なるようになる
「なせばなる なさねばならぬなにごとも ならぬはうぬが なさぬなりけり」と上杉鷹山公は言った。父の口癖でもあったけれど、父がなにごとかをなしたかといえば、私同様なにごともなさなかった。言うだけではいけないようだ。そもそもなそうとしたというほどのことは父にも私にも特にない。どちらかといえばなるようになるなあ、と思って生きてきたような気がする。だから自分を不遇だと思ったりしないし、誰かのせいだと恨んだりしたこともない。腹の立つことはないではないが、出かけて行って誰かをののしるようなことはしたことがないし、するつもりもない。そういう青筋を立てている人間を見るとかえって冷めてしまうほうだ。
中国はなし崩しでゼロコロナ政策を中止したようだ。こんなに簡単に中止したのを見ると、一体あの厳格な規制は何だったのだろうと思う。ゼロコロナ政策が失敗だったということだろうか。それなら習近平が間違ったことになる。しかしそれを口にすることはなかなか難しいだろう。ところで規制を徐々に緩めるのではなく、ほとんど規制をやめしまうというのもずいぶん乱暴な話で、おかげで感染が急拡大しているようだ。その感染者についてもちゃんとした数の把握すらやめてしまったらしく、実数がわからないという。感染者だらけで宅急便の配達ができないというニュースを朝見た。
規制を緩めれば感染が急増するのは当たり前で、だからこそのゼロコロナ政策による規制だったのだろう。こうなると、当局は「規制に反対する大衆の求めに応じたらこうなってしまった」と感染拡大を民衆のせいにするつもりだろうか。来年正月に向けて人の移動がますます増えれば、医療の充実していない地方に感染は急拡大し、老人に重症者や死者が増えると予想される。ここまで緩和してしまえばそれはもう止められないだろう。
「なるようになる」と開き直った中国政府はどう事態を収束させるのだろうか。少子化による経済停滞が懸念される中国だが、多少死のうがたくさんいるからかまわないし、死ぬのは医療費のかかる病人と年寄りだから好都合だと思っているのかもしれない。中国はどうなるのだろう。毛沢東の「大躍進」で四千万人、「文化大革命」で少なくとも二千万人以上が死んでもびくともしなかった中国だから、多少の病死は屁でもないのであろう。
こちらはなりゆきをただ眺めるだけのことである。


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