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2023年10月

2023年10月31日 (火)

メグレと若い女の死

『メグレと若い女の死』は2022年、フランス・ベルギーの映画。ジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズは昔から有名なミステリーだが、私は読んだことがない。今回はその同名の原作をジェラール・ドパルデューが主演で映画化していて、そのシリーズがどんな作品なのか、多少感じることができた。

 

 ドパルデューもセクハラかなにかで話題になって残念だが、私は昔から好きな俳優である。初めて見たのは『グリーンカード』という映画でそれ以来さまざまな映画を観てきて、一番好きなのは『ヴィドック』という連続殺人事件を追う探偵ヴィドック役を演じた映画である(いきなり彼が死ぬところからはじまるのが意表を突く)。

 

 この『メグレと若い女の死』では、若い女の刺殺体が発見されるところからはじまる。当初は彼女の身元がわからずに事件の背景も見当がつかず、捜査は進展しないが、彼女が身につけていた高級なドレスが手がかりになって身元が明らかになっていく。そして解剖の結果、意外な事実が判明する。彼女がナイフで刺されたのは、彼女が死んでからだった。彼女は首を骨折し、頭部にも打撃を受けてそれが致命傷であった。

 

 彼女の死体が遺棄された場所は彼女が死んだ場所ではないようである。彼女はほとんど他人との関係を持たない女性だったが、唯一接点のあったらしい女性が浮かび上がり・・・。

 

 パリという町に憧れを持ってやってきて、身を持ち崩す女性も多い。それぞれの女性にはそれぞれの人生があり、とうぜん背景もある。死んだ女性によく似た女性を保護したメグレは、彼女を使ってあるトリックを仕掛ける。淡々とドラマがすすみ、この映画でのドパルデューは極めて知的で冷静な初老の男として今まで見せたことのない一面を見せてくれて、なかなか良かった。こういう映画、好きである。

 印象に残ったのは、メグレの夫人で、メグレの気持ちを理解し、心から信頼していることを何気ない仕草で表現していた。愛するという事はこういうことだと思う。さまざまな映画で、警察官の妻というのは、自分をないがしろにして仕事にかまける、といって夫をなじる妻ばかりを見せられてきたので、なんとなくほっとした。

理由が不明確

 三種類の目薬を一日四回点眼しているが、そのうち二種類があと数日でなくなりそうだ。残った一つは朝晩だけ点眼すればいいし、冷蔵庫に保存する必要もない。なくなったら点眼は終わりにしてよいと医者から言われているので、ようやく目薬から自由になる。というわけでそろそろ動き出そうという気になったのである。

 

 ところで、どの調査機関の調査でも、岸田首相の支持率が下がりつづけているという。なにか間違いをしでかしたというほどのこともないし、道義的に問題のある事実が明らかにされたというほどのこともない。それなのに支持率が下がりつづけるというのはどういう理由によるものなのだろう。

 

 支持したくないというのは、つまりこの人に国政を託したくない、ということを多くの人が感じているということだ。いろいろ問題があってそれに対して岸田首相もさまざまな手立てを発表しているけれど、それが国民の多くの人の胸に響かないのだろう。本当にしなければならないことだからする、という迫力がちっとも感じられないのはたしかだ。

 

 極端にいえば、岸田さんはあまり好きになれない、と思う人が増えているという事で、その嫌われる理由が不明確だから、岸田首相としてもどんな手をうてば良いのか分からないだろうなあ、と同情する。そういう私もなんとなくこの人が好きになれないのだが。こんな風だと、野党も岸田さんを弾劾するわけにもいかず、困っているだろうなあ。

酒の勢いで

 昨晩、酒を飲んだ勢いで、弟や群馬の友人に電話した。いろいろ予定が立て込んでいるのだが、それを気にしていると当分動けない。来週後半に北関東を走り回り、友人に会い、そのあと弟に会いに行こうと思う。宿を取った。そうしたら、その前に会いたい人も思い出されたりして、そういう人がいることをありがたいことだと思い、考えるだけではなくて連絡しようと思った。いろいろ忙しくなりそうだ。忙しくしているのは自分だけれど、忙しいのは生きている証なのだから、好いことだと思ったりしている。

トルコ建国百年

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 ズタズタにされたトルコ帝国をかろうじて拾い集めて、新しいトルコという国を英雄アタチュルクが建国して百年経ったという。トルコと日本はロシアという大国との関係において親近感を持ち、歴史的に親和する経験を重ねてきた。日本人がほとんど忘れていることをトルコは忘れていない。

79建国の英雄アタチュルク

 

 そのトルコの親日観は実際にトルコに行くことによって実感した。最後の海外旅行がトルコであったことは、本当に良かったと思う。宗教が、文明が交錯するところを訪ねることがなにより意味があると、世話になった人から言われたことがある。もうすでに故人だが、こんなものを見てきました、こんなことを感じましたと、心のなかで報告した。

 

 友人のF君ともう一度トルコに来て、一週間イスタンブールでぶらぶらして、飲み倒そうと約束した。二人とも本気だった。そのF君はもういない。昨晩、トルコに乾杯した。

2023年10月30日 (月)

だからどうということもないが

 病院の処置室で血液検査や体重測定をする。その部屋の入り口付近に腕を突っ込んで血圧を測る器械が二台置いてある。診察を受ける前に、各自が測定しておくことになっている。けっこう混むので列んで待ったりする。人の出入りの多い場所なので、たいていの人は邪魔にならないように端で待つのだが、ときどき真ん中に立って待つ人がいる。通せんぼに近くて、検査用の血液を持った看護師などは脇を横になってすり抜けなければならないが、当人は平気である。お年寄りで、明らかに周りにまったく斟酌ができなくなっているのが見てとれる場合は仕方がないと思う。今日見かけたのは、五十過ぎで身だしなみもよろしくて、知的に問題があるとは思えない女性であった。中国に行くとそういう人をあたりまえに見るけれど、日本ではまず見なかったものだが、さいきんはしばしば目にする。だからどうということもないのだが。

酒が飲めるぞ

 朝、開始前の受診受付機の列の前の方にならんで、結果的に血液検査をほぼ一番にうけた。血液検査の結果が出た時点で医師の診察があるので、いくら早く予約しても診察は11時過ぎだったが、血液検査が50分ほどで出るようになったというので、前回、予約時間を早めてもらっていた。だから今日は10時前に医師の診察となった。これはありがたい。

 

 今回は血液検査の結果に多少の自信はあった。散歩を励行しているし、体重も目標以下になっているし、間食も酒の飲み過ぎもしていない。前回は血糖値がだいぶ悪化して、女医さんの顔がやや暗かったが、今回は「良く努力していますね」と笑顔だった。「白内障で入院して手術したようですが、よく見えるようになりましたか」なんて、訊かれたりした。よく見えるし、何より色合いが鮮やかになって嬉しいです、と答えると「良かったですね」とにっこりした。好いなあ、こんなやりとりがあると、もっと頑張る気になるではないか。

 

 帰りの足取りは軽かった。心配していた腰痛は、屈んだりしなければ痛みはない。ユックリ歩けば、歩いていても気にならないからほっとした。

 

 休酒を解いて、今日は酒を飲むことにする。酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞ。なにを作ろうかな。

冷静な記事

 遠藤誉が『李克強は習近平のライバルではない』という記事を書いていた。ざっと読んだだけだが、李克強は習近平の向こうを張るような人物ではないこと、もともと循環器系の持病があり、それが悪化していたこと、李克強の言葉の認識に誤解があること、胡錦濤の認知症についてなど、なるほどと思わせる冷静な記事で、ジャーナリスティックな日本の報道の仕方に苦言を呈していた。

 

 この人の情報と見立てには一目置いている。全面的にその通りだと思うわけではないが、ものの見方をこのようにきちんとその根拠を添えて提示してくれる意見は参考になる。あとはこれから中国がどうなっていくのか、その事実とこれらの記事や報道との整合性を眺めていくしかない。不謹慎な点もあるが、それが座ったままニュースを眺めるだけの自分の楽しみでもある。

 

 本日はこれから糖尿病の定期検診に出かける。空腹時血糖を測るために、今朝は食事は摂れない。今晩は久しぶりに美味しい酒を飲めるかなあ。

2023年10月29日 (日)

道徳

 朝日新聞の書評欄を読んでいて感じたり考えたりしたことを記しておく。取り上げられた本を読む可能性は低いし、だからその本について論ずるつもりも、書評を批判するつもりもない。

 

 取り上げられていたのは大谷弘『道徳的に考えるとはどういうことか』(ちくま新書)という本で、書評をしていたのは有田哲文という朝日新聞の文化部記者である。書評の前半分だけ引用する。

 

 「道徳」という言葉はあんまり好きじゃない。小学校の「道徳の時間」は退屈だった記憶しかない。みんなで話し合おうという割りには、最初から答えが決まっている気がした。それでも「道徳的に考えるとは」の問いかけに刺激され、本書を手にとった。果たして内容も十分に刺激的だった。
 冒頭、セクハラ問題について、テレビの街頭インタビューの場面が出てくる。会社員風の男性が「昔とルールが変わってしまって難しくなりましたね。なにが正しいルールか教えてほしい」と語っている。著者によれば、この考え方は「非道徳的」だという。なぜなら被害者の苦しみに対する感覚が抜け落ちているからだ。押し付けられた規則の変化としか問題を捉えていない。道徳的思考とはそういうものではなく、自分の理性、想像力、そして感情を総動員した「ごちゃごちゃした活動」なのだと著者は主張する。

 

 書評には、ほぼ同じ分量の後半があるが引用はここまでとする。

 

 書評者は最初に「道徳」という言葉はあんまり好きじゃないと書いている。「道徳」がカギ括弧に入れられているのは、書評者にとっての道徳そのものと、「道徳」という言葉で一般的に語られるものとが違う、といいたいようだ。「道徳の時間」で話し合っても、結局目新しいことはなくて、答えがあらかじめ決まっている気がするという。話し合うたびに変わりうるものが道徳なのだろうか。

 

 インタビューを受けた男性の「ルールが変わってしまって」というのは、セクハラについての言葉であろう。むかしなら取り立てて問題にされなかったことが今は問題にされる。その基準はなんなのか、教えてほしいものだ、ということだろう。それは「非道徳的」な態度だという。この男性は道徳について問われて答えたのではないことはさておくとして、世の中にはむかしは問題なくても今は許されないことなどいくらでもある。

 

 時代は変わって、なにがいけないことかも変わる。それを誰かに教えてもらわないとわからないようでは社会人としてはいささか問題ありだろう。以前その辺がよくわからずに身を持ち崩した知人がいた。気をつけるようにそれとなく注意したのに、どうしてむかしはよかったのに咎められるのか?と首を傾げていた。

 

 そういうことを直観的に、ときには理性的に、場合によって感情的に判断することが「道徳的」なのだろうか。そうかも知れない。道徳的であることはある意味で知性が必要なのだ。たとえばセクハラなら、「被害者」が不快を感じ、「被害を受けた」と感じるかどうかを正しく認識できなければならないということらしい。ここまで考えていたら、だんだん面倒くさくなってきた。ほとんど実社会からリタイアしているので、もうそういう渦中に入る可能性はない。なんとかハラスメントと道徳とがどう関連するのか、ハラスメントであるかどうかの認定が道徳と関連するのか。とうぜんのようでもあり、そうではないような気もするし、よくわからない。

一歩手前

 洗面台の前で前屈みになろうとしたとたんに、腰に電気が走った。辛くも最悪の一歩手前で踏みとどまり、激痛までは行かないところで止まっている。立ち上がることも困難な腰痛を過去に二度ほど体験していて、いずれもこの洗面台の前での前屈みの姿勢のときに起きている。その角度が私にとってあぶない角度なのかも知れない。

 

 しばらく横になっていたら、痛みは悪化せずに多少動き回れる程度にとどまっているのはありがたい。以前ひどいことになったときには得意先の人にいろいろ訊いて回って、一番効果のありそうな整体師で治してもらっている。とても上手だと思うが、保険がきかないから高かった。今回はそこまでしないで済みそうだ。明日は糖尿病検診の日で、行かないとたちまち薬がなくて困るが、これならなんとか病院へ行くことはできるだろう。

 

 整体師から腹筋や背筋を維持し、できれば強化をするよう指導されている。意識して腰を回す運動も勧められた。すべて怠っている。というより、減量できて喜んでいたけれど、実は脂肪分だけでなく筋肉も落ちているのかも知れない。その報いだろう。痛みのあるときはできないけれど、治まったら少しずつ筋力維持のための体操をしないと辛いことになりそうだ。あの痛みを回避するならサボってもいられない。

 

 昨夕から右眼に違和感があって、気になって仕方がなかったが、この腰の痛みに紛れて吹っ飛んだ。気にするから気になったというだけだったようだ。目を酷使してのことだと思うので、今日は静かにしてテレビもパソコンもなるべく見ないことにしようと思う。

炬燵布団カバー

 室温がまだ20℃を切らないので、炬燵の支度をするのは早い気もするが、若いときと違って足先が冷たく感られはじめた。靴下を履くのが嫌いで、冬でも草履式のサンダルで近くのスーパーへ買い物に行く。草履式だから普通の靴下を履いていると履くことができない。それでいつまで過ごせるだろうか。足先が温かければ当分は別の暖房なしでもかなり快適に過ごせる。マンションはコンクリートが暖まっているので冷えるのに時間がかかり、外気温の下がる割りに室内はいつまでも暖かいのはありがたい。

 

 炬燵布団の皮がすこしほころびていた。どうせ中国製だろう。いいかげんな縫い方をしているのに腹が立つ。中綿が出て来てはかなわないし、ほころびを繕うのも案外面倒だ。調べたら、しっかりした炬燵布団カバーが売られている。今までの炬燵布団をすっぽりと入れることができる。さっそく取り寄せて、昨晩配達されたものを見たらイメージ通りで満足した。

 

 11月に入ったら冬モードの炬燵仕立てをするつもりだ。それはそれとして、せっかくつづけている週三回ほどの散歩はつづけることにしないと、炬燵の守になってしまう。微妙に体調が本調子ではない。点眼もまもなく終わるが、点眼が不要になったら遠出するつもりだったのだけれど、もうしばらく自重して、おとなしくしていることにしようと思う。我ながら意気地がなくなったものだ。

2023年10月28日 (土)

新聞

 曾野綾子のエッセーを読むようになったきっかけのひとつは、『夜明けの新聞の匂い』(新潮社)という本だった。『新潮45』という雑誌に連載されたものを編集した本だが、シリーズ化されて、その後、店頭で見かければ継続して購入してきた。子どものとき、郵便受けの新聞を取りに行って毎朝父に手渡した。いつのまにか父より先に新聞を読んで、「まだか」と催促されるようになった。そのときの新聞のインクや紙の匂いは記憶に残っている。

 

 その本には「日々の報道にひそむ偽善や誤りにやわらかく鋭く迫る・・・」などという惹句があった。しばしばそう言う指摘にいまも共感することがある。ところで、新聞を購読しなくなって十年だと思っていたが、どうも単身赴任をするようになって何年かして、週末に帰ってくるたびにまとめて読むのに疲れて購読をやめたような気がする。それなら二十年近くになるかも知れない。勤務していた営業所では新聞を取っていて、朝すこし早く出勤して読んでいたから、いまのように新聞を読まなかったわけではない。

 

 毎日ではないが、久しぶりに新聞を読んでいる。今日は今週で三回目。散歩のついでにコンビニで買う。読売、朝日、中日新聞の一紙か二紙を買って比較しながら読む。産経新聞も読んでみたいがコンビニにはおいていない。今日は三紙を買った。三紙で470円、案外な出費である。李克強の死をどう伝えているのか、それを比較して読みたかったのだ。丁寧に読むと半日かかる。読みたいところではないところでも思わぬ思考の材料にあたったりする。やはりネットニュースとはずいぶん違うと改めて感じた。

 

 新聞を購読するかどうか、引き続き思案中である。

原因と結果

 結果には原因がある。それは経験的に理解できることで、それを否定する人はいないだろう。だから何かが起こったときにはその原因を考え、悪いことならその原因に対して責任を問う。たいてい原因は一つだけではなかったりする。どの原因が重いと考えるか人によって違ったりする。そしてまたその原因となったことにはさらにその原因があって、それらを合わせて考えると複雑に絡み合っていることに困惑する。

 

 人は複雑であることにたえられないので、ある時点に限定したり、原因の細かいものは考慮しないことにして、単純化して判断する。そうなるとその判断評価はさまざまになり、同じことにまったく違う意見が生ずることになる。自分の意見と違う意見の人がいてとうぜんなのだ。違うのはかまわないが、違いを認めない人がたまにいて、それにうんざりさせられることがある。

 

 ニュースを通して世界を見ていると、さまざまな原因があって結果が生じていることを見失い、煩雑さにたえられなくなって原理主義的な思考が横行しているのかと思ったりする。それは自分で考えなくなるということだろう。そのほうが楽だから。

 

 多すぎるほどの情報があるように見えて、実はもたらされている情報はかなり限定されているところがある。日本のテレビ局の情報を見て海外ニュースを見ると、その違いが感じられることがある。むかしはさまざまな新聞とさまざまな月刊誌を見比べたりしたこともあるが、それに振り回されてほかのことができなくなった。そろそろまた雑誌を買い、新聞を読む必要がありそうだ。

 

 因果の奥底など知りようもないが、のぞき込みたい好奇心は今のところまだ多少ある。

バロメーター

 夜寝るときは寝間着にする。紐で結ぶ和服の寝間着である。それは寝間着であって浴衣ではない。母も私もその違いは明確である。何枚かあった母が作ってくれたその寝間着も擦り切れたり破れかけたりで、ついに底をついた。無理をすれば着続けられるけれど、だれも見ないものだからこそみっともないのはイヤだと思う。九月に白内障の手術のために入院したとき、パジャマを二枚買った。今はそのパジャマを着て寝ている。パジャマを常用するのは初めてである。寝心地は悪くない。

 

 朝起きるとパジャマのままでいることがイヤだし肌寒いので、とりあえずジャージーに着替える。朝食の支度と片付けなどの雑用をジャージーで行い、ひと息ついたら出かけられるような服に着替える。これなら誰か来ても恥ずかしくない。

 

 ジャージーのままで好いではないかと思うことも多い。たしかに誰かが来ることなどめったにないし、突然来ることもないから、来るのがわかったときに着替えればいい。しかし今のところ自分の着替えのルールにこだわっている。それが崩れるような気分の時には自分の調子が悪いときだと思っている。体か心か、その衰えだろう。だからつまらないことだが、そのことが私の自分を見るバロメーターのひとつになっている。面倒を感じるようなときには、いろいろなところが汚れはじめているものだ。

2023年10月27日 (金)

ヤジ馬

 ヤジ馬の楽しみは、ふだん見られないものを見るという楽しみである。そのことがしばしば誰かの迷惑になろうとも、好奇心の方が上回ってわれもわれもと押し寄せてしまう。そして、あとで見たことを、見ることのできなかった人に自慢そうに話すという楽しみもある。

 

 ネットで評判の店に押しかける、行列する、ハロウィーンの人出が多いのを見に行く、それらもある意味でヤジ馬の行為と言って良いだろう。ただ、最近の傾向として、好奇心が本当に動いての行動ではなく、そこに行ってきた、というのを友人ばかりではなく、インスタグラムなどで自慢することが主な動機になっているように思う。とにかく他人の評価が何より行動の動機なのではないか。しかもそれを大々的に取り上げるマスコミもマッチポンプである。自分で火をつけながら、「渋谷には集まらないように」などという。

 

 前回のブログは言葉足らずの点もあったと思うが、世の中が、特に若者がそのような動機で集団行動をしているように見えるのが愚かしく感じられることが根底にあっての曾野綾子への賛同だった。

 

 もちろんそんな集団行動に参加しない若者もたぶん多いだろうと思う。私もそうだったから。しかしそういう若者はマスコミは取り上げないから、まるで騒ぎを起こす若者が普通みたいに扱う。成人式の乱痴気騒ぎなど、マスコミが演出したものだといいたくなくなる。報じてもらうために騒いでいるのが見え見えではないか。

 

 若者がひとりではおとなしいのに、数人集まるとバカ声を出し、ヒンシュクを買うような行動をしたりする。そのときの、騒いでいる若者をよく見ると、周囲の反応をおどおどと見ているのがわかる。周りが顔をしかめるのを確認し、仲間にどうだ、俺はここまでバカなことをやれるのだ、という顔をする。仲間も内心はどうか知らないが感心して見せたりして真似をする。バカの悪循環だ。

 

 他人の目を気にするのは特に日本人の性格だが、むかしは恥ずかしいことはみっともないことだと、親に、そして世間に教えられたが、今は誰もそんなことを教えない。親はこどもの個性を尊重しなければならぬとばかりに自己主張を教え込み、教師も世間も見て見ぬ振りをする。ヤジ馬も好奇心から発するのではなく、自己主張のための行動に変わったようである。

 

 こんなことを書いていると、ではお前のブログはなんなのだ、という矛盾に気づかされる。独り言のつもりが自己主張になってはいないか。人に読んでもらうことを期待するのは自己主張ではないのか。ブログをやめようかな。でも人間には自己主張がないと他人とコミュニケーションが成り立たないのだから仕方がないのだ。問題は自分というものがちゃんとあっての自己主張かどうかということだろう。

李克強の死

 中国の前首相であった李克強が心臓麻痺で急死したそうだ。68歳だったというからいかになんでも若い。李克強は経済が専門分野であり、中国経済についてどうすればいいか、心を砕いていただろう。首相就任当時は積極的に習近平に進言していた気配だが、習近平の思想とは合致しないと見えて、あまり取り上げられなかったようだ。身辺に不安を感じて、いつの間に習近平の影になって無言を貫くようになったように見えた。ゼロコロナ政策など、彼にとってみれば愚策以外の何ものでもなかっただろう。それでも黙っているしかなかった。

 

 李克強は中国経済の問題点をよく承知していたから何をすれば良いか分かっていたはずで、ことごとくそれと反する方向へ突き進む習近平に絶望していたものと私は見ている。国務院は国家の実務を担当する部署で、そのトップである李克強がなにもさせてもらえない状態が続き、いまの李強もそうである。周恩来は同じ立場だったが、それでも毛沢東は周恩来の能力と仕事ぶりに頼ることを知っていたが、習近平は李克強を異分子とだけとらえていたようだ。だから習近平の第三期の新体制では真っ先に李克強ははずされた。

 

 李克強が危惧したように中国経済の問題点が噴出している。中国はアメリカに追いつくどころが経済はかなり危うい状態だ。李克強はだからいわんこっちゃない、と思っていただろう。もちろん毛筋ほどもそんなそぶりは見せなかったはずだ。言葉にしたとたんにどんな仕打ちを受けるかわからないことを誰よりも知っていただろう。しかし習近平には言わない言葉が聞こえていたのではないか。それは李克強の言葉であるが、実は習近平自身の声だ。

 

 そういうことが想像されていたので、李克強の突然の死がただの心臓発作に思えない。李克強がひたすら隠忍自重してきたことのストレスと、やめてからも習近平の猜疑心がうかがわれることのストレスが彼に重くのしかかりつづけていたのかも知れない。直接的か間接的か、どちらにしても習近平に殺された、と感じてしまう。想像による妄言であり、裏付けなどないのでご容赦願いたい。

 

 ところで中国の外交部トップや国防部のトップが相次いで粛清された。次は首相の李強だという噂もある。みな習近平の側近中の側近で、イエスマンばかりだ。それでも安泰ではない中国の習近平体制というのは恐ろしい。うがった見方をすれば、独裁者とは実は臆病者で、自分と対抗しうる存在が恐くて仕方がないから、果てしなく粛清を繰り返し、自らの依って立つ基盤を自ら崩してしまう存在のように思える。

他人の評価

 相変わらず、ぽつりぽつりと曾野綾子を読み続けているが、いまは『鍋釜と愛国心』(河出書房新社)という本を読んでいる。愛国心というのは鍋釜のようになくてはならないもの、という意味の題名だと思うが、いまは鍋釜を持たないで生活する人も少なくないから、そのことこそが愛国心の矮小化の象徴のように感じてしまう。

 

 この本の中に次のような文章があるので引用する。

 

 学歴主義も、安全な職場思考も、ブランドものという名の大量生産品を夢中でほしがる若い人々のファッション性も、つまりは自分自身の評価を失い、評価を大衆の眼に合わせようとした結果です。本来ならば、人間はいかなる状況の中でも、自分が生涯を賭けた好み、自分がそこに置かれた意味を発見できるはずなのです。それを可能にするのは、他人とは違った判断をする勇気そのものです。しかしそのような勇気も才能も習性も、教育は教えませんでした。

 

 この「自分の評価を失い、評価を大衆の眼に合わせる」という言葉にドキリとする。日本人にはその傾向がもとからあり、私自身だってそうだと気づかされる。テレビをつけていれば、そこには「みんなが・・・」という言葉に踊らされている多くの人が、そして自分がいる。

このあとにつづけて、

 皮肉なことに、禁止こそが、自分の情熱や、時には命までも賭けて手にしたいと願う道の発見につながるのですが、戦後の教育はときには道徳に反することまで許しましたから、若者たちは、心身の飽食と放縦の中で、自らの責任において選ぶことの方途も意味も見失ったのです。足りないときにこそ、人はどうしても手に入れたいものを明確に発見するものです。

 これは創造性の高い人材育成のための教育、というシンポジウムで曾野綾子が寄せた提言の一部である。日本の教育の成果がなにをもたらしたのか、いまその負の成果を見せられているような気が私はしているのだが、それをあるべき姿に取り戻すのはほぼ手遅れだとあきらめている。なるようにしかならないと思うし、しかし、ちゃんとした若者もいないわけでもない。

2023年10月26日 (木)

新芽

 植えた細ネギの茎から新芽が芽吹いてきた。活着したのだ。ネギの生命力にあらためて感じ入る。ニラの鉢にも青い物がチラリと覗きはじめた。半年近くカラカラになって完全に死滅したと思っていたのに、涸れた茎の下の根もとに生命が甦ったようだ。

 

 面白いのは、種を蒔いていない鉢から朝顔が芽吹いたことだ。季節柄この新芽が花を咲かせるほどに成長するのは無理だろうと思うけれど、抜くのに忍びないのでそのままにしてある。

 

 一日一度はお付き合いでキラリのついでにビンゴゲームをしているが、それもまもなく終わる。最後ぐらい気前よく確率を上げて、というくらいのサービス精神があってもいいと思うのに、今日は二回も「残念でした」で、ちょっとムッとした。すこし早いけれどビンゴゲームはこれを最後にすることにした。ところでキラリをするための庭で、普通はすぐ開くのに、開くのが著しく遅い庭がある。我慢していたけれど、もう時間の無駄にしか感じられなくなったので、そういうのはパスすることにした。

家賃が高い

 来週糖尿病の定期検診なので、昨日から休酒、減量モードに入った。いつもなら一週間以上前からそのモードに入るのだが、体重が思ったより低位安定しているので、これくらいで良いだろうと判断した。検診のために飲酒を止めたり食事を少なめにするなど意味がないように思えるが、数字をごまかすためというよりも、定期的にすこし節制するということを習慣にしてきたところがある。

 

 それに血糖値のヘモグロビンA1cという数値は、一か月前からの身体の血糖の履歴を測るものだというから、一週間やそこらではごまかしのきくものではない。その間に深酒すると必ず数値に表れる。飲酒を止めても酒がほしくてたまらない、ということがないかどうか確認するのも必要だ。独り暮らしで自己節制している身としては、酒に体や心が依存していないか、常に注意しないといけない。

 

 どうも岸田首相の人気が凋落の一途のようである。このブログでもたびたび書いてきたが、私はこの人の語り口が好きになれない。原稿を読むときはよどみがないのだが、いざ自分の言葉で語り出すとなると、変な区切りで間が入り、聴いていてイライラしてしまう。そしてその内容に、なるほど、と思うことがあまりない。間違えないように、言葉尻を取られないように、という思いばかりが感じとられてしまう。「丁寧な説明」というキャッチフレーズがかえって逆効果になっている。説明を聞かされた気になれないのである。だから納得できない。それが私だけではなく、国民の多くにも感じられているのかも知れない。

 

 国会質問で、自民党の世耕氏にまで、「首相の言葉は軽い」と批判されたのは理由のないことではない。岸田首相は自分に対する評価をことさら気にするタイプなのかも知れない。だから自分の言ったこと、しようとしたことに批判が出ると前言をたちまち翻したりする。だから「言葉が軽い」と言われるのだ。それが信念がないと見られるのはとうぜんだろう。阿倍氏の葬儀のときのことを思い出しても、決断が拙速だったり無用に逡巡したりと腰が定まっていないようにみえた。

 

 G7会議でも、一生懸命やっていたことは認めるにしても、役者が一枚格下に見えてしまって残念だった気がする。相撲界では実力、能力以上の番付につくことを「家賃が高い」というが、これまでの様子を見てきた国民にとって、岸田首相は首相という役割につくには「家賃が高い」とみられているのだろう。

 

 特に取り立てて悪いことをしているわけでも大失敗をしているわけでもないのに支持率が低下するというのはそういうことかな、と思う。では誰か代わりがいるのか、というと誰も見当たらないのが平和ボケ日本の不幸ということか。若手はどうしたのだろう。今こそチャンスと思わないのだろうか。ところで自分もその平和ボケ日本人のひとりとして、こんなことを書くのも年寄りの繰り言みたいで恥ずかしい(繰り言だけど)。そういうと、ではお前はどうしたらいいというのだ、という輩が必ずいる。そんなこと知らないよというしかない。なにしろ私も平和ボケしているのだから。もちろんなにも考えていないわけではないけれど、そういう輩は人に訊いて言葉尻を捉えようとするのが見え見えだから触らぬ神にたたりなしだ。それより自分で考えてくれ。

今朝の雑感

 今日も好天の予報なので、出かけようかと思わないではなかったが、出かけたいという気持ちの高まりをあまり感じなかったのでやめておくことにした。炬燵をそろそろ出そうか、もう少し先にしようか迷っている。夏は太陽が高いからマンションのベランダのひさしを超えて室内に光が入ることはないが、10月になってたっぷりと陽が入るようになった。マンションの修繕工事のためにとじこめられていたのが足場と遮蔽幕が取り払われて、その陽の温かさを実感している。毛布や座布団をその陽に当てている。

 

 昨晩からNHKのニュースのトップは性別変更の要件についての最高裁判決の話題である。今朝六時もそうだった。どんな話題をトップにするのか、人により価値観が違うから、それでとうぜんだ、と思う人もいるだろうけれど、この話題が誰にも重要で、伝えるべきトップニュースだとは私には思えない。今までずっと問題として話題になっていてようやく、というような話をニュースで観た記憶はなく、取り上げる順番が違うのではないかと思う。

 

 アメリカ下院の議長がようやく四人目のジョンソン氏にきまったようだ。この人はトランプ支持派で、ウクライナ支援に消極的らしいというから、バイデン大統領はますますやりにくいだろう。バイデン大統領の足どりのおぼつかなさや言葉の力のなさは、見ていてこれで大丈夫か、と誰もが危惧するところだろう。これで来期もやるつもりだなんて、信じられない。下院議長選出のごたごたやバイデンの老醜はそのままアメリカの衰退を感じさせる。そのアメリカの景気が良いというのが不思議だ。その景気の良さを享受しているのは誰だろう。アメリカ国民全体か、ごく限られた特定の人だけなのか。

2023年10月25日 (水)

花椒

 子どものときは山椒の香りが苦手だったが、おとなになってその刺激的な痺れる辛さともども好きになった。花椒は中国料理に使う香辛料で、ホアジャンと読む。たぶん山椒の種類だと思う。普通にスーパーでも売られている。たまたま料理番組でその香辛料を使う料理を見て、作ってみたくて購入した。山椒より香りも強いし辛い。最近は粒の山椒を挽きながら使う容器にこのホアジャンを入れて麻婆豆腐に振りかけて使う。たっぷりかければインスタントのものでも四川風になるのだ。

 

 電気会社から、ガスの契約もしませんか、という契約の申込用紙が送られてきた。ガス会社との契約解除と振り替えは電気会社でします、と書かれている。いきなりなので戸惑っている。そう言えば、昨年から、ガス会社から電気料金もガスと一緒にしませんか、という書類が来ていた。それに対する反撃なのか。何ヶ月かガス料金が無料になるというが、わざわざそんなサービスをするということは、あとでその分を回収できる見込みがあるということではないか、などと勘ぐってしまう。もちろん一括支払いになると便利なこともあるだろう。すこし考えてみようと思うが、判断の材料がないので困っている。私は冬の暖房はガスなので、無料期間と重なると有りがたいことはありがたいのだが。

 

 アイスランドで、男女平等が不十分だというデモが行われて、人口38万人の首都レイキャビクでは、10万人が参加したそうだ。政府が対応不十分と批判され、ストライキも始まったらしい。確かアイスランドは世界でいちばん男女平等と評価された国で、国会議員もほぼ半数が女性だったはずだ。日本から見ればずっと男女平等なはずなのにどうしてなのだろう。

 

 細かいことはわからないが、ほとんど平等が達成されたために、わずかな差違が極めて大きなことのように認識されてしまうという状態ではないかと思う。そもそも完全平等ということはなかなかむつかしいことで、さまざまなことでみれば常にどちらかに秤は傾くし、全体としてまあこのくらいでそこそこいいや、という気持ちを持たないと、不毛の戦いが続いてしまう気がする。

 

 アイスランドには国民に何か不満のたまるほかの問題でもあるのだろうか。寒いけれど平和で良い国だと思っているのだけれど。

気がつかないと

西ウレ峠からどんどん坂を下り、人家がところどころ見えて来て、髙山に近くなるあたりに、気がつかないと通り過ぎてしまう見所がある。

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渓流のそばにすこし広い駐車場があるが、何も標識や案内板はない。ここから川をのぞき込むとなかなか景色が好いのだ。

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淵になっていて、ほかでは見られない風景を見ることが出来る。

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河童でも出そうな淵になっている。

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この川は日本海に注ぐ。地図によれば川上川と思われる。川上川は髙山から下る宮川と合流し、やがて神通川と合流して海へ注ぐようだ。

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そこそこ流量はある。

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紅葉の明るさが淵をいっそう暗くする。

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さらに下ると段差があって小さな滝をなしている。

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河原まで降りてみた。自分でいやになるほど足元がおぼつかない。むかしなら石を跳んで歩いたのに。

このあと国道158号線に突き当たる。右へ行けば髙山、左へ行けば蕎麦の里荘川である。左へ曲がる。

ところどころ景色の好いところがあるが、景色の好いところほど車を停める場所がない。荘川からひるがの高原を経て、長良川沿いに下る。遅い車が列をなしていたので郡上で東海北陸道に乗り、帰宅した。

元気が良ければ石徹白の白山中居神社あたりに行きたいところだが、今回は紅葉を見たことで充分とする。

雲の中の西ウレ峠

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ここがお気に入りの場所からほど近い、せせらぎ街道の最高地点西ウレ峠。雲の中にいる。

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白いのはゴミではなくて朴の葉だろう。

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ここから急な下りになる。降りた向こうは髙山だ。雲が深くてあたりが暗い。

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日本海側と太平洋側の分水嶺なのだ。西ウレ峠の駐車場はせせらぎ渓流散策の拠点で、せせらぎ渓流は峠の郡上側にあるから太平洋側に流れている。

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たしかに標高1113メートルらしい。視界が悪いから注意して運転しよう。

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このあたりはまだ紅葉がすすんでいないようだが、駐車場の奥に一本だけ特に紅いのが見えた。

峠を高山側に下って、だいぶ行った先にちょっと立ち寄りたい見所がある。

2023年10月24日 (火)

お気に入りの場所で

せせらぎ街道の最高地点は西ウレ峠で標高1113メートル。そのすこし手前に私の紅葉を見るためのお気に入りの場所がある。車が沢山いるときもあるが、今日は私だけだった。そこで撮った写真をキャプションなしで掲載する。

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私の愛車を入れて撮る。

熊がでる可能性もあったが、大丈夫だった。

このあとにすぐ先の西ウレ峠に行く。

紅葉を見に行く

昨日、紅葉を見に行くつもりで早起きしたのに、なんだか気が乗らずに出かけ損なった。昨日の午後は体調がいまひとつだったから、それで正解だったと思う。

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これは昨日の夜明け前の、マンションベランダからの風景。工事の足場がなくなったのでこういう写真が撮れるようになった。けさは起きたのがもっと遅かったのでこういう景色は見られず。

それでも七時頃には出発。一宮インターに乗り、名神を少し走ったら、一宮ジャンクションで東海北陸道に移る。木曽川を渡るころには、前方に金華山とそこにそびえる岐阜城がみえる。本日の目的地はせせらぎ街道。紅葉の美しいところで、ほとんど毎年見に行っている。25日からが見頃だ、という情報があった。

せせらぎ街道は郡上八幡と髙山を結ぶ山越えの街道(国道472号)である。郡上インターで東海北陸道を降りる。

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空に雲が被さっている。たぶん早朝には郡上八幡は雲海の中にいたと思われる。せせらぎ街道へ行くにはちょっとややこしい。知った道だと思ってナビを設定しなかったら、うっかりして一つ早く曲がってしまい、見覚えのない道を走ってしまった。こういうところで筋を間違えると、とんでもない峠道を越えないとならなくなる。あわてて車をもとへ戻す。このあたりでは郡上街道とか飛騨街道と呼ばれる道を北上する。途中に、東海地区では有名な明宝ハムのある明宝村の道の駅でひと息入れる。

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ここは名馬磨墨(するすみ)の里。宇治川の先陣争いのときに梶原源太影季が乗った馬だ。山は薄ら色づいている。

ここからは急な上り坂が続くが道は良い。以前よく入りに来た日帰り温泉の明宝温泉湯星館があるあたりから本格的な山道になる。さらに走るとパスカル清見という道の駅がある。ここは初夏にいっせいにラベンダーが咲くところだ。そこを過ぎれば次第に紅葉らしい紅葉が見られるようになる。

写真が撮りたい場所もいろいろあるが、お気に入りのところがあるのでそこへ向かう。

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これがお気に入りの場所で撮った一枚。たくさん撮ったので、それは次回に。

2023年10月23日 (月)

非常宣言

 映画『非常宣言』は2021年の韓国のスカイパニック映画。テロリストが感染症のウイルスとともにソウル発ホノルル行きの飛行機に乗り込み、乗客を感染させようとする。異常に気づいた少女からの通報でそのテロリストの自宅を訪れた刑事(ソン・ガンホ)は、これがウイルステロであることを察知し、犯人がどの飛行機に乗ったのか突き止めるのだが、その飛行機には彼の母親が搭乗していた。

 

 テロリストのもくろみ通りに感染者が発生し、ウイルスをもろに浴びた乗客が死亡する。地上と飛行機の間でさまざまなやりとりがあり、犯人も取り押さえられるのだが、そのテロの目的は不明のまま犯人も死亡してしまう。そしてついに機長も感染し、操縦不能となって副機長のみになり、さらに感染者がつぎつぎに発声して機内はパニックになる。

 

 しかも飛行機はアメリカから着陸を拒否され、引き返して日本に降りようとするが、日本からも拒否される。ウイルスの正体が不明で、しかも対策が不明ではパンデミックのおそれがあり、どこも着陸をそ機受けるわけにはいかない。燃料は韓国へ戻るのにギリギリである。そしてついに副機長も感染で操縦が困難になる。

 

 飛行機にはかつて名パイロットだった男(イ・ビョンホン)が乗っているのだが、ある飛行機事故が原因で操縦できなくなっているうえに、この副機長とは因縁があった。抗ウイルス薬は間に合うのか、飛行機は無事に降りることはできるのか。

 

 けっこうサスペンス満点で困難が二重三重に仕組まれており、飛行機側では絶望の果てに感動的な死の覚悟がされるのだが・・・。もちろん映画だからそこに一筋の光明があり、刑事の献身的で英雄的な行動で・・・。ということでなかなか見応えのある映画であった。

 

 もしかしたら誰も助からない方がもっと感動的だったかも知れない、それが現実だとも思うが、それではお話にならないか。

快調なのに

 今朝は五時前に起床し、早めの朝食を摂る。紅葉の便りを見たので、紅葉を見に出かけようと思ったのだ。体温も平熱で、ワクチンの影響はなくなった。体調は快調と思われる。それなのに出かける支度ができたあたりから、気持ちがどんよりとしてきた。何やら出発を押しとどめるものがはたらいている。こういうときに無理して出かけてもなんともないことが多いけれど、いやなことがあったこともある。虫の知らせという奴で、迷ったときはやめた方がいい。自重せよというサインなのだと思う。

 

 なにもする気が起きずに転がっていたらいつのまにか眠っていた。

 

 一日損した気分だが仕方がない。切り落とした細ネギの根の部分を鉢に植える。活着すればまた鉢植えのネギが食べられる。ニラはまだ復活しない。もうだめなのだろうか。残りの鉢の土を畝返して水だけ撒いておく。順次なにかを植えるつもりだ。

 

 動き出したら元気が出て来たので、片付けをはじめる。片付けたいところは山ほどあって、とうぜんそこから不要なものが出てくる。捨てるものがあるとなんとなく嬉しい。嬉しいけれど、減った分なにかを買う気になりそうなので、その気持ちを抑え込む。

 

 天気もいいので午後には散歩に出かけようか。夜はカレーでも作ろう。

メキシコ湾

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バスでハバナの港へでる。この海はメキシコ湾に面している。メキシコ湾は大西洋に繋がっているわけで、しっかりと大西洋を認識して見たのは初めてだ。アメリカに行ったとき、マンハッタン島から自由の女神を見に行ったが、あそこも大西洋に繋がっているといえるけれど、実感がなかった。荷物を入れた袋を脇に置いて海を眺めるこの女性は、なにをおもっているのだろうか。この向こう遙かにはフロリダがある。フロリダまでは300キロ足らずだし、フロリダの先に連なる岩礁島からだと100キロあまりしかない。アメリカとキューバは近いのだ。

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ハバナ新市街の海辺、港は深い入り江になっている。入り江の入り口、南岸にはブンタ要塞、北岸にはモロ要塞が置かれている。これはブンタ要塞。モロ要塞には後で行く。

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要塞だから大砲も置かれている。

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街中には新しいビルと古いアパートが混在している。スクラップアンドビルドが進行中だった。私が行ったこの頃はアメリカとの関係が雪融けにみえ、観光客も増えていたからキューバには希望があった。それがトランプが大統領になって元の木阿弥になった。今キューバは苦難のもとにあるらしい。

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街角風景。

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テラスの様子など、日本では見ない風景だ。

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公園などは緑が溢れて美しい。東南アジアでもこのような公園を良く目にする。

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クラシックカーの写真を撮ろうとして警官の写真を撮ってしまった。ちょっとムッとしているようにみえたが、なにも言われなかった。今の中国だったらあぶない。

2023年10月22日 (日)

復讐の矢

 ワクチン接種から丸一日経ったこの夕方になって、変に身体がほてり、体温を測ったら37℃ちょうどくらいある。平熱が36.3℃くらいだから微熱である。今日は風呂に入るのはやめておこうか。これ以上発熱しなければいいが。

 

 午後、『ソフィー・マルソーの復讐の矢』(2022年フラン)という映画を観た。お気に入りのリベンジ映画だと思ったら、意外な展開で、というより展開らしい展開がないという展開で、これを復讐映画といっていいのかどうか。ソフィーマルソーのあの独特の目は相変わらずだが、彼女も歳をとった。記憶に残る少女だったときの彼女とは違って、意志の強そうな風貌になっていた。彼女はパリ警察の警視役である。妹の死から五年、今でもその心の痛みを引きずった彼女は感傷的になっている。そんなときに担当事件の捜査が進む中、彼女は最愛の夫の浮気を知ってしまう。彼女の心は不安定になっていく。

 

 自らの役割を見失い、自分勝手な行動がはじまる。さらにたまたま夫のDVからのがれようとする母娘を助ける羽目になる。のがれたはずが、あとをつけられ三人は男に追い詰められるのだが・・・。そうして主人公の暴走がエスカレートして行く。彼女が得意な弓矢で追い詰めていくのははたして誰なのか。

 

 とにかく予想を覆すという意味では意外な展開であり、なにこれ!という気分なる。

副反応は

 いままでの経験では、コロナワクチンの副反応はその夜に出る。昨晩は早めに就寝して夜中に目覚めたときに自分の体調をチェックしたら、注射を受けた腕がわずかに痛いけれど、特に発熱した様子もないので安心した。なんとなく気怠い感じがあるものの、節々が痛むというほどのことはない。昼前に念のため体温を測る。平熱よりわずかに高いけれど、発熱といえるほどのことはなさそうである。今日は一日安静にして、身体がワクチンと親和してコロナウイルス対応形態に変わるのを待つことにする。

 

 昨夜再放送された『六角精児の吞み鉄本線日本旅』を見る。今回は近江鉄道と信楽鉄道編。昨年から琵琶湖周辺、近江地区を訪ね歩き出した。神社や古刹、歴史的な場所が数多くあって興味が尽きない。まだ探訪をはじめたばかりなので、地図を眺めて次はどこへ行こうかと楽しみにしている。この番組もその参考になった。

 

 もうひとつ『超・人手不足の時代』というドキュメントも見て考えさせられた。常に時代が先に変化し、それに社会はすぐ対応できずにさまざまな問題が起きる。その典型がこの人手不足という問題で、その背景は番組の解説者の言うとおりであろうと思う。人材の再配分が適正に行われてこなかったことのツケが回ってきたのだ。現実は、足らないところは絶望的に足らないが、余っているところは余っている。海外ではもう少しきちんと対応した、というより、コロナ禍に振り回されてなにも対応する余裕がなかったからあるがままにして、結果的に対応したような形になったように思えるが本当のところはわからない。日本は余裕があるから政府が沢山の補助金をばらまいて結果的に人的資源の再編成がすすむのを妨げた。見かけ上の優しさが事態の解決を遅らせた、といえるかも知れない。しかし望むと望まざるとに関わらず、再編成は必然だからそのように変わっていくのだろう。このことは引き続き興味を持って注視したいと思う。

それなのに

 食卓の品目が、歳とともに食が細って、一品少なくなっている。とうぜん摂食量も減っている。それなのに・・・スーパーで購入するものの一日あたりの金額は15%くらい増えているというのが実感だ。食べ盛りのこどもがいる家庭などはずいぶんたいへんだろうと思う。これが一時的なことなら多少食事の量を減らしても飢餓というほどのことでもないしどうということはないが、ずっと続き、そしてさらに負担が増えるとなれば、生活レベルを下げざるを得ない。

 

 これがただ政府の責任だとは思わない。日本はこの三十年あまり、コストカットで切り抜けようとしてきた。本来は技術立国として海外と競争する力を貯え、鍛え上げてこなければならなかったのにそれを怠ってきた。気がついたら周辺国がどんどん追いつき追い越している。日本は眠っていた兎である。しかも周りは亀などではない。獅子や猿や熊や鼠や狐や狼である。

 

 日本中がぼやきながらも安逸をむさぼり、備えをしてこなかったツケを今払うことになったのだ。しかしそんなことをいまさらいってもはじまらない。年金暮らしはますます緊縮生活を覚悟をして備えるしかないのだ。幸い、アホほど飲んでいた酒量は糖尿病に対応するために減って、酒代は激減し、さらにかなりの支出をしていた本代は三分の一ほどに減らした。それらは私の余力だったのだ。

 

 飽食は寿命を縮める。飽食の世代が後期高齢者になっていき、日本人の寿命は案外急激に短くなるのではないか。それなら想定よりも健康保険の負担が減るかも知れない。そんなブラックな想像をしている。

2023年10月21日 (土)

キューバの夜明け

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2015年にキューバに行った。険悪な関係が続いていたアメリカとキューバの関係が一時的にゆるみ、日本からもキューバへのツアーが催行されていた。友人のF君がキューバへ行こう、と提案し、いつも一緒のYさんも私も賛同した。ゲバラについての映画を観ていてキューバには興味があった。アメリカからの視点の情報がほとんどの日本では見えないものを見たいとも思った。直行便はもちろんない。日本からだとカナダ経由かメキシコ経由となる。カナダのトロントへ十一時間、二時間ほどの乗り継ぎのあと六時間かけてトロントからハバナへ飛ぶ。夜、ハバナに到着し、一杯飲んでからホテルで爆睡し、夜明け前に眼が覚めた。

上の写真はテラスで朝のビールを飲みながら迎えたキューバの夜明けだ。

F君と朝の散歩に出る。

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キューバの空気を全身で感じる。

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夜明け、遠くにシルエットでみえたのはこの教会の十字架だったのだろうか。

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こんなきれいな集合住宅もある。

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緑を大事にする国らしい。

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キューバではクラシックカーをあちこちで見る。これは特に状態の良さそうな車。

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ホテルの前に止まっていたアメ車のクラシックカー。車のうしろでのぞき込んでいるのがF君。

朝食後、バスでハバナ市内観光に出かける。

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車窓からの一枚。

ぼんやりしている土曜日

 読書に集中していたのが急に熱が冷めてしまった。だから昔の思い出したくない話などを思い出したりするのだ。こういうときはなにもしないでなにも考えずにぼんやりするのがいい。ぼんやりするのは得意だ。ゴミだらけになった頭の中を一度空っぽにする。空っぽにすると見えなかったものがみえることもたまにはある。

 

 午後、第七回目の新型コロナワクチンの接種を受けにいく。今までの接種で発熱して寝込むほどの重い副反応は一回だけだったが、いちおう万一のことは覚悟して今日明日はなにもしないで済むように準備してある。帰ってきたら画集でも眺めるか、古い旅の写真でも眺めて思い出に浸ろうかと思う。風呂はやめておこう。

 

 鉢をすべてベランダに出して並べた。鉢に植えてあったニラやネギやその他はすべてカラカラになってしまった。ニラはもしかしたら復活するかも知れないので水をやってみた。数日様子を見よう。細ネギを買ってきて、切り落とした根もとを鉢に植えるつもりだ。たぶん根付いてネギが生えてくるはずだ。これから鍋物や蕎麦やうどんを食べるときに重宝する。それも明日、体調に問題がなくて買い出しに行けたらの話だ。

 

 来週は大きな予定がないので、せせらぎ街道あたりの紅葉のようすでも見に行こうかと計画中。もう一カ所、関ヶ原から伊吹山の裾野を走って湖東へ抜け、徳山ダムの辺りを見に行こうかと、今引っ張り出した地図を眺めている。地図に夜叉ヶ池の名のついた道の駅を見つけたのだ。

忘れたはずの

 若いときに仕事のことでイヤな思いをしたことを思いだした。不正行為ともいえることなので、そのことを明らかにするとイヤな思いをさせた人間の進退に関わる。しかもそれを上司が了解していた。了解していたというより、無知でそれが不正だと認識できていなかった。そしてその責任は私に降りかかるように仕組まれていた。正義の味方になれば自分自身も含めての問題になるだろう。

 

 理不尽ながら、その問題を自分だけで対処した。切り抜けるためにあれほど頭と神経を使ったことはない。問題が片付いてすべてが見かけ上なかったことになったあと、忘れようと思った。内にくすぶりつづける怒りも、次第に治まり、過去の記憶としてしまい込まれた。過去になったからといって人に話すつもりもなかった。そのことが突然意識の表面に浮上した。なにがきっかけだったのだろう。

 

 そのときにどうすれば良かったのか、自分が押さえ込んだことが正しかったのかどうか、そんなことをくどくど考えていた。しかしいまさらそんなことで心を悩ませても仕方がない。そのイヤな思いをさせた張本人も身を持ち崩したあとに病気に罹り、すでにあの世にいっている。死ぬ前にたまたま会うことがあって、痩せ衰え、杖を引いて歩く姿を見た。当人はなにも感じていないようだった。

 

 その経験が私を鍛え、覚悟を決めさせ、生き方の軌範を作り上げた。そのことはもう一度錘を付け直して記憶の底に沈めようと思った。

2023年10月20日 (金)

酸っぱくなった

 涼しくなったので先週から白菜の漬け物作りを再開した。週末に息子夫婦や娘が来たときに、一日半くらいしか漬かっていないのを出したら、けっこうみんな手を出してくれた。漬かり具合は足りないが、それなりに食べられたようだ。続いて一昨日、半把漬けた。冬と違ってあっという間に水があがる。今夕出してみたらもう酸っぱくなっていた。それでも前回よりちゃんと漬かっているからおいしく食べられる。すこし気温が高かったから発酵が進んだようだ。

 

 これからますます美味しくなる。発酵食品は身体にもいい。簡単にできて自然の力で美味しく食べられるのはたいへんありがたい。しかしそれにしても白菜の値段の高いことには驚かされる。野菜全般が高いが、特に白菜が高い。

 

 明日は七回目の新型コロナのワクチン接種である。今晩の雨のあと、気温が下がるらしいから、明日は久しぶりに簡単な鍋物でも作ろうかと思う。

明治タレント教授

 高島俊男『明治タレント教授』(文春文庫)は『お言葉ですが・・・』シリーズの第三巻にあたる。単行本のときには『せがれの凋落』(文藝春秋)という表題だったが、理由があって文庫本は題名が変わっている。そのことはあとがきに記されている。

 

 解説を呉智英が書いていて、一時期この人の本を片端から読んでいたので懐かしい。愛知県の人で、書いている内容は、言葉へのこだわりについてなど、高島俊男に似ていなくもない。高島俊男は呉智英を敬した書き方で紹介している。

 

 言葉は時代とともに変わる。私などが眉を顰めたくなるような言葉遣いが、公然と使用されるようになったり、多くの言葉が差別語だという一方的なくくりで暗黙または公然と使用が制限されたりしている。そのことのすべてが間違っている、などと高島俊男は主張しているわけではないし、私もそうであるが、その精神のあり方と筋の通し方、つまり一貫性にはこだわりたいと思うという点で共感するのだ。

 

 話はどうしても戦後の国語審議会の作成したむちゃくちゃな現代仮名遣い批判となり、当用漢字制限と旧漢字使用制限批判となる。そこに一貫性があれば従う。しかし、そこに極めて粗雑で愚かな決め方が見られれば批判するのはとうぜんなのである。本来は自由な使い方であるべきものが制限され、それに盲目的に従う新聞、というより率先してその先頭で旗を振るマスコミについ噛みつきたくなるのは、言葉にこだわる人間ならとうぜんであろう。そしてそれに共感する見識ある人間は、今はもう少数であるかも知れないがちゃんと存在するのだ。絶滅危惧種かも知れないけれど・・・。

 

 高島俊男は旧漢字、旧仮名遣いに戻せ、などと主張しているのではないが、しばしばそう誤解されているようだ。決してそうではないと繰り返し書いているが、そう決めつけた人間にはその部分は読めないようだ。また、言葉の誤用で無知をさらけ出す学者のいかに多いか、実例を出して指摘する。それに対する反論も取り上げ、さらにその反論に対して完膚なきまでの鉄槌を下す。とはいえ無知であっても特に問題のない人の誤用に目くじらを立てたりは決してしない。影響力のある人間が知ったかぶりで間違うから、悪影響を懸念して批判しているのだ。そうしてそういう学者はしばしば自分の間違いを認めないで恥の上塗りをする。それを見せられるとこちらの溜飲が下がるというわけだ。ただし、読みながら自分の誤用を恥じることも多い。同時に恥じる気持ちがあれば直せるかも知れないと希望を持つ。

暗約領域

 エンターテインメント本の再読はめったにない。結末を知っているとおもしろさが半減するからだ。『暗約領域』(光文社)は大沢在昌の『新宿鮫』シリーズの第十一巻である。2019年に出版されてすぐに買い、面白くでたちまち読了した。それを処分せずにいて、今回珍しく再読した。読み進めれば次第に記憶が蘇り、次に何が起きるのかわかるのに、やめられずに700ページを超えるこの本を読了した。それだけすぐれたハードボイルド小説だということだろう。

 

 新宿鮫とは、何ものも恐れず、一度食らいついたら離れないと、ヤクザにすら恐れられる鮫島という新宿警察の刑事につけられたあだ名だ。キャリアでありながら警察内で孤立し、本来許されない単独行の捜査をする。それらには理由があるのだが、この巻ではそれについてくだくだしい説明はない。 

 

 彼は違法民泊マンションでの麻薬事案の捜査をはじめ、張り込み中にそこで偶然に殺人事件を知ることになる。そんなとき、前回の事件で彼をかばい、彼の行動を許していた上司を失い、恋人とも別れてますます孤独になった彼に新しい上司が配属されてくる。その上司は彼の単独行を許さず、新人を彼の相棒として指導するように指示する。

 

 新宿署は殺人事件と違法民泊の捜査を進めていたが、その事案は公安の扱いに移されてしまう。しかし鮫島はその事件の捜査を新人とともに継続する。やがて違法民泊マンションの陰の黒幕が明らかになり、殺された男が日本人ではないことなども明らかになって、次第に大きな背景が浮かび上がる。公安自身がこの事件に深く関わっているらしい。さらに鮫島がこの黒幕の男と接触した後、男が何ものかに拉致されてしまい、新人刑事も襲われて負傷してしまう。

 

 ふたたび独りになった鮫島の捜査の網が拡げられ、思わぬ組織がいくつも浮かび上がり、しかもそれらが関わっていることが判明する。拉致された男の行方をそれらの組織が追う。鮫島はそれに先んじて、殺される前に事件の鍵になる事実を知るその男を救い出すことができるのか。

 

 このシリーズを知っている人にはいまさらだろうが、とても面白い。ハードボイルドミステリーが好きなのに、もしまだ出会っていないなら、是非お勧めする。なにしろシリーズの第一巻の『新宿鮫』は日本推理作家賞を受賞した傑作なのだ。真田広之主演で映画化もされている。

2023年10月19日 (木)

あまりにお粗末で

 北欧ミステリードラマにも外れがあるようだ。あたりまえだけれど、WOWOWは駄作は選ばないのだと思っていたのが間違いだったようだ。スウェーデンのライトミステリーと銘打った『刑事ヨハンナ 小さな町の殺人事件』はあまりにお粗末だった。

 

 ストックホルムで敏腕だった女刑事が、母の死の知らせを聞いて、長く離れていたふるさとの小さな町に帰ってくる。その町を離れるきっかけになったのが二十年前の親友の自殺(遺体は発見されていない)だった。家族関係、昔の彼氏、近隣の人間関係がいっせいに提示される。そんなさなかに、自殺した親友の車が港の海底で発見される。そしてその車には他殺と思われる遺骸があった。しかもその死体は持ち主のものではなかったことが判明する。

 

 結局ヨハンナはストックホルムには帰らず、町の警察に自ら異動申請して受理される。出だしとしては悪くないのだが、この敏腕なはずの女刑事ヨハンナの勘の悪さと下半身の緩さが見ていてイライラさせられるし、事件の究明は遅々として進まず、人間関係ばかりが延々と描写されていく。はっきり言ってヨハンナはアホである。周りで起きていることにもう少し神経を張り巡らしたらどうだ、と叱りつけたいようだ。

 

 全八話の四話目まで見て、ほとんど出来の悪いホームドラマを見せられているだけのようでうんざりしてきた。どんどんストレスがたまり、五話目の途中でついに見るのをやめた。結末を知りたいという思いよりもこんなものを見せられてたまるか、という怒りの方が上回ってしまったのだ。

テレビはせっかち

 昨晩のプライムニュースを観ていて、1.5倍速で見ているのに元外務官僚の東郷氏の語り口にまだるっこしい思いがした。同じ時間内に語る内容が極めて少ないと感じたのだ。テレビは限られた時間内に的確に語るべきことを語ってくれないとイライラする。だから東郷氏の老化を憐れんだところもある。私もしばしば会話中にときどき言葉に詰まって無駄な時間を食うことが増えたと感じているからだ。

 

 テレビはせっかちで、せっかちなのはテレビであるけれど、それは見ている人がせっかちだからそうなっているともいえる。だからもたもたした話し方しかできない人は、テレビのゲストに呼ばない方がいいなどと考えた。だがそう感じながら、待てよ、と思った。話を聞く、ということがこの頃おろそかになっているのは、そのせっかちさの故ではないのか。聞くのではなく、聴くというところまで相手の話を聞いているのだろうか。人は大事なことばかりを語るわけではない。語ったことの全体の中にだいじなことがすこしだけ、またはバラバラにあったりするのだ。

 

 そのせっかちなテレビはしばしば一般人にマイクを向けて、市井の人の意見を聞いたりする。不思議なことに、本当にだいじなことを的確に語る人はまずいない。海外の、特に欧米の放送では、きちんとした意見を語る普通の人を当たり前に見る。これは日本人がおとなになっていく過程で自分の意見を話す訓練が足らない証拠なのだ、などと考えていた。しかしそうなのだろうか。

 

 日本のテレビ局は、そういうきちんとしたことを語ったものは取り上げないことにしているのではないか。意識して無意味な、感情や好き嫌いだけで考えているものばかりを取り上げているのではないか。そういうものこそが一般市民の意見なのだ、とマスコミは考えているのかも知れない。だから見ているこちらはそういう市民へのインタビューにはイライラし、こんなもの聞くだけ無意味だ、時間の無駄だ、と感じてイライラする。

 

 テレビはせっかちな視聴者に過剰なCMや番宣の嵐を浴びせてますます時間の無駄を強要する。まったくおかしなことで、テレビ離れがどんどんすすむのは当たり前だなあと思う。仕方がないから多少はマシな番組は録画し、無意味な部分は跳ばしていくという見方をするしかない。リアルタイムでなければ、ほとんどCMは見ることがない。スポンサーはそれに気がついていないのだろうか。

見た目は

 すこし身体が重く感じられるので、昨夕は一時間ほど散歩した。八千歩弱。散歩前と散歩あとでは1キロほど体重が減っていた。帰ってから風呂にゆっくりつかり、汗を流したら、さらに減っていた。暑い時期のように身体が水分を必要としていないのに、同じペースで水分を摂り過ぎていたようだ。

 

 うっかりするとつい間食をしてしまう。糖尿病というのはとても口さびしいというのが特徴で、それを我慢しないとたちまち血糖値が上がってしまう。甘いものは特においしく感じる。糖分を摂取しても吸収出来ないのがこの病気で、足りないからさらに身体が欲してしまうのだ。とにかく散歩などでカロリーを消費しやすい身体にすることで悪循環が止められる。今年の目標体重はすでにクリアしていて、目標をすこし厳しくした。

 

 以前買って、ほとんど使わなかった運動靴を下駄箱から出して、きちっと足に合わせて靴紐を締めるととても足が軽い。大げさではなく足に羽が生えたみたいだ。とにかく週に三回か四回はきちんと散歩しようと思う。猛暑の前には結構歩いた。だからウエイトコントロールができていた。涼しくなって、今のところそこそこ歩けている。年末には目標達成できるだろう。でも息子も娘も痩せたね、とはいってくれなかった。見た目は変わらないのか。

2023年10月18日 (水)

網戸が入った

 マンション補修工事のために張り巡らされていた足場が、南面の工事がほぼ終了し、すぐ上の階まで解体された。たぶん明日にはベランダの前から足場が消えるだろうと思う。ようやくベランダで洗濯物が干せるし、窓を開け放って外気を通すことができる。はまらないままに放置されていた網戸が気になっていたが、今日三人がかりできちんと入れてくれた。ちゃんと動いて開け閉めできるからもう心配ない。ご苦労様であった。

 

 あとは北面の工事、そして階段の壁や天井の塗装が終われば終了である。すでに下塗りは完了しているから、たぶん今月中にはすべて終わるだろうと思う。ここまで徹底した工事は初めてで、終の棲家はリニューアルし、最後まで住み続けられそうだ。

 

 この十年ほどで、家の中の大半をフローリングに改装し、風呂も台所も新しくした。二年前に電気温水器も新しくした。あとは処分すべきものを少しずつ捨てて、居住空間を増やすように考えなければ。とにかく使い切れないものがあちこちに収納されたままになっている。もったいないけど人にやるほどのものはない。差し上げても迷惑だろう。これからは新しく増やさないことを心がけよう。一つ増やすなら二つ捨てるくらいの気持ちが必要か。

役割を終える

 久しぶりに家族が揃い(残念ながら彼らの母親はいない)、息子夫婦や娘(亭主は仕事で来られず)と歓談ができて嬉しかった。これから何回こういう機会があるかわからないが、とにかく彼らが一人前であることを確認できただけで親としてありがたいことだと思わなければならない。父親であり母親であるという役割を、とてもちゃんと果たせたとは思えないのに、彼らがきちんとまっとうなおとなになったことは、私の手柄ではなく、すべて彼等自身の手柄である。それほどいいかげんな親だった。いまさら反省してもしようがないが。

 

 今しみじみと、親としての役割が終わったのだなと感じた。とっくの昔に終わっていたのだけれど、それに気がつくのがあまりに遅い。しかし親なんてそういうものだろうとも思う。彼らは思うままに生きればいいのだ。もう信用できるおとななのだから。私もそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。一抹の寂しさとともに「任務完了」だと思った。

口直しみたいに

 ミステリーや時代小説などのエンターテインメント本があまり読めなくなっていたけれど、諸田玲子の本を読んでから、以前のように読めるようになってきた。大沢在昌を一冊読み、次に取りかかっている。そうなると何冊か脇に積み上げるのが悪い癖だ。

 

 むかしならそういう小説は佳境に入ると脇目も振らず一心不乱に読んだものだが、今は集中力がそこまで持続しない。そこでつなぎとして、口直しのようにほかの本を読む。曾野綾子や高島俊男、養老孟司などの再読をする。十月に入ってから読んだ曾野綾子の本は、
 『安心したがる人びと』
 『平和とは非凡な幸運』
 『社長の顔が見たい』
まだふた山ぐらい曾野綾子の本があるので、当分口直しには困らない。

 

 ちょっと読書に勢いがついてきた。目が良く見えるようになったことが関係しているのかも知れないが、いささか目がくたびれてもいるので、ときどきは眼を休めて音楽でも聴こうかと思っている。

2023年10月17日 (火)

うんざり

 私はまっぴらごめんだと思うのだが、世の中には有名になりたいという人がいるらしい。悪い事であっても有名になろうという人もいるというから信じられない。そうしてそういう人たちの思いやエネルギーをもとに動いている、いや、食いものにしている人たちもいる。

 

 実力もあり、人一倍努力もして、人に優れた功績を残して有名になった人には敬意を表するが、そういう人はたいてい有名になるためにそういうことをしてきたわけではないと私は思っている。

 

 芸能界で名をなすのもそういうものだと思っていたのだが、今は芸能事務所やマスコミが作り上げることもあるらしい。そのための努力や我慢が、世間の常識から見たら多分におかしなものらしいことは薄々誰もが感じていたことで、しかしそういう世界なのだからと見て見ぬ振りがされてきた。

 

 それでも、あまりにひどいものは糺弾されることになる。それなのにそれを糊塗したり、それに加担してきたとしか思えない人びとが、自分はあたかも正義の味方のように大騒ぎしている。もともと興味はないものの、あまりにうるさいし、ニュースを侵食しているのでうんざりしている。

 

 私が有名になりたいと思わないのは、もちろんなりたくてもなれないからで、それ以上に、万一うっかり有名にでもなったら、あることないこといわれるだろうなあとその煩わしさを想像するからだ。それでも有名になりたいというのが理解できない。

医者とのご縁

 こどものころはあまり丈夫な質ではなかったので、よく学校を休んだ。親が心配して、剣道部の顧問だった担任に頼んで入部させてもらった。筋力がつくとともに風邪もひかなくなり、身長も伸びて大男になった。大学でも、自分の精神の惰弱であることをカバーするために格闘技の部活をした。中身はともかく見かけ上は強くなった。

 

 だから医者には健康診断以外にずっと縁がなかった。歯も丈夫だったから、歯医者ですら四十過ぎまで行くことがなかった。それが親不知のせいで歯のかみ合わせが狂って歯が割れて虫歯になり、生まれて初めて歯医者に行くようになった。胃にヒドラ状のポリープが出来て内視鏡手術で取り除くために、生まれて初めて十日あまり入院した。そのあと長年の暴飲暴食の報いで糖尿病になった。

 

 今はカレンダーに医者や病院の予定がいくつも記入されていることは少し前のブログに書いた。昨日は歯医者のメンテナンス。歯石を除去し、フッ素を塗ってもらった。今日は眼科で白内障の手術の経過検診に行った。問題なしとのことで残った薬を使い切ったらもう点眼は不要とのこと。今週末は新型コロナのワクチン接種に行く。その前に妻の病院にも行くつもりだ。一週間に四日、医者との縁があるというのも、若いときの自分を思い出していささかの感慨がある。

大沢在昌『帰去来』

 大沢在昌『帰去来』(朝日新聞社)は、パラレルワールド警察小説と銘打たれたSFミステリー。主人公は警視庁の女刑事で、連続殺人犯をおとり捜査で張り込み中に犯人に襲われる。死の淵で別世界に跳んだ彼女は異なる世界の自分として目覚める。そして当初は無理仕立てにみえたこのような事態が、実はすべて必然性のあるものであることが次第に明らかになっていく。

 

 分厚い(550ページ)この本を一度読みかけて途中で放り投げていたのだが、今回一から読み始めて次第に興が乗り、三日ほどで読了した。やはり大沢在昌は面白い。異世界の日本はダークな世界である。その世界をもう少し膨らませて書きこんだらシリーズものにでもなりそうだ。すべてが完結した後のその世界がどうなっていくのか、それはそれで別の歴史が刻まれていくのだろう。ある意味で自分に覚醒した主人公の物語でもあるこの話にけっこう感情移入した。それができればとても面白く読めるはずだ。

 

 同じ棚に大沢在昌の『暗約領域』という本があったので読み始めたら、どうも既読である。『新宿鮫』シリーズのⅩⅠであるから、とうぜん買ってすぐ読んだにちがいない。こういう本は読み終えたら処分することにしているのだが、どうして残っていたのだろう。読み始めたら面白くてまた読みつづけている。700ページを超えるから読みでがある。ありすぎる。

2023年10月16日 (月)

帰って行った

 息子夫婦が奥飛騨温泉から帰ってきて、我が家で一休みしてから広島へ帰っていった。お土産に髙山の酒を買ってきてくれた。昨日はあいにくの雨交じり、今日も青空がみえたりまた雨が降ったりだったそうだ。それよりも新穂高ロープウエイに登るつもりだったのに、メンテナンスのために先月末から休業中だったという。仕方がないから阿房トンネルを抜けて松本へ降りて、中央道で帰ってきたのだそうだ。

 

 今回は残念だったがまた来ればいい。

 

 車が運転しやすかったと息子の嫁さんが言った。大半を息子の嫁さんが運転したらしい。運転が好きなのだろう。来年には新車を買うつもりのようだ。共稼ぎだし、息子も嫁さんもしっかりしているから安心だ。

 

 ちょっとにぎやかだったがまた一人になった。眼のメンテナンスもほぼ終わりだし、月末の定期検診が終わったら、来月にはあちこち出かけようと思う。友人や弟に電話しようか。

犬王

 昨日観たもう一本のアニメ映画が『犬王』(2022年・日本)。世阿弥と同じ時代(南北朝から室町初期のあたり)に型破りな能を演じた犬王(いぬおう)という実在の人物をモデルにした物語らしい。とはいってもアニメである。こちらも型破りで、実写では不可能な映像をふんだんに見せてくれる。さらに音楽が現代ロックと琵琶法師の琵琶をヒュージョンさせたものだから、斬新である。

 

 音楽や映像を楽しむのならずいぶん楽しめるだろうと思うが、ロック調に語り歌うその言葉が聞きにくくて、というかほとんど聴き取れなくて、仕舞いにはやかましくさえ感じてしまった。歳とともに耳が悪くなって、音量の問題よりも音の聞き分け、解像度が著しく低下していて意味が取れないのである。

 

 冒頭は壇ノ浦に沈んだ三種の神器の一つ、草薙剣を引き上げるところからはじまるのだが、それを発見した少年が、太刀の呪いで父は死に、自分は失明するという悲劇に遭い、そのあと辿る数奇な運命が物語の背骨である。

 

 全体として面白い物語になっているのだが、なにしろ歌が聞き取れないためにおもしろさの半分が損なわれて、私にとっては残念な映画になった。字幕があったら良かったのに。若い人は案外楽しめて、なおかつ能の世界のイメージをつかむ端緒になるかも知れない。

神在月のこども

 昨日、久しぶりに二本のアニメ映画を観たが、その一本が『神在月のこども』(2021年・日本)。母親を病気で失ってまもなく一年になる小学生のカンナは、母と共に走るのが大好きだった。父と二人暮らしで家事をこなす本来明るい少女だったカンナは、母の死を引きずり、走る楽しさを感じられなくなってしばしば塞ぎ込むこどもになっていた。

 

 そんな彼女が神社で突然鬼の少年・夜叉に襲われる。そのとき彼女を助けたのは、彼女が可愛がっていた、学校で飼育されていた白兎だった。その兎は神の使いで、兎を依代(よりしろ)にしたのだといい、驚くべきことを彼女に告げる。彼女の母・弥生は実は走る神さま・韋駄天の子孫で、神無月に出雲(出雲では神在月)に集う神々の宴席のご馳走を各地から集め、届ける役割を担っていたのだという。そしてカンナがその役割を引き継がなければならないという。そして夜叉はその役割を奪おうとしていたのだという。

 

 走ることに抵抗を持っているカンナはそんな役割を引き受けるつもりなどない。そんなカンナをなだめすかして、母の形見の勾玉の特殊な力を借りて、なんとかご馳走集めのために走り出すことになる。そして夜叉もともに走り出す。さまざまな神社に立ち寄り、留守番役の神々からご馳走を預かっていく。そこには試練も待っていて、それを乗り越えていくのだが、カンナはちっとも精神的に成長しない。ますます母との過去にこだわり、不平不満を言い続け、逃げだそうとする。

 

 こどもからおとなになる、ということは、与えられた役割を引き受け、この世に存在する意味を獲得するということなのだが、そもそもそういう役割を引き受ける、という感覚をおとなですら見失い、とうぜんこどもにもそういうことを伝えることができないというこの日本の社会を象徴した物語なのだ。

 

 だからカンナのいつまでもぐずぐすした態度、泣き言、逃避と開き直りの繰り返しは、乗り越えるべき自覚への長い道でもある。あまり繰り返されるので歯がゆいのを通り越して腹も立ってくる。もちろん物語は役割を達成したカンナが前向きに生き始めて感動させられるのだが、いささかつきあうのに疲れた。この物語には、おとなにもその意味を伝えたいという意図があるのだろう。伝わるかなあ。

2023年10月15日 (日)

お言葉ですが・・・②

 高島俊男「『週刊文春』の怪」(文春文庫)は、『お言葉ですが・・・』の第二巻。言葉へのこだわり、言葉についての蘊蓄を極めたこの本は、私も多少は言葉にこだわりがあるので読んでいて楽しい。もちろん著者と私ではこだわりの度合いと知識のレベルは雲泥の差である。共感しながらなるほどそうなのか、ということが山のようにある。ただしこのようなこだわりを他人にあまり披瀝しない方がいいかも知れない。まず知ったかぶりと思われ、場合によってはうるさくてイヤな奴だと思われるおそれがある。相手を選ぶ必要がある。

 

 そのような高島俊男でも、ときに読者から指摘を受けることがあり、そこでつまらない反論はせずに聞くべきことは素直に頭を下げているのが好感が持てる。人間誰でも完璧ということはないし、うっかりすることもある。ただし、明らかにおかしな言いがかりのようなものや、著者が指摘した間違いにたいする反論が恥の上塗りのようなものだったりすると、それに対して完膚なきまでにやっつけたりする。読んでいて痛快である。せっかく教えてもらったのに、自らの非が認められない人間は恥ずかしい。思い当たることもあるので心しなければ。

 

 この本は二回目か、もしかしたら三回目で、この『お言葉ですが・・・』のシリーズは読み出すとつい読み続けてしまう。つまり三年も経つと内容を忘れていることが多いので、初めて読むように面白いのだ。

迷うときはやめる

 経験上、するかしないか、買うか買わないか、などと迷うときはやめた方がいいと思っている。今しかない、これしかない、などとそそのかすのは、その迷いを乗り越えさせるための商売上の誘惑で、そこに経済的利得があるものの言うことだろう。

 

 オリンピックはもうこりごりだと思っている日本人は多いのではないか。大きな金が動き、結局それはみんなが負担することになる。その負担と、オリンピック開催での満足感とがどうも釣り合わなくなっているようだというのが実感だろう。バッハ会長の顔がどうしても金まみれに見えてしまう。

 

 オリンピック委員会が2030年と2034年の冬季オリンピックの開催地について、一度に決めるなどと言いだしたのは、それだけ開催に手を挙げる国が少ないことを表しているのではないか。それだけの金を出して選手や観客を受け入れるための準備を整えるのがどれほどたいへんか、どこの国も気がついてうんざりし始めていると見るのは考えすぎか。経済的に元気いっぱいで国威発揚もしたいという、一時期の中国などのような国はもういくつもない。ごく普通の国が手を挙げられる状態ではないことが問題なのだが、そういう金にゆとりのある国で開催しないとオリンピック委員会も旨味がないのだろう。

 

 日本はすでにそういうゆとりがある国ではなくなっているのに、昔の夢を追うのはやめた方がいいのではないか。オリンピックをきっかけに国のムードが変わる、国がふたたび元気になり、さらに発展する、などということはないらしいことは、二回目の東京オリンピックで身に沁みたのではないか。

 

 迷ったときはやめるのが良いと思うが、札幌オリンピックを開催したい人たちには迷いがないのだろうか。世界はいま、お祭りをしている場合ではない様相にあるのではないか。

2023年10月14日 (土)

病院だらけ

 大きなカレンダーに予定を書きこんでテレビの横の壁にぶら下げているが、済んだ日も含めて病院に行った日、行く予定の日が七日もある。眼科、糖尿病内科、歯医者、コロナワクチン接種、妻の病院である。眼科が三回あるので七回だ。

 

 こんなに病院に縁が深くなるとは思いもしなかった。これからますます増えるのだろうか。遠出がさらにしにくくなってしまう。今のところ誰にも手助けしてもらう必要がないのはありがたいことだ。せいぜい自己管理を心がけようと思う。今夕は別、息子夫婦や娘と思い切り歓談して飲むつもりである。

 

 この記事がアップされたころは、宴もたけなわというところだろう。

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毎度おなじみの写真

腰痛

 体重が減ったので、膝の痛みはほとんどなくなった。コンドロイチンを常用している効果もある。飲まないでいると階段の上り下りに痛みが出るから効果があるのは間違いなさそうだ。ベランダへ鉢を出した。大きな鉢があって重い。まだ足場の解体中で、作業の邪魔にならないところに並べた。重い座椅子(20キロくらいある)やテーブルを動かしてリビングの掃除をした。終わったら腰にイヤな痛みを感じた。ズキズキというより、奥の方からの不快な鈍い痛みが来ている。鎮痛の発布剤を貼ったところだ。

 

 片付けや掃除はほぼ終わり、時間のかかる料理は作り始めた。午後、娘が来たら揚げ物などを手伝ってもらうつもりだ。腰痛は寝込むほどのこともないが、このままだと気持ちよく飲めない。治まるのを待つしかない。たぶん大丈夫だろう。

 

 いまそとは薄日が差しているが、天気は下り坂。明日明後日は、息子夫婦は奥飛騨へ行くという。今晩は仕方がないとして、明日は早めに回復してほしいものだ。

中国の出生数

 中国メディアによると、2022年の中国の出生数は956万人だったそうだ。中国の2022年の人口が14億2589万人、ちなみに日本は1億2445万人だった。比較すれば、中国の人口は11.4倍あまりだから、2022年の日本の出生数、77万人を掛ければ、890万人あまりになる。それならまだ中国の方が出生率が高いのか、などと勘違いしそうだ。

 

 出生率は日本が1.26で、中国は1.09である。人口減少は日本も深刻だが、中国の方がもっと深刻なのだ。どうしてそうなるかといえば、もちろん子供を産む女性の数、つまり人口構成が違うからで、日本は高齢者が多く、中国は日本より若い人が多いということに他ならない。出産可能な女性は多いのに出産が少ないということだ。

 

 一人っ子政策を実施していた時代の出生率が今より高くて、1.4とか1.5とか言っていたから、私はいつも首を傾げていた。少数民族など、一部には第二子が許容されたとはいえ、一人っ子政策が完全に実施されれば出生率が1を超えることはあり得ないではないか。子供ができない人もいるのだから。それが一人っ子政策がおおむね取り下げられたいまになって出生率が1に近づくというのは、なんとも皮肉なことのように思える。

2023年10月13日 (金)

たいしたことではないのに

 妻が長期入院していて、その公的補助のための更新手続きにけっこう時間が必要であり、前回はすこし手遅れになってタイムアウトになり、結局遅れて更新は出来たものの面倒くさかった。市と県とでやりとりするから二ヶ月必要だというのだ。この時代に信じられないことであった。今回は早めにと思い、三ヶ月前であるが、病院に申請のために必要な診断書作成を依頼したところ、診断書の有効期間の関係で、来月に入らないと作成できないという。全くピンポイントで動かなければならないというのも時間を拘束されて面倒なことだ。

 

 病院にはあわせて支払い額の確認と面談の予約を入れようと思ったのだが、コロナの院内感染が発生し、経理の人もちょっと罹患してしまい、感染の症状が軽くない状態で今月は金額が計算できず、来月に二ヶ月分支払うことになるという。ただしアメニティ関係の外部業者に委託しているものは金額が確定しているということで、それは支払う必要がある。本人は感染していないようだが、面会はもちろんできないという。

 

 感染状態をもっと詳しく知りたいところだが、入院している妻が大丈夫というのに根掘り葉掘り聞いても、だからどうしようということもできないのであって、それ以上は聞かずに電話を置いた。ものごとが片付かないとイライラするたちである。ひとつひとつ片付けたいのに先延ばしになると、たいしたことではないのにイライラする。

網戸が入らない

 マンションの大規模補修工事は、私の棟はベランダのある南面側がほぼ終わり、今日から足場の撤去がはじまる。最上階からだから、私のところは明日あたりだろうか。昨日出かけている間に、足場の外側に移されていた衛星放送用のパラボラアンテナがもとのように手すりに据え付け直されていた。

 

 入らなくなっていた網戸もなんとか入れるよう努力したらしい。網戸が二面あるのだが一面はなんとかはめ込んだらしいが、肝心のふだん出入りするところはやはり戻せなかったようだ。防水塗料が網戸をはめ込む上面に厚づけされて、それが邪魔しているように思える。それを剥がすわけにもいかないのだろうか。このまま放置されても困る。どうするのだろう。プロが無理なものを私が入れられるわけがない。

 明日、息子夫婦が来るので準備しなければならない。しかし今までベランダにあったものをすべて部屋に取り込んでいたのでぐちゃぐちゃだった。今日から少しずつ外に出せるものは出していくつもりなのだが、そのあと部屋を片付けて掃除してと考えると、いつものように、いいやそこそこで、という気になってきた。明日は娘が来て、晩の酒盛りの手助けをしてくれることになった。それが嬉しい。

窮鼠猫を噛む

 パレスチナ人が住むガザ地区を支配するハマスが、イスラエルに大々的な攻撃を行い、イスラエルの報復が行われ、多数の犠牲者を産んでいる。イスラエルによって周囲がとざされたガザ地区は、天井のない巨大な監獄と呼ばれているそうで、エネルギーや食糧、医薬品なども不足して、暴発はある意味で起こるべくして起こったものともみえる。

 

 イスラエルはガザ地区のパレスチナ人を根絶やしにでもしたかったのだろうか。パレスチナ人を人間としてみているようには思えなかった。世界各地で差別を受け続けてきたユダヤ人は、その怨みをパレスチナに向けているのだろうか。そもそもイスラエルという国の成り立ちは、ヨーロッパでユダヤ人への差別が根底にあって、その結果としてあのナチスのユダヤ人大虐殺を生んだことへの後ろめたさから、もともとパレスチナ人が住んでいた土地を勝手にイスラエルとして建国させたものだ。パレスチナ人が自分の住む地を奪われたという怨みを生んだのもとうぜんで、しかし、ユダヤ人にとっては遙かな昔のわが土地であったという信念もある。

 

 歴史的に原因と結果が交互に重なり合って怨みの連鎖を生んでしまう状況を作ってしまった以上、それは収まりようがない。相手の存在がなくなるまで争いは続く。根絶やしにする、というのは決して大げさではない、実際の心情ではないか。それなら力の強う方が弱い方を根絶やしにすることになる。今回のハマスの行動はまさに窮鼠猫を噛むということで、勝算などもとよりあるとは思えない。悲惨な結果が待っているだろう。絶望的な思いがする。

2023年10月12日 (木)

世も末

 闇に乗じて農産物や果物をごっそりと盗んでいく、家畜を何頭も奪っていく、マンホールの蓋を奪う、太陽光発電の装置についた銅線のケーブルを奪う、などというニュースを立て続けに観た。こういう盗みは昔からあったのだろうが、その卑劣さに激しい怒りを覚える。

 

 盗んだものを換金して泥棒が得た利益よりも、失われた損失と被害者の精神的な痛みは全く比較にならない。そもそもそんな犯罪を犯すよりもまっとうにはたらくことをどうして考えないのか、などと言っても仕方のないことか。今は人手不足だから、働き口はいくらでもあるし、収入も期待できるのではないか。

 

 そういう犯罪に手を染める人間というのは、もしはたらいても、自分の労働と収入が割に合っていないと考えるのだろうか。犯罪が発覚したあとの社会的な制裁が緩すぎるということはないのだろうか。それと捜査が行き届かずに犯行の発覚の割合も低いということはないのだろうか。捕まらないと思えば犯罪に対する敷居は低くなるということか。

 

 罰を重くしても犯罪は減らないのだ、という話も聞くけれど、本当にそうなのだろうか。発覚の確率が高ければ人は悪いことを控えると思うのは甘いのだろうか。情けない思いがする。世も末だ。

 本日は所用があり、車で遠出をしていた。目薬をさすのが時間通りにできなかったが、一日くらい大丈夫だろう。

感染症と生活習慣病

 村上陽一郎『死ねない時代の哲学』(文春新書)という本を読み始めた。まず医学の歴史を科学史として語る。近代医学の確立からまだ日は浅い。そしてその流れとしての現代医学の実情を論じていく。そこで感染症と生活習慣病について述べた後に、医療従事者と患者との関係の変化が論じられて興味深い。まさに私が生活習慣病患者だからである。

 

以下に一部引用する。

 

 感染症が死亡原因の主役から退き、結果として、高齢化に伴う病気が替わってその場を占めるようになったわけです。
 感染症の治療では、治療の主体はあくまで医療の側にあります。医療者が患者を自らの傘下に囲い込み、一定の治療時間が経って、不幸にして死の転帰を辿る場合もないわけではありませんが、他方根治すればその囲い込みから解放する。治療はそのようなパターンで行われてきました。
 ところが戦う相手が生活習慣病ということになると、このパターンは不可能になります。いわゆる「寛解」(根治ではないが、症状がおおむね収まる状態)まではあり得ても、「根治」の状態を迎えることはありません。「これで医療からは解放されますよ、よかったね」といわれる時間は永遠に来ないのです。
 この場合、患者を医療の側が完全に囲い込む時間というのは、あったとしてもごくわずかです。患者は、ほとんどの時間を、社会の中で普通に生活しながら、医療の指導下ではあっても、自分の責任で治療を続けなければなりません。
 薬を服むか服まないか、ということも患者に任されます。定期的に検査を受けることも、処方箋を薬局へ持参して薬を受け取ることも、すべて患者の意志次第です。最終的にその病気で死ぬかどうかはともかく、死ぬまで医療機関と縁が切れなくなってしまうのが、普通の意味での生活習慣病です。
 自宅死から病院死へ変わったことが死の社会層を大きく変化させたのと同じように、生活習慣病が重要な疾病なった時点で、医療と患者との関係、医療をめぐる構造も大きな変化を遂げました。

 

 このあとなにが変わったのかが論じられていくが、ここまでとする。「患者様」といういささか鳥肌が立つような呼ばれ方をするようになったことから、その変化は事実として理解できる、とだけつけ加えておく。

 

 生活習慣病が、人が長生きするようになったことによって増えたものだといえないことはないが、現代では若い人も生活習慣病に罹患する人が増加している。どうして成人病と言わなくなり、生活習慣病というようになったのか。それが理由らしい。すべてとはいわないが、生活習慣病は豊かさがもたらしたものであるようだ。

 

 この本を読んでいるのは、病気と死、人生の最後の迎え方について、考える参考になりそうに思うからだ。とうぜん、死の自己決定について最も詳しく論じているようで、そこにも興味がある。

2023年10月11日 (水)

習近平文化思想

 中国共産党が「中華民族の偉大な復興」などを柱とする「習近平文化思想」を大々的に喧伝し始めたらしい。習近平が全国会議の席で「宣伝、思想、文化が党の将来や国の安定、民族の団結にあたり極めて重要だ」と述べたことに発する。言論に対する締め付けがいっそう強化されるのではないかと危惧されているようだ。

 

 日本で、文化は国家のためのものと言ったら一笑に付されるだろうが、共産党が支配する現代中国では文化は国家に、つまり共産党に利するものであることが前提であった。それが改革開放以後多少ゆるんで、その前提があってなきが如しだったが、それをもう一度締め付け直そうという方針が打ち出されたわけだ。

 

『海瑞免官』という戯曲を体制批判として取り上げるよう毛沢東が指示して、後に四人組と呼ばれる者たちとその取り巻きが激しく攻撃するところから文化大革命ははじまった。そこで起こったことの全貌は大きすぎていまだにわからないが、その一端はさまざまに繰り返し報告されていて、文化大革命当時から興味があった私は、日本語訳されたものならかなりのものを読んできたつもりである。もちろん日本人が書いたものもあるが、渦中にいた人のものにはかなわない。

 

 だから中国で文化・・・なんていう言葉を見聞きすると敏感に反応してしまう。今回の動きが何かのはじまりの兆しかも知れない。文化大革命が、毛沢東がみずからの権力についての不安に発したように、「習近平文化思想」が、習近平がまだ握り切れていない権力へさらにグリップを利かせようという動きであるのは間違いないように思える。

雑感

 年金通知が送られてきた。昨年度の年金と今年度の年金の額が比較して明示されている。支給額から介護保険料と国民健康保険料が天引きされていて、どちらの保険料も増額になっているから、私の年金も妻の年金も振込額は今年も減っている。幸い妻の入院費用はそれほど変わらないからありがたい。しかし、病院に預けている妻の小遣い、諸雑費として妻がいろいろなものを買うための金はどんどん増えている。なにに使うのか知らないが、なんにしてもものが値上がりするから仕方がない。だから結果的にはかかる費用も増えている。

 

 スーパーへ行けばすべてが値上がりしているのは誰もが実感していることだろう。特に野菜や果物の値上がりが大きい。涼しくなってきたので白菜でも漬けようと思ったら、その高いのに驚いた。季節なので柿やリンゴを買おうと思っても高い。年齢とともに食も細っているし、晩酌の酒量も減っている。予算をある程度立てて、その範囲内でならわずかな貯えと年金で暮らせるのだから不満を言ったらバチが当たる。今のペースで使いつづければ先が不安になるが、もう数年もすれば車で走り回ることができなくなるし、できると自分で思っていてもあぶないから、早めに免許は返上するつもりでいる。そうなれば月々にかかる費用はかなり削減される。使い切るつもりなら別に将来を心配しなくてもいいと思い直す。

 

 本も録りためた映画も山のように残っている。残された時間がそれに見合いそうもないほどだ。だから時間つぶしの材料には困らない。白内障の手術をしてから本がとても読みやすくなった。以前よりも活字がクリアだし紙面が歪んだりもしない。手許にピントが合うような眼内レンズを入れたのは正解だった。奮発した大画面テレビとAVアンプで観る映画もクリアで色鮮やかにみえるようになった。こちらは眼鏡が必要だ。おまけに耳まで良く聴こえるようになった気がするのだが、それは錯覚だろうか。

過ぎたるは

 過ぎたるは及ばざる如し、という。埼玉県の自民党県議連が提出していた虐待防止条例は、そもそもは虐待を防止するという目的を持ったものだったのだろうが、その適用範囲を拡げすぎて世論の反発を招き、提出取り下げせざるを得なくなった。

 

 なにを虐待と考えるかの基準は人によって違うが、大多数の人が納得するものであるべきなのに、意見が分かれたり、適用が現実的とは思えないものまで含んでいたので、本来の目的を見失っているものととらえられてしまった。

 

 何より問題なのは、その虐待の定義に当てはまるものを見たら、通知の義務を負う、という項目だろう。見て見ぬ振りはしないように、といいたいのかも知れないけれど、何やら相互監視のススメみたいにも受け取れてしまう。私もそれを自慢そうに語る提案者の言葉に反発を感じたものだ。たとえば子供が留守番していたら、それを見たものは当局に連絡しなければならないというのであるから、異常である。日ごろ不快に思う隣人の行動を、正義の名の下に告発する材料になりかねない。

 

 親がゴミ出しに外に出ている間、子供がひとりで家にいたら虐待に当たる、などというのはどう考えても異常な適用基準であろう。それなら親は子供が家にいるときは外に出ることができないことになってしまう。

 

 虐待をなくそう、という目的のために提出した法案が内容が妄想的なお粗末なものであったために、結果的になくすべき虐待を防止することができにくくすることに繋がりかねない。修正して提出しても批判の嵐にさらされてしまうのが目に見えるようだ。過ぎたるは及ばざるが如しということだ。

 

 埼玉県というローカルな場所の話ではあるが、自民党は案外と大きなダメージを受けたような気がする。現実の家庭や家族の実情と乖離した感覚であることを露呈したことになったからだ。つまりなにもわかっておらず、頼りにならない、と思われただろうということだ。それすらわかっていないかも知れない。

2023年10月10日 (火)

それでもこの世は

 佐藤愛子『それでもこの世は悪くなかった』(文春文庫)を再読する。93歳になった作家の佐藤愛子が初めて語りおろした本なのだと帯にある。佐藤愛子の父は俳人で作家の佐藤紅緑、そして兄は詩人のサトウハチローである。彼女が直木賞を取った『戦いすんで日が暮れて』は、母が購入して読んでいたので、あとで読ませてもらった。夫の巨額の借金というたいへんな事態に置かれながらそれに押しつぶされずに、みずからそれを引き受けて孤軍奮闘する姿が重くないのである。これは彼女自身が経験した実話を小説にしている。「たかが金」、と今回読んだこの本にも書かれている。

 

 強さとはなにか、そのことを彼女は教えてくれる。第二章の「幸福とはなにか」の結びを、すこし長いけれど引用する。

 

 長いこと生きると分かってくるんです。人生というものはね、幸福だのなんだのと言ったって、どうっていうことはないですよ。
 私の人生も人から見たら悲劇であり、苦難の連続かも知れない。けれども、実際に生きた本人にしたら、やっぱり良いこともたくさんあるんですよ。借金取りやら金貸しやら、私の目の前をいろいろな人が通り過ぎていきましたけれども、その中の何人かかが、人は信用できるものだということを教えてくれました。それを知ることができたのは、私が苦労したからなんです。
 両親にぬくぬくと守られてわがままに育った私が、もしもそのまま、物わかりの良い金持ちの旦那さんと結婚していたらわからなかったであろうことがですよ、ボンクラ亭主と一緒になったお蔭で、いろいろわかりました。
 だから、苦労をするまいと思って頑張る必要はないんですよ。そのほうがいろいろなことがわかるだから、苦労したってどうということはない。反対に、幸福なったからといって、別にどうということはない。
 そう思うようになれたということが、一つの幸福だともいえます。

 

 いいですねえ。なにごとも問題なく生きている人が、しばしば人の痛みに鈍感である、ということを私はしばしば書いてきた。苦労は人間を育てるために必須だと思う。

 

巻末にアランの言葉
「何らかの不安、何らかの情念、何らかの苦しみがなくては、幸福というのは生まれてこないのだ」という言葉を引用したあと、

 

 何も苦しいことがなければ、幸福は生まれないのですよ。幸福を知るには苦労があってこそなんだというのは、苦労から逃げた人にはわからない心理だと思います。
 苦しいことだらけの人生を生きた私は、幸福な人生だったと思うんです。苦しい人生を力いっぱいに生きましたからね。

 

 佐藤愛子は現在99歳(大正12年生まれ)で闘病中とのこと。

不審

 もう丸一日近く経っているので、すでに詳細は報じられているのかも知れないが、私はまだ承知していないのでその前提で書いている。東北新幹線車内での液体漏れによるやけど事故はどうして薬品の名前や車内持ち込みした乗客の会社名などが公表されないのか不審である。

 

 私は化学会社に携わった人間として、こういう事故が起こることはお粗末以外の何ものでもなく、その責任は重大であると思う。危険な薬物は車内に持ち込まないのがルールであり、法律にも定められている。

 

 あろうことかペットボトルに入れていたという。それも一本だけではないようだ。危険性の認識が足らなかったのかも知れないが、もしかするとペットボトルに入れることで危険物であると察知されないための処置だったかも知れず、それならなおさら罪が重い。ペットボトルはちょっとやそっとの外部の力では破損しないから、薬品によってかなりの内圧がかかったのか、ペットボトルが劣化、脆弱化しての破損かと思われる。

 

 地質調査会社の社員だったと言うが、そういう薬品の用途とはなんなのだろう。わざわざ社員が新幹線で運ばなければならなかったのはなぜなのだろうか。民放の一部ニュースでは硫酸だったとも伝えていたが、NHKは朝の時点では液体とだけしかいっていなかったから、まだ公表されていなかったのだろう。車両からは白煙が上がっているのが見えた。硫酸はよほどの高濃度でなければ発煙しない。私は白煙を見て塩酸であろうかと見たが、それなら多少の知識のある人はその特有のにおいでわかっただろう。

 

 箝口令が敷かれているようにみえるのは、この地質会社や、その会社が行おうとしている地質調査そのものになにか曰くがあり、どこかから圧力がかかっているのではないかと邪推するからだ。なぜなら、マスコミはすでにその調査会社の名前くらいはつかんでいるであろうし、それなら薬品名を問い合わせて知ることができるはずで、そうしないはずはなく、「申し上げられない」と答えたのなら、そのことを伝えれば良いはずではないか。口裏合わせがすべてすんで、つじつまの合う説明の物語が作られてから詳細は発表されることになるのだろうか。

『事件』

 大岡昇平の話題作(日本推理作家協会賞を受賞)『事件』は、以前読んだことがある。この作品は野村芳太郎監督で映画化もされたが、映画は観る機会がなかった。今回WOWOWで時代設定を陪審員のいる現代に置き換えてドラマ化された。

 

 法廷ミステリー仕立てのこの物語の結末はおぼろげにおぼえていたけれど、それでもドラマのおもしろさは格別だった。登場人物とその人間関係が丁寧に描かれていて、最初に簡単な殺人事件に見えたものが、犯人と目された青年には動機が薄弱なのに、別の人物達には思いもよらぬ動機があることが明らかにされて、公判のたびに印象が大きく変わっていく。

 

 このドラマを引き締まったものにしているのは、元判事で今は弁護士の役を演じる椎名桔平だ。過去を引きずりながらも冷静に事件の検証に努めて被告を弁護していく。緊張感が途切れずに、全四話を一気に見せてくれた。裁判が裁判官、弁護士、検事、そして裁判員の力量、人間性によって大きく判決に影響すること、そもそも裁判とはそういうものだということを承知の上で、なおかつ正しく裁くということ、裁こうと努めることの意味をこのドラマは明らかにしている。

2023年10月 9日 (月)

超バカの壁

 ベストセラーになった養老孟司の『バカの壁』につづき、『死の壁』、そしてこの『超バカの壁』を初期の三部作とも呼ぶそうだ。三冊とも語りおろしである。テーマを決めて新潮社の編集者に自分の考えを語り、それを文章にしたものである。

 

 テーマは「若者の問題」、「自分の問題」、「テロの問題」、「男女の問題」、「子供の問題」、「反日の問題」、「靖国の問題」、「お金の問題」、「心理の問題」、「老人の問題」、「世間の問題」、「本気の問題」等々。

 

 どれも長い間考え抜いたうえのことを言葉にしていることが分かる。だからときに言葉が足らなく感じられるがいつものことで、それを埋めて自分なりに考え直すというのがこういう本を読む意味であって、あとがきにも「考えるのはあなただ」と記されている。

 

 再読だが、また何度でも読み返す値打ちがあると考えるので棚にしまい直した。

孤独のすすめ

 五木寛之の『孤独のすすめ』(中公晋書ラクレ)という本を五年ぶりに再読した。五年経てば人は変わる(by 中島みゆき)ものだし、ましてや年齢とともにその変わり方は加速しているから、同じものに違う感懐をおぼえるかも知れないと思ったのだがさほどのこともなかった。

 

 それともこの本などにすでに影響されて生きてきたので、いまさらのように感じたということだろうか。嫌韓や嫌中のように、世間に嫌老という意識が密かに蔓延しているのではないかという著者の言葉にはあらためて頷く。だいたい私がそういう意識を持っている。自分を差し置いていえば、スーパーのレジなどでもたもたしている老人を見ればイラつく。そういう老人に限ってプリペイドのカードにチャージせずに現金払いで、事前に財布を出しておけばいいのに払う段におもむろにあちこち探したり、あわてて小銭をばらまいたりしている。自分の動作が遅いなら、迷惑をかけないためにどうするか、という意識がないのに腹が立つのだ。

 

 老人である私でさえイライラするのだから、若い人はそれ以上だろう。そういうイライラが社会全体に蔓延し、しかも政府の施策は老人優先であるのだから不満が高まるのはとうぜんだ。

 

『孤独のすすめ』とは老人が「してもらうのはとうぜん」という考え方を恥ずかしいと思う、ということではないか、と私は考えたりする。自立し、安易にたよらず自分で出来ることは自分でする、という矜持を持った生き方をする、ということだろう。

 

 薄い本で、書いてあることに繰り返しが多く、中身は本の薄さ以上にいささか薄い気がする。さらなる再読はしないことにして処分の本に加えた。

手許に置く

 知らないことやあやふやなことを後で調べようと思っても、思うだけですぐ忘れる。歳とともにそういうことが増えたので、最近は自分の手許にいろいろなものを置いて、調べるように心がけている。

 

 世界地図、日本地図、国語辞典、漢和辞典、カタカナ語辞典、中国古典名言辞典、日本近現代史事典、人名辞典(海外)などが周辺にある。知らないことの百分の一くらいは調べる。知らないのに知っているつもりのことが多いから、確認せずに間違う。ブログにしばしば間違いがあるのに気づかないのは、自分が知らないことに気づいていないからだ。せめて知らないことの十分の一でも調べていればもう少し知識も増えて恥をかかずに済んでいただろう。

 

 最近はニュースを観ながら地図を見るように心がけている。アフガニスタン西部の地震、などというと地図を見てイランに近いあたりだなあ、などと思う。アフリカや東ヨーロッパ、中東などは地図を見ないと位置関係が分からない。トルコやウズベキスタンに行ったことがあって、その位置関係の基準になってくれる。ただ分かったことをすぐ忘れてしまうのは残念だが。

 

 もっと若いときからそういう習慣を持っていたら良かったのになあと思うがあとの祭りである。

2023年10月 8日 (日)

『梅もどき』

 諸田玲子『梅もどき』(角川書店)を読了。豊臣家と徳川家の血筋を引くお梅という女性と、後に彼女の夫となる本多弥八郎(正純)との、波乱に満ちた生涯を関ヶ原の戦い、そして大坂冬の陣、夏の陣、そしてそのあとの本多正信の失脚、改易の末の幽閉の背景が丁寧に描かれている。

 

 あとがきにも書かれているが、本多正純の失脚については杉本苑子の『汚名』という小説で詳しく顛末が描かれていて(若いときに読んだ)、それに啓発されて著者の諸田玲子がお梅という、家康から本多弥八郎に下賜された女性(記録にある実在の人物)を発見し、物語を膨らませてこの小説を書いている。

 

 この物語には於大(家康の実母)、高台院(秀吉の正妻・寧々)、加納御前(亀姫・家康と築山御前の娘)などをはじめとした多くの女性が関わってくる。息子ともども夫である家康に殺された築山御前の怨みがどのように祟っていったのか、さらに家康の懐刀として寵愛された本多弥八郎が、家康の死後に政争相手から目の敵にされてついに失脚した経緯に、さまざまな史実と創作が重ねられている。 

 

 横手藩に預けられて幽閉され、死期も近い弥八郎の世話をするキクという女性との昔語りと、お梅の数奇な生涯が交互に描かれ、それらが輻輳して、やがてあざなわれた縄のようにからまりあい、人の運命というものの過酷さ、そしてその中の幸福、それらの有為転変が次第に読んでいる私にリアルに迫ってくる。

 

 ラストの、出家したあとのお梅の静謐な境地に思わず目頭が熱くなってしまった。人の人生は過ぎてしまえば夢幻(ゆめまぼろし)、などと月並みなことをいいたくなるが、かけがえのない人生を命の限り生きたというその姿は美しい。いい本を読んだ。

半袖シャツをしまう

 さすがに季節は逆戻りしそうもないと思えたので、半袖シャツを洗濯して引き出しにしまった。ほとんどが織物の前開きのシャツだが、ニットのTシャツとポロシャツもある。Tシャツとポロシャツはどう違うのだろうとつまらぬことを思いながら、胸元にボタンがあって胸ポケットのついているのがポロシャツだろうなあ、と現物を眺めながら考えた。肘の先まであるいわゆる七分袖のシャツを二枚ほど残した。もしすこし暑い日があってもこれでいい。

 

 毎日四回点眼するので目薬のさし方が上手になった。こんなもの誰でもできることだろうが、しばしばすこしはずれたりする。はずれないように近づけすぎるとまつげにさわってしまう。両目を大きく開いてちゃんとさすのは慣れがいる。慣れれば不器用な私でも上手になるのだ。手術後二ヶ月つづけるらしいから、来月終わりくらいまで薬のある限り点眼は続く。三種類のうち一種類はできれば冷蔵庫に入れて保存するように言われているので、その都度とりに行く。冷たいから気持ちが好い。

 

 今日は朝からなんとなくうす暗い。午後から雨。今日も読書にふけっている。もうすぐ諸田玲子『梅もどき』も読み終わる。口寂しさに間食するようになった。たちまち体重がリバウンドする。分かりやすい。気をつけなければ。

読書三昧

 昨日はほとんどテレビはつけずに、音楽を聴きながら読書をした。音楽もクラシックのさわりを集めたものを低めにかけていただけだから、本に集中しているとほとんど耳に入らない。バックグラウンドミュージックである。

 

 読みかけだった今西錦司『生物レベルの思考』と、曾野綾子の『平和とは非凡な幸運』という二冊を読了し、諸田玲子の『梅もどき』(角川書店)という本を半分ほど読み進めた。全部合わせて一冊分ほど読んだだろうか。

 

 平岩弓枝、澤田ふじ子をはじめ、女流の時代小説作家の本を読むのが好きで、諸田玲子は以前読んだ『山流し、さればこそ』(角川書店)という本がたいへん面白かったので、それ以来彼女の本を何冊か読んでいる。実はもう一冊彼女の本で未読の『風聞き草墓標』という本もあるから、このあと遅くとも年内には読もうと思っている。

 

 以前なら小説は一気に読み切ったものだが、最近はなかなか集中力が持続しない。だから曾野綾子や養老孟司のエッセイなどがつい読みやすくてそちらに手が出てしまう。そのために、読むつもりの小説が宮本輝などをはじめ、時代小説、ミステリー、中国ものなど山のようになっていて、なんとか片付けたいと思っているのだが。

 

 今日はなんとか『梅もどき』を読了しようか。

2023年10月 7日 (土)

芋煮

 涼しくなったので芋煮を作った(そういえば「丸ちゃん」のちかよさんも芋煮を作ったようだ)。学生時代、仲間を誘い合って河原で芋煮を作り、酩酊するほど酒を飲んだことが懐かしい。牛肉と里芋は必須。その頃はキノコは入れなかったが、私の自己流ではいろいろな種類のキノコを入れる。芋煮ときのこ汁の合体みたいだが自分では気に入っている。

 

 来週末に息子夫婦が奥飛騨旅行をかねてやってくる。盆休みに来られなかったからかわりに来るのだ。レンタカーを借りるというから、私の車を使うように言った。娘夫婦にも声をかけたが、来られるかどうかまだ返事がない。なにか都合でもあるのかも知れない。

 

 かなり散らかっているから、その前にすこしくらいは片付けなければならない。こういうことがないとすぐ部屋は雑然とするから、ありがたいと思わないといけない。酒の用意はあるけれど、肴を何にしようかな。

渇水と火事

 渇水でアマゾン川の水位が低下し、河イルカが大量死していると報じられていた。もちろんイルカだけではなく、干上がった岸辺に魚も大量に打ち上げられて死んでいる映像も報じられていた。

 

 長江の途中にある中国の巨大な湖、鄱陽湖(はようこ)は、長江の季節的な水量の変化で渇水期には湖面の面積が最大時の6分の1ほどに縮小したりする。一時期、湖が干上がってしまう、などと大げさに騒いでいたが、もともとそういうところらしくて、繰り返し報じられてまたかと思うだけになった。ただ、それが過去にないほどの干上がり方かどうか、しだいに干上がり方が極端になっているのか、という肝心なことは報じられておらず(私が見ていないだけかも知れない)、三峡ダムの影響だ、と騒いでいたのが本当かどうかが分からない。

 

 アマゾン川の渇水も、鄱陽湖と同様の、ときどきある、過去にも前例のある現象なのか、ジャングル伐採の影響による、今までにないことなのか、それがきちんと報じられていないから分からない。渇水のニュースとともにアマゾンのジャングルの多発的な火事も報じられていた。この火事はジャングルを切り開き、農地にするための人による意図的な火災がほとんどだといわれる。そのことによるアマゾンの保水能力低下が起きているのだろうか。それらをきちんと検証した報道を見たいものだ。

傍観者

 根がミーハーなので芸能ニュースに興味がないわけではないのだが、それらが虚像混じりであることは承知している。その虚像は意図して作られたり、勝手に見る方が作り上げたりしたもので、タレントや俳優本人の実像そのものではないことくらいは誰でもわかっているものだと思っていた。

 

 ジャニーズ問題について直接いうことはないが、それよりもマスコミの報じ方、さまざまな業界人のこの問題についてのコメントを見聞きして、見えてくるものがあるような気がしている。そのコメントになるほどと思ったり、なにを偉そうに、などと私が思ったりするのも、そのコメントを語る人についての私の好き嫌いが影響していると思うと我ながらおかしい。一般人の街頭インタビューなどを見ると、大真面目で心配していたりしてちょっと驚く。

 

 ジャニーズ問題は一個人の犯罪的行為に発したものだろうが、それがまかり通ったことに関して、芸能界というのはやはりそういうところだったのだ、という思いをしている一般人は多いだろう。そういうところならそういうこともあるさ、とマスコミも芸能ジャーナリストも仲間さえもがみんな見て見ぬ振りをしていたのが、今回ここまで大騒ぎになったのは、限度を超えていたからだということだろう。それも非難されるべき当人が故人となって何年も経ってから、というのもなんだかむなしい。

 

 やはり芸能界というのは異世界らしいなあ、というのが傍観者としての私の当たり前すぎる感想だ。

2023年10月 6日 (金)

クーリエ

『クーリエ 過去を運ぶ男』は2012年のアメリカ映画。題名がこの物語のヒントになっていて、私には最初から結末は想像がついた。もし知らなければそれなりにもっともっと楽しめただろう。もちろん原題は『クーリエ』だけであって、それでいいのだ。ラストにミッキー・ロークが出てくる(途中で出ているのだが後ろ姿だけ)。それも化粧してカツラをかぶり、もみあげもつけて、ラスベガスのショーでエルビス・プレスリーにもどきに歌うのである。

 

 ミッキー・ロークといえば、私にとって忘れられないのが『エンゼル・ハート』(1987)というオカルト映画(傑作)で、ある意味でラストの衝撃はこの『クーリエ』に似ているといえないことはない。

 

 この映画も出来は悪くない。なにを書いてもネタばらしになりそうなのでここまでとする。

後ろ向き

 私が声をかけると、みなが振り向いて愛想よく答えてくれる。ありがたいことなのだが、どういうわけかみな私に対して後ろ向きに立っている。それが夢なのかうつつなのか定かではない。私が世界に対して働きかければ、世界は答えてくれる。しかし世界は私が働きかけない限り働きかけてこない。 

 

 そのことにずいぶんまえから気がついているけれど、そういうものだと思っていた。それでも自分から働きかけないのにみなが働きかけてくれるらしい人もいて、羨ましく思えたりする。

 

 しかし考えようによっては、こちらから働きかけない限り独り静かにしていられるわけで、それはそれでありがたいことだと思う。孤独とはそういうものなのだろう。世界はみんな向こうを向いている。

かい巻き

 先週まで真夏の暑さが続いて、夜は夏掛けだけ掛けて寝ていた。急に秋が来て、さすがに昨晩はそれでは身体が冷えそうで、母の作ってくれたかい巻きを出してきた。長く使ってほころびがで始めたかい巻きは、それでも温かく身体を包んでくれて快適に眠ることができた。私は身体が大きいので、ふとんもこのかい巻きも母が鯨尺で普通より一回り大きく作ってくれている。だから足がはみ出したりしない。

 

 目がよく見えるようになったので、ドラマや映画の映像がくっきりして美しい。しばらく遠ざかっていた囲碁ソフトとの対戦やシミュレーションゲームをやったり本を読み散らかしたりしてまた目を酷使していた。気がついたら眼が悲鳴を上げ、しかも無意識にその眼をこすったりしている。

 

 目がよく見えるようにはなったが、眼が強くなったわけではない。眼に対する気づかいがおろそかになっている。まだ術後の目薬を点眼中なのであるからほどほどにしなければと思い直し、昨晩は早めに横になって目をつぶって音楽を聴いた。ネットストリーミングやデジタルファイルの音楽ではなく、久しぶりに70年代や80年代のニューミュージックのCDをかけた。『青春のフォーク&ポップス』という懐かしい曲がたっぷり収められているCDだ。アリスがいる、丸山圭子がいる、甲斐バンドがいる、イルカがいる、さだまさしがいる。

 

 マランツの、すこしいいCDプレイヤーを持っているのにずいぶん使っていなかった。古いヤマハのアンプで聴くCDは、思いのほかふくらみのあるいい音で楽しませてくれた。

2023年10月 5日 (木)

彼女のいない部屋

 『彼女のいない部屋』は2021年のフランス映画。冒頭で、早朝まだ寝入っている夫と二人の子供(娘と息子)を置いて、車ででていく女性の姿が描かれる。彼女の意識には残された夫と子供たちがどのように生活していくのか、彼女がいなくなったことをどう受け止めるのかが想像されていくのだが、その想像にはなんとなく茫漠とした感じがある。そうしてなぜ彼女がでていくのかが見ているこちらには分からない。想像の家族が茫漠としているのは、そこに彼女がいないのだからとうぜんではあるのだが。

 

 彼女が突然意識を失うほど酩酊したり、娘と息子がある程度成長した姿で描かれたりして、時間の感覚がゆがみはじめる。すべては彼女の意識の中の出来事であることが感じられるが、実は意識されている夫と子供たちの生活の方が現実で、彼女の存在そのものが実は想像の世界かも知れない、などと思われてくる。

 

 やがてすべてが明らかになるとき、なにが現実でなにが妄想なのか、ぼやけていた映像が次第にピントが合うように、見ている私にすべてがわかってくる。こういう映画はヨーロッパの、特にフランス映画らしいといえばいえる。バラバラのピースがはまり合うように、すべてに説明がつくのだけれど、それが満足感を生まずに奇妙な余韻を残す映画となっている。

早く天日で

 朝、病院に点眼薬の処方をもらいに行く。いちおう医師の問診がある。そのあと薬局で薬をもらう。医師は、「これを使い切るころに点眼はしなくてよくなります」とのこと。病院の片道は以前20分近くかかっていた。それが次第に18分くらいになり、歩くのが以前のように速くなっている。それに歩数が一割以上少なくなったのに驚いている。もともと歩幅は大きいが、それ以上に歩幅が大きくなったのだろうか。涼しくなってきたので歩くのも快適である。

 

 マンションの改修工事がようやく一段落して、南面、つまりベランダ側の足場が今月中には取り払われるそうだ。はずしていた網戸をはめようとしたらはまらない。私が不器用なせいもあるが、どうも塗装が厚いところが引っかかって入らなくなったようだ。工事の人に入れてもらうように依頼した。足場にネットがかかっていて、洗濯物の外干しができずにいたけれど、足場がなくなればようやく天日干しができる。待ち遠しい。私は洗濯が好きである。太陽光線の殺菌力の助けのない部屋干しは、干した気がしない。

 

 先に工事が始まった隣の棟は南面だけ足場がすでに取り払われた。とてもきれいになって、まだ新しいマンションみたいだ。いま、玄関外の廊下や階段の壁や天井の補修と塗装の途中で、出入りがとても不自由である。早く終わってほしいけれど我慢するしかない。

社恐

 中国ウォッチャーの近藤大介が、「社恐」という、いま中国で流行中の言葉を紹介していた。日本人ならさしずめ会社が恐くて出社できないなどという意味だと考えるだろう。しかしこの「社」は会社ではなくて、社会のことだそうだ。社会的な関係が煩わしいとか恐いという若者が多くなっている実態を表す意味で使われているという。若い人にアンケートをとると、社会的な交流を積極的に受け入れるという人の割合はわずか数%で、多くの若者が自分は人との交際を忌避する傾向があると認めているのだという。

 

 中国人といえばプライバシーよりも他人との関わりを重視すると思っていたが、大きく変わったということだろうか。分析ではコロナ禍で他者との関わりを継続できずに強制的な隔離状態だったので、改めての社交ができにくくなっているという見立てをしていた。それにその「社恐」が若い人に多いのは、1980年代以降に一人っ子政策で兄弟をもたず、親や祖父母たちにちやほやされて自分の意のままに育った若者が、他者との関係構築に困難を感じているという見立てもしていて、それこそ得心がいくものだと思った。

 

 昨日書いた朝のブログ「心配」の、不登校児童生徒の話と似ているではないか。根は同じなのかも知れない。

2023年10月 4日 (水)

望郷のように

 NHKの新日本風土記の『津軽晩夏』を見ていて、どういうわけか自分のふるさとを見ているような気持ちになって胸が熱くなった。岩木山周辺の風景を見ていると望郷の思いのようなものがこみ上げてきたのだ。八月初めに東北をすこしだけ走り回ったばかりだが、また北へ旅をしたくなった。

 

 岩木山周辺の晩夏の景色は、もう今年はみることはできないが、秋、または晩秋を見に行くことは出来る。しかしいろいろと約束があり、用事があり、病院へ定期的に行かなければならない。北東北へ車で行くには日数的にかなりの余裕が必要だ。とはいえ自分の衰えとともに、先になるほどそれだけの遠出がかなわなくなる。年内がかなわなければ来春にでも必ず行きたいものだと思う。

 

 早いけれども十月中のタイヤ交換の予約をした。

可決

 アメリカ下院で、マッカーシー議長解任が可決された。解任を提議したのは共和党超強硬派の議員である。ほとんどの共和党議員はこの動議に反対して、強硬派八人だけが解任に賛成した。ではどうして可決されたのか。民主党の議員がみな賛成したからである。

 

 解任提議の理由は、マッカーシー議長が民主党に妥協してつなぎ予算に賛成したからである。つなぎ予算を可決しなければ、アメリカ政府は機能不全に陥る。それがわかっているからマッカーシーとまともな共和党員は民主党と手を結んだのだ。ある意味で国家のことを考えたと言える。民主党は与党としてバイデン大統領の政府を支援しなければならない。

 

 いま、共和党で下院の議長を務め、党内をかろうじてながらまとめられるのはマッカーシーしかいないのだという。そのマッカーシーですら議長に選任されるまで15回も選任決議が必要な騒ぎだったことは記憶に新しい。マッカーシーが解任されれば、次の議長になりそうな候補は今のところ見当たらないという。つなぎ予算は45日間だけ有効である。しかし候補もなく、もし手を挙げる者がいてもマッカーシーのときより紛糾することは目に見えている。45日で議長がきまるとは思えない。

 

 それなら国家予算は執行不能に陥るのは明らかで、アメリカという国家がどうなってしまうのか、全く絶望的となった。マッカーシーを解任せず、ふたたび共和党と手を組んで次にも予算を可決するしかなかったのである。それなのに民主党はマッカーシー解任決議に賛成した。それはまさに共和党の超強硬派と同調したことに他ならず、バイデン大統領の足を引っ張り、アメリカ政府を機能不全にすることに票を投じたことになるのではないか。

 

 想像するに、これは来年のアメリカ大統領選挙に向けての駆け引きが背景にあるのだろう。共和党の内紛を国民にアピールできると民主党は思っているのだろう。国家よりも選挙、などという愚かしさこそ、民主主義の欠陥を露呈させることになり、国家運営を困難にさせる。私にはアメリカ政治は崩壊しつつあるか、すでに崩壊しているように見えている。日本にとっては極めて心配な事態である。ロシアや中国は大喜びだろう。敵対国を利する行為をしていることにも思いが至らないとはなんたる愚かなことか。

心配

 不登校児童生徒が増え続けているという。子供の数がどんどん減っているのだから、不登校の子供の増加は加速しているということだろうか。不登校の原因の多くが、人間関係がうまく取り結べないことによるものだという。人間関係を取り結ぶのは大人でもストレスである。さまざまな人がいて、不愉快な人間というものは必ず存在する。それにたえられなければ不登校になることもあるだろう。

 

 そういう外部的な原因もあるだろうし、そもそも人間関係を取り結ぶための基礎的な訓練が足りないことによって、集団の生活が不可能になっている子供もいるのではないか。基礎的な訓練とは家庭内や近所の人との人間関係構築である。なにごとも自分の好きなようにできる家庭での生活、挨拶しないなどというレベルを超えて、間違っていても家族も近所も見て見ぬ振り、という育ち方をしていれば、他人との摩擦を経験せず、社会的な振る舞いの基礎も備わらない。そういう子供がいきなり社会生活をしなければならなくなれば、そのストレスは想像以上だろう。他者はすべて自分にとって不快なものになる。

 

 客観的に学校が以前よりも居心地の悪いものになっているということでないのならば、同じものを居心地が悪くていられないと受け取る子供が増加しているということになる。もしそうなら、不登校の対策のためにできることはマスコミが問題視するようなところにはないような気がする。マスコミはすぐに学校や教師にのみ原因を求めたがるが、実際はもっと根が深いのではないか。

 

 こんなことをつい思うのは、岩村暢子の著作を読んできて、家庭や家族の現在が、マスコミが思うようなものではなくなっているらしいと知るに至ったからである。だからといって、今まで隠蔽されがちだったいじめ問題や問題のある教師については正しく暴き立てて対処すべきであることはもちろんである。不登校の増加の理由にそういうものだけではない要因があるのではないかと思ったということだ。

 

 不登校児童生徒増加の対策や解決は、そういう視点ももたないとむずかしそうだ。

2023年10月 3日 (火)

竹のカーテン

 NHKのバタフライエフェクトという番組をときどき見る。昨日は中国共産党に支配されていた中国と海外メディアがテーマだった。竹のカーテンで遮られてその実態がほとんど分からず、たまたまエドガー・スノーなどが日中戦争時代に毛沢東と会って歓待され、理想主義的な言葉を鵜呑みにして本を著したことが結果的に世界を、特にアメリカを、そして中国国民自身をミスリードすることになった経緯もよく伝えていた。文化大革命以後、真実の中国の実態を見た晩年のエドガー・スノーが絶句した様子も記録としてのこされている。

 

 「大躍進」時代に四千万人を超える中国国民が死んだという事実、そして文化大革命でどんな破壊や混乱があったのか、そしてそれが文化の革命などというものではなくて、毛沢東が失われかけた権力を奪還するためのものだったことも伝えていた。さらに天安門事件の真実も伝えていた。有名なタンクマン(戦車の前に立ちはだかった男)が、当局により演出されたものであることも明らかにしていた。海外ジャーナリストはどのように中国を伝えてきたか。それを中国はどう利用し、さらに海外はその中国についてどう受け取ったのか。それはどこまで実像か。

 

 アメリカは長い間エドガー・スノーによって作られた幻影の中にいて、それがようやく夢から覚めてきた、というところだろうか。実像などというものは、どこから見るかでまるでちがうものであるが、それで絶望していてもはじまらない。時間とともに見えてくるものもある。

違和感もなく

 白内障手術の経過観察のため、眼科の検診に行く。当初あった目のなかの違和感もなくなり、点眼も指示通り行っているおかげか、順調で問題なしとの診察結果であった。これまで毎週だったが、次回診察は二週間後になった。点眼は二ヶ月つづけましょう、ということなので、煩わしいけれど11月終わりまではつづけなければならないようだ。眼鏡は以前使用していたもので普通にきれいに見えるので不都合はない。それならかまわないでしょうとのこと。手元を見る時は眼鏡なしでよく見える。

 

 眼科の人たちとは顔なじみになったので、一人一人と挨拶を交わす。気持ちが好い。みな私のさっぱりした頭をチラリと見る。

 

 帰って点眼薬をよく見たら、二週間もたないかも知れない。少し早めに薬を処方してもらいに行かないとならないか。

思い切って

 本日は朝一番で、手術した眼の検診があるので、病院へ行く。往復で五千歩弱あるから、適度な散歩になる。

 

 昨日は、前からやろうと思っていたことを思い切って実行した。頭をほぼ丸刈りにしたのだ。これでシャンプーも整髪料もいらなくなった。半白の短髪になったら髪が薄いとかそういうことがどうでもいい頭になった。髪と顔の境目がなくなって、顔が長くなった気もする。「本当にいいんですか」と床屋は言った。「帰ったら奥さんがびっくりしますよ」とも言った。するだろうか。まだ見せていない。

 

 寒くなったら父のように毛糸の帽子をかぶろうと思う。

2023年10月 2日 (月)

家族の勝手でしょ!

 前回のブログは直接内容に関係はないが、今回のブログの枕にしたつもりである。

 

 岩村暢子の『家族の勝手でしょ!』(新潮社)という本をようやく読み終わった。ネットで取り寄せた彼女の本をこれですべて読み終えた。たった二百ページ足らずの、しかも写真が数多く収められたこの本を読むのにどうして時間がかかったのか。読み進めるごとに考えさせられ、身体から力が抜けていく思いがして中断を繰り返したからだ。すでに読んだ『変わる家族 変わる食卓』、『普通の家族がいちばん怖い』で、食卓の調査から家族の変容を、そして世代間の断層を、著者の岩村暢子は指摘した。これらの本を読んで養老孟司は驚嘆し、彼女を呼んで対談している。それを読んだことで私は岩村暢子を知った。

 

 この本を読んで、何だこれは、まさか、などと思う人がほとんどだと思いたいが、実はそう思う人と、どうしてこれが問題なの、と首を傾げる人とに截然と分かれるのが現実なのかも知れないことに慄然とする。

 

 どういうことか引用したいけれど、そうするとすべて引用したくなり、それなら本を読んだほうが早いということになるので、興味のある人は是非読んでみてほしい。副題は『写真274枚で見る食卓の喜劇』。

 

 具体的なことがないと読む動機が発生しないだろうから、子供の好き嫌いについてのあるページを引用する。

 

 子供の好き嫌いに対して、今の親はとても寛容だ。料理を工夫したり子供に働きかけて嫌いなものを食べさせようとする親をほとんど見なくなってきた。嫌いなものを無理に食べさせない理由として、2000年代初頭までは「食事は楽しく食べたいから、嫌がるものは押し付けたくない」と語る親が多かったが、近年は違う。「私のストレスになるから、そういうことはしたくない」と語る親が一番多くなっている。
 たとえば、野菜嫌いな子供を持つ主婦(38歳)は、「工夫して野菜料理を作っても、成果が出ないと『私がイライラする』からやめた」と言う。「食べさせようとして言っても子供が聞かないと、『私がカチンとくる』から言わない」と語る主婦(32歳)もいる。「一生懸命作っても、子供が食べないと『自分が頭にきちゃって』喧嘩になっちゃうから作らない」(36歳)、「子供が食べたがらないものを食べさせることは『私が疲れること』なのでしない」(41歳)「食べさせようとして食べないと『私のストレスになる』から言わない」(34歳)「いやな顔されると『私の方がイヤ』なのでしない」(37歳)など、類似の発言は多数出てくる。「食育では子供と一緒に作ったら好き嫌いがなくなったとか言うけれど、嘘ばっかり。とてもやっていられない」と話す主婦(45歳)もいた。「食べたがらないものを子供に食べさせることは、時間にゆとりのあるときにしかできない私のいちばんイヤなこと。子供が食べたときには、子供より自分自身に対して『よしよし、よくやった』という気持ちになると語った主婦(36歳)もいて、どの主婦も子供より自分の心身をかばうことを優先しているかのようだ。
(中略)
 だが、主婦たちは、子供が入園・入学前だと口を揃えたようにこう言う。「幼稚園(小学校)に入って給食が始まったら、きっと食べられるようになる」と。そして給食が始まると「幼稚園や学校で食べているだろうから家では食べなくいい」と言う。さらには「学校で無理やり食べさせられているから家では無理させず、好きなものを食べさせてやりたい」(36歳)、「給食で出されて困っているだろうから、せめて家では食べろとはいわない」(46歳)という発言も出てくる。
 中には「幼稚園では全部食べ終わるまで先生がみてくれるからのこさず食べてくるけど、家では私はそこまでみてやれないので(食べられなくても)仕方ないですよ」(40歳)とか、「嫌いなものを食べさせるのは、時間に余裕のある学校給食ですることだ」(36歳)と語る親さえいた。

 

どうです?これでほんの1ページ2ページを引用しただけであって、こんな話が満載なのである。
 
 すでに家庭には「親」というものが存在していないのではないか、と思えてくる。

カラスの勝手でしょ!

 他人が刺青を入れようが、鼻ピアスをしようが、本人の勝手で、当人に対してとやかく言えることではない。しかしそれが当人の勝手であるように、それが私には好ましいものに見えないと言うことも私の勝手であろう。

 

 私が子供のとき、近所に刺青のおじさんが二人いた。独りは若いころ香具師を仕事にしていたらしいが、親から詳しいことを聞いていないからわからない。その一番下の息子は私と同い年でおとなしい子だった。手先が器用な刺青のそのおじさんは、頼むとちょっとした家の補修や家具の直しなどを手早くこなした。私の母もそういう形で小遣いを渡して融和的関係に努めたのかも知れない。そういう技術をどこでおぼえたのか、いまなら想像がつく。夏など肌脱ぎになると刺青が露わになる。肌が黒い人だったから、子供心にも刺青は汚らしく見えた。

 

 その弟も刺青をしていたが、これは途中で痛みに耐えられなかったのか、筋ばかりの中途半端なものだった。その一番下の息子は私の弟と同い年で気のいい人懐こい子だった。

 

 その暮らしぶりや人間性を見ていたから、私には刺青に偏見がある。偏見を持ってはいけないといっても子供心に染みついたそういうものは消しようがない。もちろんまともな人の方が多いところではあったけれど、そういう人たちもいるところだったから、両親はそこからいつか離れたいと願っていたようだ。だから子供たちをすべて大学にやって一段落してから、父の退職金や貯金をはたいて土地と家を購入して引っ越した。

 

 安易に刺青を・・・いまはタトゥーなどというからさらに安易になるようだが・・・入れるということが私には好ましいものに思えない。

 

 鼻ピアスにも偏見がある。人間が自分を飾るというのは本能的なものらしいから、鼻ピアスなどがその一つの方法なのだろうということは理解できる。しかし飾るのは美しさや勇ましさを誇示するものであると認識しているので、あれが美しさを誇示することに繋がるよりも、醜さにしか見えないのである。そういうものは時代によって変化する。日本だって古代には顔面に刺青をしていた、と魏志倭人伝には記されている。またみんなが美しいと思うような時代になれば、それは美しいものになるのだろう。さいわいなことにその時代には私はもういない。

予見はできないが

 国語辞典に寄れば、予見とは「まだ起こらない前に、見通して知ること」であり、予測とは「将来の事態を前もって推し測ること」で、予想とは「将来どうなるか、前もって見当をつけること」だとある。福島原発事故についての経営者の責任は、地震が予見できなかったから無罪という判決であった。未来を確実に予見することは神ではない人間にはできない。しかし過去の事例や、科学的なデータから予測や予想はできる。予見できなかったことで無罪なら、人間が神ではないことをもって「予測」しなかった責任をまぬがれることになってしまう。

 

 そのことが私にはどうしても釈然としないので、原発事故は「過去に起きたこと」とすることが出来ない。だから処理水の安全性がたしかであろうと思い、放出するしかないことは承知しながら、海洋への放出には賛成できない気持ちだった。ところが中国が言いがかりのような形で「核汚染水」放流反対などといい、日本の水産物の輸入禁止を断行したのをみせられると、その理不尽な態度によって海洋放出を受け入れる気持ちになったのは皮肉である。いまは支援のために多少食費が高くなっても魚介類を積極的に購入して食べるように心がけている。そうしてそういう日本人が少なからずいるらしいことも喜ばしく思っている。

 

 しかしいったい中国はなにを考えて国家をあげて国民に不安を煽り、なにを目的としているのか不可解である。日本に何かの譲歩なり謝罪の実利を要求しようというのだろうか。それなら地震のあとの原発事故の責任を追及し、非難するのが本来あるべき手順だろう。あのときには大気中に放射性物質がばらまかれ、海にも多量の汚染物質が流れ出たのは事実なのだから。それとは較べようもないほどの、低レベルの処理水に「国民の健康被害」を心配してみせるというのは茶番以外の何ものでもないし、そこまで騒ぎ立てたらどこで矛を収めるというのだろう。実は大丈夫らしい、などといまさらいえなくなっているが、昨日と今日とちがうことをいっても誰もそれを咎めるはずもない国だから、平気なのだろうか。

 

 実は中国はゼロコロナ政策以後に、さまざまなことで歯車が狂いだしていて、バラバラにものごとが動き出してしまっている、という「予測」、「予想」ができそうな情報が洩れ伝わっている。外務大臣や、軍のトップの突然の失脚などはその氷山の一角で、ナンバー2であるはずの李強首相にもきな臭い噂が出始めているなどという情報もあるようだ。憶測記事が多い中で、それらを眺めながら背後にあるものを「想像」するのも一興である。

2023年10月 1日 (日)

逆行したい

 世の中はますますデジタル化が進んでいて、ついて行けないと不便になりそうだ。そう思っているとそれがストレスで、面倒くさい。別にデジタル化しなくても生きるのに不都合はないのではないかと思い直している。必要であり、便利なことにはデジタル化は受け入れるけれど、その必要を感じなければあえてデジタル化をしないという生き方も好いのではないかと思ったりする。

 

 これ以上デジタル化をしないで踏みとどまる、というのは、ある意味で時代に逆行することになるだろう。それでもいいではないか。どうせ生きてもあと十年、それだけ生きられれば御の字である。我を張ることによる多少の迷惑は我慢してもらうしかない。そもそもデジタルというのは情報であり、つきつめれば信号ではないか。そういうものを信用して社会が成り立っているのが不思議だけれど、歳とともに簡単に信じるという生き方ができにくくなっている。金銭と関係なく、デジタル音楽のようなものなら快適さが実感できるから受け入れることができるが、何もかも預けるには頑固爺さんは疑り深いのだ。

 

 ひところ少なくなっていた迷惑メールが異常なほど増加しはじめた。こういうものを野放しにして、どうして信用なんてできるというのだ。

賤ヶ岳山頂からの絶景

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琵琶湖を眺めおろす。

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湖面が輝く。

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なにを映して湖面は模様を描くのか。

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きらめきは見ていて見飽きない。

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自然はかくも美しい。

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賤ヶ岳合戦図。北側の余呉湖を見に行こう。

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余呉湖。遙か向こう、峠を越えれば敦賀だ。

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疲れ果ててまどろむ武将がいる。

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戦の帰趨が決して、戦後処理などを指示したあと、疲労困憊して座り込む豊臣秀吉の像らしい。

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こちらからは、はるかに竹生島が見える。何年か前に訪れた。

Dsc_9698

アップにしてみる。

Dsc_9699

眼下の琵琶湖の湖岸をもう一度撮影して山を下りた。

このあと帰路についた。今回のドライブの報告終わり。

賤ヶ岳を登る

北陸道を走ったり、奥琵琶湖に行くたびに賤ヶ岳の地名を目にしながら訪ねたことがなかった。賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉が柴田勝家を破り、天下掌握をほぼ成し遂げたのは承知しているが、ここから遠くない小谷城とつい混乱する。小谷城は浅井長政の居城であって、信長に攻められて落城したのであるから時代が違う。ただ信長の妹のお市の方とその娘の三姉妹が小谷城にいて救出され、そのあとお市の方は柴田勝家と再婚しているから、繋がってもいる。

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賤ヶ岳登山口は国道8号線沿いの標識から近い。山道を車でだいぶ上るのだろうと想像していたら、ほとんど登らずにあっという間に駐車場に至る。歩いて登るのもよし、リフトに乗るのもよし、である。もちろん私はリフトに乗る。リフト乗り場にはすこしだけ山道の階段を登る。登山口の分かれ道に標識がある。

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リフトはながい。とてもながい。これで往復900円は安い。。

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リフトは次第に傾斜が急になっていく。横手を見ればかなり急勾配である。真ん中に登山道があるのが見えるだろうか。こんな山道を昔の人は上り下りしたのだ。賤ヶ岳は標高421メートル、琵琶湖畔からすぐにそそり立っていて、裏側が余呉湖になる。琵琶湖と余呉湖を賤ヶ岳が分けているのだ。

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リフトを降りると山頂への案内板がある。距離は300メートルあまりらしいが、坂道と階段で、階段の踏み込み部分の土砂がかなりえぐれていて歩きにくく、年寄りにはかなりハードである。

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三分の二以上登ったあたりで視界が開けてくる。汗みずくだが、ひんやりした風が吹きぬけて心地が好い。もうすぐに見えて、まだかなり登る。

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見晴らしの好いところから南東の方角を見下ろす。遠くの高い山は伊吹山。琵琶湖は後ろの方向。左は敦賀方向になる。

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おお、琵琶湖が逆光に輝いている。頂上からもう一度見ることにしよう。

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