やがて
言葉はメッセージを伝えるためのものである。言葉を、その意味を限定していくことで、伝える側と受け取る側の正確な伝達を目指す文化が西洋的で、あいまいさを残すのが東洋的、などと勝手に考えている。デジタル化の時代に、あいまいさは扱いにくさであり、迷惑なことだろう。デジタル化が西洋からはじまったのは理由のないことではないのだろう。
言葉には相反する意味が与えられていることがある。これは東洋であれ西洋であれ同様なのは面白い。言葉の辞書がすべて一つの意味だけを与えられていればデジタル化も翻訳も簡単であるが、そういうわけにはいかない。
山下一海という俳論の研究をしている学者の、『芭蕉と蕪村』(角川選書)という少し古い本を寝床で拾い読みしている。学術論文ではなく、句をいくつか取り上げて随筆風に折に触れて書いたものを短くまとめたもので、やさしい文章なので読みやすい。
その中に、『芭蕉の「やがて」』という一文があり、
おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな
という句と、
頓て(やがて)死ぬけしきは見えず蝉の声
が取り上げられて、「やがて」という言葉の意味を考察している。
例によって岩波国語辞典で「やがて」を引いてみる。
①まもなく。かれこれ。②直ちに。時を移さず。③そのまま。④すなわち。とりもなおさず。
とある。
時間の経過を念頭に置いた「まもなく」だけだと思ったら、ずいぶんいろいろあるのだ。上に取り上げられた二つの句の解釈は、「まもなく」として行われるのが普通のようである。
しかし著者は「鵜舟」の句を「そのまま」という解釈で無時間的な、つまりおもしろうて、とかなしきとが表裏一体だという解釈こそが句の真意を捉えるのではないかという。そうなると「蝉の声」の方もいままさに生を謳歌するごとく鳴く蝉こそが死と背中合わせだという事になる。これはわかりやすい。知識としての時間経過による死の影ではなく、いま鳴いているこのときにこそ死が張り付いているという解釈なのかと思う。同じようだがちがうとみるのだろう。
こういう深い読み方もあるのだなあ。どちらが正しいということはないのだろうけれど。
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