先生
とくにかわいげのない子供だったとも思わないが、どういうわけか小学生のときに先生にひどく嫌われたらしいことがあった。はじめは小学校の一年生二年生のときの担任の先生で、通信簿が思いのほか悪いのでガッカリした。テストの点数は悪くはないのである。親は教科の評価については笑っていたが、操行の評価が息子の実際とちがいすぎるのには首を傾げた。遅刻もせず忘れものもしないし、人をいじめる子供でもない。
先生の家へ手土産を持って訪問し、それとなく尋ねると、分かっているのに手を上げない、教えていない漢字を使う、授業中に窓の外を見ていることがよくある、などと少し腹立たしそうに言ったそうだ。そういえば窓の外を眺めているときに指されることがよくあった。よそ見をしていても授業は聞いていたから、訊かれたことに答えられなかったことはない。そういうことがどうも憎たらしい小生意気な子供に見えたらしい。通信簿はようやく二年生の終わりごろに一つか二つ4をつけてもらえるようになった。
三年生になっての担任は女の先生で、とてもやさしくてきちんと評価をしてくれた。今でも憧れの女性のひとりとして思い出すことがある。
四年生に担任になった男の先生にもどういうわけか嫌われた。体育のときに跳び箱で失敗して勢い余って砂場に顔から突っ込んで口中を切り、血だらけになったことがある。そのときにその教師は級友達と一緒に笑っていた。ひとりで保健室に行ったら、病院へ連れて行かれた。血だらけの体操服で帰った私をみて親は驚いて、ひとことの連絡もない教師に腹をたてていた。だからといって学校に抗議などはしていない。ふつうに食事できるようになるまで、一週間以上かかった。この先生の私に対する評価も低かった。
五年と六年の先生は大学出たての新米先生で、組合活動にも熱心な、元気で一生懸命の先生だった。この先生には嫌われなかったし、家に一人で泊めてもらったこともある。先生の実家は農家で、農家に泊まったのは初めてだった。小学校のクラス会はもちろんこの先生を中心に行われる。三年から四年に一度クラス会はつづいていたが、私が転居をくりかえしたので案内も届かなくなり、ほとんど参加しなかった。
旧友のひとりが教師になり、私の父も教師だったので同じ中学に努めて私の消息を知ったらしい。実家に同窓会の案内が行くようになり、親からはいけるなら参加しろ、といわれた。二度ほど名古屋からわざわざ行ったけれど、どうも居所がないような気がした。それでも先生は喜んでくれて、きちんと年賀状のやりとりをするようになった。
その先生に今年も年賀状を出したら、訃報が返ってきた。十歳あまりしかちがわないはずで、突然のことで驚いた。クラス会はどうなるのだろう。
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教師が訳もなく生徒を嫌うのは”ライバル視”だと思います。
その教師にはOKCHANは小さくとも油断のならない生徒”だったかも^^
投稿: おキヨ | 2023年2月 4日 (土) 13時52分
おキヨ様
あはは。
自分では純朴なつもりでいましたが、結構自意識過剰でしたから、相手には腹が立つ存在だったのだろうということだけは。いまなら分かる気がします。
いやな子供だったのでしょう。
投稿: OKCHAN | 2023年2月 4日 (土) 17時50分