唐木順三『小倉時代の森鴎外』
唐木順三という人が若いときから気になっていたが、ほとんど著作を読まずにいた。文芸評論家としても評価されているが、私には思想家、哲学者的な側面が強く意識されていたからだ。
その唐木順三が、いま少しずつ読み進めている臼井吉見の同郷の友人(唐木順三が一年先輩)であることを知り、一度は著作を読みたいと思った。さいわい手持ちの小学館の『昭和文学全集』に保田與重郎や山崎正和とともに同じ巻に収められている。その冒頭の小文が今回読んだ『小倉時代の森鴎外』である。
小倉時代の森鴎外については、NHKの『英雄の選択』で取り上げられていて、鴎外のある意味で脱皮のきっかけだったという指摘に納得するものがあった。そして若い時に読んだ松本清張の芥川賞受賞作の『或る「小倉日記」伝』を読み直していっそうその感を強くした。失われつつある森鴎外の足跡を、戦時中であり、かつ身体が不自由な身の上の主人公が訪ね歩く姿は、ほぼ松本清張そのものの姿でもあっただろう。
唐木順三のこの小文は、調べられるだけの森鴎外の文章を渉猟し、それを眼光紙背に徹する読み方で小倉時代の森鴎外の心境を読み取ったものだ。唐木順三は現地には行っていないと思う。そうして森鴎外が小倉時代を経て変わったことについてもその後の作品などから言及しているが、鴎外自身がどうして心境の変化をしたのか、それがどんなきっかけによるものかについては、明確には示されていないように感じた。それは森鴎外自身がそのときにはそこまで自覚していなかったかもしれないし、自覚していても書かなかったのかもしれない。ときにはそれは本人ではなく、他者の目が必要なのかもしれない。
同じ巻に山崎正和の『鴎外・闘ふ家長(抜粋)』も収められていて食指が動くが、長文であり、あとにすることにした。森鴎外という巨星の周りを回り出すときりがない。そういえば森鴎外の出身地の津和野は大好きなところで、しばらく訪ねていないからまた行きたくなった。
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