人に歴史ありというけれど
私の愛用している岩波国語辞典(第二版・1971年発行・古い)によれば、『歴史』とは「人間社会が経てきた流動・変遷の姿。その記録。史書と同じ意味にも使い、また、史書が扱う事柄そのものをもさす」とある。人に歴史ありというけれど、個人の歴史は偉人やそれなりの著名人でもない限り、本来の『歴史』というべきほどのものではないようだ。
昨晩、父や母のことを考えたというのは、父や母の人生とはどんなものだったのか、自分はよく知らないということだった。母が、教師だった祖父といろいろな場所に転校したらしいことは断片的に聞いていた。その中の一つが新潟県の村上で、一緒に村上の街を歩いたけれど、母の記憶はあまり明確でなかった。小学生の何年生まで村上にいたのか、冬の村上を過ごした記憶はあるのか、それを聞きそびれた。何を一体話したというのだろう。
父が学生時代に友人と中国や満州やモンゴルを歩いたというけれど、どこをどういう経路で旅したのか、知らない。父が中国に渡り、満鉄系の会社に勤めたというけれど、なんという会社に勤めていたのか知らない。どんな仕事をしていたのか知らない。兵隊に取られて中国を転戦したのが、河北省や山西省だった、ということだけは晩年に聞いたけれど、具体的な場所を知らない。
父も母も、聞けば答えてくれたはずなのに、私は聞こうとしなかった。現にそこにいる父と母しか見えていなかった。史書に載るような人生ではなかったけれど、私にとっては史書と同格かそれ以上にだいじな歴史なのだと思うのに、その史書には何も記されていない。そしてそれは永遠に失われてしまった。
弟に、知っている限りの父と母の記憶を書いておいてくれ、といわれたことがある。書くことがないわけではないけれど、空白の多さに口惜しい思いをしている。
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