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2022年12月

2022年12月31日 (土)

ありがとうございました

 今年一年、ささやかでありますがココログを通してご縁をいただきましてありがとうございました。皆様にとって来年が好いお年であるように祈念して年末の挨拶とさせていただきます。

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 毎年使いまわし、恒例の写真です。今晩から正月は酒の制限は完全解禁して、おいしい酒を楽しんで過ごすつもりです。この写真通りの私をご想像いただいて笑ってください。息子が相手です。

食べている気分

 暮や正月はニュース番組が少ないし、定期的に見ている番組も休止しているものばかりなので観るものがない。観るものがなければテレビは放送していないのと同じだ。と思いながら、今年の『孤独のグルメ』の一括放送などを観ながら雑事を片付けている。この番組、好きだけれど録画してまで観ていないから観ていないものも多い。松重豊がいかにも嬉しそうに口福を楽しんでいるのを観ながら、自分もその料理を食べている気分になる。

 演技でおいしそうに食べてみせるのと、本当においしいと思って食べているのかは見ていればわかるものだ。あまり賢そうでないタレントが奇声を上げて食べるグルメ番組の、やかましいばかりで嘘くさいのと比べるとこちらはいかにもうまそうだ。それも街の食堂で出会うおいしいものなのだから格別だ。

 現役時代は営業で外回りしていたから外食が多かった。同じ地区だと行く店がだんだん限られてくるけれど、時々飛び込みで新しい店にチャレンジする。お客さんに教えてもらったこともある。当たりが出ると嬉しいものだ。カレーの店、てんぷらの店、ミニ洋食コースのレストランなど、懐かしく思い出される。おいしい店ほど混んでいるのはとうぜんで、入る時間を考慮しないと満席だったりする。だんだんあの店なら早めに、とか遅めにとか考え、学習する。今はひとりで外食するのは旅に出た時だけで、当時が懐かしい。

 私は何を食べてもおいしいと感じられるほうだけれど、飛び込みで入った時にとんでもなくまずいものを食べることもないではなかった。かえってそういう店のほうが忘れられない。またいくつか思い出したらそのことでも書こうか。それにしても大晦日にずいぶんのんびりとしたことを書いているなあ。年末の御挨拶は夕方するつもりである。

 午後、息子が広島から帰省してくる。つまみに何を作ろうか。

2022年12月30日 (金)

大体こんなものか

 一通りの掃除と片付けも終わり、買い出しも、刺身などの生モノ以外は済んだ。スーパーは元旦から普通通りの時間に営業するので、買い込む必要はないのだが、暮にまとめ買いするのは習慣になっている。レジは混んでいるが、心配したほど時間は食わなかった。まだやることはあるけれど、座り込んだら動く気がしなくなった。本屋をのぞいてつい買ってしまった数独パズルを始めたら、どうにも途中でやめられない。久しぶりなので難解コースではなく、上級コースを買ったから制限時間内で解けるけれど、つまらないところでミスする。やることがあるときほどこういう時間つぶしがやめられなくなるものだ。

 外は寒い。日本海側は雨から雪になっているのではないか。尾張西部にあたる我が家のあたりは伊吹おろしの風が時々吹き抜ける。マンションのビル風になるのだ。風花が舞うこともある。今日はどんよりして日が差さないから見た目も寒い。いよいよ明日で今年も終わりだ。今年のブログをすでに終了している人もいるようだが、私は明日も駄文を書いてから年末挨拶をさせてもらうつもりである。明日は息子が広島から帰ってくる。夜は酒盛りの予定。積もる話はいろいろあるし、息子の話も聞きたい。つい私がしゃべりすぎてしまうので、気をつけようと思うのだが、日ごろ誰とも話していないからつい止まらなくなる。昨晩の娘との話もそうだった。自分ではおしゃべりのつもりはないが、実はおしゃべりなのかもしれない。

うまい酒

 昨晩は娘と二人で鍋を囲んで歓談した。娘は正月用の酒として三河の酒、蓬莱泉の酒蔵の大吟醸「花野の里」、「空」、そして宮城県の酒・浦霞の「禅」の三本をぶら下げてやってきた。重いのにご苦労様である。亭主と二人で選んでくれたそうだ。亭主が仕事の終わった夜に迎えに来るまでゆっくりできるというので二人で鍋でもしようということになり、寄せ鍋をした。やはり鍋は話し相手があって食べるのがうまい。

 亭主は電気工事の仕事をしていて、ふつうは工場などの建屋内の仕事が多いのだが、たまたま戸外の仕事が重なり、喘息気味で体調不良だという。だからいま酒を控えているし、年末から正月が却って忙しい仕事なので、大変なのである。熊のような(娘のどん姫の形容)いかにも頑丈な体つきで柔道の猛者なのだが、案外病気しやすいようで心配だ。そのうえどん姫も、持病になってしまった潰瘍性大腸炎がこのところ再びぶり返しているので、あんまりたくさん食べられないし酒もあまり飲めないという。

 正月にはならないけれど、飲んだことのない「花野の里」をいただくことにした。一口だけ、といってどん姫は口をつけた。フルーティでしかもさっぱりしたとても飲みやすいうまい酒で、私がすいすい飲むのにつられて杯をちょっと重ねていた。娘とは中学生の終わりから長い間あまり口を利かなかったけれど、二十代の半ば過ぎからはずいぶん話をするようになった。その娘はうさぎ歳生まれだから、来年は年女である。全然実感がないなあ、などと笑っていた。

 迎えに来たどん姫の亭主は想像よりは元気で、「だいぶ体調は戻りましたが、例年通りしばらく忙しいのでしばらく自重します」とのこと。お酒のお礼を言う。「ごちそうさま、正月にお兄ちゃんのいるときにまた来ます」と二人で仲良く帰っていった。

2022年12月29日 (木)

ななめ読み

 今日あたりから高速道路は年末の渋滞に入るらしい。子供が成人する前は名古屋から千葉に帰省して、実家で正月を過ごしたから、東名で渋滞に遭うことはしばしばだった。だから真夜中に出て早朝につくようにした。夜走るから疲れる。普段運転しない人が走っていることが多くなるから事故も多いし、走り方もスムーズでないから渋滞に輪をかける。今はわが家が帰省先になり、渋滞はテレビで観る他人事だ。

 若者の餅離れが進んでいる、などという記事を目にした。餅を作らないし買わないし食べないという人が増えているという。しかし、そもそもそういう若い人というのはもともと家で料理を作ることがないのではないか。餅を買わない作らない人の割合と、家でご飯を炊かないという人と多分同じ割合だと思う。

 資産が三億あるのにコンビニで値引き弁当を買う人の話などが取り上げられていた。資産が三億もあれば豪華な外食を頻繁に楽しんでいていいはずなのに、と書かれていたが、頻繁に外食するような人はお金がたまらない。そこそこ収入があると思われるのに生活が苦しいという人が、案外一番贅沢な食生活を送っていたりするものだ。金持ちは金をためるために倹約に努めることが習慣になっているから値引き弁当を買うことに何の不思議もない。同様な記事で、年収二千万なのにお茶は自宅で入れたものを持参するということが、さも特別なことのように取り上げられていた。記事の裏面に、貧乏な読者におもねる気持ちが見えたりして、ひがみ根性を持つ貧しいこちらとしては却って不愉快だ。ほっといてくれ。確かに金持ちはもっと金を使ってくれ、というのはわからないことはないのだけれど。

2022年12月28日 (水)

ぼちぼち

 娘のどん姫に用事があってメールしたら、明日午後やってくるという。メールには大掃除をちゃんとしているか、という一言を添えていたので、返事には「ぼちぼちやってます」と書いてある。私同様に掃除が苦手で心配なのだが、少なくとも「ぼちぼち」くらいはやっているらしい。

 私自身の大掃除は半分くらい進んだ。あれをしてこれをして、と考えていたのだが、例年のようにこれくらいでいいやということで終わりそうだ。それにしても少し体を動かすとすぐ休憩したくなる。すごく疲れやすくなっているのを実感している。日ごろの鍛錬を怠っているせいだろう。フローリングの床に拭き取り磨きワックスでもかけようと思ったが、ちょっとやっただけで腰が痛い。

 日持ちのする正月用の食材を買いに行った。まだスーパーはそれほど混んでいない。多分30日、31日はごった返すだろう。スーパーのカードに少し余分に金を入れておいた。暮から正月は思っている以上に出費が多いものだ。大晦日にかけて一日ごとに買うものをメモしてある。スーパーは一日から開くらしいので、そんなに用意しておく必要はないのだが、これも習慣である。

 今日は八の日、末広がりの日なので晩にお飾りをドアに飾る。餅も買った。明日は九(苦)の日なので縁起物は買ったり飾ったりしないほうがいいというのが母の教えであった。

言葉を選ぶ

 ジャーナリストの江川紹子さんが、言葉を選ぶことは考えることだ、と語っているのをテレビで観た。SNSでの言語空間が、単純化した短い言葉のやり取りでエスカレートしていくことを危惧してのものだった。善悪や正義がその過程で一方化していく風潮を的確に指摘していると思う。

 本来感じたり思ったりしたことを文字にするときには言葉を選ぶ。選ぶためには考える。なぜなら自分の思いや感じたことを最も伝わりやすいと考える言葉を使いたいからだ。そうして言葉を選んでいるうちにさらに新しい思考が生まれてくるもので、そのうちにその範囲が広がって、当初思ったよりも深くなり、もともとの考えの不十分さ、危うさを自覚することもできてくる。考えるということは、繰り返し反芻して咀嚼することに似ていて、咀嚼がなされることで初めて栄養として自分に取り込まれる。そうして取り込まれたうえで発せられた言葉こそがほかの人に伝わる言葉になるのだと思う。

 寸鉄ひとをさす、という。的確な言葉は人の胸を打つ。だから短い言葉のほうが力を持つことは多い。しかしそれは考え抜かれ、選び抜かれた言葉が発せられたからで、思い付きで発した言葉にはそういう力はない。SNSのやりとりが怖いのは、発した本人が後で考え直してもデータとして残ってしまうことで、それなのに伝播力が格段に強いということだ。それに、寸鉄ひとをさす、の寸鉄のような言葉をなかなか発することはできないもので、思いや考えを伝えるためには普通は言葉をたくさん使用しなければならないものだ。

 だから、と我田引水するが、私はSNSはやらずにブログを書く。多弁を弄しながら自分の言いたいことがまとまらず伝わらないが、とにかく鈍才ながらこれ以上頭が錆び付かないように、考えることだけは続けている。

2022年12月27日 (火)

産地偽装

 九州の食品商社が、中国から輸入したゴボウを青森産と偽って販売していた疑いで捜査が行われている。少し前に海外産のアサリを国内産と偽って告発されたものに続いての食品の大型産地偽装事件である。そういえば、つい先日には北朝鮮産のシジミが違法輸入されていた事件もあった。これらの明らかになったものはごく一部で、実は食品の産地偽装はそこらじゅうで行われているのではないか、などと疑ってしまう。

 それだけ利益が大きいということなのだろうが、同時に安心安全なものがそれだけ数量が限られているという現実もあるのではないか。信用できないのは、中国産の食品に信用を損なう事例が続いたからである。過剰に敬遠するのは敬遠するほうが悪いとばかりは言えない。しかし、だから高いけれど国産を買うという意識を逆用するのはもってのほかである。同時に国産のものの増産を図る必要があるのはもちろんなのだが、多分日本で作ると現在の流通している食品の価格はさらに高くなるのだと思う。その隙間を狙ったこざかしい連中が食品偽装事件を生んでいるのだろう。

 安いものは安く、安心安全なものはコストに見合うような価格で販売できるようにすることが食品偽装をなくす正しい唯一の道だろう。そのためには食品偽装を摘発する組織をさらに強化する必要があると思う。見逃していたのはそれだけ手が回らなかった可能性もあるが、実は見て見ぬふりをしてきた行政の部分もあることは、前回のアサリの偽装事件のときに明らかになっている。

 あのアサリの産地偽装事件はNHKのドキュメントで取り上げられて問題になって初めて具体的に事件として扱われた。そういう意味では見事なスクープだった。ところで今回の輸入ゴボウについて、先日、やはりNHKの番組で、コンテナにどんなものが積み込まれて輸出入されているか、というのを観たことがあり、その時に中国からの大量の輸入ゴボウを観た。そのゴボウは洗われて白いものだった。輸入農産物は土付きで輸入することはできないことを報じていた。ところが今回の青森産として偽装されていたものは土付きである。なんとわざわざ輸入ゴボウに土をつけて偽装していたのである。悪質であり姑息である。

 NHKには教えられることもいろいろある。

 

滅亡と再生

 生物は体内に炭素化合物を取り込んでそれを燃焼させてエネルギーを生み出し、生きている。そして炭素化合物を燃焼させることで二酸化炭素を生成させる。それだけでは酸素も失われ、二酸化炭素が空気中に増えるばかりである。それを植物が光合成することで二酸化炭素を再び炭素化合物に戻し、酸素を放出して大気を再生している。これが炭素循環で、地球は生物にあふれる星になった。

 その炭素循環が人類によって損なわれようとしている。何億年もかけてため込まれた炭素化合物をわずか百年、二百年で使い尽くそうとしている。太陽光発電は、植物の行ってきた光合成を代替しようとする試みだけれど、ためることがうまくできないから補填はほんのわずかで追いつかない。そのうえ太陽光発電の装置を作るためにも大量のエネルギーを必要としている。生物が生きるために行ってきた炭素化合物の消費よりはるかに多くのものを人類は経済活動のために使用している。安い石油エネルギーこそがアメリカに富をもたらし、経済をけん引することになったと長谷川慶太郎は喝破した。二十世紀は石油エネルギーの世紀だったのだ。

 古代文明は大きな集落をなし、巨大な人口を管理された農業が支えた。人々は土地を耕し、種をまいて食料を生産した。牧畜で羊や牛を養った。しかしどの文明もやがて滅びてしまった。どうして滅びたのか。疫病や旱魃、戦争などが原因と考えられてきたが、そのような文明の栄えた場所の多くがその後砂漠化していることから、旱魃によるものである可能性が高いようだ。その旱魃の原因が、気候変動などの外部からやってきた要因によるものではなく、土地を耕すこと、牛や羊が草を食べつくしたことで土地の再生能力を失わせたことによるのではないか、という説明はすでに繰り返し唱えられてきた。

 炭素循環、そして水の循環の異常が地球に起きている。そのことの原因が人間の活動によるものであることは明らかだけれど、人間はそれを認めてこなかった。何しろ急激に人口が増え続け、その人たち全てがエネルギーを大量消費する豊かな暮らしを求めているのだから。そしてその人口を支えるために食料を増産していかなければならない。農業は機械化され、土地はますます疲弊し、大量の農薬と肥料の使用で再生が困難な土壌を生み出し続けている。

 どうしたらいいのかわかっているのにどうしようもない、というのが今の状態のようだ。長い時間から見れば人類の栄枯盛衰などほんの一時のことで、やがてまた再生が始まるのだろう。再生は人類が滅びた後のことなのか、人類自身がもたらすのか。こういう大きな問題は他人事のようにしか語れない。何しろ自分が存在して生きていること自体が循環に害悪をなしているのだから。せいぜい寒さを我慢してストーブを点けないでいるくらいのことしかできない。

 

2022年12月26日 (月)

 今頃になると餅が食べたくなる。醤油と海苔で食べるのも好きだけれど、黄粉で食べることが多い。山形にはずんだ豆を使ったと思われる少し鶯色をした黄粉があって、昔は新庄の叔母が送ってくれたりしたが、その叔母ももういない。香ばしくて普通の黄粉よりもおいしい。多分ネットで取り寄せられるだろうが、そこまでしなくても普通の黄粉でも十分美味い。

 子供のころは同じ街に住んでいた親類が麹屋をしていて、そこでは機械で年末に餅を搗く。商売で搗くから何百升も搗く。搗いた餅を親類総出で徹夜でのしもちや鏡餅にしていく。千葉県だから角餅、つまり切り餅である。私も子供のときから高校生までのしもちをのしていたからプロである。多分今でもきちんと平らに均一にのすことができる。簡単そうだが案外むつかしいのだ。それにつきたての餅はとても熱い。それに慣れるのには年季がいるのだ。搗きたての餅を大根おろしで食べたりあんころ餅にして食べるおいしさは忘れられない。

 父が餅を切る。餅が大きい。父は山形の最上郡生まれで、子供のときは丸餅だったそうだ。焼かずに鍋で煮て食べるから柔らかかったという。父は雑煮で大きな角餅を八つくらい平気で食べた。今の一つ一つ包装された餅の1.5倍以上はあった。私でも五つくらいは食べたものだ。女の人というのは喉が細いのだろうか、あまりたくさん食べない。妹も娘も一つの餅を持て余しながら時間をかけて食べている。

 生まれ育ったのが九十九里に近いところなので、雑煮には何種類かの海藻を板状に干したものをあぶって砕いたものを山盛りにかけて食べる。今はそういう海藻も採る人がいないのか採れないのか、一枚千円とかするらしく、とても手に入らない。今はすましに鳴門、餅菜(こちらに暮らして初めて知ったこの時期だけの雑煮用の菜っ葉である) 鶏肉を入れる普通の雑煮を食べる。二日酔いでなければ五つや六つ食べられるが、控えめにしている。

すこしずつ

 さすがにそろそろ大掃除を始めないと、例年のようにもういいや、で中途半端になってしまう。寝室兼遊び部屋にしている北側の部屋をまず片付けて、いつもは丸く掃除機をかけていたのを隅々まで丁寧にかけた。そこに各部屋に出たままになっている本を集めて積み上げて、ひとつずつあるべき場所に収めていった。読みかけが三十冊以上あるし、読むつもりで出したままのものがたくさん山になっている。予想外にうまく収まった。本は重いからあっちへ移し、こっちへ運びしていると結構体があったまる。そのあと、いまは寝室の布団に布団乾燥機をかけて膨らませている。今夜はあったかく寝られるだろう。

 午後は机回りの片づけをするつもりだけれど、昼まででくたびれてしまった。それと、せめて納戸にしている部屋の片づけをしてストーブを出そうと思っている。今年はまだ暖房設備はこたつだけでしのいでいる。けっこう体はそれになれることができるものだ。それにもともと寒さには強いほうだ。それにしても朝の室温は少しずつ下がっていて、ウクライナの人たちには申し訳ないけれど、ガスストーブを出そうと思う。今年はガス代が高いだろうなあ。

意見を聞く

 意見を聞くというのは、異見を聴くということでもあって、自分の考えと同じことばかりを聞いていては意見を聞いたことにならない。独裁者が、時に耳に痛いアドバイスをしてくれる相談相手をつぎつぎに粛清していって、耳に心地よい意見だけを言うイエスマンだけが取り巻きに残ると、自分が常に正しいと思いこんで修正が効かなくなる。

 

 そんな人間は最後は破滅すると思いたいが、権力が強大になるとなかなか破滅することがない。スターリンや毛沢東や金日成のように最後まで強権を維持して人生を全うすることもある。金日成など、子や孫まで強権を継承しても破滅しない。破滅は願望であって必然ではないようだ。人類に災厄をもたらすようなそういう人間を排除することができないというのは、人類には欠陥があるということかもしれない。

 

 プーチンをとめられるのはプーチンだけ、習近平をとめられるのは習近平だけ。災厄だけが続いていく。その果てにどんな未来があるのだろうか。希望は彼らが病気になることぐらいだというのも情けない。

 

 どこかの国の首相も、意見を聞くことに努めると公言しているが、あまり異見を言う取り巻きがいないという噂もあって心配だ。意外と頑固で聴く気もあまりないともいうし。

2022年12月25日 (日)

良くない兆候

 やたらに口寂しくて腹が減る。甘いものがものすごく欲しくなる。酒を飲み始めるといつものように切り上げられずに飲みすぎてしまう。これは糖尿病のよくない兆候で、ここを我慢しないと悪化は薬だけでは止められない。頭ではわかっていても体が要求しているから意志ではなかなか止められない。

 このところ自分を少し甘やかしてきた。中途半端なことではいけないので、あすから(今日はもう飲み食いしてしまった)摂生するつもりだ。自分なりの手順がある。年末に息子が来た時に楽しく飲むための節制である。そう思えば我慢できるだろう。  

今年のニュース

 今年のニュースを振り返れば、まずロシアのウクライナ侵略戦争があげられる。戦争というのはこういう風に始まるのだ、こういう風に始められるのだ、ということを思い知らされた。第二次世界大戦以後幾多の戦争があった。戦争というのは理不尽なもので、勝つと思う側から始められる場合は特に悲惨だ。しばしばその理不尽さが、勝てば官軍という論理で納められてしまう。そういう戦争で味を占めたロシアによってはじめられた今回のウクライナの戦争もそのつもりだったのだろう。その結果は意外なウクライナの善戦で予断を許さなくなっている。ロシアはすでに引っ込みがつかないところに追い込まれていて、泥沼の状態が続くだろう。

 私にとって最も衝撃的だったのは、阿部元首相の銃撃による殺人である。日本でこのようなテロ事件が起きるなどとは全く予想外のことだった。なぜそんな事件が日本では起きないと思っていたのか。警備がきちんとなされるはずだという思い込みがあったからかもしれない。銃撃犯が悪いのはもちろんだけれど、そういう人間がもしいてもそれを阻止できる体制があるはずだと安心していた。

 だから私は銃撃そのものについて衝撃を受けたと同時に、事件の後の奈良県警の記者会見の様子に衝撃を受けたとともに怒りを覚えたことを思い出す。そこに観られたのはこんな事件を防げなかったことについての無念と反省はあまり見られず、身内をかばいあう姿ばかりが印象に残った。こんな組織だから事件を防げなかったのだなあと思って激しい怒りを禁じえなかった。そのことが忘れられない。

 彼らは安倍晋三を殺させてしまい、そして日本の安全神話を喪失させた。そのことの責任の自覚はあるように見えなかった。

 ほかにもいろいろ思い出すニュースはあるが、この二つのことが別格的に重い記憶として残った。

 

データを示せ

 中国の新型コロナウイルス用のワクチンは効果が弱い、と私は前に書いたが、これは憶測である。有効だ、と反論するならデータを示せばいい。中国はあらゆることをデジタル的に集めて瞬時にデータ化しているといわれる。それなら感染者と重症化率とワクチン接種の有無の関係のデータはあるはずだ。しかしそれは無理だろう。何しろ発表される感染者の数そのものが事実とはとんでもなく違うらしいから、データにしようがない。恣意的な人間の手が加えられたデータはデータではない。

 しからば翻って西洋や日本ではどうなのか。最近のワクチン接種の有無と感染率、そして重症化率についてデータが見たいものだと思っているのに、近頃あまり目にしていない。私が見逃しているのか、データはあるけれど発表されていないのか。ワクチンの有効性を示すのに、試験的な限定的なデータをとるよりも、膨大な数の実際の接種者と感染率、重症化率についてデータは時々刻々ととれているに違いないのに、その発表がないのはどうしたことか。ワクチンの有効性を示すことこそがワクチン接種率を高める最大の根拠となるはずではないか。

 実はワクチンは製薬会社のぼろもうけに資するものであるだけで、すでにたいした効果はない、などと疑われないためにも、日本だけでもデータを示すべきだろう。莫大な金が支出されたなら、その効果の検証は絶対に必要なことである。それが近頃あいまいなのはどうしたことか。実はウイルスが弱毒化したためにいかにもワクチンが有効であるかのように思わされているだけなのか。ワクチンとはただのファンタジーか。そんなことはないとデータで明らかにしてほしいものだ。

2022年12月24日 (土)

なかなか当たりが

 年賀状が済んだのであとは大掃除に取り掛からなければと思いながら、座り込んでたまったドラマや映画の録画を観ている。なかなか観てよかったと思うような当たりがない。

観続けずに途中で打ち切った映画

 『MONSTERS モンスターズ』2014年日本映画 主演・藤原竜也、山田孝之。共演・石原ひとみ。テンポは悪いし、セリフもききとりにくく、イライラする。監督は中田秀夫だし、藤原竜也だって山田孝之だって大根役者ではないのにそうにしか感じられないのはどうしたことか。超能力ものの映画は嫌いではないのだが、これはひどすぎる。

最後まで観たことは観たけれど、途中で早回ししたりした映画

 『ナイトピープル』2013年日本映画 出演・佐藤江梨子、北村一輝など。原作が逢坂剛で本当はハードボイルドだと思うのだが、まったく映画になっていない。どうしたらこんな風にリアリズムのない作品が作れるのだろう。観るのは全くの時間の無駄。佐藤江梨子、好きなんだけどなあ。

久しぶりに観た韓国映画

 『クロッシング』2008年韓国映画 北朝鮮の脱北者を描いた映画で、いくつもの実話を組み合わせたものと思われる。北朝鮮の残酷な実態をこれでもかというほど見せてくれる。運命に翻弄される父子、そして出会う様々な人々、極限に至れば人は生きるために人間性を失っていく。私だっていざとなればわからないだろう。特に子供たちが過酷な生き方を余儀なくされているのを見るのはいたたまれない気持ちだ。

そこそこよかった映画

 『HOME 愛しの座敷わらし』2012年・日本映画 出演・水谷豊、安田成美、橋本愛、浜田龍臣ほか。こういうファンタジー映画こそ、農村風景の映像を丁寧に描かなければならない。それが登場人物もセリフも含めて自然に、つまり嘘くささのない映画に仕上げてある。ラストができすぎではあるが、観た後にいい気持にさせてくれた。気持ちがイライラしているときにはこういう映画がいい。

 ほかにwowowで英国サスペンス『THE BAY 3 偽りの仮面』全六話を一気観した。イギリスや北欧のサスペンドラマは外れがなくて面白い。これも出足はどうかなと思ったけれど、一度はまり込んだら最後まで夢中で観てしまった。部隊はイギリス北西部の海岸の町だが、移民が数多く住み着いて、元からの住民との軋轢が背後に重くのしかかっている。海で見つかった有望な新人ボクサーの死体、その遺族の抱える様々な問題が絡み合ってドラマは展開していく。こういうのがリアルなドラマというものだ。シリーズの1と2とは主人公が変わり、新しくなった。主人公の抱える家族の問題も展開に大きくかかわってくる。

 『相棒』と『科捜研の女』も新旧放映されているものをすべて観ている。なかなか忙しい。

そうなのか、そういえば

 日本を訪れる外国人が急激に回復しているらしい。そのうち三分の一が韓国からの観光客だという。そういえば先日妻籠宿に行った時も日本人と同じぐらい外国人がいた。東南アジアからの人が目についたし、やはり多かったのは韓国の人だった。妻籠宿を訪ねるような人は、あまり騒がしくなく、日本らしい日本を観ようという人でマナーがちゃんとしていると感じた。中国人はこれから増えるのだろうか。私はやかましいのが嫌いだし、中国人は周りを気にせず大声でしゃべるから、中国人の多い観光地は敬遠したくなる。だから京都にはあまり行かなくなったかわりに奈良に行くようになった。奈良は土産物を買うよりも日本の昔を訪ねたい人が行くところだ。

 韓国からの観光客が増えていることを報じている記事では、韓国のノージャパンと関連させていたが、そもそも韓国のノージャパンはマスコミや一部強固な反日の人たちが騒いでいたことで、ふつうの韓国の人は日本のものを買ったり日本に行くことを気にしたりしないようだ。関連させた報道というのは実は問題のある報道の仕方かもしれない。

 その韓国についてアメリカのCNNが、韓国では毎年数千人の孤独死があって問題になっていると報じたそうだ。その数は急増しているのだという。そして男性のほうが女性の四倍であり、必ずしも老人ではなく、中年男性の孤独死もかなりいると報じている。韓国の都市部では不動産が高騰していて若い男性が新たに住宅を購入できない状態が長く続いているし、若い人の失業率も高いから、当然結婚できずに孤独に貧しく暮らす人が多いだろうことは想像できる。自殺率も高いと聞いている。日本だって同様だ、といわれるかもしれないけれど、程度の問題で、激しい競争の中で落ちこぼれた時のセーフティネットが韓国の場合はぜい弱なのではないかと思う。ゆとりのある時にその備えをしてこなかったから国際競争力が高かったけれど、いま経済が落ち込み始めてからその備えをしようとしてもそのゆとりはないだろう。ますます孤独死は増えるに違いない。 

朝が白い

 夜明け少し前に目が覚めて、外が白っぽい気がしたので外を見ると雪が降っていて、積雪もしている。今朝は今年初めて白いものを見るかもしれないとは思っていたが、積もるほど降るとは驚いた。予報では五センチくらい積もるだろうという。もうすでにそのくらい積もっているようにも見えるのだが。

 名古屋高速は全面的に通行止め。この地方では冬用のタイヤを履いていない車のほうが多いから、物流が滞ることだろう。幸い今日は土曜日で、通勤しない人が多い。仕事のある人は不自由するだろう。隣のスーパーにはトラックが来て荷物の積み下ろしをしているようだから、買い物には困らないだろうが、外は眺めるだけにして外出はしないで済めばしないことにしよう。

 そういえば今日はクリスマスイブ。独りだからとくに御馳走を作る予定もしていない。なにかつくろうかな。

2022年12月23日 (金)

続・目についた中国のニュース記事

 中国人民銀行の総裁が「穏健な通貨政策を精確に実施し、金融支援を強化する」と考えを表明したそうだ。中国経済はゼロコロナ政策によって減速し、投資が減少することで不動産バブルが崩壊しかかっている。不動産バブルで回っていた地方政府が多額の負債によって次々に危機に陥ると予想されている。ゼロコロナ政策のなし崩しの中止は外出規制に反発して騒いだ一部国民の行動の結果なのではなく、経済を回さないと大変なことになるという必然的な判断によるものだ。「金融支援を強化する」というのはそういう危機的な状態にならないように金を出す、ということだろう。

 世界がインフレになっている。中国だって物価は上がっているだろうと思うが、中国は金利を上げていない。そのことを「穏健な通貨政策の精確な実施」といっているようだ。しかし、それは経済減速が起き始めているときに金利を上げることで景気をさらに冷やすことができないという事情によるもので、したくてもできないことをあたかも政策であるように言っているに過ぎないように思える。

 ヨーロッパのインフレはエネルギーの不足高騰による要素が大きい。ところが中国はロシアの石油や天然ガスを買い叩いているから、そのぶん楽をしている。だからインフレもそれほどではないことが幸いしている。そうでなければもっと深刻な事態になって国民の不満が増大しただろう。

 ゼロコロナ政策の緩和で中国のビジネス意欲が復活し、世界中に商談チームが次々に訪問している、というニュースを見た。まことに結構なことであるが、感染が急拡大しているというのが事実なら、中国が売ろうとしているものが問題なく生産できるのか、物流は大丈夫なのか、成立した商談が正しく履行されるのか、相手は心配だろう。

 中国の学校では、「クリスマスは祝うな」という指導がなされているという記事を見た。これに対し「クリスマスはやりません。私たちは中国人です」とか「私は中国人です。西洋の祝日は拒否します」などと生徒が答えているそうである。よい子だね。習近平国家主席が「これからの中国共産党の中心的な任務は、中国式現代化をもって、中国民族の偉大な復興を全面的に推進することである」というありがたい教えに基づく教育方針なのだそうだ。

 ところで、中国で急拡大中の新型コロナ感染は、分母がほかの国とはけた違いだから、それだけ変種が生ずる可能性が高くなる。弱毒化しつつあるとはいえ、突然強毒化した全く違うウイルスが出現しないとは限らない。歴史的に新種のウイルスは中国発であることが多い。今人類はその危険を迎えようとしているかもしれないのだが、その対応策は正しい情報を伝えようとしない国によって阻害されていることを忘れてはならない。悪いことは必ず隠すのがあの国だ。杞憂に終わればいいのだが。

 

目についた中国の記事

 イギリスの医療調査会社によれば、中国の一日当たりの新型コロナ感染者は百万人以上、死者は五千人以上だという。中国の公式発表によれば、直近一週間の感染者数は千八百人、死者は七人だ。それぞれどんな統計の取り方をしているのか不明だが、実際の数字はこの間にあるだろうと思われる。しかしそれにしてもこの間の空間は広すぎて気が遠くなりそうだ。

 この会社によれば、感染のピークは来年一月に来るだろうという。さらに三月初めにも来ると予想されるそうだ。今感染が急拡大しているのは都市部で、これが地方に波及するのが旧正月以後の三月だろうということだろう。

 中国が初めて外国製のコロナワクチンを受け入れるそうだ。ドイツ人向けというのでどういうことかと思ったら、中国に住むドイツ人に接種するものだという。今まで中国滞在の人に対しても海外のワクチンは許可されていなかったということらしい。これをきっかけにドイツからワクチンを輸入する道が開かれると思われる。mRAワクチンに比べて中国製のワクチンは弱毒化したコロナウイルスであって、変種に対しては効果が期待できないとみられている。そのワクチンすら全く足らないから、ゼロコロナ政策をとるしかなかったということだ。ただし、アメリカからの輸入は拒絶しているらしいから、中国国民はワクチンを接種する機会が当分ないということで、当然重態化する人は多いだろう。そもそも免疫が全くない状態に置かれていきなり大感染なのであるから。それにいきなり中国がワクチンを買い集めたら世界中のワクチンが足らなくなってしまう。

実体経済

 BSフジのプライムニュースで真田氏が、ロシアに対する経済制裁が効果を発揮していないのは、ロシアが実体経済の国であることの強みがあるからだ、と語っていた。アメリカは金融面での制裁が効果を発揮すると思っていたのに、ルーブルの価値は一時的に低下したが、今は制裁前より上昇しているのは誤算だったに違いないとのことである。経済音痴の私には、金融経済というものがまやかしではないかという思いがあったので、この説明には大いに納得した。実体経済の裏付けのないお金の価値というものは幻想そのものではないのか。

 アメリカは基軸通貨を特権的に利用して世界の覇権を握ってきた。その基軸通貨の魔法が今解けつつあるのではないか。そうしてデジタル通貨という新しい魔法が、とってかわるかもしれないという。そのデジタル通貨がドルに代わるものとして機能し始めると、ドルを基準に動いていた世界が変わってしまう。デジタル通貨によって物の売買が直接決済されるになると、現在のように銀行による介在が不要になるのだという。

 デジタル通貨の会社が破綻する事件が起きている。これは背後に新しい世界を何とか歯止めしようという力が働いているのかもしれない、などと妄想する。

 アメリカは食料もエネルギーも資源もふんだんに保有する国で、実体経済でやっていくことが可能な国でもある。いまアメリカが物を国内で生産しようとする動きこそ、実体経済への回帰の必要性を思い知った結果なのかもしれない。日本はやはり物を作って売るという基本に戻らないと生きていけないということだろう。世界が変わりつつあることを教えてもらった。勉強になるなあ。

 銀行の支店がどんどん閉鎖されているのは当然の成り行きなのだろう。

2022年12月22日 (木)

コロナ禍関連ニュース拾い読み

 オックスフォード大のデータによれば、昨年十月以降(岸田政権発足以降)、日本の百万人当たりの新規感染者数と死者数はG7でワーストを記録し続けているという。日刊ゲンダイが報じていたが、本当だろうか。岸田政権はコロナ感染に対する対応が積極的ではなく、その象徴が経済再生大臣を辞任した山際氏が、辞めた四日後にコロナ対策本部長に就任したことであるという。次々に辞任や更迭の続く岸田政権だが、山際隠しにだけは熱心だ、というのが記事の言いたいことであるようだった。

 確かにあの山際氏というのは弁舌明晰で論理的だが、ちょっとさかしら気なところ(自分は賢いという気持ちが表に出ている)が鼻につくので私もあまり好感が持てない。それこそお粗末な失態で今回議員辞職した薗浦氏の話し方のほうが感じよく思えていたくらいだ。

 コロナについてはすでに各国の対応がそれぞれに変化しており、統計数値そのものが統一されているとはいいがたいので、日本がワーストというのは、ただ規制緩和が遅れていることの表れとみることもできるのではないか。何しろ中国の死者数は十四億人で一日ゼロとか二人とか五人とかいうのである。比較にならない。まあ中国はG7ではないけれど。

 福永某という弁護士が、高級ホテルのレストランでノーマスクを理由に朝食ビュッフェの利用を断られたことで、ツイッターに不満をつづったそうだ。ホテル側は、公共の場所であるから着用をお願いしたと説明し、福永某氏は「義務ではない」という理由で不満をつづったということだ。誰が見ても弁護に値しない犯罪者を売名のために理不尽な主張をひねり出して弁護する弁護士というのがいる。この福永某氏もこのように取り上げられる売名行為として、いちゃもんをつけているように見える。

 ワクチン接種の時間帯によって抗体形成の量に違いがあるという研究結果がイギリスで報告されたそうだ。日本では人間ではなく、マウスで同様の実験をしたことがあるという。イギリスのほうでは午前中の接種の場合に効果が高く、マウスの結果は夜間のほうが効果が高かったそうだ。今度ワクチン接種の予約をするときは午前中にしようか。そういえば私の場合、副反応が一度だけ強く出たのは午前中に接種したときで、他はいつも午後であった。免疫ができすぎたのかなあ。

 

気になったニュース

 政府はマイナ保険証ではなく、従来の保険証で受診した場合、窓口負担額を引き上げることを決めたそうだ。とにかくマイナカードでなければ損にすることで普及を図ろうとしているのだろう。普及促進を図ることに反対するつもりはない。便利になるなら結構なことで、セキュリティだけには気を付けてほしいと思うだけだ。

 ところでマイナカードについて個人的に不安なことがある。私はだいぶ前にマイナカードを作ったが、妻のマイナカードが作れないことだ。本人ではないとできない手続きの部分があるが、手続きができるような状態ではなく、本人の写真を撮るのも難しいと思われる。今回の窓口負担の差は、長期の入院患者に及ぶかどうかわからない。多分そういう人に対してのマイナカードについての対応はこれから考慮してくれるものと思われるし、すでに何らかの対応策があるのかもしれない。タイムリミットが近づけば病院で何らかの指示要請があるだろうとは思うが、いまそれが明らかではないので不安である。

 会社の強制飲み会で、男性が女性の二倍会費を払うのはおかしいと訴える男性の話題がニュースで取り上げられていた。今時強制飲み会がある会社というのがあるとは驚いた。私が現役時代、飲み会で会費を男性のほうが多く出すケースは普通にあった。たいてい女性のほうが飲み食いする量が少ないし、いてくれるだけで場が盛り上がるから当然だと思っていた。それに女性にとって飲み会参加はあまりうれしくなくて、付き合いで来てくれることも多いだろうと感じてもいた。

 強制飲み会というと、参加しないと何らかのペナルティがあるということだろうか。何となく断りにくいことはあるだろうが、今はそれでも参加したくない人は参加しないものだ。もしそれでも強制力が働いているなら、その会社はいささか変である。ところでこの男性のボヤキは平等が正しいという判断のもとになされているのであろう。しかし酒量も食べる量も楽しみ方も、人によって違う。厳密な平等などありえない。私などのように鯨飲馬食の人間は余分に出すのが当たり前だと思っていた。それが同じ金額で済んだときはみなのおごりであり、借りでもあると認識していた。借りはたまったら何らかの形で返す。それが自然に認識されてバランスが保たれているのが仲間だと思う。いちいちその都度公平平等にこだわる人はうっとうしい。しかしそういう時代なのだろう。面倒だ。

 あの長野の児童公園を廃園に追い込んだのは近くに住む大学の名誉教授夫妻らしい。夫妻のデイリー新潮のインタビューをまとめた記事を読んだら想像通りの人らしく、また、前後の経緯なども想像に近いものだった。これからこの名誉教授夫妻はずいぶんバッシングに遭うだろうなと同情を禁じ得ない。気になったのは、市役所の担当者が、交渉しても苦情が収まらないどころかエスカレートし、ついには子供に直接注意するなどして、このままでは子供が危害にあう可能性もあった、と説明していることだ。そういう状態だから近くの小学校でもこの公園を利用しないように子供に指導していたらしいというから、尋常の行動とは思われない。廃園はやむを得ないことと思われる。こうしてあちこちで公園や小学校や幼稚園や病院や公的なもののことごとくが維持しにくくなるのだろうか。日本は情けない国になったものだ。

 私の住むマンションの部屋の窓から幼稚園が見下ろせる。園児たちが園庭に出ているときはにぎやかだ。ときにうるさいときもあるが、窓を閉めれば何ということもない。人間はたいていのことは我慢できるもので、それが自分だけどうしても我慢できないときは立ち去るしかない。立ち去りたくないから他者を立ち去らせるというのは乱暴で、それが通用してしまう社会は生きにくい気がする。

スポーツと人格形成

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という西洋の格言から、「スポーツは人格形成に役立つ」という信仰が生まれた。しかし健全な肉体を持ちながら健全でない精神の持ち主は山ほどいる。健全でない肉体の持ち主でも健全な精神の持ち主はそれ以上に存在する。もともとは、健全な精神と健全な肉体を合わせ持てたらいいなあ、というほどの言葉だったといわれるから、なかなか両立しないことが多いのが現実だと、昔の人もわかっていたのだろう。

 PRESIDENT online の面白い記事を見た。「アスリートほどルール無視か」と題された記事は様々なデータをもとに、スポーツが人格形成に寄与するという信仰に疑問を投げかけている。詳細はその記事を見ていただくとして、スポーツと金が切っても切れない間柄となった現在、スポーツが社会性を涵養するという信仰はどうも眉唾だろうと皆うすうす気が付いている。スポーツをするから人格が陶冶されるということは必ずしもない。かえって勝つことに偏する精神を養ってしまう場合もあるということだろう。

 あまりスポーツを格調高いものに祭り上げないほうがいいと、スポーツの苦手な私などが思うのは偏見だろうか。限界を極めるということの価値を認めないわけではないが、ふつうは健康のため、遊びのため、という程度でいいのではないか。そんな気にさせるのは、オリンピックの堕落を見せてくれたJOCのせいかもしれない。

2022年12月21日 (水)

塩だけ

 漬物がうまい時期になった。白菜の漬物用に中三日で半把買う。葉先のほうなど三分の一ほどは、ただ塩をしてビニールの袋に入れておき、こちらはそのまま冷蔵庫に入れておいて炒め物や鍋物に使う。生で食べるより甘くておいしいし日持ちもする。栗原はるみさんにテレビで教わった。残りを漬物に使う。以前は昆布茶を入れ、塩こうじなどを少し加えたりしていたが、今は塩だけでつける。そのほうがさっぱりして私にはおいしい。塩こうじを入れると二日で漬かるが、塩だけだと三日目からおいしくなる。水の上がるスピードも違う。塩だけといっても、私は辛いのが好きだから鷹の爪を必ず散らして漬ける。

 こんなことは普段から漬物をする主婦なら周知のことだろうが、この歳になって漬物の漬かり具合をいろいろ試行錯誤しながら楽しんでいる。必要な塩の量の目安が大体わかってきた。

 台所仕事は嫌いではないし、洗い物も嫌ではないけれど、冬は水が冷たいからついお湯を使う。お湯で洗剤を使うと指先がガサガサになる。手袋をしてまで保護したいとは思わないから常にガサガサのままだ。たまに温泉などに行ってあげ膳据え膳で炊事をしないと元に戻る。

反撃能力

 反撃能力とは攻撃能力のことである。ただし、だからといって専守防衛なのだから攻撃能力を持つのは専守防衛を逸脱している、という非難はおかしい。防衛のためには反撃能力が必要なことは言うまでもないからだ。ただし、防衛のための攻撃能力であるから、他国に撃って出て侵略するためにする攻撃は日本国憲法によって許されていない。そこはかなり明確であって、日本が他国を侵略するために武力を増強するのだと信じたり疑ったりするのは、中国やロシアや北朝鮮と、一部の日本人だけであろう。なんでも疑うのは悪いことではないが、決めつけるのは問題がある。もし逸脱が明らかになったら、今の日本国民はこぞって反対するはずだ。そう思いたい。

 北朝鮮の金与生が青筋立てて日本が侵略しようとしているだの、中国の外交部のおじさんが苦虫を噛み潰したような顔で、日本は過去の歴史をまた繰り返すのかと非難するのを見るのは不愉快だ。自分たちが何をしているのか棚に上げてよく言うよ、というのがまともな人の受け止め方だろう。それに向こうもそれを百も承知だろう。日本が手も足も出ない状態で彼らの言いなりなのが彼らにとって好都合なのであって、反撃能力を持つことは彼らにとって不都合だから日本を非難しているだけであることは考えるまでもない。

 戦争をしてはならないとまともな人ならだれでも知っているはずなのに、なぜ反撃能力を持たなければならないのか。そう反戦平和を唱える人によって繰り返し批判されていたけれど、その答えがウクライナにある。なるほど、と多くの国民が理解したから防衛費増額に賛成する人が多数になったのである。国を守ることと自分の生活を守るということがつながっているとようやく気が付いたわけである。でも気が付いただけよかったのである。先に中国が台湾に侵攻し、先島諸島や沖縄が中国に攻撃されてから気が付いたのでは手遅れになったことは間違いない。今でも手遅れ気味ではあるが。

基準のあまりの違い

 中国の政府発表によれば、新型コロナの死者は一日に二人か三人だということらしいが、香港のメディアは北京の火葬場へ向かう霊柩車が行列になっていて、死者が急増していることを報じていた。それに対して当局は、死者は慢性疾患などを抱えていてそれが重篤化したものであるから、感染していたとしても新型コロナ感染の死者とはカウントしないと語っているそうだ。

 中国の基準や常識は我々とは違うことを承知していても、こう平然とうそぶかれると、武漢での感染急拡大のときのことを思い出してしまう。あの対処の遅れと隠蔽が世界にどういう結果をもたらしたのか、世界は忘れていないが中国政府はすっかり忘れているようだ。世界はすでにコロナ後が見えているが、中国のコロナ禍は実はこれから始まるか、あらためて始まったというところのようだ。

 習近平は彼の勝ち取った独裁権力でコロナ禍を抑え込んだつもりでいた。しかしウイルスに独裁権力は十分には有効ではなかったようだ。抑え込んだふたを開けたとたんにたちまち大拡散を始めている。感染者数のカウントを中止し、死者を使者としてカウントしないことでコロナが収まるとでも思っているのだろうか。

 それ見たことかとつい思ってしまうけれど、実際に感染で苦しんでいる人のことを思えばあまりうれしがってはならないだろう。統計の数と個別の患者の事情は別である。それがごっちゃなのがまさに中国政府で、それを真似してはいけない。

2022年12月20日 (火)

だんだん使いにくくなるのは

 年賀状ソフトで住所録を新しくして、それから文面を作成した。写真を一枚選び、それとテンプレートの組み合わせで作るのだが、テンプレートに気に入ったものがなくて選ぶのに苦労した。しかもレイアウトの使い勝手が以前よりも使いにくくなっている。改良したのだろうが、私には改悪にしか感じられない。年賀状ソフトは年に一度しか使わないので、使い慣れるということがないのだから、直感的に使えなければイライラするではないか。このストレスが年賀状を作るのを先延ばしにさせるのだ、などとソフトのせいにしてはいけないとはわかっているのだが。

 使いにくくなっていると感じるのはこちらの問題だと内心で感じていないわけではない。それにしても・・・。

 これを昨年の残りの賀状で試し刷りして確認し、ようやく全ての印刷が終わった。キャノンからエプソンに換えたプリンターは快適に使えた。キャノンはインクの無駄吐出が多すぎて腹が立つが、エプソンはそういうこともない。ただ、プリントのスピードは遅い。昔からだからあきらめる。そのぶん写真印刷はきれいだ。

 あとは無理にこしらえたスペースに一言書き添えたら年賀状の作成は終わりである。しかしそれがなかなかできないからいつも出すのが遅くなる。書き添えずに終わるものが半分以上で、あきらめて出すのが毎年のことだ。とりあえず今日はここまで。それにしても今日は寒いなあ。

寒い

 朝、起きがけにみる南側のリビングの部屋の気温は、一週間前は二十度あったけれど、日々下がり続けて今朝は十四度である。北側の寝室の気温はリビングより二度から三度低いから、早めに目が覚めてしまう。まだ暖房はこたつだけ。厚着をしてしのいでいる。石油ストーブはにおいが苦手なので、いつもならガスストーブで暖房するのだが、ロシアの暴挙に対する怒りから、ガスストーブを使うのがためらわれている。そんなものを我慢したところで何の足しにもならないが、意地であり、ウクライナの人のつらさに対してのささやかなエールのつもりでもある。

 それにしても寒い。北国から比べればずっとましだけれど、北国の人は却って寒がりで、暖房をガンガンたくから汗ばむほどだったりする。それにそうしなければ厚着だけではしのげない。寒さは免疫力の低下を招くそうである。確かに体温が高いことで抵抗力が増すのだからそういうことになるのかもしれない。つまらない意地を張って風邪でもひいたら愚かなことだとも思う。ガスストーブを出そうかどうか迷っている。軟弱だなあ。

2022年12月19日 (月)

なにから先に

 年とともに三つ以上のことを段取りよくこなすことができなくなった。せいぜい二つまでなら優先順位を判断することができるのだが・・・たくさんすることがあると混乱してしまう。我ながら情けない。年末も近くなり、頭に常に引っかかっているのが年賀状で、これを片付けるとかなり気持ちが楽になるとわかっているのに後回しにしてしまう。今日はこの三年内に受け取った年賀状などを名前順に並べ替え、四年前のものを廃棄した。欠礼案内はほぼ来たはずで、これで住所録の更新ができる。今日はここまで。

 妻の病院に今年最後の支払いに行く。病院内でコロナ感染者が出ているので、年内は面会できない。幸い妻は感染していないらしい。インフルエンザの予防注射をする了解を求められたのでお願いした。片道十五キロほどのところにある病院だが、道が混むので案外時間がかかることが多いのに、今日は不思議なほどすいていた。ただ、途中に工事の個所が増えているのが目についた。年末や年度末というと工事だらけになる。本当に必要な工事なのかどうか。妻が今の病院に転院したのはちょうど去年の今頃だった。そろそろまた転院を打診されるかと心配されたが、何も言われなかった。このままずっといられると楽でいいのだが。

 一日二つずつくらい片付けていくと年末にはすっきりするはずで、そのためにはまず年賀状を仕上げなければならない。文面に使う写真を一応決めたし、送り先も決めたから多少進展した気がしている。弟のところの孫たち六人に毎年お年玉をやることにしている。今年も会いに行けないので郵送するつもりだ。可愛い礼状が毎年来る。それが嬉しい。

 さあ、そろそろ晩の支度をはじめようか。今晩のメインはチキングラタン。今晩も昨日の残りの白ワインを飲むことにする。

 

大雪の便りを見て

 大雪の便りというと、山形県の大蔵村肘折や青森県の酸ヶ湯がよく取り上げられる。肘折温泉にも酸ヶ湯温泉にも二度ほど泊まった。ともに一度は豪雪の中だった。肘折から北側の峠を越えたところが私の父の生まれ故郷である。同じような豪雪地だが、肘折ほどではないと父は言っていた。肘折の映像を見るとある懐かしさを感じるのは縁のない場所ではないからだ。

 私は山形の大学に進み、米沢で暮らした。米沢も豪雪地帯である。学生時代は吹雪の中を街中まで三十分かけて飲み屋に行った。中途半端な飲み方では帰りの三十分で冷めてしまう。つい酒量も増えてしまう。地酒もうまいし、米沢は米沢牛が有名だからホルモン焼きをよく食べた。学生には正肉は贅沢であるし、ホルモンは種類も豊富で安かった。

 もともと千葉県の生まれ育ちだから雪はほとんど降らない。だから雪が珍しいし積雪を喜んだりしたが、正月に千葉に帰省して再び米沢に戻るときは、福島からトンネルを抜けるごとに深くなっていく雪を見ると、さすがにちょっと気がめいったものだ。格技の部活をしていたので、冬は鍛錬のために雪の中を素足で走る。あの冷たさが今では懐かしい。毎年シーズンになれば冬タイヤに換えてわざわざ雪のある所に出かけるのは、そういう思い出に回帰するためであるようだ。

2022年12月18日 (日)

『呑み鉄本線』を観るときは

六角精児の『呑み鉄本線日本旅』が好きで、放送されれば必ず観る。観たことのある再放送でもまた観る。たいてい録画して、自分の観たいタイミングで観る。夕方五時過ぎに観ることが多い。それまでに酒のつまみを用意し、酒を飲みながら観る。今日は九州の肥薩線、三時からの放送だったがこれから観る。つまみは自己流の挽肉パイ。みじん切りの玉ねぎと挽肉を炒めて砂糖と醬油で味付けし、卵を溶いてとじる。

酒は五時を過ぎてから飲むことにしているし、この番組を見れば飲みたくなるのがわかっているので、これが私のルールである。

さあしたくもできたので飲み始めよう。

タバコ

 マリファナを自由化する国があるかと思えばタバコを禁止しようという国があるらしい。マリファナもタバコも強い習慣性(精神依存性)があるらしいが、マリファナは身体的には害がないとされ、タバコには肺がんなどの健康被害のリスクがあることがわかっているから、タバコを禁止しようという動きもあながち否定できないところがある。

 マリファナは多幸感をもたらす作用が強いらしい。そこからさらに強い薬物依存へとエスカレートする恐れがあるから日本では禁止されているのだと思う。薬物依存への入り口になりやすいということである。しかし、禁止するからこそブラックマネーにつながるという側面もあり、禁酒法の弊害のような、歴史的経験を考えると、かえって自由化したほうがいいというのが自由化する国の理屈のようだ。

 私は喫煙を習慣にしたことはないし、マリファナも試したことがない。依存性の高いものにすぐ依存する意志の弱い人間だと自覚しているから、近寄らないことにしている。多幸感を味わうのはお酒だけで十分である。

 タバコ税を増税して増額する防衛費の一部に充てるらしい。タバコをたしなまない身にすれば、いくら増税しようと関係ないけれど、喫煙習慣のある人は大変だ。このことで喫煙者は減るだろうか。もし喫煙者が激減したら、増税はちっとも効果がないことになる。これだけ世の中で不遇をかこっても喫煙を続けているような頑固な人は、多分喫煙の習慣をやめないだろう。それなら増税につながってめでたいことである。

 タバコ税の増税は健康被害の減少に寄与するだろうか。健康被害が問題であるのは、本人のみならず、医療費の増加をもたらすから、社会的にも害である。タバコを止めることで寿命が延びる人が増えることになる。そうなると高齢者の減少に少しブレーキがかかることになり、結果的に年金や福祉の負担も増えることになりはしないか。プラスマイナスゼロか。

 なんだかコロナ禍と高齢化社会の関係に似ているなあ。

2022年12月17日 (土)

朝三暮四

 復興税の税率を減額してその分を防衛費に充当するという。あたかも復興税の一部を防衛費に充てるというとらえ方をされて批判されている。あのような発表の仕方をすればそういう批判が出るのは当然で、何というお粗末な政権だろうとあきれる。

 アンケートによれば、防衛費を増やすために増税が必至であることに、国民の多くは多少なりとも理解を示しているように思える。それなら、「防衛費増額のために特別税を徴収せざるを得ません」とまず言えばよかったのである。そうしてそのうえで、「国民の負担を重ねてお願いするのが心苦しいので、復興税については減額します」と説明すれば、その受け取り方はまるで違ったのではないか。

 同じことではないか、朝三暮四だといわれても仕方がないが、国民がどう感じるのかということに多少とも神経を巡らせれば分かることができない。岸田首相という人は本当にお粗末だなあとまたまた感じさせられた。 

なるようになる

「なせばなる なさねばならぬなにごとも ならぬはうぬが なさぬなりけり」と上杉鷹山公は言った。父の口癖でもあったけれど、父がなにごとかをなしたかといえば、私同様なにごともなさなかった。言うだけではいけないようだ。そもそもなそうとしたというほどのことは父にも私にも特にない。どちらかといえばなるようになるなあ、と思って生きてきたような気がする。だから自分を不遇だと思ったりしないし、誰かのせいだと恨んだりしたこともない。腹の立つことはないではないが、出かけて行って誰かをののしるようなことはしたことがないし、するつもりもない。そういう青筋を立てている人間を見るとかえって冷めてしまうほうだ。

 中国はなし崩しでゼロコロナ政策を中止したようだ。こんなに簡単に中止したのを見ると、一体あの厳格な規制は何だったのだろうと思う。ゼロコロナ政策が失敗だったということだろうか。それなら習近平が間違ったことになる。しかしそれを口にすることはなかなか難しいだろう。ところで規制を徐々に緩めるのではなく、ほとんど規制をやめしまうというのもずいぶん乱暴な話で、おかげで感染が急拡大しているようだ。その感染者についてもちゃんとした数の把握すらやめてしまったらしく、実数がわからないという。感染者だらけで宅急便の配達ができないというニュースを朝見た。

 規制を緩めれば感染が急増するのは当たり前で、だからこそのゼロコロナ政策による規制だったのだろう。こうなると、当局は「規制に反対する大衆の求めに応じたらこうなってしまった」と感染拡大を民衆のせいにするつもりだろうか。来年正月に向けて人の移動がますます増えれば、医療の充実していない地方に感染は急拡大し、老人に重症者や死者が増えると予想される。ここまで緩和してしまえばそれはもう止められないだろう。

「なるようになる」と開き直った中国政府はどう事態を収束させるのだろうか。少子化による経済停滞が懸念される中国だが、多少死のうがたくさんいるからかまわないし、死ぬのは医療費のかかる病人と年寄りだから好都合だと思っているのかもしれない。中国はどうなるのだろう。毛沢東の「大躍進」で四千万人、「文化大革命」で少なくとも二千万人以上が死んでもびくともしなかった中国だから、多少の病死は屁でもないのであろう。

 こちらはなりゆきをただ眺めるだけのことである。

 

 

片倉館

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片倉館は諏訪湖畔にある日帰り温泉。レトロなレンガ造りの建物である。

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片倉館。

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正面入り口。入るとすぐ受付がある。ここの売りは看板にあった通り、千人風呂という大きな風呂である。千人はいるとそれこそ芋で芋を洗うようなことになってしまうけれど、百人なら楽々入れるだろう。深いから座ることはできず、立ってはいる。下は黒い丸い石が敷き詰められていて、その石の間から湯が沸いてくる。洗い場のタイルもレトロである。

どぶんと浸かって体を温めて、湯冷めしないうちに早々に帰路についた。これにて今回の小旅行の報告終わり。

2022年12月16日 (金)

諏訪湖

下諏訪の片倉館の駐車場に車を置いて、諏訪湖を見に行く。片倉館については次回に紹介する。

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諏訪湖の湖面は風が吹き抜け、さざ波が立ち、寒い。

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いつも気になりながらそばまで行ったことのない石像を見に行く。

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説明版には本朝二十四孝の一つ、とあったが、説明がくだくだしいので丁寧に読む気がせず、結局なんだかわからない。

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望遠で見るとかなり迫力がある。有名な話なのだろうか。

体が冷えたので、片倉館に戻る。片倉館は日帰り温泉で、千人風呂がある。風呂に入る前に隣接している諏訪市美術館に立ち寄ることにする。

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片倉館に来るたびに一度はのぞいてみようと思いながらパスしていたので、今回初めて入館した。

常設の細川宗英の彫刻は見ごたえがあった。見てよかった。小ぶりな美術館ではあるが、諏訪市美術館は長野県でもっとも古い公設の美術館で、国内でも五番目にできたそうだ。国の登録有形文化財である。

細川宗英(1930-1994)は松本生まれ諏訪育ちの彫刻家。

魁塚(さきがけづか)

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ようやく見つけた魁塚は住宅街の中にある。狭い道路で、駐車場もない。やむなく路上駐車する。迷惑を考えて撮影に気がせく。しかも逆光である。写真よりもこの碑に出合えたことをよしとする。

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こんなところにある。

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赤報隊について書かれている碑。

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相楽総三(さがらそうぞう)の碑。相楽総三と赤報隊は草莽の志士たちで、結果的に官軍に騙されて殺された。だました主犯は岩倉具視と薩摩藩。その汚名を雪ぐために生涯をかけて訴えて子孫により、ようやく名誉を挽回し、ここに碑が建てられた。詳しいことは池波正太郎や平岩弓枝の師である長谷川伸の『相楽総三とその同志』(講談社学術文庫)に詳しい。

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魁塚の趣意書。どうしてこんな風に画面が斑になっているのかわからない。

この近くに公営の無料駐車場がある(あとで気がついた) ので、訪ねたい人はそこへ車を置いてゆっくり見に行ってほしい。

諏訪大社

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諏訪湖岸から諏訪大社に行こうとすると、ナビは狭い道を案内する。ほんの少し遠回りすれば広い通行の楽な道があり、そこからのほうが駐車場もわかりやすい。

駐車場に車を置いて鳥居側に回る。写真よりも実際は神韻としている。

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神楽殿。

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大注連縄。大勢でこれをなっている様子を想像する。

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神楽殿前の狛犬は日本一の高さだと書かれていた。こちらは「孝」で向かいは「忠」だった。

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神楽殿の後ろ側に拝殿がある。

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祈りをささげる若い人がいた。

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銀色の柱の横に「天覧の白松」という看板があるので見上げると、

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白い幹の松の木だった。枝の先に葉がついていたから生きているのだ。珍しい。

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こちらは御柱。

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何かが通り過ぎていく幻影を見たような。

このあと相楽総三の碑を探したが見つからない。鳥居の外の町内地図に「魁の碑」の場所が見つかった。これがそうだ。諏訪大社からそれほど遠くなさそうだ。

2022年12月15日 (木)

温泉宿について

先ほど無事自宅に到着した。

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諏訪大社、神楽殿。

あさゆっくりしてから湯田中温泉を出発。直接帰るのももったいないので、久しぶりに諏訪湖に立ち寄ることにした。一つ思いついた目的地がある。諏訪大社の中か、近くに赤報隊の相楽総三の碑があるはずなので、それを探そうと思った。その結果は明日報告する。

温泉宿には連泊するべきであると実感した。連泊しないと温泉でゆっくりしたことにならない。ゆっくりする間の一日こそが癒しである。

いい宿とは何か、ぼんやり考えた。ありきたりだが、客がまた行きたくなる宿だろう。いい客というのもあるだろう。宿が心を砕いていることにちゃんと気づく客だ。百点満点の宿などというものは願ってもなかなか出会えないが、また行きたくなる宿はいくつかある。そういう宿は居心地がいい。今回の宿は・・・合格ではあるがちょっと薄っぺらかったかな。また行きたいというほどでもないし、誰かを連れていきたいほどでもない。でもほとんど満室で混んでいた。

平湯から湯田中

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高山から平湯温泉に向かう。半ばを過ぎたあたりから道路は圧雪とわだちで走りにくい。わだちのエッジにタイヤが触れるとハンドルを取られるのだ。多分昨晩の雨が凍結し、その上に新雪が積もった状態なので、とにかく滑る。ゆっくり走る軽自動車の後ろについて、抜くなどという無謀なことはしないでゆっくり走る。ようやく平湯に到着。写真は平湯のバスセンターの駐車場。上高地が冬季閉鎖しているから、来るのは平湯温泉に泊まる人だけ。

平湯トンネルを抜けてあとは一気に坂を下って松本へ向かう。本日の最終目的地は湯田中温泉。高山から奥飛騨温泉を経由していくなどというコースを走る馬鹿者は私くらいだろう。少し坂を下ると雪はほとんどなくなった。松本から今度は長野道に乗る。どうして湯田中なのか。ここへ行くには長野の少し先の中野インターで降りることになるが、中野でリンゴの配送を頼むつもりなのだ。ネットで頼めば済むことだが、自分が現地へ行ったついでに送りました、というのが私のストーリーなのだ。実は湯田中に行くきっかけのためにリンゴの配送を頼むという用事を作ったのだが…。

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中野から湯田中へ行く途中で見た山。

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湯田中から山を登れば志賀高原だ。時間があれば行くのだが、日が傾きだしている。

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道の駅で時間調整。同行者がいないから、記念写真にならない。

2022年12月14日 (水)

雪が怖い

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朝八時前に出発し、名神の一宮インターから一宮ジャンクション、そこから東海北陸道という、走りなれた道を北上した。北の空はまさに雪空、どんよりと黒い雲がかかっている。岐阜を過ぎていつもより激しい工事渋滞。東海北陸道はこの十年を見ても、スムーズに二車線が走れたことがない。四六時中工事をしている。走行左手、岐阜のほうに虹が出ていた。天気雨が降っている。風花に近い。

郡上八幡、郡上白鳥あたりを過ぎたころからみぞれになり、高鷲のあたりから粉雪になる。路面に雪が積もり始めている。ワイパーが鳴り出すほど雪が強くなりだした。写真はひるがの高原のサービスエリアでトイレ休憩した時に撮ったもの。気温1℃。

飛騨清見で東海北陸道を降りて中部縦貫に移り、高山へ向かう。トンネルを抜けたら雪が少なくなった。高山はほとんどちらつく程度で積雪もない。前日の雨で融けたのだろう。高山からは地道で平湯に向かう。途中から再び雪。路面にはわだちができてスリップしやすい。スピードは出せない。昨年買ったスタッドレスは路面のグリップが弱いようで、普通タイヤで走っているようだ。急カーブが特に怖い。仕方がないからゆっくり慎重に走ることにする。

このあと特に何ほどのこともなかったのだが、持参のぼろパソコンが機嫌が悪いので、ここまでとして、残りは明日報告する。さあ風呂にでも行こうか。

今は雪の中か

 この記事は朝、出発前に書いている。時間的には安房トンネルを抜け、松本に向かっているころだ。道路が走れていればいいが。直接中央道から走ってもいいが、それではあっという間についてしまうので面白くない。そこで、迷ったけれども高山経由、平湯から安房トンネルを抜けて松本へ向かうコースを選んだ。

 今月、長老とあにきぶんのひとと長野の温泉に行くことにしていたが、事情があっていかないことになった。かわりに一人で行くことにしたのだ。行くつもりの気持ちを処理しなければならない。しかし長老というパトロンがいないので一泊だけにする。それに週末に用事もある。用事があるから行けないなどといっていると行くことができない。

 久しぶりのハードな道の走行となりそうだ。慎重に、無理をしないで走り、夕刻には湯につかりたい。

年賀状マウント?  

 ネットのニュースを拾い読みしていると、知らなくてもいいことを知ることになる。『羽鳥慎一モーニングショー』で、年賀状の特集をした際に、年賀状マウントが話題になったそうである。結婚報告や子供の受験合格、海外旅行がこれにあたることがあるのだという。

 マウントというのは、動物が自己の優位性を示すために相手にまたがる行為のことをいう。人間は実際にまたがったりしないが、優位性を示すための言動として現れるということらしい。

 つまり、結婚した、という報告は、結婚したいのにできない人間に対する優位性の誇示であり、子供の受験合格も、こんなにいい大学に入った、という誇示であり、海外旅行の写真を年賀状に載せるのも同様の誇示だ、というのである。

 嬉しいことがあった時、楽しいことがあった時に、それを表現したり伝えたりすることがマウントなのだ、というさかしら気な心理学者に怒りを覚える。そうしてそれを嬉しそうに取り上げてみせるこのような番組にも腹が立つ。

 どうしてそんなに腹が立つのか。

 マウントされやすい人ほど、自分がマウントされることを心配するよりも、マウントしてしまうのではないか、マウントしたと思われるのではないか心配する傾向が強い。優しい素直な人がマウントされやすいのである。そういう多くの優しい人たちが、年賀状に自分の嬉しかったこと、楽しかったことを書けなくさせるという効果が、この番組にはあるのではないかと思うからだ。大げさではなく、害毒を流しているに近いと思う。私は毎年海外旅行に行った時の写真を年賀状に載せていた。

2022年12月13日 (火)

とりあえずの山

 何かしなければと思って、座りながらできることをした。引き出しの中や状差しの小物や書類の整理である。とりあえずここに入れておこう、と放り込んだものがあふれかえっている。モノはきちんと仕分けできるほど明確な違いがないもので、あれでもあり、これでもあったり、これでもあれでもなかったりするものばかりである。だからこそのとりあえずである。

 それを無理やり仕分けし、時系列に並べ、新しいものがあれば古いもので不要のものは捨てていく。そういうものがたくさんある。そうして、とりあえずの山はたちまち三分の一以下になった。ないと思ったら、こんなところにあったのか、などというものも出てきた。正直どうしてそこに放り込んだのか、自分で自分がわからない。

続・ニュース勝手読み

 現在の長野市長が萩原健司氏であることを初めて知った。当選した時に聞いたかもしれないが、すっかり忘れている。長野市の児童公園閉鎖について、今後地元区長会の関係者らと意見交換を行うというニュースを見た。「これだけ多くの関心を集めているので、私としても18年間の経緯などを直接聞きたい」と述べたそうである。

 すでに廃園は決定事項であるし、事情を聴いたとしても何も変わらないのは確実らしい。それならこの意見交換とは何が目的なのだろう。ただのパフォーマンスといわれても反論しにくいだろう。あえて理由を考えれば、そういえば長野市長は萩原健司氏だったと気が付いたマスコミが、これから大挙して質問を浴びせてくる可能性があるから、その時に地元の話を聞いておいて説明できるようにしようということかもしれない。

 市長は、「政策を推進するうえで、市民のすべての皆様の声を丁寧に効く必要があると再確認した」と語っているそうだ。

 市民のすべての皆様の声、という言い方は神様目線、上からの目線での発言である。一人一人の意見は様々で、矛盾するものがあふれている。個別の話はその背景も含めて複雑で、それを聞き取ることは誠に困難である。政治とは市民を数でとらえるしかないことが多い。そうでないとものごとは前に進まない。個別を大事にするという思想の果てが、たった一人の住人が多くの子供が遊ぶ児童公園を廃園にした、という事実の前で、こういう決まり文句を言う萩原健司市長に危うさを感じた。

ニュース勝手読み

 養老孟司が理解と解釈の違いについて書いていて(『ヒトの壁』)、なるほどと思った。詳しくは本を読んでほしい。理解は向こうからやってくるもの、解釈は様々な情報をもとに論理的に意味づけをすることか。だからニュースを見聞きして考えたことは解釈で、それらを見続けているうちにその全体の背後に動いている世の理(ことわり)のようなものが直感できたとき、それが理解とよべるものかもしれない。よくわからないけど。

 情報を集めるとき、それには限りがあるし、その情報も不十分なものである。そのうえ、見たくない情報はよけてしまうのが人の常で、すべてを網羅して考えることなどできないのだから、当然解釈は自己流にならざるを得ない。という理屈を一席申し上げたうえで、ニュースをいくつか拾い上げて勝手読みする。

 『サンデーモーニング』で、ジャーナリストの青木理氏がウクライナ侵略戦争についてロシアを擁護した、というネットニュースを見た。私はこの番組の立ち位置が妙なところに立っているように感じられて、最近はほとんど見ることはない。昔の日教組的世界観に似ているように感じられるのだ。だから青木氏がどのように語ったのか知らない。アメリカに問題があるような言い方をしたことがロシア擁護と解釈されたとも読み取れる記事だった。

  アメリカ批判は今回の戦争に直接的に関係するところというよりも、そもそものアメリカの過去の歴史そのものが現在の世界情勢、特にきな臭い場所での情勢に責任があるという意味であれば、私は青木氏に大いに賛同する。青木氏は今回のウクライナ侵略はロシアが悪いとも明言しているようではないか。アメリカは世界に禍の種をまき散らして大国である立場を維持している。それを列挙していけば、とてつもない長い箇条書きができるだろう。

 しかしそれでもロシアや中国と比べればまだましだ、ということも厳然たる事実なのだと私は思うし、多くの先進国もそう思っているのではないか。愚かでない人間などいないし、愚かでない国などない。血塗られた歴史を抱えていない国などないのではないか。程度の問題であるし、以前より少しでも良くしようという意志さえあれば希望はある。

 今習近平にもプーチンにもそういう意志は見られないし、希望も見ることができない。これは私がそう解釈しているということで、ほかの人に賛意を求めるつもりはない。アメリカを批判し、非難することはいくらでもできる。それがロシアのウクライナ侵略戦争に関連させて語られれば、どう受け止められるか、ジャーナリストなら百も承知のはずだろう。ロシア擁護、と指摘されるのである。

 好きでない青木理氏を擁護するようなことになってしまった。

2022年12月12日 (月)

だまされないように

 昔は儲け話に乗せられてだまされるという場合が多かった。だからだまされるほうも悪いと内心では思うので、だまされた人への慰め言葉には少し軽いものがあった。今は孫や息子が困って助けを求めてくる、などという詐欺が横行しているから、必ずしも欲をかいて、ということではなく、たちが悪い。

 自分はだまされたりしない、と思う人ほどだましやすいと詐欺師は言うらしい。どうしてだろう。だまされないと豪語する人は、だまされるのは愚かだからだと思うのだろう。自分は愚かではないと思っているのだろう。私は必ずしも自分が賢いとも人を見る目があるとも思っていないから、だまされるかもしれないと常に考えている。だまされるかもしれないと思う人は、だまされないためにどうするか常に意識し、だましに対してのセンサーが働いている。自分はだまされない、と確信している人はセンサーは眠っているのでだまされやすいということかもしれない。

 危険に対しての知識や意識を持つことが必要なのは、今に始まったことではない。鈍感はしばしば罪なのである。見回すと無防備な人が時々目に付く。カモはそこら中にいると詐欺師は思っているだろうなあ。

運動不足

 今日は糖尿病の定期健診日。病院に行くと様々な人間を観察できるので面白い。お年寄りが多いから、その迷走ぶりが、ほかで見られないものを見せてくれる。自己主張の強そうな人は、もともとそういう性格だったのか、年齢とともにそうなったのか。病院の人もそういうお年寄りを相手にするのだから大変だ。私は見かけは静かに見えるが、実はすぐ感情的になる。だからこういうところで回りの見えていない人を見ると腹が立つのだが、それを観察しているのだと思うと腹が立つよりも興味深いという気に多少はなる。だいたい自分はどうなのだ、ということを思い返させてもくれる。

 血液検査の結果はやや悪化。先生は小首をかしげて、体重も少し増えていますし、運動不足ではありませんか、と優しく訊く。はい、引きこもってほとんど散歩もしませんでした、と答えると、いけませんね、体をもっと意識して動かしましょうとのご託宣。それでもこちらの希望に合わせて三か月後の検診を認めてくれた。先生に言われると今度こそ頑張ろう、と思うのだけれど、それが果たされることはほとんどないのが情けない。

 血液検査、診察、薬局での薬の受け取りがスムーズに終わり、早めに帰宅できた。昨夕から絶食していたので、いまありあわせのもので早めの昼食をかきこんで人心地ついた。外は晴れ、風がなくて暖かい。明日は雨、北国や北陸では雨からそのあと本格的な雪らしい。明後日ごろ出かけるつもりでいるが、道路は大丈夫だろうか。

妻籠宿・本陣

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妻籠宿・本陣入り口。看板がわかりにくい。

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看板のみを写す。妻籠の本陣も馬籠と同様にやはり島崎家である。最後の当主は島崎藤村の、たしかお兄さんだったと思う。こちらに養子に入った。本家は馬籠の島崎家。後で系図表の写真を示すことにする。

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台所の土間。

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座敷から入口方向を見る。

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濡れ縁に転がっているのは…かりんである。

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殿様が泊まった部屋。

本陣は昭和になってから復元された。

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見にくいかもしれないが、島崎家の系図。島崎春樹というのが島崎藤村で、兄の広助が馬籠から妻籠の島崎家に養子に入っている。兄弟の父親が島崎正樹。島崎正樹は島崎藤村の『夜明け前』の青山半蔵のモデルとされている。島崎正樹は、一時期、高山の水無神社の宮司をしていた。

補足。

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これは脇本陣で撮ったもの。林家の当時の当主に島崎藤村が送った書。

「林君の求めにより旧詩一章を記す」と書かれている。親類で旧知の女性がこの林家に嫁ぎ、その息子がここでいう林君なのだそうだ。

以上で妻籠宿散策の報告終わり。

この後清内路街道を通って、久しぶりに昼神の日帰り温泉でひと風呂浴び、園原から中央高速に乗って帰路に就いた。本当は飯田の先の松川あたりでリンゴでも買って帰ろうと思っていたが、日が傾きだして遅くなるのであきらめた。夜は走りたくない。

2022年12月11日 (日)

妻籠宿・脇本陣

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妻籠宿の本陣、脇本陣を見たのはずいぶん昔なので、久しぶりに拝見しようと本陣に向かった。本陣の受付の女性に、ちゃんとしたカメラをお持ちなのだから、いますぐ脇本陣に行きなさい。、と言われる。今のうちなら下のような写真が撮れるからというのだ。もうすぐ斜光が入らなくなるといわれてもどういうことがわからなかったが、言われるままに脇本陣に向かった。向かった、といってもすぐ近くである。

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下の囲炉裏に薪をくべている女性にはあとでいろいろ説明をお願いした。

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囲炉裏をメインに撮るとこうなる。

本陣というのは、参勤交代の大名行列などが宿場に泊まるときの宿になるところで格式が高い。しかし事情があって本陣が泊まれない場合や、二つの大名がかち合ったときなどは予備として脇本陣が使われる。脇本陣は使わないことが多いので収入も少なく、本陣には許されていない副業が許された。脇本陣の林家の副業は酒屋で、かなりの収入があったという。

そのため、明治時代になって本陣は没落してしまった。木曽は木曽ヒノキをはじめ、高価な木材が産出されたが、藩の主要な産物として一般の使用は厳禁されていた。明治維新後、本陣は修復できず、脇本陣は蓄えた資産で使用の許されるようになった高価な木材をふんだんに使って修復を行った。明治も少し経ってからは木材は官製となってしまい、再び使用できなくなった。ワンチャンスを生かしたのが脇本陣だったのである。

脇本陣の看板の奥谷というのは林家の副業の酒屋の屋号である。

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明治天皇が東京から中山道で伊勢参りをしたときにこの脇本陣に短時間休憩した。その時にお茶を飲んだときに使用した机である。林家の家宝だそうだ。その時明治天皇は軍服姿で、ながい軍靴を履いていたので、靴を脱がなくていいように赤いじゅうたんを敷いて室内に入ったそうだ。

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庭側の透かし障子。当時のガラスは貴重品だったし、よく見ると手製のために波うっている。

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庭はこうなっている。

もっといろいろ教えてもらったが覚えていない。とにかく説明が詳細で、ながい。よそ見をすると声を掛けられるのでちゃんと聞いていないとならない。ゆっくり写真も撮りにくい。ようやく次のお客さんが来て放免された。このあと本陣に向かう。

役員は勘弁してほしいのだが

 本日は今年最後のマンションの組長の会合があった。来年行われる予定の大規模修繕についての質疑が主で、さいわい二時間たらずで済んだ。十数軒で回り持ちの組長の仕事も、来春にはお役御免となる。絶対に引き受けないという人もいて、六、七年に一度回ってくる。それほどの負担ではない。特に今回は大きな行事が次々に中止となったから、会合に参加するのと回覧板回し、そして様々な募金を始めとした集金の役だけだったからどうということはなかった。問題はその組長の中から来年の役員を決めるということだ。いつもそれで大いにもめる。来年二月くらいまでに決めなければならない。

 私も役員だけは引き受けたくない。かなり時間的にも精神的にも負担が大きいのだ。みんなから指さされたときに断り切れるかどうか、ちょっと気が重い。思えば昔は口も出すけれどそう言う仕事も引き受ける人がいたものだが、今は口を出す人ほど引き受けない時代になった。

妻籠宿

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写真は妻籠宿定番の場所。

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高台にあるお稲荷さん。青空に赤い旗が映える。

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宿場だから当たり前だが、旅籠(はたご)がいくつもある。泊まれるところもあるようだ。

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何を商売にしていたのだろう。

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ここも旅籠のようだ。

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冬の日差しは思った以上に強く、日の当たっているところと日陰のコントラストが強すぎる。日の当たっている側だけ撮ってみた。

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いろんなものがぶら下がっている。

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こういう花篭はあちこちの軒下に下げられている。

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生活に豊かさを感じさせられる。金銭的な豊かさとは違う、心の豊かさからくるのだろう。

このあと本陣、脇本陣を見に行く。

2022年12月10日 (土)

妻籠宿・水車小屋から鯉岩へ

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水車小屋と高札場。緩やかな上り坂になっていて、宿場からは離れていく方向である。

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鯉岩。

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鯉岩の先には見るほどのものはもうない。昔はこの岩が鯉の形に見えたそうだが、明治時代の美濃地方の大地震の際に転げて今の状態になってしまったという。

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鯉岩の由来が書かれた看板。木曽義仲の子孫がこの地方を収めていた時があり、そこでの恋物語が伝説として残されているという。恋野という地名もあるのだそうだ。そうだとすると、鯉岩は恋岩なのだろうか。

この看板を記した林常磐、という名前は、たぶんこの後で行く脇本陣の代々当主の子孫かと思われる。

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わき道を見上げると小さな川沿いに道がある。こういうところこそ昔ながらの様子を残しているのだと思う。

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水車小屋のところまで戻る。強い日差しの逆光がまぶしい。あの先のほうが妻籠宿の道である。

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そこら中に南天の赤い実が見られた。

妻籠宿・入口まで

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天気が好いのでどこかへ出かけたくなり、昼近くなっていたが妻籠宿へ行くことにした。

我が家から妻籠宿へ向かうには、名神高速小牧インターから小牧ジャンクション経由で中央高速を走り、中津川で降りて国道十九号線を走って途中の妻籠宿の標識を右折する。写真は中央道の多治見を過ぎてすぐの虎渓山パーキングで撮った。初冬の、まだ晩秋の名残を残す様子を見て、感じるものがあった。

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妻籠宿の駐車場にぴんころ地蔵がある。ぴんぴんしたままころりとあの世に行けますように、という願いを叶えてくれるらしい。

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駐車場の端にほこらが置かれている。大きな石の上にあって向こうの山と高さを競っているようだ。高台に見える家の、さらに上のほうに妻籠宿がある。

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いつもの道とは違う、初めての道筋から宿場に入ることにする。養老院らしい。冬は寒いけれど、こういうところで自然と接して老後を暮らすのもいいかもしれない。

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緩やかな石段を登って宿場に向かう。

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宿場の一番奥にあたる水車小屋や高札場、鯉岩の近くに出た。

2022年12月 9日 (金)

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天から光が差し込む。

昼前に、急に思い立って妻籠宿に行くことにした。詳しいことは明日報告する。

写真は脇本陣の光取りの格子から差し込む光。囲炉裏で火をたいているのでその煙に光が映る。

一軒の住宅

 ニュースでは繰り返し「一軒の住宅」と報じていた。長野の児童公園廃園のニュースである。一軒が、ただ一人なのか家族何人もなのかまではわからないが、個人だろう。子供の声は甲高く、耳障りに感じる人間もいるだろうことは想像できる。子供が何人もいたらやかましいのはたしかだ。生け垣に入り込む子供が迷惑だというのもわかる。子供の中にはたちの悪いのもいて、腹の立つこともあるだろう。

 

 近所に児童館や小学校があるようだから、当然公園を遊び場にする子供たちが集まる。集まって遊ぶためにあるのが児童公園なのだからあたりまえのことだ。ところが廃園の理由が使用する子供がほとんどいなくなったからというのだからすさまじい。よほどこの「一軒の住宅」からの抗議が恐ろしいのだろう。

 

 個人の不快の程度は他人には理解することができない。想像されるのは、児童館、学校、ついには役場までがくりかえし説得に当たっただろうということで、その説得の繰り返しにますます意固地になったのだろう。彼の考える自分の正当性は、説得されたことによってますます強固になってしまったと思われる。

 

 この場所は誰にでも特定されるだろうし、この「一軒の住宅」も容易に推定されるだろう。しからば正義の味方がよってたかってこの「一軒の住宅」に非難を浴びせることも想像される。たぶん地獄の日々がこれからやってくるにちがいない。正義と正義のぶつかり合いだ。

 

 すでに廃園は決定されたことだし、いまさらどうにもならないが、一番心配されるのは「一軒の住宅」に児童公園を廃園にする力があるということを多くの人が学んだということだ。この「一軒の住宅」に対し、非難する声が多いけれど、同情したり行動に賛意を示している人も少なくないともいう。

 

 公園が、幼稚園が、小学校の子供の声がうるさいと苦情を言う人間は山のようにいる。彼らは力を得てますます苦情を声高にいうようになるだろう。児童相談所の新設にも正義の集団が反対をして中止させる時代である。「一軒の住宅」の勝利は彼らに大いに希望を与えたにちがいない。

 

 世の中は互いに多少の我慢をして暮らすものだ、という社会の常識が通用しない時代になっているようだ。生きやすくなったようで結果的にとても生きにくい時代になったということのように思える。

2022年12月 8日 (木)

本屋へ行く

 最近はあまり散歩をしていない。三つの定番の散歩のコースがあり、その一つの本屋周りのコースをひさしぶりに歩いた。他の二つのコースはぐるりと回ると一時間ほどかかるが、本屋コースは五十分程度なので少し短い。短いが他のコースは途中に座って休憩できる場所があるのに、この本屋コースには休憩する場所がないので、いまの私には一番ハードでもある。

 

 この時期は歩いても汗をかかないからありがたい。もちろん目的があるから本屋に行った。来年のカレンダーと手帳を購入するためである。大判で白地、たくさん予定を書き込めるカレンダーで、目の前のテレビの後の壁にぶら下げて使う。病院(自分の分と妻の分)の予定、マンションの会合の予定などを忘れないように書き込んでいるし、旅行の予定なども書きこんでいる。また、友人や身内と電話したときや娘が来たときなどもあとで書き込んでおく。いつ連絡したのか、いつ来たのか確認できる。手帳はほとんど読書記録に使う。

 

 本屋へ行くとつい長居する。長居するとつい何冊が買い込んでしまう。こうして帰り道は手荷物を持って帰ることになる。だから来た道よりちょっと遠い。

ゼロコロナ対策の皮肉

 習近平による極端な封じ込めを伴うゼロコロナ対策が、国民の反撥行動で緩和される運びとなった。国民が緩和を求めたから緩和したのは明らかな事実なのだが、中国政府は決してそれを認めず、新型コロナが弱毒化したから緩和するのだ、と説明している。もし国民の反撥によるものと認めてしまえば、国民は政府の方針を行動によって変えさせたことを成功体験として学習してしまう。すでにそうなったけれど、これから抗議した者たちへの魔女狩りがはじまるだろう。それによって次の火種にしないためである。恐怖の支配が強化されるにちがいない。

 

 ところでゼロコロナ政策を緩和したことでコロナ感染者が急増すれば、緩和は失敗したことになる。「緩和したのは国民が抗議したからである」という言い訳は、上記の理由でできない。もともとゼロコロナで中国国民には免疫ができていないから、これから急激の感染者が増えることは大いにあり得ることだ。

 

 もし、運良く緩和をしても感染者が増えないとしたら、そもそもゼロコロナ政策というのが無意味な封鎖で国民に犠牲を強いた政策であったことになる。習近平は間違えたという証明になる。

 

 どちらにしても習近平は上手に言い訳をするだろうけれど、国民は内心で「なんだこの指導者は」、と不信感をつのらせるだろう。折から、中国は経済的に衰退の兆候を示している。不動産バブルははじけ始めている。欧米からのさまざまな圧力がじわじわと効果をあらわし始めている。次の抗議行動が天安門事件のように虐殺で抑えきれるのかどうか、注視していきたい。

2022年12月 7日 (水)

恐怖を覚える

 高速道路上であおり運転をくりかえし、相手の車を無理やり停めて脅迫をしている映像を見せられて、恐怖を覚えた。自分がそういう目に遭っているような気がしたのだ。むかしなら腕力に多少は自信があったけれど、いまはか弱い老人である。

 

 理解不能の行動をとる人間を狂人と呼ぶ。あれは明らかに狂人である。犯罪行為として取り締まるよりも、狂人として社会から隔離する必要がある。自分が悪かったと考えることができる人間とは思えない。あおり運転に対してこれだけくりかえしニュースで非難され、してはいけないことだとまともな人間なら理解できるはずで、それが自分の感情の暴発をとめられずに危険な行為を正当化するような人間は異常でしかないし、社会的には害悪でしかない。

 

 車で走り回ることが多いので、異常に後ろに接近してくる車に出会うことがないではない。前がゆっくり走っていたりつまっているから、煽っても先へ進めないのがわかっているのに煽ってくるバカがいる。こちらも腹が立ってくる。怒りの連鎖を生むような行為をする人間は、たまたまそうしているのではなく、たぶん日常的にそうしているのだろう。そういう人間ばかりではないとわかっていても人間嫌いになる。こういう人間を弁護して、社会が悪いからだ、などという人間にも腹が立つ。

志垣太郎から

 俳優の志垣太郎が三月に死去していたという。ちょっとハイテンションの特徴のある俳優だったが、そういえばいつのまにか見なくなっていた。

 

 志垣太郎といえば思い出すのは『狼の紋章』という1973年の映画で、これは原作が平井和正のウルフガイシリーズである。日本の人狼伝説をベースにして、不死身の狼男、犬神明(志垣太郎)が活躍する。この映画は実は松田優作のデビュー映画なのだ。悪役の羽黒獰という名前通り獰猛なすざまじい役柄だった。

 

 平井和正は日本のSF作家で、『幻魔大戦』も彼の作品であり、これを石森正太郎が漫画化したし、アニメ映画化もされた。

 

 志垣太郎の死の知らせから、あの時代を思い出した。遙かな昔になってしまったのだなあ。

2022年12月 6日 (火)

行きたいところ

 日本国内で、まだ足を踏み入れていないのが沖縄県だ。それ以外は何らかの形で訪ねている。もちろん観たいところ、観ていないところは山のようにあって、きりがない。東北周遊は何度でも行きたいところだし、来年は北海道と九州をゆっくり回りたいと思っている。とくに南九州と道東は、なじみが少ない(それでも若いころ、知床には二回行ったけれど)ので丁寧に回りたい。もちろん自分の車で行くつもりだ。だから北海道にはフェリーで行くしかない。どこからフェリーに乗るか、それを考えるとワクワクする。

 

 近々に遠出をするならどこにしようか。冬の日本海を見ながら津和野までひさしぶりに足をのばしたい。日本海回りで新潟、山形と北上し、花巻を拠点に遠野やその周辺を歩きたいとも考えている。考えているだけで楽しい。

 

 近場なら、髙山や奥飛騨の、白くなった山を見に行きたい。久しく富士五湖あたりを訪ねていないから、そのへんを走ってくるのも好いかもしれない。伊豆にもずいぶん行っていないからそこを拠点にしてもいい。冬は案外宿が取りやすい。みんな忙しいのだ。

 

 気晴らしに伊賀や大垣を歩くのもいいかなあ。

 

 しなければならないことがあると、こうして逃げ出すのが悪いクセだ。

そろそろ

 サッカーの結果は今朝のニュースで見た。PK戦までいきながらの敗戦は残念なことだが、よくやった。健闘をたたえたい。サッカーが嫌いなわけではなく、お祭り騒ぎがいささか過剰ではないかと思っていただけだが、これでとりあえず祭りは終わった。日本人は、負けたからと選手や審判を中傷誹謗したり、暴動を起こしたりしない。それは誇るべきことだと思う。

 

 12月も数日過ぎて、さすがの怠け者の私もそろそろ始動しなければと思っている。いつも年末になって、あれもできなかったこれもできなかったと後悔し、まあいいやで終わる。たぶん今年もそうなると思うが、それでもちょっとはいつもよりマシ、ということにしたいとも思っている。少しずつできることから始めよう。

 

 篆刻はどんな字を彫るかいろいろ字を選び、試しに書き出してみているけれど、決まらない。篆書の字にもいろいろあり、字の組み合わせにもルールがある。練習用の柔らかい石で名前を試し彫りしてみたが、思いのほか時間がかかる。集中力が持続しないのだ。うまく出来なければ削ってしまえばいい。慣れることが先決だと思っている。

 

 海外ニュースでいろいろな国の名前を聞いても、その位置がわかる国が少ないのが恥ずかしい。小さな世界地図を横に置いて探す。いまは中央アジアや東ヨーロッパの国の位置関係を眺めながら、その歴史が知りたいと思っている。ユーゴスラビアを始め、こどもの頃知っていた国々がいくつもの国に分裂している。せめて二十世紀以降のそれらの国の歴史の概略を知りたいと思っている。これは来年のテーマにしようと思う。

 

 ウズベキスタンとトルコには行ったことがある。その歴史をもっと勉強していったならもっと感じるものがちがっただろうに、といまさら反省している。

 

 気が多いから何もかも中途半端だけれど、別にだれからも期限も成果も求められているわけではないからかまわないのだ。それが自由ということで、自由というのは自分が決めたことを自分がしなければ何も進まないということでもある。

2022年12月 5日 (月)

ひきこもり

 ほぼ一日おきにスーパーに買い出しに出かける以外は外に出ない生活が続いている。引きこもり状態といっていい。スーパーに行っても近いから千数百歩しか歩いていない。出かけなければ一日千歩も歩いていない。これでは足が衰える、もっと歩かなければよくない、と頭でわかっていても、出かける気にならない。

 

 一日中炬燵の前に座り込んで、本を読んだりドラマや映画を観たりパソコンの画面を見たりしている。首や肩が異常にこって激しく痛み出して、娘にマッサージしてもらった。ストレートネックという症状で、姿勢が悪いことによるものだと教えられた。いわゆるスマホ首である。意識して肩を回したり、姿勢の矯正に努めているので激しく痛むことはなくなったが、こんな生活がよくないのはわかっている。

 

 テレビは限られたドラマ(再放送を含めての『相棒』と『科捜研の女』のシリーズ)以外は民放は観ないから、ほとんどNHKかWOWOWのみである。NHKもドキュメントと紀行ものとニュースだけ観ている。そのニュースがスポーツばかりに偏重して(私にはそう思える)観るに耐えないのでNHKBSのニュースを観る。簡潔だし、海外のニュースが多くてためになる。国際ニュースで海外放送局からのニュースは、お国ぶりが出ていて面白い。アナウンサーも、早口の国とゆっくりの国がある。

 

 若い人と高齢者では聞こえ方がちがうという。同時に二つを聴き較べるわけにはいかないが、聴こえる音量の違いでそれが察せられる。放送局は同じ音圧レベルで流しているのだが、よく聴きとれる声と聴こえにくい声とがある。アナウンサーは発声がしっかりしているからたいてい大丈夫。それにテレビの音量を合わせていると、ほとんど聴き取れない人がいる。そちらに合わて音量を上げるとうるさい。自分の耳のせいだとわかっていても腹が立つ。

 

 スポーツになると突然やかましくなるのも煩わしい。それといつも苛々するのが、衛星放送の同時通訳の人の声に極めて聴き取りにくい人が多い。もっと発声練習をしてもらうか、音圧レベルを上げるか、調整してもらいたいものだ。ネチャネチャしゃべりの女の人も苛々する。

 

 若者はテレビ離れしているという。とくにNHK離れが進んでいるという。迎合的な番組の陳腐さは恐ろしいほどだ。観るのは年寄りばかりだという。その年寄りだって、猫なで声で語りかけられて喜ぶ年寄りばかりではない。声は聴き取りにくいわ、つまらない番組ばかりでは年寄りだってNHK離れするだけだ。それがわかってのサッカーのお祭り騒ぎ放送だろうが、限度を超えている。いま引きこもり爺さんは虫の居所が悪い。

2022年12月 4日 (日)

いつものようにぼんやりと

 昨日から部屋を閉め切っていても室温が20℃を切るようになった。マンションの躯体はゆっくりと冷やされていく。体が順応できてありがたい。今日は洋楽が聴きたい気分で、カーペンターズやビージーズをかけながらウーロン茶などを飲んでぼんやりしている。

 

 小原信という倫理学者の書いた『状況倫理の可能性』という本を拾い読みしている。昭和46年の本だから、50年以上むかしに書かれているのだが、いま読んでもいろいろ考えさせられる。私は昭和50年版を持っていて、だから二十代の半ば過ぎ頃買ったのだろう。いつも拾い読みしていて完読していない。

 

「状況倫理」という言葉に惹かれたし、いかにも現代という時代を表していると思わないだろうか。いろいろな場所に掲載した文章を著者がアレンジしてまとめた本で、前半は「神」について論じている。ニーチェは神は死んだというけれど、それはどういう意味か、本当に神は死んだのか、神はそれなら存在していたということになるがそれはどういうことか、ということが書かれているらしい。「書かれているらしい」というのは、きっちり読み込めていないからそういうしかないのだ。

 

 表題の『状況倫理の可能性』という文章の冒頭

 

「現代人は渇いている。効き過ぎたスティームのある部屋にいるように、何もかもが合理的に管理され運営されてくると、何かむなしくなる。「生きがい」を求めている人は、心の渇きを癒やされたいと願っているのである。」

 

そうして自分自身の乾きについて具体的な経験を記したあと、

 

「現実において前よりもはるかに豊かになり、ゆとりのできつつある現代人には、影のごとくにつきまとう「さびしさ」がある。何をしてもよいが何をしなくてもよい。だが自由を与えられると、こんどは退屈の虫が動き出す。何もしたくないならじっとしていてもよさそうであるが、何もしないでいるということだけは、もともと人間には耐えられないことなのだ。ゆえに、余裕ができてくるにつれて、人は「生きがい」を模索し、新たに目指すべき指標「努力目標」が欲しくなるのである。」

 

「われわれにはもう、何が欲しいとか、何をしたいとかいうことではなく、何を欲すべきか、何をすべきなのかという、すぐれて倫理的な問いかけが各人の心のなかに芽ばえつつあるのではないか」

 

 宗教にはいろいろあるが、多くの宗教は生き方を細かく指示する。あれをしろこれをしろ、あれはするなこれはするな、豚は食べるな、牛は食べるな、何時に礼拝しろ・・・。さまざまな軌範にがんじがらめに見えるけれど、それに従順に従っていると何も考えなくていい。イスラム教もヒンズー教も、カトリックもそういう宗教といって好い。

 

 そして、その宗教のくびきからのがれた人びとは何をしてもいいし、しなくてもいいという自由を謳歌している。ところがそういうがんじがらめの宗教の国では人口が増え続けているのはどうしてだろうか。イスラム教徒はどんどん増えているのである。自由に疲れた人は宗教に向かう。

 

 トランプのような人物があそこまで支持を集めたのは、宗教的な背景があることが大きいような気がする。中国が力を維持するかどうか、あれはするなこれはするなの国こそが力を持つということなら、日本は衰退し、中国は衰退しないだろう。

 

 リタイアして何をしてもよいし、たいていのことができるゆとりもある身になって感じる「渇き」というものをどうにももてあましている。その渇きを癒やす出口は何か、映画も旅も読書もしたい放題だけれど、心はあまり潤わない。とはいえ、こんなのは贅沢なぼやきでただの格好ツケだ、といわれても一言もないが。

2022年12月 3日 (土)

ホラードラマを観る

 少し前に『キャッスルロック』というスティーヴン・キングの世界をベースにしたホラードラマを観たが、二日かけて、続編にあたる『キャッスルロック2』全十回を観た。こちらの方がゴシックホラーの要素がふんだんに盛り込まれていて、怖かった。

 

 むかしは元気だったから怖い話もドラマも映画も観たけれど、もう今は積極的に観たいと思わない。今回が最後かもしれない。『2』も前作と通底しているところがあって、キングの世界がパラレルワールドのように、重なったり全く別だったりして関連していく。だから登場人物に同じ名前の人物が出て来て、同じであり、そしてちがう立場にいるし、生き方もちがったりする。そしてこの『2』こそあの最も怖い『呪われた町』に近いものがある。

 

 こんなドラマを観ると、また以前読んだキングの小説や映画が観たくなったりしてしまうが、精神の健康のために自制しようと思う。

補助線

 花巻の宮沢賢治記念館を三回ほど訪ねている。最初は母に勧められた。母は、友人と訪ねて好かったからお前も行って見ろ、と言った。私が宮沢賢治が好きなことを知っていたからだ。少し前に記念館もリニューアルされて、ちょっとこぎれいになっている。

 

 宮沢賢治が書いた童話や詩を、どうしてこのような発想をしたのか、そのイメージにはどんな背景があるのか、知りたいと思っていたが、録画してあったNHKのドキュメントでその答えが呈示されているのを観た。

 

 幾何学を解くときに補助線を引くと氷解することがある。呈示されていたのは、岩手高等農林学校時代に親友となった、山梨出身の保阪嘉内との関係である。宮沢賢治の年譜で承知していたけれど、ここまで深く影響していたのを始めて知った。彼を補助線として、宮沢賢治の作品が詳細に分析される。

 

 こうして始めて『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』の世界の表す意味が多少わかった。

 

 宮沢賢治は生涯独身だった。親友への過剰な思い入れを観て、そこに同性愛的な傾向を読み取ることは可能かもしれないが、性愛的なものはなかったように思う。妹トシへの深い愛情を観ても、もともとそういう情の深い人物なのだと思う。妹トシも補助線の一人であることはたしかで、『永訣の朝』という詩は何度読んでも胸が熱くなる。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」というフレーズの意味を理解したとき、それが頭から離れなくなる。

 

 もう一度宮沢賢治の詩や童話を読んでみようかと思う。

2022年12月 2日 (金)

権利と自由と公共の福祉

 中国の憲法は知らないが、日本では国民に権利と自由が保障されている。ただし、公共の福祉に反しない限り、という条件がついている。その公共の福祉とはなにか、ということの解釈の幅が憲法の解釈の違いを生んでいる。

 

 旧統一教会のもたらした問題の対策と、被害を受けた被害者の救済の法律について、与党と野党のあいだでなかなか合意がなされない。与党案はほとんど役に立たないと野党はいう。それに対して与党は、野党案では憲法で保障された信教の自由を侵害しかねない、と反論する。

 

 現実に社会的な害をなし、被害者が生じており、現行法律ではそれに対処しきれず、被害者も救済されないから新しく法律を作ろうとしているはずである。その点については与野党とも認識は共通しているのではないか。

 

 明らかに公共の福祉に反していることは、一部の人たちを除いて、ほとんどの人の共通認識であるということである。与党の主張する信教の自由とは、公共の福祉を損なうものまで護ろうとしているのだろうか。それが誰のためのものなのか、多くの国民は不審を覚えている。旧統一教会に侵された自民党、そして明らかに宗教と切っても切れない公明党のためのものであると国民は感じているのではないか。私はそう感じているが。

 

 信教の自由を侵害するおそれ、とはどんな場合をいうのか、与党は国民に解るように説明する責任があるが、そもそも説明できるのか。

 ところで公明党が、わが国が「反撃能力」を保有することを了承したという。勘ぐれば、反撃能力の保有了承と救済法案の骨抜きとをバーターしたのかもしれない。それなら公明党の国民を護る気持ちなどその程度ということだ。本来はあれもこれもきっちりさせなければならないことなのに。

お好み焼き

 関東で生まれ育ち、山形の大学で四年間を過ごした後、大阪の会社に就職した。初めて大阪で暮らし始めて、まずうどんの汁の透明なことと、安くて美味いことに感激した。お好み焼きの魅力にもとりつかれた。

 

 店の使い込まれた鉄板で自分で焼くお好み焼きは格別である。大阪は一ヶ月だけで東京営業所に配属になった。その一ヶ月の会社の寮暮らしでは、最寄りの駅周辺のお好み焼き屋を毎晩次から次に訪ね歩いた。店によって味が違う。そしてどこもみな美味い。一ヶ月で二十数回行ったから、ほとんど皆勤賞だったのに、飽きるということがなかった。つきあわせた友人が途中で音を上げた。

 

 お好み焼きはお店で誰かと話をしながら食べるのが格別美味いけれど、久しく自宅で一人で食べている。それでも美味い。粉物(こなもの)の魅力を教えてくれた大阪に感謝している。そういえば粉物の本場は中国で、その種類の多さと多彩な味は、ほんの少ししか味わっていないが、もっと楽しみたかった。

ホットプレート

 最近、お一人様用の小さなホットプレートをよく使う。十年ほど使い込んでいるもので、温度調節機能がない安物だからスイッチで温度調節する。ただしサーモスタットがあるからあまり熱くなると自動的にスイッチは切れる。

 

 いままでは焼き肉などに使うだけだった。フランパンを使っていたホットケーキやお好み焼きを、このホットプレートを卓上において作るようになって頻度が上がったのだ。クッキングシートを敷いて笹かまや一夜干しの干物を焼くことも覚えた。焼きながら食べられて旅先みたいな気分になる。

 

 いまのお気に入りはネギ焼きである。お好み焼き粉と刻んだ大量のネギを混ぜて卵を加え、水を少し多めに入れて柔らかめの生地にして焼く。いろいろなお好み焼き粉を試して、味のしっかりついているものを選んである。ソースや醤油のたれは、なしでも美味い。酒のつまみに好いのはもちろんである。ネギは細ネギではなく、太い白ネギの青い部分を細かく刻んで使う。ネギにクセがある方が美味しい。昨日は鶏皮の茹でたものの残りが冷蔵してあったので、細かく刻んで加えたら、これも全体になじんだ味になって、ちょっといけた。

2022年12月 1日 (木)

江沢民の死、そしてプーチンの愚

 江沢民が死んだ。96才だという。彼には日中関係をめちゃくちゃにしたという記憶と、上海閥の親玉としての中国の腐敗の元凶という印象が強い。それは裏返していえば、中国を経済的にここまで大きくした功労者ということでもある。天皇陛下を前にして、上から目線で説教するように日本を非難して見せた姿が忘れられない。非礼ということをなんとも感じない男の姿だった。それでも天寿を全うするのがこの世だ。この上海閥の腐敗を退治する、というのが習近平の政敵打倒の大義名分で、それは大成功した。大成功過ぎて、ついに周りにはイエスマンだけしかいなくなった。その末路はどうだろうか。彼も大往生するのだろうか。

 

 プーチンが戦死者の母親たちと面談した様子をテレビで観た。プーチンは国のために死んだ兵士をたたえ慰霊し、母親たちを慰謝した。母親たちは涙ながら息子の死を栄誉あるものとたたえられた光栄を謝した。母親たちは、そのように息子の死を栄誉あるものと信ずる人たちが精選されて集められたものだろう。もし不慮の怨みの言葉などがあれば、それは編集でカットされているはずだ。

 

 問題はプーチンにあった。兵士達の栄誉をたたえた後、あろうことか、「交通事故で毎年三万人、アルコールの飲み過ぎで同じほどの死者がいる。死は常に日常のことで、誰もが必ず死ぬのだ。特別のことではない」と、かすかに笑みを浮かべながら言ってのけたのだ。私は愕然とした。母親にとって息子の死はかけがえのない特別な人間の死である。それを数字の中の一人として語ったのである。それも交通事故死者やアル中の死と較べて語る神経には異常なものを感じた。

 

 どうしてこの部分がカットされなかったのだろうか。これをロシア国民は観たはずである。ロシア人はこれが特別異常とは感じない国民なのだろうか。それともロシアはこんなことを語るプーチンを制止したり批判することが出来ない状態になっているということだろうか。そしてプーチンがすでにまともではなくなっているということを、あらためて世界に知らせるような映像が公開されてしまった。どう見ても末期症状である。

今日から師走

 今日から師走で、いままでとは一段寒さが増した。北国からは雪の便りが報じられている。電力不足のおそれがあるからと、節電が呼びかけられている。節電をするとポイントを付与するらしい。ジャブジャブ使ってきた人は節電も楽だろうなあ、などと思う。たしかに無駄遣いしている人が節電すれば節電効果は大きいからそれでいいのだけれど。

 

 このごろは、出したらしまう、ということをこころがけているので、部屋はそれほど散らかっていないが、それでも年末に向けて、よりいっそう部屋の空間を拡げる努力が必要だ。油断するとたちまちあたりにものが転がり出す。

 

 なんだか時間の進み方が加速している。なにもしていないうちに夜が来て、しっかり寝た気がしないのに朝が来る。なにをどういう手順でするのか、意識して行動すると時間の進み方は正常になるが、無意識に行動していると時間は加速する。すべてを意識しながら行動するのはかなり精神力が必要で、たとえば運転でも、ブレーキを踏む、アクセルを踏む、という行為は外界に応じて無意識にしているのであって、いちいち手足に命令しているわけではない。習熟するということ、慣れるということはそういうことだろう。

 

 コリン・ウイルソンは『覚醒』を意識せよという。『覚醒』している人をアウトサイダーと呼ぶ。人が気づかない無意識の中に真実を見る人のことをそう呼ぶ。それなら私の時間が加速しているのは、私がますます『不覚醒』になりつつあるということなのか。たしかにそうかもしれない。いまにすべてが無意識の中に埋没するのか。

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