知性
昼から、ほんのわずか家の中のものを移動して隅々のホコリを掃除しただけで汗をかいた。涼しい部屋なのに日ごろどれだけ体を動かしていないのかと思うと情けない。いろいろものがいつもと違うところにある間を歩くと、うっかりするとよろける。平衡感覚が鈍っている。よろけたときにカバーする筋肉も弱っている。これも情けない。やりたいと思っていた掃除は半分しか終わっていない。明日明後日はどうせ台風の影響で雨だろう。息子たちが来るまでまだ時間はある。ところで広島からの新幹線はいつから大丈夫だろうか。
掃除しながら知性ということを考えていた。反知性主義などと言う言葉について考えるための、大本の知性とは何かについて分からないと何を考えているのか分からなくなる。ざる頭はまず基本の基本から。いつものように岩波の国語辞典で「知性」を見てみれば、「物事を知り、考えたり判断したりする能力」とある。「知性が低い」、「知性的」などというように使われるようだ。まあそうだろうな、ここまでは分かる気がする。
ところで「知る」とはどういうことか。とたんにむずかしくなる。「心でとらえる。(他と区別して)その存在を認め、または内容・意味等をさとる。分かる。十分に理解して体得する。意識・記憶にとどめる」とさまざまに拡がってしまう。基本的な言葉ほどむずかしいものだ。
いまは、「知る」とは、最後の「意識・記憶にとどめる」ということだと受け取る人が多いかも知れない。つまり情報、データを記憶することが知ることだと考える。そうしてそのデータをもとに「考えたり判断する」のが知性だと思われているだろう。そんな情報はわざわざ苦労して自分の頭の中側にため込む必要はなく、検索すればいくらでも「知る」ことは出来るし、さらに考えて判断することすらAIがしてくれるとなると、知性などというものの価値が低下して見えるだろう。だから反知性というのは、そういう面倒くさい知性などというものを否定するものだと勘違いして受け取られてしまう。
どうも違うようなのである。反知性主義はアメリカで顕著に見られる。科学は進化論や地動説によって聖書を否定した。科学的知識に基づく考え方を知性主義として、聖書が正しいという前提でそれを否定するのが反知性主義のようである。アメリカではいまだに進化論を認めない州もあるというが本当だろうか。トランプなどはもちろん反知性主義であろう。その強固な支持者たちは事実を否定しているように見えるが、彼らにとっての正しいことをもとにわれわれからは事実に見えることを否定しているのである。
知性が劣るのは非知性的というのであって、違うのである。
ところで、いまはいくらでも異なる情報を入手できて比較し、考え、判断できるのに、北朝鮮や中国でもないのに、偏った特定の情報のみを鵜呑みにしている人が増えているように見えるが、もともとそういう人はいて、声が大きくなっただけかも知れない。
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