教育論議
人間は突っ立ったままでは前へ進めない。前に身体を傾けて一歩を踏み出さなければならない。その一歩を踏み出すのがひどく億劫になってしまう日が増えた。
取り寄せた宮本輝の小説を読み始めたが、どうにも物語の中に入っていけない。物語に没入するより、考えながら読む本が読みたいようなので、臼井吉見の本を読む。読みかけている本の前半は戦後の教育問題に関する文章が収められている。父が教師だったし、母方の祖父や義父、父の弟の伯父、そして叔父などが教師で、級友のなかには私も教師になるのだろうというものもあった。
私は決して教師になどならないと心に決めていたし、もちろん教師は世襲でもなく、両親も私が教師になって欲しいなどとは少しも思っていなかったはずだ。教師としての父を批判的に見ていたこともあり、教師になるつもりはないのに教育問題にはふつうの人よりも関心があった。教育とは何か、教育の目的とは何かなんて、多少考えていた。だから戦後教育についての臼井吉見のさまざまな考えを読むと、それなりに分かるし面白い。
教育がどうあるべきかなんで偉そうなことをいうつもりはないが、戦後教育の結果がいまのように地域というまとまりを失った、砂粒の集まりみたいな社会をもたらしたのだということだけは実感している。個人という「私」が至上であるという思い込みは、私自身もそういう考えの部分があるからとてもよく分かる。そういう個人の集合体である現代社会のバラバラさが次世代に何を残せるのか何も残せないのか、そんなことを考えている。
国民の社会性や知識を高めるための教育と、学びたい、学ぶことを面白いと思う人のための教育とはちがうものだということぐらいは分かる。それらがごっちゃになって混乱しているのがいまの日本の教育のような気がする。
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