志賀直哉『鵠沼行』
志賀直哉の小説は、創作小説と心境小説に大別されると少し前に書いた。この『鵠沼行』は心境小説に分類される。心境とは、ここでは志賀直哉自身の心の状態、主に快不快のことで、それが自分自身から発し、それが外部の人間に影響し、志賀直哉に反響してくる。そのことでさらに彼自身が不快を感じるということになる。彼の初期の『或る朝』がまさにそういう小説で、この『鵠沼行』さらに『和解』までの一連の小説はそういう心境小説である。
いまは全集の中に収められたものを読んでいるが、その本の冒頭の口絵が志賀直哉の実家の縁側に一族二十人あまりがそろって撮った記念写真である。彼は長男で、彼の実母は彼が幼いころに病で寝込み、小学生のころに病死する。だから彼は祖父母に預けられて育てられた。その後父は再婚し、義母には子供がたくさんできたので、彼には腹違いの弟や妹がたくさんいる。
この『鵠沼行』では周りのものが志賀直哉に気を遣っていることが痛いほど分かる。それでもとにかく気を取り直して総勢十人を引き連れての鵠沼行となる。さらに鎌倉の親類も後で集合し、会食は総勢十四人であることが書かれている。
どうしてそのような心境小説が面白いのか。面白いから面白いのであって、それを面白いと思わなければ志賀直哉は読めないとしかいいようがない。そうして次第に彼自身が心理的に成長して、社会的な配慮ができるようになるとともに、そのことでさらに苛立ちを内向させていく。彼の小説を読んでいると、それが手に取るように分かるのだ。自分自身を冷徹に見つめている自分自身がいるということであろう。
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