道徳
朝日新聞の書評欄を読んでいて感じたり考えたりしたことを記しておく。取り上げられた本を読む可能性は低いし、だからその本について論ずるつもりも、書評を批判するつもりもない。
取り上げられていたのは大谷弘『道徳的に考えるとはどういうことか』(ちくま新書)という本で、書評をしていたのは有田哲文という朝日新聞の文化部記者である。書評の前半分だけ引用する。
「道徳」という言葉はあんまり好きじゃない。小学校の「道徳の時間」は退屈だった記憶しかない。みんなで話し合おうという割りには、最初から答えが決まっている気がした。それでも「道徳的に考えるとは」の問いかけに刺激され、本書を手にとった。果たして内容も十分に刺激的だった。
冒頭、セクハラ問題について、テレビの街頭インタビューの場面が出てくる。会社員風の男性が「昔とルールが変わってしまって難しくなりましたね。なにが正しいルールか教えてほしい」と語っている。著者によれば、この考え方は「非道徳的」だという。なぜなら被害者の苦しみに対する感覚が抜け落ちているからだ。押し付けられた規則の変化としか問題を捉えていない。道徳的思考とはそういうものではなく、自分の理性、想像力、そして感情を総動員した「ごちゃごちゃした活動」なのだと著者は主張する。
書評には、ほぼ同じ分量の後半があるが引用はここまでとする。
書評者は最初に「道徳」という言葉はあんまり好きじゃないと書いている。「道徳」がカギ括弧に入れられているのは、書評者にとっての道徳そのものと、「道徳」という言葉で一般的に語られるものとが違う、といいたいようだ。「道徳の時間」で話し合っても、結局目新しいことはなくて、答えがあらかじめ決まっている気がするという。話し合うたびに変わりうるものが道徳なのだろうか。
インタビューを受けた男性の「ルールが変わってしまって」というのは、セクハラについての言葉であろう。むかしなら取り立てて問題にされなかったことが今は問題にされる。その基準はなんなのか、教えてほしいものだ、ということだろう。それは「非道徳的」な態度だという。この男性は道徳について問われて答えたのではないことはさておくとして、世の中にはむかしは問題なくても今は許されないことなどいくらでもある。
時代は変わって、なにがいけないことかも変わる。それを誰かに教えてもらわないとわからないようでは社会人としてはいささか問題ありだろう。以前その辺がよくわからずに身を持ち崩した知人がいた。気をつけるようにそれとなく注意したのに、どうしてむかしはよかったのに咎められるのか?と首を傾げていた。
そういうことを直観的に、ときには理性的に、場合によって感情的に判断することが「道徳的」なのだろうか。そうかも知れない。道徳的であることはある意味で知性が必要なのだ。たとえばセクハラなら、「被害者」が不快を感じ、「被害を受けた」と感じるかどうかを正しく認識できなければならないということらしい。ここまで考えていたら、だんだん面倒くさくなってきた。ほとんど実社会からリタイアしているので、もうそういう渦中に入る可能性はない。なんとかハラスメントと道徳とがどう関連するのか、ハラスメントであるかどうかの認定が道徳と関連するのか。とうぜんのようでもあり、そうではないような気もするし、よくわからない。
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