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2023年5月

2023年5月31日 (水)

騒音

 朝の北朝鮮のロケットだかミサイルの発射だかのニュースは予告されたものとはいえ、驚いた。しかし時間が経過したあととなればすでに飛び去ったか落下していることは誰にもわかることで、ずっと日本の上空を飛び続けているはずがない。それを延々とニュースで報じ続けていることに苛立ちを覚えた。とにかく同じことをくりかえし喚き続けているアナウンサーの声を聞かされてはたまらない。これこそ騒音である。新しい情報が何もないのなら、繰り返し同じことを喚かれても見ているこちらには何の意味もない。

 

 突発的な地震や事故、事件について、重要度に応じて時間を割くことは当然だと思うが、そこには新しい情報が追加されていかなければならず、ある時点で「新しい情報が入り次第お知らせします」とするものだと思うが、そういう判断ができないのはどうしたことか。

 

 北朝鮮は日本のうろたえぶりを見て大笑いしているだろう。北朝鮮だけではない、日本のこんな様子を知ったら世界中が笑うだろう。こんな風にいったんことがあると日本人は一つのことにとらわれて思考不能になる国なのだ、そういえば・・・と思い当たったりするにちがいない。

 

 朝からうんざりして、今日はニュースを知ることができそうもないとあきらめ、テレビを消した。

  (朝七時半、奈良へ出かける前に記す)

少子化の原点

 昨日散歩をしながらさまざまな花を見た。哀しいことに名前を知らない花が多い。よく見る花もあり、初めて見る花もある。カメラを持たずにでたので写真はない。満開だったサツキは盛りを終えていた。家の前、庭、そして小さな畑の隅などにさまざまな花がよく手入れされて咲いているのを見ると嬉しくなる。植物は自然そのものであり、そのように自然と接する人は、こどもの歓声やカエルの鳴き声を騒音と思ったりしないのではないかと思う。それらは自然そのものだから。早くも夾竹桃の花が咲いていた。

 

 曾野綾子の『至福の境地』という本を読み終えたので、養老孟司の『日本のリアル』という本が戦列に加わった。最初が岩村暢子という人との対談である。対談というより岩村暢子の話を養老孟司が聞いている。岩村暢子は、日本の食について長年調査を行っていて、家庭の食卓の変遷を統計的に解析している。そこから見えたことを彼女の書いた『変わる家族 変わる食卓』など、三冊の本を読んだ上でそれに感銘を受けた養老孟司が望んで対談したものだ。

 

 詳しい話は書いている余裕がないが、家族が解体し、バラバラの個になっていく様子が食卓から見えてくる。全ての人がそうだというのではないが、日本人全体がいつからどのように変わっていったのか、いまの社会の問題点の原点が見えてくる。それを養老孟司は読み取って感銘したのだ。対談だけで私はいろいろ考えさせられた。たとえば少子化の原点もここにあるのではないか。そのことを考えるために岩村暢子の本を読んでみたいと思っているのだが。

2023年5月30日 (火)

ひさしぶりに

 明日、ひさしぶりに飛鳥を散策することにしている。今回は犬山の先輩と、大阪の親友と三人で歩く。近鉄の飛鳥の駅から欽明天皇陵、猿石、鬼の雪隠、などの巨石めぐりをして、天武・持統天皇陵、橘寺、川原寺跡、板蓋宮跡、そして蘇我入鹿の首塚、飛鳥寺、飛鳥坐神社を回る予定。私が初めて飛鳥を歩いたときのコースである。

 

 そのあと大和八木の駅前で会食して解散予定。今日は早めに寝て明日に備えることにする。天気が良ければいいなあ。

三千世界の

 カエルの鳴き声がうるさいからなんとかしろと田んぼの主にクレームがつけられて困っているという。可哀想なことである。クレームをつけられて困っている田んぼの主が可哀想だし、カエルの鳴き声にクレームをつけるほど鳴き声が苦痛なクレームの主が可哀想だし、クレームをつけて解消することができると思い込んでいる異常さの持ち主であることが可哀想で、そのクレームに驚いてカエルを殺せばカエルが可哀想だ。

 

 ネットでこのニュースの見出しだけチラリと見ただけなので詳しいことはわからないし、知りたいとも思わない。そのとき高杉晋作の作った都々逸といわれる「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という出だしを思い出した。私は無知だから、烏の鳴き声がうるさくて朝寝ができないから殺そうという意味であろうと記憶していた。うるさければ殺す、殺しつくすという夢想かと思うではないか。

 

 ところが意味が全く違うことを知った。高杉晋作の相手は遊女である。遊女は、あなたが本命ですよ、だから通ってきて、と熊野権現の護符に誓いを書いた。当然のこと、何枚も何枚も護符に誓っている。護符に書いた誓いを破ると神の使いの烏が三羽死ぬのだという。そして誓った本人は血を吐いて倒れるという。その誓いを破ってもあなたと朝寝がしたい、あなたこそが本命ですよ・・・。当然たくさんの烏が死ぬことになるというわけだ。知らなかったなあ。

 

 映画の一般料金が2000円に値上がりするという話はしばらく前にニュースで見た。諸々値上がりするのだもの、映画も値上がりするだろう。あるネットニュースが「映画料金に2000円を払えるか払えないか」とアンケートを採ったそうだ。それによると「払える」が46.3%、「払えない」が53.7%だったそうだ。たいへんだ。これではすくなくとも映画館への入場者数が半減してしまうではないか。

 

 若い時から映画好きで、金のない若い時でも飯代を抜いてでも映画代にあてていた。月に一度は映画館に通っていたが、仕事が忙しくなるにつれそんなには見られなくなり、貸しビデオやDVDで映画を観た。リタイアしてからはまた映画館通いをはじめたものだ。シニア割引が有ったからありがたかった。それも家に大型の液晶テレビを据えて、5チャンネルの音響で楽しむようになってからは、家でほぼ映画館の雰囲気が楽しめる。映画館まで出かける手間もかからない。

 

 だから2000円の映画代が高いか安いかコメントしづらいが、2000円でも見たい人は見るだろうし、1000円でも映画を観る気のない人は見ないだろうなあと思うばかりで、アンケートに答えた人の、「払えない」とこたえた人の大半が、そもそも映画館などに行くつもりのない人なのかもしれないと思ったら、それほど心配ない気がした。

犬神家の一族

 NHKドラマの『犬神家の一族』(前後編)を観た。大竹しのぶの熱演でドラマが締まって、『八つ墓村』よりも出来は良かった。しかしどちらも最後が冗漫で、無駄に引き延ばしているように感じられた。最後の金田一耕助の疑問は、確かにいま流行(はやり)の後味の悪さを引き出すというパターンだろうが、そこまで深読みをすると、矛盾がいくつか生じてしまう。ない方がすっきりしないか。

 

 それにしても、たばこに青酸化合物を仕込んで毒殺するという犯行方法は、いささか危険である。青酸カリや青酸ソーダを直接のませるならわかるが、たばこに仕込む場合、青酸化合物が燃焼することによって発生する青酸ガスによるものとなる。青酸ガスは極めて毒性が高いが、そばにいる人は大丈夫なのか。

 

 ところで、竹子が佐清の身代わりとして「たまたま」やけどで顔がわからない状態の静馬を発見したきっかけはなんだったのだろうか。それに佐清が静馬に連絡したというが、どんな方法で連絡したというのだろう。戦後すぐの話だから、まさか携帯電話ではないだろう。そうなると固定電話や手紙しか連絡方法がなく、誰にも知られずに連絡するのは無理ではないか。原作ではどうなっていただろうか。確認するのも面倒だ。それにもし連絡が取れたとして、示し合わせていないのならどのように了解し合ったのか、その辺があいまいだ。いっそ最初から佐清が仕組んだ、という方がわかりやすいが、それだと話の矛盾点が更に増えてしまう。佐清がひそかにやってきたのは、新聞記事を見たから、と語っていたのだから。それらも物語をおもしろくする材料であって、謎解きはそんなに緻密でなくてもかまわないのが横溝正史らしい。

 

 今回も金田一耕助は複雑に絡み合った謎を解き、動機も解明するけれど、誰も救えなかった。

2023年5月29日 (月)

金田一耕助の無力

 『八つ墓村』での金田一耕助は、ほとんど犯人の動機を説明するだけの存在である。これは彼の登場する事件ではいつものことで、彼が連続事件の途中でさらなる事件を未然に防ぐことはほとんどない。しかし警察だってそれほど馬鹿ではないから、金田一耕助に遅れるだけで、いつかは真相を突き止め、動機も解明するだろう(そう思いたい)。完璧な犯罪などというものはめったにあるものではない。もしあるとすれば、そもそも犯罪として発覚していないものとなるだろう。

 

 金田一耕助が「あの名探偵」などと言われると多いに恥ずかしがるのは当然で、彼はたまたま警察より早く犯人に気がついたとうだけであることを自覚している。だからその典型である『八つ墓村』の事件ではほとんど狂言回しでしかなく、彼が活躍しすぎると作者の横溝正史がこの話で書きたかった彼の作り上げた伝説と、実際に起きた津山事件との融合という物語世界を損なってしまう。金田一耕助は表に出ない方がいいのだ。だからこの物語を金田一耕助を前面に出してドラマや映画にすれば、それは原作を損なうだけである。

 

 前回のブログで、今回のNHKのドラマ化を酷評したのはそのことを言いたかったからである。それにしても美弥子を真木よう子が演じたのはとにかく、辰也の姉の春代を蓮佛美沙子にあてるとはなんたる配役センスかと思う。春代は病弱ではかない風情でなければならないが、蓮佛美沙子のどこがはかなげなのか。また村人達が暴徒と化して、洞窟内で辰也を追うが、そのときの辰也の恐怖、そしてそれを助けようとする春代や典子などの女性の優しさこそをこの物語に読まなければならない。それが恋愛小説でもある、という理由である。女性はときに菩薩なのである。金田一耕助にはそういう力はなく、無力なのだ。

 

 これが私がこの小説を何度も読んで、作品全体のイメージとしたものである。この作品がただの探偵小説ではなく、それを超えているところが私がこれを高く評価している理由だ。ただし、蛇足的に言うなら、残念ながら横溝正史の文章の格は江戸川乱歩とくらべるといささか(というよりかなり)落ちる。

八つ墓村

 江戸川乱歩の『孤島の鬼』、そして横溝正史の『八つ墓村』が私にとって、両作家のベスト作品である。二つの作品がともに洞窟のシーンが多いこと、そして読み方によってはともに恋愛小説であるということが関係しているかもしれない。私は意外とロマンチストなのである。二作品とも三回か四回読んだ。

 

 そんな『八つ墓村』を2019年にNHKがドラマ化した。録画してあったのに恐いから観ないでいたのだが、最近『犬神家の一族』が放映された(録画済み)ので、その前に観ることにした。「恐い」というのは、映画の『八つ墓村』が悪夢を見るほど恐かったのである。あの小川真由美が演じたラストの美弥子の顔が恐怖とともに想いだされてしまうのである。

 

 映画の金田一耕助を演じたのは渥美清、今回のドラマでは吉岡秀隆だった。金田一耕助をかっこいい人が演じてはイメージがちがう。その点で渥美清は適役とも言える。吉岡秀隆はまあまあと言うところか。

 

 それにしても今回のドラマは原作の良さを大きく損なうシナリオになっていて、腹が立った。いままでのドラマや映画になったものと少しでもちがうものにしようとしすぎて、ぶち壊しにしている。原作を読んでいないとは思えない(当たり前だ)が、どうして美弥子をこんな風に描いてしまうのだろう。彼女の、自分の欲望の大きさに振り回される哀しさとともに描かなければ、この話は陳腐な推理ドラマに堕してしまう。さあて、これでは『犬神家の一族』も期待できないだろうか。

 

 そういえば『八つ墓村』は私が原作を読んでまだ間がない1971年に、NHKでテレビドラマ化されていて、これが意外と良かった。辰也をなんと山本耕一が演じていた。そしてこのときの美弥子を演じたのが水野久美で、私はこのドラマで水野久美のファンになった。そして今回のドラマでおかしな役回りを演じさせられていた、本当はだいじな典子役を、1971年のドラマでは有吉ひとみが演じていて、彼女もこれがきっかけで好きになった。おもしろいことにこのドラマでは金田一耕助は登場しない。登場しないことでこの物語にこめた横溝正史の思いがより明確になっていたと思う。

 

 『八つ墓村』が恋愛ドラマでもあることは、私が勝手に言っていることではない。作者本人がインタビューで認めているという記事を読んだことがある。それをはずした今回のドラマは魂の抜けたものにならざるを得ないのは当然だ。それに最もだいじな洞窟の迷路のイメージが雑である。さらに話の展開がちぐはぐで、怨念が宙に浮いたまま行方不明だから、ちっとも恐くなかった。ホッとしたやら残念やら・・・。

試す

 ほぼ一日おきにすぐ近くのスーパーに行く。手元にメモ用紙を置いていて、思いついたことや、買おうと思うものなどを書きこんでいく。買い出しに行くときはそのメモを眺めて頭に入れ、持参はしない。記憶したものを買うが、その場で思いついて買うものも多い。スーパー内を歩き回っているうちにメモの内容が頭から消失する。だからひとつかふたつ忘れてしまうことがよくある。

 

 昨夕は珍しく何も忘れていなかった。雨の前だから買っておこうと思ったものが多かったのに忘れなかったのは自分を誉めていい。それでも、忘れたときでも何か忘れているという気はしている。それが忘れたことすら感じなくなったら少しあぶないと思っている。だからメモを持たずに行く。自分を日々試して大丈夫か確認しているのだ。

 

 来週のガスコンロの交換の日が何日かはっきりしなくなっている。出先で連絡をもらったのでメモをしていない。曜日と日にちを記憶しているのだが、それが曜日と日にちが合っていないのだ。今日確認しなければ。

2023年5月28日 (日)

かたちあるもの

 ついに『呪術廻戦』全24話を観終わったが、予想通り完結しなかった。つづきがあるようだ。物語の中でいかにもなるほどと思わせるようなもったいぶった説明や会話があるのだが、よくよく聞いていると意味がよくわからない。わからないのは私に理解力がないのか、もともと意味など実はないのか。たぶん後者だろう。そしてこういうものを楽しむ人はそんなことは百も承知で、いかにもわかったような顔をすることそのことも楽しんでいるのかもしれない。

 

 恨みや呪いが物理的な力になり得るのかどうか。恨みの深さや呪いの強さをどうこう言うということは、比較が可能と考えているということであって、物理的な力を測るようではないか。ことばとして恨みや呪いということばがあるのだから、恨みや呪いは存在する。そしてそれは人に影響を与える。それは恨みや呪いそのものの力なのか、ことばが心に影響して生ずるものなのか。

 

 ゼロならいくつあつめてもゼロだが、わずかでも力があるなら、それが大量に蓄積されれば何かのかたちあるものに変わるかもしれない。何しろ恨みや呪いに力があってほしいと思う人は数知れず存在するだろう。ところがいくら恨まれようが憎まれようが平然としている者がいて、その者に対して物理的に制裁を加えたいという願望は煮えたぎるようにたまることがある。力を持たずにいられようか。

 

 それをかたちあるものにして見せてくれているのがこういうアニメであり、物語なのだろう。それには同時に恨みや呪いを払う力があるのかもしれない。

出来レース?

 昨晩は遅くまで、今朝は寝起きからアニメ『呪術廻戦』を観続けていて、もうすぐ観終わる。こういう話はどうとでも展開できるから、たぶん24話でも最終回にはならないだろう。劇場版も観なければいけない。呪術にはまってしまったか。

 

 自民党と公明党の諍いは出来レースだという観測もあるようだ。公明党にとっていささか利益のない話でもあるから疑わしいけれど、衰勢にある党内で学会の影響力を排除し、党内の統一を図るというもくろみも考えられないことはない。自民党の意にばかり従っている、という内部の不満を、いかにも意地を通したように見せたという効果はあるだろう。

 

 自民党側も、衆議院解散の気運が高まって止めようがなくなりそうだが、岸田首相にはその意思がない。公明党のバックアップがなければ選挙に不利だからやめておこう、ということで党内の沈静化を図るという深慮遠謀かもしれない。ましてや息子を初めとする首相公邸での岸田家親族のバカ騒ぎのリークも、解散をとどめる効果が大に見える。

 

 いかにもと思えるが、そこまで計算などされていると私には思えない。それよりも、愚かとしか思えない息子を養護する岸田首相の親バカぶりにあきれ果てている。バカ息子であることを天下にさらし、その息子は自ら恥じて身を引くことすらしない。幼児並みの人間で、こんな人間が政治に関わり続けるなどと想像するだけで吐き気がする。それでももし後に立候補すれば応援したり票を入れる人がいるのだろうなあ。

2023年5月27日 (土)

ひさしぶりにアニメ

 朝涼しいうちに一時間ほど散歩をして、少し汗をかいた。今日は昼前からWOWOWで『呪術廻戦』(全24話・一話30分)というアニメを一挙に放映したので録画している。そしてそれをいま最初から観ている。とても今日中に観終わることはできないが(食事の支度など雑用もしなければならない)、半分の12話くらいはこなせるだろう。ひさしぶりのアニメ鑑賞だが、こういう話は好きなので楽しんでいる。明日中に全部観るつもりだ。だからブログを考える暇がない。

 

 こうして観始めると止めどなく観るところがあるので、飽きるまでドラマや映画をしばらく観るつもりだ。さいわい月曜からしばらく雨らしいから、眼が悲鳴を上げるまではたっぷり時間が取れる。読みたい本もあるから忙しいなあ。

教えられる

 おおむかし、私がまだ少年だった頃に、「簡単に謝ってはいけない、謝るというのは自分の非を認めることで、全面的に責任を負うことになってしまう。それが外国では当たり前で、日本でもいまにそうなる」と教えられた。当時、自分の周りで見ていた光景は「ごめんなさい」「すみません」に溢れていて、相手がそう言っているのだから許そう、その話はこれでなしにしようというものだった。

 

 いまはやたらに謝罪を求める。当事者でなくとも謝罪を求める。謝罪を求めるということは非を認めさせるということで、非を認めさせればその補償を求めるということになる。つまり謝罪とはたいてい金またはそれに準ずるものを要求していると考えていい。

 

 このことを身に沁みて日本人に教えてくれたのは韓国で、おかげでその点だけは、日本は世界の常識を身につけることができた。マスコミは被害者やその家族の謝罪要求を引き出し、そして声高に報じる。ときには被害者の要求がなくても代わりに謝罪を要求する。百人に一人の不満も代わりに報じて、百人すべてが不満であるかのように報じる。

 

 「不満の人」「困っている人」を探し出し、繰り返し報じて社会が悪いという。為政者の謝罪を要求する。為政者は金をばらまく。ばらまいているあいだは政権は安泰だ。ばらまく力のない野党はいつまでも政権など取れない。与党でも自民党よりも公明党が金をばらまくことに熱心なのは見ての通りで、政権から離脱すれば金がばらまけなくなる。離脱するはずがないと私は見ている。切り捨てられることはあるだろうが。

 

 誠意ある謝罪に意味などないと皆が思い出したのはいつからだろう。おかげて生きにくい世の中になったと思うが、哀しいことに、私だって教えられて身についてしまったものをいまさら振り捨てられない。

CELL8

 昨日は曇天で、気温も高くなかったから散歩に好い日だったのに、ドラマを観たり本を読んだりしているうちに一日が過ぎてしまった。北欧の社会派サスペンスドラマ『CELL8 ある脱獄囚の真実』全六回を一気に観た。CELL8というのは主人公の女刑事が関わった死刑囚の独房の番号である。

 

 主人公が愛し、一緒になっても良いと思った男は、実はアメリカでアイオワ州の知事の娘を殺して死刑判決を受けた男だった。しかもその男は死刑執行のすこし前に心臓発作で死んだことになっていた。

 

 男は無実を訴えている。信じられるのか、真実はどうなのか。どうして死んだことになっているのか、そのからくりは・・・。死刑囚の房で親しくなった男が『モンテ・クリスト伯(『巌窟王』)の本を朗読しているシーンがあって暗示的である。

 

 スウェーデンには死刑がない。そして死刑執行のおそれがある犯罪者は国家として引き渡しを拒否することが法律で定められている。しかし男の身元が明らかになったあと、アメリカが密かに彼を拉致して送還してしまう。死刑執行が迫るなか、彼の無実を信じる主人公が単身アメリカで捜査を進めていく。時間との闘いの中で彼女は真犯人を捜す。ラストに明かされる意外な真犯人、そしてその犯行はさらに意外なものだった。社会派サスペンスというのはそういう意味である。死刑の是非まで考えさせるような重いドラマになっていた。

 

 まことに北欧のドラマは外れがほとんどないし、文句なくおもしろい。

2023年5月26日 (金)

脳あるヒト

 養老孟司と直木賞作家の角田光代による、産経新聞に連載されたリレーエッセイをまとめた『脳あるヒト心ある人』(扶桑社新書)という本を読了した。各回見開き二ページに交互にテーマを展開させながら持論を書いていくという、対談とはまた違った本で、相手の書いたことから自分の思いをつないでいくので、現代の連歌だ、などと養老孟司はまえがきに書いている。

 

 つまりつづきではないのだ。つながるようでつながらないようで、という境地はいかにも日本的で、私にはおもしろかった。理科系的発想の養老孟司、そして文化系の発想の角田光代が、互いのものの捉え方に自分にないものを見いだしておもしろがる、というのが読んでいてわたしにもおもしろい。それぞれのことについて、私ももう少し掘り下げて考えたいところなのに、つい先へ読み進めてしまった。だからダメなのだ、考えが浅薄になってしまうのだ、と反省はしているのだけれど。

 

 ここに取り上げられたテーマは多岐にわたっていて、軽やかに書いているようでも中身は重い。それだけ観念的ではなく自分の問題として考え込んだことが述べられているということだ。しばしばわかりにくいことを書いていかにももったいをつけているものは、たいていが人の受け売りで、包装過剰で中身は軽いお土産品みたいなことが多い。妹に、私のブログはわかりにくいと言われたことがあるけれど、それは自分のことばになっていないからだろう。自戒しなければ。

少子化対策

 人工一億二千万人の日本の出生数が年間八十万人を切ったと報じられていたが、お隣の人口十四億人の中国では、年間の出生数が八百万人を切ったと報じられていた。どちらがより少ないか比較しても意味はないかもしれないが、数字だけ見れば中国の方が深刻であると思う。何しろ一人っ子政策が強行されていた時代よりも出生率が低いのだから。

 

 岸田首相は異次元の少子化対策を謳ってその方策を提示しているが、私には、とにかくこどもを産めば金をやるぞ、いままでよりももっとたくさんやるぞ、と声高に叫んでいるだけに見える。政治ができることは金をばらまくだけなのか。金しか頭にないのか。損得でしか世の中を見ていなければ、こどもを産むことは金もかかるし、こどもの面倒を時間無制限に見る手間もかかる。それらと少子化対策でもらえる金を比べれば、もらう方がいいと考えるとは思えない。

 

 確かに金銭的な困難からこどもがほしいけれどやめようと思っている人はたくさんいるのだろう。しかし私はそれよりも「どうして結婚しなければならないのか、どうしてこどもを産まなければならないのか」と考えている女性が当たり前になってしまったということに問題の本質があると思う。「どうして」などと言うことなしに、結婚することが、そしてこどもを産み家族を持つということに疑問を持つことがなかった過去と、現在はまるでちがうのだと思う。

 

 子孫を残すという、遺伝子に組み込まれた本能が、損得という脳の働きに押さえ込まれてしまった。すでに変わってしまった意識を、こどもを持つことの幸福を夢想するような意識に戻すことこそが異次元の少子化対策で、ではどうしたらいいのか。私には残念ながら想像がつかないので岸田首相の打ち出す方策に注目していたのだが、期待外れだ。答えがなければ少子化はますます進むだろう。

 

 日本よりも損得の価値観の強いと思える韓国や中国で出生率が低い傾向があるのは、当然だなあと思っている。日本もすでにそうなっているということだろう。問題の本質に関わることを書きたいけれど、炎上するだけだからやめておく。

ETCなおる

 昨日、定期点検でディーラーに行った。車そのものはどこも気になるところがなく快調なのだが、ETCの車載器がカードを入れているのに「カードがありません」などとおかしなことを言うので気になっていた。調べてもらったら原因がわかり、設定し直してもらって正常に戻った。これで安心して高速の料金所のゲートを通過できる。

 

 ガスレンジとレンジフードの更新は、おかしな苦情(現実に苦情があったわけではなく、騒音クレーマーの苦情)を恐れて予定が狂い、工事業者の都合と納品の調整が遅れて六月第二週に延期になってしまった。それでもようやく決まってほっとした。いま特に使うのに不都合はないのでかまわないのだが、在宅すべき日が定まらないことに苛々していたのである。

 

 あとは梅雨前に天気と気温の様子を見て、奈良の飛鳥散策の日を決めなければならない。そのあと、梅雨になったら出かけにくくなるから、せいぜい新しくなったレンジで料理を楽しむことにしよう。

2023年5月25日 (木)

感染爆発

 夕方のニュースで、新型コロナ感染者が中国で急増しており、いまは数万単位であるが、遠からず一週間あたり四千万から六千万人に爆発的に増えると予想されているという。第一報なので詳しいことはわからない。ただの警告ということもないではないが、これからそれが現実となるかどうかが見えてくるものと思われる。

 

 感染爆発が実際に起これば、ふたたび世界へ波及するだろう。その前に中国はロックダウンを行うことも予想されるが、あえて予測を公表するということは、事態はすでにとめようがないということかもしれない。従来型なのか更に変異したウイルスなのか、症状が深刻なのか軽微なのかもわからない。一定の割合で重症者が出るとも思われ、そうなったとたんに情報管制が敷かれるだろうから、中国はまた情報の闇に沈むだろう。

 

 往き来の多いロシアや中央アジアで感染爆発が起こるかもしれない。などと期待するようなことを考えてはいけないのだけれど・・・。それにしても突然のことで驚いている。まさかデマではないだろうなあ。

熱中症対策

 政府は熱中症の死者を半減させる対策を講ずるそうだ。これからますます温暖化が進み、平均気温が上昇するようだから、対策を講じなければ熱中症での死者はどんどん増えるだろう。熱中症になりやすいお年寄りもどんどん増えている。

 

 先日、十三回忌だった私の父は東北生まれで寒がりだった。その代わり夏は元気で、炎天下で庭いじりをして、しかも水分をあまり摂らなかったから、母からよく叱られていた。クーラーが嫌いで、クーラーをつけるとその部屋から逃げ出す。そういうお年寄りは多いのではないか。

 

 寒いのが平気で、その代わり暑いのが苦手だった私も、歳とともに寒いのが苦手になって、多少暑くてもそれが快適に感じるようになった。平熱が下がると暑さに強くなるのか、それとも暑さを感じるセンサーが鈍感になるのか。

 

 熱中症で倒れるお年寄りは、クーラーがなかったり、あっても使っていないことが多いという。熱中症対策として、そういうお年寄りの様子をこまめに見て回るようにするそうだ。しかしそういうお年寄りは暑さをあまり深刻に感じていないものだし、わずかな電気代を惜しむことを命より大切に考えたりする。そういう考えを変えさせないと、たぶんお年寄りの熱中症の数はあまり減らない気がする。実感のない者の考えを変えさせるのは容易ではない。そうして対策を考える者は、お年寄りの実感をあまり理解してもいない。

あってはならない

 あってはならない事故という言い方が嫌いだ。あってはならないと言ったとたんに、あってはならないから事故は起きないかのように錯覚する。あるかもしれないと思うから事故に対する注意や対策がなされるのではないのか。

 

 そうして事故が起きると、二度とこのようなことが起きないように云々ということばが吐かれる。当事者がそのように言ったり、被害者もそう言う。世の中には一度起きたことは二度起きるのが普通だし、しばしば三度、四度と起きる。二度とそのようなことが起きないように何をするのか、そして二度と起きないはずのことが起きたらどうしてそうなったのか、しっかりと検証して責任を明らかにすることがおろそかになっていることが多い。決まり文句を言うことでなんだかすべてが済んだみたいなことになるかのようだ。

 

 つまらない言葉へのこだわりみたいだけれど、決まり文句に出会うと苛々する。そういう自分もうっかり決まり文句をブログに書いていたりして、あとで自己嫌悪に陥る。何を語っていいか分からないとき、気持ちをことばに換えようがないとき、それでも人は格好をつけたいと思う。そう思うとつい決まり文句を言う。そのとたんに伝えたいものが伝わらなくなり、語ったものも聞いたものも決まり文句にうなずいて、はいおしまい。

2023年5月24日 (水)

摂食障害

 好き嫌いはないし、何を食べてもそれなりに美味しく食べられる。食慾がない、などというのはよほど体調が悪いときだ。そんな健康に産んで育ててくれた親に心から感謝している。

 

 だから摂食障害の事例をさまざまに知ると驚くと同時に、どうしてそんなことになるのかがどうしても理解できない。過食症の、無理やり食べ物を食べては吐く、という症状、自分の命の危険が迫るまで食事が摂取できなくなって痩せていく、などという症状が、実はおなじ精神の病なのだという。人間の身体は脳の働きの狂い方によって、自己防衛も働かなくなってしまうということが起こるのか。

 

 食慾という、人間の最も基本的な本能が壊れてしまうというのは、昔からあるものなのか、それとも現代が産み出した病なのか。そもそも動物に摂食障害というのはあるのだろうか。もしあれば、その個体は生き延びることができないからすぐにこの世から消えてしまい、見ることが出来ないのだろう。ペットに拒食症はあるのだろうか。際限なく食べてしまう巨食症ならありそうだがどうだろう。

 

 ただ、糖尿病になると巨食症に近い過食状態になることはある。糖尿病は栄養、特にエネルギーとなる成分を糖分として取り込むためのインシュリンが欠乏するか働かないことで起こる病気で、血中に糖分が滞留し、さまざまな病気の元になる。本人は食物を摂取しているのに、体がそれをエネルギーとして受け取ることができない。糖尿病の末期には、飢餓状態をなんとか解消しようとしてひたすら食べ続けながら飢え、そして痩せていくことになる。恐い病気なのだ。

 

 私も糖尿病が悪化すると無性に間食がほしくなり、あるものすべてを食べてしまうことがあった。だからそもそも間食になるようなものは極力買い置きしない。我慢はしたくてもできない。無意識に口にしてしまう。たぶん麻薬というのもそういうものなのだと思う。人間の意志など弱いものなのだ。

 

 そんなことを考えていたら、摂食障害と健康とは案外紙一重なのかもしれないと思えてきた。

道士塔

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 余秋雨の『文化苦旅』を読んでいたら敦煌の道士塔のことが書かれていた。道士塔はこの敦煌で修行した僧の、特に名のある人の墓である。その道士塔の一つが王圓簶(おうえんろく)のものであることに気づいた余秋雨が思わず感情を激発させた様子が書かれている。

 

 彼は敦煌石窟の罪人だ、という史実が残っている。
(中略)
 憤怒の洪水を、彼にぶつけてしかるべきである。しかし、彼はあまりにもちっぽけで、取るにたらず、愚昧だったため、力のかぎり罵倒しようとも、糠に釘、ぼんやりとした表情と取りかえるのが落ちだろう。この重い文化のつぐないを、彼の無知な体躯に負わせることは、われわれでさえナンセンスなことだと思う。
 これはこの上ない民族的悲劇だった。王道士などはこの悲劇の中で、出番を間違えた道化に過ぎなかった。

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 長く秘蔵されていたままだった敦煌文書を20世紀の初めに見つけだしたのは王圓簶という一人の道士だった。そのあと世界の探検家がその敦煌文書を彼からわずかな対価で買い取り、奪い取るようにして自国に持ち帰った。石窟の中の壁画も美しいものばかりが剥がされて奪い去れた。フランスやドイツ、日本にそれらが送られ、ドイツに送られたものは第二次世界大戦で灰燼に帰した。

 

 その恨みを余秋雨は書いているのである。

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 この経緯はさまざまな敦煌に関することを書いた本で読んできたが、特に忘れられないのは王家達という人の書いた『敦煌の夢』という本で、むかし胃に出来たヒドラ状のポリープを除去ために、十日あまり入院したときに読んで、悲憤慷慨したり、思わず目を潤ませたことがある。そちらの本では持ち去られずに残った文書のその後のことや、文化大革命での敦煌の石窟の破壊の危機のことなどが詳しく記されている。王家達は命がけで敦煌を守った一人なのである。

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 いま北京の故宮に残されているはずの厖大な敦煌文書がどうなっているのかわからない。各国に持ち去られたものはすべて目録として分類されていて、焼失したもの以外は調査が可能であるが、中国に残されたものはきちんとした目録すらないという。敦煌から運ばれる途中に次々に引き抜かれ散佚し、収蔵されたものも貴重なものほどヤミからヤミに売り払われているとも言うが、本当のところはいまだによくわからない。

 

 余秋雨が王圓簶に怒りを覚えるのは中国人として当然だが、歴史の皮肉は、海外に持ち去られたものだけがきちんと管理されているということだ。

2023年5月23日 (火)

民主主義と文化の衰退

 私たちが民主主義を好み、特権階級を許さず、財閥の存在を防ぎ、高額所得者から高い税率で税金を取ろうとするのは、そこに、きれいごとで言えば正義の感情、下世話に言うと他人がいい思いをするのを許さないという嫉妬の感情があるからである。

 

と曾野綾子が書いていた。このことを山本夏彦などはもっと辛らつに喝破していた。うまいことをした人間を激しく糺弾する人間は、立場上自分に特権が回ると、しばしば自分が糺弾した者と同じことをするものだ、というのだ。それは中国を見ているととてもよくわかる。たぶん日本も同様で、だから振り上げたこぶしと共にシュプレヒコールを叫ぶ人に私はたいてい共感しない。自分も含めて人間とはどういうものか、多少の経験を重ねてきたので承知しており、疑り深いのだ。

 

 さらに曾野綾子はこう書いている。

 

 民主主義が正義の名の下に飽くなき平等を要求したことはたぶん九十%まで正しいのだが、こうした平等と公平の感情が、最近になって建築や美術や工芸の衰退を招いたことは隠しようがない。

 

 まことにその通りだと思う。観光地の見所の多くは権力者が贅をこらして建てたり残したりしたものだ。そのうちの宮殿のようなものは、これからは中国や北朝鮮やロシアでしか産み出されないだろう。ただしそれらの国が文化的かどうかは知らない。

連鎖反応

 阿川弘之『春風落月』(講談社)という随筆集を読了した。随筆らしい随筆があり、書評があり、追悼文や結婚式のスピーチの原稿があり、と色とりどりの小文集で、気持ちの動かされるものも少なからずあった。

 

 本を読んでいて、そこに言及されている未読の本がいかにも魅力的に感じられることが多い。そうするとそれをノートに書いておく。そうしてその本を取り寄せることもしばしばだが、すべてを取り寄せていては経済的にも物理的にも無理が生ずる。それでもそうして取り寄せたもので残念だったことはほとんどない。

 

 今回読んだこの本からも阿川弘之推奨の数冊が書き残されているし、随筆や彼の師である志賀直哉に関連した文章をあつめた彼自身の本など数冊も追加されている。すでに手元にも何冊か彼の本があり、新たに取り寄せる前にまずそれらをもう一度読み直そう、などと思って引っ張り出してきたから、また周辺が雑然としてきた。本は連鎖反応のように増え、周辺に積み上げられていく。はたして読むために本を買っているのか、ただ買うことだけが快感でやめられなくなっているのかよくわからなくなっている。

 

 読みかけが山のように積まれているのに、新たに余秋雨という中国上海の戯劇学院院長だった人の『文化苦旅』という紀行随筆集を、これから読むつもりの山に加えてしまった。この本の中の莫高窟や西湖、三峡について書いた部分だけを拾い読みしたが、まだ残りの多くが読みかけである。『陶庵夢憶』を少しずつ楽しみながら読んでいて、関連して思い出し、比較読みしたくなったのだ。四百年を隔てて何が変わり、何が変わっていないのか、その時間空間の広がりを、自分が日本国内を旅するときの視点に移せないか、などと能力を超えたことを夢見ている。いま、過去の旅の写真などを眺めながら、一体自分は何を見てきたのだろうと、その粗雑さにつくづくあきれ果てているところなのだ。

迷惑メール

 迷惑メールは、一部愉快犯もあるが、ほとんどが詐欺メールであろう。メールは無料だから手間に見合う見返りさえあれば詐欺行為が成り立ってしまう。つまり詐欺を成立させるためには「うっかり詐欺に引っかかってしまう人」が必要である。誰もが無視して引っかからなければ手間をかける意味がなくなる。

 

 まず疑う、という、詐欺メール横行時代に対応した行動が必要な時代に、易々と詐欺に引っかかるのは少々うかつで、自業自得とまでは言わないが、責めが全くないとは言えない。詐欺も年々巧妙化していることは間違いないが、それに合わせて疑う方もレベルアップしなければ、詐欺の横行は減らない。

 

 そもそもメールが無料であることが不特定多数に迷惑メールを送ることを容易にしている。有料ならそれほど多数に送ることは困難になる。だからメールは有料にしたらいいと私は思うけれど、強硬に反対する人は少なからずいるだろう。ネットが通信費以外無料であることこそに意味があると考える人は多い。しかし考えようによってはネットの悪用による被害こそがその無料にプラスされているとも言えるのであって、その被害が利便性と比較考量されてもいいと私は思っている。本当に迷惑メールは迷惑である。

2023年5月22日 (月)

歴史ドラマ

 歴史ドラマは実在の人物が登場するから、史実を曲げたら歴史ドラマではない。ただ史実は詳細ではないのが普通だから、多少その隙間に史実にない架空の登場人物が登場したり、実在の人物の性格などを誇張したりコミカルに描くことは許されるだろうと思う。

 

 そのときにドラマをおもしろくさせるだけのためにデフォルメしたりコミカルにしたりして、その人物に対してのリスペクトがないと、ドラマはたちまち陳腐に堕し、ただ観客に対する迎合だけになる。歴史ドラマの当たり外れは、そこに観客が鋭く気がつくからであろう。

 

 どんなに局を挙げて番宣をしても、その評価が覆ることはない。主人公に扮するタレントを見るためだけにドラマを観る人以外は、その歴史上の人物のイメージとあまりにもかけ離れたものを観せられると、ついて行けないのは当たり前だ。来年はもう少しマシなものが見られるだろうか。

新タマネギ、甘い

 新タマネギを電子レンジでチンしてそぼろあんかけなどでいただくと美味い(前に紹介した)。名古屋式に「かけて味噌つけて味噌」というインスタント甘味噌だけでもいける。弟のところで教えてもらったのは、オリーブオイルで食べるという食べ方だ。いずれもチンする前に上下に十文字に包丁で切れ目を入れてそこに塩を余分目に振っておく。

 

 オリーブオイルで食べる食べ方は、特にタマネギの甘さが際立つ。スイーツみたいである。スパイスを工夫するのもいいだろう。料理とも言えない料理だが、新鮮なものなら別に淡路島産ではなくても最高だ。

 弟のところで嫁さんの実家から送られてきたという枝豆を大量に、そして弟の庭でできたタマネギを手土産にもらった。枝豆はもう食べ尽くした。今タマネギをいただいている。

薄日

 今朝は雲が多いが薄日は差している。卓上のデジタル時計の気温は27℃、空気清浄機のモニターは28℃を表示している。今日も暑くなりそうだ。体温を測ると36.5℃で微妙。平熱はもう少し低い。とはいえ腕の痛みやだるさはかなり薄らいだ。何度も夜中に目覚めたとはいえ、延べにして八時間以上寝た。回復しないでどうする。コロナ対応の身体への変身はほぼ完了した気配だ。

 

 排尿がいつも以上に濃くて濁っている。棲みついている細菌がワクチンの副反応に乗じて暴れたようだ。耐性菌による泌尿器系の慢性疾患を抱えているのでこういうときは注意が必要で、たぶん副反応だけの微熱ではないのだろう。ただ身体の様子はそれらの戦いもほぼ終わりだと知らせてくれている。

 

 これなら午後には妻の入院している病院へ予定通り行くことができるだろう。

2023年5月21日 (日)

微熱

 37℃は超えないけれど、それに近いほどの熱が終日下がらない。明日には下がっているだろうか。

 

 今日は風呂で汗を流して早めに休むことにする。明日出かけるつもりの用事があるのに大丈夫だろうか。もう一日休養が必要だろうか。まいったな。

だるい

 朝は平熱だったが、なんとなくだるいので昼前に熱を測ったら微熱がある。洗濯だけ済ませたあと、読書をする気にならないのでぼんやりと音楽を聴いていた。今日は散歩も中止。窓を開け放っているとそれほど暑さを感じることがなくて気持ちが好い。さいわい食慾はある。昼はひさしぶりにサバサンドを食べるつもり。

 

 梅雨入りする前に友人と奈良の飛鳥散策をしたいと思っているが、車の定期点検の予定なども入り、どうも出かける日が決まらない。あまり暑すぎると散策でバテてしまいそうだから、気温の様子も注意しないといけない。梅雨前に真夏のような日が続くことは毎年のことである。

 

 まだほとんどエアコンをつけないでしのいでいるが、六月からマンションの修繕工事が始まると、足場に囲まれ、ネットも張られてしまって風を通すわけには行かなくなるから、エアコンをつけ続けることになる。電気代が心配だなあ。涼しいところへ出かける、といっても、今の日本は北海道ですら猛暑日があるから逃げようがない。山の上か。似たようなことを考える人も多いだろうから、そういうところは混むだろう。混んでいるのが何より嫌いだから、すいていてのんびりできるところというと・・・なんのことはない、我が家しかないのである。まるで青い鳥だな。

 

 微熱のせいで頭が堂々めぐりしているようだ。

ひとつまみの塩と

 ワクチン接種の副反応で、接種した左腕が少し痛い。夜中に多少発熱したようで、節々に少し違和感が残っている。夜、体温は測らなかったからわからないが、今朝の体温は平熱だ。寝汗をかいたので下着を着替えた。

 

 副反応を想定して、今日は何も用事はしない日に決めていた。世間は日曜日でもある。空は快晴。夜中に喉が無性に渇いた。それも想定してまくらもとに冷凍庫で凍らせたペットボトルの水を用意しておいた。凍らせる前にひとつまみの塩とポッカレモンを垂らしてある。融けかけの冷たい水はとても気持ちが好い。

 

 昨日『アンダーワールド』とか『ガンパウダーミルクシェイク』などという、人がバタバタ死ぬ映画を観たので、気色の悪い夢を見た。ずっとそうだったような、明け方だけだったような気もするがわからない。

 

 とにかくこの調子なら今日中に副反応は治まりそうだ。

2023年5月20日 (土)

ワクチン接種

 六回目のワクチン接種を受けるために、炎天下病院まで歩いて行った。今日初めて半袖を着た。気温は高いが風はまだそれほど熱くない。予約時間を30分、間違えていて、私はたいていゆとりを持って出かけるので40分以上早く着いてしまった。カレンダーに予約時間を書きこんでいて、それは私の記憶通りだが、メールで送られてきた予約時間は確かに病院の言うとおりであった。どうして間違えたか、あとで思い当たったが、くだくだしいので説明しない。今回はぼけたからではない。

 

 いままではたいていスムーズに手続きが済んで、最後のアレルギー反応を見る15分以外は、ぼんやりする時間などないから本を持って行かなかった。40分時間があればたいてい50ページは読めるから、それが空白になったことが口惜しい。注意書きやら何やら手元にある文章を読んで時間を潰す。

 

 無事接種を終え、帰宅してしばらく経つが、今のところ何も副反応はない。今日は酒を控えようと思ったが、汗をかいたら無性にビールが飲みたくなった。いま枝豆を茹で、唐揚げとウインナ入り野菜スープなどを作っている。喉がビールを待ち焦がれている。

情報過多

 本を読んでいるときの私のブログには引用が多い。文筆家が書いたものにはその人の世界観や価値観が投影されている。その世界観や価値観に共感する、または疑問を感じたりしたことについて、それを引用して自分なりに考えたことを書いているつもりだ。

 

 またまた曾野綾子から

 

 情報というものは玉石混淆である。あるだけでは何の価値も生まない。それをどう判断し、分析して整理し、意味の再構成を試み、その内容に、どんな想像的な意味を付加できるかということだけが勝負だろう。
 どう使うかは、まず、その人の知識や個性や勇気による。それから、その人に時間がどれだけあるかにもかかっている。
 だから情報は、少ないより多すぎる方が素人は始末に困るのだ。情報の入るのを防ぐ手立ての開発もいるのである。情報は接触するだけでかなりの時間がかかり、それを棄てるにもまた時間がかかるからである。

 

 まことにその通り。情報は「判断し、分析して整理し、意味の再構成を試み」て、「想像的意味を付加でき」なければ自分にとって価値あるものに変化しない。そのためには情報過多はかえって妨げになってしまう。ときにはあるべき情報がない、という非常にだいじなことに気づく機会さえ失う。

 

 こんな一節もある。

 

 今の教育は、知ることに血道を上げていて、それを「料理する」哲学のことは考えていない。教養と創造力がなければ知識をその人らしく活用することなど、全くできないのである。
 どんな人にも必要な情報と、そうでない情報とがある。(小略)それをどう使うかという個人の選択がなければ「知ってどうなる」というものなのである。

 

 繰り返し書いてきたが、「考える」という行為を伴わない情報の取り込みは、危うい。論語に言う「学びて思わざれば則ち罔し(くらし)」であろう。

 

 情報の洪水を浴びているつもりで、ある特定のものだけを選んで世界を見ている人がしばしばいる。自分の見ている世界の外側にこそ見るべきものが溢れていることに気がつかない。そういう人と話していると話が通じないことに驚かされる。「思いて学ばざれば則ち危うし」であるか。

略歴を求められると

 戯れに阿川弘之が書いた、本人の死亡ご挨拶の中から

 

 略歴を求められると、敗戦の翌年海軍より復員、初めて書いた短編を志賀直哉に認められ、以後作家生活に入る、それだけでいいよ。つけ加へるとすれば、新仮名遣ひなるものを一切受け入れなかつたこと、右翼も嫌ひだったが、左寄りの時代風潮を嫌悪し、その風潮に便乗した文筆家たちに軽蔑の念を隠さなかつたこと、ぐらゐかね。

 

初めて出版された阿川弘之の随筆集、『鮎の宿』によせた友人の遠藤周作の推薦のことば

 

 友情に篤いがすぐカッとなる男。変人のくせに自らはまともと思っている男。それがこの著者阿川です。この本を読めばそれらのすべてがわかるでしょう。

 

『鮎の宿』は当初、六興出版というところから単行本として出版されたが絶版となっていた。その後、著者が手をいれて講談社の文芸文庫に収められている。師である志賀直哉のことがたくさん書かれているらしい。未読である。読みたいなあ。

2023年5月19日 (金)

第三の新人

 世の中にはすぐれた作家とその作品がたくさんあって、全部読みたいと思っても物理的に不可能である。たまたま手に取った作家の好みで読書の傾向は形作られていく。私も少年から青年にかけて出会った作家の中から、次第にその周辺へ手を広げるという読み方になった。

 

 SFや時代小説、ミステリーなどの娯楽小説は手当たり次第だったけれどそれはべつにして、文学作品については次第に傾向が定まっていく。1960年代から読み始めて、図書館の本では飽き足らず、小説現代やオール読物などの月刊の文芸雑誌で、リアルタイムで書き下ろされた小説を読むようになった。その辺を回顧していくと果てしないので、とりあえず第三の新人のことについて書こうと思う。

 

 第三の新人などといっても、文学に興味のない人にはなんのことやら分からないだろう。戦後派と呼ばれる作家が輩出した後、1950年代前半に登場した新人作家達である。安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、三浦朱門、曾野綾子などが代表的な面々で、私はどの作家も少なからず読んでいる。

 

 三浦朱門は文化庁長官も務めたことのある作家で、曾野綾子の夫君である。いまは曾野綾子を片端から読んでいるが、とうぜんその随筆には三浦朱門についてもたびたび言及がある。ここにあげた作家達は、多くが互いに個人的に親しい。安岡章太郎は私の最も好む作家で、全集が棚にならんでいるし、随筆集もかなりたくさん揃えている。もちろん1950年代の初めに世に出るくらいだから、多くが1920年代の生まれである。世代が私とはかなりちがう、というより私の母と同世代である。

 

 彼らの感性や作品への共感があるのは、母から刷り込まれた世界観も関係しているのかもしれない。人生についてあまり深刻ぶらずに、どちらかというと軽みのある文章なのに、実はその根底にずしりとした岩盤を抱えている。それはもちろん戦争という時代を経たことによるものである。

 

 そんなことをぼんやり考えていたら、棚にあった阿川弘之の『春風落月』という随筆集が目にとまった。開いたらやめられなくなって、並行して読みかけの本の山に加わることになった。このひとはあの阿川佐和子の父上である。私が別格的に偏愛する志賀直哉に師事した人だから、思い入れもある。結局文学の世界が宇宙だとすると、最近は特に第三の新人の属する銀河の周りを経巡っているという感じがする。

 

 それにしても阿川弘之の随筆集で読みたいものがたくさんあるのに未読なのが残念だ。そうしてAmazonで検索して、取り寄せようかどうか悩んでいるところである。こうしてさらに収拾がつかなくなっていく。

ひとつずつ

 午前中に、片付かずにいたことを少し片付けた。それほどだいじなことはなく、中事と小事であって、小事二つほどがたちまち片づく。中事は相手のあることで、連絡が来るはずのことが連絡がないのでこちらから連絡する。そのまま放置していてもいいが、急に予定が入るとこちらの段取りが立たなくなるからしかたがない。でも、放っておいて本当に困るのは相手の方の用事ばかりなのだが。

 

 二カ所への電話で一つは片付いた。もう一つはあちらからまた連絡がある。どちらも私が連絡してくると思っていたような気配なので心外だが、こちらが悪いのかもしれない。日を決めて連絡をもらうことにしていたような記憶があるが記憶違いで、やはりぼけているのか。しかし筋から言えば私から連絡することではないと思う。いまの人はそういうことに無頓着なのか。

 

 明日はかかりつけの病院で六回目のコロナワクチン接種である。今日は雨だが明日は大丈夫そうだ。今日は妻の病院へでも行こうかと思っていたが、強い雨が降っているから出かける気にならないのでやめることにする。今は面会の気分ではないので、支払いだけに行こうと思っている。

 

 マンションは六月から十年に一度の大規模工事に入る。これからまもなく足場が組まれてベランダへ出るのもままならない日々があるらしい。工事の説明会がちょうど先日の父の法事のときに重なって、配布された冊子でしか情報がない。在宅しなければならない日もあるらしいが、事前に都合を聞いてくれるようだ。ベランダにあるものを全て部屋に取り込まなければならない日もあるらしい。鬱陶しい夏になりそうだ。

朝寝坊して

 今週中に片付けるか、段取りだけは決めるつもりのことがいくつもそのままで、収拾がつかなくなっている。現役時代はそんなことは日常的で、そのストレスとの戦いだったが、それでも酒を飲んで翌朝には「また今日もガンバロウ」と思うことが出来たのに、いまは収拾がつかないことそのことに気持ちの苛立ちが治まらない。相手のあることが多いから、相手のせいにしてしまいがちだが、相手が愚図愚図しているならこちらがどんどん働きかければいいだけのことなのに・・・。

 

 夜中に目が覚めて、そのままじっとしていればいいのに起き出してしまった。本を読んだり録画したものの整理をしたりしていたら夜が白んできた。さすがにくたびれて朝寝して、今日はリズムの狂った一日になりそうだ。

 

 曾野綾子と金美麗の対談本『この世の偽善』(PHP新書)と養老孟司と池田清彦の対談本『本当の復興』(新潮社)という本を前後して読み終えた。どちらも東日本大震災のあと、それほど時間をおかずに出版されたもので、それに関連した話が多い。読みながら当時のことを思い出したりしていた。

 

 震災が地震と津波という自然災害だけであったら、たぶん復興はずっとスムーズに進んだだろうと思う。日本人は過去いくたびも自然災害に見舞われ続けて、たぶんそういう地震災害の経験のない国の人たちよりは耐性がある。海外の人たちが震災後の日本人の、暴動もなく整然としていることに感嘆した、などという報道があったが、それは日本人がそれだけそういうことを受け入れざるを得ないという経験が記憶に刷り込まれているからだろう。それに、批判はしても政府がなんとかしてくれるという思いもあったはずだ。助けが期待できなければ生き延びるために掠奪がないとはいえないだろう。

 

 しかし大震災には原発事故という人災が伴ってしまった。そのために膨大な数の人が長期にわたって復興行動すらできない事態となった。自然災害は人間には如何ともしがたいが、人災はふせぐことが可能で、だからその責任の検証とこれからどうすればいいのかということをきちんと総括しなければならない。ところがその責任問題の追及に対しての答えは、自然災害だから予測が不能で、しかたがないというものであった。

 

 人災は自然災害の結果としてうやむやにされ、そして原発再稼働のためのチェックでは不備がいくつも見つかる始末である。万全を期す覚悟というのが本当にあるのかどうか疑問を感じてしまう。そもそも事故に対する反省があるのかどうか。私は原発推進派に近い考えであったが、日本の政府や電力会社には原発そのものを扱う能力を欠いているのではないかと考えている。今のままではその資格がないのではないか。エネルギー産業と静脈産業は巨大な利権と表裏一体だ。経済原理が大きく働いている。しかしそれを優先していいものとそれではすまないものがあると思う。震災からまもなく書かれた二冊の本を読んで、そのことをあらためて強く思った。

2023年5月18日 (木)

徒労

 ことばが相手に伝わらないことがある。それはこちらのことばが相手に理解できないからだから、こちらに問題があるのだが、そもそもこちらのことばをきちんと聞き取ろうとしない相手に問題があることもある。何人かの人がこちらのことばに賛同してくれた同じ話を、かみ砕いて伝えているのにちっとも理解できない人に会った。ことばが見えない壁に跳ね返され、さまよい、やがてあきらめて散っていく。

 

 すでにその人には確固たる鉄壁の世界観があり、それにわずかでもはずれるものは跳ね返されるようだ。会話というのは互いに心を開いて相手のことばを聞き取ろうとしなければ、ただの意見表明の交換でしかない。自然とこちらも相手のことばが受け取れなくなっていく。会話は始まる前とあとで必ず影響が残るものだと思うのだが、そういうものがないと、徒労のみが残る。

 

 影響は自分自身の変化につながり、その積み重ねが自分自身の成長につながると私は思っている。聞き取れない人は、もうすでに自分は完成していて他から影響など受ける必要などないと確信しているのだろう。異質なものが取り入れられなくなったとき、知性はほとんど死んでいるのではないか、などと失敬なことを感じていた。

いやがらせから呪いへ

 リニア新幹線が本当に必要なものかどうか意見が分かれるところであるが、必要な人には必要で、私はあまり必要を感じない。だからといって積極的に反対するほどの無用なものとも思わない。人の移動がより便利になることの経済効果と、かかる経費が見合うかどうか、その点に多少心配があるというところか。

 

 それにしても静岡県知事の反対の仕方がいろいろ批判されているようだ。大井川水系へのダメージを懸念しての反対ということになっているが、報道を見ていると、反対が先にあってその理由に大井川が引き合いに出されているような気もする。それに配慮するというJR東海側の答えも全く無視しているかのようで、意地になっているとしか思われない。ゲスの勘ぐりだが、JR東海は川勝知事への根回しが不十分でへそを曲げたのではないかと思われてくる。根回しとは何か、いろいろ想像されるが、あくまで勘ぐりである。

 

 他の自治体の長はほぼ了承していて、次第に苛立ちを静岡県知事にぶつけるようになっているようだ。こうなると多勢に無勢、最後は折れざるを得なくなるだろう。この意地の張り方は結果的に自身への批判の山となって跳ね返ってくる。知事は、いま、そして将来、工事の結果が自分の危惧した状態になることを願望しているだろう。そうして自分の言ったとおりだと言いたいだろう。知事の呪いが叶わないように、工事は慎重に願いたい。

答えが分かっているはずなのに

 今日は朝から25℃を超えている。昨日は真夏日だったが、マンションは躯体がまだ暖まっていないから、エアコンなしでもなんとかしのげた。近くのスーパーではエアコンがよく効いていて、快適ではあるもののしばらく中にいたら身体に少し不調を感じた。急激な温度変化に対応できなかったようだ。

 

 相変わらず迷惑メールがぽつりぽつりと送られてくる。このごろはさまざまなカード会社を騙ったもので、異常アクセスを検知したから確認したいというパターンだ。それが皆私が持っていないカードだから笑わせる。もちろん持っているカードであっても信用しないが。私はメールでのそのような確認は信用しないことに決めている。きちんとした書面が郵送されてくれば別である。そもそもそこまで面倒なことを個別にやることはないであろう。詐欺メールは不特定多数に大量に送りつけて、たまたま当たり(うっかり確認してしまう人)が出ればそれで成立するというものだから。

 

 テロ対策に不備があるとして操業が停止されている柏崎刈谷原発が行った、対策をしたから再開したいという申請に対して、規制委員会がまだ不備な項目があり、許可できないとした。どういうことをすれば許可されるかということは規制委員会から明示されているはずだ。まさかクイズではないから答えを隠すはずもない。それが分かっていてそれでも不備だというのはどういうことなのかと首を傾げる。

 

 この程度でいいだろうと高を括っていたのだろうか。不備に気がつかなかったのならただのバカだ。それほど関係者はバカなのか。そうでないのなら、いままではなあなあであったのではないか、という疑念が生ずる。これが原子力関係者の本質的な問題なのか、日本の劣化そのものなのか、どちらにしてもあきれ果てた情けない話だ。

2023年5月17日 (水)

世界観

 世界観などと言うと大げさだが、世の中のさまざまな出来事をどう捉えるかということで、その人の価値観のようなものだ。その世界の捉え方の根拠はしばしばその人の性格と経験の積み重ねでできあがる。もちろん読書やマスコミの言説、教育などを含むことは言うまでもない。

 

 自分にあまりかかわりのないことには人は無頓着であることが多いものだが、いまは世界のさまざまなことが同列に報じられていて、どれが自分に身近だか分かりにくく、その軽重の判別もつきにくい。そのためにどうでもいいことのように見えることに執着している人もいて、思わず我が身を振り返ったりする。他人にはわかりにくい興味のあり方であることがしばしばだから。

 

 被害妄想的に世界を捉える人というのがいる。世間の人は他人のことなどそれほど気にしていないものだが、常に自分が悪意の目で見られている、などと思っているように見える。はたから見ればそんなことはないのに、ということがほとんどだから、もしかしたらもっと好意的に見てほしいという願望の裏返しなのかもしれない。好意的に見られるためには、自分が相手を好意的に見る必要がある。それが苦手だと、時に悪意を感じてしまうのだろうか。面倒くさい人だと思われてしまえば、なかなか好意的に見てはもらえなくなる。

 

 世の中には色々な人がいて、相性が良かったり悪かったりする。万人に好かれている、などというのは誰からも好かれていないということに近い。嫌われないための努力に終始しての結果でしかなかったりする。人望が本当にある人には、必ずとことん嫌う人もいるものだ。

 

 誰でも偽善的なものを抱えている。それを指弾する自分に偽善がないかといえば、あるに決まっている。私が嫌いなのは偽善を糺弾しながら自分の偽善に羞恥をもたない人だ。そもそも気がついていないのかもしれない。それと、なにごとも損得で考える人が嫌いだ。親しくなった人はだいたいその辺の世界観が共通していてわかりやすい人たちだ。しかし世の中を見ていると、常に損得で思考する人が多い気がする。誰だって損はしたくないけれど。それでもときには損してもいいや、という人と親しくしたいと思っている。

不安と苛立ち

 不安というのはその原因が明らかなこともあるけれど、不明確であることも多い。不安を感じると脈拍は早くなり、血圧が上がるようだ。不安に身体が対応しようとしているのだろう。不安というのは、漠然とした危機に対するおそれだと思う。身体がそのような危機対応を続けると、疲労し、その疲労が蓄積して不調につながったりする。心身は一体なのだ。

 

 不安を感じると安眠が得られなくなる。寝付きにくくなり、寝覚めも悪い。私は不安をやり過ごしたり回避するのが得意な方で、だから眠りにつきにくいなどということがなかったのに、たびたびこのブログで泣き言を書いているように、十年ほど前のあるいざこざをきっかけに不眠症気味になり、時には医師の処方する軽い入眠剤を服用したりした。全てがなるようになったあとでも、漠然とした不安が心のどこかに居座って、時々考え事が止まらずに眠れなくなるようになった。

 

 酒の力を借りると、相性がいいのか心が安まり、世の中はそんなものであり、なるようになるから大丈夫、という気持ちになれる。私にとって酒は精神安定剤である。悪い酒ではないからありがたいのだが、長年の暴飲暴食の報いによって糖尿病と生涯つきあう事態になってしまった。そうなると好きな酒もほどほどにしなければならない。

 

 気持ちを平穏にするには酒があると楽で、しかし身体のためには酒は我慢しなければならない。ジレンマの日々である。自分で勝手に妥協点を判断しているが、血糖値の結果はその判断とは少しちがうようだ。

 

 今月は雑用が多くて、同時に出費も多いから、気持ちが苛立つことがしばしばある。そういうときは全て放り出して旅に出れば好いのだが、一段落するまではそういうわけにもいかない。早く全てが一段落しないかなあ。そう思っているとまた新しい雑用が増えたりするからなかなかままならないものだ。

あるべきこと

 誰もが思うような、あるべきこととすべきでないことというのがある。ところが世界ではそれに反していることが次々に起きている。それに怒りを覚えるのは自然だが、どうしてそんなことになっているのか。あるべきこと、すべきでないことが人によって少しずつ違い、それが集団となると信じられないほどの違いとなってしまうようだ。

 

 その違いが生ずる原因を考えてみると、しばしば無知や思い込みがあるように思う。こぶしを振り上げて集団で正義を叫んだからといって、それが為政者たちの考えの変更をもたらすものでなければ戦争はなくならない。そしてその為政者を為政者たらしめているのは国民である。

 

 無力感、そして絶望がテロを生む。安倍元首相の殺人者や岸田首相への爆弾投擲犯はそういう心の働きが生んだものだろう。しかも無力感、絶望感を抱くものはその心理に共感する。テロはテロを生む。だからこそテロは絶対に成功させてはならない。奈良の安倍元首相殺害事件はそういう意味でとてつもなく大きな失態だったと思う。事件の後の奈良県警の面々の組織擁護、弁明に終始する記者会見を観て、その自覚のなさにあきれ果てた。これも想像力のなさ、無知からくるものだろう。

 

 世界のありように無力であるからこそ、どうしてそうなっているのか、それを知りたいと思い、なんとか解釈しようとする。理解しようと考えることしか個人にはできることがない、というのが私の立ち位置で、だからしばしば自分が傍観者だ、と自嘲するのだ。

 

 せめて人は考えること、知識を備えることにもっと努力すれば、少しは世の中が変わるのではないかと思うが、どうもあまりものを考えない人が多いように思う。自分の考えであるかのように、他人の考えを鵜呑みにするのは楽だからだろう。自戒をこめてそう思う。

2023年5月16日 (火)

お情けがあったのに

 本日はひさしぶりに徳島から名古屋にやってきた先輩と囲碁を打ち、そのあと名古屋駅前で酒を飲んで歓談した。囲碁は二回のつもりが、私が二連敗したので三回目を打った。三回目は先輩が無理筋を打ってくれて、お情けで形勢はほとんど私に傾いていたのに、ポカをやらかして三連敗してしまった。口惜しいがしかたがない。修行が足らない。

 

 先輩は理非曲直が明快で、私のようにまあそんなこともあるな、という受け取り方が苦手な人である。話をしていると、確かにその通り、というしかないことを言うのだが、世の中がそれで治まることはあまりない。あれは良くないと言われても、それを糾すすべがないことはある。むしろすべがないことばかりである。それは私にも如何ともしがたい。

 

 頑迷な爺さんの一歩手前にいるようである。自分でできることは努力する、しかしどうしようもないことはそれをどう受け流すのか、そこにこそ楽に生きるための処方があると思うのだが、なかなかたいへんだ。

 

 三連敗はこたえた。囲碁ソフト相手ではダメなのか。たぶん囲碁ソフトは「待った」を認めてくれるが、現実の対局ではそれはあり得ない。その緩みが敗因か。重ねて口惜しい。

会話と質問

 曾野綾子の『至福の境地』(講談社)という本の中の文章から。引用が多いのは、いま読んでいる彼女の本を読み終わったら処分するつもりなので、感じたことを書き残したいと思うからだ、

 

 時々、新聞記者が他の人に質問しているのを傍らで聞かせてもらうこともあるが、これがなかなかおもしろい。新聞にせよ、雑誌にせよ、記者と名のつく人には、大きく分けて二種類の性格がある。鋭い質問を情け容赦なく浴びせて、それが記者の才気の表れだと思っているらしい人と、礼儀深く心が開かれている人と、である。後者はあまり質問をしない。しかし人間的な会話の中で自然と聞きたいことを相手に喋らせてしまう。
 鋭い質問を浴びせかけるタイプの記者は、一見切れ者に見えるが、実は本当の談話は取れない。、ということがこの頃ようやくわかってきた。会話というのは、どんな人とのあいだでも、普通は友情と誠実と尊敬の上になりたつ。もちろんそれ以外の心理で行われる会話もあるだろうが、それは人間の会話ではなく、「質疑応答」あるいは「交渉」になってしまうのである。
(略)
 人生は技術ではない。人生には誠実がいる。ただ誠実というのは、自分はいいことをしている、嘘をついてはいない、などという単純な自信に満ちることではない。誠実とは「もののあはれ」を知っていることだ。いまの若い人には分かるかどうか分からないが、別の言い方をすれば、共にこの世には哀しさがあると感じていることだ。この共感がある時初めて「シンパシイ(同情、共感)」が生まれる。

 

 私がしばしば、痛みや哀しみ、不幸を知らない人は、どんなに心やさしく見えても他人に冷たいものだ、と書くことがあるのは体験的なもので、この曾野綾子のことばはとてもよく分かる。

使う方がいい

 本日、名古屋の北側に位置するわが地では、今年初めての真夏日の気温予想である。明日と明後日はさらに高温というから、クーラーの準備をすることにする。これから長い長い夏が続くことになる。梅雨前に真夏のような陽気が続くことは毎年のことである。天気もたいてい良いから、東北にでも出かけたくなる。新緑の中を走り回るのはとても気持ちが好いものだ。しかし今年はいろいろと忙しいし、物入りもあるので迷ってもいる。

 

 散歩を心がけるようになってひと月になるが、少しずつ体調が良くなり、体力も回復しつつあるのを実感している。身体は動かす方がいいようだ。機械でも動かさないでいると不具合が起こることがあり、寿命も縮まる気がする。むかしの菅江眞澄などをはじめとする紀行文を読むと、とにかくよく歩く。歩くか馬に乗るしかなかった時代だから当然といえば当然だが、それが死ぬ少し前まで普通に長距離を歩いているのに驚く。歩けなくなると、まもなく死ぬ、という様子だ。

 

 歩くのは全身運動であり、しかも脳にも好いのだということを先日テレビで観た。以前なら、いささか疑わしく観たかもしれないが、いまはそうかもしれないと思っている。

 

 いまの懸念は少し右へよれる傾向があることだ。身体の平衡感覚が狂っているらしい。自分の撮った写真を見ても、いつも少し傾いてしまうのは、何か関係があるのかもしれない。こればかりは散歩だけでは改善してくることがないようだ。

 

 片足立ちを意識して行うことは、バランス感覚の改善に効果があるという。いまは片足立ちをしようとしても、数秒と保たずによろけてしまう。意識してことあるごとに片足断ちを続ければ必ず効果があるそうだから、これから心がけようと思っている。筋力だけでなく、感覚も良くなるとありがたいのだが。

2023年5月15日 (月)

トルコの大統領選挙

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 最後に行った海外旅行がトルコだったので、トルコのニュースには強く興味を惹かれる。もともと明治以来トルコは親日的だと知らされてきた。好意を持ってもらえばこちらも好意を抱くものだ。日本同様ロシアの圧力を受けていたトルコは、日露戦争に日本が勝ったことをことのほか喜んだというし、和歌山県の串本の向かいの大島沖でのエルトゥール号の遭難事故救援については、トルコでは教科書で取り上げられて多くの国民が知っている。だから観光地でも、日本人というと多少優先的な扱いを受けた。

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 だいぶ前だが、トルコがまだ大統領制ではない頃、エネドゥアン首相が経済的な成長に成功して、だんだん権力を高めていた。たまたま飲み屋で隣り合わせになった、日本に留学中だというトルコの女性と話をした。彼女は、エルドゥアンはいまに独裁者になる、と予測して、トルコの将来を心配していた。イスラムの国でありながら自由と民主主義の国でもあったのに、宗教色を強めていたエルドゥアンにいささか危惧も覚えていた。

 

 今回の大統領選挙は決着がつかずに再選挙になりそうな気配だ。エルドゥアンの強権が否定されることはふたたびトルコの国民の宗教からの自由が戻るということであることだから歓迎しても好いように思うが、強権で国がまとめられなくなると国が不安定化するおそれもある。それでなくともトルコには難民が大量に押し寄せているところだから、不安定化は結局国民を不幸に陥れることになるおそれもある。国民が不満に思っている地震やインフレは、直接的にエルドゥアンのせいというわけでもない。再選か新大統領の誕生か。どちらが好いのだろう、よその国のことながら思い入れがあるので気になっている。

周恩来と毛沢東

 『周恩来秘録』上下巻(文藝春秋)という本を読み始めている。まだ上巻の三分の一ほどを読んだだけだが、そこまでで中国共産党が産声を上げた時代から、毛沢東がその主導権を握るまでの周恩来との関係が分かりやすく描かれている。これ以降はこの本のテーマである、「大躍進」での毛沢東の失態、その巻き返しとしての権力闘争である「文化大革命」での周恩来と毛沢東の役割が描かれていくようである。

 

 『周恩来秘録』とあるように、周恩来にスポットライトを当てているのだが、しばしば周恩来は影であり、毛沢東が脚光を浴びるのはその人物の性格から自然の成り行きになる。この本の著者である高文謙という人は、もともと中国共産党本部の研究家で、極秘文書を閲覧することのできる立場だったが、天安門事件で民主化を支持したことにより、アメリカに渡ることになった人である。だから公的な中国政府の発表する歴史ではなく、かなり事実に基づく記述となっているようだ。

 

 文化大革命については、いったい何があったのか、そのことを知りたいと思い続けて、さまざまな本を読み続けている。今回も結局そのことの周りを廻る歴史回顧になりそうだ。そして周恩来という人物についての新しいイメージを知ることになるのかどうか。楽しみだ。

ワリカンとおごる文化

 昨日の千葉からの帰路は日曜日だったので、トラックが少なくて渋滞もほとんどなく、途中で断続的に激しい雨に降られたこと以外は快適に走ることができた。しかし、さすがにいささか疲れた。気になりながら、ひさしぶりに丸一日ブログの更新をサボったら気持ちが多少楽である。こういうものは習慣でやり続けているから出来ることで、楽をして書かずにいるとまた書き出すのに助走が必要になる。無理に書くことと楽しみに書くことのあいだで、適当にやればいいと改めて思う。

 

 曾野綾子の『至福の境地』(講談社)という本を読んでいて、こんな文章に出会った。

 

 昔と比べて日本人の心が貧困になったことの表れは、むしろおごろうとする年長者がほとんどいなくなったことかもしれない。
 私も若い頃は、取材費や食事代は出版社や新聞社に出してもらっていた。当時はお金の余裕もなかった。しかし四十代の半ば過ぎからは取材は自費に決めた。行ってみてそのテーマを棄てるかもしれないのだから、お金を出してもらわない方が心の自由があった。
 その上、近頃はもっとすばらしい条件が加わった。私はたいていの場合、誰よりも年長になったので、おごっても当たり前になったのである。
 そんなことを言うと、また時々ぞっとするようなことを言う人に会う。
「仕事がほしいから、おごるんですか?」
 こういう発想しかないのだ。

 

私もぞっとする。損得でしか考えられない人がますます世の中に増えているのだろうと思うからである。

 

 日本では当たり前のワリカンという支払いのしかたが、世界では珍しいという話を聞いたことがある。本当かどうか知らない。ワリカンにも厳密なもの、つまりピタリと正確に人数割りするものと、女性や若い人、酒をあまり飲まない人を少なくして、目上が少し余分に出すというワリカンである。

 

 そのファジーなワリカンを任せたとき、少ない人に失礼でもなく、余分に出す人に不快を感じさせることもない割り振りができる人間は仕事が有能である。意外と頭が必要なのである。皆がこんなものだろうと思う落としどころの範囲を見極めることは、バカではできない。ただ、それはその場の人間に共通の基盤みたいなものがないと出来ないことでもある。日本は他国よりもそういう基盤のある社会だということかもしれない。そして日本もそういうものが失われつつあるということもあるかもしれない。

 

 おごるという行為の中に功利的なものがあるのかないのか。全くないとはいえないだろう。大人であれば、貸し借りの感覚というものはある。だから借りは何らかの形で返そうと、意識的にか無意識的にか心の働きは生ずるだろう。しかし、おごるという行為には先送りという感覚も多分にある。おごってくれた人に返すのではなく、おごれる年齢や立場になったら、次の世代に自分がおごるのである。いままではそれが自然に行われてきたように思う。

 

 ところが損得感覚ばかりになると、先送りはあり得ないことになる。自分がおごったことのお返しは先送りされて、自分には返ってこないからである。そういうことがたえられないからおごるという行為が減っているのだろうか。

 

 微妙な人間関係を安定に保つためには頭の働きが必要なのだが、そういうことが煩わしかったりそれだけの知性の働きができない人が増えてしまったことを、曾野綾子は「心の貧困」と言ったのかと思う。

2023年5月13日 (土)

16人

 本日の父の十三回忌の法要は、兄弟孫ひ孫取り混ぜて総勢16人の参列だった。ひ孫の中には大学生もいる。わたしの子供たちも含め、参加できなかった孫たちも入れると、父の残した係累がこれだけ大勢いるということにいまさらながら感激する。お坊さんも十三回忌でこれだけそろうのは珍しいと言った。

 

 精進落としのあと、そのまま一同が弟の家でくつろぎながらいろいろな話をした。久しぶりに会うものも多いから話が盛り上がる。

 

 お寺に向かうときは強い雨が降っていて、お経を聞いていたあいだも強い雨音を聞いていたのに、いざ墓の卒塔婆を新しくして、線香を上げる段になったら雨がピタリとやんだ。だから傘は必要なかった。弟夫婦は今日が雨の予報だったので、昨日のうちに墓の周りをきれいにしてくれていた。弟の孫たちは会うごとに大きくなっている。わたしのことを忘れずにいてくれて嬉しい。

受け入れざるを得ないか

 75歳以上の医療保険料が収入に応じて引き上げられるという。いままで手厚すぎるくらいであったと思うので、しかたがないという気がする。マスコミや野党はいつものように保険料が上がって生活できないと言い立てる人を探し出して弱者をいじめる措置だと反対するだろうが、ほとんどこの世代は払う保険料よりも医療費を使っているのではないかと思う。その負担が増えるのは不公平なこととは言えないのではないか。税金や公的負担は増えないに越したことはない。しかし受益に応じたある程度の負担増なら、受け入れざるを得ないだろう。それに日本はどうしても生活が成り立たない人に対しては、一定のセーフティネットが働いている国だと思う。

 

 マイナカードのトラブルが報じられている。こんな間違いがこれだけあったという報道が伝えられているが、それが人為的ミスなのか、それともシステム上の不具合であるのかが判然としない。人為的ミスならば、入力ミスなど人が関わる部分で発生することはしかたがないから、個別に修正すればいいことだ。しかしシステム上に問題があるとなると、これは誰にでもトラブルが起きるおそれがあって深刻だ。F通だかどこだかがシステム構築したらしいが、銀行のシステム障害の時にもその名前を聞いたような気がする。

 

 先進国ではすでにこういうシステムがずっと前から実用化されていて、日本は遅れていたらしい。他の国でもトラブルはあっただろうはずだがトラブルで後戻りしたという話は聞かない。早く解決して欲しいが、そもそもの原因があいまいでは不安だけがつのって、マイナカードに対する不信感ばかりが増大してしまう。マスコミのあいまいな報じ方は不信感を増大させることが狙いなのか。できれば原因と対策を分かるように報じて、対処はこのようになされるはずだから安心だ、と報じてほしいものだ。

 

 批判は必要なことだが、ことさらに不安を煽ると社会の安定を損なう。マスコミはそんなことは望んでいないはずで、報じ方はそこまで意識して欲しいと思うが、高望みだろうか。

 上の記事は昨晩下書きしてあったものだが、今朝のNHKのニュースによると、マイナカードの問題は、誤入力によるものだったと報じていた。人為的なものだったらしい。それならとりあえず心配は軽減する。

2023年5月12日 (金)

弟と散歩

 朝早めに出発したので午後早めに千葉の弟の家に到着。新東名も東名も工事とトラックが多いのはしかたがないが、まずまず順調に走ることができた。まず両親の位牌にお線香を上げる。そのあと弟夫婦と最近の消息の情報交換。晩のお酒を美味しく飲むために、一汗かこうと二人で散歩に出る。六千歩あまり、風があるので汗はかいたが気持ちが好い。以前二人で歩いたときは弟についていくのがたいへんだったが、今回はわたしの方が足が速いくらいだった、とはいえ最後は弟の方が早くなった。

 これから一風呂浴びてビールを飲み、津和野で買ってきた『初陣』の純米吟醸酒を楽しむことにする。

 

仮面強盗

 今回の銀座の仮面強盗からある大好きな映画を思い出した。あの仮面はまるでアノニマスのようであったが、わたしの思い出した映画の仮面強盗は歴代のアメリカ大統領の仮面だった。その映画は『ハートブルー』という。主演はパトリック・スウェイジとキアヌ・リーブス。その前にもこの二人を映画で観たことはあったが、名前とその個性を強烈に印象づけてくれた映画だった。

 

 パトリック・スウェイジといえば、あの名作『ゴースト/ニューヨークの幻』で登場そうそうに殺されてしまい、幽霊となって恋人(デミ・ムーア)を守っていた。この映画も好かったけれど、『ハートブルー』はもっと好い。そして彼が主演した、インドが舞台の『歓喜の街』(いまは『シティ・オブ・ジョイ』という映画名となっている)という映画もすばらしかった。若くして亡くなったのはまことに残念である。

 

 パトリック・スウェイジのグループが仮面強盗団ではないかと疑われ、新人のFBI捜査官(キアヌ・リーブス)がそのグループに潜入捜査に入る。そのグループはほとんど命を捨てて生きることを楽しむようなグループで、生死の境目のギリギリを生きている。目のくらむような危険なシーンの連続の映画で、忘れがたい。髪がボサボサでむさ苦しい男は大嫌いなのだが、このパトリック・スウェイジと、カート・ラッセルだけはそれが格好いいと思ってしまう。
 
 今回の現実の強盗団は、まことにお粗末な連中であるが、たまたま連想のきっかけを作ってくれた。『ハートブルー』をもう一度観てみたいが、録画してあったかなあ。

過敏

 今朝はこれから千葉へ出発する。父の十三回忌は明日(命日は二十日)。きちんと礼服を着てお寺で法要をして、そのあと家族で精進落としをする。雨でなければいいのだが。

 

 ガスレンジとレンジフードの交換について、マンションの管理室から注意があったそうだ。多少なりとも大きな音がする可能性がある場合は十日以上前に連絡が必要だという。わたしの棟で音に過敏な人がおり、少しでも大きな音がすると、異常な抗議があっていつも騒ぎになるそうだ。フローリング張り替え、風呂の工事などは長期間大きな音がする。そのときはよくよく説得し、その人は工事期間中はホテルなどに退避するという。わたしの工事は一日で済むはずだけれど、事前に説明して待避してもらうそうだ。

 

 あああの人か、と思い当たる人がないではない。その人にとってはたいへんな苦痛なのであろうが、はたにはたいへんな迷惑でもある。来週くらいに工事をしてもらい、きれいな台所で料理することを楽しみにしていたのに、結局月末になりそうだ。それにしても地震などの非常事態の時にはたいへんな騒ぎになるであろうが、そういう人はどうなるのだろう。案外うるさくてもけろりとしていたりして、あれこれ別の苦情を言い立てているかもしれない。

2023年5月11日 (木)

民主主義

 養老孟司の『本質を見抜く力』という本で、対談相手の神門善久という農業経済学者がこんなことを言っている。

 

 民主主義の構成要素には二つあって、一つはプライベートライト、私権の主張です。もうひとつは参加民主主義、つまり市民同士の利害が対立する身近な公益性の高い問題については、行政任せにせずに市民が積極的に行政に加わる権利と義務を負うというものです。(略)
戦後民主主義で何をやったかというと、前者の私権の主張だけを先行させた。もちろん、最初のうちは私権の主張も命がけだったと思います。各種の公害訴訟がその例です。
 しかし私権の主張は、まだ、真似がしやすいのです。本当の民主主義は、私権の主張と参加民主主義がセットになっていなくてはなりません。

 

 なるほどとも思うけれども、ピンとこないところもあるかもしれない。

 

 並行して読んでいる曾野綾子の『不幸は人生の財産』という本に面白いことが書いてあった。

 

 東日本大震災の後、多くの土地で電気が止まった。民主主義が一時停止したのである。電気がないところには、正常な形での民主主義はないのだから、瞬時のうちに、あちこちに族長支配の形態のひな形のようなものが生まれた。
 役場は流されても町長さんが生きていて指揮を執ってくれればいいのだが、亡くなった町もある。町の主だった人の多くが行方不明の町もある。あたりは瓦礫だけ。ライフラインは復旧の気配も見えない。皆、個別に才覚で生きる他はなくなったのだ。
 そのような時、しかしあちこちで小さな指揮官が現れる。病人を運ぶグループで命令をする人、あたり一面に散らかった廃材を燃料に、自分たちの食事だけは作ろうという女性たちのグループにも、自然におばさんの指揮官が生まれる。これも一種の族長支配の形だ。
 彼らは選挙で選ばれた人たちではない。しかし電気が止まると、必ずこうした民意の任命制だけで即座に選ばれる支配者が出る。

 

 危機で放心したりうろたえている人には役割を与えると良いのだという。しなければならないことがあると、人はしゃんとする(しない人もいるが)。ここで曾野綾子は族長支配、などといっているが、これこそが参加型の民主主義という形態ではないのか。危難の時に、政府の支援が遅いとか、パンしかないのが不満だとかやたらに不平不満を言う人間がいた。平時ではないのであるから、自分が我慢しなければならないということが理解できていない人であろう。いわゆる私権の主張しか念頭にない人である。みずからが何かの役割をしなければならないということが理解できないというのは戦後民主主義教育の不備であろう。

 

 マンションでの、定期的に回ってくる公的役割を平然と拒否して、何の疑念を持たない人を目の当たりにした。参加を拒否して何が民主主義か、と思うが、そういう人ほど私権の主張が声高である。日教組的な教育の成果ここに極まれり、といえば、またかと思われるだろうか。異常なクレーマーやモンスターペアレンツなど、文字通り化け物と化した者たちを産み出したのは誰か。それこそが民主主義の敵ではないのか。

格上との勝負に備える

  いま二種類の囲碁ソフトと対戦を繰り返して少しでも勝負勘を取り戻そうと、泥縄式にジタバタしている。来週、四国の徳島から、ちょっと年上の先輩がわたしを訪ねてきてくれるのだ。むかし三十代のころ、一緒に名古屋の営業所にいて、ときどき碁盤で向かい合った。当時は碁敵がいろいろいて碁を打つ機会は多かった。その先輩はわたしより少し強い。生まれ故郷の徳島に帰ってからは碁敵もいて、かなり研鑽を積んでいる模様であり、人間相手の実戦をほとんど打っていない私とは格差が開いているものと思われる。

 

 約束の日には昼過ぎに名古屋駅近くの碁会所で待ち合わせする。そこはずいぶん昔、プロの棋士に指導碁を打ってもらったことがあるところだ。ボロボロにされたけれど、あのときの、集中して頭に血が全て上がった経験は忘れられない。そういう経験をすると、少しだけ強くなるようだ。

 

 今回は先輩にガッカリされないように、ちょっとでも実力を上げておこうと囲碁ソフト相手にザル碁を打っているのだが、はたして勝負はどうなるのであろうか。

エコーで視る

 昨日は泌尿器科の定期検診日。新しい医師は若くて元気で声が大きくて気持ちが好い。丁寧な問診があり(前の先生ははっきり言って雑だった)、検尿の検査結果についての、これも丁寧な説明があった。棲みついてしまった慢性菌は相変わらず検出されているので治療は続けなければいけないのだという。初めてなのでエコー(超音波)を視ましょうという。膀胱は問題なし、前立腺は年齢相応で(つまりガタは来ているが治療を考えるほどではない)、こちらも特に問題なしとのご託宣であった。

 

 病院への行きも帰りも足がとても軽い。散歩を続けている効果が感じられる。片道にかかる時間がちょっと短くなり、歩数は一割ほど減っている。もう少し時間短縮ができるようにしたい。歩く速さと老化は相関していると思う。かねてから約束していたので、月末にでも犬山の先輩と飛鳥へ行こうかと思って連絡した。

 

2023年5月10日 (水)

普遍性のある学問

 養老孟司の対談本『本質を見抜く力』(PHP新書)の中にこんな一文があった。

 

 生物地理という分野がありますが、専門にしている人はほとんどいません。むしろアマチュアの方が一生懸命です。研究対象がローカルですから。
 地理学のような、いわゆる博物的な学問が、徹底的に貶められているのです。虫を研究する講座なんてものもあまりありませんから、結局アマチュアがやっているわけです。下から積み上げていく、そういうタイプの学問は非常に大切なのだけれど。
 逆に演繹的な社会科学などがもてはやされています。社会科学はしばしば恣意的な学問になり、自分が書いた筋書きに都合が悪い要素を全部無視する。マルクシズムは典型だったと思います。
 一方帰納的にしたから積み上げる学問は普遍性を得ることができる。間違っていれば、現実に戻せるわけですね。僕らの世代は戦後になって社会科学を教わりましたが、僕は勉強する気はありませんでした。いわゆる革命史観に基づいた学問でしたから。

 

 いま朝ドラで牧野富太郎が主人公として取り上げられている。まさに彼は博物学者そのものである。そういうものが無視されてきたことによる社会のゆがみを見直すべきだという何かが動機になっているのかもしれない。何しろ損得をいえば、博物学は損で、社会科学は得になるらしい。わたしも大学時代に社会学というのがどんなものか識りたくて講義を受講したが、結局方法論に終始していて、ではその意味は何か、最後まで分からずじまいだった。やはりわたしは、観念ではなく、ものに還元して考える科学系の人間なんだと思う。

ニュースなどから

 昨日の対ドイツ戦勝記念日でのプーチンの演説は相変わらずだったが、侵略を祖国防衛の戦いだと強弁する姿にヒトラーが重なって見えてしまう。ロシア国民は心のなかでどう思っているのだろうか。

 

 銀座の白昼強盗団の若者達について、マスコミやコメンテーターはその粗雑さ、愚かさをしきりにいうけれど、海外での掠奪はともかく、日本では今までに例がないこのような何でもありの犯罪が出現したことについて、日本という国の劣化を感じたというコメントを聞かないのはどうしたことか。あれを見て、自分ならもっとうまくやる、と考えた者が必ずいる。一度あったことは必ず繰り返される。

 

 中国の経済が急速に回復していると中国政府は統計値を元に高らかに謳う。それが事実なのか粉飾の統計値なのか、専門家によって見方が全く違う。わたしは中国は土地バブルがはじけはじめていて、深刻な状態に陥りつつあるのではないかという見方に与したいが、それがそうであって欲しいという気持ちから発したものだということは承知している。

 

 昨日はガスレンジとレンジフードのメーカーからの納品予定とそれに基づく設置見込みの連絡をもらうことになっていたのに、待てど暮らせど連絡がない。夜になって一杯飲み始めたころになって、ようやく電話があった。メーカーからなかなか確認が取れなかったのだという。入荷の確認が取れたので来週後半にでも工事できるというが、ガス会社の都合を調整しないといけないというので、希望日を答えておいた。

 

 本日は泌尿器科の定期検診日。また病院に行かなければならない。蛇口のがたつき、緩みはどうしようもないが、さいわい今のところ排尿痛、排尿困難などの症状は見られない。検診の曜日も変わり、医師も代わる。

反対は改正否定

 入管法には問題があるらしいことを国民の多くが認識した。だから内心必要がないという意見の多い与党もやむなく改正をすることにした。すくなくとも以前よりも難民にとって良くなったと思うから、維新の党や国民民主党も賛成したのだと思う。しかし当初からこの改正案に立憲民主党は反対した。不備があるからだという。

 

 不備はどんな法案にもある。しかし現状に問題があればその問題が少しでも改善されるような法案は否定すべきではない。法案が否定されればどうなるか。現状のままではないか。自分の思い通りでないから全否定、というパターンの繰り返しで党を沈没させてきたのが旧社会党だ。その旧社会党の生き残りが多く在籍しているのが立憲民主党で、再び三度その愚を繰り返している。

 

 まず改善を認めた上で改正案に賛成し、しかる後にさらにそこに残る問題点を訴えて、さらなる改正を求めるのが正しい姿ではないか。改正を否定することの意味がわたしには理解できない。改正すべきではないと主張しているとしか見えないではないか。

2023年5月 9日 (火)

読み散らかす

 処分するため(一部は残すつもりだが)に曾野綾子の本を片端から読んでいる。読み飽きないのは、同じことが繰り返し書かれていても、そのたびに彼女の経験と年齢、時代背景で、いいたいことが少しずつ深みが増しているように読み取れるからだ。それはこちらが年齢を重ねてきたということもある。同じ本を二十年前に読んで感じたことと、いまではちがう気がする。

 

 合わせて養老孟司の本を出版が古い順から読み直している。これも曾野綾子の本と同様で、思索が深まり、そのためにかえってシンプルになっているように思う。彼のレトリックが理解できるようになってきたのは、読み慣れたからだけではないだろう。

 

 気分を変えるために張岱という明末の人の随筆を、漢和辞典を横に置いて註釈も含めて一日十ページから二十ページずつくらい丁寧に読んでいる。本文よりも註釈の方が多い本で、いままではそこを雑に読んでいた。

 

 中国に関する本は本棚のかなりの部分を占めていて、つい奥野信太郎の随想全集などを引っ張り出して読み返したりしている。読み出すと止まらなくなる名文集なのだ。さらに未読で棚にある『周恩来秘録』などという本を読み出してしまった。こうして読み散らかしているうちにまた収拾がつかなくなっていく。

 

張岱の『陶庵夢億』の中の「不二斎」という一文から

 

(前略)
 四方の壁には棟から床まで図書がぎっしり積んである。(略)私は左手に石牀と竹几をすえ、紗(うすぎぬ)の帳でこれを囲って、蚊や虻をふせぐ。緑が小暗く紗を透かして忍びこみ、わたしの顔まで碧(あお)に染める。
 夏は建蘭と茉莉の花が咲き、その香沢は人を襲い、衣裙にまで沁み入る。
 重陽前後になると、菊を北窓の下に移す。菊の鉢は五段に高く低く列べる。明るいその色彩は日光にキラキラ輝いて、まるで秋水の中に沈んでいるようだ。
 冬になれば梧桐の葉が落ち、臘梅が咲く。暖かい日には日向ぼっこをする。紅々と炉の火をたき、毛氈を敷く。崐山石に水仙を活けたのを石段に列べる。
 春ともなると、四壁の下はみな山蘭だ。檻杆(らんかん)の前には芍薬が半畝ほど、種類の変わったのが多い。そうした中にわたしは何物にも拘束されず、勝手気ままに好きなことをして暮らし、暑いときも寒いときもめったに外出することはなかった。いまから思えば隔世の感がある。

 

奥野信太郎『随筆北京』の中の「書肆漫歩」から

 

 北京は静かな美しい町である。槐樹と柳と楡が鬱蒼と茂った町である。夏のころは合歓の花が淡紅く(うすあかく)牆壁のところどころを彩り、空には白い鳩の群が銀粉を撒らしたように輝きわたる。大きな城壁に囲まれたそのなかに、宮殿や並木道や彫像が、整然と左右相対に配置された、すばらしい構想をもった図案だといえば間違いない。夕方になると娘たちは晩香玉や茉莉花をかたちよく結んで胸に飾っては、王府井や北海を散歩しはじめる。その姿は実に美しい。

 

 うっとりするほどいいと思いませんか。

迷惑

 学生時代、大きな寮で暮らした。百八十人あまりいた寮生で、最後までたばこを吸わなかったのは私だけだった。たばこの煙で空気が霞むような中にいたから、ほとんど吸っているのとかわらなかったが、いくら勧められても吸わなかった。半分意地である。就職してから試しに吸ってみたことはある。長い間濃厚な副流煙の中で暮らしたおかげで、むせることもなく普通に吸うことができたが、ちょっとクラッとした。どこがいいのか分からなかったので、それきりである。

 

 たばこを吸っていた友人知人達で、いまでも吸っているのは友人一人だけ。一度はやめたのにまた吸い出した男だ。会えばやめろと言っているが、もうやめる気はなさそうだ。ふたたび吸い出したときの事情が分かっているので腹は立たない。

 

 ほとんどたばことは無縁で生きている。たまに誰かが近くで吸っていると、臭いですぐ分かる。敏感になっている。マンションのベランダを開け放っていると、風向きによってときどきたばこの臭いがすることがある。上下か隣の人がベランダでたばこを吸っているものと思う。家の中で吸うと怒られるのでベランダで吸っているのだろう。そういうときの煙はなんだか腹が立つ。迷惑だと思う。

 

 迷惑といえば、このごろ迷惑メールが増えている。メールアドレスが洩れているのだろう。Amazonを騙っていると思われるものが頻繁に送られてくる。アカウントが洩れているから再確認が必要です、とか、荷物が送られていません、など、手を変え品を変えてさまざまである。認証がないと停止しますとまで繰り返し警告してくる。勝手にしたらいいと思う。Amazonでダメならほかにもいくらでもネット注文はできる。発注していない荷物が着かなくても差し支えない。

 

 Amazonだけではなく、ここ数日は、イオンカードから、そしてオリコカードから、そしてUCSネットーサービスから、そしてETCサービスからなどというのが送られてくる。再認証を促し、アカウントを確認せよという。そもそももっていないカードばかりである。ただ、ETCについてはAmazon同様、迷惑メールに仕分けられたりすり抜けたりしていて、気持ちが悪い。アップグレードする必要があるそうだ。なんだか本当らしくもあるので、一度ディーラーを通して確認してみようと思う。しかし、こういうのに引っかかる人もいるのだろうか。少しでもいるから、こんなことを続けるのだろうなあ。しつこいなあ。迷惑だ。

風は変わったらしいが

 岸田首相が韓国とのシャトル外交から帰国した。岸田首相訪韓について、韓国でそれに歓迎の意を表す団体と反対する団体が、隣り合わせで互いの主張を述べているのをテレビの報道で見た。まず反対する団体の映像が映され、ついで歓迎する団体の映像が映されていたが、団体の数が明らかにちがうように感じた。反対する、いわゆる革新系の人たちの数がわずかしかいないように見えた。

 

 歓迎する方がずっと多いように見えたが、全体を俯瞰するような広い画角の映像がないので、確かなことは分からない。そこで感じたのは、日本のメディアにたいする違和感である。いままでも慰安婦像前の二三十人をあたかも数百人数千人であるかのように勘違いさせかねない報じ方を繰り返してきた。今回も、日本のメディアなら歓迎する側をまず報じ、ついで反対する側を報じるのが普通であろう。韓国のメディアならするであろう報じ方を日本のメディアが行っているように感じた。

 

 私に見えた岸田首相歓迎と反対の数の差に、韓国の日本に対する感情的なものが変わりつつあるように思ったがどうだろうか。そのためには賛成団体と反対団体の全体を映すものがなければならないのに意図的に分からないようにしているようにしか思えなかった。それを正しく伝えられない日本のメディアは相変わらずだなあと思う。

 

 さまざまなところで、韓国の人がいままでの反日の異様さを公言することが増えている。いままであればそんなことをすれば身の危険もあったと思うし、いまも必ずしも大丈夫とは言いかねるのだろうが、それでもあえてそれを語るということは、韓国で風が変わったと見ていいのではないかと思う。韓国がそのような反日教育を続けてきたことをアメリカのメディアに韓国人が寄稿したというニュースも観た。私は若い人ほど過去の事実を知る機会がないために、教育で刷り込まれた反日がより強化されたと思っていたが、どうなのだろうか。

 

 とはいえ風は風である。風向きはまた変わることもある。

2023年5月 8日 (月)

プリンセス・ミチコ

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本日の祝杯をビールとワインで挙げようと思っていたが、息子夫婦から手土産で持たされたお酒があった。

広島県竹原の中尾醸造というところの酒で、その名もプリンセス・ミチコという純米吟醸酒。プリンセス・ミチコといえば、美智子上皇后が妃殿下のときにイギリスから献呈されたバラの花の名前である。その花から東京農大が分離抽出した花酵母を使って作った珍しい酒なのである。限定酒で手にはいりにくい。それをわざわざ手に入れてくれたのである。

ほのかに花の香りのするお酒をいただいて73歳の誕生日を祝う。贅沢だなあ。幸せで涙が出そうだ。

一安心

 いつもの女医さんが新しい女医さんに替わっていた。病院の糖尿病内科の担当医は常駐ではないので、一二年、早いと半年で交替する。前の女医さんは一年弱だった。新しい女医さんは今まで以上に小顔の美人である。マスクをはずしてもたぶん美人だと思う。丁寧に挨拶される。

 

 血糖値は半年前の(糖尿病患者としては)良好な数値に下がっていた。「ずいぶん良くなりましたね。自分で何が良かったと思いますか」と訊かれたので、散歩を心がけていることをいう。「それは良いことです、暑くなってきますが、脱水症に気をつけて続けて下さいね」とにっこりとされると、ガンバル気になるではないか。

 

 今日はいつになく混んでいて、予約時間が押して帰りが遅くなった。次回は早めの予約時間にしてもらった。当然薬局も薬が多いから時間がかかった。腹ぺこである。急ぎ足で帰って、朝昼兼用の食事を摂ってからスーパーへ買い物に行き、ビールも買う。あると飲んでしまうので、ビールは検査結果が出るまではお預けにしていたのだ。ひさしぶりのビールは旨いだろうなあ。夜の祝杯が楽しみだ。ずいぶん長いこと誕生日は独りで祝杯である。それでいいのだ。

 

 ガタは来ているけれど、一応生活に支障なく暮らしていけている。長持ちさせるかどうかは自分の責任であるし、引き受け手も自分しかいないのだ。

査定

Dsc_9306津波みたいな雲

 明け方に起きたら雨はやんでいて、厚く雨雲は空をおおってはいたが、西の空はその雲にも切れめができて、明るくなっている。今日は糖尿病検診で病院に行く日だが、これなら傘をささずに行くことができる。

 

 糖尿病は完治することが困難な病気で、悪化しないための養生に努めることが必要な慢性病である。糖尿病検診は、生活をどれだけ律して生きたかの定期的な査定のようなもので、私はある程度ながら医師の指導に従っているのでその査定はおおむね悪くなかった。

 

 それなのに前回は数年ぶりの悪い査定が下された。風邪をこじらせたあとの病み上がりで、体重も大幅に減っていたし、酒もほとんど飲まない日々のあとの血液検査の結果が悪いというのは心外なことだった。喉の痛みを緩和するためにのど飴をなめすぎていたということで理由づけしたけれど、釈然としていない。今回は旅で美味しい料理と酒をいただいた日々があったので、同じように悪い結果が出るおそれがある。

 

 hA1c(ヘモグロビンエーワンシー)という血糖値の指標は、検査前一ヶ月の食生活が反映する数値なのである。だから検査前に泥縄式に休酒したり節食したりしてもにわかには改善しない。ただ、散歩を続けたおかげで、リバウンドした体重は当面の目標値に戻っている。はたして結果はどうだろうか。せっかく減らしてもらった薬がまた増えたりしないことを願っているのだが。何より女医さんの残念そうな顔を見るのは哀しい。今回の女医さんはおとなしくて優しく、笑顔が好いのである。親身で心配してくれている気がする・・・と私が勝手に感じられるところが好感が持てる。

 

 今日の診察はいつもより一時間ほど遅い予約なので、ゆっくり出かける。空腹時血糖も測るので、昨夕から絶食していて腹が減った。今日五月八日は私の誕生日、帰ったらささやかながら誕生祝いの料理を作ってワインでも飲もうと楽しみにしている。これで査定の評価も改善していれば何よりなのだが。

2023年5月 7日 (日)

季真

 季真は唐の詩人賀知章の字(あざな)。玄宗に李白を推挙したことでも知られる。晩年、隠居を願い出て故郷に帰る。そのときに詠んだ詩は有名である。書き下し文を記す。

 

  幼少にして家を離れ、老大にして回(かえ)る
  郷音(きょういん)改まるなく毛鬢(もうひん)  衰う
  児孫相見て相識らず
  笑って問う 客は何処から来たれると

 

 特に註釈の必要もないだろう。リップ・ヴァン・ウィンクルか浦島太郎の心持ちか。賀知章の故郷とは紹興であり、時代は違うけれど、張岱や魯迅と同郷である。紹興には賀少監祠という賀知章を祀った祠がある。

 

その季真について、張岱が逸話を紹介している。

 

 季真があるとき王という薬売りの老人に会って、昇天の術を教えてもらいたいと求めて、珠を送った。その老人は、餅売りが通りかかったのを見て、その珠をやって餅と代えようとした。季真は口に出してこそ言わなかったが、ひどくそれを惜しがった。すると老人は、「ケチな根性が除かれずにいて、昇天の術もないでしょう」といって、その珠を突っ返して行ってしまった。

 

ここからは張岱の評

 

とすれば、季真はたかが富貴利禄中の一人だったにすぎぬ。『唐書』の中に彼を「隠逸伝」に入れているのは、不倫も甚だしい。

 

 張岱は富貴の身から無一文になって、富貴であることの空しさも承知している(と思っている)。だからこの逸話にこのような酷評をしているのだろう。しかし、そう酷評する張岱のこだわりにこそ張岱の過去への執着の燃えかすのようなものがうかがえないだろうか。そのことも含めて、悟りきれずに俗人である張岱が好きだ。俗人だからこそ過去の栄華の夢幻(ゆめまぼろし)を語ることができるのだと思う。

 長かったG.W.も今日で終わり。各地へ出かけていた人たちも、多くは今日は家でゆっくりしているだろう。今日は雨。休養のための雨にも思える。こちらは毎日がG.W.だから他人事ではあるものの、ひと息つく区切りの雨の気分でいる。

 

 大きな地震のあった能登には無情の雨だろう。破損した家屋にも雨が降りかかる。片付けをしている人たちにも雨が降る。たびたび訪ねている場所だから、ひとしお災害に遭われた人たちへの思いがある。珠洲でよく泊まる宿(先月も泊まったばかりだ)の目の前が見附島で、その形から地震で崩落があったのではないかと懸念していたが、ニュースでその一部が崩れた様子が崩じられていた。

 

 2007年にも能登では大きな地震があり、家屋の倒壊や死傷者があった。その少し後に年上の友人と能登を訪ね、輪島近くの門前町の民宿に泊まったことがある。そこまで行くあいだ、そしてそのあとにも片付け途中の倒壊家屋をいくつが見た。それと同じようなことになっているのだろうと想像している。そのときは半島先端は崖崩れが多発して道路が寸断しており、通行できないところがたくさんあった。

 

 門前町の民宿では、忘れられない体験をした。母子でやっている木賃宿のような民宿だったが、その息子の方が明らかに精神疾患者で、異様な言動のために珍しい体験をした。後にも先にも最悪の体験だったが、そういうことがあったから、それと較べればどんな宿もあれよりはマシだと思える。

 

 能登の地震の様子を見ながらそんなことまで思い出していた。

2023年5月 6日 (土)

よしとする

 今日から三日間雨の予報だったので、昨日までせっせと散歩を続けてきたが、いささか膝や腰に疲れが来ているのでここで一休みと決めていた。ところが今朝は曇り空に青空が覗いているではないか。迷ったが、予定通り身体を休めることにした。それに月曜日は糖尿病の定期検診で、片道20分の病院への往復があるから、雨でも歩くことになる。

 

 昨日、車に置いておいたタオル七八枚と、山積みにして使い倒しているタオル(旅に出るたびに宿でもらった持ち帰れるタオルがたくさんある)を中心に、少し黄ばんだ下着などをひさしぶりに漂白剤につけ込んで洗濯した。だから、今日は洗濯はやめておこうと思ったけれど、パジャマ代わりに着ているジャージーなど、あちこちから洗濯物を引っ張り出して今日も洗濯をした。なんとか雨の降り出す前に乾いてくれた。

 

 家事はたいてい面倒なものだが、料理洗濯と炊事後の洗い物はあまり苦にならない。苦手なのは掃除と片付けだ。苦手なものは下手だということで、やったあとに満足感が得られないものは好きになれない。料理は上手くいけば美味しくて嬉しいし、洗濯はきれいさっぱりして嬉しいし、洗い物は数が知れているからすぐ片付いて気持ちが好い。ところが掃除はついいいかげんにしてしまい、達成感が得られないし、片付けは済んだ尻からまた散らかるから、大げさに言えばシジフォスの心境である。しなければならないことだけは理解しているし、嫌いだからやらないというほどいやなわけでもない。

 

 今日は頼んでいたガスレンジとレンジフードのカタログと見積もりを持って、工務店の人(女性)が来た。ガラストップの多機能最新式のものはとても高い。ホーロー引きのフラットタイプは半分以下の値段である。これならレンジフードも合わせて取り替えることができそうだ。値段交渉してちょっとだけ引いてもらった。いまは商品はいつでも入荷するということで、入荷見込みと工事見込みを連休明けに連絡してもらうことにした。想定した予算内に収まった・・・とはいえまとまった出費であることは間違いない。まあどちらも最低でも十年はお世話になる(それくらいは自炊を続けたい)もので、台所での仕事が快適になると思えばしかたがないか。

フレンチトースト

 映画などで、フレンチトーストを作る場面をときどき見る。初めて見たのは、ダスティン・ホフマン主演の『トッツィー』だっただろうか。キャリアウーマンの妻に逃げられて、一人息子の朝食にフレンチトーストを作ってやる。ふだんやったことがないからだろう、あまり美味そうではない。なんだかバカに雑な食べ物のように思えたので、作ってみたことはなかった。

 

 先日どん姫が土産に持ってきてくれたのが、わざわざ高島屋によって買ってきてくれた美味しいクリームパンと食パンだった。ともに普通のものとはちがう絶品のパンである。食パンはトーストやサンドイッチであたりまえに食べるのがもったいない。たまたまテレビの番組でフレンチトーストの作り方をやっていた。簡単そうでしかも美味しそうに見えた。試してみる気になった。

 

 卵をといて牛乳と混ぜて、シナモンを加える。食パンを厚めに切って、そこにつけ込み、しみこむのを待つ。フライパンにバターを敷いて、良くしみこんだパンをのせて焼く。それだけである。とろふわで、けっこういける。これだけではなんだかもの足らないから、野菜サラダや多少塩分のある付け合わせが必要だ。簡単すぎるくらい簡単だからまた作ってみよう。配合の割合やパンの厚み、しみこませ方、焼き具合など、簡単だからこそいろいろ考える余地がありそうだ。

衰退・補遺

 前回のブログにコメントをいただき、それにお返しした私のコメント。

 営業でたくさんの企業(主に製造業)を見てきました。製造業は技術畑のひとが経営陣に多かったのですが、企業の経営が傾くにつれ、文化系のひとが経営の主体になっていくことが多いように見えました。
優遇されてきた高給の技術者が金食い虫の無用者のように扱われて会社をリタイアしていき、人件費削減で利益を生み出して延命を図るという安逸な手法がとられていきました。
優秀な技術者たちは海外からヘッドハンティングされて韓国や中国へいってしまい、ノウハウがノウハウでなくなって、海外の技術力は急速に向上し、日本の競争力は失われていき、結果的に日本では廃業倒産に追い込まれる会社が続出していきました。
金のニワトリを売り渡して延命を図った企業経営者は、自分が何をしたか、いまだに理解していません。
日本ではいまもその愚かな状態が続いているように見えます。

 

 これが仕事を通じて得た日本の衰退についての私の実感です。海外にヘッドハンティングされた人たちを、私のささやかな人脈を辿って訪ね歩き、いろいろ話を聞かせてもらいました。その心情は察するにあまりあるものでした。割り切っているひともいましたが、なかなか割り切れるものでもないようでした。

2023年5月 5日 (金)

衰退

 日本の製品の信頼度は高いと内外で認められてきた。そして日本では職人が他の国よりも高く評価されてきた。とかく技術者を低く見る国(中国や韓国など、歴史的にそうだった)が多いけれど、日本ではそういう差別はない。だから職人もプライドを持って仕事をしてきた。技術職に優秀な人間が就くことは別に普通のことである。

 

 それがどうしたことか、近頃は大手機械製造メーカーで不祥事が次々に明るみに出るようになった。技術者が矜持を失うというのは、日本にとって由々しきことである。一度信用を失うと取り戻すにはたいへんな努力を必要とする。どうもその傾向は治まる気配がないのは残念だ。むかしは電化製品でも一度買えば簡単には故障しなかったものだ。最近は不具合の頻度が高くなっていると感じるのは考えすぎだろうか。

 

 その表れというのは大げさかもしれないが、三月に箱根で買ってきた、ちょっとした寄せ木細工の楊枝立てが、よくよく見ると寄せ木模様がずれていて、造りが雑である。それなりの値段はしたのである。こういうものを海外から来た人などが珍しがって購入し、はてと気がついてみたら、雑な作りであったらどう思うだろうか。

 

 すでにさまざまなところで日本の職人や技術者の矜持が失われ、凋落が進んでいるような気配である。日本の衰退が顕在化しつつあると言ったら大げさだろうか。

人生の理不尽

 病気と老いと死は人生の理不尽の中の際たるもので、特に老いと死は決してまぬがれることの出来ないものである。そのことを忘れがちの現代に、コロナ禍はそれを考えるきっかけを与えてくれた。禍は禍として、それをときには直視することも人間には必要なことである。

 

 曾野綾子が教育審議会の委員であったとき、学校教育に死を考える時間をもつべきではないかと提案したことがあったそうだが、無視されたという。一度提案して、その反応から繰り返し提案する気にならなかったそうだから、よほど冷たいあしらいがされたのだろう。

 

 いまもしふたたびそのような提案があったら、それでなくともこどもの自殺が多いというのに、死についてこどもに考えさせるなどとんでもない、という激しい批判の嵐が殺到するだろう。死について目を背ければ自殺が減るかどうか、知性のある人ならどう考えるだろうか。

 

 そういう公的なものではなく、死について考えるフォーラムのようなものが立ち上げられて、特に若い人たちの参加が多いという話しを曾野綾子が紹介していて、以下のように書いている。

 

「何もしないのに、人間は徐々に身体の諸機能を奪われ病気に苦しむことが多くなり、知的であった人もその能力を失い、美しい人は醜くなり、判断力は狂い、若い世代に厄介者と思われるようになる。
(小略)
 老いと死は理不尽そのものなのである。しかし現世に理不尽である部分が残されていなければ、人間は決して謙虚にもならないし、哲学的になることもない。
 そのことに人びとが気づきだしたということは朗報である」

 

 安心安全快適な暮らしを政治に求めても、人は老いと死をまぬがれ得ない。求める方も約束する方も幻想を語っている。

張岱

 張岱(ちょうたい)は1597年、時代は違うが魯迅と同郷の紹興の生まれ。家は代々の名家で、桁外れの金持ちだった。現代の金持ちと違い、その金の使い方も桁外れだったようだ。得られた金を使うことで世の中は回る。いまの大金持ちは使い方を知らずにため込むから金が回らなくなって、世界を不景気に追い込んでいる。

 

 張岱は幼少期からその頭脳明晰であることが知られていたが、科挙は受けなかった。役人になって出世しようなどと全く考えていなかったようだ。代々張家に蒐集されていた書物は数万巻、張岱はそれを読みふけり、読んだものは記憶して疑問点があればひたすら考え、数日、数ヶ月、時には数年後にその疑問点が突然氷解することを無上の喜びとした。 

 

 みずから墓誌銘を書いている。

 

 少(わか)くして紈絝(がんこ)の師弟たり。きわめて繁華を愛した。精舎(せいしゃ)を好み、美婢(びひ)を好み、孌童(れんどう)を好み、鮮衣を好み、美食を好み、駿馬を好み、華灯を好み、煙火を好み、梨園を好み、鼓吹を好み、骨董を好み、花鳥を好み、かてて加えて茶淫であり、橘虐であり、書蠧であり、詩魔であり、ついにうかうかと半生を過ごし、全ては夢まぼろしとなってしまった。

 

紈絝・・・練り絹のはかま。転じて貴族の子弟のこと。
精舎・・・数寄を凝らした園庭。
孌童・・・美少年。
華灯・・・元宵の華美な灯籠。
煙火・・・花火。
梨園・・・演劇。
鼓吹・・・音楽。
茶淫・・・茶のマニアであること。
橘虐・・・蜜柑好き。
書蠧・・・本の虫。
詩魔・・・詩きちがい。

 

 このような境遇が暗転したのは、張岱47歳、李自成の軍が北京を陥落させ、ときの皇帝である崇禎帝が景山にみずから縊れて崩じたときから。このとき百官の投降するもの四千余人。節に殉じたものは三十名に達しなかったという。やがて清が関内に入り、北京に至って李自成を追い払った。明が滅び、清の時代へと変わったのである。

 

 さしもの張家の無尽蔵の富や万巻の書は烏有に帰した。無一物になってしまったのだ。いまひさしぶりに読み直している彼の『陶庵夢億』は、晩年に若いころを回想して書いた随筆である。訳者の松枝茂夫が書いている。

 

 そこには自嘲はある。しかし怨嗟はない。淡々として若き日の美しかりし夢を語っているだけである。かなり誇張した文字はすこぶるユーモラスである。
「癖なき人と交わるべからず、その深情なきを以てなり。疵なき人と交わるべからず、その真気なきを以てなり」といった心意気、そのいちずな痴情が尊い。

 

 学者が読んでその歯ごたえに苦労したという書であるから、私などはそのほんの皮一枚をなでているに等しいが、その含蓄、絢爛さ、知性の輝きをかすかには感じることができて、それだけで愉しい。

2023年5月 4日 (木)

ほぼネジはゆるみきった

 昨晩から『ドラゴンボール』の劇場版の新しいところを三本ほど観た。戦いのたびにさらに強い敵が現れ、それに合わせて限界を超えてこちらも強くなるというパターンの繰り返しだけれど、それなりに面白い。こんな風にしていけば、果てしなく新作をつくることができる。とはいえ、つくる方も見る方もだんだん飽きてくるのはしかたのないことだろう。ただ初めて観る子供がいるからそれなりの需要はあるのかもしれない。

 

 こういう、相手の強さに対応してレベルアップするというのはゲームの世界では定番であるが、私が懐かしく思い出すのは『幽遊白書』という漫画だ。漫画雑誌でリアルタイムで見ていたし、テレビアニメ化したときには息子や娘たちと夢中でみていた。本質的に好きなのである。物語でも成長が織り込まれているものは感情移入しやすくて面白い。ただ、現実には限界を突破してレベルアップするという事態はなかなか訪れてくれないので残念である。

 

 囲碁ソフトとの対戦もこの二日間で三勝二敗。ちょっと腕を上げたのか、相手の打ち方の癖が分かってきたということか。さらにパソコンとの戦争ゲームも久しぶりに再開して楽しんだ。

 

 全く頭がスッカラカンになり、ネジはゆるみきった。なにかしなければいけないという気になってきたので、まず洗濯して、さらにタンスの肥やしを少し整理してボロとして出すものをちょっとだけ選び出した。なかなか思い切って捨てられないものである。

 

 頭の栄養補強のために、思い立って張岱の『当庵夢憶』という本を本棚から引っ張り出した。明末清初の時代に生きた張岱の随筆で、読むのは五回目くらいか。訳者の松枝茂夫のまえがきに張岱についてくわしく書かれていて、それを今回は丁寧に読もうと思う。なんべん読んでも張岱という人物の波瀾万丈の生涯とその人生観には感心させられる。知能のレベルが全く違うのだ。努力してもおよばないものがあることを知らないといけない。

整理中につき休業中

ただいま脳内の要不要物分別処理、及びその整理とゴミ処理中。収納スペース僅少につき、収拾不能のおそれあり。作業は脳そのもの(処理能力低し)に委託しているので、本体は休業中。回復予定不明。状態はおおむね良好なるも、精神エネルギーが低く、アニメなど単純娯楽により燃料補給しつつあり。

2023年5月 3日 (水)

源氏巻

 源氏巻は津和野独特の和菓子。旅の土産に買った。こしあんをどら焼きの皮のようなもので短冊状にくるんだもの。上品な甘さでお茶に良く合う。これを昨日娘のどん姫と二人で茶請けにした。

 

包みの箱に由緒書きがある。面白いので記す。

 

江戸、元禄時代、赤穂の浅野内匠頭の刃傷が起きる前のことです。当時の津和野藩主、亀井茲親が勅使接待役を命じられ、吉良上野介に教示を依頼しましたが、浅野同様、数々の非礼を受け藩主を怒らせました。それを知った国家老多胡外記は早速、吉良家に進物を贈りつけ、ことなきを得ました。
 そのときの進物のひとつが「源氏巻」です。小判を下に敷きその上に竹皮で包んだ源氏巻をのせたという言い伝えがあります。津和野を救ったと言われる縁起の良いお菓子です。

 

 別に著作権はないだろうから引き写してもかまわないだろうと思う。津和野に行ったら是非お土産にどうぞ。

 

 細かいことを言うと、救ったのは津和野ではなくて、藩主だろうと思う。藩主が粗相をして改易になっても津和野は残るのだから。

個別と一般

 昨日、どん姫がやってきて先日の旅の話などで歓談した。美味しいものを持って来てくれたし、こちらも用意していたので、我慢していた甘いものを食べてしまった。糖尿病だけれどこういうときはいいのだ。首と肩のマッサージをしてもらった。スマホ首は前回よりはだいぶ良くなっているという。旦那が迎えに来て、私の旅の土産を抱えて「また来るねー」といいながら元気よく帰って行った。

 

 ネットニュースを観ていたら、『49歳の独身・非正規男性が未来に絶望』という見出しに目がとまった。ある個別の事例を取り上げることで、現状の社会の中の弱者の一般的な状況をみるというニュースの取り上げ方は理解できる。この男性が絶望に至る経緯は非正規であることと直接的に関係しているのだろうか。

 

 まず何に対して、そしてどんな絶望なのだろうか。「手取月16万円、49歳の独身・非正規・・・非モテ→貧困老人→孤独死の未来に絶望」なのだそうである。49歳で月16万円の手取りでは苦しいだろうなあ、と想像できる。

 

 記事では、「人口が多く高校時代は受験戦争、就職時は不景気で就職難民の谷間の世代」などと男性の立場を一般化して書いている。ところでいま49歳ということは1990年代に高校、大学、就職の時代だったということで、その時代が受験戦争だというのは受験戦争の戦死者からみた世界観で、しかもマスコミの決まり文句でもあるからともかく、就職が困難だったというのは、ほかの時代と較べればそうだったかもしれない。

 

 ここから個別の話しに戻る。「なんとかこの状況から抜け出そうと思ってはいたが・・・」、実際の生活は、「休日は趣味のスロットに通い」、「自炊をすることはなく」、「給料日直後には自分へのご褒美に焼き肉や居酒屋でプチ贅沢をする」のが習慣だそうだ。そうして給料日前になると「いつも」金欠になり、カード払いでなんとかやりくりしているのだという。

 

 うーん、だんだん同情できなくなっていく。カード払いとはつまり借金で、収入を超えて金を使い続けていれば利子は当然増え続け、どんどん借金はかさんでいく。なんだ、絶望というのは借金が増え続けてどうしようもない状態が見えてきたということで、将来に対する絶望というのは自分の破綻が見えてきたことに対する絶望ということで、老後や年金が多い少ないなどということではない。こんな暮らしをしていて老後をなんとかしてくれ、してくれないなら社会が悪いというとしたら、いささか虫が良すぎるのではないかと次第に腹が立ってきた。

 

 これが将来に絶望している独身男の一般的な姿ということではなさそうだ。いや、こういうものが一般的な貧者の状況だとして取り上げるマスコミの、弱者に対する目線の一般的な報道のしかたかもしれない。

2023年5月 2日 (火)

見積もりを頼む

 台所を大々的に改装して何年になるだろう。手入れがいいかげんだからガス台がかなり傷んできた。料理をしていても気分がちょっと悪い。ガス台周辺を磨き上げようという意欲を損なっている。ガス台だけでもそろそろ交換しようかどうか迷っていたところへ、ひょっこりと台所の工事を頼んだ工務店の営業の人が挨拶にやってきた。以前よく来ていた人が定年になり、後を引き継いだというのはちょっと年のいった、でも元気のいいお姉さんだった。

 

 あまりにもタイミングがいいので、気持ちが交換に傾いた。そのことを言うと、つい先日も同じようなことを言われました、と嬉しそうに答えた。そろそろというタイミングをつかむのも営業の能力だろう。採寸してもらい、カタログと見積もりを頼んだ。また金がかかるなあ。しかたがないか。

静かなピアノ曲集が似合う

 金子みすゞの詩集を少しずつ読み進めている。雑に読むと読み飛ばしてしまうので、ゆっくりと、味わうように読む。余韻が残る程度にして、たくさんは読まない。いまはただ読んでいるが、アリス=沙羅・オットのピアノ曲のアルバム、『ナイトフォール』のような静かなゆったりした曲を集めたものが似合う気がする。こんど試してみよう。

 

 金子みすゞの詩はやさしい言葉だけで書かれているのに、世界が包み込むように詠まれていると感じる。打つもの打たれるもの、食べるもの食べられるもの、憎むもの憎まれるもの、恨むもの恨まれるもの、それらが同時に同じ視点で語られる。価値があるとかないとかいう捉え方ではない、そのことの意味はささやかそうで重い。

 

 金子みすゞの娘は、父と母のことをおとなになってどう思っていただろうか。別れを切り出した母を憎み、嫌がらせのために娘の親権を主張した父。その娘を守るためだけに命を差し出した母。

 

 それ以上に、妻に死なれた金子みすゞの夫のその後の生き様はどういうものだったのか。自分をどう考えていたのか、そのことが無性に知りたいと思う。自分が何を奪ったのか、その自覚が多少ともあったのかどうか。後悔があったのかどうか。

 今日これから娘のどん姫が土産を受け取りに来る。柏餅とちまきを用意したので、お茶を飲みながら旅の話、彼女の兄夫婦の話をしようと思う。

耳が良くなる

 信じられないことに、耳が以前より聞こえるようになった。テレビが、ふだん聞いていた音量ではうるさくて、二目盛りくらい下げてちょうどいい。旅に出ているあいだ、あまり大きな音量に耳がさらされていなかったから聴力が復活したのだろうか。それとも散歩を心がけているせいで身体全体に好影響がでたことのひとつなのだろうか。一時的ではなく、ずっとそうなら嬉しい。

 

 代わりに目がますます見えにくくなり、本を読むのに以前の何倍も疲れるようになった。視力はあまり衰えていないのに、意識を集中しないと全てが霞んでくる。目薬をさし、アイウオーマーをすると一時的に楽になる。そんなだから録りためてハードディスクから溢れそうになっているドキュメントやドラマの消化が追いつかない。それに、続けて観ていると目が辛い。このままでは新たな予約が入れられなくなる。ほかに外付けのハードディスクもあって、そちらにはまだ余裕はあるが、どうせ見切れないなら録画しても意味がない。

 

 散歩は続けている。昨日も六千歩以上歩いた。今回、中継地でひと息入れて再度歩き出して四千歩を過ぎたあたりで急に足が軽くなるという経験をした。これならいくらでも歩ける、と思えるほど足が軽い。最後にはまた足が重くなったが、こんな体験は初めてだ。ランナーズハイではないけれど、あの快感は癖になりそうだ。今日も天気が良さそうなので歩こう。

2023年5月 1日 (月)

多様化

 世の中の進歩発展のためには、多様であることが望ましい。画一化からは変化は生まれにくい。だから社会が多様化することは望ましい。自然界の生物の種類が減り続けていることは、そういう意味で望ましくないことである。

 

 だから多様性を認めろ、という運動が先進国を中心に起こっている。社会を管理するためには多様であるより簡単な方がやりやすい。「男、女」だったのが、「男、見かけは男だが心は女、女、見かけは女だが心は男」などと多様化するとさまざまに問題が生ずる。男女共用トイレの話しもそういうことからで、「認めないひと」「全面的に認めるひと」「一部認めるひと」ということになる。こちらはグラディエーションがあるから、さらにややこしい。ものごとはシンプルな方がいいから共用トイレにしたはずが却って混乱するというのはお笑いである。

 

 もちろん社会全体が次第にそういうものだと受け入れるようになればまた違うのかもしれない。しかしそれは多様化なのか画一化なのか。

 

 多様化を声高に、ときにヒステリックに叫ぶ人がいて、マイノリティのために現状を糺弾する。そういう人は、その多様性がまだ理解できずについて行けないひとをまるで悪人のように罵倒する。色々な人がいて好い、と言うのが多様性のはずなのに、自分とちがうひとを否定するという姿に、「なんだかなあ」と思ってしまう。

 

 ところで、社会を管理するには多様であるより画一である方がやりやすいと書いた。だから中国などは非常にスピーディに発展を遂げ、世界に覇権を拡げようとしている。グローバルサウスの国々は、先進国に追いつけとばかりに中国にあこがれ、中国に追随しようとしている。中国と親しくなろうとする国が多いのは当然の成り行きとも言える。それなら多様化と画一化ではどちらが進歩発展に寄与するのか。民主主義を信奉する先進国は中国やグローバルサウスに敗北しつつあるように見える。多様化は自然の摂理ではないのか。

 

 ここからさまざまなことを派生的に考えることができるけれど、どんどん拡がってしまって私の力では収拾が付かない。アメリカという国の光と影が大きく影響して世界は動いている。先進国の衰退は、そこに原因があるのは間違いないだろうと思う。アメリカの成功と失敗、中国の成功と失敗、それぞれの問題点がこれからの世界がどうなるのかに大きく影響していくのだろう。些細な出来事の積み重ねこそが、たぶん多様性を産み出すのだろう。なんだかわけの分からない収め方になった。お粗末様。

つまらないこと

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マンションの中庭のツツジが満開で、朝日に映えて美しい。

カレンダーを五月に変えた。私も娘のどん姫も五月生まれ。そろって年を加える。

 つまらないことを書く。つまらないことなら書くな、と言われそうだが、私がここに書いているのは私の妄言ばかりで、ひとによっては大半つまらないことであろう。今年のNHKの大河ドラマは評判があまりよろしくないようだ。今年は理由があって最初から観るつもりはなかったが、たまたまある回を見る機会があり、なんだこれは、と思って、評判が悪いことを納得した。全部観ているわけではないし、その時代の歴史にそれほど詳しいわけでもないから批評はしない。

 

 理由というのは、ファンの方には申し訳ないが、嵐というグループが全員苦手で、彼らのでるドラマや映画は観る気にならないということである。とはいえ、絶対に観ないと誓っているわけでもないから、たまにどうしても観たい映画などはあえて観たことはある。酷評するほどでもないけれど、ほかの俳優だったらもっとよかったろう、などと思えてしまう。だから今年の大河は最初から観ないことにしようと思った。脇ででているベテラン俳優が可哀想、と言うのが正直な気持ちである。

 

 かくある事態を予測してNHKは異常とも思える過剰な番宣攻勢を仕掛けたのだろう。それでもこの結果で、そのことがなんとなく嬉しかったりする。自分の判断が正しかったような気がするからである。

 

 自分の好き嫌いだから他意はありません。気を悪くしたひとがいたらごめんなさい。

ありがたみを知るには

 意識して独り言を言う。父は大きな声で独り言を言う癖があったが、私にはそういう癖はない(と思う)。そうするとほとんど誰とも口をきく機会がない日々なので、急にしゃべろうとすると声がおかしい。喉が発声を忘れかけているのだ。ときどき詩(好みは藤村の詩集)や明治時代の名文(好みは徳冨蘆花の『自然と人生』)を朗読したりしていたが、飽きてきたので、このごろは空気清浄機などと話しをする。最近は機械が話しをするのだ。「おやすみなさい」「空気が汚れています」「空気がきれいになりました」「フィルターを掃除します。頑張るぞー」「イオンが出ています」などというので、それにいちいち相槌を打ってやるのだ。「ありがとう」「ご苦労さん」などと大きな声で声かけをすると、なんだか嬉しそうで、ますます張り切ってくれているようである。

 

 簡単ではあるが、料理らしい料理を作り始めた。ただ、旅で美食が続いたので3キロ近く体重がリバウンドしてしまったので、量を作りすぎないように気をつけている。調理器具や食器もきちんと料理に合わせたものを選ぶ。もともとたいしたものがないから選ぶことに迷うことはないが、洗うことを考えて選ばないようにすることにした。ずっと上げ膳据え膳で料理をしていなかったから、食べることのありがたみを忘れかけていた気がする。材料を買いに行き、下ごしらえをして料理し、美味しくいただいて使った食器や調理器具を洗って片付けて一段落。これを面倒だと思えば面倒である。いまはできあいの調理されたものが店頭にいろいろ並んでいて、簡単に手にはいる。でも、食べることは生きることで最もだいじなことであることを忘れてしまう。ボケ防止に料理ほど有効なものはないといわれる。本当にそうだと思うから、料理を楽しむことを続けたい。ありがたいことに、食べることが大好きだから続けることはできると思う。

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