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2023年7月

2023年7月31日 (月)

偏りはいつか平準化される?

 エントロピーの法則(熱力学の第二法則)というのがあって、エネルギーは必ず高い方から低い方へと移っていき、ついには平衡状態になることになっている。偏りが平均化していくことをエントロピーが増大する、という。だから宇宙のエネルギーのばらつきも次第に平均化して平衡状態になる、ということになっているようだ。物理化学でこれを学んだときに数式で示されたが、私の頭ではさっぱり分からなかった。しかし、現象としては理解した。これは永久機関は存在しない、ということの根拠にもなっている。

 

 生命活動というのは、一見そのエネルギーをばらつきから偏りにする働きのように見える。エネルギーを低位から高位にしているように、つまりエントロピーを減少させているように見えるが、そのためにさらにエネルギーを消費しているので、結果的には物理法則からのがれることはできない。

 

 社会活動も同様に見えるが、社会活動は物理学とは無縁だから、熱力学の法則を当てはめることはできない。そのはずだが、無知の私ゆえに政治も経済活動も偏りから平衡状態へ行くのが宿命だ、などと妄想している。

 

 現代の世の中は、富や権力がますます偏って行きつつあるように見える。エントロピーの法則に反している。それはそもそも社会とエントロピーの法則は関係がないからだといえるが、私などはこれが過渡的な状態で、いつかその偏りは限界を超えてしまい、一気に平準化するのではないか、と期待している。期待がかなうのはかなり先であろうが、そう妄想することで今の心の平安を保つことにしている。そうでも思わないと、今の世界はどうにも理不尽に見えて仕方がない。

 

 革命だの共産主義だのを願っているのではないので念のため。共産主義こそ偏りの極致であることを20世紀は教えてくれたから。

お墨付きをもらう

 本日は糖尿病検診の日。血液検査の結果は、わずかながら前回よりも血糖値が下がっていて、女医先生から「血糖値だけではなく、体重も下がっているし、血圧も下がって順調です」、と旅へ出るお墨付きをいただいた。そう言えば、以前は飢餓感に近いような、突然甘いものが食べたくなったり、買い置きの菓子などに手をつけると途中でやめたくてもやめられなかったりしたものだが、今はあまり強い飢餓感がない。それに間食にするようなものを買わなくなっている。

 

 好循環であって、それを維持すれば糖尿病からくる弊害は抑え続けられるだろう。あとは涼しくなったらまた散歩をするようにしなければ。体重の減少が筋力の低下を伴っているのを感じている。

 

 診察が順調に済んで早く帰宅することができた。今朝は空腹時の血糖を測るために絶食したので、これから昼食をつくる。午後ガソリンを満タンにすればすべての準備は完了だ。だんだん気持ちが高揚してきた。

川っぺりムコリッタ

『川っぺりムコリッタ』は2022年公開の日本映画。監督・原作・脚本は荻上直子、主演・松山ケンイチ、共演・ムロツヨシ、満島ひかり、吉岡秀隆、緒形直人、柄本佑ほか、すばらしい役者ばかりが出て、魅力的な登場人物を演じている。

 

 私はすばらしい映画だと思うけれど、好き嫌いは分かれるかも知れない。どれだけ登場人物に感情移入するかどうかで違うだろう。生きていることと死ぬこととのあいまいな境目を、やさしく見つめさせてくれる映画であり、観る前と観たあととですこし自分が変わったような気にさせてくれる映画だ。エンドクレジットに出ている名前に、えっどこに出ていたんだろう、と思うような意外な名前がある。

 

 ムコリッタとはアパートの名前だが、時間を表す仏教用語のひとつだそうだ。舞台は富山県と思われる。富山には昨年続けて二回行っているから、映画を観ながらその風景を思い出していた。映画では、リアルでもあり、幻想的でもある風景が映し出されていた。

2023年7月30日 (日)

母を想う

 八月の九日が母の祥月命日だから、それが近くなると母のことを思い出す。父と母は弟夫婦と同居していて、最後まで面倒を見てくれた。定年でリタイアして時間が自由になったので、旅行が好きな母を連れて車であちこちに行った。母の思い出の場所など、母の希望に添っていたが、次第に母も足元がおぼつかなくなり、あまり遠出ができなくなっていった。山の宿などで連泊することが増えた。

 

 父が死んで、母は発語障害になり、リハビリしたけれど次第に話すことが困難になっていった。宿のご主人などからは、「静かなお母様ですね」などと声をかけられたりした。母に良かれとつれだして温泉に行ったりしていたけれど、母は喜んでいたのかどうか、会話がないから分からなくなった。

 

 最後の二年間は、腰を痛めてから寝たきりになってしまい、それでも弟夫婦は在宅介護で頑張った。弟の嫁さんは幼稚園の保母さんで、仕事を辞めるつもりだったようだが、月のうち一週間でも十日でも私が手伝うから、ということで、仕事は辞めなかった。昼間はヘルパーさんや訪問看護師の人が半日とか一時間という単位で様子を見に来てくれる。私はただ、母のそばにいて様子を見守るだけだ。

 

 母は寝たきりの状態で何を考えていたのだろう。私は本当に母が喜ぶように世話をしたのだろうか、といまになって後悔する。ときに面倒だなあなどと思っていたことを思い出す。母のそばでただ本を読み、義妹に私と母とが世話になっていただけだったような思いもある。会話がなくても、もっと昔話などを母に語りかければよかったと、いまさら思ってもどうしようもない。

 

 母は私をどう見ていたのだろうか。自分の子供だから、私という人間を誰よりも分かっていただろうと思うが、もう少しやさしければなあ、などと思っていた気がする。毎年同じようなことを思うのは歳のせいか。

さかなのこ

 知多半島の南端の師崎港から、先日は篠島に行った。知多半島の東海岸の、その師崎港に近いところに新師崎というところがあって、漁船などの修理工場と幼稚園のある場所で、テトラが入った漁船のつける浮桟橋のあるあたりが私が名古屋に来てから十年ほど、頻繁に釣りに通っていた場所だ。特に春から初夏には小アジ、子サバがたくさん釣れる。

 

 ウミタナゴ、ベラ、メバル、アイナメなどもかかって愉しい。いちばん釣れるのは、地元の人がガッチョと呼ぶネンブツタイだが、これは小さいし骨が硬くて料理しにくく、食べてもあまり美味しくない。河豚とこのネンブツダイはそっと海にお戻り願う。よく腹立ち紛れに河豚などを堤防の上に置きっぱなしにして干からびさせているのを見るが、心ないことだと思う。

 

 釣れた魚の名前を知るために小さな魚類図鑑を眺めたもので、見飽きない。普通の人よりはすこし知っていると思う。釣っている場所の近くに魚を食べさせる料理旅館などがあって、釣りをしていると、泊まり客が見物に来る。釣れた魚を訪ねられると煩わしい。一度これはフナか、などと訊かれてびっくりしたことがある。ここは海だぞ。水族館で魚を眺めるのも大好きだ。日本全国あちこちの水族館をいくつ訪ねたか数え切れないくらいだ。

 

『さかなのこ』という2022年の日本映画を観た。原作はさかなクン、監督は沖田修一、主演はのんだ。さかなクンがさかなクンになるまでを描いた映画かと思って観始めたらそうとも言えるし違うとも言える不思議な映画だった。すこし冗長な部分もあるが、見終わったあとになかなか好い余韻を感じさせてくれて、見て良かったと思う。さかなクンもあのままのキャラクターで出演している。のんは自然体のまますばらしい演技をしていて、ますます好きになった。いつのまにかさかなクンに見えてくる。共演の柳楽優弥も好い。

 

 映画を観て、魚が好きな子供が海を大事にしてくれればいいなあと思った。

2023年7月29日 (土)

電話で話す

 大阪の兄貴分のひとから電話をもらった。持病持ちだからこの暑さが心配で、こちらから電話しようと思っていたやさきに向こうから来た。互いの消息を交換する。どうしても互いの体調の話などが多くなるのは歳だから仕方がない。訃報を二件ばかり知る。一人は三歳年上の同期の男。三歳違いで同期なのは、大学時代に海外を独りで旅行していて休学したため卒業が遅れたからで、留年ではない。そういう男だから同期では出世頭で、重役も務めた。体調を崩していたが、回復したと聞いていたのにやはりいけなかったようだ。いろいろな人生がある。好き嫌いはべつにしてかげながら冥福を祈る。秋になったら、兄貴分のひとは名古屋に来るという。そのときは犬山の先輩を交えて歓談するつもりだ。

 

 妹からも電話。入院中の義弟の様子を聞く。長期に滞在できないのが悩みで、そのことは私も妻のことで再三経験しているからその煩わしさはよく分かる。転院(受け入れ施設の探索からしなければならない)はたいへんなのだ。私は話を聞いてやることしかできない。彼女がいちばん相談したいのが亭主なのに、その亭主が具合が悪いのだから辛いところだ。一段落したらまた秋に一緒に旅行にでも行こうと思う。そのときには私の目の手術も終わっているだろう。

 

 生きていれば思いもかけないことが起こる。たまたま自分が健康でいることはありがたいことで、それもいつ何があるか分からない。もがいてもどうしようもないことは、あるがままで受け入れるしかない。出来ることをするだけだ。

誰がどのくらい

 ビッグモーターの問題がニュースをにぎわせている。積年の問題らしい。問題は一つや二つのときには表に現れないことが多いようで、表に現れたときにはどうしてこれほど多くの問題があるのに表面化しなかったのだろうと思うようなことになるものだ。

 

 さまざまなことがある中で、除草剤の散布による街路樹の立ち枯れ問題が私は特に気になる。除草剤というのは雑草を枯らすためのもので、それを散布したくらいで街路樹が枯れるほどのものなのだろうか。除草剤メーカーによる見解が知りたいところだ。ここからはあくまで想像だが、意図的に大量に散布して街路樹ごと枯らそうとしたのではないか。そうでなければ、たまたま散布しすぎたら立木が枯れた、というレアケースではなく、日本中多くの場所で枯れているというのがどうにも不審である。こうすればこうなる、ということを学習して行ったことのように思えるがどうだろうか。誰かがどのくらい散布しろ、などと指示していたなんてことが今に明らかになるような気もする。こういうことがまかり通っているのがこの世の中なのかも知れない。

やせほうしのすごのみ

 朝、冷たい水をコップ一杯飲む。最近はその水に黒酢かりんご酢をすこし入れ、さらに塩をひとつまみ入れて飲む。ただの水より体に沁みる気がするし、味があるから美味しく感じる。

 

 酢を飲むといえば、落語の種本といわれる安楽庵策伝の『醒睡笑』のなかの、やせほうしのすごのみ、という話を思い出した。大昔に読んだ話で、『醒睡笑』も蔵書にあるはずだが、押し入れの奥にでも行ってしまったのか、見当たらない。うろ覚えなので大いに間違っているかも知れないが、こんな話として記憶している。

 

 八瀬というところに酒の好きな法師がいたという。いつも酒を持ち歩き、それをちびちび飲んでいた。法師なのに酒を飲むことを非難されると、これは酒ではなくて酢だ、と言い訳した。いついうともなく、やせのほうしのすごのみや(八瀬の法師の酢好みや)、といわれるようになった。これが八瀬法師の凄飲み(大酒のみ)、とかけてあるわけである。ただ酢好みと凄飲みのしゃれだけのことかも知れないが、痩せているのにどこに入るのかと不思議なほど酒豪という人がいる、痩せ法師の凄飲みの意味もあると私は読み取っている。

2023年7月28日 (金)

準備開始

 来週出かけるのでその準備を始めた。まず立ち寄り先を地図でいろいろ検討して、そのデータを作成。ただし炎暑の中なので、あまりあちこちを歩く予定は立てられない。候補を選び出したということで、そのうち一つでも二つでも行ければいい。

 

 もうひとつはカーオーディオ用のUSBの作成だ。CDを数十枚引っ張り出して、ソフトでデジタル化してジャンル別にUSBにコピーする。一つのUSBにかなりの枚数が入れられる。結構時間がかかるので、いろいろなことをしながら片手間にやっている。これでいくらでも音楽が聴き放題になる。しかもいい音で聴けるのである。

 

 食料も無駄にならないように、日持ちのしないものを食べきってしまう料理の計画を立てた。着るものも汗をかくからすこし余分にもっていくつもりだ。宿代はほとんどオンライン支払いになっているから、それほど沢山もたずに大丈夫だろう。もし足りなくなればどこでも下ろせるし、カードも使える。

 

 あとは体調を整えるだけである。来週月曜日は糖尿病の定期検診、酒も控えているし、体重も目標値をほぼ達成している。悪い結果は出ないと思う。お墨付きをもらって出発するつもりなのだがどうだろうか。

どうなる中国

 五六年前までは中国へ一~二年に一回くらい行っていたが、もう多分行くことはないだろう。現地に行けば現場の空気というものを多少なりとも感じるし、行かなければ気がつかないことを知ることもできるが、今はニュースを通して断片的に推察するだけだ。

 

 習近平政権になってから、とにかく監視カメラが異常なほど増えたことを目の当たりにした。また点数制度で人を評価し、減点されると海外へ行けなくなったり、さまざまな制約がある。交通違反でももちろん減点される。交差点に違反車のナンバーが次々にデジタル表示されたりしていた。だから悪いことをする人が減る、という側面もあるが、悪いことをする人間はなくならないものだ。地方の役人などに今でもやりたい放題がいるなどと聞くが、多分本当だろう。権力は権利、というのが長い間に染みついた中国の考え方なのだから。

 

 ウクライナの穀物がロシアの黒海封鎖によって海上輸出ができなくなって困っているが、主な輸出先はアフリカや中東ではなくて、中国らしい。特にトウモロコシは飼料用としてどうしても必要であり、中国も困っているという。多分値切りに値切っていたから、他の国から調達しようとするとなかなかすぐには手にはいらないし割高になるのだろう。飼料が値上がりすれば食肉もあがる。中国国民は食品値上がりには敏感だ。不満が高まるだろう。

 

 中国の物価はあまり上がっていないようだ。デフレ経済だといわれたりしている。多分石油も天然ガスもロシアから買いたたいた値段で買っているから、日本などと較べればはるかに有利だ。その上多分穀物もロシアから買いたたいて手に入れることができるだろう。デフレといっても日本のようなデフレ経済とは違う。しかし中国経済を牽引してきたのは投資であり、その投資の一つは不動産投資で、それが地方経済を支えていた。投資が投資を呼んで回っていたうちはいいが、一度つまずくと玉突きで逆回りしてしまう。地方政府は借金の返済に深刻に苦しみはじめている。

 

 もうひとつの投資は海外からのものだ。中国政府の発表では、海外からの投資はますます増えているから心配ないという。しかし反スパイ法など中国という国のカントリーリスクを恐れて次第に中国から撤退する企業が増えているという話も聞かれるから、海外からの中国への投資が増えているというのは信じがたい気がする。

 

 生産性が低くて対策が必要なのが明らかな国有企業を優遇している習近平政権は、国全体の生産性を悪化させているとも言える。大きな船は方向転換もゆっくりだし、すぐに沈んだりしない。随分前から中国経済はいつか停滞し、衰退するといわれながら全然その兆候を見せてこなかった。ロシアからのエネルギーや穀物で延命することで、不調の顕在化は遅れるだろう。しかし、その遅れが却って対策を手遅れにするのではないか。日本への悪影響を承知しながら、あえてそう期待している。アメリカも中国もロシアも大きすぎるのだ。衰退すればいいのだ。インドもいつかそのあとを追うだろう。

ごん狐

 購入した『新美南吉童話集』(岩波文庫)には14話が収められていて、冒頭が『ごん狐』である。読み直したのは何十年ぶりだろう。

 

 ラスト手前、

 

「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落としました。
「ごん、お前(まい)だったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

 

 このときのごんの気持ちを、初めて読んだ子どものときにどこまで感じていたのだろう。猫を見ていても思うことだが、狐の死生観は人間とは違うだろうと思う。案外そのことには淡々としていて、ただ、兵十が自分のしてきたこと全体を多少なりとも分かってくれたことに喜びを感じていたのではないか、などと考えた。「うなずきました」という簡単な言葉にその気持ちがこめられているような気がしたのだ。

 

 ごん狐はいたずら狐である。かなり悪質ないたずらもしている。ごん狐は「ひとりぼっちの子狐で」と物語のはじめのほうにあるように、孤独である。孤独である者は他者との関わりを求めていたずらをしたりする。いたずらをしたことで迷惑を蒙った者が怒ったり困ったりしたのを見ることも自らのもたらした関わりなのだ。

 

 兵十は母親と二人暮らしの男だ。その母親を病で亡くした兵十は、孤独になる。そうしてごん狐は自分のしたいたずらが兵十にどんな迷惑をかけたのか、初めて気づくことになる。孤独者には孤独者の気持ちを感じ取ることができる。ただ、それはごん狐だけがわかっていることである。

 

 子どものときには、初めて真実に気がついた兵十の気持ちと、その取り返しのつかない事態への哀しみで涙が出たのだが、今回は、「ごんはぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」という言葉に、はじめて兵十に理解されたごん狐の喜びがあったことを感じた。孤独と、そして他者とわかり合うこと、その困難と哀しみは新美南吉が抱えた人生そのものだったのかも知れない。そうして人生にはこのようなことがしばしば起こる。

2023年7月27日 (木)

まぜ書き

 まぜ書きとは、漢字で書ける熟語を漢字とかなを交ぜて書くことをいう。新聞やテレビでしばしば見かけて不愉快である。もし当用漢字でないからというのなら、ふりがなをつけるか、誘拐(ゆうかい)と分かるように書けばいいことで、それを「誘かい」、などと書く。たいてい漢字のままで誰もが読める漢字をわざわざかなにしていることに怒りを覚える。ひとをバカにしているとしか思えない。

 

 子供が漢字を知らなかったり思い出せないならまだしも、マスコミがその字を知らない、書けないということはあり得ないので、どういう基準でこんなバカなことをするのかと、目にするたびにムカムカする。当用漢字ではない字は使用禁止なのか。そんなはずはないと思うが違うのか。いつからそうなったのか。

新美南吉記念館

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新美南吉記念館。歩いている人の先を地下に降りると入り口。新美南吉がいる。左手高台が林になっていて散策できる。

 

 児童文学者の新美南吉は知多の半田の人。前からその記念館を訪ねたいと思っていた。1913年(大正2年)生まれ、私の父よりひとつ年上だ。

 

 私が物語で涙をこぼした最初は『人魚姫』の絵本で、その次ぎが新美南吉の『ごんぎつね』を読んだときだった。そのときの涙はいまだに忘れられない。戦時中の昭和18年に29歳という若さで亡くなっている。作品は二つ三つ読んだだけなので、文庫本を購入した。あらためて読んでみようと思う。

 

 記念館には新美南吉が何人もいる。ぼんやり年譜を拾い読みなどしていて、新美南吉に気がつくとびっくりしたりする。ぽつりぽつりと人がいて、静かに館内を歩いている。やや暗めの照明がいい感じだ。満足して帰路についた。

 

 余談だが、父の兄、北海道に住んでいた伯父、が訪ねて来たときに本を買ってもらったことがある。小学校の一年か二年の時だったと思う。どれがほしいか本屋で訊かれて、いちばん分厚い『浜田広介童話集』を選んだ。長短百話ほどが収められていて、繰り返し繰り返し読んだ。仕舞いには本がバラバラになりかけて、父に補修してもらった。もう一度浜田広介も読みたくなった。浜田広介は山形県置賜郡の生まれで、米沢中学(現興譲館高校)、早稲田大学に進んでいる。父も伯父も山形県出身だから、私がその本を選んだのは偶然だったのかどうかは今は分からない。山形と縁のある人であることを私が知ったのは、おとなになってからである。

篠島を歩く

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港から離れて島内に入る。

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こういう狭い道が高台に通じている。

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あがったり降りたり、分岐がいろいろあって、どちらへ向かっているのか分からなくなる。これは以前行ったことのある日間賀島も同じ。

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高台の上にある小さな神社に到着。

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小さな祠があった。わずかに上っただけ(標高は30メートルほど)なのに汗みずくになる。

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見えている建物は学校らしいが、様子から廃校に見える。夜来たら怖いかも知れない。

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島の反対側を見下ろす。ここで品のいいおばさんに出会う。「こんにちは」と挨拶を交わすと、「大丈夫ですか」と声をかけられる。汗みずくで辛そうに見えたのだろう。たしかにふらふらしてすこし気持ちが悪くなっていた。スポーツドリンクを飲み、日陰てすこし休む。

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下の浜辺に降りる。海水浴に最高の浜のようだが、ほとんど人がいない。私が海につかりたい。

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高台へ戻る気がしないので、ぐるりと山の裾を回っていく。ようやく港への案内を見つけた。

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見事に咲く夾竹桃。インド原産の花だが、潮風と強い日差しに一部の花は焦げたようになっていた。

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怪しい者がいる。

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船の待合室でソフトクリームを食べてクールダウンする。「ねことじいちゃん」という漫画は知らない。

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師崎の港へ戻る。船窓から見える高い建物はチッタランドというマンション。この周辺でよく小魚を釣った。リタイアしたらこんなところで釣り三昧するのもいいなあ、なんて思ったこともある。

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出発点に戻る。帰りの船は行きのより二回りくらい小さかった。

このあともう一カ所立ち寄る。

2023年7月26日 (水)

篠島

 知多半島の沖に人の住む島が三つある。篠島、日間賀島、佐久島である。佐久島はすこし離れていて、西尾から船が出ているが、篠島と日間賀島は、知多半島の河和港か、先端部の師崎港から船が出る。

 日間賀島は釣りもかねて三度ほど行って民宿に泊まり、美味しい魚を食べたことがある。蛸が有名で、タコ飯は絶品である。すぐ隣なのに篠島にはまだいったことがなかったので一度上陸したいと思っていた。車が混まないうちにと思い、六時過ぎに出発し、途中久しぶりだったので知多道路への道を間違え、タイムロスをしてしまったが、それでも師崎港には八時前に到着した。

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篠島、日間賀島への渡し船乗り場。向こうに見えるのは日間賀島で、篠島は右奥になる。全くの逆光。

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むかしは小さな渡し船だったのに、今は大きな高速船になっていた。ここは昔は伊良湖と伊勢をつなぐフェリーの中継地でもあった。いよいよ出港。

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船窓から日間賀島が見える。

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篠島に到着。時間は十分あまりとたしかに高速だ。クーラーも効いていて快適。客は夏休みだから多い。

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道の駅ではなく、海の駅が港にあるのでそこでひと息入れてスポーツドリンクを買う。日差しがきつい。

島の地図をもらって、歩き出す。

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すぐ近くに山頭火の句碑があるというので見に行った。私がちょっと碑面に写りこんでいる。

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知多ではこのタイの大きなハリボテがあちこちに見られる。

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港に沿って歩いて行く。汗が噴き出す。こんなところで釣りをするのも愉しいが、炎天下では多分魚は釣れない。

高台にある神社に行くことにする。

卵の値上がり

 鳥インフルエンザによって大量のニワトリの殺処分があり、卵の値段が高くなっている。鳥インフルエンザに感染した渡り鳥が感染原因だが、今までは渡りの途中で感染した鳥は死んでいたのに、弱毒化して日本まで感染鳥が渡ってきてしまうようになったことが爆発的な感染の拡大の原因だという。さらに感染鳥の死骸の肉を食べたカラスが感染の原因にもなっているらしい。

 

 大型のニワトリの飼育業者は、一度感染したニワトリが出ると飼育場のすべてのニワトリを処分しないとならない。規模が大きいほど被害が甚大となる。

 

 さらに飼料が値上がりしているのだから、卵の値段が上がるのは当然の成り行きで、もともと過当競争で値段が低価格に抑えられている卵の値段だから、値上がり幅は大きくなる。卵は安い。今一個が30円を超えたといっても安い。それが高くて購入できない、などという人は、本当にそう思っているのかマスコミに言わされているのか、などと思ってしまう。

 

 卵を使う食品業界は卵が使えない、などとマスコミに嘆いてみせる。一個30円かどうか知らないが、その原価に見合った値段にすればいいだけのことで、自分の努力なしに卵の値段が下がることを熱望しているようだが、渡り鳥は毎年やってくる。飼料は高いままである。事態は今後も変わらない。それなら今の卵の価格を受け入れるしかないのに頭を切りかえることができていないようだ。

 

 鳥インフルエンザ対策をするための経費をかけられるようにして、卵の供給を継続してもらうために卵の価格をコストに見合うものにすることは仕方がないのではないかと思っている。卵が不当な値上がりをしている悪者であるかのようなマスコミの取り上げ方に腹が立つ。私は卵が好きであって購入を減らすことは考えていない。

水餃子

 昨晩は自己流(適当ということ)の水餃子を作った。合い挽き肉と卵、ニラのみじん切り、そこにオイスターソースと胡椒、片栗粉をすこし多め、さらに今回は山椒を振り入れた。実を入れてその都度挽く山椒の容器と実を以前旅先で買って、その香りと独特の辛さを楽しんでいる。そろそろ実がなくなってきたから、来週の旅先で忘れないように手に入れるつもりである。

 

 それらをよく混ぜ合わせて、すこし寝かせ、餃子の皮で包む。水餃子だからもっと皮の厚いのがほしかったのだが、スーパーの店頭には薄皮の焼き餃子用しかなかった。バットにずらりと並べてから、中華スープを作る。塩をして置いた白菜、シメジなどを入れたものに中華風鶏ガラスープを入れて、胡椒をして、たっぷりのスープを作る。切り落としたニラの根もとのところやレタスの外側などもついでに放り込む。

 

 沸いているスープにどんどん餃子を放り込み、火が通ったらどんどん食べていく。まあまあ満足できる味だった。私の「美味しい」の許容範囲は広いのだ。今朝はその残りを食べている。さあ、今日は出かけるぞ。

2023年7月25日 (火)

後の先

 今日はちょっと出かける予定で、昨晩のうちに支度をしておいたのだが、夜眠れずに朝出るつもりの時間に起きられなかった。それに冷たいものを飲んでばかりいて腹も緩い。出かけるのをあきらめた。ベランダでは軒天のハツリが終わり、吹き付け塗装が始まった。窓を閉めているのに溶剤の臭いが部屋まで侵入してきてあまり気分がよくない。

 

 録画していたドラマやドキュメント、プライムニュースなどを眺めて過ごす。本を読もうとしても集中できない。それに目がかなりくたびれていて、目薬をささないとしょぼしょぼしてしまう。昨日わずかの時間だが右眼と左眼の像がうまく重ならなくなってすこしうろたえた。さいわいすぐ元に戻ったが、以前一度だけ同じようなことがあった。眼の問題なのか、脳の問題なのか調べる必要がありそうだ。その後は問題ない。

 

 暇つぶしに古い戦争ゲームを楽しむ。第三次世界大戦後の世界の秩序回復のために、国連に委嘱されて国連軍と共同戦線を張る部隊の隊長となって各地を転戦する。転戦のあいだに使える兵器も向上して能力も上がるのだが、それはランダムに起きる。今回は航空兵力の能力が低いままで、たいへんな苦戦を強いられている。

 

 戦局にもよるが、積極的に撃って出ると防御側に手痛い反撃を受けてしまうことがある。逆に最初は動かずに相手が攻勢をかけてくるのを待ち、分散して兵站ののびた相手の弱点を衝くと戦況が一気に好転するし、被害も少なくて済むことがある。後の先である。兵力が劣っても勝つ方法はあるのだ。ゲームをしながら、なんだかウクライナの戦況になぞらえてしまう。

 

 こんなことをしているからまた眼がくたびれる。今晩は早めに寝て明日こそ出かけよう。

広告と記事

 前回に引き続いて山本夏彦から

 

 広告はうそをつくというが記事ほどはつかない。広告我を欺かずと私は再三書いたくらいである。原稿というものは掲載されることを欲する。故に日米戦争は避けなければならぬと特派員が思っても、本社のデスクが一戦を辞せずという方針ならそれに迎合した記事を書かなければならない。開戦絶対反対という原稿をアメリカから送り続ければデスクの機嫌を損じ、左遷されるのがおちである。繰り返すが原稿は掲載されることを欲するから心にもない記事を送り続けているうち、心にもあるようになる。
 開戦のような大事でさえそうだから小事ならなおさらで、原稿は月給をもらっている記者が書くから読者を欺くが、広告は一時いくらという大金を払う広告主が書くのだから、読者を欺かないのである。

 

 広告というものは今最も論じなければならない怪物なのに、まともに論じられたためしがない。以前は創価学会が論じられなかった、朝日新聞が論じられなかった、岩波書店が論じられなかった。誰が禁じたわけではない。自ら口をとざしたのである。
 もっとも創価学会は学会の悪口を書いたら承知しないぞ、学会員五百万人に下知してA紙の読者をあげてB紙に移すぞとおどしたから、一部を増やすために千円万円の拡材費を投じている大新聞は恐れて書かなかったのである。ひとり藤原弘達が書いたのを大新聞は見殺しにして、アカハタがとりあげたのになお黙殺して、もう大丈夫と見定めてからいっせいに書きたて、こんどは一番槍は我が社だと言い出したことはもうお忘れだろうから念のために記しておく。
 マスコミはしばしば恥を知れと書くが、かくのごとき人たちのいう「恥」とは何だろうか。恥を知れという言葉は他を攻撃するためだけにあって、決して自分の内部には向かないものと私は心得ている。

 

 古くはオウム真理教然り、いまなら旧統一教会然り、ジャニーズ然り、マスコミというものの本性は分かっているつもりながら、あらためて考えるとなんたる存在なのかと思うことがある。

 広告ということなら、私は今のテレビのCMの異常さに辟易している。CMの合間に番組が挟まっている状態だ。そしてそれがどんどんエスカレートするばかりで、テレビ局は自滅しようとして自滅しているようにしか見えない。今はテレビを観るしかする事のないお年寄りが、暇つぶしにつけておくのがテレビになってしまった。そういうお年寄りはCMを見ても製品を購入する可能性は低いだろう。

 

 私はほとんどNHKとWOWOWしか観ない。たまに観たい民放の番組は録画してCMを飛ばしながら観るから、CMはあってもないのと同じである。若い人も多くがそうだろう。民放はCMがなければ成り立たず、スポンサーはCMの効果がなければスポンサーとして金を出すのをやめるだろう。だからスポンサーはどんどん二流どころ三流どころになっている。たまに観ただけでそれがよく分かる。テレビの終焉である。

新聞についての夏彦節

 山本夏彦の『私の岩波物語』(文藝春秋)という本を読んで夏彦節を堪能している。新聞についての夏彦節の一節、

 

 私が子供のころ、大正末年から昭和初年にかけては子供に新聞を読むことを禁じる家庭がまだ沢山あった。新聞はうそを書く、誇張する、好んで醜聞を掲げる、大人はそれがうそまたは誇張だと察することができるが子供はできない。故に大きくなるまでは読ませない、記事は選んで家長が読んでやるという家があった。これは明治時代からの名残で、昭和十年代まで子供だった友に聞いたら、自分も読むことを禁じられていたと答えたから、その頃までそんな家があったのだと分る。それが絶無になったのは日支事変以後で、戦争の情報は当時は新聞が独占していたから、まして連戦連勝のニュースは親も読みたいし子も読みたいから禁じることはできなくなった。その連戦連勝が多くうそであったことは戦後あばかれた通りで、書いたのもあばいたのも共に新聞なのだから明治大正の家長が読ませなかったのは道理なのである。
 けれども禁じられれば読むのが人情で、私は字も読めないうちから新聞を見た。当時の新聞は総振りがなつきだったから、かなが読めるようになると早速ひろい読みした。父親は書斎にこもったきり出てこないから安心である。母親は読もうと読むまいと気にもかけない。
 戦後新聞が読まれなくなったのは、小学校の先生が読め読めと強いたからである。ことに社説を読めと読ませ、果ては「天声人語」を写させ感想を書かせたから、それで子供は新聞ぎらいになったのである。
 読むなと禁じれば隠れてでも読む。読めと命じれば読まなくなるのが人間の常で、なせ読めと言ったかというと、新聞は常に進歩的で日教組や国労の主張を支持してくれたからで、毎日それを子供に読ませればいずれ天下がとれると思ったのである。
 だから新聞を読ませたければもう一度読むことを禁じるのがいいのだが、いくら禁じてもあの社説では読む者もあるまいと思われる。(後略)
 
 前回の私のブログ、「新聞」は この引用の枕のつもりだった。さらに次回は広告と記事についての辛辣な文章があるので拾い読みする。

2023年7月24日 (月)

新聞

 子どものときから新聞が好きだった。父が読み終わると読ませてもらい、ときには読んでいない紙面を分けてもらって一緒に読んだ。父の好みで我が家はずっと朝日新聞だった。父はアメリカ嫌い、中国贔屓、社会党贔屓だったから朝日新聞は読みやすかったのだろう。長い休みはそこで過ごした母方の祖父母の家では、祖父が朝日新聞が嫌いで毎日新聞だった。結構違いがあっておもしろかった。

 

 名古屋に来て、同じマンションのおばさん(勧誘と配達をしていた。世話好きでマンションの役なども積極的にしていた)に頼まれて中日新聞をとるようになった。名古屋では中日新聞、東京では東京新聞である。地方紙ではあるが全国紙に近い。内容も豊富で不満はなかった。スポーツ欄が中日のことばかりなのは独特だが、スポーツ欄はあまり興味がないから別にかまわない。海外ニュースもちゃんとしていた。

 

 リタイアを機にその新聞の購読をやめた。その頃はひたすらあちこちへ旅に出かけていたから、月の半分は不在で新聞がドアのポストから溢れてしまう。やめてみたらしばらく朝手持ち無沙汰だったが、次第になれた。ニュースはテレビとネットで充分だと思った。

 

 しかし、この頃はテレビのニュースの情報量の薄さに不満を感じる。ネットのニュースにはそれ以上に不満で、くだらないつまらない記事ばかりが目について仕方がない。なんとなく新聞をまた読みたくなっている。ところでどの新聞を購読することにしようか。いつもブログを拝見している方のように、批判的に読むためにあえて朝日新聞を読む、というのも一興かなとも思うし、激減する購読数の一助になるのもなんとなくおもしろくないような気もしている。

叶わぬ望み

 当たり前のことだが、物事がうまく進まなくなったとき、原因をよく見極めずに思いつきの打開策だけを模索しているとうまくいかない。大本の問題を解決しないで無理に進めると、出来るはずのこともこじれてしまい、ますますうまくいかない。そうしてそのもともとの問題が心情的、感情的なものである場合は、よほど丁寧に対処しないといけない。それを理屈や科学的な根拠を元に突破しようとすると暗礁に乗り上げる。

 

 ただ、それらを政治問題化して、対処法についていささかの提案や対策の用意もなしに、原因について非難し、そのうえ物事が進展しないことを非難して騒ぎ立てるのは、ただの邪魔でしかない。なんのことを言っているのかわかるだろう。

 

 自民党岸田政権は何やらせっせと仕事をしているように見える。何もしていない、というわけでないことは見ていればわかるのだが、せっせとやっているはずなのに、評価されずに支持率が低下しているという。重箱の隅をつつくようにして問題の対処をしようとしているように見えるが、問題は彼らが捉えている枠の外にあるのだと思う。ある枠内をしらみつぶしに調べても、答えがその枠の外にあったら成果は上がらない。現役時代にしばしばそういうことを経験した。

 

 すでに彼らが捉えている世界は変わってしまったのだけれど、そのことがよくわかっていないように見える。日本国民は、彼らが考えるものとはちがってきているのではないか。これは私の「感じ」だけれど、うまく具体的なことが言えない。説明する能力はないけれど感じるのだ。

 

 維新は未来永劫立憲と相和することはないと馬場代表は語ったそうだ。自民党以上に世の中の変化に気がついていないのは立憲民主党で、馬場代表はすでに先が見えた、と判断したのだろう。その判断は正しいように見える。立党のメンバーに多くの旧社会党、それも左派を多く抱え込んだ時点で、立憲民主党のこの衰退は予想されていたことである。社民党の没落のあとを追うことは必然なのだろう。難破船から整然と離脱する勇気のある者がどれだけいるか。見苦しい姿を見せるようでは政治生命が終わる。そんなこともわからないのだろうか。

 

 日本が二十世紀後半のような繁栄の道をふたたび歩むことはないだろう。宇宙産業の連続的な失敗、自前のジェット機生産の失敗、IT関連の産業育成の失敗、リストラという、蛸が自分の足を食うような安逸な方策で企業の活力を奪い続けた経営者の無能、知っていても知らなかったふりをし続けて、いざ問題が顕在化すると騒ぎ立てるマスコミ、自恃と矜持を失って自分の快不快だけを価値基準にする国民の氾濫、その結果としての少子化、これらを見せられると、日本は衰退していくしかないのだなあと思うではないか。

 

 能力が低下してしまったのだから繁栄はあきらめて、豊かではなくても静かに暮らせる国であってほしいけれど、叶わぬ望みか。私が生きているあいだぐらいは大丈夫かと思っていたら、思ったより急激に衰退しそうで、他人事ではなくなっている。なるようになるしかないけれど。

そう思う

 銘記しておきたいことを高島俊男が書いていた。

 

 今の自分たちのありよう・考え方だけを、人類の唯一のそれと思っている人を「無知」と言う。「以前はこうではなかったのかも知れない」「他のところではこうではないのかも知れない」と考えられる人は(たとえ具体的にどうであるかを知らなくても)知性のある人である。

 

 このことは、小学生の頃にすでに誰かに教えられたか何かで読んで知っていた。私に知性があるかどうかは自信がないが、無知でありたくはないとずっと思ってきた。知識は豊富らしいのに、上に書かれた「無知」の人にしばしば出会って語ることばを失い、絶句することがある。思えば出会って今までつきあいが続いている人にそのような「無知」の人はいないようだ。語り合えないのだから。

 

 同じようなことを高島俊男は別のところに書いている。

 

 今の日本でそうならどこでもそう、いつでもそう、と信じて疑わぬ無知は、名前のことだけではない。現在のモノサシで過去の日本を容赦なく断罪する人たちを、「終戦五十年」のこの八月、私は新聞紙上でイヤというほど見た。

 マイクやカメラを向けられて、「みんながそう言っている」というのを何度見たことか。

2023年7月23日 (日)

老という語

 読み終えたばかりの高島俊男『お言葉ですが・・・』(文春文庫)に、雑誌に掲載された日高敏隆の論文の冒頭にあった、

 

「老い」とはいやなことばである。どの国のことばを見ても、「老い」とそれから派生する語には、侮蔑的な意味がある。」

 

という文章を高島俊男が引用して噛みついている。

 

 私もその高島俊男の言い分に賛同する。日本でも中国でも、老という語は侮蔑的な意味で使われてはこなかった。どちらかと言えば敬意を表したり、上位であることを表す意味で使われてきたはずだ。いったいどこの国が老をそのような侮蔑的な意味で使っているというのだろう。

 

 動物学者で著作も多い日高敏隆の本をおもしろく読んだことのある私としては、あまり非難したくないが、つい筆がおかしな滑り方をしたと思って残念だ。

 

 ただし、問題はこのくだりを誰も違和感なく読むだろうな、と私が感じたことにある。老いるということは力が衰えることである。社会の役に立ちにくくなったり厄介者になったりすることである。むかしは長命であることはまれであり、そのことが尊重された。老人は力はないが経験が豊富で、そこから蓄えられた知識と知恵があるものが多かったから、敬意を表されたのであろう。いまは無知で無分別な老人が溢れている。数が多いから、昔以上にやっかいな存在であり、若者達は老人を邪魔者扱いし、侮蔑的に見ている。

 

 社会全体がそういう風潮とみて、日高敏隆はあのような文章をうっかり書いたのだろう。まして彼は動物学者である。動物の世界では老の衰えはそのまま死へ繋がる。彼はそれを見慣れている。ただ、言葉として語るとき、それは人間社会のことで、人間社会は弱肉強食ではないというのが建前である。ところが実は人間社会そのものが建て前が崩れてしまって、動物化している。

 

 私が感じたのはそういうことである。

ネバーランド

 ピーターパンが活躍する世界をネバーランドという。妖精のティンカーベルの振り出す粉を浴びれば人は空も飛べる。ただしネバーランドには子供しか住むことは出来ない。「決してないところ」だからネバーランドなのである(ところで、どうしてピーターパンの宿敵であるフック船長がネバーランドにいるのかわからない。フック船長たち海賊は外部からの侵入者なのだろうか)。

 

 ディズニーランドはディズニーが創った現世のネバーランドであろうか。しかしここには子供たちだけではなく大人も自由に入れる。童心に返るのだからディズニーランドの中では子供だと言えないことはないが、それが利益を生む興行である限りネバーランドではあり得ない。

 

 若く美しい少年達を集めて創られたネバーランドがジャニーズか、などと私には見えてしまう。女性たちから見れば、あこがれるだけの魅力があるのだろう。未熟であることはときに魅力でもある。だから彼らはいつまでも成熟した大人の男になった姿を見せられない。何歳になろうと若い。まさにネバーランドではないか。

 

 いつかは醒める夢のように、ネバーランドの夢が剥げ落ちたとき、それがハリボテだったことに気づくことになる。そうしてかわりのネバーランドもどきが出現する。

シナモン

 シナモンは日本では肉桂という。子どものときはニッキと言っていた。その味のするニッキアメは昔から好きである。いまは縁日を歩くことがないからよく知らないが、こどもの頃の縁日では、肉桂の根や枝を何本か束にして赤い帯紙を巻いて売っていた。細いものは安く、太いものは格段に高かった。噛むとニッキの味がした。やや辛く、そして甘味もある。両親は縁日で売っているものはたいてい買ってくれなかったのに、このニッキだけは買うのを許してくれた。安かったのと、私が格段に好きだと思ったからだろう。

 

 だからシナモンの香りが好きだ。ときどき紅茶にシナモンを振ったりする。いまいちばん好きなのは、牛乳にシナモンを振りかけて、砂糖をすこし入れて飲むことだ。ただの牛乳が格段に美味しい飲み物になる。シナモンの粉末は水に溶けないので浮いてしまって見栄えは悪いが、気にしない。砂糖をたっぷり入れたいところだが、糖尿病なので頭の栄養に必要なだけの最小限にとどめている。

2023年7月22日 (土)

川瀬巴水

 久しぶりに美術館にでも行こうと名古屋市美術館や岡崎の美術館の催し物を見たら食指が動かない。松阪屋美術館(ここは結構いい展示をする)で『旅と郷愁の風景』と題して川瀬巴水展をやっている。迷っていると出かけられなくなるので、炎暑の中を見に行った。

 

 川瀬巴水(1883-1957)は大正から昭和にかけて活躍した版画家。すばらしかった。行ってよかった。展示物すべてを一点一点こんなに丁寧に見たのは私としては珍しい。細密で技術の粋を集めたその作品はその光と影、色と光のグラディエーション、空間の奥行きと広がり、すべてが描き出されていて、見ていて陶然としてしまった。大冊のグラビア本も迷わず購入した。

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 余談だが、スティーヴ・ジョブスが巴水のファンで、かなりのコレクションがあるという。それも西洋人好みの明るく派手なものではなく、地味でしっとりした作品が好みだと言うから本物だ。私も選ぶならそういう作品を選ぶ。旅の風景には私が訪ねた場所も数多くあって、それをこういう風に捉えるのか、と感心した。

 

 すこし名古屋市内を歩いたので、本日の歩数は七千歩を軽く超えた。汗をかいて体重も減ったのはいいのだが、昼過ぎになって食べ物屋街を通過しても全く食慾が湧かない。むかしなら考えられないことだ。ちょっと自分ながら心配。

麺食い

 もともと麺類が大好きで、御飯よりも麺類を食べることの方が多い。ラーメン、うどん、蕎麦、スパゲッティ、冷や麦、そうめん、苦手なものはない。食品を入れている引き出しには、すべて何食分も在庫がある。夏は特に麺類の頻度が上がる。

 

 そうめんより冷や麦の方をよく食べる。茗荷を薬味にしたり、薄焼き卵を冷やしておいて具として入れたりする。茗荷がなければ生姜が薬味だ。蕎麦はだいぶ前からおろし蕎麦を食べることが多い。そのために大根を常備している。大根一本は多いから、半分売りを買う。おでんなどの煮物用のときは別にして、たいてい下半分を買う。下側の方が辛みがあっておろし蕎麦に合うからだ。皮ごとすりおろす。そうでないと辛さが出ない。辛さが足りなければ一味か七味をたっぷり加える。

 

 冷や麦やおろし蕎麦のつけ合わせには、茄子を蒸してしょうが醤油で食べたり、キュウリを冷やして金山寺味噌で食べたり、ときにはなた割りキュウリにラー油と醤油にまぶして冷やしておいたのを食べる。どれも体を冷やしてくれるから消夏にいい。タンパク質は日ごろ過剰にとっているから、たまには足りなくてもいいのだ。

前回のブログに蛇足

 わかいとき、團伊玖磨の『パイプのけむり』というエッセイシリーズを愛読していた。この人も文字や言葉の使い方にこだわる人で、ある文章で、「は」の頻用が気になってならないと怒っていた。

 

 たとえば前回の私のブログの題「気になっていたが」というのを「気にはなってはいたが」と書くようなことが團伊玖磨の怒りに触れるのである。なくてすむものなら使うな、というのが彼の主張である。

 

 それ以来「は」を使っていいやらまずいやら、気になって仕方がない時期が続いた。いまもそれが気にならないことはない。

 

 言葉へのこだわりということで、思い出したので蛇足ながら書いた。

2023年7月21日 (金)

気になっていたが

 しばしばぼんやりする。人生ずっとぼんやりしたり、ちょっと意識して生きたりと、それですんできたのだからおめでたく幸せな人生を送ってきたといっていい。ありがたいことだ。

 

 ところで呆れ果てたり呆気にとられたときに呆然としたなどと書いたりしてきた。ぼんやりする、と呆然とするというのはちょっと形として似ているが、違う。この呆然という字を見て、いつもなんとなく気持ちに引っかかるものがあった。「呆」の字をどうして「ぼう」と読むのか、慣用的な使い方だろうと思いながら、気になる。辞書で見ると普通に出ているから別に呆然は間違いではないのだ。こんなことは文字にそれほど鋭敏ではない私にはないことなので、何かの文章でそれに関するものがあったのではないかと思っていた。

 

 たまたま高島俊男の『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)という本を拾い読みしていたら、そこに答えがあった。この文章がかすかに頭の底にこびりついていたのだろう。詳しくはこの本を読んでもらいたいが、この「呆然」が使われ出したのは明治時代からで、本来は茫然を使うのが正しいようだ。これからは意識して『茫然』を使うようにしよう。

 

文字や言葉にこだわるのが苦手な人も多いが、私はこだわるのがどちらかといえば好きである。こだわることの好きな人の書いた本を好んで読んでいるせいだろう。そう言いながら、自分は誤用を頻繁に繰り返しているのだから世話はない。もっと勉強をしなくては。それにしても気になる程度には覚えていたことをよしとするか、読んだことをここまで覚えていないことを悲しむべきか。

ホット・シート

 夜中に一度目覚めたけれど、そのまま闇を見つめていたらうまく眠れた。眼が覚めたら十時前である。病気でもないのに十時間以上も寝たのは何年ぶりだろう。寝覚めは悪くないが、何もする気が起きずにぼんやりする(いつものことだが)。

 

 朝昼兼用の食事をして、昨晩観た映画のことを思い出した。『ホット・シート』という2022年のアメリカ映画。椅子の下に感圧式で爆発する爆弾を仕掛けられた元天才ハッカー・オーランドは何ものかに脅迫されて金融会社から大金をハッキングすることを強要される。事件は外部にも知られるが、犯行は巧妙にオーランドであるという仕掛けがなされている。オーランドは犯人の指示通りに犯行声明文のようなものを読まされ、それによってあちこちに爆弾が仕掛けられていると知らされた警察は手を出せない。

 

 限られた時間の中でオーランドはその能力の限りを尽くして犯人の指示を履行していく。焦れる警察。爆発物処理班のウィンス(メル・ギブソン)が密かにビルに潜入してついにオーランドの元へ駆け付けるが、犯人に探知されてしまう。ついに警察が強行突入する。ウィンスがオーランドの椅子の下を見て爆弾を解除しようとするが、最初から解除するように出来ていないことが判明する。絶体絶命となったとき、どうその危機を脱したか。そして犯人は・・・。意外な犯人(といってもなんとなく想像はついていたが)が明らかになり、さらに新たな危機が訪れる。

 

 物語はシリアスというより過剰なおしゃべりに溢れた少々コミカルなもので、それでいながら意外におもしろく観せてくれた。メル・ギブソンも年とったなあ。

2023年7月20日 (木)

決める

 エアコンはなんとか持ちこたえている。午後、妻の病院へ医療費の支払いに行った。今月の予定は月末の糖尿病の定期検診を残すのみとなった。来週あたり近場の温泉に一泊か二泊したいところだが、検診前に美味しい料理で酒を飲むとせっかく節制した効果が消えてしまう。せいぜいドライブ程度にすることにしよう。しかし温泉に行きたい気分は抑えきれない。

 

 定期検診が終わってから、すこし遠出をしたくなり、来月初めの宿を物色していたら、うまいことそこそこの宿が数日分繋がったので、早速予約を入れた。どこへ行くかは、今回は事前に明らかにしない。旅で走りながらその都度報告することにする。

 

 出かけることを決めたら気持ちが高揚してきた。楽しみだなあ。かなりの距離を走ることになる。くたびれないようにところどころ連泊も入れた。久しぶりにすべて初めての宿である。

瀕死

 今日、エアコンのクリーニングを依頼していた。昼前に業者が来て言うことには、このエアコンはすでに寿命が近く、いま無理にクリーニングすると60%以上の確率で壊れてしまう可能性がある。ただし、仲介業者を経由しているので当日キャンセルが出来ない(キャンセル料が100%)。壊れると新しいエアコンを発注しても一週間以上納品にかかるし、いまとても価格が高い。

 

 そうしていろいろ話したすえ、キャンセルではなく秋にクリーニングに挑戦することになった。九月の後半に白内障の手術で入院するので、その少し前にクリーニングすれば、壊れたとしても数日の我慢で済むし、工事代金も無駄にならないのである。もし無事にクリーニングできればもうけものでゆとりができる。

 

 瀕死のエアコンをなんとかそれまで延命させるということである。それにしても先日来て高い冷媒を入れて代金を支払わせ、クリーニングすればまた冷えるようになります、と言った業者はなんだったのか。本来はそちらの方が専門家のはずなのに。この業者を紹介したメーカーのサービスセンターにクレームを言おうかと思う。

 

 現在室温28.3℃、設定温度を何度にしてもあまり変わらない。ないよりはマシというところで、これで夏をしのぐしかないようだ。

ゆとり

 世界のあちこちで異常な高温となっているようだ。日本では熱中症で倒れる人もいる。その日本ではエアコンをつけるように呼びかけているが、エアコンをもっているのが当たり前だからこそそう呼びかけることが出来るのであって、エアコンをもたない人がほとんどの国も多いだろう。そういう国ではそれが当たり前であっても辛いだろう。世界中が高温化して、年寄りほど高温がこたえるだろうから長生きしにくくなる。世界の平均寿命も短くなるのではないか。だんだん地球は生きにくくなっていく。

 

 もう少しゆっくりと生きにくい世界になっていくとは思っていたが、思った以上にそれが加速しているようだ。エアコンにしても、過ごしやすい温度にするためにエネルギーが使われて、外気にはそれ以上の熱が放出されているから、皆がエアコンを使えばますます高温化してしまうことになる。もう行くところまで行くしかないことになっているようだ。

 

 なんとなく人がギスギスしているように見える。自分だけ損をしているという被害妄想が人を攻撃的にしているような気がする。ごくまれに過剰に怒る人、攻撃的になる人がいたのに、それが次第に一握りの人になり、一定数の人になりとエスカレートしているように見えるが、実際はどうなのだろう。幸い現役を退いてだいぶたつから他人と関わることは激減している。めったに不愉快になるような人に出会わずに済んでいるのだが、ニュースを見てもブログを拝見していても、呆れるような話がしばしばある。自分しか見えていない人の話だ。自分がそうでなければよいが、と自省したりする。

 

 ともすると理由もないのに苛々する。心が焦れている。すこし気持ちに余裕を持たないといけない。そういうときは形から入るしかない。花を買ってくるとか、美味しいもの食べるとか、絵を眺めるとか、臨書をしてみるとか。久しぶりに墨でもすってみようか。篆刻も一つ試しに名前を彫ったきりでそれきりだ。

 

 美術館に行くのもいい。ネットでどんな展示があるか調べてみようか。いま考えているのは、新美南吉の記念館が知多にあるから、来週にでもそこに行くことだ。

2023年7月19日 (水)

普遍的価値

 自由と民主主義は人類の普遍的価値だ、とアメリカは言い、日本も言い、ヨーロッパの国々も言い立てるのに、グローバルサウスをはじめその他の国々にはどうして響いていかないのだろう。そもそも民主主義は人類の普遍的価値なのか。多分普遍的価値などではないのかも知れないと感じていたけれど、「感じ」だけではただの妄想に過ぎない。

 

 山本七平の『豊かな人間性』という小文を読んでいて、ほんの少し見えて来たことがある。この小文は、「豊かさ」とは何か、「人間性」とは何か、について論じている文章なのである。貧しいけれど仲睦まじい家庭と、財産はうなるほどあるけれど争いの絶えない家庭とで、どちらが豊かだろうか。

 

山本七平は、

 

 睦まじくて一塊(ひとかたまり)の乾けるパンあるは、争いありて屠(ほふ)れる畜(けもの)の満ちたる家にまさる

 

という旧約聖書の「箴言」を引用している。

 

 戦後の日本は経済的には豊かになったが、人間的には貧しくなった、といわれる。「睦まじく」を保ちうるものこそまさに「人間性」ということだろう。その人間性について語る前提として、

 

 人間は、歴史が生み出した文化という環境の中で、歴史上のある一時期にある自分として生涯を送りかつ終わる。これが人間の特徴であるならば、「人間性」という言葉は、他の動物のようにその動物一般に備わっている自然的な本性乃至は本能と違って、各民族による「歴史的な本性」と見なければならない。

 

「人間性」も「豊かさ」も同じであり、歴史という条件を欠けば、それ自体が存在しない。それをいくら、自然的条件や外国の尺度で「豊かだ」「人間性尊重だ」と言ったところで無意味であり、その無意味さは「歴史という条件」の無視にある。戦後の問題点の一つはここにあるであろう。

 

 それぞれの民族の歴史や文化にもとづいて生きる人びとに対して、「普遍的」な「民主主義」や「自由」を言い立てていても多分言葉が通じていない。それは相手の問題なのか、相手を理解することなしの押しつけの問題なのか。隔たりが大きすぎていることに気がつかないのは、自分が普遍的価値を唱えているという確信のなせるわざなのだろう。正義はときに独りよがりである。

 

 じっくりと考えて書いておらず、ちょっとだけこうだろうかと思ったこと、見えかけたことを書いたのでわかりにくいかも知れない。申し訳ないことである。

説明

 岸田首相が丁寧に説明すると言いながら、説明が足らないと思われているのはどうしてか。説明にかけた時間と回数は多分「丁寧」と言えるものだったのかも知れない。しかし説明は相手の了解を得るためにしているはずのもので、相手の胸に届かなければ説明したことにならない。

 

 原発処理水の海洋放出について、漁民にいくら説明しても反対の意志を揺るがすことが出来ていないのは、科学的、技術的な説明、論理的に正しいことを繰り返して、理解してもらおうとしているからだろう。科学的に正しいことは、多くの漁民にわかっていないはずはない。処理水が危険か危険ではないかの話ではないのだ。

 

 大震災の後の原発事故により原発周辺で放射能汚染の被害があった。そのときに他県などに非難した避難民がどんな仕打ちを受けたか。福島から非難したというだけで疫病に罹患した人間のような扱いを受けた事例が数多く報じられていた。廃材のうち、基準値以下のものを処理することを拒否した自治体がどれほど多かったことか。「科学的」に安全でも、それを峻拒する人がいるにちがいないから受け入れられない、というのがその理由だった。必要だと知りながら、クレームを恐れたのだ。

 

 そういう理不尽な扱いに対する怒り、哀しみの記憶をもつ人びとに対し、科学的な説明を繰り返してどんな理解が得られるというのか。原発事故の原罪を自分の責任として語る者にしか被災者の理解を得ることはかなわないのではないか。漁民が求めているのは、海洋放出のあとに「福島産の魚は食べないことにしよう」という人たちに、つまり過剰に心配する敏感な人たち(しばしば無知に見える)に、「心配ない」と説得する政府であろう。風評被害を語る人やそれを信じる人によってふたたび被害を受けることこそが漁民たちの反対の理由なのである。その人たちにいくら繰り返し「科学的」な説明を繰り返しても意味がないというのはそういうことだ。

雑感

 岸田首相、そして岸田内閣の支持率が低下し続けているという。国民の代表としてさまざまなことをお任せしているのであるから、敬意を表すべきであると承知しながら、私も信頼感に欠けるように見えてつい悪口を言いたくなってしまう。そういうことの総和が支持率の低下に繋がっているのか。

 

 マイナカードの問題や福島原発処理水の海洋放出について、それが必要だから受け入れようという気になりにくい。必要なのだから国民はいまにあきらめて従うだろう、などと思っているのではないか。丁寧に説明すると言いながら、どれだけの努力をしているのか。

 

 外遊を繰り返して世界の要人と面談し、満面の笑みを浮かべている岸田首相の姿を見て、日本人として誇らしく思うよりも、格下と見られていいようにあしらわれているように感じてしまうのは偏見なのか。同じようなことをしながらその存在感の重みのなさがますますあらわれている気がする。同時に日本の存在感も低下しているとみてしまうのは私の偏見か。逆に、世界の中の日本の存在感が低下してしまったから、日本の首相が軽く扱われる(実際そうなのがどうかは知らない)ことに繋がっているのかもしれない。

 

 その軽さはバイデン大統領の姿にも見られると思う。バイデン自身の資質の問題もあろうが、アメリカそのものが軽くなっていることと表裏一体なのではないかと思う。

 

 プーチンはクリミヤ橋の攻撃をテロ攻撃だと激しく非難している。しからば自分が命令して行っている市民が住む住宅を無差別にミサイルやドローンで攻撃して多くの死傷者を出している行為はテロではないのか。常軌を逸して支離滅裂で、ほとんど狂人にしか見えない。ウクライナの穀物を事実上市場に流通させることを停止し、世界の食糧事情を今以上に悪化させる暴挙を正当化する言葉は理性を失っているとしか思えないが、それでもアフリカや中東の貧しい人はロシアに反感を持たないのだろうか。それほど欧米への反感の方が根強いのだろうか。

 

 日本の農水大臣はそのことについて、日本はウクライナから穀物をほとんど輸入していないので実害は軽微である、とおっしゃった。そのことばの意味がわからないではないが、聞きようによっては「関係ないね」と言っているように聞こえるということに思いが至らない鈍感さに呆れてしまった。すでにこれだけ影響を受けて穀物の争奪戦になり、価格が高騰していて、その上さらにそれが悪化するという事態についての思いが感じられないのだ。大丈夫か。

2023年7月18日 (火)

久しぶりに車を転がす

 冷蔵庫の中をきれいに拭いて、整頓した。もともと独り暮らしだからぎっしり詰めるような買い方はしていないけれど、それでも処分したいものも少なからずあった。だいぶスカスカになったので、必要と思われる物を書き出したメモを持ってスーパーへ買い出しに行く。今日は火曜日で割引の多い日だから、レジの前は行列になっていた。行列は嫌いだ。あんなに大量に買い物してどうするのだろうと思うような大荷物をもったおばあさんがいた。籠に二杯以上のあの荷物、ひとりで持って帰れるのだろうか。

 

 昼食をきちんと摂って、午後久しぶりに車を転がした。知多まで走ってもよいのだけれど、いろいろあってほとんど一か月ぶりなので近場を走った。岩倉、小牧、江南、一宮など、なじみの尾張地区の道を一時間ほど走る。メインの道路はトラックが多い。暑い中、みなお仕事で忙しいのに、ヒマ人が無用の走行をして申し訳ない。運転の勘は鈍っていないから大丈夫そうだ。

 

 明日、明後日は用事で在宅していなければならない。来週にはもう夏休みで、子供たちがにぎやかになるだろう。あちこち家族連れが移動しはじめるなあ。それに中央道も東名阪もあちらこちらで工事渋滞しているみたいだ。出かける気が削がれる。それにフロント硝子の向こうの景色は、見えていることは普通に見えているけれど、やはり黄砂の中のようにすこし霞がかっていて、白内障であることを思い知らされる。九月終わりには入院して両目とも手術する予定だ。

普通の家族がいちばん怖い

 読みかけだった岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』(新潮文庫)を読了した。副題は「崩壊するお正月、暴走するクリスマス」である。もともと単行本の『徹底調査!破滅する日本の食卓』という表題の本を文庫化するにあたり、表題を変えた。

 

 巻末解説を松原隆一郎という人が書いているが、その冒頭に

 

 怖い本である。不快とすら、言う人がいる。どうしてこんなことを書くのか、と憤る人もいる。なぜか、多くの人がそう思いたくない自画像が、ここには書かれているからだ。

 

 その通り、私も読んでいるうちに強い不快感と憤りを感じたけれど、現実から目をそむけていてもいまの日本の家庭、家族を知ることは出来ないと思って我慢して読んだ。その不快感や憤りは著者に向けたものではないので念のため。

 

 この本は著者が行ったアンケート調査を元にして書かれていて、その調査が徹底している。選択式の回答を求めるような安直なものではなく、詳細に、繰り返し追跡調査して調査された人の自覚を超えた事実をあぶり出している。

 

 著者の考えが述べられている。

 

 だが、さらに言えば、私には対象者の回答(発言、記述)内容もあまり信じてはいない。対象者が虚偽の回答をすると思っているからではない。理由は大きく二つあり、近年多くの対象者が「本当にそうであること」より、「そう答えるのが正解だと感じること」を答えるようになってきているという事がひとつ。二つ目に人は自分の行ったことに対して、そんなに自覚的ではないものだという事がある。人が「している」と回答することと「実際にしている」ことの間には、調べると大きな乖離があるものだ。

 

 だから実際の食卓の写真での記録提出も求めている。インタビューを繰り返し、それをテープに記録して文字に起こしてとことん分析した。語り口も含めての癖もすべて文字化したから、テープが擦り切れてしまうほどだったという。資料は厖大なものになった。

 

著者はさらに言う

 

 この本は「日本の伝統行事を大事にしましょう」とか「昔ながらのやり方で手作りしましょう」と言っている本ではない。そうではなくて、クリスマスや正月の食卓、家族の過ごし方をよく見るとびっくりするようなことがたくさんあり、さらに見つめると、そこからいまの日本の家族や社会の実態、変容がよーく見えて来て、それはそれは興味深いと、そう私は言いたいのだ。家庭の伝統行事の崩れを嘆く人は、その前に、こんにちの家庭の激変ぶりを見てからにしてほしい。むしろ私が、そう言いたいと思う。

 

 著者の岩村暢子については養老孟司の対談相手として知った。家庭や家族がある時期に劇的に変容したことを養老孟司が彼女の著書で知って対談相手に選んだのだ。善悪の問題ではない、日本の変容について考察する手がかりになる本だと思う。あえて言えば、少子化の現象の根底にも関わる問題が浮かび上がっていると私は感じた。

 

 蛇足ながら、「これこそ社会学だ」と初めて社会学の意義を実感した。

2023年7月17日 (月)

エアコン不調

 少し前から効きにくくなっていたエアコンが本格的に不調になった。あまり冷えない。28.5℃より下がらない。冷房にすれば青いランプがつくはずなのに、時々点滅するだけである。メーカーのサービスセンターにメールで状況を連絡した。休日だから無理かと思ったらしばらくして電話があって、作業員に連絡してなるべく早めに状況確認に行くよう手配してみるとのことだった。

 

 そうしたら昼少し前に駆け付けてきた。思ったより早い。

 

 調べたところ、年数は経っているが、買い換えるほどではないとのこと。ガスが減っていることと、中の汚れが風量を阻害しているのが問題なのだそうだ。ガスを入れてもらったがこれが意外と高い。ガスを入れても汚れを落とさないとその効果が出にくいので、クリーニングの専門業者に頼むようにいわれる。そういえばずいぶん長いことクリーニングしていない。早速手配して、まだ日は未定だが、今週中に来てもらうことにした。

 

 予想外の出費になるなあ。

金子みすゞを読み終える

 昨日は群馬県の桐生で最高気温39.7℃だったという。桐生の隣の伊勢崎はよく全国の最高気温を記録したりするが、桐生の名が出たのは珍しい。桐生は時々訪ねる。友人の周大兄が居るからだ。周大兄は私が勝手につけた仮称で、中国通で中国語がしゃべれて、会うと居心地が好い。暑さがこたえていなければ良いが。

 

 『金子みすゞ童謡全集』全512編を読み終わった。四月に山口県の仙崎の金子みすゞ記念館を訪ねて購入した本だ。少しずつ味わって読み進めてきた。すこし間をおいて、またゆっくり読み直したいと思っている。

 

最後に収められている詩

 

巻末手記

 

 ーーできました、
   できました、
かわいい詩集ができました。

 

 我とわが身に訓(おし)うれど、
 心おどらず
 さみしさよ。

 

 夏暮れ
 秋もはや更けぬ、
 針もつひまのわが手わざ、
 ただにむなしき心地する。

 

 誰に見しょうぞ、
 我さえも、心足らわず
 さみしさよ。

 

 (ああ、ついに、
 登り得ずして帰り来し、
 山のすがたは
 雲に消ゆ。)

 

 とにかくに
 むなしきわざと知りながら、
 秋の灯(ともし)の更くるまを、
 ただひたむきに
 書きて来し。

 

 明日よりは、
 何を書こうぞ
 さみしさよ。

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散佚していた金子みすゞの詩を拾い集めてこの詩集に収められた512編を出版した矢崎節夫はあとがきの中に以下のように書いている。

 

 一九三〇(昭和五)年、夫との生活に心身共に疲れた末に離婚、親権が父親にしかなかった時代、ふさえ(娘)を自分で育てる望みも失ったみすゞは、「母の養女にしてほしい」という遺言を残し、夫が娘を連れに来る三月十日、二十六歳の若さで自死した。

2023年7月16日 (日)

繊細になった

 今日再放送された『六角精児の吞み鉄本線日本旅』は三陸鉄道だった。三陸は東北大震災前から何度も車で走っているが、三陸鉄道に乗ったことはない。国道を走るよりも海がよく見えて、一度は三陸鉄道に乗って見たいと思う。出発地の久慈にも、田老にも、そして宮古にも泊まったことがある。泊まったのはすべて民宿で、美味しい魚をいただいた。

 

 それらの宿がどうなっているのか。田老の宿は堤防の海側だから完全に津波に吞まれただろう。宮古は高台だったから助かったかどうか。なんだかいろいろ思い出していたら胸がジンとしてしまった。

 

 六角精児が歌う「負けたんじゃない、逃げるんじゃない、ほんの少し弱くなっただけ」という歌詞が沁みる。紀行番組などを観ていても、なんということのないワンショットに心が動かされる。ほんの少し弱くなったのかもしれないが、それよりすこし繊細になった気がしていて、そのことは悪いことではないなあ、などと思った。

山と空

 防災訓練で組長達の話を聞いていたら、三分の一近くが磁気シートを扉の表に貼りだしていない組があったようだ。回覧板を回して連絡しているのに。それとも三連休でどこかへ出かけている家が多かったのだろうか。いざとなったときは誰かがやればいいと思っているのだとすると、心配だ。年々そういう家が増えている気がする。

 

金子みすゞももう少しで読み終わる。

 

「山と空」という詩

 

 もしもお山が硝子だったら、
 私も東京が見られましょうに。
 ーーお汽車で
   行った、
兄さんのように。

 

 もしもお空が硝子だったら、
 私も神さまが見られましょうに。
 ーー天使に
   なった
   妹(いもと)のように。

 

昨日紹介した「去年」という詩に、どうして私がゾッとしたのか・・・。去年とは過去のことで、過去は黒い帆を上げて忘却の海へ去って行く。その舟をあげてくれる港はないのである。黒い帆は「死の影」そのもののように感じたから。自分自身が過去そのものになりつつあるから。

防災訓練

 本日の午前中はマンションの防災訓練。まず各戸に配布された磁気シートを玄関扉の表に貼りだす。このシートには、片面が「無事です」と書かれてあり、反対側には「救助を要請します」と書かれている。ふだんは忘れないように扉の内側に貼りつけているが、これから外に「無事です」を貼りだすことにする。

 

 組長はそれをチェックし、「無事です」ではないところは戸別訪問して確認する。「救助要請」はないと思うから、貼りだしていない家にその趣旨を理解してもらわないとならない。必ず無視する家があり、知らなかった、なくした、などという家があるからたいへんだ。

 

 そのあと中庭で緊急時のレスキュー法などを消防署の人に教えてもらう。簡易式の担架の作り方など、簡単なことなのだが、知らないと身体の不自由な人や怪我人の緊急避難時に戸惑うものだ。この三年ほどコロナ禍で中止になっていたことだが、久しぶりなのでちゃんと参加するつもりである。地震や火事はいつ来るかわからない。そしていつかは必ずあると思っておかないといけない。

2023年7月15日 (土)

去年

 金子みすゞの『去年』という詩

 

  お舟、みたみた、
  お正月、元旦、
  旗も立てずに黒い帆あげて、
  ここの港を出てゆく舟を。

 

  お舟、あの舟、
  乗ってるものは、
  きょうの初日に追い立てられた、
  ふるい去年か、去年か、そうか。

 

  お舟、ゆくゆく、
  あのゆく先に、
  去年のあがる港があるか、
  去年を待って、たあれか居るか。

 

  去年、みたみた、
  お正月、元旦、
  黒い帆かけたお舟に乗って、
  西へ西へと逃げてく影を。

 

この詩を読んで、なんだかゾッとした。

ぼんやりする

 昨日はぼんやりしていた。とことんぼんやりしていた。ぼんやりし、座ったまま意識が飛んで、気がつくと30分ぐらい経っていて、その合間に本を読み、腹が減るので食事をしてまた本を読んだ。そんなことを繰り返して気がついたら朝になっていた。

 

今週読み終えた本
 曾野綾子『人間とって病とは何か』
 曾野綾子『魂の自由人』
 曾野綾子『晩年の美学を求めて』
 養老孟司『養老訓』
 橋本治『知性の転覆』

 

 他に読みかけの本多数

 

 目がかすんで字が読みにくい。

2023年7月14日 (金)

思い出す

 養老孟司の『養老訓』(新潮社)という本を読んでいたら、

 

 定年後にすることがない、なにを学んでいいのかも分からない。そういう人がいるのが信じられません。よほどの怠け者だとしかいいようがないですね。

 

などと書かれていた。

 

 私はリタイアが決まって、まだ在職中ながら有休消化にはいったときに一週間あまり湯治をかねた東北旅行に出かけた。本を十冊ほど抱え、温泉に入り、本を読み、昼寝をした。世間の人びとがちゃんと働いているときにこんな生活をしていいのだろうか、などというやましい気持ちもありながら、この世の極楽を実感していたことを思い出していた。

 

 自分で自分の時間を自由に使えることの素晴らしさはたとえようもなく嬉しいもので、あれもしたい、これもしたいと思ったものだ。養老孟司のいうように、やることが思いつかないなどということは信じられないことであった。

 

 いまそのやりたいことに逆に追いまくられている気がしている。体力気力が気持ちについていけなくて息切れ気味だ。

 

 養老孟司は「ボーッとしていればいいやと割り切ることもときには好いではないか」ともいっている。だんだん「ボーッとしている」日が増えてきた。でもそれで好いのだろう。そうして少しずつありがたくなっていくのだろう。

2023年7月13日 (木)

私にはよく効く

 昨日のスーパーへの買い出しのついでに、冷たいものを飲み過ぎたせいか胃腸がややへたり気味なので胃腸薬を購入した。昔からキャベジンコーワをよく飲む。常用していたりしたが、常用しすぎるとぼけに繋がる、などという説もあるらしいので、必要なときにだけ飲むが、これが私にはよく効く。ストレスなどで胃痛などがあっても、二回も飲めばほぼ解消する。

 

 さらについでに弱い睡眠剤はないか薬局で尋ねたら、ドリエルという睡眠改善薬を勧められた。少し前にストレスで眠れなくなったことがあって飲んだことのある薬だ。一度に二錠というのが用量だが、私にはよく効くので二錠飲むと翌日の朝もまだ頭がぼんやりしたままになってしまう。久しぶりにこれも購入する。これは一時的に使用して連用はしないことが勧められる。人によって全く効果がないと苦情があるそうだ。私は一錠飲めば眠れるし、いまなら睡眠のリズムさえ戻ればしばらくは必要ない。

 

 曾野綾子の本はしばらく読むのを中断する、と少し前に書いたが、読みかけが五六冊あって、途中で打ち切るのも気になるので片付けている。ほぼ読み終わり、あと一冊だけになった。読書記録を手帳とノートに書き残している。手帳は著者名と書名だけを読了した日に記入している。もう三十年以上続けているもので、そのためだけの手帳を毎年年末に購入する。もうひとつのノートは、どんな本をどんなペースで読んでいるのかがわかるように記録するものだ。これはまだはじめて一年ほどで、本当は毎日記録したいが、実際には週に二三度記入する。著者名と書名、そして何ページ読み進めたがわかるようにしてある。私は何冊も並行して読むので、こうしておかないと収拾がつかないのだ。

 

 それによって一日あたりどのくらいのペースで本が読めているのか、どんな本に苦戦しているのかもわかる。読みやすい本が多ければ一日あわせて200~250ページというのがいまのペースだろうか。もちろん全く読めない日というのもある。

 

 自分がいまどのような調子なのか、形にしないとわからないところがあって、それが私のバロメーターである。

アジア版NATOは不要

 中国外交部の王文斌報道局長は「アジア太平洋版NATOは必要ない」と述べたそうだ。NATOが東洋に進出しようとしている、というのが中国政府の認識らしい。たしかにNATOの事務所を日本に開設しようという動きなどもあって、中国はそれに反撥したのだろう。その中国に行ったばかりのフランスのマクロン大統領は中国におもねって事務所開設に反対している。中国の意向を忖度したと見られている。金に目がくらんでいるのである。

 

 報道局長は、「冷戦の産物であるNATO」は他国の内政に干渉し、多くの戦争に入り込み、陣営対立を深めていると批判し、「中国こそが世界平和の建設者」だと述べたそうだ。

 

 アジア版のNATOが検討されている、などという話は今のところないように思うが、中国はどこからそのような妄想を思いついたのだろう。「冷戦の産物」であると中国が言うNATOは当初はソビエトを、そしていまはロシアを対象にしている。アジア版のNATOが検討されるとしたら、当然対象は中国であるにきまっている。中国がそれに反撥するのはわからないではないが、「必要ない」と中国が言うのもなんだか変だ。ロシアが「NATOは不要だ」と言ったら、たしかにそうだろうけれど、さすがにロシアもそんなことは言ったりしない。不要か不要でないかは、参加するかしないかを判断する国の問題である。それとも中国はNATOに参加するつもりでもあるのだろうか。

 

 国家として発言するときは、自国の意思を表すもので、他国の意思を上から目線で勝手に語るのはいかにも傲慢である。それに中国が世界平和の建設者だと豪語するのは南沙諸島の勝手な自国への取り込み、尖閣諸島問題(問題ないところに問題を言い立てる)、台湾への軍事恫喝など、日ごろの行動を見れば、ジョークでしかない。

出かけなくて良かった

 昨日は早朝に知多へドライブに行こうと思って準備していたのだが、夜よく眠れなくて、その結果朝寝坊してしまった。それから出かけると名古屋市内の渋滞に巻き込まれるのであきらめた。以前ならそんなことは気にしないが、今は楽に運転できない状態は回避したい。そうしたら昼過ぎに激しい雷雨。知多でもそうだったかどうか知らないが、すこし歩くつもりでいたから、出かけなくて良かったと思っている。

 

 明日も雨模様。梅雨明け前の変化の激しい天候が続いている。来週は梅雨明けか。

 

 昨日の昼過ぎに温水器のメンテナンスを頼んでいる会社から電話があった。ちょうど今日、私のマンションの近くへ来る用事があるという。年に一度のメンテナンスのタイミングでもあるので、ついでということで午前中に来てもらうことにした。今日これから来るということだ。一時間ほどで済む。昨晩、言われるとおり温水器のスイッチを切っておいた。夜の風呂の分くらいは温水タンクにあったから問題なし。どうせタンク掃除のために一度すべて空にする。

 

 エアコンが効きにくい。一度スイッチを切って、しばらく置いてから思い切り低温で最強にしてみる。外が雷雨ということで、外気が一時的に涼しくなったからだろうか、そのあとはなんとか回復した。買ってからもう十数年は経つから、そろそろ寿命なのかもしれない。この夏をどう乗り切るか、様子を見て、どうしても不調が続くようなら秋以降に交換を考えなければならないかもしれない。どうしようもなければ、寝室のエアコンは元気でよく効くから、そこで夏をしのぐことにするしかない。

2023年7月12日 (水)

懐かしい

 昨晩の「新日本風土記」は山形だった。山形は父のふるさとであり、私も四年間学生時代を過ごした場所だから懐かしい。一年間を過ごした山形市(残りの三年間は豪雪地帯の米沢)では、市内を流れる最上川の支流の馬見ヶ崎川の近くの下宿にいて、小魚を釣ったりした。市内のシンボル、千歳山には毎月のように登った。

 

 その馬見ヶ崎川の東岸に味噌や醤油などの醸造所がたくさんあるのを番組で初めて知った。小さな味噌蔵で頑張っている女社長はとても魅力的に見えた。人に依存する前にまず自ら立ちあがるという人は、見ていて好感が持てる。最近そういう人は増えているのか減っているのか。減っているのならどうしてなのか。

 

 草木染めをしている女性も紹介されていた。さまざまな植物を使って染めているが、やはり最後は紅花染めだった。私が卒研でお世話になった講座では、当時紅花の色素の同定(構造を決定する)と合成をテーマにしていた。だから大量の紅花を購入してすりつぶし、発酵させてから紅餅を作って乾燥させる。そのあとは色素の抽出だ。それを目の当たりにした。私はひとりだけそれとは別のテーマを教授から与えられていたので、脇で見ているだけだったが、紅花については多少知識もあり、思い入れもある。

 

 仕事の関係で草木染めをしている人から化学的なことについて電話で問い合わせをうけたことがある。仕事に繋がるような話ではなかったけれど、とても興味深かったので、そのあと何度かやりとりして、草木染めのおもしろさを教えていただいた。それを思い出した。草木染めではないが、染色の工場には仕事でよく行った。新人の頃には勉強のためにお手伝い(実際には邪魔)をさせてもらったこともある。商売用のセーターの染めなどをさせてもらったこともあって、指定の色とだいぶ違う色に染まって笑われたりした。

 

 先月には息子夫婦が山形へ旅行に行き、土産にサクランボを送ってくれた。食べながら山形を思いだし、番組を観て久しぶりに山形の空が見たいと思った。

ニュース雑感

 保険証をマイナカードに一元化するのを来年ではなく一年間延長し、2025年秋に繰り延べるらしい。マイナカードの不備のチェックが間に合わないからだという。遅れれば遅れるほど国民の不信感は高まる気がする。マイナカードの保険証一体化は、それがどのようなメリットがあるのか、不信感を持っている国民に「丁寧な」説明がいつどのようにされるのだろうか。すでにしたことになっているのだろうか。メリットがあるはずだから、良かれと思って推進したはずで、しかしそのメリットがそもそも岸田首相や河野大臣に理解されていたのかどうか。知らないものを説明は出来ない。だからさらに思いつきで民間のクレジットカードやポイントカードに割り込もうなどと発想するのだ。

 

 経産省のトランジェンターのトイレ訴訟は、最高裁で原告側が全面勝訴した。こういうことのだれもが納得する解決法はあり得ないと思っていたから、裁判官が全会一致であったということが信じられない。現実を裁判所が追い越した気がする。こうしてこのトランスジェンダーは大手をふるって女子トイレを利用し、場合によって公衆浴場にも女風呂にも入るだろう。そうでなければ理屈に合わない。それがいやだから、その人がいたらそこを利用しない女性がいないとは思えない。ほとんどが不便で遠くても、その人がいない方を探して利用するだろう。

 

 なんとかいう、死んだ芸能プロダクションの社長が性的加害を繰り返していたという話が延々と報じられているが、そういうことはあるだろうなあとだれもが薄々感じていたことで、だいぶ以前に実際に事実が認定されたこともあったのに、マスコミは大衆がわかるように報じなかった。そのあとも続いたのをマスコミは当然知りながら見て見ぬふりをし、いったん報じてもいいのだとなると、一斉に正義の筆誅を加えはじめた。そうなると性的加害者は極悪人であるから、その人にも好いところがあった、と言っただけであたかも加害者であるかのように叩く。山下達郎が「裸の王様」などと言われているのでなにごとかと思ったら、そういうことのようだった。

 

 昭恵夫人が「晋三記念館」を建てたい意向だという。記念館や肖像というのは当人に敬意を深く感じた人たちが集まって建てるものだと思うが、夫人は当人の妻であり、身内である。そういうのは恥ずかしいことだと考えることのできない人なのだなあ、と思う。

欲望を包む皮

 橋本治(1948-2019)をご存じだろうか。私が初めて彼を知ったのは、高校生か大学生になったばかりの頃で、若者用の週刊誌「平凡パンチ」の彼のイラストと、それに添えられたわさびの利いたひとことを見て感心したときからだ。その少し後に、「とめてくれるなおっかさん 背中のイチョウが泣いている 男東大どこへ行く」という名文句が彼のキャッチコピーだったことを知った。まさに彼は団塊の世代、大学紛争のど真ん中にいた。彼は東大生である。

 

 彼は作家として小説やエッセイをたくさん書いていて、若い頃にそのうちの何冊かを読んだことがある。独特の語り口調の文章はいかにも軽いが、彼の考えをなぞるように読ませてしまう力がある。結論があってそれに向かうのではなく、だらだらと「こうでしょう、そしてこうでしょう」と言葉をかさね続けて、いつのまにか彼の主張を「なるほど」と思わせてしまう力がある。

 

 闘病していて、そのあと亡くなったことを知ったが、そのときに彼の比較的新しい本『知性の転覆』(朝日新書)を購入し、彼を偲んだ。その本をふたたび読んだらほとんど覚えていないから、新しく読んだ気がしている。彼の独特の語り口を紹介する。

 

 人間というものは、形が定かではない「欲望」というものを薄い皮で包んだもので、その「欲望の皮」のことをモラルと言う。その皮が厚くなって行くと身動きがしづらくなるので、「マナー」というそれほど厚くない皮で包むのが、社会生活を行う人間だが、人の質が劣化するとマナーの皮は厚くならざるをえなくなって、「自由を奪う」という方向に進む。だから、「欲望を包む皮」は薄い方がいいということにもなるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸分かりになる。
「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自己の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。第一章で言った「“自分”を消す必要」というのは、「未熟ではだめだ」ということだが、自己主張を丸出しにした「不良」が下品だというのはそういうことで、「未熟」というものを野放しにしてしまえば、下品にしかならない。これは身分制社会のあり方とは関係ない、社会的ソフィスティケイション(都会的洗練・引用者註)の問題である。
「欲望を包む皮」は、いくら薄くしてもなくなりはしない。それがなくなることは人間としておしまいであるようなものだから、いくら薄くなっても、その「皮」はある。自由を求めて欲望を全開にしたい人は、その皮をなんとかしてなくしたいと思うから、「皮がある」と思うだけで、「分厚い皮に覆われて自己表出が妨げられている」というような気がしてしまう。それは一種の「病気」ではあるけれど、その「どうにもならない皮の存在」が気になった人は、皮の内側の欲望を激しく躍らせる・・・つまり、強く自己主張をする。
 その強い自己主張はなんのためにあるのかというと、当人の「自己主張をしたい」という強い思いによっているだけだから、実際に「なんのため」という目的も方向もない。「私は抑圧されているから、自分を解き放たなければならない」であったとしても、別に日本社会全体に「抑圧」などというものはもうないから、それは「当人の問題」でしかない。
「抑圧」というものは日本社会からなくなって、社会が抱える問題は、いまや「誰も彼もが自己主張をせずにはいられなくなってしまっている」というところにあるはずだ。

 

 どうですか、ちゃんとついていけましたか。ちっともむずかしい言葉は使われていない。「その通りだなあ」と思うようなことがわかりやすく書かれていて、その代わりこのような文章がずっと次から次に続いていく。リズムに乗れば流れに乗れてしまう。ただし、その流れに乗れないと、なにが書いてあるのかさっぱりわからないということになる。

 

 こういう知性もある。この本の副題は「日本人がバカになってしまう構造」である。

2023年7月11日 (火)

仕分けをきちんと

 相変わらず、いわゆる迷惑メールが送られてくる。一時期下火になったと思ったら再開し、さらに数が増えている。Amazonを騙るメールなどはいかにもの文面だが、一度でよさそうなものが一日に二度も三度も送られてくる。却って迷惑メールです、と認めているようなものだ。ソフトバンクとは契約していないが「フトバンク」などとミスタッチしたものが繰り返し送られてくる。そもそももっていないカードからの、不正アクセスがありました、という連絡が何種類もあって、下手な鉄砲も数撃ちゃ・・・のつもりだろうが、絶対に当たらない無駄弾を撃っているだけだ。

 

 気持ちが悪いのは、もっているクレジットカードからのメールらしいものが迷惑メールに分類されていたりすることだ。過去そのカード会社から来たことのあるメールとほぼ同じなので開けてみたくなるが、万一を考えて止めている。明らかに迷惑メールなのにすり抜けるものもあるから、逆に迷惑メールではないのにそちらに分類されたりすることもあるだろうという気もする。仕分けをきちんとしてくれるとありがたいが、完璧は求めても無理なのだろうなあ。どうしてこんなものがのさばっているのだろう。多くの人が迷惑しているはずで、もっと公的に駆除するシステムが出来ないものかと強く思う。デジタル社会になんとなくうんざりし始めている。

たてつづけに

 学生時代は寮で暮らしていたので、先輩や後輩も含めて親しくしていた人は多かったが、次第に疎遠になる人が増えて、いまだに手紙や電話、メールなどで連絡し合っているのは三人ほどになっている。その一人から、世話になった先輩が体を悪くして入院したと連絡があった。多芸な先輩で、人望もあった。しかし最後に連絡し合って二十年以上経っている。しばらく考えたけれど、このまま遠くから健康回復を祈るだけにしようと思った。

 

 そうしたら後輩から、その後輩と親しかった男がやはり体調を崩して入院したという連絡があった。入院した男というのは気のいい男で、大学の同窓会の幹事をしているという情報を知り、今回連絡のあった後輩に彼の消息を尋ねた矢先である。それを思い出して、後輩はわざわざ連絡をくれたのだろう。

 

 たてつづけの連絡には、自分がそういう年齢なのだということをいやでも感じさせられた。体調万全とはいいがたいものの、いまのところ不自由なく暮らせていることをありがたいことだと思った。

 

 長野の親友から蕎麦が送られてきた。毎年のことである。私もすでに彼の大好きな酒を送る手配をしてある。久しぶりに会いに行きたくなった。会ってバカ酒を酌み交わしたくなった。

築山殿

 歴史を現代の価値観で解釈し直したりしてはいけない。それでは善悪で歴史を見ることになってしまう。

 

 NHKの大河で、悪女として知られる徳川家康の正妻の築山殿が、従来とは全く違う解釈で描かれていたようだ。築山殿は家康より何歳か年上で、私は家康を上から目線で見る傾向があった女性ではないかと思っている。今川家の人質だった家康に娶あわされたという思いがないとは思えないのだ。

 

 家康の母は、家康が幼い頃に離縁されて知多の阿久比というところの武将と再婚している。家康もこどもの頃に訪ねていったりした。しかし人質にされた後は母には会えていない。母親への恋しさがつのっただろう。家康は三河の主になってからたくさんの女性と関係を持ったが、若い女性よりは人妻とか未亡人を好んだという。大人の女が好きだったのだ。それはある種の母恋しさの故ではないか。

 

 だから年上の築山殿とも最初は案外うまく行っていたのではないかと思う。しかし次第に自分にマウントをとろうとする彼女に疎ましさを覚えて別居するようになったのだろう。築山殿の方は、自分から心が離れていくその家康がだんだん憎くなっていったと想像される。それが長男の信康への偏愛となり、その信康へ嫁いできた信長の姫に対して姑としてのいじめが限度を超えたものとなって、姫の信長への直訴となり、重ねて武田との密書の交換なども露見して家康も放置できなくなったと思われる。

 

 こういうのがいままでの築山殿事件の背景として知られていることで、私もそれが妥当な事実だと思う。ところが、この事件については徳川家にはあまり文書が残されていないから、想像力を働かせても好いのだ、というのが現代風価値観による今回のドラマの展開らしい。徳川家にそれらのことが残されなかったのは、この事件が徳川家の汚点で、思い出したくなかったからというのは自然な解釈で、もし今回のドラマのような、徳川家のために死んだ、などということなら却って誰かが彼女のため、信康のためにそれを密かに書き残しただろうと思う。

 

 以上は直接ドラマを観ていない私が、このドラマについて詳しく批判している記事から勝手に想像して書いた。

2023年7月10日 (月)

16区

 政教分離が建前なのに、どうして創価学会がバックにいることが明らかな公明党が公然と政治活動出来るのかがよくわからない。調べればちゃんと法理上問題ないはずであるが、特に知りたいとも思わない。

 

 遠からずあるといわれる衆議院議員選挙で、東京での与党の自民党と公明党の選挙協力の交渉が決裂したことで、公明党候補の対抗馬を自民党が立てる場合もあることになった。しかし与党分裂を回避するために、自民党は代わりとして、定数是正に伴う新設区について、公明党に譲歩することになったそうだ。

 

 私の居住区は愛知16区、新設区である。ここは公明党が候補を立てるので自民党は候補者を立てない。冒頭に書いたように、公明党にあまり票を入れたくない私としては、維新や立憲の候補に投票することを考慮せざるを得ない。もちろん人物とその政策も参考にするが・・・。そう思う人は少なくないと思うがどうだろうか。見かけ上の党利党略が、元も子も失うことになるのではないか。

突然思いつく

 北朝鮮とアメリカは握っているのではないかと突然思いついた。その妄想に基づく根拠は、北朝鮮の中国に対する恐怖であり、そしてアメリカの軍需産業の暗躍である。北朝鮮は朝鮮戦争後、最も影響力のあったソビエトの支配(そもそも金日成はソビエトの傀儡政権として樹立された)から脱することが出来たが、国内経済は瀕死の状態になり、ソビエトに変わって中国の支配下に近い状態に追いやられた。幸い中国とロシアが係争していること、そして中国国内では大躍進の失敗や文化大革命などがあって、中国の矢面に立たずに切り抜けてきた。

 

 ところが毛沢東の死後、中国が経済的に急拡大し、国力を充実化すると共に、北朝鮮は中国にたいする経済的な依存が増えて、次第に属国化の状態になった。このままでは中国の支配下にはいらざるを得ず、場合によって中国領に組み込まれかねない。それを阻止するにはアメリカと水面下で手を握るしかない。こうして表向きはいかにも敵対しているように見せて北朝鮮は核をもつに至り、中国も容易に手を出しにくくなった。アメリカは北朝鮮が核をもつことを暗に了解していたのだ。

 

 アメリカは北朝鮮の脅威をことさらに煽り立てることで、韓国や日本の軍備増強を必然化させた。そうなればアメリカの兵器が必要になり、軍需産業は潤う。いくら見かけ上は赤字でもアメリカはそこで元が取れているのではないか。台湾有事だって似たような構図がありはしないか。

 

 陰謀論はこういうストーリーをもとに組み立てられる。ちゃんとつじつまは合う。しかし根拠はない。ところで、私はそういう陰謀論を信じているのではないので念のため。まことに素直に、普通に報じられるニュースを信じていますよ。

続くと鈍る

 曾野綾子の本がたくさんあって、すくなくとも一度は読んだ本で、処分するか、押し入れにでもしまい込むためにすべて読もうと思って、春先からすでに二十数冊ほど読み返した。同感することが多いので、あらためてなるほどと思ったところに付箋をつけたり一部をブログに紹介したりしてきたが、あまり続けて読んでいたらだんだんその文章からのインパクトが薄れてきた。気持ちへの響きが鈍っている。曾野綾子が悪いのではない。こういう本を続けて読むものではないのであって、読み方が悪いと気がついた。ここで一度中断することにする。

 

 相変わらずエンターテインメント本を読む気がしない。そういう本ほど早く読了して処分してしまいたいのだが・・・。すこし読書の傾向を替えてみようか。金子みすゞはようやく半分ほど読み進めたが、こちらも次第に心の琴線へ響きにくくなっている。作品の問題か、私が鈍くなったのか。

 

 映画も手応えのある映画ではなくてカルト風のものばかり観たら、頭が軽くなってしまった。軽いのは楽ではあるが、中身が薄っぺらになっているということでもあって、どうもよろしくない。せいぜい一日一本くらいにしておかなければ。

 

 昨日はずいぶん強く雨が降ったようだが、土日は完全引きこもりで、外部はネットでおおわれているのであまり実感がない。今日は午前中は雨が降らないらしいので、すこし買い出しに行こうかと思い、久しぶりに買い物リストを作った。

2023年7月 9日 (日)

さらばブルース・ウイリス

 『デンジャラス・プレイス』、『ドント・サレンダー スナイパーズ・アイ』というブルース・ウイリス主演の映画を観てきたが、それに引き続いて、『デッド・ロック』(2021)という、警察に誤射されて殺された息子の復讐のためにダムを占拠する犯人役で、ブルース・ウイリスが出ている映画を観た。主人公はダムの保守をする元軍人で、単独で犯人グループに立ち向かう。主人公の弾は当たるが犯人の弾は主人公に当たらないという映画。駄作とまではいわないが・・・というところか。ダムの放流が始まり、下流の街が水に吞まれていく様子がウクライナでのロシアの暴挙と重なった。

 

 続いて、『ヴェンデッタ』(2022)という、やはりリベンジ映画。自分の娘を殺した男を主人公が襲って殺してしまうが、その男はギャングのボス(ブルース・ウイリス)の息子だった。その息子の兄が報復に訪れ、主人公の妻を射殺、主人公も瀕死の重傷を負うが奇跡的に命を取り留める。生き返った男が妻と娘の仇を討つために組織に立ち向かう。可もなく不可もなく、という映画か。敵役のボスの息子(兄の方)のニヤニヤ笑いが不気味で、光っていた。

 

 『ザ・ローブ』(2022)という映画は近未来、超能力者が多数生まれ出て、彼らが犯罪に手を染めるが、その超能力が封印されるようになり、彼らを収容する特殊な収容所が舞台という変わった映画。ほとんどコメディタッチで、独房の奥に収容されている最凶の男が主人公で、もちろん演じるのはブルース・ウイリス。物語の展開にはほとんど関わらず、密かに囚人たちを裏から操作しているだけ。これなら台詞も少ないし、アクションもないから、認知症の彼にも主役が務まっただろう。うーん、なんだかガヤガヤとした映画で、我慢が必要だったが、おもしろいところもなくはなかった。マイケル・ルーカー演ずる刑務所長(監督と呼ばせていた)がユニークで、ひたすら喋りまくる。この人、好いなあ。

 

 これでブルース・ウイリス特集はほとんど観た。俳優としてのブルース・ウイリスはこれで見納めだ。さらばブルース・ウイリス。

睡眠薬代わり

 生活がマンネリ化している。それなのに、というか、だからというか、体のリズムが狂ってダル重状態である。うまくスムーズに入眠できる日もあるが、全く眠くならずにだらだら起きていることも多い。読みでのある本、(むずかしい本というわけではなくて)いろいろ考えさせてくれる本を読むと、読むことで頭が疲労して、くたびれて眠ることが出来たりする。

 

 ここ数日は山本七平(1921-1991)の本を読み散らしている。『山本七平ライブラリー』全十三巻(文藝春秋)が書棚にあって、まだ読了したものは数冊のみ、他は拾い読みしかしていない。いまはその中の第六巻『これからの日本人』を寝床のお供にしている。比較的に短めの文章がぎっしりと集められていて、短いけれど濃縮した思いがこめられている。読みながらいろいろ考えさせられる。三十年以上前に亡くなった人の書いた本が、まさにいまの日本のことを書いているように新しい。本質を見抜いている人は、驚くほど未来を予見している。

暇すぎると

 暇すぎると却って本が読めない。思えば現役中にはわずかな時間を惜しんで本を読んだものだが、いくらでも時間があるというのは、芥川竜之介の『芋粥』のように却って食慾を失わせる。いまマンションの補修工事で周りがネットで囲われて、カーテンも閉めているから、時計がなければ今何時だか、つまり昼だか夜だかわからない状態にいる。もちろん閉じこめられているわけではないから出入り自由なので、自ら閉じこもっているに近い。

 

 そういう状態が続いているところに暑さが重なって、なにもする気が起きない。さらに運動不足でもある。人間は30℃を超えると思考力が著しく低下しはじめるというが、私はそれより低い気温で、すでに著しく低下したままである。これは気温のせいばかりではなさそうだ。

 

 月曜日までは雨らしいが、そのあと天気が好かったらすこしドライブにでも出かけようかと思っている。すこし汗もかかなければいけないだろう。

2023年7月 8日 (土)

安倍元首相の一周忌

 テロの凶弾に倒れた安倍元首相の死から丸一年後の今日、芝の増上寺で一周忌の法要が営まれた。一般の人用に献花台も設けられ、多くの人が列を作ったという。暑い中とはいえ、近ければ私も参列したいところだが、名古屋からわざわざ行くまでの気持ちはない。志が強ければ、いきなり断絶された思いは怨みとしてこの世にとどまる。その怨みを残した死者を鎮魂するのがこのような慰霊の行為である。

 

 凶行の行われた奈良の西大寺駅前にも献花台が設けられていたが、その献花台の近くで銃のようなものを持った男たちが、近くを警戒していた警官に取り押さえられた。騒ぎを起こして注目を浴びることがなにか勇気のある行動だと勘違いしているものの仕業でもあろうか。暑さでネジがゆるんだのか、もともとゆるんでいるのか。パフォーマンスがもてはやされる現代は、こういうバカを次々に生み出す。

 

 大義らしい大義もなしに公人を襲うテロリストを「ローンオフェンダー」というのだそうだ。要するに誰かがやったテロ行為を、そういうことをしてもいいのだ、とスイッチが入ってしまう人間のことででもあろうか。その中の一握りでも実行に移してしまえば、次々に連鎖する。だからとにかく最初の一件を過剰に防御することが重要で、要人の警護の任務というのは重い責任を伴う。その自覚がないと思わぬ不覚をとり、必ず連鎖して社会不安が増大してしまう。テロというのはもし大義があってもその大義はただの名目で、目的は社会不安を増大させるものといっていい。

 

 長野県下伊那郡阿南町に「阿倍神像神社」、別名「白樺神社」が建てられるそうだ。名前の通り安倍晋三元首相を祀る神社ということで、計画者は奈良県吉野郡の吉水神社の宮司だという。一周忌の今日、神社建立除幕式と慰霊祭を行っているらしい。日本では実在の人物が神社の祭神となっている例はたくさんあるが、今回のこの「安倍神像神社」がどのような思いから建立されるのか、なんとなく違和感がある。つまり、売名的な行為に思えるのだ。死者の怨みを鎮魂するという切実な思いが見えてこない。

 

 安倍元首相の功績をことさらにあげつらう動きが神格化に繋がっているという批判や懸念もあるようだが、神格化に国民的な関心が傾いていたり、安倍元首相に思い入れが高まったりしている、などという空気を私は感じない。しかし敏感にそれを感じている人もいるのだろう。

暑い

 リビングのエアコンの効きが悪くて涼しくない。寝室の方がよく効いていて、設定温度を下げると寒いくらいなのに・・・。リビングのエアコンはカバーする広さが広いので能力以上の無理をさせているが、昨年まではこんなことはなかった。仕方がないので(あまり面倒なことはやりたくない)フィルターの掃除と、カビよごれを出来る範囲でアルコールで拭ってみて、再度運転中である。こころもち改善したように思う。

 

 昨晩、『ドント・サレンター スナイパーズ・アイ』という2022年のアメリカ映画を観た。ブルース・ウィリス主演の『ドント・サレンダー 追撃の要塞』の続編である。前作は、CIAを引退した高齢者が暮らす隔離された保養施設という設定がおもしろかったが、その施設がテロリストに襲われてそれを撃退するという話は悪くはないが、管理されて警備万全なはずの施設が簡単に打ち破られていくのが情けなかった。ブルース・ウイリスを観るためなら我慢できる程度の、あまり出来の良くない映画であった。

 

 今回観た続編は、テロリストに破壊された施設は撤収する事態になっていて、人もあまり残っていない状態のところへ、ふたたび襲撃が行われる。最初の三十分はそういう山場などまったくない、前作の説明のためのつまらない会話が延々と続く。出来の悪い学芸会を見せられているようだ。襲撃者の主要な人間は前回と同じだったりして、しかも前回死んだはずだが生き返った、とか死んだふりをして実は死ななかった、とかふざけるのもたいがいにしろ、というバカ話に堕していく。

 

 いやあ、ブルース・ウイリスの最後の活躍を観るためだけに我慢していたが、あまりのお粗末さ、駄作ぶりに呆れ果てて、酒を飲まずには眠れなくなってしまった。近年まれにみるダメ映画。

和楽器

 草刈正雄が狂言回し役で、ナレーションが木村多江の「美の壺」という番組は、録画するほどではないがときどき観る。先日のテーマは「和楽器」だった。スペシャル版でいつもより長かったが、見応えがあって、いろいろ考えさせられたり、ちょっと感動もした。

 

 和太鼓、篠笛や竹笛、尺八、三味線、小鼓、六弦琴など、さまざまにその名手たちが演奏してその素晴らしさを解説してくれるし、またそれを作る伝統の技も詳しく工程から紹介してくれていた。長い歴史のあるものを伝えていくことの意味を感じさせてくれて、繰り返すが、感動した。

 

 人から人へ伝えるということが現代ほどおろそかになっている時代はない。なにしろすでに家庭料理が母から娘に伝えられなくなって久しい。そうして失われたものはもう取り返しがつかないのだけれど、それでもきちんと継いでいる人もいる。基盤のない人間は薄っぺらい。そういう人が溢れたこの日本の寒々しさを嘆いても仕方がないが、そのうちすこしだけでも伝統の美しさに気がついてくれないものかと思った。

2023年7月 7日 (金)

デイ・オブ・クライシス

 『デイ・オブ・クライシス ヨーロッパが震撼した日』は2021年のフィンランド映画。ヘルシンキで大々的に開催された独立記念日を祝う式典に、テロリストが乱入する。会場には多くの要人が招かれている。テロリストは主催者のフィンランドの大統領夫妻や招待客を人質に取って、いくつかの要求をする。

 

 軍は突入を指示、現場にかけつけたEU合同捜査官の主人公も加わって銃撃戦になるが、数人の人質と共に主犯たちは逃亡する。逃亡先はベラルーシ。ここに主人公が単独潜入して敵と対峙する。

 

 テロには目的がいくつか隠されていて、次第にそれが明らかになっていく。冷徹な現実がフィンランドやベラルーシを舞台に描かれている。この時点ではまだろしあのウクライナ侵略は始まっておらず、フィンランドはEUには加盟しているけれど、まだNATOには加盟していない。その後加盟したことはご承知の通り。

 

 フィンランドのスパイ映画というのも珍しいが、実際には最もそういう現実に直面している国でもあるわけだ。主人公は有能だがマッチョタイプというより知的で敏捷なスリムタイプで、却ってリアリティがある。長い映画だが飽きさせずに最後まで一気に楽しめる。無駄な部分がないということで、映画には何より大事なことである。おもしろい。

オフィサー・アンド・スパイ

 『オフィサー・アンド・スパイ』は2019年のフランス・イタリアの映画で、監督はロマン・ポランスキー。題名から現代のエスピオナージだと思われそうだが、百年以上前のフランス社会を揺るがしたドレフュス事件を題材にしている。ドレフュス事件については、文豪のエミール・ゾラもこれは冤罪だとして抗議している。若い頃、ゾラの小説を読んで、その関連からこの事件のことを知ったが、詳細は調べなかった。日本でも大佛次郎がドレフュス事件を日本に紹介している。

 

 フランス陸軍大尉ドレフュスはスパイ容疑で逮捕され、裁判で有罪となって軍籍を剥奪されて仏領ギアナの監獄島に幽閉される。証拠となった資料はわずかでしかも根拠に乏しく、捜査もずさん、ただ彼がユダヤ人であるということが有罪への心情的な背景となった。映画ではヨーロッパのユダヤ人に対する差別というものがどういうものであったのかがよく描かれている。

 

 冒頭の、軍籍を剥奪されて、兵士達の面前で勲章や身につけているものがボタンまで剥ぎ取られ、剣もへし折られるシーンが強烈な印象を与える。屈辱で顔が青ざめたドレフュスの怒りと絶望が伝わってくる。

 

 この事件の後、ドレフュスの元教官だったピエール中佐(ジャン・デュジャルダン)が諜報部の部長に任命される。事件に格別の意見も持たなかった彼は諜報部の組織全体のゆがみを感じ始め、独自にドレフュスの事件について調べはじめる。真実に近づきはじめると、さまざまな妨害が加えられていく。やがて真のスパイについての確信が得られたところで、上層部からストップがかかる。冤罪が許せないピエールはあらゆる手立てを尽くし、ゾラなどの協力もあって、ついに再審にこぎ着けるのだが・・・。

 

 北欧の映画のようなダークな色調の映画は私の好みである。この映画でドレフュス事件について一応知ることが出来た。そしてこれが人種問題の絡んだ事件であったことも知った。たいへん見応えのある映画で、毅然として自分の矜持を貫く人間の姿は見ていて感動を呼ぶ。歯ごたえはあるが、見る値打ちのある良い映画だと思う。

 蛇足ながら、ロマン・ポランスキーといえば学生時代に観た『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)が忘れられない。この映画でミア・ファーローを知った。ロマン・ポランスキーは数々の傑作映画を作ってきたが、監督業とは別に、女優で妻のシャロン・テートがカルト集団を率いるマンソンに自宅で惨殺されるというおぞましい事件でも忘れられない。この映画でまだ健在であることが喜ばしく思った。

人手不足と雇用流動性

 自分がいなければ会社の仕事に支障を来す、と思いたいが、たいていそんなことはなくて、いなければ誰かが代わりにその役割をする。本当にその人にしか出来ないような能力をもっている人というのは、多く見ても十人に一人というところか。

 

 しばしば雇用流動性を上げなければ、などという話を聞くけれど、それは能力のある人がその能力にふさわしくない場所にいて、活かされていないのを適材適所に配置して生産性を上げたいということかと思う。大多数は十把一絡げで、実は対象にはならない。

 

 だからリスキリングなどという。スキルを上げて、つまり能力を上げてその能力にふさわしい職場に移動することで生産性を上げ、しかも人手不足に対処するということを目指すのだろう。そしてだれがやってもいい仕事はAIやロボットに任せていこうということだ。

 

 うたい文句はすばらしいが、AIやロボットがやってもいいような仕事しかできない人が大多数なのが実際だと思う。最もだいじなその大多数をどう生きがいのある仕事に振り向けるかがだいじなのに、一握りの有能な人に対する対策で問題が解決するはずがない。私はその十把一絡げの人間だったからそのことが身に沁みてわかる。

 

 仕事にやりがいを感じる人の割合が日本は世界で最低水準だというそのことを、もう少し真剣に受け止めて、雇用創出を考える必要があるだろう。これから最も人出が必要になるサービス業の、特に保育や介護の人に対する手当を思い切って増やすことなどからはじめるのがよいのではないか。高齢化対策になるし、女性がますます社会進出して共稼ぎになる人が普通になっているのだから、保育に従事する人は重要である。それがひいては少子化対策に繋がるのではないか。

 

 その手当を上げるといいながら、みみっちくかたちだけわずかに上げていては、保育や介護の仕事の人手不足は解消するはずがないではないか。少ない手当でも意欲のある人がいてなんとかなっているけれど、そんな仕事にしか就けない人もそこに吹きだまりのようにいて、問題を起こす人はその中から出てくる。手当が高ければ競争になり、ちゃんとした人だけを選ぶことも出来るようになる。でもしか教師が教育の劣化を招いたことと同じことが起きているのではないか。

 

 まず特別な能力はなくてもきちんと大人である人を活かすために何をすべきか、それが優先事項だろう。リスキリングの前に人間教育が必要な気がするが、それでは時間がかかりすぎて間に合わないか。そもそも教える人がどれだけいるのか、それに猛反発する勢力もいるだろう。どんな勢力か、私には当たり前に思えることを反動的だ、と非難する人たちで、平等人権安心安全が大好きな人たちだ。お題目では世の中はなんとかなったりしない。

2023年7月 6日 (木)

高くてとりにくい

 いまマンションの補修工事中で、ベランダの目の前が工事用の足場で、そこを人が往き来している。カーテンを開けたままだと中が丸見えなのでカーテンを閉め切っている。北側もついに足場が組み上がって、気分的には幽閉されているみたいだ。まだ工事の方は隣の棟が先行して、こちらはチェック段階。足場の撤去は11月らしいから、この夏はずっと幽閉状態だ。

 

 室内の窓を二重に締めるものを貸し出しているが、万一を考えると、ちょっとまとめて出かける気にならないでいる。かわりに旅行するつもりになって、旅行サイトであちこちの宿を物色している。夏休みに入りつつあるからでもあるが、めぼしい宿があまり見当たらない。昨年まではよりどりみどりだったのが様変わりだ。こうなるとコロナ禍がこの点だけに関してはありがたかった。

 

 たまに良さそうな宿や、以前泊まって良かった宿が予約できそうだが、宿代が二三割以上高い。客が増えて相場が上がっているようだ。私が探すのは温泉旅館や温泉ホテルの食事付きだから、客が多ければひとりでの宿泊は敬遠される。ふたりとか三人でチェックすると予約可能な宿が一気に増える。

 

 ニュースで報じていたが、観光業はコロナ禍の需要不足で人手を大幅削減せざるを得ず、需要が戻っても従業員が確保できない状態らしい。予約申し込みがあっても、対応しきれなければ断らざるを得ないという。それなら宿が取りにくいのは当然だし、人手確保のために給料も上げるから宿代が高くなるのは当然の成り行きか。

 

 ほとぼりが冷めるまでビジネスホテルにでも泊まるしかないか。ビジネスホテルに泊まると当然外へ飲みに行くので、却って高くつくのが困る。しかし高齢化社会になって、旅に出る暇なお年寄り(私もその一人)はますます増えるから、希望の宿に泊まりにくくなるなあ。ひとり旅用のリーズナブルな宿の需要も増えているにちがいない。そんなに豪華で食べきれないほどの料理はいらないという人も多いはずだ。そういう宿が意外にない。

 

 すこし高くても仕方がないから、いけるうちにあちこち出かけるしかないか、といろいろ物色しながら思った。

デンジャラス・プレイス

 ブルース・ウィリスが出演している2022年のアメリカ映画。妻を事故死させてしまい、警察署長を引退した男(ブルース・ウィリス)は、いま質屋の警備員をしている。たまたまギャングのボスが手下を殺すのを目撃してその犯人を警察に突き出すが、そのボスの息子に逆恨みされる。

 

 癌で治療中の娘(それが冒頭の事故への伏線に重なる)が、久しぶりに友だちと父親の元へ帰ってくる。その二人の女性が彼の留守中にそのボスの息子に襲われる。人質に取られた娘を救出すべく、男の闘いが描かれる、というストーリーなのだが、実際には娘の方に力点が置かれているように見える。

 

 どうも最近気力が萎えているようで、応援している正しい人たちが悪い奴によって危難に瀕するのを見ているのが辛い。とことん危機に瀕し、怪我を負い、絶体絶命になってから逆襲する、というのがこういうサスペンスドラマのパターンなのだが、それまでが我がことのようにハラハラして我慢しきれないのだ。

 

 ましてやこの映画では最後までこのボスの息子ひとりだけが相手である。その上頭が悪くて不手際だらけだ。こちらはもう少し手際よくやっつけてくれ、と思うがどうもちぐはぐで見ていてじれったい。まあ手際よくやっつけてしまうとすぐ終わってしまうけれど。

 

 昨年認知症で引退したブルース・ウィリスは昨年だけでもたくさん映画に出ている。WOWOWで特集されていて、まだ数本録画したものがある。

スネークヘッド

 中国から密出国し、アメリカに密入国する中国人が、かなりの数にのぼるというニュースを見た。最近はトルコなど出入国しやすい国に出て、中南米を経てメキシコ経由で密入国しているようだ。アメリカでは密入国者が申請して滞在を認められる割合は40%あまりだが、中国人の場合は80%以上と優遇されている。それだけ人材として能力が高いという面もあるのだろう。

 

 そのような密出国、密入国を商売にしているのをスネークヘッドという。一時期日本への密入国介在も盛んで、蛇頭と呼ばれていた。同じものである。2021年のアメリカ映画『スネークヘッド』はまさにそのような映画である。主人公である女性は決死の思いで中国を密出国するが、ニューヨークのチャイナタウンに送られて借金をカタに奴隷のような生活を強いられる。

 

 そんな女主人公は女ボスに目をかけられて頭角を現し、次第に組織の中でのし上がっていく。そして自ら中国に渡って密出国者の集団をニューヨークまで送り届ける仕事をやり遂げてみせる。そのルートが確か、東南アジアを経て南米に渡り、メキシコからアメリカへ入るルートだった。公知のルートなのだろう。のし上がった者には大きな抵抗がある。密出国時に生き別れになった娘がニューヨークで養子にもらわれて幸せに暮らしているのをかげながら見守るが、そこを弱みとして攻撃されて・・・。なかなかバイオレンスなドラマであった。

 

 ニューヨークのチャイナタウンには30年近く前に行って中華料理を食べたことがある。そのときにはチャイナタウンが舞台の、ジョン・ローンとミッキー・ロークが主演した『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985)という映画のことを思い出して感慨深かったものだ。

2023年7月 5日 (水)

ニュース雑感

 旧統一教会の韓鶴子総裁が「岸田総理や日本の政治家を韓国に呼びつけ教育を受けさせなさい」と信者(主に日本人の信者らしい)に対して指示したとかしなかったとか、報じられていた。本気で言っているのだとしたら、彼女はそれが出来ると信じているわけで、信じる根拠があるのだろうか。日本の政治家達に対してよほどの弱みを握っているという確信のなせる言葉なのか、それとも彼女はただの狂信者か。

 
 遮断機のない踏切で、警報器が鳴っているのに侵入し、列車にはねられて即死した男性がいた。自殺ではなくイヤフォンをしていて気がつかなかったのだろうという。しかし警報器は音だけではなく、赤い点滅灯があるはずで、それにすら気がつかなかったというのはどういうことか理解に苦しむ。多分即死した男性は私以上に「なんで!」と思ったか思わなかったか。それにしてもそのために列車は止まり、後片付けもしなければならず、たくさんの人に迷惑をかける結果になったわけで、不注意にしてもほどがある。

 

 福島原発処理水についてのIAEAの安全判断の報告に、中国政府が遺憾の意を表明した。あわせて日本政府が処理水放流を強行するなら対抗処置をとると警告したそうだ。自分がマウントできると思うととことん嫌がらせをしないでは置かない中国という国には、いつものこととはいえうんざりする。

 

 中国が半導体原料に必須のレアメタルであるガリウムやゲルマニウムの輸出を許可制にすると発表した。つまり自国の裁量で輸出規制するぞ、と脅したわけである。アメリカのイエレン財務長官が訪中する直前のこの発表は、お土産をよこせという恐喝か、または、ひとつカマしてやれ、という態度の表れなのかわからないが、本当にいやらしい。中国が世界の生産工場である、ということはこれほどリスクが高いということが明白なのだが、河野洋平は経済交流を促進するそうである。

 

 その河野洋平の息子の河野太郎が、マイナカードの名前を変更したらどうか、などという思いつきを公言して問題になっている。たしかにマイナカードという名前にはいささかケチがついているが、名前を変えたところで問題が解決するわけではない。まず問題を解決してしかる後に心機一転名前を変えようというのならまだわかるが、いま言うことではない。そもそもこの人、自分が言ったことで回りにどんな影響が出るのかわかってものを言っているとは思えないことが多い。大向こう受けだけを狙っているから人気があるらしいが、私はこんな人間は信用できない。

開いた口が・・・

 IAEAの報告でいよいよ福島原発の処理水の海洋放出が始まろうというそのときに、なんたることか与党に加わっている公明党の代表が、「放流は海水浴の時期を過ぎてからにした方がいいのではないか」とのたまわった。放流に反対の私ですら、開いた口が塞がらなくなった。この問題を政治問題化して現政権にダメージを与えようとしている韓国野党は大喜びして、国民にその発言をふれまわっていると、ソウル駐在の産経新聞、黒田氏が報告していた。

 

 言葉足らずで意図とちがう、などと山口代表は言い訳しているけれど、だれがどう聞いても処理水は危険だと考えているのだとしか聞こえない。安全なものなら放出しても良いのであって、海水浴シーズンは関係ない。これこそ科学的根拠を信じない風評被害の拡散者の発言であろう。さすがに新興宗教に支えられた党の代表というべきか。

 

 岸田首相は壊れたレコードのように「丁寧な説明」というけれど、自分では説明したつもりかもしれないが、説明されたはずの人はちっとも説明がないと思っている。その証拠が、この山口代表の発言だろう。多分「丁寧な説明」を聞かされていなかったにちがいない。

パナマ運河

 運河は水面の高さを調整するために閘門で閉じて水を出し入れして調整することは承知していた。パナマ運河の場合、太平洋と大西洋の水面差だけではなく、最高点は海抜26メートルもあるので、大量の水が必要だという。その水が不足で水深が取れず、やむなく貨物量を調整しなければならないそうだ。いまは約四割も貨物量を減らす必要があるという。これでは一隻あたりの運送量は減り、納期に時間がかかり、コストは当然高くなる。

 

 水が足らないとはどういうことかと思ったら、パナマ運河は二つの湖から水を引いて水面調節しているそうだ。なんと淡水で調節しているのだ。それが異常気象により湖の水が減少し、地元民の生活水に影響が出ているという。水は命に直接関わるから、運河優先とばかり言っていられないということのようだ。

 

 アメリカの東海岸と西海岸の物流もこのパナマ運河がかなりの部分担っているらしい。それは南アメリカ、たとえばブラジルなども太平洋側への物流はパナマ運河が必要だろう。日本は南北アメリカの東海岸との物流がどれほどあるのだろうか。このままでは深刻な影響がありそうだ。

 

 海水ならいくら使っても大丈夫なのは明らかだが、いま淡水で行っていることを海水でやるようにするためにはそれなりの設備投資が必要であろう。それにすぐ出来るようになるとも思えない。地球温暖化は意外なところに影響してきたようだ。

2023年7月 4日 (火)

懸念

 経済的な日中交流を推進するための一団が、団長の河野洋平以下、中国へ出発するのをニュースで見た。その団体には沖縄の玉城知事も同行している。玉城知事は県議会で、中国側から尖閣問題や琉球としての歴史問題での質問があったらどうするか問われて、そのときは返事を留保する、と答えている。つまり中国側と日本側の立場により見方は違うが、日本の立場にも中国の立場にも立たないと答えたのだ。日本の立場に立たなければ、中国はそれを自分に利するように解釈するだろうことは容易に想像できる。そもそも習近平は最近沖縄のことを「琉球、琉球」と呼び、歴史的に中国と関係が深い、日本に奪われた、と発言をしていることが中国の人民日報でも報道されている。

 

 習近平は、沖縄が日本を見限り、平和的に中国に帰属することを夢見ているように見える。その沖縄の代表として玉城デニー知事が中国の歓待を受け、あらぬ事を口走らないかという懸念がある。沖縄県民の意思は中国帰属だ、などと中国が言い始め、その沖縄の人びとを米軍基地を排除して救い出す、というどこかで見聞きしたようなストーリーを語り出すのは間近いかもしれない。

 

 ところで、私は河野洋平という人物を信用していない。親中というより媚中だとみている。中国で反スパイ法が強化されているなか、日本企業を引き連れて人質を増やそうなどという感覚が信じられない。中国も本音ではこんな人物は役に立たないと見切っている気がするが、それともまだ利用価値はあると思っているのだろうか。私はこの父親だから、息子の河野太郎も信用できないと思っている。いかにも親とちがうように見えるのは、ちがうように見せているだけで本質は変わらないとみている。親子とも理屈ではなく感情的に嫌いである。

トリチウム

 福島原発の処理水にはほとんど放射性物質が取り除かれているが、トリチウムという物質だけは除去が極めて困難なために残留している。そもそも世界中の原発もトリチウムだけは除去困難なので、自然界に放出しているのが実情である。ただ、福島原発での放出量と他の原発からの放出量については比較データを知らない。

 

 トリチウムというとどんな恐ろしいものかと思うが、日本語で言えば三重水素ということで、もともと水素の同位体(同位元素)である。水素は一個の陽子と一個の電子から成るが、二重水素はさらに一個の中性子をもち、三重水素は二個の中性子をもつ。重さがちがうだけで水素であることに変わりはないが、よわい放射性を持つ。ただし放射性元素のうちでは最も弱いものである。人体に無害とは言えないとされるが、自然界にも一定割合存在していて、どの程度の濃度から害となるか、まだ詳しくわかっていない。

 

 私は処理水の放出には反対であるが、それは危険だからというよりも、原発事故そのものに対する責任があいまいなまま、なし崩しに事態が進むことに納得していないからだ。海に廃棄しなければどうしようもない状態になっていることも承知している。困っているのは困るような事態を招いたからで、困り続ければいいのだと思っているからだ。科学的知識に基づけば、あの程度のトリチウムが含有していても大丈夫だろうと思う。海洋放出が始まったからといって福島産の魚を食べないなどということはしない。

 

 ただ、いくら説明しても全く聞く耳持たない人たちにとっては、海洋放出は危険に見えるだろう、人によっては恐怖だろう。それを説得などすることはほとんど不可能だ。恐怖を取り除くには恐怖の相手を理解することだが、理解するつもりがないのだから。

 

 韓国で日本の海産物を輸入拒否しているというが、そもそも海洋資源にも限界があるのだから別にかまわないではないかと思う。韓国では塩ですら海洋放出前に買いだめしようとして在庫が払底しているという。しからば韓国は海産物をこれから当分のあいだ獲らなければいいだろう。海洋資源が回復して、ほとぼりが冷めた頃には韓国近海は豊かな海になっているだろう。いやいや、そうしたら中国がそれを横取りに来るだろう。その中国も日本の処理水海洋放出に韓国の尻馬に乗って反対しているというから本当に身勝手な国だ。この点に関してだけいえば韓国の方が愚かしいけれど純粋だ。

減産継続

 サウジアラビアが原油減産の継続を表明した。OPECをリードする国として、原油価格が下がるのを防ぐためだと公言している。原油は掘削費用と施設の維持費を除けば原料代はただである。素人として雑に言えば、原油生産とは、ただ地中の圧で噴き上げてくる原油を汲むことだろう。少しでも価格が高ければそれがすべて利益になるということで、ロシアがウクライナへの侵略戦争を始めたことで石油製品が高騰したことは濡れ手で粟の利益をもたらしたにちがいない。それが多くの原油生産のない国にとってたいへんな負担だった。高いしそのうえ手にはいらないからである。増産してカバーするのを産油国に求めたいところだが、高値を維持したいから減産したのである。

 

 戦争を継続するには金が必要である。ウクライナは兵器も弾薬もその他の金銭的援助も支援を受けている。ロシアにはそういう支援はない。多くの国が支援しているように見えるが、みな有償である。インドも中国もパキスタンもロシアの原油や天然ガスを買いたたき、その金がロシアの戦費に回っている。OPECの原油価格の半値八掛けで買いたたかれているから、ロシアは本来得られる利益が大きく損なわれている。安ければ増産してカバーするしかない。せっせと大量にくみ出しているだろう。

 

 おかげでインドは安い原油で経済成長が著しい。パキスタンも経済崩壊の危機をかろうじて安価なロシア原油に助けられている。インドは多分ロシア原油を大量に購入し、精製して大量に他国に供給しているのではないか。ボロもうけである。中国もロシア原油をとことん買いたたいて大量に購入している。バブルがはじけて経済危機になるところを、かろうじてこの安価なエネルギーが支えているのではないか。

 

 OPECは減産で価格維持を図っていても、本来売れていたインドや中国への需要が減っているわけで、ロシアの石油が回り回って原油価格の足を引っ張っているわけだ。こうして高騰した原油は少しずつ下がり続け、それに合わせてさらに減産を続けという、ウロボロスの蛇の様相が当分続くのだろう。中国を支えているのはロシアの原油と天然ガスだろうとみているが、ロシアは金の卵を安売りし続け、結果的にいまにインフレになるだろう、と専門家は予測している。さて、その予測はいつ現実化するのだろう。

2023年7月 3日 (月)

炎暑

 名古屋は猛暑日の予想だったが、最高気温は34℃で猛暑日一歩手前だった。早く片付けたい所用があって名古屋市内まで行き、あちこち歩き回った。歩数七千歩あまり、炎暑のなかを歩いて帰宅後、シャワーを浴びて体重を量ったら、1.5キロ減っていた。ゴロゴロしながら冷たいものばかり飲んでいたから水ぶくれ状態だったのだ。減ってもすぐ補充してしまう。

 

 明日も暑いらしい。そのあと雨でも32℃、33℃の高温予報が続く。名古屋の肌に突き刺さるような日差しと蒸し暑さが当分続くようだ。まだ夏は本番手前なのに、もう秋が待ち遠しい。無理のない範囲で暑さに体を慣らしていかないと秋までもたない。ちょっとくらい出かけることを考えなければ。

自考自創

 朝のニュースで広島県の高校の副校長の話題が丁寧に取り上げられていた。「丁寧に」というのはイヤミである。こういう話題で時間を余分に割くから報ずるべきニュースが削られてしまう。

 

 ユーチューバーで24歳の男性が副校長に抜擢され、学校の改革に取り組んでいるそうだ。生徒との関係を近いものにしようと、生徒の意見をどんどん取り入れている。彼の掲げる校訓は「自考自創」。自ら考え、自ら創る、自らを創るというほどの意味のようだ。たいへん結構である。

 

 しかし、学校というのは、まず自ら考えるための、「考える方法」を学ぶところで、それが未熟なままで自分で考えろ、というのはすこし心配なところがある。このキャッチフレーズがその「考える方法」を身につけるためになるのであればよろしいが。たしかにいまの学校が、考える基礎となる知識を身につけることに重きを置いて、考える方法を身につけるということに思いが至っていないとき、瓢箪から駒ということがないとは限らない。

自立

 自立とはindependentということだ。independentは日本では独立の意味で使われることが多いけれど、本来はdependentしていないということ、つまり誰かに頼らないで自主的であることをいう。

 

 自立している女性が増えていることはまことに喜ばしいことであるが、誰かに依存しながらでないと生きられないのに自立しているとは言いがたい。依頼心を極力そぎ落としてこその、そうであるべきだという自覚あってこその自立である。

 

 マザコンの男性が嫌われるのは、母親に依存しているように見えるからで、自立していないと見なされるのだろう。子供はいつか親から自立するのが自然で、親はそれを積極的に仕向けるのが自然である。自然界はそうなっている。ひとり人間だけがそうでなければ不自然で、必ず無理が生ずる。

 

 自立が、自分のしたいように出来るようになること、と思うことは勝手だが、同時に、自分のしたことの責任も引き受けることだということも承知しておいてもらいたいものだ。

 

 本当に言いたいことを書くのがためらわれて、観念的なことしか書けなかった。世を眺め、ただ慨嘆しても何の意味もない。ちゃんとしている人はちゃんと生きている。それで好いのだ。

2023年7月 2日 (日)

自主規制

 先日観たドラマ『グレースの履歴』は好いドラマだったのに、広末涼子が出演していたからといって再放送をせずにお蔵入りなりはしないかと心配だ、と書いた。

 

 昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』も私は好いドラマだったと思う。そのドラマに猿之助が出演したからこのドラマを配信中止にするとかしないとかいう話になっているようである。それに対して脚本を書いていた三谷幸喜が苦言を呈していたようだ。

 

 ゴシップや犯罪に関与したことでその本人がバッシングされるのは、芸能人として仕方のないことだろうが、その出演作の上映や放送が中止されることに対して賛否が分かれて論争になっている。私は論争についてネットやテレビでの、ほんの一部を見ているだけであるが、おおむね作品と出演者は別物だろうという意見が多いと感じる。つまり出演作まで自主規制するのはやり過ぎではないかという意見が多いようだ。私もそう思う。もちろん社会的に悪影響の懸念が大きいことが明らかであるとされればそれは規制するのは当然だ。その判断はあくまで放送する側、上映する側の判断によるだろう。

 

 実際にそう判断したから規制したのだろう、といわれるかもしれないが、私はそこに違和感があるのだ。十人のうち九人がかまわないと思っても、一人が「問題だ」と異を唱えると、それが正論としてまかり通ってしまう。おおかた大丈夫でも一人のクレームを恐れて過剰に自主規制してしまうという現代の風潮が気持ち悪いのだ。

 

 見たことはないが、マスコミには、差別語の規制に分厚い電話帳のようなルールブックがあるという。しばしば作家がそれに抵触して、その異常な自主規制を嘆いているのをたびたび読んできた。その事例を見ると、嘆くのも当然のような、ただの慣用句を使っただけなものばかりである。マスコミはいかにも自分で規制しているようだが、ただ正義の味方のクレームに脅えているだけに見える。言論の自由と言いながら、中国の言論規制に類似して見えてしまう。戦時中や戦後の進駐軍を慮った時代と変わらない。それが気味が悪いのだ。

大きすぎる

 中国は大きすぎるのだろう。巨大な人口を抱え、その人たちを食べさせるためには政府も強権を持って人民を管理しないとならなかったという歴史的な必然性は否定できないと思う。国民にとってそれが是か非かはその国民が決めることであるというのが建前であるが、国民が自ら決められないまま強権が肥大化すれば北朝鮮化してしまうだろう。端から見ると中国はそのような方向に向かいつつあるように見える。

 

 そういう無理が破綻するかどうか、これは歴史が示すだろうから、本来の中国に憧れをもっていた、「中国が好きで大嫌い」な私は、それを傍観者として眺めるだけだ。ところが、中国政府は自国の論理を他国の人間に対しても適用しようとしている。今回強化して七月から施行された反スパイ法は、従来から懸念されていた恣意的な適用がさらに進むと考えられる。

 

 中国に入国した外国人はいつどんな理由で拘束されるかわからないという事態になったということである。安心して中国で観光をしたり商売をしたり中国の人と交流したりしにくくなった。交流した相手がそのことで不意に拘束されるおそれもあるのだ。理由が明らかならば反論も出来るかもしれないし、対処も可能な場合もあるだろう。しかし適用の基準は明らかではない。公的監視者の判断の部分が多いことはこれまで以上になるだろう。

 

 私はたびたび中国に行って写真を撮りまくった。観光地の絵はがき写真が多いが、裏町やちょっと目を惹いためぼしいものを撮ることも多かった。これがどのように彼らに見えるかこちらにはわからない。撮られたら不愉快だと思ったとすれば、目をつけられるだろう。また、ブログにおもしろおかしく、または過去の中国の問題点について本で知ったことを書いたりしてきた。中国政府にとって不愉快なキーワードがたくさんあって、ビッグデータにチェックが入っていないとは限らない。

 

 私など対象にならないとも思えるし、見せしめにたまたま選ばれるということもあるのではないかという不安を感じさせるのがいまの中国だ。まともに考える人や企業なら、次第に中国と距離をとることだろう。いままでの投資を惜しんでずるずると手をこまねいていれば、後で後悔するかもしれない。観光に行く気にもなりにくいだろう。私のように中国を歩くことの好きな人間ですら行くのをやめるくらいなのだから。それに中国旅行はちっとも安くない。

 

 中国はこうして衰退して行かざるを得ないと思うが、そうすれば人民がいままでのように豊かさを感じにくくなるだろう。一度知った豊かさは、それが得られなくなれば不平不満のもとになる。中国政府はますます統制、規制を強化せざるを得なくなる。こうして内圧が高くなれば外部に暴発するか、高まった内圧で混乱が始まるか。これにはずいぶん時間がかかるかもしれないし、案外あっという間かもしれない。

2023年7月 1日 (土)

最後の波の音

 山本夏彦(1915-2002)という人が好きで、書棚には彼の本がたくさん列んでいる。この『最後の波の音』(文藝春秋)という本は、彼が「文藝春秋」に連載していた『愚図の大いそがし』、「諸君!」に連載していた『笑わぬでもなし』のうち、晩年に書かれたものから抜粋して編集したものである。

 

 巻末に『寄せては返す波の音』という一文がある。山本夏彦の匿名のファンが、友人に何冊か読むように勧めたら、「なんだこの人いつも同じことばかり言っている」と言ったそうだ。勧めた友は「寄せては返す波の音と思え」と答えたという。それを山本夏彦は多とした。その「寄せては返す波の音」の「最後の波の音」だという趣旨であろう、それがこの本の題名となっている。

 

 その一文に山本夏彦の言いたいことのかなりのことが言い尽くされている。原稿用紙十枚の文章なら五枚に、いや二枚に、さらに一枚に、というのが山本夏彦の文章である。本一冊を五分に、いや二分にまとめて話せ、といい、自ら言ってのける人である。だから意は伝わる人には「電光の如く」伝わり、伝わらぬ人にはなにを言っているのかさっぱりわからない。

 

 文例を二三引用してみよう。

 

 まじめということはよいことだと思われているが実は悪いことなのだ。まじめと正義は仲好しだ、したがって正義も悪いことなのだ。ひとは何より金を欲するというが、実はもっと正義を欲する。大好きな正義!正義は潔白の仲間だ、それなのに潔白なのは残念なことなのだ。

 

 なんでも「話しあい」にかぎる、この世に話しあいできないことはないというが、むろんウソである。第一細君とだって話しあいできないというと男は笑うが細君は笑わない。半世紀教えられて信じるに至っただけだ。固く信じていることを否定されると婦人はことに怒る、だから婦人に参政権を与えたのは誤りだというとさらに怒る。

 

 スターリン、毛沢東は何千何百万人を殺したかいまだに知れない。社会主義には正義がある。私有財産は盗みだ、奪って大衆に公平に分配するのは正義である。この正義に魅せられぬ若者はない。その正義の為には白を黒ということも、どれほど血を流すことも許される。

 

 私たちの口は何のためにあるか、隣人と同じことを言うためにある。新聞がキャンペーンというのは皆々同じことを言えということである。言わなければ言えと勧告する、なお言わないと村八分にする。異見があるものは言うのが民主主義だと一方で教えられたから、言うとこれである。人は異口同音が好きなのである。私は彼らと言葉を同じくするのを残念に思って、彼らの口もとを見て「パクパク」と呼ぶ。

 

 私がなぜ話しあいというと顔をそむけるか、言うまでもないだろう。彼らのパクパクに同じパクパクを重ねたくないからだ。高位高官の汚職に朝ごとに怒ったふりをしたくないからだ。私はリベートをもらう席に座ったことはないが、座れば必ずとるリベートを、座れなかったばかりに潔白だとは思わない。潔白なのは残念なことだ。そして見ず知らずの高官とやらを罵ってつかの間の正義感になれという新聞の術中に陥りたくない。

 

 さて読んで意味が伝わりましたか。

ぼんやりしている

 ここ数日、寝そびれて外が白む頃にようやく寝る日が続いている。眠くなって横になるのに、床に就くと目が冴える。いつか眠くなると思うのに、いつまでたっても去った眠気はやってこない。たえられずに本を呼んだり、ドラマを観たり、アーカイブの整理をしたり、ゲームをしたりしている。朝になってくたびれ果ててようやく寝る。夜は目が冴え、昼間はぼんやりとしてしばしばうつらうつらしている。やはり昼間に体がくたびれるように動き回り、夜は早めに寝るようなリズムに戻さなければと思ってはいる。

 

 いまはマンションの大規模修繕工事の最中で、ベランダの外には足場が組まれ、黒っぽい紗のネットがかかっているから薄暗い。昼だか夜だかよくわからない。外に人がいるからカーテンも閉めきりである。多分今月中にはベランダ側(南側)の工事は一段落するはずだ。こんどは北側に足場が組み立てられはじめた。北側は窓だけで出入りするわけではないからカーテンを閉め切ってもどうということはない。工事の音が断続的に聞こえる。

 

 工事が終わらないと不用心だから、遠出をするのもいかがかと思い、ひきこもっている。エアコンをかけっぱなしで、昼だか夜だかわからない状態のなかにいるのはあまり健康的ではない。その上睡眠のリズムが狂っているのでものがあまり考えられない。

 

 それともそれらは頭がぼんやりしていることへの言い訳で、実は頭はすでに外界とは関係なしに霞がかかるのが定常になっているのかもしれない。

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