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2023年9月

2023年9月30日 (土)

鯖街道

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国道367号線、通称鯖街道を、道の駅・くつき新本陣にあるこの看板では朽木街道と記している。この道を京都方面に走れば大原へ、そして京都左京区へ至る。北上すれば小浜に至る。ここを、鯖を担いで山越えした人たちが沢山いたのだ。鯖街道には鯖ずしを食べさせる店が点在する。その一軒ですこし遅い昼食を摂る。もちろん鯖ずしである。実が分厚くて食べ応えがあり、美味い。鯖は子供のころから大好きだ。ビールでもほしいところだが、車だからそういうわけにもいかず、お茶で我慢。

道の駅で旅の土産に山廃仕立ての純米吟醸酒を買い、つまみ用にモロコの山椒煮を買う。稚鮎の山椒煮とどちらにしようか迷ったが、モロコを選ぶ。

朽木宿の古い町並みを散策したいところだが、そのつもりが今回はなかったので次の機会にする。たぶん写真になるところがありそうだ。

ここから向かうのは賤ヶ岳の古戦場。賤ヶ岳に登る。

大笹原神社

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大笹原神社は滋賀県野洲市にある神社。彦根方面から国道8号線を走り、近江八幡を過ぎて竜王かがみの里という道の駅から近い。国道から車一台の幅しかない道を少し走らなければならない。私の愛用するツーリングマップルでは見所のように思えたのだが、誰も訪ねる人のなさそうな神社だ。これが入り口の鳥居。

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参道を歩いて行く。白い旗の見えるあたりで左折すると神社の前へ出る。

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神社の拝殿。拝礼する。ここは普通の神社のように目隠しで本殿を囲っていないが、その本殿の前に入るには拝殿をあがらないと行けない。

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本殿。直接入ることはできない。この本殿は国宝だという。

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大笹原神社由緒。この神社は鏡餅の発祥の地だという。だから道の駅はかがみの里なのである。

私はふだんこういうところでは感応しやすいのに、ここではあまり神韻を感じなかった。

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この狛犬は好い。

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右手にあるのが寄倍(よるべ)の池。

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この池は底なしだという。むかし旱(ひでり)のときに神輿を二つ沈めて祈願して以来、涸れることがない池だそうだ。ここでは神韻を感じた。

帰り道で曲がるところを間違えたら迷って、村田製作所の工場をぐるりと回る羽目になった。

遠くないところ、近江富士の麓に御上神社があるはずだが、いまひとつ気分が乗らず、寄らずに琵琶湖大橋方面に向かった。

知っているつもりが

 今回琵琶湖の周辺部を一回りして感じたことは、近江の地と京都はすぐ隣であることと、若狭小浜と近江とはすぐ隣であること、若狭と京都は繋がっていることであった。以前湖東三山を訪ね、さらに愛知川沿いに東行して、永源寺を訪ね、八風街道から桑名へ抜けたとき、近江と三重県がすぐ近いことも知った。そのときに永源寺から北上して木地師の里を訪ね、惟喬親王の御陵も見た。

 

 それぞれのことは地図を見れば一目瞭然のことで、知識として知っていても、それぞれをつなげて走ると実感として初めて理解することができた。近江についてはあまり知らなかったので、いろいろと発見があって面白い。もう少し丁寧に訪ね歩こうと思う。湖南の地や、安土城跡、再現された安土城天守など、今回近くを通って場所がわかったので行って見ようと思う。石馬寺なども立ち寄ろうか。

 

 若狭街道、通称鯖街道を朽木の方へ北上したが、南行すれば京都の大原である。大原には正式の惟喬親王の陵があるはずで、一度訪ねたいと思っている。大原から湖西は近い。それならさらに東へ向かって愛知川沿いに東行すれば百済寺から筒井峠を越えて木地師の里へは繋がっている。惟喬親王の伝説はあながち荒唐無稽ではないのだ。そう言えば地図をよく見ると、いま辿った道の途中には小野妹子の墓もあり、小野篁の神社もある。木地師と小野氏とは関係があるようで、それらが地理的にも得心がいく気がする。

 

 先日読んだ柳田國男の本でも木地師についての記述があり、その全国の木地の技術の伝播が、木地師の里の朝廷からの樹木伐採自由のお墨付きがその基礎になっていたことが文書で確かめられているようだ。知らなかったことを知ると面白いなあ。

2023年9月29日 (金)

段取りと勘が悪い

 朝、ユックリと出発して、名神に乗り西行する。もっと先で降りれば良いのに、近江の街中を走りたくて彦根で降りて国道八号を走る。渋滞というほどでもないがトラックや軽自動車が多くてスピードが出ない。覚悟していたこととはいえもう少し先で降りれば良かった。地図で目星をつけていた、大笹原神社というところに立ち寄る。期待外れ。

 

 そこからすこし先で県道11号への道を右折して琵琶湖大橋を目指す。琵琶湖を横切り、若狭街道との交差点を北上する。この交差点を左へ折れれば京都の大原へ至る。私は右へ、小浜方向へ向かう。次の目的地は朽木宿。ここで買いたいものがある。

 

 朽木でひと息入れて高島へ。朽木も高島市である。湖北へ出て、次に向かうのは賤ヶ岳の古戦場。リフトで賤ヶ岳の山頂へ。ここからの琵琶湖と余呉湖の景色は絶景であった。そこで帰路につく。さまざまに立ち寄りたいところがあったが、今回は予告編的なドライブになった。段取りは悪いし勘も悪い。無駄な動きが多すぎた。こんどはもう少しうまく回れるであろう。

 

 ただいま帰着して片付けと洗濯をしながら、ちょっとした料理で夕方の晩酌をはじめようというところ。あまり写真は撮らなかったが、明日それを報告する。本日はこれまで。

野獣の血

『野獣の血』は2022年の韓国制作の、いわゆるノワール映画。古くはフランスのノワール映画を堪能し、香港のノワール映画を楽しんできた。日本のヤクザ映画だって、そういう意味ではノワール映画といえるものも少なくないし、フランシス・コッポラの『ゴッド・ファーザー』やセルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』だってノワール映画だと思う。この映画には香港のノワール映画の系譜を感じた。

 

 一時期韓国映画の素晴らしさに目を見はり、片端から見ていたが、駄作がまじるようになってみる気が失せ、近頃はせっかくの面白そうな映画を見逃すことが多くなった。久方ぶりに見たこの映画は主演したチョン・ウともども満足のいくものだった。

 

 釜山を舞台にしたヤクザの抗争と、その世界に嫌気がさしてそこからのがれようと思いながらも、騙し騙されながらついには抗争を生き抜いてのし上がっていく主人公の生き様に妙に感情移入してしまう自分がいる。現実の自分の世界では、暴力と無縁でありたいと思うそのこころが、その代わりとしてこのような暴力映画を楽しむことに繋がっているのかと思うが、暴力に鈍感になってはいけないと常に意識することにしている。

 

 世界が暴力に鈍感になりつつあるようなとき、こういう映画をどう受け止めるのか。目をそむけているだけでは、暴力世界は世界をどんどん侵食するばかりのような気もしている。

今日こそは

 昨日、久しぶりに琵琶湖あたりまでドライブに出かけようと思ったのだが、天候が期待したほどではないので日延べした。高台の展望台から琵琶湖の写真を撮ろうと思うのに曇っていてはもったいない。というわけで今日こそは出かけることにする。

 

 昨日は出かけなかった分、台所の流し台、レンジ周り、トイレ、洗面台などを磨いた。怠け者のいいかげんな磨き方だが、それなりにきれいになったのでせいせいした。散歩の励行、身体を動かすことに努めたおかげでリバウンドした体重も少しずつ減り始めた。気を抜かずに節制しよう。今日は中秋の名月、月は見られそうだ。月を見て一杯、なんてつい考えてしまう。

 昨日は本を夢中で読んでいるうちにうっかり点眼を忘れかけた。それほど遅れずに点眼できたのは幸いである。習慣になって忘れなくなる、のではなく、なにごともないことによって気がゆるんでいるのだろう。今日は出先で昼の点眼をすることになる。

2023年9月28日 (木)

トニー滝谷

『トニー滝谷』は2004年の日本映画。村上春樹の同名の短編小説を監督の市川隼が脚本にした。登場人物は何人もいるけれど、ほとんどがイッセー尾形と宮沢りえだけがメインで演じている。ナレーションは西島秀俊。普通のストーリーを追う映画とは異なるが、不思議な余韻の残る映画だった。

 

 主人公の生い立ち、無感情にも見えるその独りだけの生き方、その孤独な生活にあるとき光が差す。かけがえのない相手を発見し、無機的な生き方が一変する。幸せな日々が続く中、彼女にまつわりついている影のようなものが次第に気になり始め、それを取り払おうとしたとき・・・。

 

 影を取り払うことで実体も喪うことになってしまうことがある。実体があるからこその影でもあるからだ。人と人は不思議に出会い、不思議にすれ違い、出会うことで血が通い、生きているという実感を生む。失うことで訪れる孤独は出会う前の孤独よりはるかに「虚」であり「無」である。そしてその虚無を埋めようともがけばもがくほど失ったものの大きさを思い知らされる。孤独の深淵を思い知らされる。

 

直観

 平凡社のSTANDARD BOOKASという叢書があり、私はその中の第三集の『今西錦司』と『柳田國男』だけをもっている。第一集には寺田寅彦や岡潔、牧野富太郎など八人、第二集には湯川秀樹や南方熊楠、神谷美恵子など六人、そして入院中に手持ちの第三集の柳田國男を読んだことはすでに書いた。その流れでもう一冊の今西錦司を読み始めた。今西錦司は京都大学教授で文化人類学者、登山家、探検家である。ダーウィンの進化論に異を唱え、今西進化論を提唱している。

 

 『生物レベルでの思想』と副題がつけられたこの本の冒頭が『直観と自然』という小文である。一部引用する。

 

 私はとかく直感にたよりがちである。処世のうえにも、あるいは研究のうえにも、しばしば直観が用いられていることは、自他ともに許すところであるが、どうもこれは、私の長所であるとともに、また私の欠点にもなっているらしい。なぜかというと、直感はうまく当たればすばらしいけれども、かならずしも百発百中というわけには、ゆかないからである。したがって科学のように、百発百中をねらう傾向のあるものにとっては、直観はその方法論として、なじみがたいところがあるのはやむをえない。けれども百発百中をねらいすぎて、科学はみずからを矮小化しているきらいが、ないでもない。
(中略)
 こうした経験をもとにして、もすこし理屈をつけてみると、直感があたるとか、よくきく日というのは、まず身体が・・・特にその感覚が・・・せいせいと冴えきっていることが必要であ、そのうえいっさいの雑念をすてて、その身体を環境にゆだねることができた日であるようにおもわれてくる。ところでこうしたことは、四六時中意識が過剰にはたらき、あれがしたいとかあれがほしいとおもってくらしている、現代人の生活とは、およそ反対なことばかりである。これでは現代人に直観を説いても、どこまで理解できるかさえ疑わしい。
 そもそも人類以外の動物や、人類にしても言語使用以前の古代人が、過ちなく生活して、今日まで子孫をのこしつづけてきたというのは、本能といったようなわけのわからぬものに操られていたからではなくて、彼らの身体にそなわったこの直観という能力を、フルに発揮してきたからだ、と私はしだいに考えるようになった。だから、この過去何千万年にわたる生活の指針をすてて、人類だけが直観という能力を鈍らせても、それで未来を生き抜いていけるだけの自信が、はたしてどこにあるのだろうか。すでにいろいろな危機の到来が叫ばれているけれども、もとをただせば、それは人類がこの直観ということを、軽視しだしたことによるのではなかろうか。
(後略)

 

 このあとに今西錦司は「自然にかえれ」と説く。

 

 私もエネルギー危機、地球温暖化など、人類が隘路に向かっているような事態は、人類が「直観」を失ったことの結果なのかも知れないと思ったりする。そして少子化というのはまだその「直観」が働いている結果なのかも知れないと思ったりもする。

 

 この文章は1980年に書かれている。今西錦司の「直観」は今日を予見していたのだろうか。

 気取っていえば、世界は欲望を数値化した経済で動いているというのは幻想だ、という解釈もできる。

『私の岩波物語』

 山本夏彦『私の岩波物語』(文藝春秋)という本を少しずつ読み進めてようやく読了した。これで手持ちの山本夏彦(五十冊ほどあると思う)で未読はなくなった。この本は『無想庵物語』、『最後の人』に続く三部作の完結にあたるのだそうだ。題名は『私の岩波物語』だが、岩波書店を論じているのは冒頭の章だけで、全体としては「言論と出版の百年」であると帯にある。彼が編集人であり発行人である月刊誌『室内』に連載していたもので、彼の出版社である工作社の社史の体裁をとりながら、本というものについて彼が関わったすべてを網羅して書いてある。労作である。

 

 本ができるためには、執筆者、出版社、広告会社、印刷所、製紙、製本、取り次ぎ、読者が必要である。それらについて知る限りの情報を盛り込んである。紙の本というものに、ただの物ではない思い入れのある人なら、この本は必読だと言って良いだろう。この本は平成六年に出版されているから、もちろんまだデジタル書籍などというものはなかったからそれについては言及されていない。読みながら、出版業界の劣化がどんどん進んでいるらしいことを感じさせられる。そうして本らしい本はどんどん出版されなくなり、それと出会う場所も限られていく。私はそういう意味で幸せな時代に本を読んでこられたなあと思う。

 

 本らしい本を読んだなあ、というずっしりした読後感に満足している。やはり山本夏彦は凄い。

2023年9月27日 (水)

ワイルド・リベンジ

 『ワイルド・リベンジ』は2022年のアメリカ映画。恋人を違法薬物によって失った男(ジャック・ヒューストン)が、麻薬組織に壮絶な復讐をしていき、ついに組織のボスを倒す、という話だと言ってしまえばそれで終わりの映画である。しかしこの映画にはロバート・デ・ニーロやジョン・マルコビッチが重要な脇役として出演しているのである。単純な復讐劇というだけではないそれなりの内容がある。

 

 恋人たちは薬物中毒から抜けられずにもがいていたが、互いに相手が自分にとってかけがえがない存在であることに気づくと、薬物を絶つことを決意する。地獄の苦しみの時期を乗り越え、ついにクリーンになった二人を町の保安官(ロバート・デ・ニーロ)は暖かく見守る。男は保安官の息子の友人で、その息子はすでに死んでいて、彼には息子のかわりのように見えるのだ。

 

 そうして、二人は見放していた家族の元へ結婚することを報告に行き、承諾を得る。断薬の地獄の苦しみ、そして再生の喜びが丁寧に描かれていく。その上での恋人の死であるから、怒りはすさまじい。しかも主人公の男は暴走すると止まらない過去を持っていた。

 

 プロローグに麻薬密売人が惨殺されるシーンが描かれる。それが物語とどう繋がっているのか。それは見てのお楽しみである。かなり残虐なシーンがあるので、バイオレンスシーンの嫌いな人はちょっと辛いかも知れない。 

 

 主人公役のジャック・ヒューストンはあの巨匠ジョン・ヒューストンの孫だそうだ。

どういうわけか嫌い

 ダークダックスの最後の一人が老衰で亡くなったと報じられた。NHKでは一昨日、朝から晩までニュースで報じ、昨日の朝もまだ報じていた。ダークダックスというコーラスグループの存在は、報じるに足る大事なものなのであろう。

 

 私がまだ少年時代、「ダークダックスは嫌いだ」と言ったら、母が面白がった。私がなぜ嫌いだと言ったのか、母にはなんとなく分かったのだと思う。ダークダックスは慶応ボーイで、学生時代からの仲間がそのままプロになったと記憶している。スマートで知的でノーブルな感じが好感を持たれ、人気があってもてはやされていた。それが私にはなんとなく鼻についたのだ。とはいえコーラスグループが嫌いなわけではなく、私はデュークエイセスがお気に入りであった。

 

 実際にどうであるかはべつにして、順風満帆、人生がすべて順調です、という人たちが昔から嫌いである。陰翳のない薄っぺらいものに見える。そういう人ほど実は他人の痛みに鈍感で冷たいことをそのときには知らなかったが、長い人生で経験して学んできた。それを子どものときから感じたというのは、たぶん私のいわれのないコンプレックスから来ているのかも知れない。

 

 ダークダックスの面々は最後までこのように惜しまれながら人生をまっとうできたとNHKは報じていたのだろう。良い人生でよかったね。もちろん彼らを私が嫌いなのは彼らのせいではない。私の勝手な思い込みによる。こんなことをあえて書いて、母もあの世で私を笑っているだろう。

嫌いな理由

 好き嫌いには理由があることもあるが、つきつめると好きだから好き、嫌いだから嫌い、ということに行き着くことが多い。私は岸田首相がどうも好きになれない。好きになれないというのは穏やかな言い方で、はっきり言えば嫌いである。

 

曾野綾子がこんなことを書いていた。

 

 最近、テレビニュースに現れる麻生総理のスピーチに気になる点が現れた。語尾をのばす癖が顕著になったのである。「その点についてぇー、一方的にぃー」という感じの間延びがしている。
 総理ともあろう人なら、喋るとき、問題点の背後にはっきりとした実現可能な政策に対する信念をもっていること。もうひとつは、その内容を自分の中に整理して蓄積しており、短時間のうちにできるだけ相手に伝える機能。この二つくらいは最低限要求されるだろう。
 総理の日本語力の不足は、社会に大きな一石を投じた。一時代前だったら、あれは指導者として大きな恥だが、日本語がすでに崩壊しかかっていることの危機を見せつけたという点では功績である。自国語が絶えず研鑽されて保たれるという努力を失った国に、文化が栄えるわけはない。(2009年の文章)

 

 語尾をのばす話し癖は若い女性にもしばしば聞かれて、私は不快である。語尾を強調しているように見えて、相手にもたれかかり同意を強要する気配がある。語尾をのばして強めに言うのは私が学生だったころに学生運動をしていた連中の演説口調、話し癖で、それを思い出すと虫唾が走る。

 

 岸田首相の話し癖はそれとはちがう。切るべきところではないところで間が入るのである。やたらに間が入るときとそうでもないときとあるけれど、気になって仕方がない。苛々する。あの話し方が大嫌いである。

 

 政治家は話し言葉のプロであろうし、あるべきである。それが苛々させられるようでは耳を傾ける気になりようがないではないか。それとも、もともと嫌いだから苛々しているだけなのだろうか。

2023年9月26日 (火)

On The Line

『On The Line』は2022年のアメリカ映画の原題。日本での題名は『ミッドナイト・マーダー・ライブ』。主演はメル・ギブソンで、彼特有の止めどない軽口が満載の映画だが、映画は全編緊張感が途切れることのないシチュエーションスリラーである。出来はとても良い。伏線が張り巡らされていて、どうしてこのような事態が生じたのか、それが緊張感を生んでいるので、それがわかってしまうとおもしろさが減るから、二度目のない映画といえるだろう。

 

 ラジオの深夜放送をしているベテランDJエルヴィス(メル・ギブソン)はかかってきた相談事を、今夜も辛辣にかつ軽妙にさばいていく。そんなとき、尋常とは思えない電話が男からかかってくる。彼はエルヴィスの妻と娘をこれから襲うというのだ。エルヴィスは彼と交渉し、翻意を促し、説得に努めるが、犯人は彼の自宅に押し入り、妻と娘を人質にして一方的に彼を従わせようとする。

 

 男がなぜこのような犯行におよぼうとしているのか、それをさぐるうち、その理由がわずかながら明らかにされるが、しっくりしないところもある。それらのやりとりは、もちろん犯人の指示で放送され続けている。エルヴィスは妻と子の命を助けるために話したくないことまで告白させられて・・・。

 

 エルヴィスが犯人とのやりとりの中で次第に犯人の実際の居場所を推定し、反撃へ至るところから事件は様相を転じていく。あちこちに転がる惨劇の跡と死体。事件は深刻さを増し、しかも犯人は建物に爆弾まで仕掛けていた。ようやく犯人にたどり着いたエルヴィスだったが・・・。実際に見ないとこの映画特有のおもしろさが分からない。是非ご覧あれ。

細部の汚れ

 朝一で眼科の診療を予約していた。早ければ待たされることもない。眼圧の検査をしてから医師の診察を受ける。眼をのぞき込んで、問題なしとのご託宣をいただく。次回は一週間後。点眼は二ヶ月くらい続けてほしいという。目のわずかな違和感は、疵があるからとうぜんで、次第に薄れてなくなるはずだが、ひどくなるようだったら診察しますとのこと。気にするから気になるということなのだろう。

 

 そういえば入院中のことで思いだしたことがある。目薬を看護師がさしてくれるのにもいろいろその人なりのやり方があり、おもしろい。あるとき「あかんべえをして」と言われた。一瞬理解できなかったが、下まぶたを下げろということだと気がついた。だから舌まで出すことはしなかった。点眼後にそのままでいたら、「もうあかんべえはやめても良いですよ」とやさしく言われた。ちょっと恥ずかしいと同時に、我ながらおかしくなって笑ってしまったら、周りの看護師や助手の人がいっせいに笑って、ひととき座が和んだ。

 

 目が良く見えるようになって嬉しいのは、本の紙面がとてもクリアになったこと、以前は紙面がうねっていたり、ところどころぼやけていたのが、平らに均一に見えるようになったことだ。もちろんコントラストや色彩の鮮やかさは感動的なほど感じるようになった。しかし、洗面台周辺や風呂場、台所の流し回りなど、細部の汚れが見えるようになったことに閉口した。いままでぼんやりして見えなかったものが目に飛び込んでくるようになった。少しずつ気がついたところから磨き直さなければと思っている。

点眼

 目薬①②③を8:00 12:00 16:00 20:00の四回点眼する。8:00と20:00は①~③、12:00と16:00は①と②だけ点眼する。点眼の間隔は5分以上あける。点眼前には手を洗って清潔にする。点眼は両目を開けて行う。点眼時にまつげなどに触らないように注意する。点眼したらあかんべえをして、まばたきする。垂れた目薬は拭き取る。

 

 以上は病院で指導されたことで、励行している。両目を開けて点眼するのにも慣れた。こうすると、はずれることが少ない。

 

 今日は病院へ経過診察を受けにいく。寝ている間に眼をこすったのか、わずかだが右眼が充血している。なんとなく目にゴミが入っているような、またはゴミがようやく取れたあとにまだゴロゴロしているのに似た感覚が右眼にある。

 

 いつまで目薬をささなければならないのだろう。

2023年9月25日 (月)

ブラックアダム

 『ブラックアダム』は2022年のアメリカ映画。コミックを原作としたスーパーヒーロー映画で主演はドウェイン・ジョンソン、いかにもそれらしい。5000年前に独裁王の圧制下にあった国で、その王が強大な力を持つ呪われた王冠を手にしたとき、それに抗すべく魔術師たちに使わされた半神半人の男アダム。王を倒したのちに魔術師によって封印された彼が5000年後に呪いの王冠が発見されたのに前後して現代(近未来)に復活する。

 

 アメリカに限らず、このようなスーパーヒーローや超能力者は人気のようだが、特にアメリカで盛んなのは、なにか文化的に原因があるような気もする。英雄出現を渇望する素地があるのか。トランプなど、そのような渇望によって祭りあげられた存在なのだろうか。とはいえアメコミ原作のスーパーヒーローやダークヒーローたちの氾濫には、いささか食傷してきた。

 

 しかしこの映画はすこし趣向を変えているところもあって、そこそこ最後まで楽しめた。それにしても特撮はますますリアルにド派手になってきたなあ。これも次回作がありそうな気配だ。

いいではないか

 常磐ものといわれる福島近海の水産物が原発処理水放出後も価格が暴落などせず、安定しているという。心ある日本人は意識して水産物を買うようにしているという報道もある。ふるさと納税でも福島などで急増しているという話は、風評被害どころか逆に支援しようという意識になっているということで、たいへんめでたいことである。いいではないか。それに較べて中国では水産物の販売量が激減し、価格が暴落していると言うのは皮肉である。

 

 日本で獲れる海産物は放出処理水のすぐそばで獲れたもので、それでも日本人は平気で食べていて、実害もない、というのが何よりの中国人に対する安全性のアピールになるのだから、さまざまな形でそれを中国に伝えたら良いだろう。論より証拠である。

 

 しかしながら、中国でふたたび水産物が大量に消費されるのは、限られた水産資源にとって望ましいことではないのも事実である。日本は長い経験から、持続可能な漁業を意識するようになってきた。禁漁期間を設け、漁網の目のサイズを大きくして稚魚を逃がすように工夫している。船団も過剰に大きくしないで取り過ぎないように努力もしている。それが完璧かどうかはべつにして、そういう意識があることが重要なのだ。

 

 それにひきかえ、中国は根こそぎ大量に乱獲する。他国の沿岸近くまでやってきて、禁漁時期もなにもお構いなしである。再生可能な漁業など意識の端にも持ち合わせているように見えない。獲れなくなったらよそへ行くだけ、というのが彼らの行動に見える。

 

 限られた水産資源のためには中国での水産物消費が激減することは望ましい。中国の漁業者が採算が成り立たなくなることは乱獲の歯止めになる。いまは海がすこし休むことができることを喜ぶべきかも知れない。ものごとには悪い面ばかりがあるわけではないようだ。同じようなことは、中国の産業が停滞し、生産が減ることでエネルギー消費が減ることもさまざまな意味で喜ぶべきことかも知れない。中国のエネルギー効率は高いとは言えないから、温暖化の歯止めの一助になりはしないか。中国初の不景気の心配ばかりするのはやめよう。

 

 中国向けの水産資源輸出が禁止されて、多くの業者が困っているという。急に禁輸になったから対応ができずにいるので、それを救済するためには、ほかの販路や、中国に依存していた水産物の加工地を東南アジアへ移すなど、さまざまな努力が進められているという。いまはまるまる実損だが、次第にそれは緩和されていくだろう。マスコミは禁輸直後の損害を繰り返して危機を煽っているが、中国を喜ばせるだけだからもう少し控えたらどうだろう。経過的な救済のための補助にクレームをつける者は少ないだろう。そうして中国を相手にしないでもなり立つようになれば、こういう措置の効果はなくなって、効果がなくなれば中国もこういうことをしなくなる・・・かも知れない。無理か。

 

 全体的に日本人は冷静で理性的に見え、中国人は感情的に見える。世界にその様子を伝えてその印象を強調するのも政府やマスコミの役割ではないか。

少々違和感

 中国の、日本産水産物輸入禁止についてのマスコミの報道に少々違和感がある。禁輸によって起こっている事実について報告した後、中国に対して日本の処理水は安全であることを科学的にもっとよく説明し、理解してもらうべきだ、と言う文言がつけ加えられていることが多い。理解してもらっていないという証明のつもりなのだろうか、必ず中国市民へのインタビューが添えられていて、彼らは口々に「日本の核汚染水が海を汚染させているのだから中国政府の措置はとうぜんのことである」「健康のためにも日本産の水産物など絶対に食べない」と言う。

 

 中国政府の指示の元に連日そのような伝えられ方をしているのだから、そのような答え方をするのだろう。日本のマスコミは、それこそ理解が進んでいないことの表れだから、もっと日本政府は努力せよと言いたいわけだろう。しかし中国国民は無知な人ばかりなのだろうか。そうではない人も多いはずだ。それでもテレビカメラやマイクを向けられて、中国政府の発表と異なることを平然という人はわずかにちがいない。中国はどんな理由で目をつけられるか分からない国で、日本のようになにを言っても良い国ではない。政府の意向に反することをいうわけがないではないか。

 

 中国の禁輸は政治的な措置であるということはそういうことだ。政治的な措置は政治的な解決しかなく、たぶん科学的な説明による理解からはその解決は生まれない。その政治的な解決については、中国がなにを寄こせ、と示唆するまでは今のところ答えが見えていない。それに、いま突然中国政府が禁輸を解除したら、中国政府の言うことはいったいなにが本当なのか、という批判を浴びるだけだから、ほとぼりが冷めるまでは禁輸解除などするはずがないではないか。

 

 そのことが日本に禍であるより幸いであるかも知れないということを、もっとマスコミは報じて良いのではないか。そのことは次回考えてみたい。

2023年9月24日 (日)

マスク

 つい最近まで近くのスーパーではほとんどの人がマスク着用だったが、八月の初めに日本海から東北を回ったときには、どこに行ってもマスクを着用している人の方が少なくて、マスクをつけなくてもきつい視線にさらされることはなかった。しかし愛知県に戻ってからはマスクをつける習慣に戻った。着用している人がずっと多かったから。病院ではもちろんマスク着用だった。

 

 今日、買い出しにでたときに、久しぶりにうっかりマスクをつけ忘れた。辺りを見回すと、つけている人といない人では、つけている人がやはりすこし多いかなあというところで、以前のようにつけ忘れたからあわてて戻って・・・という必要を感じなかった。もうマスクは人に感染させないためというよりも、自分が感染したくないからつける、というものになっているようだ。

 

 高齢者で持病持ちの私としては、まだしばらくはマスクをつける方を選ぶことにする。こんどは忘れないようにしよう。

倒産

 ラーメン屋の倒産を取り上げている番組を観た。ラーメン屋の倒産が増えているのだという。全体の件数に対してどれだけの件数なのか、その割合が明らかにされていないので、ラーメン屋に特有の事情なのか、それとも針小棒大の取り上げ方なのかよく分からないところもある。いまも頑張っているところも光熱費、原料高などにより経営が苦しいことを具体的なお店の様子を見せることで伝えていた。

 

 単純に考えれば、それらの経費が上がったのであれば、それをラーメンの価格に転嫁すればよいではないかと思う。番組ではどうして値上げができないのか、そのことを突っ込んでいないので分からない。経費が上がっているのに値段を上げなければ経営が成り立たないことは子供でも分かることで、問題はそれができないのはなぜなのか、ということだろう。

 

 日本の物価が諸外国に比較して上がっていないのは、このような、あげてしかるべきところであげずに無理をして、とどのつまりは廃業倒産せざるを得ないという企業体質にあるような気がする。これは「お客様は神さまです」精神の異常さが影響しているのだろうか。自滅をしてまでも価格転嫁ができないというのはなぜなのか、競合相手があげないから客を取られる、と言うのは理屈に合わない。倒産して周りに迷惑をかけるということは努力ではない。あげなければ成り立たないなら何より値上げ努力をすべきだろう。どうもその辺が意気地がない気がする。何かといえば弱者救済といって、無利子の補助金乱発をするから、一時的に救済されても体質は変わらず、返済の期限が来れば自滅する、と言うことになるのはとうぜんだ。

 

 もちろんこんな単純な図式では語れないさまざまな要因があるのだろうが、今のところまだ納得する理由を見ていない。厳しい言い方をすれば、ラーメン屋が値上げできずにバタバタと倒産していけば、生き残ったところは値上げしてでもどんどん客が来るだろう。そのときにはそれならラーメン屋を開業しようという店がどんどんできてくる。世の中はそうして栄枯盛衰してきたのだ。滅びの美学ばかりを取り上げるマスコミは問題点の取り上げ方が甘い気がする。

 

 年金暮らしで楽をしている分際でこんなことを書くと批判があるだろうなあ。申し訳ない、とさきに謝っておく。

リズムを取り戻す

 昼間うつらうつらすることが増えて、夜になると眠れないという状態がしばらく続いていた。入院している間は上げ膳据え膳で雑用もないから、暇すぎて更に昼間うつらうつらしていた。夜は九時に消灯で、それでもちっとも眠れない。起き出してもどうしようもないから、とりとめのないことを考えてひたすら時間の過ぎるのを待つしかない。

 

 とりとめのないことを考えていると、いつしか子どものときからいままでの出来事、関わった人たちが不思議なほど鮮やかに、ランダムに現れてくる。生きている人、すでに物故した人たちの姿は、はたして起きて回想しているのか夢なのか定かではない。死んでもあの人たちに会えるのだなあ、などと普通に考えていたりする。べつに死にたいわけではないが、この世とあの世の境目が幽暗のうちに繋がっていた。

 

 自宅に帰り、買い物もして食事も自分で作り、体がなまっているので、昼間寝ないように体を動かすことに努め、散歩もした。そうしたら昨晩はスムーズに眠りにつき、気持ちの良い朝の寝覚めを迎えることができた。これで睡眠のリズムが取り戻せると好いなあ。

2023年9月23日 (土)

入院中

 手術と診察以外はほかにどこも悪いところはないから、暇である。ゴロゴロして、読めるときは本を読んでいた。柳田國男の本を一冊だけ持って行ったけれど、読み終えてしまい、仕方がないのでもう一度読んだりしていた。それでも腹が減る。おかずは質素だが、かわりにご飯が多い。減らしてもらおうかとも思ったが、食べられるから食べた。体を動かしていない(それにふだんより水分摂取が少ない)から便秘気味になり、腹が張ってうっとうしかったけれど、最後の日にちゃんと通じがあってすっきりした。

 

 四人部屋に患者は三人。一人は腰のヘルニヤ手術をした人、もう一人は大腸ポリープの切除手術をした人。ポリープの人は先に退院していった。ヘルニヤの人は長く入院しているようで、それでも来週退院らしい。夫人も別の病院に入院していて同じ頃に退院するという。ところが可哀想なことに、その夫人の容態が思わしくなく、退院しても家族が介護を続けなければならないようだ。娘さんがやってきて言うのをカーテン越しに聞いた。「お父さん、ごめんなさい。退院してお父さんの面倒を見たいけれど、お母さんの方で手一杯で、二人はとても見られないの。だから申し訳ないけれど、介護付きの施設に移って、一月くらいはそちらで過ごしてもらいたいの」

 

 ヘルニヤの人の気持ちがこちらにも見えるようであった。ケアマネージャーの人がそのあと施設の説明をしていた。人生、いろいろある。

リラークス

 白内障の手術台で、心のなかでおまじないに唱えていたのは「リラークス」という言葉だった。どうしても緊張で体がこわばる。それをこの言葉を唱えると不思議に力が抜ける。我ながら好いおまじないを思いついたものだ。

 

 白内障というのは水晶体の濁りや沈着物で目が見えにくくなり、ついには失明するという怖い病気であるが、いまは簡単に手術で治療することができる。眼球横に穴を開けて、超音波で水晶体を破砕して取り除き、中を洗浄して眼内レンズを入れれば一丁上がりである。眼に別の問題がなく、手際が良ければ10分もかからない。

 

 手術台にのせられて頭や腕を固定されたあと、顔にいろいろかぶせられ、手術する眼のあたりだけ穴が開けられて、なんだか電子音みたいな音と、ここを見つめていなさいという赤やら青やら黄色やらの光をじっとみつめていると、その光がぐにゃりと変形したりあっちへ行ったりして、また元通りになってしばらくすると、「はい終わりました」である。

 

 手術する人は多い。次から次へ流れ作業みたいに片付いていく。ただし間違えないように本人確認や、どちらの眼を手術するのか、繰り返し繰り返し確認がある。女性の方が多いようであった。たまたまだろうか。

鮮やか

 おかげさまで無事に白内障の手術が済み、入院していた病院の支払いを済ませて自宅に帰着した。検査では眼鏡をかければ両目とも1.2が見える。霞んでいた視界が晴れ渡り、砂嵐の中から快晴の世界に脱出できたこころもちだ。

 

 何より驚いたのは、自宅でテレビをつけたときだ。テレビの映像というのはこんなに色が鮮やかで濃度の濃いものであったのか、と驚いた。今まで見ていたものはなんだったのか。テレビの後ろの壁に貼ってある、旅で撮った拡大写真も全く違って見えた。

 

 晩酌程度なら酒も飲めるし、来週からなら運転しても良いとのこと。ただし目薬は忘れずに点眼しなければならない。一日四回三種類の目薬を二つまたは三つ時間を空けて点眼する。これが煩わしい。これをいつまで続けるのか。来週半ばには経過診察のためまた病院に行く。

 

 とにかくほっとした。

2023年9月22日 (金)

天安門広場

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夕方、天安広場に行く。人でごった返していた。

 

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人民大会堂。でかい。このあたりでいささかくたびれてきた。

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写真は孫文かと思われる。もうすぐ国慶節なのだ。

これで初めての中国行の報告終わり。

万里の長城

この頃はまだ北京から八達嶺までの高速道路はできていなかったので、混雑するでこぼこの地道をバ、スに揺られながら二時間近くかけていった。

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八達嶺に近くなると山が険しくなった。たまたま鉄道が横を通った。

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上の駐車場が満杯だというので、下で降りて上まで歩く。いまはそれ以上に混雑していて、下の駐車場に入るのにも長時間待たされるらしい。私も三回、八達嶺を訪ねたが、後になるほど駐車場は混んでいた。

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おお、万里の長城だ!

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正面から見て右側はやや傾斜が緩やか。このとき若くて元気だったから傾斜の急な左側を登った。

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上に行くほど急勾配になる。

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一番上から眺めると、はるか先まで続いているのが見えた。

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下を見下ろす。みんな元気だ。万里の長城を歩けるなんで夢のようで感激した。

2023年9月21日 (木)

北京に入る

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翌朝、飛行機で西安から北京に入る。建ち並ぶマンション群を見て、さすがに北京はちがうなあ、と感じた。

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向こうには建築中のマンション群が見える。そして足元は前日の大雨で水浸しだったのがとても印象に残っている。インフラはまだまだだなと思った。

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こういう景色はそのあといろいろ訪ねた東南アジアの街でも見かけた。

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街路樹の下の部分が白いペンキで塗られている。これは中国ではごく当たり前に見られるし、他の国でもしばしば見た。夜ライトが当たると見やすくなるのと、虫が這い上がらない効果もあるらしい。

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そのまま八達嶺に向かう。万里の長城を見に行くのだ。途中で昼食。外で空を見上げたら気球が飛んでいたのが忘れられない。

西安城壁

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西安の中心部を取り囲む城壁。いまは車を通せるように改修されている。それでも渋滞が日常的に起きているようだ。地下鉄ができてすこしは良くなっただろうか。中国内でも城壁がそのまま残っているところはあまりない。

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城壁の上の楼閣。こういうものが上にあるほど大きな城壁なのだ。二周するとマラソンコースになるという。

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城壁から見下ろす。この木の横の囲いの中は井戸で、涸れたことがないという。だからいざというとき城に立てこもれるのだろう。

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ガイドに土産物屋に連れて行かれたが、勝手に一人で周辺を散策し、あとで叱られた。

この夜、城内の鐘楼あたりで夕食を摂り、イスラム系の屋台街を独りで歩いた。あとで聞いたらとても物騒なのだというが、そんな気配は感じなかった。夜で暗いからカメラをもたなかったので、写真はない。翌日は北京に行く。西安滞在はあっという間だった。また行きたいと思い、このあと、あと二回訪ねている。何度行っても好きな街だ。

 

2023年9月20日 (水)

大雁塔

大雁塔は慈恩寺の塔で、慈恩寺はあの三蔵法師である玄奘がインドから持ち帰ったお経を翻訳したところ。そして大雁塔はそのお経を収めた塔である。

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この塔は登ることができる。

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お参りの前にろうそくをあげる。

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塔の最上階から西安の街を眺める。西安の街の中心部には城郭が残っていて、一周で20キロあまり。それでも唐の時代の長安の城郭の何分の1かなのである。

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別の方向を望む。このあとこの周辺の緑はほとんどなくなった。そして遠方には大きなビルが建ち並んでいるはずだ。

西安郊外

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華清池の近くで、刺繍品などを売る人たち。少数民族特有の刺繍のようなので、少数民族の人かも知れない。

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兵馬俑の博物館前にて。このときの兵馬俑内の写真があるはずだが、ファイルがない。フイルムはあるはずなので、あとでスキャンしておかなければ。まだ調査は一部のみだったので展示場所も少なかった。何年かあとに行ったらずいぶん観るところが増えていた。

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こういう木漏れ日のある風景が好きである。葡萄棚になっているようだ。

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この頃はどこでもこんな風景が見られた。外で食事をすることが多いようだ。家の中は暗いのだろう。

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バスの中から手を振ったら、手を振ってくれた。中国はこのあと道路も建物もめざましくよくなっていった。

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街頭で果物(リンゴやザクロ)を売る人たち。外国人が買うと五倍以上の値段をふっかけられる。それでもとても安い。

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市域の境目の門。西安市内へ帰る。

2023年9月19日 (火)

華清池

西安郊外の華清池に行く。長恨歌でも有名な場所で、玄宗皇帝が楊貴妃に浴を賜った場所。いまは一般客も入れる温泉地である。

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華清池の後は驪山(りざん)。ここは西安事件のあったところでもあり、蒋介石がこの驪山に逃げこんだ。

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中国では柳の木をよく見る。春から初夏にかけて、柳絮が雪のように舞う。

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色がすこしおかしいのは、当時の写真屋にフィルムの現像を頼んでいて、そこがいいかげんな温度管理をしたり水洗が不十分で劣化しているため。デジタルになって本当に良かった。

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現代の楊貴妃。奥の建物は温泉場所。この次にいったときには白いふくよかすぎる楊貴妃の像が置いてあって、雰囲気を壊していた。最近は移動したかも知れない。

これから入院

今日はこれから病院へ行く。午前中にコロナの検査をしてから入院手続きをして、午後にはまず右眼の白内障の手術をする。かかっても20分程度で終わるそうだ。いまの白内障の手術は、日帰りでもかまわないらしいが、私は独り暮らしなので、病院の方が万全なので入院することにした。くっきりものが見えるようになるらしいので、それを楽しみにしている。

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手術が終わってこんな顔ができたら好いな。

 

2023年9月18日 (月)

西安市街など

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西安ではまず小雁塔に立ち寄る。小雁塔は大願塔のあとに建てられた仏塔で、上部は破損していた。むかしは登れたらしいがいまは立ち入り禁止。寺域は静かで好いところだった。

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小雁塔の中の土産物売り場の切り絵が印象的だった。このときではないが、二枚ほど切り絵を買って、一枚は卓上に飾ってある。

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当時の西安博物館にて。いまの西安博物館は立派な建物で、別のところに移った。ここの近くに碑林がある。文化大革命で破壊されないように各地の貴重な石碑を集めてある。また、破壊された石碑の修復や拓本を撮ったりしているところで、西安に行くと必ず訪ねることにしている。

今中国でこういう写真を撮ったらもしかしたら注意されるか、連れて行かれるかも知れない。

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これは練炭。山西省は冬寒いところで、保温のために換気が悪い。その中で練炭を炊くので一酸化炭素中毒で死ぬ事故が頻発している、とガイドが言っていた。練炭は日本人が教えたそうだ。

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帰りのバスの車窓から、ぽつんとたたずむ女の子を見た。中国は一人っ子政策が進められていた時代で、こどもを見ることが少なかった。誘拐も頻発するので、家の中に大事に保護されていたようだ。

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翌朝のホテルから見下ろした西安市民の住宅の様子。蒲団で暮らすところに親近感を感じた。

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これが私の大好きな一枚。朝早くに一人で市内を散策して撮った。西安の街路樹は美しい。父にそれを言ったら、大きく頷いていた。

初めての中国

初めての海外旅行は中国に行くことに決めていて、父と西安へ行くつもりだった。予約もしていたのにそれがかなわなかったのは、1989年の天安門事件があったからだ。大正三年生まれの父は、語学の専門学校を卒業してすぐに中国に渡り、終戦で復員するまで十年以上中国に暮らしていた。行きたいと思う気持ちと行きたくない気持ちとが半ばするような様子だった。その後、私にもさまざまに用事が重なり、行くことができたのは1992年だった。それが初めての中国旅行で、初めての海外旅行だった。父は通風を理由に行かないといい、私はひとりでツアーに参加した。

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仕事を早引けさせてもらい、金曜の夕方に、西安直行ではなく、上海に向けて飛んだ。写真は早朝、上海の小さなホテルの庭で撮った。雨。これが私の海外で撮った1枚目の写真。

上海から西安に飛び、新しくできた空港に降り立つ。その空港も手狭になって、現在はまた新しい西安空港が作られて、そちらが国際線の空港になっているはずだ。

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小雨の中、バスの車窓から見た、たぶん火力発電所。原発ではなかったと思うがわからない。見たことのない景色なので、あわてて撮った。

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こういう文字がそこら中に見えた。スローガンで国をまとめるのが中国流なのだ。

空港はバスで一時間ほどだったが、空港周辺はみすぼらしい家が多く、西安市内に近づくほどきれいな農家になっていく。それが印象的だったので、後で人に聞いたり考えたりして、都市に近いほど利益が上がるのだということを知った。近いと自分で市場に売りにいけるのだ。遠方はトウモロコシや麦、近場は野菜や果物などが作られる。農地解放によって農民に与えられた農地の広さは、遠くも近くも平等に同じ広さなのだ。平等であることが生活に差を生むということを知った。

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渭水を渡る。中国の歴史、とくに長く都だった長安(西安)の歴史を語るとき、この河は忘れられない。現実にその河を見ることが出来て感激した。

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西安の市街地に入る。当時は自転車が多かった。小さなリヤカーの荷台にあるのは、石炭の粉で作った炭団(たどん)のようである。西安は緑が濃い。

2023年9月17日 (日)

ものづくり

 日本ではむかしから技術者や職人などの、ものづくりに携わる人の地位が比較的に高い。儒教を国の思想の中枢に据えた中国とその周辺国つまり東アジアでは、華僑システムを取り入れて文人の地位が高く、軍人や技術者の地位は相対的に低かったのに、どうして日本はそうではないのだろうか。

 

 これは私の勝手読みだが、平安時代の貴族政治がそのまま継続していたら、たぶんほかの東アジアと同様だった気がする。武家政権が成立したことで、日本独自の価値観が生まれたのではないか。それが西洋がアジアにまで進出してきたとき、いち早く明治維新を成し遂げることが出来た背景にあるのだと思う。

 

 ものづくりには手抜きは許されない。職人気質というのはそういうものだと思う。それが日本人の美意識だったのに、いつから日本でもじわじわと手抜きが横行し始めたのだろうか。

 

 中国や韓国で、いつのまにかものづくりの精神が定着し始めて、安かろう悪かろうの評価を覆しつつある。ついに文人優位の価値観を脱しはじめたようだ。

 

 日本の将来を心配しても、私には何の力もないから仕方がないが、どうしてこうなったのか、たまたまそういうことを考えさせてくれる本を続けて読んで、その理由がおぼろげに見えて来た気がしている。

二種類の日本人

 世代間の意識、価値観の違いは、誰もが多かれ少なかれ実感することがあるものだろう。今回読んだ岩村暢子『日本人には二種類いる』(新潮新書)では、そのような一般的な世代間の差とは大きく異なる1960年を境目とした際立つ断層のような違いを35項目にわたって統計的に詳述している。

 

 いままで読んできた彼女の本では、食卓の詳細な調査をベースにした家族の有り様の変化が語られてきた。そこには過去の家庭とは全く違う家庭の姿が明らかにされていた。それらの変化の背景はなにか、そのことを自分がリサーチ会社に属することを利点にしてさまざまな項目にまとめて考察し、そこでその大きな断層に突き当たったのだ。

 

 彼女の著作に興味を持った養老孟司が、この本を新しい日本人論として高く評価したことに私も賛同する。厳密な切断面があるわけではないが、おおむね1960年以降に生まれた日本人と、それ以前の日本人には極めて大きな違いがあることは、1950年生まれの私がとみに実感してきたことだ。そしてその世代間の差はその次世代へ引き継がれ、層状斑状の差はほぼ拡散して均一化し、現代に至っているといって良い。

 

いくつか項目のテーマを例としてあげる。


 自宅出産から産院での出産へ
 おばあちゃんの経験よりも「育児書」
 母乳から粉ミルクへ
 父親不在の母子中心家庭
 生まれたときからテレビ
 一人で遊べる高級玩具へ
 あふれる子供用品、お下がりの衰退
 ダブルスクールの始まり
生まれたときからインスタント食品
 肉と油脂とパン食へ
 カップ麺と冷凍食品
 年中行事より子供の誕生日・クリスマス
 手伝いはしないが、バイトはする
 女性優位
 中身より見た目
 現実より仮想 いつまでも子供でいたい

 

これでも全項目の半分ほどである。

 

 断層の前後が互いの違いを知るために読むと、あるある、と思うことが山のようだ。たぶん旧世代ほどよく理解できるだろうと思う。

2023年9月16日 (土)

平均を上げるより

 いま第三次世界大戦の混乱を鎮めるために、国連派遣軍として世界各地を転戦している。幸い今回は空軍の戦力が強力に設定できたので、比較的に楽に敵を撃破できている。最近学んだのは、部隊の実力を平均的に上げることよりも、一部の部隊をとことん強力にして突破口を開く戦いの方が成果が上がりやすいということだ。弱い部隊には弱体化した敵の部隊を攻撃させることで実力をつけてやればいい。

 

 もちろん昔から何度もやりこんでいるシミュレーションゲームの話だけれど、実際の戦いもそういうところがあるのかも知れない。最近ウクライナの南部の戦線の戦いなどでも、場面場面で知力を尽くした戦術が繰り広げられているのだろう。戦いは均衡がわずかに崩れたところから一気に情勢が変わるものだ。ウクライナはいまようやくその均衡を崩しつつあるようだ。

 

 ゲームといえば、最近囲碁ソフトとの対戦で、投了を余儀なくされることが増えた。見落としがしばしばあるのだ。集中力の低下によるものであるが、知力も衰えてきたのかも知れない。あまり負けると面白くない。自分が弱いのだから仕方がないのだけれど。

現代社会と科学

 村上陽一郎の『科学の現在を問う』(講談社現代新書)という本を読了して、最後のところの『科学・技術と教育』という章に思うことがいろいろあった。あとがきにそれも含めての著者のこの本のテーマに言及したところがあるので引用する。

 

 本文のなかでも触れたように、現代社会は、科学・技術という社会的な営為が、直接・間接に人間の生を制御し、管理し、支配するような社会である。そうした社会は、人類のこれまで経験したことのない性格のものである。私たちが通常「社会科学」と読んでいるさまざまな学問も、おおむねは、そのような状態になる以前の社会を対象に成立しており、そうした学問自体が、新しい人間社会と取り組むことが求められている。それは人文系の学問についても全く同じであり、真理はいつの時代にも変わらない、と言う聞き慣れた遁辞は、しかし、その真理が現れる現実への真摯な対応なしには、文字通り遁辞に過ぎない。
 他方、科学や技術に携わる人びとも、自分たちの営みが、自分たちを超えて、社会や人類全般に関わりを持つような事態になっていることに、決して鋭敏とは言えない。理工系の大学では、学生が人間や社会についての理解を深めるべき機会は減る一方である。

 

 私が大学で学んだ時代は、まだ教養課程の科目として、理工系の人でも社会科学や人文科学のかなりの単位が必須だった。もちろん文科系の学生も自然科学の単位を修得する必要があった。それが今は必須単位が著しく減少しているという。文化系の人間は理数系が苦手であることをあたかもファッションのように自慢したりする。自分の専攻することではないことだからこそ、最低のことは身につけておこうと思うのが当たり前だと思うが、それが無駄でもあるかのように思われていることの弊害は甚大だと思う。

 

 いま世界でなにが進行しているのか、それを知った上でものを考えなければならないと思うが、そのためには現代は科学や技術についての知識が必要だし、同時に技術者や科学者は、自分の社会的役割を考えるために文化系の知識が必須の時代なのだと思う。

終の棲家

 昨日の愛知県は猛暑日で、今日も猛暑日の予想。朝ゆっくり起きたら室温はすでに29℃である。朝の涼しい空気を入れたくてもこれでは涼しくない。それにベランダの補修工事で網戸は取り外して室内に入れてあるから、開けておくと虫が入ってくるおそれがある。そのベランダの工事もある程度終わり、明日から網戸を取り付けてもかまわないと掲示されていた。

 

 北側の部屋を寝室にしているが、向かいはスーパーの搬入口で、朝早くからトラックがやってくる。カーテンを閉めて暗くしてあっても、積み下ろしの音で、ああ朝だなあと思う。うるさいというほどのことはない。そちらの窓もまだ工事の途中なので開けられない。

 

 玄関外の廊下の壁や天井、ベランダや外壁の塗装をしていると、アクリル酸の臭いがしてくる。もともと化学屋だったし、この臭いにはなじみがあるけれど、それでもかなり不快であるから、慣れない人には辛いだろう。工事をしている人はそれ以上だと承知しているが。

 

 着実に工事は進展している。ほぼ十年に一度大がかりな補修工事をしているが、今回は特に徹底していて今までになく大規模だ。古いマンションだが、手入れが好いからその古さによるみすぼらしさはまったくない。このまま終の棲家として満足して暮らせそうだ。

2023年9月15日 (金)

旨いと思える幸せ

 コロナの後遺症で場合により味覚障害があると知って、怖い病気だと思った。若いときより味覚は著しく衰えたとはいえ、今のところなにを食べてもなにを飲んでもおおむね美味いと思って食べ、飲んでいる。

 

 用事で出歩くことはあっても、炎暑が続いたのでしばらく散歩をしなかった。久しぶりに、夕方五千歩ほど歩いたら大汗をかき、帰ってすぐにぬるま湯につかって全身を磨き上げたらさっぱりした。リバウンドしかけていた体重も元に戻った。これなら安眠できるだろう。

 

 湯上がりに、冷やしておいた白ワインをつまみなしでゆっくり味わいながら飲む。旨い。これほど美味しいと思ったのは久しぶりだ。旨いと思える幸せを実感した。

雑感

 ひいきのチームがないわけではないが、熱狂的というにはほど遠い。負ければ口惜しいし、勝てば嬉しいという程度である。アンチ巨人の気持ちがあって、巨人が負けるのがいちばん嬉しい。阪神が優勝したのを見て、おめでとうと思う気持ちはあるが、あまり熱狂的なファンの喜びようを見るとちょっとシラケる。今のところ興奮のあまり人に迷惑をかけることは前回より少なそうなのが幸いだ。

 

 リビアの洪水は見ていて痛ましい。これは二つのダム決壊を伴って、山からの津波みたいな形になってしまったことによるようだ。今のところ発見された遺体だけで5300人というが、行方不明者はかぞえようがない状態で、海に流されてしまったと見られる人を合わせると3万人を超えるのではないかともいわれている。国が二つの勢力に分断されて争っていることで、支援も充分ではないようだ。国が安定していないことの不幸を見せられる。

 

 同様のことはモロッコの地震でも見せられている。インフラが充分でないと、支援の手も被害の大きかった山間部には届いていない。日本では大きな災害があるとボランティアが活躍し、国民の意識がまとまったりするが、アフリカではあまりそのような様子は見られない。

 

 プーチンが金正恩と談笑していた。多少脅えながらの金正恩を歓待するプーチンのにこやかな顔は、却ってプーチンの必死さを示しているとみるのは考えすぎだろうか。二人は世界の正義のために戦うのだそうだ。

2023年9月14日 (木)

混雑

 妻の入院している病院には15キロほどだが、途中が市街地を通り抜けるので道が混み、30分で行けるときもあれば50分かかることもある。今日はその混雑している日で、明日なら15日で週末で三連休前だから混むというのは分かるが、どうして今日が混んだのか分からない。

 

 病院は20日前後に支払いをすることになっているけれど、車でないと不便な場所であり、来週以降しばらく運転は無理だから、少し早めにしてもらうよう連絡して事前に計算をしてもらい、早めの支払いの了解をもらった。病院の会計はほかの客がいなかったので全く待たずに済んだ。明日でもいいのだが午前中に人が来ることになっている。昼までには用事が済むと思うけれど、万一遅くなると病院に行けないおそれもあるから今日にした。

 

 今のところ支払い額は想定内で収まっているのでありがたい。これなら息子や娘の援助は不要である。今回は面会をパスして来月にすることにした。

科学の現在を問う

 いま、村上陽一郎(科学史学者)の『科学の現在を問う』(講談社現在新書)という本を読んでいて、もうすぐ読み終える。2000年に出版された本で、私が購入したのはつい最近で、2018年の21刷だから、ずいぶん継続して読まれている本なのだろう。

 

 簡単に専門の科学史を述べた後に、科学全体の現在(2000年時点)について概観を述べている。各分野の現状と問題点、たとえば再生医療など、まだEPS細胞の発表がない時点であるが、それ以前のES細胞についての問題点が指摘されている。またそれに関連して生殖医療、臓器移植についても冷静な分析を行っていて勉強になる。

 

 2000年にはまだ東日本大震災は起きていないが、当時起きたあり得ないような東海村の人災とも言える事故を取り上げて、その問題点と、心構えについて論じている。こういうものをきちんと東京電力の経営者が読んでいれば、津波が起きても原発事故は防げたのではないか、などと感じてしまう。

 

 帯には「科学と技術の発展は人間を幸福にしたか?」とある。もちろん幸福にした。したけれど、その幸福とは豊かさのことで、豊かであることがそのまま幸福なのかどうか、それをもう一度考える必要もある。それで失われたものがなんなのか、それはきちんと数え上げられていなくて、差し引きの勘定が将来にわたってプラスなのかどうか、いま異常気象をはじめとする自然災害などのエスカレートを見ていると心配になる。

 

 そういうことを立ち止まって考えるのに参考になる本だと思う。

笑顔

 山のように写真があるのに、私の写真はとても少ない。私が撮った写真だからだ。子供が一緒に旅行に行ってくれていたころの写真には私が写っている。子供が撮りたがった時代があった。さらにむかしには、まだ一緒に暮らしていた妻が撮った写真もある。それらの写真の私はいつも仏頂面である。

 

 息子が小さいころの写真は笑顔が多い。娘は息子ほど笑顔の写真が多くない。あんまり私が写真を撮るのでうんざりしていたのだろう。それでもときどきなごやかに微笑んでいる顔がある。自然の笑顔はその人が優しい人だという印象を与える。安心しきっている子供たちの笑顔の写真を見ると、その時代がとてつもなく貴重で幸せな時代だったのだと気づく。

 

 友人と旅行に行ったときの友人の顔は、たいてい穏やかで笑顔である。そのとき私も笑顔だったような気がする。独りで旅をしているときの顔はどんな顔をしているのだろう、そう思うけれど、スマホで自撮り、などということをしようと思ったことはない。

 

 自分の笑顔を想像すると、引きつった不自然な顔しか思い浮かばない。

2023年9月13日 (水)

もっともであるが

 中国やロシアや北朝鮮、韓国、ときにアメリカなどが日本に対して面白くない動きをすると、その国に問題が起きたりしたらいい、などとつい思う。だからその国についての多少悲観的な話が伝わると、それが事実かどうかはべつにして、すこしオーバーに受け取るということはある。願望は事実に色づけしてしまうものである。それは相手も同じだろう。

 

 中国外交部毛寧報道官が面白いことを言ったようだ。

 

「ときおり、さまざまな『中国崩壊論』がでてくるようだが、実際のところ、中国経済は崩壊しておらず、逆に『中国崩壊論』の方が何度も崩壊している」

 

 たしかにこの二十年ほど、中国は繁栄を続けているように見えるが、実態は問題だらけで、いまにそのひずみが原因で中国は失速するという本が、書店の店頭に山のようにならび、私もそれらのいくつかを読んだ。あしたにも崩壊するかのような本は、たいてい眉唾物で、なるほどと思えるものは、中国の問題点を統計的な事実を元に論じていて説得力があった。

 

 多くが感情的なものが多かったし、現にいま崩壊していないのだから、その予想ははずれているではないかと中国外交部が指摘するのはもっともである。しかし、だから指摘されているような、深刻な問題など中国にはないのだということにはならないと思う。現実に不動産会社の実質的な破綻が起きて、中国経済が停滞し、回復ができずにもしかすると長期的に失速をするかも知れないという予想は、願望による空論だとは思えない。

 

 どちらにしても、毛寧報道官のいう「中国経済は回復を続けており、全体的に好調である」のかどうかは時間とともに明らかになるのであるから、これからどうなるのか、高みの見物をすれば良いだけである。答えは待っていればいまにでる。

友を懐かしむが如く

 どんなに忙しくても新聞を丁寧に読んだものだったが、リタイアしてから遠出で家を空けることが増え、帰宅してからの読まない新聞の山を見て数年後に購読を中止した。やめてもう十年近くになる。新聞が必要だと思うときは近くのコンビニで新聞を買う。それで困ることはあまりないが、それ以来もの足らないと思うのは、読書案内欄が読めないことと、新聞の下段にある週刊誌の広告が読めなくなったことである。

 

 ある年齢以降、スポーツにあまり興味がなくなり、もともと芸能界のことにもそれほど興味がない。芸能界については新聞に載っている週刊誌の内容広告を継続して読むことで、ほとんど普通の人並みの消息を得ることができていたつもりである。それが読めないとさすがに情報は枯渇するが、テレビで芸能界の話をわざわざ見る気はしない。テレビの芸能ニュースは週刊誌の一行、または二行の見出しに劣る。それに芸能リポーターという大嫌いな人種を見たくない。

 

 若い人が新聞を読まなくなったことで、購読数が激減しているそうだが、時代に逆行して新聞をまた読もうかななどと、しばらく前から考えている。それはジャニーズ騒動について知りたいと思うからではない。どうこう言うほどのことはなにも知らないし、知りたいとも思わない。ただヤジ馬として、見た目で勝手読みしたり想像しているだけだ。

 

 テレビとちがって、新聞は読みたくないところは跨いで通ることが自在で、必要なところは理解するまで繰り返し読めるという利点がある。もともと活字好きだから、新聞は本当は友だったので、疎遠になっていたその友が懐かしくなったということのようである。

プーアル茶を買う

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 写真は雲南省の麗江に行ったときに、プーアル茶を買った店での写真。一昨日、お茶の話を書いていたら、そのときのことを思い出して写真を見直した。棚にあるのはほとんどがプーアル茶で、発酵したお茶を硬く押し固めてある。これを割ってヤカンなどで煮出すのが普通の飲み方だが、小さく割って茶こしで淹れて飲んでも好い。数回飲める。かなり味と香りに癖があるが、脂肪分を落とす効果はたしかにあるような気がする。

 

 どこかへ出かけたときの写真は、フィルムで撮っていた時代のものも含めて多くがデジタルファイルにしてある。読書にあまり集中できないのでほどほどにして、その写真をランダムに眺めていた。国内も海外も思った以上におぼえているもので、ただし、同じところに複数回行っていると、記憶がごっちゃになったりしていて、写真でそれに気がついたりする。

 

 病院にはパソコンなどをもっていくつもりはないので、来週はしばらく写真とそれにまつわる回想などをいくつか予約保存してブログ更新に替えようと思う。もし多少なりともお時間がいただければ、引き続きお立ち寄りをお願いしたい。コメントなどはあとでできるだけお返しするつもりである。

2023年9月12日 (火)

所用

 予期せぬ所用で出かけなければならなくなった。雨の可能性もあったが雨は降らず、眼の手術前だから車の運転もできて良かった。昼食を摂ったら、午後、もう一度出かける。週末にも二つほど用事があり、今週はゆっくりするつもりが目算が狂った。すこしテンションが低い。手術に対する不安なのだろうか。気が小さいくせに、いざとなると開き直れるところがあるつもりなのだがまだそこまでいっていないのか。

 

 そう言えば入院中の時間つぶしをどうしよう。読書がいちばんなのだが、そういうわけにもいかないだろうなあ。入院したときに使う、手配していた新しいパジャマと防護用のゴーグル(用意しておくように言われている)が配達されていた。

2023年9月11日 (月)

お茶

 お茶にはいろいろな種類がある。六年ほど前までは中国にしばしば行っていて、行くとたいていお茶を買って帰った。中国でもいちばんよく飲まれるのは緑茶だが、発酵茶も多いし、また薬草茶もさまざまにある。一緒に行く友人などは、またか、と言う顔をするが、いろいろ買って帰ってもたいていは飲みきる。いちばん好きなのは白茶という軽発酵のお茶で甘味があって美味しい。しかし横浜の中華街で安い白茶の大袋を買ったら、甘味がなくて中途半端な味でガッカリしたことがある。

 

 いわゆる紅茶は中国では黒茶と言うが、これもさまざまだ。鉄観音などもこのたぐいだと思う。値段がピンキリで、やはり高いものはたいてい美味しい。雲南省には二度行ったが、二回ともプーアル茶を買った。お茶を特殊なカビづけをして発酵させるが、安いものは3~5年、高いものは10年以上寝かせたものだ。父の長寿祝いに奮発して20年ものを買ったことがある。すこし飲んだだけで父はなくなり、誰も飲まないので私が残りを飲んだが、やはり安いものとは格段に味が違う。安いものはカビの臭いや土の臭いがして、日本人にはあまり好まれないようだ。

 

 血糖値を下げる効果は私が経験的に確認している。糖尿病で、高い血糖値のままならインシュリン注射が必要になると言われたとき、意識的にプーアル茶を毎日がぶ飲みした。一か月ほどしたら医者が驚くほど血糖値が下がり、インシュリン注射の常用はまぬがれた。もちろんお茶だけではある程度下がったところで止まってしまい、完治することはできなかったが。だからプーアル茶はいつも常備している。

 

 紅茶が好きなことを知っているので、息子がいろいろな種類の紅茶の詰め合わせを送ってくれたことがある。その中のアールグレイがとても美味かった。それ以来紅茶と言えばアールグレイを飲むことが多い。今年も息子からお茶の詰め合わせが送られてきた。

 

 むかしレモンティをよく飲んだが、考えてみたら紅茶の香りをレモンで殺しているのであって、もったいないことであった。その紅茶の香りと味を損なわないように柑橘系のベルガモットで香りづけしているのがアールグレイだから、私の好みに合うのである。

 

 香りのお茶と言えば、ジャスミンティも好きで、ときどき飲む。中国ではお茶に花の香りを移したものがいろいろ売られている。蓮の花の香りを移したものなどもあって心を静めるのに好い。蓮茶はベトナムで飲み、土産にしたが、それはすこし香りが弱かったのが残念だった。バラの香りのお茶も試したけれど、これはすこし香りが強すぎて化粧品みたいであった。

 

 緑茶にしても千差万別、値段も味もさまざまで、良いお茶を上手に淹れると本当に美味しい。娘が淹れると私が淹れるよりもいつも美味しいのが不思議だ。お茶の淹れ方にも上手下手、個性がでるようだ。一時期抹茶を飲んでざわつく精神を静めようとした。お茶を点てて飲むと心が静まる。しかし最近は余り茶を立てない。茶を点てるときは茶菓子が必須で、茶菓子も一つだけ買うわけにも行かず、ついあると余分に食べてしまうので、糖尿病に良くない。それで我慢している。

 

 ほうじ茶は焙じているときの香りは好きなのだが、ほうじ茶そのものはあまり好きではない。玄米茶も体に良いらしいが苦手である。それなら番茶の方がはるかに美味しい。

 

 お茶についての知識もあまりないし、飲み比べてその差がどこまで分かっているのか自信はないが、そのときどきで手元にあるいろいろなお茶が楽しめるのはありがたいと思っている。なにしろ糖尿病と泌尿器科の疾患を抱えているので、お茶は私の薬みたいなものなのである。

歯を手入れする

 歯医者で割れた歯の補修結果を見てもらう。問題ないようだが、咬む力が強くて(だから割れる)、根もとがわずかにぐらつくかもしれず、割れたところの消毒を充分にしてセメントで固めてあるが、菌が入り込む可能性がある。歯茎に何らかの違和感が出るかも知れない。もし少しでも違和感があったら治療に来るように言われた。そのあと歯石除去、さらに最近は歯を白くする処置もしてもらっている。もともとの歯の色は如何ともしがたいが、コーヒーやお茶による着色は多少取れているような気がする。

 

 むかしは緑茶と紅茶を飲むことが多くて、コーヒーはほとんど飲まなかった。喫茶店も現役時代にお客さんと入るぐらいで、一人で喫茶店で過ごす習慣はなかった。数年前に、娘に一人用のコーヒーメーカーをもらった。買った豆をだいぶむかしに結婚式の引き出物用にもらったコーヒーミルで挽いて飲むと、インスタントとは全く違うコーヒーの美味しさを知ることになった。それからコーヒーを毎日飲むようになった。歯の着色が進んだかも知れない。

 

 すぐ洗わなかったり、洗いが雑だとコーヒーカップが着色する。歯も同じように着色するのだろう。緑茶や紅茶だって茶渋がつく。カップなどは定期的にキッチンハイターでその着色を取るが、歯もキッチンハイターで、というわけにはいかない(試してみる気はしない)。

 

 ながもちさせるには、とにかく歯をこまめに手入れすること、それも丁寧にすることが必要なようだ。自分ではずいぶん丁寧に磨いているつもりだが、歯の裏がわが磨きたりません、と言われた。

気がつかず

 この頃寝付きが悪くて、結果的に朝寝坊することが多くなった。昨晩は早めに眠気が来たのですかさず横になったが、やはり床に入ると目が冴えてしまい、輾転反側していた。ここで起き出したりすると寝そびれる。それでもいつのまにか眠れるもので眼が覚めたら朝だった。

 

 朝の地方ニュースで同じ町内で真夜中に火事があったことを報じていた。たぶん消防車などが走り回ってにぎやかだったはずで、それに気がつかずに寝ていたのだからよく寝ていたことになる。このところ外に出て散歩することもほとんどないから汗をかくことがない。適度に体を動かさないと寝付けないのは当たり前なのだろう。

 

 来週は入院して白内障の手術をする。先週から毎日朝晩体温を測り、病院の指示により体調のチェックシートに記入している。自分で思っている平熱よりすこし高めに推移しているのはどうしてなのだろう。特に体調が悪いわけではないが、あまりたくさん食べなくなったからか、体重がすこしずつ減っている。おかげでむくみもなくなり、膝も楽であるが、体重と共に気力も低下しているのがすこし気になっている。

 本日は朝一番で歯医者。雨が気になる。

2023年9月10日 (日)

逸話

 豊田有恒が対談の中でこんな逸話を紹介している。

 

「SF作家にUFOの目撃例を語らせようという企画がよくあるんですね。電話がかかってきまして、UFOを見たことがありませんと言うと、向こうはしらけましてね、それでよくSF作家がつとまりますねと毒づいて電話を切ったりするんです。だから最近は、腹が立ちますから、そういうときは、推理作家にインタビューして、それぞれの方がご覧になった殺人現場の状況を全部レポートしたら面白いですよと言ってやることにしているんです」

 

 電話のインタビューやアンケートに腹をたて、毛嫌いしている著名人は多い。訊いてくる人間はたいていは不勉強で、相手がどんな人であるかもよく分からないことが多く、そしてしばしば答えたことと全く違うことを言ったことになることが多いようだ。この逸話でも、豊田有恒の作品の一篇でも読んでいるのかどうか疑わしい。それどころかSF小説だって読んだことがないかもしれない。

 

 マスコミの新人記者は上司の指示で電話をしてくるのだろうが、する前にしかるべき予備知識を持とうとする者はまれのようだ。もしその努力をしていれば、それなりにのし上がることもできるだろう。たいていは先入観のかたまりで、相手の言葉で相手を図るのではなく、思い込みで記事にするから、心ある人は腹をたてるのだろう。私が好んで読むような人たちは、特にそういう連中の先入観には収まらないから、不快な思いをすることが多く腹をたてているようだ。

 

 電話でアンケートというのがしばしばかかってくるけれど、だんだんデジタル化してきて二択や三択で答える方式になり、星座占いや血液占いにでも参画しているような気がして、いまはすべて答えないようにしている。

平気で嘘をつく

 昨晩放送された、2011年頃から2022年2月のウクライナ侵攻までのプーチンと欧米とのやりとりを三回に分けてドキュメントにしたイギリスの番組を観た。そのときどきのアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの首脳や外交官が、プーチンと交渉し、その野望をどのように抑え込むか腐心したが、その結果がどうなっているのか、いまわれわれは目の当たりにしている。

 

 インタビューに応じた彼らの多くが口にするのは、プーチンの野望とはなにか、そしてプーチンは平然と嘘をつくということであった。プーチンの野望とは、ソビエト大帝国の復活ということで、そのためにはウクライナは何よりロシアの版図に組み込まなければならないということである。そもそもウクライナはロシアそのものであり、それを喪失したのは欧米の謀略によるものに他ならないと本気で考えているということだ。そしてそのことはたぶん多くのロシア人にとっては共感できるものなのだろう。 

 

 嘘をつき続けてきたのはアメリカや西ヨーロッパであり、それに対抗するにはいくらでも嘘をついても当たり前ではないか、とプーチンは考えているかのようだ。ある意味でそれを否定できない事実はたしかにある。国際政治というのはそのようなものなのだということを思い知らされる。一部の日本の野党の極楽とんぼのおつむではこのような冷酷なリアリズムは理解不能だろう。彼らに最も見てほしいこのような番組をそもそもそう言う脳天気な連中は見ないのだろう。

 

 ではどうしたらいいのか、などとすぐ問う人が多い。マスコミなどはたいていそう問う。問う前に現実をもっとよく見つめて、少しでも自分の頭で考えてみろ、といいたいところだ。そんな簡単な答えがあるなら、とっくに世界の偉い人がそうしている。

 

 どこでどう間違えたのか、そのことについてはいくつか感じるものはあった。しかしそれは後知恵でしかない。そういうものの積み重ねが歴史になっていくのであって、行き着くその先には取り返しのつかない深淵が口を開けているような恐ろしさを感じた。

違和感

 「人類史上最も愚かな行為」と東山紀之新社長が言った言葉が気になってしようがない。問題の重さを最上級に強調したいという気持ちなのであろうと思うけれど、人類史上にはこの程度の愚かな行為は無数にあることは誰にでも分かっていることで、それは東山紀之も承知しているだろう。

 

 それよりも最上級に強調したことにより、この事件そのものをごくごく特別なものと限定してしまうことになるのがいかがかと思うのだ。芸能界にこういう行為が蔓延しているのではないかという思いが多くの人の内心にあるときに、ある特定の人物の行為に限定してしまうと、それ以外の事例の追求にブレーキをかけてしまいはしないか。

 

 こういうことを二度と起こさない、という常套句をよく聞くが、そうなると似た事態に対する対策がおろそかになる場合がある。なぜなら、二度三度起きるだろうと思うから、そして起きるにちがいないと思うから、起きないための方策を真剣に考えることができるのであって、ありうべからざることである、などと特別視してしまうから、起こさないための対策が結果的におろそかになってしまうことはしばしばある。

 

 人類史上最も愚かな話ではなく、人類はしばしば愚かなのであって、愚かなことが起きないためにどうするか考える必要があるのだ。そのことを見失わせることになりはしないか、と私は思う。

 

 過去に起きたことについてはすでに事実として認定された。その事後処理は当事者ですることになるだろう。しかし隠されたものがまだまだあり、そしてこれからもあるだろうことについて、芸能界やマスコミがどこまで真剣に対策するつもりなのか、いささか疑っている。そう言えば私がしばしば醜業とさげすむ芸能リポーターたちは、こういう情報をたくさん抱えているはずだが、なにも語ろうとしているように見えない。「人類史上最も愚かな」ものの仲間だからだろう。

2023年9月 9日 (土)

今日は映画三昧

 なにもする気がしないので、午前に続き、午後も映画を二本観た。一本目は『ヴェテラン リベンジ』2022年のイギリス映画。復讐とか報復映画は好きだ。好きな人が多いからその手の映画がたくさん作られるのだろう。ヤクザ映画もたいていが忍耐に忍耐を重ね、ついに犠牲者が出たことに怒りを爆発させて・・・というパターンが多い。世話になった元老軍人が、理不尽に街のギャングに殺されたことでその仲間の老人たちが復讐を企み、能力を駆使してつぎつぎに敵を倒していくという話だ。都合の良すぎる結末でもあり、いささか出来は良くないが、復讐の痛快さだけはたしかにあって、お勧めはしにくいがそれなりにおもしろかった。

 

 もう一本は、『エンド・オブ・ハルマゲドン』という2022年のチェコ映画。地獄に幽閉されたままの堕天使ルシファーの復活を企む集団に拉致された女性を助けるために、大天使ミカエルが人間に憑依してその企みを阻止する、という話であるが、出来はあまり良くない。それでも最後まで見ることが出来たのは、エロとグロ(血まみれ)が濃厚で、話は矛盾だらけのぐちゃぐちゃながら、見せるところは見せてくれたからだ。悪魔と天使、または神との戦いというのは欧米にはよくある。あり得ないことを描くのに理屈づけできるからおもしろいのだろう。こういう神さまは信じていないから、怖さも感じない。カルト映画としては一生懸命作ってヨクできました、というところだが、お勧めはしない。

かがみの孤城

 辻村深月原作の『かがみの孤城』というアニメ映画を観た。出だしは絵柄が多少好みとちがうので物語に入り込みにくかったが、すぐに惹きこまれた。中学生七人の不思議な交流と冒険が描かれている。二重三重に伏線が張られていて、それぞれの子供たちの抱える悩みがこちらにも重く実感できてくる。

 

 ラストへ向かってのある意味で予定調和のストーリーが最後の感動をもたらしてくれる。さすがストーリーテラー、辻村深月の原作というところか。

 

 ところで『満点のゴール』というドラマがNHKで再放送される。放送は19日(前編)、26日(後編)。見て時間の無駄にはならない好いドラマだと思うので、見ていない人にNHKに替わってお勧めする。

2023年9月 8日 (金)

パラダイム

 パラダイムを手元のカタカナ語辞典で引いてみると、「時代を通じて支配的なさまざまな概念の集合体。理論的枠組み」とある。わかいころ科学論やスーパーサイエンスについて読み囓ったときに、このパラダイムという言葉を知り、それで分かったような気がしたこと、結局分からなかったことがさまざま生じたことを思い出す。

 

 いま読んでいる『神の意志の忖度に発す』という本で科学史の捉え方について論じていて、パラダイムという言葉に久しぶりに出会った。われわれはどうしても現代のパラダイムに即して過去を見てしまう。その思考の枠組みにとらわれていることに気がつかないと見えないものがあるということを教えられた。

 

 このことは科学についてだけで言えることではない。たとえば民主主義が至上であるというのも一つのパラダイムかも知れない。そしてそれとは違う価値観の人たちがいるということもきちんと認識しないと、互いに理解し合うことは困難であろう。いま最も感じるのは、アフリカや中近東の人たちの世界観、彼らのパラダイムというものがあるのだということだ。

 

 アメリカという国は特にその自分のパラダイムというものを至上としすぎていて、世界と軋轢を起こし続けてきた。アメリカは強大な力と富で相手を黙らせてきたけれど、どうもその繁栄も陰りが見えてきたような気がする。いまアメリカ経済はたいへん好景気に見えるが、もしかしたらろうそくが消える前の瞬きのようなことかも知れない気がする。

 

 アメリカが繁栄を続けるには自らのパラダイムを外から見る視点をもつことが必要だろうが、それは極めて困難であろう。そして中国はそのアメリカの上を行く硬直した価値観の国のように見える。アメリカのあとを追い、先に衰える気配が見える。では日本は・・・。過去にもっていた柔軟性、自らを未熟で至らざるものとして考えることができていたのに、すでに硬直化がはじまって老化が進んでいるような気がする。

 

 世界は新しいパラダイムへの変革期なのかも知れない。ネット社会、デジタル社会というのがそのキーワードになるだろう。深刻な変革を伴う気配がある。私にはその結果を見る時間は残されていないけれど。

モース刑事とお別れ

 イギリスのミステリードラマ『刑事モース オクスフォード事件簿』が第三十六話で完結した。一話90分あまりのこのドラマは映画並みかそれ以上の見応えがある。新米刑事からさまざまな経験を経て、後の主任警部モースの人物像へと完成していく。そもそもはイギリス人ならほとんどの人が知っているという、コリン・デクスターが造形した『主任警部モース』という警察ドラマがあって、2012年にそのモースの若き日の姿を主人公に、新たにドラマとして作られてシリーズなのである。コリン・デクスターはこのシリーズには関与していないが、敬意を表して原案者としてエンドクレジットに名前が銘記されている。

 

 登場人物の性格と、その性格によって形作られていく人生がながいシリーズの中で描かれているので、その世界が見ているこちらの中でリアルな一つの世界を形作る。終わった後でもその世界は生き続けていく。モースを演じるのは名優ショーン・エバンス。知的で個性的な役柄をみごとに演じきった。このシリーズの何作かはショーン・エバンスが監督をしている。心優しいのにときに自己中心的、人とのつきあい方に強い癖があって、好かれるときには好かれるがときに敵を作る、というモースの性格は、まさに後の偏屈な主任警部モースを形作っていく。

 

 コリン・デクスターの原作にはない、モースを一人前に育て上げるサーズデイ警部(ロジャー・アラン)とその家族たちとの関係が物語の縦糸になっている。

 

 ラストシーンで車上のモースがすれ違う赤い車にチラリと見えていたのは後の彼自身、主任警部モースであるらしいのがしゃれた終わり方だった。その主任警部モースシリーズの最後の数話が放映されて、幸い見逃さずに見ることが出来た。そのラストではストレンジに見守られながら酒の飲み過ぎで持病になった糖尿病の余病によってモースは息を引き取る。

 

 音楽を愛し、女性を愛し、クロスワードをこよなく愛した知的で偏屈な酒好きのモースよさらば。

2023年9月 7日 (木)

ジャニーズ問題

 芸能界については、あることないこと山のように聞いてきた。その真偽など、関わったことがないから分からない。それでもこれだけたくさん噂されるのは、そういう世界なのだろうな、という気持ちでいた。今回ジャニーズ事務所そのものが事実を認めたのだから、ジャニーズに関係する話の多くが事実だと考えるしかないことになる。

 

 今回のことで批判を受けているジャニーズ事務所はもちろんのこと、批判されるべきは今まで見て見ぬ姿勢で結果的に問題の隠蔽を行ってきたマスコミだろう。いつもきれいごとを言っているのに、実はそれは口先だけだということが明らかにされてしまった。今回さまざまなことが明るみに出ても、多くの人がやっぱり、と思うばかりであることは情けないことである。

 

 東山紀之、井ノ原快彦の二人が今後ジャニーズ事務所を支えることになるようだが、たいへんな役割を引き受けることになりそうで同情する。芸能界全体が浄化されるきっかけになれば、などという幻想をもつことは無理だろうと思う。そういう世界なのだという私の思い込みはたぶん解消しないだろう。

気になる

 心当たりのない番号からの電話が携帯にあったようだ。通知をバイブのみにしていたので気がつかなかった。伝言はない。用事があるならまたかかってくるだろうと放っておいたが、それきりである。気になるのでこちらからかけてみたがでない。

 

 この歳になると友人知人に何かがあるということは承知しておく必要があり、当人なら番号は登録してあるから分かるけれど、別の人が連絡しようとしたとしても、番号がこちらには心当たりがないということはある。そういうことを想像するからやはり気になる。こちらから電話したのだから、もし必要ならかけてくるだろう。それを待つしかない。

言論弾圧

 社民党の福島瑞穂女史が、野村農水大臣の「汚染水」の言い間違いを「処理水」に訂正したことを、岸田首相による言論弾圧だと非難したというニュースを見て笑ってしまった。岸田首相も驚いただろうが、野村農水大臣はもっと驚いただろう。

 

 野村農水大臣は自らの言葉で言い間違いだったと言明した。もしそれが岸田首相の言論弾圧によってそう言わされたのだとしたら、野村農水大臣は国民にウソをついたことになる。そもそも処理水のもとは汚染水である。その汚染水を処理したから処理水といっているのである。たぶん野村大臣はそのへんがそもそも理解できていないのであろうと思われる。なんの信念もないものの言論を弾圧したなどと言うのもずいぶんへんてこな話で、福島女史も焼きが回ったようだ。まさか中国があれほど言っているのだから、正しいのは中国の言い分で、それに賛同した野村大臣は、保身のために泣く泣く節を曲げさせられたのだ、という妄想でも抱いたのだろうか。福島女史は中国のように政治的な思惑で言っているのではなく、しばしば本気だから心配になる。

 もし言論弾圧を非難するなら、まずミャンマーの軍部に、プーチンに、習近平に、金正恩にいってからにしてもらいたいものだ。そうでないと言論弾圧の意味を知らないのかと勘違いされてしまう。

2023年9月 6日 (水)

ドアを磨く

 玄関ドアを通じて外気と家の中の空気が交換されている。その際にホコリなどがその隙間を通して往き来していて、よく見るとドアの周囲がかなり汚れている。大まかにドアの周りを水拭きして、そのあと硝子の汚れを取るスプレーで丁寧に拭き取った。タオルが真っ黒になった。玄関内外の床にも黒いホコリが落ちたので掃除機で除去。一汗かいた。

 

 そのあとそろそろ掃除しようと思っていた風呂場の換気扇の掃除をした。ここもホコリがかなりたまっていた。しばらくは換気の効果が上がるだろう。そしてガスレンジの上の換気扇の中も取り外して油汚れを洗剤で洗う。新しい換気扇はフィルターもいらず、簡単に油汚れを掃除できる構造になっているので気持ちが好い。

 

 午後からは断水なので午前中に済ませたが、出かけたくても断続的に雨模様であり、雨の中のドライブはあぶないので家でおとなしくしているつもりである。録りためてある関東大震災関連のドキュメントを三本ほど観ようと思う。

佐渡島他吉の生涯

 子どものときに観て、忘れられない映画がいくつかあるが、その一つが森繁久弥主演の『地の涯に生きるもの』という知床を舞台に描いた映画である。極寒の知床の網小屋に猫とともに独り暮らす老人の話で、網小屋の網を鼠から守るためにそこで冬を越すのである。回想シーンで彼の生涯が断片的に描かれる。この話は動物作家の戸川幸夫の『オホーツク老人』という小説が原作であり、この映画のロケのために知床に滞在した森繁久弥が作った歌が『知床旅情』であることでも知られている。

 

 この映画の題名が分からずに検索しているとき、『佐渡島他吉の生涯』という舞台劇の名前を知った。こちらは大阪が舞台で、織田作之助の『わが町』をベースにしている。この題名が妙に気にかかっていたところにNHKのプレミアムステージで1976年の舞台が再放送された。

 

 無学で自分のことしか考えずに無鉄砲に生きた佐渡島他吉という男の生涯を描くことで、悲劇と喜劇が織りなす人生というものの重み、人と人の関わりの広がり、優しさと醜さが描かれていて見終わったあとに余韻の残るすばらしい舞台だった。共演の三木のり平、芦屋雁之助、林美智子、山田五十鈴などがこの劇を盛り上げている。孫役で榊原るみが出ているのも嬉しかった。

 

 たまたま検索で題名に興味を持ったけれど、まさか観られるとは思っていなかった演劇を観ることが出来たことが不思議なような気がする。

2023年9月 5日 (火)

断水

 明日、マンションの浄化槽と浄水槽の清掃を行うので午後から夕方まで断水するという連絡があった。飲み水くらいは用意できるが、洗い物ができないのはもちろん、トイレがもしかしたら流せないかも知れない。どこかへ出かけることにしようかなあ。

 

 眼科入院の注意として、コロナ禍対策を徹底してほしいとある。昨日から毎日朝晩の体温を測って記入し、咳などのチェックもしないとならない。できれば家族以外とはなるべく会食などしないようにとある。外で不特定多数の人と接触するのはリスクがあるということのようだ。健康に留意し、過労などにならないようにとのこと。入院の日にはPCR検査などを受けてからでないと入院できない。厳しいのだ。

 

 出かけるといっても、車でそこら辺を走り回るだけにするしかない。歯医者に行くのも本当は良くなかったのかなあ。

歯の治療

 右下奥歯が縦にくさび状に割れたので歯医者に行った。割れ目の中に虫歯が進行していたので中を削り、消毒してセメントで固めた。早めに処置できて良かったと医者は言った。眼科の入院のときに虫歯か進行して痛みでも出るとたいへんだから、割れてすぐ行ったので、それが幸いした。来週予後の確認と、歯をきれいにするメンテナンスをしてもらう。しばらく右で咬まないようにして下さいとのこと。一日で完全に固まるというが、硬化は時間をおくほど完全になるらしいのはいままでで経験済みなので、二日ほどはあまり固形物は摂らないようにしようと思う。

 

 眼が老化の象徴の白内障で、歯がつぎつぎに欠けてしまい、すでに泌尿器科は慢性的な疾患を抱えていて、絵に描いたようなおじいさんコースを辿っている。たぶん首から上はすでにだいぶダメージを受けているのだろうが、帽子の台そのものがくたびれているから、その衰えに気がつかない。不安を招かないように神さまはうまく配慮して下さっているようだ。

七つの社会的罪

 インドの国旗の真ん中に描かれた車輪のようなものは糸車で、インド独立運動をリードしたガンジーを象徴している。私は、ガンジーについては映画『ガンジー』(監督リチャード・アッテンボロー、主演ベン・キングスレー)でそのイメージが作られていて、それがすべて史実であるかどうかはわからない。

 

 そのガンジーが書き残したという『七つの社会的罪』というものが、たまたま読んでいる本に引用されていた。

 

一、原則のない政治
二、労働を伴わない富
三、良心のない快楽
四、個性のない知識
五、道徳心のない経済行為
六、人間性のない科学
七、犠牲を伴わない信仰

 

ひとつひとつを現代社会に引き合わせて思うと、人間はこういう軌範を失っているなあ、と改めて感じてしまう。社会的罪などなんとも意識していないかのように思える。ちっとも向上していないし、そもそも軌範のない欲望に従うことしかできないということなのだろうか。

2023年9月 4日 (月)

近くを優先

 午後、かかりつけ病院の眼科へ検査に行く。近くは眼鏡なしで見えているが、遠くは見えにくい状態であることを確認。もちろん明るいところがまぶしいし、霞むし、左目の像は二重に見えたりしている。典型的な白内障の症状である。医師の問診を受け、白内障というのがどんな病気で、どうして手術が必要なのか、その手術というのはどんな手術なのか、大きな図を見せられて説明を受けた。

 

 治るだろうことと、治らないだろうことも教えられる。失敗の場合のことも教えられた。たいてい簡単に済むが、千例に数例大きな手術になる場合があるという。水晶体の中身を取り除くのだがその水晶体を包んでいる膜が弱くて破れてしまう場合である。そうすると入れた眼内レンズが毛様体の方に落ちてしまったり、水晶体の汚れが洩れたりしてたいへんらしい。知らなくていいことを知らされてしまった。

 

 眼内レンズにはいろいろ種類があるらしい。単眼レンズは保険がきくが、多焦点レンズは遠近両用だが保険がきかない。多焦点レンズは眼鏡をかけたくない人が選ぶもので、眼鏡に慣れていれば単焦点レンズの方がクリアに見えるという。

 

 私の希望は、いまのように本を読むときに裸眼で見えることである。そういう単焦点レンズはあるという。ただし、すこし離れると眼鏡をかける必要がある。近眼状態に戻るわけである。それなら慣れているからかまわない。なにしろ多焦点レンズは、私の希望に合わせると、両眼で60万円かかるらしい。払えないことはないが、そこまでしても案外期待したほどではないというのは、昨晩ネットで調べて承知していて、医師の言うことはそれを裏付けるものでもあった。

 

 入院時に書いて提出する書類や入院生活で必要なもの分厚いリストをもらって帰途についたが、病院の自動支払機で釣り銭を取り忘れて、ピーピー鳴らされてしまった。ここでは診察券を取り忘れたり、領収証を取り忘れたり、いつもなにか忘れる。ほっとして気がゆるむのだろう。

 雨の予報だったのに、行きも帰りも雨に降られなかったのはありがたかったが、代わりに蒸し暑くて大汗をかいた。ずいぶん久しぶりに約五千歩歩いた。

村上陽一郎を読むことにする

 若いころ、科学史や科学哲学を論じている村上陽一郎の本を何冊か読んだ。宗教(特にキリスト教)と科学との関係など、きちんと系統立てて知ることができた。

 

 AIが人間の想像を超えて進化している現在、科学と人間、技術と人間との関係をもう一度見直して、来たるべき、もしかしたら恐ろしい、時代についてすこし考えようと思って書棚などを探したら、村上陽一郎の本が二冊しか手元に残っていない。ネットで調べて何冊か発注した。比較的に新しい本もある。彼は健在らしい。

 

 もしかしたら恐ろしい時代、というのは、たとえば映画『ターミネーター』のような世界の到来である。それが荒唐無稽なのかどうか、荒唐無稽と言い切れる根拠はあるのか、疑っている。AIが人間の代わりに考えるとき、人間の存在こそがこの世界にとっての「悪」であるとAIが判断するようになる可能性はないのか。そう判断したときにどんなことが起こるのか、そしてそういう事態が起こらないためにどんな歯止めが用意されているのか。

 

 私が考えてもごまめの歯ぎしりだが、来たるべき世界について考えてみてもいいと思う。いま読み始めたのは、『神の意志の忖度に発す』という、SF作家の豊田有恒との対談、『科学史講義』シリーズ(朝日出版社)の一冊である。1985年に発行された古い本だが、いろいろ啓発される。

北欧ミステリードラマ

 ここ数日WOWOWで放映された北欧ミステリードラマ、今回はすべてスウェーデンのものだが、を見まくっていた。

 

 『ザ・ハンター』という男臭いドラマ。スウェーデン最北端の街に元敏腕刑事だった男が帰ってくる。人との交流をあまり好まない様子なのだが、甥が新米警官となって何かと相談に立ち寄って事件の話をする。伯父の彼を尊敬しているのだ。警察署の女署長は彼の有能さは承知しながらも、彼が辞めた理由を承知していて、彼との関わりを嫌う。やがてただの自殺と思われた事件が殺人である疑いが生じ、不審をおぼえた彼は独自に調査を開始するが、地元との軋轢が生じて孤立することになる。そして甥との間にも反撥が生じ・・・。なかなか見応えのある全六話のドラマで見応えあり。近々第二シーズンがあるらしいので楽しみだ。

 

 『レベッカ・マーティンソン 型破りの捜査』。これは一話前後編で四話、つまり全八回。主人公のレベッカ・マーティンソンは美人(本当に美しい)の敏腕弁護士だが、有名法律事務所に迎え入れられようとしたやさきに、親しかった女司祭の死の知らせをうけて故郷に帰ってくる。たちまち彼女はその死が普通ではないこと、背後に何かがあるらしいことを見抜く。やがて過去の事件が浮かび上がり、さらに事件が続く。警察ではない彼女だが、法律の知識を駆使して暴走をはじめる。結果的に彼女はつぎつぎに事件を解決してしまい、臨時の検事扱いでさらに事件に関わっていくことになる。とにかく美人の主人公(イーダ・イングヴォル)で、それに見とれてしまう。これも第二シーズンがあるらしいが、予告を見ると主演俳優が替わっているらしいのが残念だ。

 

 『アーベル&ベルゲン 法律事務所』の第三シーズン前十回。前回の第二シーズンで弁護士資格を失った夫のアーベルはベルゲンの市長に推戴される。妻のエレアを頼ってきた高校のときの旧友が麻薬の過剰摂取で死亡する。街では過剰摂取死が相次いでいて、警察批判が高まっていた。その麻薬の供給元がエレアの旧友だったということで事件の幕引きが図られたのだが・・・。調べを進めるうちに内部告発者からの情報もあって警察の隠蔽工作が浮かび上がる。さらにその背後には信じられない黒幕が見えて来て・・・。心身共にアーベルの危機が訪れ、ついに彼は倒れる。事件も闇に葬り去られたかに見えたが、彼らは不屈である。こちらは第四シーズンがあるらしい。とにかくアーベルは有能だし格好が良いけれど、女にだらしがない。それを補うのが妻のエレアをはじめとする法律事務所を支える面々で、アーベルの親友で盲人の弁護士が特異であり、なくてはならない存在として全体をまとまったものにしている。

 

 全部で二十四回分、各50分だから、合わせると二十時間であるが、寝る間もブログを書く間も惜しんで観続けるほど、どれもおもしろかった。

 

 こんどは刑事モースシリーズの34~36話を見なければならない。このシリーズは残念ながらこれで完結。こちらは一話100分である。

 漢数字と数字が乱れてしまったし、見る、と観るが混用されてしまったが、直すのが面倒なのでそのままにした。申し訳ない。

2023年9月 3日 (日)

歯が割れる

 昨日、右下奥歯が割れた。行きつけの歯医者は、土曜日の午前中もやっているので連絡したが、予約などで満杯だという。痛みがあるわけではないので待つことはできる。明日は手術前の眼の検査や健康診断がある。ということで明後日に歯の処置をすることにした。

 

 今週は雨の日が続く。傘を差して出かけるのはいやなものであるが仕方がない。雨でも気温は高いようで、それもかなわない。来週にはさすがに気温も治まってくるらしい。独り暮らしなので、眼の手術は入院して行うことにしている。母のときは片目ずつ一週間あいだをおいたが、私の場合は二日間をおくだけだそうだ。

 

 病院で過ごすパジャマがないから、用意しなければならない。必要なものについてよく訊いておこう。

状況倫理

 『状況倫理の可能性』(中公叢書)という本がある。倫理学者の小原信が書いて発表した論考が12編、系統立てて編集され、昭和46年(1971)に出版された古い本だ。若い時に「状況倫理」という言葉に妙に惹かれて購入したが、なかなか読みこなせなくていまだに読了していないのだが、それでもときどき興味のある部分を読み返す。

 

 倫理というのがそもそも分かっているようで分からない。人に説明する自信がない。高校のとき、「倫理社会」という科目があり、教師が良かったこともあり、私は好きな科目だった。教師はスピノザの研究者でもあり、宗教的な面から西洋哲学を論じてくれて、哲学史について解りやすく説明してくれた。哲学に興味を持ったのはそのときからである。

 

 倫理的な判断は、しばしば正しいこと正しくないことの判断と見なされる。過去、人は自分の生き方を自分で判断するのではなく、宗教や社会的規範に従った。それが産業革命以後、個人という意識が芽ばえて以後、ニーチェが喝破したように「神は死んだ」から、宗教的軌範が機能しなくなった。もちろんイスラム世界のようにいまだに神が生きている人たちも数多くいるし、宗教の軌範に従って生きている人は少なくない。そういう人たちにとっては倫理は揺るぎない確定的なものである。

 

 しかし、現代社会では正義と同様、倫理も状況によって自分で判断しなければならなくなった。そのことについての考察がこの『状況倫理の可能性』という本なのだ。それをいまさらなぜ読み返したりしているのか。AIを考えるとき、そしてフェイクが取り巻く社会が日常化しているとき、この倫理というものをもう一度よく考え直す必要があるのではないかと思ったからである。人間は神に代わって状況に応じて自ら適正な倫理的な判断は可能なのか。そういうことを私のお粗末なざる頭で考えることが、さまざまな出来事についての自分の捉え方に関わってくると思っている。

 

 そういえば私の尊敬する母方の祖父は化学屋だったが、書棚の中に『倫理学』という箱入りの本があったのが珍しくて忘れられない。

 

 「神が死んだ」あと、人間は自らではなくて「宗教」に替わって「科学」という神を信仰している、という見方もある。「宗教」とちがって、「科学」には倫理学は含まれていない。だからこそいま倫理学の意味があるのではないかとおぼろげに感じている。

2023年9月 2日 (土)

飽きずに眺める

 一月ほど前に、松坂屋(名古屋本店)美術館の川瀬巴水展『旅と郷愁の風景』を見に行った。感銘して見とれ、時を忘れたことはそのときのブログに書いた。

 

 そこで買った画集をときどき開く。今日はその中の絵ではなく文章から丁寧に読んでみた。美術史家の岩切信一郎という人の『川瀬巴水の世界』という川瀬巴水の画業についての丁寧な評論は読み応えがあり、それを念頭に置いてもう一度A4判よりすこし大判の画集を見ると、いっそう深く感じるものがあって、飽きずに眺めてしまった。

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 画集の裏表紙のこの絵(版画)が平泉中尊寺の金色堂の雪景色であることは、行ったことのある人なら分かるであろう。この石段を登っている雲水は川瀬巴水自身である。最晩年の作だという。そういうことは教えてもらわないと分からない。どんな境地だったのか、いろいろ想像した。

消す

 一週間ほど読書に集中していた。夢中で読めていたのに、突然本を開く気がしなくなる。むかしはめったになかったが、いまは頻繁に起こる。気分の変化の波が激しい。代わりに昨夕から、録りためたものを片端から見ている。なかなか好いドラマ(『満点のゴール』)もあり、考えさせられるドキュメントや紀行番組があって、それなりに楽しんでいる。

 

 おもしろそうなものを片っ端から録画しているので、ハードディスクの残りがすぐ心許なくなっていく。追いつこうとしても追いつけない。朝から晩まで観ているというわけにもいかない。見たいけれど見るのはいつになるか分からないと思う映画をつぎつぎに消していった。無意味な録画で消えていった映画には申し訳ないが、人には限られた時間しか与えられていないのだ。

 

 昨日から九月になった。来週精密検査して、月の後半には眼の手術をする。そうなれば読書もビデオ鑑賞もしばらく控えなければならなくなるだろう。

誘惑

 猫が好きで甘いものが好きなので、chibiayaさんのブログ『chibiaya日記』をいつも楽しみに拝見している。ネゴが好きだけれど、一応ペットを飼うことを禁止しているマンションに暮らしているし、旅に出ることもしばしばだから猫を飼うことはできない。甘いものが好きだけれど、糖尿病だから多少のものは良くてもケーキのようなものは控えなければならない。そういう意味で羨ましい。ケーキのような大物は血糖値にすぐ反映してしまう。なにしろ酒好きなので、酒の分を考慮して甘いものを控えないと、たちまち糖尿病は悪化してしまい、結果的に酒が飲めなくなってしまうと思うと我慢せざるを得ない。

 

 ドラマ(特に海外)を観ていると、昼間から酒を飲んでいるシーンを観せられたりする。喉がゴクリとする。一週間でも十日でも、必要なら完全休酒できるから、アル中ではないと自分では思っている。だから酒のシーンを見て喉が鳴っても、無意識のうちに酒瓶を取り出してグラスに注いだりしないけれど、心が動いているのは間違いない。

 

 してもいいことだし、できることを、「しない」というのは私なりの生きるルールのようなものだ。そこが破れたら自分は終わりだ、と思うようなものがいくつかあって、それが破れると、してはいけないことをする一歩に繋がると恐れてもいる。誘惑に弱いからこそルールを決めているのだ。ケチだからこそ損をしてもかまわないと思うよう努力しているのだ。今のところ自分のルールに従って生きている。

2023年9月 1日 (金)

皮肉

 ホタテをすこし余分に買った。今晩の酒の肴にするつもりだ。中国に不快を感じている日本人は意識して海産物を、とくに中国向けが最も多いホタテを買ってせっせと食べるべきだろう。橋下徹もそんなことを言っていた。口先だけで中国に反撥しているときではない。できることはあるのだ。

 

 ところで中国が処理水放出に非科学的政治的に難癖をつけているおかげで、そんなことを斟酌しない共産党はべつにして、日本での批判反対がしにくい状況になっているのは皮肉だ。日本人の中国に対する反撥の矛先が自分にも向けられるのを恐れているのだろう。それがまともというもので、それでもあえて挑戦するのなら逆張りにしてもちょっとリスクが大きすぎる。

 

 もし正論だったにしても、ただの中国のお先棒担ぎの政治的な目的の発言と取られるのは間違いない。それでも、いまでも次回の選挙に落ちるのを覚悟で、大声で「汚染水」と叫び続けるのならたいしたものだ。

言語道断

 言語道断とは、言葉にできないほどもってのほかであることを言う言葉であるらしいから、言葉そのものに使うのは適切ではないかも知れない。農水省大臣の「汚染水」発言のことである。立憲民主党の泉代表は「緊張感に欠ける」と指摘していたが、ふだん意見の合わない人の言葉ながらこの件については同感である。というよりもそう思わない人の方がどうかしているとも言える。

 

 しかし泉代表はただちに罷免を求めるつもりはないそうだ。岸田首相の対処を見ることにするという。もっと攻撃材料を提供してくれそうだから温存したいのだろうか。この農水大臣はそもそも処理水に対する中国の異常な反対について問われても、他人事のような寝ぼけた発言をして非難されていた。だからこその記者の追求があったわけで、そこで「汚染水」などと言うのだから、本質的に自分の所管する農水省の役割がちっとも理解できていない、ということは明らかだ。農業関係者、水産業事業者のためにも速やかに大臣の職を辞めさせるべきだろう。怒ってみせるだけでそれができない岸田首相はいつものことで、世論の動向を見極めてからのつもりだろう。

 

 それにしても見識のある大臣がいないではなかっものの、農水大臣が愚かで無能力である、という前例を繰り返し見せられてきたような気がする。それほどどうでもいいポストなのかも知れない。それなら風評被害があってもどれほどの対策措置が執られるのか期待できない。ガソリンの補助が石油会社になされたように、まさか農協や漁業組合に補助金を出して援助をしたことにするつもりではないと思いたいが、たぶんそうなるのだろう。

 

 こういうことの積み重ねが岸田政権にボディブローのように効いているのだと思う。日本はどんどんまともではない国になっていると、またまた思わされている。哀しいことだ。

不便

 パワーのある十八畳用のエアコンにしたので、極めて迅速に部屋が適温になり、快適に暮らせている。しかしそのために不便なことが生じている。ほかの電気を食う電気器具を使うと場合によって電気量オーバーになって、ブレーカーが落ちるところまでは行かないまでも、一時的に電気が飛んでしまうのだ。

 

 コーヒーメーカー、電気ケトル、電子レンジ、オーブントースター(大型)、電気釜など、一つだけならともかく、二つ三つをエアコンと併用するとアウトになることがある。卓上で使う一人用の電熱網焼き機(干物を焼きながら酒を飲む)、一人用のホットプレート(お好み焼きや焼き肉などを楽しむ)などもあぶない。何度か体験して、いくつか併用が必要なときは、いまは事前に部屋をよく冷やしておいてからエアコンを切って使う。スイッチを入れ直せば良いものはともかく、録画中だったり、デスクトップをつけっぱなしだったりするとまずいことになる。

 

 以前にも書いたけれど、古いマンションなので電気容量が少ないのだ。造られたときはそんなに電気を使うことは想定外だったのだろう。不便だなあ。

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