神在月のこども
昨日、久しぶりに二本のアニメ映画を観たが、その一本が『神在月のこども』(2021年・日本)。母親を病気で失ってまもなく一年になる小学生のカンナは、母と共に走るのが大好きだった。父と二人暮らしで家事をこなす本来明るい少女だったカンナは、母の死を引きずり、走る楽しさを感じられなくなってしばしば塞ぎ込むこどもになっていた。
そんな彼女が神社で突然鬼の少年・夜叉に襲われる。そのとき彼女を助けたのは、彼女が可愛がっていた、学校で飼育されていた白兎だった。その兎は神の使いで、兎を依代(よりしろ)にしたのだといい、驚くべきことを彼女に告げる。彼女の母・弥生は実は走る神さま・韋駄天の子孫で、神無月に出雲(出雲では神在月)に集う神々の宴席のご馳走を各地から集め、届ける役割を担っていたのだという。そしてカンナがその役割を引き継がなければならないという。そして夜叉はその役割を奪おうとしていたのだという。
走ることに抵抗を持っているカンナはそんな役割を引き受けるつもりなどない。そんなカンナをなだめすかして、母の形見の勾玉の特殊な力を借りて、なんとかご馳走集めのために走り出すことになる。そして夜叉もともに走り出す。さまざまな神社に立ち寄り、留守番役の神々からご馳走を預かっていく。そこには試練も待っていて、それを乗り越えていくのだが、カンナはちっとも精神的に成長しない。ますます母との過去にこだわり、不平不満を言い続け、逃げだそうとする。
こどもからおとなになる、ということは、与えられた役割を引き受け、この世に存在する意味を獲得するということなのだが、そもそもそういう役割を引き受ける、という感覚をおとなですら見失い、とうぜんこどもにもそういうことを伝えることができないというこの日本の社会を象徴した物語なのだ。
だからカンナのいつまでもぐずぐすした態度、泣き言、逃避と開き直りの繰り返しは、乗り越えるべき自覚への長い道でもある。あまり繰り返されるので歯がゆいのを通り越して腹も立ってくる。もちろん物語は役割を達成したカンナが前向きに生き始めて感動させられるのだが、いささかつきあうのに疲れた。この物語には、おとなにもその意味を伝えたいという意図があるのだろう。伝わるかなあ。
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