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2022年11月

2022年11月30日 (水)

スイッチング脳

 少し前に知った言葉だけれど、テレビで観たのかネットニュースで読んだのかも定かでないから、この言葉も正確ではないかもしれない。

 

 スマホの見すぎによる子供の脳への弊害についての話だった。時間の長いほど害がありそうなのは想像がつくことだが、持っているスマホのアプリの数の多いほど害が大きいというところが注意を引いた。多少時間が長くても単一のアプリしか持たない子供は比較的害を受けにくいが、多くのアプリを持ち、それらをとっかえひっかえ楽しんでいる子供に害が大きいというデータが報告されているのだそうだ。

 

 アプリを切り替えるたびにスイッチを切り替える必要がある。それをスイッチングといい、機械のスイッチをやたらに入れたり切ったりすることが機械を劣化させるように、脳にも障害をもたらすのではないかというのだ。

 

 いかにもなるほど、と思わせる話であるが、私は問題点は別にあるのではないかと考えた。いくつものやりたいこと、しなければならないことを抱えていると、人間は何かをしながら別のことが気になって集中できない。そこで別のものに切り替えるがまた同じことが起こる。そうして気持ちが散漫になり、集中することで達成される成果が得られずに不全感ばかりが蓄積する。それがストレスとなってさらに焦りを生み気が散りやすくなる。そういうことが子供の脳に大きく悪影響しているのではないだろうか。

 

 それは子供だけのことではないだろう。

 

 私が気になったのは、私の本の読み方である。同時並行して何冊かを読み、読み飽きると別の本にスイッチするという読み方をしている。一冊を読了するまで読み続けるということは少ない。まさにスイッチを頻繁に入れたり切ったりしていることになっていないか。ただ、さいわいなことに、私は本を読んでいるときはかなり集中している。時間も周りの音も全く気にならなくなってしまう。その集中が途切れたときに別の本に切り替えるという読み方をしている。まだ大丈夫、と思いながら、しかし、最近集中力が落ちて気が散りやすくなったという懸念も感じている。

戦時下に近いもの

 いま戦争下にあるのはウクライナという限定された地区だが、その影響によって事実上世界は新世界大戦の戦時下にあるといっていい。その自覚のある者と、そうでない者とがあるが、マスコミにいながらそれが理解できていないというお粗末な者もいる。

 

 インフレは政府の失政によるものだ、という政府批判の判断をする場合、本当にするべきことをしていないのか、それなりにしているけれど事態はそういう対策を超えているようだ、と見るかによって評価はずいぶんちがうだろう。民意はさまざまであってそれで好いというのが民主主義だ。

 

 ただ、それを判断する材料を適正に提供できるのが自由国家であり、マスコミの役割であろう。民衆は愚かだから、情報は国家が管理する方がいいと考える国もある。「ものの値段が上がるのは困ります」という庶民の声を繰り返し報じるニュースにどんな意味があるのか首を傾げる。ものの値段が上がって生活が楽になったと思う庶民がいるはずもなく、そういう庶民の声は事実であり、正しいけれど、不快感や不満をただ助長するだけだ。

 

 どうしてものの値段が上がっているのか、それを誇張ではなく理路整然と伝えるのがマスコミや政治の役割だろう。どうもそれが不十分であるようにしか見えない。どうしてそうするのか、ということの説明を最もおろそかにしている代表が岸田首相のように見えてしまう。人の意見を聞きます、説明責任を果たしなさい、などと繰り返しいうばかりで、「聞き置いた」で終わり、人に説明責任を求めながら自分は説明をする能力を欠いている、というのはまことに歯がゆい。

 

 話が逸れてしまったが、多くの国で民衆が現状に対する不満を政府にぶつけ、そのエネルギーを利用して、台頭する勢力が政権奪取に迫りつつある。ではかれらが現状打破のためのなにか得策があるのかといえば、そんなものはたいていない。あれば現状の政府が実行しているだろう。現状が疑似戦時下であること、そのことによってさまざまな問題が生じていること、その原因を正しく認識させること、そのことがマスコミと政治家の役目だと思うのだけれど、どうもそれが明確ではない。

 

 インフレや物不足はウクライナ戦争が終わらなければ終息しないだろう。サプライチェーンの寸断の弊害は互いの不信を残し、グローバリズムはしばらく、またはとうぶん復活しないかもしれない。ただただコストダウンを求めてきたことのリスクを世界は思い知った。安全安定のためには国家はなにを保持しなければならないかを学びつつある。少し前にも書いたけれど、第一次産業とそれに関連する企業がこれから見直しされるのではないかと思う。それが必要だからだ。

2022年11月29日 (火)

キャッスル・ロック

 先般、記憶に残る怖い話をいくつかこのブログに書いたが、スティーヴン・キングの『呪われた町』という小説を、最後まで読み切れなかった格別怖かった話として言及した。この呪われた町の名前がメイン州にある架空の街、キャッスル・ロックである。

 

 そのキャッスル・ロックを舞台にした全十回のテレビドラマ『キャッスル・ロック』で、観たさは観たし、怖さは怖しで、録画したまましまい込んでいたのだが、ブログに『呪われた町』のことを書いたらつい観始めてしまった。結論から言えば、それほど怖くなかった。

 

 このドラマはスティーブン・キングの小説をいろいろ関連させて新しい物語を構成しており、この町にあるショーシャンク刑務所や、キングの小説に時々登場する精神病院なども舞台になっている。なによりメインキャストの黒人弁護士の養母をシシー・スペイセクが演じているではないか。シシー・スペイセクといえばやはりキングの傑作『キャリー』の映画化版の主人公役だった。ラストシーンの怖さは忘れられない。

 

 ショーシャンク刑務所といえば、あのティム・ロビンス主演、モーガン・フリーマン共演の『ショーシャンクの空に』の舞台である。この小説ももちろんスティーヴン・キングなのである。そのショーシャンク刑務所の所長が定年退職の日に奇妙なしかたで自殺し、そのあと使われていなかった棟の地下室で身元不明の青年が発見される、というところから物語が始められる。

 

 キャッスル・ロックに関連している作品は初期の『デッド・ゾーン』、さらに『クージョ』や『スタンド・バイ・ミー』も含まれる。そのオマージュも各所に散りばめられている。次々に起きる災厄の数々、身元不明の青年の正体は・・・、そして町を離れていた主人公の黒人の弁護士はどうして呼び戻されたのか。彼の過去にも秘密があった。

 

 説明落ちになりかけながら宙ぶらりんのままドラマは終わるけれど、それは物語の性質上当然とも言える。そして『キャッスル・ロック2』全十回も控えているのだ。こちらは『ミザリー』(映画はキャシー・ベイツが演じていた)の主人公らしき女性がメインキャストで登場するようで、しかもティム・ロビンスも共演するのである。続けて観ようかどうしようか。変な夢を見そうだなあ。

懐古趣味か

 新聞を毎日読むようになったのは小学校の五年生くらいになったころだろうか。読むのは社会面、いわゆる三面記事だった。事件や事故の話が多いけれど、それでも多少は世の中についての窓になっていたように思う。新聞が読めたのは漢字が読めたからで、小さいときから本好きで漢字になじみ、読めなくてもなんとなく意味が通じたし、読みをうるさく聞くので、父が子供向けの辞書を買ってくれたこともありがたかった。

 

 戦前は新聞でも本でもルビ、つまりふりがなが振ってあったから、むつかしい漢字でも読むのに困らないし、ひとりでに文字を覚えることが出来た。戦後はルビをつけない代わりに易しい漢字しか使わなくなった。漢字好きの私としてはルビがある方がいいと思うが、ルビが復活する気配はなく、おかしなかな漢字まぜこぜ熟語が横行している。あんなものは奇っ怪なだけで熟語ではない。

 

 臼井吉見集を引き続き読んでいて、いま『戦後という時代』という、戦後1960年前後にいろいろな雑誌に書いた政治、社会時評、コラムのような文章を集めたものを読みながら、その時代を思っている。私は1950年生まれだから、ここに取り上げられた安保闘争、松川事件裁判、砂川闘争、内灘騒動、旭が丘中学騒動等々は、あまりまだ記憶に残るほどに成長していなかったけれど、雰囲気はよくわかる。社会党の浅沼委員長が刺殺された事件だけは明白に記憶している。

 

 その時代の空気の中にいたはずなのにその記憶がない時代を疑似追体験しながら、はたしてこれは懐古趣味なのではないか、などとも感じている。

 

 昔だって政治に無関心な若者が多かったけれど、いまほど無知な人が多くはなかったように思う。それとも、それは単にむかしはよかった、という過去を美化した年寄りのいつもの繰り言なのだろうか。

2022年11月28日 (月)

点検

 東海地区は夜から雨の予報だが、今すぐ降り出してもおかしくないほどどんよりと暗い曇り空だ。

 

 昼前に車の定期点検があるのでディーラーまで出かけている。今のところどこも不具合はなく、快調だ。昔のように九州から青森まで走り回っていたときと違い、事故で廃車になった車から新しくして一年半で、走行距離はまだ一万五千キロほど。むかしは年に二万キロ以上走っていた。

 

 二週間後の糖尿病検診が済んだら、ひさしぶりに泊まりで出かけようかと思っている。ひさしぶりでもないか。それまでは近場をいくつか予定している。まずは、ひさしぶりに芭蕉の『奥の細道』の旅の終点の大垣あたりに行こうと思っているが、天気がしばらく悪いし、だいぶ寒くなりそうだ。どうしようかな。

集団が力を持つためには

 コスタリカ戦は残念なことであった。これで日本の決勝進出が非常に困難になった。スペイン戦での奇跡に期待するしかなさそうだ。一度あったことはまたあるとも言えるし、奇跡はめったにないから奇跡だとも言える。

 

 コロナワクチン接種の副反応はほぼ消滅した。それにしても、これから来年も次々にワクチン接種をつづけなければならないのかどうか、悩ましいところだ。

 

 その新型コロナ感染に対し、中国習近平政府は強力で強引なゼロコロナ対策をつづけている。感染規模はまだ大きいとは言えないが収束せずに拡大しているようである。主要都市でのゼロコロナ政策批判の抗議行動が起きていると報じられている。主要都市以外にも拡大しているのかどうかは報道がないのでわからない。中国人は一度火がつくとエスカレートするように思う。限度を超えると止めようがなくなるおそれを習近平はどう見て、どういう手を打ってくるだろうか。

 

 今のところ群衆に対してあまり極端な弾圧を加えているようには見えない。いざとなれば銃撃も辞さないのが中国政府だから、自重しているといっていいだろう。不満を吐き出させる方がいまは得策という判断かもしれない。それと同時に不満分子たちを虎視眈々と狙っていて、情報収集に努めてもいるのだろう。

 

 群衆がいくら騒いでも、リーダーがいなければ大きな力にはならない。烏合の衆である。いざとなれば過激な行動をしている者を徹底的に叩けば、それでたちまちちりぢりになってしまうだろう。天安門事件は共産党にそれを経験として持っている。それぞれの騒乱を糾合するリーダーが判明すれば、まずそこに力を集中して叩くだろう。だからどんなに巨大な群衆でも、リーダーがいなければ恐れるに足らない。 

 

 東欧やアラブなどの群衆による政権転覆がなにをもたらしたか、中国政府はよく承知している。しっかりとしたリーダーのない転覆は混乱しか生まなかった。その結果は独裁政権を生んだケースが多い。すでに中国はそういう政治体制である。群衆は力とならないような気がする。

 

 ただし、中国経済の悪化が加速したら、事態は別の局面を迎えるだろう。その兆候がないではない。

2022年11月27日 (日)

賃金と雇用

 雇用形態にはジョブ型とスキル型があるそうだ。ジョブ型は終身雇用など、雇用保持を優先するもので、スキル型は能力主義、実力主義という分け方だ。アメリカなどはスキル型で、日本はジョブ型といっていい。もちろん日本ではどちらかということではなくて、会社によってその割合にかなりの幅があると思われる。

 

 しかし日本ではアメリカのように会社側が雇用を自由に打ち切ることが法律的に出来ない。首を切るにはかなりの要件が必要だ。長いことそうしてきたから雇用側も被雇用者側もそれがあたりまえだという観念が染みついている。だから組合も雇用を維持するために賃金の要求が限定的になることを受け入れてきた。雇用も守れ、賃金も上げろ、という韓国の労働組合の要求を見るとびっくりしたりするのは、あれもこれも、というのは虫がいいと考えるからだろう。

 

 こうして日本の賃金はずっとあまり上がらないまま推移してきた。いま、企業を活性化するには日本もスキル型に転じなければならない、それでなければ賃金は上げられない仕上がらない、という若い経営者や学者がマスコミで持論を展開している。そのためにももっと首を自由に切れるようにしなければならないのだと主張する。日本の企業は働きの悪い者まで抱え込んで、しかも能力のある頑張っている人との給料差を少なくして平均化しているから、非効率で市場競争に負けるのだという。

 

 たしかにその通りかもしれない。しかし世の中は、そのあまりスキルが人並み優れていない大多数の人で成り立っているということを忘れてはならない。そしてそういう人をどうやって食べさせていくか、というのが政治の役割でもあり、経済活動の目的でもある。

 

 トランプがあのように脚光を浴び、支持されたのは、実力主義のアメリカで、その実力のない大多数の人びとが生きにくいと実感したことの反映ではないかと思ったりする。だからといってみんなが競争もしないで仲良く平和に、というのではみんなが貧しくなってしまう。そのバランスの置き所なのだろう。デジタル化、AI化によって多くの人が将来雇用を失う可能性がある。スキル型の世界で生きることの出来ない人間たちだ。その人たちに生きるすべを提供できる仕事のあり方とはどんなものなのか。そういうものを考える必要があると思う。

 

 イノベーションを生み出す産業ではなく、社会を支える産業にこそ未来があるのではないか。そこに価値があるという社会的な価値感の転換が出来るかどうかが鍵だろう。

映画『のんちゃんのり弁』

 2009年日本映画。

 

 母親が幼稚園児の一人娘のお弁当を手際よく作っている。子供のためのお弁当を作っているときの母親は、子供がそれを食べたときのことを想像するはずで、だから優しい顔になる、というのはたいていの人が思い込んでいることで、しかし冒頭のシーンの母親の表情は思い詰めたような硬いものであることでただならぬ事態であることを予感させる。

 

 手荷物を二つ抱え、お弁当を入れたリュックサックを娘に背負わせた母親は子供の手を引いて朝の街を歩いて行く。出て行く母子の横でいぎたなく眠る男の姿がチラリと見える。

 

 この前に観た『毎日かあさん』につづいて、ぐうたら亭主に振り回されながら生きる子持ち女の戦いを描いた映画なのであった。ただ、『毎日かあさん』が漫画という自立するための能力をもっていたのに対して、こちらの母親は、何一つ人に優れたものを持ち合わせていない。

 

 そんな母親役を小西真奈美が演じていて、大丈夫か?とハラハラすることになる。のんちゃんとは娘の愛称である。小西真奈美は名女優ではないが魅力的だ。作品としてはどうということはなく、料理に目覚めた主人公が弁当屋として自立するまでの悪戦苦闘を描いたもので、最後まで楽しめたのは彼女の魅力によるものだろう。それに脇役の倍賞美津子や岸部一徳のサポートがいいからだろう。人生の厳しさとけじめについて脱力的に、しかしぴしりと言ってのける岸部一徳ははまり役だった。私もこういう大人の男になりたかった。

 

 この映画とは関係ないが、『ノンちゃん雲に乗る』という映画を子どものときに見たことを思い出した。ストーリーはよく覚えていないが、主演のノンちゃんを演じていた鰐淵晴子が可愛かったことだけはよく覚えている。

副反応

 利き腕ではない方がいいですね、左腕でいいですか、と医師に訊かれて左腕を出した。

 

 箸を使うのと字を書くのは右手、はさみとスプーンは左右どちらも使う。包丁も彫刻刀ものこぎりも缶切りも左手しか使えない。生卵も左手でしか割れない。生活にだいじなのはどちらかなあ、などと思ったときにはワクチン注射は終わっていた。

 

 夜九時過ぎになって左腕が痛くなってきた。覚えのある痛みだし、それほど強いものではない。十時過ぎに蒲団に入った。節々に鈍痛があるが、発熱はしていないようだ。眠れないのでペギー・リーのアルバムなどを低めの音量で聴く。いつものようにショパンのピアノ曲にしたら好かったかなあ、などと思っているうちに寝ていた。

 

 夜中に喉が渇いて起きる。少し寝汗をかいたので下着を替え、水を飲んでから自分の身体を点検する。腕の痛みはあるが、熱はないようだ。喉と鼻腔の粘膜に少し違和感があるが、たいしたことはない。さいわいすぐまた眠りにつくことが出来た。

 

 先ほど起きて再点検したが、副反応は軽減しているような気がする。腕だけまだ痛い。今日一日はおとなしくしていよう。といってもどうせなにもしないのだからいつもと同じだけれど。

2022年11月26日 (土)

あんな風になるのか

 午後、ワクチン接種の受付時間より十分ほど早く病院に着いたが、すぐ受付してもらえた。接種に来ている人の大半はお年寄りである。私だって七十を過ぎているのだかられっきとしたお年寄りだが、もっと年上が多い。何時の予約ですか、などと訊かれても自分の予約時間のわからない人がいたりする。肩掛けの小さな鞄から必要な書類を出すのに手元がおぼつかなくてもたもたする人、記入すべき書類に記入して来ていない人、とんでもなく早く来ている人など、かなり高齢の人たちの老人ホームにいるみたいだ。受付の人もたいへんである。私もまもなくあんな風になるのだろうか。

 

 私はもう五回目で手順はわかっているから、すいすいと接種の場所へ進む。待機時間を過ぎてすぐ帰路につく。このごろ散歩をサボっているので、片道20分弱の病院の往復がいつもよりちょっと遠く感じた。汗をかいたので下着を着替えてから紅茶を入れ、リンゴをむいてひと息入れる。さあ、今回のオミクロン対応のワクチンの副反応はどうだろうか。蒲団乾燥機で蒲団を温め、早めに寝る準備をしておくことにしよう。熱冷ましもアイスノンもすぐ出せるようにしてある。あとは汗拭きタオルと着替えか。

 

何かが見えた

 このところ夢見が悪い。夢見が悪いときは体調が悪いことが多いのだが、体温も正常だし特に不調なところはない。今朝の夢は、世界は破滅に向かいつつあり、不安に怯えている自分がいた。もちろん自分自身は見えない。そう感じている自分から観た世界が拡がっているだけだ。ウクライナの戦災の跡みたいな世界だ。自分が夢に現れるのはあまりよくないという。そんな世界で自分は蛍光灯を交換する仕事をしている。高いところの蛍光灯の交換はあぶないなあなどと考えている。目覚めてしばらく夢と現実が重なってなかなか剥がれなかった。

 

 こんな夢を見ている人が実は世界中にたくさんいて、世界は本当に破滅に向かいつつあり、それを予兆する人たちだった、などということがなければいいのだが。とはいえ、だからなんだ、といわれてもどうしようもないことである。破滅した後に、あれは予知夢だったと認識してくれる人はいないのだから。

 

 本日は午後から五回目の新型コロナワクチン接種に行く。今回はオミクロン株対応のワクチンである。今晩とあしたは副反応に備えておとなしくしているつもりだ。

2022年11月25日 (金)

映画『毎日かあさん』

 西原理恵子の漫画が原作の、2011年・日本映画。西原理恵子のヘタウマな漫画は好みが分かれると思うが、私は昔から好きである。これはたぶんほぼ実話で、主人公の西原理恵子を小泉今日子が演じており、まことにはまり役。自然体でこの役をこなせる女優はこのひとしかいない。昨日観た『トロッコ』同様、子役がすばらしいので映画のリアリティが保持されている。

 

 アル中で破滅型の夫を永瀬正敏が演じていて、やはりこのひともすぐれた俳優だと思う。このひとを初めて知ったのは、山田洋次が監督の『息子』という映画で、傑作だった。父親を三國連太郎が演じていた。ヒロイン役を和久井映見が演じていて、私はあまり好きではない女優だが、この役はもうけものだった。永瀬正敏の「いいではないか!」とつぶやく台詞が胸に刺さって忘れられない。ご承知の通り、小泉今日子と永瀬正敏は夫婦だったが、この映画のときにはすでに離婚している。

 

 アル中の夫との壮絶な家庭生活を描きながら、そこに追い詰められた絶望がないのは、西原理恵子の人柄によるものだろう。だからこどもたちはのびのびと自由奔放に育っている。そして自由奔放でありながらも優しさを持ち合わせているのはすばらしいことだ。最後の最後まで夫を世話し、その最期を見送り、夫に「ありがとう」と心からいわれ、子供が傷つかないでいる、というのはなかなか出来ないことだ。人の強さとはなにか、考えさせられる。

青空

 洗い物や洗濯は好きというほどではないが、苦手ではない。その洗い物や洗濯が億劫に感じるときは、自分が不調らしいと気づく。きらいなのは掃除や片付けである。しないですめばつい先延ばしするから、結局大がかりになってますます面倒になる。

 

 今日は洗濯日和の青空で、風もない穏やかな日だ。いまベランダでは洗濯物が日差しを浴びている。ベランダを開け放したままでも寒くないのは今月いっぱいらしい。来週にはもう師走、今年ももうすぐ終わってしまう。

 

 炬燵に入って本を読んだり、ぼんやりしている。なんとなく満ち足りた気持ちでいる。しかし、夜明けの夢見は悪かった。体調不良で病院で精密検査を受けたら、医師から「施設で長期療養が必要です」と言い渡されたのだ。やはりそうか、などと夢のなかで思っている。起きてからもそれが本当のことのような思いがなかなか拭えなかった。ようやく、どうやら自分は、まだしばらくは好きなように生きていけるらしいと得心しだしたところである。

 

 年賀状も購入した。昨年より少なくした。今のところつづけるつもりでいる。受け取ると嬉しい気持ちのお返しをしなければと思うからだ。どんな写真と文面にするか、それを考えている。今年もあちこちに出かけた。どの写真を使おうか。

ストライキ

 NHKのニュースはほとんどスポーツ新聞みたいになってしまったが、今朝はさすがにふつうにニュースを報じていた。しかしこのところのニュースの軽重、報道の優先順位についての価値観は、私にはどうも理解しかねるところがある。

 

 BSNHKの国際ニュースは、はるかに世界について有用なニュースを伝えてくれる。同時に世界の国々がそれぞれになにをどのようにだいじなことだと捉えているのかも教えてくれて興味深い。

 

 韓国のトラック運転手がストライキをしているらしい。この半年で二回目だという。そういえば以前にもストライキのニュースを観た記憶がある。物流に支障を来し始めているという。要求のうち、待遇改善については交渉の余地があるが、それ以外にもいくつかかなり無理な要求があり、当局はとてもこたえられないとしているのでストライキは続行されるようだ。

 

 経済は物流に支えられていることは言うまでもない。トラックが動かなければ商品も原料も燃料も滞る。社会に多大な実害を与える。待遇の改善を求めてのストライキといえば、造船会社や一部自動車会社でも労働者によるストライキがくりかえされた。傍観者としてみているだけだが、かなり過激な組織と化して経営者などを監禁したりして、経営そのものを成り立たなくすることも辞さないようであった。

 

 外資系の自動車工場では、そのために韓国での生産縮小を余儀なくされ、結果的に労働者は自らの職を失うことになっているようである。会社を潰すことが目的の集団行動にすら見えてくる。それほど労働環境や待遇が悪いのか、それとも別の目的があるのか。

 

 ものの生産を滞らせたり、流通を阻害させることの社会的影響は国民におよぶ。韓国経済を、そして韓国という国そのものを損ないかねない。そのことこそがストライキを主導するグループの目的なのではないかと勘ぐってしまう。

 

 韓国国民がトラック運転手のストライキの影響で困ったとき、その怒りはトラック運転手たちに向かうのか、政府に向かうのか。そのことにいまは興味がある。

2022年11月24日 (木)

映画『トロッコ』

 2010年の日本映画だが、舞台は台湾の花蓮県の山村。題名から予想される通り、芥川竜之介の短編小説『トロッコ』がモチーフになっている。

 

 8才と6才の小学生の男の子二人を連れた母親が、急死した台湾人の夫の遺骨とともに、夫の生まれ故郷である実家を訪ねる。登場人物は母親役の尾野真千子と子役の二人以外はすべて台湾人のようである。

 

 主人公も子供も、夫の両親や夫の弟夫婦とは初対面。夫は家を出て日本の大学に留学し、それ以来一度も故郷に帰らなかったのである。映画の中では父親に反発したためだと説明されるが、そこには日本統治時代の台湾と戦後の台湾、そして日本との関係が影を落としている。

 

 静かな対話、美しい山中の景色、子供の目にはそれらがどのように映っているのか。死んだ父親から長男に託された一枚の写真は、子供の祖父の子どものときの写真であった。そこにいる祖父はトロッコの前にいる。森林鉄道もトロッコも、山から日本が木を切り出すために敷かれたものだ。鬱蒼とした山に埋没しかかっている巨木の切り株がそれらを偲ばせる。

 

 祖母の体調不良による入院騒ぎの中で、兄弟二人はトロッコを押す青年とともに山の奥へと入っていく。次第に不安が増す子供たち。青年が送るというのを振り切って二人は線路伝いに山を下る。思った以上に遠くまで来てしまっていたことで、歩き疲れた弟は泣きじゃくりしゃがみ込んでしまう。兄は気丈に弟をなだめなだめ歩き続ける。一方母親も必死で子供を探すのだが。

 

 子供の不安というものがこちらに大きく迫ってくる。その不安は、自分が母親に愛されていないのではないか、お荷物なのではないか、という不安でもある。ようやくたどり着いたとき、母親の叱責が兄を打ちのめす。子供には母親の抱えるかなしみや孤独や不安など、理解できないのだ。そのあとの母子のやりとりは、激しく胸を打って目頭が熱くなる。こういうやりとりを経て子供も母親も成長し、新しい一歩を踏み出すのだ。

 

 尾野真千子はデビュー映画の『萌の朱雀』以来、存在感のある良い女優だなあと思っている。あのときはまだ奈良県の中学生だったはずだ。今回も感情を抑えた淡々とした演技の中に、心の動きをこちらに想像させ、感情移入させてくれた。

人類に希望はあるのか

 だいぶ前に放映されたNHKスペシャル、『新・映像の世紀』全6集を昨晩から一気観した。二十世紀初めの第一次世界大戦前後からはじまって、世界がどんな激動の時代を経験してきたのか、そのことをあらためて見せられた。放映されてすぐにも観ているので二回目である。今回は観たものから消去していった。近現代史を考える上で、貴重な記録なのであるが、あえて消去した。たぶんいつか再放送があるはずだ。

 

 無惨な死体の映像などもたくさんあり、そういうものが苦手な人には辛いだろうが、人間というものはこういうことをするものなのだということを身に沁みて知るためにはひとりの大人として正視しなければならないと思う。

 

 それにしても人間というのはどうしてこれほどまでに残酷なことをくりかえすのだろう。それが人類の中にある、除去できない宿痾であるなら、人類には希望がないような気がしてしまう。ウクライナで起きていることは特別なことではないのか。それとも特別なことがあたりまえに起きるのがこの人間の社会というものなのか。

 

 オスマントルコの崩壊に関わった『アラビアのロレンス』の悲劇は、ヨーロッパというものの利己的傲慢性の表れで、中東の長い長い混乱はほとんどここに端を発していることを欧米は自覚しているのだろうか。彼らは正義を標榜するが、その手は血塗られている。そういう日本もそうだし、中国も同様だ。歴史を知らないか、意図的に知ろうとしなければ、常に自分は正義である。自らの汚れた手を直視しなければ世界には未来はないかもしれない。

快晴

 昨日の暗い雨の日が明けて、今日は雲一つない快晴。排尿痛あり。泌尿器系にひそんでいる慢性菌がうごめいている気配。熱はないので一時的なものと思いたい。水分を適度に摂取して、洗浄に努めることにする。一昨日、ひさしぶりに少し飲み過ぎたのが悪かったのか。あまり気持ちの良くない夢を見て何度も目が覚めた。

 

 サッカーはドイツに勝ったらしい。まさか勝つとは思っていなかったので驚く。応援していた人の喜びはいかばかりかと思うし、たいへんめでたいが、臍曲がりの私にはいささか騒ぎすぎに思える。今日は一日テレビを観るのは控えよう。リアルタイムで観るのはニュースばかりだが、そのニュースはサッカーの話ばかりだろう。世の中にはワールドカップの話題しかないようなことになるだろう。

 

 このところ迷惑メールが一日一通か二通来る。国別ドメインがcnなので、中国かららしい。アマゾンのアカウントを確認したい、とか変更しろ、とか、税金を二日以内に納めろ、とか、ETCの本人確認をするから情報を送れ、送らないと使用できなくするぞ、とか、書かれている。個人情報が漏れているらしい。ニフティがメールのセキュリティを強化するらしいので、よろしく頼みたい。メールはスマホにも転送するようにしているが、そちらは自動的に見えないところに放り込んでくれているようだ。

2022年11月23日 (水)

敵基地反撃能力

 敵基地反撃能力を持つべきだ、それが抑止力になる、という点について、過半数の国民が納得しているように思う。問題は、どういう場合に敵基地を攻撃するのかという基準である。すべての可能性を網羅して、こういうときはこうする、などということを決めておくことなどできるはずがない。そんなことをいちいち国会で審議しているうちに日本は焦土と化しているだろう。

 

 それを厳密に決めておくべきだ、というのが共産党と公明党である。共産党はともかく、公明党が存在する限り、敵基地反撃能力の保持は不可能のように見える。与党に公明党がいる限り、北朝鮮も中国も安心である。何をしても日本は動かないと確信できるからだ。

 

 結果的に敵基地反撃能力は、いままで通り、撃たれてから撃ち返す、ということになるしかないであろう。

 

 寄付行為の規制は創価学会にとって不都合であるという観点からであろうか、統一教会への規制の骨抜き法案が与党によって作成されつつある。それも含めて、公明党の存在が日本をどんどん劣化させ、弱体化させていくのではないかと危惧するのは思い込みすぎだろうか。

ディスクを捨てる

 ディスクにドラマや映画を録画したものが、山のようにある。それを整理している。自分には無限の時間があるわけではない。限られた時間で観ることが出来るものと出来ないものがあり、それならあきらめなければならないものがある。捨てるものは捨てる。残すもののために捨てる。

 

 そういうことの中に自分が見える。

 

 

2022年11月22日 (火)

不審電話

 知らない人に対しては名乗り合うのが礼儀だと教えられていたが、いまは知らない人からの電話には、相手が誰であるか、どういう用件でかけてきたのかわかるまでは名乗らないことにしている。そもそも知らない人からの電話には出るな、というのがいまは常識らしい。

 

 固定電話は留守電にしていて、めったに出ない。ほとんどがアンケートか勧誘である。いくつか用件があってかかってくるものは、必ず留守電に伝言を入れてくれるので、それでかけ直せば用事は済む。なにも言わずに切れるのはこちらに用のないものだろうと割り切っている。

 

 携帯に見知らぬ人からかかることはまずない。そもそも知らせていないはずの人だからだ。ホテルの予約確認などでかかってくることがある。当日、出先での連絡のために求められて伝えることがあるからだ。だいたい予想はつくので出るし、確認も出来るし、相手が名乗るからかまわない。

 

 先日全く心当たりのない携帯電話から電話があった。電話には出たが、こちらからは名乗らずにいたら、ざわざわという背景音だけが聞こえて誰も出ない。こちらが名乗るのを待っているのだろうか。しばらくして切れた。用件があれば伝言があるだろうし、間違いならもうかかってこないはずだ。その晩、夜中の二時頃に携帯が鳴り、起こされた。かかってきたのはその電話番号からだった。番号を眺めて出なかった。緊急なら用件は向こうにあるはずで、伝言がされると思った。それきりだった。

 

 そのあと一日何回もその番号からかかってきたようだが、伝言はない。そこでその番号を着信拒否にした。しかし履歴は残る。履歴だけ見ると毎日数回かかっている。うっとうしいのでいまはその履歴も残さないように設定した。だから電話がつづいているのかどうか知らない。出ないのがわかっているのに何度もかけてくるのは、なにが目的なのかわからないから気味が悪い。嫌がらせ電話をもらうほど恨まれる覚えはないのだが・・・。

 そういえば、アマゾンのアカウントの問題点のお知らせメールというのが送られてきているが、自動的に迷惑メールに振り分けられている。そうでなければうっかり開きかねない。いつも思うが、おかしなメールに反撃する方法というのはないものか。北朝鮮からの攻撃にもバグを送りこむなど、やり返す方法はないのだろうか。やられっぱなしなのが残念である。

救済しない救済法案

 BSフジのプライムニュースで、旧統一教会の被害者救済法案について与党代表、野党代表、弁護士がゲストとして討論していた。私の受け取った結論は、与党は、寄付行為は憲法に保障された個人の財産権の問題であるから、規制は出来ず、規制が出来ないのだから違法ではないということのようである。だから一見規制のような文言はすべて形だけでほとんど適用が出来ないと思われる。

 

 そもそもマインドコントロールなどをされるのは、された人間が悪いから救いようがないので救わない、ということで、それをさまざまな法律的なことや憲法に落とし込んで言い訳しているだけであると受け取った。たぶんそういう法律が施行されることになるのだろう。こうして被害者はあきらめて泣き寝入りするしかないということのようだ。

 

 日本人の巨額の資産が奪い取られて海外の某国に流出しても、それを規制しようとしない与党というのは日本人の財産を護るという最低のことすらしない党だということか。そこまで統一教会に毒されているのだろうか。これが国民にそのように認識されたときにはどんなリアクションがあるか。想像力が欠如して、危機感のあまりないらしい岸田首相はなにも感じていないのだろう。

 

 問題があったらそれに対処するのが当然なのに、正しいらしい法律論で、出来ない言い訳をする自民党の宮崎氏に怒りを覚えた。

怖いもの見たさ

 私は怖がりである。夜の闇が怖いし、洞窟に独りでいるのも怖い。暗がりの中にさまざまな、まがまがしい存在を想像してしまう。なにしろたくさんの怖い話を好んで読んできたから、想像するネタには困らないのである。

 

 日本だけでなく、中国、西洋の怪異談の本が棚にたくさん列んでいる。怖がりなのになんでそんな本を読むのかと言われそうだけれど、怖いもの見たさというしかない。中国の怪異談の話が多いけれど、中国のお化けや幽霊はあまり怖くない。それを日本流に翻案して膨らませたものはとても怖い。西洋のお化けや幽霊も、宗教的背景を伴うものが多いので、そういう下地がない分、怖さがどこか他人事のところがある。

 

 初めて読んだ怪異談と言えば、上田秋成の『雨月物語』だろうか。いくつかの話が収められているが、原典を中国におうものが多い。エドガー・アラン・ポーの作品なども怪異談が多い。読み飛ばせばどうということはないが、その場面に自分がいる状態をじっくりと想像しながら読むと結構怖い。江戸川乱歩にも闇の中の恐怖を書いたものがいくつかあって怖くて面白い。そういえば横溝正史なんて半分ホラーみたいなものである。洞窟ばなしの『八つ墓村』などはそのうちの傑作といって好い。同じく江戸川乱歩の『孤島の鬼』も洞窟が舞台の傑作である。

 

 若いころスティーヴン・キングの本にはまってずいぶんたくさん読んだ。映画化されたものもたくさんある。『シャイニング』はその一つで、これはスタンリー・キューブリックの映画の方が出来が好いと思う。スティーヴン・キングは自分の作品とはちがいすぎる、とお冠だったらしいが。キングの作品で言えば、怖くて最後まで読めなかったのが『呪われた街』という話で、あまりに怖くて半分ほどで放り出した。映画ではなくテレビドラマが作られたけれど、観たいと思わない。

 

 映画の話は別に書く。

 

 クトゥルー神話の世界を創出したラヴクロフトの作品(異形の化け物がチラリと出てくるのがかえって怖い)もいくつか読んだし、別の作家のその派生作品も探して読んだりしたものだ。ディーン・R・クーンツやクライヴ・バーカーなんてのもずいぶん読んだ。そういえば、ダン・シモンズの『カーリーの歌』は生理的な恐怖を催す傑作だった。日本のものでは鈴木光司の『リング』のシリーズなども読んだが、映画の方は怖くて全部見られなかった。岩井志麻子や小野不由美も怖い話がいくつかあった。

 

 落語にも怖い話がたくさんある。『四谷怪談』や『牡丹灯籠』などは有名だが、『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』なんてとても怖い。手持ちの円生のCD四枚組に全話が収められているが、まだ二枚しか聴いていない。怖すぎるのである。筆記本も持っていて、これも最後まで読んでいない。彦六(先代の正蔵)の『生きている小平治』なんてのも結構怖い。

 

 怖いもの見たさと言いながら、ちょっと度が過ぎているかなあ。

2022年11月21日 (月)

チャレンジ

 高校生のときに書道を習い、その先生が文化大革命の最中に中国にたびたび出かけて、失われるおそれのある石碑の拓本を命がけでとって日本に持ち帰ってきた。それらを見せてもらったので、もともと興味のあった中国に思いを馳せたりした。だから西安に行くたびに碑林という中国中の有名な石碑を集めてある博物館には必ず立ち寄った。拓本も何種類か購入して手元に置いている。

 

 その先生は当時千葉県では有名な先生で、小学校、中学校の書き初めのお手本はその先生のものだった。王羲之、顔真卿、欧陽詢、空海などの書に接したから、書の素晴らしさを多少は感じる機会を得たことはありがたいことだった。そのときに篆刻の実習も経験した。石で印を彫るのである。その集中の必要な作業は快感でもあって、歳をとって出かけられなくなったら篆刻をしたいと思っていた。

 

 中国へ行くたびに、印材である石をいくつか買い集めた。無料で名前を彫りましょう、といわれたが、「自分で彫るから」、といって無面のまま購入した。石だけたまったままで、いつまでも手が着かなかったけれど、そろそろ練習を始めようと思っている。こうして公言しないと、いつまでもいつかやろう、という状態から進展しないので、ここに書いた。安い篆刻刀と入門書も揃えた。いま、石の彫る面を紙やすりで磨いているところである。まず一文字を彫ってみようと思う。

人によって

 マレーシアのマハティール元首相が選挙に敗れて政界を引退するという。それにしても御年97才だそうだから、驚異的だ。人によってちがうといい、自分を基準にものを考えてはいけないとは承知しているが、どうしたって自分の経験や知識からものを考えるしかないのである。

 

 同じ97才の男が軽自動車で歩道を暴走させて女性をひき殺し、車三台に次々とあたって怪我をさせたという。現場検証ではブレーキ痕はないそうだ。例によってブレーキとアクセルの踏み間違いだろう。それにしても97才で運転するということがまず信じられない。人によって97才でも問題ないということもあるのだろうが、実際にこういう事故を引き起こしたのであって、大丈夫ではなかったのだ。

 

 田舎の道を他に交通手段がなく、仕方なく自分で運転する、というのならまだ多少の理解も出来るが、交通量の多い町中をこういう運転手が走っていると思うと恐ろしい。一体自分がそういう危険な運転をするおそれがあると考えなかったのだろうか。私など常にそのことを自問自答し、そのおそれを感じたら免許返納をする覚悟をしているつもりだ。こういう事故を起こすまえに何度か「おかしいな」と思うことがあったはずで、突然事故など起こしたりしないものだ。

 

 常識的な判断が出来なくなっている時点で大いに問題ありだがそれに気がつけない。そうなるとどこかで外側から規制するしか方法がないということにならざるをえないのだろう。

2022年11月20日 (日)

みちのく幻視

 『遠野物語』をベースに、柳田國男の世界を映像化したNHKの古いドキュメントをひさしぶりに再見した。遠野という場所だけではなく、秋田や青森、そして山形の各地を映像で観て、毎年ほとんど出かけているのに今年はついに行かずじまいに終わりそうだなあと東北の空を想った。

 

 東北は水運で関西と結ばれていた。文化や言葉は意外と近かったのである。十三湖のほとりに栄えた湊にはたくさんの遊女がいて、哀話が残っているという。その湊も鉄道が青森まで通じたことで陸運が盛んとなり、水運が衰えたことで寂れてしまい、見る影もなくなったことなど、あらためて時間の経緯を想像すると、そのあたりをそのつもりでまた散策してみたくなる。

 

 柳田國男がわずかな手がかりから時間と空間を見通して書き残したものは、じっくり噛みしめるとたとえようもなく懐かしい。「耳を傾ける資格のある人」のみに伝わると柳田國男は書き残している。民俗学というのはたしかに想像力の産物にしか見えなかったりする。「そうかもしれない」と思う人にしか見えないものがある。

 

 私にとって東北の独り旅とはそういう旅である。鳴子、花巻、遠野、平泉、角館、男鹿など、今すぐ訪ねたい場所が山のようにある。これから冬で雪の中だけれど、だからこそ見えるみちのくというものもある。

自衛隊のハラスメント

 日本の周辺は有事が起こる可能性が高くなっている。それに対応するため、防衛予算を増やすことが必要であり、それに同意する国民は過半数を超えている。ウクライナの状況を見れば、有事が起こらないという楽観論は取れないと理解する人が増えているということだろう。

 

 しかし予算以上に問題なのは自衛官になる人が少ないということだ。いくら募集しても集まらず、必要な人員が足らない状況が続いている。そんなときに自衛隊内でセクハラやパワハラの事件が起きたという告発が相次いでいる。

 

 報道番組でその特集が組まれていた。番組ではほとんど告発した側、つまり被害者側の情報ばかりだ。しかしそれはマスコミ側に問題があるというわけではないようだ。マスコミは当然告発された加害者とされる本人や自衛隊の部署や大臣にまで取材している。ところが彼らはそれに対して何にもこたえていない。つまり反論もしないし、それに対する対処をしたという言葉もないのである。取り上げられた事例では告発から二年~四年も告発者になんの連絡がないままだったという。

 

 自衛隊が軍隊であるかどうかは微妙なところだが、企業や軍隊は民主的な組織ではない。命令によって動くように出来ている。だから民主的ではないという告発なら無意味だ。しかし人権に関わるパワハラやセクハラはあってはならないし、それに対処できない組織は存在悪でしかない。告発があればそれを調べ、それに迅速に対処して悪いものは悪いとし、悪くなければ悪くないと反論すべきであるのは当然である。

 

 それを何の対処もせず放置し、組織をあげて、なかったことにしようとしたら、それは告発されるのは当然である。当然すべきことが出来ないのは組織のトップの問題であろう。

 

 自衛隊は人を集めたいはずである。それなのに組織を護るという言い訳のもとに放置してきた罪は重い。これでは自衛隊に入ろうとする若者が減るだけだろう。愚かな上司達というしかない。こんな人間に国や国民が護れるはずがない。

 問題は起きるものである。起きた問題は対処しなければならない。是は是、非は非を明らかにして結果を公表するしかないのであって、なんとかごまかせないかと放置するのが最悪の対処法である。放置してなんとかなることがないではないが、たいてい最悪の結果へつながっていく。どこやらの首相はそういう意味で対処が遅いし下手くそだ。

2022年11月19日 (土)

首をメンテナンスしてもらう

 午後、娘のどん姫がリンゴなどを受け取りに来た。親バカの私は手放しで顔を見られて嬉しい。いろいろと雑談のあと、首と肩のマッサージをしてもらった。娘はもともとマッサージのプロである。

 

 ほんの少し揉んでもらっただけで肩や首がほかほかと熱くなってきた。血がめぐり始めているのが歴然とわかる。問題なのは首なのだそうだ。前傾姿勢が多すぎることによるストレートネックという症状になっている。そうなると頭の重みを首だけで支えることになり、その負担に首と肩が悲鳴を上げているのだという。

 

 意識的に肩を回す、肩甲骨を回す、前掲姿勢をつづけ過ぎないようにするようにとのアドバイスであった。

 

 どん姫はうさぎ年生まれで、来年は年女。気がついたら大人の女になっていたのであった。とっくに親離れしているが、バカ親は子離れできないでいる。たぶん死ぬまで子離れなんて出来っこないと思う。迷惑だろうけれどよろしく頼む。

2022年11月18日 (金)

トレンド

 大晦日の紅白を観ない、と表明するのがトレンドらしい。私はほとんど毎年そう言い続けてきた。何しろ高校生時代からのことだから、五十数年来のことで、実家で弟と飲みながらテレビの紅白を耳で聞くことはあっても、自発的に観たことはない。独りで年越しするときは、何しろテレビはつけずに本を読んでいるから、観ることはない。

 

 先日出場する顔ぶれをNHKのニュースで見たけれど、三分の二以上が知らない人かグループだった。顔も名前も知らないから、歌っている歌ももちろん知らない。やはり大晦日の晩は静かにその年を思い返し、来る年のことを考えるのがいいようである。ただし、今年はひさしぶりに息子が帰省して滞在する予定だから、年越しで飲んでいるかもしれない。それはそれで嬉しい。

 

 今日は妻の病院に月に一度の支払いに行ったが、いまはコロナ禍で面会はご遠慮下さい、という状態で、12月にならないと様子を確認できない。別にかまわないけど・・・。明日娘が亭主に送られて土産やリンゴのお裾分けをとりにやってくる。そのときに様子を教えてやりたかったが、来月で好いだろう。正月はひさしぶりに親子三人がそろう。

値下がり

 世界がインフレで騒いでいるなか、中国では物価指数が下がったと報じられている。理由は、過剰な投資によって高騰した不動産価格が天井を打って売れなくなり、滞貨が増えて投げ売りがはじまっていること、それに伴い新たな建設が急激に減ったことで、建築資材の鉄やセメントの消費が低下して価格が下落しているためだという。

 

 なるほど、いつかこういうこともあるだろうとは思っていた。ただしこれは短期的な統計値なので、これからどうなるか、中国については安易に判断は出来ない。地方政府の債務破綻が続発する事態になって、初めて中国経済が減速しているという判断が下せるだろう。

 

 もしかして、不動産価格を下げることで物価を下げる方向に誘導し、民衆のゼロコロナ政策の不満を逸らそうという中国政府の思惑があるかもしれないではないか。それなら賢い中国のことだから、地方政府救済の方策も同時に考えているだろう。

 

 それとも、石油や天然ガスなどのエルネギーや、小麦などの穀物をロシアから安く買いたたいて市場に供給していることが物価の下落の隠れた要因かもしれない、などと私は勘ぐっている。

倍速ではないが

 若者は動画を倍速で観る割合が増えているそうである。倍速での音声はどうなっているのだろう。NHKのニュースでは音声はキュルキュル音だったけれど、それでは聴きにくいだろう。私にはほとんど理解できなかった。

 

 私のレコーダーは倍速は音声なし、1.5倍速では音は高くならずただ縮めてくれる。プライムニュースなどはこの1.5倍速で観る。約二時間の番組が、CMも飛ばしながら観るから70分ほどで観ることが出来る。ただ、聴き取るためには集中力が必要だし、音声レベルも少し上げている。ドキュメントでも内容によってはこの1.5倍速で観ることがある。ドラマや映画はそんな見方は私には出来ない。若者は映画やドラマも時短のためにそんな見方をしているというのだろうか。

 

 若者は本当に倍速キュルキュル音で動画を見ているのだろうか。信じられない気がする。スーパーサイア人か。

2022年11月17日 (木)

副反応

 体外から取り込んだものや外界からの刺激に、体が何らかの反応をすることを副反応というのだと私は理解している。ワクチン接種などによって起こる発熱やだるさなどの身体反応はその例だろう。むかしは副作用と言っていたように思う。副作用という言葉が、悪いことのイメージとして定着してしまったので、今回の新型コロナワクチンのころから、不安を少しでも少なくするために副反応という言い方にしたのだろう。

 

 最近首と肩が痛い。骨というより筋肉痛、つまり肩こりのように思える。骨なら昨年追突事故で首の骨を折った古傷が痛んでいる可能性があるが、ちがうと思う。ドラマや紀行番組、歴史番組、映画など、このごろ連日のように六時間以上テレビを観ている。溜まったものをひたすら消化していて、ためるより見る方が多いからその効果は少しずつみられてきた。もともときらいなものではないから録りためていたのであって、それを観ることを楽しめてもいる。しかしその結果としての肩こり、首の痛みのようである。つまりテレビの観すぎの副反応なのだろう。

 

 夏は白菜も高かったので作らなかったけれど、先月ころから白菜の塩漬けをまたつけて、せっせと食べている。私は少し漬かりすぎて酸っぱくなり始めたようなのが好きだ。そのまま食べる以外にも、刻んで野菜スープに加えたり、ラーメンと一緒に煮込んでも美味しい。場合によって、鍋にも入れても意外といける。ただの白菜を入れるより旨味が出る。そのせいかどうか、便通が整ってきたような気もする。ヨーグルトも比較的に摂取に努めているが、同じ発酵食品でも漬け物のほうが腸に効果的に働くようだ。

 

 ただ、副反応がある。屁が臭くなるようだ。寝床に十年以上使い込んだダイキンの空気清浄機を置いているが、屁をすると、ランプが橙色になったり、場合によって赤くなって、ウォーとうなりを上げて空気の浄化を始める。なんだか情けない気持ちになる。可哀想に空気清浄機にも臭いのだろう。

 

 もともと飲み過ぎると腹は緩くなるものだが、糖尿病で処方されている薬の副作用は、腹が緩くなるのだと聞かされている。しかしいまの処方薬はいままでで最も血糖値のコントロールが良好なので、出来れば我慢して飲み続けるように言われている。それが漬け物やヨーグルトで緩和されるなら、屁の臭いという副反応くらいは我慢しなければなるまい。空気清浄機君、きみも我慢してくれたまえ。

リンゴ

 信州松本の友人からリンゴが送られてきた。毎年のことであって、たいへんありがたい。学生時代から親交のつづいている友人で、二年か三年に一度は必ず会う。最後に会ったのは一昨年の秋だった。痩せているのにウワバミで、以前は私の倍は飲んだものだが、最近は衰えて私と同じ程度になった。身体のためにはそれで好い。

 

 松本から見える北アルプスの山々も雪景色に変わっているだろう。そういえば先月弟夫婦と妹と行った上高地から見える穂高の山々の景色も白くなっていることだろう。温泉で雪見酒がしたくなった。

 

 深く雪の積もった景色も好いが、新雪のころの、粉砂糖を振りかけたような景色が好きだ。雪国の人も来たるべき雪に閉じ込められる冬への暗鬱な気持ちより、純白な新雪の美しさをまず感じているのではないだろうか。

 

 リンゴは食べきれないので、毎年娘にお裾分けする。これから連絡しようと思う。

2022年11月16日 (水)

つらいけど

 年金支給額が少しずつ削られている。現役時代に年金分を納めていたとはいえ、働かずに年金をいただけるのはありがたいことだと思っているので、年金が減るのは致し方ないとあきらめているが、二日か三日に一度近所のスーパーに行って支払う金額が、年金とは逆にどんどん増大しているのはこたえる。贅沢はしていないし、ふつうの人より粗食の方だと思うし、酒量もずいぶん減らしているのだけれど・・・。

 

 ずいぶん旅行などに出かけて遊んでいるではないか、といわれそうだが、退職金とわずかな貯えの範囲内であり、退職金などわずかだったからもう消費してしまった。どうせ車で遊び回れるのもあと五年くらいであろう。こどもたちには死ぬまでに使い切るぞ、と宣言してあるから遺産などあてにされていない。使い切ったあとにも生きていたら多少はこどもの世話になるつもりである。気楽なものである。不安だけ増大させても暗くなるだけだと開き直っている。

責任の問題ではなく

 親が子供を車内に置き去りにし、熱中症で死なせてしまった事件があった。親は保育園に送ったつもりで忘れていたという。似たような事件は繰り返し起きているのだという。こういうこともあり得るから保育園は連絡のない欠席児童の家には連絡することになっていたが、それを怠っていた。

 

 マスコミは保育園の責任を取り上げて論じているが、決まっていたことを忘れていたということについて責任はあるとはいえ、親の責任の方がはるかに大きいことはもちろんである。マスコミの言い分で勘違いして、責任は保育園にあるなどと考えたりすると、いまに商才にたけた弁護士が親をそそのかし、保育園を訴えたりしたらどうなるのだろう。たぶん無罪になると思うけれど・・・。

 

 一番悲しんでいるのは親だし、自分を責めているだろうと思うので、私はこれ以上責める気になれない。すでにずいぶん責められているだろうからだ。

 

 人間はあり得ないような失敗をする。そして失敗したことでその結果の責めを負う。しかたのないことである。出来れば失敗してもなんとか取り返しがつくようにしたいという考えから、保育園の連絡ということが決められたのだと思う。責任ということばかりいうよりも、この結果を教訓として、その必要性を認識して、似たような事件の再発を少しでも減らす為、連絡の励行をするようになれば良いと思う。

2022年11月15日 (火)

能登金剛・巌門

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能登金剛の巌門というところに行く。海から見れば絶景だと思う。下の観光船で遊覧できるが、下まで降りるのがちょっとしんどい(といっても結局あとで下まで降りるのだが)。遊覧船に乗るのは今度にすることにした。いつになるかわからないけど。

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こんな橋が架かっている。

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幸せのがんもん橋というのか。

橋を渡ってから崖の階段を降りていくと、

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こういう巌門洞窟というところがあって、

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実際は真っ暗。狭くて低い。私は洞窟が好きなのだ。精神分析学的に私が男だからだろうか。

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洞窟の向こう側、海に出る。

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来た道。

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横手にはこういう潮の満ちる洞穴もある。

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洞窟出口から見た完全逆光の海岸風景。ここに来たのは二回目。ここまで降りたら駐車場まで登らなければならない。この晩は氷見に宿泊。

おまけ。

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金沢の少し富山側に不動堂パーキングというのがある。金沢に暮らしたので、わざわざここに寄ることはなかった。今回立ち寄ったら、芭蕉の句碑があることを知った。

  つかもうごけ 我が泣く聲は 秋の風

芭蕉が奥の細道行で立ち寄った金沢で、当地の弟子の小林一笑の死を悼んで詠んだ句。

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委細はこの碑に書かれている。

このあと金沢で用事(冬用タイヤへの交換)を済ませ、どこにも立ち寄らずに帰った。

今回の小旅行はこれにておしまい。

予約した

 オミクロン株対応の新型コロナウイルスワクチン(今回は五回目)の予約案内が市の保健センターから来ていたのだが、前回四回目を打ったのが七月末であり、五ヶ月おかなければならないはず(案内にもそう書かれている)だから、まだ先だと思っていた。しかし前倒しが進められているとの情報もあり、今朝予約を試してみた。

 

 なんと来週末のかかりつけの病院の予約枠が一つだけあって、簡単に予約することが出来た。体調を整えて接種することにしよう。もともとはアレルギー体質で予防接種はほとんどしないことにしてきたが、この新型コロナだけは重症化リスクが高そうだし、後遺症も結構あるようなので、医師と相談してできるだけ受けることに決めている。

 

 三回目に、丸一昼夜高熱などの強い副反応があってまいったが、四回目はほとんど副反応がなかった。接種時の体調も影響しているのだろう。今回は万全の体制で備えて接種するつもりだ。

歳をとった証拠

 あそこが痛い、ここが調子が悪いというのが口癖になるのは歳をとった証拠で、ついそれをブログにも書いてしまってなるほどと納得したりしている。実際に自分の身体や気持ちが意のままにならないのだからしようがないのではあるが、そういう不調は自分にしかわからないことであることをつい忘れてしまう。まあ泣き言を言うことで多少のなぐさめにはなっている。

 

 毎年二度ほど一緒に旅行に行く兄貴分のひとが、体調は回復したか、と電話をかけてきてくれた。長老も心配して様子を聞けと言ってくれたらしい。おかげてほぼ復調して北陸へ行ってきた、と返事をしたところ、ではどこかへ行く予定を立てるので付き合えとのこと。長野方面に行って温泉につかり、バカ話をしてリンゴでも買って帰ろうということになった。予定は長老と兄貴分のひとが立ててくれるらしいので、こちらは運転係を引き受ければ好いので気楽である。早々と冬用のタイヤに換えたので、峠越えでも安心である。

 

 たぶん月末か12月に入ってからのことになるであろう。私の体調を気遣って待ってくれていたのだ。ありがたいことだ。

 

 そう言った尻からで恐縮だが、首から左肩の辺りが痛い。その痛みでよく眠れない。その上、夜明け前に足がつって起こされた。薬を飲んで、たいしたことはない状態でおさまったが、睡眠不足である。これでうたた寝でもするとまた体調を崩しかねない。そのときはしっかり蒲団で寝ることにする。

2022年11月14日 (月)

能登金剛・関野鼻

能登半島西岸、千里浜あたりまでは砂浜であるが、志賀原発から輪島の手前まで断崖がつづく。風景が良いので一体を能登金剛という。一番北側が関野鼻といい、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台となったヤセの断崖はここにあるのだが、ヤセの断崖は見たことがあるが、関野鼻は訪ねたことがない。ここは私有地で個人が観光名所として管理している。駐車料500円を払えば見ることが出来る。

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関野鼻からヤセの断崖を眺める。残念ながら逆光。

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あそこから身を投じれば助からない。ヤセの断崖に行くと・・・ヤセの断崖の全景を見ることが出来ない。

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ここは海のカルスト地形だという。

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こういう岩がゴロゴロある。

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こんな岩があって・・・。

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こんな島がある。

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これ以上下に降りるとまた上がってこなければならない。

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若ければ先端の赤い鳥居の所まで行ってみるのだが。

これだけ見るところがあれば駐車代500円は高くない。入り口はわかりにくいので、行くときは見過ごさないように注意。

おまけ。

 

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もう少し北へ。輪島方面まで海岸沿いに走ると、トトロ岩がある。

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そばまで行くと目がつけてあって、トトロだなあと納得する。

次に能登金剛の巌門という場所に向かう。

哀しい

 2019年の秋に、今は亡きF君たちとトルコに行った。憧れの青のサマルカンド、奇景カッパドキア、そこで乗った気球など、思い出は山ほどあるが、特にまた必ず行こうとF君と約束したのがイスタンブールだった。外のテラスに座り、行き交う観光客を眺めながら飲む酒は格別で、何もせずどこにも行かずに一週間イスタンブールで飲もうと話していた。

 

 イスタンブールは移民が急増して社会不安が増大していたし、大統領の独裁傾向が強くなり、薄かった宗教色もこれからは濃くなる懸念もあったけれど、いまのうちならトルコのトルコらしい、東洋と西洋の交差点としての魅力を感じることが出来ると思っていた。

 

 今回の爆弾テロ事件はそういう意味でまことに残念なことで、哀しい。そうして、そういう話を心の底から共感してくれるはずのF君がいないことはもっと哀しい。

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梅丈岳展望台

三方五湖が見下ろせる梅丈岳の展望台に行く。

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山頂までリフトで登る。リフトの苦手な人はケーブルカーもある。これは下りのときに撮ったもの。海は青いが、日が傾き始めていたので霞んでいる。

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三方五湖が見下ろせる。

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あんな道を登ってきたのだ。レインボーラインは有料だと思ったら、どこにも料金所がなかった。

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屋上にはバラ園があった。よく手入れされている。

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こんなところに座り込んで海をぼんやり眺めたら気持ちが好いだろう。実は私もしばらく座って海を見ていた。

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沖の石というのはどれだろう。

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どうやらあれらしい。

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青い海と終わりかけの紅葉。

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青い海に舟の白い航跡。

景色を堪能して宿に向かった。

2022年11月13日 (日)

道の駅・三方五湖

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道の駅・三方五湖は五湖の一つ三方湖のほとりにある。

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ここには水鳥の観察所があるから、鳥の好きなひとには嬉しいところだろう。

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こういう芦原には水鳥が棲んでいるのだろう。

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いろいろな鳥の声が聞こえたが、私には姿が見えず、なんという鳥なのかわからない。

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釣り用のボートらしい。こんなところでのんびり釣り糸を垂れるのも好い。

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外来魚の引き取りをしているようだ。

このあとレインボーラインを走って三方五湖を見下ろせる梅丈岳の展望台に向かった。

宿の評価

 宿には当たり外れがある。笑うしかないほどひどい宿に泊まったことがある。差し障り(精神疾患と思われる息子がいて騒ぎになった。そのことだけでなく問題だらけだった)があるので具体的に書けないのだが、基準をその宿に置けば、どんな宿もみな好い宿になる。部屋、食事、風呂などは料金に見合っているものであればかまわない。経営者や従業員の質は評価に大きく影響する。高級づくしでも冷たい記憶しか残らない宿もあった。客質も不思議と宿に見合うことが多く、おかしな宿にはうるさかったり目障りな客がいるものだ。

 

 トイレの清潔さ、広さは大いに気になる。掃除が行き届いているのは気持ちが好い。私は大柄なので便座に座ったときに前の壁やドアへのスペースのないトイレはきらいだ。スペースはとれるはずなのに便器の位置が悪いことが多い。使う人のことが考えられていない。

 

 臭いや音も気になる。不快な臭いのするなどは論外だが、しばしばある。物音や振動が伝わりやすい宿というのも安普請過ぎて不快だ。見かけだけしゃれた宿にときどきある。ドアの外で声高にしゃべる客がいる。団体客などがいるとその話し声で不愉快になる。話し声は部屋の中ならあまり聞こえないもので、ドア越しだとまともに聞こえるのだが、たいていそういうことに気がつかない。

 

 今回は三方五湖の宿に泊まったのだが、部屋は広いのはいいのだが、西日がまともに入る部屋で遮光カーテンが必要だった。しかも湖に面しているのに方向違いで見ることの出来ない部屋だったのが残念であった。私としてはいつもより張り込んだ高い料金を払っている(旅行支援があるし、クーポンもつくからそれを当てにしている)。食事に期待するしかない。食事のメニューは文句のないものだったのだが・・・。器が三流の木賃宿並みのもので、安っぽい。だから美味しい料理がみすぼらしく見えてしまう。しかも一部セルフサービスである。何か勘違いしているような宿であった。たぶん経営が傾きかけているのかもしれない。つまりサービスに充分な従業員が足りないのであろう。全般にちぐはぐな印象だけが残った。

 

 もう一度行きたいと思う宿かどうかが評価の大きな分かれ目で、トイレは外、鍵もいいかげんな宿なのに妙に何度でも行きたくなる宿というのもある。何しろ居心地がいいのだ。そんな宿の一つがコロナ禍の休業から結局閉鎖してしまった。残念でならない。

 

 外れがあるから当たりが嬉しい、と思うことにしている。

水晶浜

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水晶浜は敦賀半島の西岸にある。色浜から少し南下してから半島を横断する。東岸の色浜は空気がクリアで水の色が美しかったのだが、西岸はどういうわけか黄砂の中にいるように少し霞んで濁っていた。

向こうには美浜原発が見える。

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こどもたちは二人とも水泳教室でかなり泳げたので、沖へ沖へとすいすい泳いでいくので気が気ではなかった。プールよりずっと泳ぎやすいよ、魚が泳いでいるのが見えたよ、と嬉しそうに言った。

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そのとき、私は朝、このあたりで釣りをしてみたが、何も釣れなかった。向こうに見えるのは小浜方向。

これから三方五湖の方へ向かう。

2022年11月12日 (土)

気比の松原と色浜

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気比の松原は思った以上に広い。松の古い巨木も見られる。昔来たときとは風景がちがっているのだが、車を駐めた場所がちがうのだろうか。ここも芭蕉が句に詠んだはずだし、古来歌にも詠まれたところだったと思う。思う、というのは記憶が定かでないし、資料で調べてもいないからだ。

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敦賀湾を左手から囲むのは敦賀半島。敦賀半島には原発があり、再稼働でいろいろもめているようだ。先端部には高速増殖炉のもんじゅがあるが、廃炉になった。その手前に水晶浜というきれいな浜辺があって、子供が小さいころ、この浜近くの民宿に泊まり、泳いだことがある。

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右手には敦賀港。手前の人は投げ釣りでもしているのだろうか。若いころは投げ釣りをよくしたものだ。こんなのも好いなあ。

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こういう巨木が見られるのだが、松枯れが起きているようだ。いつまでこの風景は持つのだろうか。

気比の松原から敦賀半島を横切って、なつかしい水晶浜を見に行くことにした。

半島左岸を走り出したら、「色浜」の標識がある。かなり先の方になるようだが、行って見ることにした。「色浜」は『奥の細道』に詠まれている。実際に芭蕉が色浜まで行ったのか、話に聞いたのか記憶が定かではない。わざわざ言及したのだから何かあるかもしれない。

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かなり急な細い道を通って色浜に到着。海は澄んで青く、まことに美しい。しばらくぼんやり見とれていた。

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のどかである。

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前方に砂浜の島がある。絵になる。その向こうは越前海岸か。

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イカ釣りの舟だろうか。色浜を確認して、水晶浜に向かう。残念ながら芭蕉に関連するものは見つけられなかった。あるけど気づかなかったのか、もともとないのかわからない。

気比神宮(2)

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そういえば七五三の時期なのか。

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きちんと拝礼した。

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こんな怪獣のような石像が水を吐いていた。ついこんなところばかりに目が行く。

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芭蕉は奥の細道の終わりの方でこの敦賀に立ち寄っている。

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秋色の中に立つ芭蕉翁。このあとに気比の松原と敦賀半島の色浜を見に行こうと考えた。ともに芭蕉の句に詠まれている。

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気比神宮の狛犬は正当の獅子風狛犬だ。

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おまけ。気比神宮の庭にて。

2022年11月11日 (金)

気比神宮(1)

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敦賀に気比神宮がある。訪ねるのは30年ぶりくらいか。神宮とは、本来伊勢神宮の内宮と外宮関連のみに使われる言葉らしいが、他にも神宮と名のついた神社はいくつかあるようだ。

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中側から鳥居越しに敦賀の街を見る。敦賀も新幹線が止まるようになると賑わうことだろう。

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入り口すぐのところに猿田彦神社があった。猿田彦というのはいろいろ曰くがあって面白い人物(神様か)だ。思い出すのは手塚治の『火の鳥』のシリーズの中に出てくる猿田彦で、アメノウヅメと夫婦になったりしていた。

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狛犬のようなプレデターのような・・・。

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猿田彦神社の小さなお社の上に見猿言わ猿聞か猿がいた。実際は暗くてほとんどわからない。

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こんな木の根っこを見ると、その生きてきた年月を思ってしまう。

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手洗い前から見上げたら色づいた木があった。

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本殿への入り口。結構人が多いようだ。

こんなのを見ました

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地元の人ならわかると思うけれど、こんな天狗を昨日見てきました。

体調さえ良ければ思い立つと同時に動き出す。昨日の昼前に北陸の海に向かって走り出し、国道27号線の小浜近くの道路横にあった看板を目当てに小さな神社に立ち寄って見つけた天狗の像。いわれや神社の由緒はどこにも全く書かれていなかったので、帰ってから調べるつもり。

ウロウロした記録を逐次報告します。

朝の景色

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宿の部屋から葉の色が変わり始めた銀杏が見下ろせた。

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こういう樹のシルエットが好き。

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切り取り方でこんな景色も。

呪いからの脱却

 次世代半導体開発生産の新会社が発足するという。トヨタ、ソニー、NTT、NECなど、日本のそうそうたる会社が名を連ねている。一時期世界をリードしていた日本の半導体は、凋落しつづけて韓国や台湾の後塵を拝するようになってしまった。彼らはあとから開発を始め、巨額の設備投資をすることで日本に追いつき、追い越していった。日本は自分で作るより、安く買えるなら海外から買えば好い、と首位の座を譲った(他にもアメリカによる暴力的な圧力もあったが、それはいつものことなのでいまさら言わない)。

 

 世界の主要企業のランクの多くを占めていた日本企業は、気がついたら世界ランク50位までにトヨタしかいないという状態になった。あの蓮舫女史の「一位でなければいけないんですか?」という呪いにかかり、日本の経営者たちは、競争に勝ち抜くよりも目先の利益を確保すれば自分の身は安泰なのだ、という楽な経営に甘んじた。リストラ、人件費の節約、設備投資の減少、そのはての日本の衰退である。これでどうして賃金が上昇することがあろうか。

 

 身を縮め、金を使わないことで会社を保持しようとすれば縮小するしかないのである。これは技術屋の発想ではない。こころある技術屋はそういう経営者と反目し、海外の会社へ転職していった。人材流出、技術流出である。経営者は高額の技術屋がいなくなって、ほっとしていた。私は営業員として中国企業や合弁企業に転職した技術者たちに会って、それを目の当たりにした。優秀な人ほど海外に行った時代がつづいた。日本の企業はなんとバカなことをしているのだと嘆いたが、私には何もできない。

 

 日本のデフレマインドというのはそういう時代の思想の結果であって、私から見ればただの負け犬根性でしかない。政府の経済政策がそれをカバーなど出来るはずはなかったのだ。「高くすれば売れない」というのは言い訳で、高くても売れるものを作るしかないのである。まさか原価を割らないにしても原価すれすれでいつか破綻する価格で売らなければならない商売なら、やめるしかないのだ。そんなあたりまえのことが物を作ったことのないマスコミの記者達には全く理解できない。値上げは悪だ、現に消費者が困っているではないか、国民が困ることは罪悪だ、という論理が長くつづいた(いまもつづいている)。テレビでは、値段が上がると生活が苦しくなる、というインタビューを人を変えながら百編返しで報じている。馬鹿ではないか。そんな国はどこにもない。だから日本だけ景気が回復しないのだ。

 

 これはあまり賛同を得られないかもしれない私の勝手な見方ではあるが、すくなくとも、もう一度次世代半導体にチャレンジしようという機運については大いに意を強くしている。何より、他国のサプライチェーンなど、これからどこまで信用できるかわからないのだから。呪いが解けると好いのだが。

2022年11月10日 (木)

そういう指摘も知っておいて好い

 谷沢永一の昭和47年4月6日の読書コラムから全文引用する。

 

 ▽与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」は、トルストイの論説の用語を拾い集めてつづった作品だった。木村毅が『トルストイ展カタログ』(昭和41年11月)に寄せた論文「日本におけるトルストイ」で初めて指摘して人心を驚かせて以来の定説だ。トルストイの有名な非戦論がロンドンの『タイムズ』紙に出たのが明治37年6月、そして早くも8月7日付『平民新聞』に、幸徳秋水と堺枯川が巧みな翻訳で紹介、晶子はそれを読んで作詩し、9月の『明星』に発表した。
 ▽ところで用語をトルストイに借りた晶子の思想内容はどうか。『和魂洋才の系譜』(河出書房新社)で好評を得た柔軟な比較文化史家・平川祐弘が高橋幸八郎編『日本近代化の研究』上(東大出版会)に収めた「平和を唱える人と平和を結ぶ人」の中で、木村毅の論をうけついでさらに発展させている。晶子のこの詩は、個人主義の自我主張や反政府思想より以前の、公的な士族の倫理とは対立する、士農工商の最下位に置かれた私的な商人の意識を表現したものだと、新味を出している。
 ▽晶子は鉄管と結ばれるため老舗を誇る家を飛び出し、親を捨てた不孝者だという自責の念が強く、自分の代わりに家を継ぎ親に仕えてくれる末の弟に熱烈に期待していた。問題の詩には、社会や国家が視野になく、「旧家」「家を守り」「母のしら髪」など、「親」と「家」の心配だけだ。商家の倫理と意識を純粋にうたい上げた詩を、素直に鑑賞せず、なんでも反体制思想にこじつけた戦後思潮を反省すべきだろう。

 

 反戦の思いというのは、社会性や倫理の問題というよりも、私的な感情的なものであっても全くかまわないと思う。谷沢永一もそう言いたいわけではないはずだ。与謝野晶子には「反戦」の思いが強くあったとしても「反体制思想」をうたうはっきりとした意図はなく、ことさら「反体制思想」に結びつけることがこじつけではないか、と言っているのだ。私もそう思う。

中国農民調査

 陳桂棣・春桃夫妻著の『中国農民調査』という本を読み始めている。日本では2005年に出版されたこの本は、2004年1月に中国で出版され、大センセーションを起こし、マスコミにも取り上げられたが、二ヶ月後の2004年の3月に発禁処分となった。題名に「調査」となっているが、これは調査報告書ではなく、夫妻が当時の農村の実態をルポルタージュしたノンフィクションである。

 

 当時中国の農村では係争事件が頻発し、数十人、数百人単位の争議が、年にすくなくとも十万件以上起きているという情報が漏れ伝わっていた。北京にはその農村の実態を訴えるために陳情にやってきた農民の代表者が何万人もひしめいているというニュースも観た。いったいなにが起きているのか。

 

 その実態の一端がこの本に書かれているのである。

 

帯には
「急成長する都市経済の背後で、貧困と窮乏にあえぐ9億の中国農民たち。毛沢東の革命闘争を支え、改革開放政策で豊かになったはずの彼らに、何が起きているのか。ある作家夫婦が、中国屈指の穀倉地帯を3年間取材。そこで明らかになったのは、税金や公金をでっちあげて農民を搾取する「悪代官」のような地方官僚と、圧政に耐えかねて抗議する農民を暴行、殺害するヤクザのような警察と公安の姿だった・・・。」
と書かれている。

 

 この本を出版当時に読み始めたのだが、半分程度読み進めたところで、そのころはまだ現役時代の単身赴任中で、仕事の忙しさと自宅に置いたままであったことで、中断してそのままになっていた。読むとその恐るべき内容におぞましさすら感じるのであるが、今回最初から読み直して当時の感覚を思い出していた。

 

 前半は実際にあった凶悪事件、そして後半はそれが中央政府によってどう取り上げられ、どう処理されていったのか、詳細に記されている。登場人物はすべて実名、地名も実際の地名そのままである。

 

 想像通り、あるべきように対処された例は少ない。たまたま農民側の主張が認められたように処理されても、数年後には必ずといっていいほど元の木阿弥に返る。

 

 習近平の腐敗撲滅のスローガンが中国全土で受け入れられ、支持されていった背景には、このような実態があった。しかしそのことが習近平の個人崇拝、個人独裁につながったことは、結果的にこのような中国の体質そのものを変えるというより、先祖返りにつながったようにしか思えない。

 

 ちなみにこの本の『中国農民調査』という書名は、1920年から1930年にかけて、若き毛沢東が中国の農村調査を行い、そこから思想を展開したことを踏まえているのだそうだ。

2022年11月 9日 (水)

レミングの集団自殺は事実ではないらしいが

 開高健の『パニック』という短編がある。五十年に一度、百年に一度という竹の開花と、その実がなることで異常発生大繁殖する、鼠によるパニックを描いたものだ。事前にそれを察知し、その対策を進言する市役所の職員とそれを無視する役所の上司。そしていったんことが起こってから姑息に事実の経緯を弥縫して責任をのがれようとする人びとの姿の醜さ、その後の食害のすさまじさなどがリアルに描かれていて、私が開高健ファンになったきっかけの作品だ。

 

 『エクソシスト』という映画は有名で、続編がいくつか作られてすべて観ているけれど、インパクトはもちろん最初のもので、しかし私が一番好きな作品は『エクソシスト2』という二番目のものだ。最初の事件が起きて四年後、再びリーガンに異変が襲う。今回のエクソシストはなんとあのリチャード・バートンであり、そして彼によって悪魔の正体が暴かれていく。ここでは蝗害、つまりバッタの異常繁殖による大食害の恐怖がテーマなのである(ネタバレなのでこれから観ようとする人はごめんなさい。あまりいないと思うけど)。

 

 異常繁殖ということでは、レミングという鼠が有名だ。有名な理由は、この鼠が集団自殺をするとされているからだが、実はそのような事実はないという。レミングは大繁殖すると集団移動をする。その際に一部が川に落ちたり崖から海に落ちたりする。それが集団自殺に見えたらしいが、本体は移動しつづけるそうだ。

 

 異常繁殖した生き物は、周辺のものを食べ尽くし、移動していく。そして突然激減する。その繰り返しをするらしい。これは食べるものだけの話だが、人間は食べ物ばかりか空気や水や燃料まで消費しつくしつつある。地球温暖化とはその果て、その結果であって、事態は猶予のない状態だという。しかしCOP27の会合は紛糾して収拾がつかない状態のようだ。異常繁殖の後の大激減が起こる日が迫っているらしい。それを一部の若者だけが感知している。彼らには時間がないことがわかっているのだろう。私の持ち時間は彼らよりも短いから、ちょっと他人事で、それでもエネルギー消費は極力無駄のないように努めることにしている。そもそもそれくらいしかできることがない。まさか自殺するわけにも行かないし。

ニラとネギ

 ベランダの大きな鉢にニラとネギを植えてある。先日、ニラは一斉に花が咲いて種になりかけたところで全部根元近くから切り取ってしまった。そうなると硬くて美味しくないからだ。肥料をたっぷりやってこれで冬越しさせようと思っていたら、一斉に葉をのばした。刈り取って餃子に使った。柔らかくて美味い。本当に生命力がある。

 

 ネギは、おしゃれネギという薬味用のネギの根の部分を鉢に植えたものだ。活着すれば元気に伸びていく。土によって活着度合いも成長の度合いもちがうのが不思議だ。麺類などの薬味に重宝する。これからは鍋のシーズンで活躍の機会が増えるから、新しく細ネギを買って根の部分を植えた。いま新しい葉が伸び始めている。別に細ネギの種を買い、蒔いてみたのだけれど、どうも細い葉のままで活力がない。何か問題点があるのか、こういう極細のネギだったのか。

 

 別にバジルの鉢があるが、こちらは初夏から夏にかけて繁茂し、大量に葉っぱが利用できたが、花が咲いて種が出来たので採取して引き抜いた。来春また蒔く。しかしたぶん蒔かなくても勝手に芽を出すはずだ。とにかく繁殖力が強くてそこら中に芽を出すのである。

 

 今年は長期に出かけることが少なかったので、水を切らしても帰ってすぐ水をやればこれらの植物は生き延びることが出来た。来年はマンションの役も交替するので、思い切って長期で遠出するつもりであり、そのときのために水をやる装置のようなものがあるらしいのでそれを用意しようかと思う。ただ、水をためてあるものが外部と開放されていると、蚊の発生の原因になりかねないので、そのへんが気になる。

野菜

 生野菜は昔からあまり積極的に食べなかった。炒めたり煮たものは好きでよく食べる。漬け物も子どものときから食べることは食べるけれど、自分から食べたいと思うほうではなかった。糖尿病と診断され、食事指導の先生から野菜を積極的に食べるように言われた。だから野菜を意識して食べるようになったのはこの十年ほどである。冷蔵庫に常に野菜類が常備されるようになった。常備すると使い切れずに傷んでしまうことがあるのが口惜しい。上手く使い切れない自分が愚かに思えるからだ。

 

 漬け物も漬けるようになった。今のところは主に白菜の浅漬けでそのまま食べるだけではなく、インスタントラーメン用の野菜としても使用する。意外といける。あとは小松菜の野沢菜風浅漬けで、これは押しをかけるのではなく、塩もみしてから醤油と酢と砂糖と赤唐辛子を混ぜて揉み、一日二日おいてから食べるのだが、簡単でありながらそこそこ食べられる。他にも色々簡単な漬け物のレシピを知るたびにノートにメモしてあって、時々試してみている。漬け物は生だから、生で野菜を食べているのだ。いまは食事指導は受けていないが、いまなら野菜を食べていますと胸を張れる。イバるほどのものではないのだが・・・。

2022年11月 8日 (火)

選挙否定派

 アメリカの中間選挙の共和党の候補者の半数が、選挙否定派だそうだ。選挙結果を受け入れるか、と問われると無言であるか、せいぜい、正しい結果なら受け入れる、と答える。正しい結果とは何か。自分が当選するという結果だ。落選した場合は選挙は不正だから受け入れないと公言するトランプ前大統領を支持する人々らしい。

 

 選挙否定派は最強である。決して負けないのだから。しかしそもそもそれなら選挙する意味はないのであって、勝手に自分は当選したと唱えても良いことになってしまうのだが、それが熱狂的に支持されるアメリカの民主主義とはなんなのか。トランプによって箍がはずれて、そのままはずれっぱなしのお祭り騒ぎが当分続きそうだ。理性を失った集団はこわい。狂気の沙汰からまともに戻ることはとうぶんなさそうだ。

 

 アメリカには復元力があるというのはどうやら神話に過ぎないらしい。アメリカはすでに衰退が後戻りできないほど深刻になりつつあるのかもしれない。

力を示さなければ力を持てない

 岸田首相の支持率がじりじりと下がりつづけている。見た目の無難さが好意的に受け止められて高支持率がつづいていたのに、国民のあいだに失望感が次第につのりだしたということであろう。

 

 政治家にとって支持率は力であると思う。もともと自民党内で力があまりない岸田氏は、党内では周辺に気を遣わざるをえないのだろうが、首相になったこと、支持率が高いことは一時的にせよ力である。そのときにその力を背景に力を発揮することで主導権を行使すれば、結果的に実際の力につながっていく。そのチャンスを見失い、力を発揮すべきときに力を使わなかったことで、力を持ち損ねた。そうしてすべてに気を遣わざるをえないことによる迷走がつづいている。山際氏の処遇に象徴される統一教会問題の対処の大失敗は、自民党そのものの自浄作用の欠如を露顕させるという愚を国民に明らかにした。

 

 こういう事態にリーダーとして力を使わずにどうするというのだろう。支持率が少しずつしか落ちていないことが不思議なくらいだ。自分の党の代表として党をリードできないで、国政を担うことなど出来ようか。野党の無策に助けられているだけの自民党の一強体制に、国民が腹をたてて背を向けるのは間近い気がする。

願望するのはわかるけれど

 あり得ないような、想定外の悲惨な事件や事故が起こるとよく聞かれるのが「二度とこのようなことがないように」という言葉だ。被害者の関係者が、自分の悲しみを他の人が味わうことのないことを願っての言葉としてはよくわかるが、私はその言葉を聞くと虚しい気持ちになることが多い。

 

 一度起こるとみな用心する。ときに過剰に用心する。対策も万全にとられる。しかし時間の経過とともに記憶は薄れ、忘れたころにまた起こる。今回のソウルの転倒圧死事故にしても、人のたくさんいるところほど人が集まるという習性はどうやら本能的なもののようで、まさか集まるな、というわけにも行かないから、いつかは似たような事故が起こるだろう。

 

 そもそも祭りやイベント、スポーツなどは人を集めなければなり立たないものだ。サッカー場での群衆事故はくりかえされている気がする。人気が過熱すればそれに向かって人は蝟集する。人は危険を察知する能力が弱い生き物なのかもしれない。それとも、もともとはあったその能力を失ってしまったのか。臍曲がりで人の集まるとこがきらいな私は呆れてみているばかりだ。

2022年11月 7日 (月)

くるぶしが見えた

 今朝までダル重だったのに、今日昼過ぎから何かが脱け出たように身体が楽になった。微妙に高かった体温も落ちて、平熱に戻った。何よりむくみ気味だった左右の膝から下がすっきりし、むくみに埋没してあまりはっきりしなかった左右のくるぶしがはっきり見えるようになっている。足の甲もすっきりした。

 

 そういう次第での午後の泌尿器系の定期検診の結果は、異常なし、順調ですということだった。むくみについて尋ねたら、検体検査による泌尿器系の結果では問題はありませんということである。塩分を控えるように心がけて様子を見てみて下さいとアドバイスがあり、私も懸念していたことなので納得した。

 

 それは良いのだけれど、先生が用事で遅れて一時間以上診察を待たされた。おかげで本がゆっくり読めたが、もともとかなり余裕を持って出かけているところでの、想定しない待ち時間は余り嬉しくない。

とても快適

 いつもより少し丁寧に部屋を掃除して、炬燵を設置した。これから来春まで炬燵の守に変身である。足が温まることがこれほど快適なこととは思わなかった。早く設置すれば好かった。

 

 上巻をまだ半分も読めていないのに、『谷沢永一選集』の下巻をその炬燵の中で読み始めた。出だしの百ページほどが書評集(「署名のある紙礫」)で、大判二段組で、中身が濃厚なので一時間に三十ページほどしか読めない。読めないというより読み進めてしまうのがもったいないのでゆっくり味わっているのだ。ドラマや映画鑑賞ばかりつづけていたので、ひさしぶりの読書三昧を楽しんでいる。

ダル重(おも)

 このところ身体かなんとなく重く感じられて、そのせいか何もやる気が起こらない。泌尿器系の疾患を抱えていて、そこの不調が影響しているのかと心配している。今日午後はその定期検診の日。病院へ行くのがなんとなく気が重いが、ちゃんと診断してもらわないといけない。早めに行って検尿を済ませ、その結果が出次第診察がある。特に問題がなければあっという間に終わる。大して時間はかからない。

 

 身体がだるいのは塩分の取り過ぎで、その結果泌尿器系の機嫌が悪いのではないかと想像している。適当に汗をかかなければならないと思うが、ダル重だと身体を動かすのが大儀で、悪循環なのである。

 

 週末には金沢へ用事で行く予定で、ついでに能登へでも行こうかと思いながら、まだどこへも宿泊の予約をしていない。もったいないけれど、日帰りにしようかと迷っている。

2022年11月 6日 (日)

OB会

 現役時代に勤めていた会社にはOB会があり、季刊で会誌を送ってきてくれる。懐かしい人の消息を知ることが出来るが、残念な知らせを目にすることもある。ハイキングやテニス、ゴルフなどの催しも行われているし、総会もあるが、私はどれにも参加したことはない。年会費を払って会誌を読むだけである。

 

 会誌に投稿を求められて、二三度お粗末な文章を書いたことがある。今回の会報とともにまた投稿を求める手紙が付せられていた。何を書こうかと考えて、今年遠出をした場所、そしてたぶん読む人があまり知らないところについての話をまとめて、やっつけ仕事ですぐに送った。投稿が多くて出来がいまいちなら乗らない。はたして次回掲載されるかどうか。ちょっと心配している。そこそこ文章の達者な同僚や先輩が多いのだ。

言い訳がましく聞こえる

 プーチン大統領が、「ロシアには開戦責任はない、衝突は不可避だった」と述べたそうだ。侵略戦争を開始したのはロシアであるというよりプーチン大統領であるが、聞きようによっては言い訳がましく聞こえる。

 

 何しろ「ウクライナに台頭したネオナチ政権」などという言い方をしているのであって、いきなり侵略戦争を起こされて民間人が次々に殺されているウクライナが、どうしてネオナチなどと呼ばれるのか、ウクライナの人はもちろん、まともにふだんのニュースを観ている人にはさっぱり理解できない話だ。

 

 こんな決めつけ、言いがかりが通用してしまって、国連も一致してロシアを非難できないていたらくを見せられると、世界は混沌に向かっているというくらい気持ちになる。

 

 北朝鮮の北部は稲作があまり出来ず、主食はジャガイモで、そのジャガイモが不作な為に飢餓状態に向かっているそうだ。北朝鮮に餓死者がたくさんいるのかそれほどでもないのかちっともわからない。情報筋は、悲観的な情報ばかりを流している面がなきにしもあらずにも思える。ミサイルの滅多打ちは、自棄のヤンパチの末の行動か。習近平第三次政権への祝祭の打ち上げ花火か。それを諒として中国は国連での北朝鮮非難決議に反対したのか。

うるさい

 何にもやる気がしない。炬燵を出そうと思いながら、まだだ。テレビばかり観ていて本もあまり読めていない。散歩もしばらくしていない。しばらくこのままで、スイッチが勝手に入るまで待とうと思うが、入るかどうかわからない。

 

 今日は岐阜の祭りで信長行列があるのだそうだ。数日前からキムタク、キムタクとうるさい。ローカルだけかと思ったら、全国のニュースでも報じていた。人が殺到して事故がないように入場制限をしているらしいが、応募が制限数の何十倍、岐阜市の総人口の倍もあったそうだ。事故がなければよいが、などといいながら、マスコミは事故を期待しているのではないかと勘ぐっている。

2022年11月 5日 (土)

確信犯の饒舌

 近く日本を離任することが決まっている駐日ロシア大使のガルージン氏が、昨晩のBSフジのプライムニュースに出演してウクライナ侵略戦争について蕩々とロシア側の主張を展開した。このひとは日本滞在が長く、日本語もふつうの日本人よりも巧みであり、その弁舌はあのオウム真理教の「ああ言えば上祐」をしのぐものがある。

 

 その言い分は、西側諸国の一員である日本の国民として大いにバイアスのかかっている私には、ことごとく異様な主張ではあるが、ロシア人とっては当然の主張なのだと考えれば、その乖離の甚だしさに絶望的なものを感じざるをえない。

 

 松岡洋右ほどとはいわなくても、戦時中の日本の外交官の多くもそのようであったかもしれない。そもそも外交官は一般国民よりもはるかにさまざまな情報に接する。自分の信ずるもの、自国の利益とは別に、それに反する情報にも接しながら、それに影響されないようにしなければ役割を維持できない。

 

 しからばどうしても確信犯的な言動にならざるをえない。そうでなければ心の安定を保てないだろうと想像する。そんな風に考えるのは私が虚弱な精神の持ち主だからだろうか。

 

 そうして確信犯として相手の主張に対して、自分の主張を異常なまでに饒舌に語るという図式となる。ガルージン氏にそういうものを見せられた。あまり見たくなかったのだけれど、これが最後だと思って我慢して観て聴いていた。ちょっとだけ、アメリカの罪、というものを考えさせられたりした。

2022年11月 4日 (金)

歯間ブラシ

 三ヶ月に一度歯科に行き、歯のメンテナンスをしてもらう。時期になると案内の葉書をもらうので、忘れないですむのはありがたい。おかげで歯槽膿漏もほとんどなく、知覚過敏以外は特に歯に問題はない。もっと若くからそれなりのメンテナンスをつづけていれば、もっと良かったと思うがいまさらしかたがない。

 

 歯石をためないために歯間ブラシを使いなさいとアドバイスをもらっているのに、それを怠るから半年に一度歯石除去の処置を受ける。慣れてきたからいまは息が出来るが、以前は鼻で息が出来なくなって窒息しかけることが多かった。このところ、心がけて食事後に歯間ブラシを使うようにしている。そのあとにふつうに歯を磨く。心なしか歯の調子はさらに良いし、今日のメンテナンスの時間も短く感じた。歳をとったら日ごろから身体のメンテナンスをした方がよいようだ。

 

 頭の方はどうしよう。

しかたがないんだ

 演歌が衰退した、というと演歌ファンは怒るだろうが、賛同する人は多いだろう。むかしは耳に入る音楽のジャンルは多くなくて、演歌が耳に入ることが多く、なじみもあったけれど、いまは多種多様で演歌との出会いは激減して、若い人は演歌を聴かない人がほとんどだと思う。演歌歌手もビッグスターが出にくくなった。

 

 そんなことを考えていたら、千昌夫の『星影のワルツ』が頭に浮かんだ。『星影のワルツ』が演歌かどうか異論もあるかもしれない。演歌には別れの曲が多い。別れのシーンを想像するとしみじみとした哀感が湧く。そう言う涙が心を洗い、心が癒やされた気になるのかもしれない。そのなかの「しかたがないんだ君のため」という一節が昔から気になっていた。

 

 むかしは「しかたのない」、個人では如何ともしがたいことで男女が別れざるをえないことがしばしばあった。そもそもが身分が違うから一緒になることが許されない関係などというものもあった。いまはほとんどそういうことはない。一緒になるのも別れるのも二人の意志による。愛し合うものの離別は、多くが病気や事故による死別だろう。

 

 それなら「しかたがないんだ君のため」という言葉はあまり共感を呼ばないことになる。別れそのものが運命的なものではなくなって久しい。こんな言葉は男の都合のいい言い訳にしか聞こえない時代だ。演歌の常套句が時代から取り残されて、必然的に演歌そのものが衰退しているのではないか、などと妄想した。

高かったけれど高くなかった買い物

 二十代の半ば、まだ給料はわずかであったが、そのわずかな給料に見合うだけの仕事も出来ないでいたのに、連日のんだくれていた。営業は多少手当が多いが、それもほとんど使いつくしていた。そんなときに、酔った勢いで高価な本を買った。社会思想社の『日本を知る事典』という、百科事典のように大きくて厚い本で、定価はなんと6800円、このあと次の給料までつましい日々を送らなければならなくなった。

 

 民俗学に興味があったし、日本の習俗など、ほとんど知らないことが、これを読めばわかるのではないかと思ったのだ。いままでにたぶん1000円分くらいしか読んでいない。それでも折に触れ、ちょっと開いてみたりする。

 

 日本人の特性は何かなど、大づかみのものの捉え方は普通読むことは出来ないけれど、この本には多くの専門家が、自分の考えることをこの本に書きこんでいる。玉石混淆だが、いろいろ教えられる。すでに失われた習俗も、ここに記されて残っている。せめてあと1000円分くらいは読みたいと思っているが、結局高い買い物ではなかったと今は考えている。どうせ飲んで使っただろう金だったのだから。

2022年11月 3日 (木)

三英傑の奇禍

 名古屋に円頓寺(えんどうじ)商店街というアーケード街がある。名古屋に赴任したときに、営業所から歩いて近い商店街で、名古屋では最も古いアーケードだと教えられた。その商店街の近くで串揚げ屋というのを初めて体験し、「二度づけ禁止」ということを教えられた。会社の近くの行きつけの飲み屋の母子でやっている飲み屋が、もともと円頓寺ではやっていた店の流れであることをあとで知った。その店のことや、いきさつについてはいろいろと聞いたドラマがある。

 

 その店とのいろいろな思い出を語ると別の話になるが、今回はその円頓寺に置かれている三英傑の像の奇禍についてである。三英傑とは、信長、秀吉、家康、という三人であって、名古屋のお祭りでも三英傑行列というのがあり、この地区の人には特別の思い入れがある。そしてこの円頓寺にはその三英傑の像が置かれているのである。そしてことあるごとにこの三英傑の像が奇禍に遭う。

 

 今回は家康の像が一部破損しているのが発見された。嵐の誰やらが主演で、来年は徳川家康の大河が放映されるらしい(こういう書き方で、私は来年の大河は見るつもりがないことを表明している)。その家康の像を破損することで、何かを主張するつもりらしいバカ者がいたのである。世の中は本当に難しい。そういう人間にはそれなりの理屈はあるのだろうが、わたしにぱそんな人間と語る言葉があるとは思えない。

失う

 今朝、また夜明け前に起きてしまって、録画してあった昨晩の『英雄の選択』などを観ているうちに、二度寝した。

 

 面白くない夢を見て、起きたときは寝汗をかいていた。海外旅行へ出かけるために、飛行機の都合で、ホテルのような、クラブのようなところで雑魚寝をしていた。いつも一緒だったF君もいた。つい飲み過ぎてみなが出かける時間になってもなかなか起きられない。ようやく起きて、自分の鞄も靴も一切合切がなくなっていることに気がついた。さいわい身につけていたもの、財布やカード入れは残っていた。必死で探し回るけれど、見当たるはずもない。あたりには誰もいなくなった。

 

 呆然としていると「OKCHNですか」と女性に声をかけられた。航空会社の女性が探しに来たらしい。ついていきたいけれど、着るものの入った鞄も靴もないからどうしようもない。「旅行はあきらめます」と言ったところで目が覚めた。どこへ行こうとしていたのかわからないけれど、惜しいことをした。

 

 まさかF君があちら側へ誘ってくれていたのではないと思うが。

好きな映画

 モンブランさんから、おすすめ映画を問われたので、コレクションの一部を列記します。ほんの一部です。

 

『ウインターズ・ボーン』2010年アメリカ、ジェニファー・ロペス主演。『スリーピー・ホロー』1999年アメリカ、ジョニー・デップ主演。『ワイルドバンチ』1969年アメリカ、サム・ペキンパー監督、最後の西部劇。『単騎、千里を走る』監督チャン・イーモウ、高倉健主演。『トゥルー・グリッド』2010年アメリカ、ジェフ・ブリッジス主演。『駅 STATION』1981年、監督・降旗康男、高倉健主演。『カサブランカ』1942年アメリカ、ハンフリー・ボガート、イングリット・バーグマン。『リメンバー ミー』2017年アメリカ(アニメ)。

 

 全部あげるとこの十倍をはるかに越えます。どれを観ても、観て良かったと思ってもらえると思います。

 

 ここに書かなかったものが山ほどあって、悶絶しそうです。

2022年11月 2日 (水)

やがて

 言葉はメッセージを伝えるためのものである。言葉を、その意味を限定していくことで、伝える側と受け取る側の正確な伝達を目指す文化が西洋的で、あいまいさを残すのが東洋的、などと勝手に考えている。デジタル化の時代に、あいまいさは扱いにくさであり、迷惑なことだろう。デジタル化が西洋からはじまったのは理由のないことではないのだろう。

 

 言葉には相反する意味が与えられていることがある。これは東洋であれ西洋であれ同様なのは面白い。言葉の辞書がすべて一つの意味だけを与えられていればデジタル化も翻訳も簡単であるが、そういうわけにはいかない。

 

 山下一海という俳論の研究をしている学者の、『芭蕉と蕪村』(角川選書)という少し古い本を寝床で拾い読みしている。学術論文ではなく、句をいくつか取り上げて随筆風に折に触れて書いたものを短くまとめたもので、やさしい文章なので読みやすい。

 

 その中に、『芭蕉の「やがて」』という一文があり、

 

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな

 

という句と、

 

  頓て(やがて)死ぬけしきは見えず蝉の声

 

が取り上げられて、「やがて」という言葉の意味を考察している。

 

 例によって岩波国語辞典で「やがて」を引いてみる。
①まもなく。かれこれ。②直ちに。時を移さず。③そのまま。④すなわち。とりもなおさず。
とある。

 

 時間の経過を念頭に置いた「まもなく」だけだと思ったら、ずいぶんいろいろあるのだ。上に取り上げられた二つの句の解釈は、「まもなく」として行われるのが普通のようである。

 

 しかし著者は「鵜舟」の句を「そのまま」という解釈で無時間的な、つまりおもしろうて、とかなしきとが表裏一体だという解釈こそが句の真意を捉えるのではないかという。そうなると「蝉の声」の方もいままさに生を謳歌するごとく鳴く蝉こそが死と背中合わせだという事になる。これはわかりやすい。知識としての時間経過による死の影ではなく、いま鳴いているこのときにこそ死が張り付いているという解釈なのかと思う。同じようだがちがうとみるのだろう。

 

 こういう深い読み方もあるのだなあ。どちらが正しいということはないのだろうけれど。

 

朝のつづき

 悪質寄付規制についての新法成立が先送りされることになるそうだ。BSフジのプライムニュースで、自民党のこの法律についての担当の若宮議員の新法ついての歯切れの悪さから、こういう結果になるのは想像できた。結果を見て決めつけたら申し訳ないが、そもそも旧統一教会に対する規制など、する気がないのだろう。そうとられても仕方がないということは、国民が自民党を旧統一教会と同一視することにつながり、破滅的な事態になるかもしれない。そういう想像力が若宮議員には毛筋ほども感じられなかった。それにしてもプライムニュースに同席していた公明党の、名前は忘れたが某氏のごとくは、言っている言葉がちっともわからないしどろもどろで、見苦しいことこの上なかった。 

 

 ロシアの大富豪25人の資産が、年初から12兆円失われたとロシアメディアが伝えた。失われたものは空に消えたのか、誰かのふところにおさまったのか、それはわからない。消えたのだとしたら、資産というのはそういう霞のようなもののようだ。ロシア全体ではどれほどの資産が喪失しているのだろう。プーチンの資産はどうなったのだろう。ロシア国民は窮乏に耐える力が格段にあるそうだ。金がつきなければ戦争は終わらないもので、そのためのロシアへのさまざまな規制なのだが、早くロシアの金がつきて欲しいものだ。

 

 れいわ新選組の議員である水道橋博士が、うつ病により活動を休止するそうだ。れいわ新選組のような党に所属するのがどういうことかいまごろ気がついてうつ病になったのだろうか。

目が覚めてしまって

 四時前に足が攣りかけてとび起きた。蒲団から足が出て冷えたためらしい。あわてて温かくし、様子を見たが、筋肉がぐりぐりとうごめいていまにも攣りかけておさまらない。特効薬の漢方薬を飲むために起きざるをえなかった。飲めばたちまちおさまる。しかし起き出してしまったので、早朝ニュースを観たりネットニュースなどを拾い読みした。

 

 新型コロナは、第八波がはじまった気配だ。人が動いてもおさまるときはおさまるし、増えるときは増えるのか、それとも人手が増えたから単に増えたのか。また十万二十万と感染者が増えたら制限が行われるのだろうか。もう成り行きで良いではないか、という声が多くなっているような気がする。

 

 韓国の圧死事故では、かなり早い時間から警察に通報があったのに見過ごされた、というマスコミによる批判が報じられている。基本的に警察は事件や事故が起きてからしか行動しないもので、通報があったのに動かなかった責任を問われるのは仕方がないが、現場にいない人間には事態を理解することは困難だっただろうなという気はする。韓国では、誰かが押したから群衆雪崩が起きた、という犯人捜しが行われているという。事実と関係なしに犯人にされたら恐ろしい。

 

 韓国の朝鮮日報が、「韓国は日本から間違ったハロウィン文化を取り入れてしまった」と報じた、という情報がネットで飛び交い、また日本のせいだと韓国が報じている、と騒がれていたようだ。ところが、きちんと記事を読んだ人によると、「日本や韓国は、ハロウィンの宗教的意味など無関係に、間違った受け入れをした」という記事であって、どう読んでも日本のせいだという意味にはとれないという。こういういかにも、の情報が飛び交うのがネット社会で、あの関東大震災のときの、デマによる朝鮮人虐殺を想像してしまった。デマでも人は死ぬのである。

2022年11月 1日 (火)

頼ると危険

 経済の指標は、短期的なものばかり見ていると振り回される。とはいえ、中国の習近平政権が掟破りの三期目に入り、終身政権の可能性が高くなり、そして、それが理由とみられる、海外投資家の中国離れが起きているというニュースは注目に値する。

 

 毛沢東時代の悪夢が再来するのではないかというおそれを、投資家も感じているようだ。李克強という経済に明るい首相が退場し、次期首相は、上海市長が務めるそうだが、この上海市長は習近平に忠実で、経済など度外視のゼロコロナ対策を強行した人物で、経済に明るい人とは思われない。習近平が脇を固めさせた人物たちのなかに、経済を得意とする人ははたしているのだろうか。

 

 さまざまな指標が中国経済の下り坂を示していて、特に直近の四半期のGDPは予想以上に低かった。ゼロコロナ政策の影響であることは明らかだ。共産党大会のさなかに発表されるはずのGDPの数値は、発表が大会後に先送りされた。どうせ操作される統計値であるとはいえ、あまりにインチキをしすぎるとあとで修正が効かなくなる。それでも数値が低いということは、たぶんもっと悪いにちがいないと思わせてくれる。そう海外の投資家も考えるから、投資資金を引き揚げ始めたということだろう。今後の中国経済の動向が気になる。あまり悪化するとそれをごまかすために台湾への侵攻など始めかねないのが習近平だと私は思っている。

 

 ところで日本以上にその中国経済に大いに頼っているのが韓国経済であるのはよく知られているが、韓国企業の負債増加速度が世界主要国で二番目に速いのだと韓国のマスコミが報じている。一番目はベトナムだそうだ。韓国から輸出していた品目の多くが、次第に中国生産に切り替わりつつある。一時的ではなく、韓国は加速度的に中国市場を失っていくおそれがある。日本の輸出品よりも、韓国品の方が中国が自国生産に振り替えやすいことは以前からわかっていることだ。

 

 韓国企業は一時資金の融資額を増やさざるをえない状況で、銀行からはもちろん、金利の高いノンバンクからの借り入れも増えているという。それが負債増加速度の加速、という報道の意味らしい。

 

 文在寅時代、日本との関係を最悪にしてしまったツケを、いま韓国は支払う状況に追い込まれつつある。その経済の悪化を現在の尹大統領に負わせて責任を追及し、再び左派政権を誕生させたりしたら、韓国はますますにっちもさっちもいかなくなるだろう。

 

 以上はたまたまこの数ヶ月の経済動向からのニュースを元にしたものだから、長期的に見れば状況は一変するかもしれない。それにしても、東アジアの衰退はどうも西洋人が内心望んでいることなのではないか、などと勘ぐるのはゲスの勘ぐりか。なにごとであれ、日本をはじめとした東アジアが台頭しようとすると、ルールを変えてくるのは彼らの常套手段だし。

韓国の圧死事故

 韓国の群衆雪崩による大量圧死事故では、亡くなった人の三分の二が女性だったそうだ。周りからすさまじい力が加わったときの耐久力が、女性の方が弱かったということだろうか。一定以上の力が加わったとき、窒息状態になるのだという。女性の方が身長が低いことが多いから窒息状態になりやすかったのかもしれない。

 

 専門家がさまざまに述べていることを合わせると、こういう群衆雪崩が起きるのは一平方メートルに10人以上が押し込まれた場合らしい。すし詰めの満員電車でもせいぜい6~7人程度だといい、たぶん実際は15人以上だった可能性が高いという。圧力で足が浮き上がり、さらに窒息して失神し、転倒者が出るとそこへ人が折り重なって倒れ込む。何百キロという圧力に人は耐えられない。

 

 私がこの事故について、被害者が同時に加害者であったとブログに書いたのは、誰が悪かった、などと言いたいのではなく、渋滞などと同様に、原因はそこに自分がいたことにあるという哀しい事実である。

 

 事故があればその責任を問う声が起こる。もちろん行政の責任がないはずはないのであるが、行政は事故が起きるまでは、その事故を想定できるほど想像力を有しない。事故に遭った人だってそんなことは想像できなかったはずである。それならこれからどうしたらよいか、それを考えるしかない。

 

 現に日本でも明石の歩道橋の惨事を教訓にさまざまな予防対策が講じるられるようになっている。行政も、あたらためてもう一度見直しをするだろう。それなのに対策を怠ったとき、その責任は厳しく問われることになる。

 

 ところで韓国はセウォル号転覆事故のあと、ちゃんと対策をしているのだろうか。私が知らないだけかも知らないが、なんだか当然問われるべき責任も、朴槿恵非難の大合唱の陰で、うやむやに終わっている気がしないでもない。それなら今回の事故もまたくりかえされるかもしれない。

パパママ

 私が子供だった時代、親をパパママなどと呼ぶ友だちはほとんどいなかった。あるちょっとした金持ちの女の子だけがパパママというのでみんなはおかしがった。たいてい父ちゃん母ちゃん、お父さんお母さんで、私や弟はお父ちゃんお母ちゃんと呼んだ。先日、兄弟で旅行したときも、両親のことを話すときはそう呼んでいた。私の息子や娘はお父さんお母さんと呼ぶし、弟や妹の子供たちもみなそうで、パパママなどとは呼ばない。

 

 その弟の息子や娘の子、つまり弟の孫たちはみなパパママと呼ぶ。いま、親をパパママと呼ばない子供はどれほどいるのか。そう呼ばない子は珍しいのではないか。妻の兄や姉の家ではすでにパパママだった。だから私が親になったころは、お父さんお母さんとパパママが混在し、パパママが主流に変わっていった時代だったようだ。

 

 パパママと最初から呼んで育った子供にとって、親はパパママであって、それ以外のものではない。それでもわずかに人前でいうのはなんとなく言いにくく、父母(ちちはは)かお父さんお母さんと言い換えているように思うがどうだろう。もう言い換えすらしないのか。

 

 娘のどん姫は子どものときにクレヨンしんちゃんが乗り移り、ずいぶん大きくなるまで私に呼びかけるときはとっつぁんなどと言った。聞き慣れてしまうと私もそれに違和感がなくなった。彼女なりの照れだったのだろう。いまはもちろんお父さんと呼ぶ。

 

 呼び名は良いとか悪いとかいうことではないけれど、言葉が人に影響を与えることは事実であって、親の呼び名が変わった時代と時代の精神が連動しているような気がするのは考えすぎか。価値観も変わったのではないか。そういう統計的社会学的研究はないのだろうか。

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