を見に行く

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谷川岳を見に行った。谷川岳ロープウエイは十人乗り程度のゴンドラで、連続的にやってくるから待ち時間がなくてありがたい。ゴンドラのワイヤロープを眺めていたら、縒り目が全く動かない。つまりロープとゴンドラが一緒に動いているのだ。すれ違うときの反対側のロープを見ると縒り目が見えないほど動いている。よく考えれば当たり前のことを今回初めて確認した。向きが変わるときにロープはどうなっているのかなあ、などと想像したが、よくわからない。

ロープウエイは結構時間がかかる。面白かったのは、同じゴンドラに乗り合わせた高齢の母親とその娘らしき女性二人の会話だ。母親が「下りのゴンドラは速いねえ、こちらは上りだから遅い。帰りは早く降りられるね」・・・「お母さん、登りも下りもつながっているから同じ早さなのよ」「そんなはずない」母親は納得していないようだった。

ロープウエイを降りて、天神平までリフトでさらに登る。

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風が気持ちいい。念のためにウインドブレーカーを持って来たが必要なかった。

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ススキが逆光に光っていた。

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すれ違う下りのリフトに乗っていたのは・・・。

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天神平にて。

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少し霞んでいたけれど、谷川岳をはっきりと見ることが出来た。

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谷川岳の左手の山壁は大迫力である。

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しばらく山をぼんやり眺めた後、下りのリフトに乗った。

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秋がそこまで来ている。このあと日光に向かったのだが、ナビがおかしなルートを指示したためにずいぶん遠回りした。その話は次回に。

春日山城城址

上越には通過したり泊まったり、何度も通っているのに一度も春日山城址に寄っていなかったが、今回ようやく訪ねた。

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春日山城は山城で、見るからに上り下りが多くてしんどそうである。

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春日山城はこの山の上なので、まず、この春日山神社の階段を登らなくてはならない。

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一段一段、足元を見て踏みしめるように登る。そうすると膝があまり痛くない。だいぶ登ったかなと思って見上げると、まだまだ。

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山の上を整えて城を作った。これが春日山城で、上杉謙信の居城である。

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上杉謙信が直江津の街(現在は統合して上越市)を見下ろしている。

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上越の街。その向こうに海があるはずだが霞んで見えない。

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春日山神社の入り口横にあった、智恵ふくろう。フクロウの小物を集めているが、これは大きすぎる。

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春日山神社。

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参拝する人が結構いるようだ。

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横手にこんなものが。いつの時代のものだろう。戦国時代のものではなさそうだ。

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神社の裏手から山へ登る階段が見えたが、体力温存のため、行かなかった。温存するほど残ってもいなかったのだが。

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神社横手から。木の間に、拝殿の後ろの本殿が覗けたが写真ではよくわからない。

ここから長駆して群馬県まで走った。

いい夜

 昨晩は群馬県の友人と美人三姉妹の店で会食、歓談した。友人とは四十数年来の付き合いで、年に二度ほど会い、このごろはたいていこの店で飲む。料理が美味しいし、客筋も良いので居心地がよろしい。前回会ってからあまり間がないのは、前回会ったときに約束したことがあり、それを果たしたかったのだ。時間が経つと忘れてしまうおそれがある。

 

 私は会ったことはないが、その友人の友人が亡くなってひと月ほどだという。この店を友人に教えたのはその友人の友人で、友人の同学年だという。たまたま昨日がその友人の友人の誕生日だった、といって美人三姉妹と友人は故人を偲んでいた。私も海外旅行に一緒に行くことの多かった友人のF君を亡くしてその喪失感はよく理解できる。

 

 ものの考え方が似ているし、そして共通の思い出があるので、それらが次々に話題になり、時々自分を少し美化した話などをしていい気持ちになる。記憶というのは自分に都合良く変わっていくものだ。いつもは二軒目に行くのだが、最初から一軒だけにしよう、と決めていた。もうお互いに自重すべき年だ。

 

 友人の夫人が車でホテルまで送ってくれた。いい夜だった。今日名古屋へ帰る。

 

2022年9月15日 (木)

愛本橋

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前回宇奈月温泉に泊まり、トロッコ列車に乗ったとき、ついでに立ち寄った道の駅 宇奈月で、併設されていた黒部市歴史民族資料館があったので、黒部川と黒部の歴史を知るために入館しようとしたら、たまたま休館日の月曜だった。そこには日本三大奇橋の一つ、刎橋(はねばし)愛本橋のレプリカがあると案内の看板がある。見たいと思いながらなんとなく愛本橋という名前に記憶があった。

ブログを見たマコママ様から、「富山と言えば宮本輝の『田園発 港行き自転車』をおもいだしますね」とコメントをいただいて、思い出した。そうだ、そこに愛本橋のことが書かれていて、それが記憶の片隅にあったのだ。その本をもう一度地図を置いて読み直し、全体のイメージを心に描いていたら、どうしてもその刎橋のレプリカと、いまの愛本橋を見たくなった。それが今回の旅の目的の一つである。上の写真はいまの愛本橋。橋の下は黒部川である。

黒部川は峻険な山を一気に流れ下り、愛本橋のあるあたりから扇状地を形成している。そこに橋を架けるよう命じたのが加賀藩五大藩主の前田綱紀であった。しかし黒部川は急流のために河中に支柱が建てられない。そこで考え出されたのが、両岸に大きな木材の板を何枚も斜めに埋め込み、ちょうど板バネのようにして突き出させ、その上に橋を架けるという工法だ。これは実際に見て説明を聞かないとわかりにくいと思う。学芸員の方に丁寧に説明を聞き、ビデオを見、レプリカ(現物の二分の一の大きさだから大きい・ただし一部である)を上に乗ったりしたから覗いてみてわかることである。

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上流に黒部川の水を分水するための堰堤がある。

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下流側。

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分水された水は農業用水や工業用水として供給されている。

この堰堤も難工事で、たびたび大洪水を引き起こす黒部川に破壊されつづけた。堰堤ごと愛本橋も流されることもあった。あたかも中国の奇跡の堰堤、都江堰(とこうえん)を思い起こさせる。そういえばその都江堰も洪水で破壊され、近年ようやく再建されたと聞く。

橋や堰堤の写真を撮ったのは資料館の説明を聞く前で、たまたまそれらを撮っていて良かった。

刎橋時代の愛本橋はいまより少し上流側、一番川幅が狭いところにかけられていたという。木材なので劣化するし、流されてしまうこともあったので、17世紀後半に最初の橋が架かってから、八回掛け替えられたという。三十年に一度くらいの割合で、技術の継承の意味もあったのでしょう、と学芸員の女性は教えてくれた。

このほかに黒部川と黒部の人とのかかわり、黒部渓谷についてなど、大変勉強になった。トロッコ列車に乗るため、宇奈月温泉に泊まるためにこの地に来る人は、是非ここに立ち寄ることをお勧めする。ただし月曜日は休館日なのでお忘れなく。

中禅寺湖湖畔の宿

ブログではまだ富山だが、今は中禅寺湖の湖畔の宿にいる。二荒山神社のすぐ近くの小さな旅館である。部屋は六畳でトイレも洗面台もない。ただし、部屋の前は中禅寺湖の湖面に接している。

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昨夕、部屋の中から撮った。右側には網戸が入っているので暗い。このシチュエーションは高得点である。硫黄温泉。食事は本格的な洋食で美味い。風呂が近くて好いのだが、トイレが遠いのが面倒。

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対岸には雲が垂れ込めている。右手を行けば湯の湖などの奥日光になる。

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夜明け前の同じ場所。早めに眼が覚めたので朝風呂に行った。

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部屋の名前はさざ波。ベランダへ出てそのさざ波を撮った。涼しい。

宮崎ヒスイ海岸

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朝日町、越中境のあたりの海岸ではよく探せばヒスイが見つかることがあるそうだ。この二人がヒスイを探しているのかどうかは知らない。

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この少し先が「奥の細道」で有名な市振で、写真中央に張り出している断崖があの親不知の難所である。親不知のむこうが糸魚川で、その源流の姫川あたりのヒスイが海に流れ出してこの浜に打ち寄せられるということなのだろうか。

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この女性ははるか親不知のほうを眺めている。何を思っているのだろうか。

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ヒスイテラスというこぎれいな建物があった。

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海側から見た全体はこんな感じ。

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中の様子。涼しいし、ゆっくり休憩できる。ここでレンタサイクルを借りることが出来ます、と受付のおじさんが言った。宇奈月まで行けないことはないのだ。

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海岸でこんなものが拾えることもあるらしい。探してみたいところだが、疲れたので宿に向かった。

 

2022年9月14日 (水)

富山港展望台

富岩運河の河口近くに富山展望台がある。富岩の岩はこの一帯が岩瀬という地名であることによる。

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常夜灯をイメージした展望タワーにはエレベーターはない。階段を登っていくと、10m、15m、20mと表示があり、展望室まで20mの階段を登る。灯台の中を登るのと一緒だが階段の幅は広い。

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富岩運河。置かれている車は輸出用の中古車だろうか。ロシアあたりに売っていたものが、いま出荷できずに滞貨になっているのかもしれない。

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海側。

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運河と反対側の岩瀬の町並み。北陸独特の黒いぬり瓦。金沢も同様の景色を見ることが出来る。

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向こうは富山湾。神通川と一緒に流れ下って、日本海まで来たのだと思う。

富山城

富山城はむかしのものが再現されたものだったと記憶する。小ぶりである。学生時代、友人と旅行して、富山大学の寮に泊めてもらった。そうして富山城を見に行った。写真を撮ったはずだが見当たらない。

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富山藩二代藩主の前田正甫(まさとし)の像。富山に製薬業を根付かせ、売薬で藩の財政を豊かにした。

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庭園とお城。逆光でもいまのカメラはちゃんと撮れる。多少補正はした。

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下から見上げる。石垣はむかしのままだろう。石垣にはいつも圧倒される。

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きれいに手入れされていて気持ちが好い。中は歴史資料館になっているようだ。

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お堀の外側へ回ってお堀越しに撮る。順光だから青空がきれいに撮れた。暑い。

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充分眺めたのでお城をあとにして、富山港へ向かう。地図によると富岩運河横に展望タワーがあるはずだ。

風の城

神通川と富山平野を見下ろせる「風の城」という場所を探してうろうろした。

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ようやく道筋をつかんで見下ろした富山平野。右奥が海のはずだが霞んで見えない。

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風の城はこの山の上。外気温34℃で、なんだかふらふらする。汗が滝のように流れる。ここまで来たのにこの階段を登る気力がない。冷たいものを買って飲んだらようやくしゃっきりした。

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神通川上流側。

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神通川下流側。この先を右手に流れて富山平野をなし、富山湾に注ぐらしい。

調子が悪くてろくな写真にならなかった。風の城はいつかまたリベンジしたい。

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一気に富山へ下り、富山城をながめに行った。この城をじっくり見るのは学生時代以来だから五十年ぶりになる。少し元気が出てきた。

2022年9月13日 (火)

神通峡

髙山から国道41号線を北へ逸れて360号線の山道を行くルートを考えて(確か漫画王国の前を通るはず)いたのだが、ナビは逆に南側通るルートを推奨する。そういえばこのルートは工事も少なく、信号もほとんどない道で、昨年と逆方向にことがある。神岡の先へ出る道で、奥飛騨から神通川沿いに来る道人合流する。景色は好い。いつもはナビと違う道を選ぶことが多いが、たまには従うことにする。

とうぜん神通峡を通る。昨年断層など変わったものを見た場所だ。

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素晴らしい断層だった。行くのがたいへんだけど。

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こんな石像が無数に建ち並ぶ不思議で不気味な場所もあった。

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これは今回工事で交互通行を待っていたときに岩場を撮った。左端に窓枠が写り込んでしまった。こういう景色が好き。育った千葉県の九十九里あたりはこんな岩場はないのでおとなになっても岩が見える壁面を見ると嬉しい。

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神通川。昨年は向こう岸の、ほとんどすれ違うのが困難な細い道を走った。あの石像群はそこで見つけた。

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赤い橋が見えたので車を停めて写真を撮る。川と赤い橋は絵になる。

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橋をなるべく左まで撮ろうとどんどん車を停めたところから離れていく。

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これ以上離れると戻るのがたいへんなのでこれまでとする。神通川の水はいつ見ても濃い色をしている。

このあと、だいぶ下流になるが、風の城というところを目指す。途中でちょっとうろうろする。

そこは次回に。

公共工事

 昨日、移動に時間がかかり、予定が狂った理由の一つが、とにかく道路工事の多いことだ。工事で片側一車線が通行止めで片側交互通行の場所が頻出する。交通量がそれほど多くない道が多かったとはいえ、たくさんあれば予定外の時間を食う。経済振興のために公共工事を盛んに行うという旧来の政策は、ちっとも廃れていなくて、かえって盛んであるように見える。よほど各方面に旨味があるのだろうなあ、と拝察する。

 

 もちろん必要な工事もあるだろう。使用限界の来ている道路や橋やトンネルはたくさんあるらしい。問題はそれらの緊急度と実際に行われている工事で、きちんと優先順位が考慮されているのかどうか疑わしいことだ。旨味のほうが優先されていないかと疑うのは過去そういう話を聞かされつづけてきたからだ。

 

 東海北陸道は片側一車線だったが、どんどん片側二車線になっていって、たいへん走りやすくなってありがたい。トンネルの多い道だから工事はたいへんだろうと思う。しかしいつも利用しながら思うのだが、工事の終わったはずの道なのに、この道路のトンネルのメンテナンスなどにより、二車線のはずが一車線である場所が常にたくさんある。まだ工事が終わって新しいのに、なんでこんなにいつもいつも工事をしているのかと思う。まともに二車線でずっと走れたことがない。道路がある限りここで工事で稼ぎつづけている会社があるのではないか、などと勘ぐっている。工事の理由を問えば、明快な答えは返ってくるだろうけれど・・・。

 

 そういえば東日本大震災のときに巨額の復興予算がつけられた。あのときに沖縄の道路工事の予算も復興予算が使われた、などという話があったと記憶する。東日本大震災の復興予算が沖縄で使われたくらいだから、全国でどれほどそういう事例があったのか、想像するだけでも恐ろしい。甘いものにアリがたかるように、ぶんどり合戦するさまが目に浮かぶようだ。

 

 そういえば予算に大ナタを揮い、消費税の2%、3%分くらいはすぐにひねり出してみせると豪語していた民主党の尖兵だった舌鋒鋭い蓮舫氏がひねり出した、削ることが可能だったという予算額はいかほどだったのだろうか。確か数百億とか数千億であったような記憶がある。挙げ句の果てに「一番でなければダメなんですか」という名言(迷言)だけが残された。たぶん政権与党の民主党と蓮舫氏の顔を立てて削って見せた予算も、翌年には必要だからと復活しているにちがいない。それを検証したという話を寡聞にして知らない。一千億でも継続すれば十年で一兆円だったかもしれないが、その場限りで終わりである。

 

 道路工事にイラつきながら、ついこんなことを考えていた。事実かどうか知らない。巷間よく言われることをそうかもしれないと思っているだけである。

 

 それにしてもリニア新幹線は・・・。きりがないからやめにする。

器が小さい

 昨晩の食膳に大きな紅ズワイガニが一杯供された。塩ゆでにして冷凍したものらしく、身が縮んで塩っぱい。足が一本もげているが、そんな体裁のことは気にしない。金沢で多少は蟹の食べ方を覚えたから、どんどん片付けていく。味の点はおいておく(正直不味い)として、問題が二つ。殻入れがない。中国式に卓上に積み上げるわけにも行くまい。さらに手拭きが小さな不織布のナプキンだけである。

 

 手拭きが欲しいと言ったらそのナプキンしかないと言ってもうひとつ持ってきた。不満そうなこちらの顔を見て考えたのだろう、「これを使って下さい」と言ってタオルを持って来た。それは良いが濡らしていないから使いようがない。それ以上言う気が失せた。

 

 宿の女将であろうか、もと接客業をしていたと覚しきおばさんがダミ声で挨拶に来た。話し好きでしばらく話をする。もう少し面白がらせて話し相手をしてやれば良かったのだろうが、あいにく私はそういうサービス精神がいささか足らないので、つまらなくなったのか引き上げていった。そういえばおかみさん、マスクをしていなかったなあ。

 

 刺身の醤油の器が小さい。丸くて小さいくせに深いから、ぶりの刺身がつけにくい。こういう無神経なところが気にかかる。言い出すときりがない。ただし、食べきれないほどいろいろあって美味しかった、と喜ぶ客も多いと思う。私が多少奢っているのだろう。しかし同じものも供し方でずっと気持ちが好いのにもったいないことだと思うことがたくさんあったが、いちいち指摘すればただの嫌味だろう。

 

 喉が渇いていたので生ビールを頼んだが失敗だった。私はビールの味に敏感で、たぶん回転が悪いのとサーバーの掃除が不十分なために、本来の味が損なわれている。喉が渇いた私が首を傾げるのだから残念なことであった。

 

 料金は安い。部屋は広い。目の前は宮崎ヒスイ海岸で、打ち寄せる波の潮騒の様子も美しい。御飯はさすがに美味しい。好いこともたくさんある。ただ、もう一度来ようとは思わない。何しろ器が小さい(不肖、私のことでもあります)。

2022年9月12日 (月)

段取りが大いに狂う

ようやく宿について、ひと汗流してきた。段取りが大幅に狂って、予定の半分しか行動できなかった。宿は料理旅館ということだが、いささかみすぼらしく、部屋にトイレもない。狭いベランダからはヒスイ海岸が見下ろせるから、景色は好い。

ネットがないので、スマホのテザリングでつないでいる。スマホはあまり大容量で契約していないので、注意が必要だ。今朝の出発は六時半ころのつもりが七時になって、小牧通過の十キロあまりを一時間近くかかってしまい、しかも国道四一号線は大型トラックと軽自動車が行列で、いつもなら髙山まで三時間の行程が四時間半もかかってしまった。精神的に焦る。

細入の道の駅から少し下ったところから横道に逸れると、猿橋山という山があって、そこに風の城という場所があるという。ナビは道化て役に立たず、それでもなんとかそこにたどり着いたが、風の城の展望台は山を登らなければならない。異常に大量に汗をかいてふらふらする。低血糖か熱中症か。あわてて冷たいものを飲み、山に登るのはやめておいた。

そのあと富山城の城址公園を歩き、富山港展望塔に登り、富山湾を眺め、出来れば北前船の豪商の家も寄りたかったが、さすがにくたびれたのでパスした。

出足から不調である。本当は飛騨川の景色など写真に撮りたかったのにそんな余裕はなかった。

ということで、後日ネットのつながる宿に入ってゆとりのあるときに写真を掲載することにする。今日は料理が美味いことだけが期待である。それがダメなら明日の朝悪口を書く(かもしれない)。喉が渇いたあ。

出かける

思い立つと出かけたい気持ちが止まらず。今朝から数日うろうろするつもりで出かける。

本日は有料道路を使わずに地道(国道41号線)をメインルートに、途中越中西街道の山道を走って再び41号線に合流し、富山へ入る予定。有料代節約の、コストダウンルートである。

支度もほぼ調った。天気も良い。朝食をかきこんで早々に出発することにする。次のブログは今晩になる。

2022年9月11日 (日)

なんだかなあ

本日はマンションの組長と自治会役員たちとの会合の日であった。いろいろな議題があったので、かなり時間がかかると思っていたら、案外スムーズに進行したので助かった。

懸案の十月末の運動会は、コロナ禍でもあり、いつも会場を借りている小学校が色よい返事をくれないとのことで、それなら中止せざるを得ないということに衆議一決した。大がかりな修繕計画は八億円以上かかるというが、修繕積立金の範囲で可能らしいというので予定通り進めることを了解した。問題は、各戸に工事予定のベランダの問題点のアンケート調査を依頼したのに、まだ六割しか返事が返っていないということである。どうも信じられないほど他人事なのだなあ、といささか不快である。無関心というのも限度がある。自分の問題なのに。手取り足取りされないとアンケートにすら回答しないのか。

地震防災のために、各戸に磁気プレート、地震時の行動指針の資料、そしてホイッスルなどを配布することになった。手配済みとのことである。磁気プレートは表に「手助けが必要です」、裏に「問題ありません、大丈夫です」と印刷されている。地震の後にそれをドアに張り付けることができるようになっている。これはいい。配布されたらドアの内側に貼っておくことにしよう。それをもとに多少は困っている人を手助けできるかもしれない。

「ドアが地震でゆがんで開けられなくなったらどうしましょう」とやや高齢の女性が質問した。それは磁気プレートを貼ることができなくなるには違いない。「何も表示がないというのも、何かあった可能性を考慮しますが、その時にどうするかは自分で考えて対処してください」必ず助けが行くかどうかはその時にならないとわからないことですし、日ごろから近所の人と交流して、いざというときに来てもらえるようにすることですね」という自治会長の言葉は正論である。

必ず誰かが助けるものだという思い込み、どうしたらいいかを自分で考えずにすぐ質問するという姿勢に、どうだかなあ、という気がした。

三途の川

昨晩のブラタモリは「恐山」だった。恐山には2012年と2016年の二回行っている。恐山は幽冥を異とする境目の場所の雰囲気がある。死ということを考えるためにも一度は訪ねてみたら良いと思う霊地だ。

番組の最初に三途の川にかかる赤い太鼓橋が出てきた。通行禁止となっていた。私が行ったときは普通に渡ることが出来た。

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反対側。こちらから渡ると延命するという話もあると紹介されていた。知らなかった。私はどちらから渡ったのだろう。

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横からの写真。この三途の川は宇曽利山湖から流れ出ている唯一の川である。透明だがいささか不気味な気配を感じさせる。

恐山については番組で詳しく紹介していた。

ここへ行くときは二回とも恐山の裏側(北側)にあたる薬研温泉の薬研荘に泊まった。こじんまりした宿だが部屋は磨き立てられて気持ちが良く、手作りの山菜やキノコの料理は絶品である。また是非行きたいと思っている。

森氏の胸像

 元首相の森喜朗氏の胸像を建てようという発起人が集まって、寄付金を募ろうとしているらしい。これに批判が集まっているそうだ。銅像だか胸像をどこに置くつもりか知らないが、公的な、多くの人の眼に触れるところに置くというのならあまり賛同しかねるが、故郷の石川県の能美あたりにでも建てるなら、石を投げられたり悪戯されたりしないだろうから勝手に建てればいいだろう。

 

 胸像を生前建てるというのは別にないことではないが、できれば亡くなってから故人を偲んで建てる、というのが望ましい。「棺を蓋いて事定まる」というではないか。下手に早く建てすぎて、死後に誰からも見向きもされなくなり、邪魔なだけ、というのではかえってあわれだ。

 

 胸像反対をわめき立てている人は、そのことを心配して反対しているのであろう。実は心優しい人たちなのかもしれない。寄付を強請される恐れさえなければ、どうでもいいことである。まさか国費を使おうというのではないだろう。

 

 それとも思い切って、韓国の「いわゆる従軍慰安婦」の少女像のように、オリンピックと金の問題の象徴として、大々的に展示でもするが良かろう。名古屋の「表現の不自由展」とか言う芸術展にならうのも良い。石を投げても悪戯しても自由、ということにしたらなおよろしい。人はしてはならないと言われるからするもので、しても良いと言われるとしないものだから安心だと思う。それならいま反対している人も、大好きな正義が謳いにくいから拍子抜けして賛成・・・はしないにしても反対はしないはずだ。

2022年9月10日 (土)

葬儀参列

 誰かが、自分は国葬には参列しない、と公言しているそうで、そうですか、というしかない。普通、葬式には自分の意思で参列するもので、特別招請されたのでなければ参列も欠席も全く自由である。それをことさら参列しないことをアピールするのは、いささか非礼というか、人間性を疑う。欠席アピールは売名だとみなされても仕方がない。死者も遺族もそんな人間には参列して欲しくないにちがいない。

 

 社会的な儀礼として、義理で参列することはある。そのときに「自分には弔意がありません」などと公言するのは、そもそも社会的儀礼に反する。弔意がなくても黙って弔意があるような顔をしていればいいのであって、そんな礼儀を欠いた人間はまともな人間ではない。

 

 弔意の強制に反対だ、などと金切り声を上げている向きがあるが、弔意や謝意は強制されるようなものではない。他人の弔意の表明まで反対しかねないこのような人たちはまことに醜い。

 

 そもそも国葬に反対することが正義だ、みたいな風潮はどうしたことか。いまさら国葬をやめることは国際的にみっともないことであるから不可能だと思うが、それでも反対をしている人は、自分が反対すれば国葬は中止になる可能性が少しでもあると思っているのだろうか。

 

 そもそも国葬にするかどうかはもう少しじっくり考えるべきだったという後知恵はあるけれど、決まったものは仕方がないのであって、いまは粛々と国葬を行い、しかるべきのちに、何が問題だったのか、基準が必要なら基準を決めたら良かろうと思う。

再始動

 前回は宇奈月温泉二泊の小旅行だったが、今度はもう少し遠出する予定を立てている。最初は、前回寄れなかった富山をすこし歩き、そこから上越、さらに北関東まで足をのばすことにした。北関東の友人に約束していたものを渡す予定が延び延びになっていて、気になっていたので、思い切ってそこまで行くつもりだ。一日目と二日目だけ宿を取った。

 

 弟夫婦と妹が十月半ばに来るので、奥飛騨温泉を予約し、新穂高や上高地、乗鞍などへ行くつもりだったが、乗鞍でようやく修復したばかりの道路がまた陥没して崩れてしまい、復旧の見込みが立たないという。乗鞍はあきらめるしかなさそうだ。

 

 明日はマンションで会合があるから出席しなければならない。大がかりな補修工事を行う件と、十月に予定されている運動会についての打ち合わせだ。補修が決まると何年ぶりかで足場を組んでベランダなどの補修を行う。事前に破損箇所などを点検してすでに連絡してあるが、我が家は破損もほとんどなく、排水の溝も排水溝も問題なしである。運動会はコロナもやや下火なので、上手く実施できるかもしれない。第八波が来ないことを祈るばかりだ。何か役をやることになるだろうが、あまり走り回るのは勘弁してもらいたいところだ。身体がついて行けない。

 

 早くもタイヤ交換の時期について希望日時の連絡要請が来た。今年は早めに頼むことにして希望日を連絡した。雪の東北を楽しむことが出来るだろうか。私の気持ちはすでに再始動している。

兄弟で旅行

 弟から電話をもらった。妹が遊びに来ているという。昨年末に脳出血で倒れた義弟が、リハビリ中にコロナに感染し、高熱で大変なことになっていたが、ようやくおさまって、リハビリを再開したそうだ。一時は意識も判然としなかったのが、いまはなんとか自力で歩けるし、会話のやりとりも多少は出来るようになったと言うから、本当に良かった。

 

 秋には弟夫婦が名古屋へ来ると言っていたが、妹も一緒に行きたいと言い、全員の都合の好い日(10月半ば)を調整して、以前泊まった奥飛騨温泉にさっそく予約を入れた。時期でもあるし、上等の部屋しか取れなかったから、割高だが、食事は間違いないことは承知しているし、上高地や乗鞍にもアクセスが好いから、喜んでくれるだろう。

 

 弟夫婦と妹と私の四人、一緒に旅行するのは初めてである。楽しみだなあ。天気が良いと好いなあ。

2022年9月 9日 (金)

弔意の言葉

 エリザベス女王(二世)が亡くなった。みごとな生涯だったと思う。女王であることと、一個人の女性としての生き方を矛盾なく生きてみせるというのは、彼女だから出来たことだという意味でみごとだったと思う。謹んで哀悼の意を捧げたい。

 

 各国を代表する立場の人たちの、女王への弔意のスピーチをいくつか見た。そして岸田首相の弔意の言葉を語る姿も見た。私は、岸田首相にはかねがねその語り口に好感が持てなかった。それは日を追うごとに強くなっていて、今回の弔意の言葉でも、他の国の人が心から敬意と哀悼を語っているように見えるのに、岸田首相の姿には誰かが書いた文章をただ読んでいるだけ、というように見えた。そう感じるのは私だけなのだろうか。でも、私は弔意がそこに見えないということが問題だと感じている。

 

 謝罪でも方針でも、自分の言葉で自分の考えを語っている、と思ってもらえなければ、その言葉はいくら丁寧であっても相手には伝わらない。私にはどうしても岸田首相の言葉に心がこもっているように見えないのだ。最初はそれほどでもなかった人たちも、次第にそれを感じ始めていることが、支持率低下の最も重大なポイントではないかと思う。

 

 世界が、そして日本がますます苦難の時代に向かわざるをえないとき、こういう首相しか戴けない日本という国に情けなさを感じてしまう。これからがとてつもなく不安である。

日本人のメンタリティと検閲制度

 戦時中、日本は厳しい検閲制度を敷いていた。そして敗戦後、占領軍は同様に日本の言論に厳しい検閲を行った。その徹底的であること、そしてはるかに占領軍によるものが巧妙であったことを江藤淳が名著『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』で詳細に徹底的に論じている。「詳細に徹底的に」というのは、現状分析の積み重ねだけではなく、アメリカでの厖大な資料を渉猟してのものだからだ。

 

 臼井吉見の本を読んでいたら、『二つの検閲』という文章があった。実際に当時『展望』という雑誌の編集者であった立場から戦後の占領軍の検閲について書いている部分が興味深く、そして考えさせられた。

 

「(略)事前検閲は、やがて事後検閲に切り替えられた。(略)明らかに、アメリカ側における日本人研究の成果を示すものと思わないわけにはいかなかった。新しく出してきた事後検閲は、おそらく彼らの予想をはるかに越えて、めきめきと効果を発揮したものと僕は見ている。
 事前検閲の時期でさえ、占領者の腹のうちを読んで、ともすれば、卑屈な心情をちらつかせた編集者がなかったとはいえないだろう。(略)日本の革命が、すぐそこに迫っているかのような、金切り声を上げているような雑誌にかぎって・・・・これは言いすぎだが、そんな雑誌がとかく見せがちな卑屈さには我慢のならないものがあった。
(中略)とにかく事前検閲は気が楽だった。
 事後検閲となると、そうはいかない。検閲は一応こっちにまかされた格好になるからだ。雑誌は出たが、追っかけて発禁を食ってはたまらない。そんなことが、二、三度つづこうものなら、元も子もなくならざるをえない。いよいよ、相手の腹を読まずにはいられないことになる。
 事後検閲への切り替えを界にして、すくなくとも雑誌の上でいえば、言論が、にわかに精彩を失った。おそらくは相手が期待もしていない地点まで後退をはじめる。たがいに顔を見合い、暗黙のうちにうなずいて、翌月はさらに後退する。それが目に見えるようであった。
 権力者の腹を読んでは、次々に道をゆずるという卑屈な振舞いは、かつて軍部に対するものだったが、いまはまた占領権力に対して、同じことをくりかえしている。そういう国民のメンタリティが、言論の責任者である編集者のしぐさの上に、露骨に示されるのだった。」

 

 私が、ここに書かれていることに深く感じるものがあるのは、その時代というものを考えるからではない。それは「日本人のメンタリティ」という言葉の意味である。江藤淳も臼井吉見も、ある時代の、権力による圧力というもののことだけを言っているのではないことはわかってもらえると思う。自己規制という言葉狩りにまでつながっていく日本のジャーナリズム全体のメンタリティ、それはジャーナリズムだけではない日本人のメンタリティによるものだ、という指摘は、自覚しなければならない大事なことだと思う。

書かれた言葉

 作家の金井美恵子が谷崎潤一郎の『細雪』について講演した講演録を読んでいると、これはこれで素晴らしいのだが、語り出しに

 

「すくなくとも、物を書く人間に限ってのことですが、「声」よりも、「書かれた言葉」のほうが美しいという、もうほとんど根拠のない思い込みがあるせいで、講演というものは、聴くのも自分がやるのも、苦手というか、もう少しはっきり言うと、薄っすらとした退屈さと居心地の悪さがつきまとうような気がしてなりません。」

 

とあっておもしろく感じた。面白いというよりも共感するものを感じたのはそこでいろいろ連想したからだ。

 

 私は「物を書く人間」ではないが、「声」よりも「書かれた言葉」のほうを美しいと思っているところがある。わかいころ、運転中は本が読めないから、朗読のテープをいくつか買ったことがある。幸田露伴の『五重塔』、新田次郎の『強力伝』、『論語』などを聴いた。それはそれで悪くはなかったのだが、やはり感じたのは、「声」よりも「書かれた言葉」のほうが好いなあということだった。とくに『論語』は漢字が頭に浮かぶ前に言葉が先に進んでしまうので、困った。これは記憶したものを反芻するためのものだと思ったりした。

 

 Amazonから「本を聴き」ませんか、などと勧めてくるけれど、試してみようと思う気持ちが全くないのは、そういう経験と考え方による。ただし、寝たきりになって読みたい本も読めない状態になったとき、イヤホンで「本を聴く」というのはあるかもしれない。そのときは「美しくないけれど我慢して」のことになるだろう。

 

 「漢字」を見るのは好きである。漢和辞典を普通の人よりはよく引く方だと思う。読めなくても意味はおぼろげにわかる。それでよいのかどうか確認する。それほど間違っていることが少ないのは、漢字にはそれなりの法則性があるからだと思う。表意文字というのはそれ自体がイメージとつながっているということで、いま読んでいる漢字と同時にその前に読んだ漢字や、これから読む漢字も同時に視界に入っていて、それがハーモニーとなって文章が認識されているような気がする。だから「書かれた言葉」を美しいと思うのだろう。漢字で書かれたものだからこそかもしれない。

2022年9月 8日 (木)

デジタル不死 

 カナダ制作の『デジタルな不死を探して』というドキュメンタリーを見た。自分自身を完璧にコピーすれば永遠に生きられるという発想は、SFでいろいろ語り尽くされてきたテーマだが、現実がそれをあたかも可能にしそうな時代になったかのようだ。コピーが自分自身であるかどうかを論じると、わけがわからなくなるので、それはここでは問わないことにして、はたして自分のコピーとはいったい何かということははっきりしておかなくてはならない。

 

 「マインドファイル」という命名で、個人の情報をとことん詳細完璧にデータとして集積するという商売を考えた会社があるらしい。その会社の経営者だか技術者が「魂はデータだ」と語っていた。驚くではないか。魂とは何か、どこに存在するのか、哲学者や宗教家をはじめとして、多くの人が考えつづけた難問が、なんと明快に解明されたことか。

 

 しかし魂はデータか?

 

 養老孟司はデータ(情報)は不変のものだという。だからこその永遠が可能とも言えるのだが、人間は時々刻々、日々変化する存在だ。その人間のコピーとはいつの「私」であるのか。十年前の私と、いまの私は同じ私か。「頼朝公七歳の時のシャレコウベ」なんて見世物があったというが、どう違うのか。変わるものを変わらないものの集積で再現できるというのか。

 

 データの集積であるコピーは感情を持つのか。彼は思い出を持つのか。思い出と記憶とは同じものか。無限にデータを集積すればいつかは完璧なコピーが可能で、「私」が再現できるというのは間違いではないのか。

 

 脳の働きというのはただのデータ処理に還元できるのか。経験の記憶とは何か。AIは経験することが可能か。

 

 こうして考えているうちに、そもそも不死とは何かがわからなくなってしまった。不死が本体の私が死なないということなら、コピーした「私」は永遠に私自身ではないにちがいないのだから、それは私が不死であることではないことだけは確かなことだ。

トイレの写真

 トイレの壁はオフホワイトのソフトクロスで、そこにA4の写真が五十枚ほどピン留めしてある。海外旅行で撮った写真をプリントアウトしたものだ。ほとんど中国や東南アジアで撮ったもの。五年以上貼ったままなので、見た目は変わらなくても汚れている気がして、そろそろ剥がそうとかねがね思っていた。

 

 今日、掃除がてら全部剥がして廃棄した。トイレが明るくなった。いまは上海で買った、木の板に水路の風景がペイントされた小さな絵と、アルミ枠の額入りの、国東半島で撮った磨崖仏の写真、それと星野富弘の絵と文章の描かれた紙が残っている。これはこのままにしよう。海外だけでなく、国内で撮ったお気に入りの写真がプリントしてあるが、まだそれを貼るのはやめておくことにした。

 

 以前は中国の大きな白地図が貼ってあった。地名の日本語読みと中国読みが併記してあって、地名と位置関係を覚えるのに役に立ったが、これもくたびれたから廃棄した。今度は分県の大きな地図をいくつか買って眺めるのも好いかなあ、などと思っている。さしずめいまなら富山県なんかを貼ってみたい。近々富山市内から魚津、黒部にかけて海岸を走ろうかと考えていて、これならやはり二泊三日でも丁寧に回れるはずだ。今度は温泉ではなく、ビジネスホテルに泊まり、安上がりにする。宇奈月の道の駅で愛本橋のレプリカを、今度は見逃さずに見るつもりだ。

柳条溝事件

 一九三一年、九月十八日、撫順と奉天の中間地、柳条溝で満鉄線路が爆破され、それをきっかけに満州事変が勃発した。

 

 『黒竜江への旅』の中で高野悦子が書いている。

 

「鉄道線路が破壊されたという時間のあと、急行列車が無事通過しているから、爆破は小さかったのであろうが、理由づけには充分であった。現場は、ジャリ、枕木、レールが飛び散り、近くに中国人の兵隊三人の死体が並べられ、関東軍の、さわらぬようにという立札が立っていた。その死体は白骨になるまで野ざらしにされていた。

 

 その立札を見て父は、まるで日本版「此地無銀三百両」だなと思った。それは、馬鹿な地主が、金を盗まれることを恐れ、土の中に埋める。それでも心配で「ここに三百両はありません」と立札をした。そのためかえって三百両があることがわかってしまったという中国の昔話である。

 

 鉄道線路爆破のあと、奉天ではすぐ日本軍による北大営襲撃が行われる。しかし大砲や鉄砲の撃ちあいを、奉天に住む一般の日本人たちは、まさか日本軍が戦争を始めるとは思いもよらず、演習だとばかり思っていた。「今夜の演習は大がかりだな」という程度で誰も騒がず、静かな夜だったという。

 

 満州事変により、満州を軍力で抑えた翌三二年三月、日本は満州国の建国宣言を行う。現在、中国では日本の中国侵略の第一歩となった九月十八日を「屈辱の日」と呼んでいる。」

 

 日本人は忘れたり知らされていないけれど、中国人は決して忘れない。もうすぐまたその日が来る。

2022年9月 7日 (水)

山口瞳『谷間の花』

 冷蔵庫がスカスカになったので、朝、スーパーに買い出しに行った。塩水につけた白菜があるので、ビーフンと炒めて食べたいと思ったのだが、ビーフンが見当たらない。乾麺のところにも中華惣菜のところにもない。以前確かにあったはずなのにないからあきらめて帰ってきた。あとであそこにあったはずだと気がついたが、また買いに行く気にならない。気持ちだけ残念に思っている。

 

 山口瞳の『谷間の花』(集英社文庫)という短編集を読了した。一昨日の晩の夜中に目が覚めて寝られなくなって読み始めたものだ。全部で六篇収められていて、表題の『谷間の花』が全体の三分の一以上の中編である。昨日その中編を含めてつづきを読み始めたら、なんだかとても嫌な気持ちになって読み進められなくなってしまった。

 

 新聞記者、作家、教師という友だち三人が谷間の温泉宿に行くという話で、それぞれの男の人生がフラッシュバックのように語られていて、戦後のさまざまな浮き沈み、時代の変遷、価値観の変化がそれぞれの男にどのような影を差しているのかが浮かび上がるようになっている。その生き様に同情や共感を感じるより、嫌悪感が強くこみ上げてしまったのだ。山口瞳は好きな作家で、どれほど読んだかしれないほどなのに、二度と読みたくないと思うほど、生理的にきらいな気がして本を閉じてしまった。

 

 今日、思い直して全部を読み通した。昨日ほどの不快感は感じなかったし、著者の意図することはわかったような気がするけれど、しばらく山口瞳は敬遠しようと思う。この短編集では、『神様』という短編が好かった。偽善的ではなく、本当に神様のように善い人になろうと思って生きて、まわりの人もみな善い人だと認めた男の、実は振り返れば偽善に満ちた人生が、なんだか妙に切なく感じて、余韻が残った。

ぼやき

 岸田首相が側近に対して「誰が国葬にしようなんて言いだしたのだ」とぼやいたと、ネットのニュースで読んだ。本当かどうかわからない。いかにもありそうなことだし、憶測だけの記事にも思える。事実なら、昨日私がブログに書いたとおりの岸田首相の本心のように思えたりする。

 

 なんだか国会は国葬の費用のことでもめているようだ。国葬の是非は置いておいても、今どき大会社の創業者の社葬だってそこそこ費用をかける。衰えたりとはいえまだ曲がりなりにもGDP三位の経済大国である日本が行う国葬の費用が、故人の葬儀と比較して高いと喚いているとしか思えない議論は見ていて情けない。口角泡を飛ばすような話だと本気で思っているのだろうか。相手が弱いとみるとよってたかってかさにかかるのは見ていて醜い。

 

 戦前、政争に明け暮れる政党の愚かさの虚を突いて軍部が政治に介入し、それに対して政党は抵抗らしい抵抗を見せずに尻尾を巻いて降参した。いま、もしそのような強権の旗印を掲げる者があらわれたら、ひとたまりもないだろう。最も吠える者が、真っ先に尻尾を巻くのはよく見られる図で、そうなる様子が見えるようだ。たまたまいまはそういう勢力はいないが、あしたはわからない。マスコミに他愛もなく意見を振り回されるくらいなら、ナチスのゲッペルス(最近ドキュメントで見たばかりなので引き合いに出した)のように巧妙な宣伝工作をされれば、簡単に乗せられるだろう。大衆とはそういうものだ。大衆のひとりである私だってわからない。だから疑う。おかしいな、と思ったら、疑わないとあぶない。

円安

 ドルに対してだけでなく、ユーロに対しても、さらに中国の元に対しても大幅な円安となってきた。円の国際的な価値が下がっているということだ。各国が次々に物価高対策として利率を上げているのに、日本は金融緩和をつづけていることが原因だという。

 

 不思議なことに、金融緩和をつづけている日本の消費者物価の上昇率は、世界に対してたいへん低い。世界は5%以上どころか10%を超えているところも多いのに、日本は3%弱程度だったかと思う。インフレの心配がないなら利率を上げる必要もないのか。

 

 円安の時代と円高の時代、1ドルが140円以上だったときと80円以下だったときに海外に行ったことがあって、その価値の違いを実感したことがある。いま海外に出た人はそれを痛感していることだろう。

 

 私などは1ドル360円の固定相場時代を記憶しているから、1ドルが142円と聞いて、そんなものかと思うが、よく考えれば貨幣価値というのはその国の実力でもあるのだと思い直す。貨幣価値というのはその国の信用価値みたいなところがあるとも感じている。つまり、いまは日本そのものの値打ちが低下しているのであり、信用が低下しているのだということだと感じるのである。

 

 昨日は岸田首相をこき下ろしたが、彼が日本の信用を下げた効果がその円安に大いに寄与しているのだろうなあと思い当たったりしている。

 

 それにしても日本の物価上昇率が低いことが不思議で、その理由を考えている。多少は自分なりにわかったつもりでいるが、そのことは機会があればこのブログに書こうと思っている。

2022年9月 6日 (火)

映画『ファーザー』

 この映画で主演のアンソニー・ホプキンスは二度目のアカデミー賞主演男優賞(2020)を受賞している(一度目は『羊たちの沈黙』) 。認知症の父親(アンソニー・ホプキンス)に認識されている世界が描かれていて、見ている私自身がその主人公になってしまったような異様な感覚に陥る。認知症というのはこんな風に世界を見ているのだろうか。それぞれ人によって違うのだろうが、その混乱、苦痛は他人事に思えない。

 

 自分のいる場所についての認識が混乱する。現実と妄想が入り乱れて混乱する。時間が混乱して前後する。自分の知覚が正しいとしたら、世界の方が間違っていると考えてしまう。娘という唯一の現実とのつなぎ目で辛うじて踏みとどまっているのに、その娘も遠く離れて行かざるを得ない事態になる。もう一人いた、すでに死んだ娘の妹が生きていると思い込んでいるのは、死が受け入れられないからだろう。さまざまなことが断片化し、くり返され、変形して行く。統合されていたさまざまな関係が分裂していく。

 

 娘役のオリヴィア・コールマンに見覚えがあるが、どこで見たのか思い出せない。調べたら『ブロード・チャーチ 殺意の町』というイギリスのミステリードラマだった。

 

 この映画が認知症を扱っていることで、インパクトが強すぎる予感がして、見るのを逡巡していたのだけれど、思いきって見ることにした。認知症に自分がなってしまったら、という恐怖を感じさせられた。記憶に残る映画だ。

風を受け、空を眺める

 ベランダの前に座りこみ、風を受けながら空を眺めていた。南から強めの風が吹きぬける。南側には隣のマンションがあるが、そちらは八階建てなので、五階のこちらからは物干し越しに空を眺めることが出来る。雲が足早に行き過ぎ、ときどき黒雲がおおうが、それもたちまち去って行く。よく見ると雲は東南の方向から北西の方向に流れている。天気図で見た風の方向通りだ。普通はたいてい西から東だから、いつもと違う動きだ。

 

 買い出しに行こうか散歩でもしようか、などと思いながらぼんやり風に当たっている。何もしていないなあ、と意識しながら何もしないでいるのは案外贅沢である。世の中、なるようにしかならないし、自分のこれからなんてもうジタバタしても始まらない。ネジが完全にゆるんでいる。まき直すのはもう少し後でも好いかなあ、などと思う。

気持ちがなければ

 安倍元首相が凶弾に倒れたとき、世界から次々に弔意が寄せられ、国家として喪に服したという国すらあった。安倍元首相がそれだけ世界に一目置かれる存在だったということだろう。他国にういう反応を引き起こした日本の宰相が他にいただろうか。

 

その様子を見て、岸田首相は早々に国葬を行うことを決めた。その時点では国葬に賛成する人の方が多かった。どうしてそれがどんどん国葬反対に転じる人が増えていったのだろうか。マスコミや野党が国葬について反対を大合唱しているからだ、という見立ては、原因というよりも結果のような気がしている。

 

 どういうことかというと、そもそも国葬は弔意の表れであるべきだという当たり前の国民感情が根底にあるからだと思う。岸田首相は安倍元首相の継承をもくろんでいる。弔問外交で外交面の脚光を期待し、国葬で国民の支持を確保することを期待した。しかしそれはすべて安倍元首相にたいする心の底からの敬意と弔意があって意味を持つ。実力以上の継承を期待するためにはそれが不可欠だ。

 

 ところが岸田首相にはそういう敬意や弔意が希薄らしいと日本国民はもちろん、海外も気がつき始めてしまった。計算で行う国葬らしいぞ、自分の政権のために国葬を強行するらしいぞ、と感じ始めてしまった。だからマスコミはその気配を察して国葬反対キャンペーンを張り始めた面があるのではないか。

 

 日本国民が国葬に批判的であるのに各国が弔問に積極的にやってくるはずがない。それが証拠に国葬参加の是非を問うても返事のない国ばかりだという。参加すると言っていたのに元首が参加を取りやめた国もある。

 

 岸田首相は国葬について丁寧に説明するという。丁寧とは何か。見透かされてしまった後にいくら丁寧な説明をされても人の心はもう動かない。そもそも岸田首相自身の弔意そのものが疑われていては、何を言っても事態は変わりようがない。雪隠詰めである。彼の命取りになりつつある。自業自得であろう。首相の器ではないということだろう。

 

 何しろ弔意の気持ちがなくても弔意があるように見せるほどの芸もないのだから嘘つきではない、善い人かもしれないが、政治家としては資質に欠けるということなのだろう。もし岸田首相に安倍元首相への敬意と弔意が山ほどあるとしたら、私の見立ては大間違いだが、しかしそれならそれを感じさせないのはどういうわけだろう、岸田首相とはどういう政治家なのだろう。

2022年9月 5日 (月)

汗をかく

 膝から下がむくむと体調が悪くなる。というより体調が悪化すると足がむくむのだろうか。尿の色が濃くなり、汚く濁る。先般の二泊三日の小旅行の前からむくみ始めていたのが、つい旅先で飲み過ぎたりしたら今までになくひどくなっていた。多少おさまっていたのがそこから引かないばかりか、むくんだまま体重も増えてしまった。

 

 今日は好天で、しかも風が吹いている。暑いけれど気持ちが好い。足は重いけれど、無理をして炎天下にタオル片手に散歩に出た。膝はギシギシ言うし、腰のちょうつがいもなんとなくバランスが悪くて痛む。歩き出してしばらくすればたいてい気にならなくなっていくものだが、今日はずっと不調だ。三十分あまりのショートカットコースだけで汗もどんどん出始めたので帰る。

 

 ざっとシャワーを浴びて下着を換えたらさっぱりしたし、体重も1.5キロほど落ちていた。すぐ水分を補充してしまうから正味が落ちることはないが、くり返しているうちに少しは改善されるだろう。肝心のむくみははっきりと減っている。ふくらはぎは第二の膀胱だそうである。その第二の膀胱からの排泄が出来ない体質なのだ。だからビールを飲んでもあまりトイレが近くならない。こうしてときどき排泄を促して楽にしてやらなければならない。

 

 だらだらと書いたこんなことを読んでいただいて恐縮である。せっかくだから、今晩はビールを飲むのは控えよう。

生きている意味

 NHKの『モモさんと七人のパパゲーノ』というドラマを少し前に録画していたのでそれを見た。予想していたものとは全く違うものだった。パパゲーノとは「死にたい気持ちを抱えながら、その人なりの理由や考え方から死ぬ以外の生き方を選択している人」ということだそうで、自殺願望の人がそういう人の生き方を知ることは自殺を思いとどまらせる効果があるそうだ。このドラマの放映にはそういう狙いも含まれている。

 

 人に語れるほどの「生きがい」を持って生きている人というのは、それほど多くないのかもしれない。いったいおれは、私はどうして生きているのだろう、生きている意味は何だろう、生きている値打ちって何だと内心に思っている人は案外多いのかもしれない。そういう心の隙間に自殺願望は入り込むのだろう。絆、などとことさらに言い立てるのは、絆が失われているからに他ならない。個人の絶対化によって、家族の崩壊、地域社会、会社社会の崩壊が進んでいる。特に都会では甚だしい。少子化は、経済よりもそちらの方が主な原因かもしれないとさえ思う。

 

 結婚や子育てなんて、私の楽しみや気楽さを、つまり「自由」を侵害するものでしかないから、個人にとって煩わしさそのものだと考える若者が増えている気がする。そうしてふと気がつくと、自分は何のために生きているのかわからなくなる。生まれてきたのだから生きていくのは当たり前だ、ということが本当かどうかわからなくなる。して善いことと悪いことの違いも見えなくなる。悪くすると自分の命を軽んじるようになり、自分の命が軽いくらいなら、他者の命などさらに軽く見えたりするかもしれない。

 

 ドラマでは生きることに意味を見いだして元気よく一歩踏み出す、というような展開はないが、世の中には心を配るべき他者がいるということに気がつくというささやかな進展はある。ドラマを見た人が、自分だけではないのだ、という思いを持つ可能性はあるだろう。モモさんの旅は他者を見つける旅である。その他者が自分のひとり旅に介入しかけたとき、彼女は相手を傷つけるような言葉を発する。そのことを深く後悔する。相手に謝罪する。彼女はこうして他者を発見した。現実には他者は常に存在しているが、それが認識できなければ存在しないのと一緒である。そして他者の存在しない自分の世界というのはそもそも世界ではない。ただの原点だけがある空虚に近い世界だ。他者との関係で世界は構成されているからだ。「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。」というキルケゴールの言葉は私の世界認識の基準で、ここにも真理が見えている。

 

 私は本気で死にたいと思ったことはないが、歳とともに、生きることと死ぬこととの境目がそれほど分厚く遠いものでもないらしいと感じ始めている。ついにはそれが薄っぺらくなって、らくらくと踏み越えられるようになれば、生死を超越してますます生きやすく、だからこそ死にやすくなるような気がしている。

眼が覚める

 十年ほど前から眠れなかったり、眠れても夜中に眼が覚めてそこから眠れなくなったりすることがしばしばになった。理由は精神的なストレスのある出来事が長く続いたからで、そのことはその時期に泣き言としてこのブログに書いた。そのことはなるようにしかならず、いまは気持ちのけじめがついているつもりなのだが、眠りのリズムの崩れは消えなくなってしまった。

 

 その出来事はリタイアしてからのことなので、私をよく知る家族や身内、交友した多くの人は、私の超人的とも言える瞬時の入眠、熟睡、目覚めのみごとさをよく知るから、私が眠れない、などと言っても信じられないだろうと思う。機械のスイッチを切るように眠り、スイッチが入るように起きた。起きたらすぐにエネルギー全開だった。どんな疲れも翌朝には雲散霧消して、今日もガンバロウ、と思うことが出来た。

 

 だから気持ちにいささか弱さのあるこの私が、営業というストレスのある仕事をなんとかこなしつづけることが出来たのだろう。一時期ではあったが、中国に一人で出張して走り回るなどということが出来たのもそのおかげで、いま思い返しても夢のようである。仕事中の自分を仮面をかぶった他者として生きるというストレスの回避法も有効だった。その魔法も切れだし、六十五まで勤めずに、六十で退職したのはそういう自分の限界を意識し始めていたし、やりたいことも山のようにあったからだ。

 

 いま、そのやりたい山のようなことを好きなだけ出来るようになった中で、眠りのリズムの乱れが自分を心身共に蝕ばんでいるような気がしている。だから気分転嫁の試みをくり返し、そのことで救われたり疲れたりしている。これは私だけに起きていることではなく、リタイアした後の、メリハリのない生活による、誰にでもあり得るものなのかもしれない。仕事というのは生きるために必要なものなのだろう。私と同年の親友は、いまだに働き、社会とのつながりを大事にしている。正しい生き方をしている。

 

 昨晩も夜中に起きたら眠れなくなり、手元にあった山口瞳の短編集の文庫本を拡げて何編が読み、そのことについて考えていた。明け方ようやく眠って、いま眼が覚めた。

2022年9月 4日 (日)

おぞましい

 これはあくまで私の見方であって、真偽を証明せよ、などと噛みつかれると困るのだが(ときどきそういうクレームがつく)、人は弱みがあるとかえって威丈高になるものだ。かくいう私もそうだから他ばかりを非難しようというわけではない。

 

 朝日新聞は戦時中に戦意高揚に努めた。そういう時代だったのだからそれを全否定しても仕方がないが、戦況や国際関係の状態について、国民よりも知りながら、それを隠して戦意高揚に努めたということについては誰よりも反省と謝罪を述べなければならない立場にあったと思う。しかし戦争は軍部や政治家が悪かったと言うのみで自己反省をした様子が見られない。そう見える言葉があったとしても、国民全体の問題として語っていたように思う。

 

 だからこその朝日新聞の戦後のさまざまな論調は、まさに戦時中の裏返しの様相を呈しているのではないか。従軍慰安婦問題、憲法改正反対、軍備増強反対などの論調がいささか過剰かつ執拗に見えるのは、やましさの裏返しなのではないか。くり返す、朝日新聞に確認したってそうだとは言うはずがないし、そんな自覚もないだろうから、証明を求められても出来ない。あくまで私はそう感じていると言うだけのことである。

 

 いまの旧統一教会に対する批判非難の洪水を見ていると、こんな事実が山のようにあって、もちろんマスコミはそんな情報を山のように抱えていたはずで、しかしそれを取り立てて報ずることはなかった。政権与党に配慮していたのだろうか。そういう面もなかったわけではないだろう。しかしそれよりほとんど宗教にタッチしないという自主規制だったろうと思う。問題を認識しながら、しかも事実を知りながら知らんふりをしていたのである。安倍元首相暗殺というテロ行為が生じたために、その箍(たが)がはずれて、いままでのやましさの反動から一斉に過剰に批判非難があふれ出している。

 

 似たようなことをやっているな、というのが私の印象である。死んだ人間が二重に殺されるのは、いつも見せられる図である。死者に喰らいつきながら死者を呪う。げにマスコミのおぞましさよ。

振る舞い

 岩波国語辞典によれば、「振る舞い」とは、動作をすること、挙動、仕業のこととある。別に饗応という意味もあるが、ここではそれは置いておく。

 

 高野悦子『黒竜江への旅』からの引用(P153)

 

「一九四五年八月九日、ソ連軍は国境を越えて旧満州に進軍する。怒濤の勢いで全満を制覇したあと、八月十八日にはソ連軍の野戦鉄道司令官が奉天のヤマトホテルに入り、参謀は奉天駅の駅長室で執務を開始した。二十日には奉天駅前で関東軍の武装解除が行われた。
 天皇の詔勅からの五日間は、まるで空白の時間であった。ソ連軍が来たらどうなるのだろうかと恐れながらも、町には長い戦争から解放された自由な空気がただよい、人びとは防空カーテンをはずし、電灯をつけ、女性たちは平常の服装にもどった。
 父は奉天に残った独身幹部たちと一緒に、商阜地の満鉄総裁公邸に住んでいた。しかし日本軍の武装解除を境に、ソ連兵、中国人による略奪が始まった。とくにソ連兵の婦女暴行はすさまじかった。日本人の抵抗をみこんで、ロシアでもいちばん気の荒い囚人部隊を尖兵として送りこんだからである。女性や子供は屋根裏や床下にひそみ、私の女学校の友人たちは、頭を刈り男装し青酸カリをふところに入れていた。」

 

 危険なところには囚人部隊を尖兵として送りこみ、婦女暴行、略奪の限りを尽くす、というロシア兵の「振る舞い」は、ウクライナの惨状を見る限り、昔も今も変わらないのだということがよくわかる。日本がロシアを恐れたのには理由がある。恐れているのは日本だけではない。なにより、ロシアはそれを悪いことだと認識していないこと、そのことこそが恐ろしいのだ。

符合

 ユングではないけれど、しばしば偶然を超えた符合を感じることがある。それは符合することを見つけようとする傾向が人間にあるからかもしれないとも思うし、私にはその傾向がやや強いのかもしれないとも思う。

 

 高野悦子(1929-2013)の『黒竜江への旅』という本をひと月ほど前から読み始めて、ようやく半分近くまで読み進めたところだ。高野悦子氏は岩波ホール支配人として娯楽を越えたすぐれた映画を紹介しつづけた。彼女は満州生まれで、女学生だった終戦の年の五月に、父の故郷のふるさとであったいまの黒部市に疎開する。

 

 ああ、富山だ、黒部だと私は思うのである。それだけのことだけれど。

 

 彼女の父は、満鉄の技術部門のトップとして満鉄を拡充維持管理に努め、そして敗戦後は撤収と引き継ぎのために命がけで奔走した。この本は自分の家族、生まれ育った満州のこと、そして再び満州を訪ねてたくさんの人との出会いを経験したことが詳細に、高い濃度で記されている。一日数ページずつ、味わいながら読んでいるので、たぶん読了するのにあとひと月以上かかると思う。とにかくこういう時代もあったのだ、ということを知っておいても好いのではないかと思う。

 

 次回には、その中からほんの一部を引用したいと思っている。本の内容というよりウクライナと関連してのソビエト、つまりロシアについての感想だ。

2022年9月 3日 (土)

読了

 宮本輝の『田園発 港行き自転車』上下巻(集英社)をいま読了した。変な大団円にしないで、軽やかな終わりにしていることに改めて納得している。そんな風にしなくても大いに感激できる話に仕上がっているのだ。宮本輝は本当に読む人を好い気持ちにさせるストーリーテラーの名人だと思う。

 

 読んだら好い気持ちになり、世の中に希望を持ち、元気がもらえる小説を読みたかったらこれを読んだら良いだろう。でも二冊一気読みは再読とはいえさすがにくたびれた。

夢中で再読中

 宮本輝の『田園発 港行き自転車』上・下巻を読み直し始めたら夢中になってしまって、読みかけの本をすべて放り出して読んでいる。昨日は上巻の半分ほどを読み終えたところで眼がギブアップしたので打ち止めにして、午前中にようやく残りを読了した。午後には下巻を読む。

 

 宮本輝は、人の縁というもの、不思議な関係の連鎖というものを描くのが巧みで、ついその世界にはまってしまう。登場人物について、こんな好い人いないよ、と批判する人もいるかもしれないが、私は営業という仕事をしてきたのでいろいろ嫌な人とも付き合うこともあったけれど、人が思うほど嫌な人というのは少なくて、好い人の方が圧倒的に多い。嫌な人が目立つからそういう人ばかりに見えるのであって、好い人は目立たないから少なく感じて悲観的になるだけなのだ。

 

 この本は2015年にたぶん店頭に出てすぐに購入して読んだ。それを今度訪れた富山や魚津、黒部が舞台だということで読み直したのだが、初読と同様かそれ以上に感動しながら読んでいる。各地名が自分の走り回ったところであり、そして走り回ろうと思っていたところなので、臨場感があるのだ。

原理主義

 厳密な用語としての原理主義について語れるほどの知識はないけれど、私は原理主義的な言動については嫌悪している。昨日のプライムニュースで、浅田彰が旧統一教会が原理主義を出発点としていると発言していて、いろいろなことが自分の中でつながった。

 

 古い話だが、私が高校生だったか大学生のころに原理主義という言葉を知ったのは原理主義を掲げて統一教会布教をしているのを千葉の駅前で見たのが最初だった。母親が宗教、とくに因果応報を理由に布教活動をするような宗教を毛嫌いしていたので、新興宗教には私も不信を抱いていた。だからそのとき原理主義と新興宗教が表裏として認識された。しかしその説得力に影響されること、オウム真理教以上だったという記憶がある。それが私にはこわかった。

 

 イスラム原理主義といえば、それを手がかりにしてたいていの人が原理主義とはどういうものか似たような思いを抱くだろう。いまのアフガニスタンのタリバンによる原理主義を見れば誰にでもわかる。しかし浅田彰も言っていたが、いまのアメリカの共和党が原理主義的になっていることは明白なのに誰もそれを論じない。トランプを生んだのはそういう土壌だろう。中絶の是非について、いまの時代に禁止を打ち出すなど、まさに宗教的な正義に基づくもので、禁酒法と同様のものではないか。

 

 正義と宗教が原理主義的に語られ出すと、社会は戦前の日本のようなテロリズムを生み出すおそれがあると先崎彰容氏が語っていた。全くその通りで、いまのマスコミの論調はそのような原理主義的な様相を呈しつつあるような気がしてしまう。原理主義を批判しながら原理主義的に行動しているようにしか見えない。そもそもネット社会とはそのような社会に陥りやすい面があるのだという指摘はその通りだと思う。私がしばしば正義の味方を揶揄し、嫌うのはそういう意味での正義だからだ。話せばわかると言いながら問答無用というところがある。自分の聞きたい意見でなければ、もう聞く耳など持たない。

 

 それにしても岸田首相という人は、そういう日本社会の危機に対しての感性の全くない政治家のように見える。このごろ、何をするにも不手際だらけで、国民をどんどん不安に追いやっているように見える。国葬についての言動をはじめとして、その場限りの言い訳を積み重ねるばかりで、混乱が増すばかりだ。ともかく臨時国会を開かずに逃げてばかりいるようにしか国民に思われていない。残念ながら国際的にも信用されないし、とうぜん敬意も表されることはないだろう。いったいなにをしたのか、何をしようとしているのか。

 

 自民党は大きく衰退してしまうだろう。政権は長くもたないのではないだろうか。そうなれば社会不安が増し、経済にも悪影響を与えることになり、生活はますます悪化していくことになるのではないかという、悲観的な予感がする。

2022年9月 2日 (金)

うなづき友学館

 黒部インターから宇奈月温泉に行く途中に道の駅・うなづきがあり、宇奈月麦酒館とうなづき友学館が併設されている。宇奈月友学館は黒部市図書館と、黒部市歴史民族資料館が同居している。温泉に向かうときに立ち寄ろうと思ったのだが、うなづき友学館は月曜日が定休日であった。ここには赤い愛本橋の縮小レプリカがある。この橋は日本三大奇橋とよばれる古い刎ね橋だった(現在は掛け替えられて刎ね橋ではない)のだが、その構造を見たかったのに残念であった。

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 マコママ様から、私の今回の富山行について、宮本輝の『田園発 港行き自転車』を連想し、行ってみたい、というコメントをいただいた。宮本輝はこども時代に父親が大阪にいられなくなる事情があって家族で富山に移り住んでいた時期がある。名作『螢川』も富山が舞台であることはご承知の通り。そして『田園発 港行き自転車』もそうである。そのことは念頭にあったのだけれど、友学館が休館だったので言及しなかった。

 

 宮本輝の本は半分以上読んできたけれど、大半を処分してしまった。いま思えばもったいないことをした。たまたま『田園発 港行き自転車』は探したらまだ残してあった。マコママ様のコメントでついページをめくり始めたら、やめられなくなった。再読して感激を再び味わっている。

 

 ところでマコママ様、レプリカは四分の一、と記憶していたのですが、二分の一らしいです。もちろん全体でなく一部のレプリカということのようです。訂正します。

いまお気に入りのドラマ

 NHKで放映中の『アストリッドとラファエル 文書係の事件簿』というドラマがとても面白い。自閉症でサヴァン症候群の警察の文書係アストリッドと、女警視のラファエルのコンビは、正反対の性格なのに、というかそれであるがゆえに、互いを補い合ってみごとに難事件を解決していく。サヴァン症候群の超記憶力にさらにアストリッドはそれらの中から関係を見つけだす能力に優れているのだ。名探偵の資質そのものではないか。

 

 ラファエルは乱暴で雑に見えるが、目的に向かって変に斟酌しないで突っ走るからそう見えるだけで、実は感性にすぐれていて、その判断には迷いも間違いもない。アストリッドの生きにくさがラファエルと触れ合うことで次第に緩和されているのを見ると、心が温かくなる。自閉症は社会との関係を持ちにくい症状だけれど、そこにささやかな窓が開いていくのだ。現実にそう上手くいくものかどうかわからないが、なんとなく希望を感じさせてくれる。

 

 何よりこのドラマが素晴らしいのは、アストリッドの声を貫地谷しほりが演じていて、独特の雰囲気を出すことに成功していることだ。彼女しかこの役はいないと絶賛したくなるほど素晴らしい。二人の関係が次第に深まることもこのドラマを観る楽しみでもあるので、できれば最初から見て欲しいところだ。たぶん必ず再放送があるので、見損なった人はそれをお見逃しなく。

 

 もうひとつ、『プリズム』というNHKのドラマも毎週楽しみに観ている。来週が確か最終回。LGBTもからんだ少し変わった恋愛ドラマだが、もともと好いと思ってはいたけれど、杉咲花という女優の魅力を本当に強く感じている。もともとは、脇役ででている森山未來という俳優が好きで、彼が出演するならと試しに見てみたら、はまってしまった。こちらも必ず再放送があるはずで、お勧め。

徐々に

 あれほど盛んに繁っていたベランダのバジルはすべて花が咲いて終わりを告げた。必要と思われるだけの種を採って、あとは引き抜くことにする。ニラも一斉につぼみをつけだした。もうすぐかわいい白い花が咲くだろう。これも種になったら少しだけ採っておこう。ニラは種を蒔かなくても、根さえ残っていればたぶん春にまた復活するはずだ。細ネギは細々と生き抜いて、必要最小限の薬味の供給をしてくれている。今度はいちからちゃんとした育て方をしようと考えている。

 

 春先に買った腐葉土が半分残っているし、土に混ぜる肥料もまだある。少し涼しくなったら、空いた鉢の土を篩って、残っている根などを取り除いて肥料を混ぜておこうと思う。排水溝には常にエアコンのドレイン水が供給されるので、こぼれ落ちた種が排水溝あたりで芽を出しているので、落ちた葉とともに取り除いた。ベランダには物干し竿やそれを支えるパイプなどがあって屈んだり、しゃがんだりしないといけない。それが膝や腰につらいが、それほど時間のかかる作業ではないし、昨朝から見ればずいぶんと楽になってきた。久しぶりの足のむくみも引き始めた。むくみが続くと泌尿器系の疾患と連動して害をなすので気をつけなければいけない。

 

 レコーダーにドキュメントやドラマなどの録画がたくさんたまっているので、昨日はそれをせっせと消化したが、見きれるものではない。それより眼が悲鳴を上げだした。霞むし、痛むしで、あきらめて本を読もうとしたら印字のコントラストが失われていて読めない。紙面が白いばかりなのだ。眼を休めて音楽を聴き、昨晩は早めに寝た。おおむねよく眠れた。

 

 朝、目薬を差した後に、熱い湯につけたタオルを軽く絞ってポリ袋に入れて眼にあててしばらくじっとしていた。心なしか視界が明るくなり、すっきりした気がする。

 

 徐々に自然も自分自身も秋モードに変わりつつあるようだ。

2022年9月 1日 (木)

トロッコ列車(3)帰り

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宇奈月から欅平まで片道約一時間二十分である。行きは景色を見ることと写真を撮ることに半々の傾注をした。トンネルが多いし、柱や電柱など、視界を邪魔するものが結構あるので、ゆっくり写真を撮れるところは案外少ない。その代わり、帰りは景色を見ることに重点を置いた。この鐘釣の駅ではちょっとしたスイッチバックを体験できる。

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鼠返しの断崖。オーバーハングした一枚岩だそうだ。往きでは撮れなかった。

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雲行きが怪しいな、と思った途端に雨が降り出した。座席の三分の一ほどが雨に濡れた。

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黒部川と合流して、川幅が広くなった。

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ダム湖。

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最後のダム湖。宇奈月ダムのダム湖だ。もう宇奈月は近い。

さいわい宇奈月ではほとんど雨は上がり、折りたたみの傘があったので濡れることはなかった。早めに宿に入り、湯につかって缶ビールを開けた。

これにてトロッコ列車の旅は終わり。

本日は防災の日。午前中は心身共になんとなく不調だったが、夕方になってようやく定常に戻った。引きこもりの日々を送っているので、久しぶりに遠出をすると、思った以上に疲労するようだ。次もなるべくゆとりのある行程で出かけようと思う。

ところで名神や東海北陸道など、我が家から遠出するときに使う周辺の高速道路がこれから軒並み集中工事になる。よくよく確認しないと無駄な時間を取りそうだ。出かけるな、ということか。

欅平(2)

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祖母谷川の河原まで降りる。階段の段差の深さは、やや深いとはいえそれほどのこともないのに、降りるごとに自分の重さの衝撃で膝が激しく痛む。杖があったら少し楽かもしれないなどと思う。父は九十過ぎても杖など必要としなかったし、母の足元が危ういからと、嫌がる母に私が無理に杖を持たせたのは八十を過ぎてからだった。その私がまだ七十二だというのに杖が欲しいと思ったのだ。とはいえ杖があると写真を撮るのに邪魔である。痛みは一時的なのか、これからずっとこんな風なのか。

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堰堤から落下する水が滝のようである。そばで見て初めてわかる。

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上を見上げれば、さっき渡った橋が見える。この高さを降りたということだ。

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アップにしたら橋の上の人の姿が見えた。

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足湯がある。若い人たちが入っていた。

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欅平の看板。滝はこんな風に見えている。

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少し引いて全体を撮せばこうなっている。

予約していた列車の時間までもう一時間あるが、猿谷峡谷まで歩く気力がなくなったので、駅に戻り、一つ前の列車に変更してもらった。我ながら情けない。

欅平(1)

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欅平の駅から階段を降りて川と橋を見下ろす。この川は黒部川の支流の祖母谷(ばばだに)川。

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駅正面に見える岩盤。

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さらに階段を降りて、まず祖母谷方向へ行く。橋のある方だ。

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ここには以前来たことがあるが、橋の向こう側まででその先は通行止めだった。この先、ここから15分ほどで名剣温泉、五十分ほどで祖母谷温泉に至る。

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橋から下流方向を見下ろす。曲がった左手先の方に猿谷峡谷があるはずである。

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川の流れは速い。

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こういう流れは美しくて見飽きない。

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橋を渡りきるとこのようなオーバーハングした場所を通る。以前通行止めだったのは、ここで落石があったから。

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反対側から見るとこうなっている。

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左上が欅平駅。少し先まで行ってから、引き返して河原近くまで降りることにする。そこからの景色は次回に。

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