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2023年6月

2023年6月30日 (金)

グレースの履歴

 AmazonのCMで、女性が通勤帰りのバスと覚しき車窓から夜の街を眺めているというのがある。興味深げに光景を眺める女性は知的で活き活きして見える。自宅に帰り着くとドアの外にAmazonの置き配の荷物があるというCMである。いいCMというのはめったにないけれど、これは好い。何よりこの女性がいかにも魅力的だ。

 

 尾野真千子に感じる好感と、この女性に共通する感じをもったのでこんなことを書いた。私の好きな田畑智子や小林聡美に感じる好感である。

 

 尾野真千子は河瀬直美監督の『萌の朱雀』でデヴューした。映画の舞台となった地元の奈良県の中学生であった彼女を主演に起用したこの映画は不思議な印象の残る映画であった。さまざまなドラマや映画での彼女に注目して来た。

 

 今回観たドラマ『グレースの履歴』(全八回)はロードムービーといっていだろう。ロードムービーは傑作が多い。そうしてこのドラマでは冒頭すぐに尾野真千子が演ずる女性はフランス旅行の事故で亡くなってしまう。残された夫(滝藤賢一)が主人公で、妻の乗っていたスポーツカー(この車を妻はグレースと呼んでいた。それが題名の由来である)の履歴を辿り、さまざまな人に出会い、そこでドラマが展開していくという仕立てだ。

 

 だから夫のロードムービーであり、同時に尾野真千子の演ずる妻の、死ぬ少し前、二ヶ月ほど前の彼女のロードムービーでもあるのだ。

 

 その感動を損なわないためにあまりストーリーを書きたくない。もし再放送があって、観る機会があれば逃さず観てほしい。好いドラマを観た、と思ってもらえるはずだ。ただ、最後の方のだいじな役で広末涼子が出演していて、そのせいで再放送はしばらく先になる気がするが、そんな理由でこのドラマをお蔵入りするのはもったいないと思う、おすすめのドラマだ。

芝居、映画、テレビ

 芝居を見たことはかぞえるほどしかない。しかし芝居の臨場感は映画や、ましてやテレビとは比較にならないものだ。高校生の文化祭の演劇でも、それなりの満足感を味わえる。学生時代に寮祭を市の文化会館で行ったが、そのときに私のグルーブでは宮沢賢治の脚本をもとに演劇をやった。懐かしい思い出だ。

 

 山本夏彦が芝居と映画とテレビについて書いている。

 

 芝居というものは客がはるばる出向いて、木戸銭を払って何時間か進んで芝居小屋にとじこめられてはじめて芝居なのである。着飾って見物に行くと同時に自分を見せに行く席であること西洋のオペラと同じである。映画にはそれがない。
 それでも映画は出向いて入場券を払って一定時間幽閉されるからまだいい。序幕では登場人物の紹介をしなければならないから面白くはないが、これから始まるドラマは世の常のものではないぞという予感さえ与えておけばいい。何より入場券を払った客は即座に帰りはしない。
 テレビはただだからいけない。ただで先方から押しかけてくる芸にろくなものはない。見物は序幕を辛抱してくれない。すぐチャンネルを切りかえるから引きとめようと奇声をあげる。裸の女を出す。あれは映画のなれの果てである。

 

 いまは映画館に行かずに映画が観られる。映画も出だしに観客をつかまないと観てもらえないようになった。ところで私は映画は主にWOWOWのものを録画して観たいときに観たいものを観る。まれにNHKのシネマを観る。ともに有料である。無料の民放の映画は観ない。変に刻まれてCMが入り、勝手にカットされていたりする。ただであることで映画を損なって、観るにたえないのだ。

 

 テレビはただにすることで、金よりだいじな「時間」を視聴者から奪う。CMという形で奪い、その過剰であることは限度を超えて、自ら観客を失いつつある。ただほど高いのは視聴者にとってもテレビ局にとっても当てはまるのに、テレビ局はそれに気がつかない。報じることはほとんど同じことばかりで、いくつも局があるが、ひとつしかないのと同じである。過剰は減らせばいいので、衰退産業は淘汰されて当然なのである。それに多用される芸人の、仲間受けを狙ったかのようなバカ笑い、奇声、過剰なアクションのなかに、妙なおびえが見えたりする。場違いにはしゃぐタレントには寒気がする。むかしはもう少し笑えたのに。それは私が変わったというだけが理由ではない。

 

 テレビのない時代を知り、テレビが我が家にやってきた喜びを知るテレビ大好き人間としては残念だが、最近のスポンサーの三流であることにテレビの凋落を強く感じさせられている。

2023年6月29日 (木)

ドラマ三昧

 昨日から、録画してあったノルウエーのミステリードラマ『オオカミの棲む森』全六話を一気に観ている。地方の、森に囲まれた町でひとりの少年が失踪する。その森は動物保護区になっていて、オオカミも観察をうけながら保護されている。オオカミを危険視してそれに反対する住民も多く、少年の失踪とオオカミを関係づけて駆除の動きが高まる。オオカミを保護してきた老人が不可解な行動をとる。オスロにある政府支援の保護団体に勤める女性が息子と一緒にその村にやってくる。男は彼女の父親で、いきさつがあって不仲であった。娘と会った直後にその男も行方がわからなくなる。

 

 ドラマの展開と共に父娘の関係が次第に明らかになる。そして町というより村の人間関係、失踪した少年の秘密、さまざまな利害関係も浮き彫りにされていく。オオカミが人を襲ったかのようなさまざまな証拠が見つかり、ついにオオカミ狩りの訴えが住民から申請される。そうして行方不明の老人の屍体が発見される。そんなさなかに主人公の女性の息子が行方不明になる。ドラマではその原因と犯人は観客に明らかにされていて、主人公のハイテンションの奔走が始まる。

 

 意外な犯人、そしてそれにまつわるさまざまな因果関係が次々に明らかになり、ついに犯人は暴走を始める。そうして事件は悲劇的にではあるが収まる。しかしさらに意外な真相が最後に明らかになる。見応えのあるサスペンスドラマだった。主人公の息子がとても可愛い。

 

 そうして今日は、次ぎにNHKで放映された『グレースの履歴』全八話を観始めたところだ。全部観るのは二三日必要だ。尾野真千子、いいなあ。そのことはあとで。

仕事満足度

 ギャラップによる「グローバル就職環境調査」の発表によると、調査した145国中、日本はイタリアと列んで最低の145位だったそうだ。従業員の感じる仕事の満足度が5%という評価によるという。

 

 どうしてそれほど低いのか、記事では賃金が低いからであり、しかもその賃金が停滞しているからだとみている。それなら、今年はすこし賃金が上がったようだし、来年も同様に上がるようなら仕事の満足度は上昇するのだろうか。

 

 これは自分の能力や仕事量にたいして評価が低いから、仕事の満足度が低いという見方なのだろう。確かにそういう面があるだろうとは想像できる。しかし世界的に見て最低だというのは、そういう見方なら、逆に自己評価が高すぎるということも言えるのではないか、などと考えてしまう。賃金が世界最低というほど低いとも思えないからだ。

 

 仕事に生きがいを感じる、というほどではないとしても、仕事にやりがいを感じることはあるはずだと思うが、仕事満足度が5%というのはそういうものすらないのだといわんばかりだ。仕事にそれほど不満だらけなら、仕事は苦痛でしか無い。生きるために仕事をしなければならない人が普通だから、日本人はほとんどの人が奴隷のように生きている気分であるということか。これでは日本はどんどん衰退していくしかない。賃金が上がることでそれがちょっとだけでも解消するといいと思うが、多分問題はそういうことではない気がする。

 

 現役時代、私は仕事が得意ではなくて、仕事が好きとはとても言えなかったが、それでも仕事にやりがいを感じたことも少なからずあり、自分の仕事の成果に対して賃金が不満であるとあまり思わなかった。まわりを見ても不満たらたらという人はわずかでそれなりに仕事に意欲を持っている人の方が多かった記憶がある。会社が不満だらけの従業員ばかりなら、その会社はつぶれるだろう。

今朝の雑感

 昨日は気温がほぼ34℃まで上昇。激しい雷雨も二回襲来して、近くで落雷もあった。一度は短時間ながら停電した。電気が許容量を超えたせいかと思ったが、ブレーカーが落ちていない。隣のスーパーを見たら灯りが消えているようなので停電だと気がついた。いまはマンションの修繕中で、カーテンを閉めているので停電になると真っ暗になる。なにしろ映画を楽しむために我が家のカーテンは遮光カーテンなのだ。だからブレーカーを見るために懐中電灯が必要である。まもなく復旧したので助かった。真っ暗でエアコンなしが続くようならたいへんだ。インフラが失われることの恐怖をあらためて教えられた。

 

 未明に遠雷を聞く。雨が降っている。本日も大気が不安定。室温はすでに28℃を超えている。昨日雨が降り出す前に買い出しをしておいて良かった。

 

 中国が反スパイ法を来月から強化する。報道官が会見で各国記者からの質問に答えて曰く、「ちゃんと法律に基づいてて適用するので心配は要りません」。その法律の基準が明らかにされていないことが問題なのだ。基準は施行する側にあって、しかも担当者ごとに違いがあるのが中国という国だ。いままででも突然スパイとして逮捕されていた。それが強化されるとなれば、逮捕の件数が増えるのは間違いない。中国が商売するのも観光に行くのもますます危険な国になっていく。1990年代から監視カメラだらけになった五六年前まで、なんとか問題ない時期に行くことが出来て良かった。仕事も含めて十数回行った中国は、そのときに撮った写真を楽しむだけの国になった。

2023年6月28日 (水)

収支のバランス

 またまた曾野綾子の文章から

 

 漢方の世界には、自分で自分の体の声を聴くということが含まれていた。
(中略)
 体がまず自分に教えるのだという。多分動物と同じで、自分の体を直す主役は自分なのである。治療を医者任せにしてはいけない。
 下痢、発熱、鼻水、発疹、膿、その他の症状が起きると、漢方の世界では、それは一種の治癒への道と思うらしい。体の中の異物で、排泄しなければならないものは充分に出すということが、治療の第一歩である。
 そう言えば、人間の暮らしは「出すと入れる」でなり立っている。呼吸も食物の摂取もそうだ。呼吸はよく吐かねば充分に吸えない。食べるだけ食べても、排泄が充分に出来ていなければ、必ず次の重大な支障に繋がる。
 おそらくお金はもちろん、品物でも、幸運でも、愛情でも、この収支の関係がうまくいっていないと、必ず後で精神的病気になるように私は思うようになった。自分に要るだけの物は充分にいただくのだが、要らない分は人に分ける。自分が幸運だと思ったら、その運をすこし分けるような機会を見つける。愛をうけたら、他の人にそのお返しをする。
 世の中には自分の不運を嘆く人がいるが、その中には、取り込むだけで出すことと与えることを考えない人がかなりいるのだろうと思う。それは「運が悪い」という人生に繋がるのである。

 

 どなたかのブログか、つぶやきに医師の処方薬がどうも自分に合わない、自分で量を減らしてもどうもおかしいから薬を無理やり替えてもらったら体の不調が治まった、という話が書かれていた。そういうことは確かにあって、体が拒否するものは体に良くないのだと思う。食べ物も自分が欲するものを食べる方が体調がいいものだ。

 

 欲望が過剰なのが現代社会だろう。必要な物がそろっているのにさらにほしくなるようにCMやネットは心理学的な働きかけをする。そうして肥満した欲望に精神は侵されているような気がする。ときにそれは巧妙に「あなたは損をしている」という働きかけをしたりする。欲望の巨食症が現代の病だろう。

ねっとり

 家の中でゴロゴロして、時々うつらうつらして、猫みたいに暮らしている。散歩をしないので汗をかかず、エアコンは弱めにしてはいるものの快適な空気のなかに一日中いる。運動不足で昼間にウトウトしているので夜、なかなか寝付けない。睡眠が不調で、また翌日うつらうつらすることになる。悪循環である。

 

 これからしばらく雨模様の日が続きそうなので降り出す前にスーパーに買い出しに行った。空気がムッとしている。肌にねっとりと絡みつくようだ。明らかに30℃を超えている。最高気温予報は、33℃に変更されていた。いままでより一段レベルの高い暑さになりそうだ。うまく身体を気温になじませていかないと体調を崩すおそれがある。野菜をすこし積極的にとりながら、冷たいものを飲みすぎないようにしようと思う。

叱る

 ガスレンジと排気フードを交換してすでに一月経つ。掃除がしやすいからきれいに保っている。その支払いがまだ済んでいない。工事を頼んだ工務店の女性は、近くで別の工事があるついでに請求書を持って来ますと約束していた。出来れば現金払いがしたいと申し入れたら、わかりました、領収書を持参します、とのことであった。ところが待てど暮らせどやってこない。支払わなくていいならいくら遅れてもかまわないのだが、どうもこういうことが片付かないのは嫌いである。

 

 今月初めにどうなっているのか問い合わせの電話を入れているのである。つまり払うから早く来るように催促したのである。いろいろ事情があってなかなかいけなくてすみません、予定がきまったらすぐ連絡しますとのことであった。いつになるのか待ちあぐねて、昨夕ふたたび電話をした。そのときは電話に出ず、夜七時前になってようやく電話が来た。用件は言わなくてもわかっている。何やらくどくどと言い訳をしているのだが、連絡をくれない説明になっていない。

 

 つい厳しい言葉で叱ってしまった。私はあまり感情的にならない方だが、苛立つと言葉はすこしキツくなるところがある(だれでもそうだろう)。とにかく当分こちらへ来ることが出来ないらしいことを確認し、請求書と振込先を郵送するよう指示した。私は指示する立場にはないが、すこしきちんといわないとらちがあかない様子だったのだ。この会社には台所や風呂場の工事など、いろいろ頼んでいて、メンテナンスも間違いがないところなのにどうしたことか。すぐ請求書を郵送しますと言ったけれど、はたしていつそれが来るのか、また電話で催促することにならなければいいが。

2023年6月27日 (火)

久しぶりにアーカイブ作成

 ブログはココログに保存されているが、古いものを見るのは面倒だ。それに月ごとに保存されているブログは月末から記録されている。月初めから読みたいではないか。さらにいつココログが閉鎖されるか心配したこともあり、自己流にアーカイブを作成してある。

 

 月初めから毎日コピペして月末まで並べていくだけという単純作業で、多少時間がかかるがむずかしい作業ではない。十数年分のブログが私の場合は一太郎の文書としてファイルになっている。以前は月が変わると作成していたのに、その作業をしばらくサボっていたので半年分以上たまってしまった。頭を空っぽにして単純作業をするのはときには気晴らしになる。

 

 月に三つや四つは自分で読んで「なるほど」と思うものがないではない。内容によって仕分けした別のファイルを作ってもおもしろいと思うが(たとえば「映画」、「読書」など)、今のところそこまでやるつもりはない。そもそもすべて読もうと思うとたいへんだ。よくまあこんなに駄文をせっせと書き続けたものだと感心する。あと二三日時間を割かなければならない。それだけ暇だということである。

さまざまな説のなかから

 プリゴジンに率いられたワグネルがなぜ突然モスクワに向かったのか、そしてそのワグネル傭兵部隊がモスクワ手前で突然反転したのか、さまざまな説が専門家から提示されていておもしろい。いまにある程度の事実は明らかになるだろうが、本当のところは中々わからないままであろう。だから自分なりにこうではないか、とそのさまざまな説のなかから選ぶのは、不謹慎であり、無責任でありながら、おもしろいことでもある。

 

 公言してはならないことをプリゴジンが公言していること(ロシアがウクライナに侵攻したことに、プーチンのいうような大義名分はない)から考えて、プーチンとの密約によって動いたとは考えられず、明らかに立ち上がらなければならないほどプリゴジンが追い詰められての行動だったと思われる。それは多分ワグネルがロシア正規軍、つまりショイグやゲラシモフによって取り上げられるという事態になったのではないか。だからワグネルを率いてモスクワに乗りこみ、プーチンに談判するつもりだったのではないか。

 

 しかしそれらはプーチンの指示のもとにショイグやゲラシモフがしかけた謀略だったから、プーチンはプリゴジンに取り合わなかった。モスクワを目の前にして、精鋭部隊により鉄壁の防御が敷かれているのを見たプリゴジンはそれを思い知らされたのだろう。いかにも内乱に見えて、ロシア正規軍との戦闘は行われていない。モスクワへ向かうワグネル部隊がロシア軍に一切攻撃されなかったのは、プーチンの指示によるものだろう。

 

 突然のことだったはずなのに、プーチンの代わりにベラルーシのルカシェンコ大統領が突然間に立つなどという芸当は、事前準備なしにはあり得ないのではないか。

 

 このような経緯であれば、プリゴジンの運命は明らかである。遠からず彼の急死が伝えられることになるだろう。そうして皆が震え上がり、プーチンの権力はさらに強化されるだろう。ロシアの北朝鮮化が進むにちがいない。ロシアは軍事力だけあって国民が貧しい暮らしを余儀なくされる国になるだろう。国民がプーチンを引き摺り下ろすタイミングを失ったことを後悔することになるかもしれない。しかし、もしいまの情勢でプーチンが失脚すると、ロシアは混乱を来し、さらに好戦的な指導者が台頭するおそれもあり、世界にとって恐ろしいことになる気もする。

今日の雑感

 ワグネルを率いていたプリゴジンがどうしてああいう行動をとったのか、多分本当のことはよほど後にならないとわからないのだろう。これだけロシアのために、というよりプーチンのために戦ってきたのに、自分の意に染まない仕打ちによほど腹に据えかねたのかとも思うが、ワグネルがやってきたことはあまりにも非人道的なことでもあり、どっちもどっちとしかいいようがない。プリゴジンの末路はだれから見ても明白に思える。プーチンが自分に敵対した者をそのままにするとは思えない。ワグネルの兵士達の動向を見ながら、じっくりと料理するにちがいない。それにしてもロシアというのは恐ろしい国だといまさらながら思う。

 

 マイナカードのトラブルが連日報道されている。人間のやることだからミスというのは避けようがないのであって、全体の数が一億近くあればミスの絶対数は増えるのが当たり前だから、仕方のないことだと思う。ミスはないに越したことはないが、その都度直していくしかないだろう。

 

 しかし考えてみると、一体マイナカードはなんのために推進されているのかがいまだによくわからない。私に理解力がないこと、積極的に知ろうとしていないことによるのだろうが、多くの人が同様ではないかとも思う。これはぜひとも成功させなければならない、とみなが思えばミスも減るし、多少のミスはここまで騒がれないはずだ。なんでこんなことをするのだ、と思いながら作業していれば間違いも起こるものだ。

 

 ところで妻のマイナカードはまだ作れていない。本人が申請しなければ発行できないマイナカードだから、妻を連れて申請する必要があるが、それは今の状態では無理である。なにしろ本人がその必要性を理解できる状態ではないし、説明するのも困難だ。保険証がなくなってマイナカードしか使えないとなれば、そういう人たちこそマイナカードが必要だが、その場合どうするのかがよくわからない。多分問い合わせれば方法があるだろうが、ギリギリまで様子を見ようと思っている。

 

 そのことを考え出すとマイナカードの意味が理解できないことと合わせてだんだん腹が立ってきている。そういう思いの人は少なからずいて、そういう苛立ちが次第に岸田政権に対する苛立ち、不満にまとまり、合わせて自公のおかしげな癒着に対する不快感と相まって、自民党に対しての反撥が高まる気がする。そもそも支持したいから支持しているのではなく、他がどうしようもないから票が集まっているだけだから、いつどうなるかわからない。案外おもいがけない雪崩現象が起きないとは言えないだろう。

 

 日本が立ち直りかけたのに、また衰退方向に向かい、混乱が始まるようないやな予感がする。

2023年6月26日 (月)

長江哀歌

 夕方になってようやく眼が平常に戻った。目がかすむのが治れば何よりだが、麻酔が切れただけだからそううまくはいかない。スーパーに買い出しに行く。冷蔵庫の中が雑然としてきたのでまかない退治をしなければならない。まかない退治というのは、祖父から聞いた言葉で、学生のとき(祖父は秋田冶金、今の秋田大学卒業)に寮暮らしで、寮の調理場を徒党を組んで押しかけ、食材を奪う行動をそういったらしい。押しかける方も押しかけられる方も恒例行事として納得づくのもので、そのときだけはふだんよりいいものがたくさん食べられたそうだ。調理場もそれように準備していたのだろう。その話をするときの祖父は懐かしそうだった。私のは残り物を野菜スープ風にごった煮にする。それに手羽先とセロリを加えるのが一工夫。

 

 昨晩、中国映画の『長江哀歌』を見た。哀歌はエレジーと読ませるようだ。今はもう完成してしまったが、三峡といわれる中国の絶景の場所に三峡ダムを造るなかでの人間ドラマが描かれている映画だ。ドラマは淡々と進み、映像も荒く、それがかえってしみじみした味わいを出している。すでにダムに沈んだ村や町、これから沈む町の様子が描かれていく。主人公は山西省からこの地の出身の妻を尋ねてくる。妻のふるさとはすでに水没していた。妻が男のもとからこの地に去ったのはなんと16年も前のことで、娘も一緒だったことがわかる。男はその娘にもなんとか会いたいと思っている。

 

 妻の兄という男に妻の消息を聞こうとするが、けんもほろろの扱いを受ける。いろいろと聞き回るが男には金がない。世話してもらったのはこれから水没する建物や施設を破壊する仕事だ。次第に話をする仲間も増え、彼らに受け入れられていく。やがて妻の消息がわかる。しかしそこから映画は別のストーリーに変わってしまう。夫がこの地に来て二年間帰らないのを探しに来た妻の話が挿入される。

 

 人が集まり、また去って行く。いろいろな小さなドラマがあるが、長江の流れがすべてを呑み込むように、人間の営みなどうたかたのようなものであることを感じさせて物語は展開する。さまざまな思いを胸に納めて男は山西省に帰っていく。不思議な味わいの映画だった。ヴェネチア映画祭の金獅子賞受賞作。

目が見えない

 目のかすみ具合がひどくなってきたので、かかりつけの病院に診察を受けにいった。視力が低下している。図が二重に見えたりしてどこが空いているのか判別できない。レンズで強制しても0.6と0.7しか見えていない。これだと来年の運転免許更新にはギリギリだろうとのこと。そのあと眼圧検査や眼底検査、白内障の進み具合を詳しく検査していく。瞳孔を開きっぱなしにする麻酔の点眼をうけたので、あたりがギラギラしてまぶしくてしようがない。

 

 医師の診断では、白内障はこれからどんどん進行するので、出来れば手術した方がいいでしょう、とのことである。免許更新が出来なくなるのはまだ早いので仕方がない、手術をお願いすることにした。八月半ば過ぎまで手術の予約が満杯だというので、すこし涼しくなるだろう九月後半にしてもらった。その前に説明と詳しい検査もあるらしい。入院するかどうか訊かれたが、往き来がたいへんだし、家では一人きりなので入院した方が安全で楽である。左右の眼、別の日の手術なので五日間入院をすることにした。この病院では母がやはり白内障の手術を受けている。

 

 そのあとさらに心電図や血液検査、レントゲン検査があり、午前中いっぱいかかった。待ち時間に本を読もうとしても字がよく見えない。あきらめた。帰りの道はまだ視界全体がギラギラして、まぶしくてたまらない。帰ってパソコンを開いても文字が読み難くてしようがない。ただいま私は目が不自由な人である。

怖くて嘘をつく

 曾野綾子の『人は怖くて嘘をつく』という随筆集を読了した。この本に書いてあるわけではないけれど、怖くて嘘をつく、というのは、たとえば習近平の取り巻きや、プーチンの取り巻きは不都合なことは報告しないものだというのを見ればわかる。報告しないだけではなく、嘘をつく。

 

 文化大革命の前に、毛沢東の号令一下、「大躍進」という、中国の生産性を上げ、西洋の国々に追いつけ追い越せと国を挙げての国民的大運動を行った。掲げる目標は現実離れした理想的なもので、無理なものばかりだったが、あちらで達成した、ここで達成した、という報告が競争でなされ、毛沢東は独り悦に入っていた。

 

 矛盾は矛盾を呼び、報告通りなら万々歳のところ、実際はその無理によって国土は荒廃し、食料生産は激減、餓死者が二千万人とも四千万人ともいわれるような惨状を呈した。この愚かな失敗により、毛沢東は一線を退くことを余儀なくされた。文化大革命というのは、その毛沢東が復権を狙って起こしたものである。

 

 人は怖くて嘘をつくものである。そうして一度嘘をつくと、その嘘を隠すためにさらに嘘をつかなければならなくなる。嘘をつくにはよほどの覚悟と知力が必要だ。そういう経験が自分にもある。私は嘘をつき通した。そうしてつき通して、その事実を明らかにしたことはないから、そもそもその嘘は存在しない。

 

 部下に意気地のない、会社にも得意先にも嘘をついてがんじがらめになった者がいた。追い詰めて白状させ、すべて私が尻拭いをしたことがある。嘘をつくのは弱いからである。そうして人は弱いものである。

 

 曾野綾子はほとんど嘘をつく必要がなかっただろう。弱くないからだ。弱さを自覚し、嘘をつくと却って辛いことになると承知する知性があるからだ。彼女から見れば、そんなことももわからない人を見ると、苛立ちを感じるのだろう。嘘をついていることに自覚のないのは、自覚すると自分が辛いからだ。そうなればもう妄想の世界の一歩手前である。

 

 この本の終わりの方に、少子化について書かれている。


 昔、東南アジアの田舎で働いている日本人たちが一様に話していたのは、当時、人口の急激な増加に悩んでいたアジアの各国で「一番いいのは、早く村に電気を引いてテレビを入れることですよ。そうすればよるすることがないなんてことはなくなるわけですから。確実に人口は減りますよ」だった。
 今逆に人口を増やすには停電の夜を作ればいいのだが、停電は伝統だけの問題ではなく、その国のあらゆる政治経済の根幹を不能にすることになってしまっている。
 現在の日本はテレビだけではなく、娯楽がありすぎる。スマホを止めるダケデモすることが減って、東南アジアの農村型生活に戻ると思うのだが、止められないだろう。
 次は日本の経済的繁栄をなくすことだ。貧困になれば、もっと子供を産まなくなるだろう、というのは、おそらく間違いなのである。
 貧困は日常生活が不便になるということだから、人間は頭より体を動かし、今よりもっと肉体的に素朴に健康になる。すると性欲も原始的に復活する可能性はある。

 

 この中で私が強調したいのは、「貧困になれば、もっと子供を産まなくなるだろう、というのは、おそらく間違いなのである」という部分だ。だから岸田政権のように金をばらまくことが少子化対策だ、というのは間違いなのだと私は思う。問題はもっと別のところにある。

2023年6月25日 (日)

ちょっと薄味

 九十九里に近いところで生まれ育ったので、母親の見よう見まねでアジやイワシを手さばきすることが出来る。スーパーでアジやイワシの新鮮そうなものを見ると買いたくなるが、夏ははらわたが臭うおそれがあって、つい手を出しかねる。はらわたはいくらきっちりとゴミ処理をしても完璧に臭わないようにすることがむずかしい。

 

 しかしあまりに美味しそうな大羽イワシが安く売られていたので購入した。頭をもぎ、一緒にえらとはらわたを引き抜き、腹を開いて水でよく洗う。醤油と砂糖を濃いめにした汁に梅干しを入れ、クッキングペーパーの落とし蓋をして煮る。そこそこ美味しそうに出来たけれど、すこし薄味になった。つい焦げつくのを恐れて、母の作るようなしっかりした味にならない。まだまだだと思う。

葭の髄から

 阿川弘之の『葭の髄から』という随筆集を読了した。阿川弘之といえば旧仮名遣いにこだわり、それを貫いたが、漢字は旧漢字ではないから読み難いことはない。私は明治大正の文章を読むことも多いから、旧漢字、旧仮名遣いは多分普通の人より苦にしない。

 

 阿川弘之は海軍将校だったから、海軍や戦時中のことに関する文章も多い。だからいかにも戦時中を懐かしみ、戦争に反対ではないかのように受け取る向きもあるかもしれないが、口先だけの空想的平和主義者と較べたら、はるかに戦争の実態を知り、それを嫌悪している。ただ、戦争を非難することと戦場で国のために命を捧げた人を貶めることとはまるでちがうことで、彼はそういう死者を平和主義の名の下に貶めることに激しい怒りを表明する。私もそれには同感する。そのことは中国で長く陸軍兵士として戦った父が、人一倍戦争を嫌悪しながら、私を連れて靖国神社にお参りする心情を見ているのでよくわかる。父の弟も戦死しているし、多くの戦友が死んでいるのだ。

 

 阿川弘之の世間に対しての苛立ちや怒りがわかりすぎて、ちょっとこちらも気持ちが激してしまうこともある。とはいえ、偉そうにいって申し訳ないが、この本に収められている文章には多少ばらつきがある気がした。

 

 帯に「このままでは国が亡びはしないか」とあって、この本の出版された平成十二年からすでに二十数年経ち、すでに故人となった阿川弘之(1920-2015)が今の日本をみたらどう思うだろうか。私が代わりにため息をついている。

嫌いなところに行く

 丸三ヶ月ぶり(もっと間が空いたかもしれない)に床屋に行った。土日はシニア料金ではないのだが、しぶしぶでも行く気になったときに行かないと、また当分いきそびれてしまう。いい年をして長髪にしてうしろで髪をくくっている年寄りを見ると、あまり好感が持てないのだが、伸ばしっぱなしにして襟足も気にせずに出来れば、あんなのも楽でいいなあと思わないこともない。

 

 その格安床屋は隣駅のその先にあるので、歩くと片道30分以上かかる。歩くと大汗をかくのだが、しばらく散歩をサボっているので歩きで行った。待っている人が七八人いる。床屋が嫌い、待つのも嫌いだからうんざりするが、格安床屋はひとり仕上げるのに30分かからないから回転が速い。30分も待たずに調髪が始まった。思い切り刈り上げてもらう。夏モードである。

 

 いちばんむさ苦しくていやだった襟足が剃り上げられると爽快になる。こんなに気分が良くなるならこんどはもっと間隔をあけずにこよう、といつも思うが、思うだけに終わる。かえりも歩き。以前は往復で軽く五千歩を超えたのに、この日は五千歩を切っていた。歩幅が大きくなっているようだ。

 

 マンションの工事は外装の修繕だけではなく、共用部分の廊下や階段、天井などの補修も始まった。日曜は休みだが、それ以外のときはうっかりすると外へ出られなくなる。すこし余分に買い出しをしておいて、引きこもりでも大丈夫にしておかなくてはならない。ところでガスレンジや排気ダクトなどの取りかえが終わって一月になるのに、請求書が来ない。払わなくてもいいのだろうか。・・・まさか。一度催促はしているのだけれど・・・。

2023年6月24日 (土)

二度も三度も

 再放送を観ても楽しめる番組というのがある。記憶力がいささかお粗末だから楽しめるということもあるが、番組そのものがおもしろいからでもある。『ブラタモリ』や『六角精児の吞み鉄本線・日本旅』などは、二度も三度も観たりする。もちろん観たばかりでさすがの私がほとんど覚えているものは、途中で観るのをやめるけれど、すこし昔のものは一から楽しめる。

 

 以前は番組で訪れたところをメモしたりして自分で訪ねたいと思ったりしたが、今はメモせずにぼんやり楽しむだけにしている。旅番組は嫌いではないが、地元の人とへんになれなれしく話したりする番組は嫌いで、大げさに感動して見せたり、食べ物ばかりが取り上げられたりするとうんざりする。東海地区の番組だと思うけれど、『ウドチャンの旅してゴメン』などはそういう点でまあ合格である。わざとらしい嫌みがない。

 

 日本各地を走り回っていると、そういう旅番組のロケに遭遇することもあった。若い女の子が大げさに驚いたり歓声を上げたりしているのを見せられると、こちらが恥ずかしくて顔を背けたくなる。

 

 旅番組ではないが、『新日本紀行』のような番組は旅に出るときの参考になる。ディープな紹介をされたあとのその地の風景は心に沁みる。ああいうカメラワークはさすがにプロだなあと感心する。昔放送されていた古い『新日本風土記』なども、時々再放送されて、現在との比較もあって好きな番組だ。通り過ぎて仕舞えばただの景色が、ある思いをもってみれば心を衝つこともある。そういうものを感じたときの思い出は宝物になる。こんどはいつどこに出かけようか。

怖くなる

 まだ読み始めたばかりだけれど、読むほどに怖くなる本を読んでいる。岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』(新潮文庫)という本で、副題が、「崩壊するお正月、暴走するクリスマス」。もちろんホラーではなく、前にもすこし書いたけれど、岩村暢子が1960年前後に生まれた主婦の家庭を定点観測し、アンケートを採り、さらに詳しいインタビューをして、日本の家庭がどのように変貌しているのかを調査結果としてまとめたものだ。比較としてそれよりすこし年上の主婦の家庭の調査もその前に行っており、さらにその調査後数年して追求調査も行っている。

 

 私のブログに多少なりともなるほどと思うことのできる人(そういう人しか継続的に読んだりしないだろうと思うけれど)は、怖いけれどおもしろい本だから、だまされたと思ってこの本を読んでみてもらいたい。そうして日本が、そして日本人が今どうしてこんな風に劣化したのか、そのことに得心がいくのではないかと思う。みんな知っているのにわかっていなかったことというのがあるもので、そのことに気づかされると思う。

 

 まだ最初のほうだけしか読んでいないけれど、怒りを覚えたり、哀しくなったり、あきらめを感じたりしている。ここで突きつけられた現実は、なるほど日本の少子化はこういう曲がり角というか原点から発しているのかもしれない、と思い当たる。読む前の予想通りである。さらに読み進めるつもりだ。

2023年6月23日 (金)

誰か言ってあげたら?

 中国を訪問したブリンケン国務長官は、まるで中国に朝貢に行った属国の使いのように見えた。習近平は、皇帝が「お使いご苦労」といわんばかりの態度であった。あの様子にアメリカがあまり騒がないのが不思議だが、日本のマスメディアが報じないだけかもしれない。だからバイデン大統領は、「独裁者習近平」などと、心に思っても普通は言わないことをつい言ってしまったのかもしれない。

 

 中国国内向けの絵柄として、習近平はアメリカの国務長官を上から目線で応対したと中国専門家は説明するが、それにしても露骨に失礼な態度であることは中国も、そして習近平自身もよくわかっていたことだろう。つまり習近平は今まで以上に慢心しているということだ。習近平の周りはお追従役ばかりになり、対抗する人間はいない。習近平には耳に不快なことを伝えるものがいなくなったということで、不都合な事実が伝わらず、必ず判断を誤ることになるだろう。いや、もうなりつつあるようだ。

 

 ブリンケンという人はアメリカの国威を貶めることが多いように見える。私が見た目でそう思っているだけなのだろうか。もし弱腰が本物なら、相手に自分が強くなった、偉くなったと誤解を与えてしまう。そうしてあらぬ事を始めてしまいかねない。バイデンの煮え切らない対応がプーチンの暴走のきっかけを与えた、と言えないことはないのだ。

 

 それにしてもバイデン大統領の言動をみていると、明らかに認知症の兆しが現れ始めているようだ。これは公然たるアメリカの秘密になってしまった。民主党や革新系のメディアは必死になってそれを糊塗しようと頑張っているが、だれが見てもそろそろ引退の潮時だ。認知症であるから自分が認知症であることに気がつくことが出来ない。だからもう一期大統領を務めるなどと表明したりする。

 

 誰かもう潮時ですよと教えてやる人はバイデンのそばにいないのか。習近平とちがって、そういう助言をしたところで身の危険はないはずだ。ところで民主党には代わりはいないのだろうか。バイデンが取り返しのつかない大失敗をやらかして、民主党そのものが壊滅的な非難を浴びてからでは遅いと思わないのだろうか。トランプといいバイデンといい、こういう人しか大統領のなり手がないというのも、アメリカの衰えを感じざるを得ない。世界はますます混乱に向かうことになりそうだ。それにしても日本の脳天気さにも呆れる。厭な世の中になる予感がする。

考える読書

 本が読める日と読めない日があって、それでも何冊かの本を並行して少しずつ読み進めているから、ぽつりぽつりと読了する本もある。養老孟司『考える読書』(双葉新書)という本を読了した。「小説推理」という雑誌に連載していたものの2001~2006年の分をまとめたものに一部書き下ろしがつけ加えられている。

 

 養老孟司はミステリーが好きで、取り上げられているものは海外のものが多い。しかしこの本ではミステリーに限らず、ファンタジーやSF、評論など多岐にわたって数多くの本が紹介されている。その中で私も読んで懐かしいものなども多数あってちょっと嬉しい。私もミステリーを一時期乱読していて、日本のものよりも海外のものの方が多かった。

 

 ジェフリー・ディーヴーの作品もいくつか紹介されている。デンゼル・ワシントン主演で映画になった『ボーン・コレクター』や『コフィン・ダンサー』『静寂の叫び』などは私もたいへんおもしろく読んだ。この人の本はたくさんでているが、まず外れがない。ジェイムズ・エルロイやダン・ブラウンの本も紹介されている。トレヴェニアン(『シブミ』など)の本も名前が挙がっていて、大いに頷く。スティーヴン・キングもお気に入りらしい。私よりずっとたくさん読んでいる。

 

 変わったところではダン・シモンズが紹介されていたりして、SF好きの私としては嬉しい。北方謙三の『水滸伝』や、中島敦、石黒耀の『死都日本』なんてのもある。他にも山のように読んでいて、それが紹介されているが、きりがないのでこれくらいにしておく。

 

 加藤典洋の評論の本もあったが、まだこの人の本を読んだことがない。内田樹もしばしば言及していたので、一度機会があれば読んでみたいと思っている。書評などで取り上げられているもののなかから、読もうと思う本のリストをノートにメモしてあり、時々そこから選んでAmazonや古書組合から購入する。今回も何冊かリストに書名が書き加えられた。

心の老化

 曾野綾子の文章から

 

 人の老化の過程で、肉体的な衰えは仕方がないにしても、精神的な面だけでは少しでも防ごうという思いが、最近の老人たちには強いようだ。
 なにが心の老化の特徴かということを、私の世代になると、いつも観察している。そして大体同じ結論に達する。それは、人間がどんどん利己的になる傾向を示すことだ。
 それに付随して、自分以外の他者の存在にも、外界の変化にも、興味を示さなくなる。いや、示せなくなる、と言った方がいいのだろう。この二つの兆候は、ぴったりと張り付いて、表裏一体をなしている。
 そうなる理由もわからないではない。体が辛くなるから、人のことなどかまってはいられない。なんとかして自分の辛さをごまかすために、とにかくしてほしいことを、相手の都合も考えず、「要求」するようになる。(後略)

 

 だんだん歩行も困難になり、ついには寝たきりになった母の介護を手伝ったとき、まさに母はそのようになっていった。それに対して私はすこし思いやりがたらなかったような気がして、いまさら悔いても仕方がないが、ちょっと申し訳なかったと思う。

 

 しかしそれは別として、上に書かれているような「人間がどんどん利己的になる傾向」というのが、今の日本社会そのものの様子に見えてしまう。そうしてとにかくしてほしいことを「要求」するようになっているように思われる。なんだ、日本は心の老化状態になっているのだ。日本が高齢化社会になっているというのは、年齢だけではない、老いも若きも心が高齢化しているらしい。

2023年6月22日 (木)

健康寿命

 いわゆる一般的な寿命とは別に、健康寿命というのがあるらしい。自分のことは自分で出来るのが何歳までかということのようで、私はすでに日本人男性の平均健康寿命(七十歳とすこし)を越えている。健康であることはありがたいことで、幸運なことだと思う。

 

 身の回りのことをすべてこなすのはもちろん、食事もほとんど外食せずに自分で料理する。最近出来合いの惣菜を使うことも多くなったが、できるだけ素材から作りたいという気持ちはある。運転も今のところ支障なく出来ている。ただし目のかすみがひどくなって、標識が読み取りにくくなってきた。目を酷使しすぎているのだろう。

 

 電化製品も使うのに不自由はない。ただし、スマホはほとんど使いこなせていない。だんだん新しいことを覚えるのが億劫になってきたが、チャレンジすればできないことはないと思っている。出かけること、人に会うことは、それほど苦でもない。面倒なことが嫌いなのは昔からなので、面倒なことから片付けてしまうように心がけている。なにしろだれにも頼ることの出来ない独り暮らしだから、却って健康でいられるのかもしれない。

 

 それでも、いつか人の世話になって暮らすしかない時期が来る。それを今から憂えていてもしかたがないが、なるべく先延ばしできればいいと願っている。

私がおかしいのか

 男女格差の国際比較で、日本は世界ランキングが125位だそうだ。これは日本の女性が著しく差別を受けているのだ、と他国からみられているということなのだろうか。これで勢いづく日本の女性の団体があるかもしれない。

 

 それにしてもこのランキングは私には全く心外なもので、日本がそれほどに男女格差がある国だとはとても思えないのである。この男女格差を判定する基準がおかしいのか、私の感覚が時代遅れでおかしいのか。

 

 女性の政治参加の割合が低いことや女性経営者の割合が低いことが、最も評価を下げる理由になっているようである。そしてそれが日本の国の意識の低さによるものだ、と判定されているようである。女性に意欲があっても、社会的にそれを妨げる力が働いているということならば、それは解消すべきだろう。そこに、日本の社会に問題がないとは私も思わない。

 

 しかし日本の女性が積極的に社会的役割に参画しようとしているのに妨げられているというよりは、社会的に参画しなくてもなにも不都合がないと思う社会であるという国だと私には思える。つまり、それだけ日本は女性が楽に生きられる国であるのではないかと、私などは感じているのだが、それこそが世界基準ではとんでもない時代錯誤だというのだろうか。それほど日本の女性は、だれもかれも社会的役割を担うことを願っているのだろうか。それなら私の思い違いを認めよう。

 

 日本は個人主義という名の、自分だけ良ければいいという利己主義が蔓延している国に見えていて、それなのに社会的な重い役割を女性どころではなく、男性ですら積極的に担おうなどと考えているようには見えない。それをもって男女格差をはかられてもそれが差別の指標であるなどとは思えないのだが。

 

 このランキングの低さに多くの女性が怒りを感じ、発奮して積極的に社会的な役割を担おうというのなら応援するにやぶさかではない。多くの男性も応援するに違いない。

知らせる

 ロシアのウクライナ侵略は、ロシアにどんな大義名分があるのかロシア国民は理解しているのだろうか。ウクライナはロシアにあだなす極悪な敵であるから討つのだと考えているのだろうか。

 

 ロシアの攻撃によって廃墟と化したウクライナの村や町の俯瞰写真は無数にあるだろう。それをもたらしたのはウクライナ軍ではなくロシア軍であることは明らかだろう。それらの写真と共にウクライナも、そして多くの国もロシアにその復興のための賠償を求めているのだと、ロシアの国民にメッセージとして伝えることは出来ないだろうか。

 

 ロシア国民は忍耐強いのだという。だから戦争は長引くという。しかし忍耐は制裁を受けていることによる物価高や食糧難などの、ものがないということに対するもので、戦争が終わったあとに、さらに厳しい賠償が生ずるようなことをプーチンは行っているのだと知ったとき、ロシア国民はどう感じ、どう考えるだろうか。戦争をやめようという機運につながらないだろうか。

 

 それとも、それも敵国のプロパガンダで、聞く耳持たぬというのだろうか。それなら責任はロシア国民にもあると証明してしまうことにならないか。

2023年6月21日 (水)

山形を想う

 再放送された「六角精児の吞み鉄本線」の旅は、2015年の山形南部だった。山形を起点に奥羽本線を南下し、南陽市から一度高畠まで行く。高畠は私の父のその親のルーツだという話も聞いたことがあったが、確かなことは分からない。そこから折り返して赤湯に戻り、山形鉄道を長井の方へ向かう。その長井で米坂線と一度合流する。米沢まで行かなかったのは残念だが、メインは第三セクターの山形鉄道だからしかたがない。

 

 南陽市の斜面一面のブドウ畑は懐かしい。何度もその前を往き来し、いろいろなことを思ったものだ。今回は走らなかった米坂線は一度ぜひ紹介してもらいたい線だ。米沢から新潟県の坂町までが米坂線だが、新潟までそのまま行く。私が佐渡へ行くときも、新潟廻りで只見線に乗ったときもこの線で行った。なにしろ米沢の大学の寮の向こうをこの米坂線が通るのだ。五十年前の思い出だ。

Img285_20230621173301寮から米坂線を撮る

 米沢も長井あたりも蕎麦の美味いところだし、米沢牛も食べられる。懐かしい。今月初めには息子夫婦がわざわざ広島から飛行機で山形へ行った。土産にサクランボを送ってくれた。

 

 最上川の流れる周辺の景色が頭に浮かんだ。ひさしぶりにあのあたりを走りたい。

ひきこもり

 ベランダのものを片付けるように要請があったので、すべてを室内に移した。物干し竿も網戸もはずして室内に入れた(そういう要請である)。網戸がなくなったからベランダの窓を開けておくわけにはいかなくなった。どちらにしろ目の前の足場を工事の人が行き交うから、窓は閉め切っておくしかない。悪さをされるとは思わないが、用心するのは自然のことであろう。

 

 これから軒天の吹き付け塗装、ひび割れのコーキング、床面の防水処理、テラスのフェンスの塗装塗り替えなどが済むまでの三週間ほど、ひきこもり状態である。ちょっとした外出は出来るが、長期不在は控えるしかない。どうせ雨の日が多いから、その間は出来ることをすればいい。衛星放送受信用のアンテナもはずされたが、足場の方に移設してもらったから、BSを受信することは出来る。

 

 妻の病院の支払いと面会の予約をしようとしたら、面会の予約の空きがない。あるにはあってもこちらの都合と合わないので、支払いだけ先に行くことにした。面会は来週以降でもいいだろう。会わないでもかまわないという思いもないではないが、そうするとずるずると会わずにいるおそれがあるので、とにかく支払時に予約だけしてこようと思う。

今日の一篇

 金子みすゞの詩集から

 

   金魚のお墓

 

 暗い、さみしい、土のなか、
 金魚はなにをみつめてる。
 夏のお池の藻の花と、
 揺れる光のまぼろしを。

 

 静かな、静かな、土のなか、
 金魚はなにをきいている。
 きっと落ち葉の上をゆく、
 夜のしぐれのあしおとを。

 

 冷たい、冷たい、土のなか、
 金魚はなにをおもってる。
 金魚屋の荷のなかにいた、
 むかしの、むかしの、友だちを。

 

 コロナ禍前まで、毎年友だちと三人で連れ立って毎年海外旅行に行っていた。だから今でも旅行会社からパンフレットが送られてくる。国内、海外のパンフレットを眺めてひとときを過ごすのも一興なので、送付を断ってはいない。あまりずっと申し込みをしなければ今に来なくなると思うが、まだ来る。

 

 いつも海外に同行した、三年ほど前に先に逝ってしまったF君のことが常に念頭にある。F君はなにを想っているだろうかと思ったりする。イスタンブールの市街を見下ろすテラスで、また二人でビールを飲みたいのに。一緒にまた行こうといったのに。

2023年6月20日 (火)

亭主の不在

 海外のミステリードラマや映画を観るのが好きである。特に北欧のドラマがお気に入りだ。そういうドラマの多くが警察主体のドラマなのだが、主人公が離婚していたり、離婚の危機に瀕している場合がほとんどで、そうでなければ子供が親に反発して非行に走りかけたりしている。離婚したもと妻、または子供は、主人公である父親が不在がちであることを激しく非難する。不在であることが愛していないことの証拠であるかのようになじる。

 

 しかし警察の仕事というのはそういう仕事であって、家族とのだいじな約束を置いても事件現場に駆け付けなければならないこともしばしばあるだろう。そうして事件というのは間の悪いときに発生するものであって、世の中というのはそういうものだ。それを愛していないと非難されている主人公に同情してしまう。警官の仕事をしていることを承知で一緒になったのだし、警察の仕事とはそういうものだ、くらいのことを分からないでどうするのだ。自分こそ愛していないのではないか、などといつも腹が立つ。

 

 日本では、亭主元気で留守がいい、という。亭主がいないときの開放感はなによりであると多くの女性から聞いているから、一般的だと思う。それより、亭主がいつも一緒にいないから寂しいという声をあまり聞かないくらいだ。そういえば、最近の日本のドラマではしばしば亭主の不在を非難する主婦が登場する。最近日本も変わったのだろうか。それとも海外のものまねか。

 

 たしか曾野綾子が、「亭主元気で留守がいい」という言葉が西洋では全く理解されなかったと書いていた覚えがある。常に夫婦は一緒にいるのが定常で、相手の不在は問題状態だ、と考えるのが西洋式らしい。だから単身赴任など考えられない、などというらしい。もちろんすべてがそうかどうかは知らない。ただ、ドラマでも何でも亭主が不在がちであることを激しく非難して離婚に至るというドラマや映画を見せられ続けると、西洋式の価値観が刷り込まれるということはあるかもしれない。日本もそうなりつつあるのだろうか。適当な距離がある方が居心地がいいだろうと思うけどなあ。私はずっと相手が不在だから、不在が定常で、それが問題だという意識はもうない。

見る気をなくさせる

 Microsoft Bingから、話題のニュースという表題でメールが来た。「広末涼子のラブレターはなぜ流出したのか」。こういうニュースには全く興味がないし、そういうニュースをもってMicrosoft Bingを読んでほしい、などという意図であるならば、それは失敗である。そういうニュースを報じるならMicrosoft Bingの報じるニュースそのものを見る気がしなくなる。

 

 こういうニュースを見たくないと思う人は、もしかしたら少数かもしれないが、そういう人たちこそが世界の今がどうなっているのか知りたいと考えていて、まともなニュースを知りたいと思っている人たちで、ニュースを報じたい相手であると思うが、どうもちがうらしい。

分からないことを

 日曜日にNHKで放映されているフランスのミステリードラマ『アストリッドとラファエル』は第二シーズンに入っている。このドラマが大好きで、欠かさず観ている。何より自閉症でサヴァン症候群のアストリッドが魅力的だ。彼女に好感が持てるのは、声を貫地谷しほりが担当していることによると思う。そのことは以前にも書いた。

 

 自閉症の人の行動や、ましてや気持ちは分からない。しかしその能力に、普通の人が当たり前として見過ごしていることをきちんと見逃さないことがある。それを気づかせてくれるのがこのドラマである。アストリッドの能力、美質を、どちらかと言えばがさつな女刑事のラファエルがそのまま受け入れるというシチュエーションが観ていて気持ちが好い。

 

 アストリッドは自分の能力を活かすことの喜びと、そのために蒙る強いストレスの狭間で苦しむのだが、ストレス経験の積み重ねが、彼女に新しい世界を受け入れる力をもたらす。まだまだ他人の気持ちを忖度することは困難な状態だが、次第にそれも出来ていくのだろう。しかしそれと同時に彼女の能力も衰えるかもしれないと、それがこんどは心配になってしまう。

2023年6月19日 (月)

クールダウン

 オーバーヒートがきわまると、ガス欠になって無気力気味になる。頭が回らなくなり、身体が重くなり、しばらく回復に時間がかかる。

 

 今そういう状態なので、再始動までしばらく無為にたゆとうことにする。暑さとベランダにかかったネットによる暗がりのうっとうしさと工事の騒音のなかで、ぼんやりと何もしないでいる。無理にブログを書こうとするとブログが嫌いになりそうなので、書きたいことがたまるのを待つことにするつもりである。

2023年6月18日 (日)

境目

 2011年の二月終わり(東北大震災直前)に曾野綾子が書いていた文章。

 

 戦後の日教組的教育に私はずっと違和感を持ち続けていたが、それでも日本はなんとかやっていけるのだろうと思っていた。
「皆いい子」式の誤った人間観察。「生徒と先生は平等」というでたらめな民主主義。人のために尽くすなどという発想は国家の犠牲になるだけだ、という脅し。「人権とは要求することである」という、義務の観念が欠落した思想。富裕は悪、貧困は善。資本家は悪、労働者は善、といった幼稚な人間分類法。日本語の読み書きもまともに出来ない日本人を育てて平気だった教師たちの怠慢。
 それでも日本人がなんとかまともにやっていけるとしたら、それは同胞が非常に賢いからだ、と私はひいき目に思っていたのだ。
 しかし最近、どうもこのままではとうていやっていけない、という危機感が露わになってきたらしい。最近の政治家のあまりの質の悪さに驚く必要はないので、つまり日本人全体があのレベルにまで墜ちたのだ。昔の人たちは、「私にはとうていそんな大それた仕事は務まりません」という謙虚な賢さがあった。それは同時に自分より偉い人の才能を見分け、偉い人には従おうという伸びやかな人間性の存在を示していた。
 昔の人は道徳的にも学問的にも自分の弱点を知れば、それを矯め直そうとしたが、その基本的情熱は己を知る謙虚さにあった。しかし今は根拠のない自信が蔓延した。度を超えた個人尊重と、知識を持つことだけが教育と思われるようになったから、だれもこの愚かさに手出しできなくなった。

 

 もちろん、このときの政権は民主党政権である。さてそのあと、大震災後の日本人の振る舞いを見たあとだったらこの文章を読み直してどう思うだろうか。多分何も変わらないだろう。それより今現在だったらますますその意を強くしていると思う。私も観なくても好いのに毎日のようにテレビを観て、テレビを通して世の中を見ているが、世の中のあまりの惨状に日々情けない思いをしている。

 

 むかし日教組を長く率いていた槙枝という人がいた。若かりしときにその言動を見聞きして、日本を滅ぼすべく、どこかから派遣された人かと思って怒りを禁じ得なかった記憶がある。多分そんなことはなく、本人は正義の信念のもとに活動していたのだろう。そうして今の日本の惨状はみていないから、安らかに眠っていることだろう。

 

 ある時期を境に大きく日本人の価値観が変化した。その境をもって日本は衰退に向かうようになったと私は思っていて、もう取り戻しようもないと絶望している。そうして今の私には話の合う人と、全く合わない人がいる。合う人がいるだけましか。

鹿の王

 映画『鹿の王 ユナと約束の地』を観た。これは上橋菜穂子のファンタジー小説を原作としたアニメである。養老孟司ほどではないが、ファンタジーやミステリーを読むのが好きであった。「あった」というのは、ひところのように手当たり次第に読んでいたのに、いまは年間で数冊に激減しているからだ。エンターテインメント小説は並行読書ではなく、集中して一気読みしなければその世界にはまり込めない。そのためにはパワーが必要なのである。養老孟司が八十を過ぎてもそれらを読み続けていることに驚嘆する。

 

 この原作の『鹿の王』(上下)はこれから読もうと寝室に積んである本の山の中にある。その山には酒見賢一の『泣き虫弱虫諸葛孔明』(全五冊)や仁木英之の『千里伝』(全四冊、第一巻のみ読了)や宮部みゆきの数冊の本などがあって、なんとか今年中に読もうと思っているのだが。

 

 原作を読む前に映画化したものを観てしまうと、良いことと悪いこととがある。イメージがつかみやすくなるが、限定されてしまうおそれがあるのだ。

 

 ファンタジーは、その世界観を頭に描かせるまでが肝心で、それに失敗すると読み進めなくなる。好きな人は読みたくて読んでいるし、観たくて観ているからたいてい問題ない。それが途中で投げ出すならまずい作品だということになる。 そういう意味でこの映画は悪くない。主人公の戦士ヴァン(声・堤真一)にひとりでに感情移入できる。ただ、最近のアニメ映画は細部まで精細に描かれているものが多い割に、ちょっと雑かもしれない。

 

 『もののけ姫』に類似する設定や展開があるが、あまりこだわらなければ、これはこれでかまわないと思う。大叙事詩の一部分というのがファンタジー小説の定番で、この世界をもとに過去も未来も描く事が可能だ。海外のものにはものすごく長いものがたくさんあって、養老孟司がいくつか紹介してくれている(養老孟司『考える読書』(双葉新書)いま読み進めている)。

少子化の背景

 先日、養老孟司の対談本で、岩村暢子の、食卓と現代の家庭、家族についての考察を興味深く読んだ。そこで彼女の本をネットで検索して、四冊ほど取り寄せた。ようやくそろったので『変わる家族、変わる食卓』(中公文庫)という本から少しずつ読み始めている。

 

 他の三冊は
  『普通の家族がいちばん怖い』(新潮文庫)
  『家族の勝手でしょ!』(新潮社)
  『日本人には二種類いる』(新潮新書)

 

 岩村暢子は1953年生まれ、北海道出身。食卓を定点観測の場として、1960年以降に生まれた親たちが形成する、新しい家族を明らかにする研究を行う(Wikipediaから)。

 

 思わぬ視点から、少子化の現象の背景が見えてきそうである。読みながら目からうろこの落ちる音がきこえている。出来ればある程度以上の年齢の女性に読んでもらいたい気がする。どう思うだろうか。若い女性には当たり前すぎて問題の本質が理解できないだろう。私の考えている少子化の原因は、書くと若い女性の反撥をうけそうなので、気をつけている。それを考えると、はたして読後の総括が思ったように書けるかどうか心許ない。

2023年6月17日 (土)

夜汽車

 また、金子みすゞの詩

 

電灯(でんき)のかげ

 

 遠足の日の汽車のなか、
 誰かはうたって居りました。
 先生(せんせ)は笑って居りました。

 

 硝子(がらす)のそとの夕空に
 ふっとみたのは、ちろちろと、
 花火のような、消えそうな、
 電灯(でんき)のかげでありました。

 

 みつめていれば、その下に、
 母さんのお顔がありました。

 

 山からかえりの汽車のなか、
 誰かはうたって居りました。

 

 映画、寅さんのシリーズのなかで、寅さんが夜汽車に乗っていると、車窓の外の一軒家の明かりが見えて、そこには父親がいて、母親がいて、そして子供のいる風景が思い浮かぶ、と言う話をするシーンがある。私もしばしば夜汽車に乗って車窓の外の灯りに、心がふっと温かくなって、同時にしんみりとさみしい気持ちになったことがある。

言葉へのこだわり

 本を山と積んで片端から囓り読みしていて収拾がつかなくなっている。そこへ新たに高島俊男『お言葉ですが・・・』という本が参入した。シリーズになっていて、私は別巻も含めて全部で十巻以上持っている。このシリーズのファンは意外と多い。すべて一度は読了済み。些細なこと、どうでもいいことのように思えるような言葉へのこだわりが、私にはとてもおもしろい。

 

 お粗末な間違いだらけのブログを書いていていうのもなんだが、私は国語の問題で、文章の間違い探しが人よりすこし得意である。漢字の間違い、言い回しの間違い、言葉の誤用などにすぐ気がつく。自分の間違いには鈍感で、他人の間違いには敏感なのである。ただし文章の解釈などは苦手で、自己流の勝手な解釈をしてしまうところがある。

 

 マスコミや若い人の言葉遣いも、極端に言えば混乱を極めていて、その上おかしな言葉狩りばかりをして、却って差別感を助長しているように見える。そういう我が娘など、その若者そのもので、その言葉遣いはすさまじく、親として情けないが、それもキャラクターかとあきらめている。それでも場合による使い分けは多少出来るようになったけれど。

 

 私の好きな文筆家は言葉にうるさい人が多い。そうでなければ文章で身を立てるわけにはいかないのはもちろんだが、内田百閒、開高健をはじめとして、本棚に列んでいる人は特にこだわりの人たちだ。あやかりたいと思っている。思えば詩や俳句に最近特に気持ちが動くのも、言葉へのこだわりの表れかもしれない。

ニュースに怒る

 名古屋城の木造への建て替えを河村名古屋市長が呼びかけ、着々と準備が進められているが、バリアフリーにしろ、障害者用にエレベーターをつけろ、という声があってなかなか具体的に計画が進展させられないでいる。木造での再建は、もともとのむかしの名古屋城の復元が目的のはずだから、バリアフリーやエレベーター設置などしたら目的をはずれてしまうのは明らかで、それなら何も今のままのコンクリート製でかまわないということになる。木造化の計画は白紙に戻したらどうだ。もともとの城は障害者を想定していないのだから、両立は不可能だろう。

 

 国税局の職員が職務中にFX取引をしていたとして処分された。なんと六年間に五千回以上だというからあきれ果てた話だ。しかもコロナ禍の間の在宅勤務中にも繰り返し勝手に外出していたというから、勤務していなかったということのようだ。処分は当然だが、そもそも六年間そういう職員を野放しにしていた上司というのはどういう上司なのだ。その上司も同罪ではないのか。

 

 自衛隊の射撃場での銃撃事件は衝撃的な事件ではあるが、事件の当日から延々と、しかも繰り返し微に入り細をうがって報じているけれど、一体そんなに詳しく報じて視聴者に何を伝えようというのだ。だれもそんなに詳しく知りたいと思わないと私は思うが、知りたい人がそれほどたくさんいるのだろうか。そのために報じるべきニュースが報じられずにいる気がして、そのことに苛立ち、終いには腹が立ってきている。最近そういうことが多い。しかも同じことを繰り返し繰り返しいうので頭がおかしくなりそうだ。

2023年6月16日 (金)

映画二本

 昨日は読書三昧で一日過ごした。過ぎたるは及ばざるごとし、あまり根を詰めたので頭の中がぐちゃぐちゃになり、今日はすこししか本が読めない。それに上の階の浴室工事の騒音や、足場を組む工事の音で本を読むどころではないのだ。代わりに映画を二本観た。ヘッドフォンですこし大きめの音で映画を観れば騒音も多少緩和する。

 

 一本はデンマークのミステリー映画『特捜部Q 知りすぎたマルコ』。『特捜部Q』シリーズはいささか暴走気味の刑事とそのグループが事件を解決していく話で、すべておもしろかった。北欧のミステリーはおおむね外れがない。この映画も、不法入国しようとしたロマ人の少年を取り調べたことを発端に、四年前に失踪した男の事件が浮上してくる。最後まで息をつかせず見せてくれて満足した。

 

 二本目は、先日認知症で引退を発表したブルース・ウィリスが準主役ででている『アウト・オブ・デス』というアメリカ映画。山中をトレッキング中の女性が、女性警官が容疑者を射殺するのを目撃してしまい、その警官に追われることになってしまう。さらに仲間の警官まで加わり、絶体絶命になったところで彼女を助けるのが、妻を亡くして早期退職したばかりの元警官のブルース・ウィリスというストーリーである。その地元警察が悪徳警官の巣であるから、彼らは孤立無援である。あまり賢くない悪徳警官達を撃ち倒すのだが、それを支配している男は賢かった。どのように危地を脱して生き延びるのか。スーパーマン的な登場人物がいないことがかえってリアリティがあってハラハラしておもしろかった。このパターンはよく見る気がするが、二番煎じでも三番煎じでも結構おもしろいから、これからもこういう映画は作られ続けるだろう。

目の前まで

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 ベランダの外、わが部屋の前まで足場が組み上がってきた。まもなく鉢や物干し竿を部屋の中に片付けなければならないだろう。配布された工事案内のチラシにはQRコードがついていて、読み込むと日替わりで詳しい工事予定などを見ることが出来る。洗濯できるときにしておかないと、と思っていたら、わが部屋は本日からしばらく洗濯不可のようだ。天気がいいのになあ。

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ネギやニラの鉢もまもなく部屋の中へお引っ越しである。

2023年6月15日 (木)

蜂と神さま

 蜂はお花のなかに、
 お花はお庭のなかに、
 お庭は土塀のなかに、
 土塀は町のなかに、
 町は日本のなかに、
 日本は世界のなかに、
 世界は神様のなかに。

 

 そうして、そうして、神さまは、
 小ちゃな蜂のなかに。

 

 金子みすゞの詩です。

 

もうひとつ

 

女の子

 

 女の子って
 ものは、
 木のぼりしない
 ものなのよ。

 

 竹馬乗ったら
 おてんばで、
 打(ぶ)ち独楽(ごま)するのは
 お馬鹿なの。

 

 私はこいだけ
 知ってるの、
 だって一ぺんずつ
 叱られたから。

 

金子みすゞ、いいなあ。

AIの答え

 AIに質問をすると、蓄積されている厖大な情報を精査して、その時点での最適な答えを導き出してくれるらしい。しからば、「地球温暖化対策はいかに」とか「食料問題のためにいますべきことは」とか、「少子化対策に優先すべきことは何か」と問うたらどんな答えが返ってくるのだろう。私が思うくらいだから、すでにAIに問うて、その答えを参考に施策が行われているのではないか。そうでなくては宝の持ち腐れだ。

 

「ロシアのウクライナ侵略をとめるためにはどうすべきか」なんて、バイデンが当然尋ねておいていいことではないか。その通りにする必要はないが、参考になるだろう。トランプは、「選挙に勝つにはどうしたらよいか」と尋ねて、その答えに従って行動しているのかもしれない。

 

 ところで、究極の質問は、「人類は存続可能か」あたりだろうか。案外悲観的な答えが返ってきそうだ。「ではどうしたらいいか」、と重ねて尋ねたら、AIは考え込むだろう。答えが分かっていても答えないかもしれない。いない方がよい人間がいて、それを淘汰すればいいのだ、などという恐ろしい答えだったりするからだ。「プーチンやトランプ、習近平や金正恩からまず・・・」、などという答えだったら「さすが」と誉めてやりたいが。

挨拶

 昨夕、長期入院している妻の病院の主治医から電話があった。いまの病院を辞めるので挨拶したいとのことであった。どういういきさつか分からないが、訊かなかった。この先生には転院のときと先日の面会のときに会っている。今後、当面の主治医は院長に代わるそうだ。妻の状況と、治療方針とその結果について丁寧に話をされる。薬の副作用もあり、パーキンソン病様の手の震えがわずかにあるが、身体の健康は良好とのこと。

 

 ずっとコロナ禍で面会が困難だったのが、三月くらいからほぼ解禁になった。ただ、要予約でなかなか思い通りの時間がとりにくい。それでもできるだけ面会に来て下さい、とおっしゃって電話は切れた。

 

 このところ、夜眠れない。眠気を感じて床に横になるのに目が冴えてきてしまう。じっとして目をつぶっていれば眠れるはずが、いくら待っても眠れない。先日ドリエルという入眠剤をひさしぶりに飲んだが、よく眠れた。それなのに翌日になっても爽快感がなく、午前中いっぱい、意識がぼんやりしていた。効き過ぎるようだ。だから出来れば飲みたくない。眠れないといっても、昼間うつらうつらしているから睡眠不足というほどのこともない。リズムが狂っているようだ。

 

 その代わり本がよく読める。今朝も明け方まで読んでいた。並行して読んでいた本がいまは十冊を超えている。ちょっとオーバーヒート気味で、クールダウンする必要がありそうだ。

2023年6月14日 (水)

投書家

 山本夏彦の文章例、つづき

 

 新聞の投書家は(略)掲載されることを欲することが目的で、賞金は二の次である。私は長い間新聞の投書欄の読者だった。今も見る。記事を見ないで投書を見て、新聞の傾向を察するのである。新聞がソ連べったり、または中国べったりのときは投書もまたべったりである。新聞は好みの投書を取捨する。没書になるときまった意見を投ずるものはない。
 ただ老練な投書家は、はじめ新聞に異を唱え、結局は賛成するという手の込んだ迎合をする。概観すれば戦前は投書の時代だった。戦後も昭和三十年代までは戦前と酷似した時代だった。何より貧乏があった。台所も便所も共同の木賃アパートがあった、だから銭湯に通った、ハサミ包丁かみそりの研ぎ屋が回って来た。
 これよりさき戦前はさらなる投書の時代だった。昭和初年の新聞は連日政党の腐敗を痛罵した。財閥の走狗、利権の亡者と書いた。五・一五、二・二六の青年将校はまじめ人間の極で、それをまにうけて犬養を高橋を殺した。まあ座れ靴ぐらいぬいだらどうだというのに問答は無用だ、撃てと命じた。
 新聞はテロはいけないが憂国の至情は諒とすると書いた。減刑嘆願の血書の巻紙を拡げて、その写真を載せた。世論として減刑嘆願書を出したから嘆願書は集まった。集まったのではない、集めたのである。

 

 新聞が、そして大衆が戦争について無罪であるなどということはない。ロシアのウクライナ侵略について、ロシア国民が無罪ではないと思われることと同じである。朝書いた、鈴木貫太郎の二・二六事件の奇禍を連想して時代の風潮ということ、それをつくり出したもののことを思った。トランプ現象や、ネットの妄言の氾濫を見ていると、絶望的な思いがする。

山本夏彦

 どういうきっかけで山本夏彦(1915-2002)に出会ったのか記憶がないが、一読その文章に魅せられてしまった。出版された彼の本の多くを揃えていて、揃えたもので未読は一冊もないはずだ(二度三度読んだ本もたくさんある)。おもしろいからと母に勧めたが、何を書いているのかよく分からないと言われた。レトリックの多い彼の文章はツボにはまらないとわけが分からなくなるところがあるのかもしれない。ひさしぶりに晩年(1995-2002)に書いた文章をあつめた『最後の波の音』(文藝春秋)という本を読み直して彼の名調子を楽しんでいる。

 

たとえば、本がむやみにたくさん出版されていることを批判して書いた文章から一部引用する。

 

 本を読まない人に買わせなければベストセラーにはならない。人は度しがたいほど醜聞か好きである。また好色である。本のテーマは限りなく醜聞に、エロに接近する。
 燈下古人に見る、奇思すでに古人に尽きたり、案上西人に聞く、妙想すでに西人に尽きたり、われまた何をか加えんと明治の人は言った。新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出る。デカルトの時代は読むべき本は少なかったが、そのすべてを読んでデカルトは自分が加えるべき何ものもないことを知ったと言った。
 人間の知恵は諸子百家に、ギリシャローマに尽きている。けれども同じことでも同時代を例にとって書いたのを読むのはまた格別である。読みたければ読むがいいが、この現状は狂気である。足の踏み場もない。これでは版元も取り次ぎも近くつぶれる。それにもかかわらず版元は残る、円本以前の版元主人ひとりと従業員二、三人、初版がせいぜい千部位の本屋が残ればいいと私のなかなる他人(彼も雑誌『室内』を発行している版元でもある)は見ている。

 

 次回は投書と風潮についての彼の文章を一部紹介する。

鈴木貫太郎

 阿川弘之が『葭の髄から』という本で、三人の宰相を取り上げて私論を書いている。その三人目が鈴木貫太郎で、

 

 昭和二十年の四月、小磯陸軍大将の内閣が総辞職したあと、此の人でなく、別の小磯東條に近いやうな人物がもし首相の座に就いてゐたら、日本の運命はどうなつたか、全く分からない。おそらく、いまの若者達の想像を絶する悲惨なことが起こつてゐただろう。「若者」たちが此の世に生れ出たかどうかすら疑はしく、領土としては北海道が、こんにち尚、自由な往き来を許されぬ別の国であつたろう。

 

 天皇から戦争を収める役目を託された鈴木貫太郎は、二・二六事件で一度死んだ命(君側の奸とみなされ、侍従長のときに襲撃され、銃弾四発を浴びたが、奇跡的に命を取り留めた)をその役目のために捧げる覚悟をした。その敗戦に至る経緯を記したあと、

 

 最後に阿川弘之は

 

「家貧しうして孝子あらはる」という言葉があるけれど、国危うして名臣あらはれ、昭和の若い名君と以心伝心、身を捨てる覚悟で、滅亡の淵から日本を救つた。此のやうな識見と品格を備へた宰相が、占領終結後中々出て来ないのは、逆の見方をすれば、幸ひにも今のところ日本が未だ安穏泰平な証左かもしれない。

 

と締めくくっている。

 

 私は「家貧しうして孝子あらわる」の幸せは、いまの日本には起こらなくなったらしいと感じている。夏目漱石は『三四郎』の中で、広田先生に、日露戦争の後で驕る日本が「亡びるね」と言わせている。

2023年6月13日 (火)

送らない

 情報管制が厳しい故か、中国の情報が昔より少ない。それがここへ来ていくつかめぼしいニュースが伝えられている。それを取り上げてブログを書いたりしたが、ネットニュースを液晶画面で見ただけでは私は読み取ることが出来にくい。だから短いもの以外はプリンターでハードコピーする。

 

 昨年キャノンのプリンターが不調になったので、ひさしぶりにエプソンに買い換えて、とりあえず問題なく使えているのだが、プリント時間がキャノンよりだいぶ遅いのが難点だ。そのエプソンのプリンターが今日になって不調である。トレイに用紙があるのに「用紙がありません」などという。用紙送りのスプーラーが滑っているのだろうか。二度三度試すとプリントすることはする。

 

 私は一度プリントしたものを読んだら、それを取っておいて、裏面も印刷に使う。読み捨てだからそれでかまわないのだが、裏面を使うと不調になるようだ。デリケートすぎるだろう、と腹が立つが、なんとか使えているので故障で修理に出すほどでもない。

 

 暑いから苛々する。日本の機械ってこんなに簡単に不調になったりしなかったものだが、このごろはしばしばそういう目に遭う。日本の技術の劣化をひしひし感じさせられる。

工事が始まる

 マンションの大規模補修工事が本格的に始まった。先月末、中庭にバラックの飯場が建ち、その周辺に足場用の部材が積み上げられていたが、その組み立てが進み、下の階あたりまで組み上がってきた。二三日のうちに我が家のベランダの外側を越えるだろう。

 

 足場の組み立てが終わると、まず強度が低下していると診断された非常階段の大規模補修が行われる。その時にかなり大きな音が続くというから覚悟している。そういえば、我が家の台所の工事が遅れた原因となった、騒音に特にクレームを言い立てる人がだれか分かった。わかったからどうということはないが、その人のすぐ上の階で浴室の交換工事が始まった。コンクリートをアンカーボルトでハツル音は躯体を通して響くから、かなりうるさい。多分どこかへ逃げ出しているのだろうが、マンションの工事も続くから、ずっと避難を続けるのだろうか。それを思うと騒音がちがって聞こえるから不思議だ。

 

 これから窓を閉め切ってエアコンをかけっぱなしの生活が始まる。ベランダの床面の防水工事や軒天の塗り替え、さらに手すりの塗り替えなどが行われるので、指示されたらベランダのものをすべて片付けなければならない。だから不在に出来ないので、どこかへ長期旅行するというわけにもいかない。せいぜいヘッドホンをつけて、防音をかねて音楽を聴いたり映画を観たりして過ごすことになる。すべてが片付くまで我慢だ。

2023年6月12日 (月)

かけがえのない人

 かけがえのない人を喪うことは何よりも哀しいことだが、自分にもかけがえのない人がいたことを幸せだったと思わなければならないだろう。

 

 曾野綾子の『納得して死ぬという人間の務めについて』(KADOKAWA)という本を再読、読了した。この本では死というものを直視しての、曾野綾子のさまざまな思いが語られているが、夫君の三浦朱門の介護、そしてその死、さらにそれを受け止めていく様子がこちらの胸に迫ってくる。こういう決まり文句で表現したくなるほどそれはリアルな感動だ。以前読んだときはここまで感じなかったのか、それとも忘れてしまったのか。

 

 これまで、私は死について観念で書いていた。私は自分の母と夫の両親と三人の親たちと暮らし、自宅で彼らの死を見送ったから、観念だけではないのだが、二〇一七年二月三日に夫の三浦朱門を見送ってからは、さらに総括的に、人間の死と対面するようになったのは自然かもしれない。
 それ以前の約一年一か月の間、私の主な生活は夫の看病だった。夫ははじめの頃は、自宅から一番近い本屋さんまでどうやら自力で歩いて行くのを毎日の楽しみと日課にすることも出来たのだが、すでに九十歳を越えていたのだから、やがて外出もままならなくなり、家でも誰かが付きっ切りで看なければならなくなった。その間に八十代の半ばの私も背骨に故障がでた。たかだか一年一か月の間に介護人の方も老化して、看護が出来にくくなったのが現実であった。

 

 そうして夫を看取った後の文章から、

 

 好きなものを、と言われたとき、私が思い出したのは、中にあまり多くの「副葬品」を入れることはよくない、ということだった。そんなものが焼き場でどんなに邪魔になるのかはよく知らなかったが、私はそれは公共の常識に反することだ、といつか聞いたことがあったのだ。
 彼が一番「携行」したかったものは、湯飲みでも、愛用の万年筆でもなく、多分私だったろう。私たちは喧嘩も言い合いもしたが、深く信頼はしていた。一番話が合い、相手が好きなものも、嫌がることもよく知っていた。
 最後に近い頃、朱門はなぜか
「知寿子(私の本名)を裏切ったことはないよ」
 と言ったが、言わなくても私の心を生涯支えてくれたのは、朱門だった。両親を亡くした後の私は一人っ子だったので、それ以後は朱門だけが私を庇護してくれる身内だった。
 彼はどんな時でも、私を救いに来てくれる、と私は信じていた。大震災の後、瓦礫に閉じ込められていても、どこかの外国の刑務所に収監されていても、昔のようにシベリアに抑留されていても、何年かかろうといつか必ず朱門は探しに来てくれる、と私は幼稚に信じていたのだ。
 人は失ったものの価値を、失った時に最もはっきり見つける、という。いささか遅ればせだが、それでも致し方ない。

文管

 中国には城管という組織がある。城市管理行政執行部のことで、露天商などの管理を行うことになっているが、しばしば非人道的な取り締まりを行う酷吏として恨まれており、以前はよく露天商と激しい騒動が起きていたものだ。コロナ禍のために規制が厳しいため、露天商は行き場を失い、そのような闘争のニュースはあまり聞かれなくなっている。

 

 代わりにいまは文管の活動がニュースになり出した。文管とは文化市場総合執行隊のことで、習近平政権下で、極めて政治色の強い規制を行う組織として活動が強化されているようだ。たとえば中国で人気の芸人がトークショーで解放軍を皮肉ったことが問題となり、彼は逮捕された。内容はそれほどのものとも思われないものだったのに逮捕されたことで、中国芸能界は戦々恐々としているという。

 

 思えば文化大革命とは、ある演劇(『海瑞免官』)を、毛沢東の指示でそれが反革命的だという理由で激しく関係者が糺弾されたことから始まったものである。反革命、反党的であるというレッテルは、どこにでも貼りつけることが出来る。しかもそれらには基準というものがないから、誰かが誰かを反革命的だ、と叫べばそれは反革命的とされてしまうのだ。だから人はそうよばれないためにも誰かを指さして糺弾する。それが暴力に拡大するのはあっという間である。

 

 中国の三月四月の失業率は、16~24歳で約20%、25~59歳で4%あまりだった。若い人の失業率が高く、大学を卒業しても就職できない人が多いという状態が続いている。しかもこの数字は他の統計値などと比較推定すると、かなり操作されている可能性が高く、実際はもっと深刻ではないかとも言われる。

 

 昨年暮れに習近平は中央農村会議で以下のように述べたという。

 

「強い国はまず強い農業でなければならず、農業が強ければ国が強くなる。農村へ人材を導入する必要があるから、秩序ある形で大学卒業生を農村へ誘導し、農民工を棄教させ、起業家を農村へ呼び入れて、彼らに農村の心配事の解決を手伝わせた上で、そこにとどまらせれば、農村での創業が可能になる」

 

 これこそまさに現代の「下放」政策ではないか。習近平が毛沢東の衣鉢を継ごうとしてその事蹟を辿ろうとしているように見えないか。新しい形の文化大革命がまた起きる兆しが感じられてならない。今中国に行くのはあぶない。

くずかごなどを洗う

 自分の身の回りに一つ、洗面室に一つ、遊び部屋兼寝室に一つくずかごを置いている。遊び部屋ではほとんどゴミを捨てないので、風邪を引いて頻繁に鼻をかむようなことがなければゴミはたまらない。それにそのようなゴミはすぐにゴミ袋に移す。洗面室のくずかごは、普通のゴミの他に風呂場や洗面台の毛髪などが絡んだものや洗濯機のフィルターにたまるゴミを棄てるので、ウエットなゴミも入るから古いレジ袋をかけてあり、たまるとそれごと棄てる。それでも三ヶ月以上はいっぱいになることはない。

 

 ふだん私が居座っている場所のくずかごには何でも放り込むから、すぐゴミでいっぱいになる。以前はレジ袋をかけていたが、いまはエコバッグを使用していて、レジ袋は増えることがないので裸であり、そこに紅茶のパックなども放り込むので汚れる。汚れが気になったので洗った。そうなると他のくずかごもきれいにしたくなる。洗うとすべて新品のようになった。

 

 ついでに流しの角に置いてある生ゴミ入れも丁寧に洗い、これは洗い桶にキッチンハイターを湯で薄めたものに漬け込んだ。この時期はすぐに雑菌が繁殖する。もちろんふだんはネットをかけておき、すこしたまったらすぐゴミ袋に棄てるようにしているが、それでも黒ずんでくるのはしかたがない。こまめに洗うしかないのである。食器洗い用のスポンジも新しくしたらさっぱりした。ガスレンジなどを新しくしたから、今まで以上に調理する場所をきれいに保ちたくなる。

 

 他に蒲団を乾燥機にかけてから夏用に入れ替え、蒲団を入れている押し入れをすこし整理した。まだまだ手をつけたいところはたくさんあるが、ぼちぼち片付けていくつもりである。ものが多すぎるのだなあ。

2023年6月11日 (日)

雑用をする

 今日は終日雨。

 私は私に雑用を命じる。やらなければと思いながら先延ばしにしていたことどもだ。やれば一日で片がつく。それでもやらないかもしれない。命令をする私は自分が怠け者であることを承知している。

 

 本日はなんと四つも雑用が命じられた。午前中かけて一つ半片付けた。どうしても時間が必要なこともあって、しかしそれは待てばいいだけだから今日中に終わるだろう。世間が日曜日なのにご苦労様だ。こういうのを怠け者の節句働きというのか。

 

 体重が少し減って、三月の、風邪をこじらせてしばらく寝込んで五キロ減少したときより少なくなった。間食を全くしないように心がけているということもあるけれど、あまり努力していないのに体重が減っている。それでも普通の人より肥満しているのは変わらない。とにかく腹が減る。こういう空腹感は久しく感じたことがない。

 

 体重が増えるときも減るときも、少しずつということがなくて、2~3キロずつ階段状に増減する。階段に安定すると、しばらくそれが維持される。落ち着くまでは減ったときは空腹がひどくなり、増えたときは下痢したりする。いま新たな安定段階に収まりつつあるのかもしれない。今年中にあと一段階減らすのが目標である。今のところどこにも不調は生じていない。心配なのは、体力低下に伴う気力の低下である。だからあえて雑用を命じるのである。

思い出す

 昨晩、Amazonのネットスクリーミングでジェットストリームを聴いた。ひさしぶりの城達也の声とともに飛行機に搭乗しているときの気持ちを思いだした。初めて機上でジェットストリームを聴いたのは、仕事で北海道へ行ったときだった。そのあとラジオでも聴くようになり、エアチェックしてカセットテープに録ったりした。

 

 飛行機に乗るときの緊張感と不安感、さらに海外旅行に行くときの機上でのまだ知らない世界への旅立ちの興奮感と不安感までがリアルによみがえってきた。同時に、ああ、もう海外へ行くこともないのだなあという、寂しさと哀しさが切実に胸に迫った。

 

 だからといって、いまどこか海外へ行こうとは思わない。パスポートはまだ数年有効だけれど、すでに行かないと決めている。そのときはさほどに思わなかったけれど、貴重で濃度の高い時間を過ごした経験は、かけがえのないものだったのだ。その思い出を反芻するとき、ジェットストリームが心のなかに流れていると、よりしみじみとするだろう。

2023年6月10日 (土)

我慢の限度

 映画が好きで、ダサいカルト映画でも、たまにそれなりに佳作に出あえるので、結構たくさん録画してある。しかし最近は外れの映画に対する我慢ができにくくなってきた。最後まで観ずに途中で消すことも増えた。この数日、一日二~三本観ているが、我慢の限度を超えたものが二本あった。半分ほど観て消した。

 

 いま新しく録画するのは以前の三分の一ほどにしているので、録画するより消化が多くなって気分が好い。それにしても俳優はそこそこなのにひどい映画というものも多く、監督か脚本が悪いのだろう。以前は見ている自分に問題もあるのかと思ったりしたが、いまはそう考えないようにしている。

 

 ちょっとおもしろかったのは、リーアム・ニーソン主演の『アイス・ロード』という映画で、ハラハラドキドキ興奮した。ひどかったのは、ディーン・フジオカ主演の『バスカーヴィル家の犬 シャーロック劇場版』(日本映画)で我慢に我慢を重ねて観ていたが、限度を超えた。他にもあったけれど、消してしまったので題名も思い出せない。それにしてもディーン・フジオカの主演した映画を何本か観たが、どれもひどいものばかり。テレビドラマだとそこそこなのに、どうして映画はこんなにひどいのだろう。

いま読みかけの

 いつものように本を横に積んで、何冊も並行して読んでいる。
いま読みかけの本の書名を列挙すると、

 

金子みすゞ『金子みすゞ童謡全集』
山本夏彦『最後の波の音』(文藝春秋)
阿川弘之『葭の髄から』(文藝春秋)
曾野綾子『人は怖くて嘘をつく』(産経新聞社)
曾野綾子『納得して死ぬという人間の務めについて』
張岱『陶庵夢憶』(ワイド版岩波文庫)
川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)

 

一日に合わせて150ページ以上読めればいいと思っている。そうすると二日か三日に一冊は読了できる。読みかけたまま棚に戻すものもある。順番待ちの本が二山ほどある。それ以外に、いま一日ひとつかふたつ映画を観ているので、それなりに忙しい。現役時代に夢見た極楽のような生活なのだが、その幸せに鈍感になっている自分がいる。

 

 旅に出るときには本をたくさん抱えていくのだが、たいていそれほど読めない。

何にもする気がしなくって

 何にもする気がしなくって、それでもお腹は空いてくる。舞茸買ってあったので、油揚ニンジン刻んで入れて、舞茸御飯を作ります。

 

 金子みすゞの詩集をぽつりぽつりと一日数ページずつ読んでいたら、七五調がうつってしまった。

 

  きのうは子供を
  ころばせて
  きょうもお馬を
  つまずかす、
  あしたは誰が
  とおるやら。

 

  田舎のみちの
  石ころは、
  赤い夕日に
  けろりかん。

 

 ちょっと気に入った『石ころ」という詩。

2023年6月 9日 (金)

なせばなる

 スポーツ選手など、功成り名をなした人たちはしばしば「なせばなる」と高らかに言う。確かにその通りであることを、結果が示しているからなるほど、と思うしかない。なせばなるという信念のもとに人一倍の努力をしたことは間違いないのだろう。

 

この言葉は、
「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬはうぬが成さぬなりけり」という上杉鷹山の言葉からきている。私の父がしばしば独り言のかたちで私たち兄弟を励ますときに使っていた。父の教えがありながら、成さないから成らなかったのは我ながら残念なことである。

 

 ただ、私は怠け者だからこの言葉はあまり好きではない。人一倍の努力はしないで、そこそこでいいや、という性格なのである。それでも、誰もが目的があればそれなりに努力はしているはずで、それすら怠ってただ成功した人を羨んだり妬んだりするのは論外だと思う。

 

 自分なりにそこそこ努力はした、と自分が思えれば、功成り名を遂げなくても恥じることはない。そう自分に言い訳して生きてきた。それでも、さすがにその私より怠けて生きている人を見ると、何をやっているんだ、という気になったりする。たいていそういう人はひがみっぽく、自分の不遇を他人のせいにしていることが多い。お友達にはしたくない人たちだ。

届けられないというお知らせ

 メールの宛先が尋ね当たらないとMail Delivery Systemという名前で送れなかった旨のメールが送られてくる。今日、すでに三度ほど送られてきているのだが、そもそも私は今日一度も誰にもメールをしていない。その前、昨日、または一昨日にいくつか送ったメールはみな返事があって、問題はない。

 

 英文なのでちゃんと理解していないのだが、どうも私が私に送ったメールということのようで、ますます不可解である。添付があるが、もちろん開けてみるつもりはない。だいじなメールの返事を待っているときだったらうっかり開けそうだ。どういうことなのだろう。気色が悪い。

文化大革命再来の兆し

 毎朝、前日の夜のBSフジのプライムニュースを観る。二時間番組だが、1.5倍速でCMも飛ばして観るので、正味70分ほどかかる。野党党首などが出るものは観ていると苛々するので最後まで観ずに消してしまうことも多い。

 

 昨晩は経済がテーマで、株高やGDPの上方修正の背景を論じていた。記憶に残ったのは、日本の経済停滞は経営者の問題であるという、従来から私が確信していたことを裏付ける話で、意を強くした。人を減らし、給料を上げずに利益を確保するという、何の努力もなしの方策を続けて楽をしてきた経営者たちが日本を低迷させてきた。いま、日本はそれでは成り立たなくなって追い詰められているけれど、その自覚がどれほどあるのだろうか。

 

 もうひとつは中国が思った以上に経済的に危ういということである。表向きはアメリカの制裁が原因のように見えるが、急激に伸びて世界に飛躍してきた企業の経営者に対して、習近平政権が締め付けを行っているということの方がダメージが大きいようだ。

 

 ここから先は私が考えていること。習近平は毛沢東の衣鉢を継いだと自認していて、あたかも毛沢東が乗り移ったかのように資本家を悪と見なした行動に走りつつある。

 

 これは権力を維持するためには金持ちを叩くことで国民の支持を得るという手法であろう。同時に学者も毛嫌いする方向へ走るだろう。学者は正しいことをいうから煩わしいのである。教育に対して自分の思想をおしつけている。まるで文化大革命前夜ではないか。軍部の暴走を黙認しているのは、国民の不満が高まったとき、軍部を自分の手に掌握しておくための布石かと思う。

 

 それらが表面化してくれば、中国に向かっていた資本が流出しはじめるだろう。現実に中国の株価は他の国が上昇している中で低迷している。経済が停滞すれば批判勢力が台頭する。それに対して粛清が行われるのは必至である。そういうなかで中国にすり寄る国、離れる国がある。どうなるのか高みの見物だ。

2023年6月 8日 (木)

気晴らし

 現役時代のように、日々新たな懸案が襲いかかってそれを片端から片付けていた時代は、つまらないことでくよくよしたり引きずったりすることはなかった。だからよく眠れた。いま眠れないことがしばしばあるのは、それだけつまらないことにとらわれるほど暇だという証拠である。

 

 といって現役時代のようなストレスフルな生活に戻りたいとは思わない。私は本質的に怠け者である。現役延長を申請せずに六十歳でリタイアした。夢に見た「毎日が日曜日」の生活は、確かに思ったとおりの日々ではあるが、案外まるまる自由というわけには行かないものだった。そうなると生活に段取りが必要になる。そうして段取りというものは必ず狂うもので、それに振り回されることもある。そうなると苛々する。

 

 私の気晴らしは、まず旅に出ること、本を読むこと、映画やドラマを楽しむこと、音楽を聴くこと、ゲームをする、酒と料理を楽しむ、ときに友だちに会う、などである。日々の生活はかなり質素に暮らしているので、わずかな貯えと年金で、一月おきくらいにまとまった泊まりの旅に出るくらいのことはできる。ありがたいことである。妻は入院中で、たぶん退院することはないから、その支払いと定期的な面会さえすればいい。妻の年金と貯えは別会計にしていて、今のままなら少しずつ目減りはしているものの、私の生活に食い込む心配は当分のあいだない。

 

 だから旅に出ることでまとまった出費があっても、こどもたちに金を残すことさえ考えなければ、生活していける。こどもたちには「お母さんの面倒はお父さんが見るから心配は要らない。その代わり、お前たちには何も残さない」と伝えてある。こどもたちはそんなことは覚悟の上で、場合によっては仕送りしようか、というほどだったから、安心である。

 

 遠出するのも、体力的にいつまでできるかわからない。気持ちがちょっと焦るのだが、いましばらくはマンションの補修工事やその他雑用があって、思い立ってふらっと出かけるわけに行かない。ちょっとおもしろくない。雨だって出かける気は満々なのだけれど。

怒りがうつる

 午後から雨が降り出し、しばらく雨の日が続くらしい。下着をこまめに替えているので、洗濯物がたまっている。朝早くに洗濯をした。降り出すまでになんとか乾きそうだ。

 

 養老孟司の『ぼちぼち結論』(中公新書)を読み終えた。この本が出版されたのは2007年だから、内容はほぼ21世紀に入ったばかりの社会状況を見てのものである。社会時評のようなものが嫌いな養老孟司が、それでも書かずにはいられなかったことを、平静なこのひとに珍しく、怒りと諦観とをない交ぜに書いている。それでなくとも昨今の世の中にいささか腹をたてていた私は、養老孟司の怒りにさらに励起されてしまい、気持ちの収まりがつかなくなっている。

 

 感情的になると、ものを考えることができにくくなる。クールダウンするために気を紛らわせることをして落ち着かなくてはならない。爺さんがいくら苛々したところで世の中は何も変わらないのだけれど。はたに誰もいないのは幸いである。

生殺し

 ウクライナのダムを破壊したのはロシアかウクライナのどちらかと論じられているが、被害を受けて苦しんでいるのは、ロシアの占領地帯だろうがウクライナの確保している地域だろうが、すべてウクライナの国民である。ウクライナの国民と領土を守るために戦っているウクライナが、ウクライナの国民を苦しめるというのは考えにくい。翻って、ロシアはウクライナの国民が苦しもうが環境が破壊されようが何の痛痒も感じないらしいことは、無差別爆撃の様子を見ていれば自明である。

 

 ロシアのウクライナ侵攻の目的は、ウクライナの国民を救うことだったはずである。そう言いながらロシアは何をしているのか。平和が大事だから停戦すべしという平和主義者は、では停戦後についてどういう見通しを持ってそう言っているのか。ロシアは破壊した街を再建するだろうか。ダムを造り直すだろうか。失われた農地を回復するために金を出すだろうか。すべてウクライナの国民が自力で再建していくしかない。まともな国はその支援をするだろう。そのときにロシアは金を出すだろうか。

 

 第三次世界大戦にならないため、という理由で世界はウクライナを生殺し状態に置いている。中国はロシアに学んでいる。日本がいつウクライナになってもおかしくない。しかし中国の侵攻に対してウクライナのように抵抗する日本国民はあまり多くないかもしれない。中国もそれがわかっているにちがいない。自国のために必死で戦っている国に対しても及び腰のアメリカが、自国のために戦わない国を助けるとも思えない。

 

 ダムは外部からの攻撃ではなく、内部から爆破されたと見られている。ダムを管理していたのはロシア軍で、ダムの内部に爆弾を仕掛けられるのもロシア軍しかないと見られているようだ。

2023年6月 7日 (水)

凍結警告

 カードは何枚も持っているが、普通の人よりは少ない方だと思う。カードを凍結するので確認の連絡をよこせというメールがしばしば送られてくる。持っているカードもないではないが、持っていないカードについての警告が多い。たとえばセゾンカード(持っていない)やら、Suica(持っていない)など手を替え、品を替えて送られてくる。迷惑メールに振り分けられたり、すり抜けたりする。凍結するならしてみろ、と思う。

 

 持っていないカードの警告は詐欺だとわかる。それなら類似の警告はすべてインチキである。一度インチキだと思えば、何通送られてこようがすべて無意味で、それにだまされる可能性はゼロである。数打てば当たるという可能性はないのである。それなのにこんなことがずーっとくりかえされるのは、無意味なはずが無意味ではないということのようだ。ついうっかり連絡してしまう人がいるのだろう。そういう人がこういう迷惑メールの氾濫を続けさせるエネルギーを供給しているのである。被害者だけれど、愚かであることは加害者となりうるのだ。

現代の金棒引き

 こどもの頃、母が毛嫌いしている近所のおばさんがいた。「あの人は金棒引きだから」と母は言っていた。金棒引きというのは、近所の噂をあることないこと尾ひれをつけて喋って歩く人のことだと知った。そんなに嫌いなのに母はキツいことは言わず、縁側に座り込むそのおばさんに茶菓を出したりしていた。迷惑だ、という顔をすればよそでこんどは何を言われるかしれない。そもそもすでにおかしなことを言われている気配もないではなかったのである。

 

 人は噂話が好きで、金棒引きを毛嫌いする私だって、噂話はするし、人の消息を誰かに伝えるときに自分の好き嫌いの主観がまじることはある。だがそのことを自覚し、限度をわきまえている。自分が正しいことをしていると思うより、恥ずかしさの方を感じる。

 

 前にも書いたが、現代の金棒引きの際たるものが芸能リポーターという人種であろう。私はこの世の醜業だと思っている。その証拠は彼女、彼等が年を経るごとに口許がゆがみ、そして顔がますます卑しくなっていくのを見ればわかる。自己顕示欲の強い人の弱みを見つけだして叩くのは快感なのだろう。あたかも正義の味方のつもりのようである。

 

 ガーシーなんてそんな金棒引きの一人で、しかもそれが金になるのだからエスカレートして行ったのは当然だろう。現代の金棒引きは金になるらしい。大衆の知る権利なのだそうだ。知らせると金になるらしい。

悲観的になる

 ウクライナのダムの破壊はロシアの所業であるように見える。ウクライナには破壊によって失うものが大きすぎ、得るものがあるとも思えないからだ。あえてあると考えれば、ロシアを更に非難する材料を増やしたということだけだ。古来膨大な数の死傷する戦の多かった中国ですら、大河の堤防などを破壊することはしなかった。二十世紀になって、ついにその歯止めが失われた。水を管理することは農業にとって必須の要件で、農業は食糧確保の礎で、国民を飢えさせないことは政治の原点である。それを損なって正当性を語ることはできない。

 

 それでも正当性を主張する。恥を知らなければ理屈はどうとでもつけられる。恥などというものに何の価値も感じなければ、自分が常に正しいと言い張ることができる。世界は自分のためにあるのだから。ロシアが、中国が、北朝鮮が、やりたいことをやりたいようにやっている。他者との折り合いなどという発想はすでに失われた。

 

 自分が迷惑だと感じたことは、すべて相手の自分への攻撃だと考える。攻撃されたのだから反撃するのは正しいと考える。こどもの声すら迷惑だからとやめさせる。ガーシーとかいう人間の語る金棒引き的なたわごとを百万を超える人間が金を払って聞く。聞くばかりか信じて標的になった人間を攻撃したりする。

 

 自分が賢いなどとは全く思っていないが、救いがたいほど愚かなことがまかり通っている世界を見ていると、どこかへ逃げ出したくなる。どこへ逃げるか。いやでもそれほど遠からずに別の世界へ行くことになるのだが。

2023年6月 6日 (火)

鈍い人

 世界は感覚の鈍い人たちで満ちてきている。骨董の真偽もわからず、虫の種類も、草木の名前もわからない。それでつまらないとか、仕事がないとか、あろうことか、生きがいがないとすらいう。眼がなければ、世界が見えなくて当然であろう。何も見つかるはずがない。その代わりにひたすら「ルール」を作る。手続きを整えれば、物事はうまくいく。そういう信仰が支配している。やれやれ、そろそろ世間から失礼したいなあと思う。

 

 これは養老孟司先生の嘆きの言葉。嘆きに見えて、実は大いなる怒りの言葉なのだと思う。

自分探し

 養老孟司『ぼちぼち結論』(中公新書)という本を読んでいる。中央公論に連載していた『鎌倉傘張日記』をまとめた、『まともな人』、『こまった人』に続く第三冊目で、これで打ちきりにしたそうだ。

 

 この中からちょっと引用する。

 

 生物多様性という言葉はアメリカ由来である。しかしその基本には、個々の対象に個性があるという、アメリカ社会の信条であろう。私はそれ自体が間違いではないか、と考えるようになった。人間の場合、個性を発見するのは他人であって、本人ではない。本人にとっての当たり前が、他人と異なっているとき、それを人は個性とよぶ。無理にやっているのは個性ではない。
(中略)
それぞれの人に個性があるという考え方は、自己の改変が困難だという難点を生じる。自分を変えることはなんでもないが、個性尊重の世界では、それがむずかしくなる。アメリカに離婚が増えるのは、そこに大きな理由があるだろう。自分が変わり、相手が変わる。それを見ながら安定点を探す。生きるとはそういうことで、それを日本では手入れといった。
 そもそも本来の自分など、見えはすまい。「見えると思っている」だけである。見えないものを見ようとするのが「自分探し」であろう。そんな必要はまったくない。社会に暮らせば、つまり世間に生きれば、他人が自分を見ているからである。自分とは他人の見る自分で、なぜいけないのか。

 

 そのまま素直に読み取れない人が多いだろうと思う。それは現代的な思考を刷り込まれているからで、それを一皮めくることができなければ、見えないものを見たつもりで生きていくことになる。養老孟司が正しい、といっているわけではない。当たり前を一皮めくったらどうだろうか、といいたいのだ。

一番眺めがいい

 阿川弘之が紹介していた小話。まだベルリンの壁は崩壊せず、ロシアはソビエト連邦で、東欧が共産圏だった時代である。

 

 ルーマニアの共産党書記長チャウシェスクが奥さんに嘆いた。
「国民がみんな西欧へ逃げ出したがっている。統制を緩めると、しまいにお前と俺しかいなくなってしまうぞ」
 奥さん曰く。
「あら、私が残ると思ってるの」

 

 ソ連のブレジネフが、政務多忙、一所懸命仕事をしているところへ、田舎から年をとったお母さんが訪ねてきた。
「おお、お母さんか。よく来たねえ。さあ、クレムリンの中を案内しよう」
息子は、
「ここが会議室。昔、ツァーもスターリンも座った椅子。今は私が座る」
順に見せて廻り、最後に食堂へ入って、
「食べて下さい。ご馳走だよ」
と、チェコのガラス器に山と盛ったキャビアをすすめた。
母親の顔が青くなった。
「息子や。お前、贅沢な暮らしができるようになったのは結構だけど、わたしァ心配だよ。もし赤がやってきたらどうするんだえ?」

 

 ポーランドのワルシャワに、赤い星のついた馬鹿でかい塔があって、ワルシャワ一眺めがいいのはあの塔の上ということになっている。なぜなら赤い星が見えないから。

 

 自分はそのままでは自分が見えない。だからいいのだろう。次回は似たようなことを養老孟司が書いていたのでそれについて書くつもり。

2023年6月 5日 (月)

論語知らずの論語読み

 ことわざは「論語読みの論語知らず」で、だれもが意味を知っている。それをひねって阿川弘之が『論語知らずの論語読み』(講談社)と題する本を上梓したのは昭和52年(1977)、私の持っているのは第十一刷の昭和54年版。二年でこれだけ増刷したのだから、たくさん売れたのだろう。ずいぶんひさしぶりの再読。

 

 論語に関する本は何種類か持っているが、当時は読み囓り中で、題名がおもしろいから購入した。阿川弘之は漢学に詳しいわけではないから、この本はもちろん論語の解説書ではない。論語のさわりを最初に引用して、そこから連想したさまざまな話を展開していく。師である志賀直哉もたびたび出てくるし、彼の友人たちも実名だったり仮名だったりしながら登場する。豚女として娘の阿川佐和子も引き合いに出されたりしている。

 

 友人としては吉行淳之介、遠藤周作、三浦朱門、北杜夫、安岡章太郎がその性格に合わせたあだ名で登場するのがおもしろい。漢学の先生としてあだ名で出てくるのは駒田信二である。軽い読み物として読み進めていると、次第に著者の屈折した思いが顔を出し始める。今は亡き阿川弘之もまだ五十代であった。

 

 温泉に何日か泊まり込んで、ゴロゴロしながらもう一度論語の解説書を通し読みするのも好いかもしれない。・・・よく眠れるのは間違いない。

きれいになる

 レンジとフードを新しくした。午前中にフードの交換。思いのほかたいへんだったが、私が作業するわけではない。これからはフィルターを買い換える必要がなくなるが、定期的な掃除は必要のようだ。午後、ガスレンジを交換した。便利な機能がたくさんあって、何より揚げ物の温度を160℃、180℃、200℃、などと設定してくれるのがありがたい。さらに鍋で御飯が炊ける設定もできるのだ。湯が沸いたら自動的にとめるようにすることもできる。

 

 オーブンは水がいらないし、部品がばらせるから洗うのが楽であるのが気に入った。機能を使いこなすのはたいへんだが、目新しく思っているうちにいろいろと使ってみることにする。面倒がると、結局使わずじまいで、せっかくの機能が無駄になる。娘に見せてやろうかなあ。

笑いながら

 薄ら笑いを浮かべて、と見るか、微笑みを浮かべながら、と見るか、笑いながら、と見るか、苦笑いをしながら、と見るか。私には強がりの引き攣った笑いにしか見えなかった。世の中をなめきっていたけれど、どうも自分はまずいことになってしまったようだ、逃げようがないことになったようだ、とようやく思い知らされたのだろうと思うが、どうだろうか。

 

 なんだこんな奴だったのか、と思う者もいるだろうし、それでも応援する者もいる。そんな人間に投票した者は、自分を反省すればいいけれど、たぶん自分が間違っていたらしい、などと考えないのだろうなあ。そういう人なら、そもそもこんな男に投票などしないか。

 

 松本潤や木村拓哉の出演するドラマの視聴率が、期待されたほどのびないどころかじわじわと下がっているのだそうだ。どちらのドラマも観ていないから、ドラマそのものの出来については知らない。芸能ニュースでは、ジャニーズ事務所の問題が影響しているなどと報じていた。演技力より人気で支えられていた部分が減少したということか。そういう起用は嫌いなので、私はそれだけで見る気をなくす。

2023年6月 4日 (日)

わかること

 台所の整理と掃除をはじめたが、休憩のときに曾野綾子の読みかけの本『戦争を知っていてよかった』(新潮社)を拡げたら、最後まで読んでしまって仕事が進まなくなった。こんな題名だと正義の味方からクレームがついた(2006年出版の本)だろうなあ。たぶんそういう正しい人たちには、『戦争はよかった』と読めてしまっただろうから。世の中には知らないとわからないことは山のようにある。知りたくなんかないことでも、知ったから初めてわかるという効用はある。もちろん知ってもわからないことはあるし、わかろうとしない人にはおなじ経験が理解に進まないこともある。

 

 曾野綾子はしばしば紛争国などの危険なところに行くことがある。そこでの危険の予感というものについて書いていたことが、以前内田樹が書いていたことに通じるものがあった。

 

 危険の予知というものは理屈ではできない。それは鼠のように、みみずのように直観的に感じるものなのだ。そして私は、入学試験には強い秀才が、鼠の本能、みみずの直観に欠けていることを、ふと憐れんだものである。

 

 内田樹は、すぐれた武道家は直観にすぐれ、危険を事前に回避する研ぎ澄まされた能力を持っていると書いていた。もともと予知能力とはそのために生物に備わったものであろう。

 

 現代は、学問とは問いに対する答えを導くものだと思っている。だから教育とは答えを教えるものだと思っている。どうしたらいいですか、と安易に問う。どうしたらよいのか、人により場合によってちがう。学問とは答えを導く方法を学ぶもので、方法を理解すれば答えは自ら見つけ出せるはずである。方法を理解すると自分の生き方も見えてくるものだと思う。

 

 AIに答えを訊くよりも、まず感じ、考えることだろう。

快晴

 今朝は快晴。吹き戻しの風の強かった昨日とは違い、風もなく空気は乾燥していて涼しく、爽やかである。こういう日に出かけないのはもったいないくらいだが、今週は台所を工事するので、今日は台所とその周辺の掃除をすることにする。ついでにいろいろ片付けたい。暮れに整理したのにいまはすべてが雑然と収納された状態になっているので、不必要なものを別のところにしまい込んでスペースを作ろうと思う。

 

 夜明け前に一度目覚め、二度寝したらおかしな夢を見た。大きな新規の得意先にそれとなく賄賂のようなものを要求されて困惑している夢だ。私は直接の担当ではなく、上司として訪問している。資材担当の人らしき人がリベート(キックバック)を要求しているのだが、彼が言うには、それは社長の要請なのだという。

 

 その資材担当は虫唾が走るほどいやな感じで、実は思い当たる人がいる。すぐ社長を引き合いに出して無理を迫る人だった。私の勤めた会社はあいまいな金の処理に厳しくて、絶対といっていいほど不可能な要請だ。なんとか名目を作る方策はないかという考えがチラリと頭をかすめたが、やはり断るしかない。角の立たない言い方を考えながら、このひとに逆恨みされるおそれがあるなあ、などと思ったところで目が覚めた。

 

 そもそもキックバックなど要求された経験などないのにどうしてこんな夢を見たのだろう。悪夢である。ドラマの見過ぎかもしれない。気を取り直すのに少し時間がかかった。

 今月からマンションの大がかりな補修工事が始まる。その工事のための飯場のバラックが中庭に建った。もうすぐ足場が組まれ、一時的にベランダが使えなくなる。工事は秋の終わりまで続く。ちょっとうっとうしいがしかたがない。

2023年6月 3日 (土)

映画『半世界』

 2019年の日本映画。稲垣吾郎主演、監督は阪本順治。共演は長谷川博己、池脇千鶴、渋川清彦など。

 

 男三人の同級生が、おとなになり、家族を持ち、その生活を抱えて何を感じ、何をかけがえのないものと考えているのか。淡々とした展開の中に男たちの人生が、それを見ているわたしのものとして感じられていく。

 

 稲垣吾郎の演技力は以前から評価している。稲垣吾郎が演じているのではなく、主人公そのものがいる。これが木村拓哉との大きな違い、本質的な違いだ。合わせて長谷川博己や池脇千鶴の演技がすばらしいから、この物語の世界に入り込んだ二時間あまりを体験した。

 

 それぞれの人間に、彼を中心とした世界があり、それらが重なり合い、関係し合って世界がある。それを実感させてくれる。日本映画にしばしばある無意味な引き延ばしの部分もない。好い映画を観た。

仮面のヒーロー

 昨夕は終日録画してあったドラマや映画の消化に努めた。おかげで満杯になりかけていたハードディスクに多少ゆとりができた。外付けのハードディスクにもたくさんの映画が録画してあるし、古いものはBDに録画してある。それでもとにかく録画するより消化する方が多い日が続いているので、なんとなく気分がいいが、その分目がくたびれるし、本を読む時間が削られてしまう。

 

 夜はお好み焼き。ビールも日本酒もあるだけ飲んでしまって買い置きがなくなったので、ミニワインセラーに二本だけ残っていた白ワインの一本を開けた。お好み焼きでワインを飲んだのは初めてだ。飲みながらドラマを観ていたら、風呂に入る気がしなくなった。

 

 今朝、ひさしぶりに朝風呂に入る。頭を洗い、身体を洗い、ひげを剃ったらさっぱりした。私は長湯である。独り暮らしのありがたさは気兼ねなく長風呂に入れることだ。ぼんやりと湯につかりながら仮面のヒーローについて考えた。

 

 私がこどもの頃はスーパーマンや月光仮面がヒーローの時代だった。ヒーローはヒーローとして活躍するときは仮面をつけ、それ以外は普通の人として生活している。正体を知るのは傍観者としてみているわれわれだけである。仮面といえば一世代前の鞍馬天狗の頭巾も仮面のようなものであろう。バットマンだってマスクとコスチュームで姿を変え、正体は別にある。

 

 正義の味方はもてはやされるのが嫌いなのである。正義の行為、社会を正す行為は人知れずするものなのだということを彼らはわれわれに刷り込んでくれた。自己顕示ということは恥ずかしいことだと教えられた。

 

 そういえば、ひところタイガーマスクの名前で貧しいこどもたちにランドセルを贈り続けた人物がいた。匿名で行っていることを、マスコミはその正体を追い続けて暴こうとした。マスコミには恥ずかしさという感覚が理解できないのだろうと思う。自己顕示したいのが人間だと思っている。社会のために働いている人を取り上げて報道することが自分たちの役割で正義だと思っている。

 

 社会を支えているのは。損得を超えて、人のいやがることを、誰かがしなければならないなら自分がそれを引き受けようという数多くの人たちである。彼らこそがヒーローであろう。損得しか考えないように導く教育(社会的義務を否定して、権利主張することばかりを教えるもの)を受けても、人知れず社会を支える人はいる。ああ、ヒーローはいるのだなあと改めて思った。できることを少しはしなければ。

 

  ゴミを捨てる人はゴミを拾わない。
  ゴミを拾う人はゴミを捨てない。

2023年6月 2日 (金)

飛鳥宮、首塚、飛鳥寺など

Dsc_9351飛鳥大仏

雨音が次第に強くなってきた。今日は終日雨らしい。

飛鳥行のつづき

橘寺から飛鳥宮を目指して歩いたつもりが、少し方向を間違えて遠回りしてしまった。

Dsc_9339

目指す飛鳥宮の前に出た。

Dsc_9341

由緒書きを読む犬山の先輩。

橘寺で露出補正したのをそのままにしていたのでここで撮った写真は少し露出がおかしい。

Dsc_9340

大阪の親友。久しぶりに会ったらだいぶスリムになっていた。

Dsc_9342

まだほんの一部だけしか発掘が進んでいない様子。しかし前に来たときよりはだいぶ整備されている。

この飛鳥宮は以前は板蓋宮(いたぶきのみや)と推定されていたが確かではない。だからいまは飛鳥宮跡(伝板蓋宮)と表記されている。板蓋宮ならここは大化の改新の舞台で、蘇我入鹿が殺されたところということだろうか。

ここから飛鳥寺に向かう。田んぼ中で道はくねくねして方角がよくわからない。たぶんあちらのはずと歩き出した。途中で犬を連れた地元の人に確認したら指さして教えてくれた。

Dsc_9343

飛鳥寺の裏手に蘇我入鹿の首塚がある。

Dsc_9345

サツキが盛りを過ぎようとしている。

振り返れば飛鳥寺の裏門である。

Dsc_9348

裏門から飛鳥寺の境内に入る。正面は本堂。飛鳥寺は日本で最も古い寺とされるが、鎌倉時代に一度焼失している。蘇我馬子が発願し推古天皇が建立を命じた。

飛鳥大仏は銅製で鍍金されていた。止利仏師の鞍作鳥(くらつくりのとり)の作。

Dsc_9349

左側から見ると温顔。

Dsc_9350

右から見ると少し厳しい顔だというが、表情の違いは感じるもののそこまでの違いがわからない。でも百済観音を思わせるようないい顔をしている。ここは撮影自由なのがありがたい。

鞍馬寺の前にバス停がある。本数が少ないので、時間を確認してここから歩いて五分あまりの飛鳥坐(あすかいます)神社を見に行く。

Dsc_9353

正面が飛鳥坐神社。鳥居の向こうに階段があってそれを登らなければならない。私はわかっていたけれど、かなり歩いてくたびれているので同行二人はこれを登るのか、とうんざりしていた。たいした階段ではない。

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神社本殿。小さいけれど荘厳さがある。ここは二月に行われる奇祭で有名。

神社のさらに奥の方に小さな社がたくさんあってそこを歩きたいところだが、道が雨でぬかるんでいるし、バスの時間が迫っているので飛鳥寺に引き返した。

橿原神宮前駅までバスに乗り、そこから大和八木へ、駅前の飲み屋街で早くから開くところを探して三人で会食。汗をかいたので生ビールがとても美味かった。

これにて飛鳥行の報告終わり。

2023年6月 1日 (木)

橘寺

Dsc_9338

橘寺(たちばなでら)は聖徳太子生誕の地。もともとは欽明天皇の別宮である橘の宮だった。聖徳太子は欽明天皇の第四皇子の子としてここで生まれた。野地推古天皇の命により、聖徳太子がお寺を建てたとされる。写真は山門。私たちはこの反対側の裏門から入った。

Dsc_9335

本堂。本尊は聖徳太子像。

ここには二面石という石像があるが、小雨が降っていたので写真を撮り損なった。

Dsc_9331

本堂前の聖徳太子ゆかりの池や石。

仏像は撮影禁止だが、往生院の天井画は撮影してもかまわないというので見に行く。

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往生院にあった平成円空彫りの聖徳太子。うーん、円空はどう思うかなあ。一緒に行った友人は円空仏を見て回るのが好きなので、ちょっと苦々しげな顔をしていた。

Dsc_9327

天井画。花の絵がたくさん飾られている。こういう天井画は他のところでもいくつか見たことがある。新しいもののようだ。

ようやく雨が上がり、傘が必要なくなった。

このあと川原寺跡の横を通って飛鳥の宮跡(伝板蓋宮跡)を見に行く。途中で道がよくわからなくなったが、なんとか見つけだした。

近鉄飛鳥駅から

Dsc_9318

名古屋から近鉄で大和八木駅へ、ここで犬山の先輩と合流。乗り換えて吉野方面に南下。橿原神宮前駅で乗り継いで飛鳥駅に行く。飛鳥駅で大阪の友人と合流。車窓に小雨が降りかかっていたが、午後は上がっていく予報である。そう思っていたら雨雲が覆い被さったままなかなか明るくならない。

飛鳥の駅からまず欽明天皇陵に向かう。歩いて10分足らずと近い。ただし方向を間違えると細くて曲がりくねった道なのでわかりにくい。欽明天皇陵のすぐそばに吉備姫王墓があり、そこに猿石と呼ばれる石像が何体かある。

Dsc_9319

猿石と呼ばれているが、猿ではなくて人間だろうと思う。

Dsc_9320

この石像になると人間離れしている気はする。石は朽ちないから歴史を超えて残される。時空を超えているのだ。だからこういう石が好きだ。ところで吉備姫という名から想像するに、たぶんその女性は岡山県の吉備地方の出身ではないかと思う。当時その地方には強力な豪族がいくつか存在していて、天皇に有力豪族の娘が嫁ぐことがしばしばあった。その一人なのだろうと思う。

Dsc_9321

そのまま田んぼの中の飛鳥道を歩く。全く人がいない。これは鬼の雪隠と呼ばれている石。この上にまたがって用を足したとすると、鬼はずいぶん大きい。もちろん、これもそんな用途のものではない。このすぐ近くの高台に礎石だったと思われる鬼の俎という場所があり、その上に鬼の雪隠が乗っていたのだと想定されている。何らかの理由でそこから転げ落ちたのだと見られている。

Dsc_9323

これが高台にある鬼の俎。この上に雪隠が乗っていた?だからなんなのか、どんな用途のものか、不明だという。

途中、明日香村立聖徳小学校(!)の前を通り、細い道をさらに歩いて亀石を見に行く。小雨が降り出した。

Dsc_9325

これが亀石。大きい。徒なりに自動販売機と屋根のあるベンチがあったので、本格的に降り出した雨を避けた。しかしやむ気配がない。しかたがないので傘をさした。友人は雨男で、私は晴れ男だが彼にはかなわない。このあと橘寺に向かう。

酩酊して

酩酊していたけれど、なんとか無事帰着。本日(31日)の徒歩数15000歩超え。

一緒に歩いた先輩も親友も、また飛鳥を歩きたいといわれて、とても嬉しかった。昼過ぎには天候が良くなるはずが、時々小雨に降られた。それでも最後の飛鳥寺に着いた頃には太陽が照りつけ、暑いほどだった。この時期は炎天下より小雨ぐらいの方がありがたい。

大和八木の駅前で、酒を飲みながら三人で歓談。途中で先輩はつきあいきれなくなって早めにリタイア。親友と場所を変えて飲み直す。気がついたらかなり遅くなっていた。

桑名あたりで、降りる支度をしたのに、そのあと寝込んで、名古屋駅で起こされた。

写真を撮るより同行者と話すことに夢中で写真は少ないが、明日少しだけ報告する。

 

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