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2023年2月

2023年2月28日 (火)

本屋

 日本だけではないのだろうけれど、だいぶ前から町並みから本屋がどんどん減っている気がする。活字離れ、デジタル書籍の増加、さらにコロナ禍が影響しているのだろう。万引きも書店経営継続を困難にする大きな理由だともいう。

 

 子供のころ、本が好きだったから本屋や古本屋、または図書館の司書のように、一日中本に囲まれて暮らせたらいいなあ、などと考えたこともあったけれど、けっこうたいへんな仕事だと知ってからその望みは消えた。本はけっこう重いから、本を扱う仕事は重労働なのだ。それに自分の蔵書すら整理できないのに、大量の書籍の分類整理など自分には向いていない。

 

 韓国の前大統領文在寅が本屋を開くそうだ。韓国で新規に書店を開いて採算が合うのだろうか。状況は日本と変わらないと思うのだが。店頭に置いて推薦したい本として、チョ・グク氏の本を挙げていた。どんな本が並べられることになるのか想像がつく気がする。日本では再販制度があって、自分が売りたい本だけ店頭に並べて売るということは不可能なシステムになっている。韓国にはそういう制度はないのだろうか。

無関係のようで無関係ではない

 先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)という本を読み始めている。冒頭で、ナショナリズムに対しての三つの大きな誤解があることが説明されている。まず、ナショナリズムと全体主義が同じものであるという誤解である。これらはちがうものであるということが丁寧に説明されていて、そこのところで了解しなければ、この本そのものを読み進める意味がないことを理解しなければならないようだ。私は了解した。

 

 そこから話がどう展開していくのか、たいへん楽しみだが、並行して読んでいるカート・アンダーセンの『ファンタジーランド』におけるアメリカというもの、その文化と歴史についての考察が、どこかで通底してくるような予感がしてならない。無関係なようで無関係ではないのだと思う。そこまで読み取れるかどうか分からないが、それが予感できたということで今はよしとする。世界はいまどうなりつつあるのか、日本はどうなのか、そのことを多少なりとも知的に眺めるのは老後の楽しみではないか。

 

 身体の一部にまだ不調が残存していて、いつまた絶不調に舞い戻るか不安な状態にいる。だからしなければと思っていることがいくつもあるけれど、先延ばしできることはいまはやらないで放置している。思えばずっとそういう生き方をしてきた。格別のことでもない。

分断と民主主義

 私の粗雑な頭は、ものごとを単純化することでようやく理解する。

 

 アメリカは分断している、またはされている、などというとき、たとえばこう考える。百人のアメリカ人がいて、四十人が熱烈なトランプ支持者であり、四十人がトランプを嫌悪している状態を考える。残りはどちらでもない。そのとき民主主義は成立するか、多数決は成立するか。どちらでもない人間の奪い合いがあるだけだ。ここに平均的アメリカ人という概念は成立できない。

 

 世界が宥和することを困難にしている分断というのはそういうものなのかと思う。

 

 分断の顕著なアメリカについて、その歴史的背景を知るためにカート・アンダーセンという人の『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』上下二巻を取り寄せて読み始めた。ニューヨークマガジンの編集長でありコラムニストである著者は、先日来観ていた『サブカルチャー史 欲望の系譜』でなかなか鋭い批評を述べており、その著書としてこの本が紹介されていたので読みたくなったのだ。

 

 まだ読み始めたばかりで、読了できるかどうか分からないが、帯に「狂信者の国家の物語 全米で話題のベストセラー!」とあるとおり、かなり刺激的で面白い。世の中にはいろんな本があるものだ。

2023年2月27日 (月)

少し調理を

 出来合いのものや、少し温めればいいものばかりを食べてきたが、そろそろ調理を始める気になった。包丁を使い、鍋やフライパンを使い、御飯を炊く。品数はまだひとつふたつだが、食事らしい食事になっていく。食はやや細くなったままなのに、たちまち体重が元に戻ってしまうのは不思議なほどだ。

 

 それにしてもスーパーで買い物をすると、支払額が以前よりずっと多くなっていることを実感させられる。高くなったのに合わせて調整すればいいだけで、たちまち生活に困って飢えるというような心配は今のところない。いまは酒を控えているので、支出が緩和されている。正月はいい酒ばかり飲んで贅沢しすぎた。リセットしなければならない。

 

 本を読んでいると、そこに取り上げられている参考図書が無性に読みたくなって、ノートにメモしただけではおさまらず、つい発注したりしてしまう。こういう底の抜けたことをしていては、ちょっと問題である。ただ、そういう本が手元に届いたときの喜び、ページを開いて読み始めるときのときめきというのは、何物にも代えがたい。問題なのは購入した本がすべて読み切れるわけではないことだ。

志賀直哉『クローディアスの日記』

 体調を崩して、一日せいぜい五十ページくらいしか読めなかったのが、少しずつ読書量が恢復している。持続力はまだまだなので、私本来の並行読書のスタイルとなっている。『臼井吉見集』第五巻は、いま後半の『古典のおもしろさ』の文集を味わいながら読み進めていて、もうすぐ読み終わると思う。配達された先崎彰容(せんざきあきなか)の『ナショナリズムの復権』という本を読み始めた。政治思想に多少とも興味のある人なら、ぜひ読んで欲しい意欲的で面白い本だ。

 

 余力があったので、志賀直哉の短編を二編ほど読んだ。志賀直哉は繰り返し読んでいる。私には読みやすい。自己中心的で自分の快不快がかかれているのにどうしてこんなに読んで面白いのか、私にもよく分からない。言葉の感性が合うのかもしれない。

 

『ハムレット』は高校生くらいのときに読んだきりであって、ちゃんと読んだとはいえない。ずいぶん昔のことだが、イギリスの演劇をテレビで観たことはある。そのハムレットの叔父であり、いまは母と結婚した新王がクローディアスである。そのクローディアスがハムレットの様子などを書き留めた日記、というのが志賀直哉の『クローディアスの日記』なのである。

 

 その心理描写によって、ハムレットの疑いが妄想なのかクローディアスの自己欺瞞なのか、さらにハムレットによって次第に心理的に影響を受けていくことで自ら追い込まれていくクローディアスの様子などが巧妙に描かれている。志賀直哉にはこんな小説もあるのだ。

ちょっといただく

 体調不良になる前、最後に飲んだのが15日で、そのあとは一滴も酒は飲んでいない。そもそも欲しいとも思わなかった。それがこの二三日、次第に酒が欲しくなった。徳島の先輩が送ってくれた酒があって、千葉から帰ったら飲もうと思っていて、ついに昨晩その封を切って、ちょっとだけいただいた。

 

 弟のところで卓上の電気七輪ともいうべき道具で大阪の友人が送ってくれた城崎のムシガレイや、船橋で飲んだ先輩が送ってくれたイカの付け焼きを焼いて食べた。その道具が欲しくなり、手配したので、その電気七輪で焼き物をつまみにして飲んだ。ひさしぶりの酒のうまいこと、うまいこと。

 

 しかしながらそのあと咳が出るようになって参った、発熱はしていないので、大丈夫だろう。歯の疼きも間遠になり、痛み止めも一日一錠か二錠で我慢できるようになった。抗生物質は明日で切れるが、切れたままでいいのだろうか。

2023年2月26日 (日)

時代は人が作っていく

 時代、つまり歴史は、政治や経済ばかりが作っていくものではない。そのことをNHKの『サブカルチャー史 欲望の系譜』という番組が教えてくれる。第一シーズンはアメリカの'60~'90年代のサブカルチャー史であり、第二シーズンはヨーロッパの'60~'90年代のサブカルチャー史であった。歴史は人間が紡いでいくということ、人間の欲望をサブカルチャーがどのように受け止めて表現してきたのか、そのことをとても分かりやすく伝えていた。

 

 歴史にはあたりまえのことだが因果があって、その因果が因果を生んでどうしようもない大きなうねりとなって変遷していく。そのことに個人的に無力感と、なんとなく空しさも感じたり、同時に何も知らずに時代を生きていることと、それを多少は見据えて生きていくことの違いのようなものを感じた。きちんと時代を理解し、それを表現している人たちに敬意を表したいし、できれば自分もそうでありたい。

 

 来月、三月は第三シーズに入り、テーマは日本である。私自身が生きてきた時代であり、より自分自身に近づいていく。楽しみだ。ある意味で記憶の再構成をさせてもらおうと思う。

少しだけ分かるようになった

 和歌や俳句がよく分からない。その句が表現しているのが何かよく分からない。人が好いというのだから好いものなのだろうと、句集などを開いてなんとか理解しようとするが、たいてい解釈を読んで初めてなるほどと思ったり、その解釈すら分からなかったりする。それでも繰り返しそういう本を読んだりしているうちに、愚人にも光明が差すこともあり、少しだけ分かるようになった気がしている。

 

 臼井吉見の『芭蕉覚え書き』という文章を読んでいる。冒頭に


   五月雨の降のこしてや光堂

 

という『奥の細道』の中の、平泉中尊寺の金色堂を詠んだ句である。そうしてこの句の解釈についてのさまざまな例を取り上げて、比較して論じている。私など、その中のひとつを回答として示されればなるほど、で終わっていただろうが、これほど千差万別、ちがう解釈があるというのは驚くほどである。

 

 それだけこの句の解釈が難しいともいえるし、それはそれなりの理由がある。この句についての臼井吉見の解釈はその理由をも含めて明快に解きほぐしていて、多少は『奥の細道』について勉強したのでとてもよく納得できた。

 

 それについては以下の文章を引用して記録に遺しておきたい。

 

 かく考えるとき、芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」に対して蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」を「遙カニ進歩シテ居ル」と評した子規は、芭蕉の世界にはついに踏み込むことのできなかった、精確にいえば踏み込む必要のなかった人だと思わざるをえない。このことはまた光堂の句を、「拙とや云はん無風流とや云はん」と罵倒し去ったのと相まって、闊達な子規の近代精神は所詮、芭蕉とは無縁だったのではなかろうか。一応近代写実主義の道を進んだ子規にとってはむしろ当然のことでもあった。

 

 俳句を楽しむためには知っておくべきことがたくさんあって、それを知れば知るほど奥の深さを感じられるらしい。もうちょっと挑戦してみようかな。無明の闇に、ようやく日がかすかに差した気がしている。

誰も無理強いしていない

 虫が苦手な人はいる。特に女性に多いかもしれない。生まれつきの人もあるのだろうが、多くは母親などの影響が大きいと私は思っている。自然界には虫がたくさんいるから、田舎で自然と接する暮らしをすれば虫と接することはあたりまえのことで、虫をさわるのはもちろん、見るのも想像するのもいやだ、などという極端な人は、むかしなら生きていけなかったことだろう。都市化が進んだ現代だから存在している人たちだろう。

 

 昆虫は一部地域で古来タンパク源として食用にされてきたし、いまでもふつうに食べられている。繁殖率が高いから、コオロギを食料として活用しようという研究がなされて、一部実際に実用化されている。経済性が高ければどんどん増えていくことになるだろう。

 

「コオロギを食べない連合」という集団があるのか名前だけなのか知らないが、そういう人たちがコオロギ食を否定しているらしいが、別にその人たちの口を無理やりこじ開けて生のコオロギを押し込もうとしているわけではないから、他に食べるものがあるのだから、食べたくないなら食べなければいいだけである。それを「食べない連合」などと称して主張していることに、なんとなく「勝手にしろ!」という反撥する気分になる。自分たちに注目を集めることが目的であると勘ぐりたくなるではないか。

 

 そんな風に思うのも、私が人が食べるものはたいてい食べられるからだろうか。まだ蛇は食べたことはないが、調理して肉として供されれば別に抵抗なく食べられる。昆虫食は料理として食べられるものは抵抗なく食べてきた。熟れずしは、慣れない人には食べにくいものだが、海のものも鮒ずしも美味しいと思って食べる。蝗や蜂の子、ザザ虫なんてのを食べたことがある。そういえば中国で、サソリの唐揚げも食べた。海老の唐揚げと変わらない。だからコオロギだって、生のまま食べろと言われれば御免を蒙るが、調理したものなら食べることに抵抗はない。

 

 それよりも魚が獲れなくなって値段が上がり、食卓に上がる頻度が下がっていることが残念で、鮮度のいい小魚がもっと欲しいと思うこのごろである。釣りをしなくなってとみに活きのいい魚を食べる機会が減った。そうそう知多まで買い出しに行くわけにも行かないし。

2023年2月25日 (土)

記憶

 今月半ばにしばらく弟の家にやっかいになり、そのうちの一日、妹もやってきて兄弟三人で四方山話をした。多くはそれぞれの家族の消息で、互いに情報交換し、いろいろ抱えているものがあったりなかったり、ある程度聞けば、それぞれの気持ちも分かった。 

 

 やがて自分たちの子供時代の思い出話になった。弟とは四年、妹とは八年の年の差があるから、その見ていた時代と世界は違うところがけっこうある。弟や妹は、自分たちの物心つく前の、私だけが知っている両親の話を聞きたがった。当然知っていると思ったことを彼らが知らないことに私は驚いたりしたが、思えば当然のことだし、幼かったから記憶に残らなかったこともあるだろう。

 

 記憶というのは自分の都合のいいように変形されていくもので、同じ時間を生きても覚えていることと忘れていることがちがっているし、覚えていることの内容もたぶん事実とは変わっていると思う。そもそも記憶する当人がその事実をどう感じたかで記憶もちがってしまうもののようだ。

 

 来月末に兄弟三人で伊豆に行くことになっている。そのときまた思い出話をすることになるだろう。話していると忘れていたことが細部まで浮かび上がってきたりする。楽しみである。それまでに体調を万全にしたいと思う。さすがにあとひと月もあるのだから、復調していると思うけどなあ。本日も本調子ではない。

よい兆候

 ようやくほぼ平熱状態が持続するようになり、痛み止めで歯の疼きが抑えられているときは本が読めるようになった。いまは臼井吉見の日本文学の評論を読んでいる。奥野健男の文学評論と似た視点であるところがあり、多少なじみの景色を読んで楽しんでいる。もちろん扱っている作家や作品が重なるということで、その批評が類似しているということではない。

 

 日本の好色小説、痴情小説、自然主義小説、私小説を系譜に沿って扱いながら、風俗小説と文学との違いについて論じていて、境目のあいまいなものを扱いながら、それでも納得できるのは、かなり彼の文章にシンクロしてきたのかもしれない。彼の『安曇野』(全五巻)を購入するかどうか、いまだに迷っている。
 
 テレビでしばしば拝見する日本近代思想史専攻の教授・先崎彰容氏にはいつも、なるほどと思わせられている。以前一冊は彼の本を読んだけれど、あらためて彼の本を読みたくなって、アマゾンで三冊ほど新書を手配した。今日中には着くだろう。臼井吉見の次にはそれらを読む予定。気持ち的には中断している昭和時代中期までの小説の拾い読みを続けたいとも思っている。

 

 本を読む気がでてきたのはいい兆候だと思う。

可否

 岸田首相がウクライナへ行くべきか否かが話題になっている。今年のG7の議長国の長として、日本だけがまだウクライナを訪問していないということが問題視もされている。

 

 行くべきか否かといえば、私は行くならもっと早く行くべきだったし、いまさら行っても、もう行く意味がないとも考えている。もしいまごろのこのこでかけても、岸田首相自身の「行きました」という出席スタンプを押しに行ったことにしかならず、目的が見えない。行くならウクライナのために行くべきで、そう思うならとっくに行っていたはずだからである。いまごろ行くならそれなりのお土産が必要だろうし、そのお土産も出し遅れにしか見えない。これが安倍晋三首相だったら、そのタイミングを外さず、絵になるパフォーマンスを世界に見せられただろうにと思う。

 

 岸田首相という人は理念と言葉が先行して中身がないように見えてしまってどうも好感が持てない。これでG7の議長役が務まるのだろうかと心配になる。誰か代わりはいないのかと思う。

 

 ただし、どさくさ紛れに、こじれそうな法案を通しているという成果は上げているという。野党の無能無策、愚かさのおかげだが、こういう為政者がしばしば亡国へ暴走するきっかけになることもあるのを歴史は教えてくれている。

2023年2月24日 (金)

長引く

 歯医者に行き、処置後の状態の問診があり、そこからどうも事態は悪化しているらしいと感じた。なんとなく頭がぼんやりしていて、よく分からないが、頬の疼きや鼻の異臭は、菌があちこちへ流れ出しているということらしい。歯を削ってかみ合わせの調整をして、そのあと歯のメンテナンスと、どういう効果があるのかよく分からないが痛みのある歯にレーザー照射などをした。それで今日はおしまい。一週間後にもう一度様子を見て次の処置を考えるそうだ。

 

 三日分の抗生物質と痛み止めをもらって薬をもらって帰宅。なんだが治療が長引きそうな気がする。薬が切れてもまだ痛みがあったら、またそこで診察を頼むしかないなあ。昼に飲んだ痛み止めの効果で今のところ疼きはない。後二三時間で薬の効果が切れたとき、今日の治療で少しはマシになっているのかどうかである。

ひとつずつ

 妻の入院している病院へ、支払いなどもあって毎月20日前後に行くことにしているが、遅れている。今日なんとか行こうと思うが分からない。何より歯の処置を優先したい。歯の疼きは痛み止めが切れるとクレシェンドで増してくる。痛み止め(ロキソニン)はこの疼痛によく効く。いまは処置した歯の二三本奥の歯が主に疼き、重低音のように下の奥歯が存在を主張する。今日は上の歯を先に処置してもらうことにする。

 

 喉と鼻のあたりに痛みがあり、その辺からくさい臭いがし始めた。少ないけれど痰が出て、その色が濃い。こんなところにも発熱によって雑菌が繁殖したのだろうか。今のところ抗生物質でギリギリ抑えられているのかもしれない。歯の処置が終わったらそちらも耳鼻咽喉科で診察してもらわないといけなくなるのだろうか。参ったなあ。とにかくひとつひとつ問題を解決していくしかなさそうだ。

 

 それにしても人間の身体というのはみんな関連していて、弱点から玉突きのように次々に不調になるようだ。逆に考えれば、ふだんは全体が調和して防御をしてくれているということで、何より弱点を作らないのが本体の人間の役目のようだ。心しよう。

2023年2月23日 (木)

テーマ

 NHKのドキュメント『特派員たちの日中国交正常化50年後の証言』という番組を興味深く見た。日中国交正常化が成立した1972年以前の中国に派遣された新聞社やテレビ局の特派員たちが何を見、何を伝えようとしたのか、そしてそれがどのように報道されたのか、たぶんドキュメントにまとめられたものよりもはるかに多くのことがあったと思われるが、当時高校生であり大学生だった私は、新聞やテレビで中国のことをみて、いろいろ考えさせられていた。

 

 そのことで思うことはさまざまあるが、当時マスコミが伝えているのが必ずしも事実や真実ではないのではないかという疑念を抱かせたきっかけが中国についての報道だった。特に私の場合は朝日新聞によるものだった。

 

 このドキュメントで明らかになっていたのは、朝日新聞は北京支局の存続維持、日中国交正常化を現地から伝えること。そして日中国交回復に対して社を上げて支援することを社命としていた。事実の報道ではなく、国交正常化のための報道を優先したのだ。そしてその意に忠実な記者が特派員として報道し始めたとき、報道内容がからりと変わった。

 

 番組ではそこは深く追求していないが、そこに言及しているということがどういうことか、分かる人には歴然と分かる。私の疑問がある意味で正しかったことを初めて明快に教えてくれた。

 

 大学の教養課程で、社会学という講義を受講した。方法論だけで社会学そのものの存在意味や実態が最後まで分からなかった。今、社会学でレポートを求められたら、私は朝日新聞の1960~1972年の朝日新聞の中国関係の記事を読み直し、そこについての考察を行うだろう。そうして初めて社会学の意味を理解できるようになる気がする。残念ながらそこまで研究する気力がないが。

三本目、理解不能

 未明に歯の痛みで眼が覚める。こめかみや頬に痛みがじんじんと伝わっている。神経がほとんどむき出しの歯は三本見つかっているが、いま痛んでいるのは次回処置予定の二本目ではなく、様子を見るつもりだった三本目である。痛みで寝ていられないので起き出して痛みに耐えている。もう少し我慢して、それでもどうしようもなかったら痛み止めを飲もうと思う。

 

 風邪はほぼ治って熱もほぼ平熱だが、鼻水が止まらない。喉の痛みもまだ消えない。まだなにかが居座って連合軍で再攻勢のチャンスをうかがっている気配がする。薬の副作用なのか、手や足の指が攣ったり攣りかけたりする。むかし、ばね指の治療で腱鞘を剥ぎ取った指などが特に異常動作している。これが痺れたりするようなら頭の問題だが、今のところ痺れはないようだ。身体全体の調節に狂いが生じているのだろうか。

 

 NHKのアナウンサーがストーカー行為をエスカレートさせて逮捕されたというニュースを見た。見覚えのある顔である。詳細に興味はないが、彼に知性がないとは考えられず、自分の行為が結果的に自分をどこへ追い込むことになるのか理解する能力がなかったとも考えにくい。そう思うと、どうしてこういう行為を自分でとめられずにエスカレートしてしまうのか、私には理解不能である。たぶん本人も理解不能なのかもしれない。

 

 自分自身を他人の目で見るという、あたりまえのことができなくなるということがどういうことか、私には理解できない。そうして、自分自身を見失うほどの恋着や執着というもが私にはそもそもないということにふと気づく。映画やドラマで命がけの恋を見るとそれなりに感動するけれど、自分自身にはそこまでの経験はない。障害が大きければ燃え上がるというけれど、私は障害が大きいとあきらめてしまう。

 

 知性と情というものは別物で、恋着や執着は情から生ずるものなのだろう。そうして私にはその情が希薄なのかもしれないと思う。私にはそもそも燃え上がる恋の炎を燃やす燃料が足りないのだろう。その代わりストーカー行為などを起こす可能性は低いということで、いままで通り淡々と生きていくということになりそうだ。

2023年2月22日 (水)

一段落

 歯の麻酔が切れたころから、発熱中の頭痛と歯の疼痛がよみがえったが、抗生物質と痛み止めを飲んだらだいぶ緩和された。最悪期からみたら天国みたいなものだ。体温を測ると36.5℃、平熱に近づいた。全身が明らかに楽になっている。夕方早めに風呂に入って、夜に発熱さえなければ、この風邪は過ぎ去ったと考えていいだろう。

 

 それにしてもこんなに長期間発熱がつづいた経験がないので、新型コロナかと心配してしまった。発熱しても一晩か二晩寝ればけろりと治る質だが、我ながら衰えたり。今回は泌尿器系の疾患と歯の疾患が連動したという想定していない事態が重なったのだろう。

 

 元気が出て来たらついたまっているドラマを観てしまう。ボブ・リー・スワガーという狙撃手が主人公のドラマの第三シーズンを途中までしか観ていないので残りをみる。スワガーをマーク・ウォルバーグが主演した『極大射程』という映画が有名なので知っている人もいるだろう。テレビシリーズは第一シーズンがほぼ映画と重なる。そして第二シーズン(全八回)と第三シーズン(全十三回)はつながっていて区切りがない。それにしても長すぎて、いささかだれてくる。ストーリーにも無理が生じて緊迫感を失う傾向が出ていた。とくにスワガーと妻との葛藤はしつこすぎてうんざりさせられる。ラストのための伏線でもあるのだが、ちょっと過剰だと思う。なるようになる結末でようやく見終えた。登場人物達がタフすぎるのはご愛敬。それともアメリカ人というのはこれだけ本当に頑丈なのか。

神経を抜く

 歯医者に頼み込んで治療をお願いした。レントゲンで確認したら、上と下の歯それぞれ一本が、かなりよくない状態になっていた。「一度に二本神経を抜くのは負担が大きいのでできません、どちらからにしますか」なんて訊かれても答えようがない。リンパ腺が腫れている。それは下の歯のせいのようだが、触診では上の歯の方が痛みが強い。

 

 ということで麻酔をして上の歯を削り、神経を抜いた。先生も麻酔が効きにくいのを承知しているので、最初から二本麻酔を打った。病み上がりなので治療が終わった後は立ち上がるとふらふらした。下の歯は明後日処置する。頭痛や歯のうずきはなくなったが、それは麻酔が効いているからだそうだ。

 

 痛み止めと抗生物質をもらった。抗生物質は飲みきるように厳命される。さいわい本日は現在まで微熱程度で目立った発熱はない。風邪が治ってきているということのようだ。

原因と結果

 熱が上がったり下がったりしている。同時に頭痛と歯の疼痛がどんどんひどくなってきた。顎がうまく開かず、食事も摂りにくい。

 

 熱が下がりきらない原因は風邪の症状と思い込んでいたけれど、そうではないのではないかと感じ始めた。むき出しに近い歯の神経が発熱に伴い活発化した菌に冒されて痛んでいて、化膿しているのかもしれない。歯医者は発熱している人の診察を受けさせてくれないから治療を先延ばししていたけれど、もし歯の化膿で発熱しているなら治療しなければ熱は下がらない。

 

 先延ばしした次の診察予定は24日であるがもう待てそうもないので、今日歯医者に電話で状況を話して相談してみようと思う。四時前に起床してこれを書いている。体温は36.8℃。これなら歯医者はパスできるが、はたしてそのままでいてくれるかどうか分からない。排尿困難始まる。満身創痍。

2023年2月21日 (火)

上がったり下がったり

昨夕は医師に処方された薬を飲んで楽になった。38℃を超えていたのが37℃近くまでストンと下がった。なるべく水分を摂るようにと言われたので、経口補水液やお茶をせっせと飲んで就寝。鼻水が異常に出る。ティッシュペーパーを詰めておかないと枕が汚れてしまう。人に見せられない姿だ。

未明に口の渇きで目覚める。トイレに行き、水を飲む。ふらふらするので熱を測ると37.8℃で、また発熱している。朝になっても起き上がれない。九時過ぎにようやく楽になったので熱を測ると37.2℃。起き出して少しぼんやりした後にスープを飲む。そうしたら食欲が出て来たので朝食を作り、処方薬を飲む。

医師からは薬を飲んで三日過ぎても熱が下がらなければ、また診察が必要と言われている。まさかそこまで熱はつづいて欲しくない。先延ばしした歯医者にまた行けなくなってしまう。ずっと歯は疼いている。歯が原因で頭痛がしている気がする。私はもともと頭痛のない体質なので頭痛に耐性がないのだ。

遅い朝食の後の薬が効いたのか、現在は微熱状態で、身体も辛くない。このまま下がったままなら嬉しいのだけれど、予断は許さない。我慢、我慢。それにしても風呂に入りたい。

2023年2月20日 (月)

病院に行く

昼過ぎの検温は38.3℃で、いままでで一番高い。これはまずいと思ってかかりつけの病院に電話して指示を仰ぐ。病院へは車で行き、詳しい問診があったあと、発熱外来用の特別のところから入って診察を受ける。もちろんまずコロナとインフルエンザの感染の再チェックだ。30分あまり待たされて、両方とも陰性であるとの報告を受ける。

医師は「風邪をこじらせたようですね」「ただし高熱がつづくと万一肺炎になる可能性がありますから、しっかり養生すること」ということで、処方箋を戴き、薬をもらって今し方帰宅した。身体はかなり辛いが、気持ちは楽になった。これから夕食を摂り、薬を飲んで早く寝る。

二キロ減、他

 37℃前後の微熱がつづいている。着替えるときに体重を量ると、この数日で二キロ減っている。二キロは大きいともいえるが、もとの体重が大きいからたった二キロだというのが私の実感。もっと衰弱している気がしている。

 

 北朝鮮がミサイルを次々に飛ばしているらしい。日本海の日本側に近いところにも着弾したものがあるようだ。日本の船舶に被害がおよばないのは、海がそれだけ広いからであって、事前にどのあたりに飛ばす、という知らせがないから、いつ被害が生ずるか分からない。

 

 そのときに日本政府はどうするのだろうか。いままで通り厳重に抗議して遺憾の意を示すことだろう。では日本の領土に着弾したときはどうするのか。人のいないところならいいけれど、人のいるところに着弾したらどうするのだろう。北朝鮮は「攻撃するつもりはなかった。人工衛星が軌道を逸れてしまった」と言うだろう。そのときに政府はどうするだろう。

 

 そういう繰り返しがつづいた後に明らかに意図的な着弾をするかもしれない。アメリカに直接撃ち込むことは怖いから、まず日本に撃ち込んでみて、どんな反応があるか、それを北朝鮮は試したくてしかたがないかもしれない。しかし日本から北朝鮮に撃ち込むミサイルなどないから相変わらず「厳重な抗議」と「遺憾の意」を繰りかえすだろう。

 

 北朝鮮と戦争をする覚悟がない限り、反撃などできないということだ。それが分かっているし、そのことをたびたび確認している北朝鮮が、日本領土に撃ち込む可能性はないということはないのだ。日本は北朝鮮と戦争をしても何の得もない。国民が報復を是とするときまでは反撃はあり得ない。それまでは何発でも撃ち込むだろう。ミサイルの燃料は毒性が高いらしいから、海がどんどん汚されていくばかりか。今のところ北朝鮮を停める手立てはない。情けない気がする。

 ただし、北朝鮮がロシアのように日本に侵攻してくる可能性は今のところないだろう。そんな力はない。だからミサイルを撃ち込まれたらただ観ているだけなのである。

陰性、そして微熱

昨晩、娘の持って来てくれた検査キットで検査した結果によると、新型コロナもインフルエンザも陰性であった。いわゆる風邪ということのようである。気持ちが楽になる。夜38℃近くあった熱が今朝は37弱くらいの微熱に下がっていて身体も楽になった。頭痛と喉の痛み、鼻水は残っているので、ここで油断するとまた発熱をくりかえすことになる。完全に平熱になるまでは安静にしていようと思う。

いろいろとご心配、励ましの言葉を戴いて感謝しているが、おかえしは後でゆっくりさせて戴くつもりだ。そのときにもし漏れがあったらご容赦下さい。

録画しているドラマやドキュメントがあふれそうになっている。今はそれらを観ることが楽しみである。

2023年2月19日 (日)

救援隊来る

今し方、娘のどん姫が大量の救援物資、熱冷まし薬、コロナ・インフルエンザ検査キットを抱えてやってきた。缶詰類もあるが、それらは酒のつまみに良さそうだ。とはいえいまアルコール消毒しようとは思わない。

これでしばらく牢城が続けられる。ありがたい。

また発熱

 昼過ぎに横になって一眠りしてから体温を測ると、37.8℃。昨日ほどふらふらしないけれど、これでは外に買い出しに出かけられない。午前中起きだしてごそごそしていたのがよくなかったようだ。

 仕方がないので娘のどん姫に救援を要請した。「なにが要る?」というのでいくつか頼む。「わかった」。彼女は無駄な口はきかない。こちらの状況を的確に察知したと思われるので、あとはすべて任せて大丈夫。救援物資は戸口の外に置いておいてもらうことにする。

無事です

 平熱とまでは行かないけれど、現在の体温は37℃を切るくらいまで下がりました。いろいろとご心配いただいてありがとうございます。昨晩が峠だったように思いますが、今晩またぶり返さないとは限りませんので自重しています。

 

 着替えをして洗い物をして着替えをして、現在乾燥機で蒲団の消毒をしています。調子の悪いときは洗い物で手が濡れるのが不快でしたが、今日は大丈夫です。 


 懸念していた泌尿器系の異常はギリギリのところでおさえられているようです。無理して水分を摂取して浄化に努めています。今晩大事なければそのまま安静を続け、再度発熱するようなら明日医者に行くことにしています。

2023年2月18日 (土)

さらに発熱

夕方になってふたたび発熱、37.8℃。くしゃみが出て鼻水も出る。軽く食事をして寝ることにする。おやすみなさい。

現在ダウン中

 昨夕の体温、37.2℃、食慾がないが無理に夕食を摂り、野菜ジュースを飲み、蜜柑を食べる。就寝前の体温、37.6℃。アイスノンを準備して早めに寝る。夜中に一度目覚める。口をゆすいで水をたっぷり飲む。体温37.2℃。右の頬が膨らんでいる気がする。歯の不調がリンパ腺に現れているのかもしれない。

 

 八時過ぎに重い身体をなんとか起こして朝食を摂る。体温37.2℃。発熱すると持病の泌尿器系に異常が起きる。棲みついて眠り込んでいる耐性菌が目覚めて動き出す。そうなると小便の色が濃くなり、濁り出す。いろいろなところが炎症で腫れるので尿道が塞がれて排尿困難、排尿痛に見舞われる。かなり辛いが、今のところ濁り程度で済んでいる。早く熱が下がって欲しい。

 

 なんとなく体が少しだけ楽になったので体温を測ると36.9℃。ただ頭痛がする。今日夕方には食材を買いに行きたいところだが、どうだろう。

2023年2月17日 (金)

創発

 福岡伸一のコラムを読んでいて、「創発」という言葉を知った。「全体は部分の総和以上のもの」という意味だそうである。彼の説明では「要素を個別に観測するだけでは検出できない性質が、要素が集合して全体となったとき、新しい特性として突如表出すること、それが創発である」という。

 

 生命現象は、創発のかたまりだと言われると、にわかに理解できる。細胞が集合すると、とたんに特異的な形態や運動が生まれる。そもそも西洋発祥の科学は分割して分割して究極まで分割すれば真理が明らかになるという思い込みを持つところがある。しかしそれだけではいけないのだ。

 

 このことについてIPS細胞とのかかわりなどから考えたいと思ったけれど、発熱で頭がぐるぐるしてきてしまい、ダウンした。夕方の体温37.4℃。歯医者に連絡して来週の予約を再来週に変更した。この二三日で熱は下がるだろうか。弟に連絡したら、弟の嫁さんも発熱したが、今日は下がったらしい。医者に行って風邪だと診断されたという。私もそうだといいけどなあ。

まさか

 昨晩は十時前に寝床に入ったらそのまま熟睡した。三時前にいやな夢を見て眼が覚めた。どんな夢か覚えていない。全身が一昨年の追突事故の後のようにギシギシと痛い。発熱でもしているのかと思って額を触ってみたがひんやりしている。起き出して体温計を持ってくる気にはならなかったので、実際の体温は分からない。トイレに行ったら寒気がする。

 

 ぼんやりして暗闇を見ているうちに再度眠りについた。八時前にようやく目覚めたときは頭が少し重いだけで特に不調である気がしない。起き出して体温を測ってみる。36.9℃と微妙な体温だ。平熱が低くなっているからこれは明らかに発熱している。

 

 この十日くらいのあいだに、いままでになくけっこうたくさんの人に濃厚接触してきた。まさかと思うが、どこかで新型コロナを拾ったのかもしれない。いつも以上に疲労感があったのもそれが理由かもしれない。数日おとなしくひきこもっておとなしくしようと思う。ふだんの生活には差し支えない程度なので、さらに発熱しないなら、わざわざ医者に行くまでもないだろう。歯の調子はいよいよ限界に近くなっているので、今日にも行きたかったが、迷惑をかけないようにしばらく先送りするしかない。歯にあたらないようにおかゆでも作ろうか。

2023年2月16日 (木)

渋滞に遭う

 千葉から東関道、そして湾岸から首都高、さらに東名、新東名と乗り継いで、というルートで名古屋へ帰るのだが、葛西ジャンクションのあたりで渋滞が始まった。いつものことなのだが、それが終わらずに首都高もずっと渋滞のまま。用賀の手前から流れ始めたのでやれやれと思ったら、横浜町田あたりからふたたび海老名まで渋滞。そのあとも断続的に渋滞があり、渋滞が解消されたのは御殿場からの新東名に入ってから。結局一時間以上余分にかかって無事に我が家に到着した。

 

 千葉にはたびたび往き来しているので、多少の渋滞があってもどうということはないのだが、今回は今までになくくたびれた。それに腰や膝まで痛くなり、マンションの階段を上がるのが辛かった。今日は酒は控えてゆっくり風呂に入り、温かくして早めに寝ることにする。

 

 明日からまたなんとかちょっとは読めるようなブログが書けるといいなあ。

飲み疲れ

 昨夕は船橋駅で友人と待ち合わせ。少し早めに行ったら友人も早く来たのでそのまま手頃な店で飲み始める。四時前からやっている店もあるのだ。友人といっても三歳年上で、敬意を表して私はいちおう敬語を使う。最近はだいぶぞんざいになっては来たけれど。

 この友人はイカを送ってくれた人。釣りが趣味である。私の歳上なのに釣り船で出掛けるなんて元気だなあと思っていたら、やはり舟の乗り降りは、釣り宿の人たちに手助けしてもらってようやく乗り降りしているという。それでもまだまだ釣り続けたいから新しい釣り道具を買ったのだそうだ。

 友人は昨年網膜が剥離してしまい、五回ほど手術したという。剥がれた網膜を貼り付けては剥がれ、また貼り付けてようやく小康状態らしい。眼の手術の話を聞くのは自分の眼の中にメスが入るような気持になってしまってぞくぞくする。

 切り上げの早い友人なので、二時間半ほどで再会を約して分かれる。電車に乗って弟の家に帰る。弟が酒の仕度を始めて、またいちから飲み直す。酔っているから次から次にしゃべることがある。しゃべり疲れ、飲み疲れして、今朝は二日酔い。

 今日昼前に名古屋に帰る。    

2023年2月15日 (水)

散歩

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弟の家でゴロゴロしている。御飯の仕度から何から、何もしなくて良いので少し外の空気を吸うために弟と近所を散歩した。近くの熊野神社のあたりをまわってくる30分弱のコースだ。

熊野神社では、正月に新しくされたはずの注連縄やお札が少しくたびれ始めていた。

白梅が咲き始めていたし、蝋梅が満開で、ツバキも咲いていた。

弟の家は住宅街の端のほうにあって、少し歩くと田園に至る。大きな農家もある。

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久しぶりに歩いたら、新しいお地蔵様がいた。右側のお地蔵様はもともとのもので、可哀想に頭がなくなり、丸い石が首に載せられているもの。帽子をかぶっているからわからない。蜜柑やキンカンが供えられていた。

ちょっと歩いただけなのに、息が切れるし膝が痛い。身体がなまっている。情けない。

2023年2月14日 (火)

民主主義

 民主主義について人それぞれいろいろな思いがあるからその解釈は三者三様だろう。すくなくとも誰かがこう考えなければならないと言い、それにみんなが従わなければならないような場合には民主主義ではないと云う事は確かなことに思う。極端なものは北朝鮮に見て取ることができる。

 

 少数意見があっても良く、しかも少数意見を言うことが自由にできることこそが民主主義で、日本はそういう国のひとつだと言って良い。もちろんそこでは暴論と少数意見の区別をわきまえる必要があるのは当然で、しばしば暴論に対しての非難を言論の弾圧だなどというのを見聞きするが、そんな反論にひるんではいけない。暴論は暴論である。

 

 しかし暴論とは何かと云う事になるとその暴論以外のものとの境目はあいまいで、意見の違いによって境目が大きく違ったりするからむずかしい。

 

 先日、LGBTに対する首相の補佐官の言葉が非難されて更迭されたことがあったが、あれは大方が暴論だったと判断したということだろう。ただ、LGBTに対する違和感が内心に存在する人はたくさんいて、時代の趨勢によって次第にその違和感を薄れさせていくしかないということも事実なのではないかと思う。その違和感をどこかで正直に言うことをよってたかって叩くことは如何かとも思う。なにより、そういうことを言わせない無言の圧力みたいなものを強く感じる。そうなると、それは民主主義的なのかどうかと考えさせられたりする。差別解消に尽力している多くの人びとの努力には敬意を表するが、過剰に異論を封殺したり、弱者の権利を過剰に優先的に置くことは如何かと思う。それは差別を内攻させることになりかねない。

 

 民主主義とはそういう微妙であいまいな境界のバランスの上にあるものなのではないかと考えている。

治安の悪化

 トルコの大地震の被災地の治安が悪化しているという。寒さと食糧不足の状態が続いているところでは、生存本能から、してはいけないことへの敷居が低くなるのはある意味で仕方のないことだろう。いまに救援が来ると思えばそれまでの我慢だと思って耐えられても、いつ救援が来るのかわからなかったりすることが長引けば、日本だってそうなるだろう。

 

 日本では神戸地震のときも東日本大震災のときも治安の悪化の報道があまりなかったのは、救援が来るのが目に見えていたからで、十分か不十分かはともかく、日本はありがたい国だと思う。それでも火事場泥棒のような人間がいたらしい。ほんとうに人間のくずで、しかし世間にはそういうくずは必ずいるもので、そのための治安維持の方策は必要だ。

 

 その意味でロシアのウクライナ侵略も明らかなくずの行う行為に見える。歴史的な背景をもとに正当化する者もいるようだが、私はなるほどとは思えない。相手の弱みにつけ込んで違法行為をするのは悪いことだという、あたりまえの考え方を保持したいと思う。ただ残念ながら、違法行為の基準がまったく違う人間もいるらしいことは承知しておいたほうがいいようだ。

どこまでほんとうなのか

 中国の気球がアメリカによって落とされたことは映像からも確認されたことで、事実であることは間違いなさそうだ。中国はアメリカも中国の領空で気球を飛ばしていると主張し始めた。いままでも繰り返し飛行していたのだという。そうして今度は撃墜するという報道もある。

 

 報復として撃墜するというのだから、もしアメリカが飛ばしているのなら撃ち落とされても文句は言えないだろう。いつ撃墜するのだろうか。撃墜された残骸がぜひ見てみたいものだ。そのニュースを待っている。

 

 こんなことを書くのも、いつもの中国ならもうとっくに報復の撃墜を行っているはずだと思うからで、それを落とすぞと警告をしているだけ、というのが不審だからだ。アメリカはもちろんそんなものは飛ばしていないと発表している。中国は飛ばしていることは認めたが偵察用ではなくて民間の観測気球が誤って飛んだのだといっていた。アメリカが飛ばしていないのなら、ないものを中国が撃ち落とすことになる。

 

 そもそもアメリカの気球など飛んでいないのか、またはアメリカの国旗をつけた気球を中国が飛ばす用意をしている最中なのか。そういうことを勘ぐりたくなるのが最近の中国だと思う。信用ないなあ。

2023年2月13日 (月)

イカとムシガレイ

 先輩から、釣ったヤリイカの冷凍を送ってもらった。大阪の友人から城崎のムシガレイをたくさん送ってもらった。それらを土産としてひっさげて弟の家に持ってきた。今日は妹も一緒にそれらを楽しむ。弟の長男一家もこれからやってくる。にぎやかな夕餉になりそうだ。

 

 昼間は妹から義弟のリハビリの様子などを聞いた。弟夫婦と妹と、旅行支援のある三月中に旅行に行く予定を立てた。二泊三日で伊豆に行くことになった。明後日にはイカを送ってくれた先輩と船橋で落ち合って飲む予定。色々なことが動き出す。

歴史

 過去の歴史の積み重ねの結果として現在の社会がある。現在の世界を識るためには歴史を知ることが必要不可欠だと思う。世界はそれまでの人類の行ってきたことの因果の果てとして現前にある。いま世界が混迷の時代であることには理由があるのだ。

 

 日本の国には日本人の体験した視点からの歴史があり、中国には中国人の記憶としての歴史がある。中国の世界観がしばしば理解不能で、アメリカの世界観がしばしば理解できたりするのも歴史をどう捉えているかによる。多くはそれぞれの歴史教育による。それぞれの国の経験した事実がさらにそこで歪められて善悪に染められている。

 

 力は正義なり、と云うのが人類の歴史の原理であったし、いまも根底にはそれがある。力は正義なりの論理から強い国が弱い国にどんなことをしてきたのか、その結果が現代世界の問題のほとんどを生んでいて、それを原点に戻してただすことは不可能だ。

 

 互いの歴史認識を共有することはあり得ない。体験の受けとりようが違うのだから。しかもそこには自分のほうが正しいという確信がある。せめて、どうも自分と相手では歴史認識がまるで違うらしい、という自覚を共有できれば少し世界は変われるかも知れないけれど、自国の歴史すらきちんと知ろうとしない人間ばかりで、絶望的になる。同じ歴史がさまざまに記されていて、多少なりとも全体を把握するだけでも大変困難なことでもある。

 

 不勉強なわたしが偉そうに言うのは面はゆいが、歴史をもっと知るように努めることが必要だと思っている。それにしても日本人の歴史についてあまりにも知らなすぎることに、情けない思いがしている。特に若者が近現代史を知らないことは教育の責任だと思うし、さらにそのうえ、世界がどうしてこうであるのかに問題意識すら感じていないらしい若者の脳天気さを哀しく思う。

 

 近現代史の教育には常に政治色がともなう。だからといってそれから目を背けてしまっては、政治以前の無知という罪をもたらす。日本の若者が政治に無関心な理由は、そこら辺にあるのかも知れない。

2023年2月12日 (日)

くつろいでいます

 無事、千葉の弟の家に到着して、くつろいでいます。わたしが言うのもなんですが、弟夫婦は性格が良いので、とても居心地が好いのです。明日、妹もやって来て、また昨年のように兄弟でどこかへ出掛ける計画を立てます。

 

 今晩は、友人からの頂き物の美味しいものを持参して来たので、それで弟と新酒を味わいます。

 

 弟夫婦は無事なのですが、姪や甥、その子供の半数近くが昨年暮れまでにコロナに罹ったようです。予想通りというか予想以上にといおうか、コロナは感染力が高いようです。気をつけよう。

入りにくくなったスイッチを入れて

 数年前まで朝起きて立ち上がったら、すぐに全開で身体も頭もスイッチが入った。それがあたりまえだった。いまは眼が覚めて立ち上がるまでに少し時間が必要で、立ち上がっても頭や体が自分のものではないようだ。遠くから自分が少しずつ戻ってくるのを待つしかない。

 

 今日、弟夫婦のいる千葉まで走る。以前なら早めに起きて、さっと支度して出発できたが、いまは自分が全開になるまでゆっくりと時間が必要だ。よくよく確認しないと忘れものをしたりする。

 

 今日は日曜だからトラックは少ないが、車は多いかもしれない。もう雪の影響はないと思うからその点は安心だ。さあ支度がすんだら出発だ。休憩を多めにして安全運転でいこう。

2023年2月11日 (土)

神経

 二三日前から歯がまた痛くなってきた。一月末に歯医者に行ったら、歯がすり減って神経がほとんどむき出しになった歯が三本ある、神経を抜くしか痛みを根本的になくすことはできない、そもそも噛む力が強すぎる、などと私にはどうしようもないことを理由に歯の神経を殺すことを勧められた。

 

 承知しなかったら、ではとりあえず消毒してコーティング処置をしましょう、ということで、20日にその後の様子を確認することになっている。そのときの歯医者の微笑みには、どうせ途中で痛くなるはずで、時間をかけてあきらめてもらうしかないか、という意味がこめられていると見えた。

 

 いまは、ものが挟まると神経に触って痛みが走る状態である。虫歯ではないので冷たい水で沁みたりすることはないのが不思議だ。しかしこのまま放っておけば虫歯になりかねない。歯医者のもくろみ通り、あきらめさせられることになりつつある。

 

 神経といえば、円朝原作の怪談落語『真景累ケ淵』というのを思い出す。私は円生のCD六枚組を持っている。こんな怖い落語はない。二度と聞く気がしないのに、大事に持っている。この真景は、明治時代に神経という言葉が使われ始めて、それを面白く思った円朝がもじったものだという。こんなことを知っていても神経の痛みは減らないのが残念だ。

いいよなあ

 眼を酷使している。眼は大事にしなければならないし長持ちもさせたいので、眼の疲れを感じたら意識して休めるようにしている。そのときには音楽を聴く。以前は映画音楽やイージーリスニングの曲を聴くことが多かったが、四五年前にデジタル音楽のクリアさのすばらしさに出会って、ピアノ曲をよく聴くようになった。

 

 学生時代、帰省の電車の中で中学校時代のクラスメイトにバッタリ会った。特に親しかったわけではないが人なつっこい人間で、気がついて向こうから話しかけてきた。性格的にヘラヘラとして軽いタイプではあるが、内心に歪んだものを抱えている男でもない。互いの消息を話した後、彼が「ギターは好きか」と訊いてきた。

 

 大学の寮でギターの得意な先輩がいて、ギター曲をよく聴かされていたし、ギターの手ほどきも受けたが、もともと楽器が苦手でしかも左利きだからどうもうまく弾けない。そんなことを思いながら「きらいではない」と返事した。彼は「ギターはいいよなあ」と感に堪えたようなうっとりとした顔でいった。

 

 よく聞くと、かなりの入れ込みようで、本場のギターを聴きに行くためにスペインに行きたいのだ、などという。そのためにスペイン語も勉強しているのだという。あまり勉強熱心でもなく、向上心もない男だと思っていたので驚いた。好きなものに出会うことで人間が変わることもあるのだ。

 

 ピアノ曲がこれほど気持ちの好いものであるのか、いまそんなことを感じながら、あの男はその後どうしたのだろう、などと思ったりした。

2023年2月10日 (金)

雨の中、出かける

 しばらく娘のどん姫から連絡がないのでどうしたのかと思っていたら、夫婦で新型コロナに感染して発熱し、自宅療養していたという。完治が確認されて三週間経ったから大丈夫、とのこと。ちっとも知らなかった。知らされても見舞いに行くわけにもいかず、どうしようもないけれど。

 

 今日は冷たい雨も降っているので、私の方から娘のところへ行った。顔を見れば安心する。化粧をしていないらしく、顔色が少し悪く感じだが、もともと色白である。届けるものもあったし、頼みたいこともあった。少し話をしてから、早めに切り上げてさきほど帰宅した。

 

 それにしても連絡くらいくれればいいのにと思うが、まあそれがどん姫のどん姫らしいところである。

映画『ラスト・スペースシップ』

 2017年のイギリス映画。世界は偶発的核戦争で壊滅的被害を受け、地球は人の住むことのできない星になる。かろうじて生き残った人類は宇宙へのがれ、人類の存続できるような惑星の探査を行う。その探査船の中がこの映画の舞台である。次々に探査失敗の報告が入り、この宇宙船のエネルギーもつきようとしている。

 

 ストーリーも陳腐なカルト映画ではあるが、宇宙船のなかがそのまま人類全体の縮図でもあるような見方も出来て面白い。偏見のかたまりのような人物あり、悲観的なことばかりいう者、無責任な者あり、あり得ない不注意から事故は起きるし、人類の縮図そのものではないか。

 

 たまたま遭遇したのは同様に探査を行う中国の宇宙船だった。何があったのか、船内に人は居らず見捨てられていのだが、突然中国の少年が発見される。そこからさまざまなアクシデントが起こり、さらに殺人が起こり、次々に乗組員が死んでいく。

 

 ラストは中国人が観たら喜びそうな・・・。

 

 カルト映画も観ようによってそこそこ考えされられたりするものだ。

歴史書と歴史小説

 宮城谷昌光の『三国志』の余韻をまだ引きずっていて、座右に(私の場合は左利きなので左側)に関連図書が積んである。宮城谷昌光の『三国志』は陳寿の遺した正史の『三国志』や、『後漢書』をもとにしていて、一般の『三国志演技』をもとにした物語とは大きくちがう。そもそも陳寿の『三国志』は極めて簡潔で『史記』のような物語性はあまりないものであったらしいが、後に原文の何倍もの註釈が加えられてさまざまな『三国志』に拡大していったようだ。

 

 そこから正史というものについて知りたいとも思い、竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか』という本を棚から引っ張り出して拾い読みしたりしている。本来は内藤湖南の『支那史学史』全二巻(東洋文庫)にチャレンジしたいところだが、初歩から段階を踏むことにしたのだ。

 

 歴史小説といえば忘れられない文章がある。受験問題であったか模擬テストの問題だったか忘れたが、現代国語の問題で引用されていたのが、三島由紀夫が森鴎外の歴史小説について論じた文章だ。鴎外は晩年になるにつれて心理描写をとことんそぎ落として史実のみを記した歴史小説を書いた。それでは小説ではないし、文学でもないではないかという指摘に対して三島由紀夫が反論したものである。そぎ落としきったその後に残されたものに立ち現れてくるものにこそ人間の真髄が読み取れるのだ、それが文学ではないはずがないではないかというものだったように読み取れた。

 

 そのことが私の頭にこびりついて離れないのだ。だから正史というもの、それにさまざまな註釈が加えられたもの、さらに歴史小説というものの究極が、実は表現するということについて同じものではないか、などと思ったりしている。

2023年2月 9日 (木)

教育論議

 人間は突っ立ったままでは前へ進めない。前に身体を傾けて一歩を踏み出さなければならない。その一歩を踏み出すのがひどく億劫になってしまう日が増えた。

 

 取り寄せた宮本輝の小説を読み始めたが、どうにも物語の中に入っていけない。物語に没入するより、考えながら読む本が読みたいようなので、臼井吉見の本を読む。読みかけている本の前半は戦後の教育問題に関する文章が収められている。父が教師だったし、母方の祖父や義父、父の弟の伯父、そして叔父などが教師で、級友のなかには私も教師になるのだろうというものもあった。

 

 私は決して教師になどならないと心に決めていたし、もちろん教師は世襲でもなく、両親も私が教師になって欲しいなどとは少しも思っていなかったはずだ。教師としての父を批判的に見ていたこともあり、教師になるつもりはないのに教育問題にはふつうの人よりも関心があった。教育とは何か、教育の目的とは何かなんて、多少考えていた。だから戦後教育についての臼井吉見のさまざまな考えを読むと、それなりに分かるし面白い。

 

 教育がどうあるべきかなんで偉そうなことをいうつもりはないが、戦後教育の結果がいまのように地域というまとまりを失った、砂粒の集まりみたいな社会をもたらしたのだということだけは実感している。個人という「私」が至上であるという思い込みは、私自身もそういう考えの部分があるからとてもよく分かる。そういう個人の集合体である現代社会のバラバラさが次世代に何を残せるのか何も残せないのか、そんなことを考えている。

 

 国民の社会性や知識を高めるための教育と、学びたい、学ぶことを面白いと思う人のための教育とはちがうものだということぐらいは分かる。それらがごっちゃになって混乱しているのがいまの日本の教育のような気がする。

するときはする

 トルコの地震の被害に胸を痛めている。2019年の秋にトルコ旅行をしたので、多少の親近感がある。もともとトルコはエルトゥール号遭難時以来親日的で、そのことは現地でも実感した。この紀伊大島沖の遭難のときの美談はトルコでは教科書にも取り上げられているのでみな知っている。

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 どこの局だかのニュースで「地震の被害が増加しています」などと報じていた。たしかに比較的に大きな余震が頻発していて被害は増えているのだろうが、ニュースで言っていたのは、ただ被害の実態がだんだん明らかになって、当初よりも増加しているように見えているだけのことだ。これは神戸地震のときのことを思い出せば分かる。

 

 私は寄付という行為をふだんあまりしない。寄付した金がきちんと使われるかどうか信用していないからだ。ただ、赤十字には毎年ささやかな寄付は続けている。今回一部コンビニでトルコ地震の義援金の寄付を受け付けているそうだ。日本同様の地震大国であり、多少は縁のあったトルコに、私としては珍しくささやかながら寄付をしようと思っている。情けは人のためならず、である。東日本大震災のときのことを思い出して、日本からまとまった義援金が送れればいいなあと思っている。

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トルコには猫が多かった。

鈍いのは

 誰もができているらしいから私も自分でできると思ったことが出来なかったりする。人にお願いして手伝ってもらうと、すいすいと片付いたりしてたいへんありがたいとともに自分にガッカリする。

 

 自分のあり得ないような間違いに気づいて愕然とする。相手に迷惑をかけていることに気がつく。即座に謝罪して訂正するしかないのに、その行動が鈍い。自分の間違いを受け入れるのに時間が必要になっている。

 

 いずれも自分の衰えであることは明らかだが、それがなかなか納得できない。そういうことがぽつりぽつりとつづいて、それをひとつひとつ片付けている。

 

 来週ひさしぶりに千葉の弟のところに行こうかと思っている。妹にも会うつもりだ。ついでに都合が合えば年上の友人にも三年ぶりくらいで会う。話したいことが山のようにあるようで、さて何を話そうかと思うと自分自身の記憶は空漠としている。いつものように娘に留守を頼まなければならない。

2023年2月 8日 (水)

お裾分け

 先日の新酒会で飲んだ絞りたての酒を瓶詰めして密栓したもの(アルコール度数20度)を何人かに発送依頼しておいた。以前参加したことがあるが遠方に転居して参加できなくなった人、今回参加を自重した友人、その他の友人、兄貴分のひとや弟、息子などに送った。

 

「着いたよ」という知らせが電話やメールで次々に届いた。楽しかった新酒会、美味しかった絞りたてのお酒の、ほんの気持ちばかりのお裾分けである。喜んでもらえればこれ以上に嬉しいことはない。そういう送り先があるということが、何よりありがたいことだと思う。

 

 それぞれの顔を思い浮かべながら、なるべく早めにそれぞれの人に会いに行きたいと思った。人生何があるか分からない。これからなんべん会えるか分からないのである。

言葉と文字

 戦後、現代仮名遣いや旧漢字から現代の漢字への変換の中で、さまざまな論争があった。極端なものではすべてローマ字にしてしまえだの、日本語をやめてフランス語を国の言葉にしてしまえ、などというのが本気で主張されたりもした。フランス語に、というのが敬愛する志賀直哉の主張で、そればかりはどうにも賛同しかねる。

 

 私は旧仮名遣い旧漢字の文章でも、多少は手間ではあっても書かれた当時の雰囲気を読み取るにはそのほうが良いと思う。内田百閒の随筆集は、旧漢字旧仮名遣いのもの(旺文社文庫版)と新漢字新仮名遣いのもの(福武文庫、現ベネッセ)のものの両方を持っているが、断然旺文社版の方がよい。

 

 文字や言葉は意志を伝えたり、知識の伝達のための道具である、というのは間違いのない事実ではあるが、私はそれだけではないという考えであって、そのことを臼井吉見が国語教育問題の論点のポイントであると書いているのを読んで強く共感した。

 

 では道具を越える何かとはなんだろう。言霊などと言う言葉もあるが、それはさておき、言葉や文字には歴史と文化が離れがたく張り付いているものだと思う。戦後の国語改革の中にその意識が不足していたか、または歴史そのものを否定する意識が強く働きすぎたのか、大事なものが失われた気がしてならない。それでもお隣の韓国のように漢字を使用禁止にしてすべてハングル文字表記にするというほどのことはなかったことをさいわいとしなければならないのだろう。

 

 お粗末な文章を書いていながらいうのも恥ずかしいが、いまの日本語の変化は、私の感性から見ていささかついて行けないという思いがしている。グループ内だけで通用する言葉の氾濫は、退廃の臭いがする。キラキラネームというのもその亜種かと思うがちがうのだろうか。

2023年2月 7日 (火)

唐木順三『小倉時代の森鴎外』

 唐木順三という人が若いときから気になっていたが、ほとんど著作を読まずにいた。文芸評論家としても評価されているが、私には思想家、哲学者的な側面が強く意識されていたからだ。

 

 その唐木順三が、いま少しずつ読み進めている臼井吉見の同郷の友人(唐木順三が一年先輩)であることを知り、一度は著作を読みたいと思った。さいわい手持ちの小学館の『昭和文学全集』に保田與重郎や山崎正和とともに同じ巻に収められている。その冒頭の小文が今回読んだ『小倉時代の森鴎外』である。

 

 小倉時代の森鴎外については、NHKの『英雄の選択』で取り上げられていて、鴎外のある意味で脱皮のきっかけだったという指摘に納得するものがあった。そして若い時に読んだ松本清張の芥川賞受賞作の『或る「小倉日記」伝』を読み直していっそうその感を強くした。失われつつある森鴎外の足跡を、戦時中であり、かつ身体が不自由な身の上の主人公が訪ね歩く姿は、ほぼ松本清張そのものの姿でもあっただろう。

 

 唐木順三のこの小文は、調べられるだけの森鴎外の文章を渉猟し、それを眼光紙背に徹する読み方で小倉時代の森鴎外の心境を読み取ったものだ。唐木順三は現地には行っていないと思う。そうして森鴎外が小倉時代を経て変わったことについてもその後の作品などから言及しているが、鴎外自身がどうして心境の変化をしたのか、それがどんなきっかけによるものかについては、明確には示されていないように感じた。それは森鴎外自身がそのときにはそこまで自覚していなかったかもしれないし、自覚していても書かなかったのかもしれない。ときにはそれは本人ではなく、他者の目が必要なのかもしれない。

 

 同じ巻に山崎正和の『鴎外・闘ふ家長(抜粋)』も収められていて食指が動くが、長文であり、あとにすることにした。森鴎外という巨星の周りを回り出すときりがない。そういえば森鴎外の出身地の津和野は大好きなところで、しばらく訪ねていないからまた行きたくなった。

がれき

 トルコ南東部の地震の被害の映像を見ている。数年前にトルコに行ったから、ことさら気にかかる。トルコは日本と同様地震の多い国で、しばしば大きな被害が出る。遺跡をいくつか廻ったが、そこが倒壊して廃墟になっているのは、自然災害もあり、人為的な破壊もあるようだった。

 

 がれきの山といえば東日本大震災の後、津波被害のあった地区に何度も行った。震災の前に久慈や宮古の田老町、魹(とど)ヶ崎近くの民宿、牡鹿半島の金華山を望む民宿などを何度か訪ねている。震災後に訪ねて無事だったところもあったが、ほとんどはがれきの山か、跡形もないという状態で言葉を失った。

 

 自然はときに人間の幸不幸など斟酌なくこういう破壊行為をしてのける。人間の営為を無にすることに何か必然性でもあるのか、などと考えてしまうから、人は神という存在を考えついたのかもしれない。

 

 それにしても自然災害によるがれきの山と、ロシアのミサイルで破壊されたウクライナのがれきの山がそっくりに見えるのはどうしたことか。プーチンは、破壊する、という行為を神に成り代わって行っているつもりなのだろうか。もちろんそんな自覚などないだろう。するしかないことをしているというつもりであろうか。

 

 人間は自然による破壊から再び立ち直り、存続拡大繁栄してきた。ときに自らを破壊して荒廃を産み出してもそこから立ち直ってきた。壊しては作る、という繰り返しこそ人類の歴史といえるだろう。

 

 それは永遠にくりかえされる営為なのか、いつか終わりの来ることなのか。

2023年2月 6日 (月)

待たされる

 泌尿器科の診察は午後二時の予定。検尿の結果を見て診察があるから、早めに行って昼過ぎに検尿を済ませる。この先生はたいてい診察開始が遅れる。多少は覚悟していたのに、なんと診察開始は三時半を過ぎていた。本を読んで時間を潰していたが、一時間半ほどで読み飽きた。別の本も持ってくればよかった。

 

 遅れてすみませんのひとこともなく、三分ほどで診察終わり。棲みついた耐性菌が相変わらず残留していること、糖がいつも以上に検出されていることを告げられる(これは理由が明らか)。過労や高い発熱のあるような疾患にかからないように注意するよう言われる。棲み着いた菌が活性化して、暴れて辛いこと(排尿痛、排尿困難など)になるからだ。よく分かっている。

 

 夕方になったので、薬局がすいていてすぐ用事が済んだ。今しがた我が家に帰着。帰り道は不思議なほど足取りが軽かった。膝の痛みがほとんどなくなっている。疲れが回復したのだろう。病院の往復で五千歩弱。これくらいはなるべく歩くようにしないといけない。今晩は節制しようか、ちょっとだけ飲むことにしようか。

油が切れたみたいに

 一昨日の新酒会で、少し長い距離を歩いたり長時間立っていたりしたので、膝が痛くなった。立ち上がるときなどは気合いを入れないといけない。昨日は休養に努めたけれど、まだ膝のちょうつがいは油が切れたみたいにギシギシ言っている。

 

 それにしてもひさしぶり友人たちに会ったのでかなり興奮状態になり、よくしゃべった。それはもちろん私だけではないけれど。

 

 今日は午後から泌尿器科の検診日で、病院まで20分歩いて行く。運動不足の日々だから、この程度歩くのは却って膝にも好いかもしれない。医師の指導通り、水分を余分に摂るように努力し、たまったら我慢せずにすぐ排泄する習慣にしているので、今のところ棲みついた耐性菌の暴れている様子はなく、問題ないと思う。

2023年2月 5日 (日)

『臼井吉見集3』

 暮れに読みかけだった全集全五巻の第三巻であるこの本を、もう一度引っ張り出してようやく読了した。編集者で文芸評論家である臼井吉見は、ライフワークである大河小説『安曇野』を書いている。五千枚あまりのこの小説は登場人物が数百人という膨大な数であり、なおかつそれぞれが脇役ではないという書き方になっているそうだ。そのことがいろいろな形でこの本に記されている。

 

 その『安曇野』の箱入り本の古本全五巻が手にはいりそうなのだけれど、取り寄せるかどうか迷っている。手に入れても必ず読むかどうか分からない。あの中村屋の相馬黒光を軸にした実名実在の人物群が展開するこの小説には、碌山荻原守衛ももちろん登場するようだ。読んでみたいけれど、他に読む予定の本が山ほどあるのだ。

 

 ところで臼井吉見が明治38年生まれであることを初めて認識した。活躍したのが戦後なので、私の父よりも年上だったとは知らなかった。戦争時代というものが、その時代に生きていた人たちの貴重な長い時間をずいぶんと食い潰すことになったのだということを改めて思った。それは父がしばしば言っていたことであるが、再三の招集で自分には青春時代といえるものがあまりなかったと言っていた。臼井吉見もまさに同じようであったようだ。

 

 だから天皇制というものについてずいぶん辛口であるし、天皇の戦争責任ということも、左翼的な立場からではなく、指弾している。そして戦後左翼が最も誤ったのは、戦争で死んだ兵士達を慰霊することを否定することで、日本の戦争責任を兵士達に負わせた形にしたことだと主張する。そうして彼らは本当の意味の戦争の責任を自らに問うことをしなかった。

 

 左翼こそまず第一に戦争で死んだ人たちを率先して慰霊すれば、このような靖国問題など起きなかったという指摘には私も同意する。こんな左翼では戦争で死んだ人たちは浮かばれない。 

 

 この巻は社会評論的な文章が多いが、次の第四巻は教育論と文芸論のようだ。

昨日の新酒会

昨日は私を入れて友人たちと四人で新酒会に行った。昨年も新酒会はあったようだが、この二年間はコロナ禍の渦中でもあり、自重してパスしていたので、新酒会も友人に会うのもひさしぶりである。

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名古屋駅のこの金の時計の下で待ち合わせ。このあとたちまちひしめくほど人が増えた。私は背が高いので、目印になる。駅ビルの地下街の高島屋でつまみを買う。今回はひとくち餃子、ニラ饅頭、春巻き、はも天、ネギ天、タマネギ天などを購入。

名鉄電車で30分、そして駅から30分以上歩く。風もなく、快晴で温かく快適な散歩である。いつもなら早めに受け付けてくれるのに、今回はほとんど予定時刻通りで、立って列んで待つのに膝が痛くなった。

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以前は搾った酒をひしゃくで汲んでもらう方式だったが、今回は絞りたての瓶詰めからプラスチックのコップに注いでもらう。参加料500円。

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これが社長。少し歳をとった。一度に二杯ずつもらっていたが列が長くて待つ時間が長いから、最後は一度に四杯ずつもらった。こぼさないようにするのがたいへんだ。美味しい酒をこぼすようなら飲み過ぎである。絞りたて以外にも、いろいろな酒の試飲ができるし、甘酒もある。

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四人で場所を確保して座り込んだ場所。みんな酒をもらいに行っている。シートや皿は幹事の私が用意したもの。帰り道は酩酊がつづいていて、ちょっとだけまっすぐ歩くけなくなっていたが、無事駅までたどり着く。

いつもなら名古屋駅で二次会に行くのだが、みな自重してそこで解散した。最高に楽しかった。

2023年2月 4日 (土)

先生

 とくにかわいげのない子供だったとも思わないが、どういうわけか小学生のときに先生にひどく嫌われたらしいことがあった。はじめは小学校の一年生二年生のときの担任の先生で、通信簿が思いのほか悪いのでガッカリした。テストの点数は悪くはないのである。親は教科の評価については笑っていたが、操行の評価が息子の実際とちがいすぎるのには首を傾げた。遅刻もせず忘れものもしないし、人をいじめる子供でもない。

 

 先生の家へ手土産を持って訪問し、それとなく尋ねると、分かっているのに手を上げない、教えていない漢字を使う、授業中に窓の外を見ていることがよくある、などと少し腹立たしそうに言ったそうだ。そういえば窓の外を眺めているときに指されることがよくあった。よそ見をしていても授業は聞いていたから、訊かれたことに答えられなかったことはない。そういうことがどうも憎たらしい小生意気な子供に見えたらしい。通信簿はようやく二年生の終わりごろに一つか二つ4をつけてもらえるようになった。 

 

 三年生になっての担任は女の先生で、とてもやさしくてきちんと評価をしてくれた。今でも憧れの女性のひとりとして思い出すことがある。

 

 四年生に担任になった男の先生にもどういうわけか嫌われた。体育のときに跳び箱で失敗して勢い余って砂場に顔から突っ込んで口中を切り、血だらけになったことがある。そのときにその教師は級友達と一緒に笑っていた。ひとりで保健室に行ったら、病院へ連れて行かれた。血だらけの体操服で帰った私をみて親は驚いて、ひとことの連絡もない教師に腹をたてていた。だからといって学校に抗議などはしていない。ふつうに食事できるようになるまで、一週間以上かかった。この先生の私に対する評価も低かった。

 

 五年と六年の先生は大学出たての新米先生で、組合活動にも熱心な、元気で一生懸命の先生だった。この先生には嫌われなかったし、家に一人で泊めてもらったこともある。先生の実家は農家で、農家に泊まったのは初めてだった。小学校のクラス会はもちろんこの先生を中心に行われる。三年から四年に一度クラス会はつづいていたが、私が転居をくりかえしたので案内も届かなくなり、ほとんど参加しなかった。

 

 旧友のひとりが教師になり、私の父も教師だったので同じ中学に努めて私の消息を知ったらしい。実家に同窓会の案内が行くようになり、親からはいけるなら参加しろ、といわれた。二度ほど名古屋からわざわざ行ったけれど、どうも居所がないような気がした。それでも先生は喜んでくれて、きちんと年賀状のやりとりをするようになった。

 

 その先生に今年も年賀状を出したら、訃報が返ってきた。十歳あまりしかちがわないはずで、突然のことで驚いた。クラス会はどうなるのだろう。

合久必分

『三国志演技』の冒頭の言葉なので、詳しい人ならご存じかもしれない。

 

分久必合
 分かるること久しければ必ず合し、
合久必分
 合すること久しければ必ず分かる

 

 (そもそも天下の大勢は)分裂が長ければ必ず統一され、統一が長ければ必ず分裂するものである。

 

 直近の中国共産党王朝が成立したのは1949年、それから現在までが長いのか短いのか。いつかは分裂するにちがいないと思い、それがもうすぐでその兆しがあるのではないか、などと中国のニュースに耳をそばだてている。

 

 分裂には内部要因が大きく関わり、たいていは「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という理由によるものが多いが、そのことをよく知る習近平は「腐敗撲滅」を旗印に権力維持を図っている。三国志の時代を生んだ後漢王朝のように、弱体化はしていないようだ。

 

 中国ウォッチャーの富坂聡氏などは、実際に腐敗は激減し、貧困はかなり減少したと評価している。周辺国にとって脅威である中国の強大化はいつまでつづくのだろうか。どうも中国の停滞や衰退よりはるかに早くアメリカの方が劣化しそうで、同盟国の日本としては気がかりだ。というよりそのアメリカよりもずっと日本の方が劣化しているかもしれない。ただ、日本は分裂するには小さすぎるからおさまっているけれど。

 本日はひさしぶりの新酒会(蔵開き)で友人たちと酒蔵に集う。三年ぶりに会う友もいる。みな年とっただろうなあ。お互い様だけれど。

2023年2月 3日 (金)

黄な粉御飯

 黄な粉餅が好きで、ときどき食べる。オーブントースターで焼いた餅を水にくぐらせて、黄な粉をまぶす。市販の黄な粉にたっぷりの砂糖、そこにひとつまみの塩を加えると、どんぶり一杯の黄な粉ができる。今回はひとつまみの塩をつい余分にしたために、塩味が隠し味ではなくてはっきりわかる黄な粉になってしまった。

 

 雑煮用の餅の一袋の半分は黄な粉餅用に使ってとっくに食べ尽くし、新たに買った一袋も昨日で食べ尽くして、黄な粉だけが少し残った。残った黄な粉に合わせてまた餅を買うのもキリがない気がして、思いついたのが黄な粉御飯である。

 

 何十年ぶりだろう。子供のときにおなかがすいて、思いつきで御飯に黄な粉をかけて食べたことがある。母親がつくってくれたわけではない。美味しかった。その後ときどき食べて満足したものだ。それからどういうわけかずっと食べることがなかった。糖尿病だから、ふんだんに砂糖の入った黄な粉は好ましい食べものではないが、頭の働きに砂糖は大変大事なものでもある。この頃ボケかけた頭のために少し砂糖を補充したのだと思うことにしている。

感染率100%

 中国の情報筋の推計では、中国国民14億人のうち、すでに11億人が新型コロナに感染したということであった。各地方政府からの数字を集計したものではなく、ある地域の人口とその地域の感染者の推計から80%が感染したと判定し、それを中国全土に拡大して計算したもののようで、極めて雑で荒っぽい。

 

 ゼロコロナ規制を解除したとたんに、それまで感染者が数百人だったものが、11億人とは畏れ入る。どちらもまったく適当すぎる数字にしか見えない。政府の発表など他の国の人以上に信用していない中国人ですらびっくりだろう。

 

 ところであっという間に11億人ということがもし事実なら、たぶん感染率は100%ということなのだろうか。感染を懼れて誰とも会わずにいた人が二割くらいはいたはずで、つまり感染者と接触したら全員が必ず感染したのだということになりはしないか。

 

 インフルエンザのように、接触したら感染することもあり、感染しないこともありだろうという考えは今回の新型コロナについては間違っているのだろうか。それならここまで蔓延し尽くしたのなら、罹ることを前提に、免疫力の強化、特にワクチン接種を励行して罹っても重症化しないように備えるしかない。

 

 ところがそのワクチン接種の効果の統計がいつからかほとんど発表されなくなったのはどうしてだろうか。ワクチン接種した人、しない人の重症化率の割合比較など簡単に集計できるはずなのに、不確かな感染者数の数字だけが日々報告されている。もしかしてワクチンは有効かどうかはっきりしないなんてことはないだろうなあ。 

 

 こんなことだからまことしやかなさまざまな陰謀論が跳梁跋扈してしまうのだ。わたしだって上記のことからいくつかひねり出してみせることができそうだ。

2023年2月 2日 (木)

『つるかめ助産院』

 小川糸『つるかめ助産院』(集英社文庫)を読んだ。

 

 私は男だから妊娠、そして出産を体験することができない。それでもこの本を読むことで、少しながらその疑似体験をしたといおう。女のひとというのはすごいなあと思う。子供を宿し、生み育てるというのはすごいなあと心から思う。それにしても地球上のだれでもかれでも、その母親から生まれたのだというあたりまえのことが、ほんとうにすごいことだと思う。

 

 ある日、夫がなにもかも置いたまま失踪したことを妻は知る。人との付き合いが苦手で、夫の庇護のもとにかろうじて暮らしていた妻は途方にくれる。マリアという名前のこの妻が主人公で、彼女が人付き合いが苦手なのは彼女の哀しい生い立ちが原因なのだが、そのことは物語りを読むうちにおいおい分かって来る。

 

 彼女が夫を探すために向かったのは、以前二人で出掛けて楽しかった南の島である。そこで出会えるとも思えないけれど、とにかく何かしないではいられない。そうして島に辿り着いた彼女に声をかけてきたのが、鶴田亀子というつるかめ助産院の院長であった。マリアの様子に心配も感じたし、彼女が妊娠しているらしいことに気が付いたからであった。マリア本人はそのことを始めて知る。

 

 こうしてつるかめ助産院の人びと、そして島の人びととマリアの交流が始まる。人はみな大きな哀しみをうちに抱えてなんとかけなげに生きている。人との関わりを極端に懼れるマリアがどうやって変わっていくのか、そうして自分のなかに芽生えた命をどのように育んでいくのか、この助産院で働きながら、他人の出産や生死を見つめることで彼女は成長し、脱皮し、自分自身を見つめ直し、母親になっていく。

 

 生命について見つめ直すためにも、これから大人の女になる人はもちろん、子供なんか欲しくないという人にこそ読んでもらいたい本だと思う。つるかめ助産院がそこにあれば、この世界は本当に幸せなのにと思う。

 

 この原作の結末は、私の記憶しているドラマの結末とは違う。私はドラマの結末のほうが好きである。

近ごろ飲んだ酒

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正月から二日に四合瓶一本か、ワイン一本を飲んできた。前に飲み終えたものは資源ゴミに出してしまったので、どんな銘柄を飲んだのかもう覚えていない。かろうじて今回はこの十日ほどのあいだに飲んだものを記録に残しておこうと思う。右四本が日本酒で、左二本がワインである。

ワインはフランスワイン。まとめ買いして小さなワインセラーに入れてあったもの。私は主に白ワインを飲む。銘柄についてはよくわからない。

「鳥濱」は若狭の鳥濱酒造の純米吟醸酒。麹の香りが強い気がして悪くないが、私の好みとはいささか違う。この強い個性によって、根強いファンがいるだろうと思う。旅の土産に買ったもの。

「幻の瀧」は黒部の皇国晴(みくにはれ)酒造の純米吟醸酒。北陸の酒は全般に少し私と相性が悪い。しかしこの酒は飲みやすい酒だった。これも旅の土産で買った。

「雨後の月」は呉の相原酒造の大吟醸。精米度35%のぜいたくな酒で、息子がくれた。正月に半分飲み、残しておいて少しずつ味わっていた。最高に美味い。

「日本酒大吟醸 加」は上越の加藤酒造の大吟醸酒。上越の酒らしい少し重みのある酒で日本酒らしい日本酒。これは妹が送ってくれた五本のうちの最後の一本。

ほかに娘のどん姫が旦那と選んでくれた「浦霞 禅」など三本の大吟醸もすべて飲んでしまった。

これからは紙パックの「菊正宗」を飲む日が続くことになる。

週末には新酒会があり、友人達と絞りたての酒を飲む。お裾分けに参加しない友人や弟にも送るつもりだが、土産に一本自宅にも送ることにしようと思う。手で提げて帰ると酩酊しているので割ってしまう可能性が高いのだ。

ひとり

ひとりですごす

 

ひとりで音楽を聴く

 

ひとりでご飯を食べる

 

ひとりでお酒を飲む

 

どこへも出かけない

 

だれもこない

2023年2月 1日 (水)

『食堂かたつむり』

 小川糸『食堂かたつむり』(ポプラ文庫)を読了した。主人公の倫子はすべてを失い、その失った精神的なショックで声すら失う。マジックでカードに必要な言葉を書き、それを頼りにただひとつ残された祖母譲りのぬか床の入った壺を抱えて、手持ちの財布のお金で、けっして帰らないと心に決めていた母親のいるふるさとへ長距離バスで向かう。

 

 十五歳で家を飛び出し、さまざまな経緯を経て恋人と出会い、二人でレストランを開く夢を持って働きに働き、お金もそこそこ貯め、食器や調理道具も買いそろえていた。それら一切合切が恋人によって持ち去られてしまったのだ。ふるさとへ帰った倫子は母親の元に転がり込み、生きていくために小さな食堂を始める。食堂を立ち上げるために手伝う人たちや、一日一件だけ受け付ける客と提供される料理が書き綴られていく。人間は生きているものを料理することで生きるしかないという業のようなものをしっかりと見つめ、命のありがたさを学んでいく。クライマックスは目を背けたくなるようなシーンなのに崇高である。

 

 人間はどん底を経験することで再生する。無一物だからしがらみもなくなり、自分自身の価値を見つけ出すしかなくなる。倫子はくよくよしない。くよくよしても始まらないことを理解している。そうして彼女は自分自身になっていく。この物語はたぶん作者の小川糸自身であろう。彼女自身の生き方が倫子に投影されているのだろうと思う。なにしろ『つるかめ助産院』でも、『ツバキ文具店』でも、主人公の再生、失われた自分自身の生きる意味、価値の発見の物語だといってもいい。

 

 そしてそれを読むことで読者も生きる意味、自分自身に備わっているだろう力に気付くことができるのだ。

 

 それにしてもこの本に書かれた料理の種類はたくさんあって、詳しいレシピもつけたらそれだけで料理の本が一冊できあがるほどだ。それを味わうことを想像するだけで楽しい。

分断は進んでいるのか

 さまざまな理由によって分断は生ずる。分断のない世界は望ましいけれど、たぶんやって来ないだろう。それにしても分断のニュースは世界のあちこちから絶え間なく報道されている。原因があって分断が生じているが、その原因にはさらに遡って原因があり、それを解決するための答えは見つからない。

 

 分断はますます増加しているのか、それとも分断を報じるニュースが増えているだけなのか。分断を食い止めるためには互いが妥協するしかない。互いの主張のあいだのどこかで折り合うということでしか分断は収まらない。互いの主張を繰り返すうちに落としどころどころか、その興奮がエスカレートするばかりに見える。

 

 分断はよくない、何とかしなければならないという認識が互いにある場合にのみ宥和の可能性はあるが、自分だけが正義だという確信のなかにいると、譲るべきは相手であって、自分はけっして譲歩しないと云う事になってしまう。

 

 分断が増えているのは結果であって、自分だけが正しいと言う確信が世界をおおっていることが原因であるように見える。それでは分断はどんどん進むしかない。あちらとこちらで、八割九割の人が折り合いをつけたほうが好いと思っていても、信念の一割の人がけっして譲歩を許さないようだ。私は信念の人ではないから、どうしてこんなに意固地になって相手の非を鳴らす文言だけが飛び交う世の中になってしまったのか、そのことのもたらす未来が悲観的に見えてしかたがない。こんなことを嘆いても仕方がないのだけれど。

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